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 今日の読売新聞朝刊の記事からです(ネット未搭載)

 業務上過失致死事件の刑事裁判において、1審の札幌地裁岩見沢支部では遺族による遺骨の法廷持込みを許可したが、控訴審の札幌高裁は「相当でない」として不許可にしたという記事です。

 この記事では、東京大学法科大学院の山室恵教授(元東京地裁判事)のコメントが載っています。

 「この問題に正解はないと思うが、個人的には高裁の判断を支持する」と話す。山室教授は「これまで刑事司法が被害者に対し、十分に配慮してこなかったことは事実」としながらも、「遺影と遺骨とでは、人々の感じ方に差があるし、被告への影響も違う。法廷は理性の場であり、感情が上回ると理が侵食される」と指摘している。

 私は、遺骨持ち込み容認論です。

 遺影や遺骨の持ち込みが裁判官に影響することは考えられませんので、この問題は被告人との関係において考えられるべきことになります。

 そうしますと、まず被告人がどういう立場で法廷に臨んでいるかということが問題になります。
 被告人が真実無実であり、事件つまり被害者と無関係であるならば、遺影や遺骨の持ち込みが被告人に影響することはないと考えられます。
 法廷に遺影や遺骨が持ち込まれたからといって、無実の被告人に対して審理に影響するような心理的影響が生じるとは思えません。
 法廷に遺骨が持ち込まれたからといって、法廷で無実の被告人が虚偽自白をしたり、被告人が心情的に大きく動揺することは考えられないということです。

 もし、被告人が真犯人であるが否認しているという場合は、遺影や遺骨が大きなプレッシャーになることが容易に想像されますが(たぶん遺影の方が影響が大きい)、真相発見という見地から言えば、持ち込みは必要であるとも言えます。
 もちろん供述を歪めるような過度のプレッシャーは排除されるべきですが、遺骨や遺影が過度のプレッシャーになるとは思えません。
 ものを言えないのですから生存被害者よりプレッシャーは低いと見るべきです。

 被告人が真犯人であり犯行を認めている場合にも(本件はそのようですが)、情状面では否認的要素がある場合が多いですから、否認事件と同様の問題はあると思いまが、問題となる程度は相対的には低いでしょう。
 認めている事件の最大のテーマは被告人の更生ということになりますが、その観点で言えば、自分が生じさせた被害を直視することなくして真の反省はなく、真の反省なくして更生もありえないとすれば、遺影や遺骨の持ち込みは更生にとっては有益であるといえます。

 ところで、遺影や遺骨は被告人から見れば被害者です。
 被告人によって殺された(またはそう主張されている)存在を象徴するものであるからこそ、被告人に対する影響が議論されるのだろうとしか考えられません。

 そうであるならば、殺されずに生き残った被害者の法廷傍聴も「相当でない」と言うべきことになります。
 被告人によって半身不随となり車椅子での法廷傍聴を余儀なくされる被害者もいます。
 
 また審理への影響ということを考えれば、暴力団組員による事件において、傍聴席を一見してその筋の人間とわかる傍聴人が埋め尽くすほうが、実質的影響は桁違いに大きいです。

 公開法廷というのは、訴訟関係者が傍聴席からのプレッシャーを受けながら審理をすることによって、不正不当な審理を防ぎ、事件の真相に迫ることができるという思想のもとに公開されるのではないでしょうか。
 ここで訴訟関係者とは、裁判官、検察官、弁護人、証人そして被告人も含みます。

 「理」と「感情」の問題について言えば、刑事訴訟は国対被告人の裁判ではありますが、理念的ではあっても、侵害された法益の回復、つまり被害回復ということが目的のひとつにあるのであり、そこでは被害感情または遺族感情を無視することはできません。
 現に裁判官は量刑の理由の中で遺族感情を問題にしているのです。

 被告人の更生という観点においても、被告人の更生意欲が問題になるのであり、更生意欲というものを「理」だけで喚起することはできません。


 語弊を恐れずに言えば、持ち込み不許可という裁判所の判断は、被告人に対する過保護だと思います。

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