エントリ

罪重いが生きたい 山口母子殺害の元少年被告(gooニュース 2006年 6月15日 (木) 19:36)

 山口県光市の母子殺害事件で、殺人罪などに問われ1、2審で無期懲役(求刑死刑)を言い渡された男性被告(25)=事件当時(18)=が20日の最高裁判決を前に「罪は重く極刑以外ないが、生きたい。悪人のまま終わりたくない」と話していることが15日、関係者の話で分かった。被害者の遺族に謝罪の手紙を書き続けているという。

 被告人が上記のニュースのとおりに話しているとしますと、被告人は極刑つまり死刑を覚悟しているようです。

 ところが、弁護人は傷害致死を主張しています。

 弁護人が傷害致死を主張するということは、被告人が殺意を否認していることが前提になっているはずです。
 しかし傷害致死であるならば、たとえ被害者が2名であったとしても死刑は考えられません。
 傷害致死なら死刑が考えられないということは、被告人も当然知っているはずですから、殺意を否認している人間が極刑を覚悟するなどということはおよそ考えられません。

 本当は殺意はなかったんだけど、証拠上殺意を否認することは無理なので諦めから極刑を覚悟する、ということも理屈的には考えられなくもないのですが、死刑が問題になっている場面でそうそう諦められるものとは考えられませんので、この想定は現実問題としてはありえないと思います。

 とすると、「罪は重く極刑以外ないが、」という被告人の言葉と殺意を否認する弁護人の主張は全く整合しなくなってしまいます。
 整合しないということは、弁護人の主張の説得力を大きく減殺するということです。

 いったいこれはどういうことなんでしょうか。
 
 「関係者の話で分かった。」とのことですが、この関係者というのは誰のことでしょう。

 このニュースは、最高裁の差戻判決前の時点で報道されていますが、そのような時点でこのような情報をマスコミにリークして報道させるというのは誰のどのような意図からだったのでしょう。

 よくわからないニュースです。

 ところで、判決後の6月21日付けの朝日新聞には、弁護側のコメントして

 被告が自己の行った事実と向き合い、反省と償いの気持ちを更に深め、生きて償うことが認められるよういっそう努力する。

というコメントが掲載されていますが、最高裁であれだけ明確に殺意を認定されていながら、つまり傷害致死の主張を排斥されていながら、弁護人はこれからも傷害致死の主張を維持するのでしょうか。

 そしてそのことが、「被告が自己の行った事実と向き合い、反省と償いの気持ちを更に深め」ることに繋がる、または繋がると評価されると考えているのでしょうか。

 弁護人の弁護方針は混乱しているように見えます。

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コメント(81)

前段については素人だから罪名の話にこだわらす反省の意として話しているとしてそんなにおかしくないとも思います.別の言い方をすると殺意を否認しているがそれを裁判所が理解しない事を覚悟しているという意味ではないでしょうか.

「関係者」は巨大掲示板によるとボランティアの坊さんが接見してるらしいです.
仏教では殺生禁止なので当然死刑反対なのでしょう

これもTV映像でありましたが、僧侶らしき男性(宗派等不明)2名と
カウンセラーのような女性1名が加害者と接見した人間として、
記事にあるようなコメントを伝えていました。

このうち男性2名はただコメントを伝えるだけでしたが、
女性は加害者である元少年の聖書を見せ付けるように置く等の態度や発言に
疑問を感じたとコメントしていました。

一部で報道されたようですが、謝罪の手紙も第一稿は
弁護団にダメ出しをされ書き直したそうです。
「マスコミにリークして報道させるというのは誰のどのような意図」
とモトケンさんがコメントされているように、加害者本人ではなく
その加害者に入れ知恵をしている人間はいるのかもしれません。

で、これは弁護方針等のテクニカルな問題についての意見ですが、
被告人の利益になるような指導や行為の修正について
ある程度までは弁護士にも許されるのでしょうが、
そもそも加害者の望まない無権代理のような主張を弁護士が行い、
依頼人の加害者に不利益な結果を招いたとしたら、
弁護活動は失敗だったと判断せざるをえないでしょう。

まぁ、弁護士は慎重に選ぶべきだ、という月並みな結論にはなると
思いますが。

「罪は重く極刑以外ないが、」は、やはり、たとえ法律の素人でも殺意を否認しているのなら出てくる言葉ではないでしょう。まして言った本人が死刑を求刑され最高裁まで争っている被告人であるなら、傷害致死が「極刑以外ない」はずはない事くらいは理解しているはずですし(最高裁判決前の発言であるようですから、弁護士から傷害致死が通れば死刑は回避できることは事細かく説明を受けているはずでしょう)、死刑判決が出るかもしれない判決前に被告人の発言であって、一般人が一般論として、そう言う表現で反省を現した、と言うのとはまったく状況が違うはずです。問題はこの関係者の話なるものがどこまで言葉の表現まで正確に伝わっているものなのかと言うことでしょうが。

弁護活動に対するそのような認識はどうかと思います。

刑事裁判においては、たとえ被告人が「私が殺しました」と言い、その主張を公判中維持したとしても、それが真実でないなら無罪になる訳で、弁護人としては被告人の主張に反しても、真実を追究するのがあるべき道です。

ましてや、「罪は重く極刑以外ない」という反省の弁をとらえて、「だから弁護人は傷害致死を主張すべきではない」と言うのは、論外と言えましょう。

今回の裁判での弁護人の傷害致死の主張が無駄、無意味であるという結論は正しいと思いますが、そこに至る理由は間違っていると思います。

被告人が殺したといっているのに、他の証拠から違うことがわかるっていう、レアケースについては弁護人として被告人の主張に反することが認められるけど、
この場合、はそーゆーレアケースじゃないし。
普通のケースでは、被告人の言うことと弁護人の言うことが違ったら、すげー説得力なくなるから、それは弁護活動としてよろしくない、と評価できると思います。

被告人のコメントについてですが、宗教家の前で言った言葉をそのまま法律的に解釈するというのはどうかと思います。
「罪」の定義すら違うでしょうし、「極刑」だって「死刑」と言う意味ではなく、自分の為したことへの罪悪感の強さを表明する表現として使っただけかもしれません。
「殺意」だって、一般の感覚と、裁判上要求される認定事実とは違います。
「人間の腹を出刃包丁で刺す」という事実の認識と、「人殺し」は感覚的には別物です。
おまけに極限状態の人間は、思っていることと違うことを身体が勝手にやらかしたりします。
ただ、「別です」「思ってませんでした」という言い訳が法廷で通じないだけです。

人間の行動はその意思によりコントロールされている、というのが法律の前提ですが、事実は必ずしもそうとはいえない面があると思います。
だから宗教があるし、法律は宗教については1歩譲るシーンがある、と私はとらえています。
今回のコメントも、そのまま法律的に事実認定してしまうのは、どうかなあ、と思います。

ただ、そのような認定をされる危険が大きいコメントを何の手当もせずにそのままマスコミに流した、ということについては、やはり問題があると思います。

真実を追究するのは弁護人の仕事なんでしょうかしら
裁判所の仕事だとおもいます
むしろ日本では当事者主義メインだったら裁判所も
有罪か無罪かの判断だけすれば
必ずしも真実を全部判断する必要は無い
そこらへんをやってるから無駄に時間がかかると思います。
とにかく弁護人は被告人の利益だけ考えればいい
立証する人 判断する人が別にいて分業が成立してる
それが近代的な制度というものじゃないんでしょうか

強姦致死の最高刑は無期懲役なんですよね。(刑法181条)

なぜだか知らないけど、強姦致死なら何人殺しても(死なせても)死刑にはならない。

そして、強姦致死と殺人の違いは、殺意の有無にあるのだが、強姦という異常状態の中で、殺意が有ったか無かったかなんて、本人にもはっきりしないのが普通。
悪賢いものは、最後まで殺意を自供せず、死刑を回避する可能性を残すのに対し、騙されやすい者は、警官の誘導に乗って、殺意を自供し、供述書という死刑承諾書にはんこを押してしまう。(でも本当に殺意は有ったのか?)

昨日自宅に放火した16歳の少年も、警察は、知恵をつける前に、殺意を認めさせた。
ヤクザは死刑にならない。なぜなら、知恵があり、殺人ではなく、傷害致死になるように人を殺すから。

「強姦中の殺意」が本当にあったかなんて、誰も分からないのだから、弁護士が無駄を知りながら取り上げたとしても、それを認めるのが、「手続きの正当性」を担保することになると思うのだが。「手通の正当性」に価値を置きすぎか?

傷害致死も何人死なせても殺意がなかったから死刑にはならないのといっしょ、って事なんでしょうが、死刑と無期しかない強盗致傷と比べるとこの大きな差はどうなん?って気はしなくもありませんね。
ところでこの事件の場合、被告人側は(というか弁護士側と言うべきかもしれないが)、そもそも強姦致死も認めてないんですよね。あくまで甘えたくて抱きついたら手が滑って死なせてしまった。。。でも死後、遺体を陵辱したことは現場や遺体の状況から否定できないらしく、この部分は争ってない。つまり、被害者の生前はただ甘えたかっただけなのに、被害者の死後、なぜか突然、劣情が湧き遺体を陵辱した。でも死後だから強姦は成立しないよ、と。。。事前に用意した布テープや紐は甘えるために必要だったんでしょうかね??

×死刑と無期しかない強盗致傷

○死刑と無期しかない強盗致死

う。。。

日本の場合、アメリカ式の刑に刑が加算されていく方式を取らないので何人殺しても死刑にならないという不均衡が発生するのではないでしょうか?
傷害致死にしても強姦致死にしても、倍倍で刑期が増えていくようにするとか、常習的であると認めれば懲役100年とかすれば良いのでは?

無名人さん
>ましてや、「罪は重く極刑以外ない」という反省の弁をとらえて、「だから弁護人は傷害致死を主張すべきではない」と言うのは、論外と言えましょう。

 私は「傷害致死を主張すべきではない」などとを言ってませんよ。
 「整合してない」、「説得力がない」、「混乱している」と言っているだけです。
 その理由の一つとして、白片吟K氏さんが指摘しているとおり
 
>ただ、そのような認定をされる危険が大きいコメントを何の手当もせずにそのままマスコミに流した、ということについては、やはり問題があると思います。

という点があげられます。

 また、被告人の言葉を漏らしたのが接見した宗教家であるとすれば(仮定です)、極めて軽率と言うべきでしょう。

 はっきりいいまして、私には弁護団がいかなる理由によって死刑を回避しようとしているのかよくわからなくなっています。
 つまり、殺意を否認することによって死刑を回避しようとしているのか、殺意の存在を前提にして更生可能性などを強調して死刑を回避しようとしているのかはっきりしないのです。

 私が引用した朝日新聞のコメントでは、安田弁護士は、今回の判決について、本文で引用したコメントの前に

永山判決以降、裁判所が自ら示してきた基準を大きく逸脱して死刑の適用を積極的に認めようとするもので不当だ。

という批判もしていますが、この批判は殺意の存在を前提にしている批判です。
 殺意の存在を前提にしないならば、永山判決を持ち出すまでもなく、持ち出すとしても「基準を逸脱」などと言うまでもなく当然に、死刑判決の不当性を主張できます。

 弁護人としては、「仮に殺意を認めるとしても」という仮定のもとにコメントしたのかもしれませんが、そのような仮定主張ははなはだ一貫性と迫力を欠くものであり、なんのために、またはどの程度の確たる根拠をもって殺意を否認したのか、私にはわからなくなっています。

 ところで、

>そして、強姦致死と殺人の違いは、殺意の有無にあるのだが、強姦という異常状態の中で、殺意が有ったか無かったかなんて、本人にもはっきりしないのが普通。

という無名人さんの指摘は必ずしも間違ってはいないと思いますが、殺意の認定というのは被疑者が「殺すつもりだった」と供述をしたから認められ否認したなら認められないというものではありません。
 たとえ殺意を否認したとしても、凶器やその使用方法、遺体の損傷状況などの客観的な証拠や供述内容を総合して認定されるものです。

>コメさま
傷害致死と死体損壊なら、どう転んでも死刑は適用されません。弁護側はまず死刑回避ありきで罪名を選び、後から理屈をくっつけたように感じます。その理屈に世間がどうあきれようが関係なかったのでしょう。死刑回避最優先ならそれも当然でしょうが、さすがに強姦まで否定するのは無茶でしたね。
二人の殺害は犯行を完遂するための手段としてなされたもので偶発的なものではない、と最高裁判決が断じていたのにはわが意を得たりと思いました。

モトケン殿

質問です、貴殿が今回の被害者の遺族であった場合、どのような行動を取るのでしょうか。または、どのようなことができるのでしょうか。
その場合、裁判にどのような判決を望んでのことでしょうか。
具体的に教えてください。
もしもの時の参考にしたいと思います。
宜しくお願いします。

山元 さん
 あまり考えたくないご質問ですね。
 それに、私の答えは参考にはならないと思います。
 とても個人的な問題になるでしょうから。

 何を考えるかと言えば、本村 洋氏と同じようなことを考えるかもしれません。
 どのような行動を取るかとは逆の問題として、たぶん私は刑事弁護をできなくなるでしょう。
 検事のときも同じようなことを想像して、そうなったら検察官の仕事はできなくなるだろうと考えていました。

 たぶん、犯罪者を冷静に見ることができなくなるでしょうから。

「法律に触れなければ何をしても構わない」
・・・ライブドアのやり方に関して集まった批判ですよね。

犯罪者の弁護に関しても、同じようなモラルのない考え方があるようにしか
思えません。

もちろん弁護士の職業柄、全力を尽くしていくのは至極真っ当なことでしょう。

ただそれが合理性に欠けたものであったとしたら、これは弁護士に対する国民の
信頼を裏切ることに繋がるように感じます。

・「強姦目的じゃなく、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱きついた」
・「大声を出されたので口を塞ごうとして、残念な事に誤って首に手が行ってしまった。」
・「性行為も弥生さんが死んだ後に行われたため強姦には当たらない。」
・「赤ちゃんも殺そうとしたんじゃなく、泣き止ませようと紐で首に蝶々結びしよう
 としただけ。」

このような屁理屈を主張し、しかも被害者遺族であれば(たとえ他人でも同じかも
しれませんが)目を背けたくなるような「絵」まで示して反論する様は、もはや
「狂気の沙汰」としか言いようが無い。

さらに最高裁判決後のコメントとして、以下のように述べている。

・「被告が自己の行った事実と向き合い、反省と償いの気持ちを更に深め、生きて
 償うことが認められるよういっそう努力する。」

先に挙げた屁理屈が事実だったとしたら、犯罪者はいったい何を反省するのでしょうか。

・甘え方には気をつけよう。
・口を塞ぐときには首を絞めないように気をつけよう。
・遺体を粗末に扱わないようにしましょう。
・赤ちゃんに蝶々結びをするときには、締めすぎないように気をつけよう。

こういう反省でしょうか。
馬鹿げた意見だとは承知してますが、誰に対する人権派なのかわからない弁護士の
主張を真に受けると反省点はこれぐらいしか思いつきません。

少なくとも僕が司法に寄せる期待は、決して重い刑罰を与えよということでも
刑罰を軽くしろということでもなく、法治国家の国民として法を信頼していく
うえで、犯罪者が犯した結果に対して適当と思われる判断を下してほしいと
いうことです。

何人以上殺さないと死刑にならないだの、殺人の計画性がなければ(たとえ犯罪の
計画性があっても)死刑にならないとか、強姦致死なら死刑にならないなどのことは
法律に詳しくない大多数の国民には関係ないことなのです。

僕的には、かけがえの無い命と未来の可能性を奪った犯罪者には、端的に言えば
同等の報いがあってしかるべきだと思います。

無くなった人権や未来の可能性よりも、たとえそれを奪った犯罪者だったとしても
生きている以上はその人権や未来の可能性のほうが大事だというのでは、到底
納得できるものではありません。

こんな誰に対する人権派なのかわからない弁護士の詭弁が罷り通るような恐ろしい
世の中になってほしくはないものです。

昔の人の話で、「本当に良い政治というのは、人々が政治のことが気にならない政治だ」
ということを言っていたというのを聞いたことがあります。

これは司法制度でも同じではないでしょうか。

犯人ではないと主張している人を犯人扱いして死刑にしてしまえという論調にはさすがに
賛成しかねますが、屁理屈をこねたり精神障害者扱いにしてまで犯罪者の刑罰を軽く
しようとしていては、それこそ司法はいいから「仇討ち」を認めてくれという話にも
なりかねません。

法律に関してはド素人なので、感情的な部分は否定しませんが、この事件に限らず
他の事件でも弁護士の言っている理屈には納得できないことが多いです。
少しでも刑罰が軽くなればいいとしか考えてないように思えてなりません。
※それが弁護士の仕事だというのでしょうけど・・・。

日弁連の機関紙のタイトルが「自由と正義」でしたよね?

誰に対する人権派かわからない弁護士を筆頭に、他の事件でも理解しえない弁論を
展開する弁護士がいるというのに「正義」とはいったい何なのかと思ってしまいます。

もし少しでも刑罰を軽くすることが「正義」だとするのなら、世間一般の考える
「正義」とはかけ離れているのではないでしょうか。

弁護士をされているモトケンさんには失礼なことを書きましたが、愚かな一般市民
ながらもどうしてもこの弁護士の所業が許せなくて書いてしまいました。
御気分を害されたとしたらお許し下さい。

私も法律論の語れない素人ですが、時として法の理不尽さを感じることがあります。
被害者のご遺族の本村さんは、またいつ終わるとも解らない戦いに向き合っていかねばなりません。
ご自分の中で納得した結果が出ない限り、人生をリセットできない苦しみ。
味わった者でしか決して理解できない苦しみでしょう。
私の言いたいことは、鍵括弧乃鷹さんがすべて書いておられます。
一体被害者を何だと思っているのでしょうか・・・。安田弁護士がご自分の家族がこのような悲惨な目にあわされたら、あのように加害者を弁護できるのでしょうか・・・。
弁護士という職業だからというのは分かります。分かりますが、でもでも納得できません。そんな弁護士なら私は決してなりたくありません。
私も感情的になりました、すみません・・・。

鍵括弧之鷹さん
 コメントありがとうございます。

>少しでも刑罰が軽くなればいいとしか考えてないように思えてなりません。

 私としましては、なんでもかんでも刑が軽くなればいい、無罪になればいいとは思っていませんが、被告人に最大有利な裁判を目指すのは弁護士の仕事であることは間違いありません。
 ただし、どのような裁判が最大有利かについては微妙に見解の相違はあろうかと思います。
 特に、死刑求刑事件においては、死刑回避が弁護人としての最大の仕事と言ってもいいかもしれません。

 しかし、弁護人の仕事はあくまでも主張と立証にとどまり、その当否の判断は裁判官の仕事です。
 つまり、弁護人がいかに被告人のためにと考えたとしても、不自然、不合理、非常識、道理に合わない、客観証拠と整合しない主張・立証は、結局裁判官の採用するところとはならず、無駄なばかりでなく場合によっては逆効果(被告人に不利)になります。
 弁護士(であろうと検察官であろうと)の詭弁がまかりとおることはほとんどないと思います。

 すなわち、有効でも適切でもない弁護活動の最大の被害者は被告人ということになります。
 裁判官がまともな判断をしている限り、私を含めて外野が腹を立てる必要はありません。
 ただし、不相当な裁判の長期化を来しますと、外野としても黙っているべきではないと思います。

シャランポラン さん
>安田弁護士がご自分の家族がこのような悲惨な目にあわされたら、あのように加害者を弁護できるのでしょうか・・・。

 先のコメントでも書きましたが、自分の家族がこのような悲惨な目にあわされたことがないから弁護ができるのだと思います。
 これは私を含めての意見です。
 繰り返しますが、被告人の利益を守るのが刑事弁護人の仕事です。
 そしてこれは、司法制度の運営の観点から極めて重要かつ不可欠の仕事です。

 ただ、私の見るところ、本件の弁護団の弁護活動は奏効しているようには見えません。
 そこは問題です。

モトケンさんの言い方は誤解を招く表現で、その言い方だと「弁護士は被害者の立場に立ってものを考えることができない無責任な人種だ。」
というような印象を与えてしまうと思います。

私は、弁護士の義務として、例え自分の家族がそういう目にあったとしても、心を鬼にして被告人の利益を追求しなくてはならないものだ。
そして、自分の家族がそういう目にあって、被告人の利益追求が出来なくなったのなら、刑事弁護は引き受けてはいけない。
弁護士というのは、それくらい厳しい職業なのだ。

と、これくらいの言い方をしてもいいのではないでしょうか?
弁護士という職業に、すこし理想を求めすぎですかね?

>モトケンさんの言い方は誤解を招く表現で、その言い方だと「弁護士は被害者の立場に立ってものを考えることができない無責任な人種だ。」

 どこがそう読めましたか?

私が、そういう読み方をしたという意味ではありません。

「自分の家族がこのような悲惨な目にあわされたことがないから弁護ができるのだと思います。」

この表現が、そういう風に曲解されてしまう恐れがあると思ったのです。

モトケン殿

ご返事ありがとうございました。

>それに、私の答えは参考にはならないと思います。
>とても個人的な問題になるでしょうから。

個人的な問題だからこそ貴殿のコメントは参考になります。
(司法に携わる方々の)真意が伝わります。
人それぞれですが、本当にそれぞれなのか。それが分かるだけでも意味があります。

私は、貴殿が判決に対し細かく分析されていることから、被害者の立場になれば現在までの経験が何か良い方向へ結びついているのではないか、と思い質問をさせていただきました。

しかし、もしもの話とはいえ的確なコメントではなく、残念でした。

>犯罪者を冷静に見ることができなくなるでしょうから。

この言葉を真意とするならば、前文を断定していただきたかったです。


>あまり考えたくないご質問ですね。

今回のような理不尽な裁判を、言葉遊びの題材にしているのでしょうか。
企業のサイトではなく単なる個人のブログですよね。
個人の見解をだされてもよろしいのではないでしょうか。


とても残念です・・・

モトケンさん、ご返事ありがとうございました。

質問があります。

>被告人に最大有利な裁判を目指すのは弁護士の仕事で
>あることは間違いありません。

元は検察側におられたモトケンさんにお聞きしたいのですが、
検察側は被告人に最大限不利なように主張を展開していくの
でしょうか?

さらに言えば「なりふり構わず」被告人を陥れようとする
のでしょうか?

お教え頂きますようお願いします。

>鍵括弧之鷹さん

>検察側は被告人に最大限不利なように主張を展開していくの
でしょうか?

 検察官には、「客観義務」というものがあります。

>さらに言えば「なりふり構わず」被告人を陥れようとする
のでしょうか?

 失礼ですが、鍵括弧之鷹さんはおいくつでしょうか。
 それとも私の検察に対するスタンスを大きく誤解なさっているのでしょうか。
 自分で言うのもなんですが、はっきり言いまして、このブログ開設以来、最もぶしつけかつ失礼な質問に読めます。

 私は、被告人を陥れようとする検事など、一人もいないと信じています。

モトケンさん、早速のご返事ありがとうございます。

今回の質問はモトケンさんを批判したいわけでも、
検事を批判したいわけでもなく、以下に述べる理由で
疑問を感じたことを確認したかったために挙げさせて
頂きました。

僕の文章の稚拙さのためにご気分を害されたことを
お詫びします。
※ちなみに年齢は30代後半になります。

なぜ今回のような質問をしたかと言いますと、質問にも
引用させて頂いた以下の文、

>被告人に最大有利な裁判を目指すのは弁護士の仕事で
>あることは間違いありません。

これはモトケンさんだけのご意見ではなく弁護士の
一般的な立場であることも承知しているのですが、
正直なところこの文を読んだとき、弁護士の立場が
最大限被告有利に進めようとするのは、僕は検察側は
客観的な事実に基づいて適正な刑罰に処すように裁判を
行っているという認識を持っていたのが間違いで、
実際はどんな理不尽な主張をしてでも最大限被告が
不利になるように裁判を進めているのかという疑問を
感じたからでした。
※僕の知っている限りでは、検察側の求刑は軽いと思う
 ことはあっても重いと感じることはあまりなかったの
 ですが・・・。

つまりバランスをとるためには、弁護士は僕からすると
理不尽な主張をしてまでも被告の弁護をせざるをえない
のだろうかという疑問に繋がったのです。

今回の御返事で検察側は客観義務があるということを
お教え頂いたので、僕の今回抱いた検察側に対する
疑念は払拭されたのではないかと考えます。

そうすると検察側が客観的な事実で裁判に臨んでいるのに
対して弁護士が被告に偏った弁護をすることは、裁判を
公平・公正でバランスがとれたものになるうえで問題は
ないのでしょうか。

別の弁護士サイトで「テミスの目隠し」の話を教えて頂いた
のですが、その弁護士の方は弁護士が公平になるのは無理
だとおっしゃっておられました。

検察側にとっても「公平」は無理なのでしょうか。

もし検察側が「公平」という視点を持っているのであれば、
弁護士にも「公平」という視点を持つ必要があるように
感じますがいかがでしょうか。

司法に関してはド素人なので、またぶしつけな質問になった
かもしれませんが、お許し下さい。

横レスですみません。
私も法律の素人です。

検察は公平だと私は信じてますし、無実である被告を陥れる必要性もありません。

裁判で直接対峙しているのは、検察と被告であって、弁護人は法律の素人、あるいは拘束中で十分な準備ができない被告のサポートをするお立場かと思います。(法律家が犯人の場合でも十分な主張をするためには、弁護人がいた方がいいですよね)

検察は、あくまで公平な立場から犯人と判断した被告に、法律に基づく必要かつ十分な罰を受けさせるために起訴することになりますので、被告が検察の主張を完全に認め、量刑も争わない場合を除いて、被告のサポートをする弁護人が被告ではなく検察官と同じ立ち位置にいては裁判にならないですよね。そういう意味で弁護士が公平になるのは無理といっておられたのではないでしょうか。

逆にこの言葉も、検察官が公平であるということの裏返しではないかと思います。

また、弁護士も、被告が法的知識がない、又は拘束中のために、十分にいいたいことがいえなかったということを無くすという点において、公平な裁判に貢献しているのだと思います。

じじいさん、横レスありがとうございました。

おっしゃられることは非常によくわかりました。

僕もああいう質問を投げかけたものの、実際は検察側が
無理矢理被告を不利にしようとしているとは考えては
おりませんでした。

検察側は客観的に公平に事件を捉えているのに、
弁護側が主観的に偏った見方をして、はたして公平な
裁判は行えるのか、要は弁護士も公平さ(そのサイト
での僕の意見は、公平を「モラル」に置き換えました)
を持った主張をしないといけないのではないかと
言いたかったわけです。

先日の奈良女児殺害事件の弁護では、
・『死刑にしてほしい』という被告の言葉は、死を持って
 償うという反省の気持ちの現れ
・社会が反社会性人格障害をもたらし、犯行に至る主要な
 要素をつくった
・被害者は1人で、一般予防的な意味で死刑とすべき
 理由は特にない
等々、社会に責任転嫁したり、1人しか被害者がいない
のに死刑なんて、とでも言わんばかりの主張など、
おおよそ「公平」という視点からかけ離れたとしか
思えない主張を展開されてしまうと、僕からすると
「なりふり構わず」「モラルもなく」というように感じて
しまいます。

裁判員制度というのがどういうものなのか知識もない
のですが、僕の大好きな映画「12人の怒れる男」の
ような陪審員制度と同じような感じなのであれば、
こんな弁護とも思えない主張を繰り返すのは、あまりに
被告にとっても問題だろうし、貴重な時間を割いて
出席する裁判員の方々に対しても問題があるように
感じています。

 一言指摘させていただきますが、
 検察官と弁護人とは、その実質的権限において決して対等ではありません。
 検察官は、強大な国家権力を用いて証拠収集(強制捜査)が可能ですが、弁護士にはそんな強制力はありません。
 この点を踏まえないと、状況認識を誤る恐れがあります。

鍵括弧之鷹様

「社会が悪い」は主張としてはいかがなものかとは思いますが、被告の主張に従う又は被告の主張と証拠の整合性を図りながら進めるために、弁護人の主張が一般的な感覚から離れてしまうのは仕方がないのかなと私は思っております。

光事件のように、法廷外(記者会見)で被害者やその遺族を傷つけたり、突然被告のこれまでの主張と整合性がないような意味不明の主張を展開したり、リハーサルごときで裁判をすっぽかすような弁護人の活動は論外ですが。仮に裁判員になった場合、仕事を休んで出廷して、弁護側の一方的な理由ですっぽかし戦術など取られると、ムカツクぐらいではすまないですよね。

私は、奈良の事件の被告が何を考えているのか理解できません。死刑を望むようなことをいったり、かといって反省の言葉はなく、犯行の態様と同じく人格の破綻も救いようがありません。

モトケン先生がおっしゃられるように、検察側が集めた証拠と、救いようのない被告の供述を頼りに弁護をしようとすると、両手を挙げて万歳するか、「なりふり構わない」ととられるような展開にならざるを得ないのかなと思います。それほど苦戦する案件なのでしょう。そのことで、公平でないと批判してしまうと、こんな犯人の時には弁護が成り立たないような気もします。

付け加えると、公務員であり、国の機関の一員として職務を行う裁判官と検察官、これに対し、私人であり、自己防衛のために戦う被告とその被告をサポートする私人である弁護士は自ずと立場が異なり、前者は客観性・公平性を当然に求められますが、後者は同じものを求められてはいないと思いますよ。

じじいさん、御返事ありがとうございました。

>モトケン先生がおっしゃられるように、検察側が集めた証拠と、救いようのない
>被告の供述を頼りに弁護をしようとすると、両手を挙げて万歳するか、「なりふり
>構わない」ととられるような展開にならざるを得ないのかなと思います。それほど
>苦戦する案件なのでしょう。そのことで、公平でないと批判してしまうと、こんな
>犯人の時には弁護が成り立たないような気もします。

僕もこの「公平」のことを考えた場合、じじいさんのおっしゃられるように弁護が
成り立たなくなるのだろうというのは理解できるのです。

ただ、この弁論を展開している人が「弁護士」でなければ何の問題もないと思う
のです。

僕も詳しくはないのですが、弁護士法の第1条に書かれている「社会正義の実現」
「社会秩序の維持」を使命としている立場の人が、そんなことでよいのかというのが
疑問なのです。

少なくとも依頼人の利益と「社会正義の実現」と「社会秩序の維持」に関しては
公平・公正な判断ができるのではないかと思うのです。
※弁護士は依頼人の利益を守るのが第一で、社会のことなどどうでもええねん!って
 言われてしまうと、これ以上何も言うことはありませんが・・・。

昨今見聞きする弁護士の主張は、「社会正義の実現」と「社会秩序の維持」は
どこに行ったの?と首を傾げざるをえないものが多く感じられます。
※山口の事件の「犯罪者人権派」の某弁護士の主張など、第1条も第2条も
 あったもんじゃないとしか思えない弁論を展開してますしね。

鍵括弧之鷹さん
弁護士だけが「社会正義の実現」を負っているわけではありません。
弁護人、検察、裁判官、この3つがそれぞれ仕事を分担して「社会正義の実現」と「社会秩序の維持」に務めているのです。
1つの分担部分だけを見れば公平でないように見えても、3つそろえば公平になるのです(という建前です)。
3つの部品が集まって、初めて「社会正義の実現」と「社会秩序の維持」という機械を動かす、という感じ。

だから、1つの部品が暴走して全体の機械の調子を狂わせたりすれば、他から文句が出ても不思議はないです。
でも、部品が動いていること自体は悪い事じゃないので、その辺の見極めが難しいところです。

鍵括弧之鷹様

弁護士の倫理の問題となると、弁護士ならざる身にして、そろそろお答えするのが限界に近づきつつありますが、最後の一絞りをしてみます。

弁護士には、真実を明らかにする真実義務と依頼人との信任関係に基づく忠実義務があるそうです。証拠の捏造や偽証は真実義務に明白に違反するというより違法ですので論外ですが、被告の防御権を援け、忠実義務に基づき被告の利益を図るためには、どこまでが許されるのか、簡単な問題ではないと思います。

真実義務を尊重するあまり、忠実義務を忘れてしまっては、被告の防御権を阻害することになり、かえって社会正義に反しますし、かといって忠実義務一辺倒で何でもありではこれもまた問題と、この辺のバランスの取り方だと思うんですが、この境界点の考え方が人によって異なるんではないでしょうか。

どこまでが「有り」なのかは、門外漢の身で見当はつきませんが、白片吟K氏 様のおっしゃるように、暴走するという事態にまで至らなければ、無理な主張は検察官に反駁されますし、裁判官の段階でスポイルされることも多いでしょうから、裁判制度全体としては社会正義に反しないということになるのでしょう。

ようは、被告に後から「私は裁判で不当に扱われた」などと言わさないようにするため、心ならずも被告の意に従い、主張を尽くさせるように頑張っておられると考えれば、少しは気が休まるというものです(笑)

安田弁護士いいと思いますよ。立派です。刑事弁護人の鏡ではないですか。
私はこの弁護士の言葉に耳を傾けたいですね。
私は医師ですが(監察医ではないのですが)、頚動脈左右二本を片手で圧迫して脳血流を断つことはそんなに難しいことではないと思いますよ。無我夢中で押さえつけているうちに誤って死に至らしめることもありえるのではと考えます。
子どものちょうちょ結びは正直よくわかりません。2審の判決文読むと、被告は子どもをあやそうとそれなりに腐心したみたいですけどね。でも、首を絞めて殺す、っていうのは、大方の人が思うような「ものすごい強い力」じゃなくてもできると思いますよ。その昔外国で5歳だか4歳児が赤子の首を絞めて殺すという事件もあったらしいですからね。
弁護士はあくまで被告の人権を擁護し、検事は正義を主張し、裁判官が両者の公正をはかる、とういうのではじめてバランスが取れるんじゃないですかね。ただこの3者の間に「遺族」という立場が主体的なものとして存在しないから不満がでてきてるんでしょうね。個人的には「遺族」の癒しは刑事罰と別のところで慮られるべきだとかんがえますけどね。国は「遺族」の「癒し」と「補償」を早急に整えるべきだと思います.。しかし、それが整っていないのはなにも犯罪者の人権を擁護しているからではないでしょう。そこを摩り替えてはいけません。

>ばばあ さん

>弁護士はあくまで被告の人権を擁護し、検事は正義を主張し、裁判官が両者の公正をはかる、とういうのではじめてバランスが取れるんじゃないですかね。ただこの3者の間に「遺族」という立場が主体的なものとして存在しないから不満がでてきてるんでしょうね。

 ご賢察のとおりかと思います。
 遺族または被害者は刑事訴訟の当事者ではありません。
 しかし、遺族自身やマスコミは、刑事訴訟を遺族の報復感情を満たすための場と理解しているように思われます。
 法律論的に、そうではない、と論証することはたやすいのですが、現実に存在する深刻な被害感情、報復感情を無視することはできません。

 最近、修復的司法というものが強調されるようになってきました。(参考HP

>個人的には「遺族」の癒しは刑事罰と別のところで慮られるべきだとかんがえますけどね。国は「遺族」の「癒し」と「補償」を早急に整えるべきだと思います.。しかし、それが整っていないのはなにも犯罪者の人権を擁護しているからではないでしょう。そこを摩り替えてはいけません。
同感です。
厳罰化すれば少年犯罪は減るというのは間違いで、逆に増えているという調査結果もあります。
感情的ではなく公平であること、取り締まること、少年たちをとりまく環境をよくすることも大事ではないんでしょうか。

私が知っている限りでは,欧米のrestorative justice(修復的司法)は比較的「軽罪」と言われる犯罪にだけ使われているはずです。
それなのに、日本の学者は、意識してか意識せずしてか知りませんが、犯罪の軽重と無関係に、あるいは触れずに、日本に紹介しています。
ご紹介のHPでも単に犯罪者、被疑者、被害者となっています。もっと検索すれば出てくるのかもしれませんが、とりあえず。

(訂正)HPは「加害者」「被害者」でしたね。すみません。

yさん、

>厳罰化すれば少年犯罪は減るというのは間違いで、逆に増えているという調査結果もあります。

にわかには信じ難いのです。
厳罰化が威嚇効果を高めるもしくは変わらないというのであれば、そうだろう、そうかもしれないと思えるのですが、増加をもたらすというのはどういうからくりなのでしょうか?

>少年たちをとりまく環境をよくすることも大事ではないんでしょうか。

これ無しには犯罪数の減少を望めないということなら頷けるのですが、厳罰化が逆効果となる理由はわからないのです。

その調査結果と考察がWEBに載っていましたら、リンクしてもらえるとありがたいです。

>ばばあさま
>「私は医師ですが」ということですので、付言させて頂きます。

>頚動脈左右二本を片手で圧迫して脳血流を断つことはそんなに難しいことではないと思いますよ。無我夢中で押さえつけているうちに誤って死に至らしめることもありえるのではと考えます。

「誤って死に至らしめる」という観点からは、この場合考えられるのは、頚動脈を圧迫することにより頚動脈反射が惹起され、それにより迷走神経が刺激され、その結果、中枢及び心臓に対し迷走神経が作用し、著しい血圧低下ないし徐脈を生じせしめ、心原性のショック死に至るものと推測されます。

これに反して、故意に頚部を強い力で圧迫し気道の閉塞をも同時に生じせしめた場合、いわゆる「窒息の三徴候」(暗赤色流動血、内臓うっ血、粘膜漿膜下溢血点)や、舌骨、甲状軟骨の骨折も認められると考えられます。

法医学教室が、以上の剖検所見を見逃すはずはなく、さらには、賢明な弁護人も「誤って死に至らしめる」ということを主張するのであれば、この点を主張したでありましょう。

ところが最高裁の判決文では、弁護人の主張は一蹴されていますし、上記の点についても言及されていないところをみると、「誤って死に至らしめる」剖検所見ではなかったと思われます。

「誤って死に至らしめる」といった解釈には無理があるように思えます。

以下は私の感想です。
>2審の判決文読むと、被告は子どもをあやそうとそれなりに腐心したみたいですけどね。

判決文の解釈は、人によってさまざまであるなと思いました。私も広島高裁判決文を読みましたが、
「女の子をあやそうと腐心した」行動は、かわいいから、あるいは憐憫の情などからの行動ではなく、大声で泣かれることによって犯行が発覚することを恐れた、保身のための自分本位の行動であり、生後11ヶ月の乳児にとって、突然侵入し乱暴狼藉をはたらいた見ず知らずの男に「あやされる」ことは、恐怖以外のなにものでもなかったでしょう。母親が「あやす」場合と、決定的に異なるものであり、「女の子をあやそうと腐心した」ことは、被告にとって、なんら情状に値するものではないと解釈した次第です。

すみません訂正です。↑

(誤)頚動脈反射
(正)頚動脈洞反射

クルンテープ様
あちこち見ているのでいろいろありますが、とりあえず目に付いたところを
世界・世界死刑廃止連盟:死刑は犯罪抑止にならず
http://www.janjan.jp/world/0607/0606307005/1.php
「アメリカ少年法の厳罰化に抑止効果はある」は誤り
http://www.kodomonoshiten.net/shonenhouUSA2.htm
死刑反対を明快に書いているサイト「EUと死刑」「韓国:死刑反対の論点〜アムネスティ事務総長の公開書簡」
「少年犯罪データベース」は少年犯罪が不幸や貧困、社会の影響などからおきていることがわかると思います。成人よりも残虐化はhttp://www.wako.ac.jp/souken/touzai01/tz0113.htmlなどです。
不公平や社会悪をなくさなければ犯罪者も加害者も社会の犠牲になってしまいます。
少年たちは特におとなに責任があるでしょう。死刑になるからと、青少年のもうどうなってもいい、というかっとした気持ちを抑えられるとは思えません。

連投すいません。

2006年07月16日 05:23の「ばばあ」さまに対する、 2006年07月18日 11:47の私のコメントは、医学的知識のない方が、

>頚動脈左右二本を片手で圧迫して脳血流を断つことはそんなに難しいことではないと思いますよ。(中略)誤って死に至らしめることもありえるのでは・・・。

との「ばばあ」さまのコメントを読まれ、「それほど簡単に、(勢いあまって)誤って人を殺せるのか。」といった印象をもたれることを懸念し、付言させて頂きました。

 或る内科医さまのコメントに若干補足させていただきます。

 「絞殺」という殺害方法について、大野市太郎東京地裁判事(執筆当時)は次のように述べています。

 「絞殺という殺害方法自体から多くの場合殺意を推認してよいであろう。なぜなら、柔道等に通じていて相手を窒息によりいったん仮死させ、しかる後その意識を回復させる術を心得ている者でもない限り、頸部を絞め続けしかも相手の窒息死を予見していないということは通常あり得ないと思われるからである。特に、長時間又は数度にわたって相手の頸部を絞め続け、相手が静かになるに及んではじめてその手を緩めたような場合には、例外なく殺意、しかも確定的なそれを認めてよいであろう。ただ、頸部を絞め続けている間に相手に痙攣や喉を鳴らすなどの徴候が現れるや直ちに手を緩め、相手の蘇生に全力を尽くしているような形跡が認められるときには、例外的に殺意が否定されることもあり得よう。」(大野市太郎「事実認定に関する裁判例の総合的研究(2)−殺意の認定」判例タイムズ702号36頁)

 控訴審判決によれば、本件で被告人は、仮に被害者の舌骨・甲状軟骨を折るほど強く頸部を圧迫していなかったとしても、少なくとも仮死状態に陥る程度には被害者の頸部に圧迫を加えていたことは明らかであり、また、被害者の動きが停止した後には蘇生に努めるどころか被害者の蘇生を妨げるべく口に布テープを貼付するなどしています。

 このような犯行態様について、「無我夢中だったので殺意はなかった」などという主張が通用するほど我が国の司法は甘くないということは、上記引用から理解していただけるかと思います。

※私は、本件の母親殺害について「殺意なし」と評価することは極めて困難であると申し上げてはおりますが、被告人や弁護人が法廷でそのような主張を行うべきでないとは申し上げておりません。そこはきちんと分けてお考えいただければ幸いです。

>an_accusedさま

ご意見ありがとうございました。an_accusedさまに補足していただくと、なんだか百人力になったような気分です。

裁判所の「殺意」に関する考え方も知ることができました。これなど、自分で文献検索をすると、途方もない時間を要すると思いますが、an_accusedさまだと一発回答ですね。

別エントリーでの「ドイツにおける司法制度」についても、他のコメンテーターの方々とのキャッチボール、たいへん興味深く拝読させていただきました。質問を考えていたのですが、残念ながら収束してしまいました。

またの機会に、ご質問させていただくかもしれませんが、その節には、何卒よろしくお願い申し上げます。


yさま、

ご紹介ありがとうございます。

「アメリカ少年法の厳罰化に抑止効果はある」は誤り
http://www.kodomonoshiten.net/shonenhouUSA2.htm

については私が当初から予想していた通りで表題の厳罰化のプラス効果は認められないというものでした。

しかし、私が知りたかったのはyさんの「逆に増えているという調査結果もあります。」で、厳罰化のマイナス効果、つまり増加要因となる面の裏づけでした。

これについては同じサイトの
「アメリカ少年法の失敗になにを学ぶか」
http://www.kodomonoshiten.net/shonenhoUSA.htm


「3 また、教育や社会復帰を強調した少年法の保護処分を受けた場合に比べ、長期拘禁の刑罰を科された場合の方が、他の事情を差し引いても、後の再犯率が高いという傾向があります。」

などで再犯率が高まることで厳罰化のマイナス効果を述べていました。

厳罰化のマイナス効果が事実ならば、少年犯罪は増え続けるか横ばい状況が続くはずのですが、著者(葛野尋之氏)は1994年の明らかな犯罪減少傾向については説明していないと思います。
葛野尋之氏はyさん同様、環境を良くしなければ犯罪は減少しないと考えておられると思うのですが、であれば94年以降の犯罪数減少をもたらした少年たちの社会環境が良くなったことをセットで提示すべきだと思うのです。

結局のところ「厳罰化は抑止効果があるとは言えない」ではあっても、「厳罰化が増長効果がある」とは言えないと思いました。
厳罰化と社会環境改善とは相反するものではないと思いますので、厳罰化については1994年以降の減少の要因の一つであることを期待し、あわせて根本解決の為に社会環境の改善を図るべきだと思います。

 以前にも紹介したことがあるのですが

 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

 というブログがあります。

 内容的に全面的に賛同しているというわけではありませんが、とても参考になるブログだと思います。

少年法をもう少し厳しくすることはいいと思いますが、死刑はないと思います。
社会やおとなの責任が大いにあるでしょう。
犯罪が悪いことだという事前の教育もないまま犯罪をしてしまった子を死刑にすることに納得いきません。
kodomonoshitenより
警察統計上の数値の増減だけを見ても、1980年代半ば頃から1990年代半ばのピークに至るまで、暴力犯罪全体についても1.8倍程度、殺人については2.5倍程度も増加しています。上述の減少傾向は、このような顕著な増加のあとに生じました。アメリカ少年法の厳罰化は、1970年代末から始まり、1980年代、90年代を通じて進められました。1990年代半ば以降の減少の時期のみならず、それに先立つ増加の時期も、同じく、少年法の厳罰化が進められていた時期に重なるのです。

厳罰化することで差別感が広がらないでしょうか。
厳罰化ではなく取締りと教育、社会環境の整備が必要なのでは。
少年が犯罪を犯した1999年当時の残虐犯罪が少年に多かったこともご存知と思いますが。

こんなページもあったので
ニューヨークの犯罪厳罰化でもおさまらず軽犯罪の取締りを強化することで減ったそうです。http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20030216/f1440.html

少年たちにこういうことをすると犯罪だよ死刑だよ、と事前教育なしに見せしめに死刑にするのはおとながおかしいと思います。それでもするなら厳罰も仕方ないと思います。

yさん、

>犯罪が悪いことだという事前の教育もないまま犯罪をしてしまった子を死刑にすることに納得いきません。

とのことですが、事前の教育が完璧ではなかったかもしれませんが、教育がなかったとは絶対に言えないと思います。
少年であれ成人であれ死刑が適用され得る犯罪を犯すと犯人は死刑を予測していなかったという場合があると聞いたことはあります。
しかし、それがやってよいことなのか、いけないことかすら区別が付かなかったということではないと思います。
もしあったならば、精神鑑定の必要となる場合だと思います。


私は不完全であったにせよ、犯罪特に殺人を初めとする凶悪犯罪はやれば罰せられるという教育はなされていたと思います。
言い換えると犯罪を実行したことの理由として教育の不備を挙げることできないと思います。
繰り返しになりますが、悪いとわかっていてもやる少年(成人も)の数が減るようにさらに社会として努力すべきであることにはかわりません。

>1980年代半ば頃から1990年代半ばのピークに至るまで、暴力犯罪全体についても1.8倍程度、殺人については2.5倍程度も増加しています。

と引用されていますが、これも米国司法省の統計に因れば、1990年半ばのピークの前には1981年にもピークがあります。そして1986年の底までは毎年の減少という厳罰化が効果あるかのように見えた時期もあるのです。
その後は1993年のピークまで増加しているので、少なくとも厳罰化だけによる効果の限界が露呈したのでしょう。


>厳罰化ではなく取締りと教育、社会環境の整備が必要なのでは。

私ならこう書き換えます。

「厳罰化だけではなく取締りと教育、社会環境の整備もそれ以上に必要なのでは。」

ニューヨークの取り組みはいわゆる割れ窓理論ですよね。日本でもベレー帽をかぶったガーディアンエンジェルス(だったかな?)とか渋谷の元組長さんの取り組みをニュースで見たことがあります。
確かに地道な取り組みですけど、こういったことが根本解決の元だと思いますし、こういう運動、意識が広まっていくことが大切だと思います。

 yさんが紹介されたサイトを読んでみましたが、かなりバイアスがかかっているように思います。

 私見としましては、クルンテープ さんの

>「厳罰化だけではなく取締りと教育、社会環境の整備もそれ以上に必要なのでは。」

に同意します。