エントリ

 以下は、別エントリのコメントとして書いたものですが、重要なことと思われますのでエントリとして再掲します。
 
 反省というものが問題になっているようですが、刑事裁判で問題になる反省というのは、一般的な意味における反省とは少し違うように思っています。
 私が思うには、刑事裁判における反省とは

被告人自身に内在する犯罪の原因についての被告人の内省または自覚

と言っていいと思っています。

 このような意味での反省は、被告人自身に内在する再犯の危険性を減少させると考えられますので、矯正教育としての服役期間(刑期)は反省のない人間より短くてもよいと考えることができます。
 その意味で執行猶予を付ける理由にもなります。

 ですから、単に「すいませんでした。」、「申し訳ありません。」、「反省してます。」、「もう二度と悪いことはしません。」と言うだけでは、真に反省しているとは認定できないわけです。

 但し、死刑の場合における反省は、上記と意味合いが違ってくると思います。
 死刑は社会復帰を前提としませんので。

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コメント(13)

反省→情状酌量という判断を、裁判の場という人生の長さに比べ須臾の間に、いわばせつな的に本来行うべきものでしょうか。
これは非常に難しい判断を裁判官に強いるものであり、いかに裁判官個人が勉学修行し研鑽を積もうとも、これこそ神ならぬ人の身の為し得ぬ領域であろうと思います。
反省しているかどうかの判断は、裁判後の人生においての行動態度をある程度の期間にわたって観察して下すほうが、人間の認識力の限界を考えると合理的でありましょう。
すなわち、法に照らして処罰すべきか否かを感情を排して理性で判断するだけが裁判官の役割であり、反省→更生の確認(→酌量減刑)は行政が用意する別の社会システムに粛々と委ねるという流れがベターでしょう。
裁判官が自己の業務に徹するなれば、裁判という思索作業に三審制がかえって仇為して非常な長期間を要する現在の風潮はおかしいと思います。
そのおかしさには検察警察の雑な仕事ぶりも与るところ大なりと思いますが、彼らも司法の曖昧さの影響に支配されざるを得ない立場でもありすべての責めを負わされるものではないでしょう。
結果責任を問うつもりは毛頭ありませんが(労力の無駄が大きいですから)、現在の日本社会は三権のうちの一つである司法を担う裁判官職の「自覚」が最も問われている時代に入っているのではないでしょうか。

せっかくエントリが立ったのでまたコメントさせてもらいます。

僕もNo.1 ぼつでおk さんと若干近いですね。「犯罪の原因についての内省や自覚があれば再犯の危険性は低い」というのは一般論、抽象論としてはあやまりではないと思います。だけども、現実においてはこの一般論が機能しないような気がするんです。「改悛の情が見られる」とか言ってもねえ、「改悛の情」がウソなんだかホントなんだか…って思うのが普通じゃありませんか。

むしろこの一般論を逆方向に向けるならいいかもしれない。つまり、「出所したらまたやってやる」などと言うような者は矯正に時間がかかりそうだから例外としてその点を考慮する、と。そういうことだったら問題ないと思います。「本人が反省してるから刑を軽く」ってのはやはり違和感がありますね。

『反省』と言う用語の含む内容が、裁判で用いられる場合には世間一般で流通している言葉遣いと若干違うのでしょう。
私の理解では、裁判で用いられる『反省』は、カトリックにおける『痛悔』と内容面においてほぼ対等な、かなりハードルの高い概念だと認識しています。(私自身は信者ではありませんが教会が比較的身近にある環境に育ちました)

モトケンさんの記述にも

矯正教育としての服役期間(刑期)は反省のない人間より短くてもよいと考えることができます

とあるとおり、日本の刑罰は大雑把に言って「服役期間を通じて真人間に生まれ変わりなさい、そうしてから社会に戻りなさい」というものです。
 となれば、これも重複となりますが、自らの行いを正面から罪として受け入れることが未決拘留の段階からできているならば、服役させてから矯正完了にかかる「工数」は少なくて済む=反省のない者より短い刑期にしたり刑の執行を猶予するのに十分な根拠足りえます。

 私などからすればNo.2 山田さんのお書きになったこととは正反対で「『改悛の情が見られる』とか言ってもねえ、『改悛の情』がウソなんだかホントなんだか…って思う」のは、抽象論としては理解できますが、個別具体の事例を十把ひとからげにする論拠としては弱すぎると感じます。

 ただし!ただし、です。司法の場での判断はそれで構わないのですが、それでは収監後の矯正教育が適切に機能しているのか否か、また矯正が完了したとして社会復帰した「前科者」が社会においてどのような扱いを受けるのかは検討されなくてはいけないでしょう。

>No.3 惰眠 さん
>個別具体の事例を十把ひとからげにする論拠としては弱すぎる

ご指摘感謝いたします。もう少し書いてみますね。

「反省」が通常とは異なる用法で使われているのは分かりました(そんなややこしい言葉遣いは害はあっても一利なしだと思いますが…蛇足ながら)。

しかし…そもそも『被告人自身に内在する犯罪の原因』って、そんなに明確なモノですか。激情型の犯罪があれば計画犯罪もあり、殺人・放火・強姦・結婚詐欺から万引きにいたるまでいろいろありますけど、どんな犯罪においても「これが原因だ」ってそんなにハッキリ言えるものじゃないと思うのですよ(外在的な原因なら割と特定可能でしょうが)。『被告人自身に内在する犯罪の原因』とは「被告人の心の弱さ」とか「金銭欲」とかいった類のことですか?

結局、「反省」の定義がそれであっても、あいまいで抽象的で形のない概念を扱うことになるという点では変わりのないことだと思います。ですから、厳格な刑事裁判でそれを判断するのは不適切であり、困難であり、また判断する必要もないと思います。まさに“かなりハードルの高い概念”です。

>No.4 山田 さん
まず、「通常の会話言語と多少異なる」というのは、行政や司法などの局面で用いられる用語には限定的で明確な定義づけが行われているという意味です。

 さすがに法律用語に「反省」は出てこないでしょうが、どのような事象や状況、心境をもって反省があると看做すかについては、モトケンさんが『単に「すいませんでした。」、「申し訳ありません。」、「反省してます。」、「もう二度と悪いことはしません。」と言うだけでは、真に反省しているとは認定できないわけです。』とお書きになっているように、そんなレベルじゃ済まない高いハードルを設けた上に設定されたものです。

 そもそも日本の刑罰は(学説上いくらか解釈は分かれますが)矯正を目的としたものと解されます。罰を与えて溜飲を下げることが目的ではないのです。
 言い換えるならば、自分のしでかしたことときちんと向かい合い、何でそんなことをしてしまったのか、どうすればあんなことせずにすんだのか、なにをすれば償いになりうるのか、そういうことを真摯に考え真人間に立ち戻らせることが目的といえます。(実際に達成できているかどうか、どの程度の率で真人間に生まれ変わるかは別の問題です)

 結局、刑罰がそういう方針で定められているのだから、裁判の過程を通じて被告人が上記のような真摯な反省をしている――自己の犯した罪にきちんと向き合っている――ならば、それは情状の材料になるということです。

 逆を言えば、否認事件で有罪を受けた場合(ホリエモンなどですね)裁判所の認定において被告人が罪を犯したことは明白であるにもかかわらず、言い訳や弁解ばかりをして己の非を認めることもしないと看做され、より重い(無論法定の範囲で)判決を受けることになるわけです。
 場合によっては、更生の余地なしなどとして、無期判決になったかもしれないものが死刑とされたりもするでしょう。

 反省の表現形は、ケースによってそれぞれ異なるに違いありませんが、これを判断するのは困難でも何でもありません。また、刑法の理念からしても、これを汲まないのは不適切です。
 だいいち、反省してるかどうかの判断なんてマスコミの記者だってやってますよ。ニュースで時々聞きませんか?「判決の瞬間、被告はふてぶてしい態度で云々」とか「薄ら笑いを浮かべ」とか。逆に「じっと目を閉じうつむいたまま」とか。

昨夜か一昨夜か忘れましたが(耄碌気味?)NHKクローズアップ現代でアメリカの冤罪死刑判決を受けて収監されていた人がいっせいに釈放されたがその数270人ほどであった旨放映されました。
陪審員評決制度の是非よりも、刑事司法における警察の捜査手法及び検察の論告や裁判官の裁判指揮のほうにより大きな問題があるだろうと推測されているという内容です。
感心したのは冤罪被害者が釈放された時にはすでに各地警察や捜査機関で問題解決のための様々な取り組みが始められていた事です。

このスレに関係あるかなと思ったのはレイプ犯の濡れ衣で終身刑を宣告され11年後今回真犯人が判明して釈放されたひとが、裁判の様子を語った内容です。
彼は法廷で反省する態度を示さなかったことが判決に影響を与えたと語っていました。やった覚えの無いことについて反省も後悔もしようがないのにましてや宣誓した以上演技のほうが重罪であったでしょう。
彼の分析がすべてであるとまではいえないでしょうが、ことほど左様に人の目は小さな「思い込み」ひとつによってさえたやすく曇りやすいものなのではないでしょうか。

No.6訂正です(1回確認したんですが笑←照れ隠し)
 
一番下から6行上の「判決」を「評決」に訂正しますorz

あ、あとひとつ今まで書き忘れていましたが(愈々病膏肓)、モトケン先生のコメント
> 但し、死刑の場合における反省は、上記と意味合いが違ってくると思います。
> 死刑は社会復帰を前提としませんので。

について全く仰るとおりと私も考えており、先のコメントはすべてその前提で書いておりますことを付言申し上げます。

>No.5 惰眠 さん
>そもそも日本の刑罰は…罰を与えて溜飲を下げることが目的ではないのです。

これは疑問です。自力での報復を禁止する代わりに国家権力が刑罰という形で苦痛を与えることは、立派な目的ではないでしょうか。また、刑罰には犯罪を威嚇するという役割もあり、矯正のみならず「罰を与える」こと自体も刑法の主要な目的と言えます。ですから、矯正がなされやすい者について刑を軽くすることは法の要求するところである、とは必ずしも言えません。

>反省の表現形は、ケースによってそれぞれ異なるに違いありませんが、これを判断するのは困難でも何でもありません。

そうですか?確かに、明らかに反省していない者は判り易い。反省してるのにわざわざ反省してないフリをする人はあまりいないでしょうから。反省していない者は厳罰でよいと思います、僕も。しかしながら、被告人に反省の態度が見られるとき、その被告人が心から反省しているのか形だけ反省しているのか、誰に判断できるでしょう。カトリックの「痛悔」と同等と言われたように、これは心の内面の問題です。反省の弁を述べ謝罪の手紙を書き法廷でうなだれ涙を見せ被害者に償いのお金をたくさん払ったならば「反省」しているに違いない、などとは言えません(性善説なら別でしょうが…)。そのような心の内面の「真実」までをも裁判官に判断させることを法が求めているとは考えられません。

>結局、刑罰がそういう方針で定められているのだから、裁判の過程を通じて被告人が上記のような真摯な反省をしている――自己の犯した罪にきちんと向き合っている――ならば、それは情状の材料になるということです。

現実論として、「反省」に応じて刑を軽くすると、結果的に、それが「反省」に対するご褒美になってしまいます。するとそのことが、反省していない者に形だけの反省や謝罪を促す要因になります。ですから、刑を軽くすることはむしろ刑法の理念にそぐわないと思います。真摯な反省が望ましいのはもちろんですが、他人に評価してもらう「反省」は、真摯な反省には結びつきにくいのではないでしょうか。

>No.9 山田さん
まず、,覆執餡噺⇔呂犯罪行為に対して罰を与えねばならない(罰を与えても良い、ではなく)のかという検討をしなくてはいけません。
また◆嵌魁福瓮撻淵襯謄)」の持つ意味合いも検討しなくてはならないでしょう。
その上で「何のために罰を科するのか」という目的を論ずる必要があります。

正直申し上げて、これは刑法概論みたいな本が一冊書けちゃう(または大学の一般教養講座で1期を潰せる)くらいの内容なんですが・・・。

まず,砲弔い討任垢、刑事裁判と言うものは、被害者に成り代わって加害者を罰する、ではないんです。法の定めが犯されたから(つまり国――というか統治機構――そのものが被害者であるから)罰する、なんです。
それじゃ個別具体の被害はどうなるんだと言うと、民事訴訟で対処するわけです。被害補償を金銭換算する形で。

で△任垢、報復の意味合いじゃないんですよ。
もし「被害者になりかわって報復を果たす」だとすると、多くの重大犯罪事件の場合、犯した罪に対して科される罰が、軽すぎるでしょう?罰そのものは、理論上、刑事司法政策の主目的とするところじゃあないんです。
それじゃ何なのかと言うと、習った筈なんですが忘れました(汗)済みません。なにぶん20年も昔のことなので・・・。

最後にですが、これはもう端的に言って矯正のためです。
「貴方は過ちを犯しましたね、罰を与えるので自分の何が悪かったのかきちんと考えて、二度と同じことをしないようにしなさい」。反省と、自己変革ですね。

と言うわけなので、きちんと内省しているならば、その分は評価してもいい、と言うのがいまの刑事裁判です。(評価しないという裁判官の判断も、またあります)
御褒美なのではなく、刑事司法が求める事柄を、判決に先立って実行しているということです。

なお被告人が反省しているかどうかですが、これ結構わかりますよ。確かに傍聴席で見ていて疑問に感じることもないわけじゃないですが、そういう場合は大抵検察控訴になりますし。

>No.10 惰眠 さん
Wikipediaで「刑罰」の項がありました。学説には目的刑論と応報刑論が存在しており、『日本における通説は両者の側面を否定せず折衷する相対的応報刑論であるとされる。』ということです。惰眠さんは純粋な目的刑論をとっておられるようですが。

相対的応報刑論を前提にすると、矯正に劣らず、被害者感情(と国民感情)の保護も重要な目的であるということになります。反省していれば減刑という制度は、被害者感情を軽視するものです。

昨日、福岡市職員の飲酒運転で亡くなった3兄弟の母が「1年でも軽い刑なら私が殺しに行きます」と述べられたそうです。引き合いに出すのがはばかられるほど重い言葉ですが、被害者遺族として当然すぎる感情ではないでしょうか。反省に応じた減刑は、特に被害者が望まない場合は、すべきでないと思います。

純粋な、と言われちゃうと困るんですが、どちらかと言うと私の場合は応報説よりは目的説に重きをおきます。大学で教わった先生の影響が大きいところでありますが。

実際の裁判で「反省」は被告人有利の情状として加味されることもありますが、反対に被告人不利の情状として、被害関係者の処罰感情と言うものが加味されます。

福岡のケースの場合は、遺族でもある被害者の処罰感情が峻烈であること、昨今の飲酒運転に対する社会の視線が厳しい中でよりにもよって市の職員と言う立場の公務員が起こしたものであることなどから、被告人が改悛の情を示したとしても対して評価されないだろうと予想できます。要するに、バランスは取れているんです。

納得してしまいました。

本当に反省しているかどうか神でもない人間(裁判官)に分かるのかという点はまだありますが、結構分かるもんだと言われると、そんなものかしらと思うしかないですねえ。

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