エントリ

 このエントリは、法律家としてではなくて、死刑について考えたことのある一市民として書きたいと思います。
 相当感情論が含まれるはずです。
 その意味で、このエントリはかなりの暴論になるかもしれないことをあらかじめお断りしておきます。

 死刑判断の基準とされている永山判決

死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大あつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。

と判示しています。

 判旨の順序で考えますと、まず検討されるべきは、 殺害行為自体の動機と態様です。
 動機において考慮されるべきは、自己中心性の程度だろうと思います。
 本件の被告人の犯行動機は、自己の性欲の充足という自己中心性の極みというべきものです。
 動機面でもう一点指摘すべきは、被害者の命の手段化だと考えます。
 命は何物にも代え難いものであるにもかかわらず、殺害すなわち命の奪取を自己の欲望充足のための手段として行うところに行為者の非人間性が表れると思うのです。
 本件の被告人は、強姦の手段として母親を殺害しています。
 そこには被害者の命の尊重、尊厳など微塵もありません。

 犯行態様については、永山判決が「ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性」と指摘しており、執拗性と残虐性
が問題になります。
 なぜ、この二つが問題になるのかについての私の考えは、それらが行為者の他人の命を否定する傾向という危険性の徴表であるからです。行為の残虐性は、行為者の危険性の表れだと考えるのです。
 本件においてどこにそれを見るかというと、ほぼ衆目の一致するところであろうと思いますが、

さらに、被告人は、この間、被害児が、被害者にすがりつくようにして激しく泣き続けていたことを意にも介しなかったばかりか、上記犯行後、泣き声から犯行が発覚することを恐れ、殺意をもって、被害児を持ち上げて床にたたき付けるなどした上、なおも泣きながら母親の遺体にはい寄ろうとする被害児の首に所携のひもを巻いて絞め付け、被害児をも殺害したものである。

というところでしょう。

 はっきり言いまして、私、この文章を打ちながら手が震えています。
 もはや人間の所業ではありません。

 しかし、一審及び控訴審は被告人を死刑にはしませんでした。

 私は、一審及び控訴審が検察の死刑求刑を退けて被告人を無期懲役に処した最も大きな理由は、被害者が2名であったことと被告人が18歳になったばかりの少年で更生の可能性があると言いやすかったことだと思っています。

 永山判決が「ことに殺害された被害者の数」と判示して被害者の数を重視する姿勢を示したことから、以後、被害者1人の殺人事件は原則死刑回避となり、3人以上殺害すれば死刑を検討すべきとなり、その結果、被害者2名の事案はボーダーライン化したのだと考えています。

 本件はそのボーダーラインにある事案だったわけですが、ボーダーラインの事件であるならば、死刑判決は避けたいというのが裁判官の人情であろうと思われます。

 それに加えて永山判決では、被告人が犯行当時少年であったことを有利な情状と指摘していますから、これに飛びついたと言っては語弊がありますが、それを最大の理由にしたと思われます。
 要するに、一審及び控訴審は、永山判決を形式的解釈に基づいて適用したに過ぎないと考えています。

 まず、被害者の数についてですが、一人の場合ははずみということもあろうかと思いますので(実際多いです)、私も原則的には死刑を躊躇しますが、被害者が二人ということは殺害機会が2回あったということであり、強度の危険性を感じさせます。
 つまり、被害者が1人と2人以上とは決定的に違う場合が多いと思うのです。
 ですから、1人なら無期、3人以上なら死刑、2人の場合はボーダーラインという発想は、永山判決がなぜ被害者の数に着目したのかについて思慮が足りないと感じられます。

 ところで、被告人が犯行当時少年であるということがいかなる意味で被告人に有利な事情になるかと言いますと、被告人の更生可能性の大きさを示すものであるからだと言われています。
 いわゆる、「少年は可塑性に富む」という認識です。

 しかし、この認識または理解は、最高裁に対しては説得力を持ちませんでした。
 形式面と実質面に両面において説得力を持たなかったのだろうと思います。

 まず形式面ですが、少年法は18歳で死刑の可否について線引きをしています。
 これは、死刑を回避するべき可塑性限界の線引きと解釈することもできます。
 そして、刑事司法においては、疑わしきは被疑者・被告人の利益にという大原則がありますので、その観点でいえば、遅くとも18歳になれば明白に死刑に値するという判断のもとに引かれた線引きと解することが可能です。
 最高裁はそう解釈したものと読めます。
 
 次に、本件の被告人の実質的な可塑性ないし更生可能性についてですが、この問題に判断において決定的に作用したのは、やはり被告人が出した例の手紙の数々でしょう。
 
 原判決を少し長くなりますが引用しますと

 そこで,検討すると,被告人は,遺族に対しては,謝罪の手紙すら一度も書いたことがない上,当審における事実取調べの結果によれば,被告人は,原審での被告人質問が行われた平成11年11月から原判決の言渡しや控訴申立ての後にわたって,知人に対し,わいせつな話題や遺族を中傷するかのごとき表現をも含む手紙を書き送っていることが認められ,その記載内容や書き送った時期等から判断すると,被告人は,本件各犯行の重大性や遺族らの心情等を真に理解しているものか疑問を抱かざるを得ない。しかしながら,被告人の上記手紙の内容には,相手から来た手紙のふざけた内容に触発されて,殊更に不謹慎な表現がとられている面もみられる(鑑別結果通知書中では,被告人が,「仲間の中ではにぎやかに軽い調子で振る舞い場を盛り上げる」と,また,少年調査票中では,「高校2年時,Dから花火をズボンのポケットに突っ込まれて火傷を負った件に関しては,『ぶっ殺してやろうと思った』と口走ったり,小学校高学年時嫌がらせを受けたエピソードを述べる際には『喧嘩すれば勝つのだが』と,強がりを見せていた」とそれぞれ記載されているほか,少年調査票中では,被告人が,「外面では自己主張をして顕示欲を満たそうと虚勢を張る」とも指摘されている。)とともに,本件各犯行に対する被告人なりの悔悟の気持ちをつづる文面もあり,これに原審及び当審各公判廷における被告人の供述内容や供述態度等を併せかんがみると,鑑別結果通知書や少年調査票中で指摘されているように,被告人は,自分の犯した罪の深刻さを受け止めきれず,それに向き合いたくない気持ちの方が強く,考えまいとしている時間の方が長いようであるけれども,公判廷で質問をされたという余儀ない場合のみならず,知人に対して手紙を書き送るという任意の場合でも,時折は,悔悟の気持ちを抱いているものと認めるのが相当である。したがって,被告人の反省の情が不十分であることはもとよりいうまでもないが,被告人なりの一応の反省の情が芽生えるに至っていると評価した原判決の判断が誤りとまではいえない。

 これを読んで、控訴審の、「被告人なりの一応の反省の情が芽生えるに至っていると評価した原判決の判断が誤りとまではいえない。」という判示を、死刑を回避するための無茶苦茶な強弁と読まない人はいないと思います。
 これで反省と言われたのでは、本当に反省している死刑囚が可哀想すぎます。

 控訴審は人を殺したことに対する反省というものをどのように考えていたのでしょう。
 こんな屁理屈で最高裁を説得できると思っていたのでしょうか。
 もし思っていたとすれば、被害者は2人だし、被告人は18歳になったばかりの少年だから、死刑になんかできないよ、と考えていたとしか思えません。
 私が、永山判決の形式適用と言う所以です。
 一審と控訴審の裁判官は、いったいどういう場合に被告人を死刑に処すべきかということを本当に考え、悩んだのか疑問に思えてしまいます。

 弁護人は、被告人の出した手紙を被告人の未熟さの表れと主張しています。

 しかし、18〜9歳にもなって、裁判で死刑を求刑されて、被害者の夫が死刑にならないなら自ら殺すと言っているのを聞いているにもかかわらず、なぜ自分が人を殺したことの重みを感じられないのか。
 未熟というなら、何時、どのようなことがあれば成長できるというのか。  
 ということが直ちに問われなければならないでしょう。

 はっきり言えば、二十歳近くになっているのに、これほどの事件を茶化すような手紙を書く程度にしか反省できないなら、一生真の反省なんかできないよ、というのが常識的な感覚ではないでしょうか。
  
 さらにはっきり言えば、事件によっては、被告人が真実の心底からの反省悔悟をしたとしても死刑回避の理由にはならないのです。
 
 逆に言えば、将来更生するかどうかわからないような不確定な更生可能性で死刑の可否を決することなどできないとも言えます。
 可能性を言うのであれば、どんな極悪非道な残虐無比な凶行を行った被告人にだって可能性はあります。
 未来のことなど誰にもわかりません。
 つまり、更生の可能性などというのは、結論を決めてから後付するマジックワードだと思っています。

 控訴審は、死刑回避のために、自ら「被告人は,本件各犯行の重大性や遺族らの心情等を真に理解しているものか疑問を抱かざるを得ない。」と指摘しておきながら、それから目をそらして表面的な反省の弁にすがったとしか思えないのです。

 この控訴審の手紙に関する判示は、控訴審判決の品格を思いっきりおとしめてしまっています。
 そして、控訴審の手紙に関する判示が、最も本村氏の心を傷つけたかもしれないと考えています。

 ここまで書いてきて思いますに、被告人は、犯行時において当時11か月の被害児を殺害した時点で死刑台へのレールに乗ったのだろうと思います。
 しかし、途中で引き返す余地があったのに、自ら機関車を加速させてしまったようです。

 18歳になると死刑に処することが認められているということは、刑法の世界では18歳は大人扱いされるということです。
 控訴審は、まだ子供と見たが、最高裁は大人と見たのでしょう。

 最後に遺族感情について触れておきます。
 本件のような事件で遺族感情が峻烈を極めるというのは当然のことです。
 遺族がマスコミに積極的に意思表明したとしても、ひたすら悲しみと憤りに耐えて沈黙したとしても、判決に対する影響が大きく変わることはないと思います。
 遺族感情が判決に影響する場合は、遺族が被告人の減刑を願うなどして死刑回避の理由になる場合がほとんどだろうと考えています。
 ですから、本村氏が沈黙していたら死刑にはならなかったかもしれないという認識には賛成しません。

 それほど本件は犯行それ自体において、残虐非道な凶行として慄然とさせるものがあります。
 手が震えるほどにです。

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モトケンさんの「法律家」としてだけでなく「一人間」としての感情も加味された文章、
拝見いたしました。

ここで、法律を離れた感情論の話を。
実は、この事件の被害者である本村さんに同情しますが、誤解を恐れず言えば、
この事件には救いがあると思います。
犯人は捕まった上に刑罰の重さでも最高刑かないしはそれに準ずる刑が
処せられる可能性が確定しているからです。

なぜこんなことを書くかと言えば、20年くらい前のある事件を
鮮明に覚えているからです。

それは、歯の治療に行った小学生が死亡した事件です。
歯科医が、治療中に暴れる子供を、付き添いで来ていた母親に
手足を押さえるように命じ、治療を続行しました。
ところが、子供の口の中にそそぎこんだ薬は劇薬で、
歯科医の妻がラベルを間違えて治療薬と間違えてビンに入れていたそうです。

判決を聞いて、「人の命ってこんなに軽いものか」と思った記憶があります。
と同時に、嫌がる我が子の手足を押さえつけて結果として
命を奪う手伝いをしてしまった母親の心情を思うと、言葉が見当たりません。

法律にも不備があり、人間はミスを犯す生き物ですが、
どうにも納得できかねるものはあるようです。

いつになく熱い口調のエントリー、謹んで読ませていただきました。
控訴審判決の理不尽さに対するお話は我が意を得たりの思いでした。主文だけが分離しているかのような異様な内容に、私も昔から怒りを感じていました。
せめてもの救いは、最高裁判決がこういった点をほぼ汲み取って逃げ道を閉ざした上で高裁に叩き返した(あえてこう表現します)ことでしょうね。

死刑の境界線が「二人」と「三人」の間にあるという点はずっと疑問に思っていました。普通に考えれば「一人」と「二人」の間だろ、と。モトケンさんのおっしゃる通り、二人目を殺したということは、一人目を殺したことに怯えてもいないし反省もしなかったということになります。二人ともはずみだと主張した弁護側に非難が殺到したのはしごく当然でしょう。

被害者が死に至る少年犯罪が増えていますが、こういう死亡事件に限って少年法を適用除外してはどうかと思います。コンビニでの万引きと強姦殺人を同じ「教育的観点」でくくる少年法にはどうにも合点がいきません。もちろん、今も事件によってはそういう対応がなされていることは承知していますが、この際はっきりと線を引き、「少年法の観点から」という弁護側の決まり文句を封じてしまってほしいところです。

18歳未満の犯罪者に課せられるのはなぜ「罰」ではなく「教育」なのでしょう。酒鬼薔薇や長崎の小6女児が犯した罪に対する「罰」は一体どこへ消えてしまったのでしょうか。
10代後半にもなって、実際に殺してみなければ殺人が罪だとわからない人間を「未熟だったから」の一言で片付けられてはたまったものではありません。これは小学1年生に微分積分を解かせるのとはわけが違います。人殺しや破壊行為が許されないということは、幼児向けの特撮やアニメですら常に語っています。

未成熟な道徳心ゆえに犯罪を犯したのだから、きちんと教育し反省させれば更正すると弁護側は言います。では、少年法の精神に則れば、成人に殺された人は「被害者」だけど、未成年に殺された人は「道徳の教材」だとでも言うのでしょうか。殺される側に一体どんな違いがあるというのでしょうか。
教育という言葉を使うなら、「社会において罪を犯せば罰を与えられる」ということを教えるのも大事な教育のはずです。そしてまた、「どんな謝罪も反省も意味を持たないほどの重罪が存在する」と教えることも。

最近の世論調査で、少年犯罪には成人より重い刑罰を与えるべきだという声が多いと結果が出ていましたね。私はより重くしろとまでは言いませんが、事件の重大性によっては年齢を減刑材料にすべきではないとは思っています。たとえ被告が10歳であってもです(以前イギリスでそんな事件がありましたね)。

更正可能性を重視する方のご意見もうかがいたいものです。

どうして二回も死刑判決が出なかったか?
簡単なことです。
裁判官が死刑廃止派で常識がなかったからです。

皆さん積極的に国民審査に参加しましょう。

>はっきり言いまして、私、この文章を打ちながら手が震えています。
 もはや人間の所業ではありません。

私は、報道や判決文で間接的にのみ知る立場ですが、その凄惨さは、今読んでも鳥肌が立つほどです。特に子どもさんの件は、悲しくて、切なくて・・・。

「罪と向き合う」という言葉を弁護士はコメントに使っていますが、彼が本当にあの罪に向き合うことができるのでしょうか。本当に向き合おうとしたら、私なら、自分が犯した罪のおぞましさに耐えられずに心が壊れるかもしれません。

控訴審判決についてですが、
>知人に対して手紙を書き送るという任意の場合でも,時折は,悔悟の気持ちを抱いているものと認めるのが相当である。

すみません。あの手紙から私も悔悟の気持ちを読み取ることができません。犯した罪から逃避し、自らの死に怯え、その怯えを隠すために、遺族を嘲笑することで虚勢を張る。そんな被告の悔悟とは程遠い心情しか読み取れませんでした。
あの手紙だけに対する評価ではないかもしれませんが、少なくともあれを読んだ上でなお、ああいう評価ができるとは、私などの想像もつかないような発想をされる方々なのでしょう。

さだまさしさんの「償い」という曲を思い出しました。彼が「ゆうちゃん」のようになれるとは思えませんが。

永山判例への過度な依存,という論点については
猪瀬直樹氏も週刊文春誌の連載にて問題視する旨の文章をもう5年程前に書いてました.正論だと思います.

>さらにはっきり言えば、事件によっては、被告人が真実の心底からの反省悔悟をしたとしても死刑回避の理由にはならないのです。

本件の「更正の可能性」については,犯行直後の時点では可能性としては真摯に反省する可能性は有った,有ったけどその後の結果として反省しなかったと私は解釈してます.犯行後に反省が有った様子があるなら無期でもよい,という人は私以外にも相当居るでしょう.マスコミの騒ぎ方も(犯行内容が具体的に表現しにくいせいもあるのでしょうが)反省がないことを相当重視しています.私はこの少年に反省して欲しかった.

例えば地下鉄サリン事件の林被告,元医師だった人の方.この人の犯行は結果としては光市事件より重大かもしれないか同等といってもいいと思いますが,死刑にはならず,それに対する批判も多数派とまではいっていません.反省悔悟で死刑回避の一例と言えるでしょう.

反省とか更正の可能性って目に見えないから判断が難しい.その点,裁判官は大変だなと同情申し上げます.

ところでこのエントリで初めて知ったのですが,「相手から来た手紙のふざけた内容に触発されて」とは具体的にはどういうものだったのでしょうか?内容によっては判決文にあるとおりこの点は情状に含めていい気もします.

それと裁判には関係有りませんが拘置所から出す手紙は保安上の理由から検閲することが認められていたと思いますが,こんなのがどうして通ったのかも疑問です.

みみみさんと議論を深めるのも倫理の勉強として意味があるかもと思いますので書いてみます

>未成熟な道徳心ゆえに犯罪を犯したのだから、きちんと教育し反省させれば更正すると弁護側は言います。では、少年法の精神に則れば、成人に殺された人は「被害者」だけど、未成年に殺された人は「道徳の教材」だとでも言うのでしょうか。殺される側に一体どんな違いがあるというのでしょうか。

結果だけを言ってたら計画殺人と非計画殺人 殺人と傷害致死と過失致死の違いもなくなってしまいます.是非これらの相違点を上記の前提にのっとって説明してみてください.全部死刑とおっしゃるならそれはそれで一貫性がありますが,現行法はそうなってない.素人なので詳しくは知りませんが,それなりに理由があるのでしょう.結果が同じでも過程を重視する事もあるからではないでしょうか.

>教育という言葉を使うなら、「社会において罪を犯せば罰を与えられる」ということを教えるのも大事な教育のはずです。そしてまた、「どんな謝罪も反省も意味を持たないほどの重罪が存在する」と教えることも。

私は少年を特別扱いしておらず,犯罪者一般について反省して欲しいと思ってます.重大な犯罪に極刑,その後であっても反省することは無意味ではないと思います.もちろん犯罪予防の教育では罰を受けることを教える必要はおおいに有りますが,反省に意味がないと教えると本当に反省しなくなるかもしれない.反省があった時に減刑するかどうかは難しい.減刑が反省や自首を促すという現象が現実に存在するから,一切なしというのも無理がある.議論としては逃げかもしれませんがケースバイケース,とさせていただきます.

犯罪者が反省する意義としては仏教哲学,浄土真宗などに深い考察があるので参考になるかもしれません.

>全部死刑とおっしゃるなら

これは少々舌足らずでした。私が主張したかったのは「死亡事件には一律死刑を」という意味ではなく「死亡事件には一律成人なみの裁きを」をということです。過失致死や傷害致死、殺人などの区別は刑法でもなされていますし、通常の法廷でも殺意や計画性の有無は審理されます。個々の事件の背景は当然考慮されるでしょう。
私がやめてほしいのは、少年法の適用範囲だからといって「スピード違反で死亡ひき逃げ」と「長年性的虐待を続けた義父を思い余って殺害」と「アベックを連れ回した挙句なぶり殺し」を教育の名のもとに一緒くたにし、年齢の低さをダシにして減刑することです。要するに、量刑を考慮する際に年齢の優先順位をもっと下げてくれ、と言いたいのです。ことさらに人の命が軽視されている現在、「人の死」という結果の重大さを積極的に思い知らせる必要性があるのではないかと思います。
少年の性善説と教育的観点が重視されるあまり、結局真相がどうだったのかさっぱりわからなかった山形マット事件のような事例はもう見たくありません。

>犯罪予防の教育では罰を受けることを教える必要はおおいに有りますが

予防教育として教えるためにも、実際に罪を犯した者に罰を与えてみせる必要があると考えます。少年法で規定しているのは「罰」じゃありませんよね?

反省の必要性は私も否定しているわけではありません。真摯に反省したなら量刑にも反映させるべきでしょう。「意味がない」というのは「謝罪しても被害回復にはならない」という意味です。今回の犯人が犯行直後から本気で反省していたなら、無期懲役確定もありえたでしょう。ただし、本村氏がこうむった傷が今より癒されたとは思えません。万引きした商品を店に返すようなわけにはいかないのです。ケースによっては「反省しているけど死刑」ということもありえるでしょうね。

今捜査中の奈良の放火殺人の件ですが、この犯人が仮に父親だったとしたら、当然死刑もありうるでしょう。しかし、長男が犯人なら、重くても少年刑務所で5〜6年というところではないでしょうか。私はこのギャップを自分の子供に合理的に説明することができません。「少年だから」などと言えば、子供に悪い知恵をつけてしまいそうです。

>はっきり言いまして、私、この文章を打ちながら手が震えています。
>もはや人間の所業ではありません。

ボツネタ経由ですが、弁護人は、この点についても、事実誤認があるとの主張のようです。
http://www.janjan.jp/government/0606/0606206366/1.php

まぁ、こうなってしまうと、議論にもならない訳で、ことほどさように裁判というのは難しいものだと、ただただ、溜息がでるばかりです。

 「子供に悪い知恵をつけ」るのは、むしろ、マスメディアやウェブなどで、実態に沿わない量刑相場や仮釈放の運用等を放言する人々なのではないかという気がしなくはありません。

>かずさん

 かずさんが紹介してくださったサイトについてですが、

 検察がなぜデッチ上げと思われるような調書を作って事件の凶悪性を主張したのか。その理由は、「事件の背景に少年法の改正があったから」と安田さんは指摘します。その上で、事件が起きた1999年に少年法の改正が行われ、この事件は少年犯罪の厳罰化のために作られた事件であるとの見方を示しました。事件を検察が政治的に扱い、弁護人も裁判所もそのことに気づかなかったと、安田さんは述べ、本人も、取調べでは事実関係については聞かれなかったと話しているそうです。

 これについては、

  何ふざけたこと言ってるんだか!

 というのが私の端的な意見です。

 私はこれまで、安田弁護士の弁護活動に対しては批判を述べてきましたが、マスコミや多くのブログのような安田弁護士に対する人格攻撃的な批判はしてこなかったつもりです。
 しかし、この記事を読むと、安田弁護士も所詮プロパガンダ弁護士か、と思ってしまいます。

 検事が、この種の事件で、少年法改正に合わせて、政治的配慮のもとに事実を歪曲してまで厳罰化のネタにしようとするなど、およそ考えられません。
 もし、そんな検事がいたら、断言しますが検事失格です。
 というか、検事はそんなに複雑なことを考えません。
 どこかに被疑者に対して、「本件は国策捜査だ」と曰わった検事がいるそうですが、例外的にそんな頭が良すぎるのか馬鹿なのかわからない検事もいるかもしれません。
 しかし、この種の事件ではほとんどの検事は事実しか見ません。

 安田弁護士の論調は、検事というものは事実を曲げてでも死刑を求刑する人間だという意味を含んでいますが、元検としては、馬鹿にするのもほどがある、と言いたいところです。

 安田弁護士こそ、本件を、共謀罪反対のネタにするために、何の根拠もなしに政治問題化させていると言わざるを得ません。

 そして安田弁護士のシンポにおける発言は、この事件にこれまで関係してきた全ての人に対する侮辱と評価してもよいと考えます。

その昔、年長少年(18歳19歳)に死刑が無かったとき、死刑や無期を導入する法改正に「参政権のないものに、そのような刑を導入して良いのか」という議論があったという記憶がある。

新聞の見出しは、「刑罰だけは大人なみ」だったかな。

未成年者の刑罰が軽いのは、「判断力の未熟さ」が主な理由だったような気がするが、最近は「更生の可能性」に変ったのかな。親の影響という、未成年者本人にはどうしようもない要因もあるが。

未成年者でも判断力が未熟ではないから刑罰を与える年齢を引き下げるべきだと言うなら、刑罰だけでなく、参政権(投票権)も13歳ぐらいに引き下げないとバランスが取れないね。ついでに、淫行禁止規定も撤廃すべきか。

 弁護士先生の中にも、刑事事件(判例知識や科学的捜査)をよくご存知ないのに、明後日の方向を向いた政治的プロパガンダや自己宣伝が好きな方がいらっしゃいます。都合が悪くなるとマスコミ報道のせいにしたり、警察検察に難癖を付けて自己を正当化する。それは弁護士事務所が所詮営利企業と一緒の収益構造だからやむを得ないのでしょうけど。遺族や関係者への人道的配慮が欠けては、人間愛なき言説として支持を失うでしょう。

>はっきり言いまして、私、この文章を打ちながら手が震えています。
>もはや人間の所業ではありません。

わたしも、同じ思いをもちました。
もしも、家族にそのような危害が加わったら、本村さんと同じように「私が殺す」という気持ちになると思います。

ところで、未成年凶悪犯罪を語るとき、「女子高生コンクリート殺人事件」と「栃木リンチ殺人事件」が思い起こされます。私個人としては、被害者が一人ではあっても、想像を絶する猟奇的犯行であり、それぞれの主犯は18歳以上ですから、死刑であるべきと思います。前者の主犯は2年後には社会復帰するようですが、我々の社会の中に戻るなど、とんでもありません。少なくとも、住所・氏名などせめて、加害者の情報公開を望むところです。

モトケンは、このあたり、いかがお考えでしょうか?

私もかずさんが紹介しておられるサイトに行ってみました。
実はこういうバイアスがかかった所をじっくり見るのは初めてです。
正直ため息が出ました。「吊るせ吊るせ」のマスコミとはベクトルが違うだけで視野の狭さはどっこいどっこいだな、というのが私の印象です。
私が一番嫌いな「許す被害者は美しい。許さない被害者は心が狭い」の精神が充満していて非常に不快でした。こういう人たちは本村氏を「裁判員法制定に加担した国家権力の手先」と見なしているようですね。

この事件以外に、以前このブログでも触れられていた反戦ビラや卒業式の件にも言及されていますが、被害者や官舎の住人、卒業生の視点がものの見事に欠けていますね。判決文を読んでいないか、「読みたくない部分をスルーしたか」のどちらかでしょう。
これを他山の石として、自分も視野狭窄に陥らないよう気をつけます。

このブログに出入りする人はバランスの取れた見識の持ち主が多いと思っていますが、これは幸運なことなのかもしれませんね。

>私もかずさんが紹介しておられるサイトに行ってみました。
あのサイトに行ったのなら、
被害者の首に手で絞められた痕跡がなかったこと、
赤ちゃんの体に、床にたたきつけられた痕跡がなかったこと
赤ちゃんの首に、紐で絞められた痕跡がなかったこと、
といった点も読まれたと思いますが、ご感想は?
「読みたくない部分をスルーした」のでしょうか。

>人殺しや破壊行為が許されないということは、幼児向けの特撮やアニメですら常に語っています。
ユニークなご意見です。幼児番組を見ただけで、幼児が大人なみの判断力を身につけるのでしょうか?

>今捜査中の奈良の放火殺人の件ですが、この犯人が仮に父親だったとしたら、当然死刑もありうるでしょう。しかし、長男が犯人なら、重くても少年刑務所で5〜6年というところではないでしょうか。私はこのギャップを自分の子供に合理的に説明することができません。

ほとんどの人は、説明できると思いますが。16歳の少年と、大人では判断力、責任が違う。当たり前でしょう。

放火「殺人」ですか。本当は殺人ではない(殺意はなかった)と思うのですが。でも、本人が警察に自供してしまっては、今更どうしようもないですけどね。

>じじいさん
さだまさしの「償い」は、たしか傷害致死か何かの判決公判で裁判官が引用したことで最近有名になりましたよね。ちょっとうがった見方かもしれませんが、あの歌が訴えているのは、人の優しさではなく遺族の傷の深さなのではないでしょうか。
奥さんは「あなたの文字を見るたびに辛い」から「送金をやめて」と書いています。ということは、7年経っても奥さんの傷は全く癒えていないわけです。あれは「許してあげる」という和解の手紙ではなく、「金輪際許す気はないから二度と接触するな」という拒絶の手紙だという解釈も成り立ちます。なぜなら「許す」とはどこにも書いていないから。
引導を渡したつもりだったのに、翌月また送金されてきたら、奥さんはどんな気持ちになるのでしょうか。

こんな解釈、無粋ですかね?

はじめまして。しばらくROMさせていただいておりました。数十年前、学部時代に少年犯罪をテーマにしていて、当時の時代というか、ゼミ教授の意向もあったのかもしれませんが、当方も頑固に死刑制度廃止の主張をしていました。死刑とは国家の名のものとの殺人そのものではないかと。普通に生まれて普通に育った人間が普通は人を殺さないのであって、病的なものか少なくとも生活環境(社会)など周囲にも責任があるのではないか、そうであれば治療や教育が必要なのであって、国家が本人を殺すというのは本末転倒である、また死刑判決をうけて心底反省した人間をもはや殺す異議はない、、、などなど。

以来、数十年、ずっとその考えは変わらなかったのですが。

やがて当方も親になり、本件を知って、家族や愛娘にこのようなことをされたらと思うと、もはやおぞましくてなりません。あのころの主張はまちがってました。被害者遺族がおっしゃっていたように、死刑制度の存在意義とは、自分の死を目前にしてはじめてその罪の重さを知り、悔いることにあるのだろうと、つくづく思いました。死刑判決がなければ反省しない人間がいるのだと。死刑も教育刑なのだと。認識があまかったです。

>“みみみ”さま
>「更正可能性を重視する方のご意見もうかがいたいものです。」

 とのことですので、必ずしも更生可能性を重視する立場ではありませんが、私なりに聞きかじりを交えてコメントさせていただきたいと思います。

>「被害者が死に至る少年犯罪が増えていますが、こういう死亡事件に限って少年法を適用除外してはどうかと思います。」

 仰るとおり、奈良の放火殺人事件は、事件が報道されているとおりであると仮定すれば、犯行の態様(放火によって焼き殺すという殺害方法)と被害者数(児童を含め3名)に着目すれば、成人なら死刑もありうる事案ということになるでしょう。しかし、現在のところ、被疑少年に対する極刑を求めて世論が沸騰するといったことにはなっていません。それは、多くの人々が「少年法の観点から」という決まり文句に縛られているからではなく、個別具体的な判断として、「被疑少年の成育環境に何らかの問題があったのではないか、そしてそのことが今回の犯行に結びついているのならば、被疑少年に対して厳罰で臨むのではなく教育を以って更生させるべきではないか」と考えているからでしょう(おそらく、被害者である母親のご両親やご親族は、世論とは無関係に被疑少年に対して激しい怒りを覚えておられることと推察します)。

>「教育という言葉を使うなら、『社会において罪を犯せば罰を与えられる』ということを教えるのも大事な教育のはずです。そしてまた、『どんな謝罪も反省も意味を持たないほどの重罪が存在する』と教えることも。」

 というのは全く仰るとおりなのですが、加害少年に対して「被害者の痛みや苦しみに眼を向けよ」と言ったところで、他者への共感力が十分に育たなかった者にとっては、理解不能な場合もあるようなのです。
 元家裁審判官である弁護士の多田元氏は、「少年は、非行の場面では加害者であっても、非行にいたるまでの経歴を見れば、親などの虐待やその他の大人による暴力の被害、学校でのいじめや差別、選別など、さまざまに人としての尊厳や価値を否定されて心的外傷を受けた『被害者』の側面を持っているのであり、少年は『被害者』としての歴史を背負っていることを理解され、自己の尊厳と価値を認められて自己肯定感、そして人への信頼感を取り戻すときにこそ、自己の非行の意味を深く理解し、被害者に対して罪を償うことの自覚も生まれるものである」(多田元「少年刑事事件弁護について―私の実務経験から」季刊刑事弁護29号59頁)と述べています。
 成育環境が原因で他者への思いやりや共感がもてなくなった結果、重大な罪を犯すに至ってしまった少年の中には、「育てなおし」によって他者への共感力を獲得し、更生可能になる者も実際に存在するので、簡単に「更生など出来るわけがない」と結論せず、再教育の可能性を探ることも必要ではないか、と考える次第です(なお、現行の少年法は、少年の刑事事件に対して一律に「罰ではなく教育を」という姿勢ではなく、被害者が死亡した事件については加害少年を原則として検察官に逆送するよう定めていますし、そうでない事件でも加害少年が常に保護処分になるわけではなく、刑事処分を科すことも手続として用意しています)。
 もちろん、「育てなおし」による矯正が極めて困難な者もまた存在することは間違いありませんし、矯正教育に限界があることもまた事実です。矯正困難であることが明らかな者に対しては、本件のように厳罰を以って臨むということもあり得るでしょう。

 私は、ただ若年であるというだけで一律に罰を与えなくてよいなどとは決して申しません。ただ、罰を罰として理解させるためには「育てなおし」のプロセスを踏む必要がある場合もあるらしいということも、少年犯罪についてお考えになる際に少し思い出していただければと思います。

 本来は矯正実務のプロパーの方などからコメントがあればよいのでしょうが、とりあえず私の聞きかじりに依拠したコメントを投稿させていただきました。

>an_accusedさま
丁寧なレスをありがとうございます。正直熱くなりすぎて筆が滑った部分もあり、誤解を招く部分もあったと恐縮しております(さすがに10歳は言いすぎでした)。

奈良の事件については、たしかに短絡的に極刑をうんぬんすべきではないでしょうね。これはan_accusedさんがおっしゃる通り、事件の原因も結果も家庭に属しているという側面を考慮すべきだと思います。どう考えても加害者の生育環境に関係も責任もない母子が殺された光市の事件とは峻別して考えるべきでしょう。

多田元氏の見解は全くその通りだと思います。ただ、その育てなおしによって償いの心を生じさせたとしても、そこで終わってしまってはいけないと思います。償いの気持ちを持たせた上で、自分が犯した罪の報いとして厳しい刑罰を与えることが必要ではないでしょうか。これは、被害者への謝罪や賠償とは別の問題で、罪と罰をきっちりリンクさせることが社会秩序の維持に必要だからです。私が「反省した上での死刑もありうる」と考えるのはそのためです。
育てなおしと厳しい刑罰を両立できる施設が充実すればいいのでしょうが、現状では難しいでしょうね。少年院や少年刑務所は前者が目的だし、刑務所はほとんど後者しかない。

これは本当にさじ加減が難しい問題ですね。

上のコメントは私のものです。失礼しました。

 奈良の放火事件の場合、殺意認定がされるかどうかはわかりませんが、殺意認定がなされた場合に、「重くても少年刑務所で5〜6年というところではないでしょうか。」と言える根拠ってないのではないかとは思うのですが(殺人既遂が認定されている場合、単独犯、または集団犯行の場合の主犯には、10年以上の懲役刑が下されている例が多いですので。)。まあ、栃木リンチ殺人事件(リーダー格:無期懲役)、綾瀬コンクリート殺人事件(主犯:懲役20年)よりは、軽くなるかもしれませんが。
 でも、現場でいくら重い刑を科しても、重い刑は科されないかのような情報を流布する人がいれば、その一般予防効果は十分に発揮できなくなってしまいます。

みみみさん
さだまさしの「償い」ですが、奥さんからの手紙には確かに「許す」とは書いてません。
しかし、それと同時に、ゆうちゃんも「許された」とは言っていません。
「許してくれて ありがとう」と言ったのは、ゆうちゃんの友達である「僕」です。
作者が、わざわざ「僕」を登場させたのは、ゆうちゃんは「許された」と言えないからです。
ゆうちゃんは来月も送金する、ということは、彼は許されたとは思っていません。
おそらく1%も許されたとは思っていないでしょう。
「あなたの気持ちはわかるけど
  それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」
この言葉はおそらく奥さんの真意ではありません。
奥さんも優しいので、未だ傷ついているのを隠したのです。
それも「僕」は知っています。多分ゆうちゃんも。
だから「人間って哀しいね だってみんなやさしい」と言うのです。

「手紙の中身はどうでもよかった」とわざわざ明言されています。
「金輪際許す気はないから二度と接触するな」という内容でも、ゆうちゃんは同じように泣いたでしょう。
毎月続けてきた送金、という彼の行為に、奥さんが何らかの反応を見せた、という事実が「ありがたい」のです。
自分の心を他人に伝える、というのは難しいです。特にそれが贖罪の場合は。
1人で金槌とのみを使って岩山を掘り抜くようなものです。普通に、一生かかっても無理です。出来ないまま終わる人なんていくらでもいます。
「僕」はそれを知っているから、奥さんが手紙をくれただけで、神様の奇跡、と評価したのです。

だからっつって、「やさしい人を許してくれて ありがとう」
と、100kmくらいフライングしちゃうあたりが、さだまさしだなーって思いますが。


みみみさんがおっしゃるように、この歌は、裁判官が引用したことで有名になりましたが、ネットでざっと見た限り、正しい理解をしている人が少ないようでしたので、エントリと直接関係ないと走りつつもやや長く語らせていただきました(引用した裁判官は分かっていたのだろーか・・・)。

 子供の親となると我が子がまさか被害者や加害者になったらと思うと不安になります。「子育ては製造物責任」と看破した裁判官がいましたが(報道未了)ズシンと心に残りました。死刑や無期の公判傍聴よりも。(この裁判官の言葉は私文書偽造詐欺で嗜好猶予でした)
 法律は別として子育ての責任は切っても切れない重みを感じます。たとえマスコミや量刑宣伝?弁護士やプロパガンダ弁護士が何と言おうと。明日は我が身と考えざるを得ない治安の悪化がなくなればと祈念する今日このごろです。

みみみさま
>償いの気持ちを持たせた上で、自分が犯した罪の報いとして厳しい刑罰を与えることが必要ではないでしょうか。これは、被害者への謝罪や賠償とは別の問題で、罪と罰をきっちりリンクさせることが社会秩序の維持に必要だからです。

刑罰の自己目的化あるいは循環論法ですね。

それで、なぜ「罪と罰をきっちりリンクさせることが社会秩序の維持に必要」なのでしょうか。

>白片吟K氏
すると、一応私の解釈は間違ってはいないわけですね。
しかし、裁判での引用は「真摯に謝罪しないと被害者に反省が伝わらない」
という趣旨だったような・・・。
裁判官は奥さんが許したと思ったんでしょうかね。
被告の方も「金さえ払えば償いになる」と虫のいい解釈をしたかもしれませんね。
なんか、そう考えていくとあの引用が美談に思えなくなってきた・・・。

私も、かずさんの紹介してくれたサイトにいったことがあります。
モトケン先生に逆らうようで申し訳ないのですが、私が気になったのは、

最初から計画的な犯行ではなく、「声をあげられ、頭が真っ白になった」と話したら、「一部否認しているというのは反省していない証拠だから、そういう反省していないことに対して無期なんてとんでもない」と検察が主張し、死刑を求刑していると安田さんは主張しています。

あくまで安田弁護士の主張ですから、なんともいえませんが、こういうことは裁判ではありえないのでしょうか?

みみみさん
>すると、一応私の解釈は間違ってはいないわけですね。
そうですね。
手紙は「金輪際許す気はないから二度と接触するな」ということを婉曲表現にしたものですから。
婉曲表現にしたことを、やさしさと評価するか否か、というあたりが違いでしょうか。

内容は何であれ、手紙を書くときは、内容を相手に伝えなければならないので、「読み手」の立場を思うことが必要とされます。
2ちゃんに独り言を書き散らすのとは訳が違います。
この思いやりは和解する思いやりとは全く違うものですが、和解に繋がる可能性が全く無いとも言い切れません。
「僕」は決して許されたものと誤解しているわけではありませんが、誤解しているかのように受け取られるほど大喜びのどんちゃん騒ぎをする気持ちも分かります。

>裁判での引用は「真摯に謝罪しないと被害者に反省が伝わらない」
という趣旨だったような・・・。
あの歌の趣旨は、謝罪することの困難さと、困難を知りつつそれに取り組む人へのエールだと思います。
だから引用すること自体は間違ってないと思うのですが・・・なんかビミョーっすね。

事実認定は当事者(本人、弁護士、検察官)以外は、証拠資料を見ていないのだから何とも言えませんよね。
どう思いますか?と言われても、資料を見ていない以上、ウソかホントか、なんてのはわかりませんし・・・・
安田弁護士が言っているのが正しければ、死刑は不相当なのでしょうし、検察官の主張が正しければ、死刑相当になるのでしょう。それを決めるのが裁判官、になる訳ですよね。

RYZさん
犯罪に対する反省が自ら犯した犯行をまずは真摯に受け止める事であるとするのなら、検察が証拠に基づき殺意をもって犯した犯行だと事実認定した以上、その事実を認めない被告人が反省してないと判断するのは当然のことですし、公訴権を持つ検察がそれを元に求刑することもまた当然のことでしょう。もちろん検察、弁護側双方の主張を聞き、最終的な判断を下すのは裁判官です。それとも被告人が殺意を否定すれば、検察は被告人が殺意を持っていたと主張することは許されないのでしょうか?

ところでこの裁判では被告人は当初の強姦目的も否定しています。被害者を押し倒したのは甘えたかっただけだと。当然、被告人は甘えたことに対しては反省してますが、強姦目的には何の反省もしてません。被告人が本村さんにあてた謝罪の手紙にも弥生さん殺害に関しては「甘えてしまったことが 弥生さんを傷つけ殺すことへとつなが」った、また、「あの時、僕のかかえるさみしさを弥生さんにうちあけていたら、 もしかすると相談にのっていてくれたかもしれない」つまり彼の弥生さん殺害に対する反省は「甘え方が悪かった」「主婦に甘えるときはいきなり抱きついたりせず、悩み事を相談することから始めよう」という事なのでしょう。もちろん事前に布テープと紐を用意し、水道会社の作業服を着て、点検 を装い社宅アパートの部屋をいくつも物色しながら、若い主婦のいる部屋に上がり込み、強い抵抗をされる状況で若い女性を押し倒し、その女性の死後、死姦にまでいたった、という客観的証拠から導き出される事実をもってしても、被告人は強姦の意図などなく甘えたかっただけに違いないと信じられる人にとっては十分な反省といえるでしょう。しかし最高裁判事を初め、強姦目的は揺るぎないと考える人間にとっては、悲劇の発端となった強姦目的を事件から7年経ってもまだ被告人は認めていないのは被告人がこの事件に対して真摯な反省を一切していない証拠だと解釈されても仕方のない事でしょう。

>“みみみ”さま
 応答をいただき、ありがとうございます。
 このような事件を見聞すれば、「少々熱くなりすぎる」のは当然なことだと思います。
 私は、老女を撲殺し所持金を奪った被疑者(20代前半)から、「週刊プロレスを差し入れてくれ」と頼まれたことがありますが、そのときは「こいつ、勾留ライフをどれほど快適に過ごすつもりか」と、空恐ろしさを覚えました(週刊プロレスには罪はありません。「遺族への謝罪文一枚書いていないのに、勾留生活における娯楽を充実させようという心根が理解できなかった」ということです)。「反省」とは本当に難しいことだと日々感じています。

 私には宗教に関する素養がないので、いのげ先生が仰っていた「仏教からみた、犯罪者が反省する意義」がどういったものなのか、勉強してみたいと思います。
※いのげ先生、よろしくご教示お願いいたします。

>“白片吟K氏”さま
 コメントを拝読して、さだまさし「償い」を聴き、歌詞を読んでみようと思いました。
 お二方の間に交わされる解釈論議を、傍らで興味深く拝見させていただきます。

さだまさしの歌を引用した裁判、近所で起きた事件だったので記憶しています。

ttp://www.geocities.jp/torabane/tv29.htm
ttp://radio.from.tv/music01.html

わずか四行の被害者からの手紙は、文面のうちどこに着目するかで
意味が180度変わってしまう文章です。

樹下太郎の「やさしいお願い」を読んでいた私には、
「ご主人を亡くして経済的に苦しく受け取らざるをえないであろう被害者に
一方的に微々たる金額を毎月送り続けるなんて、なんて嫌な加害者なんだ」
と思った記憶があります。

コメさん>
私が、問題にしているのは、あくまでも「殺意」についてです。
強姦目的については、私は否定していません。
それに、検察がそのような主張をすべきではないなんてことも言ってません。
しかし、検察側が「被告側の反論を封殺」していたとしたら問題だ。
と言っているだけです。
反省しているかどうかは、心の中の問題ですから私には判りかねます。

RYZさん
RYZさんが引用されたこの部分、

『最初から計画的な犯行ではなく、「声をあげられ、頭が真っ白になった」と話したら、「一部否認しているというのは反省していない証拠だから、そういう反省していないことに対して無期なんてとんでもない」と検察が主張し、死刑を求刑していると安田さんは主張しています。』

からは、「検察側が「被告側の反論を封殺」していた」とは読み取れないのですが。あくまで、検察側が被告人が否認してることから反省していないとして死刑を求刑している、ということですよね?検察側が事実認定として殺意を認定している以上、当然の話だと思いますが。

殺意があったかどうかなど殺された状態を見れば解るものです。
誤って殺してしまった場合は、その時点で我に返りそのまま逃げるか、自首するものです。それが普通の人間であり、そのような場合のみ裁判を受ける意味があります。
それを、(死刑が)怖いから逃げる、証拠を隠すなどを行った時点で人間失格です。
自分が犯した罪と同じ罰を受けなければいけないのです。
お願いですので、論点をずらした議論はやめてください。
さだまさしの歌詞については、本人に聞いてください。
(たぶんさだまさし本人も深く考えていないと思います)
このブログのコメントは、被害者にとって意味のあるものがありますがそのようなコメントはスルーされています。被害者の気持ちを考えないコメントは読んでいて悲しくなります。
家族を殺された遺族として・・・

 推測ですが、無期不相当(死刑相当)事案で、あそこまであからさまに被告人の殺意や強姦の犯意をケンモホロロに蹴飛ばした最高裁判決は初めて見たので(たいていは死刑回避事項だから慎重に判断している)、よっぽど被告人の殺意や強姦の事前犯意を認める客観証拠(ご遺体の司法解剖の鑑定書とか)があるではないでしょうか。
 この推測が仮に正しいとすれば、最高裁は、弁護人の主張を言語道断不届千万と一蹴したように読めます。それなのに、弁護人が記者会見まで開いて「証拠に矛盾がある」とか「検察の(量刑に関する)主張がおかしい」とか言うのは、自己の主張を正当化するために、証拠関係を無視した最高裁判決批判と検察への「当て擦り(責任転嫁)」をしているのではないか?という大いなる疑問を感じざるを得ません。
 もちろん被告人が荒唐無稽な弁解をしても、それを前提とした弁護活動が義務付けられるのが弁護人の職責と判りますので無理は言いませんが、弁護人が関係証拠を「誤読」していないことを祈るばかりです。
 また、信念に基づき何が何でも死刑を回避するのだというのであれば(それはそれで一つの見識に基づく立派な意見です。私は反対だけど。)、正々堂々と信念に基づいて対処されることを願って止みません。姑息なロジックや自己矛盾主張の振りまわしとか嫌味や皮肉や当て擦りとかを多用して自滅の道を歩んだ弁護士(現在登録抹消済み)を知っているだけに。

an_accusedさん
ありがとうございます。
確実にエントリ違いの話ですが、邪魔にされなかったようなのでほっとしています。

サンドラールさん
>ご主人を亡くして経済的に苦しく受け取らざるをえないであろう被害者に
一方的に微々たる金額を毎月送り続けるなんて、なんて嫌な加害者なんだ

その通りです。
それを一番よく知っているのがゆうちゃん本人です。
しかし、それ以外に謝罪の気持ちを伝える方法がないので、そうしているのです。

被害者に毎月金を送る加害者
被害者に金は送らないけど手紙は送る加害者
被害者に何もしない加害者
何をしようと加害者は「なんて嫌な加害者」であって、それ以外の者になりようがありません。

謝罪することは難しいです。
反省していれば、死刑じゃなくて無期懲役にしてあげる、償うチャンスを与えてあげる。
と、いいますが、正直、ワタシだったら速攻でクビ吊っちゃうなあ、と思います。
償うってことは、生きてても自分の心休まる時間なんて1分たりとて無いってことだからです。

ハスカップさんの文章を読んでいるのですが、言いたいことが分かりません。こういうことでしょうか。
「推測ですが、大本営が、ミッドウエー海戦で大勝利したと、あそこまで明言したことを聞いたことがありません。よほどの大勝利だったのでしょう。しかし、Aさんは大敗したと言って記者会見まで開いた。自己の主張を正当化するために証拠を無視して大本営を批判しているのではないかと大いなる疑問を感じざるを得ません。」
要は、最高裁を批判しちゃいけないということか。

「被告人が荒唐無稽な弁解をしても、それを前提とした弁護活動が義務付けられるのが弁護人の職責」だとすると、弁護人は荒唐無稽な弁護活動が義務付けられるのでしょうか?

「正々堂々と信念に基づいて対処」する、の中には、記者会見で自己の主張が正当であることを言うことは含まれるのでしょうか。

相矛盾する主張をバランスを取って一つの文章の中に入れているように読めます。

あと、どうでも良いことですが、「あてこすり」とは「皮肉」という意味で、「責任転嫁」という意味ではないですよね。

コメさんへ
「強姦致死、傷害致死を起こしてしまったことを反省している。しかしあれは殺人ではない。」という反省のしかたは、ありえないのでしょうか。検察はありえないと言っているように見えますが。

無名人 よ

主婦を殺害後に死姦している事実をどう説明するつもりだ。
さらに、直後に11ヶ月の乳飲み子を殺害しているのに殺人ではないと言い張るのか?

おまえは、加害者または弁護人の関係者ではないのか?

RYZ=無名人 ではないのか?

少なくとも、強姦致死に関しては、被告人は強姦の意思そのものを認めていないのだから、反省していないことは明白でしょう。認めていないものを反省のしようがない。傷害致死に関しては結局、事実認定の問題でしょう。殺人を事実として認定したのなら、甘えたくて抱きついたら手が滑って死なせてしまった、という供述に自ら犯した犯行を真摯に受け止めている後が見られないと取る事は当然だと思います。ちょっと興味があるのは、1,2審では裁判官は、被告人は不十分ながらも反省の芽が芽生えてると評価しているのですが、もし1,2審で被告人が最高裁の弁護士の主張同様に強姦目的の意思を完全否定し、甘えたくて抱きついたら手が滑っただけ、泣きやませるために赤ちゃんの首に蝶々結びしただけ、と主張していたら、1,2審の裁判官は同じ評価を下したのだろうか、と言うことなんですが。

正確には強姦致死ではないですよね。殺した上で死姦しているんです。
強姦致死では強姦の結果死に至ったということになり、目的は強姦で殺意は無かったという弁解も可能ですが、殺した上で死姦した〜ゆえに安田弁護士は遺体損壊を主張していたはず〜ならば、生きていようと死んでいようと姦淫の目的を果たすつもりだったということになり、目的を果たすために殺害を決行したとなります。
うっかり殺してしまったなら死姦する必要は無いんです。ですが躊躇せずに死姦しているのですから明確な殺意があったと言われても弁解のしようがありませんし、その点を直視せずに「反省しているが殺人はしていない」などという反省はないでしょう。

白片吟K氏さん

>それを一番よく知っているのがゆうちゃん本人です。
>しかし、それ以外に謝罪の気持ちを伝える方法がないので、そうしているのです。
その「謝罪の気持ちを伝える」ことは、結局ゆうちゃんの自己満足でしかないんです。

被害者の遺族が謝罪しろとのぞんだわけでもなく、
かつ被害者の意向を全く考えないどころか感情を逆なでする行為だと思いました。
しかも、ゆうちゃんに「悪意」がなく、歌詞を読めば行為をさらに継続する上に
第三者が止めようもない、そんな部分を嫌だと感じました。

ちなみに樹下太郎の「やさしいお願い」は嫌な被害者の例です。

サンドラールさん
>その「謝罪の気持ちを伝える」ことは、結局ゆうちゃんの自己満足でしかないんです。

そうとられても全く反論は出来ませんね。
ゆうちゃんが満足しているようにも見えませんが、その証明は出来ません。
償いというものはそーゆー、孤独な作業です(そーいえばゆうちゃんも「僕」以外の人に送金していることを教えていませんね)。
サンドラールさんだって、ではどうすれば効果的な償いになるのかという具体例を挙げることは出来ないと思います。
金送ろうが手紙出そうが、日照り続きに雨乞いしてるのと同じ程度の効率です。

被害者の意向を全く考えないどころか感情を逆なでする行為を悪意なく継続し続けなければならない。
それが償いということです。それが一生のお仕事になるわけで、そりゃ傍目から見てれば嫌ですよ。どっちサイドから見ても。
やってる本人は何かわりと割り切ってるみたいで、割り切った顔して重荷抱えたまま倒れたりして、
あーやだやだ。


樹下太郎「やさしいお願い」、アマゾンで出てきませんでしたが、短編ですか?

>被害者の意向を全く考えないどころか感情を逆なでする行為を
>悪意なく継続し続けなければならない。
>それが償いということです。
この歌の場合、加害者が今後何もしない(具体的には送金は続けない)ことが
被害者遺族への償いじゃないでしょうか?
まぁ現実的な対応として、遺族が手紙の受領を拒否する、ないしは引っ越すという手
がありますが、受領拒否ならまだしも行き先も告げない引っ越しをした場合、
「ゆうちゃんはどう思うんだろう」とか考えたりします。

>樹下太郎「やさしいお願い」、アマゾンで出てきませんでしたが、短編ですか?
3ページちょっとの短編です。新潮社の「謎のギャラリー こわい部屋」という
文庫本で読めます。これは実話ではありませんが、被害者側が加害者へ
課す謝罪の内容が一見妥当に見えるものですが、オチがこわいです。

弁護士さんにもいろいろな方がおられます。
このエントリーを読んで、モトケン先生のイメージが私の思うところと同じなのでホッとというか、安心いたしました。

いろんな方のコメントを読んで、それぞれこの事件の考えをお持ちで説明されておられます。

私は、殺意などなかったら先ず殺人などありえない、殺人があったということは殺意があったのです、と声を大にして言いたい。
それも無抵抗の女性と赤ちゃんで、変装して被害者宅に入り込んでの犯行です。
これ以上の何があるんでしょうか・・・・。

少年?(18歳を過ぎたらもう立派な大人です。結婚もできる。)という言葉をふりかざして、無駄な言い訳をするなと言いたい。

卑劣な命乞いをするなと言いたい。
被害者(なんの罪もない母と赤ちゃん)は命乞いをするまもなく、無惨にもこの鬼畜にその尊い命を奪われたのにです。

反省?この鬼畜には反省という感情はありません。反省という感情がある普通の人間ならば、そもそも強姦殺人及び、赤ちゃんを床にたたきつけ紐で首をしめるなどという、残虐非道な犯罪自体を起こさない。

私は子を持つ母として、もし自分の息子がこのような鬼畜に育ててしまったら、
躊躇うことなく言うでしょう、「生きて恥をさらすな、死んでその大罪を償え」と。

過激なコメントになり申し訳ありません。
それほどまでに涙する事件でした。
広島小1女児殺害事件、および秋田豪憲君殺害事件の犯人にも同じことを言いたい。

>要は、最高裁を批判しちゃいけないということか。

 そのようなつもりはさらさらなく、そのように読める文章とは思いませんが。
 むしろ、裁判の評釈を戦争宣伝と同列に扱う論調が理解できないのです。申し訳ないですが。

>「被告人が荒唐無稽な弁解をしても、それを前提とした弁護活動が義務付けられるのが弁護人の職責」だとすると、弁護人は荒唐無稽な弁護活動が義務付けられるのでしょうか?

 つい最近は,例外を認めた最高裁判例がでましたが。荒唐無稽な主張であっても、それに「沿った」弁護活動が求められるというのを原則とする最高裁の判例です。弁護人が「被告人の主張は荒唐無稽であり、原審判決は相当で被告人の上告は理由が無い」なんてやったら懲戒ものです。

>「正々堂々と信念に基づいて対処」する、の中には、記者会見で自己の主張が正当であることを言うことは含まれるのでしょうか。

 そのとおりです。

>相矛盾する主張をバランスを取って一つの文章の中に入れているように読めます。

 それは傍観者の私と本件弁護人の先生と立場が違えば主張も異なる、という至極当然のことを書いたまでです。ご理解いただけませんか?

>あと、どうでも良いことですが、「あてこすり」とは「皮肉」という意味で、「責任転嫁」という意味ではないですよね。

 ご想像にお任せします。あなたと私とでは語彙の解釈や用法が異なるようですので、解釈はご自由にされてください。

 コメントをありがとうございました。一礼。

辞書によれば、荒唐無稽とは、「根拠がなく現実ではないこと。でたらめ」とあります。

被告人の荒唐無稽な主張に沿った弁護活動が求められるとは、初耳でした。後学のため、できれば、その最高裁判例をお教えください。

2人を殺害した事件で思い出すのが、1998年7月富士銀行の行員が、埼玉県宮代町の盲人のマサージ師とその妻を殺した事件。2500万円の預金を預かりながら、その金を流用し、発覚を恐れて殺したもの。被害額は多額で、計画的かつ冷酷。罪名は強盗殺人。

1審は無期懲役。2審の東京高裁は、2000年12月20日の判決で1審を支持して無期懲役が確定したそうだ。

どっちが悪質?

死姦についてのコメントがあるが、最高裁の判決によれば、死亡した後、蘇生を恐れて紐で縛ったという記述がある。「死んだ」と思ったのなら紐で縛る訳ねーだろ、最高裁。普通に考えれば、気絶しただけで、死んだと思っていなかったんじゃないの。

 被告人の無罪主張が荒唐無稽であってもこれに沿った無罪の主張をすべきであって、弁護人は有罪を主張したり被告人の主張より重い刑責の主張をしてはならないというのが従来の判例の立場です。(私は弁護人も荒唐無稽の主張をしろとは一言も書いておりません。沿った・趣旨を敷衍した被告人の利益なる行為という意味です。)
 これに対する例外を正面から認めた判例は次のとおりです。
 判決の多数意見は引用先を参照してください。
 参考になるのは補足意見です。

平成16(あ)2172 平成17年11月29日 最三小決(棄却)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=24973&hanreiKbn=01
「裁判官上田豊三の補足意見は,次のとおりである。
 私は,法廷意見に賛成するものであるが,本件が,弁護人の訴訟活動の在り方という刑事訴訟の根幹に関わる問題を含むものであることなどにかんがみ,次のとおり意見を付加しておきたい。
 刑事訴訟法が規定する弁護人の個々の訴訟行為の内容や,そこから導かれる訴訟上の役割,立場等からすれば,弁護人は,被告人の利益のために訴訟活動を行うべき誠実義務を負うと解される。したがって,弁護人が,最終弁論において,被告人が無罪を主張するのに対して有罪の主張をしたり,被告人の主張に比してその刑事責任を重くする方向の主張をした場合には,前記義務に違反し,被告人の防御権ないし実質的な意味での弁護人選任権を侵害するものとして,それ自体が違法とされ,あるいは,それ自体は違法とされなくともそのような主張を放置して結審した裁判所の訴訟手続が違法とされることがあり得ることは否定し難いと思われる。」
  ★以上が従前の判