エントリ

 「法と常識の狭間で考えよう」のビートニクスさんが
 「最近の弁護士批判の傾向に問題はないか?」というタイトルで、弁護士批判に対する批判記事を書いておられます。
 ビートニクスさんの批判の直接の対象は、近時のいくつかの裁判における裁判所による弁護人批判及びマスコミによる弁護士批判ですが、私自身も、今は弁護士の立場で、検察官的感覚が多分に表れていますが、弁護人ないし弁護人の訴訟活動批判の記事を書いていますので、若干の意見を述べてみたいと思います。

 ビートニクスさんは、裁判所及びマスコミによる弁護士批判の結果

このような事態は極めて異常であると言わなければならない。このような傾向は、何よりも弁護人の活動に萎縮をもたらすことになる。また、マスコミから批判されることを恐れて、今後は、大きな事件の刑事弁護の引き受け手がいなくなることも予想される。  すなわち、弁護士は、裁判所から批判され、マスコミから批判され、最後は弁護士会からも処分されるかもしれないと恐れながら弁護しなければならなくなってしまうのである。

 その結果、刑事事件を起こした被告人の権利擁護が、必然的に弱体化することがもたらされる恐れがある。

 最近では、「治安の回復」のためと称して、微罪であってもどんどん立件されるし、ビラ配りのような政治的な表現行為ですら立件される時代である。そういう時代に、被告人の弁護活動が弱体化することは恐ろしいことであると言わなければならない。

 この傾向が進めば、真面目に刑事弁護をやろうという弁護士が減り、裁判所に従順で、徹底的に争わない弁護士だけが刑事弁護を担うようになってしまうかもしれない。それは「翼賛弁護士」の登場である。そうなれば、弁護士も「公益」のために、被告人を追及する立場の一端を担うようになり、被告人のためではなく、治安維持のために活動することになってしまうだろう。しかし、それでは、もはや真の意味の弁護人と呼べるものではない。

という事態が生じることを深刻に憂慮されています。

 実は、私の弁護士批判の根底にも、ビートニクスさんと同様の憂慮があります。
 ビートニクスさんは、弁護士に対する萎縮効果、つまり弁護士のモチベーションの低下や意識の後退等に関する懸念を述べられていますが、私は、そのような萎縮効果をもたらす制度面における規制強化に焦点をあてているという違いはありますが、弁護活動に対する悪影響を憂慮するという意味では同様であるということです。
 私の「刑事裁判における規制強化」及び同エントリーの「関連するエントリー」などからご理解頂けるものと思っています。

 ビートニクスさんは、「裁判の迅速化に関する法律」(迅速化法)や最近の刑事訴訟法改正を指摘した上、裁判所による直接的かつあからさまな弁護人批判を問題にされていますが、私としましては、迅速化法や刑訴法改正がどうしてなされたのかを問題にしたいところです。

 迅速な裁判の要請というのは、憲法37条や刑事訴訟法1条にとっくの昔から規定されているところです。
 それなのに何故に、されに迅速化法などが規定されたかというと、憲法37条や刑事訴訟法1条の理念的規定だけでは対処できない事態が生じたからです。

 この「事態が生じた」という認識に対しては、それは裁判所(及び検察庁)の一方的認識にマスコミが拍車をかけた結果であるという批判があり得ますが、立法や法改正は国会の議決が必要であり、その意味で国民の意思が反映された結果であると見ざるを得ません。

 これに対してはさらに、国民の意思と言ってもそれはマスコミに煽られた結果であるという批判があり得ますが、いくらマスコミが煽ったとしても、国民の多数の中にマスコミの論調に対する少なくとも潜在的共感があったからこそ新規立法や法改正の力になったというのが私の認識です。

 要するに、国民の意識の中に、「裁判に時間がかかり過ぎる」という意識が淀むように沈殿してきており、それが強く顕在化したのがオウム公判ではなかったかと思うのです。

 刑事弁護というは、国民全て被告人を弁護の余地なき極悪人と批判したとしても、つまり国民全てを敵に回したとしても、被告人一人のために、被告人を全面的に擁護するべき活動です。
 その意味で、国民の批判を恐れていては刑事弁護はできません。

 しかし、被告人を守るという目的は、目的達成のためには何をしてもいいということを正当化しません。

 日本は、良くも悪くも一応民主主義国家です。
 個々の弁護士のポリシーやイデオロギーとしては正当化される行為であったとしても、またそのイデオロギー自体必ずしも間違っているとは言えないものであったとしても、国民の多数の支持を得られない弁護活動は、法改正圧力、あえて言えば刑事弁護制度改悪圧力を生じさせます。
 私が憂慮するのはこういう事態です。


 根は一緒だと思いますが、刑事裁判の迅速化傾向に拍車をかけているもう一つの原因は、言うまでもなく裁判員制度です。
 一般市民を裁判に参加させるという制度設計上、迅速な裁判の実現というのは、制度の本質的要請になります。
 私の理解では、裁判員制度は、裁判に対する市民参加という意味おいて、弁護士会の中でも刑事弁護についての意識が高い弁護士が推進してきた司法の民主化という理念の具体化です。
 
 そうであるならば、少なくとも司法の民主化という理念をより具体化すべしと考える弁護士は、裁判の迅速化に先頭を切って協力すべきであろうと思います。

 但し、裁判の迅速化という要請に対するアンチテーゼとして、慎重審理の要請というものがあります。
 ビートニクスさんが引用されている参議院法務委員会の付帯決議にあるとおり

裁判所における手続の迅速化については、その手続において当事者の正当な権利が保障され、また、当事者の納得の得られる適正・充実した審理が行われることが前提であり、二年以内の終局目標のみにとらわた拙速な審理とならないよう、十分留意すること。

が重要になります。

 しかし、どのような審理が「充実した審理」であり、どんな審理が「拙速な審理」なのかが問題になります。
 弁護人が求める審理を全て審理しない裁判は拙速な審理かというと、常にそうとは言えません。

 そもそも裁判に無限の時間をかけることは許されません。
 個人的な感覚で申し上げますと、私は、たとえオウム事件のような大規模かつ複雑な事件であったとしても、人の一生が7〜80年に過ぎないことからしますと、裁判の確定までに10年も20年もかかるというのはどう考えても時間のかけ過ぎだと思います。
 それでは、事件を裁くのではなくて、歴史を裁くことになってしまうように思います。
 
 要するに、健全な裁判制度の発展のためには、時に相反する理念の調整を図りつつ、訴訟関係者が協力して充実かつ迅速な裁判を目指すという基本姿勢を共有することが大事だと思うわけです。

 敢えて言えば、一部の法曹の特異な訴訟活動のために、法曹三者のバランスが崩れるような制度改悪がなされてはいけない、というのが私の見解ということになります。

 後で、追記するかもしれませんが、とりあえずアップします。

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ペンギンはブログを見ない - オウム裁判は何のため? (2006年3月30日 23:27)

俺が、自称コント番長へのダメ出しで頭を悩ませている間に、モトケンさんのところは、オウム裁判の訴訟指揮や取調の可視化など、刑事裁判についての旬なお役立ち情報... 続きを読む

 参考サイト(モトケン氏ブログ・ビートニクス氏ブログ) 麻原裁判で控訴棄却決定への異議申し立てが行われました。死刑事件ということもあり、慎重な判断が求めら... 続きを読む

コメント(21)

弁護士を目指して勉強しているもので、この辺りのことを深く考えます。

正直な本音を言えば、これだけマスコミに総批判される状況だと、家族を持って子供を持った状態で大きな事件の刑事弁護を引き受けることは、困難極まりないようにも思います。

国民批判を恐れていては刑事弁護はできないということは重々承知した上で、それでももう少し何とかならないかな?と思います。
その弁護士も、刑事弁護のなんたるかを考えてみれば、必ずしも後ろ指を指されるようなことをしているわけではないのですから。

びあ さん
 弁護方針によっては、マスコミが総批判することはないと思います。
 和歌山カレー事件の弁護団は特に批判されていないのではないでしょうか。
 少なくとも、私の知る範囲で弁護士から和歌山カレー事件の弁護団を批判する声を聞きません。

お世話になっています。

当初は反対でしたが、裁判員制度の導入決定は、裁判の迅速化を具体的現実的に考える上でよかったのかもと最近思い始めています。良いほうに転がる(運用される)ことを願います。

 >>要するに、健全な裁判制度の発展のためには、時に相反する理念の調整を図りつつ、訴訟関係者が協力して充実かつ迅速な裁判を目指すという基本姿勢を共有することが大事だと思うわけです。

同感です。公正で迅速な裁判が理想的です。迅速化の要請により公正さが害されうるという懸念はもっともですが、これが訴訟関係者の現状追認・放置として作用しないことを願います。裁判員制度導入により迅速化の要請を現実的に考えなくてはならない段階にきており、より良い環境を目指すよい機会なのかもしれませんね。

全然関係ないのですが、列車事故で過密ダイヤなどが問題になりスピード社会にたいする疑問などが呈されたことが頭をよぎりました。

 和歌山カレー事件の弁護団には、被告人に「黙秘をさせた」として批判が集まっていたと記憶しています。
 「黙秘をさせているとすればそれは明らかな捜査妨害」と言う藤永幸治教授のコメントが週刊誌に載ったこともあります。
 大阪・和歌山の弁護士会は黙秘権行使を非難した産経新聞に申入を行っています。

 また、精神鑑定を求めるとそれだけで弁護士が非難される現象も散見されます。

 弁護方針次第、と言うのは確かにあるでしょうが、正当な弁護と概ね見られている行動までもマスコミの総批判の射程に入っている現象が問題になるのではないでしょうか。


 あと、趣意書追加提出についての質問への回答、ありがとうございました。

風の精霊 さん
 そういえばそうでしたね。
 失念していました。
 私自身が和歌山事件の弁護団に批判的な感じをもった記憶がないので、忘れていたようです。
 黙秘権は、当然に認められている最強の防御の一つですから、私としてして黙秘権行使を勧めること自体は批判しませんが、事案によってはリスクを伴います。

 検事当時に私の身近で見た事件ですが、担当検事は認めれば起訴猶予にするつもりであったのに、弁護人が黙秘させた結果、起訴されて実刑になったという事案もあります。
 黙秘によって、起訴猶予にする理由がなくなってしまったのです。

>正当な弁護と概ね見られている行動までもマスコミの総批判の射程に入っている現象が問題になるのではないでしょうか。

 これは全く同感でして、犯罪報道における問題の一つだと思っています。
 弁護士会の宣伝不足ではないかと思うところもあるのですが、このブログでも折りに触れて説明していきたいと考えています。
 今回は、弁護人の方針を批判していますが、マスコミの弁護士批判報道が間違っていると思う事件も多々あります。


shooting_stars さん
 裁判員制度はいろいろな意味で、市民に裁判というものを考えるきっかけにはなっていると思います。
 本当にうまくいくのかな、と不安が一杯ですが。

「裁判所からの批判」が問題とされていますけど、弁護士や弁護士会は、裁判所なんて屁とも思ってないんじゃありませんかね(下品な表現ですみません。)。

中坊さんが日弁連の会長をしてらしたとき、あちこちで「裁判官はどうしようもない、本当に無能な連中ばかりだ」という趣旨のことを述べていらっしゃいました。現職の弁護士、それも日弁連の会長がマスコミを通じてそこまで仰るのだから、弁護士というのは偉いものだなあと感心した記憶があります。麻原裁判の裁判長も、弁護士から罷免の申し立てがあったようですね。実際にクビになるのかどうかは知りませんが・・・・。

というか、裁判所(裁判官)って凄く馬鹿にされているというか、立場が弱いのですね。欧米だと、裁判所の権威が高くて法廷侮辱にあたることは御法度ということを聞きましたが、なぜ日本の裁判所は弁護士や弁護士会から一段低く見られるのでしょうか。もちろん、弁護士は社会的地位の高い職業の代表格ですから、その視線は裁判官だけに向けられたものではないのかも知れませんが、日弁連会長があそこまでいえるというのは本当に感心します。最高裁の長官が「弁護士は馬鹿ばっかり」とか言ったら大問題になりますよね、きっと。

どっちかっていえば、中坊さんが特別なんじゃないかと思うんですが・・・。

それに中坊さんも職業的な義憤からそう言ったことであって、裁判所を馬鹿にする意図でそういうこと言ったんじゃないですし。

ド素人です。最近お邪魔するようになりました。

>  また、精神鑑定を求めるとそれだけで弁護士が非難される現象も散見さ
> れます。
>
> 弁護方針次第、と言うのは確かにあるでしょうが、正当な弁護と概ね見
> られている行動までもマスコミの総批判の射程に入っている現象が問題にな
> るのではないでしょうか。

責任能力がなければ罪にならない、が感覚的に理解できないんです。私のようなド素人には。そんな私にとって精神鑑定請求は、正当な弁護ではないのです。

ド素人から見ますと逆に、責任能力がなければ罪にならない、を法曹界の人が本気で信じていることが信じられません。西洋中世史の泰斗、阿部謹也先生が日本のインテリの欠陥として厳しく批判しておられた、職業上は西洋の理念で、実生活は伝統的日本人として振る舞う精神的二重生活を送っているのではないかと邪推してしまいます。

思うに、こうした事柄が起きる時は常に、非常に深い思想的対立が隠れています。その意味で、法律のド素人である私が「ん?」と思ったこの件に関する説明は「西洋思想では、人間には理性が備わっており、きちんと誘導すれば立派な市民になる、ならないならそれは誘導方法がおかしい、との理念がある。これこそが西洋民主主義の根底にある理念であり、そして、犯罪者は矯正すればよいとの思想を産んだ理念である」です。そうだとしたら、そんな理性偏重は私の人間観とは相容れない。

この辺りを説明したド素人向けの良書が御座いましたら、ご紹介頂ければ幸いです。

>責任能力がなければ罪にならない

多様な価値観が存在する現代社会で、「私を納得させる理由を」と言っても、土台無理な話。

「なぜ心神喪失の者の犯罪は処罰されないのか」の答えは、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う少年への答えと同じで、「法律でそう決めたから」でしかない。いやなら、国会で多数を集めて、刑法を改正すればよい。

>forsterstrasseさん
>職業上は西洋の理念で、実生活は伝統的日本人として振る舞う精神的二重生活を送っているのではないかと邪推してしまいます。

刑事手続が西洋のキリスト教理念の影響のもとにあるのは確かで、日本人の意識と違うところがあるのも確かだと思います(陪審制や司法取引が根付かなかったのもこの辺に理由があると思う)。
しかし、刑罰の根拠は「人間には理性が備わっており、きちんと誘導すれば立派な市民になる、ならないならそれは誘導方法がおかしい」だけに基づいたものではありません。そーゆー刑事政策的なのもありますが、もっと別な理念も関わっています。

それに、正直、実生活でも、トーストにとろけるチーズと納豆のせて食べてる現代の日本では、それほど西洋と日本の二重生活が非難されるようなものだとも思わないんですが。

いつも拝見して勉強させていただいております。

「マスコミから批判されることを恐れて、今後は、大きな事件の刑事弁護の引き受け手がいなくなることも予想される。 すなわち、弁護士は、裁判所から批判され、マスコミから批判され、最後は弁護士会からも処分されるかもしれない」

私は,こういう憂慮自体が適正手続の意義を取り違えたものだと思います。弁護人といえども,適正手続に乗っ取った上で弁護活動を行うべきであり,そうである限り,かかる憂慮は生じないはずです。
判決結果が死刑であれ何であれ,不当に裁判を引き延ばし,審理を回避しようとする行為は,そもそも適正手続の担い手の1人の行為とは認められないはずです。
今回の麻原弁護団は,詰まるところ,適正な手続に従わなかったというだけであり,懲戒請求だって当然だと思います。
死刑事件であったにせよ,然るべき手続を無視した弁護人は強く批判されるべきです。


コメントをしてくださっている皆さま
 とても有意義な議論をしてくださってありがとうございます。
 今、まとまった時間がありませんので、私の意見は後ほど述べてみたいと思います。

 横あいから失礼いたします。
>forsterstrasseさま
 学生時代に受けた日本法制史の授業で聞いた話なのですが、江戸時代、殺人を犯した者のうち、酒狂者(酩酊状態にあった者)や乱心者(心神喪失状態にあった者)などについては、「下手人(死刑の中で最も軽く、首をはねるだけで死体を晒したり財産を没収したりはしない)」という刑に処するとされており、かつ「下手人」は相当程度の割合で執行されず、被害者の関係者から提出された赦免願いに基づいて放免としていたようです。
 そして、法を執行する立場にある奉行所役人は、情状に応じて、放免の要件を整えるべく被害者の関係者に対し赦免願いを出すよう強く指導していたそうです。

 つまり、日本に西欧思想が本格的に輸入される前である近世においても、日本では「精神に異常をきたした犯罪者などについてはその刑を減免する」という法運用がなされていたらしいということです。

 そう考えますと、「責任能力がなければ罪にならない」というルールが輸入思想の産物に過ぎず、伝統的日本人の秩序意識とは相容れないとは必ずしも言えないのではないのではないかと私は考えています。

 私は専門家ではないので良書のご紹介などできず申し訳ないのですが、「こういう話もあるらしいですよ」くらいにお聞きいただければ幸いです。

>白片吟K氏さん
中坊さんが特別というのが、ちょっと分からないのですが・・・・日弁連の会長というのは、弁護士の最大公約数的な声を代弁しているわけではないのでしょうか? 特に中坊さんなんて弁護士の中の弁護士というか、業界の英雄的な人だと思ってましたけど、違うのかな。最近見ませんけど、また「平成の黄門さま」としてズバズバ言って欲しいですね。

自分のイメージだと、プロ野球にたとえるなら裁判官は審判、弁護士は選手、弁護士会長は監督みたいな感じでして、そりゃプレーの一つ一つを判定する権限は審判(裁判官)にあるけど、球場(裁判業界)で一番偉いというか中心的な存在で、実質的な力を持っているのは選手(弁護士)の方なのかなと。ただ、プロ野球選手でも、特定の審判に対して公然と「辞めろ」「クビにしろ」とはなかなか言わないと思うので、実際はもっともっと立場が強いのでしょうか・・・・? 今の法務大臣も、たしか弁護士の方でしたし。

日弁連会長の任期は1年ですので、1990年の会長である中坊さんの発言が常に「弁護士の最大公約数的な声を代弁している」わけではありません。

私は野球はまるで分からないので、ちょっとたとえのイメージがつかめないんですが(すいません)、訴訟指揮権は建前上も実際上も裁判所にあります。裁判所のお墨付きがなければ執行力は働かないからです。
裁判所をどなりつけるのは、それ相応の胆力と信念が必要です。
中坊さんにはそれがあったということであって、決して裁判官を低く見ているわけではありません。

・・・と、私は思ってるんですが、これであってる?

無記名様
お教え有り難うございます。でもそれは、逃避ではないでしょうか。

白片吟K氏様
「日本において、インテリの発言が力を持たないのは、自分自身が信じてもいないことを主張するからだ」という阿部先生のご指摘は、骨身に応えました。時間(数百年)が経てば二重生活も解消され、インテリの発言も言葉に力がこもるようになると思います(そう思いたい)。実際、阿部先生よりも若い私は、先生よりも私の方が、二重生活の度合いが低いと感じています。でも、私の世代ではまだ、先生のご指摘は十分に耳が痛い。よろしければ先生の著作をお読み下さい。「いまヨーロッパが崩壊する」がお手軽です。

an_accused様
興味深いお話、有り難うございます。そんな話があったんですか。面白いですね。
言われてみれば確かに、ある程度までは私にも感覚的に理解できます。これがご指摘の部分なのでしょうか。

>白片吟K氏さん
すばやいご回答ありがとうございます。日弁連会長の任期がそんなに短いとは知りませんでした。中坊さんの発言は、いつも「キャリア裁判官は無能だから、弁護士が裁判官になって判決をするべきだ」という趣旨なので、裁判所や裁判官を低く見るものとしか思えませんでしたが・・・・もちろん、実際に能力や権威が低いならば、そのように叱咤することが悪いとは全然思いません。教師が、生徒の力不足を叱るのは当然ですし(本当に無能なのかどうかは外部からはよく分からないものの、あの中坊さんがそう仰るならそうだろう、と漠然と考えていました。最近は官僚無能論が大勢なので、裁判官も所詮役人だろ、という意識もあったかも知れませんが。)。

あと、訴訟指揮権というのは、要するに裁判の進め方を仕切る権限ということでしょうか。これが「建前上は」裁判所にあるというのは何となく分かるものの、「実際上」もあるのかどうかというのが今ひとつピンときません。というのは、光市の母子殺害事件にしても、仙台の筋弛緩財事件にしても、麻原の控訴審にしても、それぞれ弁護人はベテランの先生だったわけですよね。とすれば、裁判所がルール違反と批判している点について、「その指示には従わなくても大丈夫」と経験的に判断して行動したわけかと思います。つまり、従来は裁判所の訴訟指揮に従わなくとも自分達のしたいように法廷活動ができたということではないか、これは要するに「実質的な訴訟指揮権」は裁判所になかったということではないか、と思うのですが、如何でしょうか。

今回の一連の事件について裁判所が強硬な姿勢を示したのは、権威主義というよりは、いじめられっ子とか気弱な司会者がささやかな抵抗を試みたような、そんな印象を受けています。

>Forsterstrasseさん
お勧めありがとうございます。
阿部謹也氏の著作なら、既に3冊ほど読んでいます。
あと、私らは別にインテリじゃないので、インテリの発言に力があってもなくてもどっちでもいーです。

>PAMPYさん
実際上の訴訟指揮権という言葉は、まあ、実際上も権威はあるってことです。権威が無くなったら、学級崩壊中の教室のような有様になるからです。
ただ、法廷にいるのは小学生じゃなくて、一応司法試験受かってるオトナなので、なるべく裁判所は我慢する方向で営業しています。
麻原の控訴審とかここで取り上げられている事件は、要するに、新聞沙汰になりブログで取り上げられるほどのレアケースだと思って下さい。

>今回の一連の事件について裁判所が強硬な姿勢を示したのは、権威主義というよりは、いじめられっ子とか気弱な司会者がささやかな抵抗を試みたような、そんな印象を受けています。
その印象は正しくはないと思います。
私は自分の記事では「テストが出来ないから盗んだバイクで走り出すみたいなやり方に裁判所の方がついに切れてしまった」とたとえましたが・・・。
まあ、裁判員制度の導入とか背後にあるから、簡単にこうも言い切れないけれど。


ふと思ったんですが、最近の弁護士には、依頼人のご機嫌取りばかりしていて、紛争解決に向けて裁判所含む当事者みなで協力するという姿勢に欠けている人が多いような気がします。
・・・うちの事務所にそーゆーのばっかり来るだけか?

>forsterstrasseさま
 forsterstrasseさまのコメントに触発されて、いくつか思いついたことがありましたのでコメントさせていただきます。

 今も昔も、「本当に狂ってしまった者のしたことは罪に問いようがない。」という諦めに似た感覚は広く存在し、それがforsterstrasseさまの仰る「ある程度までは私にも感覚的に理解できます。」ということなのではないかなあと思っています。

 さて、常識人の理解を超える猟奇的事件を目の当たりにすれば、誰だって犯人の精神異常を疑うでしょうから、弁護人が精神鑑定を請求すること自体は仕方のないことですし、適切に精神鑑定が行なわれ、その鑑定結果を踏まえて責任能力の有無が厳密に判定されればそれでよいのではないかと思います。
 実際のところ、被疑者(被告人)がそうそう簡単に精神病と認定されるわけではありませんし、また何らかの精神病とされたとしてもそれが「責任能力の否定」と直結するわけでもないでしょう。しかし、うつやPTSDなどといった病名がその定義を超えて一般に用いられるくらい精神医学が“カジュアル”になった現在においては、「精神鑑定をすれば、被疑者(被告人)には大抵何らかの病名が付与されちゃうのではないか」という“不安”が広く共有され、それが「責任能力がなければ罪にならないのは許せない」という感情につながっているのではないでしょうか。
※うつやPTSDが犯罪を引き起こす要因であるという意味ではありませんので悪しからずご了承ください。

 もう一つ、「責任能力がなければ罪にならないのは許せない」という主張が、最近とみに声高に叫ばれるようになった背景には、「被害者の(再)発見」があるのではないかとも考えています。
 刑事訴訟手続の中で主体的な役割を与えられず、「証拠」としての地位に甘んじざるを得なかった「被害者」が、1990年代以降クローズアップされ、その結果「被害者が理不尽な眼にあっているのに、なぜ加害者が理性的に扱われるのか」といった不公平感を人々が抱くことが多くなり、それが“必罰思想”に結びついているのではないかと考える次第です。
※現行の刑事手続の中では「被害者の減刑嘆願」が情状を示す一資料にとどまるのに対し、前近代的な江戸時代の刑事手続では「被害者の赦免願い」が被告人の処遇を決定付ける要件とされていたということは、刑罰制度を支える思想を端的に示したものだと思います。

>無記名様
>お教え有り難うございます。でもそれは、逃避ではないでしょうか。

価値観の多様性というのは、キリスト教原理主義からアナキストまで含むのですから、「心神喪失の犯罪者をどう処遇すべきか」という命題に対し、「正しい」答えがあるわけでもなく、ある方法が正しいと「証明」できる訳でもありません。

結局のところ、Forsterstrasseさんの言うところは、「西洋近代哲学的価値観」と「日本伝統の価値観」という二つの価値観を立てて、「『日本伝統の価値観』では心神喪失のものを処罰する」と言っている訳ですが、別に現代日本が「日本伝統の価値観」に従う必要もなく、他の価値観に従って法を定めても良いわけです。

「どの価値観がより良いか」と言う議論は、論理的に「証明」できるものでもなく、議論で決定できるものでもなく、説得できるものでもありません。神を信じるものにとっては、「神がそう言った」ということは絶対であり、他人が何を証明しようが、精緻な議論を展開しようが、どのように説得しようが、関係ないことです。

本件について議論して、どちらが正しいという結論が出るわけでないことは、十分認識されていることでしょう。

そうであれば、現行法の立場を尊重すべきでしょうし、精神鑑定を申請した弁護士を「正当な弁護ではない」と言えないことは明白ではないでしょうか。

私が出る幕がない状況ですが

どんなに動かし難い明白な証拠のある事件であったとしても、被告人が否認する以上、全力をあげて被告人の無罪を主張し、無罪にむけて反証活動を行うことは、正当な弁護です。

どんなに動かし難い明白な証拠であったとしても、判決が確定するまでは、

動かし難い明白な証拠のように見える

に過ぎません。

弁護の正当性の問題について言えば、責任能力の問題も本質的に同じだと考えます。

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