エントリ

計画性

ヤギ被告に無期判決 広島女児殺害事件(asahi.com 2006年07月04日22時49分)

判決理由で「児童を陵辱したあげく尊い命を奪った冷酷非情な犯行で社会にも多大な影響を与えたが、被害者は1人であり、計画性はなく、前科も立証されていない」と述べた。一方で、「一生をもって償わせるのが相当であり、仮釈放は可能な限り慎重な運用がなされるよう希望する」との意見も付け加えた。
 量刑判断の中で判決は、あいりさんが両親の愛情を一身に受けて育ったことや、幼い弟や家族思いのやさしい子だったことなどを詳細に記述。突然あいりさんを奪われた遺族の悲しみにも理解を示し、「死刑の適用基準を満たしていると考えてもあながち不当ではない」と述べた。

 一方で、83年の最高裁判決が指摘した死刑選択の基準に触れながら、被害者の数や犯行の態様、前科の有無について検討。「被害者は1人にとどまっているほか、犯行が計画的でなく衝動的で、前科も認められない」と指摘し、「矯正不可能な程度までの反社会性、犯罪性があると裏づけられたとまではいえない」と述べて、死刑選択には疑念が残ると結論づけた。


裁判長「計画性なく、死刑に疑念」…ヤギ被告無期理由
(2006年7月5日1時15分 読売新聞)

 広島市安芸区で昨年11月、市立矢野西小1年木下あいりちゃん(当時7歳)が殺害された事件で、殺人、強制わいせつ致死などの罪に問われたペルー国籍のホセマヌエル・トレス・ヤギ被告(34)に対し、無期懲役を言い渡した4日の広島地裁判決で、岩倉広修裁判長は「計画性がなく衝動的な犯行で、前科も認められず、死刑にはなお疑念が残る」と死刑を回避した理由を述べた。

 そのうえで、「一生、罪を償わせるべきで、仮釈放には慎重な運用がなされるよう希望する」と異例の言及をした。検察、弁護側の双方とも控訴を検討する方針。

 死刑適用については、1983年の最高裁判決で、殺害された被害者の数などを考慮するとした基準が示されており、被害者が1人でも死刑を選択するかどうかが、今回の判決の焦点だった。検察側は、同種の性的犯罪を防ぐ見地から、「死刑選択の十分な理由がある」と主張していた。

 岩倉裁判長は、量刑理由でまず、「7歳で可能性に満ちた未来を一瞬で奪われ、無残な姿で遺棄された女児の恐怖や苦痛は察するに余りある。社会に与えた影響も軽視できない」と指摘し、両親や弟が受けた喪失感、悲しみを詳述。動機や犯行態様、遺族感情などは死刑適用の基準を満たしていると認めた。

 しかし一方で、「被害者1人の事件の死刑選択には、複数の事件と比べ、より悪質性が高い必要がある」との考えを示し、「わいせつ行為の対象をあらかじめ物色していたとはいえず、女児と言葉を交わすうちに劣情を抱いた」と計画性を否定した。

 さらに、被告がペルーで起こしたとされるわいせつ事件については、有罪判決を受けた証拠がないことから、前科と認めず、「矯正が不可能なほどの反社会性があるとは言い切れない」と判断。無期懲役が妥当と結論づけた。

 また公判では、ヤギ被告の責任能力の有無も争点となり、弁護側は「悪魔の声に従った行動で、心神喪失か心神耗弱だった」と主張していたが、判決は、被告が犯行を隠ぺいしたことなどを根拠に、完全責任能力を認定。被告に確定的な殺意があったことも認めた。

 ヤギ被告の裁判は、争点を裁判開始前に絞り込む「公判前整理手続き」が適用され、3年後に始まる裁判員制度のモデルケースとして注目された。その結果、初公判から51日目という短期間で判決に至った。

 私には、この判決には矛盾が感じられます。

 判決は、「仮釈放は可能な限り慎重な運用がなされるよう希望する。」と言っています。
 普通はこんなことは言いません。まさしく異例です(過去に例がないわけではありませんが。(追記)ただし、これから増えそうです)。
 こんな注文をつけても法的には何の拘束力もないからです。(追記 下記無名人さんのコメント参照)
 しかし、地裁判決は敢えてそう言いました。
 これは、裁判官が、被告人の矯正に重大な懸念を抱いている証左としか理解できません。

 ところが地裁判決は、「矯正不可能な程度までの反社会性、犯罪性があると裏づけられたとまではいえない」と述べています。

 たしかに「矯正が困難である」というのと「矯正が不可能である」というのは日本語としては意味が違います。
 しかし、被告人の将来予測として見れば、このような言い方の違いはほとんど言葉遊びと言っていいものであり、結論を左右するほどの意味があるとは思えません。

 地裁判決は矯正の可能性などを死刑回避の決定的理由とはしていないと考えざるを得ません。

 次に、報道によると地裁判決は「計画性のなさ」を死刑回避の理由に挙げているようです。
 私は以前に、計画性のある犯行は何故に悪質と評価されるのかという問題について

>一つの考え方としては、計画的犯行のほうが、翻意するチャンスが多いにもかかわらず、犯行を完遂するところに犯人の強度の犯罪傾向が認められる、という見方がある。

と書いたことがあります。

 もしこの認識が正しければ、「強度の犯罪傾向」という意味では、本件のヤギ被告人には性犯罪に関する「強度の犯罪傾向」が認められ、「計画性のなさ」が死刑回避の理由にはならないように思われます。

 犯罪傾向の問題については、前科、特に同種前科の有無が重要な判断要素になりますが、この点について地裁判決は、「有罪判決を受けた証拠がない」と言っています。

 しかし、今朝の読売新聞の朝刊の佐木隆三氏のコメントによれば

ヤギ被告は母国で、小児性愛とされる事件を起こしているが、検察側が捜査員を派遣して得たペルー側の資料を、「罪体に関係ない」という理由で、裁判所は採用しなかった。そうして判決で、「被告人の前科が、特に悪質性が高いというは足りない」と断じた点が、私には釈然としない。

とのことであり、法廷を傍聴していた佐木氏の理解が正しければ、私も釈然としませんし、検察も大いに釈然としないのではないでしょうか。

 結局、地裁判決が死刑を回避した理由は、「被害者が一人だから」というに帰着するように思われます。

 しかし、命のかけがえのなさ、一人の命の重さを考えますと、被害者の数が一人であるということは決定的な理由にはならないと思います。

 私としては、被告人の危険性こそ重視されるべきであると思うのですが、その点に関する地裁の認識は甘いように感じられます。
 少なくとも、被告人の再犯の危険性について、もっと慎重に判断すべきであったと思います。

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コメント(24)

こんばんは。はじめまして。私は法律にはぜんぜん詳しくありませんが、興味深く読ませていただきました。
ところで、愚問ですが類似の強制わいせつ殺人事件を犯し、同じく死刑を求刑されている奈良の小林被告の場合も前科があるようですが、彼の場合は前科は判決に考慮されるのですか?
小林被告だけ判決に前科が考慮され、死刑判決が下るのだとしたら不公平です。(決して小林被告の肩を持っているわけではありません。
ヤギ被告の前科は考慮されるべきだったと思います。
それに前科があろうがなかろうが両者とも悪質な事件を犯したのですから死刑になるべきだと思っています)

>法廷を傍聴していた佐木氏の理解が正しければ、私も釈然としませんし、
>検察も大いに釈然としないのではないでしょうか。

ちょっと調べてみましたが、日本とペルーとの間では、
まだ刑事共助条約が結ばれていないようですね。

ttp://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000516420060421011.htm
「第164回国会議事録 第11号 平成18年4月21日(金曜日)」
>○塩崎副大臣
(中略)
>それから、ペルーについては、今のところいかなる対応が可能か、
>先ほど、いろいろな条件が双方あるわけでありますので、
>情報交換を今ペルーとは行っているという段階でございます。

加えて、過去においては例えばペルーが行ったフジモリ氏の引渡し請求を
>ペルーで刑事手続が始まる前から、日本政府は「逃亡犯罪人引渡法によれば、
>特別の条約がないかぎり日本国民の引渡は行えない」との見解を繰り返し
>表明してきた。そして上述のように、今回のインターポールの国際逮捕手配書に
>ついても早々と逮捕を行わないと言明している。
と一蹴してきました(刑事共助と逃亡犯罪人引渡はセットとはいい切れませんが)。

こういった制度上の限界及び日本ペルー間の刑事捜査における協力体制の
過去の経緯等を考えると、日本の刑事裁判において証拠採用されるだけ
しっかりした証拠をペルー側が提供してくれたかどうか(もしくは日本側が入手
できたのか)という点には疑問が残ります。

そもそもペルーの前科が証拠採用されなかった件に関しては、各紙微妙に書き方が違うんですよね。毎日によると今回採用された公判前整理手続きにより迅速審議のため時間が無く、ペルーから犯罪歴に関する証拠資料の取り寄せに時間がかかるなどして、同手続き期間中に証拠調べ請求ができなかった、としてるみたいですが。朝日も異例ともいえるスピード判決で検察側が証拠を十分揃えられなかったことが今後の課題としてます(朝日は社説でもペルーで女児に対する性犯罪で2度告発されていることを明記しています)。検察側は公判で2度にわたって証拠調べを請求(ペルーの前科に対して)したけど、裁判所は公判前整理手続き終了後の証拠調べは認められないとして却下。その上で死刑回避の理由に判決が前科が無いことを挙げていることに対しては各紙批判的なようですね。ちなみに公判前整理手続きは非公開で運用の検証も困難なのだそうです。

佐木氏情報によると資料(これがなんだったのかも謎)
はあったわけで訴訟指揮の次元の問題ですね
すくなくとも却下理由と判決文は明らかに矛盾してると思います
しっかりしてよもう!

なるほどなるほど
間に合わなかったというわけですか
公判前整理手続きの制度上の問題は
あちこちで指摘されてますし僕も思うところあります
しかし地球の裏側からの証拠が遅かったからダメって
それは杓子定規すぎるんじゃないの?!って感じです

>判決は、「仮釈放は可能な限り慎重な運用がなされるよう希望する。」と言っています。普通はこんなことは言いません。まさしく異例です(過去に例がないわけではありませんが)。こんな注文をつけても法的には何の拘束力もないからです。

仮釈放及び保護観察等に関する規則(昭和49年4月1日法務省令第24号)
第18条第2項(部外者の意見の聴取等)
(仮釈放の申請のための)審査に当たり、裁判官又は検察官からその関与した事件の収容者について仮釈放に関する希望が表明されているときは、その希望をも考慮するものとする。

法的拘束力は無いが、法的効力はあるということです。

>無名人

>法的拘束力は無いが、法的効力はあるということです。

 たしかに以前より意味があるようになったとは言えますね。
 しかし、判決から20年30年たった時点で、判決した裁判官の判決時の希望にどれだけの意味があるのかはよくわかりません。

 無期懲役と死刑との間隙の大きさはなお埋まってはいないと思います。
 本件のような事件で死刑を回避しようとするならば、もっと明確な立法措置が必要のようです。

裁判官が死刑の判決を出せないので有れば 明治以前の習わしで仇討ち刑を認めるべきです 人を殺めたら死をもって償うこれが自然の摂理

>モトケン先生
 本件もまた、つらい気持ちになる事件ですね。
 さて、死刑選択基準における被害者数の位置づけについて、先生にお教えいただきたいのですが、先生は、2006年6月25日付エントリー「控訴審判決はなぜ破棄されたのか。」において、

>「被害者の数についてですが、一人の場合ははずみということもあろうかと思いますので(実際多いです)、私も原則的には死刑を躊躇しますが、被害者が二人ということは殺害機会が2回あったということであり、強度の危険性を感じさせます。
 つまり、被害者が1人と2人以上とは決定的に違う場合が多いと思うのです。」
http://www.yabelab.net/blog/2006/06/25-184848.php

 と、被害者数(殊に、単数か複数か)が死刑選択において極めて重要な位置を占めていることを指摘なさっておられます。
 このご指摘を拝読して、私もなるほどと膝を打ちました。この考え方に従えば、被害者が一人である場合は、原則として死刑の適用には慎重であるべきで、被害者が複数である場合には、原則として死刑適用を視野に入れて刑の量定を行うべきであるということになります。

 他方、本エントリーにおいて先生は

>「被害者の数が一人であるということは決定的な理由にはならないと思います。」

 とも仰っておられます。これは「刑の量定において、被害者数は重要なウェイトを占めない」ということでしょうか。それとも、「被害者一人の場合は原則として死刑を回避すべきだが、本件は犯行態様や被告人の犯罪性向などからみて、例外として扱われるべき事案である」ということでしょうか。
 瑣末なことかも知れませんが、ご教示いただければ幸いです。

>an_accusedさま
横レス失礼いたします。いつもお世話になっております。
この度の事件のように、大人を信じて疑わない純粋な女児ほど、むしろ被害者になっていることを考えると、悲憤慷慨の思いです。
*広島の事件では、携帯電話の写真を見せてあげると言われて、何の疑いも持たずに近寄ってしまった。(通学路にいる老犬を可愛がっていたというエピソードからも、この子の優しさが思い浮かびます。)
*奈良の事件では、急いでいるなら車に乗せてあげるといわれ、お母さんに早く会いたい一心で、何の疑いも持たずに乗ってしまった。

さて別エントリー「死刑の量刑基準について」において、モトケン先生は以下のご意見も述べられています。
http://www.y-yabe.net/archives/2005/10/post_99.html
「永山判決は、被害者の数を「結果の重大性」の一指標としているようですが、私は、先に述べましたように、自分が人を一人殺したという現実に直面しながらなお自己の行為の重大性を自覚できない行為者そのものに、その行為者の犯罪性向(危険性)の根深さを見ることから、被害者の数に着目することには一応の合理性があると思います。より正確にいうと、被害者の数というより、殺害機会の数に着目するわけです。その観点でいいますと、たとえ被害者の数が一人でも、被害者の死を現実的なものとして目の当たりにしつつ予見しながら、敢えて犯行を継続した犯行も十分死刑選択の余地があるものと考えます。」

このご意見を踏まえて、私は思うのですが、「7歳女児は抵抗が出来ない」ということは異論のないところでしょうから、屈強な男が7歳女児の頚部を絞めるという行為は、「被害者の死を現実的なものとして目の当たりにしつつ予見しながら、敢えて犯行を継続した犯行」と考えます。これは飛躍でしょうか?

ところで、問題山積の裁判員制度について言及しますと、全国紙の社説では、本事例の判決に対し、批判的であるものがほとんどでした。その中でも、「裁判員制度がはじまれば、国民はどういった評決をくだすのだろうか。」と結んでいるものが複数ありました。裁判員制度下の評決では「無期」ではすまないだろう、といった論調が含まれているように感じました。

最高裁のHP、裁判員制度Q&Aによると、「裁判員は自分自身の感覚を前提にして,どのような刑にすべきかという意見を積極的に述べていただきたいと思います。」とのことです。私がこの事件の裁判員であれば、躊躇なく「死刑」に賛成します。(もっとも、多数決の数だけではなく、裁判員、裁判官の一人以上が賛成していることが必要という条件があるようですが。)

そこで私が疑問に思うのは、今回の事件が、裁判員制度下の事件であれば、3名の裁判官は、どのようにして「死刑賛成」の裁判員に「死刑を回避した理由」を説明するのだろうか?「過去の判例」や「永山基準」を持ち出しても、今回のような「いたずら、わいせつ目的で無垢の女児を拉致し、犯行の発覚を恐れ、自らの保身のために殺害」する事件では、説得力がないのではないか?ということと、穿った見方をすれば、広島地方裁判所はこの事件に関して、高裁・最高裁に判断を委ねたのではないか?ということです。

最近読んだ本に、書かれていたことを思い出します、「ドキュメント裁判官 人が人をどう裁くのか」(読売新聞社会部著、中公新書)『2001年1月5日の憲法記念日を前にした記者会見。最高裁長官の山口繁は、下級審との関係を問われてこう述べた。
「下級裁判所の裁判官がハッスルして、こちらをうならせるような判断をしてくれないと、最高裁の判例も動いていかない。」』

 お久しぶりです。
 TBSのニュースで聞いたのですが、過去に群馬(だったと思いますが)で同種の女児誘拐殺害事件で無期懲役が確定しているケースも報道されていました。

別の事件のニュースですが、

ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060706i204.htm
>有罪判決の翌日、同じ女児に付きまとう…男に賠償命令

>判決などによると、男は2005年4月、自宅近くの公園で小学生の女児2人の体を
>触ったとして、仙台地裁気仙沼支部が同年6月、強制わいせつ罪で懲役2年6月、
>執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。
>男はその日に釈放されたが、その翌日、公園近くで同じ被害女児らに
>声をかけて、放尿する姿を見せたり、頭をなでたりした。

こういった事例を見ると、年少者に対する性的犯罪には厳しい対応が必要だ
と思います。

皆さま

別エントリ「被害者の数と死刑について」で意見を述べてみました。

>或る内科医さま
 ご解説いただき、ありがとうございます。
 モトケン先生のお考えの核心にあたりそうな部分を引用してご紹介いただきましたので、もう少しお話を続けさせていただき、勝手ながら「モトケン基準」について考えてみたいと思います。

まず、引用なさいました部分の前半部にございます

>「自分が人を一人殺したという現実に直面しながらなお自己の行為の重大性を自覚できない」

の、「なお自己の行為の重大性を自覚できない」の部分を具体的に考えてみるとするならば、「性懲りもなくまた殺人を犯した」か「全く反省が認められず、規範意識が欠如していることが明らか」かのいずれかであろうと思われます。
(前者は被害者が複数である場合の死刑適用の妥当性、後者は犯行後の情状が極めて悪い場合の死刑適用の妥当性ということになります。)

次に、引用部分の後半

>「その観点でいいますと、たとえ被害者の数が一人でも、被害者の死を現実的なものとして目の当たりにしつつ予見しながら、敢えて犯行を継続した犯行も十分死刑選択の余地があるものと考えます。」

についてですが、この部分に妥当する事例として、「女子高生コンクリート詰め事件」が挙げられています。この事件は、被害者が約一ヶ月という長期にわたる暴行により衰弱しきっており、いつ死に至ってもおかしくない状況であることを知悉しながら、さらに暴行を加えて被害者を死に至らしめたというものです。
 そうしますと、引用部の「被害者の死を現実的なものとして目の当たりにしつつ予見しながら、あえて犯行を継続した」という部分は、「長期にわたって被害者を死亡の危険にさらし続け、かつ最終的に被害者を死に追いやった」ということを意味しているのでしょう。このような犯行の態様は、「人の死」というものに対する感覚が完全に麻痺していることを示している、だからこそ「再犯の危険」が高く死刑適用もやむを得ない、という結論になるのではないでしょうか。

 以上をみてみますと、「モトケン基準」は、被害者の数や犯行後の情状、犯行の態様から、行為者が「人の死」というものについてどのように考えているかを読み取り、行為者が今なお人命をことさらに軽視していることが明らかな場合には、社会防衛的観点から死刑を選択すべしというものではないか、と推測する次第です。

 もしも、或る内科医さまが仰いますように

>「屈強な男が7歳女児の頚部を絞めるという行為は、「被害者の死を現実的なものとして目の当たりにしつつ予見しながら、敢えて犯行を継続した犯行」と考えます。」

といった一過性の殺意に基づく殺人まで「あえて犯行を継続した」に当てはまるといたしますと、およそ殺人を犯した者は死刑である、ということになります。そういう考え方があることは承知しています。しかし、少なくとも「永山基準」からは逸脱するでしょうし、「モトケン基準」からもややはみ出してしまうような気がいたします。
(ただ、本件の被告人については、控訴審で前科・前歴関係の証拠が採用されれば、「永山基準」や「モトケン基準」であっても死刑適用がありうると思います。)

 またまた長くなってしまいましたが、最後に「裁判員制度と量刑」について少しだけ申し上げます。

 多数の事件処理を通じて、「同種事案では同じような刑罰を科すべし」という形で罪と罰の均衡を図ろうとする「量刑感覚」を身につけている職業裁判官と異なり、素人である裁判員はそのような「相対的量刑感覚」を持っておりません。私たち素人が有しているのは、「犯罪によって失われたものと同等のものを加害者から奪い取るべし」という形で罪と罰の均衡を図ろうとする感覚、つまり同害報復原理に基づく「絶対的量刑感覚」です。
 あくまでも推測ですが、有期懲役の量刑については、職業裁判官の量刑感覚が優先することになるでしょうが、死刑適用については、素人裁判員の量刑感覚が優先することになるのではないかと私は考えています。

>モトケン先生
 既に別エントリーをたててお答えをいただいていたのですね、気付かずコメントを続けて投稿してしまい、申し訳ありませんでした。
 また、詳細な応答をいただき、ありがとうございます。

>或る内科医さま
 モトケン先生から応答をいただいておりました。改めて或る内科医さまにお礼申し上げます。

>an_accusedさま
>ご解説いただき、ありがとうございます。

だなんて、とんでもないです。an_accusedさまからは、論文のように理路整然とした文章で、法律に関する専門的な事柄を、(ご指名までさせて頂いて)いつもわかりやすく教えて頂き、有難く思っております。今後とも宜しくお願い致します。

いわゆる「モトケン基準」に関するご解釈ご解説も、たいへんわかりやすく、至極ごもっともです。
私の「屈強な男が7歳女児の頚部を絞めるという行為は、「被害者の死を現実的なものとして目の当たりにしつつ予見しながら、敢えて犯行を継続した犯行」ではないかといった解釈も、かなり無理があり、an_accusedさまの

>一過性の殺意に基づく殺人まで「あえて犯行を継続した」に当てはまるといたしますと、およそ殺人を犯した者は死刑である、ということになります。

と仰るとおりです。

私は、殺人犯はとにかく死刑という考え方ではありませんが、幼児性愛傾向者(あえて変質者と呼称させていただきます)による事件や、光市母子殺害事件のような乳児が被害者となる事件には、金銭関係や男女関係のもつれ、怨恨が動機となる事件と違って、どうしても、冷静かつ厳正中立に判断できないのです。
今回の判決によって、今後我が国に、かような判例が残ってしまうのではないかと思うと、慄然とするとともに悲観的になってしまうのです。

ところで、裁判員制度に、このまま突入してしまいますと、仰るように、

>死刑適用については、素人裁判員の量刑感覚が優先することになるのではないか

と私も思います。【罪と罰の均衡を図ろうとする「量刑感覚」<同害報復原理に基づく「絶対的量刑感覚」】と一般国民が考えるのは、ほぼ必至だと思います。逆にいえば、死刑適用ではない犯罪についても、職業裁判官は「死刑に非ず」という理由を、裁判員にわかりやすく、諄々と説いてゆかねばならず、そういうことが短期間の裁判で可能なのかなと思っています。

思えば、私が小学生の頃は、(今のように情報伝達機構が発達しておらず、変質者による悲惨な事件が生じても、そのことが世間に知れ渡らなかったということを差し引いても)登校時は年長者が引率する集団登校、下校時は三々五々家路についていて、それがあたりまえのことでした。

 私自身は、裁判員制度の下で、量刑は全体的にあがると思いますが、死刑はむしろ減る(上訴審はここでは考えません)のではないでしょうか。
 裁判員は、例えインターネット上では勇ましいことを言っていても、現実に目の前の被告人を裁けということになれば、被告人の汲むべき事情(らしきもの)が見えてきて、躊躇する人が多くなると見ています。忌避の運用によってはなおのことそれが考えられます。

 そういう意味では、むしろ裁判官のほうが死刑判決が下せるのではないかと感じます。

いつも興味深く拝読させていただいております。

裁判員制度の下での量刑判断については、私も風の精霊さんの仰るように、死刑判決はどちらかと言えば減少するようにも思います。居酒屋等における議論においては「あんな奴は死刑だ!」と声高に叫ぶこともあるでしょうが、法廷で裁判員自身の目の前で「生きて動いている」(変な表現ですが)被告の生命を、自分の決断次第で奪うことになるかも知れないと考えた時やはり躊躇する可能性があるように思います。

裁判員の中に熱心な廃止論者が居たりするとなお一層死刑の適用は困難になるのではないでしょうか。
確たる根拠はありませんが、世上言われているほど量刑が重くなるとは必ずしも思えません。

でも、実際のところは始まってみないとわからないというのが正直なところです・・・・・

>風の精霊さま、DHさま
 なるほど、ご推察のとおりかも知れませんね。外野から「死刑にせよ」と騒ぐのと、生身の被告人を目の前にして「お前の生命を絶つことにする」と宣告するのとでは、まったく異なりますから。
 もっとも、「フランスの例ですが、死刑制度があったころに職業裁判官は九人の市民と判決を下しておりました。そのときに市民がいることで、職業裁判官は精神的にずいぶん楽だったと聞いたことがあります。」(「鼎談・刑事裁判の理念と事実認定」法律時報962号における白取祐司北海道大教授の発言より抜粋)というものもあります。
 これは、死刑宣告を行う職業裁判官の心理的負担について述べたものですが、これが本当だといたしますと、職業裁判官は「素人裁判員が死刑を望んでいそうだから」ということで合議の途中で死刑を示唆しやすくなり、素人裁判員は「職業裁判官が死刑を示唆しているのだから」ということで死刑選択に傾くという相互作用が生じ、結果として今よりも死刑選択のハードルが下がるということもありうるのではないかと私は考えています(そうなることを決して肯定いたしませんが)。

 いずれにせよ、「始まってみないとわからない」ということですね(というより「始めてよいのか」と)。

子どもを対象とした性犯罪者には、社会的排除(死刑)が適当だという話ですが、ふと疑問に思うのは、今回の場合、相手が中・高校生あるいは成人女性だったらどうだったのでしょう。

「強度の犯罪傾向」という観点から見れば相手が児童であっても、成人であっても、死刑が妥当だということなのでしょうか。

>murriel さん
 
 被害発生の危険性という観点では、小児性愛嗜好の殺人者の危険性は相当高いと思っています。
 被害者の抵抗力が弱いことから、容易に殺害に至ることが可能だからです。

補足
 お断りしておきますが、私は、ここで性犯罪者の性犯罪の危険性を問題にしているのではありません。
 性的欲望を動機とする殺人者における殺人再犯の危険性を問題にしています。
 性的欲望に基づく殺人を実行したことにより、殺人の傾向性を自ら実証した者として、その危険性を指摘しているのです。
 単なる性犯罪者について、殺人の危険性を指摘しているのではありません。

いつも、興味深く拝見し勉強させていただいていただいています。
あまりにも惨く心がえぐられるような事件が多々あり、被害者親族でない私でされ被告人の極刑を望まずにはいられません。
しかし、今日アムネスティの(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060707-00000024-jij-int)死刑廃止に関する記事をみて極刑に対してもっと客観的に考えねばと改めておもいました。簡単に白黒つけられる問題ではないことはもちろん承知していますが、いつも客観的に物事を考えられているモトケンさんは死刑制度についてどのようにお考えですか?

>モトケンさん

お返事ありがとうございます。

危険性を言うのであれば、わいせつ目的で児童を殺すのと、成人女性を殺すのとで、どちらが高いとはいえないのではないでしょうか。強姦殺人を繰り返す犯罪者だっているわけですし。

個々のケースによるでしょうが、わいせつ目的に子どもを殺害したら死刑、成人女性を殺害したら懲役刑、というのはちょっと割り切れない面があると思います。

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