松本控訴審の控訴棄却問題について、高裁決定要旨を踏まえて考えてみたのですが、つまるところ、弁護団は、オウム事件の首謀者と目されている松本被告のしかも死刑判決に対して、控訴審が実質審理をしないで裁判を打ち切ることなどあり得ないとたかをくくっていたのではないかと思います。
ともかく何らかの理由をつけて裁判の引き延ばしを図れば、高裁としても控訴棄却をすることなどできないだろう、と考えていたのではないでしょうか。
そのカードとして、松本被告には訴訟能力がない、という主張を使ったのでしょう。
訴訟能力カードを利用して控訴趣意書の不提出を正当化しようとしたわけです。
後で述べるように、控訴趣意書は控訴審の審理の出発点になる重要な書面ですから、控訴趣意書の提出がない限り、実質審理に入れないからです。
しかし、主張はあくまでも主張に過ぎず、最終的に否定されれば、最初から訴訟能力があったと認定されることを軽く見すぎていたものと思われます。
弁護団が、延長後の控訴趣意書提出期限において、控訴趣意書が完成していたにもかかわらずそれを提出しなかっったことは、以上のように考えなければ説明がつかないように思います。
訴訟能力の判断は、控訴趣意書を提出してからでもいくらでもできるからです。
原審の判断を批判する控訴趣意書を提出することと、現在の松本被告の訴訟能力の問題は全く何の関係もありませんから、控訴趣意書を提出すれば訴訟能力を争えなくなるわけではありません。
つまり、弁護団は、判決内容としての死刑を争っていたのではなく、判決自体の言い渡しを回避しようとしていたものと思われます。
これは、裁判の否定です。
裁判からの逃避と言ってもいいかもしれません。
しかし、東京高裁はそれを許さなかったわけです。
高裁の判断については、控訴趣意書が完成していたと言っても、松本被告と弁護団との意思疎通ができなかったんだから、まともな控訴趣意書が書けるわけがない、というご意見もあろうかと思います。
この問題について法律的にかなり詳しい解説をしているブログがあります。
オウム松本被告の控訴棄却〜東京高裁の控訴棄却の判断は妥当なのか?(Because It's There)
この記事において、管理人の春霞さんは、控訴棄却した高裁の判断について、以下のとおり述べておられます。
要するに、説得力ある控訴趣意書を作成するには、被告人から不服の理由を十分に聞くことが不可欠であり、これこそが控訴審の弁護活動のポイントなのであって、被告人との意思疎通は控訴審での方針を決めるほど重要性があるということです。これほどまでに控訴趣意書は重要だということなのです。ただ期限に間に合うように控訴趣意書を出せばよいわけではないのです。この事案では、弁護団は松本被告と全く意思疎通ができていません。そうなると、まともな控訴趣意書を作成できず、その結果、最初から控訴審での十分な弁護活動ができないことになるのです。だからこそ、弁護団は、控訴趣意書を出さなかったわけで、この決定に対して、弁護団は「裁判所の暴挙を絶対に許すことができない」といった激しい口調の声明を発表したわけです。
まず、控訴趣意書とは何なのか、ということが問題になるのですが、その前提として控訴審とは何をするところかが問題になります。
これについては、別エントリで述べていますので再掲します。
控訴審というのは、一審の裁判の続きをやる場でも一審の裁判のやり直しをする場でもないのです。
一審の判断が正しいかどうかを点検・審査するというのが建前です(このような建前を事後審といいます)。
そして、控訴審では、控訴した側が、原審(地裁の裁判)の判断のどこがどのように不満か、ということを提示しなければなりません。
裁判というのは、当事者(刑事裁判では、被告・弁護側か検察官またはその両方)が主張することの当否を裁判官が判断するというのが原則であり、当事者の主張がなければ裁判が始まらないのです。
地裁の裁判は、検察官の求刑どおり死刑ですから、検察官に不満はありません。
被告・弁護側が、地裁の裁判の不当性や誤りを具体的に主張しなければなりません。
「具体的に」というところが重要であり、単に「死刑判決は間違っている」と言っただけでは、高裁としては被告・弁護側の言い分が分かりませんから、判断のしようがありません。
そのような被告・弁護側の主張を具体的に主張するための書面が、問題の控訴趣意書であるわけです。
まず、控訴趣意書が出なければ、高裁の裁判がはじまらないのですから、刑事訴訟法は控訴を申立てた側に対して控訴趣意書の提出を義務づけています。
そして裁判制度の重要な目的の一つに、迅速の裁判ということがありますから、裁判の引き延ばしを許さないという趣旨で、控訴趣意書の提出期限を定め、期限内に提出しなければ、そのことだけで裁判の打ち切りをするという、強い姿勢を示しているのです。
但し、期限を定めると言っても裁判所の都合だけで定めているわけではなく、当然、事件の内容や重大性に応じて、被告・弁護側に十分な準備時間を与えるようにしなければなりません。
松本公判の場合、一審判決は平成16年2月27日であり、最初の控訴趣意書提出期限は、平成17年1月11日、延長後の提出期限は平成17年8月末日であり、1年半近くの準備期間が与えられていました。
この期間は決して不十分な期間とは言えないと思います。
以上を踏まえて春霞さんの指摘について考えてみます。
被告人から不服の理由を十分に聞くことが不可欠であり、これこそが控訴審の弁護活動のポイントなのであって、被告人との意思疎通は控訴審での方針を決めるほど重要性がある
まず、この点についてですが、原則論としてはそのとおりです。
控訴審に対してどのような姿勢で臨むかについては、被告人と弁護人が一審の判断を詳細に検討して、最終的には被告人の意思に基づいて控訴審の弁護方針が決定される必要があります。
しかし、本件においては、現実問題として、控訴審における弁護方針は松本被告に確かめるまでもないのです。
松本被告は一審で事実を全面的に争って無罪を主張していたにもかかわらず死刑判決を受けたわけですから、控訴審においても事実を全面的に争い無罪を主張する以外に選択肢はありません。
そして、弁護方針が決まれば、後は説得力のある理由をもって一審の判断のどの部分をどのように批判し、反論するかという問題が残るだけなのですが、そのような問題の検討は、法律の専門家である弁護士の領分であり、松本被告の話の重要性は、本件においてはかなり低いと思われます。
共謀の一部を認めつつ自分は首謀者ではない、というような主張である場合は、被告人との協議が重要になってくる場合がありますが、本件では、松本被告は、「自分は一切関係ない。弟子たちがサリンを撒いたとしても、それは弟子たちが勝手にやったことで、自分は何も知らなかった。」という主張だったはずですから、松本被告は、黙っていればいいのです。
私が弁護人なら、松本被告が余計なことをいうことのほうが心配です。
前のエントリーで、「少なくとも8割9割は書けると思います。」と書いたのはそういう意味です。
現に弁護団は、とにもかくにも控訴趣意書を「完成」させているのです。
とはいうものの控訴趣意書の作成にあたって、被告人と弁護人の意思疎通がしっかりできていたほうが良いことは間違いありません。
内容的により説得力のあるものになる可能性はもちろんありますし、弁護人が後で被告人から自分の考えと違うことが主張されたと難癖を付けられる可能性もあるからです。
ここで問題になるのが松本被告の訴訟能力ですが、意思疎通ができないことイコール訴訟能力がないことではありません。
訴訟能力がない、とは、被告人が弁護人と意思疎通をしようと思ってもできない状態を意味します。
松本被告が意思疎通をしようと思えばできるにもかかわらず、何らかの理由、例えば弁護人を含む人間不信などによって、意思に基づいて意思疎通を拒否している場合は訴訟能力がないとは言えません。
被告人の意思に基づいて意思疎通を拒否するならば、意思疎通がないことによる不利益は被告人が負うべきことになります。
そこでどっちか確かめようということで、医師の意見を聞いたわけですが、その結果は訴訟能力あり、ということになりました。
その結果残ったのは、弁護団が提出期限までに控訴趣意書を提出しなかったという事実だけです。
但し、一つ重大な疑問があります。
仮に松本被告に訴訟能力がないとしますと、公判手続が停止されるべきであり、控訴趣意書の提出期限も意味を失うことになると思います。
そして今、控訴趣意書提出期限の経過が裁判の終結を左右する大問題になっているのですから、訴訟能力の判断のための鑑定が裁判所の指名した鑑定人一人の判断で決めてしまっていいのかなという疑問です。
そういう疑問はあるのですが、私としては東京高裁の判断を支持しています。
東京高裁が松本被告には訴訟能力があると判断した決め手は、どうも松本被告が一審の死刑判決のあと「ちくしょう」と言ったことのように思われ、そのようなシンプルな判断は、とても説得力があると思えるからです。
追記
松本弁護団の弁護士が控訴趣意書不提出の理由を語っているのを紹介しているブログがありました。
なぜ松本被告の控訴審弁護団は控訴趣意書を提出しなかったのか?(「で、みちアキはどうするの?」)
額面通りに読みますと、どうも控訴趣意書というものの理解が私とは違っているようです。
私は、法律専門家の裁判官が書いた判決の問題点を法律専門家である弁護士が批判することによってその誤りを訂正させるべく書くものであると考えているのですが、少なくともそれが主たる目的だと考えているのですが、弁護団としては、「控訴趣意書とは被告人本人の不服の申し立て」だと考えているようです。
言い過ぎかもしれませんが、弁護士は単なる被告人の不満の代書屋かいな、と思ってしまいました。
「ちくしょう」といったというのは僕もどこかで読みましたが、事実なのでしょうか。また、何に対して畜生といったのか文脈は分かりますか。誰がこの言葉を聞いたのでしょうか。訴訟能力という防御上重要な能力の有無の判断について、「ちくしょう」の一言が決め手になるのは恐ろしい感じがします。
エントリーでの引用・紹介ありがとうございます。これでメジャーブログの仲間入りかもしれません!(←無理かも(汗))
それはともかく、特に控訴趣意書の部分を取り上げて下さってありがとうございます。「控訴趣意書って重要なんですよ。」ということを指摘したかったエントリーでしたので。法律をよく知らない人なら、まず知らないことでしょうし。
ぽんたさん
高裁の棄却決定要旨において、
>そして被告は1審判決の宣告を受け、東京拘置所に戻った後「なぜなんだ、ちくしょう」と大声を発するということになるのである。
と認定されて判断の根拠にされています。
もちろん「ちくしょう」の一言だけで訴訟能力を認定したわけではないと思いますが、決め手になる一言というのはありますよ。
高裁がどの程度、決め手と考えたかどうかわかりませんが、私には決め手に思えるということです。
春霞さん
そうですね。
控訴趣意書は控訴審の審理の土台になるような重要な書面なんですけど、一般の方には馴染みがないですから、裁判所の姿勢が頑なに見えるかもしれませんね。
私としては、待ちすぎだったと思いますが。
精神鑑定も、どうせやるならもっと早くやればよかったのに、と思います。
松本被告の公訴事実はサリン事件の被害者数を絞っても(公訴取消ししても)それ以外の素因が結構多く記録も膨大ですから、それになんと言っても死刑の全面否認事件ですから、1年半の控訴趣意書提出期限も過大であってもやむを得ないかもしれないと思います。
ですがそれだけ過大な期間を確保しながら、なおかつ出来上がった控訴趣意書の提出拒否という不当な戦術まで使って、さらなる引き伸ばしを図るのは、国民の多くどころか法曹の大半の支持を得ることは困難でしょう。
これを正当化できる「法理論」があれば(感情論や司法政策論や刑事政策じゃないですよ)、ぜひ法曹実務家の方にうかがってみたいものです。
ハスカップ さん
>これを正当化できる「法理論」
についてですが、別のエントリーでお答えしました。
TBありがとうございました。びっくりいたしました。
この裁判の進行を無責任に傍観ていると、刑事罰がなぜ存在するのかが忘れ去れているように思えてなりません。
弁護団は、本当に無罪を信じているのか分かりませんが(制度上はそのはずですが)、単に裁判の進行を妨げているだけで、真実に近づこうとしておらず、無意味なことをしているだけのように見えてしまいます。被告人との意思の疎通ができないということから、しょうがないのかもしれませんが、であれば、どうやって弁護しているのでしょうか?
いつもそうなのですが、弁護士とは、正義を捻じ曲げても裁判で勝利することが仕事なのでしょうか?
そうであれば、はっきりと明言して欲しいものです。
被害者の気持ち(真実を明確にして適正に罰して欲しい)に少しも思い至らない人種に思えてしまいます。正義感ぶる必要はないと思いますが、もう少し何とかならないのかなといつも思ってしまいます。
感情論だけで裁判を行う必要なないと思いますが、人の存在から離れてしまった裁判は何の意味もないと思っています。
学術的な意見ではないのですが、感じていることをコメントさせてもらいました。
私の稚拙な疑問にモトケン先生ご自身からご丁寧な回答をいただき恐縮です。先日ボランティア仲間で飲んだとき、この件が話題となり、仲間の弁護士先生が「駆け引き、やりすぎ。訴訟活動は政治活動じゃない。死刑反対は支持するが。」とポツリと言った言葉が耳に残ってました。
TBいただきありがとうございます。最近ブログを始めたばかりなので知らなかったのですが、有名なサイトなんですね。早速ブックマークいたしました。
弁護士サイドの思惑の解説、大変参考になりました。わたしも勝手に「控訴趣意書とは被告人本人の不服の申し立て」と考えておりました。それだけに鑑定のプロセスに納得のいかない部分があったのです。
フェアではないと感じました。
ちなみに高裁の判断に関しては矢部さんのエントリほかを見た結果妥当なのかもと思っております。
e-chizai さん、aequitas さん
コメントありがとうございます。
それほど有名なサイトではないと思っていますが(^^;
ハスカップさん
>「駆け引き、やりすぎ。」
これが、法曹界の多数意見ではないでしょうか。
多数が常に正しいわけではありませんが。
横から失礼します。そしてはじめまして。
知る人ぞ知る(?)身分の者です。(名前から判断してください 笑)
>「ちくしょう」といったというのは僕もどこかで読みましたが、事実なのでしょうか。・・・誰がこの言葉を聞いたのでしょうか。
「ちくしょう,云々」という言葉を聞いたのは拘置所の職員でしょう。
拘置所での麻原の言動は常に監視下にあると言っていいと思います。
面会の際に刑務所職員が立ち会いますが,そのときに会話内容についてメモしていますしね。おそらくそういったもの(報告書というのかな?)が裁判所に提出されたものと思われます。
裁判所が行った鑑定の際に提出されたものなんでしょうかね。
>額面通りに読みますと、どうも控訴趣意書というものの理解が私とは違っているようです
松本弁護団の言っていることが、刑事弁護に(熱心に)携わる弁護士・研究者の方たちの共通した理解だと思います。
私のブログのエントリーでも、「刑事弁護」という文献を引用して、同様の内容を書いていましたけど…。3月28日付の東京新聞でコメントした弁護士の方も、松本弁護団と同じことを言っています(その部分を追記で引用しました)。
こちらのエントリーを読んで、控訴趣意書に対して随分と違う理解があるのだなぁと思いました。もちろん色々な理解があっていいと思います。
某59 さん
勘が鈍いので判断がつきかねていますが(^^;
ご指摘のとおりなんでしょうね。
春霞 さん
原則論としては、控訴趣意書の作成にあたっては被告人と十分打ち合わせをする必要があることは当然ですが、本件では、意思疎通がないことが不提出の合理的理由になるとは思えないのです。
被告人の意思ばかりを強調して、弁護人としての職責を軽視していると読めました。
追記で紹介された岩井信氏の見解によれば、被告人との意思疎通がないまま一審を進行させた一審の弁護人も『誠実義務』に違反することになるのではないかと思います。