エントリ

 報道だけでは微妙な事実関係がはっきりしませんので、校長先生が

「死に至らしめるいじめだったのかはっきりしない。今後調べる」と説明した。

というのは理解できるのですが、

25日の葬儀後、両親と校長らは連日、話し合いを持った。いじめの可能性を問いつめる両親に対し、学校側は28日夜、「(名前を挙げられた)4人の親も、子どもが言葉や態度で傷つけ、いじめたと認めている」と発言した。だが、29日の会見では「いじめとは断言できない」と撤回した。

 このように話をころころ変えたのではご両親の不信感を募らせるだけでしょう。
 「いじめ」という言葉が必ずしも明確でないことも問題だと思います。

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「このように話をころころ変えたのではご両親の不信感を募らせるだけでしょう。」は、その通りだと思います。

一方、いじめの実体・実状を最もよく知っているのは、現場で直に児童、生徒に接している教師であると思うのです。本来は、その原因や対策等を含めて、現場の教師の意見が出てきて、報道されてよいはずと思うが、報道されるのは、校長やら教育委員会やら文科省の人達のコメントが多いと思うのです。

>「死に至らしめるいじめだったのかはっきりしない。今後調べる」と説明した。

報道からのコメントですが、この校長に、「死に至らしめるいじめ」と「死に至らない、いじめ」そんな分類が出来るのか。どう線引きをするのか問いたいですねぇ。
間の抜けた発言をよくするよって感じですね。あきれ果てますわ。

>母親が学校で担任と顧問に会い、4人の名前を挙げて、練習中に「うざい」などと言われたと訴え、「娘に気を配ってほしい」と頼んだという。

これを「いじめ」と言わずに、何が「いじめ」なのか、いじめられている被害者の立場に立たなければ解決なんて無理、撲滅なんて出来ない。いじめられている被害者の気持ちを想像出来てこそ、「いじめ」はいけないという事が、初めて理解出来ると思います。

小中高校生に「いじめ」に負けるな、自殺は絶対しちゃ駄目だ、学校に行かなくてもいいから、命に勝るものはないんだと、訴えたい。

緊急課題として政府をはじめ関係者に「いじめ」撲滅の実効性のある対策を講じて貰いたい。

>>No.2 門外漢 さん
>緊急課題として政府をはじめ関係者に「いじめ」撲滅の実効性のある対策を講じて貰いたい。

「政府をはじめ関係者」の職場自体がいじめに満ち満ちている以上、なかなか難しいでしょうな。

初めて投稿させていただきます。心療内科を専門としている医師です。
以前からモトケンさんのブログは興味深く拝見させていただいています。

今回の「中2女子生徒の自殺」の今後の展開を注視しています。
自殺という選択にいたった中学生のご冥福をお祈りします。いじめの事実関係について、充分調査し、原因を追求する姿勢を持ち続けることは大切と思います。

その中で、おやっと思った点が2点あります。
1つ目が、遺書に、4人の名前が明記されていたこと
2つ目が、学校関係者を説明に訪れた時、ホームビデオで遺族が記録をとっていたこと
です。
最近のいじめに関連した報道から、いじめを受けたと感じている生徒が、「自分たちには自殺という表現方法がある」と誤認してしまっていないかどうか心配になっています。
なぜなら、死と引き換えに、関係者の断罪を果たすことができる風潮が出来つつあります。メディアが感情的で懲罰的な報道を繰り返すことが、その風潮を助長しているようにも感じます。いかがでしょうか?
その一方で学校側とPTA側の不信感の増幅にも拍車がかかっているように思います。
ホームビデオを撮ること自体特に異論はないのですが、さっそくメディアを通じてそれが流される事態にいささか違和感も覚えました。

いじめ被害の実態調査とその対策の検討を迅速に行っていくと共に、
「何があっても絶対に絶対に死んではいけない」このことをもっともっと周囲が伝えていくことが大切だと感じます。

大変痛ましい事件が相次いでいますが、法律的なお話は専門家にゆだねるとして、素人の私としては、私個人は「いじめ」という言葉が気に入りません。

「いじめ=いたずらの範ちゅう」という、とらえ方をしている人が、多いのではないでしょうか。実は、たとえ手を出さなくても「言葉の暴力」というのはあります(手を出す以上に、相手にダメージを与えることもあります)。

学校のみならず、家庭でも、しっかりと教育をする必要があると感じています。

初めて投稿いたします。医療関係について活発な討論がされているので、最近よく拝見させていただくようになりました。

私にも同年輩の2人の娘がおりますが、彼女たちの話を詳しく聞いてみると、学校でのいじめは日常の学園生活では常に継続して行われているそうです。私が聞いた範囲で話を列挙してみると

1. 当たり前の話だけど、集団生活をしていると必ずグループができる。
2. そのグループの構成要員は対立や摩擦を繰り返しながら常に流動的に入れ替わる。
3. ちょっとした不用意な言動が原因となり、対立やいじめに発展する。
4. いじめていた人が、勢力関係の変化から反対にいじめられる側になることもしばしばある。
5. いじめている人自身に、加害者意識がない場合が多いらしい(正当防衛と考えている?)。
6. いじめられている人にも相手を怒らせる何らかの原因がある場合が多い。
7. いじめられている人を助けようとすると、自分もいじめの対象になる危険性が高いので手が出せない。
8. 教師はいじめの実態をほとんど正確に把握していない。
9. 教師等にいじめられていることを相談し、彼らが何らかの行動を起こした場合、おきて破りとしてかえっていじめが悪化する場合が多い。

もちろん教育関係者の方々には努力していただきたいですが、私なりに考察すると、いじめをなくすことは簡単には出来ないように思います。必ずあるという前提で対策を考えるべきなのかもしれません。

こうした自殺がおきるとマスコミの論調は、事実関係の確認はさておき、第1報ではこぞってその責任を教師に押し付ける傾向があるように思います。あるいは人が死んだのだから誰かに責任があるに違いないということになります。このあたりのマスコミ報道の論調は医療事故の場合と非常に酷似しており、こうした報道が繰り返されるために、教師も医者と同様にサボタージュを始めているのではないでしょうか。

遺書を根拠に自殺事件(事故?)で、教師やいじめた人を詳しい精査をすることなく一方的に糾弾するような報道傾向が続くと、私が一番心配するのは、明日は晴れさんが言われるように

> 「自分たちには自殺という表現方法(対抗手段)がある」

と考える子供達(大人も含みますが)が増えてくることです。

その結果として、日本国中で確実に自殺の連鎖反応が起ると思います。

>No.4 明日は晴れさん
>「何があっても絶対に絶対に死んではいけない」このことをもっともっと
>周囲が伝えていくことが大切だと感じます。

実際にいじめられている人を追いつめてしまう可能性がありますね。「既に地獄にいるような者なのに、自殺を考えることすら許されないのか」と。

ひどいいじめを受けている人に取っては、毎日が地獄のような者でしょうし、「死ねば楽になる」事を救いに、生きている人もいるでしょう。そのような人にとって、「自殺はいけない」と説くことは逆効果を生む恐れもありそうです。逃げ道をなくすようなもので、いじめの加害者に対して逆に危害を加えたり、殺す可能性もあるかもしれませんね。

説くとしたら「自殺はいけない」と言う方向性よりは、「生きていることは楽しいことだ」と言う方向の方が良さそうですね。

>>No.7 しま さん
ほぼ全面的に同意。

「現世に居場所がない」かつ「楽になりたい」場合、次の選択肢に「自殺」が入ってくるのは当然かと。
自殺予防のためのキーワードは「居場所」です。
「居場所」さえあれば、うつ病患者も含めてたいていの人間は自殺まで至らないものです。
(ただし、統合失調症患者の自殺はそれでも防ぎきれない可能性が大)

まずは亡くなった生徒さんの冥福をお祈りします。

という書き方をするとどうしても冷たい感じを受けますね。
実際、死を持っての復讐、的な側面を私は感じているもので。
(敢えて過激に言いますが、それくらいなら、相手を殺せ)

報道によって自殺が連鎖するというのは、
米国で実際にあった例だと記憶しています。
ですので一連のいじめ関連自殺報道が
この生徒を復讐自殺に走らせた側面を私は否定できません。

相変わらずの「マスゴミ」ぶりです。

私は「いじめ」はあるという前提に立って議論するべきだと考えています。
猿や犬など社会性を持った動物には必ずいじめ現象があります。
ですから「差別」や「いじめ」は人間の動物的な本能から生まれるものだと考えます。

あるいは思春期の子供集団が社会性をおび始め、
大人たちからの干渉を排して精神的に独立しようとしている
発露だと思うからです。
だから大人にちくる行為はもっとも忌避される。
子供たちが自分達のルールを作り、
大人たちから独立しようとしている、
その点で私はいじめを推奨します。

問題はその程度なんです。
追い詰めすぎるのはよくないし危険です。

ですので私は「いじめシミュレーション」を
それこそゆとりの時間を使ってするべきだと思います。
中学一年ぐらいで「いじめシュミレーション」を生徒たちにさせる。
そこでいじめられる側、
いじめる側に立って気持ちを理解させ、
ここまでやられたら反撃してもよいのだ、
ここまで追い詰めるのはよくないのだ、
ということを学習させることです。


「いじめをなくしましょう」というお題目を唱えているだけでは、
絶対にいじめはなくならないと考えます。
「え、そんな程度の低いことやってるの?」
と子供たちが実感しない限り、
大人になってもいじめはなくならないと考えます。

社会生活をする為の、
シミュレーション現場としての「学校」
という意味をもう少し考える必要があると思う次第。

今回の件については、No4とほぼ同じ感覚です。
更に言うと、報道内容を前提にしても、部活での言動が「いじめ」と言われても、ちょっとそれは違うのでは・・・と感じてしまいました。
ビデオに写っていた「相手の親も・・・認めている」というのは、「子供はそういうつもりはなかったが、いじめと取られたら仕方がない」というような言い方だったのを先生の表現方法が悪かった可能性があるとも感じられました。
憶測にすぎませんが、いじめという言葉が独り歩きしているような気がします。

 初めてコメントさせていただきます。ばあばです。

 まず、どの時代であっても、どの世界であっても、「いじめ」は必ず存在します。複数の人間が一緒にいれば必ず。

 人を育てるということは、ある場面だけ切り取るとそれは、傍目にはトンでもない場面のように見えるものです。ですから、一部だけ切り取ってことさらに囃し立てることが改善に向かうとは思えません。

 また、中学校の授業の体制や担任制は、小学校のそれとは違いますから、中学校の担任に受け持ち生徒の全てが分かって然るべきだというのは、理想論ではあっても実際はとても難しいものだと思います。

 それぞれ中学時代を思い出してみれば分かると思いますが、一日の間にどれだけの時間、担任と顔を会わせられたか… どうかすると、朝礼と終礼の20分間だけという日だってあったはずです。

 クラブの顧問でも同様で、クラブ活動の時間内は一緒でも、更衣室などまでついているわけではないので、すべてを把握するのは不可能です。把握すべきだという理想はありますが。

 子どもも13才ともなると、立派な演技者で親や教師を騙すことくらい、朝飯前です。我々だって中学時代には、1回や2回は親も教師も騙し果せた経験があるはずです。そして、この頃の子どもは、小学生の時のように素直に教師に心を許しはしません。我々だってそうだったはずです。

 そして、この年齢の子どもは「イジメ」がよくないことは良く知っています。ただ、今の時代の子ども達は集団での軋轢に慣れていないので、対処の仕方を知らないということはあると思います。なにせ、「ギャングエイジ(小学中学年の特性の名称)」が死語になってしまいましたから。

 苛められ、追いつめられて自殺してしまう・苛めたら自殺されてしまう、ということは、中学に入ってから初めて起きるのではなく、それまでの幼稚園・保育園時代、小学校時代がどうであったかの、積み重ねの結果だと思います。

 子どもの社会性・協調性は、幼稚園・保育園時代から集団遊びを通して、小学校時代の子ども達自身の関わり合いを通して養われるはずのものです。

 ですから、自殺した年齢の時点での学校や教師を責めたところで、大した効果はなく、かえって事なかれ主義が蔓延するだけだと思います。

No4.明日は晴れさん

そのうち必ず、ネット上にいじめた相手の名前と住所、場合によっては写真も公開して自殺する中高生が出てきます。例えば2ちゃんねるみたいなところに流した上で。

そうなると、かなりの確率で連鎖します。
何故ならなんとなく死ねば復讐できるんだなという機運が漂うから。

今のうちになんとかしなきゃいけないんだと思いますね

ばあばさんのコメントに同意します。

世界史も民族史も現代史自体も、いじめの歴史ですよね。
いじめは、学校や教師が頑張れば無くなるといった単純な物でもないし
それは、医者が頑張れば、病気が無くなるといった幻想と同列です。
更に言えば、家族が気づいて善処しても必ずしもいじめは無くならない。
それほど、いじめは人社会にとって根深い。

しかし、学校や教師、家族に何らかの手立てがあったはずだとは思います。特に自殺に繋がるような行動は何とかしなければなりません。

自殺の甘さやタフになることを教える教育
あえて不登校を勧める勇気や思慮
望まずに死んでいく病人がいる一方で、自殺することの意味

こういった大事を教える必要がある一方で、

重大な健康上の問題や、深刻な絶望を自覚したものに対しては、
もはや、何があっても絶対に絶対に死んではいけない、という言葉が
意味をなさないということも、我々は知るべきです。

いろいろ、学校や家族以外も、大人が知恵を出さないといけませんね。

初めてコメントさせていただきます。ふぉとんと申します。

ばあばさんのコメントに同意します。
学校生活における言葉のいじめ・からかいは、
対象を変えて、日々起きていると感じます。
別段、昔から変わらないことではありますが。

中学校の担任は、小学校と異なり、
朝と帰りのSHR、給食、LHR、総合、道徳、教科の時間しか一緒にいる時間がありません。
例えば、週4回授業を持つ担任としても、
1週間当たり見ることのできる時限数は7×50分=350分。
これにSHR+給食=1時間×5=5時間を加えて
合計11時間に過ぎません。
週11時間しか見られないのです。
(かなり多く見積もった数字と思います。)

学校で生徒が過ごす時間は
8時20分〜18時までの10時間40分
週55時間です。
以上のように、担任はクラスにつききりでいるわけではないため、把握することは難しいのです。通常業務が山積していて、教諭が動きが取れないというのもあります。

また、いじめと通常のからかいの線は不明確です。
受け取った子と投げかけた子の主観的なものですから。
校長が「いじめがあった」と即断できないのは、仕方がない側面があるかと思います。

ちなみに、現在、学校での問題がクローズアップされていますが、学校の先生の質が落ちたというよりは、先生の社会的地位の低下と、家庭の教育力の低下、親世代の意識の変化が大きいのではないかと思います。

なお、この状況で、好況下の教職の大量採用時代を迎え、教諭の質が一気に低下すると、公教育の崩壊も一気に進むのではないかと危惧します。
余りに、現在の教職の待遇が悪すぎるため、教職志望者の質の低下が心配なのです。

例えば、中学校教諭は、平日は7時半過ぎには出勤し、休憩時間もなく18時まで部活動監督をした後、学年会、そして不登校生徒の家庭訪問や、自分の事務作業を行っています。自分の教科研究まで手が回っていない先生も多いかと思います。
そして、土日は事実上手弁当で部活動顧問を引き受け(1日出て1000円程度の手当のみ)、もし、今回のように問題が起こった場合は深夜までの会議も珍しくありません。

残業時間換算のみで行えば、一般のクラス担任でも月120時間は普通にやっているかと思います。教務主任になれば月150時間は堅いのではないでしょうか。
これを、一般行政職+3万円の給与と基本給×数%の教職員特別手当でやっています。
どう考えても、無謀な勤務体系と思います。

このような職場環境で、世間では「教職の給与が高い。」とか、東京都教委は「教師のいじめで子供が欠席・不登校になったら当該教師は懲戒」にするなどと言っています。こんな危険な職場を有能な教職志望者が選ぶとは思えません。
現在の風潮の結果、ベテランが抜け、能力不足の若手が入り、学校を引っ張る20代後半〜30代が欠落した中学校が続出した未来を想像すると、仕方のないこととは思いますが、少々悲しくなります。

 ふぉとんさんのコメントにあるように、中学校の教員の勤務は傍目に見るよりもずっと激務です。
 そしてそれは、今までのツケを中学校教師たちが支払っている ともいえるのです。

 そもそも今の学校教育の形は明治・大正時代から変わっていないのです。一斉授業という形態も変わらなければ、小学校は担任が全教科をみ、中学校以上は教科ごとに教員が変わるという形態も変わっていません。

 では、なぜ学校教育の形態が変わらなかったか? それは、子供の育つ過程が変わらなかったからなのです。少なくとも、30年ほど前までは。

 つまり、30年前までは、子供たちを取り巻く、子供の文化も環境(家庭・地域・社会)も、さほど変わらなかったため、平均的な子供が生まれて学校に上がるまでに身に着けるべきことが、ある程度身に付ける事が出来たのです。

 だから学校教育が成立しました。逆に言うと、今の小学校就学前の子ども達は30年前までの子供たちよりも、身に付けるべき物事を十分に身に付けずにいる ということです。

 そんな状態で小学校に入り、就学前に社会性・協調性・忍耐の基礎を身に付けているはずなのにそれが出来ていなくて、小学校6年間で本来なら磨きをかけるはずの社会性・協調性・忍耐などを磨ききれないのです。中学校ともなると……

 まぁ、ドミノ倒しですね。

 人を育てるということは、ある意味砂の山を築くようなものです。大きな砂の山を作りたかったら、底辺を広く取り、その底辺の基礎をきっちり固める必要があるわけで、今の子ども達はその底辺を広く取れず、固められずに、中学校に突入しているのです。

 30年前、本来なら年かさの子供から教えてもらうはずの集団遊びを、幼稚園で教えなければならなくなった、と知ったとき、愕然としました。なぜなら、子供の文化が途切れ始めたということだからです。

No.14 ふぉとんさん

>このような職場環境で、世間では「教職の給与が高い。」とか、東京都教委は「教師のいじめで子供が欠席・不登校になったら当該教師は懲戒」にするなどと言っています。こんな危険な職場を有能な教職志望者が選ぶとは思えません。

例えば・・・からのような教員ばかりであれば、教育公務員の給与は高いとは決していえません。逆に安すぎるとも言えると思います。
しかし、そのような教諭は大多数とは言えないのではないでしょうか?
現状の学校と20年前とは同じではないと思いますが、私が知っている限りでは職員朝礼の少し前に出勤し、5時前には帰宅する教諭は少なくありませんでした。
夏休みなどの期間中はクラブ活動をやっている場合でも、午前また午後だけがほとんどですし、夏休み期間中の練習はある程度の休みはありました。

「・・・教職を選ぶとは思えません」とのことですが、教員採用試験で会場が閑古鳥がなくなんてことに今はなっているのでしょうか?
医師の場合は医学教育のキャパシティの問題から、現状に対して潤沢に供給できているとは思いませんが、学校教諭の有資格者は教職についている人口と比べるとずっと多いと思います。

私はまったくの憶測ですが、部下の一般教諭の内、校長が絶対に必要だと考える教師は1/4、どっかに行って欲しい教諭が1/4、そのたが半分ぐらいだと思っています。

少なくとも、医師のような代りが無いと言うような状況だとは思えません。

>>No.16 クルンテープ さん
>私はまったくの憶測ですが、部下の一般教諭の内、校長が絶対に必要だと考える教師は1/4、どっかに行って欲しい教諭が1/4、そのたが半分ぐらいだと思っています。

医者の世界もそんなもんかと。

 クルンテープさん、教師が5時前に帰宅したとしても、うちでビールをのんびり飲んでいるわけにはいかないのです。仕事をうちに持って帰るだけなのです。学校内外の雑用も多いですしね。

 もっとも、「何だかなぁ〜」という教師がいることも、まったく否定しませんが。

 

やっぱり、定義のはっきりしない「いじめ」という言葉で全体をぼかすのではなく、刑事責任を問われるべき「傷害事件」が自殺の前にあったことを明確にして報道すべきではないかと思い始めた今日この頃。

No.18 ばあばさん

私もそんな仕事熱心な教師がいないとは言いませんが、受け持ちのクラブも見ないし、帰宅後の教材研究もやっているの?って感じの教師も結構いました。
熱心な教師に雑用が多いのも不適格な教師の仕事を背負い込んでいるという理由もあるでしょう。

教師をふるいをかければ、自分の担当の雑用すらやらない教師が減るわけで、熱心な教師が背負い込む負担も減って楽になります。
新人教師が増えて能力的には劣ったとしても、まだやらせられることはやらせられるだけまだずっとましでしょう。

No.16 クルンテープさん

>私が知っている限りでは職員朝礼の少し前に出勤し、5時前には帰宅する教諭は少なくありませんでした。
今も、17時前にいなくなる教員はいます。例えば、非常勤教諭は受け持ち時間分の給与を貰う時間給職員ですので、朝礼後に来て午前中で帰宅することもままあります。
一般の先生も、研修が入ったりすれば、17時前にいなくなることは良くあるかと思います。
少なくとも、現在、常勤講師以上で、仕事でもなく定時前に姿を消すのは不可能かと思います。

ちなみに、20年前は、先生も夏休み、あったかも知れません。
今は、夏休み、出勤日なので、まあ、学校にはいます。

>教員採用試験で会場が閑古鳥がなくなんてことに今はなっているのでしょうか?
現在、教員は大量退職時代を迎えており、教員採用は急速に広き門になりつつあります。中学数学・理科では、県によっては応募倍率で4倍、小学教員では2倍という状況になっており、広き門と言えるでしょう。

クルンテープさんのおっしゃるとおり、教育免許保持者は教員数を大きく上回る数がいます。ただ、医師免許と異なり、教員免許は単位を取得すれば容易に取得でき、それ自体は「教諭」としての能力を証明するものでは全くないのです。「落ちる」実技試験があるだけ運転免許の方が能力証明としては有価値かと思います。

従来は、ある程度の倍率下の採用試験での競争により、(教育学部のレベル低下にも拘わらず)県教委は一定のレベルの人間を採用することができましたが、これから「辛い職場」というイメージが広がると、志願者のレベルは急激に落ちる可能性があります。
公立学校教員採用は欠員補充で行われますので、受験倍率が1倍なら応募者は全員採用されるということです。

既に、家庭の教育機能は崩壊しつつある気もしますが、学校の教育機能も急激に衰えることを危惧します。
教員のレベルが下がれば、学校のいじめも含めたトラブルへの対応能力も落ちざるを得ませんし、教科その他の指導能力も落ちるわけです。

今よりも教員のレベルが落ちてしまうと、公教育のシステムが瓦解しかねません。
ちょっと、将来自分の子供を公立学校に進学させることに不安になります。

いじめ自殺の報土が増えましたが
実際の自殺数は増えてるんでしょうか?
どこかが数字を把握してるんでしょうか?

以下に詳しいかと…
文部省 生徒指導上の諸問題の現状について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/12/04121601/002.htm

少年犯罪データベース 自殺する小学生たち
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/50492427.html

少年犯罪データベース 自殺統計
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Jisatu.htm

No.21 ふぉとんさん

>今も、17時前にいなくなる教員はいます。例えば、非常勤教諭は受け持ち時間分の給与を貰う時間給職員ですので、朝礼後に来て午前中で帰宅することもままあります。

非常勤講師は時間単位の契約で、当然でしょうね。
私が知っているのは確か実働7.5時間で8時から4時が一応の勤務時間だったような。
4時半までは昼休みが休憩時間にならず、放課後に当てられていたような。
ですから、勤務時間をこなすということでは4時半まで校内にいれば、満たしていたと思います。

>今は、夏休み、出勤日なので、まあ、学校にはいます。

学校にいれば、形式的には勤務をしていると認められるかも知れませんが、工場労働者が、生産調整で休ませることができないときに構内の草引きをしているのと、それほど変わらないのが実態ではないでしょうか?
勿論生徒の問題行動があれば対応されているとは思いますが。

個人的には学校の週5日制は間違いだと思っています。
土曜日もしっかりと授業をして、その振り替え休日として夏休みなどに割り当てて、その上で、休暇中の出勤が必要な場合はきちんと時間外手当をつけるべきだと。

>ただ、医師免許と異なり、教員免許は単位を取得すれば容易に取得でき、それ自体は「教諭」としての能力を証明するものでは全くないのです。「落ちる」実技試験があるだけ運転免許の方が能力証明としては有価値かと思います。

教諭として仕事する場合、教諭の免許は必要条件になってはいますが、勿論十分条件ではありませんね。

>中学数学・理科では、県によっては応募倍率で4倍、小学教員では2倍という状況になっており、広き門と言えるでしょう。

4倍や2倍というのは私の知っているときからすると夢のような倍率ですが、それでもまだ採用数の3倍もしくは同数が採用されていないわけで、その洩れた受験者の全てが適格ではなかったと思います。

個人的には地位が安定した教諭の職について先生の身分は常勤講師程度に留め、各学校長(もしくせいぜい市町村教育委員会)との契約によって教諭として採用するぐらいの厳しさが必要なのでは考えています。
その代わり、教諭としての契約期間中は現在よりも給与水準を上げないとバランスは取れないと思いますが。

>今よりも教員のレベルが落ちてしまうと、公教育のシステムが瓦解しかねません。
ちょっと、将来自分の子供を公立学校に進学させることに不安になります。

教員のレベルは維持は教員の新陳代謝によってまだ図れると思います。
教師に必要とされる学力そのものは高校までの勉強をしっかりしていれば問題ありません。
後は大人として常識を持っているかの方が大切ですし、生徒扱いは訓練でいくらでも良くしていけると思います。
新卒新採の先生でも一人前同様、クラス担任や授業も受け持つのですから。

 クルンテープさんのおっしゃる、
>新卒新採の先生でも一人前同様、クラス担任や授業も受け持つのですから。

 これが私は問題だと思うのです。

 というのは、新卒新採の新米先生が最後に授業の実習をしてから数ヶ月たっているんですよね。おまけに、教育実習中に授業を実際にするのは、中学・高校だと、2〜4回位ですから授業展開についても、該当の年齢の子供の特性についてもわからないままで終わってしまうのです。

 小学校の1級免許取得のための教育実習は1ヶ月と中学・高校の教育実習よりも長いのですが、実際に授業をする回数は6回くらいです。これ、はっきりいって不十分です。単に「授業を体験してみました」程度のものなのですから。

 30年ほど前までは、この程度で新卒の新米教師でも立派に通用しました。なぜなら、新米教師であっても、近所の子どもたちと触れ合ったりして、子どものことをある程度はわかっていたからですし、子ども達はすなおに教師の言うことを内心どう思っているかは別にして一応は、聞いて行動してくれていたからです。

 そして、親御さんたちも「先生の言うことをよく聴け」と教え、子どもの前で教師の悪口は言わないくらいの見識は持っていたからです。今は違うようですが……

 医療でいうと、新米教師は医師の免許を取っただけ、という状態で実践に投入されるってことです。おまけに、子どもと接したのは教育実習のときだけ、という学生が圧倒的に多いのです。

 卒業間近な学生の作成した授業案を見せてもらうと、特に初等教育(小学校)科のものなど、子どもの年齢にそぐわない授業案をその時点でも作ってますからね。思いっきり笑えます。

 じゃぁどうすればいいか ですが、私は新卒で採用予定の教師の卵は皆、産休や病欠の教師の代用教員をするか、育休の教師の代わりの講師をやって適正を見るのがいいと思うのです。その上で正式採用を決める。あるいは、小・中・高の副担任を経験するのがいいのではないかと思うのです。

 なぜなら、講師をやりながら採用試験に臨む人は、学校や子どもの現状を理解した上で教師になることを望んでいる人だからです。

 おまけ、
 小学校教師が、翌日の丸1日分の授業の準備に最低何時間ほしいか というアンケートを25年前に私の住んでいる市の小学校校長会でとったところ、1教科で2時間はほしいという答えが圧倒的でした。つまり、翌日の授業の準備に12時間ほしいってことでした。

 クルンテープさんのおっしゃる、
>4倍や2倍というのは私の知っているときからすると夢のような倍率ですが、それでもまだ採用数の3倍もしくは同数が採用されていないわけで、その洩れた受験者の全てが適格ではなかったと思います。

 ですが、採用試験はペーパーテストでして、授業やクラス運営の試験はありません。つまり、教師として適正があるかどうかはこれではわからないのです。講師をしながら採用試験を受ける人も多いのですが、そして、講師の経験者の中には「教師としての適正が十二分にある」人もけっこういるのです。が、採用試験をする時間はなかなかとれませんから、現役の学生に遅れをとる人も多いんですよね。もったいない話ですが。

No.26のコメントの一部を訂正します。

>採用試験をする時間はなかなかとれませんから、

   を

採用試験の準備をする時間はなかなか取れませんから、

 に、訂正します。

No.26 ばあばさん

とりあえず訂正。

正:その洩れた受験者の全てが不適格ではなかったと思います。

誤:その洩れた受験者の全てが適格ではなかったと思います。

ばあばさんのおっしゃることを言いたかったのでした。

No.25 ばあばさん

概ね同感です。

大学の付属小中高での教育実習だと一般校よりも実習期間が長い場合もあるかと思いますが、それでも不十分でしょうね。
それに付属校と一般校との生徒さんの質もかなり違いますし。

それなり成績で大学まで上がってきた実習生にとっては質の良い付属校の生徒と実習生が想定していた生徒との落差に驚き、更に教員となって一般校の生徒と想定との落差に驚くと思います。

ただ私が教員全体の質を高めるということで言いたいのは、一旦採用されてしまえば奈良県の職員のようなひどさでもない限り地位が安定というのではダメだろうということですね。
ろくでもないのは首切りでなくてもせめて常勤講師程度の待遇までは落とさないとダメかと。

 教育実習というのは大抵の場合、学生の母校で行うのが普通です。なぜなら、大学の附属学校だけでは間に合いませんし、付属校に実習生が集中すると、付属校の生徒の教育が滞るからです。また、自校の卒業生であれば教育実習を受け入れようと、学校側も了解するからです。

 教育実習生が去った後、教師が行うのは、教育実習生の下手くそな授業の後のフォローです。さもないと、子ども達に不利益が降りかかりますからね。

 また、クラスを持ってもらうには不的確な教師には、首にすることは難しいのでクラス担任を外し、出来るだけ現場から離れる部署を用意するなど、それぞれの学校で工夫していますし、教師についての情報は転勤の際に次の学校に伝えられることが多いです。


 しっかし、いつもいつも思うのですが、なぜ教育関連の問題になると、小・中・高の学校教育だけに注目するのでしょうね。

 学校教育が上手く行くかどうかは、それ以前の、幼稚園・保育園での教育が問われるんですけど。幼児教育は、障害児教育と並んで、「教育の原点」であり、「土台」なんですけど、この問題を扱われる方々から、ことごとく忘れ去られています。小学校の低学年の担任の教師の方々は、内心常に思っていると思うのです。「いったいぜんたい、幼稚園や保育園でどんな教育をしているんだ?」と。

 幼児教育の段階できちんと教育が出来ていれば、小学校低学年で学級崩壊はまず、避けることが出来るはずなのです。土台を疎かにしたままで、学校教育を考えても、あまり期待は出来ないと私は思っています。

ばあば様

>教育実習生が去った後、教師が行うのは、教育実習生の下手くそな授業の後のフォローです。さもないと、子ども達に不利益が降りかかりますからね。

どこの世界でも新人(ですらないでしょうが)の教育は現場の役目であり、そのフォローは面倒ですが、自分もそうして育ってきているので文句は言えませんね。ただ、下手な現役教師のフォローは誰もしてくれないので、生徒が自分でやるしかありませんが。

>小学校の低学年の担任の教師の方々は、内心常に思っていると思うのです。「いったいぜんたい、幼稚園や保育園でどんな教育をしているんだ?」と。

小学校の先生方が感じているのと同じことを保母さんたちや幼稚園の先生方も感じているのではないかと推察されます。「いったいぜんたい家庭でどんな教育をしてるんだ?」と。

 じじいさんのおっしゃる、
>小学校の先生方が感じているのと同じことを保母さんたちや幼稚園の先生方も感じているのではないかと推察されます。「いったいぜんたい家庭でどんな教育をしてるんだ?」と。

 これについては本来、幼児教育の時に行うものなのです。つまり、親への教育も幼児教育の中に含まれるものなのです。幼児教育の8割は親の教育で、残り2割は子どもの教育なのです。大抵の場合、幼児を育てる親は新米の親だから ですし、親さえしっかりしていれば子どもの物心両面の環境は健全なものになるからです。

 ところが、幼児教育の世界にそれらのことをしっかりと指導できる、ベテラン幼稚園教諭やベテラン保育士は少ないのです。なぜなら、経営的に雇えないことと、重要性をあまり考えていない経営者、行政も多いからなのです。

 また、幼児教育をになう人々に対する社会の目も、非常に心許ないものです。「子どもを遊ばせれば事足りるお気楽な職業」というのが社会の評価でしょう。その証拠として、教育問題で幼児教育が論じられることがないという事実があげられます。

 そういう社会の評価が、幼児教育をになっている人材を育てている面も十分にあります。幼児教育の現場の教師や保育士は若い年齢の人が多いので、社会の評価に十分影響されてしまうのです。

 鉄は熱いうちに打て といわれます。それは、親に対してもそうなのです。上の子が3才の子供を持つ親は、親になって3年目の新米の親なのです。まだまだ不慣れですし、子育て不安も多いものなのです。

 幼児教育の現場で、新米の親に対して子育てについての教育をしっかり行うことが出来れば、その後の展開はずいぶん違うモノになるはずですけどね。

ばあばさんの意見になるほどと思いました。
私も多くの人と同じように、幼稚園の先生や保育士の仕事を、小学校以降の教師と同列のものと考えていませんでした。実は小学校以降の教師以上に子供たちのその後の人格形成等に影響を与えるものなのですね。
しかし、幼稚園の先生はそういう意識があって幼稚園の先生をやってらっしゃるのでしょうか?

私の甥は兄弟で別々の幼稚園に行きましたが覚えてくる言葉が全く違います。兄弟の性格の違いもあるのかもしれませんが、幼稚園が違うとこうも違うもんだと関心した覚えがあります。

 後だしじゃんけんさんのおっしゃる、
>しかし、幼稚園の先生はそういう意識があって幼稚園の先生をやってらっしゃるのでしょうか?

 教師・保育士という人種は、子ども達に打ち込めば打ち込むほど親御さんに対してアプローチするものです。なぜなら、子ども達に一番の影響力を与え、育てているのは親御さんだからです。また、子どもの幸せと成長を促す重要な存在としての親という存在の重みについては、学校で学んでいますから(教師・保育士自身の実体験としても)。

 ですから、親の教育という意識がないとしても、アプローチという形の教育があるわけです。ただこれは、親御さんに「教育されている」という意識を持たせない形を取ります。親御さんと幼稚園教師・保育師がタッグを組んで子どもの成長を見守りつつ育てるという形を採ることが一般的です。

 園長が意識的に「親の教育8割」と職員にそう教育する場合もあります。大半の職員が20歳前半の場合は特に意識的に教育する園もあります。

 また、幼稚園や保育園は比較的自由に特色を打ち出すことが出来ます。といっても、学校指導要領と同じように指導要領はありまして、それに則って行われるのですが、何に何時間というような決め事・数値化は子どもが幼すぎて出来ないのです。ですから、付加価値を付けることは可能なのですね。

 で、勉強方面や体育教室、鼓笛などの音楽面に力を入れている園も多いです。また、教育・保育方法に特徴を持たせる園もあります。これは、少子化を反映して園児を集めるためだったり、園長の信念によるものだったりします。

 幼稚園や保育園選びは親御さんの自由に委ねられていますから、どの園を選ぶかは親御さんの眼力と信念にかかっています。園庭で遊んでいる在園児達の表情や仕草、保育士・教師に対する応対の仕方など、外からでもうかがうことが出来るので、比較検討はし易いですね。

親と教師にタッグを組まれたら子供は逃げるとこがないじゃないかぁ
・・とひねくれてたあたしなんかは思いますね。
それも父親まで出てこられるとほんとに。

・教育の原点は家庭にある。幼児教育や,ましてや障害児教育には無い
・保育園では教育はしない
・「学校に何もかも押し付けるな」ではなく,できないことはちゃんと断ってほしい。少ない経験からでしかないが,できもしないのに引き受けて,忙しがっているように見える
・高校はもとより,小中学校であっても「学校へ行かなければならない」という義務はない
・教師は,学校では成績優秀で,そのまま「先生」になってしまうのがほとんどであり,経験不足もしくは想像力不足のためか,相手(児童生徒や保護者)の心情を理解できない教師が少なからず居る
・中高校では,少なからぬ保護者が「子供を人質にとられている」と感じている…ことを教師は知らない
・「仕事をうちに持って帰る」←最近は個人情報の持ち出しになるので,止めたほうが良い。そもそも,持ち帰り残業は悪しき習慣であるのに,苦労自慢の様子

もちろん,教師の全ての原因があると主張しているわけではない。

立木 志摩夫さんの
>親と教師にタッグを組まれたら子供は逃げるとこがないじゃないかぁ

保育士は、ばあばさんのいうように、園児だけでなく保護者の教育をしているのです。乳幼児を育てるには、しつけも大切だけど逃げ場が必要なことを、保護者に身につけてもらうのです。両親揃っているのなら、母親は普段は厳しいけど、父親は基本的にはやさしく、ここぞという時だけに、怒るとか、またその逆とか。祖父母とか、近所とか、役割は臨機応変に。

こういうことって、昭和の40年代ぐらいまでは、ほとんどの家庭で誰に教わるまでもなくできていたのですが、それ以降は、誰かが教えないとわからなくなってしまったのです。
両親2人共、子どもに厳しいとか、逆に個性を伸ばすとか言って、しつけを全くしないとか。

身内に23区内の公立保育園で保育士をしていたのがいるので、色々な出来事を聞いてきましたが、もう、15年近く前には、子どもよりも保護者の教育をしないといけない状況になっているようでした。

nsikuさん こんにちは

niskuさんのおっしゃるような、役割分担というのは実感として同意なんですよ。
ただ、それを「教える」ことなんかできるのかはちょっと疑問です。

ばあば様のおっしゃる「幼児教育の8割は親の教育」ということは「なるほどなあ」と思うと同時に「難しいよなあ」とも思います。

特に、若い保母さんの場合、相手が自分より年上(最近は30代や40代も当たり前)の社会人であることが多いわけですから、その彼らを教育しようと思えば並大抵ではできないような気がします。要求される「人間力」のレベルはかなり高そうです。

しかもnsiku様のおっしゃる

>こういうことって、昭和の40年代ぐらいまでは、ほとんどの家庭で誰に教わるまでもなくできていたのですが、それ以降は、誰かが教えないとわからなくなってしまったのです。

というのは、しつけのやり方もそうですが、やはり核家族化と父親の弱体化が大きいのかなと思います。

昔なら、箸の上げ下ろしから社会のマナーまで、口うるさいおばあちゃんがいたり、お父さんが厳しく怒ったりで、家族がそれぞれ役割分担のもと、子どものしつけをやっていたように思います。

今では、お父さんはやさしく、祖父母もたまにしか会わないので徹底的に甘く、お母さんが辛うじて少しはしつけをするが、お母さんも悪役は嫌なので、結局最後には誰もしつけをしなくなり、そんな「無躾児童」が、保育所、幼稚園や学校に送り出されるのかと。

ただ、その前に昭和40年代には、お金はあるのに給食代を踏み倒すようなトンデモ親は、ほとんどいなかったように思います。(払えない家庭はありましたが)

>それを「教える」ことなんかできるのかはちょっと疑問です
立木 志摩夫さん、私も正直言うと、同じで、疑問です。

子どもを育てる時に、役割分担があるということは、保育師や幼稚園教諭を養成する課程で、自分で子どもを育てていない若い彼らに対して、理論というか保育としての学問として教えていたはずなんです。特に、保育師は、子どもの生活を保育することが目的な訳なので。

ところが、いつの頃からか、保護者にこれを、身につけてもらうように仕向けることが保育師の仕事なってしまったようです。(保護者は子どもを預けているだけという意識なので、親業に表立って口を出されるのは、嫌ですから、親が自ら気づくように、仕向ける訳です)

保育師だった私の母が、「子どもはいつの時代も基本的には変わっていない。周りの大人が変わってしまったから、子どもが変わってしまったように見える。大人の責任だ。」と言っていました。自分が大人になった今、身に詰まされる言葉です。

>払えない家庭はありましたが
じじいさん、そうですね。私の時代(昭和50年代)でも、払いたくても払えない、期限の猶予を申し出ていた家庭はありましたが、踏み倒す人はいませんでした。

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