全国学力テスト結果公表、基本知識あるも応用力に課題(2007年10月24日23時25分 読売新聞)
全員参加を前提としたテストとしては43年ぶりで、計算などの基本的知識は身についていたものの、応用力に課題があることが浮き彫りになった。
これはロースクールの教員としても感じるときがあります。
結局は、基本的知識が表面的な知識にとどまっているところが問題なのではないかと思います。
知識を使う、ということがおざなりにされているのではないでしょうか。
これは勉強というよりトレーニングだと思うのですが。
調子に乗ってこちらにも書いてしまいますが、日本での初等中等教育のあり方としては、先日NHKのプロフェッショナルでもやっていた、京都市立堀川高校のやり方に、強い感銘を受けています。
自ら探求してゆくというところに、言うなれば、知識と応用の融合があります。だからこそ、結果もでているのだと思います。
進むべき方向は、おそらくあれしかないんじゃないかと思っています。
問題は、そうやって鍛えた頭脳が、社会で活かされるか?
にも有ると思います。
頭が切れて理屈を捏ねるやつよりも、素直に言うことお聴くほうが部下として・・・とか
あるいは、人の扱いに長けているほうが出世できる・・・など。
優秀な人がかなりアメリカなどへ渡る傾向は、収まって来たんでしょうかね?
義務教育なんだから、基礎が身に付いていれば十分だと思いましたが、よくよく考えれば義務教育の目的自体、明確にされていないと思います。
義務教育の目的が基礎的な学力を身につけるため(応用は高校・大学で身につける)であれば今回の結果で十分でしょうし、応用的な学力を身につけるためのものであれば不十分であると思います。
> しま様
的外れなコメントでしたら申し訳ないのですけれども。
小学校・中学校の設置(教育)の目的でしたら、一応学校教育法に規定があります。
それぞれ、学校教育法第17条・第18条と第35条・第36条の規定の事です。
ただ、どの程度の教養・能力・技能を体得させる事ができたのなら、上記法律の条項の目的を達成したといえるのかという趣旨になりましたら、「明確にされていない」とも思います。
一方でそもそも義務教育の目的を定量的・可視的に明確に定義する事が出来るのか?と考えましたら、難しいなと思います。
正答率が低いと言われる国語の応用問題を見つけましたが、この問題で正答率が6割程度なら問題ないのではと思ってしまいます。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/gakuryoku/s6kokub-exam.pdf
文科省はこの問題で、何割程度の正答率を期待していたのでしょうか。国語の授業内容にもよりますが、授業内容と授業時数が減らされている現状を踏まえれば、悪くない結果だと思います。
そういえば、その番組で、テレビでよくみるあまりできがよさそうでない脳科学者が、「基礎か応用かの議論は、堀川の実践で決着がついたんじゃないか」と言っていて、これだけは私も同感でした。
つまり、「基礎も応用も」であるか、ないしは、「基礎と応用の区別はない」、ではないかと。
探求心・研究心が起こると、必然的に広く深く勉強するしかない訳です。ある意味学問の基本中の基本を、中等教育でも素直にやってみたら、広く浅く勉強することが行われ、結果として「堀川の奇跡」なるものを生んだように思います。
まぁ高校の勉強の話が義務教育に当てはまるのか、という点は議論の余地があるでしょうが、おそらくは当てはまるのではないかというように思います。
考えてみたら、番組見てない人や、堀川について知らない人には、まったくわけわかめですよね。
ちょっと興奮してて、失礼しました。m(_ _)m
「応用力が足りない」ってのは、私が小学生の頃からよく言われていたので、あんまりピンと来ません。単に知識を問う問題より応用問題の正答率が低いのは普通のことじゃないの?
応用問題の正答率は、モトケンさんの仰るとおりどのくらいトレーニングに時間を割けるかで大きく変わってくると思います。
知識は、「引き出しに詰め込む」作業と「引き出しから取り出す」作業の2つをこなさないと身につきません。
「引き出しから取り出す」にはまず「引き出しに詰め込む」作業をしなければならず、詰め込み作業に時間がかかると取り出し作業の訓練に割く時間が少なくなります。
要は、詰め込む作業すなわち暗記ばかりしていてもダメだし、応用問題を解くには前提となる知識を暗記してないとダメだし、そのあたりの時間の使い方があまりうまくないのかなと感じています。
全く脱線ですが「堀川の実践」でググると街も心もピカチュウ大作戦in堀川なるものがトップに出てきてちょっと笑ったw
無論堀川違いです…
この4年間ほど高校を中心に社会人講師で数十校(延べだと100校)ぐらいの学校で授業しています。
その経験から感じるのは、教育とは何をすることか?が明確でなくなってしまったのではないか?です。
良く「学校教育・家庭教育・社会教育」と言いますが、高校生以下については、社会教育の機会が昔に比べて激減したと言って良いかと思います。
社会教育と言ってもそれほど特別なことではなくて、大人と話をする機会がない、友達と論争しないなどですね。
少子化の影響で高校は実質全入になっているので、高校の偏差値通りの子どもが集まってしまいます。
逆に見れば、中学時代には受験競争が非常に減ってしまっている。
もちろん、昔からの教育熱心な家庭や受験勉強に打ち込む生徒は居るわけですが、さして勉強しないでも「皆と同じ」で高校までは進学できてしまう。
この「皆と同じ」がキーワードになって、論争をしない。
論争以前に自分の意見を出さない、嫌なことをしない。
極めて「よい子」ばかりになってしまいます。
本題に戻って「応用問題が解ける」とはどういうことなのか?は、結局は「他人を説得するために資料を作る」のようなときに成果が現れるのでしょう。
しかし、他人を説得する事を知らないのでは、応用問題も普通の問題と同列なってしまいそうです。
大学受験対策には「短文の書き方」なんてのがあるわけで、狭義の学力追求ではダメなんじゃないか?と強く思っています。
応用問題が苦手というのは一つの指針にはなるでしょうが、これで学校の現場などで「応用問題の特訓」なんてやったら本末転倒でしょう。
たとえば、
平行四辺形の面積=底辺×高さ
なんていくら暗記したって応用できるわけではない。
平行四辺形はどんな形なのか、どんなところに形成されるのか、何で底辺×高さで面積が計算できるのか、こっちのほうをしっかり理解してなくてはね。
No.10 酔うぞ さん
これは、今の日本社会が失敗に対して極めて厳格であることが教育現場にも反映されているからではないかと考えています。
子供だってあれこれ考えていることはあります。しかし、教科書的な「正解」以外の発言をして失敗扱いされるのを恐れるがあまり自由な発言をしない、できないのがいまどきの子供ではないかと思います。
その反動が匿名性のあるネット掲示板などに強く現れているのではないかなとも思います。
他人を説得する訓練を行う教育は「研究発表」だと考えていますが、それを重視するのは中学生レベルではまだ早いような気がします。
中学生レベルでは研究発表のための資料作成、およびその前段階である応用問題の解決の訓練がしっかりできていれば問題はないかと考えています。
ちょっとずれちゃいますが・・・。
以前テレビだったか新聞だったかで見たのですが、自分の言葉で説明できないと理解したことにならない、だから問題とその解答を自分の言葉で説明できるようにするという子がいました。
なるほどなー、頭では理解できてるけど説明できんってよくあるけど、それって実質理解できてないんだな、って思いました。
>他人を説得する訓練を行う教育は「研究発表」だと考えていますが、
>それを重視するのは中学生レベルではまだ早いような気がします。
ちょっと簡単に書きすぎましたが「説得する技術の訓練」の話じゃないのです。
説得する=自分と他人は意見が違う。
ことを知らないのです。
だから反射的に「みんなと同じ」という回答でOKになってしまっているのです。
他人が同じ事を考えているとしか思わないから、下手にものを言うと争いになる→だからますます何も言わない→何も言わないでも学校生活に支障がない→出来ないのがチームワーク
といった構造のようです。
社会で要求しているのは「良き社会人として当たり前のチームワーク能力」はどんな場合にも必須ですが、これが全然出来ない。
背景には「チームを組んで得意・不得意を分散する」ということが分からない。
ある意味では、社会的には致命傷レベルなのです。
No.5 しま さん
>正答率が低いと言われる国語の応用問題を見つけましたが、この問題で正答率が6割程度なら問題ないのではと思ってしまいます。
No.8 中山 さん
>単に知識を問う問題より応用問題の正答率が低いのは普通のこと
今朝の新聞で大きく取り上げられていました。
私も同じ疑問を感じましたが。
”ゆとり教育の弊害”という論調が先に立っていて、具体的な中身に乏しいと感じました。
応用力に課題のある報道でした^^)
”応用力に課題がある”は大臣発言のようでしたけど、正答率はどの程度を想定していたのかは、どこにも記載されていませんでしたね。6〜7割で駄目ということは、8割程度を考えていたのかなあ?
「応用力とは、ペーパーテストでは測定できないモノであり、点数で示すことができない。」であると思います。
独創力、想像力・・・色々あると思いますが、モトケンさんのご意見の通り、「勉強というよりトレーニング」であると思いますが、トレーニングは教師のレベルが高くないとできない。教師だけではなく、一般レベルも高くなくてはと思うと、いっそう奮起しなければいけないですね。
うーん、どうなんでしょうねえ。今までにこういう試験の結果で「応用は出来るのに基礎は出来ない」って結果になったことってあるんでしょうかねえ。要するに、基礎は理解してるが応用できるほど体得してないって話で、結局は「出来が悪かった」とか「勉強量が足りない」ってだけなんじゃないでしょうか。
「応用力でないと解けない問題」が出される機会なんて、そうそうあるもんじゃないわけで、実際には応用問題にしても、出題のパターンを押さえる勉強法ってのがあって、それはある意味基礎みたいなものでしょう? 不勉強だが応用力がある人が解放を見つけて解くより、パターンを学習した人がそれを当てはめて解くほうが、早い上に精度も高いでしょうし。となると、こういう問題で言われる「応用力」とは、何の能力を見てるのか? って疑問が出てきます
ただ一般論としては、教育はどうあっても基礎でしかないんじゃないでしょうかねえ。5年あまり塾講師をやった経験では、基礎もできずに応用とか独創ってのは、何かの幻想にしか思えません。
私がこのニュースを見ててよく分からないのは、失敗だったと言われるゆとり教育が、問題解決能力や実践的な力などの応用力を育むことを目的としていて、それを学力低下しているから授業時間や内容を増やして知識を詰め込もうとしていることに何の疑問も感じていない報道内容です。
基礎はできてて、応用が足りない?じゃあ、ゆとりでいいじゃないのかと思ってしまうのですが。
それとバウチャーなんかの学校間競争を煽る制度が本当にいいのかとかも見直すべき結果だったように見えますけどね。
すでに地方格差や所得格差による学力の違いがあるのに・・・
>うーん、どうなんでしょうねえ。今までにこういう試験の結果で「応用は出来るのに基礎は出来ない」って結果になったことってあるんでしょうかねえ。
応用に問題があるのは昔からのテーマのはずですね、それがダメだからいわゆるPISAなんかの国際比較でも点数がとれてないわけです。ということは今の改革の方向自体が間違っているという根本的な問題点にたどり着いてしまいますが。
ここで言う応用力と言うのは、読解力のことではないかと思わないでもないです。
個人的には、問題が少ないのに配点が高いので、算数の応用問題は好きでした。そして、問題数が多い基礎でケアレスミスをして点数を落とすことが多かったので、応用のほうが得点が多いことも間々ありました。国語の場合は漢字の書き取りが全く駄目でしたが、やはり読解問題は得意でした(子供の頃から怠け者だorz)。
私自身コミュニケーション能力が高いとはとてもいえないので、酔うぞさんのおっしゃるコミュニケーション力の一歩下に読解力があるのかなあと思います(そして読解力があれば点数だけは取れる)。
No.18 rew さん
わたしも同じような印象を受けますが、学力テストが基礎も応用も含めて、教育の中に占める課題として1/3とか1/5しか無くて、さらにその成績のデコボコを評価するとなると、10%ぐらいの範囲だとすると、1/30とか1/50の部分だけを論じていて、29/30とか49/50という大部分を放置しているというべきだと感じます。
ゆとり教育がデタラメであったのは事実ですが、だからと言って「試験範囲に出ていない」と声高に叫ぶのが正しいとしたら、社会と隔絶した「学校(受験)のための世界だけの住人」以外の何ものでもないでしょう。
わたしは評価軸そのものが出来ていない、と考えべきだと思います。
公立学校はどんどんレベルが低下するしかないでしょう。
親の責任はとても大きいと思います。
学力低下が問題にされるのは構わないと思うのですが、「学力」とは何かという事が定義されていないため、議論が不毛なことになっているように思います。
分かりやすい目標が必要なのかも知れませんね。
・全ての子供たちが独力で「坊ちゃん」を読めるように教育する
・全ての子供たちが独力で薬の飲み方を分かるように教育する
・全ての子供たちがノーベル賞を取れるように教育する
・全ての子供たちがプログラミングを行えるように教育する
>No.21 しま さん
同意ですが。
文科省定義するところの”学力”を使うとしても、そもそも”学力が低下している”という事実はどう立証されたのか。。。
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特定の学年全員が対象のテストは1964年以来、43年ぶりで、参加率は98・95%。国が5月以降、一括して採点を行い、9月ごろに国全体と都道府県別の科目ごとの平均点や問題ごとの正答率を公表する。
">全国学力・学習状況調査 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
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まあ、これからデータを取っていきましょう、という趣旨ですかね。
データより、結論が先行しているあたりが何とも(^^)
ちなみに今朝の日経新聞には、”専門家の見方”として、「1960年代の旧学力テストの結果に比べ大都市とへき地の学力格差がほとんどなくなったのは大きな変化だ」という意見が片隅に小さく載っています。
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2
分数の意味について理解しているかどうかをみる
〔第4学年〕
小学校 算数A 趣旨より。
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深いですね。
「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」
(レオポルト・クロネッカー)
社会は子どもたちが「学力に代表される一人前の社会人になる」ことを要求しているのでしょう。
最近は「一人前の社会人なのか?」といったことが増えているのは確かで、それを「学力の低下」と関係づけるのも無理からぬところと思いますが、「学力低下 → 一人前の社会人にならない」はあると思いますが「学力向上 → 立派な社会人」で無いことも確かです。
そこで「学力だけを要求するのか」「学力を含めた一人前になることを要求するか」になるわけです。
わたしは現時点では「学力よりも社会性」と考えるものです。
学力が良くてもトンでもない教育をしている学校がありますからね。
このエントリが、このブログ本来の姿のように思います(^^;
>No.23 酔うぞ さん
あまりに大きく頷きすぎて首を痛めた程ですw
自分が「社会性よりまず学力」で進学してしまったことで社会に出てから酷く苦労したのに比べ、家内は「学力?何それおいしいの?」ですが多くの人から慕われ、かつ可愛がられています^_^;
家内の尻に敷かれ続けること幾星霜、スルメの様になって来て初めて社会性が多少なり身に付き始めたかなあ…
子供は是非社会性を身につけて育って欲しいものです。
>自分が「社会性よりまず学力」で進学してしまったことで社会に出てから酷く苦労したのに比べ
>おいちゃん 様
横入りすみません。
時代によって教育ってコロコロ変わるけど、時間差がありすぎると卒業した時には無意味になるなとも感じております。
私の学生時代の重点課題は「個性」を伸ばせでした。
自身も得意な分野が個性だと勘違いし、そこが秀でていれば、優越感を刺激する扱いをそういえば受けたなとなんとなく記憶してます。
ですが、社会は違いました。
今はKY(空気をよめ)がOKと並ぶような言葉になりつつあるとか、どっかで聞くほどですが。
組織では、それがどんなに「白」でも「黒」だといえば、出世する空気があり、要領がいいことがスキルなのかなとか感じます。
自分を殺し、その周りと「波長をうまく合わせる」ことで、慣れるまでは、人格が揺らぎました。笑
小さい頃から「現状で必要な問題解決力」について、もっとトレーニングしたかったなあと思うのだけど、子供の時代はなかなか学校以外が世界でないものなんです。
ズレてしまった話です、すみません。笑
>NO 26 ちぇるしい さん
>今はKY(空気をよめ)がOKと並ぶような言葉になりつ>つあるとか、どっかで聞くほどですが。
>組織では、それがどんなに「白」でも「黒」だといえば、>出世する空気があり、要領がいいことがスキルなのかなと>か感じます。
>自分を殺し、その周りと「波長をうまく合わせる」こと
仰りたいことはほんとによく私も理解できますし、自身の人生の中でも何度同じような思いをしてきたことか・・。
ただ、やはりこのエントリの議論の中でも何度か出てきたように、培った知識(基本)を社会性(応用)に富んだ表現力で、『「白」を、ですから「白」でしょう』と、周りをより良い方向へ導いていけるような人材を創造していくことを教育現場へ理想として期待を持ち続けたいと思うのですが、期待のしすぎでしょうか。
それと、周りの空気ばかりを読みすぎていると、ともすれば事なかれ主義のような風潮がまかり通ってしまい、良き個性がもぐらたたきのよう(この様なところにもいじめが発生したり)に打ちのめされていってしまいそうな危惧も感じております。
NO27の自己レスですが、
引用符号が飛び飛びになり、読みづらくなってしまい、失礼致しました。
>Oさん
反応大変ありがとうございます!Oさんのコメントよんで、また感想が出てきました。書かせていただきます。
>やはりこのエントリの議論の中でも何度か出てきたように、培った知識(基本)を社会性(応用)に富んだ表現力で、『「白」を、ですから「白」でしょう』と、周りをより良い方向へ導いていけるような人材を創造していくこと
エネルギーも必要だし、理想論なのかもしれない。
だけど、
勧善懲悪事は小説の登場人物しかいないと諦めるより、
現実の今ここに立ってる自分が直面してることこそ面白い!っていう
「主人公」的なスタンスで問題等に立ち向かえる教育(訓練)理念があったらかっこいいな〜って私も思います。
最近の小学校6年生のアンケートも、スケープゴードのような模範解答で「大人がよい子と思える生活態度」をはじき出してると耳にすると、
周囲の空気を読める能力は一面だけなら、上昇中なのかなという気がしましたけどね。
表面お利口さんが、一番潜在的に怖いとこもあるんですけどね。
書き込み、失礼いたしました。
まとめてコメントさせていただきます
No.9 bg さん
>知識は、「引き出しに詰め込む」作業と「引き出しから取り出す」作業の2つをこなさないと身につきません。
旧司法試験用の参考書の、Wセミナーのデバイスシリーズが、これを正面から謳ってました。
コンセプトとしては、詰め込んだ量と取り出しの技術のどちらか低い方で到達点が決まるので、バランス欲やると最小の努力で最大の結果が……という話です。
教育産業もそう考えるのか、と興味深いものがありました。
No.14 酔うぞ さんの
>社会で要求しているのは「良き社会人として当たり前のチームワーク能力」はどんな場合にも必須ですが、これが全然出来ない。
就職活動の時の面接で、こんなトラブルがあったときどうしますか、という類の質問がなされることがあるそうです。企業側が期待しているのは、自分はこうやって社内の他の人にはこう助けてもらって、といった、自分以外の人まで視野に入れたものなんですが、大抵の学生は自分でどう解決するかしか答えない。まあ、大学や大学院のカリキュラムが、単位取得は個人の努力と資質、卒業研究や修士のテーマも個人に与えられるものになってますから、「他人に助けを求める」という発想がとっさに出てこないのは仕方がないのかも知れませんが……。
No.20 酔うぞ さん
>「試験範囲に出ていない」と声高に叫ぶのが正しいとしたら、社会と隔絶した「学校(受験)のための世界だけの住人」以外の何ものでもないでしょう。
私が一番臨んでいることは、入試問題出題の制限から高校の指導要領を外して欲しいということです。現状では、ちょっと逸脱した問題を出しただけで新聞種です。マスコミと予備校のせいで、学校の世界だけの住人を作る方向に圧力がかかっています。
もちろん、難しすぎればそもそも選別になりません。しかし、たとえば、高校の範囲にはない内容について、まず資料を読ませてから答えさせる、といった問題がどんどん出せるようになれば、その場での理解力や問題解決能力を試すことができます。
No.22 ron さん
>文科省定義するところの”学力”を使うとしても、そもそも”学力が低下している”という事実はどう立証されたのか。
学力の定義をとりあえず「学力テストの点数」で測るモノと仮定したとして、変化の方向を見るには継続的に計測してみるしかないわけです。その計測を、日教組のエゴか親のエゴかは知りませんが、43年間もさせなかったわけですよね。これまでの教育改革は、「測定する」という手段をわざとに封じた上でアイデアを出させていたわけですから、そりゃ頓珍漢なものにもなるでしょう。
継続的に測りながら、同時に、何をいかに測るとよいか、を考えなければならないはずなのに。
No.27 O さん
>それと、周りの空気ばかりを読みすぎていると、ともすれば事なかれ主義のような風潮がまかり通ってしまい、良き個性がもぐらたたきのよう(この様なところにもいじめが発生したり)に打ちのめされていってしまいそうな危惧も感じております。
私は、学生に対しては「高等教育の目的は”王様は裸だ”と堂々と言える人間を養成するところにある」なんてたとえ話をしているんですけどね。空気に流されて行き着く先がカタストロフでは目も当てられないので、空気をぶちこわしても真実を告げる人を増やさないと危ないと思うんですよ。
変換ミスがいっぱいありました。
×バランス欲やると
○バランス良くやると
×臨んでいること
○望んでいること
失礼しました。
No.30 は初等教育とは少し外れるコメントになってしまいましたが、暗記して対応できる範囲を試験することと、その場での対応能力を見る試験をすることの両方があればいいのかな、と思っております。
空気を読む、というのが、クレバーハンスの問題を発生させることがあります。クレバーハンス(かしこいハンス)とは、一時期、計算ができるとして有名になった馬の呼び名です。その後の調査で、馬は数の概念を理解しておらず、飼い主の微妙なそぶりや表情の変化を読み取って正解を出していたことがわかりました。
馬が人を読めるなら、人は人を読めます。初等教育で先生の覚えがめでたい生徒の中には、クレバーハンスメソッドでやっている人が混じっていたりします。そういう人は、学年が進んで教育内容が抽象的思考能力を必要とするものになると、ついていけなくなります。小さい頃にデキがよくて親の期待やらなにやらがすっかり積まれていたりするとちょっと悲劇かなぁ、と思います。多分、早めのケアが必要なんでしょうけど。
私は、公教育を評価するにあたっては、とりあえず狭義の”学力”(つまり学力テストの点数)を使わざるを得ないかなあ、と思います。今回の結果は、”ゆとり”がどうしたのといった、”世間”の騒ぎとは裏腹に、日本の公教育(初等教育)が未だ健在であることを示しているのではないかと感じました。もっとポジティブに評価してよさそうに思うのですけど。
”社会性を身に付ける”というのは、確かに初等教育に期待されるものなのでしょうけど。”社会性”というのは定義が難しいし、評価も難しいですね。公教育において、つまり政府が”求められる社会性”を定義することの是非というのもあると思います。私は政府が一律に定義して評価することに関しては否定的です。
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筆者が日本に初めて来た一九六〇年代初頭、消えゆく慣習、若者の無礼さ、社会のために働く決意の喪失などについて活発に議論されていた。一九八〇年代末になっても、耳にするのはまったく同じ不満である。国家の”精神”がつねに衰微しつつあると見られているのである。
『日本/権力構造の謎』より
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日本の社会・政治的秩序においては、争いは忌避され、無視され、拒否され、否定され、儀式によって祓い清められるが、めったに解決されない。社会秩序を保つのに、普遍的な原理に訴えたり、法的手続きを活用する伝統がないので、個人やグループは自分より力の強いものがそこにいろという位置にいることを甘受するだけだ ...
...
...従属が要求されるのである。階層構造なしには”和”もありえない。一生を通して日本人はいつも家族、親類、学友、職場の同僚などまさしく接触するすべての人との関係で、相手の”目上”か”目下”かを思い出させられる。
同書
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日本社会での”社会性”というのは、上下関係による階層構造で規定されてきたと思うのですが。この階層構造というのは、常に崩壊にさらされ続けながらも、未だ厳然と存在しており、これに代わるパラダイムを社会は見出せずにいる、と思います。
少しピントが外れますが、エントリーを読んでいて、頭の良さとは?というのを考え始めたので、ちょっとだけ。
思考には、拡散と収縮というパターンがあるようです。拡散を想像とすると、収縮が理論化する能力。拡散とは、全然、無関係な言葉を羅列する事。
「巨乳の綿菓子における三振は、留守番電話と陰茎の恋敵だから、隣の客は因数分解で潮を吹く」とか。訳わかんないですね。繋がったり、連想の後が見えたら、不手際。 で、これを収縮させます。つまり、無理に論理化させます。
例えば、「巨乳と綿菓子の関連性」を論じる訳ですね。無理にでも接点を見つけて、力技でねじ伏せるんですね。
「巨乳は離れて見えると、固体で構成された二つの惑星のようだが、内部の動静脈は繊細な血管網に包まれ、その中に本体がある。その構造は、周囲を淡いガス状の物に包まれている綿菓子に類似していて…」という具合に。
拡散のみの人間は狂人で、収縮のみの奴は引き籠もりとも解釈されやすいです。どちらかが得意というのは重要かも知れません。漫才のボケと突っ込みか、或いは、以前流行った右脳型左脳型という事かなあ?
頭の良さの中核を占めるのは、多分、論理貫徹とか構成力でしょうが、こういったものは、ピュアな形で存在しているというより、その人間が持っている世界観によっても違います。
その世界で、自分がこれまでに経験してきた事象法則に基づくので、それぞれに論理の成り立ち、使い方、結論の出し方が違ってきます。その論理が、首尾一貫しているように思えるかどうかは、着想のレベルでは、直感的で感覚的なものなので、立証の段階では、また別の能力を要求されるんですね。
パズルのように、論理的にはこうならざるを得ない、といった技術的な論理も勿論ありますが、そんなものが日常の中で、生の形で使われるケースは非常に希です。実践的な頭の良さを求めるなら、得意な分野の経験値を増やして、感得するのが有効でしょう。
しかし、経験値という事になると、老人の親方の腕がナンバーワンみたいなパターンになりがちです。経験が大事な世界もありますが、好奇心の持続が重要という世界もあるし、記憶力重視の業界もあれば、素早くダジャレを思いつく能力が大事な業界もあります。経験値至上主義はさほど意味のある事ではないんでしょう。
嗚呼、長くなりそうなので、この辺で。
>No.33 禅 さん
最初の例文で不覚にも噴き出してしまいましたw
頭の良さ、ということつながりですが、私の場合は
「intelligence」と「wisdom」に分けますね。
恐らく、「基本と応用」や「社会性」に関してもここが多少分かれ目なのでは、と思いますが…
現在の教育システム(というか『学歴』)はintelligenceに偏り過ぎなんでしょうね。
No.30 apj さん
レスありがとうございます。
今でもよく思い出す中学生の時のことですが、英語の授業のとき、クラスをグループ分けして(当時、一クラス42人位ですから、7グループくらいですか)、みんなで協力し合ってこのページの問題をやるようにと言われ、始めの15分くらいでしたか教室内が静まり返って話し合いをいている様子がなく、そろそろ何か話し合わなきゃなと、思っていたところ、先生が私を名指しで呼び出し、えらい剣幕で怒られたことがありました。(簡単に言えば、「なぜ話し合いながらやらないんだ!」ということでした。)当時、自分としては他のグループだって話し合ってねーじゃんという憤りしか感じず、それがけっこうトラウマとなり英語の先生を憎んでいましたが、今思い出せば、そういう空気を打ち破って、ディスカッションを先頭切ってやるべきだったんだなと、反省したりしています。
おいちゃんさん
なるほど、なるほど。
これも、「頭の良さ」を表しますよねえ。「wisdom」となると、経験値の多さが有効に作用するんでしょうか?
「intelligence」という事ですと、例えば、知能検査なんかで、良・大・老・古・干・少の中で、仲間はずれはどれか?みたいな問題が出る事がありますよね。
この時、思いつく限りの視点で、波状攻撃していって、チェックします。例えば、この設問の正解を「大」にしてみます。
理由は、隣に「女偏」を付けて成立する漢字の中で、「大」が弾き出されるから。
まず、何か部首を付けたら成立する漢字、という発想を出します。この時、「女偏」が思いつくかどうか。
着想、それを瞬時に検閲、情報相互のコネクション、関連性を精査していく力、こういう作業が論理を検証し、収縮させる事になります。
あっと言う間に、拡散して、瞬く間に、収縮してチェック。これなど頭のいい部分の一つという事なんでしょうねえ。
あ、となると、情報処理という事になりますか。
No.36 禅 さん
>あっと言う間に、拡散して、瞬く間に、収縮してチェック。
私は科学にたずさわっているんですが、くだらない、というか間違ったアイデアは一杯思いつくし、他所からもやってきたりするんですよ。で、駄目なモノをいかに捨て去って最善のものを拾い上げるか、というのが専門家の腕の発揮のしどころだったりします。
法曹の方はどうでしょうか?
事件を見て、さて訴状書いて準備書面書いて、とか答弁書書いて、となったとき、この方向で、と決めるまでの思考ってどんなふうになさってますか?
>No.36 禅 さん
それは多分にあるかと思います。
ただ、「少ない経験であってもそれを応用出来る力」なのかな、とも思います。
もの凄く分かりやすいのか分かりづらいのか判断が付かない例えなんですが、雨が降って来た場面を想定して極端に言えば…
intelligence:
「これは雨と呼ばれる気象現象であり、海面から蒸発(ry」
「通常傘と呼ばれる道具を用いて濡れることを避ける」
「何故かと言えば、衣服の損傷や気化熱による体温の(ry」
など。
wisdom:(雨、という単語すら知らないとして)
「何かたまに来るよね、これ。割りと○○な時に多いんだ」
「あ、これの後は大概○○だからXXしとくかなあ」
他。
そして問題は傘を持っていない場合…
intelligence:
「現在、私は傘を持ち合わせていない」
「通常雨宿りと呼ばれる行為を行い、雨に濡れ(ry」
wisdom:
「うわーこれじゃずぶ濡れ…あ、何かアレ持ってたら濡れないんじゃん?」
落ちてる板きれでもトトロの葉っぱでも、何でも傘の代わりにしちゃう、みたいな。
あくまで私のイメージですが。
とほほ…分かりませんでした^_^;