エントリ

 乗りかかった船なので、冤罪より重い罪(404 Blog Not Found)にも少し反論(だけじゃないですけど)

問題は、この中に「無辜を処罰してしまった場合どうそれを償うか」という視点がどこにもないことだ。

 「この中」というのは私の意見のようですが、「それも論点だったんですか?」という突っ込みはさておき、私としては、そもそも無辜を処罰してしまった場合は、それが死刑冤罪であろうとなかろうと、十分な程度に回復することができない場合がほとんどだ、という認識を前提にしています。
 つまり、償うことなんかできない、ということです。
 刑事補償や国家賠償で金銭的支払いをすることは可能ですが、それで償いになるとは思っていません。
 服役だけでなくマスコミ等による社会的制裁による被害は回復不能なほど深刻です。
 だからこそ、冤罪防止の努力を最大限に払う必要があり、その結果としての高い有罪率だと言っているのです。

もしそういう視点があるのであれば、なぜ刑事補償法は放置されたままなのだろうか。

 これはどなたかがどこかで指摘されていたが、立法の問題であり行政や司法ではどうしようもありません。
 法的根拠なくして国が金を払うことはできません。

そして「これでは話にならない」と国家賠償訴訟を起こしても当局は徹底抗戦する。

 これについては同感できるところがありますが、国民の全てが「国は賠償すべき」と考えている保障がありません。
 国が争わずに賠償義務を認めた場合、こんどはそのことを批判する人が現れる可能性があります。
 となると最低限形式的に争って裁判所の判断を仰ぐ形を取るのはやむをえないところです。
 
 しかし、おそろしく往生際の悪いというか屁理屈強弁でもって争う例があることも事実。
 明白な虚偽自白の事案で、警察が

「情理を尽くして説得した結果自白したもので、強要や誘導はなかった。裏付け捜査も自白に基づいて適正に実施した」と反論。

という噴飯物の反論をする事例があります(誤認起訴と国家賠償

 ただし、これはdankogai氏が

どう見ても当局にとって大事なのは国民の人権ではなく、当局自身の無謬性神話の維持ではないか。

というような高尚なものではないと考えています。

 まともな頭の持ち主なら「無謬性」などという大それた考えは持たないでしょう。
 実態は、単なる面子の維持または責任逃れ批判回避だと思います。
 国民の人権を軽視しているという意味では同じですが。

人権が失われる機会は、なにも事件によるものだけではない。むしろ件数から行けば、事故によるものの方が圧倒的に多い。

 ここで交通事故を持ち出す意味が不明です。
 ここで問題にすべきは国家権力による人権侵害であり、端的にそこを問題にすべきでしょう。

根本にあるのは、「それが起こりうる」という大前提である。

 これは当然の指摘ですね。
 私もそれを前提にしています。

出た、「世間が悪い」(苦笑)。

 このあたりになってきますと、そろそろまともに反論する気力が萎えてきます。
 現実の指摘を責任転嫁に読まれたんではたまりません。

それではその無知蒙昧な世間を啓蒙する活動を当局はどの程度なさっているのだろうか?(モトケン注1)

 国民には学校でしっかり教えるべきでしょう。
 マスコミへの注文はなしですか?
 

しかし、それを当局が言ってしまったら、それこそ天に唾というものではないか。(モトケン注2)

 まず重大な誤解を指摘しなければならない。
 現在の私は、いかなる意味でも当局ではない。
 それに、注1と注2は矛盾してませんか?

信頼を得たかったら、まず自らの無謬性をきちんと否定するべきではないのか。
   既に述べました。  私なら、みっともないタコ突っ張りはやめるべきだといいます。

 なお、私を「当局」と誤解する向きもいあるようですので念のため確認しておきますが、このブログや他のブログでの私のコメントは、あくまでも私個人の意見であり、検事または弁護士の多数が私と同様の意見を持っているとは限りませんし、もちろん私は当局を代弁しているつもりもありません。
 当たり前のことですけどね。

追記
 No.7 モトケンのコメントも読んでください。

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コメント(8)

「償うことなんかできない。」と言うことに、全く同感です。しかし、金銭で償うことは、しなければいけない。
立法の範疇に入りますが、国民は改正出来るし、不都合であれば改正しなければならない。行政も、法の執行を行う機関であるが、法の改正を提案できるのであり、現行の刑事訴訟法の補償金額については考えていかなければならないと思います。国民の問題であり、司法批判とは異なるが、関連した問題であると思います。

不当勾留で支払われる金額が少ないのが法律で決まっていても、憲法を盾にして財産権の侵害で訴えることは可能ですし、むしろホリエモンあたりが積極的に訴えて欲しいと願ってます。

無駄金を湯水のように使う代議士を多数選ぶのが民主主義のコストとすると、冤罪で被害を受けた人の補償も、平和な社会を享受する人が負担すべき当然のコストにも思えます。

 このエントリは、池田信夫氏のエントリを出発点とする文脈において批判・反論したものであり、必ずしも建設的議論と言えるものではありません。

 これはある経営コンサルタント さんに対する批判ではありませんが、ネット上の批判には、文脈を無視した脊髄反射的な批判が散見(←控えめな表現)されることが残念です。

おいらは頭が悪いのでモトケンさんの言うことがよくわかりません。
小飼弾さんのほうは(妥当であるかは別として)「こうしたらいいんじゃないか」という方向性が書かれていると思うのですが、モトケンさんのエントリは言い訳ばっかり書いてあるように見えます。

何かそのブログ、「見下し型アイデンティティ」の域にきているような気がする・・・。

ネット上で見られる意見、というか感性の一つとして、お上−下々(我々)の2項対立としかモノゴトをとらえず、かつ、下々はお上に文句さえ言っていれば、それでよい、という感覚があります。
立法も司法も行政も一緒くたにするので、三権分立を習わなかったのか、と問うと、
「そんなことタテマエにすぎないでしょ」と、こうきます。
それをどこで習ったのかと問うと、
「みんなそう言ってるもん」(でた!)

アイデンティティが絡むと、もう理で諭すというレベルの話ではないと思います(婉曲的表現)。
泥仕合になる可能性がありますよ。

>白片吟K氏 さん

 泥沼の水面につま先でちょこっと触ったという自覚はあります(^^;

>>そろそろまともに

 ということでそろそろ足を引っ込めます。

>ぷーたさん

 刑事司法というのは、真実発見と人権保障という相矛盾する理念の間で動いています。
 あちらを立てればこちらが立たず、という場面はそこらじゅうで出てきます。

 それを一方からの視点で見れば、他方は言い訳がましく見えます。
 一方の視点から見れば、不満なところがいっぱい見えますから、こうすればいい、ああすればいいという意見はいくらでも出せます。
 しかし、そうすると他方の観点でいろいろ問題が出てきます。

 有罪率99.9%というのは異常だという声があちらこちらで聞こえます。
 たしかに裁判という観点で見れば異常な数字であると私も思います。
 じゃあ、下げればいいのか、どうしたら下がるのか、どこまで下げるのか、下げたらどうなるのか、不都合はないのか、といろいろ問題が生じます。

 私はそのうちのいくつかを指摘しました。
 解決が困難な問題ばかりです。
 それを簡単に「ああすればいい、こうすればいい」とは、刑事司法の現場にいる私としては軽々しく言えません。

 最終的には国民のコンセンサスの問題です。
 多くの人に考えてほしいという意味で問題提起と情報提供をしています。

No.4 ぷーたさん

互いに「提案」を出し合うのは議論のひとつの形(ブレーン・ストーミング)ではありますが、この場合にそれをやっても仕方がないかと思います。むしろ、反証によって、議論を収束させる方向が前向きでしょうね(弁証法)。

ですので、当初の主張から新しく論点が増えたり、論点が変わったりすると、議論が収束するどころか拡散していって、わけがわからなくなっていまうかと^^)

とは言え、専門家の方とは知識量が圧倒的に違いますから、付け焼刃の勉強では対等に議論できるところまで追い着かないですね。

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