エントリ

 いじめが議論されるときに

 「いじめる側が100%悪い。」

 という意見が述べられることがあります。

 これに対して

 「いや、いじめられる側にも原因がある。」

 という反論が主張されることがあります。

 しかし、よく考えるとこの反論は反論になっていません。

 昨日、軽度発達障害の子供たちを特集したテレビ番組を見たが、そのような子供たちの9割以上がいじめられた経験を有するといいます。
 その観点で言えば、軽度発達障害はいじめの「原因」または「理由」と見ることができます。
 その意味で言えば、いじめられる側には「軽度発達障害」という「原因」があるということは必ずしも間違いではないことになります。

 しかし、「いじめる側が100%悪い。」という意見は、いじめる側が「悪い」と言っているのです。

 これに対して、「いや、いじめられる側にも原因がある。」という主張は、いじめを何ら「正当化しない」のです。

 たとえ、いじめられる側に重大ないじめられる原因があったとしても、

 「どんな原因もいじめを正当化する理由にはならない。」

 のです。

 したがって、以下の命題の正しさを再確認することになります。

 「いじめる側が100%悪い。」


関連図書

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「軽度発達障害」は、脳機能障害であって、本人の責任ではありません。そう言った意味では、いじめられる原因がいじめられる方の対処に問題が有るとは言えないというのは、言うまでもありません。

家内が教師をしていて、不登校の生徒を取り扱う責任者とされた事から、少々軽度発達障害について勉強してみましたが、こうした軽度発達障害について、教員養成学校でも系統的に教えてこなかったようで、ADAH, アスペルガー、自閉症など名前は知っていてもどうして対処して良いのかよく知らない教師が多いと思います。アスペルガーなどは、国内の専門家の中でも認知されてきたのが最近ですから、教師が知らないのは当然とも言えます。こうした障害を持つ子供たちには、教室環境を整える事、周囲の子供たちに障害について理解を促す必要があります。こうした知識を広めるためには、教師の生涯教育をすすめる必要があると思われます。(発達障害と言ってもいろいろな病態があるため、対処方法も多少異なるのですが、ここでは詳しく記載しません)

同僚の子供も自閉症があり、成人して仕事についていましたが、非言語性コミュニケーション能力が未発達なため、だまされて金を巻き上げられたりすることがあったと聞きます。犯罪被害者になる事もしばしばあるようです。逆に、レッサーパンダ帽男の事件のようなこともあり、ゆっくり対策を考えている段階ではないかも知れません。

mackey さんのコメント を触る形で手抜きを承知いただきたく(苦笑)
うちの子供が、少々軽度発達障害の診断を受けたことがあり、治療とともに市の施設で訓練しましたが、こうした軽度発達障害について、教員養成学校でも系統的に教えてこなかったようで、ADHD, アスペルガー、自閉症など名前は知っていてもどうして対処して良いのか知らない教師が多い。こうした障害を持つ子供たちには、教室環境を整える事、周囲の子供たちに障碍について理解を促す必要があります。また教師によっては始めから養護学校へという示唆をうけましたが、6年間小学校で通しました。(理解の無いのか責任逃れの先生もおおいのです)
しかし、その苦労・現実への転写を子供たちに教えようとしても、子供たちは口頭ではわかったといっても実感がない。ために、それがあざけりの対象になる。この構図は変わらないでしょうし、今後も、変わらないでしょう。
「仙台太郎」という置物・写真・刷り物をご存知ですか。明治初期の痴呆症の人で、店に入っては物を盗むわけでなく、ねだる。そこで何某かの物をあげると、喜んで挨拶し去っていく。ところがそうするとその店が繁盛する評判が立つ。そこでこそって彼の写真を店頭に貼る。いまでも仙台市内でではやっているお店があります。今の倫理概念でいいことかはともかく、昔のコミニュティーでは物・居場所を与えるのは喜ばしきことだったのです。
ちなみに当方の子供は軽度でもあったのと、そのような児童を持つサークルの支援もあったのでで、いまは中学で活動しており、成績も遜色ありません。ADHDという障碍はそういうことが有るという話です。

「いじめる側」と「いじめられる側」に限らず、加害者と被害者の間に「真の気付きと赦し」がない限り、処罰や賠償などもほとんど意味をなさなず、もちろん再発防止もありえないのではないか、というのが最近考えていること。
おそらく、心の底から悔い改めた後に絞首台に登った加害者と、そうでない加害者とでは、被害者家族が刑執行後に過ごす日々は全く異なるものでしょう。
極刑によって罪が贖われたにも関わらず。

刑事裁判にしろ、民事裁判にしろ、「真の気付きと赦し」を本来の目的として設計され運用されているシステムではありません。
まれにそのようなものが当事者間に芽生えることがあるとしても、それはあくまで副産物。

医事紛争でも事情は変わりません。

そんなとき、たまたま見つけた一つのヒントが「修復的司法restorative justice」です。
被害者と加害者の直接対話(victim offender mediation)を重視するその手法は、主に刑事事件、それも少年刑事事件で発達してきたものですが、内在する理念そのものはもっと広く、人間同士の「トラブル」全てについて対象となし得るものだと考えます。

まだかじり始めたばかりだけれど、10年と少し前、ブレイク前夜の「Evidence-Based Medicine」に初めて接したときと同じ匂いがします。
主流派からはキワモノ扱いされていても、「こいつは来るぞ」と。
裁判所でもさすがに家裁関係者は、判事も含めて興味を持っている方がそこそこいるようです。

「修復的司法」でググるとぽちぽち情報が得られます。
Amazonで検索しても投稿時現在で11件がヒットしました。

関西には
・被害者加害者対話支援センター
http://www.vom.jp/
というNPO法人もあるようで、12/3(日)には
>第12回 被害者加害者対話支援センター 定例研究会  
>時間 13:30〜17:00
>テーマ 「メディエーションロールプレイ/いじめ」
>ロールプレイリーダー
>   VOM運営委員会/藤岡 淳子氏(大阪大学,VOM理事)
>場 所 甲南大学
>参加費 当センター会員無料 一般1000円
という催しをやるそうです。

意見1>
いじめについては、確かに「軽度発達障害」の児童生徒に向けられたものもあるでしょう。
しかし、今さかんに問題にされている「いじめ」について考える時、
敢えて「軽度発達障害」のいじめ事例を挙げるというのは、如何なものでしょうか。


意見2>
私にとっての「いじめ」の定義は、
”特定の個人に向けられた卑怯な行為” です。

すなわち、
「いじめ」は、卑怯である。
卑怯は悪であり、恥である。
したがって、「いじめ」は悪であり、恥ずかしいことである。

 「いじめられる側にも原因がある」というのは、間違ってはいないかも知れません。
そう思いたくなる事例も確かにあるでしょう。

しかし大切な事は、いじめられる側に「いじめられる原因」があろうとなかろうと、
「いじめ」そのものが卑怯な行為なのです・・・。
そこを忘れてはいけない! と言いたいのです。


モトケンさんの言われることが筋が通っていますね。

つまり、「いじめる側が100%悪い」という命題に反駁しようと思えば
「いじめられる側が悪い(こともある)」あるいは「(これこれの条件下では)いじめることは許される」という論を立てなければいけないということですね。

>田舎の眼科開業医さん

 私は

 「どんな原因もいじめを正当化する理由にはならない。」

 と明言していますが、何ゆえに

>敢えて「軽度発達障害」のいじめ事例を挙げるというのは、如何なものでしょうか。

 なのでしょうか?

 私の論理は、いじめの理由としてどんな理由をあげても同じです。

 たとえ、人殺しをした子供に対してもいじめを正当化する理由はありません。

こんばんは。いつも興味深くROMしております。

いじめという現象は許すべからざることである、というのは十分に理解した上での質問です。

>たとえ、人殺しをした子供に対してもいじめを正当化する理由はありません

これは私も至極当然のことと考えますが、では例えば、他者に対してひどいいじめを行なっていた当事者が、何らかの「きっかけ」により、いじめを受ける側になった場合はどうでしょう?

田舎の眼科開業医さんがおっしゃりたかったのは、○○という対象へのいじめ、という観点からよりも、いじめが起こる・いじめを行なうという(それらを生み出す)状況を鑑みるべきではないか?というとこだと私は感じたのですが。違っていたら申し訳ありません。

 「いじめる側が100%悪い」そして、「いじめられる側にも原因がある」というのは必ずしも間違いではない、と私も考えます。そこで、「いじめられる側にも原因がある」っと反論する人は、何がいいたいのかという視点からのコメントをしたいと思います。

 私は、「いじめられる側にも原因がある」と反論することによって、「いじめる側」の子供の社会からの批判を軽くしようと考えているのだと思います。そして100%悪いですが、しょうがないという部分もあるといいたいのではないかなと思います。

 子供は、精神的に未熟であること。そしていじめる原因があれば、いじめてしまう場合があるということ。そういった子供の特質を考えられないでしょうか?私は考えられると思います。
 とすると、「いじめる側が100%悪い」という命題はそのしょうがない部分を無視し、もしくは、極端な言い方をすることによって、子供を諭そうとするスローガンなのだと思います。

 実質的な議論をするとなると、元田舎医さんのおっしゃるようにいかに「真の気付きと赦し」をするかということになるのだと思います。

モトケンさんへ


>私の論理は、いじめの理由としてどんな理由をあげても同じです。
>たとえ、人殺しをした子供に対してもいじめを正当化する理由はありません。

モトケンさんは、「いじめを正当化する理由はない」という視点(立場)かと存じます。
それはそれで良いと思います。

私は、「いじめを正当化する理由などあろうとなかろうと」という視点(立場)です。
いじめは許せないという点では、一致していると思います。

私は、「いじめは卑怯な行為だから許せない」というのが主張です。
「いじめを正当化する理由などあろうとなかろうと」という意味は・・・・、

例えば、(裁判では情状酌量になる要因と言えるのかどうかは分かりませんが)
「(自殺に追い込まれるほどに)いじめられたから、
 僕は意を決して、相手をいじめ返したんだ」という理由があったとしても・・・
というようなことなどが、私の念頭にありました。

実際、それに似たような事例は、私の子ども時代にあったからです。
それこそ、私が気がついて止めなかたっら、その彼は
学校の屋上から飛び降りる寸前だったのです。私は彼を職員室に連れて行き、
なんとかしてくれるよう先生方に頼みました。
その後の経緯は知りませんが、学校や保護者の間で色々あったのだと思います。

 でも結局は、その後、逆に「いじめの張本人」の方が、そのクラス内の
一部の生徒達からいじめられるようになったのです。そして、しばらくして
彼は不登校になりました。元々「いじめの張本人」は嫌われ者だっただけに、
自業自得という雰囲気だったと記憶しています。

私とは別のクラスでの出来事でしたが、今も心に残る後味の悪い思い出です。

例えば、その後、その二人の間で殺傷事件があったとすれば、上記のような事情は
情状酌量の要因にはなるのかどうか・・・、モトケンさんの判断にお任せします。

いずれにしても、「いじめを正当化する理由などあろうとなかろうと」、
私は、「いじめは卑怯な行為だから許せない」という気持ちです。



>私は「どんな原因もいじめを正当化する理由にはならない」と明言していますが、
>何ゆえに
>敢えて「軽度発達障害」のいじめ事例を挙げるというのは、如何なものでしょうか。
>なのでしょうか?

 昨今の「いじめ自殺報道」の内容が、それこそ軽度発達障害児の「いじめ」に
関する事例であるならば、そういう事例について、この場で今まさに
おおいに論じ合う事は問題ないと思います。

 私にとっての良識を提示はしても、他人に押し付けるつもりはないからこそ、
「如何なものでしょうか」という表現になりました。それ以上の他意はありません。
何ら問題ないというご判断なら、それはそれで良いと思いますし、私からは、
それ以上の事を申し上げるつもりもありません。
勿論、不愉快に感じたと言うのなら、謝罪いたします。
 

私もよく分からないのですが.......

「いじめられる側にも原因がある」というケースもあるのではと思うのです。
学生A(以下A)は相手を傷つけるつもりはなかったが、ちょっとした言動で学生B(以下B)を傷つけてしまった。
傷つけられ激怒したBは、その報復としてAをいじめたり、仲間はずれにする。
Bは、傷つけられた事に対する正当防衛と考えているので、加害者意識がない。
Aも相手を傷つけたつもりはなかったので、どうして不当にBからいじめられるのか理解できない。
実際には大小いろんなグループ間の対立という形でいじめが進行するので図式が単純化できないし、いじめる側といじめられる側が、グループの勢力関係の変化からしばしば入れ替わることもあるようです。

いくら正当防衛といっても明らかに意識的にいじめ行動に走るBが悪いと一般的には言えると思いますが、原因をつくったAが無過失であるとも言えないように思うのです。

ここで大人が介入していじめたBを一方的に責めると、後でもっと大きな怨恨の種を残す結果になるかもしれません。すべての学校の中にいじめ裁判所でもつくりますかね?

どこかの国と国の戦争と同じような気がして、解決への道は遠いなと思うのです。

世間では
「いじめられる側にも原因がある。」
という主張の他に
「いじめられる方も悪い。」
という主張があります。事実モトケンさんが書かれたタイトルは
「いじめられる側も悪いのか?」
です。もし、「いじめられる方も悪い」のであれば、「いじめる方が100%悪い」の反論になります。読み手からすると、「悪い」を「原因がある」にすり替えた様に感じられる点が問題かなと思います。

「軽度発達障害」や「親が人殺しであること」は本人に責任のない事柄ですから、確かに本人は一切悪くないと思います。しかし、「いじめの張本人である」「自慢話ばかりする」「人を馬鹿にする」「陰口をいう」「すぐ先生に告げ口する」などの傾向や事実がいじめの発端である場合、本当にいじめられる側は一切悪くないのかと問われると疑問です。

モトケンさんが「命題」という言葉をお使いになったので、敢えて言葉遊びをさせて頂きます。
「いじめる側が100%悪い。」
これを論理学でよく使うAならばBの形に書き換えると
1) いじめるなら100%悪い。
になります。この対偶命題は
2) 100%悪くないならいじめではない。
になります。よって1)が正しければ2)も正しいことになります。これは、1%でも相手が悪ければそれはいじめではない、という主張ですから到底受け入れることはできません。モトケンさんが法律家の立場を離れて一人の正義漢としてご発言なさったからこの様な表現になったことは重々承知しておりますが、やはり人間の所業において100%や絶対という言葉を使用するのは避ける方がよいのではないかと思います。

表現が良くなかったので訂正させて下さい。
1)いじめているなら100%悪い。
2)100%悪くないならいじめていない。

>私の論理は、いじめの理由としてどんな理由をあげても同じです。
>たとえ、人殺しをした子供に対してもいじめを正当化する理由はありません。

その通り。ただし生徒は
いじめやすい子供(本人の資質だけでなく、時には家の出自まで挙げて)
をターゲットにしています。ですから、前の私の意見はそのターゲッとにされた側の意見としてお聞きください。

尤もパターンはこれにとどまりませんが。

日本語は難しいので再度訂正させて下さい。
「100%悪い」の否定は「100%は悪くない」です。「は」を入れるか否かで誤解の生じ易さが異なりますので、
1)いじめているなら100%悪い。
2)100%は悪くないならいじめていない。
とさせて下さい。
(もし悪さの程度を%で表現し、かつ値は整数値のみ許すと約束すれば、
「100%悪い」の否定は「悪さの程度は99%以下である」になります。)

尚、ある具体的いじめに対して観察者が
「いじめている方が90%、いじられている方が10%悪い」
という結論を下したとします。この判断に至る理由が周囲に納得できるものであれば、「いじめている方が100%悪い」の反論になります。一方この観察者が良識ある方であれば
「だからと言ってこのいじめは全く擁護しないし、ましてや正当化などしない」
と言うと思います。つまり「100%悪い」に反論することと、「正当化する」のは次元が異なり、「正当化できないから反論になっていない」とする主張は論理に飛躍があります。

さらに言うと、
「いじめられる方も悪い」
という表現は不適切で
「いじられる方も多少は悪い場合がある」
程度が適切であると考えます。この言葉に実質的な意味があるかないかですが、危機管理の観点からは、本人や周囲の努力によって改善できるファクターがあれば改善に向けて努力するきっかけとしては意味があると考えます。

>「いじめられる方も多少は悪い場合がある」

という表現は、大人が全てを承知した上で、理論として頭の中で考える分にはよいですが、大人がこの表現を使用すると、子どもはそれは拡大解釈し、自分たちの免罪符にしてしまう惧れがあります。多少悪い部分があるんだから、少々(たいてい少々ではないですが)いじめられても仕方ないだろう、というように。

はじめまして。いつも拝見させていただいています。私も田舎の眼科開業医さんと同じようなことが気になりました。

「軽度発達障害」というのは、いわば病気ですから、ヤブ医者さんがコメントされておられるように、本人に責任のない事柄であり、弱者です。弱者の例を持ち出すと、弱者をいじめるのは卑怯だという感情が当然にありますから、このような例ですと「弱者をいじめるんだから、いじめる側が100%悪い」というニュアンスにとられかねないと思うのです。弱者でなくても、それこそどういう原因があろうとも「いじめる側が100%悪い」という話の持っていきかたのほうが、説得力があると思うのですが。

私が、思うのは 「いじめる側が100%悪い。」だけでは、不十分である。

1.いじめる側は悪い。
2.何故いじめが発生したのか、その原因と対策は何であるのか?

の”2”が大切であると思います。”1”のみが協調され過ぎると”2”がおろそかになる。でも、11月12日のエントリー「いじめ隠し、校長の自殺」のように、”2”のことを取り組まずに自殺してしまう校長がいる。それはそれで、問題の深刻さをアピールしたとも言えるのだが、目先のことだけではなく、時間をかけても本質を捉えた対策を講じる努力は必要だと思います。

>No.15 じじいさん
仰る通りだと思います。本音と建て前の様ですが、大人同士の会話と子供の前で話す会話は使い分けが必要かと思います。

発達障害児に対するいじめは、いじめる人間が言語道断に悪いのは間違いありませんが、悪いと指摘することはあまり意味がないように思えます。100%悪いなどと言えば、かえって解決を妨げるかもしれません。発達障害児に限らず、いじめられる側にいい悪いではない改善すべき点があって、いじめの解決のためにはいじめられた子に対する介入も重要であることが多いです。100%悪いを前面に出すと、なぜ被害者が何かしなくちゃいけないのという話になりかねないということです。いじめられっ子にも悪い点があるという言い訳も、結局いい悪いで改善を強いることの弊害だと思えるんですよね。

>No.19 元行政さん
発達障害児がいじめられるのを回避するためには、障害児が何かしなくてはならないと言うことですか?

元行政先生

>発達障害児に限らず、いじめられる側にいい悪いではない改善すべき点があって、いじめの解決のためにはいじめられた子に対する介入も重要であることが多いです。100%悪いを前面に出すと、なぜ被害者が何かしなくちゃいけないのという話になりかねないということです。

いじめの被害者にも改善すべき点がある場合も考えられますが、それはいじめとは別次元の問題で、いじめの解決のために求められるべき対応ではないように思います。

それをいじめとリンクさせることは、加害者側の理屈を一部なりとも正当化することにつながります。仮に、それが改善されていじめが収まったとしても、それは結果論であって、加害者側の問題は何一つ解決していないどころか、却って事態を悪くしている惧れがあります。

加害者側の理屈の一部が正当化された(いじめられるほうも悪いところがあり、私たちが指摘したから本人が直した、という論法)ことにより、次のさらに深刻ないじめを生み出す素地ができあがっているかもしれません。教師にそのつもりがなくとも、やっている本人たちは、大人の真意など分かるはずもないというか、分かるつもりもないので、自分たちに都合よく受け取るものです。

No.20 topo さん

障害児の場合は、障害児がするというより周り(いじめっ子のことではない)が障害児に対する対応を変えざるをえない場合もあるでしょうね。

あくまでも一例ですが、もともと無理をして同じクラスにしている場合、障害児が一定のレベルに達するまでは無理と判断して、クラスを変える事だってありえるのではありませんか?

No.21 じじいさん

>それはいじめとは別次元の問題で、いじめの解決のために求められるべき対応ではない

これはまるっきり逆です。
どういう対人関係で、どういう状況でおこったか。各人の対応は個々において適切だったか。そういたるまでの背景は何か。そういった総合的な対応がまず必要なのであって、単純にいじめっ子を完全否定してどれだけ叱ろうが罰を与えようが改善などしないだろうということです。
いじめっ子の矯正のために100%悪いということを伝えて叱るという手法を完全に否定するわけではありませんが、いじめっ子が言い訳にしそうな話を無視して叱ったのでは効果などあろうはずもありません。言い訳が通用しないことを納得させる上でも、いじめられっ子の問題にもスポットをあてるべきでしょう。

元行政先生、

元行政先生が想定されているのは、被害者の問題を解決させた上で、「お前のいう、いじめる理由は既に克服した。もういじめの言い訳も通用しないぞ」ということを納得させることでしょうか。一方的な否定ではなく、いじめっ子の話をじっくりと聞き、一定の対処をし、納得させるという手法なのかなと思います。そうしたお考えも当然あると思います。

また、先生がおっしゃるように、いじめの背景や当事者の対人関係、そこに至った理由などを把握することが重要であることに全く異議はありません。

私は、先生とは反対に、いじめっ子はそのことについて、「相手に何らかの理由がある場合は、その理由が改善されるまでの間はいじめても良い」という理解をすること、そして「その非を指摘した自分たちの行為は別に間違ってはいなかった。だって先生もそれを直せといっただろう。だからお前はいじめられても仕方がなかったんだよ。」と自己の行為を正当化することを危惧しています。

いじめっ子の言う「いじめられっ子の問題」とは、別にそれを改善して欲しいと思っているわけではなく、単に自らのいじめを正当化する理由を後付でこじつけただけです。彼らの本心は、自らのストレス解消のため、おもしろいから、仲間はずれが嫌だから、いじめているにすぎないと理解しています。

ですから、一つの問題を解決しても、別の問題点を探していじめを続行するか(最悪「うざい」など特段の理由なくやる場合もあると思われます)、福岡県の子どもたちのように別の標的を探すかではないかと思います。

うがち過ぎというご指摘をいただくかもしれませんが、子どもは純粋な一面は持っていますが、私たち大人が想像するよりもずっと狡猾です。私は、自己のいじめを少しでも正当化する隙を大人が与えてはいけないと思います。ただ、それを否定しただけで終わっていいとは、私も当然思っていません。その後のフォローが最も大事なのは言うまでもありません。

No.23 じじいさん

私はこのいじめの話は、子供のものであるとは思っていません。いじめは、人間の心理として、当たり前に発生してくるものだと思っています。誰かより優位に立ちたい。誰かを支配したい。誰かを排除したい。大人の世界でも当たり前に存在する感情ですが、それが歪に暴走していじめになるのだと思います。

>いじめる理由は既に克服した。もういじめの言い訳も通用しないぞ

まさか、そんなことは言いません。まずは、した行為と理由とのアンバランスから通用しないことを説くでしょうね。また、見破れた場合は理由が本当のものではないことを指摘するでしょうね。

>単に自らのいじめを正当化する理由を後付でこじつけただけ

いじめる理由は彼らの心の中に必ずあります。こじつけであろうが、こじつけでなかろうが、それは大きな意味はありません。一度表に出してやって、正当化できないということを教えるべきだということが必要だと思います。それからいじめられっ子の方を変えるということは、何もいじめっ子の望んだ通りにするとも限りません。その辺りはまさにケースバイケースでしょう。

人間は後から理由をつけることはむしろ普通です。子供だから甘く見ているわけではありません。大人が隙を見せなかったところで、反省に結びつくかどうかは甚だ疑問でもあり、再発防止を中心に考えておけばよいと思います。

> まずは、した行為と理由とのアンバランスから通用しないことを説くでしょうね。

 他の方も指摘していますが、相互理解を求めるのはいいとしても、それ以外のところで根本的に間違っているような気がしてなりません。

 「した行為と理由とのアンバランス」などではなく、どんな理由があってもしてはならない行為なんです「いじめ」は。他の方法で問題を解決しなければいけないんですよ。程度問題ではなく、手段の選択をまちがっているんです。

●newKamer さんへ

>「した行為と理由とのアンバランス」などではなく、どんな理由があっても
>してはならない行為なんです「いじめ」は。
>他の方法で問題を解決しなければいけないんですよ。
>程度問題ではなく、手段の選択をまちがっているんです。

 同感です。


●モトケンさんへ

そういえば、私はモトケンさんの質問に対して
N09でお答えしたつもりですが、それで
ご理解いただいたということでよろしいのでしょうか?
 


No.25 newKamerさん、
元行政さんは、
理由 に対する いじめの「段階(程度)」
のバランスではなく、
理由 に対して いじめるということ「そのもの」
のバランスを指しているのだと思いますよ。
いじめられる子に内包する(と仮定する)要因に対して、いじめという手段を用いるべきか否かということです。私は元行政さんの言葉は、
「いじめられる子の持つ要因(若しくは資質)に対して、いじめという手段を用いて批判または非難するのはアンバランスである」
と認識しました。


No.23 じじいさん、
>いじめっ子の言う「いじめられっ子の問題」とは、
>別にそれを改善して欲しいと思っているわけではなく、

私もいじめる子が「○○(←いじめられる子)のここを改善して欲しい」と願っていじめているとは思いません。また、

>彼らの本心は、自らのストレス解消のため、おもしろいから、
>仲間はずれが嫌だから、いじめているにすぎないと理解しています。

これらも一因にはあるでしょう。しかし、

>(最悪「うざい」など特段の理由なくやる場合もあると思われます)

この「うざい」というのが理由ということはありませんかね?
特段の理由もなくウザイ、ではなく、いじめられる子の持つ何かをウザイと感じてしまって、いじめに走る、という現象です。
例えば、場の空気が読めないとか、突拍子もない行動に出るとか、自分の価値判断のみで行動するとか。逆に何でも他人の言いなりで自ら進んで何かをしようとしないとか。
最近の子は(私も含め大人もですが)語彙が圧倒的に不足していますので、これらへの不満をウザイとしか表現できないのではないかなとも考えたりします。


大人ならば表立って行動をとったりは余りしませんが、どなたか言っておられたように子供は未熟なのです。未熟ゆえ後先も余り考えないし、残酷なことも平気でしてしまう。
無論未熟だからとて許されることではありません。我々大人はそれを人として卑怯である旨を諭さなければなりません。しかし単に「いじめをするのは絶対にあってはならない」と考えるのではなく、こどもは未熟ゆえそういったことをしでかすかも知れない、と認識した上でいじめ問題を考えるべきではないでしょうか。

ちなみに、容易くいじめに走るこども達の背景には、幼い頃から抑圧を受けず我慢することを体得していない(=親がさせていない)→欲求を抑制できない、というのもあると思うのですが、皆さんどう思われますでしょうか。

No.25 newKamer さん

要するに、どんな理由があってもダメなどという説明では、相手は納得などしないということを書いています。何故どんな理由があってもダメなのか説明できますか?そう思わずに行動して、そうでないと思っている相手に対して、効果が期待できますか?
他の方法で問題を解決すべきということは当たり前のことですがそれはあくまでも道理を考えた時の正答であるにすぎず、いじめっ子に説いて効果のある話ではないでしょう。現実としていじめといじめでない方法の区別が簡単ではないですし、一連の行為がいじめでも、一つ一つの行為はありふれたものでもありうるのです。いじめがダメなどという抽象的な話は、現実の場では期待薄です。この時のこういう行為がダメだったとか(理由とのアンバランスを指摘するのは個々の行為です)、同じことをしたならば、その時はどのような罰が待っているとか、具体的に指摘することによって、今後の防止に繋がってきます。

私の主張の意図がご理解できたでしょうか。
正しい理屈よりも、現実的な対応をということです。
いじめが悪いと唱えて解決するというのは、言霊神話ですよ。

No.28 元行政さん、
いじめ自体とのバランスではなく皆さんのおっしゃるようにいじめの内容とのバランスをおっしゃってたんですね。私の読み違いでした。失礼しました。
でも、

>現実としていじめといじめでない方法の区別が簡単ではないですし、
>一連の行為がいじめでも、一つ一つの行為はありふれたものでも
>ありうるのです。
>この時のこういう行為がダメだったとか
>(理由とのアンバランスを指摘するのは個々の行為です)、

なるほど、納得です^^

連投すみません。

No.28 元行政さん、
現実に即した対応という意味では納得ですが、

>どんな理由があってもダメなのか説明

することは確かに不可能です。理由を事細かに説明することではないからどんな理由があろうとダメなんです。
これは即時的な対応からは外れ時間を要することですが、ごく幼い内から「問答無用でダメ」を叩き込んでおけば将来的には説明を要さず通用することではないかと思います。

コロボックルさん

>幼い頃から抑圧を受けず我慢することを体得していない

そうとも言い切れません。あくまでもパターンの一つですが、以下のページを参照していただければ幸いです。
http://www.u-gakugei.ac.jp/~ohkawara/gakkouunei.html

>ごく幼い内から「問答無用でダメ」

この問答無用でダメは具体的でなくてはいけないと思うのです(幼い内から躾るべきですよね)。そしてそれが積み重なって、いじめとはということの正しい判断と、いじめは全てダメということを理解させられればと考えています。


>現実としていじめといじめでない方法の区別が簡単ではないですし、
>一連の行為がいじめでも、一つ一つの行為はありふれたものでも
>ありうるのです。
>この時のこういう行為がダメだったとか
>(理由とのアンバランスを指摘するのは個々の行為です)、

>いじめが悪いと唱えて解決するというのは、言霊神話ですよ。


 私は一貫して、いじめは卑怯だから悪いという立場です。(No4、No9)

 最近は、卑怯でない場合も「いじめ」に含めてしまう風潮のような気がします。
気に入らない事を言われれば、即、いじめ・・・というような傾向がその1例です。
気にいらないから、傷ついたからで、なんでも「いじめ」になってしまうのは、
自分自身の年代のせいでしょうか、私は どうも しっくりきません。

 「卑怯」は死語になったのかも知れません。
だからこそ、卑怯だから「いじめ」は良くない・・・という概念が
通じない人がいるのかも知れません。
また、だからこそ、「いじめ」と「いじめでない」場合の区別が簡単でないと
考える方が多いのかも知れません。

 だとすれば、「卑怯」という概念を、死語から復活させなくては
ならないように思います。
 

No.32 田舎の眼科開業医さん

実は先生のNo4にはかなり賛成です。
卑怯でなければいじめでないという話には少し違和感がありますが、卑怯なことであることを自覚させて止めさせるといったように抑止にも応用できますし、卑怯と思えるかどうかで大まかないじめかどうかの判断ができるということもかなり実用的だと思います。卑怯という単語はいじめのキーワードだと思います。

No.31 元行政さん、

ご紹介のリンク先、興味深く拝読しました。どうもありがとうございます。
抑圧〜は、私の言葉足らずでした、申し訳ないです。
先の臨床心理士の最後の言葉通り、抑圧の前段階というか基盤に於いて、親がこどもの存在全てを受け入れている(=安全感)、ということが必須条件です。その上での抑圧(禁止や制限)は、こどものために必要不可欠であると考えています。

でも考えてみたら、いじめる子はその前段階からして危ういですね...(もしかしたらいじめられて自殺してしまう子も)。

「卑怯」は私もいじめだけでなく様々な場で有用な概念だと思うのですが、これを再び社会通念に押し上げるためには...とうか今現在どの辺まで残っているのでしょうか。自分が「卑怯者」と言われた際に、言いようのない不快感を覚えるのって、どの辺りまでの世代でしょう。

元行政さん、コロボックルさんへ


>卑怯でなければいじめでないという話には少し違和感がありますが、
>卑怯なことであることを自覚させて止めさせるといったように
>抑止にも応用できますし、卑怯と思えるかどうかで大まかな
>いじめかどうかの判断ができるということもかなり実用的だと思います。
>卑怯という単語はいじめのキーワードだと思います。

  確かに、卑怯でない「いじめ」もあるような気がします。
逆に、(卑怯な)「いじめ」ではないのに、いじめ呼ばわりされてしまう
現実もかなりあるように思います(一時期のセクハラという言葉も、そうでした)。

 いずれにしても、卑怯と思えるかどうかで「いじめ」かどうかの
大まかな判断ができるという点で、私も かなり実用的だと思います。



>「卑怯」は私もいじめだけでなく様々な場で有用な概念だと思うのですが、
>これを再び社会通念に押し上げるためには...とうか今現在
>どの辺まで残っているのでしょうか。自分が「卑怯者」と言われた際に、
>言いようのない不快感を覚えるのって、どの辺りまでの世代でしょう。


 やっぱり、死語に近い言葉になっているのですね・・・・。(^^);

 私は50代ですが、「卑怯」と言われることに、間違いなく
言いようのない不快感を覚えます(=恥だと思います)。←恥も死語ですかね。

 「卑怯」という概念を死語から復活させる(社会通念に押し上げる)ためにも、
「卑怯」という言葉を日常、子ども達と話す時にも使いましょう。
使う状況や場面は、それこそ今、社会に満ち溢れているのですから・・・・・・。
例えば、お年寄りを狙う「振込込め詐欺」、「リフォーム詐欺」など。
 

コロボックル様

>しかし単に「いじめをするのは絶対にあってはならない」と考えるのではなく、こどもは未熟ゆえそういったことをしでかすかも知れない、と認識した上でいじめ問題を考えるべきではないでしょうか。

私は、「あってはならない」という考えと、「しでかすかも知れない」という認識は、対立してはいないと思います。いじめを容認される一部の方を除いて、基本的な理念(現状認識ではありません)として「あってはならない」という考え方は共通のものであろうかと思います。また、子どもが未熟ゆえ「しでかすかも知れない」というのは、いじめがなくならない現実社会を見れば万人に共通の認識であろうかと思います。

私が、主張しているのは、「子どもたちに対峙する時」に、大人の側が子どもに免罪符を与えることがないよう、「いかなる理由があってもいじめは許されない」という姿勢を崩してはいけないと言うことです。

>この「うざい」というのが理由ということはありませんかね?

子どもが「うざい」という言葉を使うケースは、確かにコロボックル様が指摘されるように、空気を読めない行動や自己中な行動をさす場合もありますが、幼稚で語彙がないため、行動の価値観やテンポが自分とは違ってイラっと来る、外見が気に入らない、うまが合わないなど自分が気に食わない相手を卑下する場合まで含まれると思われます。私が指摘したのはそういったことです。分かりにくくてすみません。

「卑怯」といわれることは、我々のころは最も忌むべきことだったのですが、現在の子どもたちは「卑怯」という概念がないのかもしれません。やったもん勝ち、困ったらリセットすればいいじゃん、で、誰からもしつけられなかった子どもたちですから。

No.35 田舎の眼科開業医さん

>死語に近い言葉

多少世代間で重要度が違うかもしれませんが(必ずしも昔の方が上とは限らない)、卑怯という概念自体はどの世代でも通用すると思います。テレビのドラマでも、単純な話ほど悪者=卑怯者じゃないですか。自分自身の行動が卑怯だと認識、又は他の人から卑怯だと見られると認識すれば、行動を改めるきっかけになると思います。(皆でやっていれば、卑怯だという目で自分をみる人間もいないわけで、観察者の枠を広げるのは有効だと思います)

 おそらく、表現上の問題だと思うのですが、No.27 コロボックルさんのコメントに違和感を感じました。

> いじめられる子に内包する(と仮定する)要因に対して、いじめという手段を用いるべきか否かということです。

 「いじめは候補に上げていい手段ですらない」が私の答えです。それが「程度の問題ではない」とわざわざ書いた理由です。「用いるべきか否か」などというのは、いじめ肯定派の論理です。問題要因が大きければいじめという手段をとってもいいとしか読めない文章です。

 いじめがダメなのは、非論理的で利益がなく損失を生むからです。簡略な表現として「卑怯だから」という区分けは、私もなかなか実用的な気がします。

 ところで、なぜ「いじめは絶対ダメだ」が「説明できない」ものなのでしょうか?もし、いじめがダメであることが説明できないのならば、それは「道徳」とか「倫理」とかは全て説明できないと思いますが?

 なぜいじめはダメなのかについて、理屈で説明することは可能だと思いますが、理屈による説明は理屈による反駁が可能です。

 私も、ちいさいうちから絶対的価値観として、「ダメなものはダメ」または「ダメだからダメ」または端的に「ダメ」という躾が必要だと思います。

>私も、ちいさいうちから絶対的価値観として、「ダメなものはダメ」または「ダメだからダメ」または端的に「ダメ」という躾が必要だと思います。

禿同。
理屈じゃないっすね。

いじめは何やっても根絶することはないと思います。
弱いものいじめするのは人間の本性に根ざしたものですから(人間だけでなく他の動物でもあります)。
でも、人間には他人を思いやる心とか道徳心というものも同時に備わっています。
そこを伸ばすように、親や教師は「いじめはダメ」と言い続けるべきでしょうね。

 卑怯ということで、もう一つ。(←我ながら、しつこいですね)

 「いじめ」と知ってても、それを見ぬふりして我関せずというのは「卑怯」です。

また、自分もいじめられる側にされるといやだから 「いじめ」に加わった
というのは、なおさら「卑怯」です。
まして、それを「いじめ」の言い訳として語る神経が、私には信じられない。

そういえば、例の「必修逃れ」問題にしても卑怯なやり口と言えます。
しかも、高校教師がほぼ全国でやっていたことです。

看護婦が足らないから、もっと足らないタイやフイリピンから
金を積んでででも連れてくる。
これだって、私の感覚では「卑怯」です。

いじめどころか、「卑怯」自体が平気でまかり通っているんですよね。
まさしく、「卑怯」な日本です。そして、美しくない日本です。

先ず「卑怯」を憎み恥じる心を育てましょう。
そのためには、「卑怯」という言葉をもっと使わなくては・・・。

 なんか書いているうちに、情けなくて涙が出てきました。(^^);
 

犬の子は、他の犬と噛み合うことによって、力の加減を覚え、他の犬との関係をつくることを覚えていきます。たまたま力の弱い犬がいれば、それは人間から見れば、弱い犬がいじめられているということになるでしょう。まあ、たまに事故が起こることもあるかもしれませんが、犬の子の場合、それほど大事にならずになんとかなることがほとんどでしょう。
人間は集団でまとまりその力を強大にできることや、効率よく持続的に物事に取り組むことができることが、他の生物より優れた点ですが、これが人間の場合、弱い相手に深刻なダメージを与える危険を生んでいます。要するに生物として学習すべき基本的なことがらが、度を越えたいじめになる可能性があるということです。(おそらく前者をいじめとは考えない人もいると思いますが、深刻ないじめとの違いは程度だけです)もちろん度を越えたいじめには断固たる介入が必要ですし、度を越えたことに関しては何の正当性もないでしょう。

>人間は集団でまとまりその力を強大にできることや、効率よく持続的に物事に取り組むことができることが、他の生物より優れた点ですが、これが人間の場合、弱い相手に深刻なダメージを与える危険を生んでいます。

あんまり他の動物と変わらないと思いますよ。
犬の祖先の狼なんか上下関係は絶対ですからね。
弱い個体はずっと虐げられたままでそれを受け容れることが生きる道であるわけです。
それに比べれば、人間社会は組織を離れれば法の下の平等が保障されているという良い面もあります。
ま、他の動物は自殺なんてことを考えつくことはありませんが、人間だけが他の動物に比べて特別だとは思いません。

No.43 kenji47 さん

下の犬は虐げられているわけではないでしょう。虐げられているという感覚は人間の視点です。

法(これも人間に特別ですよね)は人間にとってすばらしい道具であることに異論はありませんが、平等が保障されているなんてことはないでしょう。これも言霊神話だと思います。

特別か特別でないか論じることはあまり意味のあることとは思いませんが、人間の特別でない部分から発して、特別な部分により(特別かどうかは結果に影響は与えない)深刻になっているのがいじめの問題でしょう。

元行政さん

>下の犬は虐げられているわけではないでしょう。虐げられているという感覚は人間の視点です。

現象を人間の視点で評価すれば虐げられているといえるのでは?
上位の鶏につつかれる下位の鶏なんてのもそうですね。

ま、あんまり意味のある議論とも思えないのでこれで終わりにしますけど、
こうした動物の上位下位の関係は、単純な体の大きさや知恵の有る無しで決まりますけど、人間の社会はより複雑ですから単純な要素で即決定されるわけではありません。
いじめられている子も(障害のある子は別ですが)、そこらへんを考えて頑張って欲しいものです。
何かを努力していじめっ子を見返すなんていうのは人間らしいと思います。

No.35 田舎の眼科開業医さん

>私は50代ですが、「卑怯」と言われることに、間違いなく
>言いようのない不快感を覚えます(=恥だと思います)。←恥も死語ですかね。

私は30そこそこですが、私も「お前は卑怯だ」と言われたら確実に顔がひきつるでしょうね。
ただ、現在の小中学生くらいの年代だと、もしかしたら「卑怯」と言われても「卑怯で結構、何が悪い」と思いかねないこどもが少なからずいるのではないかと思うんですよね。勿論育った家庭に於いて与えられた(押し付けられた)価値観にもよると思いますが...
「恥」も非常に重要な概念で、私はこれなくしては「卑怯」という概念を持ち得ないのではないかとさえ思います。特にいじめを扱う場合、「いじめをするのは卑怯である」と「いじめをするのは人として恥ずかしいことである」はほぼ同義であると思われます。


No.36 じじいさん

私のNo.27・3段目の文章は、別段じじいさんへ当てたものではありません。このコメント欄に何となく「とにかく何が何でもダメ・許すまじ」という雰囲気が漂っているように感じたので、我々がダメだダメだとそこで留まっていては何も変わらないのでは、と思いあのような文章になりました。判りづらくて申し訳ありませんでした。

>私が、主張しているのは、「子どもたちに対峙する時」に、
>大人の側が子どもに免罪符を与えることがないよう、
>「いかなる理由があってもいじめは許されない」という姿勢を
>崩してはいけないと言うことです。

これには全く同意いたします。

No.38 newKamerさん

>「いじめは候補に上げていい手段ですらない」が私の答えです。
>それが「程度の問題ではない」とわざわざ書いた理由です。
>「用いるべきか否か」などというのは、いじめ肯定派の論理です。
>問題要因が大きければいじめという手段をとってもいいとしか
>読めない文章です。

とのことですが、これも私の文章力の低さゆえでしょうか。
私は自分がいじめを受けたこともありますし、いじめを肯定する気は毛頭ありませんが、私は肯定派の論理を用いているのですかね。
 >いじめられる子に内包する(と仮定する)要因に対して、
 >いじめという手段を用いるべきか否かということです。
 >「いじめられる子の持つ要因(若しくは資質)に対して、
 >いじめという手段を用いて批判または非難するのはアンバランスである」
これを「候補」に挙げている、と感じられたのでしょうか。上記の一連の文章は、Aの持つ資質が小さかろうが大きかろうが、それに対する批判・非難の手段にいじめを用いるべきではない、と言う意図の下に書きました。

>もし、いじめがダメであることが説明できないのならば、
>それは「道徳」とか「倫理」とかは全て説明できないと思いますが?

私は道徳とは整然と論理的に説明するものだとは考えておりません。論理的である必要すら感じません。法律も同様と思いますが、ある集団に於いて長い時間をかけて培われてきた社会規範・価値規範が道徳や倫理といった不文律(成文律が法律であると思います、が法に関しては全くの門外漢なので違っていたらご容赦を)になるのだと思います。
道徳や倫理はそれこそ文化土壌が違えば異なってきますし、一方を論理的整合性を以って説明すれば他方を否定せざるを得ないことになり、従ってこれを論理的に説明するのは不可能、というより意味がないと思います。


No.39 モトケンさん

>ちいさいうちから絶対的価値観として、「ダメなものはダメ」または
>「ダメだからダメ」または端的に「ダメ」という躾が必要だと思います。

同意します。
「理屈には理屈の反撥が」もそうですが、他方経験の少ないこどもに言葉だけで理解させるのは非常に困難だとも思います。こどもが幼ければ幼いほど、理屈では説明し切れませんから。言われた時は何故ダメなのか理解できなくても、長じてから解ることは多いと思います。またそれでいいのだと思います。


No.44 元行政さん

言霊は、日本の宗教ですから...

> コロボックルさん
 「おそらく表現上の問題」とはじめからことわったのは「文章はいじめの部分肯定としか読めないが、コロボックルさんの真意は違うだろう」と最初から思っていたということです。

> Aの持つ資質が小さかろうが大きかろうが、それに対する批判・非難の手段にいじめを用いるべきではない

 全く同感です。つまり「用いるべきか否か?」等と問いかける以前の問題なのです。私はコロボックルさんの真意を表すには「いじめという手段を用いるべきか否か」などと書くことは不適切な表現だと思いますよ。

 ちなみに私は、道徳や倫理の必要性も説明できると考えています。もちろん「いじめは何があっても絶対にダメ」ということも。そして説明すべきだとも思います。無論、道徳や倫理の問題ですから反論不可能な論理はありません。反論不可能でなければいけないということもないと思います。

 以前に話題になった「なぜ人を殺してはいけないか」という問いと同じだと思います。この問いに「ダメだからダメだ」とか「法律で決まってるから」とか答えるのには抵抗がありますよね??

No.45 kenji47 さん

横に逸れすぎましたね。私もこれで最後に。

下位の犬にはそのことによるストレスは皆無なわけで、虐げられているという表現は当たらないと思います。

鶴、、、、気付きませんでした。人間の虐めに近いかもしれませんね。縄張り争い的なものかなぁ。

人間はどんな優れた個体でも、大勢には敵いませんからね。他の動物の場合、同属同士ではあまり見られない現象だと思います。

No.48 newKamer さん

newKamer さんのやり方が、現実の場で有効である自信がありますか?実際に試したことはありますか?もしないのでしたら、実際におこっている教室を想像して、具体的に誰にどんなことをするか考えてみてください。

> 元行政さん

 「現実の場で有効である自信」はありません。なぜなら経験がないからです。

 元行政さんの意見をはじめから読み返したのですが、認識の違いがあると思われることが1点あります。「いじめる方が100%悪い」という事と、いじめる方の言い分を聞かないということは同一ではありません。

 私が、現場に居たとすればどのようなことを行うか考えてみました。以下に書く対処は返答によって変わるのが当然ですが、いじめた子に対する対処の一例と考えてください。

1) いじめの理由を聞く
2) その理由を解決するのに「いじめ」が有効であるか問う
3) いじめによって、解決したかを問う
4) 問題を解決するのにどのような方法が有効であるか考えさせる
5) 道徳の基礎を話す
6) 道徳から考えていじめがどんなものかを考えさせる
7) いじめる方が100%悪いと教える
・・・

 元行政さんが「いじめ」という括り自体を壊してから考えるというのならば、的外れな返信になるかもしれませんが、とりあえず。

newKamer さんのコメント をよんで考えました

1) いじめの理由を聞く

この段階ですでに 、特に・・とかなんとなく・・とか意味も無く付和雷同的に参加している子供っておおいんではないでしょうか。その子供にはその段階で4)に飛ぶでしょう。けど中核的な子供の場合は、

2) その理由を解決するのに「いじめ」が『必要・不可欠』であるか問う

こうしないと、子供たちが効果をあげる事を望んで、いじめているとは限らないですね。

3) いじめによって、解決したかを問う(又は解決する必要がそもそもあるのかを問う)

4) 問題を解決するのが必要であればにどのような方法が有効であるか考えさせる

ここで集中討議に入るのは、正しいと思いますね
------------------------
問題はここからでして、道徳というものが一元化されていた時代ではともかく、そこの齟齬がある大人社会の論理を貫くのがいいのか・・・
5) 道徳の基礎を話す

最低限のマナークラスしか説明できないと思います

6) 道徳から考えていじめがどんなものかを考えさせる

7) いじめる方がまず論理的に正当化できないと認識させる。
---------------------------------------
ところが、5)の段階で大概とまってしまうようです。その基礎をさえも共有できない状態があるのではないでしょうか。かくて、事を性急にはしらせると1)に戻る。・・・というループが繰り返されると思います。そうすると一つは親か先生のうち誰かが「悪者」になってしまわざるを得ない。なかなか膾炙されるのが難しいしルーチンがループになってるから根源対策に時間と手数が掛かる・・・そう認識しています。

 3点ほど疑問があります。
1.現在の「いじめ」について、「いじめ」とひとくくりにすることに意味があるのか?
 例えば、障害者の子供をからかうのがエスカレートした「いじめ」。
TVやコミックなんかでも、動作のおかしい・見かけがおかしいものをからかう、揶揄する作品はありますし、子供はそれを目にしています。
 「いじめ」に至るその原因、上であれば「障害をもってからかいの対象にする」ことに問題がある、ということを子供に伝えることが必要でしょう。
2.「悪い」ということついて
 善悪と言う意味では、「いじめ」を「良いこと」と考えて行なっているものはいないでしょう。「善悪の対象と考えていない」「悪いことに属するかもしれないが許容範囲」という意識なのでしょう。
 後者については、「いじめた側にとっては、「からかい」程度」」であれば、「「いじめ」は悪」といったところで、「いじめ」にはなっていないのですから。ここらの認識のズレについては、大人でも「飲酒運転は犯罪・悪」といわれながらも、というところに似ている部分もあるのかもしれません。
3.「いじめる側が100%悪い」ということについて
 「いじめる側が100%悪い」、いじめられた者といじめた者の2者を見れば確かにそうでしょう。ただ、「いじめ」の問題について考える際には、一人歩きが怖い表現にも思います。
 「いじめ」が発生し問題となるほど酷くなるには原因があります。
 誰が悪い、といったことは誰かの責任を取らせるならば必要でしょうが、原因を究明し対策をとる場合には、原因などが明らかになってから判断すればいいことです。
 「いじめ」がそこまで酷くなるまでに「いじめた側」「いじめられた側」「周囲の人間」が何かできなかったのか?という観点での、「いじめられた側も何かできなかったのか?」を考えることには意味はあります。

 下に「からかい」について書きますが、子供自身がその限度などを身につけていくような指導しかないのかもしれません。
・ 「いじめ」につながりうる「からかい」などは集団生活では生じることは避けられません。
・「からかい」の対象は、一人から「からかわれ」るのではなく複数の人間から「からかわれる」ことになるのは経験上からも明らかです。
・どこからが「いじめ」になるのか?
・どこからが「悪いこと」になるのか?
・周囲の人間はどこから止めにいかないと「卑怯」なのか?

No.51 newKamer さん

まず最初にすべきことは関係者の人間関係の調査をします。AはBに従属的であるとか、CとDは反目しているがそれほど仲が悪いわけではないとかそんな感じです。性格背景の情報も同時に取ります。そして次に何がおこったか、誰が何をしたのか、事実関係を調べ整理します。人は行動の理由を尋ねられると、無意識に作ってしまうためにあまり価値のある情報は得られません。理由などはあまり尋ねる必要はないでしょう。
次の段階は個別面談(集団でやるのはダメです。それは平時にやることです)。鍵となる人物(場合によっては被害者を含む)にそのおこなった行動や人間関係にスポットをあて追及していきます。いじめを扇動した人物なら、扇動が悪いということ、次に同じことをしたらどのような対応を大人側が取るかということ、扇動に乗って共犯者にされた人間の不安定さとしっぺ返しをくう可能性に気付かせる、まあ、いろいろその相手に合った介入をします。働きかけは首謀者よりも共犯にされた複数の人間への方が解決に役立つことも多いです。(あまりやりすぎると首謀者が逆に標的になってしまうので、びびらせる程度にするのが理想です)また犯罪者レベルの闇に落ちている相手の場合は、公正施設への隔離などを検討すべき場合もあるでしょう。
被害者も何らかの非があって、いじめから盾になってくれるはずの友人との関係が悪くなっていることがよくあります。こういう時は、被害者に大いに改善を促すべきですよね。
解決後すぐにはいじめられっ子がよい関係を築けずに冷ややかな空気になることはありますが、それを乗り越えることができれば大体解決です。多少の注意で再発もないでしょう。(根気のいる作業でしょう)

昔の(よいと思われる)先生を思い出せば、この中にある一部のノウハウを使っていた記憶はありませんか?また、いじめの研究から作られた対策マニュアルがあるのかどうかは私は知りませんが、若い先生がほぼ今私が書いたような手法でクラス内でのいじめを解決するのを見たことがあります。(担任なら一部の作業を省略できます)

幼稚園の子供なら、ダメなものはダメですむかもしれませんが、思春期は、今まで大人から押し付けられた知識を自分で考え選別して自分のものにしていく時期です。内容のない一般論や、道徳の押し付けなど何の意味もないです。

 こ難しいことを大人同士が論じ合い、簡単には共感し合えないほどのレベルの
内容が、果たして、いじめの現場にいる子ども達に理解され、
かつ通用するのでしょうか?


 ここで、そういうレベルで論じ合うほどの方々なら、
野田一夫という人物は御存知かも知れませんね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E4%B8%80%E5%A4%AB

 野田氏は子供の頃、学校で「いじめ」を目撃して不当・卑怯と感じたそうです。
家に帰ってそれを父親に言ったところ、じ〜っと聞いていた父親は、最後に
「お前がそう思うなら、いじめっ子をやっつけていい」―とだけ言ったそうです。
彼は翌日、学校に行って何人かに言うと、いじめに反対する子が集まった。
いじめっ子に「いじめ」をやめろと言った。いじめは終わった。
その事を、家に帰って父親に報告したら、父親は
「よくやった。今日の自分を忘れるな」と言ったそうです。
その言葉に込められた父の思いで、今日の自分がある、と
野口氏は言っていました。

 親は子に「人に迷惑をかけるな」、「人様から笑われるようなことをするな」と
教えます。しかし、それにもまして大切なことは、
「自分の信念を貫け」と教え、かつ、それを後押ししてあげる親では
ないでしょうか。

 野口氏の父親は、「いじめ」を不当・卑怯と思ったという息子に、
こ難しい理屈 (いじめの定義や道徳、まして具体的対処) を
説いたわけじゃない。

ただ一言、
 「お前がそう思うなら、いじめっ子をやっつけていい」―。

そして、それなりの決着をつけてきた息子に言った言葉は、
 「よくやった。今日の自分を忘れるな」―。
そんな父親だったのです。

 そして、そんな父親だったからこそ、
少年時代の野口氏に、そういう感性、判断、勇気などが
育っていたのだと私は思います。

 考えてみれば、私の親父もそういう父親でした。
そして私自身も、3人の愚息らに対し、そういう父親に近いように思います。

 「卑怯は悪い―。卑怯かどうかは、お前が判断しろー。そして、行動しろ―。
  それだけのことは、育ててきたはずだー。責任は俺がとる―」

愚息が小学校に入るあたりから、私は概ねそんな感じでした。
もちろん、愚息らも、十分それに応えてきたと思っています。
  

 No55に補足

誤解のないように・・・。
No55は、あくまで、親のありようについて書いたまでです。
まぜなら、ここの大部分の皆様も親でしょうから・・・。
そういうことの方が大事だと思うので。(^^);

(つまり、教師のありようまで、私は、この場で云々するつもりはないのです)
  

 


newKamer さん

>以前に話題になった「なぜ人を殺してはいけないか」という問いと同じだと思います。この問いに「ダメだからダメだ」とか「法律で決まってるから」とか答えるのには抵抗がありますよね??

私は、「人を殺しては駄目」「物を盗んでは駄目」で良いと思います。
こうした行為がいけないことで処罰される理由について、法律はあれこれ理屈をつけます。その理屈は一応理解できるものの、普通誰もそんなこと意識して行動してるわけではありませんからね。

田舎の眼科開業医様

>考えてみれば、私の親父もそういう父親でした。
>そして私自身も、3人の愚息らに対し、そういう父親に近いように思います。

> 「卑怯は悪い―。卑怯かどうかは、お前が判断しろー。そして、行動しろ―。
> それだけのことは、育ててきたはずだー。責任は俺がとる―」

尊敬できるお父様だと思います。田舎の眼科開業医様も。
昔はそういった威厳のある父親が多かったように思います。余り会話はなくても、姿勢とか信念とかで子どもを納得させることができるような。

果たして自分がそうなれているのかというと自信はありません。
確かにそういった親の子どもなら「いじめ」などというマネはしないようにも思います。

じじいさん様

>愚息が小学校に入るあたりから、私は概ねそんな感じでした。
>もちろん、愚息らも、十分それに応えてきたと思っています。


 ↑ 愚息らは、確かに応えてくれてまして・・・、(^^);

長男は、高1で突如中退。米国の高校へ再入学して卒業し、今はハワイ大学1年生。
次男は、中2で学年トップの成績、生徒会長。そのくせ、中3時は教師と反駁して
    半分近くは不登校。卒業式では校長の式辞に憤慨し、答辞の役を
    土壇場でボイコットしてトンズラ。現在(高3)、理気鯡椹悗梗験生。
三男だけは今の所マトモな道を・・・(?)。でも三男が一番頑固ゆえ、今後が不安。

 責任は俺がとる―とは言っても、実際に信念を見事に貫いてくれた愚息らの
おかげで、結構あちこちに重い責任をとってきた父親なのです。
決して世間から尊敬されるような父親ではないでしょう。

でも、親ばかと言われるかも知れませんが、
私は、3人とも自慢の息子だと思っています。
特に長男と次男については、私の内心は、「良くやった(やり過ぎだ?)」です。

では、具体的にどんなふうに育ててきたか・・・、
興味があれば下記の拙著をご笑覧ください。(^^)>
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4903607011/sr=1-2/qid=1160308727/ref=sr_1_2/503-8159818-5691131?ie=UTF8&s=books
 

私は人間性が素直でないのか、こういう議論になるといつも以下のような疑問をもってしまいます。

1)“いじめ”を原因とする子供の自殺というのは本当に増えているのか。そもそも子供の自殺の実数というのは統計的にはどのようになっているのか。メディアなどでは個別の事例がセンセーショナルに報じられるだけで、問題の全貌というものが一向に語られないのはどういう訳か。

2)本人にはどうすることも出来ない、いわれなき“いじめ”というものは長い人間の歴史の中に深く根ざすものであり、私は社会に進歩というものがあるとすれば、このような不当な“いじめ”を減らすことがそのひとつであると思います。そういう意味では前進と後退を繰り返しながらも、社会は確実に進歩しているのではないかと私は理解しています。
例えば人種差別、部落差別、在日朝鮮人差別。

そういう意味で最近盛んに取り上げられる“子供社会におけるいじめ”というものをどのように理解すればよいのでしょうか。

3)私の理解は、現実を知らない下らない偏見なのかも知れませんが、どなたか御教示下さい。

田舎の眼科開業医様

>決して世間から尊敬されるような父親ではないでしょう。

決してそのようなことはないですよ。男の子は少々やんちゃな方が良いです。頑固で信念を持っていて行動力もある。お父様は大変かもしれませんが、間違った道には進んでおられないようです。私は自分が結構な回り道を繰り返してきたからか、回り道も悪いことだとは思っていません。

父親に「自慢の息子」といわせるのは息子冥利に尽きますよ。うちのは親に似たからか、ただのアメフト馬鹿ですので・・・。まあ、本人(私)が親に迷惑をかけ倒して大人になりましたので、私に似ているということは・・・相応の覚悟はしております。

ところで、貴著は全国書店に置かれているのでしょうか?今度近くの書店で探してみます。

yanyan様

私はマスコミの思惑やいじめの実態には詳しくないですが、

>そもそも子供の自殺の実数というのは統計的にはどのようになっているのか。

理由が必要なければ、このデータが回答になるかもしれません。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/3.html

No.59 田舎の眼科開業医さん

思わず購入したくなるような見事な宣伝だ(^^);
カスタマーレビューでは絶賛されていますね。

yanyan様
元行政様
じじいさん様 (←さん を入れないと何となく申し訳ないので)


警視庁の上層部にいる友人に調べてもらったところ、少なくとも
いじめが理由だとわざわざ遺言で書くような子どもの自殺は最近だそうです。
但し、昔は「遺言がもみ消されていた」のかどうかは分からないとか・・・。

 いじめが理由だとわざわざ遺言して自殺するのは腹いせ・仕返しの心理が
あるからでしょうね。個人的には、有無を言わさず相手に「絶対悪」という
レッテルを貼ってしまう、そういう死に方も卑怯だと思いますが・・。


>思わず購入したくなるような見事な宣伝だ(^^);
>カスタマーレビューでは絶賛されていますね。

>ところで、貴著は全国書店に置かれているのでしょうか?
>今度近くの書店で探してみます。


 議論の成り行きが思わぬ方向に行ってしまいました。すみません。

カスタマーレビューは、本を差し上げた友人と
その息子さんが書いてくれました。(やらせ? じゃないよ)

全国どこの書店からでも注文はできます。
自慢の息子と思っている理由も、本に少し書いてあります。(^^);

 

>全国どこの書店からでも注文はできます。
自慢の息子と思っている理由も、本に少し書いてあります。(^^);

明日、うろうろしてみます。

>いじめが理由だとわざわざ遺言して自殺するのは腹いせ・仕返しの心理が
あるからでしょうね。個人的には、有無を言わさず相手に「絶対悪」という
レッテルを貼ってしまう、そういう死に方も卑怯だと思いますが・・。

私の周囲だけかもしれませんが、いじめられていた奴も結構いましたが(私もいじめられかけましたが、短気な私は力で解決してしまいました。)結構、皆しぶとかったっす。

No.64 じじいさんのコメント
>私の周囲だけかもしれませんが、いじめられていた奴も結構いましたが,結構、皆しぶとかったっす。

ちょっと反応します。教壇に立ってみると、最近の生徒さんの中には、「しぶとさ」が抜けてA to B しからば Cというような単純なルーチンな人がわりといます。疑わないのです。もちろんそれだけが結果でないことを承知で言いますが、
「有無を言わさず相手に「絶対悪」というレッテルを貼ってしまう」ことで本人が単純に自己瓦解し、また回りも単純に同化てしまうのかなあ、という判断もありえます。(もちろんこの見方は一つの切片に過ぎないということを承知しております)

デハボ1000 様

>「有無を言わさず相手に「絶対悪」というレッテルを貼ってしまう」こと

の代金としては命はもったいないですね。周囲の人の中に「悪」という認識を刷り込む程度にしておけば、もっと安く済みそうですが。その辺のいい意味での悪知恵のトレーニングをしてやることも必要かなと思います。

いじめられる側が何らかの理由があったにせよ、道徳的にいじめてもいいという理由にはならない。それなら、江戸時代の敵討ちが正当化されているのと同じだとおもう。

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