エントリ

名鉄19歳車掌:刑事処分が相当として逆送(毎日新聞 2006年12月22日 14時07分)

 感覚的には刑事処分相当なのかな〜? という感じなんですが。

 丹羽日出夫裁判官は「結果の重大性や被害者との示談が成立してなく、少年が成人間近であることを考慮すると、刑事手続きにおいてしょく罪させるのが妥当だ」と述べた。

 少年事件のそれも過失犯において、結果の重大性を重視するのにはあんまり賛成ではありません。

 示談が成立していないという指摘についてですが、本件の示談交渉は実質的には名鉄と遺族との間で行われていると思います。
 その結果としての示談未成立を元車掌のせいにするのはどうなのかな、と思います。
 前提が間違っていれば別ですが。

 ここで朝日の報道を見てみました。


19歳の元車掌、刑事裁判へ ホームで死亡事故 名古屋
(asahi.com 2006年12月22日11時30分)

決定理由は「業務の重要性と結果の重大性に加え、被害者との示談も成立していない」と指摘。「成人間近であり、刑事手続きで真相を明確にし、少年に罪を償わせて再起を図らせるのが妥当だ」などとしている。

 「刑事手続きで真相を明確にし、」というところが気になります。
 ひょっとしたら元車掌は過失を争ってるのかも知れません。
 少年審判で少年が否認すると、事実認定を面倒くさがって事件を逆送する家裁の裁判官がたまにいることは感じています。
 本件の裁判官がそうだというわけではありませんが。


 
 ただし、元車掌に対する現実的な処分の見通しについては、逆送が不利なのか有利なのかは即断できないところがあります。

 報道によればですが、裁判官は、結果の重大性は指摘しいますが、過失の重大性は指摘していないようです。

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オーストリア・ケーブルカー火災控訴審判決
「日本人10人を含む155人が犠牲となった2000年11月のオーストリア中西部カプルンでのケーブルカー火災事故の控訴審で、リンツ高等裁判所は27日、控訴を棄却、失火罪に問われたケーブルカー運行会社役員ら被告8人全員に改めて無罪判決を言い渡し判決が事実上確定した。」(日経)

「過失」に対する司法判断が国によっていかに異なるかを示す例です(この判決が妥当かどうかは、その国の国民、民族の文化的背景に依存すると思っています)。

日本の「過失」に対する法曹界の前近代的判断基準は、下記のような特殊性に由来するものと考えております。

1 結果の重大性や被害者の心情によって過失の程度が左右される
2 結果の予見可能性の拡大解釈(ほとんど結果責任、無過失責任とも言える)
3 一罰百戒によって、見せしめとする(さらし者にするという意味でもある)

医療裁判においても上記原則が貫かれているように思われます。

素人の私が差し出がましい意見を書かせていただきましたが、ご批判願えればと思います。

>整形開業医Y さん

 日本でも過失犯はけっこう無罪になってるんですよ。

何度も言うようですが、逮捕して有罪にしてすべてが解決する問題ではありません。
もちろん結果を受け止め、次回策に役に立てるデータとして蓄積をするのは正しいことですが、処罰することによりこの手の事件が減るとはとうてい考えられません。人間はミスをする動物です。どんなに注意していてもミスはします。処罰は見せしめ以外、何の意味もありません。
そういう意味に置いて、整形開業医Y さんの意見を支持致します。

 過失犯非犯罪化論は、かなり以前から主張されています。

 私も、少なくとも現在より過失犯処罰を限定すべきであると考えています。

 検察も起訴裁量の範囲で考えている部分はあるんですが限界があります。
 立法論的に対処すべき部分が多いです。

 本エントリの趣旨を考える際には、福島などの医療過誤業過起訴を前提に考えるとバイアスがかかりすぎの議論になるかも知れませんのでご留意願います。

 本件は交通事故業過に近い類型だと思います。

整形開業医Y さん

>オーストリア・ケーブルカー火災控訴審判決
「日本人10人を含む155人が犠牲となった2000年11月のオーストリア中西部カプルンでのケーブルカー火災事故の控訴審で、リンツ高等裁判所は27日、控訴を棄却、失火罪に問われたケーブルカー運行会社役員ら被告8人全員に改めて無罪判決を言い渡し判決が事実上確定した。」(日経)

これなんかは日本だったら確実に有罪になりそうな事例です。
日本は国民自体が、過失責任というよりも結果責任という意識が強いと思います。
「事故起こして人が死んでるのだから責任を取るべきだ」
という感じですね。
交通事故なんかに対してもそういう意識が感じられます。

とすれば、司法判断の不合理性を問題にするよりも、司法のベースとなっている社会自体の意識の問題と捉えるべきではないでしょうか。

未成年という判断より、
「1 結果の重大性や被害者の心情によって過失の程度が左右される
2 結果の予見可能性の拡大解釈(ほとんど結果責任、無過失責任とも言える)
3 一罰百戒によって、見せしめとする(さらし者にするという意味でもある)」
を傍証できる趣旨・目的・行為履歴の追認が読めないのでその点で犯人とする縛りがこの項目においては不適正である。他の原因を想定できないか・・・とみました。

名鉄の車掌業務は、大手私鉄やJRに比べてもかなり複雑で負担が多い、裁量行為が多いシステムです。(営業的には努力しているからですが)この点も確認が必要でしょう。それも考慮に入れているのではないでしょうか。

>人間はミスをする動物です。どんなに注意していてもミスはします。処罰は見せしめ以外、何の意味もありません。

医療事故などのように注意していても起きるミスなら処罰すべきではないですが、本件もそうしたミスなのでしょうか。裁判の結果を見なければ分かりませんが。

するべき注意を怠って起きたミスは、処罰も止むを得ないと思います。運転中に携帯で話したり、60k制限の道を100kで走ったり、酒を飲んで運転したり。これらのような事案では「ミス」の処罰に意味がないとは思えません。

じじいさんのコメント の通り「人間はミスをする動物」だと思います。

懸念は、
1) 少年という面での刑事責任の有無に偏ると、事故の真相解明がおろそかになる。
2) 同じように、複雑に絡み合った問題があるにも係わらず、脱線の様な事故でないので、鉄道事故調査委員会による調査となっていない。(鉄道事故調査委員会のWebを見て、発見できなかったものですから)

車掌が発車前に容易に発見できるところで(具体的には、4両編成の何両目だったとか)乗客が列車とホームの間に挟まれたのか、少年事件ということで、多くの情報が非公開となり、今後の事故防止に役立たないというのは意味のないことと思うのです。

>kenji47 さん
>日本だったら確実に有罪になりそうな事例

御巣鷹の日航機墜落の件でも、ボーイング社、日航の担当者が
有罪判決を受けたと言う話は聞きませんが

しまさん

そこは事実関係が違うからとしかいいようがないですね。
オーストリアのケーブルカーの件は、車内の暖房装置が発火したそうですから、日本だったら管理の過失を認められやすいんじゃないでしょうか?

日航機墜落事故の原因も、ボーイング社の修理ミスなので、過失を認められやすいと思いますが

しまさん

>日航機墜落事故の原因も、ボーイング社の修理ミスなので、過失を認められやすいと思いますが

その比較は単純すぎると思います。
交通事故でも過失が認められる場合と認められない場合があるのですから、ケーブルカーの事故で過失があるからといって、航空機事故でも過失が認められないのはおかしいとは言えません。
一言でいって「事例が違う」からです。

圧力隔壁の修理ミスがあっても事故の予見可能性がないとしたのかもしれません。
車内の暖房機のようなローテクの管理に要求される注意義務とはレベルが違うということではないでしょうか?

>kenji47さん

先のコメントで、以下のように書かれましたよね

>日本は国民自体が、過失責任というよりも結果責任という意識が強いと思います。
>「事故起こして人が死んでるのだから責任を取るべきだ」
>という感じですね。


この論理を日航機墜落事故に当てはめれば「日航やボーイング社の過失の有無にかかわらず、日本の裁判所は結果を重く見るので有罪判決を出す」と解釈出来るわけですが。

つまり、極論で言えば、過失がない事例においても無理矢理過失を捻り出すのが日本の裁判所だという主張だと思いました。日本の裁判所がこのような考え方を持っているのであれば、日航機墜落事故の場合「修理はボーイング社の技術陣によって行われたものであるが、ボーイング社の指示図どおりには行われず」と言うミスは、格好の材料になると思いました。

ちなみに言えば、日航機墜落事故の場合、起訴すらも行われてはいないようですね。

しま様

私も名鉄事故がどんな事故かは詳しくは存じませんが、この報道を見る限り全く事例の異なる123便墜落事故を引き合いにされるのはいかがなものかと思います。

>日航機墜落事故の場合「修理はボーイング社の技術陣によって行われたものであるが、ボーイング社の指示図どおりには行われず」と言うミスは、格好の材料になると思いました。

とはいうものの最初の事故&修理からは、123便事故まで7年が経っていますし、調査報告書自体にもいろいろ疑問が投げかけられているようですし、関係者も亡くなっていますので。この事故の予見可能性はどこまであったかは・・・。

>御巣鷹の日航機墜落の件でも、ボーイング社、日航の担当者が
有罪判決を受けたと言う話は聞きませんが

自殺されたそうですよ。日航の整備担当の方も、ボーイング社の修理担当の方も、日航の大阪空港の事故当時の機長も。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

しまさん

>この論理を日航機墜落事故に当てはめれば「日航やボーイング社の過失の有無にかかわらず、日本の裁判所は結果を重く見るので有罪判決を出す」と解釈出来るわけですが。


「日本は過失責任というよりも結果責任という意識が強い」という主張と、「過失責任ではなく結果責任だ」
という論理は同じですか?

日本語わかります?

> じじいさん
あくまでもケーブルカーの話ですよ。それに、ボーイングに過失があると思っている訳でもないし、検察の判断に文句を付けているわけではないです。

結果が重大である日航機墜落事故でさえ過失が認められなかったわけですので、オーストリアのケーブルカー事故と同様な事故が日本で発生しても刑事罰は問われないだろうという主張です。


>kenji47さん
「過失の有無」というのは不適切な言葉でしたね。以下のように修正します。

-----------
この論理を日航機墜落事故に当てはめれば「日航やボーイング社の過失の大小にかかわらず、日本の裁判所は結果を重く見るので有罪判決を出す」と解釈出来るわけですが。

しま様

>結果が重大である日航機墜落事故でさえ過失が認められなかったわけですので、オーストリアのケーブルカー事故と同様な事故が日本で発生しても刑事罰は問われないだろうという主張です。

123便事故の過失責任がどういう処理をされたかは存じませんが、「結果が重大である日航機墜落事故でさえ過失が認められなかった」ということからは、結果の重大性だけでは処分は決まらないということが分かるくらいで、ケーブルカー事故の過失責任がどう取り扱われるかについての推論は導き出されないように思いますよ。

理由は、kenji47様のいわれるように、事例が違いますから、過失責任のスキーム・度合いが123便事故とケーブルカー事故では異なるであろうと推察されますので。

>じじいさん
確かにそれはあるんですけどね。オーストリアで無罪だからと言って日本で無罪だとは限らないし、オーストリアで無罪だからといって日本で有罪だとも限らない。

違う事例を引き合いに出しても、違う国を引き合いに出しても不毛なだけですね。失礼しました。

モトケンさん、yama さん、デハボ1000 さん、kenji47 さんコメントありがとうございました。

今回の案件で車掌に本当に過失があったかどうかはこの報道からは判断できません。しかし「結果の重大性や被害者との示談が成立してなく....」だから刑事処分が適当であるという裁判官の判断は、明らかに被害者の心情や事故の結果から過失の程度を判定しているという点で結果責任の追求と私には感じられました。

日本の法曹界に無過失責任を追求する傾向があると普段から感じておりましたので、オーストリアの事故の判例(日本の裁判だったら恐らく考えられない判決だろうと思います)を引用させていただき、日本の裁判との違いを皆さんに理解していただければと思いました。

ちなみに下記のような報道もありました。

首都高逆走の自転車 轢いて逮捕は理不尽だ
2006/11/20
お年寄りが自転車で首都高に逆走する形で進入、走ってきた大型トラックにはねられ死亡した。運転手は道路交通法違反で現行犯逮捕されたが、ネット上には「これで逮捕はあんまりだろ・・・・」「あんな入り組んだ高速で人が横断してたら絶対に轢く。WRC(世界ラリー選手権)のプロでも轢くと思う」など運転手に対する同情のカキコミで溢れている......(J-CASTニュース)
詳細は下記をご覧ください
http://www.j-cast.com/2006/11/20003895.html

こうした非常識な逮捕拘留が当たり前になると、最終的には無罪になるとしても(多分そうなると思うのですが)、運転手の方には御愁傷様としか言いようがありませんね。私には人権侵害のように思えてなりません。

一方、伝え聞いた話で正確ではないかもしれませんが、中国、北朝鮮などでは、一罰百戒によって過失事故の再発抑止効果を狙うというのが当たり前ということです。だから過失に対しても刑法が普通に適応される。また比較的軽い犯罪でもすぐに死刑になっちゃう。人権侵害なんて当たり前と(間違いがあったらごめんなさい)。

そうして考えてみると犯罪処罰に対する考え方は、その国や民族の文化・習慣の影響を強く受けているように思います。kenji47 さん(No.5)の言われる「司法判断の不合理性を問題にするよりも、司法のベースとなっている社会自体の意識の問題と捉えるべきではないでしょうか」は本質に迫るご意見だと思います。もっとも司法判断が先か社会自体の意識が先かは、鶏と卵の関係にもなります。私自身は結果から過失の程度がしばしば左右される傾向があるという意味で、日本の法曹界は一部非合理的哲学によって支配されていると感じました。

法律に関しては素人の私が感じるままに書かせていただきましたので、不適切な点がありましたら、ご指導、ご批判ください。

> 首都高逆走の自転車 轢いて逮捕は理不尽だ(No.19 整形開業医Y さま)

このブログのあちこちで繰り返し指摘されていることですが、
・刑事責任を問う=裁判で有罪判決を受ける
・逮捕勾留する

この二つは、区別して考えるべきです。
刑事責任を問うことは正当でも、捜査のための身柄拘束は許すべきでない、という場合もあります。
日本の司法においては、捜査機関が被疑者の身柄を抑えて圧力を掛けるという捜査手法が広く行われ、また裁判所がそれを安直に認めてしまうので、「人質司法」といわれ、人権侵害であるとして、大きな問題となっています。

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> 結果から過失の程度がしばしば左右される傾向があるという意味で、日本の法曹界は一部非合理的哲学によって支配されていると感じました。

しかし、日本には、それを非合理と思わない人も多数いるようです。「人ひとり死んでいるのに」
一般人の考え方を司法に取り入れるというのが、司法改革の方向性ですから(裁判員制度、検察審査会の権限強化)、今後は過失犯は厳罰化され、結果責任主義的な傾向が一層強まることが危惧されます。

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