エントリ

著作権法というのは、権利の保護と同時に、どうやって利用して文化の発展へとつなげるかを考えなくてはならない。しかし、実際の立法は、著作権=既得権益の保護という観点が多くを占めている。

著作物とは芸術であるならば、芸術はそれ自体が公開を求めているのではないだろうか?著作物は、公開され、評価されるなかで命を得、新たな創造を生み出していくのではないか?。だから、人に伝えられるのは著作物の本質なのではないか?そういう本質を認めたうえで、創作者に利益が生み出される制度が必要とされているのではないだろうか?と私は考えるようになっている。

 壇弁護士は芸術に着眼して意見を述べられてますが、私も報道記事について似たような考えを持っています。
 私のブログでは新聞社のサイトからの引用が多数あり(というかほとんどそれ)、その中には現在の著作権法の解釈を形式的に適用すれば著作権法違反になるものも含まれていると思います。

 私としても著作権法を全く無視しているわけではありません。
 ある程度は気にしています(^^;
 今日の「ネット社会」などは元記事を全文引用したいところですが、半分は引用する価値が低いと思ったことと半分はやはり全文引用は気が引けますので、全文引用を控えました。

 しかし「拳銃発見状況の偽装」などは全文引用しています。

 これは、新聞報道は、その内容が読者によって論評され、議論され、批判されることによってその使命を果たすことができると考えているからです。
 そして論評、議論、批判をするためにはその対象を明示する必要がありますから、そのために全文引用が必要ならする、という考えです。

 ところで、著作権法違反の罪は原則として親告罪ですから、著作権者からのクレーム等については誠実に対応しますが、それ以外の方からのご意見についてはその内容次第で対応させていただきます。
 以前に、罵倒の捨て台詞を残して去って行った人もいましたので(^^;
 なお、弁護士ともあろうものが現行の法律に反することを敢えてしていいのか、というご意見もあろうかと思いますが、現行法規やその解釈の不合理性や時代錯誤性を指摘するのも法律家の仕事だと考えていますし、私のブログへの全文引用ごときで刑事処罰に値する違法性があるとは全く考えていませんので、その意味では、許容範囲の行為と考えております。
 また、民事問題としては、著作権は財産権的側面が大きいことは十分理解していますが、その面でも報道各社に損害を与えいるとは思っていませんので、これまでの姿勢を変えることは考えていません。

 まあ、訴えられたら最高裁まで争うつもりです(^^)
 その経過は逐一ブログにアップするつもりですので、楽しみにしていてください。
 まず、ありえないのが残念ですが(^^;

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コメント(23)

>私のブログへの全文引用ごときで刑事処罰に値する違法性があるとは全く考えていません

個人のブログ又は掲示板等での引用を全て著作権法違反で刑事処罰をしようとすれば、国民の多くは犯罪者となります。新聞も客商売であり、国民を敵に回してまで告訴しても会社に何の利益もないので、取り立てて刑事告訴する合理性もないでしょう。

>まあ、訴えられたら最高裁まで争うつもりです(^^)

戦力的には役に立たんでしょうが、傍聴には行かせていただきます。
夢は「勝訴」の紙を持って、裁判所から走り出ることです(^^)
実は「不当判決」もそれはそれでおいしいかなと・・・(^^;;

>ところで、著作権法違反の罪は原則として親告罪ですから、著作権者からのクレーム等については誠実に対応しますが、それ以外の方からのご意見についてはその内容次第で対応させていただきます。

言い換えると著作権者自身以外からのクレームは適当にあしらっておけば良いと言うことでしょうか。
書き込みの時点において私は著作権者からのクレームが来ないようにすべきと考えておりましたが、見つからずクレームが来ないと考えられるなら日本人のモラルとしても何でもありと考えて良いのでしょうか?
現実的には捕まらなければ何をやっても良いのが今の日本ですが、何だかなあって思いますね。

No.1 じじいさん

>個人のブログ又は掲示板等での引用を全て著作権法違反で刑事処罰をしようとすれば、国民の多くは犯罪者となります。

どういう風に法律解釈すれば国民の多くは犯罪者になるんでしょうか?
個人のブログは私は一部ですけど見ていますが、著作権法違反になるような記事は極一部というのが私の印象です。 少なくともここのような引用は極一部だと感じています。
失礼にも程があるんじゃないの?という感じです。

クルンテープさま
横レスですが、論理が飛躍していますよ。
悪意にねじ曲げて解釈しすぎではないですか?

モトケンさまが打ち出された方針は、
 1.著作権者からのクレーム等 → 誠実に対応
 2.著作権者以外からのクレーム等 → その内容次第で対応
著作権者以外からのクレームであっても、正当なものについては、誠実に対応するという趣旨であろうと思います。

> 著作権者自身以外からのクレームは適当にあしらっておけば良いと言うことでしょうか
> 見つからずクレームが来ないと考えられるなら日本人のモラルとしても何でもありと考えて良いのでしょうか?(No.2)
ということは、おっしゃっていません。

> 書き込みの時点において私は著作権者からのクレームが来ないようにすべきと考えておりましたが
モトケンさまの方針も同じで、「報道各社に損害を与えいるとは思っていません」
このブログでは報道各社からクレームが来ない範囲で引用しているとのお考えです。

ただし、これに対しては、「それは違う、報道各社に損害を与えている」との反対意見はあるかもしれません。
もし、クルンテープそのように考えられるのでしたら、具体的に損害を与えたと目される引用箇所を指摘されればよいと思います。

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> どういう風に法律解釈すれば国民の多くは犯罪者になるんでしょうか?(No.3)
No.1の文脈をどういう風に解釈すれば、そのような理解になるのでしょうか?
じじい様の言わんとするところは、「各個人のブログ又は掲示板等での引用状況をみるに、刑事処罰に値するものはほとんどない」という趣旨であるのは、明らかと思います。
つまりはクルンテープさまと、全く同意見ではありませんか。

YUNYUN先生、フォローありがとうございます。

私のいいたかったことは、YUNYUN先生がお示ししてくださっていますので、あえて言葉を重ねませんが、私の1のコメントは決してクルンテープ様をはじめとする個人ブログ主やコメンテイター、掲示板利用者の皆さんを誹謗中傷するものではありません。私の文章力が稚拙なため、誤解を招いたとすればお詫びいたします。

こんにちはです。

壇弁護士のコメントから
>著作権法というのは、権利の保護と同時に、どうやって利用して文化の発展へとつなげるかを考えなくてはならない。

「利用と文化の発展」の方を突き詰めていくとコピーレフトの思想になりそうですね。

モトケンさんのコメントから
>新聞報道は、その内容が読者によって論評され、議論され、批判されることによってその使命を果たすことができると考えているからです。

確かにそうなんですけど、件の引用元を見る限りでは、そのページの周囲に広告が付いており、新聞社はその広告収入も期待しているように見えますので、やはり甚だしい引用は慎んだほうがよさそうですね。

>民事問題としては、著作権は財産権的側面が大きいことは十分理解していますが、その面でも報道各社に損害を与えいるとは思っていませんので、これまでの姿勢を変えることは考えていません。

私の勝手な考えでは、このブログにおいては、全文引用による損害よりも、全文引用による新聞社ウエッブサイトの宣伝効果のほうが高そうですから、特に問題にはならないのだろうと思うのですが、将来、新聞社が、どういう風に考えを変えるかで、また変わってくるのではないのでしょうか?
このあたり、法律に詳しくないので、良く分かりません。

>No.6 創価板UD日報係さん

>確かにそうなんですけど、件の引用元を見る限りでは、そのページの周囲に広告が付いており、新聞社はその広告収入も期待しているように見えますので、やはり甚だしい引用は慎んだほうがよさそうですね。

 問題が生じるとすればここだと考えています。

 新聞社も取材と報道には経費がかかりますから、新聞社の経営に悪影響を及ぼすような引用行為は違法性を帯びると思います。

 ただし、この問題については私も仮に訴訟を起こされたら

>私の勝手な考えでは、このブログにおいては、全文引用による損害よりも、全文引用による新聞社ウエッブサイトの宣伝効果のほうが高そうです・・・

を引用させていただくつもりです。

 少なくともブログ全体としては新聞社のサイトのアクセスアップになってるんじゃないかな〜、と思ってるんですが(^^;

>クルンテープ さん

 ちょっと言わずもがなな文章を書いてしまいました。

 要するに、応対すべきは応対しますし、スルーすべきはスルーするという一般論を述べただけです。

 誤解を生じさせたみたいで申し訳ありません。

> そういう本質を認めたうえで、創作者に利益が生み出される制度が必要とされ
> ているのではないだろうか

それが経済学の基本原理に反しているので、皆困っているんです。言うは安く、行うは難しです。名和小太郎先生や国領二郎先生の一連の著作を読むとそれがよく分かります。

経済学では、財産とするためには希少性が必要だと教えます。他の人が手に入れようと思っても簡単には出来ない --- 本をコピーするのはそれなりに大変ですし、絵画や彫刻の複製は更に大変です。そういった大変さが無く、誰でも簡単に手に入れられるようになってしまうと、誰もそれに対して金を払わない。空気に対して誰も金を払わないように。

そこで、立法技術を使って無理に希少性を持たせ、財産的価値が生じるようにしたのが著作権や特許権など、知的財産権と呼ばれるものだと先生方は教えます。

この問題を解決した人は、末永く名前が残るだろうと思います。

著作権という権利に経済学の基本原理を適用しようとすることに問題があるのではないかと思います。
著作権は、財産権という側面と一種の人格権のような精神的自由の側面を併せ持っています。
経済学の基本原理に、多分自由市場って概念は含まれていると思いますが、それは本質的に、モノ、つまり純粋に財産権であるものを前提としているように思います。
「立法技術を使って無理に希少性を持たせ、財産的価値が生じるようにし」てまでして、自由市場原理を知的財産権一般に及ぼそうとしたので、
今のような、利益を囲い込むときばっかりに著作権の権利性(精神的自由の側面)が主張され、アレもダメこれもダメ的な風潮になってしまうのではないかと思っています。
自由市場概念以外の方法で、財産権としての著作権の利益保護を考えていくのもいーんじゃないかと思います。

皆さん、今年もよろしくー。

著作権の保護期間を死後50年とか、改正して90年とかにしているのはどういう原理なのでしょうかね?

死後90年じゃ、下手すると孫からひ孫に変わるくらいの長期間ですよ。
平均寿命といった概念で考えると、発表から100年といったところになります。

今から100年前、1907年に何があったのか?ってパッと思い出せないでしょう?
そういう頃の著作物の権利って何よ?と思うわけです。

「著作権」というのが何でもかんでもまとめすぎな気がしますね。実際には著作○○権とかあるのでしょうけど・・・
海賊版行為と歌詞の一部を引用したりする事を一緒にしたら破綻すると思います。

> 著作権の保護期間を死後50年とか、改正して90年とかにしているのはどういう原理なのでしょうかね?(No.11 酔うぞ 様)

著作権の保護期間は、最初は死後20年くらいで、自然人である著作者の一生と、せいぜいがその子供らが成人するまでの間のメシの種になればよい、という考え方でした。
作曲家の故芥川也寸志氏が、自分の音楽活動そっちのけでJASRAC(日本音楽著作権協会)の活動に熱心になる理由を聞かれて、「僕は親父(芥川龍之介)の印税で育ったから」と答えたという逸話はそのような考え方を示すものと言えます。
余談ながら、龍之介は死ぬ前に、本屋に、自分の印税がどのくらいになるかを問い合わせていたそうですね。遺族の生活を心配したのでしょうか。

それが、50年とか70年とかに延長されてきたのは、映画の発展によるものです。
映画は会社組織で製作され、映画会社が儲けるためには、独占利用期間が長ければ長いほど有利だからです。
アメリカでは、著作権法が何度も改正され、そのたびに運動の先頭に立ったのはディズニー社でした。ミッキー・マウスの著作権が切れそうになると法改正して延長させるということを繰り返したため、「ミッキー・マウス法」などと呼ばれます。

著作権や特許等の知的財産権の保護については、
・開発者が利益を得られるようにしなければ(フリー・ライダーを許しては)、誰も開発行為をしなくなってしまい、新しい芸術や技術が生まれない
・開発者に永遠に利益を独占させてしまうことは、社会の産業の発展を阻害する
この二つの面のバランスを、どこで取るかという問題である。
ということを、壇弁護士はおっしゃっていると思います。

刑期の上限が誘拐犯と同じ、で驚きました。

そこまで手厚く保護する理由は何も無い、YUNYUN 様のコメントの通り、映画など配信会社の声(と献金)が大きかっただけで、アンバランスな法に見えます。

いったん利権を与えると、それを元手に際限なく利権を拡大する。
その構造は(自称)人権団体と同じですね。

No.10 白片吟K氏 さん
>著作権は、財産権という側面と一種の人格権のような精神的自由の側面を併せ持っています。

創作をする人にしてみれば、単純に金銭的な利益を得るだけではなく、自分の作品がどのように扱われるかも、重要なことのようですね。
例えば、作曲家によっては、自分の作品を自分が指定した以外の編成で演奏したり、部分的なカットをすることを非常に嫌がる人も多いようです。
有名な例として、ホルストが「惑星」に関して、楽器編成の厳守、抜粋演奏の禁止を指示したというのがあります。
このあたりも考慮する必要がありそうですね。

No.13 YUNYUN さん
>開発者に永遠に利益を独占させてしまうことは、社会の産業の発展を阻害する

一度、開発をすれば、そこから永遠に利益を得られるのであれば、もともとの開発者自身も新しいものを開発する意欲がそがれる結果になりかねませんね。

>>著作権は、財産権という側面と一種の人格権のような精神的自由の側面を併せ
>>持っています。
>
>創作をする人にしてみれば、単純に金銭的な利益を得るだけではなく、自分の
>作品がどのように扱われるかも、重要なことのようですね。

この気持ちは分かります。しかし、それを認めすぎると弊害が起きます。自分の作品の扱い方を決める権利とは、他人の創造の自由を侵害する権利でもあるからです。

以前別のエントリで、スタンフォード大学(ハーバードから移られたようです)の憲法学者レッシグ先生の講演を紹介したことがありますが、そこで先生はこう述べておられます。

1. 創造とイノベーションは常に過去の上に築かれる。
2. 過去は常にその上に創造されるものを支配しようとする。
3. 自由な社会はこの過去の力を制限することで未来を可能にする。
4. 我々の社会は日々自由を失っていく。

いかなる著作者も、特許発明者も、先人の遺産の上に自分の創造を行っています。過去の上に築かれています。それらが過去により(それも、原作者の死後50年などと言う、関係者の多くが死んでしまうほどの過去により)支配されることを認めるのが、現在の著作権法です。

我々の社会は日々自由を失っていく、との先生の言葉に強い共感と危機感を覚えます。

http://ittousai.org/lessig/lessig_free_culture_japanese_1.1.swf

白片吟K氏さん

>著作権という権利に経済学の基本原理を適用しようとすることに問題があるのではないかと思います。
著作権は、財産権という側面と一種の人格権のような精神的自由の側面を併せ持っています。

著作権の精神的自由の側面を強調するから保護期間が長くなるのだと思います。
特許権は権利期間が出願から20年とされてますが、これは長く保護しすぎると技術開発によって社会が受ける利益が損なわれるためです。
つまり経済的理由によって権利期間が設定されているのです。
そうであれば、著作権も経済的側面を強調することが、あまりにも長い保護期間を否定するために意義があると思われます。

さて、経済学は大学1年のときにやったきりなので、素人考えですが。

著作権があると、著作物を手にしたものはそれの供給に対して独占的に権利を持つ。

一般に独占がない場合、限界収益と限界コストが一致する点が均衡価格となり、ここが「総余剰が最大となる(社会に生み出す富が最大となる)」

ところが、独占のある場合は利潤を最大化しようとして、価格はそれよりも高くなり、その結果総余剰が減る、すなわち社会に生み出す富が最大にならなくなります。

例えばネット上を流通する映画ソフトなんかの場合、限界コストはほぼ0ですから誰でもが自由に供給していいとすれば無料で流通することになります。これがウィニーなんかで起こっていたこと。
しかし実はこの状態が社会全体としては最も得をした状態なわけです。

ところがこの状態では著作物を生み出した本人に何の利益もない。
それだと、新たな著作物を生み出そうという人がいなくなるわけで却って望ましくない。
理想的には社会に最大の富を生み出しつつ、その一部が作者に還元される形が望ましい。現在のように供給が独占されるのは望ましくない。
だがその仕組みを作るのが難しいんでしょうね。

そういう意味で「著作権のあり方を変えたい」といっていたウィニー開発者は、新たなモデルの入り口に立ち、糸口が見えていたのかもしれません。

No.17 kenji47 さん
私も、著作権の経済的側面を強調することによって、著作権の過剰な保護を否定することには賛成です。
精神的自由を政策的理由によって制限することは難しいですが、財産権であれば政策的理由による制限が可能だからです。
なんだったら、著作人格権と分離して、著作権を財産権の一種として定義し直してもいーんじゃないかとまで思ってます。ちょっとだけね。

私がNo.10で疑問を述べたのは、著作権の財産権的保護のやり方として、旧来の有体物と同じように、自由市場原理を用いれば足りるとする考えに対してです。


No.18 立木 志摩夫さん
今までの著作権のあり方、運用の仕方に問題があることは確かですし、
ウィニー開発者がとりあえず、今までの制度を壊そうと思ってたとは思うけど、
作者と利用者のバランスを図った新たなモデルまで見えていたかどうかについては疑問に思います。
なんかあの人、その辺の配慮が足りてないって感じするし。

ジャスラックの問題でも言われている事なのですが、どの曲がどれだけ使用されたかも把握できていないのに、なぜかある比率に従って徴収金が権利者に配分されているという実態があります。
たとえば同じアルバムの中のシングルカットされていない曲でも、なぜか配分率が違う場合があり、なぜ違うのかという理由は権利者からは見えなくなっている。
徴収金の中には録音テープやディスクに課金されている金もあるのですが、どの曲が何回コピーされたか分からないのに、なぜか配分は行われるのです。
Winnyはどのデータがどれだけ参照されたかというのが分かるようになっているので、料金を徴収し配分するシステムさえ確立すれば、ジャスラックなどよりもはるかに公平に徴収金を権利者に還元することが可能です。

Winnyはともかくとして(^^)

AppleのiTMSの試みは映画・音楽の新しい流通形態として面白いですね。
JASRACのような著作権管理団体が力を持つのは、やはり映画・音楽の流通コストが大きいため、著作権者への利益配分に巨大資本を介さざるを得ないからかと思います。
しかし、デジタル技術の進展とネットの普及に伴い、こうした著作物の制作・流通にかかるコストは急速に下がっています。

これからの技術の進展次第では、精神的自由をたてに、権利でがんじがらめにしてしまうと、財産としての価値を失う結果になる、という気もしますね。コピーの制限は結局消費者の利便性を損ない、商品としての価値を下げることになるかと。DRM関連技術で消費者にとって利便性の良いものは、未だ存在していないように思います(不便を強いる)。

著作権者は人格権を選ぶか財産権を選ぶか、択一を迫られるかも。
どちらかを選んで、どちらかを放棄するとなると?さて。

>ronさん
>著作権者は人格権を選ぶか財産権を選ぶか、択一を迫られるかも

JASRACのような、著作権管理団体に著作権を委託するというのは、
実は人格面としての著作権を放棄している事と同義なんですよね

>No.22 しまさん
>JASRACのような、著作権管理団体に著作権を委託するというのは、
>実は人格面としての著作権を放棄している事と同義なんですよね

考えてませんでしたorz
そうですね。今の流通形態でもその点は変わらないですね。
結局、マスマーケットに著作物を流通させるのなら、人格権は放棄せざるを得ないような気がしますね。現実には。

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