生徒の遺族、市教委の中間報告を批判 埼玉・本庄の自殺(asahi.com 2006年12月25日22時24分)
遺族側の主張に対し、市教委の古沢高昭指導室長は「対応が遅れたのは事実だが、それが自殺に結びついたかどうか、因果関係を調べているところ」と述べた。
教育委員会がいつも因果関係を否定したがるのは、それが責任論に直結するから。
わかりやすく言えば、因果関係否定論は教育委員会の責任逃れ論。
責任逃れ論に終始して教育論を忘れている。
だからいつまでたってもいじめが減らない。
市教委などによると、生徒は2年生から3年生にかけて同級生から数回にわたって金銭を要求され、自殺直前には実際にはお金を借りていないのに「2万円を返せ」などとしつこく迫られたという。
市教委も「自殺直前には実際にはお金を借りていないのに『2万円を返せ』などとしつこく迫られた」という事実を認めているなら
市教委の中間報告は、2年生の時の金銭要求を「一般的な意味で『いじめ』があったと認められる」とした。一方で「3年生になってからいじめがあったと結論づけることはできない」とも指摘。
という指摘はあまりにも厚顔無恥な責任逃れとしか言えません。
認めてないんですかね。
既に元記事が削除のようです、いかにも朝日らしい。
(教員が授業を放棄して、反日デモに参加しても見過ごしたりしていますから)
教員や彼等の考えでは、責任は被らない物であって、果たす物ではなさそうです。
この事例は「いじめ」ではなく、恐喝という刑法犯罪なのではありませんか?
「対応が遅れた」ということに対してもう少し危機感をもってもらいたいんですけどね。
初期の段階なら「こういう噂が耳に入ったんだけど、本当かな?」と校長室に呼ぶだけで収まるケースも少なくないのに。
公務員の方には申し訳ないのですが、公務員は嫌いです。
どんな立派な理由があるのか計り知れませんが、絶対にミスを認めないからです。
個人的に腹を立てています。
ところで、因果関係の立証責任は個人にあるのですね?
No.4 m 様
>公務員の方には申し訳ないのですが、公務員は嫌いです。
どんな立派な理由があるのか計り知れませんが、絶対にミスを認めないからです。
おっしゃるとおりです。公務員とて、人間ですからミスはあるはずです。
ミスした時の対応をどうするかが、公務員としての信頼につながるはずなのですが、相変わらず、責任転嫁する例が多く、それがさらに批判を招くということさえ、学習できていません。私が主張しているのは、さらにその前段でミスをなくする努力をしていない、他の事例から学ぼうとすることさえせず、同様のことを繰り返しているということです。
j私の体験から話を一般化しすぎたかもしれません。偏見かもしれません。
北の役人様のような方もいらっしゃるのは存じておりますよ(汗
責任のとり方とらせ方
今回の事件で、学校側の対応に問題があること、教育委員会が当然の責任を認めようとしないこと、それらを認めた上での話です。
いじめ事件での学校や教育委員会、医療事故での病院、政治問題での政治家、不正経理事件での会社経営陣等々が「責任を認めたがらない」のは、何か我々の社会にある共通の事情が大きく影響していないでしょうか?
「責任をとるべき」人は深々と頭をたれ、土下座をして、「私の責任です」と一切の無抵抗を言葉・態度で示すことを、世間やマスコミはあまりに要求しすぎてはいないでしょうか?
少し話を一般化すると、事件の責任追求や被害者感情を特定の人物や組織に思い切りぶつける、またそのような人物や組織を見つけ出さなければならないという観念が時にあまりに強すぎるために、この国で「責任を認める」ことはその個人や組織に与えられている裁量や能力に不釣合いな大きなバッシングを受けるという恐怖が、当事者を過剰に防衛的にさせる面があるように思うのです。
「この事件のここからここまでは確かに私の責任であり謝罪と今後の改善に努めるが、それ以外のこの部分は別の人間の責任であり、さらにこの部分は誰の責任でもない不可抗力である」というような主張を、もしそれが非常に正確な分析の結果導き出されたものだとしても、世間やマスコミはどの程度の冷静さで受け取ることができるのか、私には少し疑問に思えます。
以前池田小学校での児童殺傷事件で、父兄やマスコミは学校の管理体制や担任教師の責任をきびしく追及しました。テレビで元担任教師が「身を挺して防げなかった、児童が死んだのは私の責任だ」と号泣しながら自分を責め、いまだに社会復帰できないでいるのを見て違和感を感じずにはおれませんでした。
給食を作るのが担任の責任ではないように、警備や暴漢と戦う義務を当事者が立ち上がれなくなるほど追求しすぎるのは何か違うと思うのです。
責任を認めたがらない当事者、その無責任ぶりを認めた上での話です。
無責任な当事者は非難されて当然と思いますし、非難すること自体はある意味簡単ですが、、なぜこのような傾向が我々の社会に厳としてあるのかという背景も、もう少し考察されても良いのではないかと私は思います。
>テレビで元担任教師が「身を挺して防げなかった、児童が死んだのは私の責任だ」と号 泣しながら自分を責め、いまだに社会復帰できないでいるのを見て
>警備や暴漢と戦う義務を当事者が立ち上がれなくなるほど追求しすぎるのは何か違う
詳細は存じませんが、今回のケースとは場合が違うように思います。
今回の責任逃れは、組織を守る、身内を守る、ひいては自己保身のように思います。
mさんへ
レスありがとうございます。
>責任逃れは、組織を守る、身内を守る、ひいては自己保身
は正にその通りであり、それを否定しているわけではないのです。
「それを認めた上で」の話とご理解ください。
そのような不適当な、過剰な自己防衛の心理がどうして生じるのか、そうならないためにはどうしたらよいのか、が私の興味であり問題意識です。
確かに池田小学校事件、さらに私が例に挙げた医療事故、政治家の不祥事、会社の不正経理等々は今回のいじめ事件では経緯も全く違うのですが、責任の問い方や当事者の心理については共通するものが多いのではないかと考えています。
私もたぶんmさんと同じような憤りを感じています。
しかし、もしmさんと少しだけ違いがあるとすれば、特定の職業に就く人たちが特別ひどいモラルを持った集団だ、とは私は思っていません。
当事者たちはおそらく私と極端には変わらない人たちです。そのようなありふれた人たちがある状況におかれると、ハタから見ていても不自然な心理状態になり不自然な対応をするわけです。
そして「その原因は組織の体質が全てである」と言えば批判を受けないで済むのですが、敢えて疑問を呈してみました。
組織のモラルのなさを糾弾することは重要ではあるが、ある意味簡単なことでもあります。組織を運営するのは所詮「人」であり、人はそれほど強い生物ではない。
彼らの心理は明日の私の心理だと考えます。
社会的に重要な問題を、特定の人や組織のモラルに依存するのは合理的ではありません。
とりわけ厳しい精神修行を積んだ人ではなく、ごく普通の人がごく普通の反応ができるような仕組みを作ることが重要で、それは組織と社会の共動作業のはずです。組織には組織の、社会には社会の問題があるはずが、特に後者はほとんど考察されることはありません。
「批判、締め付け」で解決する問題ばかりではなく、逆に地下に潜る問題もあります。
私たちの社会の特性をもう一度見つめ直してみることは、決して無駄なことではないと思うのです。
私の偏見に過ぎないのですが、まず、一般企業とお役所では、信用がなくなれば前者はつぶれ、後者はつぶれない、という大きな違いがある。何か問題が生じた場合(ミスが発覚した場合、発覚しない以上は隠蔽もありうるが)、前者では責任を負う人を明確にせざるを得ない、後者ではうやむやにしてしまえばなんとかなる、自分が責任を負わされることがないよう身内の責任も極力問わない、ということはありませんかしら?
次に、お役所以外のところでは、医療事故あるいは経営判断がらみの部分では、高度に専門的・技術的すぎて一般人にはミスなのかどうか判断がにわかにはできっこないという意識があって、認めさえしなければなんとかなると考えるところがありませんかしら?
いずれにしても自己保身なのかなあ、と思うのですが。
もちろんできる限りの注意義務を尽くした団体や個人まで魔女狩りのように執拗に責め立てるのは行き過ぎだと思います。マスコミに分別をもってもらうより仕方ないのではないでしょうか。ひょっとしたらマスコミを市民が監視する必要があるのかも知れません。ずらずら書きましたけど実際よく分かりません。
Glenn様の問題意識もよく理解できます。
誰も自身が負うべき以上の責任を負わされたくないですから。