エントリ

 小学生が地域の図書館から借りた図書の数は04年度、1人あたり18.7冊と01年度に比べて1.6冊増え、過去最高となったことが21日、文部科学省の調査でわかった。子どもたちの活字離れが指摘されているが、文科省は「読書を進めようという学校での取り組みが反映された結果」とみている。

 図書館数(2982館)や国民1人あたりの貸出冊数(4.5冊)、総貸出冊数(5億8083万冊)も過去最高となった。

 私的には、とてもよろこばしいことです。
 自慢じゃありませんが、というか自慢話ですが(^^;
 私の小学生のときの学校の図書館利用率は、学年で1〜2を争っていました。

 私が今の資格を得ているのはそのせいだと思っています。
 おかげで中学生からメガネのお世話になっていますが。
 活字本のせいだけではありませんが(^^;

 文科省は、01年に「子どもの読書活動の推進に関する法律」が成立したのがきっかけになり、始業前に本を読む「朝の読書」が各校に広がり、学校と地域の図書館との連携も増えたためと分析している。

 へ〜、そんな法律ができてたんですね。
 知りませんでした。
 ともかく、本好きの子供が少しでも増えたとすれば、近来まれに見る有益な法律のひとつかもしれません(^^)

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小学生が地域の図書館で借りた本が、過去最多の1人18.7冊になったという記事があった。 統計は文部科学省が3年に一度行っている調査なので実際は04年度の... 続きを読む

コメント(37)

私の母は、私が本嫌いの父に似ないよう、暇さえあれば私を図書館に連れていって放し飼いにし、好き勝手に絵本を読ませていたそうです。おかげで、物心付いた頃には立派な本好きになっておりました。

「朝の読書」は、「みんなで」「毎日」「好きな本を」「読むだけ」という4大要素があるそうです。本への興味はもちろん、集中力がついたり学級崩壊が解決したりといいことずくめのようですね。
特に「好きな本を」「読むだけ」というのが素晴らしいと思います。私が子供の頃あった(今はどうか知りませんが)「課題図書を読んで感想文を書く」という授業は、夥しい数の本嫌いを生んだことでしょう。

本の中にはテレビゲームよりはるかに広大な世界が広がっています。一人でもたくさんの子供に本の魅力を知ってほしいですね。

ここの利用者も増えているとのことです。

http://www.iiclo.or.jp/

読書は考える力が自然と身に付きますね。特に想像力を養うには一番かも知れません。
小学生ともなれば、文字を読むことができますから、読書が一番ですけど、就学前の幼児ならば大人が読み聞かせをしてやることが読書の代わりとなるのでしょうね。
読み聞かせは読み手の言葉から自分で情景を想像するでしょうし。

視覚教材だと百聞は一見に如かずでズバっとわかりやすいですが、想像するという頭を使う訓練を疎外しますし、視覚に頼るようになると視覚に訴えるもの以外は受け付けなくなってしまいます。

らくちんなテレビなどが溢れている現代は子供たちに読書の面白さを知らせるのは大変でしょうし、地道な取り組みが実を結びだしたということでしょうか。

更に子供たちの本好きが増えていって欲しいものです。

>みみみ さん、或る内科医 さん、クルンテープ さん
 
 コメントありがとうございます。

>本好き
>読書の面白さ

 これがキーワードだと思います。
 私も、本を読むのが面白くて楽しいから本好きになりました。
 ですから、小さい子供に対して、本の面白さ、本を読むことの楽しさを教える、というか感じさせることがとても大事なことだと思います。

>「課題図書を読んで感想文を書く」

 私も感想文を書くのは嫌いでした(^^;
 小学校の低学年のときにありましたが、
 そもそも課題図書というのは必ずしも読みたい本でない場合があります。
 読みたいと思って読む本と、読ませられた本というのは違いますよね。

 私が最初に書いた読書感想文ですが、ひどいものでした(^^;;;

 「○○のところが面白かった。」
 「□□のところが面白かった。」

という文?がずらずらと続く感想文(もどき)でした。
 
 面白かったから面白かったと書いたんですが、
 先生から「どこがどう面白かったのか、書かなくてはいけない。」と言われて、けっこう落ち込んだ記憶があります。

 たしかにそうなんですけど、表現力がほとんどない小学生に感想文を書かせて、ここがよくない、あそこもよくない、などと言われたら、嫌になっちゃいます。
 その思いが読書にも連動して、間違いなく

>夥しい数の本嫌いを生んだことでしょう。

 幸い、私はすでに本好きになっていましたので、「感想文授業」の被害を免れることができました(ラッキー^^)

>読書は考える力が自然と身に付きますね。特に想像力を養うには一番かも知れません。

 これ、全面的に同意です。
 想像力というのはとても大事だと思います。
 法律家にとっても、事実認定のためには豊かな想像力が不可欠です。
 私は、特にSFで想像力を養いました。

読書があまりではなくてもマンガだと読むという場合もありますね。

私は小学生のころ、「まんが日本の歴史」を読みました。
マンガですから、詳しくもなかったでしょうし、面白くするためには下手にそこだけ印象に残ってしまうと誤解招きそうな部分もありましたが、古代から現代まで読み通すと歴史のアウトラインを把握することができたように思います。
マンガだけでは十分だとは言えませんが、子供たちにまず興味を持たせるためにマンガその他も工夫して活用して欲しいものです。

>夥しい数の本嫌い

本ではありませんが、私の場合は音楽の授業が嫌いでした。
クラシック音楽のレコードを聴いていたりする間はそうでもなかったのですが、皆の前で歌わされたり、笛を吹かされたりするのは苦痛の一言でした。
中学校まではそんな時間が続きましたが、高校に入ると鑑賞の時間がほとんどとなり、英数のような頭が過熱することもなく、音楽の授業って悪くないなって思うようになった思い出があります。

理科なんかでもでんじろう先生のような、子供に理科が好きになるように教えて欲しいものです。

>特に「好きな本を」「読むだけ」というのが素晴らしいと思います。
私見ですが、ここに「声を出して」というのが必要かと。
私の子は本を読み聞かせたほうだと自負していいのでしたが、感想文のおかげで本嫌いになってしまった一面があります。もちろんそれ以上にTvにかじりついて浅薄な知識を入れた結果、本を読むのが億劫になったみたいです。親としては残念でならぬ。

私は、(年齢からすると???ですが)家にあった論語の本から読書に入っていきました。(家業が書道塾をしてたもので)そういう環境を作れなかった(私の本がごっぞり入ってる本棚にさえ目を向けなかった)自分に、悩んでいたところでした。

デハボ1000 さん、

>私見ですが、ここに「声を出して」というのが必要かと。

声を出して読むように指導するならば、それを聞いてやるのも必要かも。

私も感想文の宿題は苦手でしたが、興味が湧いた本には「こんなことが書いてあったよ」と親に話すこともありましたし、読んだ本について子供の興味あることを話し合うと良いような気がしますが、いかがでしょう?

ご意見承りました。: クルンテープさま
>声を出して読むように指導するならば、それを聞いてやるのも必要かも。
至極ごもっともですね。
>私も感想文の宿題は苦手でしたが、興味が湧いた本には「こんなことが書いてあったよ」と親に話すこともありましたし、読んだ本について子供の興味あることを話し合うと良いような気がしますが、いかがでしょう?
そこなんですよね。細かい話は避けますが、聞いてあげるという意味では下の子はかなりいい反応でしたが、上の子は「そんなの書いている人の思い込み・・・」と突っぱねるという事実です。(苦悩)

私の友人で
「小説とか読んでも、その場面、人物等を想像することがどうしてもできない。つまらない」という人がいました。
科学書とかは好んで読んでいましたので「読書嫌い」ではなかったようでしたが、小説の中に入れる私をうらやましいとも言っておりました。
彼のこの体質?が先天的なものなのか、それとも読書の訓練不足による後天的なものなのかわかりませんが、もし後者であった場合、このような取り組みが彼のような悔しい思いをするであろう子供を減らすことができるのではと思います。

>べざとる さん

 ご友人のことについては立ち入ったことは申しませんが、

 母親が(父親でもいいと思いますが)、小さい子供を抱きながら本を読んで聞かせるという営みは、単に本好きにするだけでなく、人を人間好きにするのではないかと思っています。
 本にもよると思いますが。

読書感想文ばかり書かせていると、論理的な文章を書く技術が獲得できないという弊害もありますね。

理学部でも、たまに、読書感想文のような実験レポートを書いてくる大学生がいて頭をかかえることがあります。「プログラムAと比べてプログラムBがあまりにも遅いのに驚いた」とか書いています。遅いのはわかっているし、個人的な感想もきいていません。どのくらい遅いのかを定量的に評価して、その原因を探れと要求しているんですけど。

「理論的にはかくかくしかじかである。実験結果を分析するとかくかくしかじかである。したがって、理論値と実測値は一致する/しない」と書け、と形式を指示して書き直しを求めるとそこそこのものを再提出してくるので、頭が悪いのではなく単なる経験不足なんでしょう。なんで、こういう訓練を高校はしてくれないのでしょう。

法学部の先生方も同じ悩みをかかえているんでしょうね。

wdさん
>なんで、こういう訓練を高校はしてくれないのでしょう。

国語に限らず英語でも同様と思いますが,言語をコミュニケーションツールと捉えず,芸術・文学として捉える教師や指導要領(?)だからではないでしょうか。文学も必要でしょうが,あまりに偏重していると思います。大学の工業英語や時事英語を教えるという単位で,講師が文学書をテキストに採用し,全く工業英語等をやってくれなかったという経験があります。また,これらの背景には,純文学重視=大衆文学軽視という文学界(?)の風潮や,入試等に見られる「わかりやすさ」の軽視=「難解な文章をありがたがる」ということもあるでしょう。
計算が得意な子が,高学年になって文章題が出てくると,途端に成績が下がるという現象がありますが,これなども算数教育の課題ではなく国語教育の課題として捉えるのが良いと思います。

読書感想文の問題点は、それがあくまでも国語教育の一環として行われていることにあると思います。子供が本に親しむことよりも読解力や文章力の向上を優先目的にしてしまうから、上のモトケンさんのような体験をした挙句に本嫌いになってしまうケースがあるのでしょう。本好きを作るためには、「面白い」と感じてくれたこと自体を喜ぶべきなのに、「どう面白いか説明できなきゃ駄目」では子供は次の本を読む気にはなりません。

受け売りで恐縮ですが、これはどこかで読んだ話です。

ある子供が最初のうち絵ばかりの本しか読まなかったのが、一年たって字ばかりの本を読むようになった。これを国語教育として捉えると、国語能力が向上したためにより難しい本を読めるようになったと評価できるのだが、実はそうではない。
この子供は自分で選んだ本を読み続けるうちに、いつしか知的好奇心を満たすため自らハードルを上げるようになった。つまり、自分の生き方を主体的に選ぶ人間性が成長した、と考えるべきだ。

国語の力をつけるためなら、毎朝漢字の書き取りでもした方がよっぽど効果が大きい。朝の読書で得られる国語力は副次的なもので、最も重要なのは「好きな本」を自分で選ぶことを通じて主体的な生き方を学ぶことだ、というのがこの著者の主張でした。
私も全く同感です。
作文力の向上は国語の授業でやることであって、読書の本来の意義はもっと次元の高い、人間そのものの成長を促すことだと考えます。

もちろん、読書の楽しさが理解できる人間を育てることも重要な目的でしょうね。

みみみさん、

戦前の教育を受けた父母は国語の教科書、授業で色んなことを学んだと聞かされたことがあります。
国語の教科書、本を読むことで国語=言語能力のみならず、自然科学、社会科学など色んな知識を学び、考えたことを示唆していたのではないかと思います。

中学校時代通っていた塾では各教科の成績を上げたければまず国語を勉強せよと言われました。
当時はそれが理解できませんでしたが、その後、国語とはすべての基本であると思い知ることができました。

言語をコミュニケーションなどのツールと考えるとまさに上記にあてはまると思いますが、また国語=日本語、英語を学問として極めると考えると芸術、文学などその言語を母語とする国民の文化、或いは国民そのものを研究することにもなると思います。
同じことを各言語で表現するにしてもそれぞれ特徴があり、その特徴、差はその言語を話す人々の特徴でもあると思います。

>クルンテープさま
国語の授業では文法だけでなく文化も学ぶという点は全くおっしゃる通りだと思います。先の私のコメントは国語の授業それ自体を批判したものではありません。
私が主張したかったのは、「朝の読書」に日本語学習を求めるのは本筋ではないだろうということです。国語力の上達という一種のノルマを課してしまっては、結局は子供たちにとっての読書が「お勉強」になってしまい、朝の読書が本来持つはずの力をたわめてしまうのではないかと思ったのです。
「朝の読書」はどちらかというと「国語の時間」よりも「社会見学」に近いのではなかろうかと考えています。

>モトケンさん
>私は、特にSFで想像力を養いました。

ほほう、SFに理解がおありとは。
では、小松左京先生の最近の活躍を私と同様に寿いでおられるのでは?

>みみみ さん

 日本沈没がまた脚光を浴びてますね。

 しかし、個人的には、小松左京氏を含めてジャパニーズSFは、SFとしてはいまいちなものが多いというのが私の感想です。

 最近のSFはあまり読んでいませんので、ごく限定的な印象ですが。

 日本沈没もシミュレーション小説としてはとても面白いと思うのですが、どうもセンスオブワンダーが物足りないという感じです(^^;

論理的な文章を書く訓練は、いまの日本の教育に欠けているものの一つですね。

私は一流大学から大企業の研究所に就職したエンジニアですが、入社して最初に受けた指導の一つが、論理的な文章(社内レポート、論文、特許、企画書など少しずつ違いますが基本は共通。おそらく法学の文書も同様では?)の書きかたでした。徹底したマンツーマン指導を受けて感動していたある日、はて、俺は大学で何を学んだんだろう?なぜ修士課程まで卒業したのに、こんな指導を一度も受けなかったんだろう?と思ったものです。

そう思っていたら、高校(県内で屈指の進学校)で国語の教師をしている姉いわく、そうした指導が出来ないか?と理科の先生に頼んだことがある。だが断られ断念した ---多分その理科の先生は指導を受けたことが無かった。従って指導が出来ない。

みみみさん、

>先の私のコメントは国語の授業それ自体を批判したものではありません。

私は批判に対する批判を書いたのではありません。
子供如何に教育するかはいつも大切なことだと思っていて、酔った勢いで思いついたままを書き込んだだけでした。
俺も話の輪に入れてよって感じで。

>「朝の読書」はどちらかというと「国語の時間」よりも「社会見学」に近いのではなかろうかと考えています。

そんな感じでしょうね。

みみみさんが紹介されたお話は私が感じる通りですね。
知的好奇心が自発性を喚起させて自らのレベルアップを促したんでしょうね。
好きになればやらされなくても自分からやるものですね。

公園であった小学生が動植物について驚くほどよく知っていましたが、おかあさんと話してみると好きで図鑑や本などよく読んでいるとのことでした。
きっと親がいくら読ませようと努力しても、興味が無かったならそれほど読まなかったでしょうし、読んだとしても知識として残らなかったでしょう。

「朝の読書」も好奇心の喚起に繋がることを期待してのものでしょうね。

>クルンテープさま
失礼しました。売り言葉に買い言葉みたいなレスだと思われたのならお詫びします。

昔よくあった「びっくり人間コンテスト」みたいな番組で、東海道本線の駅の名前や自動車の車種をすらすら言う子供がよく紹介されていました。あれは、記憶力がすごいというよりも、暗記したくなるほど「好きさの度合い」がすごかったのだな、と今になって思います。

「好きこそものの上手なれ」とは本当によく言ったものです。しかし、読書人口が減るとこういうことわざや慣用句の数々も廃れていくんですよね。小説を読めば、教科書で知ったことわざがどういうシチュエーションで使われるかがわかる。そして自分で使ってみたくなる。更に読めば、同じ意味の別のことわざも知る。こういうスパイラルが子供の人格の奥行きを深くしていくのでしょう。

最近の10代は、興味のレンジがひどく狭いという話を聞いたことがあります。たとえば、ミスターチルドレンの音楽が大好きでも、彼らに多大な影響を与えたエルヴィス・コステロを聞いてみようとは思わない、とか。知的好奇心が薄いと、自分で興味の対象を広げる意欲も減退してしまうようです。
自発的な読書はこうなってしまうことを防ぐ格好の手段だと言えるでしょう。

>モトケンさま
>どうもセンスオブワンダーが物足りないという感じです(^^;
なかなか手厳しいですね。
センスオブワンダーについて議論すると一日では終わりませんが(笑)、小松左京の中短編ではかなり強烈なものが多いですよ。結末で既存概念をひっくり返す作品が多々あります。いくつかご紹介したいところですが、ここから先は掲示板向けですね。

モトケンさま

>小さい子供を抱きながら本を読んで聞かせるという営みは、単に本好きにするだけでなく、人を人間好きにするのではないかと思っています。

本当にそのとおりだと思います。

0歳の赤ちゃんに親が絵本を読み聞かせる「ブックスタート」というものがあります。0歳ですから、絵本の内容を理解させるのではもちろんなく、母子(父子)のコミュニケーションが目的です。

実際にやっている母親の方がおっしゃるには、読み聞かせている最中に赤ちゃんの表情が変化したり、言葉に反応を示したりするなど、飽きることがなく、その一つ一つの仕草にとてつもなく愛情をかきたてられるそうです。

家庭内での悲しい事件が多い昨今ですが、楽しそうに子育てについて語るお母さんに、こちらまでうれしくなったのをよく覚えています。

だからこそ公立図書館において気に入らない本を焚書し、自著を税金で大量に購入するような輩は厳に処罰されるべきだったのではないでしょうか?

レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」に「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる」ことが必要だ、といったようなものがあったように思います。(私は、大人でなくとも先輩・仲間でもいいような気もしなくもないですが)

>小さい子供を抱きながら本を読んで聞かせるという営みは、単に本好きにするだけでなく、人を人間好きにするのではないかと思っています。

読書についても、子供に対して最初に読書のよろこびを「読み聞かせ」などで伝えていく大人がいることが必要だと思います。
ある程度までいけば、子供は自分なりに興味のもったものを読むでしょうが、読書のよろこび・感激などを(子供にとっては無意識のうちに?)伝えられているかで大きく変わるような気がします。

 私の父は本好きでした。
 いつも寝る前に布団で何かの本を読んでいました。

 母も本好きでした。
 そして物語を語るのがとても上手でした。

 (過去形で書きましたが、2人ともまだ生きてます^^)

 年が離れている姉たちも本好きでした。

 つまり、私の家族はみんな本好きです。

 周りの家族が本好きなら、子供が本好きにならないわけがないと思っています。

 子供を本好きにしたかったら、まずお母さんが本を読む楽しみを知らなければなりませんね。

>モトケンさま
まったくもって理想的な環境ですね。私の場合は母が本好きだったのが幸いしたのでしょう。「家族は本嫌いだったが、自分は本好きになった!」という方のお話も聞いてみたいですね。

ちなみに、私の寝物語はいつも「全怪人怪獣大百科」でした。母が「レッドキング、体重3万トン、身長60メートル・・・」と朗読してやらないと寝付かなかったそうです。お恥ずかしい!

>乱読家さま
なんだかものすごい話ですね。ソースはありますか?

みみみさんは知らなかったのかな?

asahi.comの記事です。

以下引用
「つくる会」関係者著作の図書館蔵書処分は違法 最高裁
2005年07月14日12時36分

 市立図書館の司書が、「新しい歴史教科書をつくる会」や関係者の著作などを処分したことが違法かどうかが争われた訴訟で、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は14日、「公立図書館は住民のほか著者にとっても公的な場で、著者には思想や意見を伝えるという法的に保護される利益がある」との初判断を示した。「職員の独断的な評価や個人的な好みで著書を廃棄することは、著者の利益を不当に損なうものだ」として、つくる会側の主張を退けた二審・東京高裁判決を破棄。審理を同高裁に差し戻した。

 第一小法廷は、著者の思想の自由や表現の自由が憲法で保障された基本的人権であることを重視。「著者が意見などを伝える利益は、法的保護に値する人格的利益だ」と位置づけ、「図書の廃棄は著者の人格的利益を侵害し、違法」と結論づけた。

 問題となったのは、千葉県船橋市立西図書館の女性司書が01年8月、同館の除籍基準に該当しないにもかかわらず、つくる会や同会関係者の著書30冊を含む計107冊を廃棄したこと。「教科書が教えない歴史1」などが廃棄された。

 これに対し、同会と井沢元彦氏ら著者7人(うち1人は死去)が「表現の自由などの権利を侵害された」などとして、市と司書を相手に計2400万円の損害賠償を求めていた。原告の著書以外で廃棄されたのは、西部邁氏の著書43冊と渡部昇一氏の著書25冊など。

 一審・東京地裁は「司書が個人的な好き嫌いの判断で大量の蔵書を廃棄したのは、本を所有する市に対する違法行為だが、著者との関係で違法となることはない」「蔵書をどう扱うかは原則として市の自由裁量」などとして原告の請求を棄却。二審・東京高裁も「購入された書籍の閲覧方法などに不適切な点があっても、著者の法的な権利や利益に侵害があったとは言えない」として控訴を棄却していた。

 つくる会は97年、従軍慰安婦問題を取り上げている教科書などを「自虐的」だと批判し、独自の歴史教科書をつくって中学校に広げる目的で学者らが設立した。

モトケンさん、

上の記事は全文引用ですが、単に事実記載の報道記事の全文引用は著作権法上も問題ないですよね?

>クルンテープ さん

 ネットにおいて許容されるべき引用の範囲・程度というのは、未だその基準が明確に確立しているとは思われませんし、これからその基準自体が動いていくように思われます。

 私としましては、私を含めて投稿者の判断に委ねたいと思います。

 ちなみに、判決文自体は著作権の対象にならないはずです。

7月18日付の毎日新聞の記事で、

「新設図書館の本、寄贈呼び掛け」

というのがありました。

記事によれば、「福島県の矢祭町が、老朽化した武道場を改築し図書館を新設するにあたり、現在町が所有する図書以外は、全国からの寄贈に頼る。町には現在図書館がなく、新たに図書を購入する財源もない。」とのことです。

老朽化するほど前から武道場があるのに図書館がなかったというのも驚きですが、発想はなかなかなんじゃないかと思います。別の記事によれば、寄贈された図書の分類やデータベース化の作業は、ボランティアが司書の指導を受けて行うそうです。

ところで、図書館というところは、増えすぎて書庫に収まらなくなった蔵書をどのように処分しているのでしょうか。単純に廃棄しちゃうんでしょうかね。

> Forsterstrasse様
 確かに法学も同じだと思います。リクツですから。
 ただ,確かにそういう教育を受けた記憶はないですね。近いもので受けた覚えがあるとすれば,数学の「証明(三角形の相似とか合同とか,そういうやつです)」くらいでしょうか。
> ちょい悪代官様
 図書館の収まらなくなった蔵書(とか,痛んで別の本を買ったとか,寄付品が重複していたとか,そういう場合も指します。)は,少なくとも私の市では,図書館の入口に「処分品」みたいなスタンプを押して,「ご自由にお持ち帰り下さい」という感じでおいてあります。また,以前住んでいたところでは,「かえる文庫」と銘打って,駅のコンコースに本棚をしつらえ,「読んだら返してください」というように使っていた(うまく表現できなくてすいません)と記憶しています。
 

>クルンテープさま
情報ありがとうございました。うかつにも見過ごしておりました。
しかしまあ露骨なことをしたものですね。

公立図書館の司書が個人の思想を反映させてはいけないというのは理解できますが、これが私設図書館や大学図書館ならOKということになるんですかね。
あと、廃棄とは別に購入の際はどうなんでしょう。司書が恣意的に本を選別することも不可能ではないでしょうし。
それから、公序良俗との兼ね合いもありますね。以前、利用者のニーズがあるからといって宮沢りえの写真集や「自殺マニュアル」を図書館に置くのは本分から外れているのでは、という議論があったように思います。

みみみさん、

>公立図書館の司書が個人の思想を反映させてはいけないというのは理解できますが、これが私設図書館や大学図書館ならOKということになるんですかね。

どうなんでしょうね。個人経営の図書館なら、自分の思想に従うものを他人に読んで欲しいと目的で図書館を開くこともあるでしょうからOKだと思いますが、大学だと中立性はやっぱり欲しいですね。
ある特定方面を充実、または外すというのはある意図を持っていると看做しますね。

>以前、利用者のニーズがあるからといって宮沢りえの写真集や「自殺マニュアル」を図書館に置くのは本分から外れているのでは、という議論があったように思います。

「自殺マニュアル」というともう一般閲覧用ではないと思いますが、研究資料用ぐらいでしょうか。
写真集でも絶版になったりしていたら、書店購入はできないわけですので、構わないかも知れませんが、簡単に手に入れられる間は後回しにして欲しいと言う感じです。
ベストセラー小説なんかも話題になって、書店に平積みされているようなものは図書館ではなく、個人で購入してもらいたいなっておもいますね。
図書館では個人には購入しにくいもの、高額、不人気で入手が困難なものを優先して欲しいです。

みみみさん
>私設図書館や大学図書館ならOKということになるんですかね。

クルンテープさんが紹介してくださった判例によれば、公立図書館の司書には公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務がありますが、その根拠は、公立図書館は住民にとって情報の提供を受けるための公的な場であるため、住民の知る権利に奉仕するという役割を担っているところに求められているようです。
従って、その図書館が「住民にとって情報の提供を受けるための公的な場」であるかで分けることになるんだろうと思います。
結論としては、クルンテープさんと同じ感じになるとおもいます。

>廃棄とは別に購入の際はどうなんでしょう。司書が恣意的に本を選別することも不可能ではないでしょうし。

図書館がその自由裁量にもとづいて自らの責任と判断で書籍を購入しているのは事実で、上記判例もそれを認めています。
裁量の枠を超える程度に不公正な選択をしたときに初めて違法の判断が出るでしょう。
この判例は、本の廃棄である点、それが司書個人の思想的な理由で行われた点、そして、図書館利用者のみならず、本の著作者の利益侵害を認めた点で特殊です。


ワタシ個人としては、図書館では漫画とCDの利用が多いです。
無料のマンガ喫茶かツタヤ、という位置づけ。
本はかさばるので、なるべくなら購入せずにすませたい、というときに利用します。

kobitoさま

レスありがとうございます。

あとで地元の公立図書館に問い合わせてみたら、地域のイベントの際に古本市を開催し、そこでも売れ残ったものは廃棄しているそうです。

あと、係の人がついでに話してくれたのですが、ある小学校が統廃合で無くなったとき、図書室の蔵書は廃棄せずに近隣の学童クラブに配布して活用したそうです。

本を読んで知識を得ることも大切ですが、このご時世に「もったいない」の精神を身につけることも同様に大切なことだと思います。

>図書館がその自由裁量にもとづいて自らの責任と判断で書籍を購入しているのは事実で、上記判例もそれを認めています。

国会図書館のような図書館は別でしょうが、購入図書の選択に、その図書館のセンスを見ることはできます。センスの合わない図書館は、必要な資料がそこにしかないということでもない限りは、近くても行かないようにしています。

それにしても、司書が気に入らない本を捨てるというのは論外ですね。センス以前の問題です。そんなことは、自分のお金で図書館を作ってからやるべきです。

ただ、図書館の不要な本が、意外と大切にされていることを知り、少しほっとしました。

> ちょい悪代官さま
 地域イベントの際の古本市,というのはいい考えですね。面白いもくろみだと思います。また,近隣の学童クラブへの配布,というのも,なるほど,と(子どもがどうこう,という物騒なご時世ですから,学童クラブもおおいに活用されていることでしょう。子どもがいませんので詳しいことは分かりませんが)。
 当方の辺りでは学校の統廃合などはありませんが,違う場所の取組み,大変勉強になりました。ありがとうございます。

モトケン様のお奨めエントリーなので読ませて頂きましたが、私としてはこのニュース手放しで喜べませんです。

現在大学4年の長男が小4の時、PTAの仕事で学校図書の蔵書整理をお手伝いさせて頂いたのですが、私が学生時代には考えられないようなコミックやマンガ○○という本が多くて驚きました。
その後も小・中学共にPTA関係で学校に日参してたのですが、コミック・マンガ○○の割合は増えていくばかり、二男が卒業して早5年以上、果たして現在の状況はどうなっているのやら?

法律が出来た事で平均読書量を上げる為、益々行政がコミックを増やした・・・なんて事もありそうな(勿論、これは私のあて推量でしかありません)

市の図書館でも同じです。雑誌とコミックの割合が年々増えていっています(何故なら購入希望を出す人間が多いからなんですが、これは地域で年数回ボランティアで図書館業務に係わっている人の話ですから確かです。我が市だけが特別な市だとは思えないですよね。「同じ本だからエエじゃん!」と突っ込まれると確かにそうなんですけど、私としては、やはり絵の割合が少ない本を若い人に多く読んで欲しいなと。
果たしてこの「1人18.7冊」の内訳は如何に?。
そしてコミックをきっかけに一般書籍を読む習慣がついた子はどれ位なんだろうか?と思う訳です。

20代の「本離れ」進む 読売新聞世論調査
2006年10月30日
ttp://www.yomiuri.co.jp/book/news/20061030bk11.htm?from=goo

2016年に世論調査を行った時に果たして20代の「本離れ」が改善されているかどうか・・・ですね。
かく言う私はと言えば近年はネットサーフィンの方が読書より楽しいです。
なので息子らに強く言えないんですよね(^ ^;
『火の鳥・』(コミック)は図書館で借りましたし、ウ〜ン駄目な親。

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