エントリ

 共謀罪の立証について考えてみました。

 まず、共謀共同正犯との関係で考えてみます。。
 共謀共同正犯の問題は、実行行為者との関係で、すなわち確定された実行行為の存在を前提にして、共謀共同「正犯」としての責任を負うかどうかの議論であり、その意味ではその理論的機能は、現在では正犯の範囲の限定の理論であるべきだと考えています。

 共謀共同正犯に対し、共謀罪における共謀は、将来的に現実化する可能性のある危険を生じさせたこと根拠とする処罰規定と解されますから、外形的な事実から責任者の範囲を限定することが本来的に難しいという問題を抱えています。

 これを事実認定の観点から見ますと、共謀共同正犯が、実行行為及びそれに至る経緯という現に存在する客観的な事実関係から遡って責任者を追及するという事実認定構造を持つのに対し、共謀罪は、これから本当に生じるかどうか不確実な将来的結果発生の予測に基づいて共謀の危険性を判断することになるという構造を持っていると考えられます。

 このことからいろいろな問題が生じます。

 よくブログで、

 冗談で「Aをぶち殺してやろうか」、「そうしよう」と言っただけで検挙されるのか?
と指摘されていますが、共謀罪が問題になる場面では、その会話が本当に真剣なものなのか冗談なのか判断が困難な場面があるのではないかが問題になります。
 念のために申し添えますと、冗談でも処罰されるという意見が散見されますが、真に冗談であれば共謀にはなりません。
 冗談か本気か区別がつきにくいというのが問題なのです。
 この点、共謀共同正犯なら、共謀に基づいて現実に実行が行われていることが、その共謀が本気であったことを強力に推認させます。

 さらに共謀それ自体の内容においても、共謀共同正犯の場合は、実行行為が行われた(過去形)ことを前提として議論され、現実に実行された犯罪についての責任を問うという論理構造に照らして、共謀の内容を共謀者と実行者との関係など周辺事情も総合的に考慮して共謀(会話や場合により目配せ、うなずきも含めて)を「かなり柔軟に解釈」することによってその成否を判定することが可能です(その当否は問題がありますが)。

 これに対し共謀罪においては、原則的に共謀そのものから、どのような具体的な犯罪を行うことを共謀したのかが認定されなければなりませんから、共謀共同正犯の場合に比してより具体的な共謀が認定される必要があると思います。

 次に、共謀罪の実体(実行行為)である共謀をどのようにして認定するかと言いますと、共謀を録音したテープや議事録などがあればそれによって立証できる可能性が高いですが、そのような物証がなければ、共謀の存否とその内容は、関係者の供述に依存します。
 共謀の内容を示す証拠が供述しかないという状況はかなり危険です。
 検察官にとって危険という意味です。
 例えば、密告者が、AとBが殺人の共謀をしていたのを聞いた、と供述したとします。 これに対して、AもBもそんな共謀はしていないと否認したとします。
 こうなると水掛け論ですから、立証責任を負う検察官としてはとても起訴できません。 また供述というものは、変遷つまり言うことが変わりますと、前の供述と今の供述のどちらが信用できるか供述だけを比較したのでは分からない場合が多いのです。
 いわば一人水掛け論状態になります。

 となりますと、共謀の立証のためには、水掛け論に白黒をつける状況証拠が必要になります。
 被疑者が自白している場合でも、それを支える補強証拠が必要になります。
 いずれにしても、物証がまったくなしで共謀を認定するのは慎重であるべきだと思います。
 個人的には、起訴のためには物証が不可欠と考えるべきであり、密告者や傍観者の供述が何人分集まろうと、参考人(被疑者以外の密告者など)の供述のみによって共謀を認定するべきではないと考えています。

 また、共謀罪は、未遂罪、予備罪のさらに前倒し犯罪であるわけですが、犯罪である以上、結果発生または実行行為に至る危険性の全くない犯罪を処罰するという解釈は取り得ないと考えますので、何らかの危険を発生させる外部的行為の存在が不可欠であろうと思います。

 その意味で与党の修正案に

その共謀をした者のいずれかにより共謀に係る犯罪の実行に資する行為が行われた場合において、

 という要件が取り入れられたのは当然のことで(これでも全く不十分という意見もありますが)、全く何の外部的行為の必要もない共謀のみによって刑法の相当部分の犯罪について共謀罪が成立するという立法を行うならば、それは刑法理論(構成要件論)の自殺と言ってもよいと考えます。 現時点の与党案、民主党案にしても適用範囲が広すぎて、理論的にはほとんど自殺しているようですが。

 一定の行為を要求することによって、共謀が本気か冗談かの区別もつくと思いますし、このような外部的行為の立証が共謀を立証するための状況証拠にもなると考えられます。

 最後に問題になるのが、既に指摘していますが、謀議に基づいてやろうとしていることが犯罪かどうかです。
 そして共謀罪として検挙するためには、謀議に基づいてやろうとしている具体的犯罪行為が、もし実行されたならその行為自体の悪質性において検挙に値するものがなければならないでしょう。
 さらに言えば、本来なら実行行為に及んでからでないと検挙できない犯罪を共謀段階で検挙しようとするのですから、実行されたならば明白に起訴に値するだけの悪質性を備えなければならないと思います。

 この点を確認するためにも、共謀の内容については具体的な立証が不可欠であると思います。
 
 もし実行されても起訴猶予になる程度の犯罪について共謀罪で検挙したりすれば、まさしく濫用と言うべきものです。

 これも既に指摘したところですが、共謀罪は犯罪ですから、警察または検察が捜査を遂げて、検察官が起訴し、裁判所がその起訴を有罪と認めて、そしてそれが確定してはじめて有罪になります。

 既に同じことを書いていますが、私の検察官的感覚としては、ブログで述べられている反対論の中で指摘されているシミュレーションの多くは起訴するのがばかばかしいと思われる事例です。
 当然裁判所としても、仮に検察官が起訴したら、こんなものを起訴するのかと思うのではないかと想像します。
 反対論が指摘するような事例をもし片っ端から起訴したら、公訴権濫用を認める判決が続出するのではないかとすら思えます。

 このエントリでは触れませんでしたが、適用対象者の問題も別に控えています。

 私の印象では、共謀罪を有罪に持ち込むのは結構ハードルが高いなと感じます。

 そのような思いがありましたので、これまで共謀罪についてはほとんど言及しませんでした。
 今回、だいぶ国会の状況が煮詰まってきましたのであらためて考えてみたのですが、たしかに理論的には無茶苦茶な法律だと思います。
 運用上の問題としても、実行行為を要求しないことから濫用しようと思えば濫用しやすいという意味で濫用の危険性は高いと言えます。
 制度全体の中での整合性に乏しいとも言えます。

 しかし、濫用ということについて、警察だけがはしゃいで捜索や逮捕ができればいいんだと考える場合はともかく、被疑者に有罪判決を受けさせることまで意味するとしますと、裁判官まで含めて濫用しないと、濫用の目的(?)が達成できません。
 
 裁判官までもが濫用に加担する社会または社会情勢というものはどういうものか、ということを考えますと、ことは共謀罪法案の成立の有無だけの問題ではないように思うのです。


 検察や裁判所というところは、多くの方が思っているほど警察権力や行政権力と近くありません。
 距離を置くことができます。
 なぜかと言いますと、形式的に身分保障が強力なだけでなく、実質的にも潰しが利くからです。
 つまり、辞めても弁護士ができます。
 これが検事と判事の実質的自由を保障しています。
 ほんとにほんとの実質的意味では辞めるにはそれなりの覚悟はいりますけどね。
 弁護士稼業はそれほど甘くはありませんから。

 ところで、警察限りにおいて濫用的な逮捕や捜索をするだけでも深刻な問題が生じるという指摘がありますが、この点については長くなりましたので別エントリで考えたいと思います。

追記
 大林刑事局長が空気嫁状態ですね。
 保坂展人のどこどこ日記(目配せからまばたきへ、共謀罪審議で驚愕答弁)

さて、30分行った法務委員会の質問で、思わずのけぞるような答弁が出た。以前のやりとりで「目配せでも成立する」と答弁した大林刑事局長に対して、「その答弁は変わりはないですね」と確認しようとした時に飛び出したもので、「目配せだけでは成立しない」と言い続ける刑事局長に対して、「法務省が前提に置いている団体要件をクリアして、いわば犯罪集団としてスタンバイしている場合は、どうか」と追及すると「ありえないとはいえない」と答弁。次の問いに対して「共謀というのは、まばたきやうなずくという行為でも成立する」と言い出したのだ。

 これに対して保坂氏が

おいおい、「目配せ」は意思表示行為で「まばたき」は生理現象だぞ。

と突っ込んでおられますが、さすがにまばたきじゃ無理でしょう。
 法案を通す気があるのか疑問と言われても仕方がないですよ。

Tag :
| コメント(11) | トラックバック(2) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

トラックバック(2)

徒然なるままに@甲斐田新町 - 腹立たしき『共謀罪』 其の伍 (2006年5月16日 19:20)

 共謀罪の審議が紛糾している。 続きを読む

さて、一回繰り延べになってしまいましたが、共謀罪の恐ろしさについてロールプレイ形式で演習してみましょう。私思うに、この共謀罪の恐ろしさは「誰にも何も話をで... 続きを読む

コメント(11)

>矢部先生
 詳細な応答をいただき、ありがとうございます。
 「飲み屋で『あの上司、ぶっ飛ばしてやる』などと冗談を言い合えば共謀罪成立」などというトンデモ論を真に受けるつもりはありませんが、共謀罪が現行の刑事法体系を大幅に書き換えるものであることにもう少し留意する必要があるのではないかと、素人ながら常々考えておりました。私の疑問がまったくの的外れではなかったことを知り、モヤモヤした思いが晴れた気がしております。

 「共謀罪の適用においては、共謀共同正犯の場合に比してより具体的な共謀が認定される必要がある」とのご見解は、まったくおっしゃるとおりだと考えますし、捜査機関は(元々検察官として捜査実務に携わっておられた)先生のご見解と同様の慎重さをもって共謀罪の運用を考えていると信じたいところです。
 しかしながら、現行の共謀共同正犯における共謀概念と、新たに規定される予定である共謀罪における共謀概念には規定上の区別がないので、「かなり柔軟に解釈」されている現行の共謀概念がそのまま共謀罪の運用において用いられる可能性は拭い去れない、もっと言えば、現行法との整合を重視する立場からみれば、規定上具体的な区別がない以上、共謀共同正犯における共謀と共謀罪における共謀とを区別して運用する理由はなく、共謀罪における共謀も「かなり柔軟に解釈」されるべきであるという考え方が主流を占めてもおかしくはないのではないかと危惧する次第です。

 また、「物証がまったくなしで共謀を認定するのは慎重であるべき」というご見解も、まったく同意するところではありますが、共犯者の自白のみに基づいて被告人に有罪判決を下しうる(最判昭和33年5月28日)、また共犯者2名以上の自白によって被告人を有罪にしてもよい(最判昭和51年10月28日)といった従来の判例に照らしますと、共謀罪だけが、何の規定もないのに「共犯者の自白以外に何らかの物証が必要である」とされるとは考えにくいのではないでしょうか。

 なお、「反対論が指摘するような事例をもし片っ端から起訴したら、公訴権濫用を認める判決が続出するのではないか」とのご見解についてですが、実際には、水俣病患者である被告人がチッソ社長との面会を求めて押し問答しているうちチッソ社従業員に傷害を負わせたという「チッソ川本事件」においてすら最高裁は公訴権の濫用を認めなかったこと(最決昭和55年12月17日)を考えれば、公訴権濫用に対する裁判所のコントロールにはあまり期待できないように思われます。

 以上、僭越にも批判めいたことを書き連ねてまいりましたが、「酔って『あの上司を殴ってやる』などと気勢をあげれば検挙」などといったトンデモ論や、「自分と政治的主張が異なる団体が反対しているから自分は賛成」などといった風見鶏的な主張が多い中、捜査実務・裁判実務のご経験に立脚した先生のエントリーはまことに貴重であり、共謀罪に関する論陣を張る全ての者が読むべきであると確信いたしております。

an_accused さん
>共謀罪における共謀も「かなり柔軟に解釈」されるべきであるという考え方が主流を占めてもおかしくはないのではないかと危惧する次第です。(1)

>従来の判例に照らしますと、共謀罪だけが、何の規定もないのに「共犯者の自白以外に何らかの物証が必要である」とされるとは考えにくいのではないでしょうか。(2)

>公訴権濫用に対する裁判所のコントロールにはあまり期待できないように思われます。(3)

 以上のご指摘はいずれも的を射た指摘ですが
 (1)については、別エントリで引用された最決平成15年5月1日は一般化できないまたは一般化すべきでないと考えています。
 この問題は(2)と同様、事実認定における自由心証の問題ですが、共謀罪が処罰範囲の拡張であることを直視して、裁判所に対する慎重審理を求めたいという私の希望が反映した意見に過ぎません。
 言い換えれば日本を法治国家たらしめている司法に対する信頼に対して裁判所が応えてほしいという願望の表れです。
 (3)についても、下級審レベルにおける判断が積み重なれば最高裁としても無視できないのではないかという一種の楽観論に基づく願望込みの意見です。
 権力濫用論に対して楽観論で答えるのは完全な的外れの論であることは重々承知しておりますが、楽観論というのは言い換えれば諦めない論のことであり、それを支えるのは権力の濫用は許さないという国民の声であると考えています。
 その意味でも、マスコミはもっと共謀罪法案について批判的意見を述べるべきだと思います。
 仮に共謀罪法案が成立するとしても、その過程で叫ばれた批判は必ず牽制球として意味を持ってくると思います。


初めてコメントを書かせていただきます。

判例が挙げられているように、起訴や有罪という司法の手を煩わさなくても、警察が恣意的に逮捕拘留できると推測でき、実際に無罪を勝ち取っても痴漢冤罪のように、社会的には逮捕拘留だけで抹殺されてしまいます。
不起訴・起訴猶予・無罪などが確定した時点で、その人の社会的地位他が回復されるのであれば、これほど騒がれないと思います。

痴漢冤罪もそうですが、ビラをポストに投函しただけで逮捕拘留できちゃいますからね。
我が家は嫁さんが国の人なので官舎にいますが、政治的なチラシは選挙前の主張だけで、普段は不動産や飲食、美容院などが殆どで、速攻資源回収ゴミです。
ゴミ回収はいい迷惑なので、こっちを....は余談でした。

友人のサイトで、道交法違反で免許証を警官に「手渡さなかった(提示はした)」だけで、逮捕された生々しい録音があります。
http://members.aol.com/kota2hiroyuki/
コンビニ前で立ち話→警察が来て職質→警察に非協力的→犯罪行為の相談をしていただろう?とでっち上げで逮捕拘留→自白強要
という流れが絶対ないとはいえないわけで、そういった疑問や不安などを払拭させないと国民的には<警察権限の増大>と捉えられ、立法の方針とはかけ離れたものになってしまいます。

mixiに「警察大嫌い」というコミュニティがあり、警官が人を見下した態度で職質してきたことや、二人乗りバイクに自転車を投げつけて怪我をさせたなどの投稿がたくさんあります。
警察が国民の信頼を失いつつある中で、この法律がダメ押ししそうな、そんな予感がするのです。

>矢部先生
 改めてお答えをいただき、ありがとうございます。
 「権力濫用論に楽観論で答えるのは的外れ」と仰っておられますが、度を過ぎた悲観論や権力濫用論、陰謀論を信じる者には、何を言っても楽観論に聞こえるわけでして、楽観すべき充分な根拠がある場合には楽観論で応答しても何ら的外れではなく、聞く耳を持たない悲観論者のほうに問題があると考えております。

 さて、「概括的・確定的認識と認容、黙示的な意思の連絡という2つの主観的要件が充足されれば共謀共同正犯が成立する」とした最決平成15年5月1日(以下、「平成15年決定」という。)は、「『共謀』または『謀議』は、共謀共同正犯における『罪となるべき事実』に他ならないから、これを認めるためには厳格な証明によらなければならない」(いわゆる練馬事件大法廷判決。最大判昭和33年5月28日)とした従来の判断姿勢に比べると明らかに柔軟になっておりますが、この柔軟な判断姿勢は、大阪高判平成16年2月24日、最決平成17年11月29日(前記大阪高裁判決の上告審)でも維持されており、今後も続くことが予想されます。
 そう考えますと、私には平成15年決定が(リーディングケースとまでは言ってよいかどうかわかりませんが)今後の解釈指針として機能していくように思われ、一般化されないとは考えにくいと思われるのですが、如何でしょうか。

 「共謀罪が処罰範囲の拡張であることを直視して、裁判所に対する慎重審理を求めたい」という先生のお考えには、私も深く賛同いたします。

Nami3 さん
 コメントありがとうございます。

>警察が国民の信頼を失いつつある中で、この法律がダメ押ししそうな、そんな予感がするのです。

と指摘されていますが、私も国民の信頼こそが警察にとって最も重要であると考えています。
 目先のことだけを考えて、国民の支持を得られないような法適用をしたら、警察は(検察も裁判所もですが)自らの首を絞める結果になると思います。
 

an_accused さん
 最決平成15年5月1日も最決平成17年11月29日も、暴力団組織の拳銃所持の事案です。
 その意味でかなり特殊な領域のその領域固有とも言うべき事案に対する判断ですので、その射程距離については安易に拡張すべきでないと考えています。

>矢部先生
 再々のお答えをいただき、ありがとうございます。
 たしかに、暴力団という組織は、構成員相互の団結力の高さや上命下達の徹底ぶりといった点において特殊であると言えますし、他の領域における共謀の成立の当否については、それぞれの組織の性格や被告人の組織内における役割、共犯者相互の関係など個別的な事情に照らして判断していく必要があることはよく理解できます。

 これは下級審の判決なのですが、返済不能状態に陥っている企業への融資を実行し、特別背任の罪に問われた銀行頭取と副頭取について、「被告人両名は、それ以外の者が融資継続に反対意見を有する中、それぞれ融資継続の意思を有していることを互いに認識するに至っており、(...)少なくとも、本件各貸付当時において、その実行につき黙示の共謀があったと認めるのが相当である。」として、黙示の共謀による共謀共同正犯の成立を認めております(東京地判平成14年8月30日)。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/5583271E9AEA7ACD49256CFE001229FC.pdf

 既に参照している裁判例も含め、いずれの裁判例もごく最近のものばかりですし、今後の動向がどうなるかについて私は確たること申し上げられる見識を持ち合わせていませんが、やはり共謀罪を考えるには、共謀概念というものが「かなり柔軟な解釈」が行なわれうるものであることを念頭に置いておく必要があるように思われます。

※なお、上記判決文中に「被告人両名以外にも、本件各貸付の決定、実行に関与した者の存在が窺われるが、当裁判所は、証拠に照らし、検察官主張の公訴事実の範囲内で、判示事実のとおり認定したものである」とわざわざ書かれていることが興味深く感じられました。
 関係者供述の中に、免責的な取引供述があったのではないかといった邪推が働いてしまいました。

an_accused さん
 共謀罪法案において「共謀」という文言を使ったことから、共謀共同正犯における「共謀」とパラレルな解釈を当然視する結果になっているのが問題なように思います。
 それじゃあどんな言葉が適当かと言われるとなかなか思いつきませんが、もっと限定的な解釈を要求する文言である必要があるように思います。

 ただ黙示の共謀と言っても、その前提として相当具体的な情報と状況認識を共有しているからこそ黙示の共謀が認定可能なのであり、いつでもどんな状況でも黙示の共謀が認定できるとは言えません。
 それなりの歯止めはかかると思います。
 それなりの歯止めで十分かが問題であるわけですが。

>矢部先生
 国会審議における政府答弁を聞く限り、政府は現行の共謀共同正犯における「共謀」と共謀罪における「共謀」を区別している様子はなさそうですね。法案審議過程における政府見解に司法は拘束されませんから、両者を区別する解釈を司法が行なう可能性がないわけではありませんが、あまりなさそうな気がします。

 さて、最決平成17年11月29日の原審である大阪高判平成16年2月24日について、次のような評価があります。
(引用開始)
 原判決(引用者注:大阪高判平成16年2月24日)の審理においては、「親衛隊(引用者注:被告人の組内の警護組織。一審ではその存在を否定。)に属していたと自称する」者の検面調書を新たに証拠採用した。これには、親衛隊の活動及びこれと被告人の関係の詳細が述べられている。(...)それが信用できるものであれば、原原判決と原判決とで認定が異なったことも充分理解できる。しかし、その供述者は、原原判決後に自ら捜査機関に接触してきた者で、前記調書作成後に逃亡したため、公判廷で出頭・供述できなかった者である。しかも、D会(引用者注:被告人の組)を出奔して被告人の失脚をねらっていたグループの一員とされ、供述内容も他の証拠、証言と矛盾するところも多かった。したがって、このような者の供述に信用性を認めることはできないはずである。原判決もその点について配慮を示してはいるものの、原原判決との事実認定の異同を検討すると、実質的には前記調書の影響を大きく受けていると考えざるを得ず、「共謀」の認定に合理的な疑いが残る。
(島伸一「共謀共同正犯に関する最高裁判例の新展開」法律時報78巻3号)
(引用終わり)

 「合理的な疑いが残る」かどうかは他の証拠群に照らしてみないことには何とも言えませんし、ひとによって判決の評価は異なると思います。ただ、前記論文を読み、供述と供述がぶつかり合う状態というのは検察にとって危険であるだけでなく、(立証責任の度合いが全く違うとはいえ)被告人にとっても充分危険であるということに気付くとともに、供述に大きく依拠する「共謀」というものの危うさを改めて認識した次第です。

 検察官が全ての犯罪構成事実について立証責任を負っていることからしますと、供述と供述がぶつかり合う状態というのは原則的に検察にとって危険なのですが、最決平成17年11月29日で最高裁が共謀を認めたことの理由の一つとして、最高裁が国における自らの位置づけをどのように考えているかということも影響していると考えています。
 この問題は軽々しく書くととても大きな誤解を招くおそれがありますので、機会があれば慎重に書いてみたいと思います。

>矢部先生
 示唆に富むコメントをいただき、ありがとうございます。
「最高裁が国における自らの位置づけをどのように考えているかということも影響している」というご見解について、感じたことを少し申し上げてみたいと思います。

 元判事である木谷明氏は、その著書『刑事裁判の心〔新版〕−事実認定適正化の方策』(法律文化社)の中で「社会秩序に軸足を置く裁判官は、真犯人を取り逃さないようにするため、『合理的疑い』の範囲をできるだけ狭く解釈しようとするのに対し、無辜の不処罰を重視する裁判官は、『合理的疑い』の範囲をやや広めにとろうとする。」と述べておられます。

 検察官から刑罰権発動の請求を受けて、その請求が合理的な疑いを差し挟む余地のないほど充分な根拠に基づいているかどうかを審査することが裁判所の任務であることを考えると、裁判所が審査にあたり最も重視すべき価値は「無辜の不処罰」ということになります。もしも、裁判所が自らの「統治機関としての役割」を重視するあまり、「社会秩序の維持」を「無辜の不処罰」よりも上位に置いてしまうと、検察官の立証に多少甘さを感じたとしても“思い切って”有罪判決を書いてしまい、結果として裁判所がその職責を充分に果たせず無実の者を処罰してしまうといったことになりかねません。

 大阪高判平成16年2月24日を書いた大阪高裁とその判決を是認した最高裁は、暴力団事案の審理にあたり「統治機関としての役割」を強く意識し、「合理的疑い」の範囲をずいぶん狭く解釈したということではないでしょうか。

 以上、匿名の素人の地位を利用してやや軽々しく申し述べてみましたが、法曹たる地位におられる先生が言葉をお選びになるのはよくわかります。いずれかの機会に、この問題についてご教示いただければ幸いです。

勉強になりました。ありがとうございます。
>と突っ込んでおられますが、さすがにまばたきじゃ無理でしょう。
これは、共謀共同正犯について、黙示の共謀が認められた事例があると説明したかったらしいですよ。

nami3へ
>ビラをポストに投函しただけで逮捕拘留できちゃいますからね。

迷惑ビラ対策で、「ビラ投函お断り」の掲示板を作り、投函を見つけた住民や管理人が何度も「警告とビラの回収」を要請しても、ビラ投函を止めなかったので、とうとう警察沙汰になった事例のこと?

法律相談へ

ブログタイムズ

このエントリのコメント