エントリ

 「裁判官は常識がない」というご意見をよく聞きます。

 ところがウィニー判決を批判する社説への批判に関連して、私が「常識的にこの結論はとれない」というようなことを書きましたら、結構たくさんの批判的意見が寄せられました。

 私としてはちょっと面食らいました(^^;

 多くの市民は法律家に常識を求めていたのではないのか?
 私の判断はそんなに非常識なのか?

 というわけで、裁判と常識に関する皆さん(素人・玄人大歓迎)の意見やお考えをお聞きしたいと思ってこのエントリを立てました。

 なお、このエントリ本文は随時追記する可能性があることを申し添えます。

 さて、最初のテーマは何にしましょうか?

| コメント(42) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

コメント(42)

私自身も「裁判官は常識が無い」という言葉を耳にする事はありますが、
裁判例等を見るに、極めて常識的な判断をし、更には常識的な予想より
遥かに優れた判決もしていると考えています。

では、何故、度々そのような批判がなされるのかという事を考えると、
第一に極めて稀ではあるけれど、非常識的な判断がなされる事があるという事。

例えば、数年前に問題になった「雲助」発言などは顕著な例だと思います。
こういう事例が他に大多数の常識的判断がなされる中で、報道等により
問題視され目立ってしまっているというのが一つ。


次に、司法試験が難関であり、さらに裁判官になるのは合格者の中でも
エリートであるという事から、勉強詰めで社会の事を知らないのではないか、
或いは、裁判官の私生活の過ごし方や、人柄等情報が少ない等による偏見。


更には、裁判により不利益を蒙る、または蒙る虞のある人達の愚痴。
自分の願望とは異なる内容の判断への批判。

こういう事が重畳的に作用して、裁判官の常識に疑義を持つ人が居るのではないか?と考えました。
特に今回のWinnyに関する一連の裁判批判は3つ目のものが少なからずあると思います。

モトケンさんのWinnyに関する意見は、極めて常識的だし、法律的にも妥当だと思います。
またコメント欄で、批判等に対しても懇切丁寧、かつ的確に意見を
書いてると思います。

連投で申し訳無いですが、一つ大事な事を忘れてました。

それは国家統治のシステムから来る要請があると思います。
司法は人権保障の最後の砦とか言われますが、政治過程でも
救われなかった人権を救うと言う側面がありますよね。

従って、多数の意見→常識というような少し大雑把ではありますけど、
そのように考えるならば、司法の判断が大多数の意見と異なる側面を原理的に持っていると言えなくは無いですよね。

まぁ、この辺は釈迦に説法なのですが。

裁判では勝者と敗者がいますので、どちらかが不満をいうのは当然です。「常識がない」というのは負けたほうが言うわけでして。
それは陪審裁判であっても裁判員裁判であっても同じです。
陪審裁判は理由が必要ありませんので、判決で理由が説明される裁判員裁判のほうが検証できます。
ということは、当然陪審裁判よりも賞賛も批判も可能になるのでしょう。

ウィニーに関して何にも知らないので、「なんか知らないがそれに関連したウイルスで被害が広がってるなあ」という程度の認識しかありません。したがってその開発と頒布が幇助に当たるのかどうかも判断がつかず、ROMってました。
 しかし今読み進めている「裁判官はなぜ誤るのか」(秋山賢三著 岩波新書)では、「忙しすぎる」「社会的常識を身につけないうちに裁判官の世界に入り、いわば実技体験のないレフェリーと化している」というようなことを元裁判官である著者本人がおっしゃっていますね。(なんだかそのまま医者に跳ね返ってきそうな自己批判です。医者も同じような事情で世間的常識に疎いとよく言われますからね。)この「実技体験のないレフェリー」というのが、「常識がない」と批判されやすい原因ではないでしょうか。

「困った裁判官」という本がありまして、それに紹介されている例のほとんどは「常識がない」でしたね。

ただし、「常識全体がない」ワケはないのであって、果たして常識なのか専門知識なのかというところに問題があるわけです。

わたしが裁判官の判断そのものに興味を持ったのは、有名な裁判になりましたが、ひき逃げ事件とされた血痕を後から付けたえん罪事件とでも言うべきなのがあって、タイヤに血痕を後から付けたことについて、実際に人をひいたのであればこのような血痕にはならない、という鑑定について判決が「鑑定は血痕の付き方について、機械的・工学的偏っているので採用しない」として、いったい血痕の付き方に機械的・工学的・物理学的ではない付き方があるのか?という問題提起があった時からです。

物理現象について物理学的な解説だから採用しないとする判決が出来るということ自体が信じがたいわけで、これでは非常識という以前の問題でありましょう。

中にはこういうこともあるわけで、その延長に上記の本ではアルミで出来ているナンバープレートは硬いから、という判決が出てきたりするのだと考えています。

はっきり言いますと、こういう個々の判断について物理的に間違っているというような内容はそれ自体を裁判所は列記して「誤解しています」といった表でも作るべきだと思いますよ。

裁判官も人だから誤解することはあるでしょう。
「誤解していました」というコメントが出ないから「非常識だ」となってしまうところも多いのではないかと思います。

素朴な疑問です。
「常識」ってなんですか?
是非、議論の前提として、どなたか「常識」を定義していただけませんか?

もしかして、こういう質問をしている時点で、私は常識が欠落しているのか?という不安があるのですが(笑)、でもすみません、議論をする上で大事な問題だと思いますので、どなたか宜しくお願いします。

もう少し言うと、例えば、自分と価値観の合う人間を常識的だと評価したり、自分の話を一発で理解できる人間を常識的だと評価したり、はたまた、優秀だと評価したりする、そういう次元から抜け出した上で、裁判に求める常識についてここで議論ができたら(少なくとも私にとって)有益だなー、と思っている次第です。

>モトケンさん
市民は「法律家が常識に基づかないで判断した結論が、市民の常識と合致していること」を求めているような気がします。常識で判断するとか、もっと言えば結論が常識によって左右されるというような事は求めていないのではないでしょうか

>Justinさん
ルールを超えたルールと言うところでしょうか。言葉を変えれば、明文化されていないルールとも言えましょうか。集団が共有している認識かも知れません。

恐らくモトケンさんの言う常識は「日本人という集団が共有している認識」なのでしょうが、確かにその辺りを定義した方が議論がぐだぐだにならないのでよろしいかも知れません。

しかし、市民が裁判官に常識を求めているのは確かなようですね。

----------
○ 現場の裁判官は、一生懸命その職務に精励しているのに、なぜ「常識がない」、「世間知らず」などという批判を受けるのか、強い疑問を持っている。そもそも、裁かれる立場にいれば裁かれる者の気持ちを理解できるようになるのであろうか、逆に、裁く立場にいても裁かれる者の気持ちに理解を示すことは可能なのではないか。裁判官は世間知らずという批判があるが、判事補10年の間に多種多様な事件を取り扱い、その中で裁判官として成長していく。また、地方勤務を通じて、一つのテリトリーの中でしか仕事をしない弁護士とは質的に異なる経験を積むことができる。判事補の間に判決の書き方だけを学んでいるのではない。むしろそうした形式的なことではなく裁判官として事件の内容に迫ることを学ぶのである。
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/natu/natu3gaiyou.html
----------

裁判官と言う言葉を医師に変えてもそのまま通じる様に思えます。要するに、専門家に対する不信というのが根っ子にあり、それは職種を問わないと言うことなのかも知れません。

モトケンさんの主張と世間の常識が一致するという
アンケート結果か何かあるのでしょうか

常識をWebの辞書で引いてみると、
「common senseの訳語として明治時代から普及」とありますね。
もともと、日本にはなかった言葉ではあるのかな。

分業の極端に進んだ現代では、ある分野の専門家ですら、「となりは何をする人ぞ」ですからね。「裁判官の常識がない」というよりも、多種多様な分野について、的確に理解できるのか、という疑念があるのではないでしょうか。

もっと言えば、専門家特有の「選民意識」のようなものもあると思われ。「素人が口を出すな」というやつですね。

私がまだ受験生だった頃、法源(裁判のよりどころとなるもの)のところで、法令がない場合には条理や社会通念によって判断すると学びました。
じゃあ、社会通念って、どうやって見出すの?と思いました。
その答えは、社会通念は、最終的には裁判官による判断を通じて現れるとのことでした。
つまり、裁判官が、「これが社会通念だ。」と言うものが社会通念なのであり、「な〜んだ。」と思った記憶があります。

>「常識」ってなんですか?

やはりここから詰めていかないと焦点が定まりませんね。
私の認識では、

「常識」=普遍的又は多数派を占めるであろう見識、と思う個人の「主観」

です、同じ主観を述べる人が多ければ「一般常識」と呼んでも宜しいかと。

いのげ先生

常識とは必ずしもアンケートによって生まれるものではないと思われます。

>モトケンさんの主張と世間の常識が一致するという
アンケート結果か何かあるのでしょうか

逆に、高性能車が速度違反幇助とされた例、高性能車が速度違反幇助であるとして訴えられた訴訟等が存在するのでしょうか。トヨタ2000GTが高性能車とすると誕生以来30年以上が経ちますが、少なくとも私は高性能車が速度違反幇助であるとする判例を見たことはありませんし、高性能車が速度違反を幇助するという世論も聞いた覚えがありません。それともいのげ先生はそういった例をごぞんじなのでしょうか?

「まだ」「今のところ」訴えられた試しがないだけで、それが今後も訴えられないという根拠にはならないんじゃなかろうか、という不安があるのですよね。
なんというか、極論ですけど。
たとえば治安維持法があったとしても、「常識的な」ほとんどの人間は、きっと捕まったりしないでしょう。だけど、それで安心できるのかというと……。

>じじいさん
「日本人は訴訟が嫌い」というのもそのような常識の一つですかね。これは常識なのでしょうが、アンケートではそのような常識を裏付ける結果は出なかったという話を聞きました。

常識≒「多数が思いこんでいる事柄」ってのもあるのかも知れませんね

拙者は常識『外』には2段階あるとおもう。

単にコモン・センスではないもの(非常識)と論理的に明らかに間違い(論外)
この定義をつかうと最初のひき逃げの話しはいわゆる「論外」。自動車事故とか理系の専門知識のでてくるものにちらほらみられますね。
一方で、例えば敷金返還の問題などで稀にみられる「非常識」。

まぁ、裁判で論外は勘弁して欲しいですが、非常識の場合は、それは「立法者が非常識を許した」ということでいいんでないでしょうか。非常識に思えても「現行法上」やむをえないとわざわざ断る裁判官さんが増えると誤解も減って…(^_^;)

 大雑把に、常識≒「大多数がそう思うである事柄」という気もしますが、個々人が口に出す「常識」はその個々人が「大多数がそう思うであろうと推測される事柄」なので、個々人の判断や根拠となる事象(TVや新聞などのマスメディア、体験など)に左右されるので。

 特に、専門分野においては、「専門分野特有の事情」(理論など)がありますので、そうしたものから導き出された結論が、素人目には一見意外な結果になることがあり、その意外性をもって「常識」に反する、といっているのかと考えます。
上の意外というのが何に対してか、という場合、素朴な感情であったりもするのでしょうが、「常識」にくくられてしまうことも多いとは思いますが。
 余談で、常識とはちょっとずれますが、「大岡裁き」(三方一両損など)、も、市民感情と法的な裁判結果のずれ、というものを示しているものであるかと思います。

>多くの市民は法律家に常識を求めていたのではないのか?

 法律家に、というか、法律家が導き出す結論(あるいはその理論)に、ということになるでしょうか。

>私が「常識的にこの結論はとれない」と〜
 
  専門家がその判断の根拠に「常識」をもってこられた場合は、専門的判断を下す「常識」って何だ?と突っ込まれるのは仕方がないかとも思いますが。
 やや、畑が違いますが、「この機械のこの部位はこの材料を使うのが常識だ」「常識的にこの薬品をこんな温度で放置すれば劣化するでしょう」・・・いや、その分野に詳しくなければ「常識」じゃないですから、と。

ウィニーに関しては良く知らないので、別のシチュエーションを考えてみました。
みなさんの常識的な判断を聞かせていただければ幸いです。

プロ野球の行われるような球場では、どこまでが公道で、どこからが球場の敷地なのか判らないような所があります。
ある時、政治的なビラをまくことを目的に球場にやってきた学生が、そのような球場の敷地内をビラの入ったバッグを持って歩いていました。
既に情報をつかんでいた警察は、その学生を不法侵入の疑いで逮捕しました。

常識的には 無罪?有罪?

私としては、政治的判断で有罪か無罪か決めるのは納得行かないし、誰もが自由に通行しているところを通っただけで不法侵入は無理があると思います。

でも、同じような事例で有罪になった実例があったと記憶しています。
当事者自身が出していたサイトがあったのですが、今はなくなりましたので詳細は不明ですが。

>bamboo さん

 説例を前提にすれば
 法律的に無罪です。

 奥村弁護士のブログを読んでください。

 ちなみにこのエントリにも「常識」という言葉が出てきます。

 裁判を含む法律的議論において、いろんな場面で「常識」が出てきますので、分類する必要があるように感じています。
 この点については後ほど。

「常識を疑うのが良識」というさる有名な哲学者の言葉があったり、常識が多数意見に近いものというならば、「世論の90%はワイドショーで作られる」のだそうです。
医学の常識とはおそらくグローバルスタンダードのことで、時間的にも場所的にもしょっちゅう変更されている代物。
自然科学は常識にとらわれないのがよいというのが常識になっており、量子力学の不確定性原理にいたっては世界のどんな常識をもってしても理解不能であり、しかも恐るべきことに森羅万象の根幹であるのだそうです。

要するに、法学の世界でどう使われるのかはともかくとして、常識という言葉はあまり使わないほうがよいと私には思えます。

常識を明文化した物が法律だと聞いたことがあります。
中でも刑法は最低限守らなければならない常識が書いてあるのだと思います。
常識ある大人なら刑法の条文は知らなくても刑法に触れることは無いはずなのですが、職業が細分化し高度化した結果、常識では容易に判断できなくなった領域があると思うのです。福島の産科医が逮捕起訴された事例とか。

自動車の話を蒸し返して申し訳ないのですが、自動車に電子制御が採用されてから付加機能の追加が容易になりました。走行性能に余裕を持たせつつ最高速度を制限することは容易に出来るのです。
高速道路なら今すぐにでも出来ますし、一般道路もカーナビの普及を前提にすれば難しくはありません。
包丁については、大怪我をし難い形状に工夫した「子供包丁」という商品があります。これは切っ先が尖っていない事が特徴で、「切れるけど刺さらない」包丁です。たいていの家庭料理には問題なく使えますが犯罪用途には不向きと思います。

仮にメーカーが幇助罪で起訴されて、検察官が「これらの技術を採用すれば違法使用を抑制できたのに、メーカーは努力義務を怠って違法使用の継続を容認した。」と主張したらどうなるのでしょう。
「この商品の危険性は昔から存在し、社会に容認されている。」という常識的反論で本当に勝てるのか?という疑問があります。

モトケンさんが面食らった批判は、こうした疑問に対する回答を求めているのだと思います。

「常識」例として、モトケンさんはじめ、みなさまのご意見を伺いたいのですが、

以前、ご紹介したところの、
http://www003.upp.so-net.ne.jp/medical/
に書かれている内容が真実だとして、ここにあげられた裁判官、原告代理人の有り様は、それなりに「常識」だと言えるでしょうか? 僕には、この裁判官も原告代理人も、「常識」とは思えないのですが。

まあ、「常識」っていうのは、時と場所、それに、人それぞれによって違ってくるのかも知れないので、一言で決めるのは難しいでしょうが、例えば「己所不欲、勿施於人」などは、何時でも、何処でも、誰にでも、共通の「常識」なのかと思う次第。

日経メディカルオンラインでも特集記事が公開されています。
裁判に疲弊しきった原告を、自殺に向けて背中を押したのが担当裁判官と代理人です。
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/200612/502081.html

一応目を通したつもりですが、莫大なボリュームがありページも重く、かなり読む方には優しくないです。

もしよければ、産科医-1さんが読み取ったところの
● 事件の経過
● 裁判官の有様
● 代理人の有様
についてまとめていただけると議論がスムースかもしれませんよ。

『「先生」と呼ばれる人には常識が無い』と言われていたような…。

好意的解釈: それだけ熱心に,ことに集中してたのであるから,世事に疎いのは致し方ない。

やっぱり このエントリの文章でモトケンさんが驚いたのは
「モトケンさんの」常識に対する反発ということだと解釈しますです

世間ではどうなのかというと
すくなくともマスコミではwinny関連については
著作権侵害よりも情報漏えいの方が遥かに問題視されており
金子氏は対応バッチ開発に意欲満々なのに対して
それを阻害しているのが検察であるというのもまた
間違いの無い事実なのでした

No.25 立木 志摩夫さん

横槍ですがまとめてみました。

● 事件の経過
http://www003.upp.so-net.ne.jp/medical/story.html

● 裁判官の有様
http://www003.upp.so-net.ne.jp/medical/koukoku01.html

● 代理人の有様
http://www003.upp.so-net.ne.jp/medical/kainin01.html

>No.28 ニックネーム未選択 さん

産科医−1ですが、横槍、どうも有り難うございました。

僕としては、

● 裁判官の有様
http://www003.upp.so-net.ne.jp/medical/koukoku01.html

の、3頁から5頁あたりにかけて、共感するところ多々ありました。

ある時、ある国の件で、ある契約に関する議論を行いました。

「この部分の***に関するリスクについてどのように解釈をしますか?」
「確かに、この国には・・・についての法整備が十分ではない。しかし、民法により権利義務を考えることは出来るはずだ。民法は、成文のみではない。人が暮らす以上は、どのようなことについても、結論を出さざるを得ない。」

良識、常識、社会通念とは、私は多くの人によって支持されている考え方と思います。

>の、3頁から5頁あたりにかけて、共感するところ多々ありました。

産科医−1先生の共感を呼ぶこの申し立て記述が何故却下されたか
とう疑問が残る この文書からは答えを読み取れません

No.31 いのげ先生
産科医-1先生が共感されている文章は、東京高裁に対しての即時抗告の申し立てですから、結果がアップされていませんから却下されたのか判明していません。

却下されたのは水戸地裁に申し立てた裁判官忌避
http://www003.upp.so-net.ne.jp/medical/kihi01.html

水戸地裁が決定した忌避却下の通知
http://www003.upp.so-net.ne.jp/medical/kyakka01.html

そして東京高裁に即時抗告という流れです。
この一連の流れが、わずか一週間のうちに行われているというのが驚きです。

酔っ払ってて似たような内容なので混同してました
ご指摘ありがとうございます
このHPによると茨城県は医者も裁判官も弁護士も
ひどいのばかりということで
ご愁傷様です

理論家としてみると具体的場面において「常識」というマジックワードが出た時は眉唾だと思っております。

刑法理論があまりにも「微に入り細をうがつ」という状況にあるのは重々承知,ご批判は賜りたいと思いますが,刑法理論の発展史は恣意を排除し,国民の自由を保護するという点から発展してきたのだと思っております。また,民事法と違い,例外を原則として認めなかったり(それゆえ講壇事例としてほとんど…絶対あり得ないような事例を持ち出す),類推適用を排除するのも,この点にあるのだと理解しています。

このように考えると,内容が一義的に決まらない「常識」という概念を持ち出すことは恣意の排除や国民の自由保証という観点から危険性があると思うわけです。

理論刑法学において「常識」という用語は使いませんが,各学説の支持は体系的整合性のみならず,常識ないし社会的コンセンサスによって支持されている部分も多数存在し,常識を用いていることは明らかです。

ただ,それでも「常識」といった場合,一般基準定立のためにつかう常識と,具体的事案処理のためにつかう常識は全く意味が異なるということには留意すべきだと思います。

つまり,例えば,違法か適法か…一般的な判断基準を定立する場合にこれを常識を根拠として持ち出すことは許される(それはいったん法規範として定立されれば予測可能性を害することがない)が,個別具体的な事案の処理にあたって直接常識を持ち出すことは許されない…とはいわないけれども「かなりていが悪い」といわなければならない(特殊・個別判断であり,予測可能性を害する),ということです。

では,元に戻って,法律家の仕事は何か?と考えると,

結論的にいうと国民が法律家に求めることは「法」の提示であって「常識」の提示ではないと思います。「規範化された価値」であって,「生の価値」ではないと思います。

(以下の話で)
「法」=強制力を持つ社会規範。「法律」とは異なる。
「実定法」=人が定めた法
「判例」=原則として最高裁判例,ない場合は高裁判例,大審院判例,ここではいわゆる「裁判例」は除く。

確かに,それは結果的に「常識」の提示することになる場合も多いと思いますが,結果的に「常識」になるとしても,それを根拠をいちいち挙げて説明することが必要なのではないでしょうか。

つまり,実務家のモトケン先生に対してして釈迦に説法になりますが,
(1)条文の提示
(2)法原理の提示
(3)判例の提示
(4)理論的関連性の説明
(5)個別事案への適用の説明
が必要となってくるのでしょう。実際問題として,これらの点は訴状に記載すべき事項であって,判決書きの端緒となる。そして真実の「法」が法廷において判決書きを通じて確認されるものならば,まさにこの説明が法律家の仕事となのではないでしょうか?(もちろん,クライアントに向かっていうのか裁判官に向かっていうのかの違いはあります)

その際に,個々に独立した原理原則同士の関連性とか理論的な補充要素,あるいは語義の射程を決める際に「常識」が入ってくるわけであって,決して,直接「常識」が適用されるべきものではありません。「常識」で裁判が片づくのであればこんな簡単な話はありません。例えば,民法90条の「公序良俗」の語義内容を補充する為に「常識」を用いるわけであって,直接「常識」を用いるわけではありません。

さきの「高性能自動車」で反対論が多数投稿された理由は,幇助行為を「正犯を助長促進する行為」「正犯を容易にする行為」と定義したところで,「高性能自動車の製造・販売」は違反者が恒常的に存在する以上,形式的に外せない(あくまでここでは主観は考慮外です)。しかし,モトケン先生は「幇助」という用語の形式的な基準を超えて「そもそも当てはまらない」と言い切っている,ところにあると思います。

つまり,この「形式では外せないが,当てはまらない」というところに実質的に直接に「常識」を用いた,ところが「説明が足らない!」という批判なのでしょう。法律畑の大先輩にこういうのもなんですが,理論畑でやってきた私も「う〜ん」といわざるを得ません。つまり,どんなかたちであれ一般基準を策定したうえで,それを適用して「外す」という一手間をかけなければならない,と思います。説明しろといわれれば,私ならば「社会的に是認された定型的な社会的有益行為であるから許される」ということにしますかねぇ。ただ,これでももっと類型化された基準作りが必要なことには変わりないと思います。

ところで,モトケン先生に質問させて頂きたいのですが,たぶん「ヤクザの指詰め」は違法で,「献血の為の針の挿入」は適法だとおっしゃるかと思いますが,限界点はどの辺にあるのでしょうか?例えば「SM行為」はどうでしょうか?

常識を理論をもって説明することも法律家の仕事ではないかと思います。

>かけ出し理論家さん

 研究者の方からのコメントはうれしい限りです。

 まず全般的というか前提的な反論からはじめます。

 私はロースクールの教員をしておりますが、叩き上げの実務家です。
 そしてこのブログは、法律家を相手にして法律的議論をすることを主眼においているわけではありません。
 素人さんを相手にしています。
 さらにこのエントリは、理論ではなく感覚を語ってみようというエントリです。
 その意味でかけ出し理論家さんのコメントは極めてまっとうなコメントではありますが、明らかにトピズレです。
 しかし、これほど理論的にまっとうなコメントはそう多くはないので少し私の立ち位置などを含めて反論してみます。

 私が「常識」という言葉を持ち出したのは、「高性能車の開発は速度違反の幇助になる。」という見解に対して、幇助にならないという文脈で用いています。
 この場合、理論的説明として常識を用いているわけではありません。
 「幇助」になるかどうかという事実認定あるいは事実評価の問題として、消極判断の根拠として「常識」を持ち出しているのです。

 そこで前提にしている「理論」は、「幇助とは実行行為以外の方法によって犯罪実行を容易ならしめる行為」という定義だけです。
 
 私が、犯罪を構成する方向の議論と否定する方向の議論を明確に立て分けていることはご理解いただけていると思っています。

 ウィにーの開発が著作権法違反幇助になるという結論の理由・根拠として常識を使っているわけではありません。
 というか、この判断において使える常識がそもそもない。

つまり,例えば,違法か適法か…一般的な判断基準を定立する場合にこれを常識を根拠として持ち出すことは許される(それはいったん法規範として定立されれば予測可能性を害することがない)が,

 これは常識を持ち出すことがが予測可能性を害さないというのではなく、選択基準が常識であろうとなかろうと裁判所がひとつの法解釈を選択した結果ひとつの法規範が定立されると言うべきだと考えます。

個別具体的な事案の処理にあたって直接常識を持ち出すことは許されない…とはいわないけれども「かなりていが悪い」といわなければならない(特殊・個別判断であり,予測可能性を害する),ということです。

 個別具体的な事案の処理のどの場面において常識を持ち出すことが予測可能性を害すると主張されているのか明確ではありませんが、常識というものが国民の多数のコンセンサスのひとつであるというのであれば、なぜ常識を持ち出すことが国民の予測可能性を害することになるのか理解が困難です。

 実務上、個別具体的事案の処理の際には、まず一般的規範解釈を検討します。
 そして適用すべき規範を決定した後に、事実を規範にあてはめる作業を行います。
 例えば構成要件にあてはまらなければ、問題の行為は不可罰です。
 そしてその際に、社会において常識的に容認されている行為は、あてはまらない方向に判断が傾きます。
 形式的にあたはまるとしても、次に違法性阻却の問題が生じます。
 理論的には、レベルが違いますが、考えていることは本質的に同じです。


では,元に戻って,法律家の仕事は何か?と考えると,

結論的にいうと国民が法律家に求めることは「法」の提示であって「常識」の提示ではないと思います。「規範化された価値」であって,「生の価値」ではないと思います。

 このように考えるのは、国民の中でも法律に直接携わる仕事をしている人だけでしょう。
 例えば、法律学者、法曹などの士業、企業の法務部などです。

 自分が依頼した弁護士には自分の「利益」を、国民の大多数としては、検察官や裁判官に対して具体的妥当性のある(国民が納得できる)「結論」を求めていると思います。
 結論が「非常識(と国民が感じれば)」ならどんな理由を書いても一般国民にはあまり説得的ではないでしょう。

 ここで私の刑法理論の優劣の判断基準を簡単に述べます。
 私は実務家ですから、実務に役立たない理論、実務において使いにくい理論は、その一事を持って採用するわけにはいきません。
 判例理論の多くはこの観点で理解できると考えています。

 なお、高性能車が幇助になるか否かについては、もうひとつのエントリで考えてみます。

 最後の質問については、議論が拡散しますので後回しにしますが、結論めいたことだけ簡単に書きますと、やくざの指つめの違法性については悩ましいです。
 違法性本質論と被害者の承諾論が絡んで直ちに答えが出せません。
 判例の事案も真の承諾があったかかなり怪しいみたいですし。

基本的に私の考え方でも,実定法または拘束力を持つ判例に帰着しない部分は,結局は「常識」に戻らなければなりませんから,規範的効力としての「常識」を否定するつもりはない,という点はご理解頂きたいと思います。

そのうえで,多少の再反論を試みさせて頂きますと

>選択基準が常識であろうとなかろうと裁判所がひとつの法解釈を選択した結果ひとつの法規範が定立されると言うべきだと考えます。

法規範の定立は,裁判所が判断することですから,ご指摘の通りです。しかし「法規範」も「規範(Norm)」である以上,行為や評価の基準として機能することが期待されます…が,「常識」というのは基準となりうるか,世の中が「常識」を基準として二分法的に「白」「黒」とはっきり分けられるのであれば良いのですが,そうはならないのではないか,というのが私の考え方です。

>常識というものが国民の多数のコンセンサスのひとつであるというのであれば、なぜ常識を持ち出すことが国民の予測可能性を害することになるのか理解が困難です。

> 例えば構成要件にあてはまらなければ、問題の行為は不可罰です。そしてその際に、社会において常識的に容認されている行為は、あてはまらない方向に判断が傾きます。

私の説明がまずかったかなぁ,と思います。
「予測可能性」という点で考えると「常識」という基準では定型性が十分ではなく基準として不十分だ,というだけの話です。その意味で「高性能自動車の開発・販売」が「常識」を基準としてどう判断されるか?といえば,明らかに「外れる」というのは明確なことですから,モトケン先生の朝日新聞社説批判は正当なものと思われます。

ただ,繰り返しになりますが,「常識」というのは明確に「白」「黒」に分けられるものではなく,グラデーションがある。他方,裁判というのは「白」と「黒」に分けなければならない,刑事裁判では「グレー」は「白」だけれども,いずれにせよ「白」と「黒」に分けなければならない。「白」「黒」に分けるときに「グラデーション」のある「常識」という基準は使いにくい…必ず,同じ行為に対して「常識を基準として白である」「常識を基準として黒である」という見解が分かれる場面が生じてくるでしょう。あるいは,Winny事件のように「常識がそもそもない」という場面も生じてくる…となると「予測可能性の保障」を一つの原則(←これ自体,常識によって支持されているワケですが)と考えたときには,「常識」を一次的な判断基準とするのは適切ではない,と思われます。

それゆえ,「法令」を法源として「常識」により解釈して明確な「一般規範」を定立し,それに当てはめる(当てはめ作業でも常識が基準となるのですが)のが常道なのではないでしょうか?すくなくとも長年支持されている「判例法理」も,「一般規範」としての明確性が,常識によって支持されているという妥当性とともに,長年支持されているゆえんであるように思われます?。

> のように考えるのは、国民の中でも法律に直接携わる仕事をしている人だけでしょう。
> 例えば、法律学者、法曹などの士業、企業の法務部などです。

…確かに難しい問題ではあります。ここで「企業の法務部」の方が入れられているので,おそらくそうなんでしょうね,という感はあります。ただ,(一例をもって反論するのは不適切だとは思いますが)大学院のマスター時代にたまたま現役の医師の方と机を並べる機械がありましたが,その方は「適法でも違法でもいいんだけど,どっちなのかはっきりさせてほしい」といわれたことを覚えています。やはり,法規範の明示も必要なのではないか,と思います。

> ここで私の刑法理論の優劣の判断基準を簡単に述べます。
> 私は実務家ですから、実務に役立たない理論、実務において使いにくい理論は、その一事を持って採用するわけにはいきません。

大変参考になります。
研究会等で実務家の先生方とお話しする機械も多いのですが,確かに「その理論を採ったらどうなるの?」ということはよく訊かれるところです。ですから「理論のための理論」…結論において差異が生じない理論が採用されないのはよくわかります。モトケン先生がおっしゃる「実務において使いにくい理論」というのも趣旨はわかるのですが,是非何をもって「使いにくい」のかはお教え頂きたいと思います。私自身は「明確であること」は「使いやすい」ということになると思うのですが,いかがでしょうか?

ちなみに,理論家における理論の優劣は,体系的整合性がよく挙げられることですが,私自身は「結論の妥当性」は極めて重要な要素だと思っております。ただ,結論の妥当性も個別具体的事案における妥当性と同時に,法規範として一般化した場合の妥当性も考慮します。さらに「誰にとって妥当か」についても,刑事裁判の当事者が行為者,被害者,国民(正確には法共同体…同じ法規範を受容する者)の三者である以上,個別事件における「行為者」,個別事件における「加害者」,個別事件における「被害者」,個別事件における「国民」,それから潜在的「行為者」,潜在的「被害者」,一般的抽象的「国民」(結果的に「法共同体の安定」と同義)…の三者(六者でしょうか?)の点から均衡する点が優れた理論ということになります。

個別具体的事案において常識を直接適用することの危険性はここにもあります。現状「国民」(あくまでカッコ付きです。全ての国民というワケではありません)は一方的に被害者の側面からしか事態を考察しない傾向があります(たとえば,民事の話ではありますが772条2項廃止論などは典型的に被害者の面からのみの考察でしょう。772条2項によって保護される子どもも多数いるという側面も無視してはなりません)。このような国民の法感情(これが常識に含まれるかどうかは難しい問題ですが)を前提として,個別具体的事案において法的非難を与えることが「正義」にかなうとはいえません(よく言われることですが,法哲学の「正義論」におけるハーバーマスの「無知のベール」の概念をお考え頂きたいと思います)。

また,上述と同じになりますが,判例…とりわけ最高裁の判例法理も個別具体的な事案を考慮する余地を残しながら,あくまでそれは先んじて定立される一般法理(=一般規範)の枠内で行っているように見受けられます。つまり,その後,同種の事案において同一の判断を行えるよう「一般法理」を定立することを極めて意識しているように思われます。

ちょっと(?)話が広がりすぎましたが,常識と一般法規範の関係では,常識を規範として直接持ち込むのは反対ということになります。

>かけだし理論家さん

その方は「適法でも違法でもいいんだけど,どっちなのかはっきりさせてほしい」といわれたことを覚えています。やはり,法規範の明示も必要なのではないか,と思います。

法律自体に問題があるケースだと思います。つまり、法律は本来一つの解釈しか許すべきではないのに、様々な解釈を許してしまう場合。そして、本来用意しなければならない法律が用意されてないケースだと思います。

以上のケースに関しては立法の問題であり、政治と役人の問題だと思いますが、いかがでしょうか。

 出勤前に一言

 私も法律上の議論(法律家同士の議論、学生との議論、法律論文等)において刑法の法律要件のひとつとして常識を持ち出すことはしません。
 持ち出すとしてもそれこそ最終兵器です。
 
 但し、事実認定においては別です。

>No.36 かけだし理論家さん

 繰り返しになりますが、私も「常識」を「規範」として持ち出すことはしません。
 最低限度の罪刑法定主義は理解しているつもりです。
 学生が答案において論点の理由付けとして「常識だからである。」と書いたら零点です。
 私が、どのような文脈ないし趣旨で「常識」という言葉を使ったかをもう一度確認していただきたい。
 このエントリのタイトルは「裁判と常識」であって、「裁判規範と常識」ではありません。
 あなたが登場するまでは、ここでは法律解釈論を議論してはいないのです。
 
 しかし、裁判において常識が機能すべきことは間違いないでしょう。
 福島の大野病院事件における医療側の検察批判は、つまるところ検察官の起訴は医療常識に反するということです。
 そして私はその批判は傾聴に値すると考えています。

 刑事司法において、黒認定のために「常識」を前面にだすことは罪刑法定主義に反する疑いが生じますが、(グレーを含む)白認定のためには常識は使えます。ただし「社会的相当性」とか「社会通念」とか「業界標準」というような一見法律用語的な衣を身にまとって登場すると思いますが。

 黒認定においても、構成要件解釈が言語解釈であることからしますと、そこには国民の共通認識が働いてこざるを得ないのであり、その意味で常識は機能します。
 ただし、ご指摘のように法律解釈論において「常識」という文言を直接用いるのは適切でないと私も思います。

>何をもって「使いにくい」のか

 これについてはかなり明確に答えられます。
 端的に言えば、事実認定を考慮していない理論はそれだけでアウトです。
 例えば法定的符合説の議論で、Aを狙って拳銃を発射したが、弾はAとその隣にいたBとの間を抜けていったという説例について、弾が近くを通った人に対する殺人未遂を認めるという説があったと思います。
 より大きな危険が生じた客体に対して故意を認めるという考え方だと思いますが、実務上、弾がどっちの近くを通ったかなんて分かりません。
 レアケースとして、行為者の発射位置、AとBの立っていた位置、二人の間を通り抜けた弾が着弾した位置が正確に分かれば計算できると思いますが、そんな場合はほとんどありません。
 つまり、この説は役に立ちません。

 実務法曹は、事実認定の泥沼で苦労しています。
 それを無視した理論は実務的ではありません。
 言い方を変えれば、被告人の否認を前提としていない理論は実務上の理論としては使えないということです。

No.36のかけだし理論家さんへ

> ただ,(一例をもって反論するのは不適切だとは思いますが)大学院のマスター時代にたまたま現役の医師の方と机を並べる機械がありましたが,その方は「適法でも違法でもいいんだけど,どっちなのかはっきりさせてほしい」といわれたことを覚えています。やはり,法規範の明示も必要なのではないか,と思います。

私も一例にすぎませんが、企業で、特に責任ある立場の方々は、「適法でも違法でもいいんだけど,どっちなのかはっきりさせてほしい」と言いますね。
また、スタッフレベルでも、自分達で判断できるガイドラインが欲しいと言い、それを見れば白黒ハッキリ解るものを要求してきます。
もちろん、そんなことは無理だと説明していますが・・・。なかなか理解が得られませんね。

それから、身近な人10人に、言葉の定義は一切せずに、「常識」と「法律」、裁かれるとしたら、どちらがいい?と聞いたところ、8人が「法律」で2人が「常識」でした。
理由を聞いたところ、常識で裁かれるのは怖いとのことでした。
ちなみに全員20代だったので、その辺もあるのかなと思います。

No.39のモトケンさんへ

> 実務法曹は、事実認定の泥沼で苦労しています。それを無視した理論は実務的ではありません。言い方を変えれば、被告人の否認を前提としていない理論は実務上の理論としては使えないということです。

この点、非常に納得です。
証拠に基づく証明を考慮しない理論は、企業法務でも採用されませんね。
ところで、法科大学院では、このようなことを教えたりするのですか?
もし、教えているのであれば、法科大学院卒の方は、いわゆる院卒の方よりも、企業法務になじみやすいと思いますし、企業に対して売りになるのではないでしょうか。
少なくとも私は採用面接しますね。

>ところで、法科大学院では、このようなことを教えたりするのですか?

 私は教えています。

>少なくとも私は採用面接しますね。

 現実問題として100%の合格は望めない以上、是非考慮していただきたいと思います。

たびたびのお返事ありがとうございます。
どうも,私が話を勝手に広げすぎてしまったようですね。
私は「裁判と常識」の射程を超えて「裁判規範と常識」,さらに「行為規範と常識」まで広げてしまったようです。ただ,元ネタの「高性能自動車」の話は個人的には単なる裁判規範にとどまらず,行為規範に及びそう,かつ重要な内容なので,もうちょっとこの場をお借りしたいと思います。また,この投稿のみお許しください。(ご迷惑であればお申しつけください。)

> 繰り返しになりますが、私も「常識」を「規範」として持ち出すことはしません。

私自身も,既述の通り,法律解釈とあてはめ作業について「常識」がきわめて主導的な役割を果たすことには異論はありません。特に「あてはめ」においてはその言葉のもつ射程を測るには法律解釈の部分も少なからずありますが,第一次的にはやはり「常識」的な語義の範囲ということになり,その後に,法律解釈で微調整ということになるでしょう。

さらに突っ込んでいえば,裁判規範として常識が機能することにはあまり危惧しておりません。それが,「結果的に」妥当な結論であり,恣意的に出された結論でなければ問題とは思えません。

ただ,裁判規範は判例を通じて,行為規範に転換していくということに注目すべきだと思っております。

ですから,
> 刑事司法において、黒認定のために「常識」を前面にだすことは
> 罪刑法定主義に反する疑いが生じますが、(グレーを含む)白認定
> のためには常識は使えます。ただし「社会的相当性」とか「社会通念」と
> か「業界標準」というような一見法律用語的な衣を身にまとって登場
> すると思いますが。

この点についてはシロ認定の道具としてもあまり賛成できません。
繰り返しになりますが,裁判規範の形成や法廷での事実認定作業に常識を使うのは(一応,法律用語をまとった形ならば)構わないと思うのですが(もちろん,それでもクロ認定では問題があるでしょうが),それが次には行為準則になります。行為準則=行為規範ではありませんが,事実上,行為規範形成機能をもつといっても良いでしょう。これを前提として,行為規範としての側面では,やはり納得できないといわざるを得ません。それは,Winnyのような常識のない領域,あるいはグレー領域についても,事前に罪になるのかならないのか明示することを諦めてはいけないと思うからです。これを放棄してしまえば,常識のない領域,グレー領域については「君子危うきに近寄らず」で誰もやらなくなってしまう。事実上,それらの領域では国民の自由が萎縮してしまうからです。

罪刑法定主義の実質的内容であるところの「明確性の原則」は自由保障機能から挙げられますので,行為規範の問題です。とすれば,行為規範の形成にあたって,事前に有罪・無罪を告知する観点からいえば「常識」というのは基準にならないと思います(もちろん,高性能自動車開発という明確にシロの部分は議論の俎上に乗せる必要もありませんが)。

刑法理論家としては,とにかくグレーゾーンを小さくして自由保障機能を最大限発揮させるということは大きな眼目です。(刑法分野では判例批判も少なくないですが)多数の判例を集積してこれらが一貫して採用している「基準」を明らかにすることも仕事であると自認しているワケです。

>> 何をもって「使いにくい」のか
> これについてはかなり明確に答えられます。
> 端的に言えば、事実認定を考慮していない理論はそれだけでアウトです。

これも,よく実務からいわれる耳の痛いご批判で,大変もっともな話だと思います。こと,カズイスティックな(判例の集積を待つしかない的な)基準づくりについては私も批判的です。事実認定,あるいは理論への当てはめ作業において使いづらいものは回避すべきだと思います。そういう意味では主観的内容に大きく依存する理論も極力避けるべきだと思っております。

以上,エントリのテーマの射程を大きく超えて「行為規範」の話をしてしまいましたが,お許しいただければ幸いです。

法律相談へ

ブログタイムズ

このエントリのコメント