このエントリは、別稿の「光市母子殺害事件(被告・弁護側の迷走)」のコメント欄のご意見に関連して書いたものです。
法律家というと、「法律ないし法律の解釈・適用の専門家」という理解が一般的ではなかろうかと思っていますが、私としましては、正しい法律解釈、または事案に応じた適切な法律適用ができるのは当然として、その前提となる「事実認定能力」が最も重要であると考えています。
事実認定が正しくなければ、つまり間違った事実を前提にすれば、法律の解釈や適用がいかに正しかろうと、出てくる結論は間違ってしまうからです。
そして、事実認定というのは、人の話や証拠物などを総合して行うものですが、事実認定というのは過去の出来事(場合によっては何年も何十年も前の出来事)を認定するものですから、記憶の変容・忘却は常に問題になりますし、利害関係のある人の話は意識的無意識的を問わず、自分に不利益な話はしない傾向があります。
自分の依頼者の話でも疑う必要がありますし、明らかに少数派の話を信用すべき場合もあります。
そのような必ずしも整合しない多くの証拠に基づいて事件の真相に迫るためには、常に客観的かつ公正な視点が必要です。
客観的かつ公正な視点を維持するためには、関係者から距離を置く必要があります。
当事者と一体化してしまっては、視点が偏ってしまいますから。
そのような意味で、私は、別稿のコメント欄において
>先のコメントでも書きましたが、自分の家族がこのような悲惨な目にあわされたことがないから弁護ができるのだと思います。
と書きました。
自分または自分の家族が凶悪犯罪の被害者になってしまいますと、私自身、別の事件においても客観的な視点を保つことが困難になるだろうと思うからです。
そしてそれは、法律実務家としての致命的な欠陥になってしまいます。
つまり、自分または自分の家族が凶悪犯罪の被害者になってしまいますと、それを想起するような事件については弁護士としての仕事ができなくなります。
言い換えると、被害に遭っていないから弁護活動ができるのです。
>RYZさん
ん?
とりあえず二つとも非公開にしましたが、一つだけでよかったですか?
情報というものは常に不十分ですから、ブログで意見を述べるくらい、自由に述べてもいいのではないでしょうか。
新たな情報が得られて、以前の意見が間違いまたは適切でなくなったら、意見を修正すればいいだけだと思っています。
ネットの議論を見てますと、一度書いた意見は何があっても絶対に訂正も撤回もしないという人がいますが、私から見ると不思議です。
「事実認定能力が最も重要」というのは、まったくもってその通りだと思います。
一般市民は、裁判官や検察官には、被告人や証人のウソを見破る特殊能力があると信じています。
しかし、司法試験に事実認定能力の試験がないのはどういうことでしょうか。4次試験あたりに、事実認定能力の試験、例えば、受験者は証人役5人がいる部屋に案内され、証人の証言をそれぞれ聞き、誰がウソをついていて、誰が本当のことを言っているか5人とも当てたら合格とするような試験を導入してはどうでしょうか。
そうすれば、裁判官も検察官も事実認定能力について特殊能力を持った人だけになり、誤審の危険が減るでしょう。
>一般市民は、裁判官や検察官には、被告人や証人のウソを見破る特殊能力があると信じています。
そうなんですか?
そうかもしれませんね。
でも、特殊能力じゃないですよ。
他の証拠と矛盾すれば、どっちかが嘘なわけですが、そのような明確な対比証拠がない場合でも
この人の言うことは、なんとなくおかしいな
と感じることはあります。
でもそれは、たくさんの人の話を聞いて、人よりもたくさん騙された経験に基づく勘みたいなものです。
例えば新聞記者も似たような勘が身に付くのではないでしょうか。
ひょっとすると政治家もそうかもしれません(^^)
経験の積み重ねによる能力ですから、司法試験で測ることはできないでしょうね。
お久しぶりです。
裁判員制度を批判する立場として、過去に自身か親族がこの種の凶悪犯罪の被害に遭った裁判員候補者を選任すべきかどうか?という問題があります。ある専門書によると、このような立場の人の感覚も取り入れるのが裁判員制度の理念とまで言われていて、特に回避させるべき事情には該当しないと書かれていました。
(もっとも、裁判員法36条による「理由なき不選任」で検察側か弁護側に拒否される可能性が高いと思いますが)
早速消していただいて、ありがとうございます。
私も、かなり混乱していますので、もうちょっと冷静になって考え直したいなと思っています。
>自分または自分の家族が凶悪犯罪の被害者になってしまいますと、私自身、別の事件においても客観的な視点を保つことが困難になるだろうと思うからです。
まったく同感いたします。時折ここに寄せていただいてロムしているのも、客観的に見ていたい衝動を、抑えかねているからかもしれないと思います。
被害者の家族の思いは、罪状と無関係なことは承知させられているのですが、「加害者と無関係になりたい、ならないとその状況に耐えられない」そんなところです。結果、無言のままに立ち去る。そんな方々が多いのではないかと拝察しています。
誰も助けてくれないなら、誰やらに思いを伝えようとして、より辛いところに身をおきたくない。そんな気分は伝わらないような気がします。
この事件での本村さんのメディアでの主張に対する様々な批判には、ご本人に、もう少し距離を置いた静かな視線が必要ではないかと、強く思います。
モトケン弁護士のつぶやきの通り、「自分または自分の家族が凶悪犯罪の被害者になってしまいますと、それを想起するような事件については弁護士としての仕事ができなくなります。」が人の心なのだろうと思うのです。
私も幸いにして悲惨な事件に巻き込まれたことはない。そんな事態を想像することもしたくない。
自分の身内であれば、例え一人殺されても、犯人を死刑にしてやりたいと思うかも知れない。多分、思う。それが人の心なのだろうと思う。殺人一人が無期で二人が死刑なんて納得できないだろう。
でも、司法が自分を救ってくれるのかと疑問を持つ。このブログと記憶しますが、強姦事件での被害者の証言は、被害者にとって自らの痛みを増大させるものであると。
司法は可能な限り公正でなければならない。司法と心の幸せは別次元として捉えることで生きていけるのだろう、心の幸せを求めて苦しむとはと思うのだが。