エントリ

 「刑事弁護と社会正義」のエントリで、fuka_fuka さんがわかりやすい(それでもわかりにくい)コメントを書いておられますので紹介します。

 以下はその抜粋です。

そういう意味では、法的な 「正義」 は社会一般の 「正義」 と乖離しているという指摘は、法曹側は素直に聞かないといけないと思います。

じゃあどうすれば、法的な正義と、社会一般の正義とは折り合いがつくのか。

私が考えているのは、そういう 「法的な正義としての諸ルールが遵守されている社会」 は、 「目の前の真犯人(と思しき人物)を容易に処罰することができ、局所的な正義を貫徹することができる社会」 よりも暮らしやすい、社会全体の幸福の総量が多い、ということを立証するという説明です。

その説明ができれば、光市事件の被告人について仮に殺意が否定されたら死刑を科すことができなくなること (=傷害致死は殺人と区別され、死刑を科すことができないというルールになっていること) など、現在採用されている 「法的な正義」 を貫くことに例外を認めてはならないということについて、一般の理解も(少なくとも今よりは)得やすくなるんじゃないか、と考えています。

どうすれば「証明」に匹敵するような説得力をもつ説明ができるのかは思案中ですが。

 これを今理解していない人に理解していただくのは、私も至難の業と思えます。
 私なりに考えた方法というより理解のための一つのきっかけに過ぎないものですが

 やはり、自分または自分の家族が被疑者(犯罪者であると疑われる立場)または被告人(犯罪者であるとして起訴された立場)になる可能性を考えていただければ、少しは理解できるのではないかと思うのです。

 今枝ブログのコメントの多くを読んだ印象ですが、自分または家族が被疑者または被告人の立場に立つことなどあり得ないと考えている人が多いと思われます。
 しかしこれは、犯罪者と自分とは完全に別世界の住人であるかのような錯覚としかいいようがありません。

 普通の善良な市民が被疑者の立場にたつことはそれほど低い可能性ではありません。
 身近なところでは、車を運転する人なら交通事故があります。
 電車で通勤するサラリーマンなら毎日、痴漢冤罪の危険にさらされてます。
 誰かが、何らかの動機であなたを告訴すればあなたは被疑者です。
 でっち上げ告訴をすることもそれほどむずかしくありません。
 実際に加害者になる可能性はもちろん、冤罪に問われる可能性だってそれほど低くはないのです。

 しかし、このように言うと、光市事件の被告人は冤罪じゃない、二人を殺していることは疑いようのない事実じゃないか、という反論が聞こえてきます。
 ここで、殺人と傷害致死の区別を無視して被告人が犯人であることは間違いないとしても、あなた自身に冤罪の疑いがかけられた場合において、あなたが無実であることが誰の目にも明白であるとは限らないのです。

 そこで、無責任な告訴や懲戒請求を抑止する方法を考えておく必要がありますし、裁判官も間違うということを前提にしますと、その間違いの方向をできるだけ被害の少ない方向へ誘導する工夫なども必要になるわけです。
 できるだけ被害の少ない方向へ誘導する工夫の一つとして、「疑わしきは被疑者被告人の利益に考える。」という原則や、被告人の言い分を最大限に主張することを職責とする弁護人という制度があると考えることができます。

 ここまで書いても、「証明」に匹敵するような説得力をもつ説明ができたとは到底言えないところが悩ましい限りです。

| コメント(99) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

コメント(99)

「それでも僕はやってない」という映画を観たことがありますが、痴漢に間違われた青年が、当直明けの勤務で集中力が衰えているであろう刑事に適当に取り調べられ、無実を主張したばっかりに検事に目をつけられて起訴され、裁判官は裁判中に居眠りするような人で、弁護士がどんなにがんばってもあえなく執行猶予付き有罪の判決、というような筋立てだったと記憶しています。
 映画なので現実には有り得ない大げさな描写なのでしょうが、成人市民なら誰でも被疑者になりうる、という視点は確かに重要だと思います。
 光市事件の検事も、首をしめるときに両手でしめたか逆手でしめたかという件で、法医学者の所見と矛盾する主張をしていました。
 あの人は死刑で構いませんが、自分が被疑者になったときのことを考えると、あの弁護団を責める気にはとうていなりません。

モトケンさん、
私は被疑者の立場にたったことがありますが、それでも理解できません。
法的な正義が社会一般の正義から乖離していると言う指摘は、法曹界ではなく、政界にされるべきだと思います。
法律を定めるのは国会ですから。

光市の事件では、被告の犯した犯罪は死刑の量刑が適当であると思っている人が多数だと思います。
それがもし法的な正義によって死刑以外の判決がでるならば、納得できない人は多いでしょう。
2つの正義が乖離していると感じると思います。

だったら、法的正義が一般社会の正義から乖離しすぎないように法律を改正すればよいのではないでしょうか。
実際、悪質な交通事故に対して、法律が厳罰化の方向で改正されました。
刑法も改正すればいいと思います。
例えば極めて悪質な傷害致死は死刑をできると言うように。
そうすれば2つの正義も乖離しないようになるのではないでしょうか。

エントリに取り上げられてしまった・・・(^^;;;
恐縮です>モトケン先生


No.2 cancan さま

刑法も改正すればいいと思います。
例えば極めて悪質な傷害致死は死刑をできると言うように。

正当なご指摘と思います。
それが民意であれば、しかるべく法改正の動きが出てくる可能性があるでしょう。

↓私見
http://www.yabelab.net/blog/2007/09/23-180455.php#c81656

一般人の方々が現状の法律に不満を持っているのであれば、刑法をどのように改正すれば、自ら考える社会正義が実現できるのか、考えてみればいいように思います。

具体的な改正案を思いつかなければ、不満を言う資格はないという事になると思います。

モトケンさん、法的な 「正義」 と社会一般の 「正義」というエントリのタイトルからすれば妥当な問題提起と感じるのですが、これをこと光市の事件と言う個別具体の事例に置くと、やや齟齬が生じるかと思います。

と言うのも、No.2 cancan さんのコメントを拝見して感じたのですが、問題の裁判に関するハレーション(敢えてそう言いますが)は、多くの場合「被告の犯した犯罪は死刑の量刑が適当である」とのコメントに象徴される『誤認識』が大きなウェイトを占めているように思うからです。

No.2 cancan さんのコメントについて私なりに言うと、前提条件として「起訴事実が正しければ」が必要なんですが、どうも広く一般には「起訴事実=事実」と認識されてるように見えるのです。
かく言う私も「あれが傷害致死のわけねーじゃん」と思ってたりするわけですが(笑)いずれにせよ立証は尽くされねばならない。

なのに見たところ、事実確認の手順を端折って極刑にしろという人が少なからずいて、あげく『法の正義と社会正義が乖離してる』と言ってる観があります。
しかも『事実』と認識した根拠はマスコミ報道なわけです。

fuka_fuka さんやモトケンさんの問題意識は判るのですが、いささか思索の範囲を(上位概念にまで)広げすぎてるような気がしました。

【法的な 「正義」】 に対するところの、【社会一般の 「正義」】 をどう規定するかによるような。

「目の前の真犯人(と思しき人物)を容易に処罰することができ、局所的な正義を貫徹することができる社会」
「被告の犯した犯罪は(傷害致死であっても)死刑の量刑が適当である」

「光市事件」以外の凶悪犯罪ではそれほど【法的な 「正義」】 に対するところの【社会一般の 「正義」】 のような形でネット上などで話題にならないことを思うと、光市事件特有というか、ぶっちゃけ【あんな被告なら】の部分が大きい後者のようにも思えます。
上の前者であれば、冤罪のリスクなどを強調することで一般の理解をえられそうな気もしますが後者の場合ですとそれでは納得されないのかと。

つまり冤罪を防ぐ事を第一に考えるという価値観?
確かに冤罪はいけないが、その作用が強く働けば
今度はまた死者蘇生レイプやらが蔓延したら敵わん。
社会不安が広がって社会正義が達成されなくなる。
結局は事実認定方式を国民の社会正義に
合致できるようにすり合わせていくしかないんじゃないかな。
しかし懲戒請求をそこまで敷居を上げられても
困るな。
自浄能力に期待できないし、検問もあるんだから
もっと国民の権利として広く受け入れれば良い。
数だって「品位」を認定する一つの判断材料になるし。
逆に弁護士界に何も手が出せなくなるほうが怖い。
政治家だって官僚だって馬鹿ばっかなのに
弁護士だけ聖人君子という保証はないし。

>No.6 北風 さん
とどのつまり、正義は一つなのか、それとも正義は複数存在するのかという問題なのかなと思います。

例えば、同時爆破テロは正義なのか。私は日本人なので、同時爆破テロは悪だと思いますが、イスラムの方々の中にはテロを正義だと思う方もいるでしょう。それを受け入れるかどうかなのかなと思います。

正義は人の数だけ存在するのでしょうから、正義を元に社会を構築することは不可能です。人々の正義の最大公約数的なものがどうしても必要であり、それが法律なのかなと思います。

しかし一般人は無知ばっかだからな。
無知なやつらの難癖が蔓延するようじゃ敵わん。
裁判員制度も始まるわけだしは無知な一般大衆を強制的に集めて
正しい知識を教え込むしかないんじゃないかな。

>No.4 しま@その他 さん

>具体的な改正案を思いつかなければ、不満を言う資格はないという事になると思います。

さすがにそれはいきすぎかと。
医者の治療にかかって具体的な別の治療法を思いつかなければ不満を言う資格はないとはいわないでしょうし、家電製品を使って具体的な改善設計案を思いつかなければ不満を言う資格はないとはいわないでしょう。

ユーザーが「どこが不満である」と言い、それに基づいてどう改善するのかは製品やサービスを提供している側の仕事でしょう。

あるいは、法律だけは違うということなのかもしれませんが。

>「法的な正義としての諸ルールが遵守されている社会」 は(中略)ということを立証

 ワタシが1つ考えているのは、現在の日本vs北朝鮮的社会という比較です。
「治安」という点では、北朝鮮は良いと思うのですが、
社会全体の幸福の総量というと日本の方がましなのではなかろうか、
ということです。

ただ、これもピンと来ない人はピンと来ないみたいです。
「あんなもんと比較されても・・・ねえ。」
って感じ?
北朝鮮の治安も言うほどよくないみたいだしね。

>No.2 cancan さん

>刑法も改正すればいいと思います。
>例えば極めて悪質な傷害致死は死刑をできると言うように。

「極めて悪質な傷害致死」ですと、殺人が認定されることが多いのではないでしょうか?
未必の故意とか。

>北風さん
ええ、極論は極論だと思います。

ユーザーが「どこが不満である」と言い、それに基づいてどう改善するのかは製品やサービスを提供している側の仕事でしょう。

法律に関しては、ユーザーは法律家であり、メーカーは政治(そして国民)とも言えるのではないでしょうか

>No.8 しま さん
>とどのつまり、正義は一つなのか、それとも正義は複数存在するのかという問題なのかなと思います。

上で書かれている内容は収拾がつかないと思います。
「正義」まで拡張してしまうと収拾がつかないのではないでしょうか、せいぜい、法的な正義と社会一般の正義の話でないと。個々人の思う正義、宗教などからの正義などいけばきりがないので。

No.12 たぬきのポン太郎 さん
>「極めて悪質な傷害致死」ですと、殺人が認定されることが多いのではないでしょうか?

今は、そういうふうに運用でバランスをとっている、と
ワタシは把握しています。
「故意」といっても、未必の故意理論を含め、その定義が、
一般の「故意」感覚よりも広くなっているため、
実際上「極めて悪質な傷害致死」は故意犯と認定されます。

でも、名目も実質にあわせて欲しい、というご要望があるのであれば、
それにあわせることを検討する、というのも手ではあると思います。

私個人はあまり好きではありませんが。

>No.13 しま@その他 さん
>法律に関しては、ユーザーは法律家であり、メーカーは政治(そして国民)とも言えるのではないでしょうか。

ということは、しま@その他さんは、法律に関しては、その不具合については、ユーザーたる【法律家】が「ここはおかしい(から直すべきだ)」というユーザーとしての不満点を、メーカーたる【政治(国民)】にぶつけるべき、というお考えということですね。

私も法律に詳しくない一般の方々がここはおかしいというよりも、専門家たる方々が不具合を指摘する形の方がいいと思っていますが。

親兄弟子供を殺されたからって相手に仕返ししていいなんて正義を貫くとどうなるか?
パレスチナを見れば火を見るより明らかかと思いますが。「証明」なんてパレスチナ以外にもユーゴとかいくらでも転がっていると思います。
私刑が許されていたのは江戸時代初期まで(仇討ちが幕府の許可制になっていた)でしたが、裁判で遺族が被害者感情の赴くままに意見を述べられる今の制度は、あの時代に片足半分戻ったも同然だと思います。マスコミやイナゴはあの時代に戻ったほうがいいと言いたいかのように見えます。

>No.17 ppp さん
>親兄弟子供を殺されたからって相手に仕返ししていいなんて正義を貫くとどうなるか?
パレスチナを見れば火を見るより明らかかと思います

この例えは間違っていると思います。パレスチナの民は、親兄弟を殺されても、国(この場合殺した側のイスラエル)が罰を与えないから、あのような行動に出るのだと思います。
だから、その例えでいえることは、社会一般の正義と、法的な正義が乖離していれば、私刑を行おうとするものが増えるということです。

PPPP様、被害者感情の赴くままに意見を述べるのは当然の権利ですよ。特に被害者に何ら落ち度のない事件においては。
加害者は一方で好き勝手な意見が法廷で述べられる訳で。
あなたがあの時代に戻るのが世の為ですよ。

No.5 惰眠さま

「被告の犯した犯罪は死刑の量刑が適当である」とのコメントに象徴される『誤認識』

印象論の世界ですが、死刑適用相当!と主張している全員が 「誤認識」 に基づいてとは思わないんですよね。

かなりの割合が、「もし殺意はなかったと認定されたとしても、力任せに首を締め付けて、死体を凌辱し、また何の抵抗もできない赤ちゃんまで窒息死させた、という事実だけで十分死刑に値する」 という趣旨の主張をしているように感じました。

私は、そのような主張をしている人たちの理解を得ること、少なくとも理解を得ようと努めることが、刑事司法に対する信頼を回復するための不可欠の手段のひとつだろうと思っています。

その 「理解を得る」 ためのひとつの試みとして、「じゃあ、仮に被告人・弁護団の主張を裁判所が認めた場合でも、被告人を死刑にするためには、どういうルールが必要になるのか」 をみんなで考えてみるというのも有益ではないかと思った次第です。

その結果の 「納得」 は、 「やっぱり被告人は死刑相当だ! 重傷害致死罪、立法しようぜ!」 でも、「いろいろ考えると、殺意がなかった場合にまで死刑認めちゃいかんね」 のどちらでもいいと思います。

>光市事件の被告人について仮に殺意が否定されたら死刑を科すことができなくなること (=傷害致死は殺人と区別され、死刑を科すことができないというルールになっていること) など、現在採用されている 「法的な正義」 を貫くことに例外を認めてはならないということについて、一般の理解も(少なくとも今よりは)得やすくなるんじゃないか、と考えています。


素朴な疑問ですが、この光市事件の差し戻し審の結末として、母子二人に対していずれも殺意があったと認定されながら、それでもなお被告人が死刑にならない可能性も大アリのような気がしているのは、私だけなのでしょうか?

事実が弁護側の主張どおりだとしても死刑相当とおっしゃる方々へ。

たとえば、あなた、または、あなたのお子さんが、脳の障害により、
同じような犯行を行なった場合、やはり縛り首相当と?

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉があります。
今の司法制度は、千年・二千年と言った人類の長い歴史の中で、
少しずつ磨かれて成立した制度ですよね。
それはやっぱり正しいんですよ。
一人の人間の人生=経験なんて、たかだか90年でしょう。
人類の長い歴史から見れば、ほんの一時でしかありません。
歴史に裏打ちされた司法制度を信頼するのが、正常な理性なのだと思います。

>No.12 たぬきのポン太郎 さん

レスありがとうございます。

>「極めて悪質な傷害致死」ですと、殺人が認定されることが多いのではないでしょうか?

そうだと思います。
しかし、殺人と認定されないようなことがあれば法改正を検討すべきだと思います。
例として、光市の事件を挙げました。
もしこれが、殺人と認定されないならば、
極めて悪質な傷害致死に当てはまると思います。

>>22さん、脳の障害が全くない完全体な人間なんてこの世に存在するの?普段は正常でもある特別な条件下においてはパニックがおきる、人間なんてそんな完璧ではないですよ。

そもそも精神科医の鑑定すら人によりまちまちで軽度の障害ではそれこそ収集がつかないくらいいろんな病名がでてくるよ。

それにあなたの意地悪な質問に代わりにこたえると、縛り首のが親にも子にも幸せですよ。その子をベッドに縛りつけて監視できるのも親が生きている間だけですから。子供より先に親が死んだら監視を他人にまかせるしかないですからね。

>No.24 cancan さん

>例として、光市の事件を挙げました。
>もしこれが、殺人と認定されないならば、
>極めて悪質な傷害致死に当てはまると思います。

もし本当に、殺意も無く、傷つけようという気もなかった場合、
「極めて悪質」と言えると思いますか?

>No.25 桃太郎 さん

>それにあなたの意地悪な質問に代わりにこたえると、縛り首のが親にも子にも幸せですよ。その子をベッドに縛りつけて監視できるのも親が生きている間だけですから。子供より先に親が死んだら監視を他人にまかせるしかないですからね。

あなたや、あなたに近しい人が、何らかの不運により、
同様の犯罪者にならないことをお祈りします。

>No.26 たぬきのポン太郎 さん

>もし本当に、殺意も無く、傷つけようという気もなかった場合、「極めて悪質」と言えると思いますか?

光市の事件のことについて質問されていると仮定して返答します。
「極めて悪質」と言えると思います。
理由:
被害者に落ち度がないこと。
被害者が女性と赤ん坊であること。
被害者が死後、姦淫していること。
被害者の金品を持ち去っていること。(その金で遊んでいること)
もっといりますか?

と言うか、傷つけるつもりさえ無かったのなら過失致死ですよね。
過失致死でも死刑であれば、交通事故で人を殺めた場合でも死刑になりますが。

たぬきのポン太郎様

念のための確認ですが、

>たとえば、あなた、または、あなたのお子さんが、脳の障害により、同じような犯行を行なった場合、やはり縛り首相当と?

あなたの配偶者とお子さん(いらっしゃるかどうか分りませんが)が、今回の被害者と同様な目(詳細は書きたくありません)に合わされても、脳に障害が認められる場合は「寛刑でもしょうがない」と納得されますか?

私には無理です。

>No.28 cancan さん

傷害後の事情で、傷害そのものを「極めて悪質」と判断するのはどうかと思います。
たとえばあらかじめ金品を奪おうという意思なら強盗になるでしょうが、
そうではないみたいですし。
なので、おっしゃる中では、

>被害者に落ち度がないこと。
>被害者が女性と赤ん坊であること。

が判断材料ということになりますが、
被害者に落ち度があったかなかったかは、問題にするとややこしいと思います。
被害者がどう言動したかはわからないし、何をもって「落ち度」とするかも難しい。
とすれば、残るは、「殺意も無く、傷つけようという気も無かった場合に、
女性と赤ん坊を死なせてしまったケース」ということになりますが、
これが「極めて悪質」と言えるのか、疑問に思います。

No.2 cancan さん

>刑法も改正すればいいと思います。
>例えば極めて悪質な傷害致死は死刑をできると言うように。

以下の議論を見て素朴に感じるところを... それは「正義」の定義上のただの言葉の遊びで、じゃあ、ここまでは新たに死刑にしました、じゃあこれは?... という無限ループになるだけと考えます。常にグレーゾーンが連続的に存在します。そのグレーゾーンに対してはきちっとした線引きが必要で、その定義が膨大な法体系であり、グレーゾーンの処理にそのかなりの割合の時間と労力が割かれているいることも想像に難くありません。今回はこうだから、それをここまでは広げたら?を認めると、法体系全体の整合性が保てないと思われます。

No.20

かなりの割合が、「もし殺意はなかったと認定されたとしても、力任せに首を締め付けて、死体を凌辱し、また何の抵抗もできない赤ちゃんまで窒息死させた、という事実だけで十分死刑に値する」 という趣旨の主張をしているように感じました。
私はそう感じませんでした。
確かに「もし殺意はなかったとしても」と文章では書いていますが、その前提には「こんな事件で殺意を認めないなんて常識では有り得ない」(私も同感、そしてモトケンさんも同意見と思います→http://www.yabelab.net/blog/2007/09/23-174117.php#c81751)というのがあり、そこを争っている腹立たしさ、そして傷害致死の可能性があるような論もあるので、それに苛立っての主張だと感じました。

ですから、表現はともかく、結局は事実認定の問題に帰着するように思います。
ただ殺意を認定しても死刑か無期か(過去の経緯から二つに絞られる)の問題が残りますが、そこは最高裁の差戻し意見の「死刑を回避する事情があるかどうか」にかかることになります。

希望的観測と言われるかもしれませんが。

 やっぱり私のエントリには説得力がないことが明らかになりました(^^;

>No.30 じじい さん

>あなたの配偶者とお子さん(いらっしゃるかどうか分りませんが)が、今回の被害者と同様な目(詳細は書きたくありません)に合わされても、脳に障害が認められる場合は「寛刑でもしょうがない」と納得されますか?

そうなった場合の遺族の気持ちは、私には想像もつきません。
安易に想像できるものではありませんね。
「絶対死刑!」って思うかどうかわからないです。
一日も早く娑婆に出して自分の手で殺したいと思うかもしれません。
犯人がどうなっても死んだ人が生き返るわけでないからどうでもいい、
と思うかもしれません。
故人は「殺し」を望んでいるのだろうか?と悩んで、
江原啓之氏みたいな人に会いに行くかもしれないし、
これが死刑にならずして何とする!と、運動を起こすかもしれない。
わかりません。

>No.30 じじいさん

あなたの配偶者とお子さん(いらっしゃるかどうか分りませんが)が、今回の被害者と同様な目(詳細は書きたくありません)に合わされても、脳に障害が認められる場合は「寛刑でもしょうがない」と納得されますか?

あなたの配偶者やお子さんが、精神疾患に罹った後、今回の加害者と同様な行為を起こされて、脳に障害が認められても「厳罰でもしょうがない」と納得できるか、ということも考えておくべきでしょう。

素朴な感情で、判決が正義とか不正義とか判断するのは無理があると思うんですよね。
何をもって極刑をすべきかなんて、そんな簡単に判断できることじゃないでしょう。

飲酒運転で子供を3人殺めた元福岡市職員は死刑ですか?
万引きした男を懲らしめようと暴行して殺めた店員は死刑ですか?

仮に全国民に多数決とったって、意見は分かれると思いますよ。
多数決を取るタイミングによっても意見は全然異なるでしょう。
それこそ中世の魔女狩りになりかねません。
だからこそ、殺意があるかないか、犯行の計画性があるかどうか、と言った判断が重要になるんだと思いますよ。

社会一般の「正義」とは、例えば、我が家の女性陣に聞くと「殺害以前に性犯罪の段階で問答無用の死刑」というのが女性の一般的な感覚だと言います。彼女達は生理的に今回の被告人を許せないのであって、弁護団の主張など理解しようとも、ましてや同感などしません。前提となる知識は、マスコミの報道のしかも一部で、どういう経緯で弁護団があのような一見荒唐無稽に見える主張を展開するのかは(今のマスコミの現状では)全く耳に入りません。私でさえ、ここにお邪魔するまでは、似たり寄ったりの感覚でした。その後、家族に詳しく事の成り行きと、刑事事件の弁護人の役割について説明しましたが、でも、「あんだけやったら死刑で当然でしょ」という考え方は変わりませんでした。だからぁ、そうじゃなくてね、その怒りの矛先が弁護団に向けられのが間違いで、立法府に向かうのが筋ではないかと説明しましたが、なかなか理解してもらえません。
やはり、マスコミ情報の一部を捉えて、「あんだけやったら死刑で当然でしょ」→「弁護団は何なめたこと言ってるの」くらいの批判がほとんどなのではないか、と今枝ブログを読んで感じました。あまりにも「でも、2人が死んだことは事実でしょ」という論点のずれたコメントが数え切れないほどあったのを記憶しています。

>>34
モトケン様

(今回の弁護団活動に対し)非法曹がなかなか納得しない事に苛立ちを覚えておられるのでしょうか。
少なくともこのスレッドには凶悪事件に対する刑事弁護活動を全否定するコメントは無かったように思えます。
※スレッド中盤以降のやり取りは刑事弁護のあり方を超越している気がします。
小生は貴ブログにて、刑事弁護のあり方を少し理解できたものと考えております。
刑事弁護活動の意義は多少脅し挙げてでも非法曹に理解せしめる必要があるのかもしれませんが、非法曹が法曹界(この場合は弁護士界)に事大してしまうことも恐ろしいと考えます。

>No.33 psq法曹 さん

>ただ殺意を認定しても死刑か無期か(過去の経緯から二つに絞られる)の問題が残りますが、そこは最高裁の差戻し意見の「死刑を回避する事情があるかどうか」にかかることになります。

 仮に母子二人に対しての殺意を認定されたとしても、赤ちゃんの叩きつけ行為がなかったと認定されるなど、犯行態様の残虐度がこれまでより少しでもマシに認定されることにより、死刑が回避されるということはありえないでしょうか?
 素人考えですが、一、二審で事実だと認定された犯行態様の残虐さ、非道さをもってしても、被告人は死刑か否かの境界線に立っていたわけですから、この差し戻し審で弁護側の主張が一部でも認められれば、死刑にならないのでは…という気がしています。

 というか、もうちょっと社会全体の仕組みというか法制度全体を見渡す観点からの意見が欲しいな、と思う今日この頃であります。

 善良な市民の皆様お一人お一人にとって理不尽、不条理な事態が起こりうることを前提として、どういう社会がより暮らしやすい社会であろうか、ということでございます。

たぬきのポン太郎様

失礼な問いかけをしまして申し訳ありませんでした。

たぬきのポン太郎様の22のコメントでの問いかけは、私の30の問いかけと同様、極めて特殊な状況を前提として尋ねるものであり、通常、客観的な回答が困難なものです。

あなたの家族だったらどうだという問いかけは、加害側、被害側のいずれからも出てくる可能性はありますが、いずれにしても特殊な状況設定を前提とするのは、回答者の人間性を人質に取ったアンフェアなものであると思いますよ。(私も昔、よくやっていましたが・・・自戒を込めて)

No.40 けん さま

この差し戻し審で弁護側の主張が一部でも認められれば、死刑にならないのでは…

「一部でも認められれば」 の条件がみたされれば、十分ありうる話だと思います。

その 「条件」 がみたされるのかどうかが最大の問題ですね。

No.41 モトケンさん

なるほどかしこまりました。命題は小生には高尚過ぎます。法制度全般を俯瞰する知識はございません。
レス汚し失礼いたしました。
ROMに戻ります。

追記
モトケンさんの丁寧語表現には何かしら本能的な恐怖を覚えます。

>No42 じじいさん

No.22を見落としていました。すみません。

No.40
事件の全体の流れを見れば、叩きつけ行為が否定されて残虐性がマシになっても、それで死刑にならないとは思っていませんが、その点は今考えても仕方なく、今後の高裁・最高裁を待つしかありません。

>NO41モトケンさま
尊敬するモトケン様にそのようなコメントがあると、私はよけい混乱します。前半では、法制度をよく知っていなければならないと思いますしー私にはまだまだよく見えていませんー。
後半では私のような法律にあまり詳しくないような人間でもコメントを出してもいいような感じにも聞こえますしーー。

はじめてコメントさせていただきます。(ROM暦はながーい者です。)

本当に法的な 「正義」 は社会一般の 「正義」 と乖離しているのでしょうか?「目には目を、歯に歯を」の時代から、人類史とほぼ同じ時間をかけて熟成してきたルールなのに。(別スレでもそういうコメントがあったかと思います)

私は、多くの検事気取りコメントが主張とその主張が認められた結果に対して鈍感なだけだと感じます。
死刑の執行に際しては、検事が立ち会うという話をモトケンさんブログ記事で知りました(4つのボタンの話です)。さらにネットを調べると判決を下す立場である裁判官は立ち会わないという事も知りました。
これを知って、法制度とはよく考えられているのだなと思いました。検事は自ら刑の執行に手を下すかもしれない事も踏まえ、法的根拠と良心にしたがい死刑を求刑しているのだと思います。裁判官は比較して冷静な感情のもとで、法的根拠と良心にしたがい判断をできるのだと思います。
今、巷にあふれる「にわか検事(社会一般の正義?)」の主張にはこの観点がありません。無責任に感じます。またやむにやまれず死刑を求刑する検事にも失礼です。

モトケンさんは以前のエントリーで裁判員制度によって死刑事案に対する(死刑判決を躊躇する)バイアスについて懸念を表明されていますが、(少なくともこの事案では)世間一般のベクトルは逆に働いているようです。(現実に裁判員になったら変わるかもしれませんが。。。)
この際もっとすすめて、片面だけでない検事(または刑務官を含む行政)の職責を担えるよう「無作為にえらばれた国民が刑執行に立会う」制度の導入というのはいかがでしょうか?

いろいろ発言してから何ですが、「社会一般の『正義』」と「法的な『正義』」の定義は何なんでしょう?この点で少しずつ見解の違う方々が議論しても、意味を成さないと思うのですが。特に前者は定義の仕様がないような気がするのですが...
素人考えで申し訳ありません。

>No.42 じじい さん

>失礼な問いかけをしまして申し訳ありませんでした。

いえ。失礼とは思いませんでした。
自分が被害者(遺族)だったらって考えるのは、大事なことだと思います。

>あなたの家族だったらどうだという問いかけは、加害側、被害側のいずれからも出てくる可能性はありますが、いずれにしても特殊な状況設定を前提とするのは、回答者の人間性を人質に取ったアンフェアなものであると思いますよ。(私も昔、よくやっていましたが・・・自戒を込めて)

被害者になる可能性と同じぐらい、加害者になる可能性はあると思います。
被害者(遺族)になった場合に、どんな気持ちになるかは想像もつきません。
同様に、自分や近い人が加害者になった場合に、死刑!と言い切れるのか。
そういうことも考える必要があるかなと思いました。

No.49 通りすがり@茶番劇 さま

「社会一般の『正義』」と「法的な『正義』」の定義

言い出しっぺですが、厳密な定義を与えなくても、明らかに両者にズレがあるものに絞って考えるだけでも、本エントリとの関係では有意義だと思っています。

たとえば違法収集証拠排除法則などいかがでしょうか。
私なぞ、学生時分にその法理を習った時は、
「シャブ所持が確認されたなら、無罪放免はおかしくね?違法な捜査をした警官は処分したうえで、現に犯罪を犯した人間はしかるべく処罰されるべきじゃん?」
なんて考えたものですが。

以前私は、モトケンさんと同じようなコメントを2chでしました。『自分の家族が今回の事件の被告だったら・・・』と。反応は、『被害者になる立場を想定できても、加害者の立場なんて誰も考えない!』と相手にされませんでした。
私は、自分が加害者側になったときと、被害者側の立場におかれたときを想定して中立の立場で冷静に成り行きを見守っています。被害者側を想定した時、この事件の被告には憤りを感じますし感情的にもなります。しかしながら、自分が被告側だったとき、今枝さんはじめ弁護団は頼もしい存在に思えます。ですから、どちら側にもたてません。
ただ、法曹に携わる皆様には世間の感情に左右されず、職務に忠実であって欲しいと願っています。

No.51 fuka_fuka さん

>「シャブ所持が確認されたなら、無罪放免はおかしくね?違法な捜査をした警官は処分したうえで、現に犯罪を犯した人間はしかるべく処罰されるべきじゃん?」なんて考えたものですが。

それは、飲酒運手したものを相手として、本来は自分に過失のある事故を起こした場合、相手は飲酒してたんだから、本来はその場にいなかったはず、という論理が成り立つのと同じではないでしょうか?この理論って成り立たないんでしたっけ?

No.53 通りすがり@茶番劇 さま

飲酒運手したものを相手として、本来は自分に過失のある事故を起こした場合、相手は飲酒してたんだから、本来はその場にいなかったはず、という論理

え、まったくの初見です。その論理。
何かソースってあります?
法的な処理としては、その「酔っぱらいにぶつけたドライバーの論理(仮定的因果関係の主張、でしょうか?)」が認められることはないと思います。

説明をハショってしまいましたが(興味が湧いた方であればググって調べてくれるだろうと期待して・・・)、こういうものです。

違法収集証拠排除法則(Wikipedia)

基本的にはNo.2 cancan さんのご意見に1票です。

その上で、現代の価値観と法で定められた量刑に乖離があることが問題なのだと思います。
No.38で通りすがり@茶番劇さんがおっしゃられていますが、現在の女性にとって、性的犯罪(ここでは強姦とします。)が死刑にも相当するような重罰にしてほしいという感情を抱いています。
一方で、強姦という罪が既定されたのはいつなのか詳細は存じませんが(明治40年なのでしょうか?)、明治であれば男尊女卑の時代かつ地方には夜這いという風習さえ残っていた時代です。

その時代に定められた量刑で現代の事象を裁くということに無理があるのだと思います。

 本件で、社会と刑事司法との間に緊張感を生んでいるのは、外形的な事実には争いがなく、内面的な事実(殺意)にのみ拘泥した裁判に、社会が辟易としているからでしょう。内面的な事実など、結局その場にいた人間にしか最終的にはわからないというのが普通の感覚で、事後に第三者が推定することができるというのはある意味傲慢です。あやふやな推定しか有り得ない内面的な事実により大きく刑が変わりうるという刑事司法の仕組みに違和感があるのは、被害者や全くの第三者的な観点からすれば当然かと考えます。
 しかし、一方で仮に外形的な事実(本件でいえば彼がいなければあの親子が死ぬことはありえなかった)優先で刑が決定するとした場合、外形的な事実で二人以上の人間が死ぬことなどいくらもあるわけです。交通事故は外形的には殺人行為ですが、これを殺人とするのでは毎年数千人の殺人犯が誕生してしまいます。こうした社会が本当にすみよいかどうか。やはり個別事情に立ち入った判断は必要であり、それが殺意の有無に関する争いという形でインプットされているのが今の刑事司法なのであれば、それは容認すべきものでしょう。

たぬきのポン太郎様

私も、自分が加害者側だったら、自分が被害者側だったらということを自問自答することは大変重要だと思います。

ただ、国民のほとんどは、そうした前提で客観的な判断はできないのではないかと思いますので、それを他人に問うて答えを明らかにさせ、それに対して相手の人間性に関する悪評価を加える(もしくは回答者にそのように想起させる)のはアンフェアではないかという趣旨です。

27では、この悪評価を想起させるコメントでしたので、30の問いかけをしたのですが、35では真摯に考えていただき、自分の早とちりを恥じているところです。

モトケンさん

こんばんは。まだPCをご覧になっていらっしゃいますか?
エントリーやNo.34・41を読み、以下のように考えました。
 
 このエントリーでモトケンさんが意図しているのは、
「“手続保障”の意義をどうとらえるか(理解するか)?」という問題だと思われます。それが読者の皆さんに必ずしも十分伝わず、“いかなる処罰感情に正義を認めるべきか”という問題として受け止められている、といった感じでしょうか。
 以前から様々なやり取りにおいて、「自分が冤罪で拘束されたら…」という問いに、“ハッと”気づく方もいれば、そうでない方もいたと思います。「権利保障に例外を認めたり、ケースごとに制約を加えることが、果たしてプラスなのか?またそんなことが可能なのか?」という点の理解がポイントになるのでは、と僕は考えています。
いかがでしょうか。
 

>No.48 (み) さん

>世間一般のベクトルは逆に働いているようです。(現実に裁判員になったら変わるかもしれませんが。。。)

 たぶん変わると思います。
 私は検察官として死刑を求刑したことがありますが、本件と同じような事件あるいは本件よりもっと残虐非道な事件であっても、裁判員の皆さんは私よりはるかに厳粛に命の重さを感じるのではないかと思います。
 またそうあって欲しいと思います。

>No.44 薬屋のIT さん
>No.47 O さん

 私の意図とは若干ずれているようですが、光市の事件において法的な 「正義」 と社会一般の 「正義」 とは乖離しているのかいないのかという議論になっているように思われますので、それはそれで議論として必要なことと考えます。
 思うところを積極的に述べていただければうれしいです。

>No.58 a.x. さん

>以前から様々なやり取りにおいて、「自分が冤罪で拘束されたら…」という問いに、“ハッと”気づく方もいれば、そうでない方もいたと思います。「権利保障に例外を認めたり、ケースごとに制約を加えることが、果たしてプラスなのか?またそんなことが可能なのか?」という点の理解がポイントになるのでは、と僕は考えています。
いかがでしょうか。

 はい、そのとおりです。
 「権利保障」は私の考えでは「手続保障」または「制度的保障」のほうが近いですが、例外を認めたのでは保障の意味が没却されると考えています。

いまさらですが…
>No.18 pinpin さん
>この例えは間違っていると思います。パレスチナの民は、親兄弟を殺されても、国(この場合殺した側のイスラエル)が罰を与えないから、あのような行動に出るのだと思います。

う〜ん…そういうことを言いたいんじゃなくてですね。あのような行動に出るから、今度は殺されたユダヤ人の遺族が恨みに思ってパレスチナ人を殺すでしょ。そしてそれを恨みに思ったパレスチナ人がユダヤ人を殺すと。そういう負の連鎖をいつまでも続ける不毛な例として上げたんですよ。

被害者の遺族の言論活動が元で裁判結果がゆがめられて、遺族が活動しない(財産目当てとか、家族が殺されて喜ぶ輩もいます)の裁判と比べて不当に重い刑が下って、恨みに思った被告の遺族がその被害者の遺族を殺し…究極的にはそういう負の連鎖が起こりうることを危惧しています。

日常の些細なことでもそうですが、やられた方はやった方より根に持つものです。本能的なものなので理性で超越は困難です。だから私刑を許すとやった方としては理不尽な仕返しになってしまいます。結果的に逆恨みを誘い、負の連鎖が始まってしまいます。それを避けるために人類は基本的に私刑を避け、刑罰を権力者が管理してきた(ハンムラビの時代ですら、やられた以上のことは許されてません)のに、なぜこの現代になって遺族の処罰感情を裁判の中で取り上げるようになったのか?

そりゃあ気持ちはよく分かる。でも被害者感情で罪が重くなったりしたらそれは実質私刑で、被告関係者から仕返しを受けるリスクが増え、負の連鎖に陥るかもしれない。そんなことを国が許してはいけないと思います。

>だから、その例えでいえることは、社会一般の正義と、法的な正義が乖離していれば、私刑を行おうとするものが増えるということです。

社会一般の「正義」が平等なものであればいいんですが、実際の社会一般の「正義」は、マスコミの煽ったごく一部の裁判だけを対象とし、マスコミのセレクトした情報だけを拠り所にしたものです。マスコミの取り上げないほとんどの裁判はそのままで、取り上げた裁判だけ厳罰化しちゃっていいんですか?検察弁護双方の言い分を裁判官みたいにしっかり聞いてるわけでもないのに断罪しちゃっていいんですか?

マスコミが取り上げなかったら、まして被告がマスコミとつながっていてマスコミが被告寄りの情報を流して社会一般が被告を応援していたら、その被告は甘い罪で済むんですか?同等の罪を犯したら同等の罰を受けるべきじゃないんですか?

社会一般の「正義」が平等なものになるには、市井の人々が全ての裁判記録を熟読し、各々の価値判断によって白黒付ける必要があります。そこまで皆さんが努力すれば法的な「正義」とほとんど一致することでしょう。全部読むなんて実質無理だから、わずかな情報で軽々しくものを言わないよう一般人は自重すべきですし、法曹関係者はそういう無責任な意見に流されない理性が求められると思います。

>No.19 桃太郎 さん
>PPPP様、被害者感情の赴くままに意見を述べるのは当然の権利ですよ。特に被害者に何ら落ち度のない事件においては。

意見を述べることは確かに言論の自由で保障されている当然の権利です。意見を述べること自体は問題視していません。私が問題視しているのは「裁判で」遺族が(争っている事実関係と関係ない、自身の心情を)述べることです。
何のためにそのようなことをするんですか?より重い罪が下ってほしいからですよね。本当にそれで重い罪が下ったとしたら、上で書いたような家族を殺されて喜ぶような遺族だった場合、その犯人は相対的に軽い罰になってしまいますよね。同じかけがえのない命を奪っておきながら、遺族が怒ってなければ軽い罰になってしまっていいんですか?それって私刑とどこが違うんですか?そんな不平等私には許せません。

>加害者は一方で好き勝手な意見が法廷で述べられる訳で。

被告は検察から都合の悪いことを尋問されるって事を忘れてます。被害者の遺族が、目撃者として証言台に立って、弁護側の尋問も受けるってなら分かります。でも今回の意見陳述は、弁護側の突っ込みようもない処罰感情を言うだけ言って、はいさよなら、と。

そりゃ誰だって大事な人を殺されたら同じ事をしたい。僕だってしたい。でも、それを制度として国が許して本当にいいのでしょうか?

No.61 モトケンさん
深夜にもかかわらず、お返事有難うございました。

>No.59 モトケン さん
深夜にもかかわらず、私のつたないコメントにレスいただきありがとうございました。また、ROMにもどります。おやすみなさい。

 単純化しますが、光市事件の被告の弁明、秋田連続児童殺人事件の被告の弁明、ともに信じ難いです。しかし仮に、助かりたい一心での虚言としても、それはそれでいいのではないでしょうか。人間の弱さや身勝手さを非難しても始まらないと思います。裁判官の心証を害するだけに終わるか、あるいはどれほどかの真実を含んでいるかは裁判の過程で明らかになるでしょう。
 とにかく弁護士は被告の立場にしか立ち得ません。橋下弁護士はそれを知りながら視聴者の攻撃感情を煽って懲戒請求を勧めるなどもってのほかです。まして自分自身では懲戒請求をしない。論外です。法律的正義にも社会的正義にも適っていません。
 
 以下はネットで知り合った三人が女性を殺した事件の、殺害場面です。
 
「神田が被害者の背後から羽交締めして、堀と川岸が暴れる被害者を押さえつけ、被害者がぐったりしたところへ、堀がハンマーで被害者の頭部を3発殴った。被害者の血が飛び散り、堀が殴るのを止めた。その後、綿のロープで被害者の首を堀と川岸が絞めた。被害者がもがくので、神田と堀が被害者の顔面にガムテープを巻いた。顎から額までグルグル巻きにした。そして、その上から、レジ袋を被せ、首の部分をガムテープで止めた。被害者はぐったりしたが、未だ生きている様なので、神田がハンマーを取り、被害者の左側頭部を30回殴打して、被害者は死亡した。」
 
 残虐さの度合いは光市事件に劣らないと思います。私は「きっこの日記」の愛読者ですが、きっこさんは、こんな奴らはその場で射殺しろ、弁護も更正も必要じゃない、と激しいことを仰ってます。きっこさんらしくありませんが、彼女の気持ちは解ります。「社会一般の正義」というより「社会一般の怒り」でしょうね。とても正義とは言えません。
 
 被害者のご遺族がHPを立ち上げ、「極刑陳情書」への署名を募っておられるそうで「きっこの日記」にリンクが貼られていました。
 
 http://www2.odn.ne.jp/rie_isogai/
 
 弁護士への「懲戒請求」と、「極刑陳情書」は、怒りに発する点においては同じです。
 しかし前者は正義には適い難いです。しかし後者は? 社会感情が攻撃的になり過ぎるのも問題があると思いますので判断が難しいです。

法的な 「正義」 は社会一般の 「正義」 と乖離しているという指摘は正しいと思っています。

そして,法的な正義は,ひとまず歴史的な経過を経て,ようやく得た(過渡的かもしれませんが)制度であることは間違いないと思います。

ただし,社会一般の「正義」とは,果たしてその歴史に耐えうるのかどうかは検討を要します。

モトケンさんのおっしゃる「自分や家族があるいは被疑者・被告人になるかもしれない。」「その可能性はそれほど低くない。」という説明は,実は,とても比喩的なものと,私は思っています。

少なくとも私は,どういうわけか,私や家族は,そのように,被疑者・被告人にはならないし,有罪になったり,死刑になったりしないと思い込んでいます。

「私や私の家族ははそのように逮捕・起訴されることないし,有罪にされることもない。」と思えるということ自体,先ほど述べたようやく得た法的制度のたまものなのだと思うわけです。

今ある制度は

1 事実を,検察官VS弁護人・被告人のそれぞれの立証を前提に,裁判所が,被告人に最大限有利に認定し,その事実を前提に両者の主張を検討し,

2 これに法律を適用し,有罪であれば

3 その法律の範囲内で,刑を科す

というものです。好むと好まざるに関わらず,そのようになってしまっています(これは,法律家が劇的に変更しうる事柄ではないと思っています)。

そして,この制度のおかげで,要するに,私や家族は,被疑者・被告人にはならないし,有罪にも死刑にもならないと,ようやく確信しているんじゃないかと思うわけです。

例えば,日本で言えば,戦前で,誰もが有罪や死刑と無縁と言えたでしょうか。魔女裁判はどうでしょうか。それほど古い歴史ではありません。

今の制度は過渡的かもしれません。
現に,自動車運転に対する厳罰化(とりわけ先ほどの3にかかわるもの)は,その典型です。危険運転関係の犯罪は,2に関わるものです。

ただ,1の点をいじるべきかというのは,検討すべきものだろうと思っています。人が裁く以上,1は,現段階で,どうしようもなく必要なものだろうと思います。好むと好まざるに関わらず。

「手続保証」については当たり前の大前提だと思っていて、それに疑義を挟む人が存在すること自体信じられません。義憤に目がくらんでるだけだと思っていたのですが…

もし世間が「手続保証」に理解がないのだとしたら、それは「手続保証」が裁判でしか保証されていないからだと思います。現実に逮捕されたら大抵すぐ解雇か放校ですよね。事実関係が裁判で確定する遙か前に結果が決まってしまうわけです。これって専門の方はおかしいとは思わないんでしょうか?

スーフリみたいに有罪が確定している事件を例にはしたくないのですが、あれも一人は早稲田の政経で法律の専門家の巣窟のはずなのに、逮捕の数日後には退学処分になってびっくりしたものです。

そんな手続の全く保証されていない現実を放置していながら、世間の無理解を嘆いても説得力がありません。被疑者なり被告が個別に企業や学校を訴えろと言うかもしれませんが、PL法成立以前の商品不具合訴訟と同じで敷居が高すぎます。

前科者が政治団体を作って陳情するとは思えませんので、弁護士会などが、そういった手続無視の企業・学校を取り締まる法律を作らせて、警察が親告なしにがんがん摘発していけば、いずれ国民の無理解も改まるかと思います。

先に裁判の迅速化をしておいた方が良いかもしれない。(^^;

ド素人意見ですが、コメントさせていただきます。


ぶっちゃけ、近代国家においては、「社会正義」=「法的(適正手続き)正義」と理解しちゃっていいのではないでしょうか。あくまで中学高校の公民レベルの話にしておいて。皆が一応合意しているとされる憲法やら制度の話に。法曹と世間の乖離とかじゃなくて、「国民の常識」の話に。


たしかに、法的正義じゃどうにもならない正義もあると思いますが(特に政治的には)、光市事件周辺において「世間の風」の方々が訴える「社会正義」はそういう次元の話だとは思えません。ただ単に「法的正義」でどうにか収まるレベルの話のような。


それはともかく、惰眠さんが、


前提条件として「起訴事実が正しければ」が必要なんですが、どうも広く一般には「起訴事実=事実」と認識されてるように見えるのです


と書いてますが、ここがポイントだと思います。


ただ、「世間の風」の方々が「社会正義」とやらを訴える際、本人的には「神の視点」みたいなところに立っているつもりなんだと思います。「絶対真実」を自分は知っているという感覚なのだと思います。


そこで興味深いのが『デスノート』です(私は映画しか知りませんが)。主人公が「神の視点」(本人的には)みたいなところから「犯罪者」を私刑(殺し)します。


人間社会が行なう「法的正義」じゃ善良な市民は守られない、世の中は良くならない、「絶対正義」が必要だ、みたいなノリです。


だけど、興味深いのが、この主人公、私刑する際の情報は警察とマスコミ頼りです。警察が捜査してる人間、警察が捕まえた人間、マスコミが容疑者として報道した人間あたりを私刑してます。


基準が裁判所ではないのはわかりますが、警察とマスコミって・・・どこが「絶対正義」やん、どこが「神の視点」やん、と。


自分で裏取りもしないから「オレ様視点」ですらない。愚直に「警察視点」と「(警察発表垂れ流し記者クラブ)マスコミ視点」。原作者の皮肉だったらいいのですが、たぶん素かと。(ただ、「法的正義」を説く警察官のおじさんが出てきて、最終的には一応この人の立場を擁護する常識的な話に落ち着いちゃいますが。)


結局、前提に関するコメントで、モトケンさんのこっからどう説得するかという問題意識とはずれてしまいました。

うーん…
例えばこう言えるんじゃないでしょうか。

「天は人の上に〜」というわけで、究極的な意味で、人は人を裁くことができません。でもそれをいっちゃうと、皆が好き勝手やっちゃって、社会は混乱状態になり、皆は不幸せになる。だから「国家」という「権力」の枠組みのなかで、人を裁き、悪いことをやったら処罰(どこかに閉じ込めたり、殺したり)するというわけです。
ということは、国家も人の集まりである以上、間違いもするし、人の心も読めません。最初に述べたように究極的な意味で裁く能力が無いのではないですか?
そのとおり。だから、日本の場合は、ある人を処罰するかどうか迷うときは処罰しないということを徹底することにしたのです。

今回の事件の場合、少年が人の命を奪ったという点は疑いが無いですが、それが「殺人罪」か「傷害致死」かという点で問題がありました。殺人罪になるには「殺意」が必要ですが、果たして少年に殺意があったのか?という点に疑問が投げ掛けられたのです。殺人罪と傷害致死を比べると普通は殺人罪のほうが重い処罰を与えることになります。だから、もし、事件の状況やお医者さんの意見などから「殺意は無かったかもしれない」と思われるなら、裁判所は傷害致死だと言わざるをえません。このことは不条理に思えるかもしれませんが、人の限界を認めて迷うときは処罰しないという道を選んだためにやむをえないことなのです。


…う〜ん
分かりにくいか。

No.58 a.x. さん
No.61 モトケン さん

委員会BBSに「もし自分が冤罪で犯人扱いされて世間も敵に回り、にっちもさっちもいかなくなったら、安田弁護士と橋下弁護士のどっちに頼りますか?」という趣旨の書き込みをしました。
次の更新でレスが出てくると思いますが、その内容で向こうの人たちの想像力の高が知れるかもしれません。まあ、「そんな状況ありえない」でスルーされる可能性もありますけどw

法的な 「正義」 は社会一般の 「正義」 と乖離しているか否かという議論になっているようですが、私はこの「社会一般」という言葉があいまいに過ぎるので論がまとまらないのだと思います。

私は、法律とは色々な考えを持つグループの平均値を文章化したものだと思っていますので、「法的」な正義とは「グループ:日本」の正義と考えます。平均値である以上、各要素(人)の正義と必ずしも一致しないのは自明です。

一方、社会一般と一口に言いますが、この実態はなんでしょうか?
「この事件における社会一般」にはとりあえず法曹は含まれないようです。政治関係者も含まれていないように思います。被告人を罰する前に議論を尽くすべしと考える人も含まれていないようです。この事件にそもそも関心の無い人も含まれていないでしょう。少なくとも私も含まれてはいないようです。

こうやって実態を考えていくと、「社会一般」とは実は「この事件に関心があって、法曹(政治)関係者でもなく、被告人を議論の余地無く厳罰に処すべしと考えるグループ」であるようです。

こんなグループの正義と、日本の平均値の正義が乖離しているのは、考えるまでも無く当たり前なのではないでしょうか。一致するはずがありません。

他方、この(論無く厳罰に処すべし)グループに属する人々は自らのグループ分けを厳密に成すことなく、自らのグループを「グループ:(日本−法曹関係者)」と表現しているような節があります。
 論に言及するときは異論を挟む人間や無関心な人々を排除しながらも、勢力に言及するときには排除した人間も含めるという、おかしな形態になっているのです。

ある複数の人間のグループを示す言葉を使うならば、そのグループが一体なんであるか、それを明らかにしないと論が成り立たないのではないでしょうか。

>No.71 kamov さん

 的確なご指摘ありがとうございます。
 この問題点については、後ほど別エントリとして問題提起したいと思いますので、ご意見のある方はしばらくお待ちいただいてそちらのほうへお願いします。

追記
こちらです。
http://www.yabelab.net/blog/2007/09/26-095640.php

内部連絡的、かつ時期はずれですみません。。。
No.15 白片吟K氏 さん。ご説明ありがとうございました。お礼が遅れました。
No.57 じじい さん。私はまったく気分を害しておりませんので大丈夫です。
こちらこそ誤解を与える表現で申し訳ありませんでした。
被害者になるのと同じぐらい加害者になる可能性はあるのだから、
(被害者になる可能性は大いにあるが加害者になる可能性などない、
と思っている人が多いように思うのですが、それはさておくとして、)
「絶対死刑!」と言うんだったら、自分や自分の子どもなどが、
もし同様の犯罪を犯したとしたらと想像する必要があると思ったんです。
それでも「弁護の余地無し!」「絶対死刑!」とおっしゃるなら、
それはそれで仕方ないかと。そういう不運に見舞われないよう、
お祈りするしかないですねと、No.27はそういうことでした。
趣旨が不明確ですみませんでした。

>No.20 fuka_fukaさん

 ご返信遅れました。ご指摘いただいた点については、実は私自身の主観において「その状況なら殺意認定されて然るべき」との認識を持っていますもので(笑)・・・犯行の様態については既にニュートラルな見方をしていないのです。

 つまり私のスタンスは「被告人弁護側が起訴事実を一部否認しているのであるから、その点は受け入れて審理を尽くすべきだと考えているものの、被告人弁護側主張は起訴事実を覆すほどの説得力は持っていないと考える」です。

ほとんどROM専の私のレスが取り上げられるのはなにやら気恥ずかしいです。
向こうよりこっちの方がふさわしいとおもうので再度こちらに書かせていただきます。ちなみに私は法曹関係ではない一般人?ですので変なことを言っているかもしれませんので念のため。

私は先に、法律は日本の平均値を文章化したものと考えていると書きました。法律が日本の平均値であるからには、法律を学ぶということは、日本の平均値を学ぶということに他ならないと考えます。

法曹が平均値を作るのではなく、平均値を学んだ者が法曹であるから、法曹と平均値、少なくとも文章化された(過去の)平均値は同じでなければなりません。

社会一般が真に「グループ:(日本−法曹)」であるならば、日本の平均値=法曹という前提に立てば、法的な正義と社会一般の正義は同じであるはずです。
この実際の平均値と、法曹が学び体現していく文章化された平均値が乖離しているならば、それは大問題だと思います。

平均値の変動において、我々国民一人一人が1億2千万分の一の責任を持っています。厳罰に処すべしと考える人々が増え、実際の平均値が動けば、文章化された平均値を改正する動き、つまり法改正へと進むでしょう。

問題なのは、この厳罰に処すべしグループに、実際に平均値を無視できないレベルで動かすだけの勢力があるかどうかです。それだけの力があり、政治問題化していくならば、それはそれで歓迎すべきことです。しかし、現状を見るに、政治問題とはなっていない。それは、元々政治問題にするだけの勢力が無いからなのではないでしょうか。つまり、虚勢ということです。

虚勢を張っても、その言は虚ろなだけです。

政治問題にできるだけの勢力を持たず、個人攻撃にエネルギーを費やしてしまっている。それは筋違いだと思うのです。
平均値=法律の制定に自ら責任の一端を持つ、という視点に欠けている人があまりにも多いのではないでしょうか。

似たような考えを持つ人が居られたので引用します。
しま@その他 さんのコメント

一般人の方々が現状の法律に不満を持っているのであれば、刑法をどのように改正すれば、自ら考える社会正義が実現できるのか、考えてみればいいように思います。

具体的な改正案を思いつかなければ、不満を言う資格はないという事になると思います。

改正案として形にしなければ不満を言う資格は無いとまでは思いませんが、不満を言うならば、改正案に付いて考え、改正した場合の影響に付いても考察するべき、言い換えれば、考察なくして不満を言うべからず、だと思います。

法的な「正義」と社会一般の「正義」という定義づけが非常に曖昧であり、難しい問題です。
法的な正義とは、現行法の中で認められている範囲の中での処罰だと思いますが、社会一般の正義というものは、行った犯罪に対して量刑が適正であると多くの国民が思えるかどうかということでしょうか。

そういった中で「殺意」という本人しか知りえないものが、殺人か傷害致死かを分けるということを本当に検察・弁護・裁判官が判断できるのかという疑問も持っていると思います。それは人間は嘘をつくものだということを知っているからです。(自分のことは棚に上げてですが・・・)
多少の知識のある人間であれば、殺意があっても「殺意はなかった」と供述するでしょう。私も少年だった30年以上前には、少年法を多少は理解していました。今の歳だったら人を殺しても死刑にはならないとか人を刺すときには刃を下向きになんてことを仲間と話していました。(そんなに極端な不良ではありませんでしたよ。念のため)

だからこそ、その殺意を立証するために検察は努力するのでしょうが、本人は一度否認したものを認めるとは思えません。そうなると、光市事件で仮に傷害致死と判断されれば、多くの国民は行った犯罪と量刑は釣り合わないと思うのではないでしょうか。
それでは、多くの国民が量刑と釣り合わないと受け止めているから極刑にしようということはあってはならないことだと思います。
常識的なことになりますが、現行法がある限りはそれに従い、法と社会の乖離が著しいとなったら、法を変えるということかなと思います。

私見ですが、量刑を見直す場合には、今回の事件で仮に殺意がなかったとしても、一人一人の殺人・姦淫・強盗について、アメリカのように刑を累計して、死ぬまで出てこれないような懲役100年などというもの望みます。こういうものがあれば、少しはスッキリする人も増えて、コンセンサスを得やすいのではないでしょうか。

>No.43 fuka_fuka さん
>No.46 psq法曹 さん

遅くなりましたが、ご意見どうもありがとうございますm(_ _)m

さて、話を振り出しに戻すかもしれません。
が、読んでいただきたい。

法的な正義と社会一般の正義、では正義とは?

辞書によれば、道徳・道理にかなっていて正しい事

そしてこの正義って言葉、元々日本には無かった言葉です。
輸入品ですね。古くは古代ギリシャ、中国を語源とする言葉だとするのが有力です。

だから、我々は正義って言葉に翻弄され苦しむんです。
何の事だかよくわからない。それは我々の無知によるものではないです。もともとそんな言葉無かったのですから。

ですが、「義理」この言葉に注目してください。

辞書によればその意味は「物事の正しい道理・筋道」

正義とどう違うか分かる人いますか?
そしてもう一点、法的義理・「社会一般の義理」
「社会一般の義理」しっくりくるのはなぜでしょう。

義理と人情。日本をあらわす言葉ですね。

それでまた「世間」という言葉。橋本弁護士も連発し
今枝弁護士も口にするこの世間。


よく考えてみませんか。
義理とは、ある特定の集団の中で機能し、かつそれ以外の集団からも一定の評価を受ける、日本人にとって重要なもの。

義理を評価するのは世間なんですよ。

これって日本独特です。
「正義」・・・輸入品なんだからしっくり来るはずがありません。
そしてまた「社会」って言葉、橋本弁護士も今枝弁護士もむしろ「社会」より「世間」という言葉を使う。

じっくり考えてみると見えてきませんか?
我々の国日本では「正義」「社会」という概念はまだ発達していません。

我々日本人が知っているのは正義ではなく義理であるし、また、社会ではなく世間を生きているのではないですか。

そして義理とは正義の下位概念ではなく、正義は義理の上位概念ではないでしょう。それは社会・世間の関係でも同じです。

日本人の特質でしょう、これは。

そういった特質を考慮に入れず、「法的正義」「社会一般の正義」を議論することって可能ですか。
ちょっと無茶じゃないですか。

法的正義と社会一般の正義の乖離の以前に、我々日本人と社会、正義という言葉が乖離していると感じませんか。

社会・正義という概念がこの日本ではまだ熟成していない段階において、論がまとまらないのは必然と思います。

一致しなくて当たり前でしょう。

>No.78 うめちゃん さん

>「正義」・・・輸入品なんだからしっくり来るはずがありません。

>我々の国日本では「正義」「社会」という概念はまだ発達していません。

 いやあ、流石にこれは言葉遊びが過ぎます。五経正義なんていつの時代に輸入されたのか知りませんが、少なくとも民主主義だの人権だのといった概念がヨーロッパで開発されるよりはずっと前の話です。

 だいたい、「司法に於けるルール、またはその貫徹」と「大衆の望むところ」が完全に一致するなんて考えが、そもそもの間違いであり傲慢ではないですか? 

 だいたい、それなら支那の大衆は「正義」をご理解してらっしゃるんですか? という話になる。

No.62 ppp さんの
>あのような行動に出るから、そういう負の連鎖をいつまでも続ける不毛な例として上げたんですよ

ですから、負の連鎖を起こさない為の法律では?法が遺族の気持ちを肩代わりしてあげないと、負の連鎖は止まらないでしょ?
必ず死刑にしろとは言いませんが、ちゃんとした裁きがないと負の連鎖が起こるという例にしかなってないと思います。
最初の遺族だけ我慢すれば、負の連鎖は起きないということでしょうか?

>被害者の遺族の言論活動が元で裁判結果がゆがめられて、
本村さんの活動で裁判がゆがめられていると言いたいのでしょうか?

>裁判と比べて不当に重い刑が下って、恨みに思った被告の遺族がその被害者の遺族を殺し…究極的にはそういう負の連鎖が起こりうることを危惧しています

ありえないでしょう。他の裁判とどうやって比べるのですか?
軽い判決に怨みに思った被害者の遺族が被告を殺そうとすることはスルーですか?
法的な正義と社会的な正義の乖離が起こった場合、そちらのほうが可能性高くなると思います。

>やられた方はやった方より根に持つものです。
やられた方よりも、やった方が辛い思いをしたとやられた方が思わない限り、やられた方がやられるくらいならやった方になろうと思うのをとめられません。
そのための法律であり、刑罰でしょう。

>検察弁護双方の言い分を裁判官みたいにしっかり聞いてるわけでもないのに断罪しちゃっていいんですか?
そんなこと一部の人間以外言っていないと思います。ただ被害者の辛さをもっと踏まえて判決を下してほしいと、被害者にもっとも近い遺族が言っているのを聞く耳を持って欲しいということだと思います。


>社会一般の「正義」が平等なものになるには、市井の人々が全ての裁判記録を熟読し、各々の価値判断によって白黒付ける必要があります。そこまで皆さんが努力すれば法的な「正義」とほとんど一致することでしょう。全部読むなんて実質無理だから、わずかな情報で軽々しくものを言わないよう一般人は自重すべきですし、法曹関係者はそういう無責任な意見に流されない理性が求められると思います。

法律をしらない人間は黙っとけってことと同義になっちゃいますよ。昔の医者と一緒ですね
平等にこだわりすぎて、被害者の人生や夢があったということを蔑ろにしすぎたのが、被害者遺族の活動が活発になってきた理由なのかと思います。

>同等の罪を犯したら同等の罰を受けるべきじゃないんですか?
言っていることは正しく聞こえますが、それって殺された被害者はあくまで死体一体として考えて、その人がどんな人に囲まれて、どんな人生を送ってきたか、どんな夢を持っていたのかは、どんな善い事を行ってきたか。全く無視するってことになりませんか。
そういう人生自体の重さも伝えないと、反省もできないのではないでしょうか、だから遺族が声を出すのは辛いことでしょうが、良いことだと思います。

法的な罰が、社会的に妥当と思われない限り、同じような犯罪を犯そうとする人を止めることができなくなるのではないでしょうか?

>No.75 kamov さん

>平均値=法律の制定に自ら責任の一端を持つ、という視点に欠けている人があまりにも多いのではないでしょうか。

ここがポイントではあるように思います。

平均値とは私は思いませんし、歴史的にも現実的にも平均値として法律が制定されているのか疑問です。
法律ではないですが、ルールや規則といったものは平均値ではなく、理屈や必要性といったそのロジックがあって成立しているものであり、改正などにおいても全体の影響を考慮したものである必要があるということになるのではないでしょうか。

ここは上手く表現できないところですが、法が国民の平均値としてみなされるほど、国民に近しいものであったら今回のような騒動にはならないと思うのですが。例えば、成人男性の法律について(どの種類でもいいですが)の平均的な知識ってどんなものでしょう?

kamovさんのお書きになられた責任に欠けていること、さらにそれ以前の知識・常識に欠けている(私自身もここに属すると思いますが)人が多いことが問題である、ということは異論がありません。

>改正案として形にしなければ不満を言う資格は無いとまでは思いませんが、不満を言うならば、改正案に付いて考え、改正した場合の影響に付いても考察するべき、言い換えれば、考察なくして不満を言うべからず、だと思います。

これはある意味、プロの視点だと思うのですが。
「そうした視点をもって発言できる人が増えるようにしていく」ことは好ましいと思います。
上で書いた問題点とあわせて、国民の法への知識や理解を深めていく中で改善されていく事象だと思います。

国民の側から法曹の側から双方向で改善していくことでしょう。

>>72たぬきさん
自分の身内が加害者になることを仮定して?
それは暴論でしょ。
自分が飲酒運転するかもしれないから飲酒運転の厳罰化反対するの?
自分の身内にや○ざがいるから暴対法反対?

ここの住人様達の柔軟な物の考え方には敬意を表しますが
貴方は別。

>No.82 桃太郎 さん

>ここの住人様達の柔軟な物の考え方には敬意を表しますが
>貴方は別。

ポン太郎はたぬきですから、敬意なんて表していただかなくて結構ですポン^^
でも、何かお気にさわったのならごめんなさいです。

いや、弁護の余地なく絶対死刑!と叫んでる人たちって、
自分や自分の子どもなどが、絶対に加害者にならないと思っていそうだなと思って。
人生、何が起こるかわかりませんからねー。
でも、もし、自分や自分の子どもなどが同様の事件を起こした場合にも、
弁護の余地なく絶対死刑!と言える覚悟があるのでしたら、
(そして桃太郎さんはそのお覚悟がお有りのようですから、)
何も言うことはありません。そういう事態にならないように、
お祈り申し上げますと、そういうわけです。

たぬき様、
あなたの理屈ですと刑事罰なんてない方がいいってこと?

まあでも自分若しくは自分の身内が加害者になることは無いとは言い切れないですよ。その場合少しでも罪が軽くなればと願うでしょう。

でも、だから何?

子供の喧嘩になるからもうやめますね。

僕も御伽噺の世界に帰りますから、あなたも狸の世界に帰ったら?

>No.84 桃太郎 さん

>たぬき様、
>あなたの理屈ですと刑事罰なんてない方がいいってこと?

ヘッ?
どうしてそんな理屈になりますポコ?

>まあでも自分若しくは自分の身内が加害者になることは無いとは言い切れないですよ。その場合少しでも罪が軽くなればと願うでしょう。

あれ?
そういう場合でも、「弁護なんかするな!即刻縛り首にしろ!」というバッシングを、
甘んじて受けるおつもりだと思ってました。

>子供の喧嘩になるからもうやめますね。

はい。やめましょう。
そういう「空気」ですね(笑)

>僕も御伽噺の世界に帰りますから、あなたも狸の世界に帰ったら?

私はどうしようかな。
またお邪魔させてもらうかもしれません。
桃太郎さんお疲れ様でした。さようならー

人は「被害者になるかも」とは想像しても「加害者になるかも」と
いう想像は普通はしないものです。だもんで、一方からしか
見てない論理になるのはある程度しょうがないのかな。

>No.82 桃太郎 どの

もともとは、何かことが起こった場合に、「一方(容疑者)の言い分なり
事情なりを、その当事者の主張に基づいて検証するプロセスなんか不要!
もう一方(検察)の言いっぱなしでよいだろ」という主張は、それで
いいのか?という話だと思うのだけど、

(もうちょっとぶっちゃけていえば「被害者(場合によっては遺族)は
こんなに悲しい思いをしているのだ。加害者(とその代理人)は言い訳
無用!」って言うけど、それでほんまにええのん?という感じかな)

そうしたとして、運悪く(?)逆の立場になってしまった場合に、
それで処分を下された側は納得するの?もっと言えば、そのまま
黙ってそれに従うの?著しくバランスを欠いてない?という話であって、
刑罰を重くするのに反対かどうか、が主題ではないと思ってますけど。

そういう意味では

>その場合少しでも罪が軽くなればと願うでしょう。

>でも、だから何?

というのはとても矛盾しているように思うけど。
願うの?問答無用で切り捨てるべきなの?

読み違え?

たぬき氏のもともとの書き方もそのへん微妙な書き方だわな〜と
思ってはいたけど。

少なくとも1審2審の弁護団はここまで叩かれていないにも関わらず、無期を勝ち取ったんですよね?
今回のバッシングが手続き論に対する社会(の一部から)の反発と見るのであれば、どうして1審2審は叩かれなかったのでしょう。勿論多少の反発があったことは容易に想像がつきますし、そのことを指してどのような犯罪加害者にも最低限の弁護の権利があるべきだという主張は確かに頷けますし、大多数の人はその理屈には納得するはずだとは私は思います。

今回の件を枕詞として扱いながら、実際には一般論的な問題にすり替えてその危険性を訴えるという論旨を取られている人が多いようです。納得いかないとしている人らは、そういう一般論ではなく、今回の弁護団の話に絞っているわけです。この辺のすれ違いが有る限りは堂々めぐりするだけかと思うわけで。

>ぽ さん
>納得いかないとしている人らは、そういう一般論ではなく、今回の弁護団の話に絞っているわけです。

 私も、本件の弁護団の弁護方針に対する感情反応としてはとても理解できますし、当然のリアクションだろうなと思うところは多いのです。
 しかし、橋下弁護士の懲戒請求扇動が問題を思いっきり複雑化し、本件の個別問題が一般化したときの影響の大きさを考えざるを得ない状況を生じさせ、問題をいっきに深刻化させたと考えています。
 橋下弁護士の扇動問題がなければ、私も多くの方の感情的なまたは直感的な反応をプロの立場でフォローしたかも知れません。
 しかしこれが懲戒問題に発展しますと、ことは刑事弁護制度に対する挑戦という意味合いが出てきてしまいますので、私としては看過できないことになっているのです。

>No.88 モトケン さん
ブログ主さんからコメントが付けられるとは思ってもいませんでした。ありがとうござます。
法曹関係者の危惧というのがよく理解できました。
ただこのロジックというのは医療関係の問題でモトケンさんが良く使われていたものではないでしょうか(医療関係のスレはよく読ませて頂きましたが、具体的にどれと問われてもとっさには出せませんので勘弁して下さい)。
医療関係者から見ればちょっと納得のいかないトンデモ判決についての反発に対して、それってそんなに一般的になっているのか? 希少な判決では?という主旨の突っ込みが印象に残っています。確かに説得力があったので。

で今回の件ではそれが180度立場が変わっただけではと思うわけで。
重大・残虐な犯罪加害者の弁護士について、世間からバッシングがあるということはこれは少なからずあるはずです。ただここまで大事になったというのは今回が初でしょう。しかし今後もこれが一般化するのかということです。
橋下弁護士(あるいは2ch)が煽れば、"どのような事件でも"世間はそれに流されて、4000件の懲戒請求が集まると思われますか? よっぽどの条件が整わない限りはそれは有り得ないと私は思うのですが。その条件というのが今回の事件の弁護方針(というか弁護戦術?)だったり、事件の内容だったり、あるいは橋下弁護士がよく主張されているような経緯だったりするのではと。つまりは橋下弁護士の扇動にしろ、あるいはそれ以外の一つ一つの要素にしろ、どれもが決定的というほどのものではないと。
※この辺は2chの祭騒動や、ブログ炎上などのネット界隈での乱痴気騒ぎでも同じことを思います。

祭を起こしている側を批判しても解決、あるいは予防には繋がりません。まぁこうやって法曹側の反発を伝えることが多少の予防線をはることになる可能性はあると思いますが、伝え方を間違えれば油を注ぐことにもなりかねません。それは祭られている側が、これだから2chは的な対応をしても余計に盛り上がるだけと同じ事。かといってごめんなさい、私が悪かったです的な対応もそれはおかしいと思います。

今回の件が感情反応としては理解できるし、リアクションも有る意味当然ということであれば、今後も同種の事件を取り扱う時にはその辺は十分に前準備できるはずです。裁判戦術的にこれが有効だからとそれを臆面もなく採用することの危険性は身にしみて理解できたんではと。そんな所にリスクがあること自体がおかしいという立場になるなら、これは医療問題のネタの医療側の意見と同じことにはなりませんかね。どうあがこうが、リスクは最初からあるのだからその前提を認識した上で今後の対応を検討するほうが前向きでしょう。
例えば懲戒制度そのものの改革、あるいは廃止とか、弁護方針の広報活動の徹底・改良(これは医療問題で言えば患者関係者に対するムンテラですかね)などなど。結局のところ、これは挑戦ではなく制度疲労にすぎないのですから。

ぽ さん
そんなに長文書くとモトケンさんが混乱しますよ。
一応弁護士って事になってますが
そんなに賢いタイプではないので・・・

そんなに賢くないタイプと自分だけ思っている弁護士のところに何度も書き込みすると言うことは、他に行く所がないんだろうなぁ…。 くすくす^^。

No.89 ぽ さん

>よっぽどの条件が整わない限りはそれは有り得ないと私は思うのですが。

その「よっぽどの条件」とは何なのでしょうか? それを決めるのはつまるところ「一般人が考える社会正義」「世間の空気」です。でも、そんな基準では、どんな事件で、どんな弁護をして、どう社会に説明すれば懲戒対象にならずに済むのか、全く判断のしようがありません。どこかのワイドショーで一人のコメンテーターが煽っただけで一気に情勢が変わることさえあるのですから。
だとすれば、医療訴訟にさらされた医師の皆さんが主張されるような「防衛弁護」しか道はなくなります。つまり、被告人の意向や信憑性に関係なく、被害者を傷つけるような主張は最初から法廷に出さない、というものです。

私は他のエントリーでこんなコメントを書きました。

http://www.yabelab.net/blog/2007/09/27110622.php#c82986

ぽさんは、なぜ北九州監禁殺人の弁護人には懲戒請求が殺到しないのか、その明確な根拠を挙げられますでしょうか。おそらく無理だと思います。弁護士の皆さんはそんな程度のガイドラインを頼りに「社会への説明責任」を果たし、遺族の心情を慮った弁護をしなければならないのでしょうか。

すみません、リンクに失敗しました。上のコメントでリンクしたのはこれです。

http://www.yabelab.net/blog/2007/09/27-110622.php#c82986

>No.89 ぽ さん

 そんなに賢くないタイプなので的外れのレスかも知れませんが

 まがりなりにも法曹の一人である橋下弁護士から刑事弁護を全く理解していない発言が繰り返されているところに、無視できない一般化の危惧を感じています。

 

No.79 ミ ´Å`彡 さん

中国が正義を理解しているとかそういう問題ではなく、
日本には古くから醸成されてきた文化・感性があるでしょう。
そういうモノを理解する以前に法的正義・社会一般の正義を語ること自体不可能で、ナンセンスなんですよ。

私が言いたいのはそういうことです。

>No.95 うめちゃん さんの
 まず、「正義」は漢語で輸入語だから(1000年も前に輸入されてるのに!)日本人には体得できない旨書いたのはあなたです。どこが「そういう問題ではない」のか。どんな意図があってか存じませんが、それならそんなレトリックは不誠実です。

 それに「古くから醸成されてきた文化・感性」なんてものがない国なんて、一体何処にありますか?
 我が国のそれが、明治になって輸入された西洋的価値観に基づく近代国家の司法ルールと親和性が低い、という話ならまだしも、「社会・正義という概念がこの日本ではまだ熟成していない」といった表現をはどういう意図なんでしょうか。
 そもそも「古くから醸成されてきた文化・感性」と、人為的に制定された近代国家の諸概念なんてものが、完全に一致するほうがおかしい。一致すると見えるならそれは教化の影響でしょう。そんなものは「知らしむべからず」ではないかという疑問はさておくておして、その教化が足りないことは批判たり得るとしても、我が国に「古くから醸成されてきた文化・感性がある」ことが何の問題となるんでしょう。

 それとも、日本の法曹は「古くから醸成されてきた文化・感性」の軛から逃れ得ないから本質的な欠陥を秘めるとか、逆に日本の法曹が近代国家のルールを運用できるのは「古くから醸成されてきた文化・感性」を知らない人達だから、といった話でもしたいのでしょうか。個人的には、法曹諸氏はそういう文化を理解した上で、国家システムの運営者の一として、近代国家のルールを優先すべく行動あるいは主張していると思うのですが。

[弁護人は何を説明すべきなのか?]
No.373 モトケン 様の指定より、移転。
流れ
>No.133私(だるま大使)のコメントに対して、
>No.135 Sou 様がコメントをしていただきました。
>No.366 にて私(だるま大使)が返答しました。

それにたいして、モトケン様が横レスされた。
との認識です。

弁護士(裁判官、検察官など)になる前の司法研修生の状況について、子供を持つ親としてベストの方法がなかったのか。と言う疑問を投げかけ司法修習生がTV、動画サイトで取り上げられ、光市の弁護団の氏名等、そして、懲戒請求書の書式までHP上にアップされた状況についてコメントしていました。

モトケン様は、「社会の現状に否定的」と「意見の押し付け合い」に反応されたのでしょう。
「テニスのルール」と「野球のルール」の違いがあることがわからないのか。とのご指摘と思います。
根本的に前段の私のコメントとSou様のコメントの流れとは、別方向に誘導されたように思います。
どこの「ブログ」でも揚げ足取りは頻発しています。できるだけ努力して触れない様に心がけてきました。
しかし、「社会の現状に否定的」と「意見の押し付け合い」について、私からすれば揚げ足取りと理解しました。
しかし、それに対して、真摯にコメントを返しました。
このブログ主である「モトケン様」が、そのような認識であるのでしたら、他業種の一市民として参加する必要を感じません。今後一切、コメントもしませんし、閲覧もしません。
ありがとうがざいました。

(マルチポストにつき削除)

No.96 ミ ´Å`彡 さん

レスが遅れました。

>だいたい、「司法に於けるルール、またはその貫徹」と「大衆の望むところ」が完全に一致するなんて考えが、そもそもの間違いであり傲慢ではないですか?

ミ ´Å`彡 さんのおっしゃるこの部分は、私は全面的に賛成です。賛成という事後的な表現よりも、それをNO79のレスで言いたかったのですが、表現力が不足だったかもしれません。

それでですが、私は日本人は正義を体得できないと言ったのではなく、正義という言葉それ自体がまだなじまないと言ったのです。

室町時代の応仁の乱でありとあらゆる道徳が失われたと言われていますが、その後徐々に「男の意地」だとかそういった類の考えが出てきていますよね。

私は辞世の句などよく読みますが、一度も正義という言葉を見たことが無い。真心という言葉は見たことありますが。

私が言いたいのは、正義云々よりも「男の意地」だとか「真心」だとか「心意気」だとか「侠気」だとか、そういったものの方が日本人になじむのではないか、という事です。
「義」とかね。

今、この事件に対しての反応は、論理によった理路整然な思考に基づくモノというよりも、↑のような義だとかそういったものから来る直感的なモノが多く、私はそれが弁護団の批判につながっていると考えています。

それなのにいきなり社会正義だとか法的な正義だとか、むちゃくちゃだと思うんですよ。

世論の沸騰(本当に日本全体が沸騰しているかはともかく)→社会一般の正義と法的正義は一致するのか?

これで問題解決するでしょうか。

私はなぜ沸騰したかを分析してからじゃないと解決の一歩は進まないと思う。

なぜ沸騰したかの分析を果たした上で、社会一般の正義と法的正義を考えなければいけないと思います。順序として。

そして分析が終わってさあ社会一般の正義と法的正義を考えるぞという時に、「正義とはなんぞや?」って問題出てきませんかね。

正義という言葉自体は輸入品だから、なじみが薄いけれども、それに類する概念が日本にはある。古くから醸成されたものがある。

それじゃあその古くから醸成されたものを元にして正義という言葉を捉えなおそうじゃないかという機運が上がる。

こうあるべきなんじゃないか、と思って79のレスをつけたのです。


法律相談へ

ブログタイムズ

このエントリのコメント