エントリ

 元裁判官の吉丸眞氏が、「録音・録画記録制度について」というタイトルで判例時報に寄稿されています。
 ボツネタにその要約が載っていました。
 取調べの録音・録画は,真相究明を不可能にはしない by吉丸眞元判事@判時1914号19頁

 判例時報の記事をざっと読んでみた印象ですが、具体的な場合を想定して詳細に分析・検討を加えられており、労作であるとは思いますが、やはり元裁判官の分析だな、と思います。

 検察官の見方として、本江威憙元検事の意見(「取調べの録音・録画記録制度について」判例タイムス1116号)を紹介された上で、それに対する批判的立場で論じられていますが、私も元検事であるからかもしれませんが、吉丸氏の分析には実態に沿っていないところがあるように感じられます。

 時間があれば私の意見を述べてみたいと思うのですが、とりあえず私の備忘録的意味を兼ねて記事の紹介をさせていただきます。

 この記事を読まれた方からポイントを絞ったご意見があれば、私も考えたいと思います。

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検事取り調べを録画 東京地検で試行 裁判員制度に対応 朝日新聞2006年5月9日夕刊15面 検事の取調べを録画して、裁判に使用するそうです。 不当... 続きを読む

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 全くの門外漢ですが、本江氏、吉丸氏の両論文を拝読した感想を少し申し述べさせていただきたいと思います。

 本江論文は多くの捜査官の考えを代表したものであろうとは思われますが、残念ながら時折散見される不適切事例(過度に威圧的な取調べが行なわれたり、暴力が用いられたり、女性被疑者に対する不適切な接触が行なわれるなどといった事例)に対する(「録音・録画」に代わる)防止策に全く触れておられないという憾みがあります。本江先生には、現状の擁護のみに終始せず、元検事のお立場から、取調べの適正を確保するために採りうる他の方策について、少しでも言及していただきたかったと思いました。

 吉丸論文については、「録音・録画の一時停止を認めるべき」としている点に疑問を感じます。
 「取調べの録音・録画」は、取調官による暴行・脅迫・偽計・不適切な接触などが行なわれることを未然に防ぐためですから、取調べの全過程(取調室への入室から退室まで)を記録し検証可能な状態を保つことこそが重要なのであって、記録停止や編集を認めることは適当でないように思われるのですが、いかがでしょうか。
 「録音・録画記録が公判で再生されることを恐れ、被疑者が真実を述べにくくなる」という危惧については、供述者に対する威迫を引き起こすおそれがある場合や保護の必要性が高いプライバシー情報が含まれている場合にはインカメラ方式による証拠調べを行なうことを被疑者に説明するとともに実際にそのように取り扱うとか、供述の任意性の検証については公判前整理手続で行なうようにするなどといった方法をとればよいのではないかと考えるのですが、裁判公開原則に反するなどという理由から無理なのでしょうか。

 ポイントを絞った意見どころか雑駁な印象にとどまってしまいましたが、両論文からは以上のような印象を抱いた次第です。

an_accused さん
 コメントありがとうございます。

>本江論文は・・・防止策に全く触れておられないという憾みがあります。

 とのとおりですね。
 結局、取調官の資質に依存しているということだと思います。

>吉丸論文については、「録音・録画の一時停止を認めるべき」としている点に疑問を感じます。

 これが根本的な問題だと思います。
 録音・録画を採用するためのハードルを低くしようとのお考えだと思いますが、これでは録音・録画の意味がほとんど失われるように思います。

 録画・録音の取扱についても問題が多いです。
 供述の任意性と信用性判断のためだけに使われるのであればいいのですが、それを確保する技術面において問題があると思います。

 私の直感では、取調べの可視化と司法取引は密接に関連するように思っています。

>矢部先生
先生のご見解にあります
>取調べの可視化と司法取引は密接に関連するように思っています。
について、思いついたことを申し述べます。

 これは私の想像に過ぎないのですが、捜査機関が取調べの可視化に強い抵抗を示す理由の一つに、密室での取調べの中では「カウンセリング的取調べ」だけでなく、「非公式な司法取引」が行なわれており、そのことが明るみになるのを避けたいというのがあるのではないでしょうか。
 私がある被疑者から聞いた話に、捜査員から「情婦に対する覚せい剤検査をしないでおく代わりに、自らの被疑事実(別件含む)について素直に供述せよ」との説得を受け、被疑者がこれに応じたというものがあります。
 「非公式な司法取引」は、上記事例のようなあからさまなケースだけでなく、身柄拘束や勾留延長、起訴・不起訴判断や略式・正式起訴などの裁量を材料として自己や共犯に関する供述を引き出そうとすることも含めれば、(日常的に、とまでは言えるかどうかわかりませんが)ある程度は行なわれているのではないか。そして、現行の司法制度はそういった“取引”を通じて得た供述を公然とは認めていないので、取調べ過程が全面的に開示されると大変困ってしまう。そういう事情が、「カウンセリング的取調べ」の重要性をことさらに強調する見解の背後にあるのではないかなあと、外野から想像している次第です。

 エントリーの主題から脱線してしまい、申し訳ありません。

 「非公式な司法取引」についてですが、これについて「あります」というと相当大きな誤解を招く危険性がありますので、簡単には説明できません。
 しかし、取引めいたことがあるかないかと問われれば、やはり「ある」と言わざるを得ないでしょう。
 ご指摘の実例についてですが、そんなことはあり得ない、というつもりはありません。
 これを「非公式な司法取引」というか「利益誘導」というか「実質的な刑事免責」というか「駆け引き」というかは微妙ですが、日本の現在の刑訴法の建前上は「不適切な取調べ」ということになると思います。自供の任意性を失わしめる事由にもなりうると思います。
 このような批判を受ける可能性のある取調べについては、それを公にしたくないという心理が働くのは当然のことです。

 ところで、さらに突っ込んで考えますと、ご指摘の実例についてですが、「情婦に対する覚せい剤検査をしない」ということが取引材料になるということは、その情婦が覚せい剤を使用している事実があるということが前提になります(その意味で刑事免責と言ったわけですが)。
 それを前提にした上で、「情婦に対する覚せい剤検査をしないでおく代わりに、自らの被疑事実(別件含む)について素直に供述せよ」と説得(?)する取調べについて、an_accused さんはどう思われるでしょうか?
 建前抜きでお答えいただけると助かります。

 ところで、件の被疑者は公判で事実を認めたのでしょうか、それとも「説得」を受けたことを理由にして自白調書の任意性を争ったのでしょうか?
 ちなみに上記の説得材料がものを言うのはせいぜい逮捕されてから1週間くらいです。

 はっきり言いまして、取調べというのは綺麗事ではすみません。
 被疑者が心からの反省悔悟の念から自供するというのは理想でありますが、現実はもっと打算的な動機が働いていると思います。
 被疑者は、自白することと否認することのメリットとデメリットを天秤にかけているのです。
 取調べというのは、自白することのメリットにオモリを少しずつ乗せていくこと、と言うこともできます。
 簡単に言えば、自白したほうが有利だ、自分のためになる、と被疑者に思わせることです。

 そして、そのための方法は極めて多様です。
 手段を選ばなければ、きれいな方法から汚い方法まであります。
 問題は、どこまでが容認されるかです。
 取調べの可視化を問題にする場合は、取調べ方法の許容範囲についてきちんと議論し、できるだけ明確な基準が定められなければならないと思います。
 ここで忘れてはならないことは「全くの綺麗事ではすまない」ということです。
 その過程の中で、公式な制度としての司法取引の問題も浮上してくるのではないかと考えているのです。

>矢部先生
 ご推察のとおり、前記事例の被疑者が取調官から「説得(?)」されたのは勾留決定から数日たった後(情婦が差し入れのために留置管理を訪れて3日ほど経った後)のことだったようです。
 その後、被疑者は素直に取調べに応じ、公判でも供述を覆すことはありませんでした。

 前記事例のような「説得(?)」の是非については、どうお答えしてよいかずいぶん迷いました(今でも迷っています)。被疑者が認めた被疑事実が本当に彼の犯したものに限られ、他の誰かが犯した同種事案をも背負い込むことがなかったようなので、まあ許容できるのかな、とは思います。彼は、「オンナを守った」という(彼なりの)自尊心を満たしつつ、実際に犯した罪に応じて、納得尽くで刑に服したのですから。
 ただ、情婦の“弱み”が覚せい剤事案であるというところが引っかかっておりまして、覚せい剤の常習性・病理性を考えると、情婦の覚せい剤使用を握るのは適当でなく、きちんと検挙して更生のきっかけを与えるべきだったのではないかとも思え、全面的に許容することにはためらいが残ります。

 矢部先生が仰っておられますように、「取調べというのは綺麗事ではない。取調べというのは、自白することのメリットにオモリを少しずつ乗せていくことだ。」という事実をきちんと踏まえた上で、取調べの可視化のありようを検討せねばならないのであって、(こう言っては語弊があるかも知れませんが)両論文のような「綺麗事」から出発すると、「取調べの適正」についての議論がなかなか深まっていかないのではないかと思います。

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