書面の不同意(その2)の続きです。
ここでいう「書面」とは証拠書類としての書面、つまり「書証」です。
典型的には供述調書であり、その他には、捜査報告書、実況見分調書、鑑定書などが代表的です。
これらの書面は、(その2)で説明したように、伝聞証拠として一般的に間違いが混入する可能性があり、書面だけではその内容の信用性の判断が困難であるという性質を持つことに加え、主として警察官や検察官が、犯罪事実の立証のために、犯罪後に作成されるものですから、そこには捜査官側に有利なバイアスがかかっている可能性が払拭できず、その信用性にはさらにクエスチョンマークがつきます。
これは被疑者・弁護側が作成する書面においても、方向は逆ですが同様のバイアスがかかる可能性があります。
以上の原則論を前提として、このエントリでは、大野病院事件で問題になっている医学文献特に弁護側請求にかかる医学文献について考えてみます。
報道等ではどのような文献なのか具体的にわからないのですが、ここでは事件発生前から存在する、または事件発生後に書かれたものではあるが事件とは全く無関係に公開された学術論文・学術図書等について考えます。
事件後に本件について専門家が意見を述べた書面は鑑定書と見るべきですので除外します。
私の乏しい医学知識に基づいて弁護側冒頭陳述書を手がかりに想定しますと、胎盤癒着の可能性に関する統計資料や癒着胎盤に対して適応すべき医療手段等に関する文献つまり現在の医療水準と医療行為の選択肢等に関する文献ではないかと想像します。
そのような文献は、特定の事件を前提とせず、特定の医師の責任に関係するものでもありませんから、その成立過程において、一方当事者に有利または不利なバイアスがかかっている可能性はありません。
問題は、その文献の内容的信頼性または信用性であるわけですが、医学界において権威と認められている執筆者の執筆にかかるもの、または医学界において高く評価されているものであれば、内容的信頼性は十分担保されていると考えられます。
刑事訴訟法は、作成者を尋問するまでもなく証拠能力が認められる書面として第323条を規定していますが、定評のある学術文献は同条3項により、検察官の同意がなくても証拠とできると考えられます。
問題は、「定評のある」文献と言えるかどうかです。
たしかに、著者の肩書きに「医学博士」と書いてあれば常に信用できるかどうか疑問ですが、大学の医学部で教科書または必読文献として扱われているような文献(これは例示です)であれば、「定評のある文献」と言っていいのではないでしょうか。
そのような文献であれば、検察官としても不同意なんて言わずに、同意すればいいのです。
内容的信頼性に問題があると考えるのであれば、その旨明確に主張すべきです。
単に、検察官の主張する被告人の過失認定にとって不利なことが書いてあるというだけで定評のある文献を不同意にするというのは検察官の客観義務に反する不相当な訴訟遂行であると思います。
違法とまでは言いませんが、思いっきりかっこ悪いです。
裁判官としても、事件とは無関係に公表されている学術文献であれば、法廷の外で自分自身の勉強として読んでも何の問題もないと思います。
つまり、裁判のための基礎知識としての学術文献などは証拠でもなんでもないと思います。
そうなると、そもそも同意・不同意を問題にすること自体がおかしいのかも知れません。
そうしますと、検察官と弁護人がそれぞれ自己に有利な文献を裁判官に紹介して、これを読んでおいてください、と言ってもいいのではないかと思うのですが、それでは裁判官が読んでくれる保障がないので、形式的に証拠として扱う必要が生じる、ということではないだろうか、と思っております。
要するに、検察・弁護双方が、おおよそ公平になるように分量を相談して、それぞれがその分量の範囲で是非とも裁判官に読んで貰いたい文献を証拠請求し、双方ともそれを同意すればいいじゃないですか。
はっきり言って、学術文献の不同意は、検察官の自信のなさを露呈しているだけです。
ほんとにみっともない!
検察官よりに考えてみて、考えられるのは、弁護側の文献の内容、位置づけを理解するまで、待ってくれというのなら考えられなくはないのではないかと思います。自分が理解していない書証を、文献とはいえ、同意するのは抵抗がありますから。それに医学分権だと理解に一定の時間がかかるのもわからないではない(いつ弁護側が検察に文献を渡したかにもよりますが)。
この意味なら、不同意というより、留保ですけど、まあ、法律上留保というのはないですし、不同意なら撤回できますから。
ただ、そうなら、裁判官にそういえば、まずは検察官立証で、その後の弁護側の立証までにということなら、弁護側が不満を言っても、裁判官としては、とりあえずは認めると思うし、ここまで、突っ張ることもないとは思いますが。
文献が定評のあるものと言えるかどうかを科学的にランク付けする方法としてエビデンスレベルがあり、上位より順に次のようにランク付けされています。ランクの高いものほどその文献の信頼度が高いと判断し、治療法選択の重要な根拠となります。
Ia システマティックレビュー/メタアナリシス
Ib ランダム化比較試験
IIa 非ランダム化比較試験
IIb その他の準実験的研究
III 非実験的記述的研究 (比較研究、相関研究、症例対照研究など)
IV 専門科委員会や権威者の意見
参考ページ(2つめのページには文献の内容からエビデンスレベルを判断するためのフローチャートがあります)
http://mrad.iwate-med.ac.jp/guideline/files/evidence-level.pdf
http://www.mars.dti.ne.jp/~shigerus/pages/research/evidence/evidence_level_flow.jpg
現在の医療事故の刑事裁判の実務上で最も重視されているのが専門家が法廷で証言した内容ですが、これは科学的にはエビデンスレベルとして最も下位となります(権威者の意見)。そして、科学的にはより信頼性の高い文献を不同意にすることが制度上可能です。刑事裁判のルールといってしまえばそれまでですが、医療者側の司法への不信感はこのようなところが発端になっているように感じます。エントリー文にもあるように、勝つためには手段を選ばない福島地検の検察官の訴訟遂行によって医療者側の反感、不信感はますます増幅します。
医療者側は一般に法的思考は苦手としますが、それとともに学術論文や科学的データの信頼性の概念を法曹の方に理解してもらえるように説明することに困難を感じます。何かよい案はないものでしょうか。
普通の医学誌や科学誌に載る論文というのは、ひとつの論文で何かが決まるわけでないです。
ある人が論文を出し、それに対し別の人が違う結果を出し、またある人はもし自分の意見が正しければ次のような結果が出るはずだと主張してその実験をくもうと呼びかけ、別の人はそれまで得られた知見をまとめ・・・
とそんな感じで何となく科学的真理は決まっていくわけです
何故なら一人の考えは独善になることがある。真実は普遍的に存在するものであるから、多くの人の多くの知を公開の場で文書の形で戦わせることが一番形に残ってよろしい、そんな考え方なのでしょう。
最後の最後にスペシャリストたちが頭をつき合わせて会合を開きコンセンサスを得るということも多いのですが、それは十分に問題の所在が煮詰まってから。
基本的には沢山の論文からコンセンサスとして科学的事実がなんとなく決まっていくわけです。
「権威」と呼ばれる人を呼び出して、意見を聞いたりそこに突っ込みを入れたりするよりも、多くの若くて足の速い、真理の火をリレーしていくランナーたちのその時点の集大成である論文郡のほうがはるかに真実に近いというのが科学の常識であると思う。
そして現在、真実に迫ることにおいて科学以上に有力な手段は無いので、少なくとも論文を基にしないで議論はできないと思います。
ちょっと横道にそれますが,EBMの発想はよいのですがどうも多くの方は概念を勘違いしているようでならないのです.
>EBMは「医師の専門性や経験・熟練、患者の価値観、科学的根拠の3要
>素をバランスよく統合し、より良い患者ケアの意思決定を行うものである。」
どこで見つけたは忘れましたが,単に大規模試験などの結果を鵜呑みにするものではありません.個人的意見としてはメタアナリシスが最上位に来るのもおかしいと考えています.他人の論文のデータをかき集めて再解析することには大きな問題が潜んでいます.基本的には単独の研究では困難であるような頻度の低い事象の解析などに対象を絞るべきと考えています.
大規模試験の結果を機械的にそのまま当てはめようとすることも「集団」に対しては正しい行為でしょうが,「個」を相手に治療する場合それは必ずしも正しくありません.結局のところevidenceを初期の方針の基本とするのは妥当でしょうが,そこから結果をfeed backして「個」に合わせた治療していくことが必要なのです.「統計」のマジックに踊らされてはいけません.
個々の医療の可否を判断する際にも,初期の方針作成において一般的なevidenceに基づくのはよいかと思いますが,しかしそれよりも「ある治療はこの患者さんには有効であった/無効であった」は最上位にくるものです.
また,一般的にはxxだがAとBとCが重なった場合にはこれまでの経験上○○の治療法が効果的であった(特殊な条件下のデータが常に存在するとは限らない)ことから,先に○○を行なうというのも適切と考えるべきです.
Evidenceではxxだからこの判断は適切でない,と言い切ることは必ずしも正しくないでしょう.
「医学的に禁忌である」とか,「その治療を専門に行なっている医師10人が10人ともその治療はおかしい」というのでなければ行なわれた医療が適切であったかどうかを決めることは困難です.
EBMという言葉は比較的新しいですが,医療は昔から積み重ねられた「evidence」に基づいて行なわれてきたものです.なんら新しいものではないでしょう.
>level3先生
>どこで見つけたは忘れましたが,単に大規模試験などの結果を鵜呑みにするものではありません.
これですかね?
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2002dir/n2476dir/n2476_02.htm#00
もしくはDr.SackettのEvidence Based Medicineでしょうか?
僻地外科医先生,
ありがとうございました.私がみたものはこれではありませんでしたが,内容的には同値です.ここに来られている医療関係者に方々にもNo.5のリンク先を読んで頂きたいと思います.
No.2 医学生さんも是非お読み下さい.真のEBMの意味が解ると思います.
ちなみに・・・
>医学生様(No.2)
expertiseの重要性は本来のEBMでは否定されていません。もしよろしければ一度上に上げたSackett(EBMの提唱者)の「Evidence Based Medicine」をお読み下さい。
日本語訳も出ています。
根拠に基づく医療―EBMの実践と教育の方法
リンクの紹介
レジデント初期研修用資料
ここまで1時間。
google さんに聞いてみた
単なる知識と、知識化した経験との決定的な差。
薬を使ったとして、何時間ぐらいで効いてくるのか。
薬の使用期間。患者さんを入院させておくべき期間。絶対安静をお願いする期間。
何がおきたら「うまくいった」と安心していいのか。「失敗した」ら、次に何をするのか。
こんな情報は、教科書や論文にはほとんど書いていなくて、症例を経験した人の話を聞いたり、症例報告を調べたりしないと分からない。
「試行錯誤と経験の積み重ね」という、医療現場の危なっかしい雰囲気が良く伝わっていると思います。
(この症例は、治療の情報がこの場で見つからなくて、そのまま死亡していたら、「最善の治療を怠った」として訴えられる可能性もあったと思います。また、最善の治療にも関わらず、死亡しても、「経験も無いのに、(イチかバチかで)治療をした」として訴えられる可能性もあるかもしれません。)
また、実際の医療において、症例報告や専門家の意見にはかなり重みがあるということも伝わると思います。
医学において、法曹の方々にとっての「判例」にも相当する、論文や教科書、症例報告といった治療経験の蓄積を無視する(証拠として不採用にする)という検察側の態度に対し、医療者側の理解は決して得られることはないと思います。
このブログを福島地検の人が見てるかどうか知りませんが、
福島地検のやり方が検察のスタンダードだと見られると困るんですよね、
私としては。
たぶん、多くの検事にとっても。
私は「目の前の患者さんの問題をPECOに切り分け、必要な情報を入手し、内的妥当性を吟味した後に外的妥当性を考え、患者さんに還元し、その結果について再び振り返る」という一連の行動がEBMだと教えられ、トレーニングを受けた者ですが、最近は違うのですかね?
一昔以上前のハナシですし。
> 福島地検のやり方が検察のスタンダードだと見られると困るんですよね、私としては。(No.9 モトケン様)
然り。<法曹>の一括りで医師から批判(場所によっては罵倒)される身にとっても。
福島地検は「前代未聞」を否定してほしくなかったですね。
学術文献(ここでは主に「臨床研究論文」)の信頼性について考える上で、Evidenced-based medicine (EBM) の一般的なプロセスについて、私なりに理解している範囲で記載します。日本語の資料として(医学雑誌ですが)、中山書店「EBMジャーナル」(隔月刊)を参考にしました。
EBMは、「入手可能な範囲で最も信頼できる根拠を把握したうえで、個々の患者に特有の臨床状況と患者の価値観を考慮した医療を行うための一連の行動指針」と定義され(2000年1月号(創刊号))、それを実践するための手順は次の5つのステップからなるそうです。
[STEP 1] 臨床問題の定式化
ある患者(問題)に対して(Patient/Problem)、ある介入(治療、検査など)を行うことによって(Exposure)、別の介入と比べて(Comparison intervention)、結果はどのようになるか(Outcome)。
[STEP 2] エビデンスの検索
臨床問題を解決する上で必要な「エビデンス」を「可能な限りすべて」集めます。エビデンスには、「論文」のほかに、学会報告、教科書、先輩・同僚の助言、自分の経験なども含まれます。「論文」は複数の専門家によって査読された上で掲載されることから、こうしたエビデンスの中では最も信頼性が高いと考えられています。適切な論文が見つからないときは、論文以外のエビデンスを参考にします(医療は常に発展途上にあり、完全な回答をもたらすエビデンスがあることの方がむしろ少ない。)
[STEP 3] エビデンス(論文)の(批判的)吟味
すべての研究は限定された一定の条件下で行われるため(各論文の「対象と方法」に記載されている)、その結果の解釈は限定的なものになります。大まかな論文のランク付けには、「研究デザイン」を評価した「No.2 医学生さんのコメント」で紹介された分類がありますが(バイアスのかかりにくい研究デザインほど信頼性が高い)、むしろ個々の論文について、対象の確認、方法の妥当性、結果の信頼性、結果の解釈(すべてのパラメータについて)などを詳細に検討し、「この研究からどの程度のことがいえるか(あるいはいえないか)」を評価する必要があります。
[STEP 4] 実際の患者さんへの適応の検討
個々のエビデンスが眼前の患者さんとその臨床問題に適応できるかどうかを評価します。例えば、外国人を対象とした研究結果を採用する場合は、常に人種の差を考慮する必要があります。また、患者さんの問診情報、診察所見、検査所見だけでなく、医療提供者の技能・経験、医療施設の設備、人的・時間的制約、医療保険制度なども検討して総合的に判断しなければなりません。こうして導かれた選択肢を、その根拠と共に患者さんに提示し、患者さんと相談しながら、患者さんの価値観(患者さんの社会背景や人生観など)を踏まえた上で、方針を決定します。
[STEP 5] STEP 1-4の評価
EBMは上記すべてのプロセスを含みます。なかでも重要なプロセスはSTEP 1と4です(2003年3月号)。同じ病気であっても個々の患者さんが求める治療目標は異なるため(患者さんの価値観の違いによる)、それに応じてSTEP 1の問題を設定する必要があります。設定した問題に対してエビデンスを収集し吟味しますが、同じ臨床研究であっても患者さんが重視するアウトカムによって異なる解釈に至ることもありうるということです。また、結果的に信頼性の低いエビデンスの方が採用されることもありえます。No.4 Level3 さんやNo.7 僻地外科医 さんのコメントはこのような趣旨と思われます。
No.12 の訂正です。
(誤)Evidenced-based medicine (EBM)
(正)Evidence-based medicine (EBM)
「同意・不同意自体は、訴訟法上、当事者たる検察官、被告人・弁護人に平等に認められた権利」であること、および「裁判の中で「証拠」の信頼性を検証する作業があること」は分かりました。
医療の臨床において偏った判断を防ぐためには、最初はエビデンス(学術論文)をできるだけもれなく集めることが基本です。その後ひとつひとつ詳細に評価していくのですが、こうした論文の評価方法は客観的な手法で行われます。
裁判の中で「証拠」の信頼性を検証していくということですが、証拠採用の段階で、客観的に評価した上での判断かどうかを明らかにしないまま、論文の証拠採用を不同意にできるというのは、「原因究明」の観点からみると、疑問に思えるのです。
また、検察の「客観義務」についてですが、検察は裁判で争っている当事者ですから「客観義務」を求めるのはあまり期待できないのではないでしょうか。
No.9 モトケンさん。
>福島地検のやり方が検察のスタンダードだと見られると困るんですよね、
No.11 YUNYUN さん
>然り。
ブヒッ、
不謹慎ですが噴いてしまいました。その気持ちよくわかります。
ということで、起訴前に複数の産科医の意見を採用できなかったことが、齟齬の始まり。通常なら、客観的な文献は証拠採用される可能性大、と理解してOK?
>No.15 消化器内科医さん
>通常なら、客観的な文献は証拠採用される可能性大、と理解してOK?
私の感覚ならOKです。
私なら、「これは産科医にとって必読文献です。」と言われれば不同意にはしません。
間違いなく必読文献ならですが。
もし、法廷でそんなものを持ち出され、自分が読んでないとしたら、検事としては冷や汗ものです。
しかし、
最近、私の感覚とずれた若い検事がかなりいるのではないかと危惧しています。
> 通常なら、客観的な文献は証拠採用される可能性大、と理解してOK?(No.15 消化器内科医さま)
捜査官が聞き書きした供述調書は大いに問題がありますが(書面の不同意その2)、
「客観的な書面なんだから、同意してくださいよ」とは、通常の事件で弁護人が、検察官や裁判官からよく言われる台詞です。
例えば、官公所発行の証明書(登記簿謄本など)、客観的で検証容易な事実の捜査報告書(銀行所在地の確認など)、証拠物の写真撮影報告書。
被害届や現行犯人逮捕報告書もたいていは同意します。
検察の言い分では、「実況見分調書」も客観資料だってえんだから。
それに比べて公刊物を不同意にする理由なんて、一こも無いでしょ。よほど事件と無関係な内容でない限り。
自分の都合だけゆうな。
文献には文献で対抗したらよろし。
>モトケンさん
>単に、検察官の主張する被告人の過失認定にとって不利なことが書いてあるというだけで定評のある文献を不同意にするというのは検察官の客観義務に反する不相当な訴訟遂行であると思います。 違法とまでは言いませんが、思いっきりかっこ悪いです。
チョット気になったので書いてみますが、教科書は、現時点での、定評のある文献の第一だと思います。で、一般の文献は、新しい事実(かもしれないこと)を言い立てるようなものですから、それがスタンダードだとは到底言えず、そうだとしたら検察が不同意にするのは、特段、かっこ悪い訳では無いと思うのですが。
その文献が、もし有名雑誌のレビューだったとしたら、それは現在のスタンダードを示しているともいえますが、他の雑誌に載った文献は、ある意味、「極端」が書かれていると思っていた方が良いと思います。
>No.18 産科医−1さん
私は、スタンダードとして定評のある文献を基本的前提としてコメントしました。
スタンダードとして定評のある文献かどうかの認定については検討の余地があることは既に指摘したつもりです。
弁護人が極端な文献を出してくれば、検察官は、「その文献は極端だ」と反論すればいいと思います。
これだけ医療界が注目し社会的影響が大きい事件で、ともかく勝てばいい、という姿勢は検事として最低です。
およそどこの科でもそうだと思いますが、成書は書物となる時点で既に時間的なタイムラグがあります。
ですから最新の文献や最新の文献をまとめたオンラインベースの二次資料を利用することは、現代における臨床においてごく一般的なことだと思います。
もちろん文献は批判的に吟味すべきで、その文献が信用にあたいするかは非常に重要ですが、だからといって否定されるものではありません。
それからSTEPだけにこだわるわけではありませんが、STEPは専門家が書いていないただのあんちょこ本で「教科書」ですらありません。
↑「時間的な」は不要でした。
>モトケンさん
>元研修医さん
一般に言って、当時の医師の医療行為の可否は、メタアナリシスで得られるような最新のエビデンスではなく、それこそ、当時の教科書レベルの常識で判断されるものだと私は思っていましたが、どうなんでしょうか。
まぁ、最新のものであろうが古い論文であろうが、
全部認めたうえで議論してほしいですね。
少なくとも医学での議論はそうなっている。推測やpersonal communication、動物実験レベルまで何でもありという感じで。
それでもおのずから優劣は決まるわけで、そういうのがいいような気がします。
産科医ー1さん
こんな判例もありますよ
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/1F4BD655E5BE38DF49256A8500311E0E.pdf
>No.24 7年目内科医 さん
僕の言っているのは、この判例に出て来たような一流病院の話しではなく、一般的な話し、「当時の医療水準を前提とした注意義務違反がある」のレベルの話しです。
No.25 産科医−1さん
>一流病院の話しではなく、一般的な話し、「当時の医療水準を前提とした注意義務違反がある」
一流病院でない病院でも求められている水準が高すぎる(というか無理)というのが、判例を検討している医師の共通の認識だと思います。