エントリ

録画から「任意性に疑い」と調書却下、大阪の殺人未遂公判(2007年11月15日3時8分 読売新聞)
取り調べDVDで検察調書を却下 「自白の任意性に疑い」と大阪地裁(産経ニュース ウェブ魚拓

 裁判所の判断理由にはやや揚げ足取り的なところも見られますが、大阪地検はいったい何を考えていたのかな、と感じられる報道です。

 録画された取り調べ状況や自白調書の具体的内容がわかりませんので感想にとどまりますが、

 検事の取り調べ技術が下手くそだったのではないか。
 何のために録画するのか、という問題意識のピントがずれていたのではないか。
 検察官は本件の立証の柱をどう考えていたのか。

 などの疑問が頭に浮かびます。

 本件は計画的犯行ではなく、激情的な偶発的な事件であるように思われますが、仮にそうだとしますと、殺意の有無の認定においては、被告人が「『殺すつもりがあった。』と供述したかどうか。」は決定的ではないと思います。

 凶器の形状(果物ナイフの刃渡り等)、傷害の部位(胸や首などか手足などか)、傷の深さ(どの程度の力を込めたのかが推定できる)などの客観状況が重要です。

 逆に言えば、被告人の自白調書の証拠請求が却下されたからといって、直ちに殺意が認められなくなるというわけではありません。
 客観状況の立証がしっかりしていれば、殺意を認定することは可能です。

 しかし、客観状況(刺したときの状況)の認定のかなりの部分は被告人の供述に依存するはずですから、殺意に関する供述の任意性に疑問が生じると、その他の部分の供述の任意性にも影響を及ぼします。

 検察の立証方針の当否が問われる事件だと思われます。

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コメント(21)

まったくコメントが伸びないようですが、私は、この事件は、日本の取調べ可視化議論に大きな影響を及ぼすエポックメイキング的は重大事件だと思います。
取調べの全課程を可視化すべき、という議論になればいいのですが、仁保事件で取調べテープで自白の任意性が吹っ飛んだ後は、そういう録音は止める、という運用になってしまった歴史があります。
また、自白調書獲得に偏重した刑事司法のシステムが変動し、客観証拠と公判廷での第三者供述、被害者供述、被告人質問から公判廷で心証形成するシステムになっていくことを望みます。

大変興味深い判断だと思います。

公判で上映されたとのニュースはラジオで聴き、検察側が「任意性に疑いなし」としたのに対し弁護側が逆に「任意性に疑いがあるのは明らか」としたのを知って吹きだしそうになったのですが・・・。

検事経験のある方のブログでこういう皮肉を飛ばすのも気が引けるのですが、ごく正直に感じたのは「検察側が言う『任意性』なんて、所詮このレベルなんじゃないの?今回に限ったことじゃなくて、昔っから、この程度の『自供』があれば『被疑事実を認めてる』って扱いにしてたんじゃないの?」と言うことです。

それはそれとして、今回のような判断が下されたことで一気に取り調べの可視化に刑事司法当局がネガティブになる恐れがありますが、望むらくは「ビデオを上映しても公明正大に『任意性』を主張できる標準類型」を整える方向に注力していただきたいものです。

逆に本件を契機として,可視化の方向に話が進んでくれればというのは希望的観測でしょうか。

ここのエントリーコメントを読んで、モトケン先生の検事時代の過去ログ「少年事件のむずかしさ」を読んだ時のことを思い出しました。
いつか私が立件された時の担当検事がモトケン先生であったれば私は喜んで年貢を納めるんだがなあと沁み々み思いました(笑)。

 そもそも自白を重視すると言う考え方自体が前近代的ですよね
 取り調べでプレッシャーかけられれば、そこから逃れるために、やってないこともやったと言ってしまうことは当然あり得ます。
 そんなことは弁護士も裁判官も検察も分かり切ってるのに、何で改善しようとしないんでしょーか。

法務省がいくら抵抗しても、可視化への流れはもう止まらないように思います。
やはり昨今の冤罪事件の影響が大きいのではないでしょうか。
もし、すぐにではなくても政権交代が起きれば更に加速するでしょう。

No.1 今枝仁 さんのおっしゃるような新しい刑事司法のシステムに対応できるよう、
当局には準備をしておいて欲しいですね。

No.5 名無しさん さん

たぶん警察官の数が足りないから…

まず言えるのは,この事件で任意性が否定されたのは,少なくとも「これまでの」取調べ能力とは無縁だということです。

自白なんか関係なく,客観的状況から認定するのは当然のことです。
モトケンさんのおっしゃる「刺したときの状況」すら,基本的には,客観証拠に基づくものにすぎません。自白に負うところがそれほど大きいとは思いません。「包丁を持っていたら向こうが突っ込んできた。」というような弁解があったら別ですけど。

証拠を知らないので何ともいえないものの,裁判所は,胸を故意に刺した,殺意ありと認定して,傷害には落とさないだろうと思います。任意性を否定した理由の中心はそれだろうと思います。要するに,その自白調書がなくても殺意を認定できるからです。証拠知らんのに断定しますけど。そして,そのように認定されると,検察は控訴できない。


自白調書否定でいいんでしょうね。今の時代は。
ただ,自白中心で動いてきたところが,果たして客観証拠による認定をなしうるかと思います。精密司法と自白は隣人だったわけです。

ジャームッシュさん
もしお説のような状況でしたら、裁判所は、「必要なし」として自白調書を却下することになります。
必要性がないから、任意性がない、というのは理論的には不自然です。必要性と任意性は別個の訴訟法的事実であり、その判断基準もまったく異なるからです。
もっとも、任意性の判断をなす際の脳裏に、必要性の程度についての意識があった可能性は否定できません。
今後、自白調書不要の流れになればいいんですが。

また、判断の順序の問題もあります。

証拠価値評価としては、客観証拠から主観証拠へ、という順序になるのは当然ですが、証拠価値評価に先立ち、証拠構造評価が問題になります。
つまり、直接証拠があるときはその証明力がまず問題となり、客観証拠は直接証拠の証明力を判断する際の材料となり、直接証拠がないときには、客観的な状況証拠の総合判断による判断となります。
直接証拠があるときに、いきなり状況証拠の総合判断をなすのは順序が違います。
よって、殺意を自白する直接証拠がある場合は、その任意性・信用性・補強法則具備により判断され、その自白が採用できないとなった場合に、状況証拠(客観的証拠)の総合認定に入る、という順序になろうかと思います。

この事件では、直接証拠たる自白が採用されなかった段階で、客観的状況証拠の総合判断に入ってきたわけで、状況証拠が十分だから自白を却下、というのはあり得ないと思うのです。

今枝先生

 たぶん、ジャームッシュさん(弁護士の方でしょうか)が指摘されたのは、裁判所のホンネというか内心、動機みたいなことでは。
 論理構造としては今枝先生ご指摘のとおりで、建前としては任意性がないから却下としているのですが、その裏には「どうせ他の証拠から殺意認定できるから別にPSまで取らなくてもいい」という考慮があったのではないかということです。
 こうすれば、有罪判決と言う本丸は守りつつ、捜査機関の人権侵害に厳しい裁判所という姿勢もアッピールできていいと踏んだのでしょう。現にこうして報道されました。ライブドアなど世間の注目が集まる大型事件はやけに積極的に保釈するのと同じ構図が垣間見えます。

エントリ,コメントともに興味深く拝見させて頂きました。
ニュースを見てエントリを書いてしまいましたが,先にこうした議論を見ておけば良かったと思っています。

ちなみに,任意性がとびそうなDVDがどういった経緯で法廷に出てしまったのか,というところに興味がありますが,もしご存じでしたら教えて頂ければ幸甚です。

お時間がございましたら11月30日の近弁連シンポジウムにお越しください。この事件の弁護人が報告する予定です。

お時間がございましたら11月30日の近弁連シンポジウムにお越しください。この事件の弁護人が報告する予定です。

エントリーの趣旨から若干ずれるのですが「殺意」の認定について。

私が時々疑問に思うのは、とりわけこの大阪のケースのように「激情的な偶発的な事件」の場合に「殺意」というのは加害者はどのくらい自覚的・言語的にその意思を抱いているのだろうか?と言うことです。

よく報道で見聞きする(と言うことは警察発表がそうなっていると言うことでもありますが)「殺してやろうと思った」云々ですが、激情的に犯行が突発した場合、そこまで明瞭に言語化された思考に基づいて行動しているわけではあるまい、と思うのです。

そうすると「殺してやろうと思ったのか?」と問われても、後から整理すれば、あの時抱いた感情はそういうものだったかと言うことになったり、或いは「そんな風に考えてたわけじゃないんだけどな」とブレたりするんじゃないかと。

犯行の瞬間、言語的に認識していたのはただ「この野郎!」だけかもしれない。
それが太ゴシック4倍角だと明らかな殺意を意味するとか、明朝体の半倍角だから一般的には殺意に当らないけど赤文字だから殺意に相当するとか、そういう定量的な線引きでの判断ができるものではないだろうと。

なにが言いたいかというと、光市の事件弁護でもそうなんだけれども、仮令犯行に取りかかるまでの段階で明確な殺意を窺わせる言語的な供述がなかったとしても、そのことを持って一概に殺意は否定できないんじゃないの、ということです。

確かに、加害者が自身の口で自主的に殺意を認める供述をしたのであれば、その信頼性はマァ高いと判断していいでしょうから、自供を求めるのは正しいことです。
けれども、取調官の発言に対し同意したという程度の「自供」であるならば、殺意を認めたとするにせよ認めなかったとするにせよ、証言によらず立証できるよう体制を整えることにも、もっと注力していいんじゃないかなーと思う次第で。

客観的証拠からの殺意の認定については,それだけで1冊本がかけるほど研究が進んでいます。「どういう事実があったら殺意が認定できるか。」はかなりの程度固まっているといえます。
検察は通常であればそのような事実を裏付ける証拠の収集に全力を注ぎます(今回はどうなんでしょう?)。

ので,「殺意を認める供述」は
1 ダメ押し
2 微妙な事案での決定打
位の役割しかありません。

とここまで書いたところで,モトケンさんがコメントで同じことをもっとわかりやすく書いていただいていることに気づきました。

だったらなおのこと、自白なんか別に・・・って思うんですけどねえ。
光市事件みたいに否認をうかがわせる供述をしたのにそれに沿った弁護が行われていなかったというようなケースなら一度は法廷で争わなくちゃいけないと思いますが・・・。

No.17 惰眠 さん

No16といいつつ,やっぱり自白は「証拠の王様」で証拠価値が高いわけで。。。。
とれるもんであればとっておいたほうがいいでしょう。
但しとるときはしっかりと(このあたり,検察官には結構きっちりと教育され手いるはずですが。。。今回の件はどうしてだろう?)

 惰眠さんの疑問、よく分かります。
 殺意の認定に関する考察は本1冊書ける位あるはずなのに、そんな精緻な議論が役に立つ事件のほうが稀で、ほとんど自白調書で認定されるというのが現実ですからね。調書で殺意を認めていれば、客観的証拠で否定されるということは考えにくそうです。
 検察官側からすれば、客観的証拠から殺意ありといえそうだと思えば、殺意を認めさせる方向で取調べが進むし、殺意があるかどうか微妙だと思えば、安全策で無理はしないので、結論において差異はないはずということになるのでしょうか。
 しかし、調書に「死んでしまうかもしれないが、それでもいいと思ってました」なんてあると、ちょっとどうかなあとも思うんですけどね。

アメリカで採用されている第一級殺人・第二級殺人の区別において殺意の認定をどのように行っているのか、同時に研究してみるというのもひとつの手段になり得ませんですかね。

異常な遅レスですみません。
でも,大事な問題と思いますので。

>今枝さん
理屈の上では,任意性判断の前に,必要性なしで切るはずでしょう(ただ,それはほぼ事実認定の先行判断となりますが)。
倶利伽羅(49期、B) さんのおっしゃるとおり,裁判所の内心の動機として,という趣旨で書きました。
ご存知のとおり,自白調書を必要性なしで切った事例は絶無に近いはずです。
通常,任意性否定の事案は,無罪(又は一部無罪)に直結する場合が相当多いと理解していますが,最近は,完全有罪事案,つまり状況証拠で認定しうる事案でも任意性を否定するようになっているんじゃないかということです。
それが本来であると言われれば,そうかもしれません。
ただし,是非は別として,裁判所も取調べの全面可視化を求めてそのような判断をした可能性も相当高いと思います。

可視化をどこまで進めるか,というのは,捜査機関に課せられた課題であることは間違いありませんけど,聖域というものは確実に存在すると思います。
例えば,最近の坂出の3人殺害事件の取調室は,それに近いのではないかと思います。被疑者は死刑あるいはそれに準ずる重刑を予想して話しているはずです。少なくとも,ここを侵すことには躊躇を覚えます。

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