エントリ

 テーマとしては、つぶやきエントリかと思いますが、「一部の医師に一言いいたい」エントリに対するまさくに さんのコメント に基づいて立てたエントリですので、こちらに置くことにします。

 まさくにさんがご自身のブログ(いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」)で詳細な記事を書いておられますので、まずそこで指摘された問題点を議論するのもよいかと思います。

 司法の品質管理を問う〜2の壱
 司法の品質管理を問う〜2の弐

 上記の内容には司法に対する理解不足と思われるところもありますが、それも問題提起ということでよろしいかと思います。
 
 まさくにさん、ブログの記事を横取りしたみたいな形になって申し訳ありません m(_ _)m

 さて、どの問題からいきましょう。
 まさくにさんからお題をいただけますでしょうか。

 

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コメント(76)

司法に基準があった方がいいのか、それともない方がいいのかと言うことで。

基準の代表例としては、交通事故訴訟などはいかがでしょうか。

 私としましては、礼儀上、最初はまさくにさんの意見をお伺いしたいところなのですが(^^;
 (しまさんが無礼だと言っているのではありません。私の気持ちです)

 刑事に関する基準については、トップページの「コメント・エントリをキーワードで」の検索窓で「基準検察」のキーワードで検索してみてください。

 URLを貼り付けてもいいんですが、せっかく作った検索機能を使ってもらいたいもので(^^)
 それに貼り付けちゃったらすぐにこのテーマで議論が始まっちゃいますから。

失礼いたしました。少々様子を見ることに致します。

 あまりお待ちしていても議論が始まりませんので、しま(その他)さんご提案の司法の基準から始めたいと思います。

 刑事事件については、過去に「基準検察とその限界」というエントリを書いていますので参考にしてください。

医療行為にまつわる刑事罰ということで考えると、違法性阻却事由としての”医療の正当業務とは何か?”を、医療側でなく、公権力である司法側が提示する必要があります。

医療行為の多くが、身体に傷害を加えることを前提としている限り、傷害罪の構成要件は満たしますよね。(ここさえも理解していない医療人が多いのが現状ですが。。。汗)

何が許されるのか提示されないまま医療行為を行うことの恐ろしさに、医療行為をしてきたことに、戸惑い、恐れおののいている医師が大勢いるのです。

当然の法理でなく、国家権力の介入としての刑事罰くらいは、不可罰的正当業務を定義していただきたいものです
定義できないのであれば、刑事罰は不適。民事、行政罰で別途に行うことで罰を与えることで、権力を抑制しなければなりません
認定するのには、もちろん医療知識、医療判断能力が必要であり、それこそ医師でなければ医師の正当業務を評価できるとは思えません。

特別法である医師法には、『医師でなければ医業をなしてはならない(第17条)』とあるけれど、医業とは何かを定義してはいない
警察・検察に医業が判定できるのか疑問に思える。
海難審判、特許審判のような特別機関を置く、良い潮時ではないのだろうか?

議論を誘導した形になってしまい、申し訳ありません。

私が提案しているのは「スタンダードが必要なのか」に関する議論であり、「スタンダードが確立していれば、不満はなくなるのか」と言う議論です。

例えば、交通事故訴訟に関しては、東京地裁が主導して交通事故の算定基準を作り出しました。これにより、訴訟に持ち込まれるケースが激減(具体的には、交通専門部が、交通・労災専門部になった)し、迅速に処理される事になったと聞きました。

他方、交通事故におけるスタンダードの確立は、交通事故被害者に取って不満を取り除く事になったのかと言う疑問があります。

モトケン先生
誠に恐縮でございます。私の如きド素人の言い分をお聞き下さり、有難うございます。
こちらにお邪魔するのがちょっと遅れまして、今、発見したところです(笑)。

テーマを私から提供するのは難しいのですが、司法には価値判断のような曖昧な領域を扱うものが多いので(民事事件では)、個別事例で異なる部分があっても許容され得ると思います。判例についても、最高裁判例集とかのような民集・刑集みたいなのがあるのですし、主だったものは決まっているのだと思いますけれども、過去に適用のあまりなかった刑事事件というのが起こってきているのではないかと感じます。今後裁判員制度も始まるとのことですし、曖昧(不透明?)な要件での刑事事件化というのは、恐ろしいものがあるのではないかな、と。古紙持ち去り事件のような、有罪無罪が概ね五分五分といった状況が現状でもありますし、一定の判断基準のようなものがあるべきではなかろうか、と。

以前にも少し紹介しましたが、平成16年頃の保助看師法違反事件で、内診行為をさせていた医師が起訴され、罰金50万円(だったかな?)となったものがありました。詳細は知らないのですが、こういう事件があったことは確かなのです。国立がんセンター医師の業務上過失致死罪で書類送検となった事件も、その取扱いについて疑問に思えました。これらに刑事責任を追及することが、本当に必要なのか?ということです。司法サイドでこれを「どうするか」と考えていかない限り、捜査・起訴・裁判ということが起こってくるように思えるのです。

個人的には、基本的に刑事事件としての捜査ではない原因究明方法とか、審判制度のようなものを取り入れるべきではないかと考えております。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6042929e62546b946d80d7528569efc1

あちこちに話が飛んでしまって申し訳ございません。
他の本職の医師の方々に後はお任せしたいと思います。と言いますか、モトケン先生の方針でテーマなどを進めて頂ければ、と思います。

まさくに様のブログを拝見しました。

「同じ事件について、判断者によって結論が分かれてよいか」という点では、裁判官によって判断が分かれるのは、公平性の観点から望ましくないのは、当然のことです。

しかし、本当に、同じ事件について判断が分かれることが、そんなにあるのでしょうか。
<同じ事件>とは厳密には、「証拠関係が同一であること」を意味します。それ以外は「似た事件」ではあっても、「同じ事件」ではありません。

私の考えでは、裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない。
従って、結論の違いは事案の違いによる というものです。
●医療関係エントリに関するつぶやき
http://www.yabelab.net/blog/2007/02/15-104709.php
コメントNo.47、50、57、60、74、75、79

同様に、
似た事件も同一ではない以上、裁判結果が異なることがあり得る、ということを指摘されたのが、
●一部の医師に一言いいたい エントリ記事本文(モトケン様)
http://www.yabelab.net/blog/2007/05/31-232347.php

この意味で、医師のみなさんの傾向として、
判例理解として、似た事件における違う要素を無視して、過大に一般法則を読み取ろうとする(判例の射程距離を長く取ろうとする)点が、問題であろうと思います。

No.8 YUNYUN(弁護士)さん

(ありえないこととは思いますが証拠関係が似たような2つの事件という意味で)似たような事件は、裁判官が異なっても似たような裁判結果になると理解してよろしいでしょうか?

>No.8 YUNYUN(弁護士)さん

似た事件も同一ではない以上、裁判結果が異なることがあり得るならば、射程距離を長くとって安全圏に身を置くのが当然の考え方ですが、医師は過大に長く取っているという指摘だと理解します。

適正な射程圏外に身を置くために司法をよく理解したほうが良いという指摘があるでしょうけれど、
1.どこまで司法を理解すれば射程が読めるのかわからない。
2.どのように司法を理解すればよいのかわからない
  (このブログに参加していない場合ですよ)
3.司法を理解せず射程を過大に取っても、割り切ってしまえば医師自身にとって、とりあえず問題はない。
という現実があるのです。

2に関連して言えば、一般の医師が司法知識を得るのは、せいぜい医療雑誌に載っている弁護士さんの判例解説記事くらいです。そして、その多くは実際の現場では困難なことを「この判例から教訓を得るなら・・すべし」と説いています。
※解説を書いている弁護士さんも内心では「ここまでは大丈夫だと思うけど、公式見解としては言えないな」ということで射程距離を過大に長く描いているのかもしれません。医師も患者に対して過大に表現することは、しばしばあります。

そして3を念頭に考えれば、医師のためにではなくて、患者と患者予備軍である国民のために、司法側のどこかの部門が射程距離について何らかの分かりやすい見解を示したほうが社会的利益なのではないかと思いますが、分かりやすい見解を示すことは可能でしょうか?制度上可能か?ということではなくて、素人にわかりやすい射程を示すことが技術的に可能か?ということです。

●司法の不確実性について考える
うまく、噛み合えばよいのですが。

特に刑事事件の場合、最終的なゴールは、判決に示される量刑の程度ではないかと思うわけです。この量刑自体は、よく解りませんが、一応物差しで測れるような、線形のもののような気がします。
一方、医療の場合、最終的なゴールは、健康、長寿、治癒、幸福といったものなのですが、実はこれは、価値観の相違がかなりあって、たとえば同じ病態での治療選択においても、内服薬投与内容、手術術式、放射線治療など様々な正解候補があります。患者と相談してみても、どの治療方法がその患者にとって最適なのか不明な場合も多いでしょう。(わかりやすくいうと、生活の質が制約されても寿命が少しでも伸びれば良いと考えたり、いくらでもお金と時間を惜しまず治療したいと考えたり、いろいろです。)これは、幸福の価値観の違いがあって、そこには、量刑の確定のような線形代数で表現できないものがあるでしょう。

ですから、司法の不確実性は、あるでしょうけど、医療の不確実性に比べると、少ないのではないかと思います。(他の部分の不確実性の問題も大きいですが)

噛み合ってますかね?

>YUNYUN先生

コメント有難うございます。コメントが長くなるので、以下の記事に書きました。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/cae8c9615b7bddd0d3978c3ef32a6906

お答えは無理にならない範囲で結構でございます。

 「司法の不確実性」を議論する場合は、「確実性」を追及することによるメリットと「デメリット」を常に考える必要があると思います。
 そういう観点からすると、No.6 しま(その他)様の

>私が提案しているのは「スタンダードが必要なのか」に関する議論であり、「スタンダードが確立していれば、不満はなくなるのか」と言う議論です。

 という視点はとても重要だと思うのです。
 司法における解決で、「確実性」(予測可能性・公平性)を重視しすぎれば、「個別解決の妥当性」がなくなってくる関係にあるでのはないか?
 と考えるのです。

 医師の先生方にお聞きしたいのですが、「医療の確実性」を追及することによる「デメリット」はあるのでしょうか?
 私にはデメリットがなかなか思い浮かびませんので、そうなると医療に関しては「確実性」を追及するだけでよいように思えますし、何らかのデメリットがあるなら、そのデメリットを減殺できる手法を取り入れているのではないかと思うのです。

 ちなみに、先のしま(その他)様からお尋ねのありました交通事故訴訟の件ですが、赤本又は青本等による「スタンダード化」は、加害者(保険会社)にとっては大変ありがたく、被害者にとってはとても不満のあるものです。ただし、その不満の程度は、現在の訴訟の行方を左右するほどには至っていないように思えます(マグマのように溜まっていて、今後大爆発するかもしれませんが、『噴火警報』がでる段階ではないというのが、私の感覚です)。

>nuki様

 医師の先生方にお聞きしたいのですが、「医療の確実性」を追及することによる「デメリット」はあるのでしょうか?
 私にはデメリットがなかなか思い浮かびませんので、そうなると医療に関しては「確実性」を追及するだけでよいように思えますし、何らかのデメリットがあるなら、そのデメリットを減殺できる手法を取り入れているのではないかと思うのです。

 おそらく医療に対する根本的な誤解であると思います。「医療の確実性」を追求することは「司法の確実性」を追求するのと同等以上に困難で、かつメリットの方が少ないことの方が多いと思います。

 非常に参考になる事例が「なんちゃって救急医」様のブログに書かれていますので例示しましょう。

http://blog.m3.com/case-report-by-ERP/

 この症例で、「診断の確実性」を追求しようとした場合、この中に登場された「外科部長」先生のようにCT撮影をすべきですが、そうしていた場合、CT撮影をしている間に亡くなられる確率は高かったでしょう。この事例では確実な診断は後回しにして、一刻も早く「おおざっぱな診断」をつけ、高次病院へ転送することで「救命の確率を上げる」ことが優先されるわけです。ここで優先されるのは確実性ではありません。スピードです。

 治療においても同じことが言えます。中心静脈カテーテル(CVカテーテル)を留置するのに「もっとも確実な手段」は「皮膚を切開し、直視下にカットダウン(末梢側の静脈を結紮して、血管に切開を入れてカテーテルを挿入する方法)すること」ですが、当然ながら皮膚には大きい傷が残りますし、末梢側には鬱血(血液の滞り)が生じる可能性があります。
 癌の化学療法において癌細胞を確実に殺す手段は常識を越えて大量に化学療法剤を投与することですが、その副作用によって患者は生命の危険にさらされます。といって、患者が「化学療法では確実に死なない」分量とは「投与量0」つまり全く投与しないと言うことになります。しかしこの場合、患者は化学療法では死ななくても癌で死ぬことになります。

 医療においては「確実性」の追求はメリットをもたらすことはむしろ少なく、多くの場合、コストと時間と患者への肉体的負担の増加のみをもたらすことの方が多いです。

 何故、こんなことが起きるかというと、医療はすべからく「患者への肉体的侵襲を加えることによって、より重篤、あるいは致命的な他の問題を軽減・消失させようとする」行為に他ならないからです。ですから、医療においては常に「バランス感覚」が重視されるのです。

 バランスを保とうとすることに「確実性」が並立することはあり得ません。なぜならば、個々の患者においてそのバランスを取るべき部分が全く異なるからです。

追加です。

本日当科に来た症例です。
超高齢の男性、両下肢が1週間前から急に腫れたとのことで来院されました。高齢ですが難聴がある以外は比較的お元気で認知症もなく、歩行もしっかりしている方でした。

 問診、下肢の超音波検査、採血データなどから私が下した診断は「深部静脈血栓症」です。ここでより確実な診断をしようとするならば、「両下肢静脈造影」を行うべきですが、「足先から針を刺して薬を入れなければならない」という点で、侵襲が大きくここまでのデータで診断をつけるには十分と判断し、この検査は行いませんでした。これもバランス感覚です。

 次に、この患者さんへの治療です。
 もっと若い患者さんであれば、少しでも早く「下肢静脈高血圧症」を解除するために「血栓摘除術」を行うことを考え、患者さんにもそう説明したでしょう。
 一方、これが寝たきりの患者さんであれば、なにもせず放置という選択を取ったでしょう。

 今回この患者さんでは、「今後まだまだ歩行機能が維持できる」、しかし「手術などの侵襲的な治療は出来るだけ避けたい」という考えから、「一時的下大静脈フィルター留置後、血栓溶解療法」という方法で治療する方針としました。
 発症から1週間経過ですので、血栓溶解療法が効かない可能性もあります。この辺の時間経過もバランス感覚に含まれます。

 このように医療において、診断・治療とは個々の患者の年齢・体力・全身状態・既往症・局所の症状などを複合的に考えて最も「バランスの良い方法」を手探りで見つけ出す行為なのです。

 確実性という言葉といかになじまないかお分かりになったでしょうか?

No.14 僻地外科医先生

レスありがとうございます。以前から先生のコメントには勉強させられるところが多く、注目しておりました。議論を交わすのは初めてですが、今後ともよろしくお願いします。

早速ですが、先生のご趣旨はわかりました。また、先生のご意見について、確かに私の認識不足があり、改めて勉強させて頂きました。
ただ、「確実性」の中身が、私の使用方法と先生のおっしゃることが少し違うのではないかと考えました。

もともと、本エントリーは、「まさくに」様の問題提起の『司法(特に過失の認定についての)は適用現場での(まさくに様は使用していませんが、あえてわかりやすく言えば「場当たり的な」)価値判断が多く、医療(または他の科学的思考)と比較して予測可能性がなく、公平性が保てない』ということに対して(かなり意訳しています。)、私なりに主として民事事件の立場から(刑事事件は、少し違った考え方になります。No.4モトケン先生が引用されているエントリーの本文をご参照下さい)、「司法の不確実性を考えるための前提」について、述べさせてもらいました。

このエントリーの流れから(前スレの「一部の医師に言いたい」の流れから考えても)、「司法は医療に比べて確実性がない」とのことと考えたので、『確実性』というのは、「事前の予測可能性及び類似事件の適用の公平性がある」と考えたのです。

そうすると先生のおっしゃる『確実性』とはちょっと違ってくると思いますがいかがでしょう か?

せっかくですので、質問をさせて頂くと、先生の使われる『確実性』だと、一般的に司法は『確実性あり』ということになるのでしょうか? 

>nuki さん
nukiさんのおっしゃる医療の確実性とは、正確な判断という意味ではなく、「どの医師が診察しても同じような判断を下す」という意味だと解釈しましたが、それでよろしいでしょうか。

例えば、僻地外科医さんのNo.15のコメントで言えば、医師が超高齢の患者に対して「深部静脈血栓症」と診断した場合、全国のどの外科医を訪れたとしても「両下肢静脈造影」は行わないものなのか、それとも場合によっては行う医師もいるのか。

もっと言えば、医師の判断は統一した方がメリットがあるのか、統一しない方がメリットがあるのかという事なのかなと思いました。

>nukiさん

赤本又は青本等による「スタンダード化」は、加害者(保険会社)にとっては大変ありがたく、被害者にとってはとても不満のあるものです

確かに、そのような感じはあります。画一化され、全てが金に換算されてしまうと言う不満はあるでしょうし、「赤本などというものがあるために、お金で解決しなければならない」と言う不満も出てきて当然なのかなと思います。

また、被害者側にとっては裁判所が楽をするためのスタンダード化なのかという批判もあるかも知れませんね。

私自身としては、交通事故のスタンダード化を批判するわけではありませんし、被害者側のメリットもあると思うのですが、それで不満が解決するわけでないとも思います。

No.17 No.18しま(その他)様

>nukiさんのおっしゃる医療の確実性とは、正確な判断という意味ではなく、「どの医師が診察しても同じような判断を下す」という意味だと解釈しましたが、それでよろしいでしょうか。

 補足説明ありがとうございます。確かに、そのようなニュアンスで使用しておりました。ただ、僻地外科医先生がおっしゃる意味もご説明頂きわかりましたので、ちょっと私の使用方法が間違えていたかもしれません。
 この意味でいうと、確かに僻地外科医先生が、「違う」とおっしゃるのもわかります。

 ただ、そうすると、「司法の不確実性」と対比される医療行為というのは何だろうな?という疑問はあります(「そんなものはない」と言われるかもしれませんが…。)
 もう少し考えさせて下さい。

>被害者側のメリットもあると思うのですが、それで不満が解決するわけでないとも思います。

 おっしゃるとおり、被害者側にも、迅速な解決というメリットはあります。
 ただ、例えば、損害賠償金額からみると、『スタンダード』の性格上、どうしても、「ある類型の事故が起こった場合に『少なくとも』生じる損害賠償金額」となってしまうので、被害者側の個別な事情が捨象される確率は高くなります。
 「裁判所が楽をするため」というのは、ある意味正鵠をついていますので、依頼者に説明することに苦労することがあります。
 

 

>nuki様、しま様

 まず、nuki様のご設問は大変答えにくいので、しま様のコメントへのレスから始めます。

例えば、僻地外科医さんのNo.15のコメントで言えば、医師が超高齢の患者に対して「深部静脈血栓症」と診断した場合、全国のどの外科医を訪れたとしても「両下肢静脈造影」は行わないものなのか、それとも場合によっては行う医師もいるのか。

 おそらくですが、ほとんど同じ条件で下肢静脈造影を行う医師はいます。というか、私自身、この症例で下肢静脈造影をするかどうか迷いました。他の所見から10中8,9深部静脈血栓症で間違いないと考えていましたが、より確実に診断をつけるならば下肢静脈造影でしょう。ただ、私が「ほぼ」確信を持っているものに対し、裏付けとなる証拠までさらに必要かどうか?という点で、私の判断は「造影までしなくても、この疾患は深部静脈血栓症でよい」でした。これに対してはいろいろな考え方があると思います。
 また、コスト面の制約も考えなければならないでしょう。今の日本の医療は一部の大病院を除いて出来高制度でのコスト請求になりますが、DPCになった場合、同様に出来るかどうかは疑問です。
 しま様の上の設問は「医療の標準化」「クリニカル・パス」という考え方につながると思いますが、この考えは多くの場合「医療コスト削減を目的とする危うさ」を伴っています。

もっと言えば、医師の判断は統一した方がメリットがあるのか、統一しない方がメリットがあるのかという事なのかなと思いました。

 つまり、これこそ医療の標準化、クリニカル・パスのメリット、デメリットと言うことになると思います。私は双方ともメリットは極めて大きい、しかしデメリットも少なくないと考えています。クリニカルパスのメリット・デメリットでぐぐるとこの辺の話題は山のように出てきます。

 ここでnuki様のご設問その1へ戻ります。

「司法は医療に比べて確実性がない」とのことと考えたので、『確実性』というのは、「事前の予測可能性及び類似事件の適用の公平性がある」と考えたのです。

そうすると先生のおっしゃる『確実性』とはちょっと違ってくると思いますがいかがでしょう か?

 おっしゃるとおり、確実性という言葉の使い方について少し違うようですね。

 それをふまえてお話しすれば、上で救急医療を元にお話ししたように、医療においても「事前の予測可能性および類似症例の手技・診断の適用」は司法と同程度に確実性がない、と言うのが私の考えになります。
 標準化という手法はマクロで見た場合には救急医療ではメリットがあります。ところがひとたび個々の症例に目を向けた場合には決してメリットばかりではありません。端的な例が多重事故・大規模災害例での「トリアージ」問題でしょう。トリアージにおいて黒カード(死亡又は救命不能)とされた症例でももしかしたら超集中的治療で助けれるかも知れません。しかし、医療の人的・コスト的・時間的制約においてその患者を助けることに力を注いだ場合、他に助けれる患者5人を失うかも知れないという事実があります。
 トリアージに目を向けなくてもAと言う患者にJATECに沿った手法で診断治療を行った場合、特別優秀な医師が勘に従って診断・治療をした場合より救命率が下がるかも知れません。しかし、多数の症例を集めて個別の医師の技量を平準化した場合には明らかに救命率は上昇するでしょう。

 医療において常に問題になるのが「個々の患者」と「総合的に見た救命率、根治率など」の対比です。

 このあたりは司法における「総合的に見た公平性」と「個々の判例における正当性」の問題に類似するかも知れません。

>No.15 僻地外科医 さん

 またまたトピずれというご批判を頂きそうですが、「医療の不確実性」や「医師による考えの違い」ということをお示しする上でお役に立てるかなと思うので、先生が受け持たれた患者さんのことで多少疑問に思う点を述べさせて頂きます。

両下肢が1週間前から急に腫れた

 両下肢が同時に腫れるのは下肢深部静脈血栓症の典型的な症状でしょうか?確かに術後長期臥床で生じる深部静脈血栓症の場合には両下肢同時はありますし、私自身経験もあります。しかし、

比較的お元気で認知症もなく、歩行もしっかりしている方でした。

の両下肢が同時に潅流障害で腫れたとすると、下大静脈レベルに閉塞機転があると考える方が自然ではないかと思います。その場合は超音波で疑われる両下肢の静脈血栓は二次性ということになります。悪性腫瘍の腫瘍栓に血栓が重なってある時点で急に閉塞する場合もあると思います。もちろん静脈の肉腫も頻度は低いですがありますし、リンパ節転移や他の腫瘍の圧迫や浸潤による閉塞の可能性もあります。腹部大動脈瘤の急激な増大でも閉塞がないとは言えません。したがってこの場合腹部の造影CT(ついでに膝レベルまで撮影)は必要な検査だと思うのですが?これを行わずにフィルター留置や血栓溶解を行うのは、私ならしません。例え純粋に血栓だけだとしても、それは下大静脈まで伸びている可能性はありますから、フィルター留置位置を決めるためにも、やはり造影の腹部CTは必要ではないかと思うのですが・・・

> nukiさんのおっしゃる医療の確実性とは、正確な判断という意味ではなく、「どの医師が診察しても同じような判断を下す」という意味だと解釈しましたが、それでよろしいでしょうか(No.17 しま(その他)さま)

私もその意味に理解して、「司法の確実性」(同一証拠に対して、どの裁判官でも同じ判断を下すことができるか)との対比を考えておりました。
そして、今までの議論では、
司法のほうが医療に比べて確実性が高い、

> 司法の不確実性は、あるでしょうけど、医療の不確実性に比べると、少ないのではないか(No.11 座位 さま)

だから、医療について過失の有無を問うために鑑定をしても、医師によって意見が分かれ、バラツキが生じてしまうことがあり得る
という話であったと思います。

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> 平成16年頃の保助看師法違反事件で、内診行為をさせていた医師が起訴され、罰金50万円(だったかな?)となったものがありました。詳細は知らないのですが、こういう事件があったことは確かなのです。国立がんセンター医師の業務上過失致死罪で書類送検となった事件も、その取扱いについて疑問に思えました。これらに刑事責任を追及することが、本当に必要なのか?ということです。司法サイドでこれを「どうするか」と考えていかない限り、捜査・起訴・裁判ということが起こってくるように思えるのです。(No.7 まさくに 様)

ここでは刑事司法のいろいろな手続き・場面が取り上げられていますが、
警察・検察庁・裁判所はそれぞれの目的や役割が異なり、同じ動きにはなりません。
誰が何を判断している場面かによって、分けて考える必要があると思います。

1.「罰金50万円」は略式起訴かもしれません。
略式手続きの場合は被疑者が争っていないことが前提であり、裁判所はほとんど起訴通りの判決を出しますから、判例としての重みはさほどえもなく、検察官の判断の比重が大きいところです。

2.「書類送検」とは警察が検察庁に事件を送ったというだけのことで、司法としての意識的な判断はそこには見られません。
例えば誰かが告訴や被害届をすれば、警察は捜査をせざるを得ず、自動的に書類送検が行われてしまうので、この当否を論じることは無意味です。

3.「刑事責任を追及することが、本当に必要なのか?」という点では、裁判判決よりも、その前段階で起訴権限を握る検察官の判断のほうが重要です。
しかし、起訴するかしないかは、裁判判決とは異なり、さまざまな要素が考慮されますので、個別性が大きいのです。
例えば、犯罪行為があったことが証拠上明らかであるとして、民事上示談ができれば不起訴処分もあり得ますが、一旦起訴されてしまえば裁判判決としては有罪は有罪でしかなく、無罪はあり得ません。
つまり、検察官の判断は、裁判官の判断より予測しにくいという意味で、確実性はより少ないことになります。

>ヤブ医師様

 両下肢が同時に腫れるのは下肢深部静脈血栓症の典型的な症状でしょうか?確かに術後長期臥床で生じる深部静脈血栓症の場合には両下肢同時はありますし、私自身経験もあります。しかし、

>比較的お元気で認知症もなく、歩行もしっかりしている方でした。

の両下肢が同時に潅流障害で腫れたとすると、下大静脈レベルに閉塞機転があると考える方が自然ではないかと思います。その場合は超音波で疑われる両下肢の静脈血栓は二次性ということになります。

 ご指摘の通りです。実は話を分かりやすくするために省いていますが、腹部〜下肢腹部CTは行っています。下大静脈の閉塞は認めません。あと、これも説明不足ですが、この方の下肢腫脹は膝下に顕著で、大腿部の腫脹がほとんどありません。エコー上では右は膝窩静脈、左はHunter管部の大腿静脈で閉塞してました。CT上もエコー上も、他の明瞭な閉塞部位は見いだせなかったです。おそらくDVI(深部静脈不全症)が元々あり、静脈flowが悪かったところに出来た血栓だと思います。
 厳密に言えば下肢静脈造影が必要なのは血栓摘除術を視野に入れている場合です。今回は血栓摘除を視野においていなかったので侵襲の大きい下肢静脈造影を省いたと言うことです。

 で、ここでも考え方の違いが出てくるのですが、仮に二次血栓だとしても私は血栓溶解療法や場合によっては血栓摘除術を行います(下大静脈閉塞がある場合はフィルター留置はしませんが・・・)。慢性腸骨動脈閉塞症などの場合によく見られるのですが、慢性閉塞があって側副血行路が発達しているところに二次血栓が出来ると急激に患肢の腫脹と静脈高血圧を来すことがあります。この場合血栓を溶解(ないし摘除)することで腫脹の消退を早めることが出来ます。

 スレ違いの話題ですが(^ ^;、説明になったでしょうか?

>YUNYUN先生

ご面倒にもかかわらず、素人の世迷言にお答え下さり有難うございます。若干論点のズレといいますか、理解できにくい部分がありますので、もう一度お尋ねさせて頂ければと思います。

はじめに、「医療には不確実な部分が(多く)存在する」というのは医療側も、法曹の方々も共通の理解があるのではないかと思われます。医師の裁量の範囲というものが、小さいとは言えない、ということでもあります。司法における個別の違いや検事・判事の違いということが有り得る、ということもまた、多くの人が理解できるものであると思います。これをゼロにせよ、と申し上げているわけではなく、ある範囲内に収まる程度であるべきではないか、と申し上げているのです。ある範囲とは、医療裁判などでもよく論点となる「医療水準」と似ていて、何らかの判断基準で見た場合にそれ以上の水準が保たれている、という意味です。全部の判決がそうだということではなく、一部にはそういう判決(事件)があるのではありませんか、ということです。司法では、これを誰がどのように評価して是正しているのでしょうか、という問題です。

>私の考えでは、裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない。
従って、結論の違いは事案の違いによる というものです。

先生はこのように述べられておりますので、その根拠をお示し下さればと思います。個人的印象ということならばそれでも構いませんが、仮に裁判で被告医師が行った医療行為について、「私の経験では、これまで90%以上の症例で問題などなかった」と主張してみたところで、それが採用されるというのは殆ど期待できないかもしれません。被告の経験談では、その医療行為の正当性を立証できないのではないでしょうか。よって、個人的印象では裁判官の判断に差はさほど存在しない、ということを立証できていないでありましょう。「同一事件」の判決について、数人程度の母集団ではなく、最低でも100人以上程度で調査した研究があって、その中で「裁判官の判断に差は少ない」といった結論の得られているものがあれば、お示し下されば幸いです。無いのであれば、裁判官の判断には「差が少ない、さほど開かない」といったことを主張することは難しいと思われます。

もう少し追加しますと、医療に存在する不確実性よりも司法制度でのそれが小さい、ということが仮に言えたとして、それは司法の「差が小さい」ということを証明することにはなりません。相対的な評価では、司法の正当性を説明していることにはならないのではないでしょうか。

>略式手続きの場合は被疑者が争っていないことが前提であり、裁判所はほとんど起訴通りの判決を出しますから、判例としての重みはさほどえもなく、検察官の判断の比重が大きいところです。

私も事件について正確な情報を持っていないので、提供できる情報がないのですが、検察官が起訴できたことのお答えにはなっていまいように思われます。略式とか判例の重みなどは、論点には関係ないと思います。検察官が起訴できる、ということは、刑法学上の何らかの理論?とか学説?があるはずであり、起訴に至るべくして至ったのでしょうから、その理屈をお尋ねしているのです。これが他の法曹が容易に説明できないものであるとすれば、検察官は独自の理論を用いて恣意的に摘発起訴したものということでしょうか?理由なきものに裁判官が罰金命令を下すのでしょうか?そうではない訳ですから、当然起訴になるべき理屈というものが存在しているはずです。たとえば窃盗罪として起訴する場合、何かの(教科書的な?)理屈というものが存在しているはずです。それと同様に答えることは可能でありましょう、ということです。検察の判断比重がどうであれ、裁判所はそれを「認めた(同意した)」ということには何ら変わりありません。

論点には関係ない話ですが、一応附言しますと、被疑者が争わないことは、司法の正しさを表すものではありません。富山の冤罪事件では無実であるのに、検察の言い分通りになってしまいました。「罪を認めれば略式にして罰金で済むようにする」といった取引を検察が持ちかけることは実際にあり、事件を争って社会的に甚大な影響を受けるよりも、「金で済むなら払って済ませた方が楽だ」と考えることがあるかもしれません。

私は司法の全部を否定したいのではありません。大多数の裁判では、きちんと行われていることが多いと思っています。それは医療においても同じであろうと思います。紛争事例以外では、大半が間違いなく良い医療が提供されているのです。ただこれは確率的問題なのであって、1億2千万人に良い医療が提供されていても、1200人(0.001%)に問題が発生すれば医療界全体の問題となってしまうことは多々あるのです。

特に医療関係の裁判に関して疑問点が数多くあるのではないか、もしそれが正当でないものを含むなら司法システムとして是正されるべき問題なのであって、個々の裁判官とか検察官とかそういう問題ではないでしょう。そういう「間違いの少ない(減らす)司法システムの構築はどうやっているか」ということを問題意識としています。判決とか事件に関する検証システムというのが果たしてどの程度機能しているのでしょうか、本当にそれらが役立っているのでしょうか、ということです。医療側は司法・行政権力を通じて是正させられてきた面がありますが、司法にはそういう力が働かないのではないでしょうか。働かないなら法曹界の内部的に検証システムを設けるべき・司法側で減らす努力をして欲しい、ということです。現状ではそういうフィードバックシステムが十分働いていないのではないか、ということです。

No.24 まさくに 様

疑問とされる論点が多岐に渡りますので、まず何について議論するかを整理していただいたほうがよいと思われます。

1.裁判判決は、裁判官によってバラツキが大きいか?
私の申すことは「つぶやき」エントリにも記載した通り、経験上の印象に過ぎませんが、
特に刑事裁判の量刑については実証的な研究もなされています。
No.4 モトケン様のおっしゃるように、エントリ「基準検察とその限界」での議論、照会文献はぜひご一読ください。検察官の求刑基準の問題も取り上げられています。

逆にお聞きしますが、まさくに様は、実際に裁判官によって判断にバラツキが大きいと思われますか。「信用しがたい」とおっしゃる根拠は如何?
似たような事件をいくつもご覧になって、裁判官によってずいぶん判断が違うというご経験があったのでしょうか?
一個の特異な判決があったからといって、それで裁判官の判断にはバラツキが多いという結論にはならないと思います。

再度、どこが問題であるかを、具体的にご指摘いただければ幸いです。

2.検察官の起訴便宜主義
> 検察官が起訴できたことのお答えにはなっていまいように思われます(No.24 まさくに さま)

検察官が起訴できることは当然です。
検察官が犯罪が成立すると認め、有罪判決を得られるに足る証拠が揃ったと判断すれば、どんな事件も起訴できるのであり、
起訴便宜主義とは、むしろ、裁量によって「不起訴にもできる」権限と捉えるほうが分かり易いと思います。

抽象的に説明するならば、
医療の現場において発生した望ましくない結果を、業務上過失致死傷罪で起訴するかどうかについては、
医学的に過失や因果関係があると判断されるのであれば(その証拠として医師の意見書があれば)、理論的に起訴は可能であるとしか、言いようがありません。
そして検察官は、結果の深刻さ(死亡か、どのような後遺症が生じたか等)、医療行為の技術的困難性、患者の体質体調が結果に影響したか、民事賠償がなされているか、医師が免許上の行政処分を受けたか、事件の社会的影響などの諸般の事情を考慮して、起訴するか不起訴にするかを判断していると思います。

そこで、このやり方の、具体的にどこが問題であるかを、指摘していただけるとよいと思います。

3.医療裁判への疑問
> 特に医療関係の裁判に関して疑問点が数多くあるのではないか、もしそれが正当でないものを含むなら司法システムとして是正されるべき問題なのであって、個々の裁判官とか検察官とかそういう問題ではないでしょう

具体的に、どういうところが問題でしょうか。

個々の判決については、確定してしまったらそれを覆すことはできません。紛争の最終的な解決力を与えるためには、それ以上争うことを法的に許さないと決めているからです。
(人生においても、やり直せないこと、取り返しの付かない結果というものはあると思いますが。)
裁判の判断の善し悪しは、学者・実務家の批判に晒されます。
裁判官は研究会を行ったり、判例評釈を読んで自ら勉強したりして、次の裁判のために役立てるということはしています。
それは検察官も弁護士も同じです。
医師が症例研究会をするのと、同じことと思います。

このような抽象論は既に過去のエントリで延々と説明されてきたことの繰り返しに過ぎません。
それでもなお納得できないという点を、上げていただければ幸いです。

> No.8 YUNYUN(弁護士)さん

 ほぼ同意ですが、最後の3行については、より正確に言うと

「判例理解として、医療側が敗訴した事件については、似た事件における違う要素を無視して、過大に一般法則を読み取ろうとする(判例の射程距離を長く取ろうとする)」

そして

「医療側が勝訴した事件については、そもそも検討・議論の対象にしない。又は、先例としての意義を可能な限り小さく見積もる(判例としての価値を認めないか、射程距離を短く取ろうとする)」

ということではないかと。

まあ、「実情はともかく、一般の医師が受ける印象というものも大事だ」という御意見は分かりますし、別に上記のような見方、捉え方がいけないとか、悪いとかいうつもりもありません。それも一つの理解でありスタンスでしょうし。

ただ何となく思ったのは、多くの医師の方が「自称医療過誤被害者の求める『真実』というのは、要するに、自分たちに都合のいい『真実』だろう」としばしば揶揄・嘲笑する構図に、よく似ているなあということでございます。

(その割合は不明ですが)一部の医師にとって、判例の射程距離は、法律家がどう説明しようが、医師が敗訴した事案については広く、勝訴した事案については狭くないといけない、そうあって欲しい、そうあるべきだ、ということなのだろうと想像しています。

ところで、医師個人による意見のみならず、医師の団体の声明文ですら、「結果が悪ければ逮捕起訴されるというのでは〜」という決まり文句がしばしば使われますが、それも、同じ心理によるものなのだろうと思っています。この決まり文句が法律的に誤りなのは明白だし、それは少し調べれば、あるいは弁護士に相談すればすぐに判明することです。医師というインテリジェンスの高い集団であれば、説明を聞いて理解できないはずもありません。

にもかかわらず上記のように誤ったスローガンが出る、あるいは修正されないで残っているということは、一部の医師は、「法律家というのは医療行為の結果が悪ければそれだけで責任を負わせるとんでもない連中だ」という「真実」が欲しいということなのでしょう。

繰り返しますが、医療側敗訴の事例についてどのような「感想」「印象」をお持ちになるかは個々人の自由であり、そのような「印象」が「逃散」という現象に何らかの影響を及ぼしているであろうことも否定しません。

ただ、判例の射程距離(その判例が、今後の裁判に及ぼすであろう影響の範囲と程度)は、医師の方が感じる「感想」「印象」とは違いますので、そこは混同しない方がいいというか、専門知識もないのに断定的に言わない方がいいのではないかなあ、という気が。

>No.23 僻地外科医 さん
よ〜くわかりました。有り難うございます。

>No.26 FFFさんのコメント

No.10のコメントとダブりますが、
一体どこまで法律を勉強すれば個々の判例から射程距離を適正に読み取れるようになるんでしょか?
個々の医療機関や医師にとっては、十分に(過大に)長く射程距離を取っていれば、その存在が脅かされることはない訳ですから、射程距離を勉強するインセンティブはありません。医療裁判が何も変わらなくても司法側は困らないし、防衛医療、萎縮医療を行えば医療機関・医師も十分対処可能です。困るのは患者さんでしょうね。

患者さん・マスコミが「防衛医療、萎縮医療はけしからん!」と言えるでしょうか。そう言えたとしても、医師側から「だって結果が良くなければ法的責任を問われますから」と言われた時に患者さん・マスコミは医師側に反論できるでしょうか。できないでしょうね。患者さん・マスコミも射程距離がわからないから反論できないんじゃないでしょうか。そうなると批判の矛先はどこに向かうんでしょうか?

こう考えると司法側のどこかの機関が医師ばかりでなく、患者さん・マスコミにも理解できる程度に射程距離を説明する必要があるんじゃないかと思います(技術的に可能ならば)。

ということで、「結果が悪ければ逮捕起訴されるというのでは〜」という医師の団体の声明文は批判の矛先をかわすためのプロパガンダです。法的に正しくないのはわかっていて、患者・マスコミ向けに言ってます。

>医師個人による意見のみならず、医師の団体の声明文ですら、「結果が悪ければ逮捕起訴されるというのでは〜」という決まり文句

福島大野病院事件をみれば、逮捕前にマスコミへのリークを誘導しながら行われていることは明らかですし、奈良大淀病院もm3などで当該医師の過失がなかったことがブログ等で討論されていなければ、逮捕/起訴がなかったとは言いきれないでしょう?

上記の条件に付け加えるとすれば、
「(マスコミが騒ぎだし、一般人の煽動に成功した時)結果が悪ければ逮捕起訴されるというのでは〜」
ということになるでしょうか?

青戸病院の件にしても、もし本人たちが「自分達は懸命に努力し治療を目指していた」と徹頭徹尾主張していたら、刑事で責任追及ができたかどうか?
この件での刑事有罪も、本人たちの初期の自白による影響が大きいでしょうに。
民事の係争をやりやすくするために、刑事をちらつかせる弁護活動もありえることを、奈良大淀病院事件は教えてくれています。

民事に限って言えば、
「結果が悪ければ、過失に関係なく賠償を求められる」
危険性が高まって来ているのも確かです。
私の地域でも、Ambulance Chaser(救急車の後を追いかける弁護士)の話が出てきています。手術を受けた患者のところに、「問題ありませんか?困っていませんか?」というダイレクトメールが届くのです。
院長はどこから手術予定が漏れているのか?!と怒ってました。

実際、応訴負担だけで、被告側は賠償と同じ負の効果があります。
応訴負担と和解金で、和解の方が安ければ和解の方が得策でしょうが、和解金のお金の出どころは、詰まるところ診療報酬です。

頑張って持ち出しになるような医療を、特に民間病院で行えというのは、持続性に欠けるし、士気も上がるはずないでしょう。医療倫理の問題でもありません。患者モラルの問題であり、数パーセントの問題患者が混じるだけで他の大勢のための医療に支障が起こります
もう、分水嶺は越えました。

数パーセントの問題患者を事前に見分ける方法がないとすると、取るべき行動は、問題になりそうな対象を全て避けることです。
降り掛かる火の粉を避けることは、医療者にも許されて当然の行動パターンだと思いますが?

過保護とも思える法的保護を医療に与えなければ、回復不能になると私は見ています。
一部患者の権利を制限しないで、安く早く内容のある治療を提供することが可能かどうか?
もはや、医療側には妥協余地は残されてません。

No.29 Med_Law先生

>私の地域でも、Ambulance Chaser(救急車の後を追いかける弁護士)の話が出てきています。手術を受けた患者のところに、「問題ありませんか?困っていませんか?」というダイレクトメールが届くのです。

 この話は、「現時点では」弁護士としてとても信じられませんが、私の知らないところでことが進んでいるかもしれません。
 救急車の後を追っかけるのは、被害にあった方が現にいるので、弁護士としてのスタンスで非難されることはあっても、その他のところで問題になることはないように思えます(だからいいんだ、と言っているわけではありません)。
 ただ、高度の秘密事項である手術の有無について情報を収集し、かつ、被施術者に対して、損害賠償の勧誘を求めることは、「現時点では」ちょっと考えられません。

 この手のダイレクトメールは、多重債務者に対し、非弁提携弁護士(実質的には、非弁護士に雇われて債務整理を弁護士以外の人物が多数・定型的に行う)名で送られてくることはあります。このDMにしても、不当な手段で収集した多重債務者名簿をもとに(一度多重債務者になった人はまた、同じように借金を重ねることが多い)送られるのであって、そこには一定の経済的合理性があります。
 しかし、上記の話には、不確定要素が多く、また、被施術者の個人名・住所を特定するのは、多重債務者の名簿を手に入れる以上の大変な手間(おそらく正当な手段でない取得方法で)をかけても、ほとんどが「はずれ」となる可能性が高いので、DMまで送付するだけのペイはしないと思われます。

 なにより、不当な手段を使ってまで情報を取得してまでDMを被施術者に送るような(私から見れば)恥ずべき方法でセールスを行う弁護士が「現時点で」いるとはとても思えないのです。

 この情報について、おわかりになる範囲内(例えば、DMの差出人は弁護士であったのか、その内容は「手術について問題がありましたか?何か不満があればご相談に応じます」などの文言の記載があったのか)でお教え下さい。同じ弁護士として非常に気になります。

#くどいように「現時点では」と限定していますが、これは、PINE先生が何度がコメントされていましたように、「国の政策により」弁護士人口が爆発的に増えて、これからは食うに困る弁護士が多数出てきます。そうなると、救急車の後を追うだけでなく、上記のようなセールス方法を行う弁護士がいないとは断言できなくなるからです。 

No.30 nuki 先生

弁護士は御用聞きのように仕事を貰いに行ってはいけないと思っていましたが、(あるいは訴訟を唆してはいけないでしょうか、)何れにせよ勘違いですか。
「Ambulance Chaser」は日本でも倫理的にも法的にもありうることなのでしょうか?

No.30匿名様

 弁護士を規律する法律である弁護士法では、営業「方法」に関する禁止事項は、一般条項(一般的に弁護士の「心得」を述べたもの。「品位を保持する」「人格の陶冶に努める」など)を除いて特にありません。したがって、「救急車の後を追う」という営業方法について、具体的に禁止されてはいません(但し、一般条項を根拠として、「品位を損なう営業方法である」として、弁護士法違反であるとされる可能性はあります)。
 倫理規定については、例えば、日本弁護士連合会の「職務基本規定」の第10条においては、『弁護士は、品位を損なう方法により事件の依頼をうけてはならない』とあります。
「救急車の後を追う」が「品位を損なう方法」かどうかで、倫理的に許されるかどうかが決まると思います。
 
 一昔前だったら、このような依頼の受け方は「品位を損なう方法」であるというのが、一般的な見方であったと思われます。しかし、現在はどうでしょう?
 もちろん、救急車の無線を不正に傍受して救急車の行き先を調査するような不当な方法をとった場合は、「品位を損なう方法」と現在でも考えられるのかもしれません。
 しかし、弁護士の広告が解禁され、弁護士が営業を行うことも基本的に自由になった(つい10年ほどまえまでは、弁護士が営業行為を行うためには、所属弁護士会の許可が必要だったのです)現在では、問題にされない可能性が高いのではないかというのが、私の考えです(もちろん、異論はたくさん出てくると思います)。

No.26 FFFさん

「判例理解として、医療側が敗訴した事件については、似た事件における違う要素を無視して、過大に一般法則を読み取ろうとする(判例の射程距離を長く取ろうとする)」

そして

「医療側が勝訴した事件については、そもそも検討・議論の対象にしない。又は、先例としての意義を可能な限り小さく見積もる(判例としての価値を認めないか、射程距離を短く取ろうとする)」

ということではないかと。
人は最悪の事態を想定して行動したがるのだそうです。これ何とかの法則という名前があるのですが忘れました。要するに、これは防衛本能に基づく一般的な行動なのですよ。

ただ何となく思ったのは、多くの医師の方が「自称医療過誤被害者の求める『真実』というのは、要するに、自分たちに都合のいい『真実』だろう」としばしば揶揄・嘲笑する構図に、よく似ているなあということでございます。

医師が言うのは「自分たちに都合のいい真実だろう」というよりはむしろ「自分たちに都合のいい真実=医師は誤りを認めて謝罪しろ」ということなのでしょう。それにしてもなぜ上記の行動が、医師たちが揶揄嘲笑する構図に似ているのでしょうか。

>なぜ上記の行動が、医師たちが揶揄嘲笑する構図に似ているのでしょうか。

 遺族側が主張する「真実」 → 「過失がないのになぜ死んだ。」

 医師側が主張する「司法判断」 → 「結果が悪ければ罰せられる。」

 ということかと。

過失がないのに死ぬのは自然法則。であるならば揶揄嘲笑することもあるでしょう。
結果が悪ければ罰せられることがあるのは司法判断。であるならば防衛本能を発揮せざるを得ないでしょう。

 結果が悪いというだけでは罰せられないのが司法判断(の論理)。

 何度説明されてもこれが理解できないというのであれば、揶揄嘲笑されることもあるでしょう。

 語呂合わせですので、失礼の点はご容赦。

> No.28 元ライダーさん

昨今の修習生と話をしていると、司法試験に合格した程度ではダメでしょうね。然るべき経験を有する弁護士に聞いて頂くか、訴訟法の基礎を理解した上で調査官が執筆した判例解説を読むか(最高裁判例だけですが)すれば、かなり正確に把握できるかとは思います。

一々そんなことやってられないというのは、そのとおりです。正確な情報に、より低いコストでアクセスできる方法が用意されるべきとも思います。

後段の「プロパガンダ」については、ずいぶん率直なことを言って頂いたなあと。私も、中にはそういう要素(正確な表現でないと分かりつつ言っている部分)があるだろうとは思いつつ、自分が書くとカドが立つと思って黙ってたのですが(笑)。

No.36 モトケン先生

結果が悪いというだけで罰せられるなんて、
お言葉ですが、私は一言もそんなこと言ってませんよ。罰せられるということの前提条件の一つとして、結果が悪いということを述べたまでです。

結果が悪くても、過失がなければ、あるいは過失との因果関係がなければ、刑事での罰にはならないという理解で正しいのですか?

私が思いますに、「説明しなくてもわかるだろう」ということは誤りです。
「何度説明してもわからない」という憤懣はわかりますが、それと「説明は何回もしたのでもうやらない」ということは別です。医師はくどいくらい説明する人はしています。一方、法曹の方の一部が法の説明自体をしない(こんな基本も知らないのかという態度)ことが多く見受けられることは残念です。「専門知識もないのに」という言葉も残念ですね。単なる感情的な反発に対して嫌気が差すことは理解できますが、他人の無知に対して解説自体をしないこと(もしくはimplyのみで示すこと)は適切とは思えません。

教えてくれくれという態度は慎むべきでしょうが、高踏的な態度は何も生み出さないと思います。知識を求めるなら無料ではしかねるというのならわかります。本を買うべきだというならそれはそれでいいでしょう。

医師は医師の知識はダダ漏れで教えていますが、知識を授けることで報酬を得る職業ではないので(本当はあればいいのですが病状説明はすべて無償です)違うかもしれません。

> No.33 うらぶれ内科さん

えーとですね。先のコメントで申し上げたとおり、別に裁判例に対してどんな印象を持とうが自由ですし、「最悪の事態」を念頭に置いて行動するのも自由です。それを批判するつもりはサラサラありません。

ただ、裁判例の射程距離(将来の訴訟実務にどれだけの影響を与えるか、その範囲と程度)について、軽々に断定的なことは言わない方がいいのではないかなと。この点に関する医師の皆さんの見解、これまで見た限りでは、ほとんど間違ってますし。

60キロ制限の一般道を時速61キロで走った場合、警察に逮捕され、20日間勾留され、起訴されて、懲役6か月の実刑となる可能性は、限りなく低いけど、ゼロではありません。その可能性、最悪の事態を念頭に置いて、車を運転しないという選択をすることは個人の自由です。

しかしながら、「高速道路を61キロで走っても半年間服役させられるぞ! 司法権力というのは恐ろしい!」と叫ぶのは、間違っている。60キロ制限というルールは高速道路に適用されませんので。

それだけのことです。

もちろん、間違いを承知で、政治的な意図から宣伝活動をするというのであれば、それはそれで個人の自由ですが。現に、このブログの常連医師にも、そういう考えの方が複数いるようですし。

なお、このブログのパターンでは、「制限速度1キロオーバーで検挙される危険性は極めて低いけど、医療行為が違法とされる危険性はもっと高いし、予測もつかないじゃないか」という反論が来ることになっています(笑)。疲れるので再反論はしません・・・・。

>No.38 うらぶれ内科さん

 舌足らずで申し訳ありません。
 うらぶれ内科さんがそう言ったという趣旨ではありません。
 医師の中にそういう人がいることからFFFさんのコメントを私なりに説明したものです。
 例えば、ある町医者さんが「でもそれって、結果が悪ければ罰するよってことでは?」と言っています。


>No.39 元内科医さん

>結果が悪くても、過失がなければ、あるいは過失との因果関係がなければ、刑事での罰にはならないという理解で正しいのですか?

 正しいです。

>私が思いますに、「説明しなくてもわかるだろう」ということは誤りです。

 誰かがそんなことを言いましたか?
 この問題については、司法側からすでに何度も説明がなされているはずです。
 私の印象を率直に言えば、これまでさんざん説明されています。

 今日、別のエントリでコメントしたことですが

 とりあえずキーワード検索で「過失」のキーワードなどで検索してもらえませんか。
 そして弁護士のコメントをいくつか拾い読みしてみてください。

No.40 FFFさん

論点が違います。

No.33にあげた第一ブロックと第二ブロックの内容の構図上の類似点について質問したんですよ。モトケン先生から返答をいただいてますが、しかしこのブロックの中には結果が悪ければ罰せられるなどという表現はなく、またFFFさんは明らかにこれら二つのブロックの内容において、医師たちが揶揄嘲笑する構図に似ているとおっしゃっているわけです。

モトケン先生

ご趣旨は了解いたしました。

>No.42 うらぶれ内科さん

 まずは、ご了解感謝します。

 私が横から口を出すとより混乱しそうですが、混乱の種を蒔いてしまいましたので補足します。

 患者遺族側が自分の主張に都合がいいように論理を歪曲するのも(ex.過失がなければなぜ死んだ。死んだのは医師に過失があったからだ。)、医療側が自分たちの主張、つまり医療崩壊は司法のトンデモ判決のせいだ、という主張に都合がいいように、医療側に不利な結果になった判決の射程距離を最大限に拡張するのも、構図的には同じだと思います。

 そして、「結果が悪ければ罰せられる」という認識は、射程距離拡張の延長線上にある(上記遺族側の論理に匹敵する)判決理由の歪曲です。

 つまり、「過失がなければなぜ死んだ。」という遺族が揶揄嘲笑されるのであれば、医療側にもそういう人がおられますよ、ということです。

>YUNYUN先生

お答えが遅れました。時間が取れてなかったもので。質問の意図が伝わりにくくて申し訳ありません。一応、No.12のコメントには質問を記事に書いた旨記載しましたが、お気づきになって頂けなかったようなので、具体的に簡単な2点だけに絞ります。もしもお時間等がある時にでもお答え頂ければ幸いです。

(欸鮖媾産師看護師法第30条違反で略式起訴された事件の説明
医療裁判において判断が異なる結果となっている事件がある
=裁判官の判断が収斂していると言えるか
以上2点です。

補足を書いておきます。例として、「Xがレストランで食事中、所持していた携帯電話の充電器を店舗のコンセントに無断でつなぎ、自分の所有する携帯電話の充電を行った。この時に刑法上の責任は問われるか」ということを考えるものとします。私が弁護士の方にこんな説明をするのは恐縮なのですが、一応何を求めているのか分り易いのではないかと思いますので。
刑法上では、第245条規定の「この章の罪については、電気は、財物とみなす。」とのことですので、電気と言えども窃盗が成立しうると考えられ、同235条の「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」との規定より、Xの行った行為(無断で携帯電話の充電を行ったこと)については、窃盗罪が成立しているものと考えられるでありましょう(ですよね?素人判断で申し訳ありませんが)。これと同じく、「看護師に内診行為を行わせる」という指示を行った医師においては、刑事罰を受けるべき理由というものがありましょう。それをお尋ねしているのです。携帯電話の充電事件を起訴するか否かというのは、検察官の裁量ということであっても(起訴されないことの方が多いように思います)、多くの人々に理解されうるものです。起訴便宜主義について答えて欲しいわけではございません。このような携帯電話の充電事件は、事件が同一ではなくとも類似事件においては「同じような解釈が成立」しており、毎回解釈が異なることは殆どないように思えます。これと同様な説明が、「内診行為」事件についても可能なはずです、ということを申し上げております。

携帯電話の充電が刑事上の責任を問われることがあるとしても、特別に刑法とか法学的な理論などを知りえない一般人において、ごく普通の倫理・常識に従って行動するのであれば、殆どの場合に刑事罰を受けることは回避できます、ということを言っているのです。ある医療行為について刑事罰を受けるということになれば、医療従事者が殆どの場合に回避できるとも言えず、「内診行為」のように甚大な影響力を持つことはあるのです。

△砲弔い討蓮具体的なものと思ったのですが、判決文が探せていませんので、報道からしか判りません。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/17473f2d8408b80ba975d7ccdc29a3c9
高裁逆転判決ということですので、判断は異なることがある、ということは言えましょう。この1例をもって「判断が収斂していない」とは言えないのは当然ですが、具体的な反例ではあります。医療に関する裁判の話をしておりますので、他の刑事事件などにおいて「量刑・判断が一致している」ということをお示し頂いても、論点としては適切ではないでしょう(何度もコメントに書いておりますが、一応刑事事件においても、「古紙持ち去り」に関する事件では有罪と無罪がバラバラですので、刑事事件においても解釈・判断は一致するとも言えないでありましょう)。医療関連の裁判でどの程度の逆転判決例があるのか知らないのですが、9割以上は同一判断であるといった統計的数字などがあるのであれば、それはそれで意味のあるものでしょう。私の「印象として、判断にはバラツキがある」という意見を聞いてみたところで、何らの効果もないことは明らかでありましょう。「裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない」ということの主張側はYUNYUN先生ですので、説明は先生がなさるものなのではないでしょうか。私に「信用しがたいという根拠は如何」ということを求め、それを私が立証するべきものではないと思います。参考までに、No.12の記事に示した記事中には、判決が疑問であるという例を挙げております。

>裁判の判断の善し悪しは、学者・実務家の批判に晒されます。
>裁判官は研究会を行ったり、判例評釈を読んで自ら勉強したりして、次の裁判のために役立てるということはしています。
>それは検察官も弁護士も同じです。
>医師が症例研究会をするのと、同じことと思います。

これについては、ご苦労さまです有り難いことです、と本心で思いますけれども、厳しい言い方をしますと当たり前であるようにも思えます。自ら勉強というのは、業務を遂行するに当たり必要不可欠なことであって、それを殊更「自ら研鑽・努力しているのだから」これを評価して欲しい、などということは、裁判の結果・水準には関係のないことです。医療裁判において、相当の研鑽を積んできた医師たちといえども「結果に問題があった、過失であった」ということになるわけですから(どれほど努力をしてきたか、というのは過失の有無にはほぼ無関係)、裁判官や検察官においても「正当な結果」というものが求められて当然でありましょう。学者・実務家の批判に晒されるとして、刑事責任を負わされたりする訳ではないですし、損害賠償請求を個人的に求められたりはしません。医師の症例検討(内部的にも、学会等の外部的にも)で厳しい批判を受けたり相互に研鑽することは、「裁判で裁かれること」と全く違うものであります。法曹の方々が過誤があった時や結果が悪い場合に、「裁判で裁かれる」ということはありますでしょうか?学者や実務家の批判に晒された結果、裁判官を首になった方というのが現実に存在しているのでしょうか?国家権力に裏打ちされた強い外力は、裁判官や検察官には働くことなどないでありましょう。そもそも司法と医療とを同列に語る必要性などは感じておりません。司法は司法です。そうであるが故に、「批判に晒される」などという形だけの話ではなく、システムとして構築するべきです、と申し上げているのです。

無駄に長くなってしまいましたが、,鉢△砲弔い討里澆任垢里如下の方のことは捨て置いて下さい。

>No.37 FFF さん
>正確な情報に、より低いコストでアクセスできる方法が用意されるべきとも思います。

ご理解ありがとうございます。この点で医療側と司法側とで協力作業できないものかと思ってます。
※現状では日本医師会の顧問弁護士さんも射程距離を長く取っている、あるいは長く取るよう誤解される表現をしているフシがあります。公式見解としてはそう言わざるを得ないのかもしれません。ひとつの例として、尼崎脱線事故での医療現場における個人情報取り扱いの混乱もその影響があるのではないかと個人的には思っています。

>後段の「プロパガンダ」については、ずいぶん率直なことを言って頂いたなあと。

まずかったかなぁ(^^;

>No.42 うらぶれ内科さん

私なりの理解ですが
FFFさんの言う、医師たちにとって「自分たちに都合のいい真実」というのは

判例の射程距離は、法律家がどう説明しようが、医師が敗訴した事案については広く、勝訴した事案については狭くないといけない、そうあって欲しい、そうあるべきだ
ということで、
司法のことをあれこれ批判するのに「都合のいい真実」ということで理解しました。
(国語の試験問題の答え合わせみたいですね(^^)

医師が一般行動原理に従って敗訴した判例の射程距離を長くとり、そうでないものは短く取るというのは仕方がないことだろうと思います。もちろん極論は困りますが。で、この行動原理を克服するのは、やはり正確な情報なんだろうと思います。

> モトケンさん

 適切なフォローありがとうございます。

 以下付言。

 モトケンさんやYUNYUNさんらから、法律の仕組みに関する基本的なレクチャーは、幾度も、極めて粘り強く、分かりやすい形でなされたと認識しております。特に過失責任主義について。私も、普段の仕事で対立する当事者からすら言われない表現(テロリストとかチンピラの片棒担ぎとかニセ弁護士とか)で罵倒されつつも、私なりに説明をした時期もございます。

 で、その結果どうなったかと言うと、ブログの常連医師が「事実はどうあれ、患者側弁護士=悪徳というキャンペーンをするべきだ」と仰り、これをたしなめる医師はおらず、むしろ、別の常連医師がそれに熱烈な賛意を示す。別の常連医師は、「要するに結果が悪ければ責任を負わせるってことですよね」と繰り返す。

 ようやく私も反省というか、勘違いに気付きまして。その割合はともかく、一部の医師は、真相はどうあれ「司法関係者、特に患者側弁護士は悪徳であって、医師を痛めつけるトンデモな連中だ」という「真実」を知りたいのに、自分ときたら、それを妨害するようなことばかり言ってきたなあと。これでは、罵声を浴びるのも至極当然でございます。

 ここに伏してお詫び申し上げる次第です。上記「キャンペーン」の成功と発展をお祈りしております。

>FFFさん

ブログの常連医師が「事実はどうあれ、患者側弁護士=悪徳というキャンペーンをするべきだ」と仰り、これをたしなめる医師はおらず、むしろ、別の常連医師がそれに熱烈な賛意を示す。

最近は上記のようなキャンペーンはあまり見かけないように思うのですが

No.45 まさくに 様

まさくに様のブログ
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/cae8c9615b7bddd0d3978c3ef32a6906
のほうも拝読いたしましたが、
どうも、私の頭が悪いのか、
まさくに様の問題意識、特にそのこととエントリ表題「司法の不確実性」の関連性が、まだ理解できておりません。
それゆえ、あまり噛み合わない話になるかもしれませんが、一応返答いたします。

> (欸鮖媾産師看護師法第30条違反で略式起訴された事件の説明

例に挙げていただいた電気窃盗の事案と同様に、形式的にどの法文に該当するかということでは、
まさくに様のブログに書かれている通り「保助看師法第30条違反」、つまり、助産師でなければ業としては行えない「助産行為」を、助産師でない看護師が行ったことが犯罪であり、それをやらせた医師は教唆罪として処罰されるという趣旨です。なお、医師が自ら助産行為をすることは犯罪とはされません。
ここで、法解釈上問題となるところは、
医師が看護師に指示監督して行わせればよいか、よいとすればその指示監督の具体的内容はどのようなものでなければならないか、
また、本件で看護師が行った内診は、助産師に独占される「助産行為」に当たるといえるか、つまり「内診」という手技は婦人科治療でも妊娠中の検診でも行われますが、それと異なる「助産に当たる内診」とはどのようなものか、といった点です。
問題にされている事案の詳細が分かりませんので推定の域を出ませんが、これを起訴した検察庁や有罪判決を出した裁判所の考え方は、
・医師が指示監督してもダメor本件医師の監督の仕方が不十分であった
・本件看護師が行った内診は「助産」に当たるものであった

「刑事罰を受けるべき理由」とおっしゃる意味がよくわかりませんが、立法趣旨、ということでしたら、
 助産はある程度危険性を持った行為であり、妊娠母体や胎児の安全を守るためには、正規の教育を受けて技能を認められた有資格者でなければ、業として行わせることはできない。よって無資格者の助産行為を禁圧するために刑罰を定めた。 
ということであると思います。医師が除外されている理由は、医師ならば助産師ではなくても正しい助産の技法を身につけており、助産行為をさせても危険がないためです。
従って、本件事案を起訴し有罪とした実質的な理由は、本件看護師の内診行為がその態様からして、妊娠母体や胎児に危険をもたらすと判断されたためでしょう。
実質的に危険のない態様であったなら、「起訴猶予」との判断もあり得たと思われます。

これで、まさくに様が求められる回答になっているでしょうか?
そして、この件が「司法の不確実性」とどう結びつくのか、再度、問題提起をしていただけると幸いです。

-----
> 医療裁判において判断が異なる結果となっている事件がある

誤解があると思いますが。
一審と控訴審とで結論が異なることは、「判例のバラツキ」に当たりません。
控訴審段階で主張・証拠が追加されることによって、もはや証拠関係が同じ「同一事件」とは言えなくなっているからです。
控訴審で主張や証拠を追加したり、裁判所が新たな証拠関係に基づいて異なる判断をすることを許さないならば、三審制をとる意味がありません。

-----
> 法曹の方々が過誤があった時や結果が悪い場合に、「裁判で裁かれる」ということはありますでしょうか?

裁判官が誤判をした時は法的責任を問われるべきであり、「誤判罪」や裁判官個人が損害賠償責任を負うという制度を創設して、責任を追及すべきである、というご意見でしょうか?
これについては、その方法は誤判を防ぐ効果は少なく、また「誤判であること」の立証は大変困難であるために責任追及可能性は極めて少ない。そしてそのような方法をとるならば、裁判官を志す者が居なくなり裁判制度が成り立たないから、メリットに比してデメリットが大きすぎ社会政策上とることができないというのが、法曹側の意見です。
詳しくは過去のエントリを検索してください。

なお、既に指摘されていることですが、
裁判結果が不当であることの原因は、裁判官の判断誤りにのみ帰されるものではありませんので、裁判結果が不適当であることをもって、直ちに誤判とは認定できません。

>No.48 FFF さん
>真相はどうあれ「司法関係者、特に患者側弁護士は悪徳であって、医師を痛めつけるトンデモな連中だ」という「真実」を知りたい

私の答案は不正解でしたか。
改めて、国語落第でした。

>YUNYUN先生

度々のご回答有難うございます。
「内診行為」問題では、ご指摘のように「本件看護師が行った内診は「助産」に当たるものであった」ということがポイントでありまして、これは解釈が分かれるものであります。しかも、内診行為が禁止すべき行為かどうかは法律ではない厚生労働省通知によって定められたものであり、通知(H14と16年)が出されるはるか以前から看護師の業務として実質的に広く行われてきたものです。要するに「条文から判らない」ということです。本当に9割以上の法曹の方々が、(通知の存在なしに)この条文規定だけから同様の判断ができるか、ということです。電気の窃盗(笑)ならば大多数(ほぼ100%?)の法曹の方が同じ判断を下すのではないか、と。それとは、異なっているのではありませんか、という意図でした。元々の30条の立法主旨としては、無資格者が助産院を行うとかニセ医者同様にニセ助産師としての活動を禁止するものが30条規定なのではないかと思います。看護師の点滴注射にしても、昔から広く行われていたものの、法的には特別に規定があるものではありません。解釈次第で、「衛生上危害を生ずるおそれ」のある行為として禁止することもできます。刑事罰を与える以上、本来的には法の条文上で明確に規定されているべきであって、「不明瞭な部分」について刑事罰をもって臨むというのが問題でありましょう、ということです。ただ、その後の同様の事件では起訴猶予となっているので、検察側にもそういった実態が伝わったということはあるのではないかと思います。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5a0be20f097d4555685b61375856f995
ここに幾つか紹介しております。
社会的に影響の大きいものについては、十分検討されるべきものであると思うのです。

>控訴審段階で主張・証拠が追加されることによって、もはや証拠関係が同じ「同一事件」とは言えなくなっているからです。

判決文がないので何とも言えないのですが、報道からは「個々の麻酔薬は過剰投与ではないが、局所麻酔は単独使用の場合の限度量が投与され、総量が最小になるよう努める注意義務を担当医は怠った。」という過失によって「心停止の原因」と結論付けているようですので、特別に新たな証拠が追加されたことによって判断が変わったとは考え難いでありましょう。下級審において、既に証拠として一切の医療記録が揃っていたはずですので、薬剤の使用量などについて判らなかったとは考え難いでありましょう。ですので、薬剤に対する判断が高裁において変わったのではないかと推測しています。

「必要最小量」を決定できるのであれば、裁判官が行えるはずですけれども、それは根本的に無理な話なのです。これと同様の理屈を適用しようと思えば他の裁判でもいくらでも可能になりましょう。一般的に使用される量と比較して「過量であった」ということを主張することは可能でありますが、必要最小量ではなかった、という論法が通用するとなれば大変なことになります。どんな場合でも、これを主張することができます。

この事件の判決について、下級審と高裁の判断の違いが法学関係とか判例研究とかで何か取り上げられたりしているのでしょうか。研究の結果、「地裁判決は○○の点で不備があった、高裁判決では正しい判断がなされた」といった評価は行われたりしているのでありましょうか。もしも何ら評価が下されていないのであれば、それは問題ではないですか、ということです。

私は裁判官を罰してくれとか、検察官を個人的に追及する制度を作ってくれ、とか願っているのではありません。本来、その特殊な職務上の権限を行使するのですから、独立した地位が保全されていなければ行政権力などには対抗できません。医療においては、裁判で刑事・民事責任を負わされることになるわけですから、「司法制度とは違いますよね」ということを申し上げているのです。司法は「医療とは違って」罰を受けることはないのですから、「高い水準を求められるのは当然である」ということを申し上げているのです。では、その高い水準を担保しているシステムとは何でしょうか?ということです。私個人としては、専門家同士の批判に晒されることであると思いますし(私のような一般素人が何か言っても意味がないので)、それは繰り返し行って、積み上げて行かねばならないでありましょう、ということです。実際の裁判の中で、判決文の中で、試されては困る、ということでもあります。

裁判所だけの問題ではなく、被告となる医療側とか鑑定書の問題といったことがあることは承知しておりますし、ご指摘自体は納得できるものでありますので、何でもかんでも裁判所が悪いんだ、と思っているのではないのです。そうではなくて、「この判決文のコレコレがおかしいのではないか、判断に問題があったのではないか」というような批判的意見というものが、法曹の中から多数出てくるようになっていなければならないはずではないか、ということであり、そういったシステムになっているのか、ということです。何度も書いていますが、「古紙持ち去り」関連の事件について、何故無罪有罪が分かれているのか、何かの理由はあるのでしょうか。判決を出す前に、多くの裁判官とか法曹同士で十分検討を行い、ある程度の統一的見解を定めることがあってもいいのではないかとも思えます。それとも、最初の事件で判決が出された後で、本当に深く検討されているならば、その後は当該判決が妥当であるというものならほぼそれと同じ判決が出るのであるし、当該判決が不適切であるといった評価が大勢なのであれば逆の判決に収斂していくのではないでしょうか。しかし、かなりの判決数(13件くらいでしたか)が出ているにも関わらず、依然としてバラバラしているように思われますが。

司法において、不確実性を小さくするシステムというものが機能しているのであれば、このような事態を生じないのではないか、と思います。

>まさくに様

医療においては
診断・治療とは個々の患者の年齢・体力・全身状態・既往症・局所の症状などを複合的に考えて最も「バランスの良い方法」を手探りで見つけ出す行為
である。

とNo.15のレスでコメントしました。より補足すればさらにこれに、家庭環境・社会環境も考慮して・・・と付け加えるとより良い医療と言うことになります。

ここでこの言葉を置き換えてみましょう
司法において
裁判・判決とは個々の事例において提示された証拠、過去の判例、当該事件における被害の度合い(医学なら現症?)等を複合的に判断してもっとも社会的に見てバランスの良い判断を下す行為
かな・・・と(司法関係の方々、間違っていたらご指摘を)

で、ここで引用

何度も書いていますが、「古紙持ち去り」関連の事件について、何故無罪有罪が分かれているのか、何かの理由はあるのでしょうか。〜(中略)〜しかし、かなりの判決数(13件くらいでしたか)が出ているにも関わらず、依然としてバラバラしているように思われますが。

 まさくに様は個々の判例について判決文全文を精査し、各証拠にも当たってバラバラしているのはおかしいとのご判断でしょうか?
 医療訴訟でも「アナフィラキシー判決」など当然同じ判決でもおかしくない事例は多いですが、個々の判決文に当たると、ここが違うのね・・・と言う部分が必ずあります(もちろん、判決文だけからは明らかにこれは変だろ・・・と言う判決もありますが)。

 これが私がNo.20で
医療においても「事前の予測可能性および類似症例の手技・診断の適用」は司法と同程度に確実性がない、と言うのが私の考えになります。
と書いた所以です。

医療でも司法でも「客」です。

>まさくに様

司法の不確実性は低減させて欲しいと、私も思います。また、専門性の高い業務の水準の確保には、専門家相互の馴れ合いでない評価が不可欠とのお考えにも共感します(司法に限らず、ですが)。裁判外の審判制度の創設等、まさくに様のご意見には賛成するところが多くあります。
その上で、少し申し上げます。

No.52のコメントで、

実際の裁判の中で、判決文の中で、試されては困る

とありますが、司法にそれを求めるのは酷ではありませんか。少なくとも裁判所には。
全ての事象をあらかじめ条文に盛り込むことは不可能です。立法の段階で不明瞭な点を無くすよう努め、より柔軟に対応できるであろう政令で詳細を定めておき、さらには根拠が私には不明な通達が出されたとしても、なお「条文解釈」がついてまわります。個別通達や個別回答に基づく裁量行政ははやりませんし、「電気は、財物とみなす(刑法245)」のような手当がなされないことを立法の怠慢と非難することは可能でも、現状の条文に基づいて司法判断を重ねることは、不確実性を小さくしていく過程であると考えます。

かなりの判決数(13件くらいでしたか)が出ているにも関わらず、依然としてバラバラしている

とのご指摘ですが、事件の個別性を検討していない私には13件は十分な母数とは思えません。
もちろん、収斂していく「過程」で不本意な判決を受けてしまうことがあるのは残念な限りです。しかし、それを否定してしまうのは、治療ガイドラインが策定されていない段階で治療のばらつきを否定するようなものではないでしょうか。(素人がいいかげんに「同じようなもの」と判断するな、ということであれば引っ込めます。)

No.54で「栗早」として投稿した者です。
ごめんなさい。属性の分かる名前にするべきでした。

栗早(素人)
とします。

>僻地外科医先生、栗早(素人)さん

個々の事例毎に違いを生じ得ることを不服としているのではありません。刑事罰を与える以上、「確たる理屈」に基づいて適用されなければならないことは当然でありましょう。そういうことを問題としているのです。古紙持ち去り事件については、以下の記事に書いてみました。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/1b061381ca52a0d16a322ab1f1302382

簡単に申し上げますと、ある裁判官は「条例そのものが違憲である」としており、これは証拠関係の違いとか行為者の問題なんかではなくて、「条例の条文」そのものの問題であります。また、「条例制定権の逸脱」という判断も含まれます。5名の裁判官が同種事件について判断した結果、3名が無罪、2名が有罪としています(容疑者は12名で7名が無罪、5名は有罪)。

犯罪として成立している、ということが、どうしてこれほど分かれるのでしょうか?ということです。尚且つ、判決について検討されているのであれば、最初の1例が出ればその後の判断には統一性が見出せるはずではないかと。刑事罰の適用にあたって、このような不公平が認められてもよいとお考えになる理由というのが私には判りません。

裁判官の判断が収斂している、ということの証明は今のところ見つけられません。逆に、一致しないのではないか、という状況証拠(のようなもの?)は発見できるのですが。

このようなことを実際の裁判の中で試されては困るに決まっています。酷ではないか、というのは、むしろ国民の方なのではないかと思います。仮に医療従事者がこれまで日々業務として行ってきた行為が「それは医師法違反です」と言われて逮捕され、裁判では東京、札幌、沖縄で有罪、大阪、名古屋、京都では無罪、となったとき、自分自身がその有罪判決を受けた身になってみて下さい。社会生活も壊れ、免許も取消、それでハイそうですか、などとは到底言えないと思います。判断にバラツキがある裁判所を責めるのは酷です、などという話ではありません。

医療において、「これまでやったことがなかったから、判らなかった、予見できなかった」などという言い訳が通用しますでしょうか?これまで「この種の裁判をやったことが無かったから」ということで済ませることなど許されない、ということを申し上げているのです。刑事罰を与える以上、実質的に「条文上で明確に規定されるべき」ということであって、法律の条文解釈から容易に導けないものを、処罰するというのは疑問です、ということです。こうしたことは法学的な専門的見地から検討されるべき事柄であるので、それは司法サイドの(法学者も含む)専門家の方々がやらない限り、一般国民からは「どうにもできません」ということです。医療についてならば、裁判で「変えようがある」のです。ところが、司法の考え方や判断というのは、裁判をやって変えられるとかのシロモノではないのですから。誰からも変えようがないのです。

医療と同じなのは、過誤を「ゼロにはできない」ということです。量刑計算を間違えて判決文を書いていることも実際にあるわけですし。ですが、ミスを小さくする、バラツキを小さくするシステムを考えることは可能なはずです、ということを申し上げているのです。そうであるなら、それに見合うシステムを考えて構築して頂ければ有り難いです、ということです。

No.52 まさくに 様
まさくに様の問題意識がだんだん分かってきました。今までズレた回答で、スレを浪費してしまいました。
漠然と、「〜はどうか?」という問いかけより、「〜は---という点で問題があると考えるがどうか?」という訊き方をしていただくほうが、噛み合うと思います。

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> 要するに「条文から判らない」ということです。本当に9割以上の法曹の方々が、(通知の存在なしに)この条文規定だけから同様の判断ができるか、ということです。

罪刑法定主義の原則から、刑罰法規は犯罪か非犯罪かが明確に理解されるものでなければならない。
しかるに、保助看法の規定は意味不明である、という点には私も賛成いたします。
(厚生労働省の通達は、意味を明確にするどころか、よけい混乱を招いているように見えます。)
しかしそれは司法の不確実性をもたらす原因の一つではあっても、司法の責任ではありません。
つまりもともとの条文が日本語として曖昧で多義的な解釈を許すというのは、立法技術がマズイのであって、立法府ないし議院内閣制の下で法案提出権限を有する行政府が、第一義的に対処すべき責任を負います。
司法は判例によって解釈を示すことができますが、判例は具体的な事件が一定数溜まり、それが最高裁まで上げらなければ固まらないものですから、本質的に試行錯誤が多くなってしまうという限界があります。

なお、私はよく調べていないのですが、看護師による内診の事案で、無罪判決は出ていましたっけ?起訴された以上は全て有罪になっているとすれば、司法判断においてはブレはなく統一されていることになります。

なお、内診問題に関して私は、
経営者が助産師または医師でありさえすれば、誰をどのような形で補助に使用してもよいということにはならないと考えています。つまり、行為態様によっては産婦人科病院内の看護師の行為であっても違反が成立すると思います。

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> 特別に新たな証拠が追加されたことによって判断が変わったとは考え難いでありましょう。下級審において、既に証拠として一切の医療記録が揃っていたはず

これは民事訴訟のようですが、そうであればなおさら、控訴審で当事者双方がいかなる主張をしたかが、重要です。
裁判では証拠を出すこととともに、その証拠の意味を説明して裁判官を説得することが大切です。
控訴するにあたっては必ず控訴理由書を提出し、一審判決の判断のどこがおかしいかを指摘します。被控訴人もこれに対抗して答弁書を出します。
医療訴訟においては、新たな医師の意見書を出して、医療記録を分析し正しい読み取り方を説明するという方法もあるでしょう。これは証拠の一種です。
従って、もし仮に新たな証拠の追加が全くなくても、一審と控訴審とでは、当然に別の訴訟資料に基づいて判断がなされるので、控訴審が結論を覆したとしても、必ずしも一審は誤判ではありません。
むしろ、多くの場合は、一審で敗訴したのは、主張の仕方や私的鑑定書の書き方(広い意味での訴訟戦術)が拙かったため裁判官の説得に失敗したのであり、控訴審では挽回したということでしょう。

> 下級審と高裁の判断の違いが法学関係とか判例研究とかで何か取り上げられたりしているのでしょうか

そういう研究は一般的には行われています。
判例研究においては、一審から最高裁まで全部を比較して見るものであり、上級審で判断が変わった場合は、何故に判断が変わったかに注目するのが当然です。

具体的にご指摘の事件について、誰かが評釈を書いているかどうか、今後に書かれる予定があるかどうかは知りません。判例雑誌(判例時報、判例タイムズ等)をワッチしておくしかないでしょう。
誰かがこの判例に着目して研究しようと思ってくれなければなりませんが、判例としての先例的価値(医学的な事例としての価値ではない)があると評価されなければ、誰も手を付けないかもしれません。控訴審で覆ったというだけでは、単なる一事例にすぎず、先例的価値があることにはならないからです。

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> > 裁判の判断の善し悪しは、学者・実務家の批判に晒されます。
> > 裁判官は研究会を行ったり、判例評釈を読んで自ら勉強したりして、次の裁判のために役立てるということはしています。(No.25 YUNYUN)

> これについては、ご苦労さまです有り難いことです、と本心で思いますけれども、厳しい言い方をしますと当たり前であるようにも思えます。自ら勉強というのは、業務を遂行するに当たり必要不可欠なことであって、それを殊更「自ら研鑽・努力しているのだから」これを評価して欲しい、などということは、裁判の結果・水準には関係のないことです。(No.45 まさくに さま)

> その高い水準を担保しているシステムとは何でしょうか?ということです。私個人としては、専門家同士の批判に晒されることであると思います(No.52 まさくに さま)

No.45とNo.52はどういう関係にあるのでしょうか。
まさくに様は、法学者や法曹による裁判批判(とそれに基づく裁判官の自己研鑽)で、よいとお考えなのか、それとも、もっと別の方法によるべきだとされるのか?

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> 容疑者は12名で7名が無罪、5名は有罪
> 犯罪として成立している、ということが、どうしてこれほど分かれるのでしょうか?(No.56 まさくに さま)

起訴の段階では犯罪として成立していると「検察官が考えた」ことなので、裁判官がそれを是認するか否かは、まだ定まっていません。

裁判官の判断が分かれる理由は、第一には条文の作り方が悪くて、文言が曖昧だからでしょう。また、財物の価値や可罰的違法性の限界事例であるために、裁判官の価値観によって分かれる部分もあります。

この事例は、今まさに判例統一への途上にあるものです。
判例が統一されるまでに、同種事件の判断がいくつも出るのは珍しいことではありません。10個程度ではまだ少ないとすら言えます。

> 判決について検討されているのであれば、最初の1例が出ればその後の判断には統一性が見出せるはずではないかと

条文解釈が分かれる場合に、判例を統一するのは早い者勝ちではなく、
上級審の判断により、最終的には最高裁判所が判例統一の責務を負っています。
12件の裁判の全てが上訴されているわけではないでしょうが、そのうちのいくつかが控訴→上告されて上の審級の判断を受けることによって、統一が図られるのです。
(もっとも、簡易裁判所事件では、最高裁まで上がらないことが多い。)

当然ながら、事件が最高裁に上がっていくまでには、かなりの時間を要するため、立法的に手当てしたほうが解決が早い、ということもあり得ます。
立法府や行政府は裁判所の動向を見て、裁判所の解釈適用の仕方では立法目的を達せられないと考えれば、法律を変えるように動くでしょう。それが司法と立法・行政との相互作用です。

> 仮に医療従事者がこれまで日々業務として行ってきた行為が「それは医師法違反です」と言われて逮捕され、裁判では東京、札幌、沖縄で有罪、大阪、名古屋、京都では無罪、となったとき、自分自身がその有罪判決を受けた身になってみて下さい

そういう事例は起こっていないし、今後も起こりえないと考えます。
第一に、検察庁の判断として、日々業務として行なわれており立法府と行政府が長年黙認してきた行為類型を、ある日から突然に犯罪とみなして各地で一斉に摘発・起訴するということは、社会の安定性を著しく損なうので、そのようなことを行うとは考えられません。
また、もし検察庁が重大な政策目的をもって、あえてそのような異例の行動に出たとするならば、
裁判所としても裁判官の研修などを行ってある程度、判断の統一を保てるような特別対応をとるでしょう。
裁判官の独立性から、最高裁判所長官といえども個々の判決に関する具体的な指示は出せませんが、裁判官の間で行われる「研修」は事実上の判例統一機能があると言われています。

体的に起こっていますか。

すみません、No.57 の最後の一文は消し忘れです。無視してください。

>YUNYUN先生

質問事項は少ないものだったので、それについて説明して頂ければと思っておりました。だんだんと話が拡大しておりますが、もう一度出発点を振り返りますと、
(欸鮖媾産師看護師法第30条違反で略式起訴された事件の説明
医療裁判において判断が異なる結果となっている事件がある
=裁判官の判断が収斂していると言えるか
ということです。

その前にコメント(No.12)に書いた記事でも、
^緡鼎砲いて「証拠関係が同一であること」というのは有り得ない
∋碧,慮饗Г明らかにされているか
F碓貉件、類似事件についての法曹の判断が収斂していることが判る理由とは何か
の3点に集約しておいたのですが、これだと△鉢の回答範囲が広いようでしたので、上記2点に絞ってお尋ねしたわけです。
(附言しますと、当然私の疑問とは△砲弔い討蓮峺饗Г明らかとなっているとは限らないのではないか」、については「収斂しているとも思えない」ということです。先生の主張とは対立するものです)

先生のご意見を拝見しておりますと、私の提示した意見や他の方への回答を見て、それに個別にお答え下さったりされておりますが、本来そのような回答を求めているのではありません。元々は、先生が主張された次の論点について、説明できるならばそれをお願いしているのです。
>私の考えでは、裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない。
>従って、結論の違いは事案の違いによる というものです。

この根拠とか、具体的説明を求めているのであって、示せないのであればこれ以上はお尋ねしても意味がありません。つまり、
「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂し、差はさほど開かない」とは言えないだろう
ということが(私の中で)推測されるだけです。

私がいくつか具体例を挙げたのは、先生が次のようにご質問されましたので出したまでです。
>逆にお聞きしますが、まさくに様は、実際に裁判官によって判断にバラツキが大きいと思われますか。
>「信用しがたい」とおっしゃる根拠は如何?

私は裁判のような弁論や争いをやりたいのではありません(実際には見たこともないのですが)。ところが、先生ご自身は自分の主張点であるところの、「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂している、差はさほど開かない」ということの論証を何らされておりません。私の挙げた点や意見について、個々に反論可能な言い方をしているようにしか思われません。できれば私の論点に対してではなく、ご自身の主張が正しいということを説明されますようお願い申し上げます。

ご質問については、若干お答えしておきたいと思います。

1)保健師助産師看護師法第30条違反について

私の基本的考え方は上記コメントでも、記事でも書いております。「元々の30条の立法主旨としては、無資格者が助産院を行うとかニセ医者同様にニセ助産師としての活動を禁止するものが30条規定なのではないか」(No.52)というのが私見であり、条文を意味不明とは思っていません。ただ、個別具体的な医療行為(この場合には内診行為)に刑事罰を与えて禁止するものとは思われない、ということです。罪刑法定主義というのが基本的にあるのであれば、条文上に規定するべきで、そうでないなら「刑事罰をもって禁止行為を規定(周知)する」というのはオカシイ、ということを申し上げているのです。条文に具体的規定がないにも関わらず「刑事罰を与える」という恣意性が許容されることには反対という立場です。

先生ご指摘の「司法の不確実性をもたらす原因の一つではあっても、司法の責任ではありません。」ということには同意できるものではなく、「今、存在している法令(条文)」に則って正しく判断するのが裁判所の役割であるならば、条文(或いは通知)の内容とか稚拙さをもって司法判断の責を免れるものではないと思います。立法技術云々の問題などではありません。条文がオカシイのであれば、違憲立法である旨指摘するとか、条文自体が無効であるとか、判決で明確に何が悪いか指摘するべきことであって、立法技術が拙いので司法判断が難しくバラツキを生じる、というのは単なる責任転嫁にしか見えません。こういうことは、私のようなド素人がいくら主張しても無効であるので、法学的に「業の規定をもって個別具体的な禁止行為が明確にできる、刑事罰も与えられる」ということが「学問的に明らかとなっている」のであれば、それはそれで結構です。その証拠を提示してもらえれば、このような意見交換も不要ですし(例えば「狭心発作にはニトログリセリンが有効である」とか「急性心筋梗塞の場合、PCI が有効となる症例がある」とか、そういう文献的証拠ということです)。そういう知見や検討結果がないのであれば、どうやってそれが判ったのか、ということを問題としているのですよ。それを問題視しないというのは理解し難い、ということです。

この問題については、これ以上合意点は見出せないので、これで終わりにさせて頂ければと思います。
それから、この問題で起訴されたのは略式起訴事件だけしか私は知りません。

2)検察官や裁判官に処罰を与える必要はない

何度も同じことを書きますけれども、No.52中で「私は裁判官を罰してくれとか、検察官を個人的に追及する制度を作ってくれ、とか願っているのではありません。本来、その特殊な職務上の権限を行使するのですから、独立した地位が保全されていなければ行政権力などには対抗できません。」と書いております。司法は医療とは違います。医療の個別の症例や医師の個別の判断が異なるとか、そういうものと司法は「根本的に異なっているでしょう」と申し上げています。特別に法律を変えたりする必要などなく、今ある制度の中で判例や事件の検証することはいくらでも可能です。「国民の側からは司法サイドを変えさせられない」というのが、決定的な違いであり壁なのです。裁判官や検察官というのは、その独立した地位・権限により「他からの作用」というのは働かないようにできているでしょう、ならば「自分たちの中で改善して下さい」と言っているのです。それをどのようにするか考えて決めるのは、司法サイドの問題であって、私のような素人が「こうせよ」と求められるものではない、ということです。現に、裁判で罰を受けない制度になっているのであり、そうであるが故に、こちらからはどうにもできないと申し上げているのです。しかし、水準を(品質を)担保する為の努力はきちんとやって欲しい、ということを要望しているのです。今も既にやってる、というのは、当てにはなりません、ということです。

ある医師が「教科書、専門書や論文を多数読み、自己研鑽を積んできた。よって、私が心臓移植手術を行います。これまでの研鑽を是非とも認めて下さい。」と言って、いい加減な手術が許されますでしょうか?「これほど自己研鑽を積んだのだから、結果は問わないでね」なんてことがありますでしょうか?研鑽しているから、なんてのは、「司法制度の水準や正しさ」を担保するものではないと言っているのです。「やってます」なんてことを口で言うだけではなく、「結果で見せてくれ」「形として明示してくれ」ということを求めているのです。結果とは裁判結果のことであり、判決の品質です。形とは、法学的な知見であるとか、判決文が専門家によってどのように検討されどのような結論が導き出されたかというものを「論文と同等の形」で出してくれ、ということです。

裁判に用いられる「医学論文」とかの証拠と同等のものです。それか、証拠と認定できるような明確な制度とかシステムです。世の中、「努力しました」で済むことなんて、殆どありません。ソバ屋の出前で、「頑張って運びました、研鑽を積んで努力しました。が、ザルを道路にぶちまけてしまい、殆どソバは残っていません。でも一生懸命努力したので、これで我慢してください」なんてことは普通許されない、ということです。うまく運べるように努力することなど当たり前です、と思っています。


最後に当方の書き方に不明瞭な点が多く、意図が伝わらなかったことはお詫びいたします。
しかし、例えば私の「古紙持ち去り事件では、判断が分かれている」との例示に対して、先生が全て反論する必要性はないですし、私の挙げた具体例が「反証になっていない」と全て不採用ということならそれでも構いません。たとえ具体例を全て捨てたとして、先生の「裁判官の判断は収斂している」との主張は、今もって何ら明らかにはなっておりません。古紙持ち去り事件は、「違憲立法である」とか「条例制定権を逸脱してる」といった判断が出されているのですから、事件の個別性も何もあったものではなく、根本的な論点は「条例は違憲か否か」とか「制定権を逸脱しているか否か」といった、極めて法学理論っぽい話ではないかと思いますが。

先生がコメントに書かれた、
>裁判官の判断が分かれる理由は、第一には条文の作り方が悪くて、文言が曖昧だからでしょう。また、財物の価値や可罰的違法性の限界事例であるために、裁判官の価値観によって分かれる部分もあります。

を拝見しても、何を主張したいのか、素人の私にはまるで判りません。
「条文が悪い」ことで、「違憲立法である」と「有罪である」という違いを生ずる司法判断といいますか、法解釈というのはそこに「どのような理論、原則」が見出せますでしょうか?素人目には、「全くの別物」としか思えませんけど。整合的な理論と思しきものは、何ら感じ取ることができない、ということです。ただ単に、私の例示した論点に反論した、ということだけなのであれば、これ以上何も申し上げることはありません。議論に長々とお付き合いさせてしまい、大変有難うございました。私の理解としては、「裁判官の判断が収斂している」ということについては、何も立証されていないことと同じです。

>まさくにさん

条文に具体的規定がないにも関わらず「刑事罰を与える」という恣意性が許容されることには

略式手続である以上、起訴された医師は条文を肯定し、保助看法違反を肯定していた事になるのではないでしょうか。医師側が「私が全面的に悪かった事を認めますし、保助看法違反である事を承知していました」という以外の何者でもないのではないでしょうか。


ちなみに、具体的規定がないと仰いますが、保健師助産師看護師法の第五章には罰則規定が明示してあるかと思います。

No.59 まさくに 様

> ^緡鼎砲いて「証拠関係が同一であること」というのは有り得ない

賛成します。
ついでに申しますと、医療以外でも、およそあらゆる種類の裁判事件において、証拠関係が完全に同一であるということは、あり得ません。
これは当然のことであって、誰も反対はしないでしょうし、このブログのこれまでの議論は全てそのことを前提としてなされてきたと思います。
だから、ここで,鬚△┐徳按鵑箸靴督鷦┐気譴襪海箸琉嫐がよく分かりません。

> ∋碧,慮饗Г明らかにされているか

ここは何を問われているのか、把握できなかったところです(今もできていません)。
司法がとる原則はいろいろありますが、司法の「何についての」原則が、明らかにされていないと思われるのですか?

言葉の語義からすれば、司法の原則とは、司法がどのような考え方に基づいて運営されているかということであり、実体法及び手続法に関する「判例」ということと、ほぼ同義ではないかと推察します。しかし、「判例」は法律学の一大研究部門であって、まさくに様は私に、ここで明治100年の近代法律学の成果を延々と語れ、と求められているわけではないでしょう。

まさくに様の問題意識と共通するかどうかは解りませんが、法律の素人の方がよく言われる疑問として、
・「判例」の理論は、法律の一個の条文のような形にまとまっていないので、分かりにくい

司法の考え方は個々の事件に対する判断を通じてしか、示されません。そのため「判例」というものは漠として掴まえどころが無い。
法律学では、多くの裁判例を収集分析して、その中から規則性を読み取るという手法により、司法の意図を探ろうとします。この分析は専門家でなければ難しく、法律実務家も自分で全ての分野の判例を読む時間はありませんので、判例研究を専門にしている人の分析レポートを読むことによって、判例の動向を把握しております。
このようなやり方は、一般人の方からは迂遠に見えるらしく、「何でそんなめんどうなことをしなければならないのか」と不評です。しかし、これは司法権の作用というものが、裁判を行って個々の紛争を解決することに限定されているため、制度の枠組み上、いたしかたのないところです。
国民に分かり易い形で抽象的な規範を定立するのは、立法権の作用です。

> F碓貉件、類似事件についての法曹の判断が収斂していることが判る理由とは何か

厳密な証拠を出せと言われると、過去の下級審から最高裁までの裁判判決を全て分析して見せなければなりませんが、全事件についての厳密な研究は存在しないのではないかと思います。(刑事裁判の量刑研究などは限定された範囲における「証拠」といえます。)
しかし、大きな状況証拠としては、「判例」というものの存在が挙げられます。判例の存在は社会的に認知され学問的研究の対象ともなっているので、まさくに様も「判例というものが存在する」ということ自体は、お認めいただけるのではないかと思います。
個々の裁判官の判断が一定範囲に収斂するのでなければ、「判例」は形成されようがありません。判例違反は上告理由とされ、制度的にも裁判官の判断を統一させる方向に誘導されています。

ただし、裁判官はそれぞれ独立して職権を行使していますから、全員の判断が完全に一致はしません。
 類似事案で、事件ごとの個性・差異は無視してもよいくらい小さい
にもかかわらず判断が分かれ、「バラツキ」が生じるということは、現実にあります。
私の考えでは、そのような「バラツキ」は10%以下と思いますが、
これについては、多くの実務法曹がそのように感じているという以上の「証拠」は、ここでは提出できません。

(多分まさくに様は、ここに来られる他の法曹諸氏の同意があっても、「証拠がないものは信用できない」とおっしゃるのでしょうから、
この問題はこれで終わりにします。)

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> 無資格者が助産院を行うとかニセ医者同様にニセ助産師としての活動を禁止する
> 個別具体的な医療行為(この場合には内診行為)に刑事罰を与えて禁止するものとは思われない

無資格者が経営者にならなければ、つまり雇われの身の無資格者及び雇った有資格者は、処罰されない という解釈でしょうか?
だとすれば、それはまさくに様の独自の解釈であって、
立法者たる国会も、監督官庁である厚生労働省も、検察庁も裁判所も、そのようには考えていないと思います。
さらに、内診行為については、「助産」に当たる内診行為というものがあり、助産師または医師でないものがそれを行うことは、刑事罰をもって禁圧されているという解釈が、多数説であると思います。

経営者でなく、雇い人としてであっても、無資格者が助産に携わるのは妊婦に対して危険をもたらすことに違いはないと考えます。
例えば、もし仮に、まさくに様が妊婦であるとして、出産のためにある産婦人科病院に行きますと、介助者としてその病院で雇われているYUNYUNという者を付けられたとしたら、どうでしょう?
YUNYUNは助産師や医師ではなく、普通科高校で生物1と保健体育の単位は取得したが、出産介助に関する専門教育は全く受けておらず、出産現場に立ち会った経験もない。医師はYUNYUNに、「内診」でまさくに様の子宮の状態を調べて、出産間近になったら呼ぶようにと指示して、別室へ行ってしまった・・・
このような状況は、まさくに様にとって大変危険であり、やめてほしいと思われませんか?
介助役を志願したYUNYUNや、YUNYUNに任せた医師に対して、刑事罰を与えてでも、阻止したほうがよいと思われませんか?

> 法学的に「業の規定をもって個別具体的な禁止行為が明確にできる、刑事罰も与えられる」ということが「学問的に明らかとなっている」のであれば、それはそれで結構です

趣旨がよく分かりません。
資格職の業務内容は、個別の規制法律によって定められています。(詳細が政省令や通達で規定されている場合はあります。)
それとも、業法の違反行為を取り締まるのに、刑事罰という手法を用いるべきでない、という考え方でしょうか?
しかし、そのような考え方は日本社会において取られていません。

あまりにも当たり前で、そのようなことは一々文献には書いていないと思いますが。
資格者の違反行為に対しては「資格剥奪」という行政処分があり得ますが(運転免許の取り消しなど)、
無資格者に対して資格処分はできませんので、刑罰をもって臨むしか、実行性を担保する方法がないからです(無免許運転でスピード違反をしたら刑事罰しかない)。
たとえば、弁護士にも「弁護士法」という業法があり、非弁護士が法律事務を行うことを、刑事罰をもって禁止しています。

(ここで一旦終了します。続きは深夜か明日に)

>しま様

>ちなみに、具体的規定がないと仰いますが、

 多分、まさくに様がおっしゃりたいのは医行為についての明確な規定がないと言うことだと思います。

 が・・・、そんなこと法令で規定するの無理ですってば>まさくにさん。あまりに広汎な分野に渡ってますし、素人とプロの境界線を引きづらい分野も多々あります。だからこそ司法的判断が必要になるんじゃ?

まさくに様とYUNYUN様のコメントがかみ合ってないように思えるので、横槍ですが。

まさくに様の下のコメントは、下の神奈川県医師会の見解と同様のものと感じました。

http://www.kaog.jp/kinkyu/4.htm

>>個別具体的な医療行為(この場合には内診行為)に刑事罰を与えて禁止するものとは思われない> 無資格者が助産院を行うとかニセ医者同様にニセ助産師としての活動を禁止する
>>個別具体的な医療行為(この場合には内診行為)に刑事罰を与えて禁止するものとは思われない

・内診行為が助産師(医者)でないと行うことのできない行為に当るか否かが明確であること
・「助産師でない者は、第3条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。」とあるため、医師は診療として助産を行うことができる。看護師はじょく婦に対し医師が行う診療である内診を補助できることになるという解釈はできないのか?

ということだとするのであれば、

>>法学的に「業の規定をもって個別具体的な禁止行為が明確にできる、刑事罰も与えられる」ということが「学問的に明らかとなっている」のであれば、それはそれで結構です
>無資格者に対して資格処分はできませんので、刑罰をもって臨むしか、実行性を担保する方法がないからです(無免許運転でスピード違反をしたら刑事罰しかない)。
たとえば、弁護士にも「弁護士法」という業法があり、非弁護士が法律事務を行うことを、刑事罰をもって禁止しています。

助産師でないと(医師の補助としてであっても)行うことのできない=刑事罰を当れられる禁止行為である ものは何か、ということが個別具体的な禁止行為の規定がなくとも「業」を持って明確に規定されうるのか=(内診が、助産か助産とみなさないとも判断できる医療行為の間で、助産側に位置することが明確とみなされていたのか) ということであると思うのですが。

> まさくに様の下のコメントは、下の神奈川県医師会の見解と同様のものと感じました(No.63 北風(一般人)さま)

神奈川県医師会の見解は、保助看法の規定の仕方は曖昧で犯罪と非犯罪が区別できないから、「罪刑法定主義」に反するとの主張であると解されます。
一方、まさくに様は、「司法の不確実性」を問題とされており、罪刑法定主義の問題とは捉えておられないと思います。

> 司法の責任ではありません。」ということには同意できるものではなく、「今、存在している法令(条文)」に則って正しく判断するのが裁判所の役割であるならば、条文(或いは通知)の内容とか稚拙さをもって司法判断の責を免れるものではないと思います。立法技術云々の問題などではありません(No.59 まさくに 様)

「罪刑法定主義」とは、犯罪となる行為及びそれに対する刑罰は、国民代表たる国会の手で、法律の形式によってあらかじめ定めておかなければならないとする主義です。
罪刑法定主義違反の是正方法は、法律を改正して罪と罰を明確化するしかなく、裁判所の判例解釈によって法の意味が示されれば良しと言うことにはなりません。
だいたい、裁判所は「この条文では解釈適用ができない」から罪刑法定主義違反(憲法31条違反)であり無効と宣言するので、
何らか解釈が可能なものなら、罪刑法定主義違反とは言わないでしょう。

罪刑法定主義違反の責は不備な法律を制定した国会が負わなければなりません。
神奈川県医師会は、「この不備を正すことなく、保助看法第30条違反の捜査を実施することは不当であります。本件の捜査を速やかに停止するよう求めます」としているのは、まずは国会が責任を果たせという主張です。
これに対して、まさくに様は、あくまで、司法に法律を正しく解釈適用すべき責任があると主張されるのですから、神奈川県医師会の見解とは立場を異にすると理解されます。
捜査を停止してしまえば、当然ながら司法判断というものを受ける機会はありませんので、司法の見解を求めためれば、逆に、捜査を進めて起訴しなければならないことになります。

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> 「業」を持って明確に規定されうるのか(No.63 北風(一般人)さま)

“「業」を持って”は「業法」の意味ではなかったのですね。
「その専門領域の学術的判断によって」というような趣旨でしょうか。
ここは私の誤解でした。
つまり、まさくに様のおっしゃりたいことは、
 助産学に基づき、「内診」は(助産師に独占されるべき)助産行為の内容に含まれるか含まれないかが、明確になっていればよい

それはその通りで、助産学の専門的知見によれば、問題とされた行為が、助産に当たるか当たらないかが判断可能であるはずです。自分の学問領域に属するか否かが判断できないのでは、学問として成り立ち得ないのではないでしょうか。
そして、過去の事案では、助産に該当する行為であると判断された結果、起訴され有罪とされたのだと思われます。

なお、堀病院の事件では不起訴とされたために、裁判所の解釈は示されませんでした。
また、検察庁の判断としても、「起訴猶予」の理由では、当該行為が助産に該当すると解するのか否かは、必ずしも判然としないと思います。
(「罪とならず」であれば、「該当しない」との判断であることが分かる。)

> 水準を(品質を)担保する為の努力はきちんとやって欲しい、ということを要望しているのです。今も既にやってる、というのは、当てにはなりません。
> 形とは、法学的な知見であるとか、判決文が専門家によってどのように検討されどのような結論が導き出されたかというものを「論文と同等の形」で出してくれ、ということです。(No.59 まさくに 様)

判例紹介の雑誌や判例評釈や判例研究の専門書は、世の中に山ほど出版されています。大きな書店の法律専門書のコーナーや大学図書館で見ることができます。
裁判官の間では勉強会もしょっちゅう開かれています。
そういうことがあるのだと説明しても、「信じない」と言われるのであれば、水掛け論でどうにもなりません。

似たようなことをおっしゃる人はどこにでも居ます。
世の中から医療過誤が無くならない以上、いくら医師が研鑽を積んで病院の医療システムを工夫していると言われても、信じられない、とか。
交通事故が日本国じゅうで日々繰り返されている以上、ドライバーに交通教育を受けさせていると言っても、信じられない、とか。

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> 「条文が悪い」ことで、「違憲立法である」と「有罪である」という違いを生ずる司法判断といいますか、法解釈というのはそこに「どのような理論、原則」が見出せますでしょうか?素人目には、「全くの別物」としか思えませんけど

古紙持ち去り事件で裁判所の判断が分かれているという事象については、「今は判例形成途上の事案」と説明しました。
全ての事件について、判例や司法の考え方が出来上がっているということはあり得ません。新たな事件が発生して司法に持ち込まれ、新たな判例を生み出すことになるのです。判例は生きており、今後も、未来永劫、司法制度が続く限り、新たに生み出されたり、更新し続けられる性質のものです。

「財物の価値や可罰的違法性の限界事例」というのは、この事件について法律家の解釈分かれやすいことの理由です。
リサイクル条例の解釈がどうあるべきかについては、個別エントリにて議論していただくほうがよいと考えます。
●「昨日は無罪、きょう有罪」
http://www.yabelab.net/blog/2007/03/27-211329.php

横合いから失礼いたします。

http://www.yabelab.net/blog/2007/06/02-210228.php#c59284
>>私の考えでは、裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない。
従って、結論の違いは事案の違いによる というものです。

>先生はこのように述べられておりますので、その根拠をお示し下さればと思います。個人的印象ということならばそれでも構いませんが、仮に裁判で被告医師が行った医療行為について、「私の経験では、これまで90%以上の症例で問題などなかった」と主張してみたところで、それが採用されるというのは殆ど期待できないかもしれません。被告の経験談では、その医療行為の正当性を立証できないのではないでしょうか。よって、個人的印象では裁判官の判断に差はさほど存在しない、ということを立証できていないでありましょう。「同一事件」の判決について、数人程度の母集団ではなく、最低でも100人以上程度で調査した研究があって、その中で「裁判官の判断に差は少ない」といった結論の得られているものがあれば、お示し下されば幸いです。無いのであれば、裁判官の判断には「差が少ない、さほど開かない」といったことを主張することは難しいと思われます。

 たとえば、最高裁判所が一昨年に実施した、わが国の刑事裁判官766名および一般国民1000名を対象とする調査によれば、わが国の裁判官の量刑判断には顕著な収斂傾向がみられるとされておりますね(司法研修所編「量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究」(法曹会)147頁)。このときの調査結果では、各事例における一般国民の具体的量刑判断の分布と裁判官の具体的量刑判断の分布を見た場合、一般国民の量刑判断分布の標準偏差が4.05〜4.81だったのに対し裁判官のそれは2.21〜2.81だったとのことです(なお、これはあくまでも架空の事例に対して各々が感覚的に答えた結果であり、現実の裁判において裁判官は公刊・非公刊の裁判例集や最高裁事務総局のレファレンスサービスを利用したりして類似事件における判断の均衡を保とうといたしますし、合議事件では当然合議体のメンバーが相互に影響しあって一定の結論に収斂していくわけですから、本調査結果よりもさらに強い収斂傾向を示すということが推測できます)。

 さて、まさくに様はYUNYUN先生に対し、

>「同一事件」の判決について、数人程度の母集団ではなく、最低でも100人以上程度で調査した研究があって、その中で「裁判官の判断に差は少ない」といった結論の得られているものがあれば、お示し下されば幸いです。無いのであれば、裁判官の判断には「差が少ない、さほど開かない」といったことを主張することは難しいと思われます。

 とおっしゃっておられるわけですが、まさくに様はまだ「『同一事件』の判決について、最低でも100人以上で調査した研究において『裁判官の判断がバラバラである』といった結論の得られているもの」をお示しになっておられないような気がするのですが、私の記憶違いでしょうか。まさか他人には「最低でも100人以上程度で調査した研究」を示すよう求めながら、ご自身はたまたま目に付いた事件を一つ二つ取り上げて「ほらバラバラだろう」とおっしゃるようなことはないと信じています。大変ご面倒をおかけいたしますが、過去にそのような研究成果をご紹介なさっておられる箇所を改めてお示しいただけませんでしょうか。

> 最高裁判所が一昨年に実施した、わが国の刑事裁判官766名および一般国民1000名を対象とする調査
> 一般国民の量刑判断分布の標準偏差が4.05〜4.81だったのに対し裁判官のそれは2.21〜2.81だったとのことです(No.66 an_accused さま)

これは間近に迫った裁判員制度の実施を睨んでの調査です。
ここから導かれる結論は、
 裁判員制度による判決では、職業裁判官が判断していた時よりも、量刑のバラツキ幅が大きくなるであろう
という予測です。
有罪とされた上での量刑のバラツキだけならばまだマシで、有罪無罪の判断もバラつくことになる可能性があります。

しかし、裁判員制度を求めるということは、そうした現象を、国民が許容するということであろうと思います。
(被告人としては、有罪判決や量刑に不服があれば、控訴して争う権利があります。一審だけで決まらないので、時間がかかりますが)

 さて、「古紙持ち去り事件で裁判所の判断が分かれた」ということが問題だと指摘されておりますが、これはわが国の統治原理上当然に起こることです。司法は行政と異なり、「ある程度判断がバラつくこと」を期待して制度設計されているからです。なお、

>判決について検討されているのであれば、最初の1例が出ればその後の判断には統一性が見出せるはずではないかと。

とのことですが、もしも裁判というものに「最初の一例」を先例とした強い統一性が求められるのだとすれば、極端な話をすれば尊属殺重罰規定は今なお不滅だったかも知れませんし(最高裁による違憲判決が出てもなお「尊属殺重罰規定の削除は長幼の序を軽視することになりわが国の社会秩序を乱す」などと主張する国会議員のセンセイがいらした結果、なかなか尊属殺重罰規定の刑法典からの削除は実現しなかったそうですから、立法府によって速やかに是正されただろうとは言えそうにないでしょう)、件の「看護師内診問題」についても、もしもまた産婦人科医の誰かが摘発を受けたとき、たとえその産婦人科医がトコトン争おうと思っても、かつての「罰金50万円の略式命令」が他の裁判体に「判断の統一性の発揮を促して」彼(彼女)の主張を封殺し、彼(彼女)の主張の正当性は未来永劫公に認められることはないということになるでしょう(仄聞するところによると、医師会より看護協会のほうがずっと大きな政治的影響力を有しており、近い将来本件において医師側の主張に沿った形で立法的・行政的手当てがなされる可能性はあまり高くないようですから)。

 余談の余談になりますが、私はかつて「看護師内診問題」について以下のようにコメントしています。
http://www.yabelab.net/blog/2006/11/23-231315.php#c24127
>内診問題につきましては前述したとおりです。今は二つの“建前”がせめぎあっている段階であり、厚労省が今の“建前”をひっくり返すか、摘発を受けた産婦人科医のどなたかがトコトン訴訟で争って今の“建前”を無効にする判決を獲得するか、産婦人科医の皆さまがあきらめて、法的根拠の怪しい「産科看護師」を養成・採用するのではなく、法的根拠のしっかりしている「助産師」を養成・採用するようにするか、いずれかを選択なさるほかないでしょう(個人的には、助産師養成課程はたかだか一年程度なのに、なぜわざわざ「産科看護師」という別ルートを用意してまで看護師内診を認めさせようとしているのか、ちょっとよくわからなかったりします)。

 「内診が助産行為か医療の補助行為か」などというのは純粋な医学の問題ではありません。どちらかといえば制度の問題、政治の問題です。「助産師とは何か」「看護師とは何か」を決めるのは医学ではなく法制度だからです。ところで、「看護師ができる診療補助行為」とは何でしょうか。残念ながら、法律に細かく書いているわけではありません。ではどうやって判断すればよいでしょうか。いろいろあるでしょうが、例えば「国家が看護師資格を認定するにあたり、『これについては習得していなければなりませんよ』としている条件とは何か」を見れば、少しは手がかりになるかもしれません。

 そこで厚生労働省のHPから、第8回「看護基礎教育の充実に関する検討会」資料を見てみることにすると、例えば「看護師教育の技術項目と卒業時の到達度(案)」というものがあり、そこには「モデル人形に点滴静脈内注射ができる」というものなどが列挙されていますが、「内診ができる」という項目はありません。そうすると、監督官庁である厚生労働省は看護師免許の付与にあたり、医師の診療の補助として「点滴静脈内注射ができること」などは期待していても「内診ができること」は期待していないらしいということが見て取れます。監督官庁は看護師に内診行為をさせることを望んでいない、そしてそのような教育もさせていない、さらには通知によって明確に看護師内診を否定している、そして捜査機関には違法の疑いありとされ、裁判所からは略式とはいえ有罪判決も下っているのに、なぜ高々一年程度の助産師養成課程ではなく法的根拠もないような「産科看護師養成課程」を作ってまで、看護師に内診をさせようととしてきたのでしょうか。
 「内診が助産行為か診療の補助行為か」については、いくつかの解釈がありうるかも知れません。私個人の見解としては、「お医者さんがちゃんと管理して下さるんだったら、看護師さんがやって下さっても別にいいじゃん」です。ただ、「たった一つの下級審裁判例ですらその射程距離をやたら長く取ろうとするほど慎重な医師の皆様」が、こと「看護師内診」についてはやけに脇が甘かったのはなぜなのか、理解に苦しむのです。

>YUNYUN先生
>裁判員制度を求めるということは、そうした現象を、国民が許容するということであろうと思います。

 おっしゃるとおりです。私たち個人にその自覚はなくとも、「国会が全会一致でそう決めた」ということは、私たち国民がこぞって「司法判断は今よりもっとバラつくべきだ」と考えたということになりますね。

>an_accusedさん

なぜ高々一年程度の助産師養成課程ではなく法的根拠もないような「産科看護師養成課程」を作ってまで

看護師からの転身が難しくなっているようですし、それが一因なのかなと思います。

看護教育を終えた人が進学できる学校があまりないことを知って落胆した。「助産師になりたい看護学生は少なくない。教育の機会を奪わないでほしい」と訴える。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/feature/20060908ik03.htm


個人的には、医師と助産師と看護師の位置づけがわかりにくいように思います。乱暴な意見ですが、助産師を看護師に統合し、助産資格を持つ看護師という位置づけにしたら見えやすいかなと。

>No.68 an_accused様
一点だけ。
「看護師教育の技術項目と卒業時の到達度(案)」は最低限これだけを会得しておきましょうという案で、これ以上やってはいけませんという基準ではありません。「卒業時にはすべての看護技術を取得して、直ちに第一線で活躍できるようになっておけ」ということではないはずで、卒業後に取得する技術があることも想定していると思われます。
したがって、この案は「内診が助産行為か医療の補助行為か」という判断の根拠には使えないと思います。

>No.69 しまさん
>個人的には、医師と助産師と看護師の位置づけがわかりにくいように思います。

歴史的経緯を考えれば助産師は「医師の監督下でなくても助産を扱える資格」であって、助産業務の独占を保証するものではなく、医師の監督下を外れるという例外を認めるためのものです。つまり、産婆さんの独立開業の裏づけとなる資格であって、元々病院・医院での産婆さんの活動を想定した資格ではありませんから(病院に産婆さんはいなかった)、病院・医院内での医師と助産師と看護師の位置づけを考えるというのがそもそも無理なのです。助産所の助産師VS医師・看護師という位置づけで考えれば分かりやすいかと。
※全部私見ですけど。

>YUNYUN先生

ここまで長くお付き合いを強いてしまったようで、申し訳なく思います。現在の相互理解の隔たりは非常に大きいと感じます。私はこのモトケン先生のエントリに取り上げて頂いたので、自分なりの考え方を記したのが、No.7のコメントです。取り上げて頂いた記事も含めまして、私がここまでコメントしました、No.7以下12、24、45、52について、もう一度通読して頂き、その上でお考え下されば幸いです。中にはリンク記事も入れてありますので、ご面倒でもお読み頂ければと。当方の意図がそれで伝わらないのであれば、これ以上私には書けません。荷が重過ぎます。

内診行為問題については、昨年の記事で書いてきましたし、起訴猶予決定については最高検が検討した結果違法であると認めた、ということを知った上で、敢えて例示していることです。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/a98d7b5b6c9d59078b357e22fde725c6
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/923aa9c7761aaa5e7f6f4fe66c3a297a

2番目の記事のコメント欄にも少し書いておりますので、それを参照して頂きたいと思います。上のNo7のコメントに書いていますように、私が誰かに対して無理難題を求めていますでしょうか?誰かに何らの回答も求めていないですよ。この溝を埋めることは、私にはできそうにないです。現時点では、当方が書いた部分について、「よくお読み下さい」としか言いようがないです。

一つだけ書いておきます。
「最高検が違法と判断した」ということが報道であった通りであれば、それは「法曹の方々の共通の理解」ということではないのでしょうか?条文等に照らして、「大多数(9割以上?)の法曹には説明可能な法学的理論に裏づけられている」ということではないのですか?起訴・不起訴の判断はそれこそ「個別の違い、検察官の判断の違い」ということは起こりえましょう、しかし、「違法である」という判断を裏付ける「理屈」というのは、それこそ「専門外の人間」に対しても「理解できるように説明可能なものである」のではないのでしょうか?それがもしも大多数の法曹においてできないとすれば、「恣意性」ということを(或いはバラツキのようなもの?)、その危険性を考えなくていいのでしょうか、ということです。医療において、裁判で求められれば「医療行為」とか「治療」については「医療側」が論文等証拠として提出し、「専門外である裁判官(や他の人々)」に対して「説明している」ではありませんか。

私は本を見せろ、なんて言っていません。判例集をもってこい、ということも求めていませんよ。医療側は裁判などにおいて、「何故狭心症の発作が起こった時には、ニトログリセリンを使うのですか?」という疑問に対して、「冠動脈が狭くなると発作が起こって苦しくなり他の有害な症状が出るので、冠動脈を拡張する為に有効な薬剤であるニトログリセリンを投与するのです」というような説明をしているではありませんか(あくまで例示です)。こういった説明は、恐らく大多数の医師たちにとっては「ほぼ共通の理解」であるし、その為の文献等についても「証拠として提出できる」程度に「明らかとなっているでしょう」ということを言っているのです。医療裁判において、何らの一般原則を適用することなく「医療水準」の判定が行われることがありましょうか?これを「個別に違いがあったからだ」との理由で片付けることができる、ということではないはずです。

では、司法側は「何故看護師の内診行為が違法行為に当たるのですか」という問いに対して、「最高検が違法と認定した」のと同じ「理屈」というか「法学的理論」で説明できるはずであり、同時にその裏づけとなる証拠のようなもの(文献等)で示せるはずでしょう、と推測したのですよ。それが「定まっていない」とか、多数の法曹によって「検討されたとみなされる証拠がない」、或いは「検察と裁判所では判断が異なる」ということなら、法曹の多くには共通の理解ではない、別な「ブラックボックスのような理論」が存在しているのだろうか、と思わざるを得ない、ということです。

略式起訴に関しては、No.24に受け入れてしまうようなこともある、ということを書いていますので、よくお読み下さい。
いずれにしても、これまで多数書いてまいりましたので、私には自分の意図する所をこれ以上説明できる自信はありません。

>an accusedさん

お久しぶりです。以前にはお世話になりました。ここでコメントを頂戴するとは思ってもみませんでした(笑)。
法学関連のことは説明の必要がないでしょうから、簡単にお答えしたいと思います。敢えて言うとすれば、これまで書いてきたコメントや記事について、目を通して頂ければと思います(これでは、上に書いたのと違いがないですね)。どこからお読みになっているか判りませんが、途中からの論点を見ただけでは意図が伝わらないと思われます。

「同じ事例が存在しない」ということを原則とするならば、医療行為の適否について考える時「それはこの症例特有の事柄だったからだ」との説明で終わってしまいます。記事にも書いた通り、症状1、2、3…とあって、その場合には診断として「○○」が考えられ、その治療法としては「〜」を行う、という原則が形成されています。医療裁判においては、こうした原則をもって実行された医療行為が適切であったかどうかが判断されるものと思われます。司法においては判例がそれに該当するものと思いますが、個別の事件からは一般原則が読み取れないこともある、すなわち判例とはならない、ということを主張しているのが司法側です。未知の病気、症状、が出たとしても、それは検討価値があるかどうか判らないし、個々の違いなのだから放置というようにしか見えない、ということです。

医療裁判において、「同一事件はただ一つ、一般原則は適用できない」とするなら、全例において「違う病気」ということとほぼ同じではないのかな、と。ならば、一つ一つの例をつぶさに検討しない限り、「治療法」のような原則は見出せないでありましょう。だが、それが行われた形跡はなさそうだ、ということです。司法側主張では、「症例数が少なければ、途上であるので違いを生じ判例が作れない」、「判例を作る価値がなければ手を付けない」、ということですので。

それから、具体例を挙げたのは、それを求められたので出したまで、とコメントにも書いております。目についた少数例を殊更取り上げて、司法サイドの批判をぶつけているのではありませんよ。お示し頂いた量刑判断の調査は、過去のコメント欄にあったのを見た上で、「裁判官の判断が収斂する」という根拠を尋ねています。量刑判断ですので、素人の理解で申し訳ありませんが、「懲役○年」とか「執行猶予○年」とか、そういったバラツキを見た調査なのであろうな、と思いましたが、違うのであればお詫びします。これと、医療裁判の判断で「判断が収斂している」ということは、違うものであると思っています。喩えて言えば、ある事件について、「9割の裁判官が過失と認定」というのが、判断の収斂を示すものと思いました。こういう事件を数例とか数十例集めてきて、「ああ、9割の裁判官が同じく過失認定している」ということが判ればそれでいいのですが、そのような調査はないでしょう。ない、ということは、「客観的には傍から見ても、誰にも判らない」ということです。それが問題なのではないでしょうか、と言っているのです。

そもそも私が「裁判官の判断はバラバラである」といった命題を立ててはいませんよ。
>「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂し、差はさほど開かない」とは言えないだろう
ということが(私の中で)推測されるだけです。
とはコメントに書いてますが。
医療裁判において、基礎的情報や基礎的データは裁判官とか司法側が調査検討しているのでしょうか?裁判官がいちいち「急性心筋梗塞におけるPCI による改善率」とか、調査していますでしょうか?鑑定を出すのは、医師ではなく司法側の人間なのでしょうか?自分で調査し結果を出さない人間は判断を出すことができない、ということでしょうか?
医療側が「この診断、治療法、治療行為の選択で問題ないと思った」ということを示す証拠を提示しているのです。医療裁判において、司法側の判決内容(水準)の妥当性を示す資料はどの程度蓄積されていますか?、ということを言っているのです。コメントにも書いた、「形として」というのは、そういうことです。医師でもないのに、医療行為の妥当性について何の基礎的情報もなく判断できますでしょうか?それを問題意識としている、と言っているのです。検証とかフィードバックとかのシステムという話を何度も書いているのはそういうことを言ってるのですよ。元から調査なんて存在してないことが明らかではないですか。存在すらしてないものを、「裁判官の判断がバラバラである調査研究」結果など有り得るわけありません。ないのであれば、どうやって確かめられますか?と問うているのです。医療裁判にある鑑定結果として(論文で報告されたり学会で報告され他の複数医師が検討するでしょう)、「誰も見たこともない病気なので、治療の妥当性はわかりません」という意見が大多数なのであれば、そういう鑑定結果が残りますよ。医療裁判の判決について、そういったことが行われているでしょうか?ということなのです。

ところが、裁判でいうところの証拠に該当するものがないにも関わらず、「裁判官の判断は収斂している」という主張をするので、それは本当ですか、違うように見えるものもありますよ、という具体例を求めに応じて例示したのです。誰も見たこともない病気・症状に出くわしました、その手術例も過去にはありませんでした、だから結果の妥当性については検証できません、ということであれば、それは止むを得ないでありましょう(つまりは一般法則を見出せないということです)。でも、今後のことを考えて、「多数の医師で検討してみましょう、そういうシステムがあるべきですね」というのが、それほど難しいことなのでしょうか。「多数の医師で検証したのなら結果がありますよね、それはどんなものでしょうか?」の問いに、「いや、検討価値がないので、誰も取り上げませんでした」、「症例は少数ありますが、治療法の確立途上であるので、治療法はバラバラです」という答えならば、検討するというシステムが本当に機能しているのでしょうか、と言っているのです。最初の判断が出された後で云々というのは、司法側がきちんと検討している、ということを「信じた」上で、検討結果があるのですよね、あるなら「このAという治療法で良かった」とか「このA治療法よりも別なBという治療法を行った方が良い」というような「検討結果」が残るわけですから、以後の裁判例ではその検討結果が生きてくるはずでありましょう。ところが、全く別の「AでもなくBでもないCを行いました」ということであれば、本当に検証システムが働いているとは思われない、ということです。古紙持ち去り事件のことは、そういうことを言っているのですよ。

どうしても判断が分かれる事例である、ということならば、それはそれで「治療法の確立されていない症例であったから」ということも止むを得ないでしょう。そのことを認められない、とは一度も言っていませんよ。そうであるなら、初めから「判断は収斂している」などと断言しなければいいことではないですか。「未知の病気だったので、難しくて判りませんでした」と認めて、次の事例に備えて対策を練れば(=複数の法曹が検証するということ)いいではありませんか。「やってる、研鑽している、批判にさらされてる」と言うのであれば、そこからどのような結果が残っているのか、ということですよ。ところが、検証結果は判りません、証拠のようなものもありませんでは、どうやって確かめられますか。「やってるからいいんだ」という言葉だけを信じろと?医療裁判において、「研鑽を積んできたので、俺の腕を信じろ」と言って、それで通用しますか?「勉強会をやってるといっても、疑う人はどこにでもいる」と裁判官に向かって言いますか。そういう程度で医療水準が判断できる、ということを信じているのかもしれませんが。

これ以上の理解が進むとは思われず、説明する気力もありませんので、敢えてお答えを頂かなくともよろしいです。鑑定結果のような基礎的情報すら司法側には存在しないのに、「裁判官の判断が収斂している」ことを言い切ったり否定する根拠を立証できるという自信を有してはいませんので。

地方会でもリスクマネージメントの講演がありましたが、「医療崩壊」という言葉が当たり前のタームとして使われていたことに思わず一人失笑してしまいました。それでもまだ危機感も現状認識も共に不十分な者が多いようにも思われましたが。

青戸病院スレがアレな状況なのでこちらで書きますが、現在の司法に対する医療の不満と言うのは大きく二つ、刑事と民事の問題があると思います。

民事については自分はどの当たりが妥当なのか正直理解していませんが、癌の末期や超高齢者といった社会的生産性に乏しいことが容易に予想される症例での賠償額が高額すぎないかと言う疑問は以前から感じています。
以前に賠償額の算定においては当事者が生涯に稼いだであろう額が基準になるといったことを耳にしたように思うのですが、こうした症例においては収支は恐らくマイナスです。見舞金程度の額ということであればともかく、数千万という賠償額の算定の根拠が判りません。
診療報酬削減で病院の3/4までが赤字となり、現場ではいじましいコスト削減が叫ばれていることもあって、特に医学的に過失が少ないと思われる場合著しく現場の志気を下げているだろうことは容易に推測できるところです。

一方刑事訴訟沙汰になる事例については過去において片手に足りる程度にしか過ぎない一方、その中の一例としてかの福島事件が含まれている点に思いを致さずにはいられません。
福島事件の結末は未だ明らかではありませんが、一般的医療レベルからして明らかな過失と言えるものはなかっただろうと言うのは医学界でのコンセンサスを得ているように見えます。それでも刑事訴訟になったとすれば、これが現場にとって無視できるほど低いリスクかどうかが問題でしょう。

医療に従事していて刑事訴訟沙汰になるリスクは極めて低いというのは確かに事実です。一方で全刑事訴訟のうち、こうした「普通の医療をやっていても刑事訴訟になった」と見なされる事例がそのうちの「25%も」含まれているという言い方が出来るわけです。これは決して低い率ではありません。
リスクマネージメント教育の場では刑事訴訟4症例は必ず解説されていると思いますが、その数少ない中にこうした事件が含まれている。聞く者がどう受け取るか。過去の医師たちがコンマ以下数%の合併症発生のリスクに留意するよう意識づけられてきた程度には、「間違った医療をしなくとも刑事訴訟沙汰になることがある」ことにも注意を払うようになるのではないかと予想しています。

福島事件は司法的に見ても極めて例外的な事例であって同種の事例は今後まず発生しないのか、あるいは司法的には妥当な行為に過ぎず今後も同じ事が再び起こる可能性があるのか。医療側が各所で声を上げたことに比べて公的な場で司法側からそうした言葉は聞こえてきません。
もし幸いにも前者であったとするならば(そうであることを期待していますが)、司法側はこの事件の例外性をもっと大きな声でアピールし、再発防止の策を講じていく必要があるのではないかと思います。

No.72 老人の医者さん
>福島事件は
福島大野病院事件の裁判は現在進行中ですので、裁判所が判断を下した後でなければ法曹はコメントできにくいと思います。

それから、刑事裁判、特に公判請求に至った事例は、1999年1月までのおよそ25年間で76件であったものが、1999年1月以降2004年4月までの約5年間で79件であったそうです。
http://www.med.or.jp/teireikaiken/20070509_1.pdf

25%は根拠なしです。

すみません、聞き違いをしていました。逮捕に至ったのが4件、ということでしたね。
ただ刑事起訴を逮捕と置き換えてみても基本的な文脈は変わらないのかなと思います。

No.71 まさくに 様
1点確認したいのですが、

> 最高検が検討した結果違法であると認めた

これのソース(最高検の発表文書?)は、どこで読めますでしょうか。
私が原典に当たってみたいと思う理由は、
最高検が個別の事件の処理について、違法性ありとの見解を公式に発表するということは極めて異例だからです。

なお、堀事件の報道ではこういうのもありましたが、

●無資格助産事件、院長ら不起訴へ
コメントNo.18 田舎の消化器外科医さま
http://www.yabelab.net/blog/2007/02/01-081332.php#c36059
> 堀病院では触診や(分娩誘発のために卵膜を人工的に破り破水させる)人工破膜など、日産婦の見解を超えた内診が行われていた

この事実認定を前提とするならば、
あくまで私見ですが、「違法である(が諸般の事情を考慮して起訴猶予とする)」との横浜地検の判断も是認できそうに思います。
私は、医師が看護師を補助者として使うならば何をやっても許されると見てはおらず、具体的な行為態様が問題であって、「人工破膜」は許容範囲を超えるという考えです。

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> 「最高検が違法と判断した」ということが報道であった通りであれば、それは「法曹の方々の共通の理解」ということではないのでしょうか?

たとえ最高検が違法と判断していることであっても、それが法曹の共通の理解であるということにはなりません。
検察庁の考え方は、時には弁護士の多数意見と対立することがあります。
地検は最高検と考え方を同じくする場合が多いと思われますが、どこかの地検が起訴したからといって、必ずしも裁判官・弁護士を含めた法曹の90%が、それは違法であり有罪だと考えるわけではありません。例えば、現在、福島産婦人科事件が起訴されていますが、その事件は無罪だと考える弁護士も多いのです(注・最高検は福島事件については見解を表明していません)。

一方、最高裁判所が判決において違法であると判断したことについては、わりと法曹共通の理解になっていると思われます。

> 司法側は「何故看護師の内診行為が違法行為に当たるのですか」という問いに対して、「最高検が違法と認定した」のと同じ「理屈」というか「法学的理論」で説明できるはずであり、同時にその裏づけとなる証拠のようなもの(文献等)で示せるはずでしょう、と推測したのですよ

この部分がよく分かりません。
司法判断を行う前提として、その種の事件について法学者等の見解が発表されていなければならないということでしょうか?
しかし、研究者が自分の好みで研究対象として取り上げるより先に、事件が発生してしまうことがあります。その場合は文献など存在しませんが、実務法曹はそれぞれの立場において、与えられた事件の解決に当たらなければなりません。
そのことは、医療において未知の病気と最初に遭遇した医師が、文献がなくとも知恵の限りを尽くして治療に当たるのと同じことではないでしょうか。
そして、その場合に、人によって判断が分かれることがあるとしても、過去の事例が蓄積されていないゆえに判断がいまだ統一されないというのは、やむをえない現象です。

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> 医療裁判において、司法側の判決内容(水準)の妥当性を示す資料はどの程度蓄積されていますか?

医療裁判においては、法解釈というより(損害賠償請求の過失論や損害論等はある意味出尽くしていますから)、事実認定面、特に医学的見解に依拠する部分が大きいと考えられます。
裁判に提出される医学的意見は、原告提出の、被告提出の、裁判所が任命した鑑定人の、がありますが、そのうちで裁判所が判決において採用した意見が、「本当に医学的に正しいのか」が、(個々の事件についてはともかく、全件網羅的には)検証されていない、というご指摘でしょうか?
それはその通りで、むしろ医療側のほうで、そのような医学的観点からの網羅的な裁判批判研究をしていただく必要があると思います。

しかし、それでもなお、同種の事件(同じような鑑定意見に依拠する場合)については、同様の判決が出るという意味では、裁判官の判断は収斂していると考えます。
これについて、収斂していると判断できるほど、同種の事案が存在するかどうかという問題はあるでしょう。

> 医療裁判において、「同一事件はただ一つ、一般原則は適用できない」とするなら、全例において「違う病気」ということとほぼ同じではないのかな、と。ならば、一つ一つの例をつぶさに検討しない限り、「治療法」のような原則は見出せないでありましょう。

おっしゃる通り、司法側は、一裁判例をもって、軽々にその病気に対する「治療法」の原則を導くことはできないと主張しています。
これに対して、医療側は一事例を過度に一般化して今後の行動指針にしようとする傾向が見られます。
まさくに様が、「それはおかしい」ということを医療側に対して言ってくださるならば、重畳です。

> 違うように見えるものもありますよ、という具体例

反証として挙げられた事案(控訴審逆転ケース、古紙持ち去り事件)はいずれも、医療訴訟における裁判官の判断の収斂度を検証するには不適切です。
・医療訴訟において、似たような主張・立証がなされている事件、特に医学的意見が類似している事案
を取り上げて、比較するべきです。
繰り返しますが、一審と控訴審では証拠関係が同一ではありません。

長くなりますので、以下の記事に書いてみました。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8a79a5a074dcc3068e66d842686fbe31

これまで回答下さり有難うございました。
これ以上は難しいと思えますので、ご容赦下さい。
最高検の決定は、報道で読んでますが、新聞のリンクは残っていないと思います。当方の記事はありますが、私が書いたものですので証拠にはなりませんので。参考までに挙げておきたいと思います。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5a0be20f097d4555685b61375856f995

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