ここで世間常識というのは司法のことをご存じない素人さんの常識という意味です。
このブログのコメントでもそうですが、司法と世間常識のずれというものを指摘する人がかなりいます。
そして、その意味するところは、光市弁護団の弁護方針を念頭におきつつ
司法と世間常識がずれていて司法は常識はずれなのだから司法は世間の常識に合わせるべきである。
と読める場合が多いです。
しかしこれに対しては、「ちょっと待ってくださいよ。」と言わざるを得ません。
これまで、このブログでも同様の問題がさんざん議論されてきたのでありますが、なにぶんコメント数が膨大なブログですのでコメントの山に埋もれてしまうことから、同じ議論が何度も繰り返されています。
結局、何度も同じことを言わなければならないのですが、それもやむを得ないと考え、何度でも書くことにします。
いわゆる世間の常識というのは、一般市民の間での日常の社会生活上の共通認識的規範だと思いますが、
そもそも刑事裁判は日常的な場面ではありません。
被告人が国家権力から罪に問われて、国家権力と戦っている場面です。
死刑求刑事件なら、文字通り命がけで戦っているのです。
こんな非日常的な状況の被告人に世間の常識に従うことを要求すること自体、非常識であるとすら思えます。
そこで法律(刑事訴訟法など)は、この特別な状況である刑事裁判の仕組みを定め、検察官の起訴、つまり被告人は有罪だ、死刑だ、という主張に対して、被告人に検察官の主張に対抗するためにあらゆる主張を行うことを許容しています。
ここで、刑事裁判における真実発見と正義の実現の仕組みを確認しますが、裁判官が検察官の主張が正しいと認めれば被告人は有罪となるのであり、裁判官が検察官の主張が正しいとは言えないと判断すれば有罪にはなりません。
被告人の主張が正しいと判断する必要はないのです。
検察官の主張と立証が成功してそれが裁判官によって正当と判断されるかどうかが問題なのです。
そして、検察官の主張と立証の正当性を確認するために、被告人に検察官に対するあらゆる反論の機会を保障しています。
被告人としては、自らの主張の正当性を立証する必要はなく、検察官の主張の正当性に疑念を生じさせれば足りるのです。
これが疑わしきは被告人の利益にという意味です。
そして、被告人の主張を代弁する職責を担う者として弁護人の制度を定めています。
法律がこのようになっているのは、検察官は国家権力を背景として強力な権限を持つのに対し、被告人や弁護人には何の権力もないことから、少なくとも検察官に対する批判だけでも保障しようと考えているからだと思われます。
言いたいことは全て言わせるというスタンスです。
一見、荒唐無稽であろうとアンビリーバボーであろうと、論理的に矛盾していようと、その時点における証拠といかに矛盾していようと、主張の機会自体は保障しているのです。
どんな主張も、主張をまってそれを検証してみないと真偽のほどはわからないからです。
そして、真偽のほどを判断する資格を有しているのは裁判官(まもなく裁判員も含まれますが)のみで
す。
そして、全ての事件について、被告人に反論と反証に機会を与えるという手順を文字通り例外なく踏む必要があります。
この例外なく手順を踏まなければいけないということは法律で決まっているのです。
そして法律は国民の代表である国会で制定されています。
つまり、例外なく手順を踏まなければならないというのは国民の意思として法律で定められているのです。
ところが、(その割合はともかく)国民の一部の人たちは(ごく一部の弁護士も)、自分たちの代表が定めた法律を忘れて、常識をふりかざし、そもそも常識が通用する基礎がない刑事裁判に対して、常識に従えと要求しています。
現実問題としては、素人さんは法律を知らないのですから(だから素人)、的外れな批判をすることは無理もないと思いますが、このエントリを読んだ素人さんは、司法の世界は常識がそのまま通用しないところがあることを理解してほしいと思います。
なお、念のため確認しておきますが、被告人及び被告人を代弁する弁護人が、一見荒唐無稽なアンビリーバボーな主張や、論理的に矛盾している主張や、その時点における証拠と矛盾する主張をした場合、弁護人が検察官の主張・立証を揺るがす程度まで、被告人の供述の合理性や論理的整合性や被告人の主張に合致する新証拠の提出ができなかったら、裁判所は最終的に被告人の主張は、荒唐無稽で信じがたく、非論理的で証拠に矛盾すると判断し、一蹴されてしまうだけです。
法律は、被告人にあらゆる主張の機会を保障していますが、裁判所には証拠に基づく合理的な判断を要求しており、多くの裁判官は証拠に基づいて合理的な判断(どちらかというと検察官よりの判断)をしていると思っています。
「それでもボクはやってない」という映画を観ました。
裁判官の心証がいかに大きなウエートを占めるのか、という点も描かれていたと思います。
もちろん映画ですので誇張は多いにあるでしょう。
それでも「十人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰するなかれ」と言いながらも、劇中では明らかにえん罪という設定の若者に有罪を宣告してしまいます。
劇中で、途中で裁判官が変わりました。
前任の裁判官だったらどんな判決を出したのか?
それは想像でしか出来ない事です。
弁護人がどんな弁護をしようとも、裁判官が検察寄りなのでは…と思った次第です。
今日の新聞でこんな記事がありました。
「裁判員に”厳罰”の傾向」甲府地裁、殺人事件模擬裁判、「量刑で差」
設定は『酒に酔った不倫相手の男性から暴行を受けた女が、男性を刺殺した。』
殺意の有無や正当防衛に当たるかなどが争点となった。
量刑を決める評議では、裁判員から、暴行や自首といった女の有利な事情を考慮しながらも「人を殺すのは非常に重い罪」「遺族感情に配慮すると厳罰が必要」などの意見が出たのに対し、裁判官は自首や過剰防衛を重視する姿勢がうかがえた。
検察側求刑:12年
裁判員(6人)の量刑:平均9年(12年1人・10年2人・8年2人・6年1人)
裁判官(3人):平均7年(8年1人・7年1人・6年1人)
最終的には、殺人罪と過剰防衛の成立を認定し、懲役8年の判決が言い渡された。
被告弁護人の弁護士の方の感想は、「一般の人が持つ殺人のイメージが影響したのでは」「やや重く感じる。」
甲府地検の検事の感想は「国民の意見が反映された結果で、まさに裁判員制度の趣旨を実現した結果」と述べた。
その後も記事は続きましたが、この記事の中で私が危惧を感じたのは、どなたかもこのブログで仰っておりましたが、検察は厳罰化の方向を目指しているのかなという風に思いました。
これが『不倫相手』ではなく、「酒に酔った『上司』の男性から暴行を受けた女が、男性を刺殺した。」でしたら判決も変わったのでしょうかね…?
「遺族感情に配慮すると厳罰が必要」の辺りに、上述のような『不倫相手』という点が影響していないかが気になります。
一般国民と裁判官と量刑意識についての差異については,
司法研修所編『量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究―殺人罪の事案を素材として―』(2007,法曹会)5,536円
があります。一部の例外もありますが,概ね,一般国民の量刑意識の方が重くなるようです。
裁判員制度が実施されたら、マスコミ報道が裁判員の判断に
大きな影響を与えるでしょうね。
それを防ぐために、陪審員制度のあるイギリスでは犯罪報道に
対して厳しい報道規制があるようです。
アメリカでは陪審員がホテルに缶詰にされたりするみたいですね。
日本ではそういった対策は無いようですが大丈夫でしょうか。
>帰宅された後は普通の生活に戻るのですから,テレビを見たり
>新聞を読んでいただいて構いません。
>しかし,裁判員として判断していただくときには,あくまで
>法廷で示された証拠だけに基づいて判断してもらうことになります。
裁判員制度の公式ホームページにはこんなことが書いてありますが、
そんなに上手く行くんでしょうか。
No.5 名無しさん様
行かない行かない。
今日の週刊新潮の記事を読んで確信しました。
あんな記事やニュースに囲まれて先入観が生じないわけがない。
No.5 名無しさま
お茶の間の一般人って、容疑者を見るときは「疑われるって事は真っ当じゃないんでしょ」という無意識の色眼鏡を掛けてるんじゃないかと思います。裁判員に選ばれて冤罪その他のレクチャーも受けて、フラットかつ公平に評議しようとしても、被告人の人品に対する偏見を払拭するのは本人が無自覚なだけに難しい気がするんですよね。
おまけに、そこにマスコミの偏向報道が加味される訳で。
「法廷で示された証拠だけに基づいて判断」って理念は分かるけど、現実は厳しいと思います。
裁判員制度が始まったら、6人の裁判員を相手に「刑事裁判と刑事弁護人の役割」について啓蒙する役割は、3人の職業裁判官が一手に担うことになります。
そう、あたかもこのブログでのモトケンさんや、たかじんの〜委員会HP掲示板でのすちゅわーですさんの役割を、本番の裁判員制度では3人の裁判官がやらなくてはならない。
ある日突然裁判員として呼び出される一般人も大変でしょうが、6人の一般人に法律的な知識と司法の常識を教えながら、同時に法廷審理をコントロールしなければならない3人の裁判官もまた大変苦労するのではないかと想像しています。
>にゃんこ@素人 さん
>本人が無自覚なだけに
私もこの部分が一番心配です。
私がTAKUさんとのやりとりに応じたのも、世間やマスコミの問題について自覚する人が増えてほしいという気持ちからだったのですが、果たして問題意識を持ってくださる人が少しは増えたでしょうか。
No.9 モトケンさま
>果たして問題意識を持ってくださる人が少しは増えたでしょうか
少なくともこちらのブログで「一般人」と称する人物に賛同しない意見をコメントしている素人は確実に増えてきているかと思います。
No.8 法務業の末席さま
>ある日突然裁判員として呼び出される一般人も大変でしょうが、6人の一般人に法律的な知識と司法の常識を教えながら、同時に法廷審理をコントロールしなければならない3人の裁判官もまた大変苦労するのではないかと想像しています。
こちらのブログは半年余りROM専門でした。最近ようやく自分なりに刑事裁判の仕組みを理解できたところです。
法律に近い職業の人とか論理的思考の得意な人なら飲み込みも早いでしょうけど、頭の中身がワイドショーなオバちゃんやら、わたしのように理解がゆっくりな人間やらが6人集まってしまったら、審理開始までの裁判官の苦労は並大抵の物ではないだろうなぁと思います。
どういう方法が良いのかは分かりませんが、模擬裁判以外に手軽に参加できるトレーニングの場を設けるとか、もっと理解する為の準備期間が必要な気がします。
モトケンさん
正直、すごくわかりやすかったです。
大体、理解していたつもりでしたが、まだ若干誤解があったこともわかりました。
ありがとうございました。
>「裁判員に”厳罰”の傾向」
このブログに引用された以上のことはわかりませんが、設定がかなり複雑な上、1例を持って何らかの傾向があるとまでは言えないのではないでしょうか?
でもよく練られた設定ですね。
不倫関係:犯罪とは直接関係しないが双方に社会的非行とも言える関係があった。
男性からの暴力:被害者にも責められるべき点があった、程度によっては正当防衛も?
女性が男性を刺殺:力の強い者が弱いものに用いる暴力より弱い者が強いものに暴力を用いること(計画性がない場合)のほうが心証としては罪が軽いのでは?
自首?(設定にはありませんが記事に後述されている):犯行発覚前のものでしょうね。
多義にわたる要素が相互に関連しあう場合はコンピューターのような
データ入力→演算処理→結果出力
では無理がある。
つまり人間が判断(できれば合議制、かつ責任と能力を備えているという前提も?)するよりほかはない・・・ということを体験させたいのかな。
それとも現実の事件に刑法の条文を適用することの難しさか?
マスコミの報道についてはアメリカは徹底しています。
表現の自由があるので報道に帰省をするのは難しいですが、
陪審員に偏見や先入観を抱かせないための対策が厳しいです。
OJシンプソンが被告人のときの裁判など陪審員が見つかるのかどうかといわれましたが、最後まで12人確保できたみたいです。
それでも陪審員にスーパーボールを見せてもよいかという議論がありました。
表現の自由と公正な裁判を両立させるのはとても難しいみたいです。