はてブをさまよってましたら、池田信夫blogというブログで「「有罪率99%」の謎」という記事が書かれているのを見つけました。
全くそのとおり、と思うところもそうでないところもありますので、元下っ端検事の目でちょこっとコメントしてみます。
(「99%有罪は、非合法黙認の温床」404 Blog Not Foundに対する反論も追記しました。)
最初に統計数字の意味をきちんと解説しておられますが、そのあたりはとても大事なことだと思います。
この違いの原因は、大陸法と英米法の違いにある。英米法では陪審員がおり、彼らは職業裁判官に比べて無罪の評決を出す確率が高く、検察官にとって予測がむずかしい。
英米法系の実務に詳しくありませんが、たぶんそうだろうな、と思います。
日本でも裁判員制度が施行された後の数字の変化が興味深いです。
これに対して、日本では裁判官と検察官の間に有罪となるかどうかについてのコンセンサスがあるので、無罪になりそうなものは検事があらかじめふるい落としてしまうのだ。
ここは全くそのとおりだと思いますが、コンセンサスの意味は以下に述べるようなものであって、裁判官と検察官が協議しているというようなものではありません。
検事は、事件の起訴不起訴を決める際の事実認定にあたって、全ての証拠の証明力を、有能な弁護士による批判にさらされた後の状況を想定した上で、それらの証拠を裁判官はどのような評価をするであとうか、という目で検討し、弁護士による批判に晒されたとしても裁判官が有罪とするに足る証拠があると判断したときにだけ起訴する、というのが原則です。
つまり、裁判官の立場に立って事件を考えて、裁判官が間違いなく有罪にすると認められる事件だけ起訴しているということです。
このように司法手続きが実質的に行政(警察・検察)の中で完結しているので、
ただし、この部分については、刑事司法における警察・検察を「行政」と呼ぶのは違和感があります。
国家組織としてはたしかにどちらも行政組織の一部ですが、やっている仕事は行政としてはかなり特殊です。
検察の仕事が「準司法作用」と呼ばれることもあることは最近述べた記憶があります。
また「完結」しているというのは、やはり言い過ぎでしょう。
検察には、自分たちが刑事司法の主導権を握っているという自負はありますが、さすがに自分たちで「完結」するとは思っていないはずです。
ですから
その「成果」としての起訴案件が無罪になることは、深刻なスキャンダルとなる(メディアもそういう扱いをする)。
とのことですが、メディアはともかく、検察が無罪事件を「深刻なスキャンダル」と受け止めることはしません。
たしかに、英米の検事より日本の検事のほうが無罪判決を重く受け止めますが、原則として反省材料として検討するのであって、「スキャンダル」と呼ぶのは不適切です。
これは検察官の昇進にも影響するので、彼らはきびしい「品質管理」を行って起訴の条件をきわめて保守的に設定する。その認識は警察も共有しているから、政治家などのむずかしい事件は逮捕もしない。
私の知る限り、無罪事件が起訴検事の昇進に直結するという印象はありません。
というか、若い検事が出す無罪は、成長過程の失敗として大目に見られますし、責任ある検事が起訴した大事件の場合は、無罪判決が確定するまで一般に長期間を要しますので、無罪判決が確定したときには、起訴検事は既に出世しているという場合もけっこうあります。
但し、特捜部の起訴で無罪になった場合は、副部長や部長の出世に影響しているかも知れません。
最も、一般事件でも裁判員制度の施行により短期間で判決が確定する場合が増えてくるとおもいますので、その場合に起訴検事の出世に対する影響が今より顕著になる可能性はあるかも知れません。
ともかく、検察が「きびしい『品質管理』を行って起訴の条件をきわめて保守的に設定する。」というのは間違っていないです。
こういう検察の姿勢については検察内部の一部(例えば私^^)にも若干の批判はあるのですが、マスコミの報道姿勢などとも関係する大きな複雑な問題ですので、そうそう簡単には変わらないと思っています(後でも触れます)。
ところで、「その認識は警察も共有しているから、」というのは外れていないと思いますが、「政治家などのむずかしい事件は逮捕もしない。」という部分は、必ずしも「品質管理」だけの問題ではない気がしています。
裁判官も罪状についての認識は検察官と同じだから、無罪にすることは勇気が必要だ。無罪判決を多く出す裁判官は「変わり者」とみられて、処遇も恵まれない。
これは池田信夫氏が何人かの裁判官に取材された結果か、誰かの取材結果を参考にされたものでしょうか?
もっとも、私も伝聞ではありますが、「検事が起訴したんだから有罪じゃないの。」と口にした裁判官があるやに聞いています。(←こういう裁判官は早く辞めたほうがいいです)
無罪判決の数または割合と裁判官の処遇との関係についてはよくわかりません。
冤罪の原因としてよく問題になる警察の「自白中心主義」も、このように行政の力が強いことが一つの原因だ。英米法では、裁判は対等なプレイヤーのゲームと考えられているから、司法取引や刑事免責など、捜査する側が被疑者と駆け引きするツールがたくさん用意されている。これに対して日本では、司法の主要部分は行政官が行うので、被疑者と駆け引きするのではなく「お上」の決めた罪状を被疑者に認めさせるという捜査手法になりやすい。
この部分の論旨が必ずしもよくわからないのですが、「冤罪の原因としてよく問題になる警察の『自白中心主義』も、このように行政の力が強いことが一つの原因だ。」の部分の「行政の力が強いこと」というのが何を意味しているのか測りかねています。
日本の刑事訴訟法も当事者主義構造を基本としていますから、検察官の起訴がなければ訴訟は始まりません。
そして警察による捜査は検察官が起訴不起訴を決めるための証拠収集手続という位置づけです。
また法律家からみた「自白中心主義」というのは、自白の証拠価値を大きく認める考え方ですが、警察が(検察もですが)自白中心主義に陥る最大の原因は、行政の力ではなく、証拠評価者である裁判所が自白の証拠価値を認めて有罪判決のために自白を強く要求するからであると考えています。
但し、その結果として「『お上』の決めた罪状を被疑者に認めさせるという捜査手法になりやすい。」という傾向はあります。
この場合の「『お上』の決めた罪状」というのは、警察が考えた事件の構図のことです。
つまり問題は有罪率が高いこと自体ではなく、司法が実質的に行政官によって行われ、裁判以前の段階で事実上の「判決」が下されることにある。
この問題は、以前から「検察ファッショ」という表現で批判されてきました。
検察が裁判官以上の慎重さで起訴不起訴を選別しているので、裁判官の裁量の余地は相対的に小さくなり、結局、検察が有罪無罪を決めている、という批判です。
私もその批判は当たっている面があると感じています。
検察としては100%の自信がない事件でも、きちんと裁判所の判断を仰ぐという起訴のあり方もあっていいのではないかと考えることもあります。
しかしそうすると、無罪率が増えます。
無罪率が増えると言うことは、結果として無実の人が身柄を拘束され起訴されることが増えるということです。
言い換えれば、結果的に不当起訴が増えるということです。
検察が一方的に証拠判断のレベルを下げて有罪率を下げようとしても、マスコミは逮捕時点で犯人逮捕と報道し(実際はまだ被疑者)、起訴時点で有罪扱いです。
簡単に有罪率を下げるわけにはいきません。
重大な人権侵害の増加をきたすからです。
最近、別のブログで有罪率99%以上というのは異常だという意見を目にしましたが、有罪率が下がるということはどういうことなのか理解した上での意見であったのか疑問があります。
こういう行政中心のシステムは、交通事故のような定型化された犯罪を処理するのには向いているが、疑獄事件のようなむずかしい事案は、検察が恥をかかないために見送る結果になる。
「検察が恥をかかないため」というのは適切ではないでしょう。
そのような次元の話ではないからです。
疑獄事件のような社会的地位の極めて高い被疑者を相手にする場合、場合によっては日本の経済全体や国政にも影響を与えることになりますから、検察がより慎重になるのは当然です。
もし疑獄事件に対する検察のより積極的な態度を期待するのであれば、検察により強い捜査権力を与える必要があります。
つまり、池田氏の言い方を借りれば、検察により強い行政の力を与える必要があります。
やや、揚げ足取りの感もなきにしもあらずですが、池田氏のエントリは思うところを書いてみたい気にさせるところがありましたので、誤解があるかもしれないことを承知で書かせていただきました。
なお、池田信夫氏のプロフィールを知りませんでしたのでググッてみたところ、以下のようなお立場の方であることがわかりました。
独立行政法人 経済産業研究所
補足追記
検察官は、有罪判決が得られるという判断で起訴していますが、常にその判断が正しいとは限りません。
検事の能力も個々の検事によってかなり差があるのも事実です。
つまり判断を誤る検事もいるということです。
別エントリで意見を書いた富山の強姦冤罪事件もその一つです。
あの事件は本来は無罪になるべき事件でしたが、被告人自身が認めてしまったので法曹3者が問題点に気づくことなく有罪判決になってしまいました。
誰かが気づくべきでしたし、気づく契機はあったと思います。
追記
「404 Blog Not Found」にこのエントリというか私に対する批判的エントリが立っていました。
ブログ界では有力なブログからの批判ですので反論しようと思ってコメントを書いたところ、字数オーバーエラーということで書き込めませんでした(^^;
そこでここで反論することにします。
以下の引用部分は、「404 Blog Not Found」からの引用です。
なお、dankogai氏は同ブログのブログ主です。
実務上、「10人の罪人を逃しても、1人の無辜〔無実の人〕を処罰することなかれ」という理念は失われていません。
dankogai氏は、被疑者の人権というものに無神経すぎると思われます。
ここでいう人権とは抽象的な観念のことではありません。
起訴後無罪というのは、被告にとって不便で不条理ではあるが、社会にとって不当ではないはずなのである。
社会が無罪推定原則を理解するなら、有罪率がもう少し減少する起訴も十分ありえると思います。
しかし、現状はマスコミは(そして世間も)逮捕有罪推定主義、起訴有罪確信主義とも言える状況です。
逮捕されただけで職場は首になる。
子供は学校で苛められる。
奥さんは村八分状態。
という事態が普通に起こるのです。
その反動として、起訴した事件が無罪になれば、世間やマスコミは「不当起訴」として警察や検察を批判します。
それが「結果的に不当起訴」の意味です。
社会が、「間違い」即「不当」とは言えないと考えているのであれば、「不当起訴」という私の表現は不適切であったことになります。
このブログでは医療崩壊問題が議論されていますが、福島の大野病院事件という1件の不当逮捕・起訴が、産科領域の医療崩壊を劇的に加速したという実感が多数の医師から述べられています。
1件の起訴には個人の不条理を超えた社会的影響が生じる場合が少なくありません。
あとで「無罪でした。すいません。」では、被告人に対してだけでなく社会に対しても、すまない場合があります。
誤認逮捕、誤認起訴、誤認有罪は最小化すべきだが、それを有罪率を上げる事で達成しようというのは二つの点において本末転倒である。
私の趣旨が理解されていないようです。
誤認逮捕、誤認起訴、誤認有罪を最小化すべく努力をした結果として、有罪率が上がるのです。
検察庁は有罪率を上げようなどと考えてはいません。
繰り返しますが、「上げている」のではなく「上がる」のです。
その意味で、dankogai氏が言うような数値目標としての「99%有罪ルール」なるものは少なくとも検事の意識の中には存在しません。
dankogai氏は
日本においては、強盗や殺人といった凶悪犯に対する法感覚と、それより軽い犯罪に対する法感覚が多いに異なる。前者は「犯罪であり、悪であり、行ったら罰せられる」という法感覚が浸透しているが、後者は「違法だが悪かは微妙。行っても滅多に罰せられないし、罰せられたとしたら悪いのは運」というのが法感覚に思える。
そしてなぜこういう法感覚になってしまったかの理由として、「99%有罪ルール」をありとあらゆる方面に適用しようとしてきた当局の姿勢を上げざるを得ない。
と主張しています。
しかしこれはかなり強引なこじつけです。
警察のマンパワーの限界の問題、刑事司法の謙抑性の問題、国民の規範意識の問題などを全部ひっくるめて、数値目標達成の問題としての「99%有罪ルール」に結びつけています。
私から言わせれば、これこそ本末転倒の議論です。
有罪率はそれ自体として目標にはなっていません。
もっと実質的な刑事司法制度の運用のあり方の結果として出てくるものです。
運用のあり方を変えた結果、有罪率が下がるのなら、検察はそれを全く問題視しません。
なお、起訴できるものしか起訴しないというのは、証拠上、確実に有罪になる事件以外は起訴しないということであって、その当否の問題とその前段階としての摘発すべきものを摘発していないのではないか、という問題とは別問題です。
dankogai氏はこの問題を混同しているようです。
国民は当局を信頼しているのではない。
dankogai氏のいう国民とは、全て被疑者のことのようです。
私のいう国民は、被疑者はもちろん、被害者、遺族、目撃者、情報提供者及びその予備軍を含みます。
市民を「臣民化」
これってステレオタイプじゃないですか。
検察実務は(警察もそうだと思いますが)、権力を振りかざせばいいってもんじゃないです。
No.2 モトケンのコメントに対して
この脳天気ぶりに嘆息せざるを得ない。
と言われちゃいましたが、私の仕事の実感から来るものですから仕方がないです。
さらに重要な追記(2007-01-25 17:18)
検事が起訴したからといって有罪だと思っちゃだめですよ。
人間は間違いを犯す動物ですから。
裁判所は検事の起訴をチェックするためにあります。
そういう意識の希薄な裁判官も現実にいるようなので困るのです。
有罪率99.9%のうちの0.何%か数%かわかりませんが、そのような裁判官によって増えている数字がないとは絶対に言えません。
昔からの読者の方には言うまでもないことですが。
ため息の追記
こんだけエントリの数が多いブログじゃ、誰も私が他のエントリでどんなことをを書いてるか、読まんでしょうね。。。
短絡的に考える人大杉!
トラックバックに関する追記
このエントリに小倉さんの「la_causette」から「起訴率の低さと無罪率の低さとの関係」というエントリがトラックバックされていますが、これについては私と同様ヤメ検弁護士の落合先生が「嫌疑不十分と起訴猶予」というエントリを書いておられます。
この落合先生のエントリをもって小倉先生に対する返答とさせていただきます。
特に付け加えることがないほど詳細な解説です。
疑獄事件に対する検察のより強い捜査を期待するのであれば検察により強い行政の力を与える必要があるとの事ですが、もし検察が間違っているときはどうするのですか?つまり検察、警察が必要な捜査を行わないとき代わりに誰が捜査を行うのでしょう?
あるいは彼ら自身が法を犯したと思われたときに彼らを捜査するのは誰なのでしょう?
日本では検察はひとつしかないし、建前上個々の検察官は独立していると言っても現実には組織に逆らうことは不可能でしょう?
検察も警察のお互いの不祥事には不干渉見たいですし。
>よしひろ41 さん
>つまり検察、警察が必要な捜査を行わないとき代わりに誰が捜査を行うのでしょう?
考えられるものとしては国会の国政調査権があると思いますが、現実問題として、警察・検察並の捜査は期待できないです。
つまり、誰もいない、というのが答になります。
麻薬取締官などは別問題です。
>あるいは彼ら自身が法を犯したと思われたときに彼らを捜査するのは誰なのでしょう?
警察には監察部門がありますが、最終的には個々の警察官や検事及びその集合としての組織の良識の問題に帰着しそうです。
ただ言えることは、警察も検察も国民の信頼なくして仕事ができませんから、本能的な歯止めはかかるのではないかと楽観しています。
もし歯止めがかからないなら、いったん崩壊させるしかないでしょう。
国民が検察を信頼しなくなり、一切の協力を拒否するようになったら公訴を維持することが困難になります。
つまり無罪判決が頻発することになります。
これでは検察もお手上げです。
そして、組織の腐敗というのはいくら隠そうとしても隠し通せるものではないです。
どうしても臭いが漏れるようなものです。
今現在、検察に腐敗がないと断言しているわけではないです。
腐敗しているならそのうち必ず腐臭がただよってくるはずだという意味です。
そのときは国民が声を上げて態度で示す必要があります。
主権者ですから。
>モトケンさん
検察にとって、国民の声というのはどの程度の影響があるのでしょうか
>しまさん
けっこう気にしてると思います。
金丸信氏の件は、その代表的な例ではないでしょうか。
ただし、ダメなものはダメですけどね。
つまり、証拠がないとやろうとしてもお手上げ。
でも証拠を集めるためには国民(いろいろですが)の信頼や期待(動機はともかく)がないとダメです。
というわけでやっぱり気にせざるを得ない。
ということではないでしょうか。
被疑者にとっても、検察官にとっても、
不当起訴が少ないに越した事はないのでしょうけど、
有力な証拠がなければ起訴されないという事情と、予算の都合で、
警察が、捜査を続けるべきか、やめるべきか、見切りをつける時期が早くなり、
いつの頃からか、体裁上捜査したように振舞うだけで実際は捜査していない、
眠らされる事件が多いとかいう事は、ないんでしょうか。
それで、捜査依頼した人が、寝た子を起こすような行動を起こして、慌てるとか。
>オルフェウスは振り返るさん
弁護士になって被害者の代理人として告訴する側に回りますと、そういう懸念というか疑念は感じます。
予算の都合よりマンパワーの問題のほうが大きそうですが。
それだけが原因ではありませんが、有罪率99.数%の問題点は、起訴された以上無罪の者でも有罪と推定されてしまうのではないかという問題のほかに、本来起訴されるべき者が起訴されていないのではないかという問題もあるわけです。
>モトケンさん
国民の意思によって検察は動いていると言う事が分かりました。もっと言えば、国民の声を拠り所にして動いているのかもと想いましたが、言い過ぎかも知れません。
>本来起訴されるべき者が起訴されていない
防衛医療ならぬ、防衛起訴という事でしょうか。わずかでも無罪になるような、立件出来ないような材料があれば起訴しないというように受け取ります。
>無罪判決を多く出す裁判官は「変わり者」とみられて、処遇も恵まれない。
映画「それでもボクはやっていない」で、傍聴雀たちのうわさ話として、これに近いことが言われていました。
人事査定に関することには、やはり謎が多いですね。
ところで、映画は、弁護側に有利な証拠を公判廷に出すことの難しさや人質司法の問題など、よく描かれていました。
過剰な演出がないところが良かったです。
(エントリと関係なくてゴメン)
>白片吟K氏さん
刑事事件と裁判官の出世に関しては、以下のように述べている文献もありますね。
----------
刑事事件においては、昇進につまづいたのは、事実認定の誤りによって覆された裁判官ではなかった。むしろ、法律問題の誤りで覆された裁判官だったのである。それも裁判官が「制定法の解釈を誤っており、裁判官としての能力に疑義を生じさせかねない」ものだった
裁判と社会―司法の「常識」再考
ちょっと、暴言めいたコメントを残しておきます(笑)。この前、警察の人権感覚を批判するコメントを書いたので、それと矛盾するとの批判は承知の上です。
話題の「それでもボクはやってない」ですが。映画だと、「被告人が犯人でないこと」が分かっているというか、神の視点から下界を眺めて批判すればいいわけだから、ある意味ラクだよなあと思ってしまいます。「人質司法」という批判にしても、それは被疑者や被告人が犯人ではない場合には妥当するのでしょうが、証人威迫や証拠隠滅をもくろむ犯人である場合には、むしろ真実発見に資する防波堤として機能するところ、現実には、両者の区別をすることが困難な事例も多いわけで。
刑事裁判をなくせば冤罪の問題は生じないし、逮捕・勾留制度をなくせば人質司法の問題も生じないわけですが、実際はそうもいかないので、結局はどこでバランスを取るかの問題だと思います。
つまり、現状の司法制度が「人質司法」であると批判するときは、「より緩い基準で身柄を解放することにより真犯人の逃亡・証拠の隠滅・証人に対する脅迫・共犯者や関係者間での口裏合わせが増え、真実発見、真犯人の処罰という要請が一定程度後退しても仕方ない、それでも身柄拘束によるデメリットを軽減する方が大事なのだ」、という価値判断が背景にあるべきだと思うのですが、今回の映画にせよ何にせよ、果たしてそのことを念頭に置いた上での意見なのか、常々疑問に感じています。
だんだん我々医療関係者の言い分に似てきましたね。
洗脳成功。(^^)/
法執行側は、せいぜい非難されるだけですが、医療側は、高額の賠償金を支払わされたり、刑事罰を受けたりする訳なので、より切実なのですが。
本文に若干の補足追記をしました。
>FFFさん
>「人質司法」という批判にしても、それは被疑者や被告人が犯人ではない場合には妥当するのでしょうが、
私はそんな風に考えたことはありません。
「真実の」犯人か否かということは、刑事手続きにおいて考慮の要素にはなりません。
それは誰にも分からないことだからです。
人質司法の問題は、適正手続という、手続、つまりゲームのルールがフェアかどうか、という問題です。
>現状の司法制度が「人質司法」であると批判するときは、「より緩い基準で身柄を解放することにより真犯人の逃亡・証拠の隠滅・証人に対する脅迫・共犯者や関係者間での口裏合わせが増え、真実発見、真犯人の処罰という要請が一定程度後退しても仕方ない、それでも身柄拘束によるデメリットを軽減する方が大事なのだ」、という価値判断が背景にあるべきだと思う
なぜそういう価値判断が背景に「あるべき」なのでしょうか。
論理的にそうなるはずだから、それだけで意見をとらえていませんか。
批判の対象となるある意見(ここでは勾留の運用のあり方)が初めにあるからこそ「批判」と呼ばれる意見があるのです。
批判の対象を考慮せずに、批判のみをとりあげて論ずるのは、少なくとも批判する者の意図にそうものではありません。
ついでに言えば、映画については、私もFFFさんと同じ疑問を抱きつつ観ましたが、
監督は少なくともそういう批判を念頭に置いた上で作っているようでした。
単に、神の目から見た安易な「正義」を振り回すものではないと思います。
そのかわり、観て、すかっと爽快になるようなものではありませんが。
「404 Blog Not Found」でこのエントリが取り上げられて批判的な記事が掲載されました。
誤解もあるようでしたので、コメントしようとしたところ字数オーバーで受け付けてもらえませんでしたので、ここで本文に追記しました。
かなり長文になってしまいました(^^;
被疑者の人権が何よりも大事だからこそ、最初から弁護しの立ち会いが認められなくてはいけないし、保釈金で保釈ということができるべきなんですけどね。弁護士なしの取り調べや、被疑者を保釈せずに何ヶ月にもわたって勾留できること自体、完全に狂っているとしか言いようがない。疑われたが最後なんて、どういう社会だろう。
池田信夫さんは、現在は経済学者ですが、以前はNHK職員でして、現在は日本の通信・放送政策の批判と提案をメインテーマとしていらっしゃいます。
著書「電波利権」は、NHK受信料や放送デジタル化や高すぎる携帯料金やそれに上乗せされている電波使用料などの疑問に、解決策をズバリと指摘してくれる非常に良い本です。通信放送行政に不満のある人なら、必読の本です。
>つまり問題は有罪率が高いこと自体ではなく、司法が実質的に行政官によって行われ、裁判以前の段階で事実上の「判決」が下されることにある。
まー 問題といえば問題ですがたいした問題ではないのかもしれない
要するに起訴=判決でも結論が正しければいいわけで
わたくしが割り箸事件で「不当起訴」を主張しているのも
「起訴=判決」を有る程度受け入れているという前提になってます.
問題は起訴や判決の判断が正しいかどうかではないでしょうか.
正しければ起訴で決まりでもおっけー 判決でも間違ってたら困る
法律家のタテマエはさておいて 市民の立場からすると
「白くても黒くてもネズミを捕るのがいいネコ」なのです
小飼氏は別エントリでコメントされていましたね。敢えて感想を書きますと。
1.立法と司法を混同
2.民主主義社会を動かすのは国民
3.検察は本質的に誤謬性を否定している組織
とは思いましたが、それはそれとして誤謬性に関してです。
有罪率の高さから考えても、検察は自らの判断が誤りかどうか、問いかけながら捜査を行っているように思います。検察という組織自体は誤謬性を否定していると思いますが、誤謬性を信仰している検察官もいるかと思います。そのような、資質のない検察官を組織から排除するようなシステムが必要だとは思いますが、そのようなシステムが、国民の目からは明らかになっていないのは問題だと思います。
あと、検察の方は内部では同じ検察官を批判しているように見受けますが、国民の目から見ると一種のブラックホールになっており、現役検察官が何を考えているかがいまいち見えにくいのは確かだと思います。検察出身の弁護士の方々は比較的ネットでの発言に熱心なように思いますので、しゃべり好きな検察官も多いのだと思います。
常に不信感と期待を持たれているのが検察の宿命なのでしょうが、情報公開してくれると国民の一人である私は安心感を持ちます。
はじめまして。
問題が大部分の警察・検察じゃない事は医療問題と同じですね。
ただ、その99.9%の中には数%程度無実の者が現に混じっているのではないか、そこを検察は熟慮した上で裁判にかけているのだから有罪で当然、とするロジックには違和感を覚えますね。そしてその無実の者を無実と判断するための材料が現状裁判官にも弁護士側にも(制度・コスト・慣習面で)与えられていない事が大きなポイントだと思います。
ここで問題になるのが取調の可視化だと思うのですが、部分的な可視化を導入するというのは警察・検察を利すれど弁護士・裁判官に対しては不利に働くのではないか、と危惧します。イジメでよくある話なのですが、「顔を殴るな腹を殴れ」というようなやり方を実践してしまえば部分的可視化の場合容易に自白を成立させかねないのではないか。この懐疑を取り去る為にはやはり取調の完全可視化しかないと思うのですが如何なものでしょうか。
ちょっと愚痴ってみました(^^;
小倉先生の「起訴率の低さと無罪率の低さとの関係」(la_causette)についてのコメントを本文末尾に追記しました。
落合先生のエントリをまんま引用させていただきました(^^;
素朴な視点では、無罪とすべき事件を裁判所が有罪としているか、有罪となる可能性がある事件を検察が起訴していないか、それら両方の状況になるように思います。
検察審査会の統計も合わせて見た方がよさそうですが、Webでは公開されてないのでしょうか?(もしかして常識的に無視できるほど少数なんでしょうか?)
判例が積み重なると、「誰でもわかる」事件がある程度多くなるのかも知れませんが…。
これって司法制度全体の問題として、結構重要な気もするんですけど…。
あらゆる制度は、司法制度を含めて、人間が運営していますので誤りが生じることは不可避です。
司法制度もそのことを前提としています。
しかし、司法権には紛争の最終的裁定者として権威が要求されます。
提示した紛争解決結論を実現するための強制力も必要です。
誤りが混入している可能性を承認しつつ結論を維持しなければならないという必要がありますが、同時に誤判が一定割合以上に多くなればそれによって司法の権威が失われるということになります。
つまり司法は本質的に、深刻なジレンマを抱えています。
それにしても、検察の権威主義、プライドは、鼻持ちならないですね。
(医科学領域の権威者は、ここまでひどくないです)
そもそも、起訴担当検事と公判担当検事が異なるってのは、不思議ですね。正席検事が指揮して、次席検事が表に出て、公判検事はまた、別の検事が行う、こういった分業の中で、検事間の異論が出てくる余地がないというのが、どうにも不思議で、権威主義を感じさせます。
加藤医師不当逮捕事件に関して、福島県の検察は、異論なく、一致団結して、起訴相当、有罪決定と考えていること自体が、腐ってるでしょう。検事間の異論封じを行わなければ、このようなことは起きないのではないですかね?
医者間のカンファレンスを証拠として採用するくらですから、検事間の
部内カンファレンスも開示する勇気を持ってくださいな。(判決後でもよし)
それとも重要案件でもカンファレンスなしですかね?
> 起訴担当検事と公判担当検事が異なるってのは、不思議ですね(No.24 座位さま)
検察官の仕事は大きく分けて、「捜査(起訴まで)」と、「公判」とがあります。
大きい庁では部を分けて、別々の検察官が担当します。
そのほうが予定を立てやすくて効率的だというだけですよ。検察庁も行政組織ですから。
捜査担当は朝から晩まで、入れ替わり立ち替わり連れて来られる被疑者らの話を聞いて調書を作っているし、公判担当は毎日裁判所に通い詰める。
検察官が数名しか居ない小さい庁では、捜査から公判まで、同じ人が続けてやっています。
> 検事間の異論が出てくる余地がない
検察一体の原則ですから。
捜査担当が起訴してしまったら、公判担当は粛々と訴訟を進めるだけ。
内部的には議論してから動いているかもしれませんが、組織としての方針を一旦決めた以上は、外部に異論を出すことはしないでしょう。方針に従えないと思う人は、辞表を出します。
それが組織というもの。一般の行政庁でも、会社でも、同じことではありませんか?
分業になっているということは、了解しました。 確かに
たとえ、異論があっても、小異を保留し、大同団結していくというのは、
組織原則として、会社であろうと、政党であろうと、当然だろうと思います。
しかし、医学界が一致して、臨床の先生方も、学者の皆さんも、
勤務医も開業医も、日本医師会も保険医協会も、右も左も一致して
福島県検察の不当逮捕を糾弾しているのに、
福島県内の検察は、本当に一致して公判維持ですか?
これは、大同団結の組織原則なんかではなく、一旦、起訴したからには
無理でも貫き通す、小異などではなく、検察内に大異があっても、
押し通す、傲慢なやり方だと思いますね。
YUNYUNさんが言われる筋合いはないと思いますが、
検察の前時代的な、構造的欠陥だと指摘しておきます。
これで、99%なら、改善すれば99.5%いくのではないですか?
>座位さん
そこに疑問を感じないこともないです。つまり、医学界が詳細に事故調査を行ったわけではないのに、なぜ不当起訴だと確信出来るのか、分かりません。詳細な調査を行った結果、不当起訴だと確信するというのなら分かりますが、現在の所、医療界がそのような行動を起こしたと言う話は聞いておりません。
現状で言えるのは「起訴が妥当とは言えない」と言うレベルの事だと思うのですが、いかがでしょうか。
>>モトケンさん
勿論、裁判所には権威が要求されるということは理解できます。しかし、要求されるのは最終的裁定者である裁判所に対する権威であり、捜査機関である検察に対する権威とは別の話です(座位さんの批判もそこにあるのかと)。検察の起訴が結果的に無罪となったからといって、単純に検察が批判されるものではありません。本来は。
他方、起訴に対する有罪率が高いということ、実質的に「有罪・無罪の判断は検察で行われ、量刑の判断のみが裁判所で行われているという状況である」ということでしょう。これでは、最終的裁定者に対する権威は逆に損なわれているとしか思えません。
誤判?なぜここで誤判率が問題になるのでしょうか?
>森さん
確かに、本来はそうなのでしょうが、大野病院事件が無罪になった場合、医療関係者を中心に検察批判が起こるのは目に見えていますし、そうあるべきだろうと思います。
また、有罪率の低下=誤判率の増加を意味していると思います
>>しまさん
個別の事件に対して(判決を問わず)検察の主張に疑問を持ち批判するというのはアリだと思います。ただ、その場合は根拠をもって批判するべきで、無罪が即検察批判となる風潮があれば避けるべきでしょう。まして捜査関係者に対する制裁はされるべきではありません。(もちろん、警察・検察の捜査に違法行為があれば別の話ということで…。)
個人的にはこんな感じに考えていますので、「無罪判決が出たら批判噴出」でも、「判決便乗批判」のような雰囲気だけは避けて頂きたいところですね。
誤判率=(本来は無罪の数)/有罪判決数
+(本来は有罪の数)/無罪判決数
有罪率=有罪判決数/起訴数(=有罪判決数+無罪判決数)
…ですよね?
有罪率が低下(有罪判決数が増加または起訴数が減少)したからといって、単純に誤判率が上昇するとは思えないのですが…。(本来は〜の数が関わってくるため)
>No.28 森さん
>誤判?なぜここで誤判率が問題になるのでしょうか?
判決は、誤判の可能性があるとしても裁判所が白黒つけた以上は尊重されなければいけない。 ←これが本来的権威
つまり権威の維持のためにはある程度の誤判は無視されざるを得ない(注)。
しかし、頻繁に白を黒と間違えていたのでは、本来的権威が失われる。
ということで、誤判は不可避であることを前提にして、権威の維持のためには、誤判率が一定以下でなければならない、という意味です。
注
但し、最後まで無視されるのはまずいので、非常救済手続としての再審があります。
しかし、再審が原則化してしまいますと、確定判決の権威が損なわれます。
三審制が四審制になっては制度としてまずいです。
>>モトケンさん
上のコメントで仰ることはわかります。が、有罪率の高さと誤判率はどう関係があるのでしょうか?
検察は裁判所の誤判率を下げるために、曖昧で判断が難しい事件は起訴を見送っている?誤判率ってそもそも裁判所の問題ですよね。検察が気にしてあげることでもないような気がしますし・・・。すいません、やっぱりよくわかりません。
しかし、検察が確実に有罪になると確信している事件のみを起訴していると仮定してもやっぱり無理があります。有罪率が99%である状況では、「検察が有罪だと確信すれば即ち有罪となる」となりますよね。検察が捜査の上で有罪を確信するのは勝手(というか、そういうお仕事)ですが、それが即有罪となれば司法による検察へのチェックが機能していないのでは、と疑いますよ。
決して、検察にもっと働け!と言ってる訳じゃなく、どちらかと言えば裁判所に問題があるように思います。(念のため補足です。)
下記のブログでエコノミストの記事の紹介がされていましたが、これはちょっとひどい誤解があるようなので、法曹の方々は反論された方がよさそうに思います。ブログのコメント欄も誤解を助長されるようなコメントがあふれておりますし。
小林恭子の英国メディア・ウオッチ
しまさん
エコノミスト誌の記事には、多少の誇張や誤解はありますが、それをまったくの出鱈目だと自身を持って反論できる日本の法曹はいないのではないでしょうか?
英エコノミスト誌の翻訳部分で、用語が不正確なところがありますが(原文に当たっていないので、元の記事が悪いのか訳がおかしいのかは不明)、
日本の刑事司法が自白偏重であるというのは否定しようのない事実です。
> 禁固刑となった
⇒懲役刑 (強姦罪に禁固刑はありません)
> 自白書類
⇒自白調書
事情聴取の結果を記載した書面は、「供述調書」と呼ばれる。
> 検察官は、無罪放免となるケースに関わることを恥と感じ、もしそうなれば自分のキャリアに傷がつくと恐れる。
これはチョット言い過ぎ。
モトケンさんの説明によれば、無罪判決が出たからといって、検察官のキャリアに傷が付くことはないそうです。
> 脅しや拷問さえも、拘置所では広く行われている
⇒留置場?
翻訳のせいではなく記者が誤解しているのかもしれませんが、文意からは「留置場」と書かれるべきところ。
勾留場所は、法務省管轄の拘置所に代えて、警察の留置場を使用することができるとされ(いわゆる代用監獄)、脅しや拷問が問題になっているのは留置場のほうです。
捜査機関の管理下に(内部的に係官は別だと言いますが)身柄が置かれ、全生活を支配されることが、自白を促す要因の一つであると言われています。