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判決文、わかりやすく 最高裁、裁判員導入へ文例検討

というニュースの中で

また、法律家の間でしか通用しない、隠語のような言葉遣いは避けた。たとえば、争点の「殺意」。専門家の間で当たり前のように使われてきた「未必の故意」は、「とっさに『死んでもかまわない』との思いを抱いたとしても特に不自然ではない」と言い換えた。

という部分があります。

 いつも引用させていただいてます落合先生のブログでも紹介されていました。
 それを見て、ふと思いつきで

犯罪の正否の議論においては、未必の故意という概念が必要なのだろうか、という疑問を持っています。
もっとも情状面では意味があると思いますので、やっぱり用語の問題として残るのでしょうね。

とコメントさせていただきました。
 その後、いつものブログ巡りをしていますと、「続・けったいな刑法学者のメモ」でStrafrecht先生が「未必の故意なんていらない」という記事を書いておられるのがわかり、大変意を強くした次第です。

 私はほとんど現場たたき上げの法律家ですから、学説史的な知識はありませんが、「未必の故意」というのは理論的には故意と過失の分水嶺に位置する概念であろうと理解しています。

 しかし、実務的には、故意というものは「あるかないか」だけが問題になるのであり、故意概念の中にあえて「未必の故意」という概念を分けて定立しなければならない必然性はないと思います。

 落合先生のブログでのコメントでは、「もっとも情状面では意味があると思いますので、やっぱり用語の問題として残るのでしょうね。」と書きましたが、情状面における「未必の故意」は「確定的故意」との対比において考えられるのであり、いわば犯意の強さの大雑把な区分に過ぎないと思われます。
 
 犯意の強さという観点でいえば、故意の限界的な弱い犯意から極めて強い確定的故意まで連続的な程度の差があるのであり、「未必の故意」と「確定的故意」のニ分類のたてわけは重要な意味を持たないように思います。

 そうなると、情状面においても「未必の故意」という概念を用いる必然性はなく、端的に犯意の強さを問題すれば足りそうです。
 
 判決文試案では、
「未必の故意」は、「とっさに『死んでもかまわない』との思いを抱いたとしても特に不自然ではない」と言い換えた。
とのことですが、これは世間一般でいうところの犯意の単なる心理描写に過ぎず、私が理解するところの故意の中核部分である「構成要件該当事実の認識」とは別物と読めます。

 さらに揚げ足を取れば、「思いを抱いたとしても特に不自然ではない」という言い方のどこが「わかりやすい文章」なのかわかりません。
 、また、「とっさに」というのは、犯意の偶発性を示すものではありますが、「未必の故意」概念の簡単な説明(の一部)と言えるかどうか疑問です。

 つまり、判決文試案の言い換えは、あまり論理的とは思われないのです。
 わかりやすい文章というものが非論理的文章になってしまうと本末転倒ではないでしょうか。

 陪審制度を採用している国の刑法理論というものを知りませんので、以下は完全な憶測ですが、陪審員が理解できるようなシンプルな理論になっているのではないか、と勝手に想像しています。

 そうかどうかはともかく、日本の刑法理論はとても分析的であり、その結果として素人の一般市民の感覚とは相当ずれているところがあると思っています。つまり一般市民の方がすぐに理解することが困難な概念が多いということです。

 ここにも裁判員制度が木に竹を接いだ制度になっていないかという疑念があるわけです。

 裁判員制度で使える刑法理論であるためには、素人にわかりやすい故意の最低条件を提示する必要があると思います。

 未必の故意の言い換えという表面的なことではなく、そもそも故意とは何か、ということを簡単に説明するということが大事なのであり、より一般化しますと、重要な法律概念または法律理論を素人に分かりやすく説明する方法、または説明技術の研究が必要なのではないでしょうか。

 適用すべき規範が理解できずして、裁判員がその職責を果すことができるはずがありません。

 結論としての判決文の試案ではなく、判決を導き出すための規範の説明の試案が求められていると考えます。

 憶測と私見を前提にするところの多い記事でありますので、批判を賜れば幸いです。

追記
 他にもどなたか関連する記事を書いておられたと思ってチェックしましたところ、「唯々諾々のもうぐだぐだ」のAKITさんが「判決文をわかりやすく?」という記事を書いておられました。

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コメント(9)

今はほとんどやっておりませんが、以前私は某巨大掲示板で法律的な相談の回答などをちょいちょいやっておりました。
その際に気づいたのですが、法律は演繹的に考えるが、一般の人に説明する場合、説明は帰納的にした方がよいということです。
初めに故意の概念があって、それに具体的事実を当てはめていくわけですが、聞き手が知りたいのは「その事例が故意犯か否か」であって、「故意とはなんぞや」だの、ましてや未必の故意のうんちくなぞ聞きたいと思っていないのです。
従って、未必の故意を説明する場合、私は「相手の腹を包丁でこれだけの深さ刺しといて、殺すつもりはなかったって理屈は通らないでしょ。」と、言います。
「未必の故意」を、「とっさに『死んでもかまわない』云々」と言い換えましょう、というやり方では、まだ演繹的なので、判りにくいと思います。

 昔の刑法の教科書だと、違法性の意識が故意と過失を分かつ分水嶺である、と書いておきながら、未必の故意が認識ある過失との限界を画しているなんてかいてあったのです。どっちがどうなの?という感じです。
 そういった刑法の昔話はおいておいて、未必の故意にこだわる考え方というのは、無過失から確定的故意にいたるまで責任の量がどんどん増えていくという観点にたっているのではないでしょうか。この意味で、故意と過失は量的相違でしかないのです。未必の故意を量刑とリンクさせるのも、無意識にそのような発想に立っているのだとおもいます。これは、理論的にみれば、心理的責任論の考え方なんでしょうね、ということです。
 でも、故意と過失は、刑事責任として質的な相違があるのだという考えからすると、過失とは異質のものを判定するのですから、故意だけの世界でその判断をしていけばよいということです。
 裁判員制度に関連していえば、たとえ竹に木を接いだ制度だとしても、法律の専門家である裁判官がいるわけですから、法的な難しい概念については、それを素人へと仲介する役割を果たしていくということが当面の解決策ではないかと思います。陪審員制度でも、判事は陪審員に対して説示をするわけですから、そういったこをきちんとおこなうかどうかでかなり違う気がします。
 文面の標準化はなんか目に見えるので、やっているという印象を与えますが、所詮形式的なことでしかなく、裁判員制度での裁判官のあり方をどのようにするのかということがより重要な気がしています。

11月8日の記事で触れております。ぜひご参照ください。

1995年ぐらいからNIFTY-Serveでねずみ講とか在宅ワーク詐欺商法の相談に乗っている内に段々と法律を勉強してきましたが、プロバイダ責任制限法が出来たときに弁護士さんと組んで回答書を作るという仕事をした時に「法曹人の書き方とは」というものを学んだと思います。

もの好きで法律論議をする(わたしもその一人)と会社でもある程度責任をもって判断する人の違い、といったところにある種の段差があると感じます。

実際に民事の相談だと「法的にこうです」という説明を素直に受け入れる人は半分以下でないかと感じます。
在宅ワーク詐欺商法の被害者では「警察が取り締まってくれれば」と民事というより刑事というか、平たく言えば復讐を望む人が多いのですが、こういう人に「法律の体系とは」といったところから説明してみると、日本では法律が庶民にとって「無縁なもの」として扱われていると感じます。

つまり「法律の考え方をやさしく説明すれば分かるだろう」という考え方自体が間違えに近いのじゃないか?と思うのです。

そもそも「法律の考え方」があるということを知らない、という前提じゃないか無理ではないか?
まして、その上に複雑な量刑の相場とか判例といったものを評価しろ、と言われたらどうするんでしょうか?

わたしが裁判員に選ばれたら、そこらの緊急教養講座を裁判所に請求しちゃいますが・・・。

k_penguin さん
>私は「相手の腹を包丁でこれだけの深さ刺しといて、殺すつもりはなかったって理屈は通らないでしょ。」と、言います。

これと同様の説明は私もよくします。
但し、ある程度の理論というか考え方の説明をしないと、裁判官の見解の押し付けになってしまう恐れを感じます。


strafrecht 先生
コメントありがとうございます。
理論的な問題は別に考えさせていただくことにして
>法律の専門家である裁判官がいるわけですから、法的な難しい概念については、それを素人へと仲介する役割を果たしていくということが当面の解決策ではないかと思います。

これについては同感ですが、それができる裁判官がどれだけいるか、どう養成するかが問題なように思います。


ろぼっと軽ジK さん
読ませていただきました。
トラックバックもさせていただきました。
論理的かつわかりやすい文というのはとてもむずかしいと思います。


酔うぞさん
>わたしが裁判員に選ばれたら、そこらの緊急教養講座を裁判所に請求しちゃいますが・・・。

はい、「緊急教養講座」が絶対に必要だと思います。

うちのブログの、ろぼっと軽ジK氏が、おじゃましましたようで。TBをたどってきてみました。

ろぼっと軽ジK氏が紹介している記事は私が書いたものです。先生がお書きになった文章とは比べるべくもない駄文ですので、無視していただいて結構ですよ。

さて、未必の故意の概念ですが、私的にも先生のご意見と同意見です。要するに、過失ではなく、故意があるというためには、認識・認容がどこまで必要かということを解析するための講学上の概念であり、法律を学ぶには必要な概念かとは思いますが、判決文で未必の故意、ってことを言う必要性は基本的にはないと思っております。

もちろん、裁判所が「被告人がなんかいろいろ弁解しているけど、少なくとも未必の故意はあった!だから故意があることは間違いない」って言いたい場合には便利な言い回しですよね、とは思います。やはり表現の仕方の問題でしょうか。

それと、情状面で意味があるかどうか、という議論ですが、長年弁護士は、「被告人は未必の故意を有していたにとどまる。」みたいな言い方をしてきたわけで、情状主張の際の表現を弁護士サイドでも考え直す必要があるでしょうね。

ただ、どうでしょう。例えば、歩行者天国のような場所で、自動車を100キロのスピードで運転していて、人をはね殺し、殺人罪で起訴された場合(まあないでしょうけどね)、弁護人が危険運転致死にとどまる旨の主張をしたとしたら、判決文には、単に故意があった、というよりは、「当然死の結果が生じる蓋然性が極めて高いことを認識し、かつそれを認容しており故意が認められる」みたいな、未必の故意概念的な説明をしないとうまく説明できないような事例もないわけではないかとは思います。ほとんど考えられないと思いますけど。

M先生、コメントありがとうございます。
M先生の「それに、裁判所の場合には、よく分からない部分については、決まり文句を多用してごまかすなど、形式主義に陥っていた部分もあるのではないかと思われる。」というところは私も同感です。
裁判官は説明したつもり、弁護士も検察官もわかったつもり、でも一般市民は全然納得していない、という判決書がたくさんあるように思います。

「未必の故意概念的な説明をしないとうまく説明できないような事例」はたしかにあると思います。
しかし、中身の説明が大事なのであって、「未必の故意」というラベルはやっぱり必然性がないと思います。

余談ですが、M先生の例示事例の場合、私が検察官なら「確定的故意」を認定するかもしれません(^^)

コメント・TBありがとうございました。
確かに、判決文だけ分かり易くしても現場で取り扱っている裁判員が混乱していたのでは意味がないでしょうね。
「当該状況下においては被告人には6,7割故意があったと認められる」みたいな表現の方が裁判員も一般市民も分かり易いと思いますけど、今度は法曹側が面食らうでしょうか。
低レベルなコメントですみません。

>川の果て さん

>「当該状況下においては被告人には6,7割故意があったと認められる」

 これで有罪だと言われますと、たしかに面食らいます(^^;

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