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少年、殺意否認「刺すのが目的」 寝屋川の教職員殺傷初公判(全文後記)

「罪状認否で少年は『目的は刺すことで、殺害の目的があったかは分からない』と主張。」

 これは特に司法試験受験生の方に考えていただきたい、と思って書いています。
 私の直感では、殺人罪で起訴された事件のうちのある程度は(特に激情的な犯行の場合は)、被告人は殺人行為のその瞬間において、「殺してやろう」とか「死んでもかまわない」とは思っていなかったのではないか、と思われるような事案です。
 でも、そういう事件でもたいてい殺人罪で有罪になっています。
 殺人罪の故意の認定というものは、ほとんど客観的に決まるように思われます。
 これを故意論においてどのように考えるべきか。
 みなさんは、どう思われますか?

(記事全文・ヤフーニュース)
少年、殺意否認「刺すのが目的」 寝屋川の教職員殺傷初公判

弁護側、家裁再移送求める 大阪地裁
 大阪府寝屋川市の市立中央小で今年二月、教職員三人が殺傷された事件で、殺人などの罪に問われた卒業生の少年(17)に対する初公判が二十九日、大阪地裁(朝山芳史裁判長)で開かれた。罪状認否で少年は「目的は刺すことで、殺害の目的があったかは分からない」と主張。弁護側も「『刺す』ことだけを考え、殺害は意図していなかった」と殺意の成立に疑問を呈した。また、少年刑務所では十分な少年の矯正が図れないとして、再び家裁へ移送することを求めた。
 弁護側は、少年が「広汎(こうはん)性発達障害」で特殊な心理状態にあった、と主張。「関心が一点に集中する障害の特質から、被害者の死という結果は念頭になかった」として、殺人罪ではなく傷害致死罪が相当とした。
 これに対し、検察側は冒頭陳述で、少年が小学生のころにいじめを受けた際、担任教師らが制止しなかったと逆恨みしていた、と指摘。犯行当時を詳細に記憶しており、少年に完全責任能力があったと主張した。
 一方、弁護側も冒頭陳述を実施。少年刑務所に治療のための体制がないことから、「矯正のためには少年院送致が必要。少年法五五条に基づき、(保護処分が相当として)家裁移送を求める」と述べた。
 また、捜査段階での精神鑑定が少年に完全責任能力があるとした点を不服とし、「心神耗弱状態だった」として、再鑑定を申請した。
 起訴状によると、少年は二月十四日夕、中央小に侵入し、一階廊下で教諭の鴨崎満明さん=当時(52)=を包丁で刺して殺害。続いて二階職員室で女性教職員二人も刺し、重傷を負わせた。
 少年は現行犯逮捕された後、大阪家裁に送致。家裁は八月に「凶悪で非人間的な犯行」として検察官送致(逆送)を決定し、その後、大阪地検が起訴していた。
     ◇
 ■広汎性発達障害 対人関係やコミュニケーションの障害、興味の偏りなどを特徴とする発達障害の総称。診断基準が確立されたのは1994年。自閉症やアスペルガー症候群などが含まれ、全国に120万人いると推計される。半数程度は知的障害をもたない高機能群とされ、周囲が障害に気づかないこともある。犯罪などの反社会的行動を起こすことはまれだが、一方で詐欺などの被害に遭うことも多いとされ、今年4月、自治体に早期発見と支援のための体制整備を求める発達障害者支援法が施行された。
(産経新聞) - 9月29日15時59分更新

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ナガスクジラの夢 - 少年法と殺人 (2005年9月29日 23:47)

 今年2月大阪の寝屋川で起こった、17歳の少年による教職員殺傷事件の初公判が今日あった。この公判で少年自身が「僕の目的は殺すことではなく、あくまで刺すことだった... 続きを読む

コメント(8)

 初めまして。お邪魔します。以下は、僕の理解です。間違っていたら、ご指導ください。
 故意は、主観的要素である以上、本来は、被告人が実行行為の際、どのような主観をもっていたのかが問題になるのだと思います。
 しかし、そんなことは本人以外にはわからないことです(正確には、本人もわからないのかもしれません)。
 そのため、故意等の主観的要素は、主として情況証拠によって認定されることになるのだと思います。
 例えば、犯行態様や動機等を検討することにより、故意の有無が認定されることになると思います。
 なので、僕は、刑法における故意の考え方(理論)と刑事訴訟における故意の認定方法(実務)を分けて理解しています。
 

braveさん、いらっしゃいませ
実体的要件の問題と訴訟における立証の問題は別であるという認識は全く正しいです。
しかし、実体的な主観的要件が多いほど、犯罪立証における供述依存度が大きくなります。
つまり自白偏重傾向を助長するおそれが生じます。
私が取調べの可視化に続けてこの問題を書いたのはそういう意味からです。
故意論における通説の認容説に対して認識説が主張される理由もこのあたりにあるのではないかと考えています。

究極的には、
状況証拠としては、過去に故意が認定された例と全く同程度のものが揃っている場合に、
何らかの技術・知見によって、被告人は当時、犯罪行為の認識ももたず、意欲・認容も有していなかったことが明らかになった場合に、
故意犯の成立を認めてもよいのかが問題となる、ということでしょうか。

私は、激情犯などでそういう例が仮に出てきたとしても、故意の成立は認められてよいのではないかという気がします。

もしそういうことになったら、故意論の方が書き換えられるべきなのだろうと思います。

伝統的に、故意論が語る「故意の内容」は、当然ながら「言語」で表現されていますが、
故意の実体は、言語以前の「感情」のようなものであり、
無理に「言語」に翻訳すればズレが生じるのではないかな、という気がします。

故意は「構成要件的結果発生の認識・認容」である、と学びました。
殺人罪なら、「死亡結果発生の認識・認容」という
ことになると思います。

しかし、主観は結局他人にわかるものではありません。百戦錬磨の裁判官であってもそれは同じだと思います。
犯行状況や証拠物件から、当時犯人はどのような認識だったかを推測するほかないと思うのです。

ただ、証拠といっても人的証拠の信用性はかなり怪しいと思います。いくら犯人が「殺すつもりはなかった」と主張しても、たとえば、ナイフを使って、胸を一突きして被害者を死亡させたのであれば、殺意は容易に認定されると考えます。

犯人の有罪の主張は、「証拠の女王」として重要視されるのに対して、犯人の無罪の主張はまるで価値がないと思います。

結局、犯行状況と物的証拠が決め手ではないでしょうか。この点において、故意は客観的に認定されるといえると考えます。

> fuka_fukaさん
>伝統的に、故意論が語る「故意の内容」は、当然ながら「言語」で表現されていますが、故意の実体は、言語以前の「感情」のようなものであり、無理に「言語」に翻訳すればズレが生じるのではないかな、という気がします。

そのとおりだと考えます。
故意を認めるための最低限の「心理」とはどういうものか、ということをまず「心理」に即して考える必要があると思っています。
「認容」は、認識ある過失と未必の故意を峻別する機能を持たされていると思いますが、「心理」の実態に即して考えた場合、「認容」は区別の基準足りうるか、さらには区別の基準とすべきかについて、かなり大きな疑問を持っています。
はっきり言えば、「心理」では曖昧すぎて区別できないと思っています。
調書の取り方ひとつで故意と過失が分かれるとしたら、たまったもんじゃありません。
「心理」にもいろいろな面がありますから、もっと精緻な分析が必要ですが、とりあえず荒っぽくレスしました。

はじめまして。地方の弁護士事務所で事務員をしています。といっても、事務所で刑事事件は国選が年に数件、自分自身は文学部出身→一般企業→最近法律事務所へ転職、という経歴ですので、法律にかんしてはまったくの素人です。なので、一般人の考えと法律家の考えのずれをちょっと知っていただきたくて投稿します。
「故意」かどうかで殺人罪が適用されるか否かが決まるとは考えていませんでした。人が人に殺されたら当然殺人であって、故意かどうかは量刑にしか関係しないのかな、とぼんやり思っていました。
確かに、たとえば一瞬のわき見運転による死亡交通事故などは、殺人かと言われれば「違うかも」と思うのですが、ナイフを持って人を刺したなどという事例で故意か否かが問われるとは思いもよりません。
一般人の普通の認識はこの程度です。このずれが被害者遺族の「量刑が軽すぎる」という思いにつながるのではないかなぁと思いました。どんな理由で刺されたのであれ、結果は同じわけですから。そこが損害賠償を求める民事との差でしょうか。ナイフで刺して人が死んで、損害賠償を求めるのに過失割合を争うことはない気がしますから。これも素人のたわごとなので、間違っているかもしれませんが。
長々すみませんが、一般人と法律家では、前提が違っていることに驚いたので。失礼しました。

お気楽秘書さん、はじめまして。
(って、やっぱりハンドルネームに「謙遜の意」を込められてしまうと困るなと思う昨今^^;)

「ナイフで刺した」という表現だけだと、「普通殺人でしょ?」と違和感を持たれるでしょうね。
でも、たとえば「ナイフで『ふくらはぎを狙って』刺した」ではいかがでしょう。
これだと、「交通事故の例」と「心臓ひと突きの例」のちょうど中間くらい、という感じはしないでしょうか。

「傷害致死」という罪名は、ニュースにもよく登場しますよね。

> 人が人に殺されたら当然殺人であって、故意かどうかは量刑にしか関係しないのかな、とぼんやり思っていました。

というご意見は、すでに「殺されたら」に、故意があるのが通常のケースのみを念頭に置いていらっしゃるのかな、と思いましたが。

何を言いたいかといいますと、本件の少年の行為について、
「暴れ方からみて、当然殺人でしょう。弁護側の傷害致死の主張は無理スジでしょう」
という感想をもたれるのであれば、いち意見として十分納得できるのですが、
「人を死なせたら原則すべて殺人だと思う」
と一般化されてしまうと、頭を拳骨でこづいたら脳出血で死んでしまった、というような傷害致死のケースを思い浮かべなかっただけでは?と思ってしまうということです。

お気楽秘書さんのおっしゃる「一般人の考えのずれ」とは、2つの輪っかそれ自体のズレではなく、輪っかの「輪郭」の中で生じてるのではないかなあ、と。
一般人の輪っかの輪郭は少しぼやけているのに対して、法律家はの輪郭は細くてくっきりしているけど、(常識的な)一般人の少しぼやけた輪郭の中にある。遠くから見ると輪っかは重なっている。そんなイメージを持っています。

それと、「過失割合」という語は、「AとBでは8:2でAが悪い」というような、相手方との比率の意味なので、おっしゃる文脈からは、「故意・過失の程度」等と言うほうが正確かな、と思いました。
(揚げ足を取るようですみません)


このレスは、お気楽秘書さんへの悪意は本当にまっっったくないつもりだということを分かって頂ければ幸いです。

法律は、基本的に「一般常識にかなった正義」を目指しているだけで、一般の人の価値観とズレたところを目指しているわけではない!(と法律を囓っている側の人間は思っている!)ということを理解して頂ければな、という思いです。

Mr.刑訴苦手さん
故意の認容説について何か書こうかと思ってるうちにお返事が遅れてしまいましたm(_ _)m

故意に限らず、主観面つまり頭や心の中のことはまさしく「結局他人にわかるものではありません」から、主観の認定はコメントしていただいたとおりだと思います。

問題は、状況証拠や物証が薄弱な場合にどうするか、ですが、そうなると結局自供に頼るということになってしまいます。
困ったことです。

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