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 小会議室のコメントが300を超えましたので、(その2)を作りました。

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コメント(259)

せっかく設置されたのにどなたもお使いになってないようなので(笑)

昨日、横浜の港北区内の駐車場に男性遺体が放置されているのが見つかった事件で、知人の男性が死体遺棄容疑で逮捕されました。
報道を見るとこの被疑者、遺体で見つかった男性と酒の上で口論になり、翌日以降相手が出勤してこなかったのを不審に思って家を訪ねると死んでいたため自分が包丁で刺殺してしまったのかも知れないと思い込み、病院に運ぼうと(ホントかウソかわかりませんが)途中まで運び出したものの恐くなって逃げた、と。
ところが検死の結果、死亡していた男性は病死の可能性が高いということです。

そうだとすると今回逮捕された男性、余計なことをしなければ何の罪にも問われなかったのに、なまじ相手を病院に運ぼうとしてそれを途中でやめたがために犯罪者(今はまだ被疑者)になってしまったとは随分と皮肉な話に感じます。

あ、先に、惰眠さんが書いてました。

ええと、惰眠さんのお話とは違うのですが、興味のある方に質問なんですが、「日本の捕鯨は違法」というニュース。

【シドニー15日時事】オーストラリアが領有権を主張する南極海の一部で日本の調査捕鯨会社「共同船舶」(本社東京)がミンククジラなどを不法に捕獲したとして、環境保護団体ヒューマン・ソサエティー・インターナショナル(HSI)が提訴していた問題で、豪連邦裁判所は15日、この訴えを認め、調査捕鯨を停止するよう命じる判決を下した。  ただ、南極海の領有権は豪州など一部の国が主張しているものの、国際的には認められておらず、判決にも強制力はない。
 

ネットを周遊しても、「南極海に領有権なんかない」という意見があるのですが、根拠はやはり南極条約なんでしょうか?

オーストラリアの報道でも、南極条約の事は少し出てました。

"Taking such action can reasonably be expected to prompt significant adverse reaction from other Antarctic Treaty parties, including Japan,'' the Australian Government Solicitor wrote.

「そんな事言ってたら、南極条約加盟国からも拒否反応が起きるんじゃないの」と言ってる訳ですが、日本での報道はどうなんでしょうね。

You tubeでは、反撃の動画も出てますが、ううむ、感情的ですねえ。

>No.2 禅さま

南極条約は1961年に12ヶ国が署名してで発効された条約で、現在は45ヶ国が署名していますが、日本やオーストラリアも1961年の発効当初から署名している12ヶ国の原署名国です。

領土主張の関連としては、南緯60度以南についての領土権の主張を「凍結」しています。「凍結」であって、「無効」とか「放棄」ではないので、署名国の領土権を定めた国内法での規定を廃止するかどうかは、当該署名国の判断に任されています。オーストラリアやアルゼンチン、チリなどの諸国は、領土権の主張は放棄しておらず、それぞれの国内法では南極地域についても自国の主権を行使しています。(切手の発行などが良く見かける主権行使の例です)

1961年の発行後30年経った1991年に、南極条約協議国会議が開催されて「環境保護に関する南極条約議定書」が採択され、1998年よりこの議定書が発効しました。この議定書により締結国には、南緯60度以南において鉱物資源活動の禁止、ほ乳類及び鳥類の捕獲・殺傷の禁止、在来動植物の生育・生息環境の保護、生きた生物の持ち込み禁止、廃棄物の抑制と制限・保管・南極地域からの撤去などが義務づけられました。

今回のオーストラリアの捕鯨に関する裁判と判決は、領土権主張と主権行使の根拠となるこの自国国内法での規定を踏まえたものと思われます。しかし、今回の判決はオーストラリアの主権が及ばない日本の調査捕鯨に対して行なった裁判であり、国際法上は主権の侵害と日本に反論されても致し方ない、一種の政治ショーと言えます。

また、南極条約加盟国から日本は爪弾きにされる云々という報道は、前記の議定書に規定された「南緯60度以南でのほ乳類及び鳥類の捕獲・殺傷の禁止」に調査捕鯨(鯨はほ乳類です)が該当するとの主張かと思います。と言うのは、調査捕鯨の根拠となる国際捕鯨取締条約では、南緯60度以南での捕獲調査(実際は捕鯨船での捕獲と解体)の実施を認めており、日本はこの条約に基づき南緯60度以南での調査捕鯨を実施していますので、南極条約議定書での「南緯60度以南でのほ乳類及び鳥類の捕獲・殺傷の禁止」とモロにカブります。

但し、日本の調査捕鯨は学術調査であり、南極条約の議定書ではこうした正当な学術調査であれば、南緯60度以南でのほ乳類の捕獲・殺傷禁止の例外として認められていますので、日本の調査捕鯨は南極条約とその附属議定書にも認められた、国際法上正当な行為と位置づけられます。

このように日本の調査捕鯨は正当な行為ですが、オーストラリアはこうした日本の立場や主張を認めておらず、特に昨年政権を得た労働党は、国際法での調査捕鯨の権利を認めない立場を鮮明にしています。こうしたオーストラリアの政治的背景が、先の政治省ー的裁判などの遠因となっているようです。

なお、日本の水産庁のダミーとも言える財団法人日本鯨類研究所のHPが参考になりますし、アチコチをググッて見つけた調査捕鯨の国際法上の根拠を示す記事を下に貼り付けておきます。

調査捕鯨 日本が行っている調査捕鯨は、英語による報道ではResearch Whalingという言葉よりはScientific Whalingと呼ばれる場合の方が多い。 IWCの用語ではScientific Permit(科学許可)やSpecial Permit(特別許可)と呼ばれる範疇に属する。国際捕鯨取締条約(ICRW)の第8条第1項により、加盟国政府には自国民に対し科学調査のために鯨を捕獲する許可を与える権利が与えられており、それに基づいた鯨の捕獲調査をいう。調査計画の名称は、南極海で行っているのがJARPA(Japanese whale Research Program under special permit in the Antarctic)、北西太平洋で行っているのがJARPN(Japanese whale Research Program under special permit in the North Pacific)である。

このように、条約上の正当な権利ではあるが、日本の調査捕鯨の自粛を求めるような決議が毎年IWCで採択されているのは、例えて言えば、憲法で保証された権利を否定するような決議が議会で採択されるようなものである。

上記引用の記事中に出て来る国際捕鯨取締条約(ICRW)が、IWC(国際捕鯨委員会)の設置を定めた条約です。そのために「憲法で保証された権利を否定するような決議が議会で採択されるようなものである」という一番最後の文章となります。

>「憲法で保証された権利を否定するような決議・・・」

これも立場の違いでしょうね。
権利を否定していないからこそ「自粛」を求めているのだ・・・と言われるのでは。
卑近な例で言えば、日本でも議員辞職勧告決議なんてものがなされますし。
(注) 別に非国民でも捕鯨反対論者でもなく、「表現」もまた立場を反映するということ。

法務業の末席さん

おお、何と分かりやすい説明でしょうか。このブログのレベルの高さを思い知る説明でした。ありがとうございます。

今回の判決はオーストラリアの主権が及ばない日本の調査捕鯨に対して行なった裁判であり、国際法上は主権の侵害と日本に反論されても致し方ない、一種の政治ショーと言えます。

なるほど。言い得て妙です。結局、オーストラリアと日本の主張の根拠が違うんですね。これは、趣味の争いみたいなもんなんでしょうねえ。

石油、環境、アフリカの飢餓など、世界には考えるべきことはあるでしょうし、金のある国同志が、やれ残酷だ、やれ伝統だというのは、ある種典雅な争いだなという気がします。

好きな人が好きに騒いでいる感じですね。日本のサッカー代表の監督を誰にするかというのと、そんなに変わらないレベルの議論かも知れません。

しかし、おかげですっきりしました。ありがとうございます。

鯨を食べる習俗がなく、癒しとして見ている人たちからすると、例えるなら、私たちが外国で犬や猫を食べている人たちを見るような思いなんですかね。しかも、鯨は家で飼うことができませんから、近海で飼っている自分たちのpetが、という思いなんでしょうか。

日豪両国は経済関係でがっちり結びついていますから、最終的には両国政府とも火消しに走ると思いますけど、こういう感情論を政治的思惑によって糾合しているとやっかいですね。ずーっと、くすぶり続けるんじゃないでしょうか。

>>No.1 惰眠さん
>恐くなって逃げた・・・病院に運ぼうとしてそれを途中でやめたがために
>犯罪者(今はまだ被疑者)になってしまったとは随分と皮肉な話・・・

改正道交法で救護義務違反(ひき逃げ当て逃げ行為等)が最高刑10年にひきあげられたのを妥当に感じる私としては、これも皮肉ではなくある意味当然の自己責任に思えました。

他人を車でひいた被疑者に救護義務が生ずるひき逃げのケースと対比するとそうなんですけど、港北の作業員の事例では死亡男性はいわば「勝手に死んでた」し、死体遺棄の被疑者は「その死体を見つけただけ」ですので、ちょっと比較対象にするにはずれがないかな、と思います。

被疑者が男性遺体を見つけた時点では(通報義務くらいはあるのかもしれませんが)刑事責任を問われるような事実関係は何もなかったのに、態々やらずもがなのことをして(供述では病院に運ぶ云々しているようですが、本当は『もしかしたら自分が殺してしまった相手』の遺体をどっかに運んでって埋めるつもりだったんでしょう、多分)そのせいで事件にしちゃってるんですから・・・。

まあでも、これも記憶がなくなるまで飲んで暴れた(多分・・・)被疑者の、自業自得の範囲のことかもしれないですが。

>>No.7
は、自分であっても恐くなって逃げるかもしれないが、逃げたら罪を重ねる結果になること自体は承知しているということです。
これを承知で私が逃げた場合、その法を知らずに単に逃げた者より私のほうが、同じ罪でも犯情が悪質であると認定されますね(笑)。

>No.4 psq法曹さま
ホント、これは双方(日本Vs反捕鯨国)の拠って立つ基盤が全然違うので、論理で正当性を主張し合ってもどうにもならないという印象です。理屈で話し合っても解決しないから、結果として賛成や支持してくれる国が多い方が勝ち、という数の力の勝負になるのでしょうね。

IWCの会議のニュースを見聞きすると、日本の政治や政党の世界での派閥議員の人数争いを連想します。


>No.5 禅さま
お褒め頂き恐縮です。

実は小生、筋金入りの南極観測オタクです。さすがに昭和31年の「宗谷」出港や、2年後のタロとジロの樺太犬生存のニュースは、幼すぎて記憶はありませんが、第2代観測船「ふじ」の船名募集にはハガキを出しました。(残念ながらどんな船名で応募したか覚えていません、「ふじ」でなかったことは確かですが…)


先のコメントのとおり、いくつかの国々は南極についての領土権を主張しています。元々は19世紀から南極探検を行なってきたイギリスとノルウェーが領土主張したのが始まりですが、南極に出遅れたアメリカとソ連が、第2次大戦後に「学術観測優先と平和的利用」を大義名分に、南極条約によって先行組の権利行使を「凍結」した、という歴史的側面があります。イギリス・ノルウェーに続き、オーストラリア・ニュージーランド・チリ・アルゼンチンなどの南半球諸国が領土主張しましたが、これらの過去に領土宣言したほとんどの国は、南極条約により凍結には応じていますが放棄はしておらず、国内法では自国領土として扱っている国が結構あります。

それらの国々では、自国領と称する南極大陸を発行地とする郵便切手を発行したり、越冬隊員を自国の南極観測基地を住所地として住民登録するなど、様々な「主権行使」の既成事実を積み重ねて来ております。中でも極めつけはアルゼンチンで、夫婦で南極に派遣して出産させ、生まれた赤ちゃんの出生地をアルゼンチン領南極として出生登録し、保育施設なども南極基地に併設して「南極育ち」をアピールをするという、日本では思いもつかないような実績作りまでやっています。最近の資源探査ブームや、米ソという世界を仕切ってきた2大リーダーの凋落が、こうした各国の既得権争いに拍車を掛けています。


今回捕鯨船に乗り込んで拘束された2人の処理に、日本の政府はなかなか手こずっているようですが、基本的にはこの2人の行為は国際法の「海賊行為」であり、日本船籍の捕鯨船内にて拘束されたのですから、日本に裁判権があります。ただ2人を日本国内で処罰するために、日本の海上保安庁が南極海まで引き取りのために巡視船を派遣するのは現実的でなく、調査捕鯨への影響を考えると処罰は不問にしたまま公海上で釈放せざるを得ないでしょう。

引き渡し先としてオーストラリア政府の監視船を候補に、日本政府が打診しているようですが、ガチガチの捕鯨反対国であるオーストラリア政府としても、国際法が規定する「海賊行為」の犯人を、国家として保護しているイメージはイヤだというのが本音でしょう。

と言うのは以前よりオーストラリアは、北隣の東チモールやインドネシア諸島近海で武装ゲリラの海賊に悩まされていて、その対策と取り締まりに苦慮しています。今回の拘束者の解放にヘタに関わると、「海賊行為の身方をする国家」というレッテルが貼られ、自国の取り締まりに悪影響することを心配する立場、というアキレス腱があります。まぁ、日本とオーストラリアとシーシェパードの本部があるアメリカを交え、ナンダカンダの紆余曲折はそれなりにあると思います。

【お〜い紅茶さん】

私たちが外国で犬や猫を食べている人たちを見るような思いなんですかね。

ああ、そうかも知れませんねえ。でも、フランス人がウサギを食べてると聞いても、たまに食卓に乗るくらいで、週に2〜3回食べてるとは思いませんよねえ。

想像では、レストランのメニューにあるとか、日本人が自宅で馬刺を食べるくらいの回数ではないかと思うんですね。

ちなみに、ぼくはオーストラリア在住なんですね。新聞報道では、ほぼ毎日捕鯨について掲載があります。テレビなんかでは、捕鯨のショットと日本人がレストランか何処かで鯨を食べてるショットがインサートされます。

この映像から受ける印象は、(日本人は、鯨ばっかり食ってるなあ)です。でも、オーストラリア人でも、別に関心のない人も沢山居ます。それより、住宅ローンの方がよっぽど切実ですから。

大体、今の日本人は、鯨なんか年にどのくらいの割合で食べるでしょうねえ。ぼくなんか最後に食べたのは20年以上前の事かも知れません。


こういう感情論を政治的思惑によって糾合しているとやっかいですね。

そうなんですよねえ。強硬派の意見て、何でもそうですが、ウケがいいじゃないですか。「日本人が鯨を食ってる?そんなもの許せるか。生ぬるい事言ってねえで、ガンガン罵り倒さんかいっ」なんていう意見は、言う方としては爽快なんでしょうね。本宮ひろ志のマンガみたいですが(≧∇≦)

こういう強硬派というか、タカ派の意見て受け入れられやすいですよね。ストレートだし、シンプルだし、分かりやすいし、男っぽいし、堂々としている感じがするんでしょう。

ただ、こういう連中にイニシアチブを持たせると、殆どの場合、失敗します。何せ威勢がいいだけで、綿密な作戦が立てられなかったり、計画が杜撰だったりしますから。

じゃ、強硬派は間違っているのかと言えば、そうでもなく、正しい事も含んでいたりするので、厄介なんですよね。だから、硬軟交えてというレシピが必要になるんだと思います。


【法務業の末席さん】


まず、「南極観測オタク」に驚きです。そういう領域があったのか、です。いやあ、びっくりしました。

ぼくは、クリスマス後から大晦日に至る狂騒が好きな「年末マニア」ですが、そんなチンケな自称など、物の見事に粉砕してしまう「南極観測オタク」。凄いなあ。

しかし、アルゼンチンのエピソードにはびっくりしました。出産、保育施設…、そこまでしたいものなんですかねえ。

日本の捕鯨船に拘束された二人の問題をどうするのか傍観していたら、いろいろ背景があるんですねえ。

A Japanese whaling ship late Thursday handed over to an Australian customs vessel two anti-whaling activists who climbed aboard two days earlier, an official from Japan's Fisheries Agency said.

ありゃ、オーストラリアの船に引き渡したんですね。今後の動向をまた注視していましょう。

>No.11 禅さんへ


オーストラリア在住でしたか!! 現地の貴重な情報を伝えていただき、ありがとうございます。

現地の報道だと、日本人全員がよほど鯨にこだわっていると見えるのでしょうね。逆に日本の報道を見ていると、オーストラリア人全体が、カッカ来ているという印象を受けます。当たり前ですが、両国とも冷静に事態の推移を見ている人たちがいるということでしょう。

日本の報道を見ていると、元ロックスターの環境相を中心に新政権が環境票目当てに反捕鯨を全面的にバックアップしているように見えます。また、シーシェパードについてもグリーンピースとのつばぜり合い、資金目当てのスタンドプレーをしているという報道がされています。領土問題についての場合もそうですが、これらの報道は実際そのような面もあるとは思いますが、相手の行動・意図を矮小化するための報道であり、相手の行動予測を見誤る危うい情報だと考えます。

強硬派についてのNo.11 禅さんの見解に一から十まで賛同できますが、さらに私見を付け加えるなら、
1.強硬派はその思想的強度の高さから少数派であり、大部分は無関心・もしくは生活に照応した程度(強度)において見解を持つ。
2.しかし、為政者の計画の杜撰さにより、社会に経済的困窮や閉塞感が蔓延した場合に、為政者はその原因を(自分に向かわないために)他の者に転嫁しようとする。
3.その際、無から有を作り出すことはできず(一握りの真実に嘘をまぶさなければ、嘘は効果的にならない)、実際にある強硬派の最も良質的な問題意識を背景として、その原因や対処策を他者に見出すように加工する。そして、強硬派を核として穏健派の思想的強度が底上げされていく。

このような考えから、前述の報道のような表面的な問題を「下衆の勘ぐり」的に指摘しても反発を受けるだけで、最も根本的な良心的な問題意識に対して、直接的反駁なり理解を示すなりしないと有効ではないと考えます。それが、【私たちが外国で犬や猫を食べている人たちを見るような思いなんですかね】という、相手の真意を忖度するコメントにつながりました。しかし、この場合【petを食べるなんて】という、ある種のタブー感を利用したものであるだけに【やっかいですね】と感じた訳です。


私は捕鯨に反対という程ではありませんが、「捕鯨は日本の文化だ!!」と強弁されると違和感を感じます。
近海で小舟に乗って漁師が生活の糧のために、細々と漁をするならまだしも、南氷洋で大型母船を中心とした大船団を組んで、安価な動物性タンパク源の確保のために、大量に取る商業捕鯨は、経済的功利を主要因として近年成立したものであり、伝統文化ではないと思います。もちろん、これは商業捕鯨が国民生活に果たした功績を否定するものではありません。

禅さんのレスを奇貨として、長々と私見を語ってしまいました。(笑)

ところで話は変りますが、法務業の末席さんの博識ぶりには、毎回敬服させられます。今回の南極条約の件も大変参考になりました。銃器の件でもニュースで「スラッグ弾」が出てきた時に、おかげでどのような物かすぐに分かりました。いつも、感嘆しながら読ませていただいています。

禅 さま

アラアラ、意外に早々と引き渡しが済んでしまいましたね。
今回のシー・シェパードという組織の過激で危険な行為は、グリーンピースからも捕鯨反対運動が暴力的と誤解される、と非難されていますね。まあ捕鯨反対の豪州労働党政権も、国内世論と経済面での日本との関係の板挟みで、苦悩したようですね。

オーストラリア在住とのことですので、豪州政府の対応についての国内での評価など、現地のナマ情報などをアップしてくれると嬉しいです。


お〜い紅茶 さま

私のは「博識」じゃなくて、「雑学」だと思っています。
博識というと役に立つ知識というイメージですが、雑学は役に立たない知識というイメージがありませんか?

多分皆様より長い期間(50年以上)生きてきた結果、本も沢山読めたし、多くの体験をしたり、その分知識が増えただけです。私は地方の小都市に生まれ、インターネットどころかTVも普及していない時代に育ちましたので、何か知ろうと思うと本を読むしかなく、好奇心のおもむくまま手当たり次第に読んだものです。あの頃にもっと系統的に本を選び、将来の人生に備えた「学問」としての読書をしていたら…、と自分では悔やんでおります。


追記です

私たちの世代は、学校給食で本物の脱脂粉乳(デッカイ薬缶で暖めた、ホントに不味い飲み物です)の世代です。クジラは給食の代表メニューで、竜田揚げや串カツもクジラでしたし、シチューの肉がウサギのときもありました。家でもクジラの缶詰を良く食べましたが、今は売ってないのでしょうか? あの甘辛く、トロリとしたショウガ醤油の味付けが、懐かしく思い出されます

No.13 法務業の末席さん

鯨漁の港に行けば・・・・

No.13 法務業の末席さま

懐かしいですね。

私も学校給食で子供のころ「鯨肉の竜田揚げ」も「(溶けきれない粉末が底にたまった)脱脂粉乳」も給食の「定番メニュー」でした。

過激な環境保護団体の主張はわからないでもないのですが、馬鹿な牛や豚や鶏は食べていいけど、賢い鯨はだめ! というのは少し差別的なにおいを感じます。鯨が激減しているならいざ知らず、鯨が増えすぎて他の水産物(♪さかなさかなさかな〜)が減ってきている、なんて報道を見ると特に。鯨のためなら犯罪を犯してもよい、というのは「エコ・テロリズム」ですよね。
鯨なんか食べないでオージービーフをもっとたくさん買ってよ!というのならまだわかりますけどね。

×私も学校給食で子供のころ「鯨肉の竜田揚げ」も「(溶けきれない粉末が底にたまった)脱脂粉乳」も給食の「定番メニュー」でした。

お恥ずかしい。編集ミスです。

○私の子供のころ「鯨肉の竜田揚げ」も「(溶けきれない粉末が底にたまった)脱脂粉乳」も給食の「定番メニュー」でした。

ですよね。

ほとんどの先進国が死刑廃止しているから日本も死刑廃止すべきという話はよくされるが、ほとんどの先進国がクジラを保護しているから日本も捕鯨をやめるべきとの声は聞いたことがない。

>No.17 YO!!さんへ


死刑廃止については、冤罪の問題・死刑による犯罪抑止効果への疑問・犯罪者を社会から隔離した後の国家による殺人への疑問などの地域性に影響されにくい汎用的な合理的考えが土台となっているけど、「どの動物を食べて良いか」については、習俗による非合理的な倫理観を基にしていて、地域的な差異があまりにも大きいからじゃないかな。だから、「諸外国へならえ」にならない。

私は、猫や犬を食べている人を見たら「げっ!!」って思うけど、その理由を合理的に説明できない。豚を食べちゃいけないところもあるし、牛を食べちゃいけないところもある。オーストラリアで食べられているワニは、日本ではゲテモノ食いだしね。

私としては、「鯨は食べてもいいし、周り(諸外国)が非難するなら、別に食べなくてもいいや!」って感じです。ところで、ウォンバットって食べれるの? 誰か教えて下さい。

No.18 お〜い紅茶さんへ

>「どの動物を食べて良いか」については、習俗による非合理的な倫理観を基にしていて、地域的な差異があまりにも大きいからじゃないかな。

ネット検索するといろいろと面白い話に出くわす。

捕鯨については、鯨を追いかけることで長時間ストレスに曝した上、銛で刺し殺すが、一撃で殺すわけではないので、長時間鯨を苦しめながら殺してるとの批判があるようだ。

一方、ウシとか豚とか家畜はどうかというと、これらの屠殺も必ずしも安楽死せしめているとはいえないようだ。

どうせ殺すのだから、どうでもいいだろう、といえるかどうか。

家畜については法令を定め、残虐な殺害を禁止させることも可能だろうが、捕鯨については現在の技術で鯨を安楽死せしめることが可能であろうかどうか。

鯨が苦しみ死ぬとしても、それが日本文化の許容するところといいたくもないし。

>No.19 YO!!さんへ


もし、ご紹介の話が捕鯨反対の主たる根拠になっているのなら、鯨を瞬殺できる装置を開発すれば捕鯨はO.K.ということになってしまいます。また、長時間追いかけ回すのが問題なら、きつね狩りなどはどうなってしまうのでしょうか。(だから、きつね狩りはもっと禁止すべきという意見なのかもしれませんが)

それから昔、ステーキ屋でバイトをしていた友人から聞いた話ですが、牛は電気銃で瞬時に殺されるらしいのですが、中には殺される前に気づいて、断末魔の叫びを上げながら暴れて死ぬ牛がいるようです。その牛の肉はものすごくかたくなってまずいので分かるそうです。ですから、牛の屠殺も100%安楽死とはいかないようです。

私はてっきり、捕鯨反対の主たる根拠は、「家畜」以外の動物を殺して食べるなんて野蛮という、動物の種類に対する見方の差異を根拠にしていると思っていたのですが、違うのでしょうか。

>No.20 お〜い紅茶さん

>もし、ご紹介の話が捕鯨反対の主たる根拠になっているのなら、鯨を瞬殺できる装置を開発すれば捕鯨はO.K.ということになってしまいます。

主たる根拠かどうかは不明ですが、瞬殺できれば、少なくとも残酷な殺害を理由とする捕鯨反対に対して反論できるので有利でしょう。もっとも、捕鯨が反対されていようがいまいが、生き物を殺すのであれば瞬殺が望ましいといわざるを得ないでしょうが。


>捕鯨反対の主たる根拠は、「家畜」以外の動物を殺して食べるなんて野蛮という、動物の種類に対する見方の差異を根拠にしていると思っていたのですが、違うのでしょうか。

いまどき狩猟なんて非文明人のやることと私は思いますが、では漁業は?と問われるとこれも困ります。マグロ漁なんて、資源の枯渇という点を除けば、残酷というこうとで特に文句言われていないようですし。そういった点を考えれば、種に対する見方の差異を根拠にしていることのありえそうです。

残酷とは?

No.20 お〜い紅茶さん
中には殺される前に気づいて、断末魔の叫びを上げながら暴れて死ぬ牛がいるようです。その牛の肉はものすごくかたくなってまずいので分かるそうです。

アメリカ牛肉が固いのはその所為??
アイオワ牛の屠蓄場
首を開いて失血させているようです。

結局「自分は食べない」しか差が見つからず?

>No.21 YO!!さんへ

動物種に対する見方の差異(牛は家畜なのでO.K.、鯨は友達、ディンゴは害獣なので絶滅もあり、みたいな感じ)を根拠としているけど、それは単に習俗の違いに還元されてしまうので、殺し方云々と付けたということですかね。

ここで、あれこれ日本人同士で詮索してみても、実際にオーストラリアの人たちに聞いてみないと分からないですね。


>No.22 MultiSyncさんへ

牛肉の件ですが、誤解があるといけないので補足しますと、ただ単に硬いだけではなく、匂いや味も極端にまずいです。同じ品種・グレードの肉を仕入れても、その肉だけまったく味が違います。

その店で普段食べているステーキとまったく味が違ったので、聞いてみたところ、そのような事情があるとのことでした。そのような肉が混入することは、めったに無いと言っていました。

【お〜い紅茶さん】

逆に日本の報道を見ていると、オーストラリア人全体が、カッカ来ているという印象を受けます。

やはり、ご推察の通り、一部の人間だけなんでしょうねえ。少なくとも、ぼくの周りでは「日本はそんなに鯨が好きなのかよ!」とか言って食ってかかってくる奴は居ませんねえ。


日本の報道を見ていると、元ロックスターの環境相を中心に新政権が環境票目当てに反捕鯨を全面的にバックアップしているように見えます。

恐らくそんなところでしょう。ギャレット環境相というのは、言うことが都合良く変わりますし、大体からして、反日家という話なので、ぼくなんかも額面通りには受け取ってないんですね。

このような考えから、前述の報道のような表面的な問題を

(\(^_^ )サクサクサクサクッ!( ^_^)/)

ある種のタブー感を利用したものであるだけに【やっかいですね】と感じた訳です。

なるほど、なるほど。精度の高いご説明をありがとうごさいました。いきなり、ぼくが「強硬派の意見」などと飛躍した事を書いたので、脱線してしまいました。すみません。

脱線ついでに。オーストラリアは死刑を廃止しています。
重罰化を強めたところで、犯罪件数が減るという事はあまりないと思っているんでしょう。殺人にしたところで、実行中は理性的な抑止力なんか働かないだろうし、刑罰の事なんかあまり考えてないような気がします。

ですから、死刑は殺人防止としては、そんなに役に立たない→じゃ廃止にしよう。ここまで単純ではないでしょうけど、西欧諸国の実践的でドライな考え方が、死刑廃止の一因になっているように思います。

言い方を変えると、情緒的な国民性を持つ国が、死刑を残しているのかも知れません。死刑の効果と言えば、凶悪な殺人犯を死刑にして、スカッとした、くらいではないでしょうかねえ。

本論にはあまり関係はないのですが、「強硬派」路線の人は、殺人があれば「死刑だ、死刑」とよく叫んでいるので、ちょっと書いてみました。


私は捕鯨に反対という程ではありませんが、「捕鯨は日本の文化だ!!」と強弁されると違和感を感じます。

同感です。百人一首、歌舞伎、俳句、生け花、浮世絵…、捕鯨。うーん、食文化という事にしても、浮いてしまうなあ。大体、日本で捕鯨(近海)っていつからやっていたんでしょう?

あ、そうそう。オーストラリアでも、ワニはゲテモノです(≧∇≦)
面白半分に一回くらい食った事のある人間は、100人に1人くらい居るかも知れませんが、そんな好事家はぼくの周りには居ないですねえ。

カンガルーもレストランに置いているところもありますが、好んで食べるのは、旅行者くらいです。スーパーでも見かけますが、買う気にはなれませんねえ。ウォンバットなんかは、食べた事がある人は聞いた事がないです。明日から調査してみますね。

南アフリカに仕事に行った友人が、韓国人経営の焼肉屋に入って、キリンとサイを食ったと言ってましたよ。旅行者相手の焼肉屋だったみたいです。


【法務業の末席さん】

まあ捕鯨反対の豪州労働党政権も、国内世論と経済面での日本との関係の板挟みで、苦悩したようですね。

政権は発足したばかりですしねえ。捕鯨問題は、主人公が鯨だけに、情緒的に報道がされていたりするので、今後の展開が興味深いです。


オーストラリア在住とのことですので、豪州政府の対応についての国内での評価など、現地のナマ情報などをアップしてくれると嬉しいです。

承知致しました。今日は、全豪オープンで、女子のケイシー・デラクアが勝ったので、テレビもこの勝利に食いついています。おかげで、捕鯨問題が飛んでます(≧∇≦)

>家でもクジラの缶詰を良く食べましたが、今は売ってないのでしょうか? あの甘辛く、トロリとしたショウガ醤油の味付けが、懐かしく思い出されます

法務業の末席様

多分、鯨の大和煮缶のことかと思いますが、石巻水産さんなどでまだ生産しているようです。一缶600円が高いかどうかは分りませんが。

四の五の抜きで

外国人が日本国籍の船に乱入した行為は
確実に「不法侵入罪」なんですから
その要件に従い、日本国の法律で粛々と裁けば
いいことなのではないでしょうか?

日本の牢獄も結構いいものです。

「錦の御旗」さえ立てれば、
「なんでも外交問題で許される」
と言う判断は疑問が残ります。

ところで、この行為は、海賊行為なんか?

>No.25 じじい さま

おォ、ソレソレ、大和煮の缶詰です。
情報ありがとうございます。

まだ作っているのですね、でも、値段が1缶で600円!
牛肉の大和煮缶や、カニ缶より高そう。

ところで、石巻水産って、宮城県?
仙台市内でなら手に入りやすいのだろうか?
学生時代の友達が仙台に居るので、今度聞いてみよう。

家畜だから、安楽死だから良い、という問題ではないように思います。
結局、人間の都合で他の生物の命を奪って食べているわけでしょう?(植物なども同じです。「処刑」を待っている麦や稲が「怯えていない」と言い切ることができる証拠はないでしょう?)
それこそ、人間の業(ごう)ですね。

その種が絶滅するから保護しなければならない、という理由ならまだ理解ができますが、単に生命に「優劣」をつける考え方には同意できません。
一度鯨保護派の人と話しましたが、そこを理解してもらうことはできませんでした。彼らは自分たちを「未開の土地に派遣された宣教師」のように思っているように感じました。異なる価値観を持った者の権利や存在を認めることができず、その相手の行動を阻止しようと実力行使に及ぶという考え方の底流には「差別的」な思想があるように思います。

>ところで、石巻水産って、宮城県?

同社によると宮城県石巻市にある鮎川港が捕鯨基地だったそうで、50年間石巻市で営業されているそうです。

そこの営業担当というわけではないのですが下が同社のHPです。
ネットでも買えるようです。

ttp://www.kinoya.co.jp/

>No.29 じじい さま

重ねての情報提供、ありがとうございます。

石巻水産のHPはすでに見ましたが、トップページの缶詰塗装をしたタンクの写真には驚きました。その後、仙台在住の友人からもメールがあり、例の缶詰塗装のタンクは相当大きくて目立ち、石巻の名物だそうです。缶詰タンクのあるのが工場で、道の向かい側が直売店だから、すごく良い目印だそうです。

オンラインショップの値段を見ると、今ではクジラは牛肉より高い高級品ですね。仙台名物の牛タンも何度か食べたり、土産に冷凍パックを買ったりしたことがありますが、グラム当たりで比べれば牛タンの方が絶対に安いです。

オーストラリアに言わせれば、クジラより安いオージービーフをもっと輸入しろ! ということなんでしょうね。

No.24 禅さん

死刑と「西欧諸国の実践的でドライな考え方」の件ですけど、
死刑の事実上のメリットは、
犯罪者を生かしておくよりも経費がかからない点にあります。
実践的でドライな考え方からすれば、死刑ありの方がよりかなうと思います。
思うに、死刑を廃止するってことは、国が犯罪者を生かしておくくらい経済的に余裕がある国になった、つまり、先進国の仲間入り、ということなのでは。
そーゆー点でオーストラリアのような先進国であることをなるべくアピールしときたい国は死刑廃止の流れになるのかな、と思います。


No.26 どうだろうさん
>ところで、この行為は、海賊行為なんか?

海賊行為の定義は、国連海洋法条約101条にあります。

a 私有の船舶又は航空機の乗組員又は旅客が私的目的のために行うすべての不法な暴力行為、抑留又は略奪行為であって次のものに対して行われるもの
b 公海における他の船舶若しくは航空機又はこれらの内にある人若しくは財産
c以下は略

あたるよーな、あたらんよーな。
まー海賊行為だったとしても、結果は、捕まえて自国の法律で処罰できるってことですから(第105条)
そう変わらんのですが。

>No.24 禅さんへ

オーストラリアの方が「日本はそんなに鯨が好きなのかよ!」と間違って思っていないのに、私の方が「オーストラリア人は、日常的にワニを食べている」と誤解していました。お恥ずかしい。


>No.26 どうだろうさんへ

私は商業捕鯨を積極的に支持する者ではありませんが、仮に商業捕鯨を推進する立場として説明します。


日本が商業捕鯨を再開するためには、調査捕鯨を粛々と続けていき、他の捕鯨国(ノルウェー・アイスランドなど)を巻き込んだ上で、国際的な同意・承認を勝ち得なければなりません。これはIWCの評決のみならず、ジャパンバッシングを防ぐために必要です。

現在、調査捕鯨は粛々とできています。それをわざわざ政治問題化して注目されることは、調査捕鯨の継続に対してプラスに働くでしょうか、マイナスに働くでしょうか。

また今後、商業捕鯨に国際的同意を取り付ける際に、「環境保護に取り組む外国人」を自国に連行して裁判を受けさせ、「拉致・監禁された」と騒がれるのと、相手の挑発行為に対し紳士的に対応し、相手を「ならず者」として印象付けて宣伝するのとでは、どちらが得でしょうか。

さらに、オーストラリア国民も一枚岩ではありません。今回の件で連行し、「同胞を返せ」とキャンペーンをされ、あまり関心の無い人まで強硬派に近付けさせるのと、無礼な行いをしたのに相手に大人の対応をされた「恥ずかしい人」として、国民から浮いた存在とさせるのとでは、オーストラリア政府の反捕鯨国としての行動の強度を下げる上で、どちらが得でしょうか。


原則的に思える対応が、必ずしも最終目標につながる行動にはならないということです。遠ざけてしまう場合もあるのです。


ちなみに討論において、いくら相手がトンチンカンなことを言ってきても、必要のない部分で追い詰めたり、(気持ちとしてはしたくても)罵ったりしないのは、上記のような考えに基づきます。相手を徹底的に叩いても、周りから非難され敵を増やしてしまったら、討論を通じ当否を明らかにし賛同者を募るという目的から見て、マイナスです。


>No.28 通行人1さんへ

前段でおっしゃっていることは、その通りだと思います。環境問題も「地球にやさしい」というよりも「人間にやさしい」を目指したものですし。

ただ、実力行使については、単に非和解性の表れであって差別心とは関係ないように思います。【相手の行動を阻止しようと実力行使に及ぶ】という状況が成り立つためには、(自分の反対を押し切ってされる)相手の先制的行動=実力行使がなされていなければなりません。適否は別にして、今回の件でも日本側は連中の反対を押し切って、調査捕鯨を強行し、実力行使を続けています。

私はカンガルーもワニも食べたことがあります。
別にまずくはないのですが大して美味くもありません。
特にワニは肉が硬くて・・・
中国で食った蛙や蛇のほうが美味かったです

>No.28 通行人1さん


>家畜だから、安楽死だから良い、という問題ではないように思います。
結局、人間の都合で他の生物の命を奪って食べているわけでしょう?(植物なども同じです。「処刑」を待っている麦や稲が「怯えていない」と言い切ることができる証拠はないでしょう?)

そうはいっても屠殺場が好きな人間っているのだろうか。
嫌なことは他人にやらせ、自分は食卓に並べられた料理を食べる。
う=ん、これって、死刑存置派に対して、死刑を刑務官にやらせて、自分たちは安全地帯にいるって廃止論者が批判しているのと似ている構図だな。

肉食獣が獲物を仕留める際、安楽死させているようには思えませんから、人間だけが獲物をわざわざ安楽死させる必要もないっていえばない。ただ、そういった自然界のルールにしたがっているというような主張は、結局お前ら野蛮人かという評価につながりそう。それに対して、我々は文明に毒されない高貴な野蛮人といい返せるか。

No.32 お〜い紅茶さま

ありがとうございます。

確かに、日本の南極海での調査捕鯨を「違法」とする考え方があるのは認めます。
以前放送されていた「The West Wing」(いいドラマでしたけど、途中でNHKが放送を打ち切ってしまいました)でも「今や、国際法は意味を持たない」なんて台詞がありましたから、いちゃモンをつけようと思えば国際法なんかどうとでも解釈できるのでしょうね。

ちなみに、私は鯨を食べたい派ではないので、わざわざ調査捕鯨をしてトラブルを起こす必要は無いのに、と思っているのですが、「環境保護」を「錦の御旗」にして日本の船に乗り込む方もどうかな?と思います。「エコ・テロリズム」と言ったのもそういう意味です。
差別と言ったのは、今回の行為だけでなく、保鯨派(?)の主張の内容をも指しています。数が減っている、という根拠があやふやになってきたら、「鯨は賢い動物」と言い出したことに、「なんといういい加減さ!」と思っているからです。バカな動物は食べてもいいけど、賢い鯨は食べたらダメ!というのは「命に優劣をつける行為」以外の何ものでもないと思います。そのうち「肌の色の濃い人間は・・・」って言い出しそうに思えてなりません。
自分たちの思想信条で鯨を食べない、というのなら話はわかります。ただ、保鯨を訴える自分たちは絶対正で捕鯨を行うやつは絶対悪という思い込みで行動することには、宗教を理由に人を殺したり、あやふやな根拠で戦争を始めることに通じる「何か」を感じるのです。
 少なくとも、彼らが日本船に乗り込んで来た海域は彼らの所有する海域ではないですよね(笑)? もし、日本が不法に領海を侵犯したというのならオーストラリア政府が軍隊を使って拿捕すればよい話でしょう?

しかし、21世紀になっても「線引いた!こっからここまでオレのもの」って言えるなんてうらやましいですね。日本も少し見習っては?あの強さというか無神経さを。

No.34 YO!! さま
ありがとうございます。
>そうはいっても屠殺場が好きな人間っているのだろうか。
>嫌なことは他人にやらせ、自分は食卓に並べられた料理を食べる。

仰るとおりです。日本の歴史の負の遺産ともいうべき「差別」の問題にもかかわる問題です。

ただ、動物の肉を食べる文化の中で生きてきた人々と、魚を食べる文化の中で生きてきた人々では感覚が違うと思います。
これは私が経験したことですが、ヨーロッパのある国の人が「鯛の兜かぶと煮」を見て「魚が睨んでいる」と言って箸をつけようとしなかったことがありました。逆に私は肉屋の冷蔵庫に皮をはいだ牛の肉(四肢が広がった状態)がぶら下がっているのを見て、しばらく肉を食べることができませんでした。生きている動物を祭壇の前で殺して神様に捧げる宗教もありますね。

昔は、魚屋さんで「活きのいい」魚を買ってきて、動いているのをさばいて食べることもありましたね。
見えないところで「処理」された食べ物を食べるようになって、もしかしたら私は生き物を殺して食べると言うことに対して「無責任」になっているのかも知れません。

捕鯨の伝統というと、たしかに一部の地域では江戸時代から捕鯨が行われてきました。よって、伝統を守るために日本近海での捕鯨は認められるべきでしょう。(自国沿岸の捕鯨については、現在でも自己管理が認められているため、頭数を制限しながら捕鯨は続けられています)

ただし、大規模な商業捕鯨については伝統とは言い難いと思います。かつて給食に鯨の竜田揚げや大和煮が出たのも、伝統だからとか美味しいからというより、安価だったからという理由だと思います。
商業捕鯨を求める運動の大本は、伝統を守る等ではなく、捕鯨業者の既得権益を守れという要求から来ているのではないかと思います。これらのことから、現在の私にとっては、商業捕鯨の必要性はあまり感じられません。

…と、理屈ではわかるんだけど、捕鯨反対派の挙げる理由に納得できないんだよねぇ。価値観を押しつけられるのもムカツクし^^だから感情的には納得しかねる。

日豪では、捕鯨業者の権益vsホエールウォッチングの観光資源、であったりもするけれど、結局は感情vs感情になってしまいますね。

>>No.36 通行人さん (通行人1さん、ですよねw)
>もしかしたら私は生き物を殺して食べると言うことに対して「無責任」に
>なっているのかも知れません。

>>No.37 無印粗品さん
>日豪では、捕鯨業者の権益vsホエールウォッチングの観光資源、で
>あったりもするけれど、結局は感情vs感情になってしまいますね。

おふたりのコメント拝見してわたくしじつに「腑に落ち」まして(笑)個人的にまことに有難くお礼申し上げます。

かくも爽快な談論の読める場をお創り下さったモトケン先生の山より高きご見識に満腔の敬意をお捧げ申し上げますとともに、数々のご高配に衷心よりあつく御礼申し上げます。

不殺生の立場を追求していくなら、結局ベジタリアンになるしかないでしょう。
それでも足りなければ、ジャイナ教裸行派(空衣派)の人たちのように、蟻を殺さないように羽で地面を掃きながら歩き、綿花・蚕などに負担をかけないように服も着ないで生活する。

学生時代の飲み会でよく、「俺は今から裸行派に改宗する!」とか言いながら、素っ裸になっている酔っ払いがいました。(笑) 当方、印度哲学科出身なもので。

連投して、すみません。

上記No.39コメントのジャイナ教裸行派(空衣派)の戒律趣旨について、不正確な点がありました。当時の記憶で書いたのですが、自分の学科の勉強に不真面目だったことがバレました。
詳しくはジャイナ教(Wikipedia)を参照して下さい。

「○○の生き物を食べるなんて野蛮」「いや、そっちだって〜」と言い合っても、ジャイナ教徒のようにアヒンサー(不殺生)に特化した人たちから見れば同類なんでしょう。通行人1さん指摘のように、【生き物を殺して食べると言うことに対して「無責任」になっている】のが根本的な問題なのかも知れません。生き物が大量生産・大量消費され、捨てられていく社会。ペットでも同じですが。

ふと、(詳しくは知りませんが)シュバイツァーの「生命への畏敬(生への畏敬)」という言葉を思い浮かべました。

【白片吟K氏さん】

死刑の事実上のメリットは、 犯罪者を生かしておくよりも経費がかからない点にあります。

ちょっと、この経費について検索してみましたら、こんなのを発見。
『What Politicians Don't Say About the High Costs of the Death Penalty』

このサイトの中で、こんな事が書かれてました。

The death penalty is much more expensive than its closest alternative -- life imprisonment with no parole.

死刑は、他の、例えば仮釈放なしの終身刑より、遙かに経費がかかる、と言ってる訳ですね。

またこんなサイト『Death Penalty Infomation Center』も。

まあ、死刑廃止論者が作っているサイトみたいですし、経費の解釈の仕方も、死刑執行日まで生かせておく費用という事だけではなく、心理的な経費などという無形の物も換算していますし、出てくる数字を額面通りに受け取るのも、逡巡があります。

でも、ぼくが言っているのは表層的な事ですが、実際の思惑は、 白片吟K氏さんの仰るように「国が犯罪者を生かしておくくらい経済的に余裕がある国になった」事が底流に横たわっているのかも知れませんね。


【法務業の末席さん、お〜い紅茶さん】

いろいろ聞いてきました。

以下、一般のオーストラリア人(イギリス系オーストラリア人…72歳・女、スコットランド系オーストラリア人…29歳・女、イタリア系オーストラリア人…37歳・男、日米を両親に持つオーストラリア人…49歳・女、中国系オーストラリア人…56歳・男、)に捕鯨について、ゲリラ質問しました。

・「何で絶滅しようとする鯨を殺すんだ?」
・「カンガルー、ディンゴなんかは増えすぎたから殺してる」
・「日本人は、毎日鯨を食ってるのか?」
・「シー・シェパード?あいつらは、グリーン・ピースと同じ。アホだ。」
・「調査捕鯨なの?じゃ、何で食うんだよ。食ってるだろ?」
・「商業捕鯨なんだろ?何で調査のためとか言って嘘を言うんだよ」
・「日本もオーストラリアも子供の喧嘩だよ」
・「ギャレット環境相?ああ、過激な事言ってるけど、所詮政治家じゃん」

ま、大体こんなところです。絶滅しかけている種は何か、日本の捕鯨船が取っている鯨の種なんかは誰も知りませんし、興味もないようです。

絶滅しようとしている鯨を科学調査とか嘘を言って、捕まえて殺して売ったり食ったりしてるじゃん。何でそんな事するの?

という意見が圧倒的でした。

鯨のニュースは連日テレビで流れていますが、今の関心は、クリケットと全豪オープンのようです。

※そう言えば、肝油って鯨じゃなかったですか?

>No.41 禅さん

う〜っむ、面白いっ、又レポートお願いしますね(^^)
今回は。
鯨⇒絶滅、と短絡している時点で歓心ゼロ、が決定。

>※そう言えば、肝油って鯨じゃなかったですか?

薬用の意味など、鮫がトレンドというか有用だったのでは?
鯨も有りですが。

MultiSyncさん

又レポートお願いしますね(^^)

承知致しました
鯨⇒絶滅の、彼らの根拠が分からないんです。しかし、日本政府の釈明が聞きたいのになあ。全然、耳に入ってきませんが、何か話しているんでしょうかねえ?

薬用の意味など、鮫がトレンドというか有用だったのでは?

あ、そうだったんですか?ぼくの時代は、確かピンクの肝油をグラニュー糖か何かでコーディネイトしてた物が給食の後に出されたような…。

夏休みは休日分の肝油を買った覚えがあります。カワイでしたかねえ?あ、肝油ドロップだ。

>No.41 禅さんへ

相手の貴重な生の声に接する機会を与えて下さり、感謝いたします。

反捕鯨の主たる根拠が、私の想定していた習俗の違いに依拠した「鯨を食べるなんて野蛮」という感情論ではなく、「絶滅危惧種を捕殺するなんて理不尽」という合理性に基づくものなら、意見の一致を見い出せるように思います。

「調査捕鯨は、実質商業捕鯨ではないか」という疑いについては、残念ながらその通りかもしれません。
しかし、相手の批判の最も根本的な論拠は、「絶滅危惧種の捕殺」にあるので、その点について反駁するデータを示せば意味をなさなくなります。

通行人1さんもおっしゃってますが、「品種によっては絶滅どころか増えすぎていて、(餌になる魚が枯渇し)生態系が脅かされている」という報道を耳にしたことはあるのですが、現時点ではきちんとしたデータにめぐり合っていません。

>しかし、日本政府の釈明が聞きたいのになあ。全然、耳に入ってきませんが、何か話しているんでしょうかねえ?

日本政府の見解としては、町村官房長官の会見の記事が下記の通りありましたが、テレビからも同程度もしくはそれ以下の情報しか(少なくとも私は)得られていません。(個人的にインフルエンザにやられていたので、ここ数日の世の中の情報を得られてないせいもあるかもしれませんが^^;)

1月16日の会見記事 (産経新聞)
1月17日の会見記事 (産経新聞)

* * *

全然関係ない話ですが、この記事(毎日新聞)によると日弁連の元会長に懲戒請求がかけられ、大阪弁護士会の綱紀委員会で審査相当と議決されたようですね。

「弁護士自治が機能してないとか弁護士会には自浄作用がないという声がある」ことを懸念されていたようですが、この件により、少なくとも「日弁連の元トップの人間」に対しても懲戒制度が機能するという事が明らかになったと言えるかもしれませんね…。

→やっと1年11月後、大阪弁護士会綱紀委員会懲戒相当決議

『元日弁連会長の「非行」議決 回収機構債務者から顧問料』

朝日新聞WEBニュース(2008年1月20日03時00分)

鬼追明夫弁護士弁護士における弁護士職務基本規定第28条「双方代理の禁止」違反における、懲戒相当決議。

☆ 経 過

デイリータイムス:問題レポートより

 H氏(兵庫県在住)が大阪弁護士会の懲戒委員会に対し、
『弁護士職務基本規定第28条「双方代理の禁止」』つき、平成18年2月2日付けで鬼追明夫弁護士の懲戒申し立てを行った。
        ↓
 H氏(兵庫県在住)は平成19年4月24日付けで日本弁護士連合会に、
「弁護士会が相当の期間内で懲戒の手続きを終えないことに対する異議申出書」を提出した。
        ↓
 日本弁護士連合会は、申出書を4月27日に受理。
そして、5月17日付け日本弁護士連合会平山正剛会長名で「大阪弁護士会は、速やかに懲戒の手続きを進め、対象弁護士を懲戒し、又は懲戒しない旨の決定をせよ」という決定書を出した。

参考:問題レポート(2007年06月28日 08:14)  
 大阪弁護士会の「懲戒申し立て」隠蔽疑惑
 〜RCC鬼追前社長をめぐる問題点〜 

平成19年10月24日、大阪弁護士会懲戒委員会に大阪弁護士会の山田庸男会長以下4名の「懲戒申立」が行われた。

『双方代理』違反に対する懲戒相当不相当決議について、
1年以上ほったらかしで結論をまったく放棄してしまった、弁護士会長、綱紀委員長らに対し「懲戒申立」。

参考:問題レポート(2007年11月05日 11:45)
 新たな「懲戒申立」が提出された大阪弁護士会の根深い権力体質
 〜RCC前社長の懲戒問題をめぐって弁護士会長が矢面に〜
 

大阪弁護士会「綱紀委員会」が懲戒相当としても、『懲戒委員会』がどのような決定をされるのかはさだかでわない。

決定前に、「登録取り下げ」してしまうのかな? N坊元弁護士みたいに、水面下で再登録を目論むこともできるし・・・

ということです。

No.46 cocoroに一部、誤りがありました。

>『元日弁連会長の「非行」議決 回収機構債務者から

顧問料』

朝日新聞WEBニュース(2008年1月20日03時00分)

リンク先→
http://www.asahi.com/national/update/0119/OSK200801190067.html

でした。m(_ _)m

>No.41 禅 さま

オーストラリア人の生の声というのは貴重です、ありがとうございました。

さて、このスレが最近はすっかり捕鯨問題に占領されていますが、「南極オタク」を自認する立場から、議論の背景知識として捕鯨と南極探検の歴史などを書いておきます。興味ない方々は、読み飛ばして下さい。なお、手持ちの南極関係の書物や資料だけによって書いたものであり、特に捕鯨について賛否を示すつもりではないことを予めお断りしておきます。

日本では江戸時代からクジラは食べられていて、江戸築地の魚河岸でも売られていたそうです。江戸時代の終わりに欧米、特にアメリカが日本に開港させようと理由は、自国の遠洋捕鯨帆船の補給港として日本本土を利用したかった、というのは歴史の事実です。その頃の日本近海、特に太平洋岸の房総沖や伊豆諸島〜小笠原諸島近辺などは、有数のクジラの良い漁場で、はるばるアメリカ東海岸(ボストン港など)からも捕鯨帆船が集まっていました。

幕末に難破してアメリカ船に救助された土佐の漁師、ジョン万次郎の話は有名ですが、彼を救助したアメリカ船もこうした捕鯨帆船です。その後万次郎はアメリカ本土で教育を受け、捕鯨帆船の乗組員となり、太平洋で捕鯨漁に従事した後、紆余曲折を経て日本(琉球)に上陸して祖国土佐に帰ることが出来ました。その後、幕府の召し出しを受けて英語通訳として日米和親条約交渉にあたり、勝海舟などと一緒に咸臨丸でアメリカを再訪しています。その後万次郎は幕府の援助で、アメリカで覚えた洋式捕鯨船を建造し、小笠原方面などに出漁し、明治維新後も日本の遠洋捕鯨の先覚者として働きました。

この頃のアメリカやヨーロッパ諸国(オランダ、デンマーク、ノルウェーなど)の捕鯨は、クジラの油脂(鯨油、特にマッコウクジラの脳油は珍重されました)や、加工材料としてのヒゲの採取などが目的で、食用としての捕鯨ではありませんでした。そのためにクジラを捕獲すると鯨油を採取した後の鯨肉や骨などは全てその場で海に投棄されており、食用として持ち帰ることはしませんでした。その為に北欧系の諸国を除くと、欧米人と日本人では食糧資源としてのクジラに対する考え方の違いが生じています。

こうした帆船での遠洋捕鯨の様子は、小説の「白鯨」などに描写されています。クジラを追って七つの海を駆けめぐった結果、ノルウェーなどは19世紀終わりには南極海で捕鯨船を活動させており、1895年にノルウェーの捕鯨調査船アンタークチック号の乗員が、南極大陸初上陸を果たしました。このとき初上陸した中に、カールステン・ボルヒグレビンスクというノルウェー生まれのオーストラリア人がおり、彼は1899年にはイギリスの出資で探検隊を組織し、サザンクロス号で再度南極大陸に上陸して小屋を建て、初めて南極で越冬しました。

有名なノルウェーのアムンゼンと、イギリス人のスコットとの南極点到達競争(1911〜12年)は、このノルウェーのアンタークチック号の南極初上陸と、イギリスのサザンクロス号の探検がルーツです。アムンゼンは、1911年12月14日に南極点に到達し、競争に敗れたスコットが南極点に達したのは、そのほぼ1ヵ月後の1912年1月17日です。そしてスコットの到達日の前日、1912年1月16日には白瀬中尉が日本人として初めて南極に上陸しました。なお、この時代に南極探検を行なった国々は、探検した地域を「自国領」として宣言しており、日本も白瀬中尉が自分が探検した大和雪原一帯(現在のロス棚氷)を、その時に日本領土として宣言しています。

さてこうした南極探検が盛んだった20世紀初頭以後、船の中に鯨油を採取する工場設備や、鯨肉を缶詰加工する設備を備えた、近代的な蒸気機関動力の大型捕鯨船が登場し、南氷洋の捕鯨活動はノルウェーを中心に一気に活発になりました。日本も第一次大戦での賠償(日本は戦勝国です)での捕鯨船取得などもあって、近代的な母船式捕鯨のやり方をノルウェーから導入して南氷洋捕鯨に乗り出しました。このように日本の南氷洋での捕鯨が盛んになったのは、おおむね1920年代以後のことです。

一方、19世紀には世界最大の捕鯨国であったアメリカは、国内で石油が普及し始めて燈火用としての鯨油が売れなくなったため、20世紀に入ると捕鯨から撤退してしまい、南氷洋捕鯨には進出しませんでした。その結果として、20世紀初頭の南極探検ブームに乗り遅れてしまい、南極大陸での領土権争いの根拠となる実績がありません。この20世紀初頭の南極探検の実績が無いという面ではソ連(ロシア)も同様であり、第二次大戦後にこの両大国が中心となって、領土権主張を「凍結」に導き、南極条約を取りまとめた経緯については、3の投稿で記述したとおりです。

なお、日本の南極での権益はこの南極条約での「凍結」ではなく、1945年のポツダム宣言受諾により、国際法上は自ら領土権を放棄したことになっています。このように、1961年の南極条約で南極の領土権については全て「凍結」と規定されていますので、同条約の署名国オーストラリアの南極海は自国の領海や200海里専管水域であるとする主張は、国際法の上では正当とは言いがたいものです。

また冒頭に書いたとおり、当初は南氷洋捕鯨を行っていたヨーロッパ諸国も、目的は燈火用や石鹸・化粧品原料としての鯨油であり、食用としての鯨肉ではありません。その為に日本から捕鯨船団に付随して「沖買い船」が南極海に出向き、鯨肉を買い取って缶詰にして日本に持ち帰っていました。その後、1930年代からの化学合成原料の発達によって鯨油の需要が減り、南極海捕鯨に進出しなかったアメリカはもちろん、ヨーロッパ諸国も次々に捕鯨から撤退していき、1980年台に最後まで残ったのがアイスランド、ノルウェーと日本です。現在、半ば公然と捕鯨を行っているアイスランドとノルウェーは、主に北大西洋や北極海での捕鯨であり、南極海まで母船式の船団を出しているのは日本(調査捕鯨)だけです。

日本の調査捕鯨は、資源調査・生態調査という学術目的ではなく、捕鯨船団の維持と捕鯨業界への失業対策だ、という指摘は海外の反捕鯨国からだけでなく、日本国内の捕鯨推進の立場の人々からもあります。 調査捕鯨でいたずらに国際的摩擦を引き起こすより、南氷洋では一切捕殺しない学術生態調査に徹し、その代わりに、文化的伝統として日本沿岸での捕鯨を認めさせた方が得策、とする考え方です。アメリカやカナダが先住民の文化的伝統として捕鯨を行っているので、それと同じ土俵でなら捕鯨反対派も説得力を欠くというのが理由の一つです。また、捕殺しない学術生態調査で南氷洋のクジラは「増え過ぎている」というデータを突きつければ、IWC総会での反対派が唱える「クジラは絶滅の危機」というエセ科学的根拠を覆しやすいので有利、とする主張が日本国内からもあります。

大変長くなりました、捕鯨問題への参考資料、背景知識の一助としてお読み頂ければ幸いです。

>No.48 法務業の末席さんへ

背景知識の提示、ありがとうございます。人生の大先輩からの教示、いつも感謝しております。


>禅さんへ

水産庁捕鯨班のページの左メニューバーに表示されるクジラポータルサイト内、「反捕鯨団体の言われなき批判に対する考え方」に、日本捕鯨協会の見解が載っています。おそらく、日本政府の主張だと思われますので、参考にしてみてください。


P.S.
あまり、この問題を突き詰めていくと「鯨スレ」になってしまいますので、私としては(言いたい事も言ったので)一旦、筆を置かせていただきます。

僕自身は、「あえて鯨の必要も無いじゃん」
と言う人です。

>No.31 白片吟K氏さん

僕自身は、やはり「海賊行為」と言うには
とことん無理があると言う立場で
条文をチェックしてもそれは変わりません。

主体的な意思も「海賊行為」には度遠いし。

>No.32 お〜い紅茶さん

これ、全てそのとおりです。
但し、日本の姿勢をどこかで見せる必要があるのも法律です。

今、何を見せているかが問われることだと思います。
ついでに言うと、日本にとって「鯨の必要性」なんぞ
あって無きが如しものなのだから
それを切るのも外交だと思います。
(当然、捕鯨漁家に対する保障も考えた上での話です)

最後に言います。
連中のやったことは、「住居侵入罪」の構成要件を
日本国の法律の中では確実に満たすと言う人間でもあります。

ところで、鯨を取れるメリットってどこにあるのでしょうか?
鯨が生態系を荒らすまで待つと言う判断もありだと思ってます。

日本国にとって、
捕鯨を守るメリットがどこにあるかが
全くわからないのです。

これを純粋にカロリーベースクラスまで
落としていただけるとありがたく思います。

私の年代にとっては
「鯨なぞ無くても全然生きていける」
なので。

>No.50 どうだろう さま

僕自身は、やはり「海賊行為」と言うには とことん無理があると言う立場で 条文をチェックしてもそれは変わりません。

主体的な意思も「海賊行為」には度遠いし。

私自身は日本の調査捕鯨という行為には懐疑的な考え方を持っておりますが、公海上を航行している船舶に許可を受けずに無理矢理乗り込む、という今回の行為はどう見ても「海賊行為」でしょう。

目的が崇高であれば手段の逸脱は不問にすべきとは思えません。

調査捕鯨船の内1隻だけで良いから船団から離脱し、2人の侵入者を拘束したまま犯罪者として処罰するため、最短経路で日本に帰港して起訴する方針を堅持するなら、侵入者の国籍国であるアメリカやイギリスは対応に苦悩することになったと思います。今回の事件は国際法上のスジ論で言えば、2人の国籍国であるアメリカとイギリスとの紛争はあり得ても、日本とオーストラリアの国際紛争ではないはずです。

その点で日本政府の対応(官房長官の記者会見内容など)には、「対応に苦慮・困惑」との言葉を繰返すだけで、不法行為には毅然と対応するという姿勢や、スジを通すという国家の意志が感じられず、少々残念に思います。

>No.52 法務業の末席さん

ごめんなさい。本当にどこの国のどの法律を見たら
それが「海賊行為」になるんですか?

できたら、それは国際法上の条約に基づく立場であれば、
なおありがたいと言う立場です。

>日本国にとって、捕鯨を守るメリットがどこにあるかが全くわからないのです。

私もクジラはたまにしか食べませんが、どうだろう様とは逆に、反捕鯨国のよく分らない価値観に迎合してまで、我が国が捕鯨をやめるメリットがどこにあるのかが全く分りません。クジラを食わなくても生きていけるだろうと言う理屈は、マグロやイカなど何にでも当てはまります。私ももう歳ですから、何でしたら肉を食わないでも生きていけますです、はい
(^^;

本当に日本の調査捕鯨程度でもクジラが絶滅するのなら、即刻日本は一切の捕鯨を止めるべきですが、現状ではそんな様子も見られません。クジラを取る自由の制約が、「クジラかわいそう」という欧米人の価値観によってなされることを、甘受しなければならない理由が、私には見出し得ません。

関係者の生活保障も国民の税金ですし、今さら捕鯨を止めたとしても、日本の評価がそれほど上がるとも思えず、せいぜいロッカーから大臣なんぞに身を持ち崩した某国のおっさんが、「かわいそうなクジラをいじめる悪い日本人が、我々の正義の活動の前に膝を屈したのだ、ガハハ!」と快哉を上げる程度のことでは。

「クジラ保護の妨げになる国」「クジラに拘る変わったヤツラ」というレッテルよりも、「外圧に弱い国」、「組し易い交渉相手」というレッテルの方が、外交上の不利益は大きいのではないかと私は思います。

>No.54 じじいさん

僕の結論の弱さなんでしょうか。
実は、どうとでも逃げれる結論で終わってます。

但し、明治維新以降
わが国の外交は全て「外圧との戦争」で終わりました。
これは未だにそうです。

ある時に、ちょこっと陸軍の強い「新興国(ナチスドイツ)」と
「バスに乗り遅れるな!!」との言葉で
みんなが乗りました。

ますます調子に乗って「太平洋戦争」なるものをやりました。
まあ、いい思いをしました。
誰か偉い人が
「仁王様が眠っている指先に
いきなり五寸釘を当てたようなものだ」
と言う攻撃があり
アメリカががんばるととんでもない勢いで
日本国中焼け野原になりました。

だとしたら、そこにあるのはシビアな損得だけでいいと思います。
ところで、捕鯨は損得にかなうんですか?

>No.52 法務業の末席さん

海賊行為以前に「不法侵入罪」・「不法入国罪」あたりで
しょっ引けばよかっただけだと思います。

なんていうのか、私自身は「海賊行為」には
とてもたどり着かないと思いますけど、
「それ以前」があるとは、しっかりと思っている人間なので
まあ、それでやればいいんじゃないかなと思うのですが。

で、損得の上でも「捕鯨」に意味があるとは思わないけど
でも、「抗議行為」を「海賊行為」にするには無理があるとも思っています。

No.50 どうだろうさん

国連海洋法条約101条の「海賊行為」のどの要件に当てはまらないのでしょうか。
形式的にはすべて収まっていると思います。
なお、海賊行為の処罰は、公海秩序維持が目的ですから、なにも財産の略奪が目当てでなくても良いです。

なお、日本国刑法が適用されるのは、「船の中」です。
この場合は公海上で、他の船舶に対して行われた行為ですね。

>No.57 白片吟K氏さん

>国連海洋法条約101条の「海賊行為」のどの要件に当てはまらないのでしょうか。
>形式的にはすべて収まっていると思います。

−−−

第101条  海賊行為の定義

a 私有の船舶又は航空機の乗組員又は旅客が私的目的のために行うすべての不法な暴力行為、抑留又は略奪行為であって次のものに対して行われるもの
b 公海における他の船舶若しくは航空機又はこれらの内にある人若しくは財産
c いずれの国の管轄権にも服さない場所にある船舶、航空機、人又は財産
d いずれかの船舶又は航空機を海賊船舶又は海賊航空機とする事実を知って当該船舶又は航空機の運航に自発的に参加するすべての行為
e(a)又は(b)に規定する行為を扇動し又は故意に助良するすべての行為

−−−

この場合は「暴力行為」なのでしょうか?

>なお、日本国刑法が適用されるのは、「船の中」です。
>この場合は公海上で、他の船舶に対して行われた行為ですね。

「他の船舶」とは、「第2勇新丸」のことをおっしゃっているのでしょうか?

日本国の法律で言う「船の中」には
公海上の船は何も主張できないと言う前提があるものとして
考えてよろしいでしょうか?

でも、それはおかしくないですか?

http://sasakima.iza.ne.jp/blog/entry/452118/

これ本音なんですが
純粋に日本国刑法1条2項を適用すれば
それでいいことだと思います。

相手自身は海賊行為(暴力・抑留・略奪)だと言う意思が無い以上
後は、国際通念に通じる理屈をぶら下げながら
毅然とした意思を国家として見せるのが手ではないでしょうか?

「暴力行為」は
「スクリューを狙ってロープを投げたり、液体入りの瓶を投げ入れたり」
です。船舶に対する不法な有形力の行使ですので。
「他の船舶」とは、「第2勇新丸」のことです。

>日本国の法律で言う「船の中」には
公海上の船は何も主張できないと言う前提があるものとして考えてよろしいでしょうか?

ちょっと意味が分かりません。
船はしゃべらないと思いますが。

これ本音なんですが
純粋に日本国刑法1条2項を適用すれば
それでいいことだと思います。

相手自身は海賊行為(暴力・抑留・略奪)だと言う意思が無い以上
後は、国際上の社会通念に通じる理屈をぶら下げながら
毅然とした意思を国家として見せるのが手ではないでしょうか?

もうかなり眠いので、よくまとまっていませんが、
海賊行為と認定したとしても、それにより日本国刑法が適用されることになるので(海洋法条約105条)別にどっちでも良いのでは。

公海上では、船の中は旗国(船籍がある国)の管轄、船の外は国際法と分担されています。
私の考えは、
住居侵入は、船の外から中にはいる行為なので、どっちにもとれるわけですが、
日本の管轄とすると、日本の船の住居権を害したのだから日本の刑法って、
なんか住居侵入罪が保護主義を取ってるみたいな感じであること、
あーんど
国内事項だっていうとなんかもめそうだから、国際法の管轄にしとくほうが無難なこと(どーせ日本国刑法が適用されるんだし)
というあたりです。

>「暴力行為」は
>「スクリューを狙ってロープを投げたり、液体入りの瓶を投げ入れたり」です。
>船舶に対する不法な有形力の行使ですので。
>「他の船舶」とは、「第2勇新丸」のことです。

引用のとおりだとしたらこれはひどい。
いや反省です。
自分の知性の欠如を知りました。
どうも、すみません。

http://news.bbc.co.uk/player/nol/newsid_7190000/newsid_7190700/7190790.stm?bw=bb&mp=wm&asb=1&news=1&ms3=54&ms_javascript=true&bbcws=2

自分は、「司法で裁けばいい」と言う立場なので
日本国の法律で粛々と裁いていただくことを
本当に希望いたします。

でも、「海賊行為」というには
せめて、「器物損壊罪」か「暴行」に当たる
レベルのことは立証したほうがいいでしょうね。
(「公務執行妨害」もこれくらいは判例上の要件になるでしょうから)

ついでに、自分で引用しつつなんですが
決して私は引用元全文を信用する立場でもありません。

かなり、「産経」もバイアスかかっているのも
事実なので。
(国際問題で入り組んだ話になればなるほどです)

>>No.52 法務業の末席さん
>日本政府の対応(官房長官の記者会見内容など)には、
>「対応に苦慮・困惑」との言葉を繰返すだけで、不法行為に
>は毅然と対応するという姿勢や、スジを通すという国家の
>意志が感じられず、少々残念

南極の大家(大御宅?)にもっとも同感いたしております(笑)。
欲を言えば政府としての対応には杓子定規ではないウィットやユーモアがもう少しあって欲しいですけど。日本の古典芸能には落語ちゅうもんもあることだし(笑)。

>どうだろう さま
>白片吟K氏 さま

私が寝ている間に議論が進んでしまったようで、もう遙か彼方に置いてきぼりの状態ですね。白片吟K氏さま、私の代わりに国連海洋法条約の解説をして頂き、ありがとうございました。

シー・シェパードはじめ、反捕鯨団体の危害行為については、3の投稿で引用した財団法人日本鯨類研究所のHPに、日本側が撮影した写真やビデオがあります。

捕鯨の是非論や、鯨に対する愛着の論議は、感情や好みの議論になってしまいますね。ここ(モトケンブログ)は法律家のブログですので、行為と結果と法(国内法・国際法)の議論が似合う場所でしょう。スジだらけの肉は食えませんが、世の中に道理というスジは通っているべきだと思います。

No.64 どうだろうさん
>でも、「海賊行為」というには
せめて、「器物損壊罪」か「暴行」に当たる
レベルのことは立証したほうがいいでしょうね。

それは私も一応同意です。
対象が「艦船」なので器物損壊罪より建造物損壊罪の方が適していると思いますが。


No.66 法務業の末席さん
いえいえ、どーもです。

ちなみに数年前のイラク日本人人質事件において、
イラクに対する国際法上の違法行為を主張すべきなのに
逆に被害者に対して自己責任とか言ったあたりで
もう、日本の政府の中の人は国際的に自国の権利を主張する気なんて
 ま っ た く な い 
と思うようになりました。

No.67 白片吟K氏さま

>もう、日本の政府の中の人は国際的に
>自国の権利を主張する気なんて
>ま っ た く な い 
>と思うようになりました。

仰るとおりです。
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思」っている国の政府の人たちなのにね。
自分より「強い者」に言われたら「ハイハイ」ともみ手、根拠のないクレームを受けても「いじめないで・・・」と半泣き・・・。国民より他の国の方が大事なのでしょうね。

>No.67 白片吟K氏さま
リマで起きたペルー大使公邸人質篭城事件のときも大概でしたねえ。
日本国の主権範囲にある公邸敷地内に、事前連絡なしに他国の軍隊が踏み込んで作戦行動をとったわけですから、事件解決の問題とは別に当然に問題視されなければならなかったことなのに、当時の橋本総理は「理解」を示して不問にしちゃったんですよね。
フジモリ大統領なんか、あろうことか「事前に日本に連絡していたら(日本は情報管理がユルいので)情報が漏洩するので黙って実行した」なんて、極めて侮辱的なことまで言っているのに。

あー、そういえばあの時も「お国の指導」に従わず公邸内に立ち入り取材した記者を、お国を挙げて非難しましたっけ(笑)。

>No.65 ぼつでおkさま、No.67 白片吟K氏さま、No.68 通行人1さま、No.69 惰眠さま

まとめてレスで申し訳ありませんが、皆さんの「日本政府、言うべきことは言わんかいっ!」とのお気持ち、全くもって同意!

私は「瀋陽総領事館」で幻滅したクチです。中国外務省報道官の堂々と自国の正当性を主張した記者会見、それに引き換え国家・国民の権利の代弁者としての自覚が全く感じられない日本国外務省。

海外駐在の経験がある人が、害アレド省ミルコト無シ=害無省、と酷評していたことが半ば事実であることを、あれを見て知りました。 

そうさせないようにしてきた、あるいは現にそうさせていないのが国民であるということを完全に忘れていらっしゃるのでしょうか。

児玉惟謙はやはり偉かった。

>No.71 GX9900さん

そうさせないようにしてきた、あるいは現にそうさせていないのが国民である

匿名掲示板などでよく見る、役人免責の決まり文句ですね。政治家免責のときにも見かけますが。
では、その国民の具体的にどのような行動が「そうさせないようにしてきた」あるいは「現にそうさせていない」ことに該当するのでしょうか。
外交は外務省の専権事項と嘯いて、政府与党筋からの批判にさえ耳を傾けないことのあるあの役所の手足を縛るために、国民がどのようにコミットしていけるものなのか是非とも具体的な事例をお示しいただきたいものです。

イラクの人質事件は、責任の擦りあいってところかな。日本政府が自衛隊の撤収を拒否してその結果人質が殺されたら、その責任は日本政府にあるという批判を避けるためと思う。自衛隊の撤収拒否はもはや当然の前提として日本政府にあったから、責任回避の主張しておくに惜しくはないといったところだろう。

>>No.71 GX9900さん

その地位にある者(役人)が役職上当然身に付けているべき素養と見識を持っていないのは、余人(国民)の責任ではなく単に自分自身の修養不足という自己責任でしょう(笑)。

No.71 GX9900さま

少しは当たっているかも・・・・。
選挙のとき「政策」より「利益誘導型」の候補を選ぶ人って多いですからね。でも、選挙で選ばれた人が「役人」をコントロールできない、というのも事実のようですね。

通行人1さん

>選挙で選ばれた人が「役人」をコントロールできない、というのも事実のようですね。

捕鯨の話題から外れたコメントで申し訳ございませんが、ここら辺の問題はやはり現実としてあるんでしょうか?
政治関係のニュースを見ていても時々、「霞ヶ関が・・・」という話が出てくることがあるんですが・・・。
国民に選ばれた代表者がもっと小回りの効いた臨機応変な活動を出来るようには出来ないものなのでしょうか?
外交問題にしても、国内の様々な問題にしても、こちらのブログの常連様やいろいろな方のコメントを拝見してますと、かなり納得できるようなコメントが多く、非常に共感できることも多く感じるのですが・・・。

かなり大雑把な疑問文になってしまいましたが失礼致しました。

物事を判断するに情報は必要です。
その政治上、政策上の情報を握っているのは官僚です。

この掲示板でも他の掲示板でもなにか主張するには根拠とかを求められ、それがないと俺様理論とか言われます。

それと同様に根拠がない主張は俺様主張といわれ、政治でも通用しないでしょう。

かくして情報を握っている官僚に対して、情報のない国民も政治家も情緒的にしか主張できないのでしょう。

ところで、アメリカではシンクタンクがあってそれが官僚に対抗できるとか。かの国では、政策担当者は官庁とシンクタンク・民間企業を行き来するそうで、そういった点から民間にも情報は流れるようです。

>>No.78 YO!!さん
>かくして情報を握っている官僚に対して、情報のない国民も政治家も情緒的にしか主張できないのでしょう。

わたしはここでは何の主張もないです(笑)。情報を握っても使い方を知らない日本の官僚の他国と比べてのていたらくをウォッチング(笑)して揶揄してるだけです。一匹の嫌味な糞爺国民として(笑)。

>No.78 YO!!さん

私のNO77に対する、コメントとお見受けします。
お手を煩わせまして恐縮です。

>情報を握っても使い方を知らない日本の官僚の他国と比べてのていたらくをウォッチング(笑)

使い方も様々になるのでしょうが、是非、正義にもとづく使い方をしていただきたいものです。

No.77 Oさま

私個人としては「木っ端公務員」の皆様とお仕事などしたことは無いのですが、情報公開制度についての報道など見る限りでは、
1.大臣の就任会見で「事務方」が「アンチョコ」を渡して「この通り読め」と命令する。
2.「防衛省の天皇」と呼ばれた人が「大臣」と熾烈なバトルをしていた
3.大臣はすぐ変わるのだから、と大臣の命令を聞き流す役人がおり、
例えば薬害関連の資料なども、大臣が出せ、といってもなかなか出てこなかった。
などの例を挙げることができます。

一度情報公開のシンポジュゥムで天下りした木っ端公務員が、「情報は役所の財産だし一般に公開すると弊害も多い、役所の建物は国民の財産だが、だからと言って国民全員を役所の建物に入れるわけには行かない」と言ったときには唖然としました。情報と建物を一緒にしてすり替えを行おうとするなんて、この人が馬鹿なのか、国民を馬鹿にしているのか・・・。

修正です。
「防衛省の天皇」の件は情報公開とは関係ないです。昨夏のニュースでした。すみません。

>No.46 & No.47 cocoroさん

さらに詳しい情報ありがとうございます。
No.45のコメントを記入した時は、リンク先の毎日新聞の記事を読んだだけで、とくに調べていませんでした。

綱紀委員会で議決がなされないまま懲戒請求が放ったらかしにされていたのであれば、懲戒請求者に対してだけでなく、対象弁護士に対しても問題があるでしょうね。
懲戒の手続き中(綱紀委員会の調査手続含む)の弁護士は、手続きが終了するまで、登録換又は登録取消の請求ができない(弁護士法62条)ことになっているからです。
(ということで、
>決定前に、「登録取り下げ」してしまうのかな?
という事は、当該弁護士さんは出来ないだろうと思います。)
もし放ったらかしにしていたのであれば、大阪弁護士会の綱紀委員会は、一体何を考えて、そのようにしていたのか、その間、調査は行っていたのか等々、色々な疑問が湧きます。

>大阪弁護士会「綱紀委員会」が懲戒相当としても、『懲戒委員会』がどのような決定をされるのかはさだかでわない。

これは、結果を待つしかないでしょうねぇ…。
もっとも、個人的には「双方代理の禁止」違反かどうかの判断のしかたもよく分らないので、どのような結果が相当かも分らず、出た結果をもって、懲戒制度が機能しているのか否かという事を判断が出来そうになないのですが…。
双方代理の禁止として関係する法律は下記あたりのようですね。

民法 第108条 (自己契約及び双方代理) 同一の法律行為については、相手方の代理人となり、又は当事者双方の代理人となることはできない。ただし、債務の履行及び本人があらかじめ許諾した行為については、この限りでない。
弁護士職務基本規程 第28条の2(職務を行い得ない事件) 二 受任している他の事件の依頼者又は継続的な法律事務の提供を約している者を相手方とする事件
弁護士法 第25条の1と2 弁護士は、次に掲げる事件については、その職務を行つてはならない。ただし、第三号及び第九号に掲げる事件については、受任している事件の依頼者が同意した場合は、この限りでない。 一  相手方の協議を受けて賛助し、又はその依頼を承諾した事件 二  相手方の協議を受けた事件で、その協議の程度及び方法が信頼関係に基づくと認められるもの

「整理回収機構(RCC)の社長当時、その債務者だった不動産会社から月10万円の法律顧問料を受け取っていた」というのは問題があると思いますが、それが、直ちに「双方代理」違反になる訳ではないようですよね…?(よく分りませんが…。)

朝日新聞の記事に『綱紀委は議決で、不動産会社長との面談後は「両社に実質的な利害対立が生じた」と指摘。』という一文がありますように、「実質的な利害対立のある当事者双方から依頼を受け、双方の職務を行っていたとみなされるか、否か」がポイントでしょうか?
(それとも、考えすぎでしょうか?法律は難しくてよく分りません^^;)

『社長との面談時について「RCCと対立状態にあるとは考えていなかった。RCCの社長案件として債権回収の決裁を求められる状況になれば、別の人に決裁を代わってもらうか、顧問弁護士を辞めるつもりだった」』(朝日新聞の同記事)という釈明が懲戒委員会において通用するかどうかは判りませんが、もし双方代理の禁止に違反しているのであれば、先に民事提訴すれば良かったのではないかと思ってしまいました。
もし本件が民事提訴されていないのであれば、もしかしたら、懲戒請求者は、クライエントの当該不動産会社社長ではなく、第三者なのでしょうかね。(民法108条の違反行為に対して、第三者には訴えを提起する権利(訴権)がないのであればの話ですが…。もっとも、同記事内には懲戒請求者が当該会社の社長だという記述も、どこにもありませんしね。)

まずは動向を見守りたいと思います。

直近の一連の流れを拝見して、学生時代に、元外交官の教授が、日本の土下座外交に嫌気が差したので、教職の道に転向したと言っていたことを思い出しました。(そのせいか、たまに構内で、その教授がアジアの学生と言い争いをしているのを見かけました。学生さんは涙目、教授は爽快そうでした…汗。)

もしかしたら、土下座外交が基本姿勢として染み付いちゃってるのかもしれませんね…。

No.84 死刑囚さま
>もしかしたら、土下座外交が基本姿勢として染み付いちゃってるのかもしれませんね…。
仰るとおりでしょう。
昭和の戦争がトラウマになっているのでしょうけど、中東・インドシナ・インド・パキスタン・チベットなどの現状を見れば、英米露仏中の厚顔ぶりを少しは見習ってもいいんじゃない、と思うときがあります。国連常任理事国の連中には「ちょっとは反省しろ!」と言いたくなりますけどね。

捕鯨に絡む意見および情報を拝見させていただいて非常に参考になりました。皆様に感謝します。
ところで、主張するべきところは主張すべきという意見に私自身共感しますが、国民にも責任があるという意見にも考えさせられる事があります。

我国は、現状「資源(食料含む)」「安全保障」などを他国に依存しないといけない構造から、他国に対して阿る(はっきりと主張しない)部分があります。
これは、輸出入および安全保障を止められる恐怖心を発端に、余計な軋轢を回避し卑屈になってでも実を取りたいという心理が働いているのではないかと考えています。
※戦争敗北から各国からの糾弾を浴びせ続けられているのも一つだと思います。

これに対して、政治家、官僚および「国民」は、次世代、次々世代に「どのような国」として引き継いでいきたいのか、「現実的」な部分のビションを明確に打ち出されていないが遠因となっているのではないかと考えました。

どうしてもこの部分が不明確なので、国の代表者としても「土下座外交」になってしまうのかもしれません。
→個人の裁量でそこまでの責任を問えるかどうか・・・

「経済上支障があっても民族のアイデンティティを主張すべき」
 →食い扶持が無くなっても良いのか?(国の食い扶持確保がないと恐怖心が拭えない)
「経済至上主義として実を取り、民族のアイデンティティに関し、大きな支障がない限り主張しない」
 →誤解も含めて他国の主張に甘んじることに耐えていけるか?

このジレンマをどのように解決していくかですね。
個人的心情としては毅然とした態度で他国に臨んでほしいですが、実利の部分での解決策はまだ持っていません。私みたいな人が曖昧外交の原因かもしれません。
→政治家、官僚など国を代表する人たちにリーダシップを期待してましたが、自身で解決策を持たない部分について期待するのは酷かもしれないと思うようになりました。

>No.86 カツビンさん

仰る通りだと思います。
資源の乏しい日本では、外交で生き延びて行く以外にないと思っています。
絶妙なバランス感覚で、その場その場を凌いで、余計な軋轢は回避するのが賢明だと個人的には考えています。
だからといって、必ずしも土下座外交になる必然性はないと思ってますが。
日本人には、口下手やユーモアのなさ等の傾向があるような気がして、これが土下座外交の遠因になっているような気がしています。

>No.85 通行人1さん

>昭和の戦争がトラウマになっているのでしょうけど・・・

そうですね…。戦敗国のドイツも、平謝りですしねぇ…。
だからたまにネオナチみたいなのが、定期的に湧いて(?)ニュースになるのかしら…(^^;

ドイツでお祭りに出くわした時、傍でパレードを見物していた老夫婦らしき2人がいて、そのおじいさんの方から、「日本人は仲間だ!一緒に戦争を戦ったからね。今日はお祭りだから、こんな事を言うけど特別さ。今日だけだよ。」と言われました…。

全てがそうだとは言いませんが、勝てば官軍という側面も、やっぱりあるのだろうと思ってます。
ただ、そうは言っても国際政治の場で通用しないのであれば、それなりのやり方をしていくしかないのでしょうけれどもね…。

商業捕鯨(調査捕鯨)
配役は、日本鯨類研究所 遠洋水産研究所、共同船舶株式会社
http://luna.pos.to/whale/jpn_bio_play.html

 南氷洋捕鯨の資源枯渇の問題は、オリンピック方式(早いもの勝ち、年の制限数量・シロナガス鯨16,000頭相当重量、種別制限無し)による。 1962年捕鯨オリンピック方式の中止。 

捕鯨が日本の文化であるならば、日本小型捕鯨協会(5基地、8業者、9隻)を絶滅から救う方が先決ですし。 捕獲枠・ツチ鯨・66頭 タッパナガ・36頭  マゴンドウ・36頭 ハナゴンドウ・20頭

沿岸捕鯨のミンク鯨の捕獲枠を確保する方が先決問題です。 南氷洋を捨てても絶対に必要事項。

尚、アイスランド、ノルウエーが、捕鯨再開を打ち出した背景には、日本が輸入するの目算も有り、これに応じなかった、日本は、如何か?。 国内に流通させてこそ、文化でしょう。

 日本側も国内向けに、鯨食害論を出すのも問題ですし。 有史以前には、沢山いたわけですから。(生態研究者は誰も支持しないです。)  マイワシ、マサバ、カタクチイワシの3すくみ論(魚種交替)。

松田裕之
http://risk.kan.ynu.ac.jp/matsuda/2002/020320b.html

 日本の水産資源(魚介類)では、研究者の出した、ABCをはるかに超える、TACを設定する、水産庁は?。コレが持続可能な、漁業?。 乱獲と言うはず。 しかし、漁業者を守れるのは、水産庁です。

オーストラリヤの普通の方にとっては、日本の商業捕鯨は、うちの裏庭で、勝手な事をしている。 の感覚の様な感じを受けてます。 個々によっては 「われわれも、うしも、ブタ、トリも食べるし」のご意見もございますし。

 スーパーでパック詰めした、食品を買っている私たちは、どうでしょうね。
Our Daily Bread
http://www.ourdailybread.at/jart/projects/utb/website.jart?rel=en&content-id=1130864824948

狐狩りは。 「狐狩り禁止法」が成立してます。

法務業の末席さま

南極ツアー、南極クルーズ 色々有りますので、行ってください。 期間は11〜2月(夏)。 私は、アルゼンチン・ウスワイア 出航が好きです。

>No.81 通行人1さま

遅くなりまして、申し訳ございません。
対応いただきまして、ありがとうございます。

>「情報は役所の財産だし一般に公開すると弊害も多い、役所の建物は国民の財産だが、だからと言って国民全員を役所の建物に入れるわけには行かない」

同じようなニュアンスの話を具体的な内容は覚えてないのですが、私も聞いた覚えがあります。
公務員の方々の中のごく一部の方がそんな感覚を持っていて、大部分の人たちは、違うとは思いますが・・・・。

>No.90 Oさま

ありがとうございます。

もちろん全ての公務員の皆さんがこんな人というわけではありません。ただ、「一般国民と触れ合う機会が少ないエライ人」の中にはこういう人が多いように思います。 例えば「厚生労働省」のキャリアの人たちに身分を隠して「派遣社員やネットカフェ難民」の境遇を半年ぐらい経験してもらうとか、「防衛省」の背広組に一年ぐらい「インド洋での洋上給油やPKO活動」を経験してもらう、ぐらいの研修プログラムがあっても良いように思います。野田元大臣が経験されたとテレビで話されていた「トイレ掃除」なんて仲間内の「いじめ」のように思います。

どんな世界でも、「一般国民と触れ合う機会が少ないエライ人」と
言うのはそうなりがちです。
(No.91 通行人1さん さんの言葉を借りました)

何せ、その世界だけで世界が回りますし
それで食っていくことが全てになりますから。

でも、外交官なんぞと言うものは
国際関係の損得にとことんシビアであるべきで
そのために血税を払って雇っているようなものです。

太平洋戦争をあきらめる努力をしたのも
外交官上がりと海軍上がりの二人だった気がします。

日本の国を立て直したデブも外交官上がりだったと思います。
まあ、そんなもんです。

>No.67 白片吟K氏さん

>>でも、「海賊行為」というには
>>せめて、「器物損壊罪」か「暴行」に当たる
>>レベルのことは立証したほうがいいでしょうね。

>それは私も一応同意です。

海賊行為だといえば言うほど、領土問題の右翼の動きで
わが国の立場がうざったくなると言う立場なので
海賊行為と言うのは、極力控えたい人間です。

>対象が「艦船」なので器物損壊罪より建造物損壊罪の方が適していると思いますが。

これはそのとおりです。不勉強でした。

国際関係においては憲法問題が常に根底にあると思います。
しかし、ここの問題に応じて憲法をその都度変えていくのは効率がとてつもなく悪いし、憲法の存在意義にもかかわってしまう。
私はいま憲法条文そのものを作り替えるよりも、世界にも稀なる理念的憲法の現実対応可能な解釈許容範囲を広げられるように、善きサマリア人条項の一文を憲法全体にかかるよう付け加えるのが現時点でコストパフォーマンス上最もいいような気がします。

あ、主張してしまいまつたか、ここでは主張はやめとこうと思ってたのに(笑)。To err is human,を身をもって証明しましたですね(爆)

No.91に追記します。
私が言いたかったのは、私利私欲に走りがちな一部の「高級」官僚に   noblesse oblige について考えて欲しい、ということです。

あくまで印象論の域を出ないのですが、国家一種試験を通ってエリート街道を歩んでいるような中央官庁の高級官僚の意識にあるのは「日本国を運営しているのはオレだ。オレの意思決定が即ち日本国の意思だ」と言うような類の「自負」じゃないかと言う気がします。実際その通りだともいえるんですが。

この「自負」に付け加わって「こんなに偉いオレサマなんだから、凡俗どもはオレにいい目を見させて当然」と言うような意識を(或いは無意識であるにせよ)持ち合わせていると、涜職行為に手を染めるようになるのかなーなんて。

先日挙げられた守屋前防衛事務次官なんかも、取調べに対して収賄の容疑は認める一方で、不必要な装備品を調達するなど国防行政を歪めた覚えはないと胸を張っているようですし。

No.95 通行人1さま
No.96 惰眠さま

ご両人様の仰る事は、よく分かる気がします。

私はサービス業に従事しており、比較するには少々違いすぎるかもしれませんが、この業界ではやはり営業力というものがかなり大事で、(物を売る場合、無形の物を売る場合、まあ様々な売るものがあるでしょう)
営業マンの資質は持って生まれた感性も大事ですが、その人の経験や努力ということもかなり必要だと思います。
私は30年近くこの営業畑にいる中で感じることは、さまざまな「もの」
を売った経験がある方ほど、営業力があるなあ、と感じています。(もちろんノホホンと呑気にやっている人は別として)
学生を卒業しすぐに就職してたまたま営業部へ配属され、現在に至るまでその会社だけの経験者の場合、(例外はもちろんあるでしょう)先に述べた営業の人と比べれば、頭でっかちに成りすぎ、臨機応変な対応をとれない場合が多いです。

自分の職種に当てはめて考えてしまいましたが、いろいろな経験からくる、柔軟な感覚を持ち合わせていなければ、ともすれば、自己中的な一方通行の考え方しかできなくなってしまうのでしょう。

>国家一種試験を通ってエリート街道を歩んでいるような中央官庁の高級官僚

このような方々も、学生時代は何かの志を持ち一生懸命、勉学に励んでいたのでしょうから、私も一方的に非難するつもりはございませんが、もう少し物事の善悪や、そういった官僚世界とは違う仕事の人たち(こちらの方がはるかに多い)のことも考えて(せめて見下すような気持ちは持たずに)お国の舵取りをしていただきたいものです。


放送倫理違反(決定内容を追記)エントリからの続きです。


>死刑囚さんへ

まず、私の立場を説明しますと、ご指摘の通り、実在論の立場をとっておりません。
因果律すら、人間が世界を理解・整理する上で「時間」という枠組みを思惟作用よって作り出した産物であり、過去は記憶の中にしかなく、現在しかない、という立場です。

そして、【観察の理論負荷性】について指摘し、最終的に【ある科学理論を受容するという事のうちには、その理論が経験的に妥当するという信念しか含まれない】に行き着くと主張しております。敷衍して頂いて、大変助かっております。

「観測手法はブラックボックスでもかまわない」というコメントについて私は、No.51死刑囚さんコメントのように読まれないために、あえて「(私の禅さんへの反論に対する)という括弧」を入れたのですが、裏目に出ました。「観測手法はブラックボックスでもかまわない」というのは私の主張ではなく、「私の禅さんへの反論」=私の主張を論駁する唯一の攻撃材料という意味です。ですから、当該部分で言いたかったことは、私が気にしていた「唯一の攻撃材料」を禅さんの意見とは別に、死刑囚さんが自身の知見を使って練り上げているに過ぎないのではないか、という趣旨です。私の文章表現力の無さが原因です、お詫びします。

「蓋然性」を持ち出してきた経緯ですが、私はNo.22コメントから、禅さんが不可知論の優位性を主張していると判断しました。したがって、それに対する反駁として提起したのです。ですから、形而下の話に引き戻しているつもりです。そのために、「ありそうかなさそうか」という存在に対する形而上学的問いではなく、「ある」場合・「ない」場合と前提で切り分けたのです。

「虫の知らせ」云々については、死刑囚さんは私の主張を誤解されているようです。私のNo.34コメントならびにfuka_fukaさんのNo.40コメントの当該部分を確認してもらえれば分かると思いますが、 私は「虫の知らせを認めることをもってして、霊魂の存在を認める(根拠とする)ことは飛躍である」と主張しています。ですから、「霊魂や虫の知らせ」と並列表記した時点で違っています。

「駆けつけ警護」のアナロジー(類比)についてですが、死刑囚さんはNo.30コメントにおいて、相対立する双方の意見について敷衍して見解を述べておられます。これは、対立する一方からすれば警護されているのと同じなのであって、その相対立する相手の意見を包んでいる見解についても反駁しなければいけなくなる場合があるのです。実際、私は死刑囚さんのコメントに反駁の必要性を感じ、コメントしました。【私なら逃げ出す所ですが・・(略)・・見物するのは少し興味があるので、止めはしません】と言いながら、今現在「すでに巻き込まれていますよ」という指摘です。

そして、このような指摘が最も当てはまるのは、私自身でしょう。最初に、このような展開になることは分かっていたので、No.5コメントで「スピリチュアルの問題は置いておくとしても」としたにもかかわらず、またfuka_fukaさんの姿勢を念頭に、「心情としては分かるけど、そのような正面突破はタフさが要求されるから回避した方がいいよ。プラグマティズム的に対応すべき」と説教を垂れたにも関らず、自分がどっぷりと浸かり、正面突破をするはめになりました。(笑)  ちなみに、ブログ主さんがエントリ文にて「江原啓之氏個人に対する批判は横に置くとしても」としたのは、このような所以を確実に想定してのことだと思われます。


P.S.
禅さんとの話をややこしくしたのは、私に原因があると考えます。私が以前から「無いと信じる」との立場を取っているのは、この手の議論が、いくら霊魂否定派の人間が根拠を挙げても、それを否定され、過度の懐疑主義に陥り、あまつさえ「魔女の証明」を求められることを想定してのことでした。そのために判断停止ラインである「信じる」を、実利上、最初に持ち出してきたものでした。また、1%ずつで積み上げられている確実性も、その1%を根拠として採用しているのは、つまるところ経験則(日常的経験)に照らして「しっくりくる」ので信じて、採用しているにすぎないという見解からでした。「合理」の理は人間に由来するのですから。

このような考えが基底にあったのですが、No.22禅さんのコメントで「それは、まったく違ったことについて言っている」と展開され、「客観性」について安易に使われ、その後「出現」という状況について無自覚に語られているので、私の方がまず最初に懐疑主義について展開しなければいけなくなりました。

これが、ねじれているように見えて、ややこしくなっているのではないでしょうか。

放送倫理違反 (決定内容を追記)エントリより
>No.33-36

ここら辺の話については、死刑囚さんの方が詳しいと思いますので、私より親切丁寧に教えてくれると思います。(No.34 お〜い紅茶さんのコメント)
折角のお言葉なのですが、ご期待には添えないだろうと思います…。これは、残念ながら、謙遜ではありませんorzスイマセン…。

お〜い紅茶さんがどのような説明をされようとしたのか、ちょっと推測がつきませんでした。とりあえず、デカルトの名前が出ていたので、もしかしたら、方法的懐疑の果てに辿りついた「我思う、故に我あり」という辺りの話や、合理的精神のことを説明しようとされていたのでしょうか…?

それとも、ひょっとしたらウィトゲンシュタインの独我論でしょうか…?
ところで、例題の内容ですが、たとえば、【ネロは、先月死んだ愛犬パトラッシュを見たと信じている時に、本当にネロはパトラッシュを見たといえるのかどうか?】という話にしてしまっても良いのでしょうか?
仰らんとする内容は分る気がするのですが、いざ、これを文章で書こうとすると、なかなか難しいですね(^^;

以下は、とりあえず、「論理哲学考」(ウィトゲンシュタイン 法政大学出版会)の中のラッセルの序文(苦笑)を参考&引用して書きましたが、哲学や論理学は(も)難しくてよく分っていませんので、ご了承下さいorz

パトラッシュは死んでしまった。(事態であり、事実)
ネロはパトラッシュがいるのを見た。(映像)
ネロはパトラッシュがいるのを見たと信じている。(事実)

事実の論理的な映像は思考である。映像は事実に対応することも、しないこともあり、それに応じて真であることも、偽であることもある。だが何れの場合も、映像は事実と論理的な形式を分かちあう。(上掲書)
「本来哲学的な問題は、どれも、ただ示されるにすぎないもの、つまり事実とその論理的な映像とに共通しているもの、にかかわる。 このような氏の観点からすれば、哲学において正確なことは何一つ語ることが出来なくなってしまう。 哲学の命題はすべて、言葉づかいを誤ったものであり、哲学的な議論にさいしてわれわれが望みうることは、せいぜい、哲学的な議論の誤りを人びとに悟らせることなのである。(中略)「哲学」はいかなる自然科学とも異なる。「《哲学》という語は、自然科学と並存するものではなく、自然科学の上か、あるいはその下に位るものを意味せねばならぬ。(上掲書)

ウィトの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な一文は、なんとなく、お〜い紅茶さんの形而上学に対する姿勢と重なる所があるように思いました。

以上、ウィトによれば、「ネロはパトラッシュがいるのを見たということを信じている」という事実から、「パトラッシュがいるのを見た」ということを真であることを推論できないし、あるいは、信じていないという事実から、それが偽であることを推論できないってことですね。
これ以上拡げようがない気がします。

あっ、だからバトンタッチされていたのかしら…?(^^;

それとも、例題の立て方がまずいのでしょうか…。
【ネロは、先月死んだ愛犬パトラッシュを見たが、実際には存在しなかった。】とか【ネロは、先月死んだ愛犬パトラッシュの幻覚を見た。】などと書いてもよいものでしょうか?

幻覚を「対象なき知覚」と捉えるならば「知覚の異常」という事になり、「対象なき知覚を体験したと確信すること」と捉えるならば、「誤った実在の確信」という事になるのでしょうか…?
いずれにしても、パトラッシュがいない(「対象がない」)ことが前提にあれば、一応、ネロの網膜にパトラッシュが映っているのかどうかを確認するため、叶うならば、その時のネロの目の玉を覗き込みたい所ですね。まぁ、幻覚であれば、多分映ってはいないんでしょうねぇ…。なんだかつまらない話しか出来なくてすみません…(汗。

私は幻覚を見た経験はありませんが、全く異なった身体疾患や精神疾患でも幻覚が生じるものなのでしょうか…。どのような条件であれば生じるかという事が絞り込めておらず、幻覚と一括して呼んではいるけれども、同一か分らず、また、同一の原因によって生じているかどうかも分らない状態なのかな?と素人的には勝手に想像しているのですが…。
幻覚のメカニズムについては、お医者様などにお伺いしてみたい所です。

No.98にて、お〜い紅茶さんからコメントを頂いているのに気づかずに、No.99を投稿していました。どうぞ、ご了承下さい。

コメントありがとうございます。
ただ、そろそろ家事に取り掛からねばならず、直ぐお返事できないかもしれません。ごめんなさい。

P.S.ところで、禅さんも主夫(婦)仲間ですね(^^)

>死刑囚さん

出すぎたまねをして申し訳ありません。

コメント自体は大変興味深く勉強になったのですが、ループしはじめてエントリずれになっていたので・・・

小会議室ですので雑感を・・・

自分は無神論者ですが科学的に神とか霊とかを実証してもらいたいと思っています。
未知への探究心もあると思いますが、いわゆるオカルトで金儲けしている人間と安易にそういったものに救いを求めてしまう人間の弱さが嫌いなのだと思います。

霊とか神とかが実証されてしまえば既存の宗教やオカルトが信仰ではなく、ただの風俗、風習になってしまうと思うからです。(戦争にも発展してしまいそうですが・・・)

科学が日々進歩している以上、宗教は人類が乗り越えていかなければならない壁のひとつだと個人的には思っています。

>No.98 お〜い紅茶さん

因果律すら、人間が世界を理解・整理する上で「時間」という枠組みを思惟作用よって作り出した産物であり、過去は記憶の中にしかなく、現在しかない、という立場です。

もしかすると、社会構築主義と呼ばれる立場でしょうか?

* * *
「観察手法はブラックボックスでもかまわない」というのは、お〜い紅茶さんの主張ではないとの事、了解しました。
ところで、私も誤解を与えてしまっていたのかもしれませんが、(仮にそうだったとしても、既にもう誤解は解けている事を祈りますが)、私には「観察手法はブラックボックスでもかまわない」という主張はしていません。あと、特に、お〜い紅茶さんの主張を論駁したり、攻撃しようという気もありませんでした。(この点については、以降にも少し説明させて頂きます。)

* * *

「駆けつけ警護」のアナロジーの件を出されていた趣旨は、なるほどと了解しました。
たしかに、私も巻き込まれているかもしれません(^^;

死刑囚さんはNo.30コメントにおいて、相対立する双方の意見について敷衍して見解を述べておられます。
これは、私が「放送倫理違反」エントリのNo.30のコメント全体を、「一見物人」の立場から書いていたからです。そのため、より面白いワクワクするような応酬を見物したいと思い、相対立する意見をお持ちの双方の方にとって、それぞれ役に立ちそうな情報を投下しておりました次第です。

ちなみに、「相対立する意見」とみなした内容は、あくまで、私の誤認(お〜い紅茶さんを実在論者の方と受け取ったこと等)を基にしたものです。この私の誤認については、上掲エントリのNo.51にて説明した通りですが、念の為、その誤認を基に書いた内容を下記の通り記しておきます。

【誤認内容】
お〜い紅茶さんは、実在論の立場を取り、「観察の理論負荷性」の問題を禅さんに提起している。
一方、禅さんは、道具主義者か非実在論者の立場を取っているので、上記に提起された問題に対して、「ある科学理論を受容するという事のうちには、その理論が経験的に妥当するという信念しか含まれない」という回答を禅さんは返すことも可能でだと思う。

* * *

私が気にしていた「唯一の攻撃材料」を禅さんの意見とは別に、死刑囚さんが自身の知見を使って練り上げているに過ぎないのではないか、という趣旨です。

「観察手法はブラックボックスでもかまわない」(お〜い紅茶さんが気にしていた「唯一の攻撃材料」)を私が主張していない(練り上げていない)事は先に述べた通りですが、禅さんのご意見と私の意見が完全に重なっているという事は、確かに言えないだろうと思います。
ただ、その前に、まず明らかにした方が良いと私が思うのは、禅さんの主張に対する判断(解釈)にズレがあるような気がする点です。

「蓋然性」を持ち出してきた経緯ですが、私はNo.22コメントから、禅さんが不可知論の優位性を主張していると判断しました。
禅さんの主張に対する判断(解釈)については、私は「少し(※)」異なります。 (※にて「少し」と書いたのは、確率論的・統計的手法が「科学的知識の不確実性」の見解と切り離せない点をもって、不可知論と呼べるのか否かについては議論の余地があるかもしれないと思うからです。)

ただ、私としては、上掲エントリNo.22で禅さんが一番仰りたかった趣旨は、「不可知論の有意性」等ではなく、「科学的な観点から見て、科学的に証明されていない事は、『ない』事にすべきなのか?それは、科学的な姿勢としてどうなのか?」という点だったのではないかと思っています。
言い換えれば、禅さんが上掲エントリのNo.22のコメントで仰りたかった要点は、下記の節ではないかと私は判断したのでした。

まあ、そんな訳で、科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。
証明出来ないなら、「分からない」でしょうねえ。逆に言うと、「霊魂は存在しない」という結論を出すなら、存在しない証明が必要になってくるんですね。でも、存在しない証明については、死刑囚さんの仰る通りでしょう。【*1】

上記が要点だと判断したのは、私自身のコメントについて触れていらっしゃった箇所でしたので、特に目が行ったという事も若干あるかもしれませんが、それを割り引いても、同コメントの最後に書かれたコメントが、それを支持しているように思いました。
ぼくは、霊魂なんて見た事もないので、存在については「分からない」です。信じるか?と聞かれても、存在してくれた方が望ましいという理由も願望もないし、別段好きでもないので、信じる方向には進めません、てところですねえ。【*2】

確かに、上記【*1】と【*2】の箇所と、同コメント内のその他の内容(【*3】)には、あまり整合性を感じませんでしたので、下記のように「はっきりと自覚されているのかどうかは分りませんが」と書いた次第です。

上掲エントリNo.30に、『一方、禅さんの方は(はっきりと自覚されているのかどうかは分りませんが)「現象を扱う」という道具主義者か非実在論者の立場を選んでおられるようです。』と書いた次第です。

P.S.
そろそろ外出時間になりましたので、誤解のあるまま返信が遅れるのもどうかと思い、とりあえず投稿させて頂きます。申し訳ありません…。
恐れ入りますが、あまり推敲できておらず、きちんと回答すべき所に対してコメントが漏れている事もあるかもしれません。(漏れがあれば、後で付記させて下さい。)

とりあえず、早速漏れが見つかったのですが、「霊魂」と「虫の知らせ」を併記した事は、自分でも書きながら気になったのですが、面倒なので一まとめにしただけで(個人的には、霊魂も虫の知らせもどうでも良かった^^:ので、つい端折ってしまっただけで、お〜い紅茶さんの考えを誤解している訳ではないと思います。この点についても言葉足らずかもしれませんので、後で書かせて頂くかもしれません。)

あと、お〜い紅茶さん、モトケンさん、fuka_fukaさんが、プラグマティズム的にこの退けたのは、もっともだと私も思っております。(証左として、私も同様にして「ない」という事にしていました。)
ただ、それをNo.22禅さんに向けて、改めて述べる必要は感じませんでした。その点において、禅さんは誤解されてしまったのではないかな?と気になった次第です。
つまり、「科学的姿勢としてどうか?」という禅さんの疑問に対して、「プラグマティスズム的姿勢」でお〜い紅茶さんがご回答されているように見えました事が、お2人の間で話噛み合ってないのではないかと感じた理由でした。

最後バタバタしてすみません。取り急ぎ返信まで…。

>No.101 エッジさん

ご丁寧に痛み入ります。

通行人1さんが話題に挙げられていた「金と宗教」とか、BPOの件などの方の議論の方にも興味がありましたし、そちらの方がよりエントリに沿った内容だと思いましたので、こちらの話題は小会議室へ移行した方が良いかもしれないと私も思いました。

オカルトで金儲けしている人間と安易にそういったものに救いを求めてしまう人間の弱さに関して、感じておられることはよく分る気がします。

あのエントリで、既に迷惑を掛けられる人が出て来てまい、それを問題視しているエントリにて、「オーラの泉は深夜枠の時はフィクション、エンターテイメントとして楽しめていた」と書くのは少し軽率だったかもしれません…。

個人的には、先に某女子の方が問題視されて、某女子と、現在問題になっている人物の双方が自粛するという流れの方が望ましかったのですが…。(どちらも、問題視される可能性があると思っていたので。)

>自分は無神論者ですが科学的に神とか霊とかを実証してもらいたいと思っています。

そうですね。
仮に「神」や「霊」が科学的に説明される時が来たら、すでにそれは「神」や「霊」という言葉で表現する事が適切でないと感じる物になっている可能性もあるように思いますが。


一見面白いことに、多くの心理学と呼ばれる諸学問では、概ね、「心」が存在するとはしてない(できない)んですよ(^^)
中でも、行動主義心理学などは、「心などない」と言い切り、それを基に理論を組み立てています。

ちなみに、私の今のマイブームは進化心理学、進化ゲーム理論あたりです。
「なぜ、神がいると思うのか」「なぜ、霊がいると思うのか」を進化学をベースに考えようとするものです。

No.103訂正ですm(_ _)m

×「なぜ、神がいると思うのか」「なぜ、霊がいると思うのか」を進化学をベースに考えようとするものです。

○「なぜ、心があると思うのか」「なぜ、神がいると思うのか」「なぜ、霊がいると思うのか」などを進化学をベースに説明しようとするものです。
(ただし、実際に、神や霊や心にも、進化学をベースにアプローチできる可能性が示唆されていはいますが、実際にそれらを扱った研究があるのかどうかは分りません。今の所は扱われている代表的なものは、協力行動など、倫理の方面です…。)

>死刑囚さんへ

取り急ぎ、以下の点だけ・・・

不可知論の意味なんですけど、私の場合かなりこちらのイメージ【サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Wikipedia)】に引きずられて、無意識的に解釈していたのですが・・・ つまり、討論における確定的知識を与えない立場に。
それで「優位」性という言葉が出てきた訳です。なので、議論の場という形而下の話なのですが・・・ それで、蓋然性という話が・・・

死刑囚さんコメントの不可知論リンク先にある【不可知論には懐疑論、現象学、実証主義などの立場から現象と実存を区別し(Wikipedia)】という意味合いを、どの位含めています? これが含まってくると、私の「禅さん不可知論規定」は、まったく失当です。

次に、私には死刑囚さんが禅さんを非実在論者としている所以がよく分かりません。
「目の前に出現したのだから・・・だって、あるじゃん」というのは、素朴実在論の典型例だと思うのですが。
そして、それを根拠にした(死刑囚さんご指摘のような)ミルの科学観があるから、自分の知覚に対する懐疑がなく、そこからくる科学知識体系の不確実性(註1)とその裏返しとしての蓋然性、それを補完するための「・・だとみなす」という推論が理解されず、推論を排除する「これまで○○がないから、○○がないというのは誤り、分からないとすべき」という主張になっていると分析しているのですが。

(註1)
禅さんが言っている「不確実性」は、科学知識体系そのものに対してではなく、それを100%なものとして、「まだ、調べていない部分があるじゃないか」という意味だと捉えています。

>死刑囚さんへ

すいません、コメントを読んでいて、もう一つ気になってきた点が・・・
びびりながら、質問しています。

私は、道具主義者→プラグマティスト→知識の価値はそれ自体にあるのではなく、社会にとっての有用性→「観察手法はブラックボックスでもかまわない」という主張、と繋げているのですが・・・

だから、禅さんを道具主義者と規定したことをもって、「観察手法はブラックボックスでもかまわない」との攻撃材料をついてきたと・・・

そして、何故に気になっていたかというと、私自身が観察手法のみならず、この手の問題そのものをブラックボックスとして、一旦置いておき、社会生活への実害部分についてのみ語ろうとしたのに、禅さんに巻き込まれて語ってしまっていたから。

さらに、気になっていた点を言うなら、禅さんの主張を敷衍する際に死刑囚さんが、「現象」という言葉を使っていたけど、「これって、効用じゃないの? 効用というリターン(現象)の意味で使っているのかなぁ〜」と思っていたんですけど・・・

また、「迷惑をお掛けしまして」パターンか?

>死刑囚さんへ

No.102 死刑囚さんのコメント

【誤認内容】
お〜い紅茶さんは、実在論の立場を取り、「観察の理論負荷性」の問題を禅さんに提起している。
一方、禅さんは、道具主義者か非実在論者の立場を取っているので、上記に提起された問題に対して、「ある科学理論を受容するという事のうちには、その理論が経験的に妥当するという信念しか含まれない」という回答を禅さんは返すことも可能でだと思う。

私の中では「誤認内容」といっても、このようにつながらないのですが・・・
特に最後の禅さんの回答は、No.30で読んだ時に「観察の理論負荷性」の行き着く先だと思っていたので、「観察の理論負荷性」を説く立場の主張だと思っていました。今、改めて読むと、私の立場に対する誤認というよりも「実在論」の使い方が特殊なような・・・ 私の中に、虫の知らせが・・・(笑)

それから、他エントリで始まった禅さんとの議論で、私には科学哲学談義をしているという自覚がないのですが・・・ 正直、科学哲学についての知見もありませんし(だから、線引き問題にも背景知識を詳しく知らないので「いわゆる」と付けた)

横レスすみません。

>No.83 死刑囚様 (2008年1月23日10:17)
まずは、遅くれてすみません。m(_ _)m
調べた頂きありがとうございます。

 そのとおり、「双方代理」については、相手方が承諾していれば、OKですね。例えば、土地建物登記など双方代理は当たり前ですね。
 今回のケースは、N社顧問で顧問料を継続して受領しながら、RCCの社長に就任してしまったことです。
 また、N社長(不動産業)内部資料を「社長室気付」で、送らせておきながら、顧問契約が終了した途端、RCCの差し押さえが行われたこと。
 H氏(兵庫県)は、債権者、株主等の利害関係人と思われます。
 懲戒請求の結果で、損害賠償の民事訴訟を検討しているかもしれません。ただ、1年11月後でやっと「懲戒相当」では、民事訴訟提訴に影響を与えるでしょう。(証拠保全等)

 なお、日弁連のスピード決定は、早かったですね!
 
 余談ですが、PC(XP)壊れました。購入5年2ヶ月!
 緊急を要したので、PC(Vista)に買い換えましたが、お引越しに時間を要しました。「価格.com」で調べて、価格交渉をしました。
...Y電機の5年間保証恐るべし!がっくり(泣)

>>No.108 cocoroさん
>...Y電機の5年間保証恐るべし!

ご愁傷様です(あれ、なんかdeja vuな(笑)希ガス・・・)
しかしY電機の「診立て」の確かさは名医の域ですなあシミジミ
こっちにも弟子入りしたくなったりなんかして(爆)

>お〜い紅茶さん

No.98のP.S.の箇所について、お返事が遅れ申し訳ありません。

「無いと信じる」との立場を取っていらっしゃる意図は、元のエントリNo.20の段階から、「悪魔の証明」を求められるような事態を避ける為だろうと、直ぐ判りました。
「1%ずつで積み上げられている確実性も、その1%を根拠として採用しているのは、つまるところ経験則」という部分については、統計的手法と照らし合わせても納得です。
統計的検定法の基準(有意水準)も、人間が勝手に5%水準とか、1%水準とか、決めているだけです(元エントリNo.54の通り)。
禅さんが「客観性」「出現」などを安易に使われているというご指摘については、私も同様に思いました。

ただ、元エントリNo.22にて禅さんが「それは、まったく違ったことについて言っている」と展開されている箇所(下記に抜粋)については、禅さんは、「『霊魂はあるか』という問いと、『霊魂は信じるか』という問いは、全然同一の議論にはならない」という事を仰っておられるのだろうと思いました。

「霊魂はあるか」という議論がありますよね。「霊魂はあるか」という問いと、「霊魂を信じるか」という問いは、全然話が違いますね。(元エントリNo.22禅さんのコメント)

改めて上記の当該箇所を確認しましたが、やはり先のように仰っておられるのだろうと私には思えます。
お〜い紅茶さんご自身も、この2つの問いが同一の議論にはならない事をご存知だからこそ、「Xが無いと信じる」ことを表明することで、「魔女の証明」を回避できると考えていらっしゃるのではなかったのでしょうか…?

* * *

しかし、それに対するお〜い紅茶さんのご回答は下記の通りでした。

「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。(No.26 お〜い紅茶さんのコメント)

元エントリNo.51で私が、「誤解の解けた目で改めて拝見すると、禅さんの疑問点と、お〜い紅茶さんのご回答が、どのように噛み合うのかがよく掴めません。」と申し上げたのは、上記を指してのことでもあったようです。

「xを信じている」をF(x)、「xがある」をG(x)とします。
G(x)の根拠をyとすると、「xがあるとする根拠を信じる」は、F(y)となります。
お〜い紅茶さんの上掲のご説明の「G(x)というのは、F(y)であり、F(x)に還元されます。」となります。(これは、「G(x)ならばF(y)、F(y)ならばF(x)、したがってG(x)ならばF(x)」という三段論法だと受け取って良いでしょうか?)
「G(x)ならばF(x)」の真偽を判定するには、新たに出て来た「y(xがあると信じる根拠)」について検討する必要が生じます。

だから禅さんは、下記の疑問を持たれたのだろうと思われます。

何かが見えるなどというのは、全部、知覚の問題だと思われます。そして、その知覚情報を元に、脳が、データを突き合わせて、判断をするんでしょう。

知覚情報をインプットした後は、情報処理(思考)し、その後に判断とか、憶測、推察という流れになると思います。

で、 「信じる」というのは、この流れの何処に位置するのか?というのが、ぼくの疑問です。
(No.70 禅さんのコメント)

今目の前にXがあるとしたら、Xに光が当たり、その反射した光が眼に入って来る。そうすると、網膜細胞が興奮し、網膜上にXの投影像ができる。このような網膜からの視覚情報は、視神経を通じて外側膝状核へ伝達され、大脳の後頭葉にある視覚野に投射される。
とすると、それでは、今目の前にXがないとしたら、それにも関わらず「Xがあると『信じる』」場合、「信じる」ことが上記経路のどこで発生したのか知りたいという事を仰っておられるのだろうと、私は理解しました。

お〜い紅茶さんと禅さんの間の一連の議論を拝見して、私は色々誤解したり混乱していると書いておりましたが、まず上記の件を整理せずに色々推測して述べてしまったのは、私が迂闊な点だったろうと思います。

あっ、No.105〜107に対するお返事をさせて頂いたのですが、こちらでお知らせ頂いているように、コメントの「公開が保留されました。」

申し訳ありませんm(_ _)m

>No.108 cocoroさん

>なお、日弁連のスピード決定は、早かったですね!

そうですねぇ(苦笑。1年11月後でやっと「懲戒相当」という『スピード決定』(苦笑)とは、面白いですねぇ…!

懲戒請求の結果で損害賠償の民事訴訟を検討するよりも、先に民事訴訟をした方が、早いような気がするので、そちらの方が懲戒請求人(原告)にとってベターではないかと思っただけなのでした…(^^;

>...Y電機の5年間保証恐るべし!がっくり(泣)
「す、すげぇ…!」ですね。
いえ、感心している場合ではなく、それはお気の毒でした…(><)。

>No.110 死刑囚さんへ

いろいろと引用していると余計ややこしくなりそうなので、ちょっと私の言いたいことを、ざーっと書いてみます。

「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。

だから、禅さんの言うように「ある」というのは、「客観的」なるものによって観測されたものであり、「信じる」は「あった方がいい」や「人の話を信じるかどうか」の主体的選択だというように分離できないんです。

そもそも真に客観的なるものなんて存在しない。観測者の立場のない観察は存在しない。客観性は主観性に還元される。観測機器を用いたって同じ。その機構を信じているから採用している。

だいたい、主観の根源たる知覚だって現象そのものではない、そこには人間の思惟作用が作り出した枠組みによって、世界を理解しているという知的作業がすでに入っているのだ。「合理性」のいう「理」だって、外側にあるのではなく、つまりところ、その理論を人間の経験則で「しっくり」くるか否かで判断している。

私が「信じる」という言葉を使ったのは、結局のところ「ある」に関する議論は、最終的に「信じる」に還元されると知っているから。「存在の有無」とは別の問題について、語った訳ではない。

「ある(orない)」というのは、「ある」とする根拠を信じる(or信じない)ということであり、「信じる(or信じない)」に還元される。


(こっから先が迷っている部分)

だから、禅さんが「人から人への伝聞」について言っていることは、私が言っていることと同じなんだけどなぁ〜。その考えが何で、自分の知覚には適用されないのだろうか? 自分の知覚を疑ってみる懐疑主義を説いてみたけど、fuka_fukaさんも同じ箇所をついて、退けられていたし。結局これって、(素朴)実在論との対立に還元されて、突破できないのかなぁ〜。死刑囚さんあたりにでも、聞いてみようかなぁ〜。って感じです。

>No.113 お〜い紅茶さん

う〜ん。

>禅さんの言うように「ある」というのは、「客観的」なるものによって観測されたものであり、

上記の部分なのですが、禅さんは、知覚について述べていらっしゃいますが、「『客観的』なるものによる観察」については、特に述べていらっしゃらないような気が私はしていました。

という事で、議論を始めると厄介なそうなこの問題に踏み込む必要はなかったような気がした、という趣旨の事も、現在ご承認待ちのコメントの中でも書いておりました。
いかがでしょうか…?

>死刑囚さんへ

No.22 禅さんのコメント

「霊魂はあるか」という議論がありますよね。「霊魂はあるか」という問いと、「霊魂を信じるか」という問いは、全然話が違いますね。
前者は、客観的に存在するかどうかの冷徹な判断で、後者は、霊魂はあった方がいいと思う?という希望を聞いている訳です。
明日は初デートだけど、晴れると思う?というのと、晴れた方がいいと思う?という質問の違いに似てます。
科学というのは、主観や情緒的なものを排除して、客観的にはどうなんだ?ということを煎じ詰めるための方法論でしょう。

という感じなんですが・・・・

>No.115 お〜い紅茶さん

先にも同意しましたように、、「客観性」について安易に使っていらっしゃったのがまずかったのだろうとは思います。でも、

1.「観察」ではなく、「判断」を問題にされている。

2.「明日は初デートだけど、晴れると思う?」という質問の違いに似てます。」と仰り、禅さんの中では、「客観的に存在するかどうかの冷徹な判断」に対応するのは、「明日は初デートだけど、晴れると思う?」であることが示されています。

3.「主観や情緒的なものを排除して、客観的にはどうなんだ?ということを煎じ詰めるための方法論でしょう。」とありますように、「完全に主観を排除して客観的判断が得られる」とは述べていらっしゃいません。

ややや。知らない間にこんな事に(゜д゜;)
オーストラリアは、今、三連休の中日でして、なかなかPCの前に座れないので失礼致しました。

ええと、お〜い紅茶さんが「(こっから先が迷っている部分)」のところを。そんなに難しい話じゃないんですが、ぼくの話が滞って先に進まないので。

ぼくが最初に例え話に出した部分。

ぼくの目の前に、霊体みたいなものが出現して、朝から晩まで居たら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だって居るじゃん、になってしまいます。

これなんですが、その後に、厚揚げだとか、美空ひばりだと言って、fuka_fukaさんには、司馬遼太郎直筆のサインバージョンを出しました。

今、fuka_fukaさんの目の前に、司馬遼太郎直筆のサインを一枚置きます。で、「目の前に、司馬遼太郎直筆のサインがある」という現象を「信じますか?」と言われたら、どうでしょう?信じるも何も、目の前にあるじゃないかと思いませんか?

お〜い紅茶さんと喫茶店に行って、テーブルの上にぼくが石を出すとするじゃないですか。で、「お〜い紅茶さん、ここに石があるでしょ?これって信じますか?っていうか、信じるも何も、ここに石がある事になりますよねえ」という話ですよ。

で、お〜い紅茶さんは、「ならないと思います。仮に、私が見たとしても、石だとは判断しません。その前に、自然もしくは人為的なものによる光学現象、網膜その他の視覚器官の問題、精神状況に原因を求めます。」と答えてるので、「え?」と思っている訳です。

あるかどうかという話と、信じる信じないという話の区別をしようと思って、まず、軽い例え話をしています。で、霊体を出してみたんですが、妙な方向になってきたので、軌道修正して、身近にある物にしました。

普段の何気ない会話のつもりで、「ねねね、ここに石があるでしょう?」と聞いているのに、「石かどうか判断する前に、自然もしくは人為的なものによる光学現象、網膜その他の視覚器官の問題、精神状況に原因を求めます。」とお〜い紅茶さんが答えている訳です。

もっとも、「霊体」を例え話に入れたので、こうお答えになったのかも知れませんが、「うーん、それでも問題は同じなんだけどな〜。」とも書いていましたし。

こんな風に会話が展開していくかなあ、先に話が進まないよ〜、というのが、今、ぼくが戸惑っているポイントです。ここまででどうですか?

【大阪府知事選速報】
朝日新聞が午後8時の投票締切直後に、早々と橋下氏当確の速報です。

>No.117 禅さんへ

お待たせしてしまって、申し訳ありません。もうしばらく、お待ち下さい。
死刑囚さんとの議論については、禅さんのせいではありません。私は今、鏡を見ているような気持ちでいます。つまり、これは自分のこれまでの考え方がチェックされている状態なのです。

私は印度哲学科出身ですので、学科柄、周りに宗教者ならびにオカルティストが山程おりました。(このせいで前回、死刑囚さんのことをすぐに、オカルティストと誤認してしまいました) したがって、この手の「スピリチュアル」議論についても、身の処し方(いかにして労少なくして、論駁するか)を構築してきたつもりでした。

しかし、禅さんの意図とは別に、禅さんのコメントに対して反駁の必要性を感じ、反論しました。それは、これまで私が持っていた論に、私が気付いていない構造や矛盾点があるものと思われます。

死刑囚さんは、掛け値なしに私より圧倒的に知見が豊富です。だからこそ、無意識で「駆けつけ警護」的に入ってしまったのでしょう。私は、これを機に問題箇所を確かめようと思っています。死刑囚さんには胸を借りるつもりでいます。ブログ主様、他のコメント投稿者の皆様には、小会議室とのことで、今しばらく何卒寛大な配慮をと考えております。


>死刑囚さんへ

迷惑をお掛けしております。
No.110コメントの「三段論法」部分への対応です。No.116は、後に対応します。

No.26 お〜い紅茶さんのコメント

「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。

No.110 死刑囚さんのコメント

「xを信じている」をF(x)、「xがある」をG(x)とします。
G(x)の根拠をyとすると、「xがあるとする根拠を信じる」は、F(y)となります。
お〜い紅茶さんの上掲のご説明の「G(x)というのは、F(y)であり、F(x)に還元されます。」となります。(これは、「G(x)ならばF(y)、F(y)ならばF(x)、したがってG(x)ならばF(x)」という三段論法だと受け取って良いでしょうか?)
「G(x)ならばF(x)」の真偽を判定するには、新たに出て来た「y(xがあると信じる根拠)」について検討する必要が生じます。

以下に、評価を付記して整理します。

F(x)=xを信じている  【O.K.】
G(x)=xがある  【O.K.】
y=G(x)の根拠  【O.K.】

という規定から、

F(y)=xがあるとする根拠を信じる が導き出される。【O.K.】

そして突然、【お〜い紅茶さんの上掲のご説明の「G(x)というのは、F(y)であり、F(x)に還元されます。」となります。】が提起される。 【Why? 】

仮に、この形式に前提を当てはめると、

私の主張は「xがあるというのは、xがあるとする根拠を信じるであり、xを信じているに還元されます。」となってしまいます。

これは、私の主張ではありません。そもそも【xを】としていないのですが、あえて可能な限り当てはめるなら、「xがあるというのは、xがあるとする根拠を信じるであり、信じているに還元されます。」になります。

さらに、死刑囚さんは次のように結論します。
【「G(x)ならばF(x)」の真偽を判定するには、新たに出て来た「y(xがあると信じる根拠)」について検討する必要が生じます。】

前提を当てはめてみます。

「xがあるならばxを信じている」(注:私はこのように主張していない)の真偽を判定するには、新たに出て来た「xがあるの根拠(xがあると信じる根拠)」について検討する必要が生じます。

まず第一に、「xがあるならばxを信じている」という文の真偽の判定が、何故「xがあるの根拠」についての検討になるのでしょうか。「xがある」ことが証明されても、「xを信じている」とは限りません。

第二に、「xがあるの根拠(xがあると信じる根拠)」と勝手に、(xがあるの根拠)=(xがあると信じる根拠)と、「信じる」という言葉を挿入していますが、何故でしょうか。

第三に、真偽の判定のために、新たに出て来た「根拠」について検討する、としていますが。その検討は何を根拠に真偽の判定をするのでしょうか。さらにその検討の真偽の判定は何を根拠に判定するのでしょうか。・・・以下、続く・・・

すでに、第一・第二の指摘にあるように、死刑囚さんが「ある」と「信じる」を不可分に結びつけているように思いますが、いかがでしょうか?

>死刑囚さんへ

すいません。勝手に分かりました。

今回の議論において、死刑囚さんから「あなたは何の思想なのか?」という問いが何度か発せられ、いくつか紹介された思想を調べていたのですが、どれもが私の立場と似ているけど知らないし(かじったものも当然あります)、「そういえば、どの知見からこういう世界観を構築したのだろう」と自問自答しておりました。

そして、死刑囚さんとのやり取りの中で、「ハッ!!」と気付かされる点がありまして、仏教の唯識思想とカント『純粋理性批判』が結びついて、(素朴)観念論の世界観【物質の客観性を否定した、「存在することは知覚されることである」】になっていることに気付きました。しかも、私は無神論者なので、ウィトゲンシュタインは知りませんが独我論ということになるかと思います。

だから、禅さんの「目の前にあるんだから・・・だって、あるじゃん」という(素朴)実在論の立場からの【「ある」と「信じる」は別】に反応して、反駁したと思われます。(実利上の目的も別にある) 今まで気付かなかったのは、相手にしてきた人間も印度哲学思想の影響を受け、同じ傾向を共有していたからです。

「ハッ!!」と気付いた瞬間ですが、死刑囚さんからの三段論法との批判への反駁を練っている時でした。No.119の【第一に、「xがあるならばxを信じている」という文の真偽の判定が、何故「xがあるの根拠」についての検討になるのでしょうか。「xがある」ことが証明されても、「xを信じている」とは限りません。】の部分です。

論理上は成り立ちますが、私の立場からは出てこない発想です。xがあることを証明するために、その根拠を信じねばならず、それによってxを自動的に信じてしまうからです。何故、このような仮説を私の立場から立てられたのか? それは、前提が【xがあるならば】という、私が取り得ない実在論の立場だからです。では何故、他の場合は「あるが信じる」に直結しているのか。他の場合は全て、【あるかという問い】【あるという問題(について)】【あると云う場合】など認識作用や主張についてであり、観測者(行為者)の存在が前提にあるからです。ここから逆説的に導き出されるのは、観測者がいなければ世界は存在しないです。「ずいぶん、表象的で観念論的だなぁ〜」と我ながら気付いた訳です。

さらに、死刑囚さんは違う立場であるにも関らず、何故【「ある」と「信じる」】をこちらの意見のように混同しているのか、また、その点について何故、私は反駁をできるのか? などが気になり、上記着想と合わさり、観念は人間の思惟作用であり、思惟作用による認識が世界であるとするのが観念論、世界を記述・論証するためには思惟作用が必要、などが連想され、実在論者が自身の説を論証するためには思惟作用を用いなければならず、その思惟作用を世界の成り立ちにしている観念論者の世界観を語ってしまうというものでした。観念論者の語っている世界観は、人間の思惟作用の過程そのものなのです。

要するに、こういうことです。まず最初に世界の基本構造についての解釈がある訳です。その構造の中に、さまざまな主題が浮かんでいる訳です。ですから、実在論者は実在と認識の中に、観念論者は認識の中に。そもそも世界を思惟作用(認識と置き換えも可)の産物に過ぎないとする立場からすれば、「ある」は「信じる」によって認識の中に採用された表象であり、実在論者からすれば、「ある」は実在の世界に在り、「信じる」は単なる思惟作用なのは、自明であった訳です。今回は、「ふつうありえない物」という日常の経験則によって、とりあえず是認(思考の省力化)されるものではなかったため、論が詰められ、内在化していた本質的な差異が暴露されただけでした。

死刑囚さんのおかげで、スッキリしました。大変ありがとうございます。

くだらないことで、コメント欄を占拠してしまい、大変申し訳ありませんでした。

>お〜い紅茶さん

日曜と本日、外出しておりました。
また、どのようにお返事しようかと本を引っ張り出して夜に読んでいたので、本日帰宅後は爆睡しておりました。
そのため、お返事が遅れ申し訳ありません。
(どのようにお返事しようか考えるのは、楽しい作業でした(^^))

スッキリされたようで良かったです(^^)
そして、相変わらず、論旨明快ですね。惚れ惚れしてしまいました。

ただ、私の立場に関しては、依然として誤解が解けていないように思います。(もっとも、承認待ちのコメントが公開されないので、それも仕方ない事です。長くなるので、その内容の再投稿は後回しにしていました。)

* * *
私の立場(という程のものでもないですが)については公開されないコメント(No.111参照)には書いていましたが、公開が承認されないようですので抜粋しておきます…(^^;
>科学的実在論に疑念を抱いており、また、道具主義の立場の方に影響されています

>道具主義者に対する反駁材料として、実在論者から理論負荷性が持ち出される事があります。(それゆえ、お〜い紅茶さんを、実在論者と誤解してしまいました。)

>私は道具主義とは、「われわれの観察にかかるのは、過去であれ未来であれ現象だけであるから、科学理論の目的は現象の間の関係を組織化し、観測結果に合う計算や予測ができる概念的な体系を作ることに尽きる」(内井惣七さん)と考える立場のことだと受け取っています。
訂正:
×(内井惣七さん)
○(「科学哲学入門」世界思想社 内井惣七)

※私が「実在論」と書く時、私が「実在論」として想定していたのは、「現象の奥に存在する法則は私達が見出す前から存在する」とか、「法則は現象には直接表れないが、実在世界の隠れた構造の中にある」とする立場でした。「科学的実在論」と呼んだ方が適切だったかもしれません。

(余談ですが、承認待ちのコメントがもし公開された場合は、ブラックボックスの辺りのコメントに訂正がありますので、もし今後公開された時には、訂正点を書かせて頂きますね。)

* * *

「霊魂はあるか」という問いと、「霊魂を信じるか」という問いは、全然話が違いますね。(元エントリNo.22禅さんのコメント)

に対して、

「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。(元エントリNo.26 お〜い紅茶さんのコメント)

と説明をされていらっしゃった件で、お〜い紅茶さんが「ある」と「信じる」について何を仰ろうとしているのか不明瞭でしたので、質問をしておりました。

「G(x)ならばF(y)、F(y)ならばF(x)、したがってG(x)ならばF(x)」という三段論法だと受け取って良いでしょうか?(No.110 死刑囚のコメント)

上記質問は、下記2点を確認するためのものでした。

1.お〜い紅茶さんが用いておられる【還元されます】を確認するため。(具体的には、お〜い紅茶さんが「AはBに還元される」と仰る時、「AならばBである」という言葉に置き換えてよいのかどうか?)

2.お〜い紅茶さんは、【「ある」とする根拠を信じるということ】は、【信じる」に還元される」】と仰っておられるのかどうか?

もし上記2点へのご回答が共にYESならば、お〜い紅茶さんが仰ったことは、上記三段論法の形になる事を指摘しただけあり、お〜い紅茶さんを批判や反駁するつもりが無いことは、以前にも書いた通りです。
そして、この指摘が、「お〜い紅茶さんへの批判や反駁材料にはならないだろう」と考えて書いておりました(※この件については、後述します。)。

私の主張は「xがあるというのは、xがあるとする根拠を信じるであり、xを信じているに還元されます。」となってしまいます。 これは、私の主張ではありません。(No.119 お〜い紅茶さんのコメント)

とのご回答でしたので、上記1がNo.、上記2がNo.、両者がNo.、のいずれかという事でしょうか…。
とりあえず、この件にはこれ以上触れず、話を先に進めます。

そもそも【xを】としていないのですが、…(No.119 お〜い紅茶さんのコメント)
xは変数です。 x=「何か」として頂いても構いません。 お〜い紅茶さんが特定のxを問題にはしてはおらず、【ある】や【信じる】の方を問題にされているのだろうと思いましたので、「すべて(all)のx」についてなのか、「ある(some)x」についてなのかの区別を問わない書き方をさせて頂きました。
論理上は成り立ちますが、私の立場からは出てこない発想です。xがあることを証明するために、その根拠を信じねばならず、それによってxを自動的に信じてしまうからです。何故、このような仮説を私の立場から立てられたのか? それは、前提が【xがあるならば】という、私が取り得ない実在論の立場だからです。

「このような仮説」(というより、私が、「お〜い紅茶さんが、下記三段論法を取られているのか」と尋ねた内容)を私が立てた理由を、誤解されているように思います。

G(x)ならばF(y)

F(y)ならばF(x)

したがって、G(x)ならばF(x)

【xがある】ならば【xがあるという根拠を信じている】

【xがあるという根拠を信じている】ならば【xを信じている】

したがって、【xがある】ならば【xを信じている】

お〜い紅茶さんが【xがある】と仰る時と、実在論者が【xがある】と言う時は、意味が違うだろうと理解しておりました。
実在論者においては、「xがあるか?」という問いは、「xは実在するか?」という問いと言い換えられるが、お〜い紅茶さんにおいては、そうはならない。
具体的には、実在論者にとってはF(x)は「xが実在する」を意味するが、お〜い紅茶さんはF(x)を「xがある」という記号として受け取るのだろうと、私は考えていました。

だからこそ、実在論者から「xはある(実在する)。ない(実在しない)と言うなら、貴方は、「ない(実在しない)」ということを科学的に説明できるのか?」等と議論を持ちかけられた時に、お〜い紅茶さんは「私はxがないと信じています」と回答することで、議論が避けられるとお考えになったのではないでしょうか?

実在論者は、お〜い紅茶さんの上記回答を聞いて「お〜い紅茶さんは、xが実在しないと信じている(「xが実在しないと信じている」だけで、「実在しないという科学的説明が出来る」とは言っていない)」と受け取るだろうと思います。
しかし、実は、お〜い紅茶さんにとっては実在論者の「xは実在するか、否か」という問いは、偽問題であるだけでしょう。
その事には、実在論者は気づかない。だから、実在論vs非実在論を巡る議論を回避できる。
・・・というカラクリなんだろうと思っていました。

だから、お〜い紅茶さんが、実在論者に対して『「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。』と仰ってしまえば、カラクリを明かしてしまう事になるだろうと思っていました。すなわち、避けた筈の議論に、なぜか再び参加することになるのではないかと。

以上が、私の思考過程でした。
お〜い紅茶さんの意図とは異なり、深読みしてしまっただけかもしれませんが、上記で誤解が解ければ幸いです。

P.S.
やはり哲学科の方だったんですね。
私は、(もしかしたら既にお察しかもしれませんが、)国際政治学部卒です。卒業してからやっと、国際政治学について一通りの知識が身についていない事に気づき愕然とした事があり、これまで専攻を明かせませんでした…orz

何やら買い被り頂いてしまったようですが、私は広く浅くなので、もし私のコメントから何かお気づきになられたのだとしても、それは、お〜い紅茶さんの思考によるものでしょう。それに立ち会えて、光栄でした(^^)
それから、楽しかったです。

>日曜と本日、外出しておりました。

どうでもいい訂正ですが、「外出していたのは、土曜と月曜」の間違いでした。
この件で頭の中を整理したり、どのように回答しようかと考えるのが楽しくて、この土日、休日中で家人がいるにも関わらず「心ここにあらず」になって、家人のご機嫌を損ねてしまいました。(当たり前ですね…反省ですorz 挽回すべく、家族サービス(?)に努めます。おいしい料理を作るとか^^;食べ物で釣る訳じゃありませんが。)
そのため、部分的な回答になったり、余計に議論を避けようとしたり、回答が遅れたりしました。

>くだらないことで、コメント欄を占拠してしまい、大変申し訳ありませんでした。
私は、くだらないことだとは思いませんでした。

ただ、私の散漫で長い文章で、コメント欄を占拠してしまった事は申し訳ありませんでした…。

禅さま(放送倫理違反エントリNo.70より。亀レスですが・・・)

どう見ても、目の前に「ある」という意識が知覚だと思います。

は同意ですが、

「目の前に、司馬遼太郎直筆のサインがある」という現象

を 「知覚」 とするのは、禅さまの前提からすると概念の不統一があるように思います(私も混乱がありましたが)。
ここで 「知覚」 に相当するのは、目の前にある直観像までであり、 「司馬遼太郎直筆のサイン」 というような過去の記憶との照合や言語化を経ての認識は、禅さまの整理では、「思考」 の範疇に入れられるべきではないでしょうか。

「司馬遼太郎直筆のサインがここにある」 と言われて、他者である私の目にも見え、共通認識とできるのは、 「そのサインのようなものが目の前にあること」 までで、それが司馬遼太郎直筆かどうかは、何か他の証拠と照合して、それがただの勘違いや偽造でないことの証明を経ないといけないものだろうと思います。

登記簿やみかんでも同じだと思います。
みかんも、よくできた蝋細工かもしれないし、何かよくわからない。まして、「みかんが実在するかどうか」 が論点となっている状況では。
それを見ただけで 「さあここに “みかん” があることを認めろ!」 と言われれば、「いや、たしかにみかんっぽいものはそこにあるけど(ここまで知覚)、これだけで断定(思考)はできないじゃん」 と答えるしかないでしょう。


どう見ても、目の前に「ある」という意識が知覚だと思います。
そんな事に、「誰かがそっくり」な司馬遼太郎直筆のサインみたいな物を「(持って)きたのかもしれないし、他者から見たら似ても似つかないのに、その人の脳内ではなぜか 「一致!」 の判定が下されてしまっただけかもしれない。」という考え方なんかしないと思うんですが…。

そのものを見て司馬遼太郎直筆サインだと認識した本人が、そのような疑念をもつのはおっしゃるとおり不自然だと思います。
が、ここでは、「突然、司馬遼太郎直筆のサインを出された」 人にとっての認識が問題となっているという前提で考えていました。

そのうえで、 「信じる」 という行為(思考?態度?どう抽象化するのが適当かよくわかりませんが)の位置づけは、私のイメージでは以下のような感じです。

1.知覚 (見たまま、聞こえたまま等の直観像) 
  ↓
2.認識 (知覚内容のカテゴライズ+記憶との照合)
  ↓
(3.記憶)
  ↓
4.思考・判断

「信じる」 という行為 (及びそれに付随する「切り上げ」「切り捨て」によるエラー) は、4.のステージでのみ生ずるものと整理できると思います。

一方、「知覚」 ステージと 「認識」 ステージで生ずるエラー(錯視やデジャヴュ等?) は、「信じる」 という表現で包摂するのは語義的に無理があるので、別の問題として扱われるべきだと思います。

また、

ぼくの例え話の中では、この知覚の部分は何でもいいんです。それほど重要な部分ではないので。

との前提とのことですが、私の理解 (というか多分に想像でもあります) では、自身の体験に基づいて 「霊はいる」 との見解に立っている方の多くは、「信じる」 以前に、上記の知覚・認識レベルでのエラーについて無自覚ゆえ、ということが多いのではないかと思っています。

すべてを知覚・認識上のエラーであるという確証などもちろんあるわけもないのですが、自身の体験を根拠とする方の体験談をいろんなところで読むにつけ、比較対照実験は無理としても、自覚的に 「エラー」 の可能性を検討していると思われる例は非常に少ないんです。

つまり、私と禅さまの問題意識の違いは、私の場合には 「知覚(+認識)」 の問題こそが重要であり、その段階でのエラーを踏まえないで 「信じる」 ことの問題についてだけスポットを当てても、オカルトやスピリチュアル(?)の問題の全体像を把握することは不可能と考えていること、かもしれません。


で、禅さまの疑問である 「信じる」 とは何ぞや?という問いに対して一応の答えを提示しているのは 認知的不協和理論 ではないかな、と考えました。

人は、知覚し認識した事実が仮に同じであっても、自分の脳内の世界観に合致するように、その評価を歪めてしまう傾向が一般的にある、と言い換えが可能でしょうか。

霊がいてほしい、あるいはいるのが当然と思っている人にとっては、「不思議体験」 はまさに霊の実在の証拠として認識されてしまうでしょうし、霊不在派は逆にどんなに不思議な光景を目の当たりにしようとも、幻覚やトリックとして片付けようとする傾向があるでしょう。

ただ、肯定派・否定派という色分けにかかわらず重要なのは、証拠の的確な評価と、他の証拠から導かれる結論との整合性を意識し、解釈が分かれる事実については、より矛盾のない解釈のほうが選ばれるべき、という思考方法だと思います。
(Critical Thinking 、あるいはオッカムの剃刀あたりに落とし込める話かも?)

それをせずに、「幻覚に決まっている!」 などと 「信じて」 しまうのは、科学的な思考ではなく、モロに認知的不協和、確証バイアスの陥穽にはまりこんでしまっており、オカルティストと同じ穴の狢です。
「立証」 がない場合の態度として、「ある/ないを同等に考える」 のは不合理だが、 「暫定的にみなす」 ことまでしか許されない、と考える所以です。


用語・概念に、あるいは趣旨の読解に不適切なところがありましたら適宜ご指摘いただければと。

No.121に、語弊等のある文章があるように思いましたので、恐れ入りますが、念の為、以下訂正させて頂きます。(汗。

×国際政治学部卒です。
○政治学部卒で、専攻は国際政治学でした。

×卒業してからやっと、国際政治学について一通りの知識が身についていない事に気づき愕然とした事があり、これまで専攻を明かせませんでした…orz

○卒業してからやっと、国際政治学について、(専攻なのに)狭く浅い知識しか身についていない事に気づき、また、散々「国際政治を見るには多角的視点が必要だ」と言われて来たのに、自分の拠って立つ見方が国際政治学においてどのような位置づけにあるのかを認識していなかった事に気づき、愕然としたことがあります。そのため、これまで専攻を明かせませんでした…orz

* * *

何度も、大変失礼致しましたm(_ _)m

本当にすみません。No.121で、もう一つ訂正点がありますm(_ _)m

×やはり哲学科の方だったんですね。

○やはり哲学科の方だったんですね。しかし、ご専攻(印度哲学)までは分りませんでした。

fuka_fukaさん

うーん、違うなあ。そんな難しい話はしていないんですが…。申し訳ないんですが、ぼくのレベルまで、ずーーーーっと下りてきていただけますか?


みかんも、よくできた蝋細工かもしれないし、何かよくわからない。まして、「みかんが実在するかどうか」 が論点となっている状況では。


それは論点じゃないと言いますか、少なくともぼくは論点にはしていないんです。そういう誤解を招いたかも知れませんが。

同僚と仕事をしていて、「そこの2007年度決算ファイルを取ってくれ」と言われた時に、「ああ、これね」と取るんじゃないですか?「いや、たしかに2007年度決算ファイルっぽいものはそこにあるけど、これだけで断定はできないじゃん」なんて答えないのでは?というレベルですよ。

話が前に進まないので、もう進行させますが、その「2007年度決算ファイル」を「死んだはずの祖母」にして、ぼくが、「死んだ祖母みたいなのが、朝から晩まで居る」と親に電話で言ったとします。「みたいなの」ですよ、「みたいなの」。

そりゃあ、見間違えかも知れませんし、酔っていたのかも知れませんし、幻覚かも知れません。そんな訳がないと、自問自答もするでしょうし、でも、自分の知覚は完全とは思っていませんので、「…みたいなの」と半信半疑です。

で、問題はここからなんですが、親に話すと、「そんな亡霊みたいな話はない」とか、「嘘を言うな」とか、「馬鹿げとる。話にならん」とか、「ふうむ、お前の祖母は5年前に亡くなっとるが、その意識は存在しているかもしれん」と言うかも知れません。伝聞ですからねえ。

お〜い紅茶さんのように、「仮に、私が見たとしても、祖母みたいなのだとは判断しません。その前に、自然もしくは人為的なものによる光学現象、網膜その他の視覚器官の問題、精神状況に原因を求めます。」と答えて貰っても結構です。自分の知覚なので、それは自由です。

で、「世の中何があるか分からないので、99%の確率でそんな事はあり得ないけど、1%の確率で信じる」というような話はあるでしょう。霊魂の話では余りないかも知れませんが、勝負事ではよくあるでしょう。

99%まで客観的な材料で否定出来るにも関わらず、残りの1%で情緒を持ってきて、「お前を信じる」と大逆転するのは何故でしょうか、という事なんです。99%の確率で霊魂など存在しないと結論づけたなら、それでいいじゃないかと思うんですが、最後に信じる信じないになってくるのは、不思議だなあ、という話です。その次に、「禅を信じるかどうか」になってくると、もっと不思議です。

そういう流れの話なので、「死んだ祖母みたいなの」でもいいですし、「無くなっていた財布」でも、「月の石」でも何でもいいんです。

贔屓のボクサーが居て、客観的に考えても負け戦なのに、0.1%の確率を信じて応援する事なんかもあるでしょう。負けるかも知れないけど「勝てると信じている」と。

こういう話です。つまり、霊体の存在とか、みかんの実存とかは、ぼくの話の中では、サンプルとしてone of themです。fuka_fukaさんやお〜い紅茶さんを否定しているんじゃないんです。ぼくの話を聞いて下さいというレベルの話です。

ぼくだったら、朝から晩まで、「祖母みたいなの」が居座っていたら、疑問を持ちながらも「ありゃあ、祖母みたいなのが居るなあ」と思いますし、「司馬遼太郎の直筆サイン」があったら、真贋は別にして(これが主題ではないので)、取りあえずは「司馬遼太郎の直筆サインじゃん」と思います。そうしないと、話が滞るばかりです。

司馬遼太郎の直筆サインの実存を信じるか?なんて話じゃないんですよ。

※これでぼくの話が分かっていただけないなら、オカルトの話を排除して、ボクサーの話に切り替えます(≧∇≦)

>No.121 死刑囚さんへ

いまいち、よく分からなかったので、まず私の立場を説明します。
そして、こちらの方が死刑囚さんの疑義にとって重要かも知れませんが、最初に「無いと信じる」と主張し、その後、禅さんに反駁した意図について、あとで別コメントにて説明します。

私の取っている観念論(独我論)の立場は、ミョ〜な宗教観から来ている仮説ではなく、科学的態度の基礎になる懐疑主義をとことんまで突き詰めた挙句、「全ての物の存在」や「理性」まで疑った結果です。

「(世界の)存在があるということを、人の理性は証明できるのか?」 その結果、そこには人間の思考過程そのものしか、残らなかったという話です。「(私が見ていない時の)物の実在は仮説に過ぎない」 (世界があるとする)実在論者は、語りえぬものについて語っている、です。

そして死刑囚さんの云う「カラクリ」の一端ですが、話をややこしくしたのは、私がこのような高度な思弁性の果てに辿り着いて獲得していた立場を失念していたため、一般的な「科学vsエセ科学」の論争という、「科学的実在論」の範疇で語るべき話に、その前提である「独立性テーゼの承認」自体を否定しかねない立場として介入してしまったことです。

ちなみに、(科学哲学でいう)道具主義者の概念も同じで、(一般哲学用語としての)実在論の範疇、すなわち「独立性テーゼを認める」に入りますが、今回の議論にはオーバースペックになると思います。

なお、私(独我論)を科学的実在論者と死刑囚さんが見間違えたのは、当然だと思います。上記科学的実在論のページにある表によれば、道具主義者側からみれば「知識テーゼを認める」で科学的実在論者と同じ側です。


そして、禅さんの立場は明らかに、科学的実在論のページにある、下から三段落目の「普通の人間の立場」で、素朴実在論です。


よって、私と死刑囚さんによる科学哲学領域を含む哲学論争には、一旦終止符を打ち、fuka_fukaさんと禅さんの論争に傾注すべきでしょう。死刑囚さんもすでに同意見をお持ちだと思いますが。

* * * *

>fuka_fukaさんと禅さんの議論に関しての、暫定的な見解。

この議論について、fuka_fukaさんは科学的態度として懐疑の重要性について説き、禅さんは人間の同一化作用、つまり「何故、最終的に疑いが中断され、人は(見たもの・聞いたもの)そのものが、その通りのものとしてあると信じるのか」ということを問題にしているように思います。

おもに、(本人が気付かずにいい所をついてますが)この問題に係わる話ではないかと。(テセウスの船)
つまり、「実際にあるもの」が対象となろうが、「ありえないもの」が対象になろうが、「何かわからない不思議なもの」が対象になろうが、問題は「懐疑をどの段階で中断し、その対象を自分が思っているものであると断定するか」もしくは、「日常生活において、何故、断定しながら生きているのか」。


ただ、禅さんの最初の「分からないとすべき」という主張については疑問です。「霊の有無」や「科学」の問題ではなく、論理上の誤謬であるように思います。これから検討してみます。


いろいろと考えてまとめてから、レスします。

>No.127 お〜い紅茶さん

いまいち、よく分からなかったので、まず私の立場を説明します。

そうですか…。
私の説明がまずく、更に誤解を深めてしまったようですね。

よく見れば、元エントリで

「信じる」という「コトバ」に還元される ( 「コトバ」を加えただけです)

と仰っていたのはお〜い紅茶さんではなく、ぐら虫さんでした。(お〜い紅茶さんが仰ったものだと、勘違いしておりましたorz)

とりあえず、私の説明のどの辺りが特にまずかったのか、(ひょっとすると、論理式に誤りが…?)、もしかしたらぐら虫さんからなら、どこの説明がまずかったのかご指摘可能でしょうか…。

私の取っている観念論(独我論)の立場は、ミョ〜な宗教観から来ている仮説ではなく、科学的態度の基礎になる懐疑主義をとことんまで突き詰めた挙句、「全ての物の存在」や「理性」まで疑った結果です。

それは、承知しています。

素人がかじっただけですが、No.99で方法的懐疑や独我論について触れている件だけでも、私がそのような誤解をしていないだろうことは、ご存知だろうと思っていましたが。

お〜い紅茶さんが、今回あえて、ミョ〜な宗教観ではないと私に断らねばならないような誤解を、私は与えてしまったという事なのでしょうか?
そこまでの誤解を与える程、まずい説明をしたつもりはありませんでした。
いずれにせよ、もうコメントは不要との事のようですので、この件はこれで最後に致します。

確かに、私はカントの『純粋理性批判』については精査して読んだ事はなく、高校時代に「倫理学(実質的には西洋哲学史の赴きでしたが)」にて、「啓蒙思想とドイツ観念論」の項で、概要程度でさらっと習った程度です。デカルトの方法的懐疑については、高校と大学一年のゼミで習った程度ですが、哲学と科学が分離していなかった時代の話は興味深かったです。

さらに言えば、素朴観念論なるものがあるとしたら、それに対しても特別な偏見はありません。

素朴実在論の世界観と同様に、素朴な「観念論の世界観」を覚えた(?)事がある人もいらっしゃるのではないかと思っていたからです。

高校受験の模試の国語テストですが(苦笑)、何度か、「幼い頃に独我論を抱いた少年の話」が出ていました(しかも、タイトル失念orz)。
私自身も、2〜3歳の頃に、家の庭先でとても綺麗な夕焼け空を見た時、この夕焼け空と私しかいないような気持ちに襲われ、「この綺麗な夕焼け空は、私が見ていない時には果たして在るのだろうか?」という疑問を持ったことがあります。
この奇妙な感覚を、隣で植物に水遣りをしていた母親に何とか伝えようとしたのですが、「そうねぇ、とても綺麗な夕焼けねぇ」と同意してくれましたが、私が思った疑問を結局伝えられませんでした。

そして、母も「綺麗な夕焼け」と言っているが、果たして私が見た「綺麗な夕焼け」と母が見た「綺麗な夕焼け」は同じように見えているのだろうか?という疑問も生れました。結局、私の見た夕焼けは、私の認識の中にしか存在しないのではないかと。

小学生の頃、とても仲の良い友達と喋っている時に、「同じ言葉(記号)を使っていても、その指し示す対象が、私と友達の間で同じとは限らないんじゃないか?そしてそれを確かめる術がない対象もあるのではないか?」という疑問が湧きました。
その時、まさに「私、分った(Eureka)!」と言って、一生懸命友達に説明しようとしましたが、伝わらず、「何変なこといってるの?同じでしょ」と笑われただけで、やはり上手く行きませんでした。それ以来暫くずっと、その疑問について、他の人には話さなくなりました。

社会人になってから、何気ない話をしている時に、哲学をやっていたという友人から唐突に、「死刑囚には現象学が合っていると思う。絶対気に入ると思うので読んでみて」と言われ、半ば強制的に(笑)現象学の本を2冊を借りて読むことになりました。フッサール等について概説されていたように記憶しています。
フッサール等も高校時代に既にさらっと習っていたせいか、それ程目新しくは感じませんでしたが、こういう事をやっている分野もあるんだな〜と思った次第です。(単に、私の理解が乏しかっただけかもしれませんが)。

それがキッカケで、本屋の哲学書のコーナーに初めて足を運び、記号論の存在を知った時には、このように突き詰めて考えていた人達がいたのか…と感動しました。もっとも、私はそれ以上突き詰めようとしたり、精査して読んだりはしませんでしたが。(「記号論入門」という本を読んだのですが、あれは入門書ではなかったように思います^^;)

その一方で、私は「科学」と呼ばれる研究についても興味があるので、道具主義の立場から「とりあえず、役に立つものを作ってみますよ」と頑張る人達の方に惹かれました。
ゆえに、未承認のコメントとNo.121にて「科学的実在論に疑念を抱いており、また、道具主義の立場の方に影響されています」という言い方をしていた次第です。
* * *

一般的な「科学vsエセ科学」の論争という、「科学的実在論」の範疇で語るべき話に、その前提である「独立性テーゼの承認」自体を否定しかねない立場として介入してしまったことです。

上記文章の前半の箇所で仰っている事は、私には、よく分りませんでした。
だんだん理解に近づいたと思っていたのに、No.127のコメントから、急に、何を仰っているのかが分らなくなってしまいました…。

1.一般的な「科学vsエセ科学」の論争が、元エントリで展開されていましたっけ?少なくとも私は、疑似科学に関する論争があったとは気づきませんでしたが…。

2.一般的な「科学vsエセ科学」の論争には、非「科学的実在論」の立場からは話すべきではない、というお考えだと読めてしまいますが、そうだとすれば謎でした。
まぁ、【一般的な】という部分がポイントで、お〜い紅茶さんが【一般的な】に含めておられる範疇次第になるのでしょうが。

なお、私(独我論)を科学的実在論者と死刑囚さんが見間違えたのは、当然だと思います。上記科学的実在論のページにある表によれば、道具主義者側からみれば「知識テーゼを認める」で科学的実在論者と同じ側です。

「知識テーゼを認める」だけでは、当然という程でもないように思いますが…。

少なくとも、私が誤解してしまった件は、それが理由でない事は確かです。
なぜなら、そもそも、私が誤解した時点では、お〜い紅茶さんが、「知識テーゼを認める」(以下※によれば、「世界に存在するものや、それを統べる秩序について、私達は正しく知ることができるはずだ」という主張)をされているとは、知りませんでしたから。

お〜い紅茶さんが「社会構成主義者」(社会構築主義と呼ぶのは社会学の中においてのようですね。)かもしれないと気づいたのは、誤解した時点より、後(本エントリのNo.102)での事です。

なお、※は、ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC(h抜き)からの引用でしょうか?
「独立性のテーゼ」「知識のテーゼ」という用語を用いて、科学的実在論、道具主義、観念論を分類しているのは、判り易いですが、私の知っている「道具主義」の立場では

私が誤解した理由は、

1.私が、禅さんを、(無自覚かもしれないが)非実在論者か道具主義者を選んでいるようだと考えたこと(誤解だったかもしれませんが)

2.その禅さんに対して「観察の理論負荷性」という議論を持ちかけられたこと。これは、実在論者が道具主義者に対して、反駁材料にすることがある議論であったこと。

以上2点が主な理由です。

ちなみに、(科学哲学でいう)道具主義者の概念も同じで、(一般哲学用語としての)実在論の範疇、すなわち「独立性テーゼを認める」に入りますが、今回の議論にはオーバースペックになると思います。

これについても、「今回の議論」とは何についての議論かよく分りませんでした。
もし「今回の議論」とは(一般哲学用語としての)実在論vs(一般哲学用語としての)非実在論についての議論を指すならば、私はそのような議論をしていたつもりではありませんでした。
科学的な姿勢についての話だと思っていたので、つい断りも無く「科学的実在論」のことだと思っていましたが、先に述べておくべきでした。
この点について不適切であったことは、以前にも述べた通りです。申し訳ございませんでした。
なお、もし「今回の議論」が、先に仰っていた“一般的な「科学vsエセ科学」の論争”の事だとすれば、先にも書いた通り【一般的な】の範疇次第だと思います。

誤解されたままなのは気持ち悪いので書きましたが、

よって、私と死刑囚さんによる科学哲学領域を含む哲学論争には、一旦終止符を打ち、fuka_fukaさんと禅さんの論争に傾注すべきでしょう。死刑囚さんもすでに同意見をお持ちだと思いますが。

に同意見ですので、無理にご回答を求めるものではありません。
一つ、科学哲学領域を含む哲学論争などは、私がもっとも避けたいものであったことを改めて付記しておきます…orz

ではでは。

No.128に、文章が切れていた所がありました。
独り言のようになっていたので、入れるかどうか迷っていたのですが…。
切れてしまったままなのも何なので、お目汚しですが、続きを貼付しておきます。

* * *

「独立性のテーゼ」「知識のテーゼ」という用語を用いて、科学的実在論、道具主義、観念論を分類しているのは、判り易いですが、私の知っている「道具主義」の立場では…

* * *

以下続きです。

* * *

…独立性のテーゼ(人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があるはずだという主張)を承認するか否かと問われた時、下記の2つの違いを意識するように思います。

1.「現象の奥に存在する法則は私達が見出す前から存在する」という主張を承認するか、否か

2.「法則は現象には直接表れないが、実在世界の隠れた構造の中にある」という主張を承認するか、否か

(なお、上記1,2はNo.121で書いた科学的実在論の主張です。)

独立性のテーゼ(人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があるはずだという主張)について、もっと調べて見たら、スッキリするのかもしれません。
時間のある時にでも、「科学哲学の冒険:サイエンスの目的と方法をさぐる」 (戸田山和久  日本放送出版協会)を読んでみようと思います。こちらの書評でも、なかなか評判が良いようですしね(^^)

お〜い紅茶さん

ただ、禅さんの最初の「分からないとすべき」という主張については疑問です。「霊の有無」や「科学」の問題ではなく、論理上の誤謬であるように思います。


ええと、何度も同じ事を書いていますが、「ある・ない」は、客観的な判断。「信じる・信じない」は、主観的な選択だと思ってます。

だから、

まあ、そんな訳で、科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。
証明出来ないなら、「分からない」でしょうねえ。逆に言うと、「霊魂は存在しない」という結論を出すなら、存在しない証明が必要になってくるんですね。

と書きました。

この場合、霊魂で話をしますが、「ある」も「ない」も、証明出来ないならぼくの場合は、「分からない」です。で、霊魂を「信じるか・信じないか」と聞かれたら、信じるべき合理性も希望もないので、今の所は「信じない」です。

「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。

ぼくの脳細胞は主体であって、主観じゃないです。また、客観的に考えなければ、理解不能な物もあります。勿論、「客観的に考えること」を主観的にとらえる事も出来ますが、同様に主観的に考える事を客観的にとらえることも出来ます。

主観的に見て客観だと思っているだけで、実は主観的だった事に10年後に気が付く事もあります。まあ「的」ですから、どうとでもなる話ですし、「客観で考える」事など出来ないのではないかと思います。

有名なクイズがありますね。
「誰一人いない山の中で木が倒れた。音はしたか?しなかったか?」

答えはないです。もっとも、「音」の意味をほじくり返しても、それなりの答えは出せますが、それでは面白くないです。「誰もいない山の中」をどう主観的に考える事が出来るんでしょうか?客観的な事象を主観的に考える事の方は、不自然だと言いたい訳です。

「〜がある」とか「〜を信じる」と、無意識のうちに客観的と主観的世界を混同するのは何故なのか?

霊魂や霊体を信じますか?なんていう質問は、以前も書きましたが、人生観とか世界観みたいなもので、答えようによっては客観的世界にもなるし、主観的な哲学の話にもなるでしょう。男と女の間に、友情は成立するか?みたいな問いと同じだと思っています。

主観と客観の境界線なんかいい加減なもので、ぼくは客観的認識として知覚を取り上げましたが、目に見えている通りの世界が本当に実在するのか、とか考え出したら再現がないです。追求していけば、デカルトみたいになっていくんでしょう。

で、最初に戻るんですが、

ぼくの目の前に、霊体みたいなものが出現して、朝から晩まで居たら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だって居るじゃん、になってしまいます。

だから、ぼくの例え話は、「霊体みたいなもの」だろうが、

「実際にあるもの」が対象となろうが、「ありえないもの」が対象になろうが、「何かわからない不思議なもの」が対象になろうが

(お〜い紅茶さん)

何でもいいという事なんですが、ご理解頂けましたか?ここに、ずーーーっと引っかかっていたようなので。

>死刑囚さんへ

だいぶ、怒らせてしまったような・・・

まず、独我論の平易な説明をしたのは、ROMしている人を念頭に置いたものです。前回「仏教の唯識思想」と言ったので、また独我論が一見突飛な世界観なので、「変な宗教にはまっている人なんじゃないかなぁ〜」と思われないためです。私が前回、死刑囚さんをオカルティストと勘違いしたように。匿名掲示板では相手の背景が全く分からないから、トンデモない勘違いが起こるものです。死刑囚さんにしてみれば「んなこと、分かってるわい!!」とのお怒り、ごもっともなことだと思います。

次に、No.121コメントに【お〜い紅茶さんにとっては実在論者の「xは実在するか、否か」という問いは、偽問題であるだけでしょう。】との一文がありますので、私が自分で分かっている以上に、私の持論に理解があるものと分かります。【いまいち、よく分からなかった】のは、私の方が(科学哲学における)道具主義者の立場がどのようなものか分からなかったからです。にもかかわらず、ウィキペディアの分類を見ただけで、分かったつもりになって、科学哲学について語ってしまったのが、さらに混乱を招いた原因でしょう。ゴメンナサイ・・・m(_ _)m

「科学vsエセ科学」についてですが、本ブログでは過去エントリにて、何回か語られています。私は、今回もこの枠組みで語られているものと思いました。少なくともfuka_fukaさんにおかれましては、この枠組みで語られているものと勝手にお見受けしておりました。

ところで、一般論として言えば、人は自分に近づけて対象を理解します。「下衆の勘ぐり」などは、その典型例でしょう。その逆もあるのです。分かっている人間には、分かっていない人間が理解できないものです。また、職場でも大変なのは、だらしのないスキのある上司よりも、バリバリと仕事ができて、部下も自分と同じように仕事を処理できるものだと思い込んで、難しい仕事を大量に渡してくる人でしょう。少なくとも、私には死刑囚さんのような知見もありませんし、まじめに勉強をしてきた経緯もありません。哲学系(私は哲学科印度哲学専攻ではなく印度哲学科です)の学生なんて、酒飲んでテキトーにくだまいている人間の集まりです。(私の周りでは、ほぼ) 死刑囚さんの読んだ・知っているというのと、私の知っているというのでは、雲泥の差でしょう。もちろん、私が泥です。

ですが、私も傲慢です。自分には、(日本語で書いてあれば)分からない知識はないと思っています。(分からない場合は、その説明が悪く、他のを見れば分かる)
今回のすれ違いは、私の科学哲学に対する知見のなさが原因です。これまでも紹介されていますが、(以前のも含めて)改めまして初学者向けのまとまった基本書を、ご紹介いただければと存じます。「これを読んでおけば、私(死刑囚)と話がすれ違うこともないだろう」というものです。購入して、読み込んでおきます。それからでなければ、死刑囚さんと議論できないでしょう。宜しくお願いします。


P.S.
話は変わりますが、禅さんの疑問点についてはどのように考えますか?
何か、禅さんが納得されるような回答を、ぜひとも死刑囚さんの方からもコメントして頂きたいと思っています。

>No.128 死刑囚さんへ

追記です。

【一般的な「科学vsエセ科学」の論争】は、fuka_fukaさんと禅さんの論争を指します。【今回の議論にはオーバースペックになる】の【今回の議論】も、fuka_fukaさんと禅さんの論争を指します。

ただし、これは私が禅さんの問題意識を、見誤っていることが原因かも知れません。そして、(死刑囚さんのいう)道具主義者の立場をよく知らないことも原因です。少なくとも、禅さんの疑問が最初の知覚についての問題ではないことは分かりました。したがって、禅さんの立場はエセ科学の問題ではないと思われます。

ちなみに私は、禅さんの疑問はテセウスの船で示した「同一性」に係わる人間の思考に関する問題ではないかと、今の段階で捉えています。
そして、それに対して私は、「思考の省力化」(すいません、あいまいです)で説明しようと思いました。つまり、対象を自分の思っている物として同定しているのは日常的に行われているのであって、それがなければ生きていけない。そもそも、同じものなど二つとないし、一つのものとて日々刻一刻と変化している。それを人は同じものとして捉え、外界の膨大な情報を処理して生きている。そもそも、概念化(カテゴライズ)とは、差異を無視して一つの集合に丸めることだ。そして、決断・行動する時に、人は最終的に0か100に丸めている。これは、人が生きるための機能であると。

この考えは、どうでしょうか?

No.128 死刑囚さん

さすがに私が入るとややこしくなるかも知れないので、どこまで入ればいいのか迷いますが全体の感想を主に。

ここで問題になっていることは、「認識論」(どういう認識論なのか?)そして、(主観と客観に関係する)外部世界(自分の身体も含めて意識の外にあるもの)を認めるか、どうかのことだと考えます。

ひとり一人の「認識論」を考えるのは難しいので昨日読んだ【認識論のモンダイ】 (西條剛央)というのはどうでしょうか。 私も認識論は根本仮説と考えています。

外部世界を認めるかどうかを死刑囚さんがどう考えているのか、読んでいて分からなかった所です。私は外部世界を認めない立場ですが、普通にメシ食って生活し、前から車がくれば避けるのであくまで考え方としてです。

「どこの説明がまずかったのかご指摘可能でしょうか」

私は哲学書自体は、あまり(ほとんど)読んでいなくて 10年以上前に古本屋で買ったヘーゲルの『哲学入門』(旧字体と知らずに買ったために全く読めず)が最後です。だから解説のそのまた解説くらいを読んでいます。しかし、なだいなだ氏の影響で「哲学する」ことは好きなので勝手に哲学 しています。

「どこの説明がまずかったのか 」のかを書ける知識は私にはないので、具体的なことを書けないのが 残念な所なのですが、禅さんの考え方に対する死刑囚さんの考えや立場が明確ではなかったことに原因があるのかも知れません。あくまで私の感想です。


【ひとり言】

(昭和かれすすき♪)センドウ(煽動)にマケタァ〜、いいえ「世間」に負けたぁ〜。
心境を聞かれたら、「アホらしやの鐘がなる」と言っています。

>死刑囚さんへ

No.121 死刑囚さんのコメント

しかし、実は、お〜い紅茶さんにとっては実在論者の「xは実在するか、否か」という問いは、偽問題であるだけでしょう。
その事には、実在論者は気づかない。だから、実在論vs非実在論を巡る議論を回避できる。
・・・というカラクリなんだろうと思っていました。
だから、お〜い紅茶さんが、実在論者に対して『「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。』と仰ってしまえば、カラクリを明かしてしまう事になるだろうと思っていました。すなわち、避けた筈の議論に、なぜか再び参加することになるのではないかと。

禅さんのNo.130コメント(禅さん、すいません)を見て、死刑囚さんの言っている意味が分かりました。私自身が「ないと信じる」という主張が、世界観と弁証上の立場という二重性を持っていることに無頓着で、「信じる」に対しては「信じる」で対抗され、早期に平衡状態が保たれ、対象議論の連鎖から抜け出せるだろうと簡単に思っていたのが原因です。

そして、以下の取り違えが、問題を複雑にしました。

1.(科学的)実在論の意味を、一般的哲学用語の実在論と取り違えていたこと。このことから分かることは、お〜い紅茶にとって、xの存在に関する議論が世界の存在(世界観)と知識観の二つに立脚していることに気付いていない。
2.道具主義については、一般的哲学用語として取り違えても、あながち間違いではなく、「観測手法はブラックボックスでもかまわない」という主張が道具主義者から科学的実在論者に対してなされる。


(以下、ざーっとググッただけですので、検討違いも有るかもしれません)

道具主義者にとって、知識は現象が現象に対応していることを予測し得ているだけで、解釈は人間が勝手につけているものに過ぎない。しかし、fuka_fukaさん・お〜い紅茶にとっては、そのような自分が承認している理論的説明(Critical Thinkingも含む)が偽問題に過ぎないということが理解されない。前者は世界が実在するという前提において秩序を信じ、後者は世界が理性の産物に過ぎないとする立場において。(ここら辺にはNo.129が反映されていないかもしれません。お許しを)

そして、説明せずに結果を予測する(科学的)手法の最たるものは統計的手法であるが、現象から現象を対応させるための観察の問題に対して、科学的実在論者から「観察の理論負荷性」が説かれることがある。また、道具主義者の解釈の多義性に関する疑義について、科学的実在論者からオッカムの剃刀が提起されることがある。

また、お〜い紅茶が禅さんの問題意識ではないかとした「同一性」に対する「思考の省力化」という回答は、道具主義の知識観に関する端緒的な要素を含む。


要するに、この議論(fuka_fukaさん・お〜い紅茶※vs禅さん)に関して、それぞれが自分の持論の立脚する世界観・知識観に対して無自覚(無意識的)であった。しかし、考え方として立脚しているので、それぞれの分類される立場の主張を相手への反駁の論旨として使う。

※前回の時点で、禅さんの疑問が道具主義者としての立場の端緒的要素を持っていることが分からず、自分は別次元にいると思って、含めていなかった。

そこから、死刑囚さんがこの議論の内包する課題を見抜き、科学哲学の知見を使い、見解を述べた。そして「めんどくさいのに、よくやるよ」と。


上記のような考えから、死刑囚さんが道具主義者の概念を持ち出してきたのは妥当であり、私のオーバースペックとの批判は失当でした。自分のしている議論に対して無自覚でした。


こんな感じなんですけど、いかがでしょうか? まぁ、科学哲学の基本書を読んでみないとわかりませんが。

>No.133 ぐら虫さん

どうしたらよいか分らなくなり、(甘えているかもしれないと思いつつ、)ぐら虫さんにアドバイスを求めてしまいました。
お返事、感謝致しますm(_ _)m

リンク先を拝見致しましたが、社会構成主義の観点から、他の根本仮説(立場?パラダイム?)をどう見るかを、改めて確認するのに役立ちました。

とりあえず、リンク先の言葉を借りれば『世界を進化プロセスとして捉える「進化論的認識論」』をベースにした研究に、今、関心を寄せています。(No.103後段の通り)

以下は、私個人の考えに過ぎませんが、進化学(進化学的認識論という根本仮説)をベースにモデル(仮説)作り、そのモデルを用いて現象を予測・統御することに成功したら、単に当該根本仮説上での成功に留まらず、当該根本仮説に同意しない人にとっても有用なモデルとなるのではないかと考えていました。

そして、そのような成功が積み重なればなる程、当該根本仮説が確からしいという事が言える、…のかどうか?この辺りを、私は判断出来ずにいます。
(おそらく、確認したこともまた、「『信じる』に還元される」or「『信じる』というコトバに還元される」等とみなすならば、根本仮説が確かめられた事にはならないという意見もあるのだろうと思います。これについて、私は判断しかねています。)

※以上は、特に本などから引用して書いている訳ではありませんので、用語に不適切な所があるだろうと思いますが、ご容赦を…。

* * *

外部世界を認めるかどうかを死刑囚さんがどう考えているのか、読んでいて分からなかった所です。

的確なご指摘を頂きました。「分からない」のは道理なのです。
「外部世界を認めるか」という問いについて、子供の頃素朴観念論の世界を感じてからずっと、逡巡として来ました。そして、まだ確固とした私なりの答えを見出せずにいます。
「外部世界」について調べるために、ちょっと検索したところ、たまたまラッセルについて書かれたページを発見しました。
観念論に反逆を起こしたと言われるラッセルは、最後まで直観主義や構造主義の論理学にほとんど関心を示さなかったので、晩年においてもある意味実在論者だったのだろうという事が書かれていました。単に以上からの憶測に過ぎないのですが、私は論理学で、直感主義の項になると、なかなか読み進められず止まってしまうので、やはり私も実在論者なのかもしれません。
その一方で、素朴「観念論の世界」を鮮烈に感じた事があるので、決めかねているのだろうと思います。
少し自分を分析が出来たように思います。有り難うございます。

* * * * *
という事で、科学哲学談義をすると、いずれは上記判断を求められる場面に行き当たる可能性もあると思い、避けて通っていました。(というか、一度、知らないうちに巻き込まれて、エライ目に合ったことがあるので…。)
議論に参加したくない理由のもう一つは、科学的研究の業績の変遷を追いかけ切れていないので、比較的最近生まれたと思われる(科学哲学の)「道具主義」という立場(私が知人から影響を受けている立場)についてもちゃんと理解できていないだろうという自覚があるからです。これは、謙遜でもなければ、エクスキューズでもなく、ただの事実として述べているだけです。
(私が今回議論に巻き込まれたように見えても、)私がコメントした内容は、それぞれの方が何を仰ろうとしているのか、私以外の議論者同士の話で、何がポイントになっているのかについて推測し、意見を述べるまでに留めていました。(批判でも反駁でもない。ただの交通整理のつもりでした。)
そのような私の立場が伝わっていないように思ったので、「誤解されているように思う」と何度も言っておりました。

* * *

もし、話し相手と拠って立つ根本仮説が異なる場合は、これを自覚していないと、大抵ヒドイ物別れに終わるだろうと思っていたので、これから科学哲学談義に参加しようとする人を見かけると「回避できるなら、止めた方がいいのに」と内心思うことがあります。今回、お〜い紅茶さんが、爽快なまでにさらっと話を回避したのに、再び自ら参加されているように私には見えましたので、疑問を抱き、つい「止めた方が良いのでは?」と口出しして、余計なお節介をしてしまいました。「長く続けるつもりはないのかもしれませんが」と書いたのも、老婆心から、暗に「長く続けて、厄介な問題(根本仮説の対立)にまで議論が及んだら大変ですよ。その覚悟はあるのでしょうか…?(あるならば、何も言いませんが。)」という事を伝えるためでした。
議論参加者が、お〜い紅茶さんと禅さんという、普段から論旨明快なコメントをされる方で、かつ誠実な方だろうとお見受けしたお2人だったので、そのようなひどい事態にはならないと思い、「敢えて止めない」とも書きました。(お二人がどのような議論を展開するのかに少し好奇心も湧いてしまったもので…。)

* * *
相変わらず、冗長な文章になりましたが、すみません。
でも、お陰様で、改めて自分の考えを整理するのに役立ちました。本当に有り難うございましたm(_ _)m

申し訳ありませんが、No.135に訂正箇所がありました。
×統御 → ○制御
×直感主義 → ○直観主義

* * *
>No.131 お〜い紅茶さん

>だいぶ、怒らせてしまったような・・・
と思わせてしまったのならば、私の不徳の至りでしょう…。

「仏教の唯識思想」については、「変な宗教にはまっている人なんじゃないかなぁ〜」という偏見を持つ日本人ROM者は少ないだろうと思い込んでいたので (特に、私、弓道部員でしたので、気づかないうちに禅の思想にも馴染みを感じているのかもしれません^^;)、当該部分も私宛のコメントだと思っておりました。しかし、当方の勘違いだったとのこと、了解しました。

今回は、特にお〜い紅茶さんと同一の立場を取らないまでも、親近感を感じてはいるので(←これは迎合の類ではないことは、No.128で書いた通り。ROM者向けに念為。)、予想外にも「反駁」「批判」等と言われてしまうと、どうにも淋しい気持ちになっていた所に、ついにトドメが刺されたのかと思ってしまいました。
「ち、違うんです!(涙目w)」と言うために、自分の素朴観念論の変遷を赤裸々に暴露してしまいましたが、(当方の勘違いに過ぎなかったようなので)早まりました…orzぁぁぁ゛

お〜い紅茶さんが「論駁」「批判」等と私のコメントに対して仰る度に、私が「誤解されているように思う」と書いてきたのは、上記ぐら虫さんへのコメントで書かせて頂いた通りです。
話が進むにつれ、私にはこの部分が、議論の内容自体よりも大事になっていました。

(どうも、良かれ悪しかれ、私は論争に参加することはあまり好まない性格のようです。勿論、言いたい(言わねば)と思った時には、言うのですが…。
なお、同じ目的を持った上での議論ならば好きですが、それは「論争」というより「対話」というニュアンスになるだろうと思っています。)

* * *

科学哲学の基本書として、私が持っているのは元エントリNo.30で紹介した世界思想社 「科学哲学入門―科学の方法・科学の目的」 内井惣七著 だけです。
入門とはありますが、科学的研究の変遷を理解しないと分らないように思いますので、私には難しい点が沢山あるのでした…。
道具主義について議論できるような「答え」や「見解」を持ってはいません。
このことは、以前にも『「逃げ出す所だ」と書いたのは、余計な軋轢を避けるべきだと判断したというより、科学哲学談義をするには、自分の理解に自信がないからです。(元エントリNo.51)』等でも述べた通りです。

* * *

それにも関わらず、なぜ「科学哲学の冒険:サイエンスの目的と方法をさぐる」 戸田山和久  日本放送出版協会)の分類の独立性のテーゼの所で「スッキリしない」と、あれこれ思い巡らせて独り言を書いていたのかと言えば、私の敬愛する進化論者(以前こちらでちらっと書いた、道具主義者の方で、「心の師匠」ですw)がお話されていた事と矛盾する点があるように思ったからでした。

本よりも、彼から影響を受けていると思います。(内井氏の授業を受けていらっしゃる可能性がありますが同一意見かどうかは分りません。仮に同一意見でなくとも、科哲専門の方ではないので、特に追及していないかもしれません。)

道具主義者が、「現象と現象の間の相互作用」や「個体と環境の相互作用」のモデルを作り、そのモデルを使って、現象を予測・制御しようと試みる際、実在世界を認めることが前提となっているのかどうか、私にはよく判りませんでした。(頭がショートして、思考停止していしまいます…。)

上掲の本では、No.121で書いたように、「われわれの観察にかかるのは、過去であれ未来であれ現象だけであるから、科学理論の目的は現象の間の関係を組織化し、観測結果に合う計算や予測ができる概念的な体系を作ることに尽きる」という立場を道具主義であると説明していますが、これだけでは、独立性のテーゼを承認しているのか否かが分りませんでした。
その説明の後に続けて、「現象の実在性を認め、現象に還元できないような理論的対象の存在を認めないという形の主張になれば、現象主義と呼ばれることもある」と書かれているのですが、「現象の実在性ってなんだろ〜?」と…(@@;もっと読み込めば分るのかもしれませんが、とりあえず、他の著者の本も併せて読んだ方がベターかもしれません。

一度だけ、「心の師匠w」とも科学哲学談義をした事があるのですが、実在世界について述べる事は回避され、「実在すると信じる行為を、進化学をベースに読み解こう」とされていました。ゆえに、道具主義者の方は、実在や外部世界については、判断を保留にしているのだろうと思っていましたが、それが単なる思い込みである可能性がある事に、今回の件で気づきました…!
もしかしたら、「心の師匠w」は、私とその話をする事を避けただけである可能性があるかもしれません…。

私にとって話がややこしく感じたのは、道具主義者が、進化学をベースに「人間が『xが存在する』と信じる心理的・基礎的な根拠が存在するとしたら、それはなぜ進化したのだろうか?」という問いを研究する場合、独立性テーゼの承認が前提にあるのかどうかという点でした。

しかし、今改めて考えてみると、私が(科学的実在論がその両方承認する)「独立性のテーゼ」と「知識テーゼ」とを分けて考えておらず混同していただけであり、知識テーゼは否定するが、独立性テーゼは承認している事に、お〜い紅茶さんのご指摘のお陰で、やっと気づきました。
進化学をベースにして「自然選択が在る」という事を前提にした問いになりますので、「人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があるはずだ」という主張を承認していることになるのでしょう。つまり、独立性のテーゼを承認している事になります。

ちなみに、(科学哲学でいう)道具主義者の概念も同じで、(一般哲学用語としての)実在論の範疇、すなわち「独立性テーゼを認める」に入ります(以下略)(No.127 お〜い紅茶さんのコメント)

ゆえに、この件は、仰る通りになるのでしょう。
そして、道具主義者の影響を受けながら、観念論にシンパシーを覚えるという矛盾した私の立場が、コメントに述べずとも文章に滲み出ていたのかもしれません。そのため、いらぬ混乱をさせてしまったものと思います。その点は、誤解というか、理解しづらいのも当然であり、申し訳なかったと思います。

* * *

余談ですが、進化分類学に投げかけられた問題のパロディーがあります。
数年前のものですが、色々検索していたら、偶然再び発見しましたので、載せておきます。面白く、考えさせられます。(掲載したのは深い意味はありません。念為。)
さらば「島」概念

* * *

2.道具主義については、一般的哲学用語として取り違えても、あながち間違いではなく、「観測手法はブラックボックスでもかまわない」という主張が道具主義者から科学的実在論者に対してなされる。

道具主義者が「観測手法はブラックボックスでも構わない」という主張をしているのは、単に私が見たことがなかったというだけかもしれませんね。
正直、(科学者である)道具主義者はそんな事言わんだろうと思っていただけなのですが、どこかで誰かが言っていないとは限りませんね…。

* * *
散漫になり、すみません。
改めて避けていたい問題に向き合う契機になりましたが、結果として有意義でした。
避けてばかりではいけませんね。
有り難うございます。

全ての点に対してお返事していないと思いますが、改めさせて下さい。
私の頭ではオーバースペック気味の問題に取り組むのに、消耗してしまいました…。

>禅さんへ

お待たせしてしまって、申し訳ありません。私の方でも、考えをいろいろと整理しなければいけなかったもので。

話がすれ違っているので、いくつかの点で確認したいのですが。

まず、禅さんの言う「信じる」についての疑問が、「そこに在るものを、自分が考えている通りのものであると認識する」ことについての疑問なのか、必ずしも自分に勝算のある行動や確実でない情報を選択の段階で選ぶのは何故なのか、という疑問のどっちなのか。人間の「信じる」という作用は、認識作用と主体的選択の、二つの領域にかかってくる言葉です。

前者についてなら、fuka_fukaさんの懐疑をstartさせるべきであるとの主旨のコメントや、私の「懐疑は最終的にどの時点でstopするのか」という「同一性」の問題についての話になります。

後者についてなら、私は「希望的観測」や「信じた方が得だから」という安易な回答しかできません。fuka_fukaさんなら心理学的知見で、「人は何故、非合理的決断を下すのか」について、答えられるかもしれません。

ただし、「信じる」という行為について、後者しか思い浮かべていないとしたら、やはり自分の認識作用について無自覚であり、fuka_fukaさんの懐疑をstartさせるべきであるとの指摘が、当てはまります。

「目の前にものがある」ということは、「そこに在るものを、自分が考えている通りのものであると認識している」ということで、「思い込む=信じる」と不可分だからです。禅さんが「そんなことは、分かっている。自分の疑問点とは別だから、とりあえず(自動的に)肯定しただけだ」というのなら、指摘は不必要ですが。

*この「認識」の部分での私のこれまでの反論(特に主観と客観の問題)は、一旦棚上げしといて下さい。私が『全ての物の実在は、究極的には「存在するとは何か」という問いが切り離せず、証明できないのだから、仮説として取り扱うべき』という立場(日常的に考えている訳ではない)を取っていることを忘れていました。


次に、もう一つの論点に移ります。(fuka_fukaさんと禅さんの議論の始発点)
No.22 禅さんのコメント

科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。証明出来ないなら、「分からない」でしょうねえ。

という主張は、次の内のどれに当てはまりますか? それが、こちらに取り違われていると、話がすれ違ってしまうので。

A1 霊魂が存在するという科学的証明(=理論的説明)ができないなら、霊魂が存在しないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。

A2 霊魂とみなされる現象が霊魂であると科学的証明(=理論的説明)ができないなら、霊魂とみなされる現象を霊魂でないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。(A1とほぼ同じですが、一応)

B1 霊魂がyであるという科学的証明(=理論的説明)ができないなら、霊魂が存在しないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。

B2 霊魂とみなされる現象がyであると科学的証明(=理論的説明)ができないなら、霊魂とみなされる現象を霊魂でないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。


すいません、一旦ここまでで、お願いします。


>死刑囚さんへ

私がネットをざーっと見た限りでは、道具主義者の立場は、

C x現象をyであるとする科学的証明(=理論的説明)ができても、x現象がzであるとの仮説は排除されるべきではなく、分からないとすべき。

というように思えます。これは、道具主義者の「たまたま科学理論の説明は、うまく予測し得ているに過ぎず、理論が観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在についての真なる記述になっているとは言えない」という主張を基に構成しました。

そして、これは「現象の理論説明そのものに対する信頼度への疑義」という厳密さに起因するものであり、そのような厳密さから「観察不可能な対象について語ることは形而上学の役割であると考え、科学の仕事ではない」と排除します。

つまり、霊魂の有無という問題については適用できない立場だと考えます。また、道具主義的考えの最たるものは統計法だと思いますが、観察できないものに「分からないとすべき」という推定は成り立たないのではないでしょうか。そもそも、推定の条件がない。

また、禅さんはNo.22コメントで【100%間違いないというレベルまで到達して、科学的証明がなされたとなるんでしょう。】としており、とても道具主義者の立場とは思えません。しかし、これは道具主義者の概念がオーバースペックであるとの意見ではありません。何故なら、道具主義者(死刑囚さん)が議論の場にいて、「科学とは何か?」という問題も絡むのですから。


主婦業が忙しいと思いますので、暇な時にコメント下さい。ご紹介の本は、読んでおきます。紹介ありがとうございます。死刑囚さんの既出コメントへのレス(反論ではない)は、あとで。私もオーバースペック気味なので。今、科哲(科学哲学)に垂涎状態です。

No.126 禅さま (またしても遅レスですが・・・)

一応は禅さまの意見・疑問と噛み合わせるようにしていたつもりですが、噛み合わせている部分と、脇道としての私見の開陳との分量比が 前者<後者 になっていたのも、私が話を混乱させてしまっている一因かもしれません。

気を取り直して。

(No.123)
「みかんが実在するかどうか」 が論点となっている状況

それは論点じゃないと言いますか、少なくともぼくは論点にはしていないんです。そういう誤解を招いたかも知れませんが。

すみません、禅さまがそこは検討の対象外とされていることを理解しつつ、あえて強調せずにはおれませんでした。
重複になりますが、私の認識ではその点こそが霊実在/不在を論ずる上では避けて通れないところだったので、ということです。

で、ざっくり私の考えを述べれば、
「死んだ祖母みたいな姿が見える」 という本人にとっての知覚+認識が確実である場合に、それをまず本人が「信じる」か、家族に伝達した場合に家族も「信じる」か、の問題は、先のコメントで触れた 「認知的不協和理論」 でそれなりの説明がつくのではないかと考えてます。
(この点誰からも反応がなかったですが、単に紹介しただけで説明をサボっていたので、改めて)


99%まで客観的な材料で否定出来るにも関わらず、残りの1%で情緒を持ってきて、「お前を信じる」と大逆転するのは何故でしょうか、という事なんです。

その99%による結論が、本人にとって受け入れがたい(不協和)ものであれば、ヒトは不合理であろうと (本人が不合理であることを頭では分かっていようとも)、容易に 「1%のほうを信じる」 という心理状態に傾く傾向がある、というのが認知的不協和理論による説明になるかと思います。

「みかん」 や 「2007年のファイル」 であれば、そこに偽物があるかもしれない、なんてことは思いもよらないので、目の前に見えている 「のようなもの」 が 「みかん」 「2007年のファイル」 の本物であると認識することについて「不協和」が生じることはまずない。
だから、普段の生活でも、目の前にあるものをふつうに本物と扱うことについて誰も「不協和」を生じないのが通常である、と。

一方、「死んだ祖母みたいな姿」 の場合。
本人が霊不在派である場合、「祖母は既に死んでいる」 という認知と、「目の前に祖母の姿が見える」 という認知は矛盾し、不協和が生じます。
その姿が、幻覚や誰かによるトリックなどであれば、「霊不在」という認知と協和しますから、そういう方向で考える方が本人にとって心理的負担が少ない。

これが霊実在派である場合には、「目の前に祖母の霊が現れた」 と考えることこそが、不協和を生じさせない解釈になります。
逆に、幻覚やトリックであるというほうが、不協和を生じさせます。
霊実在派であれば、「私は霊をこの目で見た!」 という経験のほうが価値があるわけですから。


すべて 「認知的不協和」 で片付けようとするとこういうこじつけになる、という程度の話とは思いますが、それなりに説明として理屈は立つのかなあ、と。
お〜い紅茶さま(No.138)が言われる 「希望的観測」 「信じた方がだから」 という説明と、言っている中身はほぼ同じだと思います。

話を戻しますと、
「信じる」 という行為は、「自分が認識した事実の評価を、自分の中の知識や世界観との矛盾が少ない方向へ歪曲すること」 と定義する、という主張をしてみることにします。

その歪曲が、99%を100%とする方向なのか、1%を100%とする方向なのかは、人それぞれ。
99.9999…%であっても100%に「切り上げる」ことをしないのが、科学的態度。
つまり 「安易に信じることを避けること」 とは、 「事実を歪曲しないこと」 と同義。
と、過去の私の主張は言い換え可能です。


いろいろ言ってますが、認知心理学にしても哲学にしても雑学レベルの知識にしか基づいておりませんので、おかしなことを言っているようでしたらツッコんでください>all

>No.139 fuka_fukaさん

【お〜い紅茶さま(No.138)が言われる 「希望的観測」 「信じた方が得だから」 という説明と、言っている中身はほぼ同じだと思います。】

すいません、繰り返させてしまって。
「でも結局、私が言っていることって、認知的不協和理論に行き着くんだよなぁー」と思っていたんですけど、本人が問題の切り分け、もしくは「切り分けるべきでないことを切り分けている」のに無自覚なので、こちらの指摘を「そこじゃないんだよ〜」とスルーしているのかなぁ〜、と思ったもので。

故に、No.138コメントで次のように指摘させていただきました。
【ただし、「信じる」という行為について、後者しか思い浮かべていないとしたら、やはり自分の認識作用について無自覚であり、fuka_fukaさんの懐疑をstartさせるべきであるとの指摘が、当てはまります。】

私は、(一応)分かっていますので、だいじょうぶですよ。「同一性」の問題については、深読みしすぎたようです。

このコメントへのレスは不要です。

>No.138 お〜い紅茶さん

夕方帰宅してから今まで、また爆睡していました〜。
お昼休みに本屋さんで早速、「科学哲学の冒険」戸田山和久 NHKブックスを購入してしまいましたよ(^^)
電車の中で数ページ読んだのすが、対話形式で、かな〜り分り易そうで、期待大です!今まで私達が話していた事も、平易な言葉で整理してくれていそうです♪ワクワクしてしまいます。

* * *

余談:
対話形式で思い出したのですが、もしROM者(いらっしゃればですが…^^:)の方で論理学に興味をお持ちの方がいらっしゃったら、「論理学」野矢茂樹 東京大学出版会がお勧めです。

本著は、「はじめに」の所で書かれているように「専門家となることによって忘れてしまったかもしれない無邪気で野蛮な問いかけ」に答えようとする入門書のようです。また、下記のようにも書かれています。

本書は、文字通り、ずぶの素人のための現代論理学への初めの一歩である。そして、おそらくはこれが終わりの一歩となるだろう読者を想定している。(中略)いわば、現代論理学という不思議の国への、ちょっとハードな観光旅行みたいなものだと思っていただいてよい。ただし、自負をこめて言っておくが、観光のためのガイドブックではない。実地の観光旅行である。

* * *

再び、お〜い紅茶さんへ

取り急ぎですが、下記の点を。

>No.134
>禅さんのNo.130コメント(禅さん、すいません)を見て、死刑囚さんの言っている意味が分かりました

伝わったようで嬉しいです。やっぱり私の説明がまずいようですね。
禅さんのコメントはやはり論旨明快なんですね。(お〜い紅茶さんのコメントも同様で、仰ろうとする意味が伝わり易い文章です。)
その文章力などが私も欲しい…orz

そして、これは「現象の理論説明そのものに対する信頼度への疑義」という厳密さに起因するものであり、そのような厳密さから「観察不可能な対象について語ることは形而上学の役割であると考え、科学の仕事ではない」と排除します。

道具主義をよく理解していないという私が言うのもなんですが、おそらく道具主義の立場は仰る通りだと思います。

そして、もしかしたら、仰る通りだったろう【過去形】と思います。

「上記道具主義の説明が過去の物になりつつある」と考えるのは、道具主義という時、私の念頭にあったのが敬愛する進化論者…すなわち、進化学をベースに、これまで形而上学の領域とされていたお題(倫理、人間の認知、etc)自体にアプローチする研究者であるからです。

また、科学者が、形而上学だと思われる問題に踏み込まざるを得ない事態も発生しているようです。
No.136にリンクした“さらば「島」概念”というパロディーのように、「『種』は実在するのか?そんなのコトバの定義次第では。」という批判に対して、という生物系統学者さんは、(その著作に対する下記書評によると、)「種問題は形而上学的な問題である」なんて仰ってしまっているらしいですが、「なぜ人は分類するのか」といった分類思考を自然科学の研究対象とすることで、乗り越えられるのではないかと示唆されているようです。

書評:ttp://phi.med.gunma-u.ac.jp/bookreview/world-of-tree-thinking.html(h抜き)

※念の為、ここまでの話で私が言いたいのは、科学的姿勢についての話であり、「霊魂」は(私にとっては)少なくとも今の所、どうでもいいのです。道具主義者の影響を受けており、「霊魂」は研究してもあまり実り無いように思っているからです。

* * *
一度に2人の方とお話すると混乱しやすいので、禅さんのコメントに対しては、お2人の話が噛み合うまで、後回しにしようと決めていました。
これから、書きますが、取り急ぎ以下の点だけ。

また、禅さんはNo.22コメントで【100%間違いないというレベルまで到達して、科学的証明がなされたとなるんでしょう。】としており、とても道具主義者の立場とは思えません。

仰る通りだと思います。それは科学実在論の立場だろうと思います。
その点は元エントリNo.54で私も指摘しておりました。

そして、その指摘の後、下記のように続けました。

もっとも、禅さんは上掲の科学観(ミルのような科学観)に疑問を差し挟んでいらっしゃいますので、言わずもがなな事の繰り返しになりました。(恐縮です…。)

科学哲学なんてものを知らなくても、用語を知らなくても、自力で思考しようとすることも出来るだろうと思います。ただ、先人や専門家が上手く整理してくれているのであれば、それを使わせて頂かない手はないと思います。せっかくの分業社会(?)ですしね(^^)。

>主婦業が忙しいと思いますので、暇な時にコメント下さい。
優しいお言葉、ありがとうございます。また改めて。
一緒に考えてくださる方がいて、本当に嬉しいです。

>No.138 お〜い紅茶さん

夕方帰宅してから今まで、また爆睡していました〜。
お昼休みに本屋さんで早速、「科学哲学の冒険」戸田山和久 NHKブックスを購入してしまいましたよ(^^)
電車の中で数ページ読んだのすが、対話形式で、かな〜り分り易そうで、期待大です!今まで私達が話していた事も、平易な言葉で整理してくれていそうです♪ワクワクしてしまいます。

* * *

余談:
対話形式で思い出したのですが、もしROM者(いらっしゃればですが…^^:)の方で論理学に興味をお持ちの方がいらっしゃったら、「論理学」野矢茂樹 東京大学出版会がお勧めです。

本著は、「はじめに」の所で書かれているように「専門家となることによって忘れてしまったかもしれない無邪気で野蛮な問いかけ」に答えようとする入門書のようです。また、下記のようにも書かれています。

本書は、文字通り、ずぶの素人のための現代論理学への初めの一歩である。そして、おそらくはこれが終わりの一歩となるだろう読者を想定している。(中略)いわば、現代論理学という不思議の国への、ちょっとハードな観光旅行みたいなものだと思っていただいてよい。ただし、自負をこめて言っておくが、観光のためのガイドブックではない。実地の観光旅行である。

* * *

再び、お〜い紅茶さんへ

取り急ぎですが、下記の点を。

>No.134
>禅さんのNo.130コメント(禅さん、すいません)を見て、死刑囚さんの言っている意味が分かりました

伝わったようで嬉しいです。やっぱり私の説明がまずいようですね。
禅さんのコメントはやはり論旨明快なんですね。(お〜い紅茶さんのコメントも同様で、仰ろうとする意味が伝わり易い文章です。)
その文章力などが私も欲しい…orz

そして、これは「現象の理論説明そのものに対する信頼度への疑義」という厳密さに起因するものであり、そのような厳密さから「観察不可能な対象について語ることは形而上学の役割であると考え、科学の仕事ではない」と排除します。

道具主義をよく理解していないという私が言うのもなんですが、おそらく道具主義の立場は仰る通りだと思います。

そして、もしかしたら、仰る通りだったろう【過去形】と思います。

「上記道具主義の説明が過去の物になりつつある」と考えるのは、道具主義という時、私の念頭にあったのが敬愛する進化論者であり、同氏が進化学をベースに、これまで形而上学の領域とされていたお題(倫理、人間の認知、etc)自体にアプローチする研究者であるからです。

また、科学者が、形而上学だと思われる問題に踏み込まざるを得ない事態も発生しているようです。
No.136にリンクした“さらば「島」概念”というパロディーのように、「『種』は実在するのか?そんなのコトバの定義次第では。」という批判に対して、三中信宏氏という生物系統学者さんは、(その著作に対する下記書評によると、)「種問題は形而上学的な問題である」なんて仰ってしまっているらしいですが、「なぜ人は分類するのか」といった分類思考を自然科学の研究対象とすることで、乗り越えられるのではないかと示唆されているようです。

書評:ttp://phi.med.gunma-u.ac.jp/bookreview/world-of-tree-thinking.html(h抜き)

※念の為、ここまでの話で私が言いたいのは、科学的姿勢についての話であり、「霊魂」は私にとっては、少なくとも今の所、どうでもいいのでした。道具主義者の影響を受けており、「霊魂」は研究してもあまり実り無いように思っているからです。

* * *
一度に2人の方とお話すると混乱しやすいので、禅さんのコメントに対しては、お2人の話が噛み合うまで、後回しにしようと決めていました。
これから、書きますが、取り急ぎ以下の点だけ。

また、禅さんはNo.22コメントで【100%間違いないというレベルまで到達して、科学的証明がなされたとなるんでしょう。】としており、とても道具主義者の立場とは思えません。

仰る通りだと思います。それは科学実在論の立場だろうと思います。
その点は元エントリNo.54で私も指摘しておりました。

そして、その指摘の後、下記のように続けました。

もっとも、禅さんは上掲の科学観(ミルのような科学観)に疑問を差し挟んでいらっしゃいますので、言わずもがなな事の繰り返しになりました。(恐縮です…。)

余談ですが、個人的には、科学哲学なんてものを知らなくても、用語を知らなくても、自力で思考しようとすることも出来るだろうと思います。そして、受け売りを吟味せずに信じてしまうより、自力で思考することが素晴らしいのではないかなと思います。
ただ、先人や専門家が上手く整理してくれているのであれば、それを使わせて頂かない手はないと思います。せっかくの分業社会(?)ですしね(^^)。

>主婦業が忙しいと思いますので、暇な時にコメント下さい。
優しいお言葉、ありがとうございます。また改めて。
一緒に考えてくださる方がいて、本当に嬉しいです。

No.142の系統学者さんとは、三中信宏氏のことでした。
リンク失敗のため、お名前が消されてしまっていました。

また、紹介させて頂いた論理学の本の「はじめに」の所で書かれている「ずぶの素人」には、肯定的な意味が与えられています。(と思います。)
私の抜粋部分だけでは、それが伝わらないかもしれず語弊を生みそうだったので、念の為。下記のようにも書かれている通り、逆説的に(?)、論理学の素人であろうとする事の大事さを述べ、肯定しているような気がします。

もう一度言っておきたい。この本は先を急ぐための本ではない。積極的の論理学の素人である人のための、いわば、ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための、本である。

度々の訂正、付記、失礼致しました。

No.135 死刑囚さん

少しは参考になったようなので良かったです。
リンク先のことで申し訳ないですが、すこし違っているようなので訂正させて貰います。似たような名前なので間違えたと思います。
社会構成主義→構造構成主義です。

※構造構成主義は、信念対立を超克するために、絶対的明証性が確保された地点から論理を組み立てる。したがって、構造構成主義では人為的に構成された「構造」よりも、「現象」を第一義に尊重することになる。現象とは、経験を通して各人に立ち現れたすべての何かである。構造とは、同一性と同一性の関係形式とそれらの総体による存在論的な概念である。(WikipediaR)

「根本仮説が確かめられた事にはならないという意見」

前に少し考えただけなので確証みたいなものはないのですが、これはすべての根本仮説にいえることで、(根本仮説が)永遠に確かめられる事はないのではないかと考えます。それは不老不死なら何かしらの認識論に集約される可能性が有りますが、人は変わり(老化し)、死ぬからです。もう少し上手い説明があったのですが思い出せません。
あと、半分冗談で考えるのが将来的に自分の脳と他人の脳がケーブルのようなもので繋がった社会なら認識論が一つになる可能性あるだろうと思います。士郎正宗『攻殻機動隊』のような世界ですが。

「外部世界」について「私は外部世界を認めない立場」なんて(私の文)読み返すとえらそうなこと書いているので恥ずかしいくらいです。「お前なにモンや」と、つっこんでいます。「私は外部世界を認めない」というのがいつ(私に)取り憑いたのか考えてます。

「大抵ヒドイ物別れに終わるだろうと思っていた」

大抵ヒドイ物別れに終わっている私がいうのもナンですが、議論している人を見る(読む?)限りだいじょうぶだと思います。この事で物別れになった(まずならない)としてもまた別の事で議論すればいいだけだと考えます。「議論」というのはやってみなければわからない事もあるので両方が拒否しなければできるとこまでやればいいと思います。と偉そうに書いている私はいつも中途半端です。では、また。

【お〜い紅茶さん】

確認したいとされている点を片付けていきましょう。

必ずしも自分に勝算のある行動や確実でない情報を選択の段階で選ぶのは何故なのか (お〜い紅茶さん)

「選択の段階で選ぶ」という意味がよく分かりませんが、積み上げてきた客観的データを放棄して、自分の主観的選択を優先する世界に行くのは、何故か?という事ですねえ。

で、ですねえ、まずお分かり頂きたいのは、ぼくは哲学とか観念論を話したい訳ではなく、現実的に話を進めて行きたいんです。

だから、「ある・ない」は客観的、「信じる・信じない」は主観的と言っているんですね。“There is ........”と“I believe in ........”の違いです。「ある・ない」の方は、客観的事実なので、主語がありませんよね。

「目の前にものがある」ということは、「そこに在るものを、自分が考えている通りのものであると認識している」ということで、「思い込む=信じる」と不可分だからです。 (お〜い紅茶さん)

しかし、エベレスト(チョモランマでもサガルマーターでも可です)が、ネパールと中国の国境にあるという事は、事実だと思います。或いは、事実だという事になっています。

だから、このエベレストのように、ぼくの目の前にない場合でも、信じたくても、信じたくなくても「ある」という認識は、一般的だと思うんですが。

「ある」というのは、「ある」とする根拠を信じるということであり、「信じる」に還元されますよ。 (お〜い紅茶さん)

と、お〜い紅茶さんは仰っているんですが、上の理由で、ぼくは分けています。「あるはずがない」と思っていても、あるものはあるので。

民事裁判でも、同じ日付で同じ宛名で同じ内容の領収証が出てきたりします。ない方が都合がいいと思っている事でも、あるものとして目の前に提出されたら、「ある」でしょう。

「ある」とする根拠を信じて居なくても、「ある」ものは、「ある」というのがぼくの意見です。つまり主観のない客観的情報。

信号無視を交通事故を起こした時、「何で赤信号だったのに、止まらなかったんだ?」と聞かれた時、「赤信号かどうか判断する前に、自然もしくは人為的なものによる光学現象、網膜その他の視覚器官の問題、精神状況に原因を求めます」なんて事は言わないでしょう、という事です。現実問題としては。

法廷で証拠採用の確認作業をする時に、実在論なんかは展開しないのではないでしょうか?という事が、ぼくの前提です。

A1 霊魂が存在するという科学的証明(=理論的説明)ができないなら、霊魂が存在しないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。 (お〜い紅茶さん)

という事で、敢えて選ぶとすれば、これですが、元々のぼくの意見は、証明出来ないなら分からない、です。判断が下せないので。殺人したという証明が出来ないなら、分からないとすべき、という文脈と同じです。科学の立場と法律の立場は違うのかなあ。

ぼくの目の前に、霊体みたいなものが出現して、朝から晩まで居たら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だって居るじゃん、になってしまいます。 (禅)

で、出発点になったこれですが、これってぼくの例え話ですから、「ぼくがオーストラリア首相になったら、まずインフラの整備を行って、日本経済との関連を…」と話している時に、「まず、市民権がないのでオーストラリア首相にもなれないと思います。そもそも、オーストラリア首相は…」と展開されて、例え話の前提を否定されている感じです。

ついでなんですが、やはり、「ぼくの目の前に、霊体みたいなものが出現して、朝から晩まで居たら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だって居るじゃん」になります。

哲学を絡めると複雑な話になるんでしょうが、視覚、体調なんかを鑑みて、疑った末に「目の前に、霊体みたいなものが出現して」いたら、ぼくは、(ああ、霊体みたいなものが居る)と思うでしょう。いつまでも、(幻覚だ。そんなはずがない)と考えないので。

人影みたいな物がある、と思うかも知れませんし、霧みたいな物がある、と思うかも知れません。まあ、見たことがないので、適当な与太話として書いているだけです。例え話なので、そう思ってもいいじゃないですか。

【fuka_fukaさん】

まだ話がずれていますねえ。

私の認識ではその点こそが霊実在/不在を論ずる上では避けて通れないところだったので (fuka_fukaさん)

仰る事は、もっともなのですが、ぼくは「霊実在/不在を論」じて居る訳ではなく、そこは単なる例え話なので、居ても居なくても、どちらでもいいんです。居るという前提で例え話をしましたが、そこに引っかかりがあるようでしたら、題材を変えてもいいですよ、という程度の部分です。

客観的なデータを持っているなら、それを最終判断にすればいいのに、何でわざわざ主観的選択をしてしまうのか。 (禅)

ぼくが「昨日、霊魂を見たんですよ」とfuka_fukaさんに話をしたら、この時に「私の理解 (というか多分に想像でもあります) では、自身の体験に基づいて 「霊はいる」 との見解に立っている方の多くは、「信じる」 以前に、上記の知覚・認識レベルでのエラーについて無自覚ゆえ、ということが多いのではないかと思っています。」という事なら、分かります。で、これで一件落着にすればいいのに、多くの場合、次のステージに進みます。

つまり、「その禅という男の言うことを信じるか?」という話になります。話が飛躍するんですね。

「禅の言うことを信じるか?」と問われて出て来る反応は、「私は嘘だと思う」、「奴は本当のことを言ってるんだ」という話になりがちです。

問題が、0か100かの二者択一になる訳ですね。「いろいろ考えたけど、まあ知覚・認識レベルでのエラーについて、禅は無自覚なんだろう。しかし、10回に1回くらいは正しい事もあるだろうから、10%くらいは本当かな」と、もし判断したなら、これでいいじゃないですか。そこから、「信じる・信じない」に言及する必要なんかないんじゃないのか、というのがぼくの話です。

99%まで客観的な材料で否定出来るにも関わらず、残りの1%で情緒を持ってきて、「お前を信じる」と大逆転するのは何故でしょうか、という事なんです。 (禅)
その99%による結論が、本人にとって受け入れがたい(不協和)ものであれば、ヒトは不合理であろうと (本人が不合理であることを頭では分かっていようとも)、容易に 「1%のほうを信じる」 という心理状態に傾く傾向がある、というのが認知的不協和理論による説明になるかと思います。(fuka_fukaさん)

いや、そういう事ではないんです。何で「信じる」と「信じない」の方向に行くのか?ではなくて、客観的データがあって、それで99%本当だろうという結論を出したんなら、それでいいではないかと。「信じる・信じない」の世界に飛躍する事はないでしょう。

「信じる・信じない」の世界に入ってしまえば、それは「認知的不協和理論」での説明が有効に作用するでしょう。

99%の現実(客観的世界)と1%の願望(主体的選択)を融合させなくても、99%の現実を表明したらいいと思っているだけです。それが、1%の願望を選択してしまうのは、愚かな事と思うんですが、現実にはそういう姿勢が賞賛されたりします。

場合によって、人は理性的判断能力より、前進する1%の意志を賞賛する訳です。わずか1%の意志の力が、99%の客観的データを覆す事など珍しくもないです。客観的データが優位なら、物事に挑戦する意味がなくなります。

しかし、理性的判断能力を要求する場面なら、『本人にとって受け入れがたい(不協和)ものであれば、ヒトは不合理であろうと (本人が不合理であることを頭では分かっていようとも)、容易に 「1%のほうを信じる」』とはならないと思います。

天気予報で99%の降雨確率があるのに、残り1%の確率に賭けて「明日は晴れると思いたい」とは言わないという事です。

ちょっとまとめます。

ゝ甸囘データがあって、それに基づいて結論が出たならそれでOKではないか。
△靴し、実際には、「信じる」「信じない」という二者選択に行く事が多い。

ぼくは,任いい隼廚い泙垢、現実には△縫献礇鵐廚垢觧が多く、それが不思議だという事です。△涼罎如峅晋痢⊃じるのか?」という事は、「認知的不協和理論」で説明可ですし、「希望的観測」も、「信じた方が得だから」でも同様だと思います。

,ら△縫献礇鵐廚靴討靴泙Δ里蓮不思議じゃないですか?ぼくは、何か同じ事ばっかり書いてるんですが、書き方が悪いのかなあ?気長に説明していきます。あ、哲学系統の話は勘弁して下さい。その周辺の知識は致命的にないものですから。

>禅さんへ

とりあえず、一点だけ。

A1 霊魂が存在するという科学的証明(=理論的説明)ができないなら、霊魂が存在しないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。

上記A1を自分の主張主旨として選ばれたとのことですが、この主張からは「霊魂が存在しない」という結論は永久に出てきません。「霊魂が存在する」or「分からない」という結論しか、最初から用意されていません。

なぜなら、「霊魂が存在しない」と証明するために、霊であるとする現象を調べてyであると科学的証明がなされても、その現象が「霊魂」ではないとなるだけですから。では、どうするか。全体から「霊魂でない物」を全て引いて、0になれば、霊魂はいないことになります。しかし、全事象という無限から霊魂でない物(これまた無限に近い)を調べて引くことはできません、無限に続く終わりのない作業です。

調べる、検証する、事実と付き合わせる前から、一方の主張が完全に排除されているのは、おかしいと思いませんか?

それから、「殺人事件」に例えておられるようですが、禅さんの文脈に当てはめると次の主張になります。上記A1と見比べてみてください。

殺人をしたという科学的証明(=理論的説明)ができないなら、殺人をしていないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。

これは、ひどい話です。しかし、この場合は、まだ救われる可能性があるのです。全体(Aさん1人)−犯人で無いもの(犯行時刻に別の場所に居るAさん)が0になれば、いいのですから。


他の論点については、fuka_fukaさんにお譲りします。全く同じ感想を持っていると思いますので。私は、禅さんの(無自覚な)問題点に関して、fuka_fukaさんの指摘がずれているとは思いません。


P.S.
私は、この件で禅さんと決定的に対立することを良しとはしません。あと、何回かレスしあって平行線なら、お互いに「そういう考えだ」ということでしょう。別に実生活には、あまり関係ない話ですし。

どなたかROMしている方で、良い知恵があれば、お借りしたいものです。

いやいや、お〜い紅茶さん、こういう事です。

元々のぼくの意見は、証明出来ないなら分からない、です。

霊魂が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら、「分からない」です。

で、fuka_fukaさんの意見は、信じる・信じないの二択になってしまった時の「認知的不協和理論」での説明で、ぼくの疑問は客観的判断を持っていながら、何故か二択に行ってしまう経過の不思議さです。

横合から口ばしを突っ込むと、かえって紛糾するだろうなぁと思って傍観を決め込んでいたのですが、私なりに見てて思ったことをば。

禅さんのおっしゃるのは、ある種コギトエルゴスムだと思うのです。
自分はそれを知覚した、故にそれは存在する。
「自分が、その知見に基づいて『霊魂』だと認定したのだから(少なくともその観測者の内面における限り)、それは『霊魂』である」と言うことだと思います。で、ここではなぜ「それ」を、例えば「霊魂」にカテゴライズしたかってことは問われてないんですね。

対して、お〜い紅茶さんやFuka_Fukaさんは「いや、どういう知見や検証に基づけば、観測者はそれが『霊魂』だと同定できるのか、そこが問題だ」としているように感じられました。

「ふしぎな現象」部分容認派(笑)の私としては、観測者の「個人的な経験」としてその内面に留まる限り、禅さんの考え方を支持したいところです。勿論、同時に「どうして人はそれを「ふしぎ現象」だと認識するのだろう?」との興味も常に持ち合わせてますが。

 なお、喩えとして適切さを欠くのは承知で敢えて申しますと、『霊魂』は、ある部分ではシゾ患者に発現する妄想症状に擬せられるのかな、と思います。
 当人にとっては疑う余地もなく確固として明確にソレは存在しているのに、当人以外には知覚することすらできないし、勿論その存在を証明することもできない・・・。ひっちゃきになってその存在を訴えれば訴えるほど他人からは「あの人、変」などと言われるようにになってくる・・・などの点で。

>No.146 お〜い紅茶さん

本題から離れますが、一点気になりました。

殺人をしたという科学的証明(=理論的説明)ができないなら、殺人をしていないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。
刑事司法の考え方は、この通りです。 殺害行為が立証できないとしても、「殺害しなかった」と言う結論にはならないんです。「殺害したと言うことはできない」だけなんです。 『無実(=そんな事実がそもそもない)』と『無罪(=事実の有無によらず、単に「犯罪として処罰することはしない」)』の違いも、ここに端を発したりします。

以前場外乱闘のほうに福岡の飲酒追突事故に関連して書いたことなんですけれど、『「オタマジャクシはカエルの子だと証明せよ」という課題に対して、間違いなくそうであるという証明を出来なかったことが、直ちに「オタマジャクシはカエル以外の生き物の子だ」ということを意味しない(単に証明に失敗しただけ)』のと同じです。

>No.144 ぐら虫さんへ

似たような名前なので間違えたと思います。 社会構成主義→構造構成主義です。
単なる見間違い等ではなく、お恥ずかしながら、混同しておりました。

いつものように、ご配慮頂きながらご指摘を頂いたようです。有り難うございます。

(「大抵ヒドイ物別れに終わっている私」などと仰っておられますが、普段は、相手の面子を潰さぬよう、細やかなお気遣いをされる方なのではないかなぁ…と思っておりました。)

構造主義と、構造構成主義の違いがよく分らなかったのですが、ご紹介頂いたリンク先に

構造構成主義に通底する概念は、現象学的概念と構造主義科学論である。(Wikipedia 「構造構成主義」)

とありますので、少なくとも構造構成主義は、構造主義を肯定していると考えても良いのでしょうかね…。

構造主義に行き着くには、社会構成主義(社会構築主義)を通過するのではないかな…と何となく当たりをつけていたので、勝手に、「社会構成主義=社会構築主義」⊃「構造主義」のような図式を頭で描いていました。

しかし、今回、これは間違いだったのだと気づくことが出来ました…(^^;ゞ
仮に社会構成主義を通過したものだとしても、批判的に課題を乗り越えて、新しい主義が生れる(に行き着く)のでしょうから、上記図式が失当だと気づくべきでした。

(根本仮説が)永遠に確かめられる事はないのではないかと考えます。それは不老不死なら何かしらの認識論に集約される可能性が有りますが、人は変わり(老化し)、死ぬからです。
個人ではなく、先人から課題を受け継いで検討し、更にそれを後人に伝達していく術を持った人間達の知の営み上で考えたらどうなるでしょうか…?

(「時間軸」を使うことをNGとする別の根本仮説の立場から見れば、上記もNGなのだろうとは思いますが…。)

もっとも、道具主義の立場からも、「世界に存在するものや、それを統べる秩序について、私達は正しく知ることができるはずだ」という主張(知識テーゼ)を否定しているので、人間の認識の制約(足枷)という別の理由により、「根本仮説が永遠に人間によって確かめられることはない」ことになると思います。

ただ、完全に確かめられずとも、制約のある人間が「(根本仮説が)確からしいかどうか」を考える上では、見込みのある方法であるような気がしています。というか、見込みのある方法だと期待したい…という所かもしれません(^^;
自分でも、この辺り、よく分りませんが、「とりあえず、やってみよー」という人達を単純に応援したいだけかもしれません。(そして、少しでも、その人達の研究を、私も理解できたらいいなぁ…と、トライしては中断、またトライ…を繰り返しています(爆。)

あと、半分冗談で考えるのが将来的に自分の脳と他人の脳がケーブルのようなもので繋がった社会なら認識論が一つになる可能性あるだろうと思います。士郎正宗『攻殻機動隊』のような世界ですが。
『攻殻機動隊』を知らなかったので検索して少し調べました。

>脳の神経ネットに素子(デバイス)を直接接続する電脳化技術(Wikipedia 「攻殻機動隊」)

なるほど…。この話をして行けば、きっと、Neuroscienceに関心が向くのでしょうね。

私は全然よく理解していませんが、この関連で「Marr」という研究者のお名前を聞いたことがあります。今「Marr」等をキーワードにして適当に検索したら、「川人学習動態脳プロジェクト事後評価報告書」というページを見つけました。ここで書かれているように脳は「生物学的な装置を用いて、個体が環境の情報を認識し、記憶し、さらに行動を通じて外界に働きかける情報処理のための装置である」とした研究が進めば、かかるような電脳化技術の可能性も見出せるのかしら…?と素人的に夢想してみたりして(^^)

余談ですが、仮にこの分野での研究が突き詰められても、茂木健一郎氏などが提唱するクオリア問題は最後まで残されることになるのかもしれませんね。
ただ、クオリアは、それに行き着く以前の段階で問題山積みのように思いますので、論点を先取りし過ぎという気もしており、また、結局はこれまでの哲学(現象学など?)で言われてきたことと同じなのではないかな?という感じもしています。
もっとも、脳科学者である茂木氏のような知識は私には全然無く到底及びませんし、具体的にどのような研究をされているのかもよく知りませんので(見ても、理解できないかも^^;)、これは単に私の勘違いだろうとも思います。何かこれまでの哲学とは別に、何か新しい観点があるのかもしれません。

* * *
以下余談ですが、

なぜ先述のように「社会構成主義=社会構築主義」⊃「構造主義」という誤った図式を思い描いていたのか振り返って考えていたのですが、それは単に私が素朴に、そのようなルートを辿って考えていたというだけの事だったかもしれませんでした。
そして、上記を振り返る途中で、道具主義が独立性のテーゼを承認しているのか否かが私には判然としなかった理由の一つも、お陰様で確認する事が出来たように思います…!

当時は以下のような用語を知っていた訳では勿論ありませんが、今、頑張って説明するならば、下記のような事になると思います。(用語が正しいかどうか不安あり、論理的に書けている訳ではないと思いますが…。)

観念論(独我論)により「人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があるはずだ(独立性のテーゼ)」を否定すると、「社会現象は社会(人間)が取り決めたものである」という社会構成主義(社会構築主義)に向かいました。
でも、いくら私が勝手に色々な希望が本当のことだと取り決めて、それを他の人達も承認してくれて社会的な取り決め事になったとしても、いわゆる「自然現象」には太刀打ちできない事もあるのではないかという疑問も湧きました。
(たとえば、「ここにいれば安全だ」と人間が取り決めても、自然災害が起きて被害が出た場合は、その被害によって「ここはやっぱり安全ではなかった」と取り決めを変更せざるを得ないことになると思うのです。被害が起きても、「安全だ」と皆が信じれば、「安全」という事になるのでしょうが、私にはナンセンスに思えました。)

そこで、再び観念論(独我論)から立脚して再考した際、【記号】(「自然災害」というコトバ)と、その【記号】が指し示す【対象】(自然災害だと認知したこと)を区別し、さらに【概念(解釈項)】(「自然災害」という概念)の、【記号】【対象】【概念】の三つを区別することになりました。

【対象】と【概念】とを区別しなければならなかったのは、以前No.128で触れた下記疑問から、区別の必要性を感じためです。

「同じ言葉(記号)を使っていても、その指し示す対象が、私と友達の間で同じとは限らないんじゃないか?そしてそれを確かめる術がない対象もあるのではないか?」という疑問が湧きました。(No.128 )

例えば、私が、友人の近くにあるソーサー(コーヒー茶碗などの受け皿)を取ってもらおうとして、友達に「そこのソーサー取って」(【記号】)と言う時、私が指し示す「ソーサー」という【対象】を、友人が認識しているかどうかは、「そこの」と言って私が指を指し、友人も同じものを指差してくれたら、「友人に私の意図する【対象】が伝えられたこと」を見て確認する事が出来ます。

この時、仮に、友人がソーサーという言葉(【記号】)を知らなかった場合、指差し確認をしなければ、友人は、私が取って欲しいと言っているもの(【対象】)が何か分からないでしょう。もし、私が両手がふさがっている等して指差し確認等が出来ない場合は、「ソーサーというのは、コーヒー茶碗の受け皿のことだよ」と言って、友達にソーサーの【概念】を説明するだろうと思います。

なお、ソーサーのように物体ではなく、例えば「一角獣(ユニコーン)」など、思考上の産物が対象である場合は、【対象】を指差し確認は出来ません。一角獣の絵を見て確認することは出来ますが、一角獣の絵は【対象】ではなく【記号】になります。

(当時上記区別に気づいた時は、「私、分った(Eureka)!」と何か大発見をしたように思ったのですが、今改めて書いてみると、別に大したことではなかった気がして、恥ずかしくなって来ました…。)

そして、ここからどうやって構造主義的な方向(?)に関心が向いたのかと言えば、【対象】の実在を否定すると、「友達に私の意図する【対象】が伝えられる」可能性が無いことになってしまい(「しまうような気がして」と言うべきかもしれません…)、それが受け入れ難かったからです。前期ウィトゲンシュタインのように「語りえぬものについては沈黙せよ」と言われても、やっぱり仲の良い友達とは共通理解を得たくなるものだ、という素朴な欲求がありました。

ということで、記号論入門という本にて、パースという人達もどうやら、(用語はともかく)上記三つを区別しているだろう事を知った際、【対象】と【対象】の関係性を取り出して、その【構造】を確認することは可能かもしれないと思い当たりました。
そして、その【構造】が、また別の「【対象】と【対象】との関係性」にも当てはまることがあるかもしれません…!
(記号論と構造主義がどのように関係性しているのか、ちゃんと本で調べた事は無いのですが、恐らく関係しているだろうと思っています…。)
そうなれば、実在の無い【対象】を、多少なりとも掴んで、他者(友達)と共有することが出来るのではないか?と考え始めようとしました。(そして、よく判りませんでしたがw)

この辺りの可能性を漠然と考えていた時、誰かから「ブルバギ」をやったらいいんじゃないかと言われ、数学の事のようだったので、数学音痴の私には無理だと思い、内容もまったく知ろうとはしなかったのですが、今回Wikipediaの構造主義の所で紹介されていたので、成る程と思いました。

しかし、もし多くの関係性に共通する【構造】を抜き出すことに成功したとしても、きっと私は何か物足りなさを感じるような気がしていました。今思えば、やはり実在性を求めていたのかもしれません。

ブルバギを薦められたのと同じ頃に、「心の師匠w」(進化論者)から、「自然選択(進化?)という命綱を持たずに冒険に出れば、グルグルさまようことになりますよ。さまようのがお好きならば結構ですが。」(うろ覚え)等のような事を言われました。もしかしたら、私が実在性を求めているのかどうかを、確認するためだったのかもしれません。
このようにして、だんだん進化学をベースにした研究に興味を抱くようになりました。

道具主義が「われわれの観察にかかるのは、過去であれ未来であれ現象だけであるから、科学理論の目的は現象の間の関係を組織化し、観測結果に合う計算や予測ができる概念的な体系を作ることに尽きる」とするだけならば、単に【構造】を抜き出すことだけを目的にしているように見えたので、道具主義者が独立性テーゼを問題にしているかどうかが分らなかったのですが、道具主義者が、さらに「その体系が、現実に役立つ道具かどうか?」を問題にしている事も考え合せれば、道具主義の立場は、構造主義とは異なって来ることが、やっと了解できました。
そして、この点が、ぐら虫さんやお〜い紅茶さんからご指摘頂くまで、私が明瞭に分類できていなかった原因だと分りました。

長年の混乱していたことが、少し整理されたように思います。(上記に誤りがある可能性もありますが。)

本当に、多謝です。
私の悪文を読んで、的確なご指摘を下さり、ご苦労をかけてしまったかと思いますが、有り難うございましたm(_ _)m

,椶が霊魂みたいなものを見る(霊魂とは違うかも知れないけど、得体の知れない物を見た)。
 ※人によって、霊魂の定義が分からないとか、そんな物は幻覚だとか思っても、仮定の話なので、取り敢えずそういう物を見たという事にしています。
 ※仮定での話の前提ですが、お〜い紅茶さんも、fuka_fukaさんも、ここの知覚の問題に拘っているように思います。

△椶が、霊魂みたいなものを見たという事を他人に言う。

この時、他人からは、客観的な判断として色んな意見が出る。0%あり得ない、禅の言う事なので15%くらいは本当かな、80%は嘘に決まっている…など何通りもの客観的判断の仕方がある。

ぜ,法何故か、客観的判断を捨て、主体的情緒を引っ張り出して、禅の言う事を信じるかどうかの二者選択になる。(霊魂など居るはずもなく、多くの場合、何かと見間違えている事が多いが、禅の言う事なので信じてやりたい。或いは、禅の言うことなので信じない)[ここは、認知的不協和理論で説明可能]


ぼくが焦点を当てているのは、→い鉾躍する謎のみです。お〜い紅茶さんも、fuka_fukaさんも、,梁減澆鯒Г瓩襪どうかという部分と、い涼罎痢嵜じる」事に傾斜する心理的機能に焦点を当てているように思われます。

>No.147 禅さんへ(No.149 惰眠さんにも対応してるかも)

再度、主張してみます。

No.22 禅さんのコメント

科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。証明出来ないなら、「分からない」でしょうねえ。

禅さんの主張は、「証明がないから、有るというのはおかしい。わからないだ。」でもなく、「証明がないから、わからないだ。」でもなく、「証明がないから、無いというのはおかしい。わからないだ。」と主張しています。文字通りね。

「わからない」=無い可能性も・有る可能性もある、ではなく、「無いとする」可能性は、No.146で指摘したように、この主張では全くないのです。主張の真偽は、事実に基づいて判定されなければいけないのに、この主張は事実を必要としない。最初から「無いとする」選択肢がない。それが、根本的な疑問点です。

一方、fuka_fukaさんの「証拠がないなら、無いとみなすべき」という主張は、どうでしょうか? 「ある」という証拠が見つかれば、「ある」となるのです。故に次のように主張しています。

No.29 fuka_fukaさんのコメント

そういう可能性をまじめに検討する必要性を感じさせる証拠が提示されれば、その「暫定的な結論」を一旦白紙に戻して検討する心構えさえあるならば、とりあえずは反証されていない科学的仮説に基づく結論は真実をして扱っておけば不都合はないし、そうすることがむしろ科学的・知的に誠実な態度であると思います。

このような、(自説が根底的に覆ろうとも)事実に基づいて真偽を判断するという態度こそが、科学的に誠実な態度であるといえます。


さらに言うならば、禅さんの主張は、「悪魔の証明」についての注意書きが付け足されていても、まったくおかしさが、減免されるものではないのです。

例えるなら、犯人である証拠がないなら、「おまえが犯人じゃない」とみなすのは、おかしい。分からないとすべきだ。ただし、身の潔白を証明するのは無理だけどね。と言っているのと変らないのです。

※最初の発言を見てほしい。「犯人じゃないとみなし」釈放することを「分からないとすべき」と否定している。しかも「霊魂」の場合、刑事事件と違い、「無実」を証明する「事実」は絶対に出てきません。No.146で検証したように。

No.127でも書きましたが、「霊魂」とか「科学」とか定義があいまいな言葉が含まれているから、形而上学問題のように見えますが、論理上の誤謬であると考えます。要するに、積極的事実と消極的事実をつなぎ間違えているのではないか、ということです。

追記:

「心の師匠w」(道具主義者)は、【対象】全般の「実在性」を認めているのではなく、【概念】を持つ(?)人間の心理的・基礎的基盤の部分の「実在性」を認めているだけではないかな?という気がしてきました。
言い換えれば、部分的な「実在論」肯定派、かつ、部分的な「観念論」肯定派になる??

前者(実在論)上で語れる問題を、第1水準として「様々な環境下で自己の適応度を上げることを実現するための生物の仕掛け」に関わる問題として捉え、後者(観念論)上の問題を第2水準としている。
ゆえに、第1水準の【構造】はロバストだが、第2水準の【構造】は頑強ではない。

ゆえに、道具主義者は、観念上の問題を直接的には取り扱えない(観察不可能な対象について語ることは形而上学の役割であると考え、科学の仕事ではない)とするが、間接的に、第1水準からアプローチをする(「xを信じる」という人間の行動を自然科学の研究対象とする)ことは出来る。

と書いていて、少し寄り道が過ぎたかもしれない事に気づきました。
…大変失礼致しました。 

* * *

No.143の引用部分に誤りがありました。
引用での間違いはまずいので、下記に訂正させて下さい。

×積極的の論理学の素人である人のための、いわば、ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための、本である。

○積極的に論理学の素人であろうとする人のための、いわば、ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための、本である。

申し訳ありませんでした。

>No.147 禅さんへ(追記です)

元々のぼくの意見は、証明出来ないなら分からない、です。

霊魂が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら、「分からない」です。

上記主張を踏まえて検討します。

1.事実として、本当に「霊魂の存在」が有る場合。

「有る」という根拠が発見。→「有る」
「有る」という根拠が未発見。→「分からない」
「無い」という根拠は未発見。(提出不可能※)→「分からない」


2.事実として、本当に「霊魂の存在」が無い場合。

「有る」という根拠が未発見。→「分からない」
「無い」という根拠は未発見。(提出不可能※)→「分からない」

これでは、「無い」という真実を、いつになったら記述できるのだろう。
この論理では、本当に「霊魂の存在」が無くても、無いということがいわれることは絶対に無い。(仮に設定した)事実すら、表記できない。

No.146コメント参照

自分の疑問に向き合うので精一杯で、皆さんの一連の議論をちゃんと追いかけてはいないのですが、下記点が気になりました。

この論理では、本当に「霊魂の存在」が無くても、無いということがいわれることは絶対に無い。(No.154 お〜い紅茶さんのコメント)

『本当に「霊の存在」が無い』という前提条件を入れてしまうと、答えは最初から決まっている事になってしまいませんか?

細かい点ですが、

この論理では、本当に「霊の存在」が無い可能性がある場合にも、無いといわれることは絶対にない。(※)

とした方が、良いような気がします。

そして、それは必ずしも、科学的な姿勢として不適切だとは思わないのですが…。

なぜならば、「霊魂は存在するのか、しないのか?」という問いに対して

1.ポパーの反証可能性を用いて、「霊がある」という仮説は反証可能性が無いので、科学が扱う問題ではないとして、問い自体を切り捨てることが出来るように思います。(反証主義

2.具体的な案件がない所では話しにくいのですが、たとえば「霊の仕業ではないか」と疑うような現象に対して、「霊の存在」を入れずとも説明がつくのであれば、オッカムの剃刀で、「霊の存在」を切り捨てることも、確かに可能でしょう。
→しかし、これが唯一の科学的姿勢という訳ではないと思います。

もし、それ(上記※)が問題だと思われるのであれば、何故問題だとお考えになるのでしょうか?(これは、反語などではなく、純粋な質問です。)

* * *
・「世界に存在するものや、それを統べる秩序について、私達は正しく知ることができるはずだ」という主張(知識テーゼ)を認めない立場からは、『本当に「霊の存在」が無い可能性がある場合にも、無いといわれることは絶対にない』とすることが、直ちに問題になる訳ではないように思います。

以下、念の為に、
・禅さんは「霊を信じていない」と仰っているので、日常的には、「無い」と仰るでしょう。

・禅さんは「科学的に霊はないという事を証明して下さい」などとは仰っていません。

とりあえず、思いつくまま、書きました。

お〜い紅茶さん

元々のぼくの意見は、証明出来ないなら分からない、です。 霊魂が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら、「分からない」です。

でも、本当に、霊魂の存在があってもなくても、ないという証明が出来たら「ない」です。ぼくの場合は。証明が存在の有無を凌駕するんです。凄いです。恐ろしいです。

ええと、まあ、この部分を論考していただいているようなんですが、これはぼくが特別力説している事でもありませんし、理論的に間違っているという事でしたら、訂正致します。

皆さんにとっては、理論上の不整合という事かも知れませんが、別にぼくにとっては、落語のマクラのようなもので、重要な所でもないですし、「おかしいぞ、それは」と言われたら、固執するべき問題でもありませんから、いつでも変更致します。間違いない言い方を教えて下さい。これを片づけなかったら、先に進めないという事でしたら、正しい方向にしちゃって下さい。

で、それより、不思議なのはNo.151の→い飽椶觧なんですが、何故かここはどなたも触れてないんです。やはり不思議なんでしょうか。それとも簡単に素通りすべき部分なんでしょうか。或いは、人によって感じ方が違うのかなあ。

不思議だと考える方がおかしいんでしょうかねえ。でも、56.3%の確率で…、あ、こんな言い方は普通しませんね。禅の言ってる事(霊魂を見たぞ、とか)は、九割方嘘だ、と思うなら、こういういう言い方でいいのになあ。これが結論だし。

何で「だから、俺は禅を信じる」とか、「だから、禅を信じない」とかいう方向に行ってしまいがちなのか、相変わらず謎のままです。特に、オカルトの話の場合はそうです。この部分の意見をどなたかに聞きたかったのですが、ぼくの説明が下手であるばかりに、別の箇所(霊魂が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら、「分からない」です。など)に火がついてしまったようです。

何かを信じるというのは、以前も書いたと思いますが、自分の人生観とか世界観の主観的選択だと思います。

世の中の事が完全に理解出来る事などないでしょうから、この世の中をどう捉えて解釈していくかは、個人の自由です。数多ある選択肢の中から、「私の世界はこうなっている」という主張が「信じる」行為だと思います。

霊魂を信じる・信じないも、どちらが個人の趣味に合うのか、自分の好みなのか、気持ちよく生きやすいのかで選べばいい訳です。挙動不審で、女からメールや電話がよく来ていて、それをまた隠したりしていて、客観的情報は真っ黒なのに、「俺を信じてくれ」と言われた妻が信じてしまうのも人生観の選択でしょう。

さてさて、今回は、自分の能力の不足ゆえに、思っている事を正確に伝えられないもどかしさを経験しました。でも、火の手が上がった箇所を否定するつもりはないです。枝葉ではありますが、ぼくの書いた事ですし、それはそれで意義があると思います。

ぼくは、客観的判断(霊魂はある・ない)と主観的選択(霊魂を信じる・信じない)と分類をして、客観と主観についても考えてみたかったんですね。大体、客観的判断と主観的選択なんていう線引きも難しそうです。

政府の経済展望なんかは、政治的意図の下で、客観的データと主観的願望が微妙な比率で改竄され、混合されているようですしねえ。極端な例では、昔の大本営発表とかがそうでしょう。

客観的な情報が欠落している部分を埋めるのは、主観的意欲だったりします。信念みたいなのがそうでしょうか。会社は倒産しそうなのに、強烈な意志で再建するとかですね。ぼくは、今でも客観的判断と主観的選択のレベルは違うものだと思っています。レベルが違うものなのに、両者が補完しあう関係にある訳です。面白いです。

あと余談ですが、ネットの世界の事なので、議論は穏やかにやっていきたいです。法律の問題が多く、意見を出せなくても、僅かながらでも、ここの参加者の方と信頼関係を築くためには、普段からのコメントは重要だと思っています。

いずれ、お〜い紅茶さんと話している時でも、「あんな事言ってしょうがないなあ、禅は」と軽く流してくれるようになれば、ぼくも気が楽になります。

自分の意見主張も大事なんですが、周りとの軋轢を避けるためにも、日々の細かいコメントと言いますか、投稿は重要だと思っています。ぼくは、ネットでの議論は得意ではありません。ですから、角が立たないように、死刑囚さんのようにあちこちに配慮しながら、コメントしているつもりなんですが、失礼がありましたら、皆さん、ぼくに注意して下さい。

>No.132 お〜い紅茶さん

話は変わりますが、亀レスになり、すみません。

つまり、対象を自分の思っている物として同定しているのは日常的に行われているのであって、それがなければ生きていけない。そもそも、同じものなど二つとないし、一つのものとて日々刻一刻と変化している。それを人は同じものとして捉え、外界の膨大な情報を処理して生きている。そもそも、概念化(カテゴライズ)とは、差異を無視して一つの集合に丸めることだ。そして、決断・行動する時に、人は最終的に0か100に丸めている。これは、人が生きるための機能であると。

この説明自体には、同意です。※

(※ プラグマティズムと言うと語弊があるかもしれませんが、便宜上、社会で人間が生きていく際には何らかの判断を迫られることの連続ではないだろうかと思います。
一つ一つ立ち止まっていては、生活がままならなくなるだろうと思います。
そして、そのような概念化(カテゴライズ)や分類思考は、人間にとって適応的な行動として進化したのだろうという仮説が立てられると思います。いずれは、進化学的なアプローチが可能な対象になるのではないか、と期待しています。)

ただ、上掲の分類思考のお話と、科学的思考のお話とは、別次元のものではないかと思っています。

この件に関連して、No.141とNo.142(重複してましたorz)の中で触れた分類思考のお話と似ているように思われました。

* * *

先に謝らねばならないのですが、No.141と142で下記のように書いていましたが、全くの誤りであるだろうことに気づきました。申し訳ありません。

No.136にリンクした“さらば「島」概念”というパロディーのように、「『種』は実在するのか?そんなのコトバの定義次第では。」という批判に対して、三中信宏氏という生物系統学者さんは、(その著作に対する下記書評によると、)「種問題は形而上学的な問題である」なんて仰ってしまっているらしいですが、「なぜ人は分類するのか」といった分類思考を自然科学の研究対象とすることで、乗り越えられるのではないかと示唆されているようです。

幾つかの書評を拾い読みしただけで、適当なことを書いてしまいました。
本当に申し訳ありませんm(_ _)m

この件は同氏の別の著作「生物系統学」について、ご本人のブログでのご説明この部分を確認すると、上記のようなことを意図してはいないだろう可能性が高い、というか、確実に間違っているだろうことが分りました。すみません。

分類を構築する際、分岐学者は共有派生形質(synapomorphies)のみをカウントし、固有派生形質(autapomorphies)はカウントしない。したがって、始祖鳥類の現存生物のうち鳥類とワニ類は分岐学者によって群にまとめられる。ワニ類は、たとえ今では鳥類よりも爬虫類によく似ていても、爬虫類とは群を作らない。...こういう場合はまれではなく、いくらでも挙げられる。分岐学的なカテゴリー化は歴史に(少なくとも歴史の1つの側面に)に忠実であろうとしているのである。  しかし、生物のカテゴリー化は歴史だけに基づいてなされるべきであるというこの見解は、古典的カテゴリー論の領域にはおさまらない。...客観主義の形而上学は、唯一の正しいカテゴリー化だけがなければならないと要求する。もしそのカテゴリー化が分岐学的であるとすると、「シマウマ」とか「サカナ」というなじみ深いカテゴリーの多くが存在しないものとされてしまう。...(上掲リンク先の、著者によるご説明より引用)

同氏は、「シマウマ」や「サカナ」というなじみ深いカテゴリーに関して、「古典的カテゴリーと自然類は前ダーウィン時代の遺物である。」と言う。そして、

それらは進化にとってもっとも重要な現象−種内での変異・環境への適応・漸進的変化・遺伝子プールなどなど−とは折り合わない。現代生物学のどの流派にせよ、客観主義的な意味論と認知論はもちろん、客観主義的な形而上学のかなりの部分でさえ、ダーウィン後の生物学とは衝突するだろう。私だったら、生物学に賭けてみるけどね。(pp.193-195)(上掲リンク先の、著者によるご説明より引用)

系統樹思考の分類とは、折り合わないと仰っているようです。

そして、「シマウマ」や「サカナ」のような、自然類のなじみの深い分類思考について、下記のように述べています。

 分類思考は「カテゴリー化」あるいは「物を分ける」という点に関しては何の犯罪も犯してはいません。それが有罪であるというのであれば、私たち人間は全員犯罪者になってしまいます。むしろ、カテゴリーや分類という口当たりのよい概念で篭絡しておいて、自然類や本質という妖怪をこっそり裏口から引き込むことが現代の生物学にとっては犯罪的行為なのです。

(中略)

「追放」されるべき概念や構造の筆頭は、自然類ならびに本質主義。したがって、系統樹思考と分類思考が衝突するとしたら、それは物を分けるかどうかの認知能力のレベルではなく、自然類とその本質を残すかどうかという形而上学のレベルにおいてです。(上掲リンク先の、著者によるご説明より引用)

分類思考と系統樹思考は、「折り合わない」と前述しているが、「対決はしない」と下記で述べておられます。

真の系統樹思考者とは、系統樹を思考の基礎に置く者であって、認知分類およびその拠り所となる分類思考と対決する者という意味ではありません。上で述べたように、分類思考は「外」ではなく「内」から発しています。私たちは「分類」せずに生きていくことは不可能でしょう。また、第1章で述べたとおり、系統樹思考と分類思考とはもともと別世界に属していますから、戦おうったって対決のしようがないじゃないですか。  むしろ、別世界の住民であるということが、これまで十分に認識されてこなかったという事実の方がよほど奇異です。系統樹思考者は、系統と分類を互いに「対決」させようと言っているのではなく、住む世界のちがう両者をはっきり「分離」しようと言っているだけです。それらはキメラのように一体となって混ざりつつ、実は内面的に乖離していたのです。そういう不安定な混交状態を維持するのにエネルギーを費やすくらいだったら、いっそのこと系統学と分類学とを分岐させて、それぞれの目的地を目指させた方がいいのではないですか。(上掲リンク先の、著者によるご説明より引用)

* * *

元の話に戻りますが、上記抜粋のNo.132の箇所で、お〜い紅茶さんが仰っている分類思考のお話と、禅さんが仰っている「科学的には『分らない』となるのでは?」という話は、別世界のお話と考えた方が良いのではないでしょうか?

No.102でも同じことを述べていたつもりだったのですが、私が「プラグマティズム」という言葉を、「現実的な」「便宜上」などの意味で使ってしまっていたので、語弊があったかもしれません。

つまり、「科学的姿勢としてどうか?」という禅さんの疑問に対して、「プラグマティスズム的姿勢」でお〜い紅茶さんがご回答されているように見えました事が、お2人の間で話噛み合ってないのではないかと感じた理由でした。(No.102 死刑囚のコメント)

上掲の文章中で「プラグマティズム的姿勢」という言葉を、私は「道具主義的姿勢」という哲学的な意味で使ってはおりませんでした。
一般的な用語(下記2.)として、「現実的な」という意味で使っておりました。

pragmatism 【名】

1.《哲学》プラグマティズム、実用主義{じつよう しゅぎ}◆パース(Charles Peirce)やウィリアム・ジェームズによって提唱されたもので、理念や理論はその有用性によって評価されるとする立場。

2.〔問題解決{もんだい かいけつ}の際の〕実用主義{じつよう しゅぎ}、現実主義

スペースアルクより:ttp://eow.alc.co.jp/pragmatism/UTF-8/?ref=wl(h抜き)

もし、この件で混乱を呼んでしまっておりましたら、申し訳ありません。

No.157 で

>話は変わりますが、亀レスになり、すみません。

等と書いておりましたが、No.156 禅さんのコメントに気づかず、自分の書いたNo.155 の続きのつもりで、深い意味はなく、書いておりました。念の為。

>No.156 禅さん

もし、私があちこち配慮しているように見えたとしたら、それは、折角、私の周囲の人間があまり関心を示さない科学哲学の話に、興味を抱いている方達がいらっしゃるようなので、この機会を大事にしたいと思っていただけなのであります。(^^)

ネットで私も何度か議論して来ましたが、メール交換するようになった人もいましたし、本当にいい出会いが沢山ありました。
お互い、本名が知らないままでも、もう数年以上も、ぽつぽつと近況を交わしている人達もいます。
その一方で、ネット上で物別れになったこともあります(^^;
関係修復できた人もいれば、できなかった人もいます…。
他の人達が、悲しい物別れでヒドイ顛末になって終わっていく様も見てきました(^−^;

でも、禅さんのコメントからは、失礼な感じは受けませんでした。というか、全然受けません。

No.144 ぐら虫さんが仰っていらっしゃいましたように、

>議論している人を見る(読む?)限りだいじょうぶだと思います。

だと、私も思っています。
ただ、ヘビーな議論が続くと体力的にしんどくなって来ますので、マイペースでやった方が良いのではないかな…と思います。
話が平行線になるようでしたら、場合によっては、とりあえず保留にするのも手ではないかな…と思います。

No.147 禅さん

私も部分的には混じっているので本線?の方には入っていいのか迷っていましたが、少し質問を。 といっても返答を求めていません。自分で禅さんの変わりに返答することを考えると難しいからです。 それともしかしたらトンチンカンな事を書いている可能性も。

元々のぼくの意見は、証明出来ないなら分からない、です。
霊魂が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら、「分からない」です。

この中の「証明」についてですが、「証明」を誰がどのような方法でするのか?
「何々(霊魂)がある」とするのも誰がどのような方法で「ある」と「証明」するのか?

「ぼくの疑問は客観的判断を持っていながら」その「客観的判断」を誰がどのような方法で「客観的判断」として「証明」するのか? (上とは少し違います)

この「誰がどのような方法で」がないことが問題なのではと考えます。

あくまで例です。

「霊魂があること」を江原氏が霊視で証明した。 この場合は、「霊魂は存在する」?

とりあえず自分の疑問から離れて、見落としていたコメントを読み返していたのですが、No.157で、No.132 お〜い紅茶さん宛にコメントしていましたが、かなり周回遅れかもしれませんね…(^^;

おそらくNo.132のお話は、もうお〜い紅茶さんの中で捨てられているのかもしれませんね。
ということで、No.157は適当に流しておいて下さいませ。
ただ、三中信宏氏の著作の書評を読んで書いた部分の訂正の件は、ご査収願いますm(_ _)m 申し訳ありません。


>No.138 お〜い紅茶さん

C x現象をyであるとする科学的証明(=理論的説明)ができても、x現象がzであるとの仮説は排除されるべきではなく、分からないとすべき。 そして、これは「現象の理論説明そのものに対する信頼度への疑義」という厳密さに起因するものであり、そのような厳密さから「観察不可能な対象について語ることは形而上学の役割であると考え、科学の仕事ではない」と排除します。

私も正しいことは言えないだろうと思いますが、頑張ってみます。

上記設問では「科学的証明(=理論的説明)ができて」いる事が前提にされてしまっていますが、

道具主義においては、「科学的証明」において蓋然性や確率が入ることも認められているので、「x現象をyである」とする科学的証明(=理論的説明)ができても、「x現象をyである」という命題(仮説)の真偽に関わる要素を絡めない方が良い、という事になるようです。

だから、道具主義においては、「科学的証明」という設定自体に、齟齬間を感じます。(この辺り、上手く説明できませんが…。私の勘違いの可能性もありますけど。)

とりあえずこの件は留保して、先に進みます。

「x現象をyである」とする科学的証明ができても、「x現象がzである」との対立仮説は排除されるべきではなく、分らないとすべきなのか?

もし、この時、「x現象をyである」という仮説が「x現象を最も適切に説明しうる仮説を導出する推論(アブダクション)」の段階であるならば、「x現象がzである」という対立仮説は排除されるべきではなく、「相対的ランキングによる競争的な選択」になるそうです。

「ありそうかなさそうか」、「有望か、見込みがなさそうか」、「考察に値するか、しないか」、「裏づけが十分か、どうか」といったことを、すなわち、問題の仮説の確証の度合いを確認し、ランキングするようです。

ベイズの定理: (1)問題の仮説の事前確率 (2)その仮説を使わない時のデータの予測確率 (3)そのデータが仮説を予測する確率 さえ分れば、仮説の事後確率、つまり確証の度合いを決定できる (以前より紹介している「科学哲学入門」内井惣七より)

さらに、道具主義はこうして確証の度合いを確認して、もっとも有望そうな仮説(モデル)をテストします。
テストの際、そのモデルが、現象の予測・制御において有用性が認められれば、認められる程、「x現象をyである」という仮説が確からしいってことになるのかな…。

ちょっと自信がありませんが、そんな感じです。
この前買った「科学哲学の冒険」(戸田山和久著)は、電車で読んで以降、まだ読み進めていないので、その本を読めば、また変わるかもしれませんがw

とりあえず、何の話をしていたのか判らなくなって来ましたが、道具主義について書いてみました。
まず、最近買った本を読み進めたいと思います。

※明日は、家人がおりますので、なかなかお返事できないかと思います。ご容赦を。

>No.156 禅さんへ

No.151で禅さんのいう3から4に飛躍する過程こそが、とりあえず認知的不協和理論によって、説明されているものだと思っていました。

そして、この点が問題がすれ違っている主要因ではないかと。つまり、禅さんのいう1から4までの一連の行為が行われる際に、「思考のステージ」は、全ての段階において、介入しているのです。それが前提として、禅さんの中で「思考のステージ」として切り取られている。その前提が、そもそもおかしいと指摘している訳です。

しかし、禅さんの中では前提化=自明化しているので、そこの部分は省みられず、「俺の疑問は、そこじゃないんだよ〜」としりぞけられてしまう。まず、その前提を突破してもらわないと、「その指摘は、こっちの問題でしょ」といくら指摘しても、また勝手にしりぞけられてしまう、という感じなんですけど。

また、話がすれ違っていますか?


>No.155 死刑囚さんへ

「無い」という前提を、わざわざ「無い可能性」に置き換えたということは、「全てについて知ることはできない」すなわち「知識は、有ることについてしか知れない」、「全てについて知ることができる」という前提がおかしいということだろうか。

つまり、理論説明は有ると分かっている領域の素材(要素)を使って説明することであり、発見されていない領域外に何があるのか、また(既発見・未発見部分を含めた)全領域について断定することは、不可能である。有ることについては語れるが、無いことについては語れない。

故に、これまで科学的に検証され是認されてきた理論も、観測技術の発達によって、新たな発見があった場合に、古い理論は新しい理論に取って替わられる。

でも、「霊魂が無い」という「仮説」によって、説明できている膨大な事象を基に「無いとみなす」という主張が、何故、排除されなければいけないのかが分からない。

という感じです。自問自答ですが。

ご指摘の点、考慮してみますので、一旦保留ということで。私は、今、コメントの流れにまったく追いつけておりません。コメントにレスできていませんが、お許しを。


P.S.
死刑囚さんは、「攻殻機動隊」は知らなかったんですね。私も元エントリNo.34コメントで押井守を引用したのですが。別にファンという程でもありませんけど。スピンオフ作品ですが、アニメ映画「イノセンス」を観てみたら、面白いかも知れません。

ぐら虫さん

惰眠さんにもコメントを頂いているので、お礼を申し上げないといけないのですが、話が散ってしまいそうなので、読み流してしまいましたが、どうぞご容赦下さい。でも、ありがとうございます。

この中の「証明」についてですが、「証明」を誰がどのような方法でするのか? 「何々(霊魂)がある」とするのも誰がどのような方法で「ある」と「証明」するのか?

ええと、ぐら虫さんから、質問がありましたので、お答えしておきます。方法については、これといったものが思いつきませんねえ。誰が?というのは誰でも結構です。以下、説明致します。

科学というのは、主観的、情緒的なものを徹底的に排除して、客観的にはどうなんだ?という事を追求するための方法論だと思います、というのは以前書きました。

ですから、いつ、何処で、誰が実験しても、条件が同じなら、同じ結果が生じるという普遍性が大事ですよね。100%間違いというところまで、達成出来てこそ、科学的証明が成されたと考えます。これも以前書いた通りです。ぼくのいう「証明」は、この「科学的証明」の事です。

同じ条件下で、江原氏がやっても、ぼくがやっても、ぐら虫さんがやっても、霊魂が見られるなら、科学的証明が出来ていると考えてもいいと思います。

巷には、「霊魂を見た」というそれっぽい証明みたいなものは、結構あります。しかし、ポイントになるべき証明の命題が何かよく分かりません。

『霊魂を見た経験を持つ人達が存在する事実』を証明するなら、100%に近い状態で証明可能かと思われます。しかし、その人達の話す事、書いている事が事実かどうかである事については、判断保留です。

証拠としては伝聞になりますので、知覚に始まり、記憶の問題、表現方法に至るまで精査する必要があると思います。その上で判断という事になりましょうか。

それより根本的な問題として、肉体というものがない世界での霊魂とかいう事になると、現在、我々が生活しているこの世界とは、かなり違う世界の話でしょうから、それをこの世界の論理とか知覚で表現する事など、不可能に近いのではないかと思っています。

霊魂が居る、という事を我々の世界の論理で、理解させる事が出来るかどうか、非常に疑問が残ります。理解出来ないなら、証明も出来ないという事になるんじゃないかと思う訳です。

ま、個人的な感想を言わせてもらうと、「霊魂」などの類は、主観過剰のおとぎ話みたいなものだと思っています。

お〜い紅茶さん

「認知的不協和理論」…人がある認知(知識、経験、行動など)と矛盾した認知に遭遇した時に感じる不協和(不快感)を解決しようとする心理状態、社会心理学用語。

これなら、い帽圓辰討靴泙辰晋紊良坩堕蠅幣態を説明しているものじゃないんですか?つまり主観の処理。

→い蓮客観から主観の移動という風に解釈しているんですが。


その前提が、そもそもおかしいと指摘している訳です。

ええと、お〜い紅茶さんは、ぼくの前提をどの部分だと思っているんですか?

ぼくの目の前に、霊体みたいなものが出現して、朝から晩まで居たら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だって居るじゃん、になってしまいます。

↑これですか?もし、これなら、「霊体みたいなもの」を「85カラットのダイアモンド」に変えて頂いても差し支えありません。似たような事は何度も言ったつもりでしたが。

ぼくの目の前に、85カラットのダイアモンドがあったら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だってあるじゃん、になってしまいます。

「思考のステージ」を入れればいいんですね。これなら先に進みますか?

>No.163 禅さんへ

禅さんの最新コメントを見て、禅さんの聞きたいことがよく分からなくなったので、一つ確認したのちに、答えてみます。

No.151 禅さんのコメント

3.この時、他人からは、客観的な判断として色んな意見が出る。0%あり得ない、禅の言う事なので15%くらいは本当かな、80%は嘘に決まっている…など何通りもの客観的判断の仕方がある。
4.次に、何故か、客観的判断を捨て、主体的情緒を引っ張り出して、禅の言う事を信じるかどうかの二者選択になる。(霊魂など居るはずもなく、多くの場合、何かと見間違えている事が多いが、禅の言う事なので信じてやりたい。或いは、禅の言うことなので信じない)[ここは、認知的不協和理論で説明可能]
ぼくが焦点を当てているのは、3→4に飛躍する謎のみです。
(丸数字は、アラビア数字に変えました。)

まず、この3の段階の記述は、外部世界の実際の状況についての説明ですか、それとも4で判断する人の認知内容についてですか?


仮に、3・4とも認知内容についての記述だとして、答えます。

「認知的不協和理論」…人がある認知Aと矛盾した認知Bに遭遇した時に感じる不協和(不快感)を解決しようとする心理状態、社会心理学用語。

認知B(3、80%は嘘に決まっているという客観的判断)に遭遇した時に認知A(4、禅の言う事なので信じてやりたい)と矛盾が生じ、そこから発生する不協和(不快感)を解決しようと、禅の当たる確率を上げ、禅の言う事を信じるかどうかの二者選択(50:50)にする。

見事に3の客観的判断から、4の二者選択への飛躍を表しているように思いますけど。

これじゃ、だめですか?

>No.161 お〜い紅茶さんへ

自問自答とのことですが、迷われないように、念の為。

「全てについて知ることができる」という前提がおかしいということだろうか。

(少なくとも私は)そのようなことは意図しておりませんでした。
(お〜い紅茶さんが、知識テーゼを承認しているとしても、そのことについての是非を申し上げてはおりません。)

『本当に「霊の存在」が無い』という前提条件を入れてしまうと、答えは最初から決まっている事になってしまいませんか?(No.155 死刑囚のコメント)

と書いた通りのことを言っていただけです、念の為。


でも、「霊魂が無い」という「仮説」によって、説明できている膨大な事象を基に「無いとみなす」という主張が、何故、排除されなければいけないのかが分からない。

1.『「霊魂が無い」という「仮説」』を立てるなら、

無いと言って、形而上学論争に巻き込まれて、悪魔の証明を求められてもイヤですし。(元エントリNo. No.19 お〜い紅茶さん)

という事になりませんか?

2.「霊魂が無い」ということで、どんな事象を説明しているとお考えなのでしょうか?

(ご参考までに、たとえば、「霊魂がない」という前提から、「病院の霊安室に一晩いて、幽霊は出ないこと」を導き出しても、説明したことにはなりません。
なぜならば、トートロジーになっていると思われるからです。)

* * *

今、禅さんとfuka_fukaさんの間のお話を追いかけて読んでいる途中です。

>No.165 死刑囚さんへ

コメントに対応していなくて、申し訳ないのですが・・・
結局、死刑囚さんの見解は、どれに当たるのでしょうか?

前文:霊魂が存在するという科学的証明ができないなら、
  (○は肯定、×は否定)
1.
霊魂が存在しないとみなす。   ○
霊魂の有無は分からないとする。×

2.
霊魂が存在しないとみなす。   ×
霊魂の有無は分からないとする。○

3.
霊魂が存在しないとみなす。   ○
霊魂の有無は分からないとする。○


それから、次の点は、私の言葉足らずで、誤解を与えたようです。
【「霊魂が無い」という「仮説」】とは、「霊魂の存在を必要としない仮説(理論)」という意味です。

No.162 禅さん

どうもすいません。すこし質問がまずかったのかなと思います。 「どのような方法で」の所がです。
私としては、 科学の方法であるいわうる客観的な前提による批判精神(懐疑主義)のような答えを想定していたのですが、あの質問からそれは出てこないと気がつきました。
それでも、禅さんの考えが部分的ですが分かったような気がします。

少し関係ないようである話ですが、「霊魂」を「心」に変えて考えると、心があるのか、ないのかはどう考えます?私はどちらかといえば、心は脳の機能の一部ナンじゃないかと考えています。それでも、脳の中に「こころ」はないのではと思う気持ちもあるので矛盾しているのですが。
まぁ、私が生きている間に(心は脳の機能一部ということが)すべて解明されることはないと思います。

「いつ、何処で、誰が実験しても、条件が同じなら、同じ結果が生じるという普遍性が大事ですよね。100%間違いというところまで、達成出来てこそ、科学的証明が成されたと考えます」

基本的には私も同じ考えで、(科学的証明とは)普遍性、再現性を証明することだと考えます。
「あるとされる現象」は科学的に証明することによって、「ある」とされ、多くの人に「ある」と認識されるのではと思います。逆に、科学的証明されないモノ(こと)は「ない」となります。それでも、厳密に「ない」とするのは難し所もありますが。
科学的な考え方として普遍性、再現性を証明することができない現象は「ない」とする方が「分からない」とするより多くの人に伝わるのではないかと考えます。科学は「あるとする現象」を土台として積み上げられているからです。(徹底した批判をくぐりぬけることが前提ですが)
「ないとされる現象?」 「分からない現象」の上には何も積み上げられないと思います。 科学的精神とは、「あるか、ないか」を分ける作業だと考えます。
上手く説明できないもどかしを感じますが、ではまた。

>禅さん
>fuka_fukaさん

お〜い紅茶さんと実在論や観念論の話をしていた間に、fuka_fukaさんと禅さんの間の話題は、もう変わっていたようですね…(^^;

ざっと見ているだけなので見落としもあるかもしれませんが、当初の話題は、少なくとも下記コメントを拝見した時点で、概ね、対立ポイントがなくなっていることが見て取れます。というか、もともと対立ポイントはなかったのでしょうね。

ただ、肯定派・否定派という色分けにかかわらず重要なのは、証拠の的確な評価と、他の証拠から導かれる結論との整合性を意識し、解釈が分かれる事実については、より矛盾のない解釈のほうが選ばれるべき、という思考方法だと思います。 (Critical Thinking 、あるいはオッカムの剃刀あたりに落とし込める話かも?) それをせずに、「幻覚に決まっている!」 などと 「信じて」 しまうのは、科学的な思考ではなく、モロに認知的不協和、確証バイアスの陥穽にはまりこんでしまっており、オカルティストと同じ穴の狢です。 「立証」 がない場合の態度として、「ある/ないを同等に考える」 のは不合理だが、 「暫定的にみなす」 ことまでしか許されない、と考える所以です。(No.123 fuka_fukaさん のコメント)

(『「暫定的にみなす」 ことまでしか許されない』という見解は、「信じる、信じない」の二択しかない事を意味しません。つまり、「分からない」という選択肢もあり。
ゆえに、fuka_fukaさんのコメントの上記箇所と、当初から禅さんが仰っていたことは、殆ど同じに見えますので。)

* * *

今の話題は、禅さんの出された例題(下記※)を基に、No.123やNo.126辺りから、fuka_fukaさんが「論理的な判断」や「科学的な判断」について、両者の間の論点の整理・すり合わせを行おうとされている所でしょうかね?

※禅さんの例題:Aさんが「xみたいなものが目前にあった」と認知した。 x={霊魂、昔飼っていた柴犬、美空ひばり、一昨日食った西瓜、死んだはずの弟、実家の登記簿謄本、みかん、2007年度決算ファイル、…} xは何でも良い

ただ、その前に確認です。

1.禅さんは、「信じる」と考えるような例え話として、上記例題を提出していらっしゃいました。

2.fuka_fukaさんは、上記例題の情報のみだった場合、「科学的には」どのような判断をしますか?
上記例題には、「証拠の的確な評価と、他の証拠から導かれる結論との整合性を意識し、解釈が分かれる(No.139 fuka_fukaさんのコメント)」ような検討の対象となる材料が少なすぎる気がします。
(「xみたいなものが、目前にあった」(と認知した)という主張が証拠となるならば、今その証拠しかありません。他の証拠が何も示されていない例題です。)

3.したがって、上記例題を基に「霊実在/不在を論(No.139 fuka_fukaさんのコメント)」じようとしても、「信じる/信じない/分からない」という話以上に広げようがない気がします。

とりあえず、今の話題で気になる点だけを書かせて頂きました。

>No.166 お〜い紅茶さん

それは、(ことによると)質問になっていないような気がするのですが…。

2.
霊魂が存在しないとみなす。   ×
霊魂の有無は分からないとする。○
3.
霊魂が存在しないとみなす。   ○
霊魂の有無は分からないとする。○

上記2と3の選択肢は、それぞれ内部で矛盾していますよね?
「霊魂の有無は分からないとする。 ○」になっていますので、「霊魂が存在しないとみなす」かどうかについて、○か×で答えることは出来ません。

したがって、2も3も選べません。
となると、この三択の設問のうち、残る1しか、回答者が選べるものがないように思うのですが…。

* * *

【「霊魂が無い」という「仮説」】とは、「霊魂の存在を必要としない仮説(理論)」という意味です。(No.166 お〜い紅茶さんのコメント)

上記訂正をNo.161の当該箇所に反映させると、下記のようになります。
また、太字部分を補足。

でも、霊魂の存在を必要としない仮説(理論)によって、説明できている膨大な事象を基に「(霊魂は)無いとみなす」という主張が、何故、排除されなければいけないのかが分からない。

(i)そもそも、
「(霊魂は)無いとみなす」という主張が、「排除されなければならない」
これは、誰かが言っていたのですか?

(※科学的に「Aはある」か「Aは無い」は分からないという時、「Aはある」可能性も、「Aは無い」可能性も否定されていませんよ、念の為。)

(ii) 論理的に疑問があります。たとえば「霊魂」を「遺伝子」と置き換えてみると、論理的にどうでしょうか?

遺伝子の存在を必要としない仮説(理論)によって、説明できている膨大な事象を基に、「(遺伝子は)無いとみなす」という主張

主張するのは自由だと思います。

ただ、「何を基にその主張しているのか」(「遺伝子の存在を必要としない(〜中略〜)膨大な事象)の内容によっては、「そのような主張をするのは早計だ」と思うかもしれません。
なぜならば、「xの存在を必要としない仮説(理論)が、膨大な事象を説明しているならば、xは無いとみなす」としてしまいますと、新しい概念を科学的な検討対象としない姿勢につながる恐れがあるかもしれないからです。

P.S.
No.161
>アニメ映画「イノセンス」
機会があったら、借りて観てみますね(^^)

* * *

こちらは初雪です…!雪の影響で本日も家人がおります。また、月曜日は外出しますので、直ぐにコメントできないかもしれません。ご了承を。

追記:
No.166でお〜い紅茶さんが確認されようとしていた内容が何か、よく分からない状態ですが、とりあえず下記を追記しておきますね。

前文:霊魂が存在するという科学的証明ができないなら、

この前文には、少なくとも下記AとBの2つの場合がありそうですね。

* * *

A.前文:霊魂が存在するという科学的証明がないなら、

・科学的には:「分からない」と思います。

・日常的には:「無い」と思ってます(元エントリNo.20の通り)。でも、「霊魂がいると思った方が、自分や相手の心がなぐさめられる」と感じる時には「いる」と信じることもあります(^^)

* * *

B前文:霊魂が存在するということが科学的研究の対象として扱えないなら、

・科学的には「分からない」と思います。
・日常的には「無い」と思ってます(元エントリNo.20の通り)。でも、「霊魂がいると思った方が、自分や相手の心がなぐさめられる」と感じる時には「いる」と信じることもあります(^^)

No.168訂正

×「信じる、信じない」の二択しかない事を意味しません。
○「ある、ない」の二択しかない事を意味しません。

昨日、途中まで書いてそのままにしていたものがあるので、中途半端ですが、終わらせておきます。ぼくが、「ずれている」と言っている事が、分かりました。

その前提が、そもそもおかしいと指摘している訳です。

恐らく、この前提は以下の事なんでしょう。

ぼくの目の前に、霊体みたいなものが出現して、朝から晩まで居たら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だって居るじゃん、になってしまいます。

ここで、話がずれているのではないかと。つまり、ぼくは自己の知覚から客観的な判断を経て、主観と客観が無意識に混ざる不思議さを話したいために、こういう前提で話をした訳です。

で、お〜い紅茶さんは、それに対して、まず、一発目の反応として、「ならないと思います。仮に、私が見たとしても、霊体みたいなものだとは判断しません。その前に、自然もしくは人為的なものによる光学現象、網膜その他の視覚器官の問題、精神状況に原因を求めます。」と主張し、fuka_fukaさんは、「認知的不協和理論」を展開。

微妙なところなんですが、ぼくは例え話として、目の前に霊体みたいなのが居たら、否応なく霊体みたいなのが居ると思う事を前提として話しを進めたんですね。

もう何の疑いもなく、目の前にそんなのが居たら、(何か霊体みたいなのが居るじゃん)と思います。錯覚か?夢か?酔ってんのか?まあ、疑問は山ほど浮かびますが、それらをクリアして、目の前に居るんなら、「居る」と。

しかし、ぼくの話が「ぼくの目の前に、霊体みたいなものが出現して、朝から晩まで居たら、これはもう信じるとか信じないとかではなく、だって居ると思ってしまうんですが、こういう現象をどう思いますか?」と前提でなく命題になると、ぼくは、お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんと同じ立場に立ちます。

何回か他の方にも書いていますが、霊魂だ、霊体だのというものについては、死んだこともないのに分かんないよ、というのが持論です。死刑囚さんにも取り上げて頂きましたが、霊魂などの信憑性についても、信じるべき合理的な理由はないと書いています。

ですから、こういう現象についての質問を受けたら、多分以下のように答えるでしょう。

大体、目の前に霊体だか霊魂だかが出現しても、過去にそういう実態が証明された訳でもないのに、何でそんな認識が出来るのか?脳というのは、偏見に満ちあふれた肉体の器官であり、先入観に左右されやすいもんです。

先入観や偏見があるが故に、情報の分析、判断に誤りが生じるんではなく、知覚そのものが狂っている訳です。思い込みと言ってもいいです。何で、そんな思い込みが生じるのかというと、情報処理が速いから。

殊に、不快な感覚、不思議な説明が難しいものについては、先入観の支配を受けやすいですし、感情でそれが増幅もされやすいもんです。

夜中に人影を見たら不吉な事を連想してしまうのも、先入観や偏見でしょう。中国製の食品類を見ると警戒してしまうというのも、社会的な偏見の一つかも知れません。霊魂があるというよりも前に、自分の知覚について疑う事も必要なんじゃないかと。

とまあ、お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんの主張と変わりありません。…多分。

しかし、何かを説明される時に、現実にありそうにもない事を前提にされたら、そのままその前提を受け入れる事もありますし、場合によっては、その前提がおかしいと言う事もあります(お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんの立場はこれなんでしょう。例え話であろうが、自分で納得のいかない前提など認められないと)。

ぼくは、霊魂の存在という単独の話だと否定的ですが、何かの説明をする時に、霊魂の存在があるとするなら、本当に居るんなら、居るものとして話を聞きます。

それは、霊魂などの存在を「ある」とするとか、「信じる」とかとは、別の話です。自分の意見は違うけど、その前提で進めましょうという事です。その辺は、ぼくはフレキシブルに対応します。一貫性がないという事かも知れませんが。

ですから、ザムザ君のように「鏡を見たら虫になってた。それで…」と虫になった事を前提にして話しが続いてきたら、虫になった事を前提にして、ぼくは話を聞きますし、その結果、うーん、他の前提で話してくれ、というかも知れません。だから、虫になったなどいう事があり得ると思うわけでもなく、そういう可能性を信じている訳でもないです。

虫になった事を自覚するより、まず知覚を疑うのが先決だ、などと言わないで、結論に影響を与えない程度の例え話なら、前提となる荒唐無稽は素通りします。虫になったんなら仕方ないな。本当になったんならねと。

「ビーフステーキを食べていたら、突然、それが一升瓶になっていたら、ありゃ、一升瓶になっていると思うでしょ。それで…」と話が続いて、それをきっかけに何かを主張したい人が居たら、(まあ、ホントにそんな事があるんなら、そういう事にして話を聞こう)と、そのくらいの前提は受け入れます。

しかし、「ビーフステーキを食べていたら、突然、それが一升瓶になってた。ありゃ、一升瓶になっていると思うでしょ。不思議だよねえ」とか言われた日には、反論開始ですよ。

どうでしょう?ぼくのスタンスがお分かりいただけましたでしょうか?従って、霊魂の実在・不在という話についてのアプローチは、お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんと同じで支持しております。

支持しているのに、「そうではない」と言っていたのは、前提の部分を否定されて、そこがまたぼくの持論のように思われていたからで、そこに気が付いたからです。

しかし、お二人の場合は、霊魂の存在があるという前提では先に進めないという事なんでしょう。一方、ぼくの場合は、自分の意見は別にして、本当にあるんなら「ある」という事にして話を進めても構わないです、というスタイルです。

もう一つ例文です。「昼休みにトイレに行ったら黒人になってた。そうしたら、黒人になっちゃったと思うじゃん?で、黒人になったから、人種差別の事を…」と話されて、不遇な黒人社会を展開されたら(内容にもよりますが)、最初の「黒人になっちゃったと思うじゃん?」は、(まあ、そう思うだろうねえ。実際、黒人になっちゃってんだから)という事で、ぼくは抵抗なく受け入れます。SF体質ですか?

しかし、「昼休みにトイレに行ったら黒人になってた。そうしたら、黒人になっちゃったと思うじゃん?日本人が突然黒人になる事もあり得るんだよ」では、さすがのぼくも、「黒人になっちゃったと思うじゃん?」は、受け入れられませんし、やり過ごせません。

そういう事です。ですから、根本的なところでは、お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんと同じ意見なんですが、それとは真逆の前提で例え話を書いてしまったので、そこから先には進みそうにもないです。禅、自爆ですね。

ええと、死刑囚さんには側面的に助け船を入れて貰い感謝しております。

ぐら虫さん

少し関係ないようである話ですが、「霊魂」を「心」に変えて考えると、心があるのか、ないのかはどう考えます?

ええと、この部分だけ答えさせて下さい。

ぼくは、霊魂(魂、精神、意識…など、全部同じだと思っています)は、電源というかエネルギーみたいなものではないかと思います。だから、心とは別な気がします。つまり、脳、霊魂(あまり好きな単語ではないですが)、心。

心というのは、さくらももこが言っていましたが、「意識が脳を使用している状態」なんでしょう。ぼくも同意見です。

脳というのは肉体の一パーツですから、そこに電源である魂(意識)が入り込み、脳が稼働する感じでしょうか。

魂(意識)と現実の橋渡しをしたり、心からのリクエストを処理していくのが脳の仕事です。

脳は心からの無理な注文に応えるため、適当に処理をしてしまう事もあり、その結果「霊魂を見た」などという事になると思っています。

別の言い方をすれば、霊体とか、霊魂、亡霊、幽霊などの正体なんてそんなものでしょう。脳が作り上げたものなら、本人にとっては「現実」そのものですし。

>No.169 死刑囚さんへ

(i)そもそも、「(霊魂は)無いとみなす」という主張が、「排除されなければならない」これは、誰かが言っていたのですか?

No.152コメントでも書きましたが、禅さんです。(参照前に下記に補足説明がありますので、先にお読み下さい。)

それは、(ことによると)質問になっていないような気がするのですが…。(中略)2と3の選択肢は、それぞれ内部で矛盾していますよね?

選択肢は、議論の対象となっている禅さんのコメントを組み合わせただけです。
死刑囚さんが、どの部分を肯定し、どの部分を否定するのか、そして、それはいかなる意味においてなのか。

質問した意図は、死刑囚さんが何を主張するために、私に反駁しているのかが、私にとって、明確ではないからです。この論点は、禅さん本人はNo.156コメントでおっしゃっている通り、こだわっていません。死刑囚さんが反駁されているだけでですから、死刑囚さんの主張が明らかにされる必要があります。

そして、No.169コメントで質問が「矛盾」とされ、No.170コメントで「科学的・日常的」と、私にとってはよく分からない分岐がなされ、返答されていることで、なんとなく分かってきました。科学的態度という場合の適用範囲が、両者で違っているのでしょうか?

私にとっての問題意識は、「科学とは何か」という問題よりも、「スピリチュアル」の問題について、霊魂は無いとみなして反駁することが、何故、科学的態度ではないと排除されなければいけないのか、という疑問です。

もし、日常的に「霊魂はないとみなす」立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容されるなら、禅さんの当該コメントに反対するものではありません。

>No.174 お〜い紅茶さん

* * *

禅さん本人はNo.156コメントでおっしゃっている通り、こだわっていません。死刑囚さんが反駁されているだけでですから、死刑囚さんの主張が明らかにされる必要があります。

その通りですね。
しかし、今までずっと書いていました。
私には、お〜い紅茶さんが禅さんのコメントの趣旨を誤解しているように思えましたので、その事をずっと述べて来ました。

それが、お〜い紅茶さんにとっては反駁と受け取られてしまうようですが、それについてはもう気にしません。
ここまで話してきながら、本心とは別に「貴方の言う通りですよ」という方が、お〜い紅茶さんにとって失礼にあたると思うからです。

* * *

(i)そもそも、「(霊魂は)無いとみなす」という主張が、「排除されなければならない」これは、誰かが言っていたのですか?
No.152コメントでも書きましたが、禅さんです。

No.152で引用されていた下記コメントのことですよね↓

No.22 禅さんのコメント

科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。証明出来ないなら、「分からない」でしょうねえ。


科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。証明出来ないなら、「分からない」でしょうねえ。

という禅さんのコメントから、

「(霊魂は)無いとみなす」という主張が、「排除されなければならない」

と言われのだと、お〜い紅茶さんが受け取ることが、私にとっては不思議でした。

禅さんは、同コメント内で「霊魂を信じる方向には進めない」という趣旨の発言をされていることから、科学的姿勢以外では(日常的には)「霊魂はないとみなす」とされることを示しています。
そのことは、ご本人も繰り返し述べていらっしゃいましたし、私も言いました。

それにも関わらず、なぜずっと『「(霊魂は)無いとみなす」という主張が、「排除されなければならない」』と言われたと誤解しつづけておられるのでしょうか?
それが、私には判りませんでした。

* * *

今もなお、「主張が排除された」と考えておられることから、お〜い紅茶さんは科学的発想や科学的態度から「(霊魂は)無いとみなす」という主張をされているのだろうと推測できます。

それでは、お〜い紅茶さんは、どのようにして科学的に「霊魂は無い」と判断されたのでしょうか?その点が、私には分かりません。
なぜならば、

1.「霊魂の有無」が科学的に扱えるお題なのかどうかが、私にはまず疑問です。もしも科学的研究の対象にすらなっていないのであれば、科学で扱っておらず、科学的に有るとか無いとか、言えないのではないでしょうか?

2.(私個人は、霊魂を研究する気は起きませんが)「霊魂の有無」というお題を科学的研究の対象としようとすると、なかなか大変なのではないかと思われました。
「霊魂」と同じように、「心」も「観測可能な対象」ではないかと思いますが(まぁ、定義次第という所もありますが)、たとえば「心の有無」といったお題の科学的判断は、認知心理学や認知科学等の研究の発展を待たねばならないでしょう。(おそらく、その最後に残ると思われるのがクオリア問題かも。)
認知心理学や認知科学等とは異なる方向から、「心が有る」と思う人間の基礎的・心理的基盤に、進化学的アプローチをかけることが出来るかもしれませんが、可能性が示唆されているだけで、まだ始まったばかりです。

3.仮に、何らかの方法で(私には思いつきませんが)、霊魂の存在を統計的手法を用いて検定し、「霊魂があるとは言えない」という結果が出ても、「無いといえる」という意味になる訳ではありませんし…。(元エントリNo.25等)

以上のように色々考えていたのですが、「霊魂が無い」とか「心が無い」とか、科学的に判断するのは、骨が折れることだろうと思われます。

科学的態度という場合の適用範囲が、両者で違っているのでしょうか

そうかもしれませんね。
「科学的態度」や「科学的発想」という言葉の射程が、お〜い紅茶さんと私との間では異なっているでしょう。

とりあえず、私にとっては、「科学的態度」を、「論理的な態度」や「常識的な態度」などとそれぞれ言い換え可能ではありませんでした。
(たとえば、ウィトゲンシュタインの独我論は科学ではありませんが、論理的ですし、科学が、その当時の常識を覆すこともありますし…。)
「科学的発想」についても、真偽の判定だけではなく、新しい発見という側面も重要だと思いますので、まだよく研究されていない事に関しては「科学的に分からない」とするのが、科学的姿勢として妥当ではないかと思われました。

お〜い紅茶さんにとっては「科学的態度」や「科学的発想」とはどのようなものだったのしょうか?

No.175に訂正がありました。失礼致しました。

×「霊魂」と同じように、「心」も「観測可能な対象」ではないかと思いますが

○「霊魂」と同じように、「心」も「観測不可能な対象」ではないかと思いますが

* * *
追記:

>No.174 お〜い紅茶さん

>もし、日常的に「霊魂はないとみなす」立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容されるなら、禅さんの当該コメントに反対するものではありません。

お〜い紅茶さんは、「霊魂が無いとみなす」という主張が科学的にも妥当だと仰りたいのですよね?そして、その理由は、No.119で書いておられましたように、「学科柄、周りに宗教者ならびにオカルティストが山程おり」、彼らのような方々に反駁して、「霊魂は無い」と主張する有効な手段が欲しい…という所ではないかと推測しましたが、如何でしょうか?(当て推量に過ぎませんが。)

もし、上記推測が「当たり」ならば、形而学上の問題を、科学では取り扱えないのではないかと…。
ただ、前にも書きましたが、「霊魂を信じる」といった人間の心理的・基礎的基盤を、進化学的アプローチから研究する可能性が見えてきてはいます。この辺りの研究が進めば、反駁材料が得られるのかもしれないと思います。(私が生きている間に、どの程度進むかなぁ…。)

ただし、研究が進みすぎると、社会を安定させるような価値観を覆すようなことになったりするかもしれないので、取り扱い注意だという趣旨のことを(うろ覚えですが)「心の師匠w」は仰ってました。

進化学的研究の知見は、個人の信条と対決するようなものではないだろうと思います。
信教の自由はあると思いますので、(霊感商法や、何か特別な危険思想を広めたり等、誰かに害を与えたりしていないのであれば)特に反駁する必要は個人的には感じないのですけれどもね。

訂正コメントの訂正ですみませんm(_ _)m

×進化学的研究の知見は、個人の信条と対決するようなものではないだろうと思います。

「今枝ブログ雑感」エントリNo.36で書いていたような「対決?」がしばしば起こっているようです。(mashは死刑囚に改名前のハンドル・ネームです。)
創造論と進化論もこんな感じのようですし…。
しかし、本来、進化学的研究は、知見と個人の信条と対決すべきものではないだろうと思います。

>No.175,176,177 死刑囚さんへ

「分からないとすべき」という主張は、「無いとみなす」行為を否定する趣旨において提起されたことは、最初のNo.22コメントの文を見れば明らかです。また、このコメントは、「スピリチュアル」について語られていた論旨において、発せられているのであり、「科学とは何ぞや?」という論旨においてではありません。「スピリチュアル」に対する態度に関して、発せられていると見るべきでしょう。

そして、この発言については、禅さん本人がNo.156コメントで「こだわっていない」とした後に、急速に死刑囚さんが前面に出てきて、私の禅さんへの主張に反駁し始めました。

すでに、本人がこだわっておらず、(私から見ても)論点から外れているにも関らず。何故でしょうか?


そして、現時点で残る論点は、禅さんの疑問だけです。そこを明らかにし、禅さんが納得していただければ、話は終わるのです。

死刑囚さんは、私の主張に対して、禅さんの立場を代弁するかのごとく、側面的に助け舟を入れ、反論をしています。

死刑囚さんが、禅さんの疑問点を明らかにし回答すれば、それが一番すんなり、事態が解決するのではないでしょうか?

ちなみに、私は以前、No.131コメントで次のように言っています。

話は変わりますが、禅さんの疑問点についてはどのように考えますか?
何か、禅さんが納得されるような回答を、ぜひとも死刑囚さんの方からもコメントして頂きたいと思っています。

にもかかわらず、死刑囚さんはNo.168コメントでfuka_fukaさんに対して、「科学とは何ぞや?」と質問しています。何故でしょうか?

次に、私が「科学とは何か」については興味がなく、【日常的に「霊魂はないとみなす」立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容されるなら】かまわないとしたコメントには、「日常的には無いと思っている」にも関らず、正面からお答え頂けず、またしても「科学とは何ぞや?」という問いで返されています。何故でしょうか?

そもそも、死刑囚さんによる禅さん主張の解釈は、当っているのでしょうか?
私には、禅さんが繰り返し死刑囚さんの解釈を否定する発言をしているように思えてなりません。


私は、「日常的に霊魂が存在する」とする立場を否定するつもりはありません。そして、研究者は研究対象があると信じなければ、研究できないことも推察できます。

しかし、自分の主張を隠し、他人の疑問にのっかる形で、なおかつそれを飛び越えて、相手の主張に反論を加えるがごとき討論姿勢はいただけません。

死刑囚さんは、何を主張し、論証したいのでしょうか?

私にとっては、「霊魂の有無」よりも、いかにして社会的に弊害の出ている「スピリチュアル」関連の問題に反駁していくかを練る方に重きが置かれています。

禅さんの「あると信じるは別」という思いもかけない反論で巻き込まれましたけど。

>No.178 お〜い紅茶さん

「分からないとすべき」という主張は、「無いとみなす」行為を否定する趣旨において提起されたことは、最初のNo.22コメントの文を見れば明らかです。

「(霊が存在するかしないか)分らない」と言う時は、判断を留保していることになりますので、「霊が存在する可能性」も「霊が存在しない可能性」も否定していませんよね?【ここまではOKでしょうか?】

科学的な姿勢として「無いとみなす」行為を否定されているならば、「科学的に、霊が存在しない可能性」が否定されているのではなく、「科学的に、無いとみなす早急な判断」をする行為を否定されていることになるでしょう。【ここもOKでしょうか?(もしかしたら、この点が納得行かないのでしょうか?)】

当該コメントは下記の通りです↓

科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。証明出来ないなら、「分からない」でしょうねえ。

(中略)

ぼくは、霊魂なんて見た事もないので、存在については「分からない」です。信じるか?と聞かれても、存在してくれた方が望ましいという理由も願望もないし、別段好きでもないので、信じる方向には進めません、てところですねえ。
信じるためには、エネルギーが必要ですから。
(元エントリNo.22 禅さんのコメント)

* * *

そして、この発言については、禅さん本人がNo.156コメントで「こだわっていない」とした後に、急速に死刑囚さんが前面に出てきて、私の禅さんへの主張に反駁し始めました。

それは、邪推というものですよ…orz
(そもそも、お〜い紅茶さんは、ずっと以前から、私がお〜い紅茶さんのコメントに対して、反駁しているとか、批判しているとか仰って来たではないですか…。)

まず、禅さんの発言(元エントリNo.22)対しては、元エントリのNo.25とNo.54-55で既に直接コメントさせて頂いております。
元エントリNo.54の中でも、お〜い紅茶さんが禅さんにコメントしている内容について、疑問を呈示しています。何が混乱があるように思っていましたが、その点指摘すれば、既に解決するものだと思っていました。
ところが、私の予想に反して、お〜い紅茶さんとが観念論の立場からコメントしていらっしゃった事が分りました。
それまで、お〜い紅茶さんが持たれていると思われる観念論の世界に関連する話を整理せねばならず、ずっとそこにかかりきりだったのは、ご存知でしょう。
そして、お〜い紅茶さんとの観念論や実在論の話に触発され、自分の中で考えを整理するだけで精一杯でした。大体整理がついたのは、No.153のコメントをしていた頃です。

次に、私が「科学とは何か」については興味がなく、【日常的に「霊魂はないとみなす」立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容されるなら】かまわないとしたコメントには、「日常的には無いと思っている」にも関らず、正面からお答え頂けず、またしても「科学とは何ぞや?」という問いで返されています。何故でしょうか?

お〜い紅茶さんが、禅さんの当該コメントにこだわり、ずっと反対してきておられたので、【日常的に「霊魂はないとみなす」立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容され】ないとお考えなのだろうと受け取りました。
そして、【何故、日常的に『霊魂はないとみなす』立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容され】ない等とお考えなのだろう?と疑問に思い、そこから、No.176の追記部分に書いた通りの推測をしたからです。

もし当たっていなかったのであれば、改めてコメントすれば、【日常的に『霊魂はないとみなす』立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容される】のは自明ではないでしょうかね。「言論の自由」はあるのですから。

しかし、自分の主張を隠し、他人の疑問にのっかる形で、なおかつそれを飛び越えて、相手の主張に反論を加えるがごとき討論姿勢はいただけません。

自分の主張を何時、私が隠したでしょうか?
議論に巻き込まれたくないと言いながら、結局私は自分の素朴観念論の変遷、道具主義の立場、その間で整理がつかなかったこと等を赤裸々に、包み隠さず述べてきております。
元エントリNo.22の禅さんの当該コメントの部分に関する是非については、元エントリのNo.25で既に答えを出しています。

死刑囚さんは、何を主張し、論証したいのでしょうか?

そう聞かれて、改めて考えてみた所、科学の営みを理解しようともせず、興味すらないのに、自分の発言は科学的だと妄信することに対して警句を発する必要を感じていたのかもしれません。言い換えれば、下記のような「同じ穴の狢」が、自分達の立場は科学的に正当化されていると信じ込むようなことに対して、警句を発したかったという所です。

それをせずに、「幻覚に決まっている!」 などと 「信じて」 しまうのは、科学的な思考ではなく、モロに認知的不協和、確証バイアスの陥穽にはまりこんでしまっており、オカルティストと同じ穴の狢です。(No.123 fuka_fukaさんのコメント)

それでは、そろそろ外出いたしますので。
「自分の主張を隠し、他人の疑問にのっかる形で、なおかつそれを飛び越えて、相手の主張に反論を加えるがごとき討論姿勢」と仰られましたが、以前もお〜い紅茶さんからオカルティストとの疑いをかけられ、その誤解を解くのに、大変時間がかかりましたので、今それだけの労力をかける体力は残っていませんので、今回はこれにて失礼させて頂きます。
私の方は、別件でまたコメントを交わすことがあったら、とくに今回の件は気にするつもりはございません。

>No.172 禅さん
>ええと、死刑囚さんには側面的に助け船を入れて貰い感謝しております。

かえって、混乱させてしまっておりましたら、申し訳ありませんでした。

お〜い紅茶さん

認知B(3、80%は嘘に決まっているという客観的判断)に遭遇した時に認知A(4、禅の言う事なので信じてやりたい)と矛盾が生じ、そこから発生する不協和(不快感)を解決しようと、禅の当たる確率を上げ、禅の言う事を信じるかどうかの二者選択(50:50)にする。

見事に3の客観的判断から、4の二者選択への飛躍を表しているように思いますけど。

3の段階で「不協和」を解決しようとするかなあ?という疑問があります。もし、ぼくのことを知らなければ、「80%嘘だ」、という結論でいいと思うんですが…。認知Aが「信じる必要がなければ」なら、不協和があるとも思えないし。

上の例文の場合、認知Aと認知Bは矛盾しますか?80%嘘が最終結論で、それでいいと思うんですが。

それと、論点が拡散するので、収束の方向に修正していますが(あ、迎合している訳ではないので)、基本的に総論としては、お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんと同意ですが、各論では違う意見もあります(i.e.「あると信じるは別」だと思っています)。

色んな考えがありますので、違うからと言って、説得するつもりもありませんし、メイン・ストリームが同じなら細かい差異は、誤差の範囲だと思っています。

ですから、ぼくのメインの疑問に影響が及ぼさない小さな疑義には言及しないようにしています。

かえって、混乱させてしまっておりましたら、申し訳ありませんでした。

とんでもないです。ぼくは孤立無援という感じでしたので、心強かったです。

>死刑囚さん

私は一読者として死刑囚さんの意見、疑問に共感し、また知識の豊富さに感嘆してました。これからも深い議論を楽しませてください。
私は、知識なく意見を言うと混乱するので読者に徹してましたが・・・

No.168 死刑囚さま

長い話にお付き合いいただいて恐縮です。

2.fuka_fukaさんは、上記例題の情報のみだった場合、「科学的には」どのような判断をしますか?
上記例題には、「証拠の的確な評価と、他の証拠から導かれる結論との整合性を意識し、解釈が分かれる(No.139 fuka_fukaさんのコメント)」ような検討の対象となる材料が少なすぎる気がします。
(「xみたいなものが、目前にあった」(と認知した)という主張が証拠となるならば、今その証拠しかありません。他の証拠が何も示されていない例題です。)
3.したがって、上記例題を基に「霊実在/不在を論(No.139 fuka_fukaさんのコメント)」じようとしても、「信じる/信じない/分からない」という話以上に広げようがない気がします。

ご指摘のとおりだと思います。

ただ、例であっても、いろいろ細かい条件を設定していくことは可能で、たとえば実際に誰かが話している体験談をベースにしていろいろ場合分けをし、「信じる/信じない/分からない」 の程度を絞っていくことに意義がある場合もあるだろうと思います。

No.172 禅さま

私も、初めに書いたとおり(ここ重要)、すり合わせの必要があるのは表現の問題がほとんどで、考えているところはほぼ同じであろうと思っております。

もう何の疑いもなく、目の前にそんなのが居たら、(何か霊体みたいなのが居るじゃん)と思います。錯覚か?夢か?酔ってんのか?まあ、疑問は山ほど浮かびますが、それらをクリアして、目の前に居るんなら、「居る」と。

私のツッコミの趣旨は、初めには禅さまが↑の太字の留保をつけていらっしゃらなかったのでその指摘と、またヒトの認知能力ではそうそう簡単に「クリア」はできない、という点でしょうか。
仮に、初めの段階で

先入観や偏見があるが故に、情報の分析、判断に誤りが生じるんではなく、知覚そのものが狂っている訳です。

という留保がついた上で、それをクリアした後の話ですよ、と書かれていれば、まったくすり合わせの必要はなかったでしょう。

ということで 「前提にするにはこれこれのハードルもある」 と指摘はしましたが、それをクリアした後の話も同時にしていたつもりなので、

場合によっては、その前提がおかしいと言う事もあります(お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんの立場はこれなんでしょう。例え話であろうが、自分で納得のいかない前提など認められないと)。

と言われるのはちょっと誤解、と申し上げたいところです(^^;


前提でなく命題になると、ぼくは、お〜い紅茶さんやfuka_fukaさんと同じ立場に立ちます。

この点は了解しました。


昼休みにトイレに行ったら黒人になってた。そうしたら、黒人になっちゃったと思うじゃん?

intelのCMでそんなのがありましたね。トイレじゃなくて「朝起きたら・・・」でしたけど。
もしかしたら放映当時も日本にいらっしゃらずご覧になってないかもしれませんが。

No.180 禅さま 

80%嘘が最終結論で、それでいいと思うんですが。

合理的に考えれば「それでいい」はずなのに、そうは考えないのが一般の人たちのごく自然な傾向、ということだと思います。
一般の人たち、というのは当然私や禅さまも例外ではなく、意識して 「ここは判断保留にしないと」 と思わない限り、容易に 「80%嘘」 と客観的には判断される情報をもとに、「嘘」 「ほんと」 のいずれかに飛びついてしまったり、パーセンテージを恣意的にいじってしまったりするということです。

私も 「認知的不協和」 の解釈も お〜い紅茶さまとほぼ同じで、3→4のプロセスを説明するものだと思います。
(私には、禅さまの書かれた 4 にも 3 の説明が一部混入して一体となっているように見えました)

具体例 見つけたので貼っておきます

あと、余談ですが、お〜い紅茶さまは、議論相手の意見をちょっと悪意にとりすぎではないかと。

私が見ていても、禅さまも死刑囚さまも、お〜い紅茶さまがお書きの批判・非難に該当するような意図を感じられるところはなかったので、そこまでけんか腰にならんでも、字面どおりの意味をベースに議論していればすり合わせができそうなのにな、と感じていましたので、申し上げておきます。

>No.150 死刑囚さん

少し遅くなりましたが、さすがにどう返答していこうか脳の限界を超えている所もあるので適当に読んで貰えたらありがたいです。「記号論と構造主義がどのように関係性しているのか 」の所を考えていて止まってしまいました。

「構造主義を肯定していると考えても良いのでしょうか」

私もさほど「構造主義」全体を理解しているわけではないのでハッキリ書けません。そして、この人(西條 剛央 )の本『構造構成主義とは何か』を(立ち読みでしか)読んでいないのであまり正確なことはいえませんが、「構造構成主義 」を考える上で元になった本―池田清彦『構造主義科学論』がソシュールの言語理論をもとにしているので「構造主義」が土台になっていると考えます。(『構造主義科学論』は読んでいます)家に読んでない本が多くあるので立ち読み主義、図書館派です。

私自身はあまり、自分を「何々主義」と考えていなくて、死刑囚さんの文を読んで「オレて、社会構成主義?構造主義?」と考えた次第です。だから、結構、矛盾したことも書いているので途中で、アレ?道具主義の部分もあると思っていました。いまだにあまり良くわかりませんが。
ここで冗談のように「自分から書かない主義」とか「反H氏派」は言っています。(これは、なだいなだ氏が”何々主義”(何々イズム)、何々学(何々オロジー)と勝手につけるところから派生しています)まぁいえば、なだいなだ主義(適当ですが、ことばはことばでしかないと考える)

「伝達していく術を持った人間達の知の営み上で考えたらどうなるでしょうか…?」

「コトバ」を使う限り難しいのではないでしょうか?言語が一つにならないように。「認識論」というのは、 一人一人が意識し考えれば考える程、増えていくものではないでしょうか?別の所(大会議室)での勝手な「俺様理論」と同じように「俺様認識論 」として。私もその一つですが。しかし、また、もしですが、認識チップみたいなモノを生まれてすぐの子供に埋め込めば...そんな社会に住みたくないです。認識論というのは脳の機能に還元される? [「信じる」という「コトバ」ー言語中枢に還元される]脳一元論で考えればです。

余談として、私が入ると(死刑囚さんから見て)お〜い紅茶さんよりなってしまうので、少し書きにくいのですが、前に私と死刑囚さんとでした昼寝さんの文を介してのやりとりになっているのだろう考えます。
しかし、あの時は、本人(昼寝さん)がいなかったので私が死刑囚さんを批判する形になりましたが、今回は禅さんがいるので、(討論の場合)明確に禅さんを擁護する立場(昼寝さんの時と同じ)で書くか、禅さんとは関係なしに(もちろん、禅さんの文を使ってもいいのですが)お〜い紅茶さんやりとりする方が分かりやすかったと思います。
「議論」の主題(議題)が明確になったり、ぼやけりしたしたのがまずかったのかなと思います。両方が一致してやりとりするのは、難しい面もあるかも知れません。
前のように「議論」の主題(昼寝さんの文)が分かりやすければ議論するのも遣りやすいですが。(しかし、本人不在や条件的に難しいかった)今ならできる ?(嘘)ではまた。

P.S この議論も「構造構成主義」の「信念対立を超克」のモデルケースと考えれば?

>No.179 死刑囚さんへ

【日常的に『霊魂はないとみなす』立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容される】のは自明ではないでしょうかね。

えっ!! そうなの。その部分を否定したいんじゃなかったんだ。

私の中で「科学的態度」という言葉を援用して、「分からないとすべき」と問題をうやむやにし、その隙間に「霊魂はある可能性もあるのだから、批判すべきでない」と自分の主張を入れる、突破口的な論理と(禅さんの主張を)位置付けていたのですが・・・

少なくとも私の中では、科学的態度とは日常的態度に置き換え可能であり、むしろ純粋な科学的態度という意味合いは完全に霧消していたのですが。この手の議論を純粋な科学論議として行うことはこれまで全く無く(だから科学哲学を知らなかった)、日常的な立場を否定しあう討論において、「科学的」という言葉のみが相手の趣旨を潰す目的で利用される展開しか想定していなかったのですが。

だから、私には科学とは何か(科学哲学の領域)について議論している自覚はないと。禅さんの発言も「霊魂の存在」や「科学」の問題ではなく、論理上の誤謬ではないかと。そして、No.174コメントで「科学的・日常的」と、私にとってはよく分からない分岐がなされていると。私は、(印度哲学で言うところの)不可知論、すなわち捕鰻論(いわゆるウナギ文)に対峙している感覚だったのですが。

故に、【科学の営みを理解しようともせず、興味すらないのに、自分の発言は科学的だと妄信することに対して警句を発する必要】と辛辣に言われても、「そもそも科学について語っているつもりはないよぉー」という感じなんですけど。独我論者ですし。だから、「科学とは何か?」という突っ込んだ議論に執拗に持っていき、知識の不確実性を強調することのみに主眼が置かれていることを訝しげ、死刑囚さんが、その方面に話を持っていけば、いくほどバイアスが・・・そして意図を明らかにせよ、と。

どーも、この手の議論に、下手なデータを実装していることが仇となっているようです。詭弁的論理を駆使し、自分の立場を強弁する人間に関するデータを持ちすぎている。少なくとも、前回、早期に死刑囚さんをオカルティスト規定したのと、まったく同じ領域のデータが照合に使われたのでしょう。

死刑囚さん、大変申し訳ありませんでした。ごめんなさい。怒ってます?


ただ、一つ分からないことがあるのですが、No.54コメントでも指摘され、No.155でも指摘されていますが、「ある」「無い」と前提を分岐させ、「主張が真実を言い当てられるか」をチェックするやり方は、どこに矛盾が潜んでいるのでしょうか。「答えは最初から決まっている」という死刑囚さんの指摘がよく分かりませんでした。科学的態度といっていますが、私にとっては日常的態度として、うなぎ文に対する反駁として持ち出したのですが。


懲戒請求に関する議論の時にも感じましたが、議論がかみ合っていない、もしくは平行線の時は、互いにレスしあっている部分以外に問題が内包されている可能性があるので、(人に言っておいて何ですが)反駁している根本的な意図について明らかにした方がいいですね。自戒を込めての発言です。


>No.180 禅さんへ

科学的態度として「分からないとすべき」という立場と、日常の問題として「霊魂はいないとみなして反駁することは妥当である」という立場が両立する分類が、私の中でなかったことが原因です。仮に、「日常的には無いとみなす」としていても、「分からないのだから、霊魂の存在を認めて、批判するべきでない」という主張が内包されている類型しか持ち合わせていませんでした。失礼しました。

禅さんの疑問については、fuka_fukaさんの返答と同じなので、割愛させて戴きます。


>No.186 fuka_fukaさんへ

うーん、重たいですね。別に、fuka_fukaさんだからではなく、少なくとも同じ側から議論に加わっていた人間からですからね。意見が対立しているから、そのような感想を言っているという可能性は、排除されますから。

どーも、この手の議論について、私の頭の中に自分で気付いていない連関がぷかぷか浮いているようです。字面通り読んでいるつもりでも、即座にがっちり結びついて、相手意見の分類がなされているようです。へんな議論データを実装しすぎました。

善良なソフトウェアを、少しでも似ていれば、悪意のあるソフトウェアとして、検出してしまうような。困りましたね。

うーん、分からない。
科学的態度というのを日常的態度と同義として捉え、禅さんの主張を自分のパターンに照合して間違って捉え、「科学とは何か?」について、指摘してきた死刑囚さんをうがった目で捉えてしまったのは、お詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした。

しかし、私には次の主張の真偽が分かりません。

Aがあるという証拠がないなら、Aがないとみなすべきじゃない。分からないとすべき。


どなたか、教えて下さい。お願いします。

No.189 お〜い紅茶さん

あまり役には立たないです。お〜い紅茶さんと禅さんのやりとりにおいて「「科学とは何か?」はあまり問題ではないと考えます。 細かくは読んでいませんが。別の哲学的(思想)な問題はあるかも知れません。
広く流通している科学観、前にも少し書きましたが、現象や理論の定量性、普遍性、再現性を確かめることといわうる「客観的事実」(共通概念)を認める範囲から二人のやりとりは出ていないのではないかと考えます。だから、(上の科学観を是とするなら)論理的誤謬にあるというのは間違っていないと思います。

「Aがあるという証拠がないなら、Aがないとみなすべきじゃない。分からないとすべき」

「あること」でしか「論理」は組めないので便宜上、「分からない」は「ないこと」と同じ扱いになるのでは。
だから、Aがあるという証拠がないならAがないみなす。

別の視点から、「分かる、分からない」についていま考え(調べ)中なのですが、使われ方として、「理解する」意味と「納得する」意味があり、「理解する」は文字どうり知であり?、「納得する」は知の中に情が含まれたモノなのではと考えます。(なだいなだ氏がどこかに書いていたような気がします)だから、「A」に何がくるかによって「理解する」と「納得する」を使い分けるのでないかと考えます。まだ、考え中なので間違っているかも知れません。

>ぐら虫さんへ、レスありがとうございます。

お〜い紅茶さんと禅さんのやりとりにおいて「「科学とは何か?」はあまり問題ではないと考えます。 細かくは読んでいませんが。別の哲学的(思想)な問題はあるかも知れません。 広く流通している科学観、前にも少し書きましたが、現象や理論の定量性、普遍性、再現性を確かめることといわうる「客観的事実」(共通概念)を認める範囲から二人のやりとりは出ていないのではないかと考えます。だから、(上の科学観を是とするなら)論理的誤謬にあるというのは間違っていないと思います。

そーなんですよ。そもそも、私は、No.189のように、科学とは別に論理上の問題と睨んで、論を立ててきたのです。(何度もコメントしていますが)

以下が、この論点における私側の流れです。

0.不可知論(捕鰻論)に持ち込んで、自説の権利を主張するパターンがある。
1.禅さんの主張が私の持っている意見パターンの導入部分に似ている。
2.「霊魂」「科学」の問題ではなく、論理上の誤謬を利用したものではないか。
3.論理上の誤謬として反駁。※
4.禅さん本人とりあえず、「どうでもいい」となる。
5.私の中で、論理上の誤謬として処理。論点から削除。
6.死刑囚さんから「科学とは何ぞや?」とつっこまれる。
7.何で、論点から消えているのに。また、「科学とは何か」について考えてなんかいないのに、執拗につっこまれるの? 0.のパターンか?「ガオーッ!! 意図を明らかにせよ」
8.死刑囚さん「(日常的に)ないとみなす」ことを否定していない。
9.えっ!! じゃ、どういう趣旨なの?


死刑囚さんとの、この論点におけるやりとりを再度確認しましたが、

私が「科学とは関係なく論理上の誤謬である」「科学とは何かに興味はない」と繰り返していることに対して、死刑囚さんが「それが唯一の科学的態度ではない」と繰り返し説かれています。

だから、死刑囚さんが【科学の営みを理解しようともせず、興味すらないのに、自分の発言は科学的だと妄信することに対して警句を発する必要】という立場から、コメントしているとしたら、私には、意図が伝わらなかったと言わざるを得ません。

特に、禅さん本人が「理論的に間違っているという事でしたら、訂正致します。重要な所ではない」とし、論点から消えた後で、死刑囚さんが私に「科学とは何ぞや?」と問うて来ることについては、正直言って、趣旨が全く理解できなかった。

そもそも、「科学か否か」については、基本的にはニセ問題ではないかとする姿勢が、私の中にあったように思います。何を「真」とし、「偽」とするかの思考作用の構造の方が重要で、そこに還元される話だと思っています。独我論の影響かもしれません。

同じく観念論者のぐら虫さんになら、理解されるかもしれません。


※この段階で、比較として【(自説が根底的に覆ろうとも)事実に基づいて真偽を判断するという態度こそが、科学的に誠実な態度であるといえます。】とfuka_fukaさんの主張を引用しています。これが(科学の営みを理解しない)安易な科学的態度であるとするなら、死刑囚さんの指摘は妥当でしょう。

>No.189 お〜い紅茶さん

以下の意見は私個人の意見です。

Wikipediaの「霊魂」ページに以下の記述があります。

もとより有効な検証や再現を行うことが大変困難な領域であり、また「ない」ことを証明(不在の証明)することは論理上不可能でもある(悪魔の証明)。このため、霊魂はその存在を「科学的に証明できない」とするべきではなく、「科学的仮説としての資格(規模および精度)を有していない」とするべきである。そしてこれは、現在までに提示された根拠と主張される事象や主張もまた、悉く該当する事である。
つまり、現在までに提示された霊魂の存在を肯定する根拠とされる主張はその何れもが、致命的な瑕疵や反証不可能性等が含まれるため、科学的仮説として取り扱えない、という事である。

「Aがあるという証拠がないなら・・・」Aという部分に「霊魂」があり、「霊魂の話に限って」「科学的仮説としての資格(規模および精度)を有していない」のだから「分からない」が科学的立場に立つことになるのではないかという話かなと思っていました。
Wikipediaの記述にある

所詮「霊魂という疑似科学」は「霊魂は非科学的な存在という事象でしか扱う事ができない」、と言う結論

になるのではないかと考えています。

はじめまして。
横から失礼します。
つらつらと読んでみて、私の解釈では、
お〜い紅茶さんは、科学的に論を組み立てることについて語っており、
禅さんは、科学的の探求心について語ったのではないかと。
わからないで完結してしまうと、それ以上科学は前に進まない。
だから、わからない=ないと考えるべきではない的な。
よって、お互い語ってる「科学的」が違うととらえました。

>No.191 お〜い紅茶さん

追記です。

本来「科学的な仮説になりえない霊魂」※1を、科学的な方法論を通じて「存在する、存在しない」の2者選択を語るのであれば、どのような認識で「科学」捉えているのかを確認したくなるではないでしょうか?

※1:「科学的な仮説になりえない霊魂」は私の捉え方です。これが絶対とは限りません。

>カツビンさんへ、コメント有り難うございます。

ご指摘の点、私も参照してみました。

でも、その主張ですと、「科学的には、無いとみなすべきじゃない、分からないとすべき」と、「科学的に分からないとする」判断を下すものではなく、そもそも「科学的」の対象にならないという意味ではないでしょうか。

「分からない」という「科学的立場」が成り立たず、文字通り、「科学の扱う対象ではない」と排除する。どうでしょうか?

ちなみに、禅さん主張の妥当性については、私は、「霊魂」「科学」というややこしい問題にまで踏み込む必要はなく、論理上の誤謬としてしりぞければ、論理的にまちがい→科学的とは言えない、とつながるかと安易に考えていた面もあるのですが。

つまり、霊魂という言葉を使うとしても、ただ単に、そこではAの具体例以外の意味はなく。事実を言い当てられないなら、主張としておかしいのでは? ということが検証されればよい、と考えていたのですが。この考え方自体に問題があるのでしょうか?

>No.193 とろ助さんへ、はじめまして。

実は、お恥ずかしい話ですが、私としては「科学的」という以前に、論理的に間違っているのではないかと考えていたのですが。
No.127コメント

ただ、禅さんの最初の「分からないとすべき」という主張については疑問です。「霊の有無」や「科学」の問題ではなく、論理上の誤謬であるように思います。これから検討してみます。

そして、そこから、No.195にも書きましたが、論理的に間違い→科学的とは言えない、とつなげればO.K.かと。このような単純な考え方と、論証過程に問題があったのでしょうか?

>No.195 お〜い紅茶さん

「分からない」という「科学的立場」が成り立たず、文字通り、「科学の扱う対象ではない」と排除する。どうでしょうか?

私も本来は「『自然』科学の扱う対象ではない」というべきところかなと思います。
ただ「『自然』科学の扱う対象ではない」という「排除」より、「分からない」という言いほうが安穏としてるのと、禅さんの説明の文で「心象、信心」などの『人文科学』の領域の話をされているので、「科学的(人文含む)には分からない」と解釈しました。
→禅さんは、「人文科学」の分野では信じるほどの理由がないと語っていますが、信じている人を排除していない立場と思っています。

※前のコメントの科学的仮説には「自然」が付きます。

ちなみに、禅さん主張の妥当性については、私は、「霊魂」「科学」というややこしい問題にまで踏み込む必要はなく、論理上の誤謬としてしりぞければ、論理的にまちがい→科学的とは言えない、とつながるかと安易に考えていた面もあるのですが。

本来そこまで踏み込む必要はないと思います。が、禅さんがそこまで意識していたか分かりませんが、話の中で「自然科学」と「人文科学」の両方とも話していたので、どの分野で語っているのか「前提」が必要だったのではないでしょうか?その前提があってこそ、論理上の誤謬とまで言えるのかなぁと思います。
で、死刑囚さんは「自然科学への立場」および「科学哲学」から読み解こうとした話ではないかと思いましたが・・・
で、双方理解できない方向に向かってしまった・・・

※僭越で申し訳ないです。私の勝手な感想です。

もうちょっと端的に言うと、
<禅さん>
■自然科学
・立証すべきものではない
■人文科学
・時代や文化を問わず概念があるので「有得る」。
・但し自分は「信じていない」。
・「心の中に存在する」ものなので「自然科学的な立証」は成り立たない。
※もちろん人文科学的な立証はありえます。
=で、自然・人文含めた科学的には分からないとすべき。

<お〜い紅茶さん>
「Aがあるという証拠がないなら、Aがないとみなすべき」というどの分野でも適用できる科学的立証論の話をしている。

という感想です。

>No.197,198 カツビンさんへ

いろいろ考えていただいて、大変助かっています。

実は、自然科学か人文科学かという別け方はもとより、科学か否かという切り分けも、なぜそれ程、重要視されているのかが理解できないでいます。

禅さんの論点も、論理上の誤謬として指摘しており、「論理的に間違い→科学的とは言えないのでは」ということも、直接提起していません。比較として、事実に基づいてコロコロ変わる=真実を言い当てられるから、こちらの方が科学的ではないかとfuka_fukaさんの主張を出しているだけです。

それは、「真実を言い当てられる」という前提(知識テーゼを認めるか否か)の違いだとの指摘もあるのですが、それは否定しないという。そうすると、ないとみなすのが、何故、排除されるのかがよく分からない。(←この認識に問題か?) そもそも、真実を言い当てられないなら、その主張は真といえるのか。(←この認識に問題か?)

そして、科学的と日常的という切り分けがなされるのですが、そもそも、科学的の中味に日常的に是認される以外の内容が残るのかも、今疑問に思っているところです。結局、「ある」は「信じる」に還元される訳だし、ある理論を是とするのは、人間の日常経験に照らし合わせて「しっくり」くるか、こないかではないでしょうか。

* * * *

どーも、問題は私が独我論者であることに起因するような。禅さんの主張をパターン化したことに問題があるのではなく、容易に記号Aとして、パターン化し得たのは何故か、と論を立てるべきだったのかも。

そもそも「証明できないから、無いとみなす」という立場だから、世界観として独我論なのであって、霊魂一つの存在をとってみても「分からないとする」訳ないなぁーと、気付いたんですが。

そして、独我論者が世界観として知識観ではなく論を立てていることに対して、実在論者は、それを知識観として捉える。独我論者に自覚はないから、「そういう科学観なのか」といわれても、ピンとこない。

そして、独我論者にとって、知識観(科学観)と世界観(日常的に是とする)は一緒である。

だから、禅さんの「分からないとすべき」が「無いとみなす」の否定と捉えられ、死刑囚さんの指摘が、反駁として感じる。

どーも、私にとっては、世界観の変更を求められていたような。(あくまで暫定的な見解です)

* * * *

カツビンさんのおかげで、なんとなく分かってきました。

>ぐら虫さん
>カツビンさん
>とろ助さん


私の中で、問題を整理している段階なので、コメント内容に直接お答えできていないかもしれません。ご容赦下さい。

>No.199 お〜い紅茶さん

時間が無いので、暫定意見を記述します。

>ないとみなすのが、何故、排除されるのかがよく分からない。
>そもそも、真実を言い当てられないなら、その主張は真といえるのか。

排除されていないと思います。
正直、私も禅さんの意識は分からないのですが、死刑囚さんは、「自然科学的な仮説になりえない霊魂」を「自然科学的な検証されていない、またはできない段階」で「厳密」に自然科学の範疇で「存在する」「存在しない」と断定することを科学的態度とは言えないという趣旨ではないでしょうか。
※断定できない状態を「分からない」=「留保」の状態でよい

で、「無い」と思っている立場から科学的に「無い」と断定するのと、「在る」と思っている立場から科学的に「在る」どちらも「非科学的」で同じですよみたいな事だと・・

また、「科学的仮説になりえない」=「有効な検証や再現、それらの蓄積がない」=「日常的にないとみなす」で全く問題ないと思います。

つまり、お〜い紅茶さんが言うところの「知識観(科学観)」と「世界観」を厳密に分けるか、分けないかのスタンスだと思っています。

>No.201 カツビンさんへ

考えてくださって、感謝いたします。

>ないとみなすのが、何故、排除されるのかがよく分からない。
>そもそも、真実を言い当てられないなら、その主張は真といえるのか。
排除されていないと思います。・・(中略)・・「存在する」「存在しない」と断定することを科学的態度とは言えないという趣旨ではないでしょうか。
※断定できない状態を「分からない」=「留保」の状態でよい

それがよく分からないんですよね。私にとっては、「科学的にどうか」というよりも、禅さんの主張だと、単純に「ない」いうことができないのは何故なのか、という疑問に引きずられています。つまり「ない」は「分からない」に吸収されてしまうのです。そして、この主張は真と言えるのかとつながってくる。

「あるorない」なのか「あるor分からない」のセットしか、回答はないような。

あと、「科学的」「日常的」の使い分けも実利上の問題としては分かるんですが、正直、その立場で違う認識が同居することに面食らった感じですし、しかし科学的と日常的の間にどれ程の差異が存在するのかについては、疑問を感じています。
結局のところ、この主張は正しいの? という疑問は残る訳で・・・

>No.201 カツビンさんへ

上記No.202で、禅さんの主張に対する疑義になっていますが、「判断留保」といっても、この場合「無いとみなす」可能性は、なくなっているのではないか。という主旨とお捉え下さい。

>カツビンさんへ(さらに追記です)

実は、いろいろと考えてもらっているところ、恐縮なのですが・・・

誠に勝手ながら、私としてはNo.199コメントで、なんとなくですが腑に落ちましたので、今回の議論から撤退させていただきたいと考えています。正直、疲れもありますし・・・何卒、ご了承下さい。 以下、総括です。

この手の議論は、根本仮説が絡む問題であり、双方が自明としている部分への反駁であるため、互いの問題意識が認識されにくく、意見がすれ違い続け、平行線に終わる可能性がある。

逆説的に言うならば、根本仮説が絡む問題であるが故に、「これだ」という画一的なものではなく、多様な主張が許されるのかな、と思ったりしています。

* * * *

>死刑囚さんへ

私としては、科学的立場について語っている自覚がなく、死刑囚さんがどのような主旨で発言されているのかが全く理解できず、大変失礼な発言をしてしまいました。

No.178コメント全てについて、謹んで撤回させていただきます。大変申し訳ありませんでした。

もし、何かの機会がありましたら、(これに懲りずに)今後も深い知見をご教授下さい。

P.S. ちなみに、科学哲学の本は(こちらのamazonバナーから)何冊か発注しましたが、まだ届いていません。

* * * *

>禅さん、fuka_fukaさんへ

私は、今回の議論を中座させて頂きます。これ以上、私がいて、混乱を招きたくありませんし、正直疲れました・・・

お二人の議論を見守っています。

どうも、すみません。遅くなりまして。同居している義母が旅行に行ってて、勤労に励む妻を尻目に主夫業を強いられていまして。って、そんな弁解してもしょうがないんですが。

カツビンさんやとろ助さんにも、ご登場頂いて恐縮です。

【fuka_fukaさん】
ご理解いただいたようで安心致しました。
「認知的不協和」については、やっぱりこれかなあ、と幾分消化不良ですが、のんびり整理していきます。


【お〜い紅茶さん】
ぼくの方の書き方のミスでしょうねえ。あらゆる疑問を排除した上での前提という事にでもすれば良かったのかも知れません。失礼致しました。屋上屋を架す事は、もう避けたいので、今、疑問に思われている部分だけ。

ぼくが無造作に「科学的」という言葉を使ったせいで、問題になっているのかも知れません。ですから、呼称は何でも結構ですよ。

霊魂がある事を証明出来ないし、ない事も証明なら、ぼくは「霊魂の存在」については、「分からない」という結論です。人間の生命終息後も、その個体が持っていた意識は、その同一性を存続する場合もあるかも知れない、とでも言われたら、あり得るかも、と思いますが。

で、「霊魂の存在」が証明出来ないなら、霊魂は存在しない、という発想は科学的ではないと思っていた訳です。それは、科学的発想とは言わないと指摘されたので、「あー、そうだったんですね」と言うしかないです。

理論的ではないかも知れませんが、「霊魂の存在」が証明出来ないなら、霊魂は存在しない、という発想は、ぼくの理屈に合わない、と言えばいいかも知れませんね。

ぼく自身、「そんな物はない」と証明する事も出来ませんし、「それはある」と断定して万人を納得させる根拠もないので、『禅的思考』という呼称でもいいんですが、別にぼくだけの特別な考え方じゃないでしょうから、自分のHNを冠するのも珍妙ですね。

本来、科学的な発想はこうだ、と言われれば、「なるほど、そうだったんですね」と呼び方、科学的な発想の考え方を変更するだけで、ぼくの「ある・ない・分からない」の考え方が変わる訳ではないですし、論理的に隙はないと思っている訳でもないです。

じゃ、「霊魂はあり得るのか?」と問われれば、言葉の上ではあり得るでしょうねえ。「分からない」という立場ですから。でも、事実上の立証は極めて困難だと思います。

江原氏の「霊視」とかいうのについても、同様で「分からない」です。分かりませんが、何の証明もなく「霊視」というものが出来ると公言し、それを利用して生業にしている人、という事の証明は可能だろうと思います。

No.173 禅さん

書いてる文が禅さんのNo.205と少しかぶっています。

少し失礼ですいません。これは私の勝手なイメージで、「禅さん」という名前から禅さんが「禅的な考え」(禅宗の禅です)を持っていると勝手に思っていて、これも私の勝手な解釈となけなしの知識から考える「禅」ですが、「混沌は混沌のままに」「曖昧な概念を曖昧のままとらえる」「追いかけるほど遠ざかり、求めるほど、逸れていく」などで、適当です。(お〜い紅茶さんが詳しそうですが)それと科学の「学」ではなく、「術」的世界と親和性があるのかなとこれまた勝手な判断です。今まで書いた文を読んだ印象で。
だから、No.22を読んだ時も「客観的に存在する」「科学的証明」「科学的発想」の使い方がおかしいとは感じましたが、三つの言葉に「禅さん的に」と頭につけて解釈してました。私が良く使っている「私の解釈する」と同じです。(私の解釈というのは”予防線”です) それと、禅さんのいつも書いているエッセイ的文として解釈しました。それでも、あのエントリー(スピリチュアル問題)だったのでまずかったのかなと思います。

「こころがある」とすれば何かしらの現象として(霊魂があるに比べて)感じることができるので具体的な話ができるのではないかと思ってNo.167を書いたのですが、そう上手くはいきません。流れとしても。霊の力恐るべしです。では、また。

P.Sそんなに「議論する」という感じでもないのに議論になってしまったという印象です。

オカルトつながりと言うわけではありませんが(笑)自動車用品の世界でとかく言われる『オカルト系』商品に、公取の排除命令が出るようです

「霊魂」よりもはるかに検証可能性が高いはずのものですが、今回指摘された商品以外にも様々な『オカルト』が自動車用品の世界には存在し、かつ『効果があった!』と述べるユーザー(信者?)も後を絶ちません。

記事本文に出てくる

 メーカー側は「商品にはエンジンの熱や電磁波を反射する元素結晶体を入れている。利用者からも効果を示す報告があり、実験データもある」と反論。「裁判になっても争う」と話している。一方で「なぜ結晶体が燃費を向上させるのか、解明されていない理論も残っている」とも話している。

なんぞ、まさしくオカルトのオカルトたるゆえんだと私などはニヤニヤしながら読んでしまうのですが……メーカー系の販社(ディーラー)でも取り扱ってたりするのが頭の痛いところです。

>No.204 お〜い紅茶さん

了解です。仰るとおり、根本仮説が絡む問題この手の話は、何が正解かなんていう議論は困難だと思います。
よって、意見の多様性も許容できる話だとも思います。
私はこのような解釈もあるという程度で、相手の意見を変えさせることを目指していませんでした。
この議論を通して私自信も考えの整理ができたと思うので、無駄ではなかったと感じてます。
他の話題でもよろしくお願いします。

ぐら虫さん

ちょっと打ち損じを発見したので、まず訂正。

[霊魂がある事を証明出来ないし、ない事も証明なら、ぼくは「霊魂の存在」については、「分からない」という結論です。]

[霊魂がある事を証明出来ないし、ない事も証明出来ないなら、ぼくは「霊魂の存在」については、「分からない」という結論です。]


「科学的証明」、「科学的発想」については、いろいろと指摘されるところを見ると、ぼくもよく分かって居ないんでしょう。「客観的に存在する」については、「ある・ない」(客観的)と「信じる・信じない」(主観的)を区別するために、使いました。客観的というのは、「神の視点」とでも解釈した方がいいかも知れません。

心の問題にしても、意識の問題にしても、まだ未解明なんでしょう。ぼくとしても謎の部分です。

脳の構造を分析して、それを機能別に分類したとしても、それらを全部総合して、取りまとめる意識の物理的な素地になるものは何?それから心とは?といっても、まだ分からない部分なんでしょう。

PCは自我を持つことが出来るのか?みたいな話になって来そうです。

ぼくは、議論の相手になるような論客でもないので、対話という感じなんですけどねえ。

ここ数日、モトケンさんのブログを拝見せずにおりました。

>カツビンさん
いつも皆さんのコメントから色々知見を得させて頂いていますので、私のコメントも多少は役に立ったというか、面白いと思って頂けたならば幸いです(^^)

また、カツビンさんとお〜い紅茶さんの間の一連のやり取りを拝見して、【証明】という言葉の射程が色々異なっていたことが、混乱の一因だったのでないかと思いました。本当に、とても参考になりました。

【証明】という時まず一番に想起するのは、(私の勝手な想像かもしれませんが、)禅さんと私は【科学的証明】であり、fuka_fukaさんにおいては【妥当な証明】など…たとえば、法廷の場では真か偽かという判決を求められるので、出来るだけ「1か0」のような二値論理に近づけようとされる志向性があるのかな?と思いました。お〜い紅茶さんにおいては、独我論の立場から、科学的証明と日常的(便宜上の証明)などを区別せず、全ては「信じる」に還元され、「信じる/信じない」の二値のみになるのかもしれません。
【証明】というコトバに対して想起する内容の相違に関して、特に甲乙をつけようとは思いません。(ケース・バイ・ケースかなぁ…と思います。)

【科学】というコトバについても、私はまず【自然科学】を想起しました。
私の専攻分野も、「社会科学」等と呼ばれたりしていましたが、内実は、「科学にならねばならない」といテーマの新著が出ているような感じでしたもので…。
ただ、(自然)科学以外の分野の研究の中にも、価値ある物は多いだろうと思っています。「(自然)科学以外は認めない」という考えの方が極端だろうと思っています。

そのため、私にとっては「科学的発想ではない」というコトバが、直ちに「間違った発想だ」等という意味の批判になるとは思っていませんでした。
先に、【科学】や【証明】などのコトバの定義を明確にしておけば、これほどの混乱は起きなかったのかもしれませんね…。


>お〜い紅茶さん

>No.178コメント全てについて、謹んで撤回させていただきます。大変申し訳ありませんでした。

了解しました(^^)ほっ…。
こちらこそ、また、何か機会がございましたら、宜しくお願い致しますm(_ _)m

>No.187 ぐら虫さん

お返事有り難うございます。

「コトバ」を使う限り難しいのではないでしょうか?言語が一つにならないように。「認識論」というのは、 一人一人が意識し考えれば考える程、増えていくものではないでしょうか?

人間の持つ認識論に一定の傾向性が見出せるとすれば、それに対する進化学的アプローチの可能性があるのではないか(そして人間達の知見が蓄積され、人間達に新たな問いが生じることもあるのではないか)という見込みを持っています。

(N=1のサンプルに過ぎませんが、ウィトゲンシュタイン、カント、フッサール等を全く知らずとも、何故、独我論や、現象学等の端緒となるような疑問を抱いていたのか、そして、私が素朴に逡巡としてきた事を、既に学問的に突き詰めて考えていた人達がいたのか、ということの不思議さを思います。)

「コトバ」による伝達は、このような人間達の知的営みを大いに助けるのだろうと思いますが、「コトバ」が伝達手段の全てだとは私は考えておりません。
そして、生物学的認識論という根本仮説の方に、私は賭けようとしています(^^)
賭けですので、積極的に他の「根本仮説」を否定するつもりはありません。とりあえず、「やってみよー」という人達を応援するとか、その人達の研究に興味を抱くといった所です。

* * *

昼寝さんを巡るお話の件については、少しだけ…。
結果として、「ぐら虫さんは、昼寝さんから反論が来ることを期待してコメントをされていたこと(すなわち、昼寝さんを排斥するつもりはなかったのだ、と受け取りました)」をという趣旨のコメントを、ぐら虫さん自身から引き出せましたので、私としては(期待以上の)大成功でした。
懲戒請求騒動の件については、「今枝ブログ雑感」エントリNo.185で書いたように、寝言でまで「H弁護士を認めない」と口走っていた私が、なぜ敢えて昼寝さんを擁護して、ぐら虫さん達からの反論を望んでいたのか、お察し頂ければ幸いです。

* * *

今回は禅さんがいるので、(討論の場合)明確に禅さんを擁護する立場(昼寝さんの時と同じ)で書くか、禅さんとは関係なしに(もちろん、禅さんの文を使ってもいいのですが)お〜い紅茶さんやりとりする方が分かりやすかったと思います。 「議論」の主題(議題)が明確になったり、ぼやけりしたしたのがまずかったのかなと思います

後から振り返って見ればそうなるでしょうが、それを要求されるのは、若干手厳しいですね…(^^;

もっとも、「まあ、そんな訳で、科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。(No.22 禅さんのコメント」に対しては、No.25で既に見解を示しています。この点については、私の立場は当初から明確にしていました。

「反駁する意図はない、対話がしたい」等と書いていたのは、「独我論」「観念論」に対してでした。そして、お〜い紅茶さんが「独我論」の立場を自覚された場合は、No.22の禅さんのコメントに関する議論に再び参加されることはなく「沈黙」されるだろうと楽観的に考えていました。
(なぜ、そのように考えてしまったかというと、No.99で書いたように、独我論者の考える「《哲学》という語は、自然科学と並存するものではなく、自然科学の上か、あるいはその下に位るものを意味せねばならぬ。」となるから、お〜い紅茶さんが独我論者であることを自覚された後は、禅さんとの間の議論に再度参加される事はないだろうと思い込んでいたからでした…。)
実際の展開は私の予想に反しましたが、そのような展開を予め察知するのは、私には難しかったです…orz

* * *

確かに、当初から、お〜い紅茶さんが独我論者として意見を仰っている事を私が見抜けていたならば、「独我論の立場も『あり』だとは思うので、その事自体に反論はしようと思っていません。ただ、『あるという科学的証明がないならば、ない』という科学の話題について、お〜い紅茶さんは特に反駁する必要もないのではないでしょうか?」と、まず質問したかもしれません。
そうしたら、もっと早い段階で、もしかしたら【科学】というコトバの射程が異なるだけかもしれない、と気づけたかもしれません。

この点で、私の勘違いの可能性もありますが、お〜い紅茶さんは独我論に立ちながら、独我論の立場として終始一貫はしていないように思いました。
そして、それは私も同様でして、「独我論は認めない!」とか「絶対、道具主義者が正しいんだ!」と言い張れる程、終始一貫した姿勢を持っていませんでした。
(途中、ぐら虫さんから、その点ご指摘されて、今回再考した結果、私はやはり道具主義者の立場…というか、進化学的なアプローチを取る方に賭けようと思いましたが。それでも「独我論」を積極的に否定する気は起きません。多分、進化学的アプローチと独我論は相容れずとも、対決しないだろうという漠然とした見通しをとりあえず立ててはおります。もっとも、これも早計かもしれず、もう少し考えないと分りませんが。)

そんな時に、「私は、禅さん擁護 & お〜い紅茶さん批判しまーす」とか、「いやいや、禅さん批判 & お〜い紅茶さん擁護しまーす」なんて言ってもあまり意味がないように思いました…。

このような場合は、お互いに意見交換することで、自分が気づかずに取っていた立場を改めて認識したり、共通項があるかないかを「すり合わせ」したり、そのような手続きの中で、対立ポイントについては洗い出したり出来れば、有意義だろうと思っていました。

上記説明をご覧頂いた上でも、ぐら虫さんから見ると、「いやいや、死刑囚は、お〜い紅茶さんの方に手厳しく、禅さんには甘い」等と思われるでしょうか…。

もし、そう思われるのだとしたら、禅さんは、元エントリNo.70で、「今日は、自分の言いたい事を何とか理解していただこうと四苦八苦して、疲弊してしまいました。ですから、申し訳ありませんが、これで失礼致します。」と仰り、私のツッコミ(?)を早々に留保しておられるのに対して、お〜い紅茶さんは、「小会議室(その2)No.98コメントにて、主張させて頂きました。」と、どんどん新たな検討材料を提供されたという違いに拠るものではないかと思います。

P.S この議論も「構造構成主義」の「信念対立を超克」のモデルケースと考えれば?(No.187 ぐら虫さん)

「信念対立の超克に失敗したモデル」になるのかもしれないという意味でしょうか?

「信念対立の超克」がよく分らず適当に検索したところ、下記のような説明がありました。

構造構成主義は、信念対立を超克するために、絶対的明証性が確保された地点から論理を組み立てる。したがって、構造構成主義では人為的に構成された「構造」よりも、「現象」を第一義に尊重することになる。現象とは、経験を通して各人に立ち現れたすべての何かである。構造とは、同一性と同一性の関係形式とそれらの総体による存在論的な概念である。
構造は、現象を同一性で構造化したものであることから、原理的に懐疑の余地があり、修正したり、洗練したりする可能性に開かれている。しかし、現象はその中身に関係なく、疑いようなく立ち現れている。したがって、疑いようのある構造と疑いようのない現象とでは、現象が尊重されることになる。なお、構造構成主義では夢や錯覚も現象に包含される。
ttp://www.weblio.jp/content/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9(h抜き)

リンク先の上記説明を拝見する限り、「絶対的明証性が確保された地点」とは、「経験を通して各人に立ち現れたすべての何か(現象)」のことを言っているようですね。
そうなると、構造構成主義の立場からは、例えば、幻覚を見た人間に立ち現れた「亡くなった弟が目前にいた」という現象あったとしたら、それは疑いようのない現象が尊重されるべきことである、という事になるのでしょう。
構造構成主義の立場から「信念対立の超克」に成功していたのであれば、禅さんの“例え話”(「xが目前にあったので、とりあえずxが居ると信じた」という“例え話”)が受け容れられず、その前段階のすり合わせで消耗するという事はなかったのかもしれませんね。

散漫になりましたが、ぐら虫さんのコメントを拝見すると、いつも色々と考えさせられます。
有り難うございます。

No.211にまたもや訂正が…。
×ただ、『あるという科学的証明がないならば、ない』という科学の話題について、

○ただ、『あるという科学的証明がないならば、ない』というのは科学的発想か?という科学の話題について、

* * *

>No.207 惰眠さん

「霊魂ネタ」以外の話題がふられて、なんとなく、ほっとしています。

 公取委幹部は「購入した人は、効果が出たかどうか確認するため、普段よりも気をつかって運転する。効果があると感じるのは乗り方が違うからであって、商品は『お守り』的な役割しか果たしていない」と話す。(ご紹介のリンク先より)

プラセボ効果って奴でしょうかね?(ちょっと違いますかね?^^;)
信じるものは救われるというか、なんというか…。

「科学的」根拠が無いとみなされる場合は、「効果がある」と宣伝して商売にしてしまっては、マズイ…という所でしょうかね?

そうなると、神社などで売っている「お守り」などはどうなるのかな…と疑問を持ってしまいました。
(慣習とか、伝統的に、神社などで売っている「お守り」はOKになるのかなぁ…。)

「宗教と金」の問題と同様に、どこまでが許されて、「どこまでが許され、どこまでが許されない」と「みなす」か取り決める際には、科学的根拠だけが唯一の線引きにはなっていないんでしょうね、きっと…。

追記:
上記で、【神社などで売っている「お守り」】として想定していたのは、ちょうど私が持っていた「頭痛封じのお守り」を念頭に置いていました。

神社などで売っている「お守り」の中で、効果について具体的な説明がないならば検証の対象のしようがないかもしれませんが、具体的な効果(頭痛がなくなる等)が記されたものについては、検証しようがあるかもしれません。(もっとも、検証しようとした人もおらず、「分らない」ままにされているのかもしれませんが。)

連投になり、すみませんでしたm(_ _)m

すごく浅い部分で解釈して横から口をだしちょっと後悔中(恥;)。
ROMって勉強させていただきます。

>とろ助様

よって、お互い語ってる「科学的」が違うととらえました。(No.193 とろ助さん のコメント)

上記も、カツビンさんのコメントであると、混同してしまっておりました…。
上記ご指摘は、シンプルですが、的を射ていると思っていました。
なんか難しく考えすぎて、ややこしくなっていた私の頭に、喝を入れられたというようなインパクトのある一文だったのでした。

そのご指摘が正しかったのだろうという事が、その後に続くカツビンさんとお〜い紅茶さんの間のやり取りの内容から支持され、明瞭になったという感じでした。

No.211 死刑囚さん

結構、書くのが難しくて上手くいきませんでした。

もともと、私の場合「事実とは何か?」を考える上で認識論を意識したのかなと思います。それでもその時、どこまで認識論自体を考えたのか今となってはハッキリしませんが。「事実とは何か」『本多勝一』の影響だろうと考えます。

>人間の持つ認識論に一定の傾向性

大きく分けて、「宇宙 生命 脳」になるのかなと考えます。そうすれば、私は「脳」ということになります?

「後から振り返って見ればそうなるでしょうが、それを要求されるのは、若干手厳しいですね…」

あとで読み返すと完全な後出しジャンケン文なんで申し訳ないです。感想のような感じで書こうとしたのですが。また、感想の文を書いたのですが、やっぱり後出し文なので少しだけ。

あくまで例えですが、禅さんが「分からない」を守る立場でお〜い紅茶さんが「わからない」を否定して「ないとみなす」立場 として、死刑囚さんはどういう立ち位置なのかが明確になっていなかったのかなと思いました。

「いやいや、死刑囚は、お〜い紅茶さんの方に手厳しく、禅さんには甘い」等と思われるでしょうか…。」

どう書いてもまた、ほじくり返すことになるため少しだけ。いや、そんなことは思っていません。お〜い紅茶さんの方に手厳しくしても議論なれ(お〜い紅茶さん、すいません)しているのでだいじょうぶでしょう。私の場合、口でする議論は得意な方ですが、書いてするのは苦手なので甘くお願いします。昼寝さんみたいに早く書ければいいのですが。

別の所にも少し書いたことがありますが、「例え」(たとえ)で「討論」は難しいと考えています。基本的には、例えるのが好きな方ですが、「討論」においては極力排除します。具体的な例をだして(私の場合は相手の文)するのいいのだろうと思います。

「信念対立の超克に失敗したモデル」になるのかもしれないという意味でしょうか?

すいません。「信念対立の超克」もそんなに考えて(そんなに知らない)書いたわけではないので 「成功、失敗」なんて思っていません。
もともと、”成功 ”しないから(決定的な対立をうむ可能性があるから)こそ「構造構成主義」を考えたと思います。見方(その人とらえ方)によるのではないでしょうか?(半分逃げた文ですいません)
「信念対立の超克」の私の解釈ですが、まず自らの「立場」を明確にし、その「立場」を()かっこいれて議論する。
その前になぜその「立場」なのかを明確にする必要があるのだろうと思います。では、また。

>No.210 死刑囚さん

蒸し返しになりそうで怖いのですが、一つだけ確認させてください。
※例を用いると混乱しそうですが・・・

死刑囚さんが言われるところの【科学的証明】【妥当的証明】って以下の理解でよろしいでしょうか?

【科学的証明】
ある「事象」があり、その「事象」を説明するために都合のよい(既に認知されている理論に合致する)、「A」という未知物質の存在を仮定する場合、なかなか存在の立証や観測がされない状況でも、「存在が無い」という反証が明らかになるまでは、「試験・観測方法」などを疑い試行を重ね「在る」「無い」という断定を留保する態度
※科学研究など

【妥当的証明】
時間的制約の中、「在る」「無し」のどちらかを断定せざるを得ない場合、「A」という物質が観測されないまたは立証されなければ「無し」が妥当する態度
※法廷など

上の文で誤字脱字がありました。

×【妥当的証明】
○【妥当な証明】

×:立証されなければ「無し」が妥当する態度
○:立証されなければ「無し」を妥当とする態度

>No.216 ぐら虫さん

今回の一連の議論に対して、認識の違い(*)があるように思います。

(*「認識の違い」と言っても、「認識論」といった根本仮説の対立という根深い問題についての「違い」に拠るものではないと思います。念の為。)

* * *

別の所にも少し書いたことがありますが、「例え」(たとえ)で「討論」は難しいと考えています。基本的には、例えるのが好きな方ですが、「討論」においては極力排除します。具体的な例をだして(私の場合は相手の文)するのいいのだろうと思います。

この点は同意です。
私も「例え話」の使い方は難しいと思います。
そのためもあって、禅さんのコメントに関しては「例え話」の部分ではない箇所を、より重視して、禅さんの仰ろうとするところが何かを捉えようとしていました。
そうすれば、「詭弁的論理を駆使し、自分の立場を強弁する人間(No.188)」のような誤解も、もう少し早く解けただろうと思います。

* * *

あくまで例えですが、禅さんが「分からない」を守る立場でお〜い紅茶さんが「わからない」を否定して「ないとみなす」立場 として、死刑囚さんはどういう立ち位置なのかが明確になっていなかったのかなと思いました。

…恐れながら、今回の件についての例え話とするには、「例え」が悪いように思います。
もしも「今回の件についての例え話」として上記を提出される意図をお持ちでななかったのであれば、その旨明記して頂きたく思いました。

何度か申し上げておりましたように、今回の件においては、お〜い紅茶さんと禅さんの間でお話が噛み合っていないように思い、私は交通整理を行おうとしていました。
そして、ぐら虫さんの上記「例え」は、そのような交通整理役としてのコメントの意義が特に認められないような「例え話」ではないでしょうか?

「信念対立の超克」の私の解釈ですが、まず自らの「立場」を明確にし、その「立場」を()かっこいれて議論する。 その前になぜその「立場」なのかを明確にする必要があるのだろうと思います。

もしも、ぐら虫さんが、今回の件における交通整理役としての私のコメントを、「信念対立の超克」を意図したものだとお考えならば、それは誤解ですよ。念の為に。

この点については、後述しますが、まずは、交通整理として私がやろうとしていた事を、以下にだらだら書かせて頂きます。
(文章力が乏しいため、これでも推敲はしたのですが、これ以上短くなりませんでした…^^;)

* * *

お〜い紅茶さんが出された「観察の理論負荷性」という問題は、こちらにも書かれているように科学哲学上の議論が出所でして、特に、物理学という各論を主戦場にした「科学的実在論者vs(科哲の)非実在論者」の間でよく問題にされるものです。
故に、当初は「少なくともお〜い紅茶さんは、【科学的実在論者vs(科哲の)非実在論者】という対立ポイントを見出されたのだろうと推測していました。(もっとも、私の推測違いだったようですが。)

あの流れの中で、何故「観察の理論負荷性」の話題を出されたのかが、ちょっと分らず唐突に感じてはいましたが、いずれにせよ、厄介な話題なので、「議論は止めておいた方が良いのではないか」と、老婆心からお節介なコメントを差し挟んでしまいました。
その結果、計らずも会話が続くことになってしまいましたが、その途中で、やはり、お2人の間で話が噛み合っていないように思いました。そのため交通整理を行おうと試みました。

お2人に対して、「自覚されてはいらっしゃらないようだが、漠然とこういう事を考えているのではないか?」と思う内容をコメントに書いてみることで、お2人の反応を確認しました。
その結果、禅さんからはご回答は頂けませんでしたが、お〜い紅茶さんからはご回答を頂き、「独我論」のような考え方に影響されていらっしゃる事が分りました。
また、最終的には(つい最近になってやっと)、お〜い紅茶さんは、禅さんとの間の話を「霊魂を信じる派vs霊魂を信じない派」という対立問題として捉えていらっしゃっただろう事も分りました。

* * *

一方、禅さんの方ですが、「霊魂を信じる方向には行けない」と初めから仰っている事からも明らかなように、「霊魂を信じる派vs霊魂を信じない派」という議論に参加されていたつもりはないだろうと、当初より思っていました。

「目前に霊魂がいたら、霊魂があると信じる」という例え話を出されてはいるものの、(i)その先に進みたがっておられた事、(ii)下記コメント等からも明らかなように、「目前にいたから、いると信じ」た場合においても、「果たして本当に科学的にいるとか、いないとか、言えるのか?」という話の方をしたかったものと思われます。

「霊魂はあるか」という議論がありますよね。「霊魂はあるか」という問いと、「霊魂を信じるか」という問いは、全然話が違いますね。(元エントリNo.22 禅さんのコメント)

要するに、【信じる/信じない】という事と、【霊魂がいる(実在する)といえるのか、いえないのか = 科学的にどのように証明するか】という事は別だという事を、【主観】と【客観】というコトバを用いて説明しようとされていらっしゃったのだろうと推測しております。
(この推測については、当たりだろうと思っています。
そして、この推測によって、「自分の主張を隠し、他人の疑問にのっかる形で、なおかつそれを飛び越えて、相手の主張に反論を加えるがごとき討論姿勢」等のような言われ無き誤解を受けない事を祈ります。)

* * *

「目前に霊魂がいたら、霊魂があると信じる」という例え話については、独我論者であれば、「霊魂がいると信じる人にとっては、霊魂が【ある】」、「霊魂がないと信じる人にとっては、霊魂は【ない】」となるが、「霊魂がいる(実在する)か、否か」という議論については沈黙する事になると思います。

しかし、この例え話に対して、お〜い紅茶さんは「沈黙」されなかったので、(今改めて考えていたのですが、)もしかしたら「仏教の唯識思想」と独我論には異なるポイントがあるのかもしれません。よく知らないのですが、唯識思想においては「心の外には何もない(空である)」という考えが前提にあるので、既に答えを出しており、そのため、「沈黙」は選ばないのかもしれませんね…。

いずれにしても、独我論においても、仏教の唯識思想においても、「確度の高い観測結果」によって観測されたとしても、「実在する」ことにはならないのだろうと思います。

それは、美空ひばりみたいな光学現象もしくは知覚であり、昔飼っていた犬みたいな光学現象もしくは知覚であり、美空ひばりそのものではないし、昔飼っていた犬では、まだない。様々な角度から検証されなければ、断定できない。少なくとも、「死んだ者は生き返らない」という経験則を乗り越えるに足る、確度の高い観測結果がなければ。(元エントリNo.36 お〜い紅茶さんのコメント)

したがって、元エントリNo.36 お〜い紅茶さんの上記コメント部分は、独我論や唯識思想という立場からの発言ではないだろうと推測しました。
そして、その推測は、お〜い紅茶さんのNo.113やNo.120のコメントを拝見すると、当たっていたのだろうと思います。

観測者の立場のない観察は存在しない。客観性は主観性に還元される。観測機器を用いたって同じ。その機構を信じているから採用している。(No.113 お〜い紅茶さんのコメント)
ここから逆説的に導き出されるのは、観測者がいなければ世界は存在しないです。「ずいぶん、表象的で観念論的だなぁ〜」と我ながら気付いた訳です。(No.120 お〜い紅茶さん のコメント)

No.120の時点で、お〜い紅茶さんは、基本的には観念論的な考え方をしていた事を自覚されました。そして、禅さんのコメントに対する反駁において矛盾したコメントをされていらっしゃった事にも気づかれただろうと思います。

(後に明らかになったように、)お〜い紅茶さんが、仏教の唯識論の立場から、【科学的な判断…霊魂がいるといえるのか、いえないのか】と【日常的な判断…霊魂の存在を、信じる/信じない】とを区別していなかっとしても、お〜い紅茶さんにとっては、「ある/ない」の分水嶺は「証明」ではなく、最終的には「信じるか/信じないか」に還元されるのでしょう。
その事は、お〜い紅茶さん自身も下記のように述べていらっしゃいます。

そもそも世界を思惟作用(認識と置き換えも可)の産物に過ぎないとする立場からすれば、「ある」は「信じる」によって認識の中に採用された表象であり、(No.120 お〜い紅茶さんのコメント)

この時点で、私の交通整理役としての役目は果たし終わったと思っていました。

* * *

長くなりましたが、以上の経緯において、死刑囚に「科学哲学領域を含む哲学論争(No.127)」のような討論をしている意図がなかった事を納得頂けるのではないかと思います。

まず、私は「独我論」や「仏教の唯識思想」を否定しようとはしていませんでした。
そして、お〜い紅茶さんの一連のコメントの内部の矛盾点(上掲の、元エントリNo.36等と、本エントリNo.113等の間の矛盾点)について指摘した事も、お〜い紅茶さんの当初のコメントの趣旨を理解するためには、確認が必要なポイントであったからです。(理解するためには、避けては通れなかっただけです。)

お〜い紅茶さんもNo.199で「私は今、鏡を見ているような気持ちでいます。つまり、これは自分のこれまでの考え方がチェックされている状態なのです。」と仰っておられたように、死刑主は「鏡の役割」をしていたに過ぎません。

よって、下記のようにお返事させて頂きました次第です。

もし私のコメントから何かお気づきになられたのだとしても、それは、お〜い紅茶さんの思考によるものでしょう。それに立ち会えて、光栄でした(^^)(No.121 死刑囚のコメント)

仮に、私が、お〜い紅茶さんを「論争相手」としてlock onし打ち負かそう等という意図を持っていたのであれば、「そもそも世界を思惟作用(認識と置き換えも可)の産物に過ぎないとする立場」に対しては、極端な構成主義の萌芽が見えますので、「だったら、空が飛べると信じている人間は、空が飛べるんですね」等と言って、早々に斬り捨てようとしたと思いますが、実際はそうはしておりません。

* * *

いずれにせよ、独我論の話にまで及ぶのは、私にとっては予想外の展開だったのですが、上記までの時点で、交通整理に成功したと思っていました。

あとは、禅さんのコメントに対してどう思うかと、お〜い紅茶さんやぐら虫さんからも尋ねられてもいましたので、それには一応答えねばならないだろうと思い、改めて一連の膨大なコメントを読み返し始めていました。

その最中に、(私の予想に反して)お〜い紅茶さんには、まだ下記のような疑問が残っている事を知りました。

ただ、禅さんの最初の「分からないとすべき」という主張については疑問です。「霊の有無」や「科学」の問題ではなく、論理上の誤謬であるように思います。これから検討してみます。(No.127 お〜い紅茶さん のコメント)

「ウィトゲンシュタインは知りませんが独我論ということになるかと思います。」と仰っておられたので、「No.99に書いていたように、独我論であれば『科学』の話については沈黙されるだろうと思い込んでしまっておりましたから、私には予想外の展開だったのでした。

No.134で、お〜い紅茶さんが「ないと信じる」という主張が、「世界観と弁証上の立場という二重性を持っていること」に既に気づかれた筈なのに、なぜまた同じ土俵に戻してしまったのだろうかと。
この時点で、私の交通整理は振り出しに戻ったように思いました。

振り出しに戻ってしまったように見えた原因が、【科学的判断】と、【日常的な(合理的)判断】の区別をされていらっしゃらない事だったとは、その時は、気づいておりませんでしたのでね。
そして、カツビンさん達が、「科学」というコトバの射程が異なっていた事を明らかにして下さった時点で、本当に交通整理は終わったのだろうと思います。

どーも、私にとっては、世界観の変更を求められていたような。(あくまで暫定的な見解です)(No.199 お〜い紅茶さんのコメント)
と仰っておられるような、お〜い紅茶さんの世界観の変更を求めるような意図は、少なくとも私にはありませんでした。 お〜い紅茶さんが、【科学的判断】と【日常的な(合理的)判断】の区別をつけていらっしゃらないことに気づかなかっただけです。 (気づかなかったのは、No.99に書いたように、お〜い紅茶さんの立場を理解する際に、ウィトを参考にしてしまっていた為だと思います。)

こうして交通整理が終わった時点で、本当の意味での、根本仮説の対立に根付いた議論が始まるのだろうか…と心配しておりましたが、お〜い紅茶さんが禅さんのコメントに反駁の必要を感じた動機は、ひとまず下記にて解消されたように見えました。

【日常的に『霊魂はないとみなす』立場から「スピリチュアル」問題に反駁することが許容される】のは自明ではないでしょうかね。
えっ!! そうなの。その部分を否定したいんじゃなかったんだ。(No.188 お〜い紅茶さん のコメント)

以上から、お〜い紅茶さんが、ひとまず議論から去られたのは、とりあえず【詭弁的論理を駆使し、自分の立場(「霊魂はないとみなす立場」を否定する立場)を強弁する人間】がいなかっただろう事に気づかれたからではないのでしょうか?
言い換えれば、お〜い紅茶さんが反駁の必要性を感じていらっしゃったような「主要な問題意識」は、【一般哲学でいう所の実在論vs観念論】という「信念対立」においてではなく、【霊魂信じる派vs霊魂信じない派】という意味の「信念対立」の議論においてであり、今回の件では後者の議論は元々なかったことに気づかれたからではないでしょうかね…?

* * *

すいません。「信念対立の超克」もそんなに考えて(そんなに知らない)書いたわけではないので 「成功、失敗」なんて思っていません。

いえいえ…。
私の方は構造構成主義者が唱える「信念対立の超克」どころか、構造構成主義者の著作を一冊も読んだことはありません(^^;

P.S この議論も「構造構成主義」の「信念対立を超克」のモデルケースと考えれば?(No.187 ぐら虫さんのコメント)
というように、ぐら虫さんの文章が疑問形になっていたので、ご質問なのだろうと思っていただけなのでした。

そして、「信念対立の超克」とは一体どのようにすれば可能なのか?そもそも可能なのか?少なくとも、簡単な事ではないと思ったので、何かヒントを出されているのかと…。何か意味深いことをぐら虫さんから指摘されたのだろうと思い、深読みしてしまったようです…。
失礼致しましたm(_ _)m

なお、池田清彦氏というお名前だけは存じ上げていた方が、構造構成主義者であることを知ったのも、ぐら虫さんが仰った「構造構成主義」という言葉を調べていく中で今回初めて知りました。
池田氏のことは三中信宏氏(生物系統学者)の著作の中でお名前だけは存じ上げていました。池田氏は進化学に関しても色々と発言されたり、著作を出されたりしていらっしゃるようです。池田氏のご発言内容はWikipedia-構造主義のページの「生物学における構造主義(構造主義生物学)」の項目に纏められているようです。
もっとも、私は、その内容について詳しくは知らないので、個人的な判断は留保しています。そして、進化学という各論における構造構成主義についてよく知らないだけではなく、全般的な構造構成主義自体についても知らないので、今の所はとくに何とも言えません。念の為。

* * *

「信念対立の超克」の私の解釈ですが、まず自らの「立場」を明確にし、その「立場」を()かっこいれて議論する。 その前になぜその「立場」なのかを明確にする必要があるのだろうと思います。

まさか、「(科学的実在論vs(科哲における)非実在論という信念対立に及ぶような議論は厄介なので、止めた方が良いのでは」というお節介コメントをする時まで、「(どっちの味方につくのか)自分の立ち位置を明らかにせよ」という意味ではありませんよね?(そのような事は無いと思いますが…。)

また、だいぶ上の方でも述べた通り、そのお節介コメント以降の、交通整理役としての私のコメントは、「信念対立の超克」のような大それた野望を意図したものではありませんでした。
信念対立以前の段階で、なにやら話が噛み合っていないような感じがしたので、せいぜい、その点を整理しようと試みていたに過ぎません。

ぐら虫さんから「死刑囚は、外部世界を認めるのか?」というご質問を頂きましたので、真摯に回答致しましたが、そのために、あらぬ誤解を受ける事になるのであれば、ご質問には回答すべきではなかったのかもしれませんね…orz

もっとも、あれから新たに、科学哲学の本(「科学哲学の冒険」)を読んだのですが、やはり、私が影響されている、道具主義(科学哲学における非実在論)の立場は、ローカルな実在論者であり、ローカルな観念論者である事が分りました。
私が観念論を全否定できず、実在論も全否定できなかった事は、「真正面から反論を受ける事を避けるような卑怯者のやり口」などではない事をご理解頂きたい所です。
もっとも、これでダメなら、もう諦めます(^^)/

ところで、平行して話しおります下記の件は、ぐら虫さんにとって「討論」だったのですか?それとも、「対話」ですか…?

大きく分けて、「宇宙 生命 脳」になるのかなと考えます。そうすれば、私は「脳」ということになります?

私は「対話」のつもりでおりましたが、もし「討論」だったのであれば、ぐら虫さんの流儀に従って、先にどのような立場からのご発言かを明確にして頂きたくお願い致します。
私は、このお話においては、「道具主義に賭ける」と立場を明確にしましたが、ぐら虫さんの立場はよく分っていません…。

私自身はあまり、自分を「何々主義」と考えていなくて、死刑囚さんの文を読んで「オレて、社会構成主義?構造主義?」と考えた次第です。だから、結構、矛盾したことも書いているので途中で、アレ?道具主義の部分もあると思っていました。いまだにあまり良くわかりませんが。(No.187 ぐら虫さんのコメント)

いずれにしても、「具体的な作業を通じてしか論証できない事柄」だと思っていますので、今ここで討論しても実りないように思っています。

* * *

これまで、敢えて、お〜い紅茶さんのNo.199のコメント「どーも、私にとっては、世界観の変更を求められていたような。(あくまで暫定的な見解です)」については触れないようにしていました(暫定と仰っていましたしね)。

でも、ぐら虫さんにお返事する中で、計らずも、世界観の対立は「カガク」というコトバの射程のズレにおいて見られた事に気づいた時点で、すなわち、世界観の変更を求められるような対立的な議論に発展する前に、お〜い紅茶さんは議論から去られていらっしゃる事について、触れざるを得ませんでした…。

ところで、No.199のコメントについて触れてしまったので、下記について返答させて頂きます。

>No.199 お〜い紅茶さんへ

どーも、この手の議論に、下手なデータを実装していることが仇となっているようです。詭弁的論理を駆使し、自分の立場を強弁する人間に関するデータを持ちすぎている。少なくとも、前回、早期に死刑囚さんをオカルティスト規定したのと、まったく同じ領域のデータが照合に使われたのでしょう。

死刑囚さん、大変申し訳ありませんでした。ごめんなさい。怒ってます?(No.199 お〜い紅茶さんのコメント)

「私の方は、別件でまたコメントを交わすことがあったら、とくに今回の件は気にするつもりはございません(No.179)」と書いた通りでした。

オカルティストと誤解された時のように、よく話し合えば誤解は解けるだろうと信じてはいましたが、長く続くやり取りによって体力的に消耗してしまっていたので、これ以上おつきあいできないという、文面通りの意味でした。

個人的に、お〜い紅茶さんの文章力は好きなのですよ…。
その分、その文章力でのあるコメントと、私の冗長なコメントを比較され、ROM者の方からも同様の誤解を受けたら、非常に恐ろしいなぁ…と思っていました。
「他のROM者の方達からも誤解を受けているかもしれない」と思うと怖くて、数日、こちらのエントリも、モトケンさんのブログも見れない程度に怖かったです…(^^;
この点、カツビンさんにフォロー頂き、誤解は解いてもらえましたので、非常に助かりました。
改めて、有り難うございますm(_ _)m

ところで、もし、お〜い紅茶さんが禅さんのコメントに対して「詭弁的論理を駆使し、自分の立場を強弁する人間」のやり方だと思っていらっしゃったのならば、それはお〜い紅茶さんの誤解だったろうと思います。

ではでは。

No.219 で引用に失敗していました…。

>死刑囚さん、大変申し訳ありませんでした。ごめんなさい。怒ってます?(No.199 お〜い紅茶さんのコメント)

という文も引用枠に入れる筈でしたが、外に出てしまっておりました。

* * *

>No.217 カツビンさん

いわゆる【科学的証明】については、一口には語れません。
もし、カツビンさんに判り易く簡単に説明できたら、私は、最も素晴らしい科学哲学者になれるだろうと思います。

とりあえず、少しだけでもトライしみようと思いますが、家人が帰って来ましたので、また後日になりますが、ご了承下さいm(_ _)m

(最近、主婦失格気味なので、夫婦の危機に発展しそうなので…(^^:←お見苦しい所失礼致しました。)

>No.220 死刑囚さん

時間に余裕があるときでかまわないので、家庭を大事にしてあげてください。
(何度も夫婦危機を味わっているカツビンより・・)

>No.217 カツビンさん

死刑囚さんが言われるところの【科学的証明】【妥当的証明】って以下の理解でよろしいでしょうか?

難しいご質問を頂きました…。

科学者の個別研究は、その時々に生じたカガクの具体的な問題を解決するために行われ、積み重なっていきます。
そうした大勢の科学者達による科学的知識は、遅かれ早かれ組織化されるようになり、そして、戸山田氏は「科学的知識を『組織化され制度化されたフォーラム』として提供することが、科学哲学の仕事だと考えていらっしゃるようです。

このような中で、死刑囚の言う所の【科学的証明】というのは何か?と聞かれると、慎重にならざるを得ません。
【科学的証明】というコトバからは、「仮説の検証」等を想起します。
そして、仮説の検証を述べるには【科学的方法】について話さねばならず、その際に「帰納」や「演繹」にも触れずにはいられませんが、一口に説明できる自信はありません…(汗。
ふと、某数学者の方が「演繹と帰納って何ですか?」と素朴な質問を受けた際、かなりビビッていた事を思い出しました。
数学者もビビる「演繹と帰納って何ですか?」という問いは、「【科学的証明】とは何か?」について話す際に避けては通れません…orz
私には荷が重すぎますが…、少しだけでもトライしてみます…(><)

* * *

※以下、「科学哲学入門」(内井惣七著)、「科学哲学の冒険」(戸山田和久)、論理学(野矢茂樹著)などを参考にします。
既にご存知かもしれませんが、とりあえず書かせて頂きます。
エクスキューズですが(^^;)科学を専攻していた訳でも何でもないので、もし、不備や、もっと分り易い説明方法をご存知でしたらば、ご教示頂ければ有り難いですm(_ _)m

一番避けて通りたい話しだったのですが、なぜ、こんな事になっちゃんただろう…と思っています…。

* * *

今回の件でお話している時(「討論」している時?^^;もうどっちでもいいデス…orz)、「科学的証明」について話す前に、まず「証明」という時、皆さんが想定している概念は、どんなものなのだろう…?と思っていました。

「証明」とは、何かが間違いない事を明らかにする為の手続き?何かが正しいという事の根拠を示すこと?でしょうかね。
とりあえず、証明は、特に「自然科学」の専売特許というものではなく、そもそも、「自然科学」と「哲学」は分かたれていない時もありました。
また、科学者であり哲学者という方もいました。

とりあえず、「証明」とは、いくつかの文とか命題を「前提」にして、そこから「結論」と呼ばれる文や命題を導き出す事だとします。これは「論証」と呼ばれるもので、「推論」と同じようなモノです。
大まかな話ですが、推論には、「正しい事を言うのに強い推論」と、「新しい事を言うのに強い推論」があるそうです。そのような推論の規則のうち、前者を【妥当な演繹】、後者を【帰納】と呼ぶことにします。
そして、「証明」とは「前提」を使い、推論規則を適用して、結論を導く事だと致します。
ひとまず、証明には、「正しい事を言うのに強い推論」である【妥当な演繹】を適用したら良さそうですね。

【正しい演繹】とは、【前提が正しければ、必ず結論も正しい】【前提を認めれば、否応なく結論を認めざるを得ない】ような推論(真理保存的な推論)だとします。
推論規則というのは、哲学と科学が分けられる前から「推論の正しさとは何だろうか?」という問いを考えて来た人間達によって整理され、論理学となりました。
そして、先の【正しい演繹】とは、論理学では【妥当な演繹】と呼ばれるそうです。

* * *

補足:
能書きだけでは分り難いかもしれないので、とりあえず下記の三段論法が、それぞれ【妥当な演繹】か【非妥当な演繹】かを確認してみましょう…。
(三段論法は【2つの「前提」から一つの結論を導く】という推論の基本形です。)

1.

刑罰が科される行為は、構成要件該当性を有する(前提)

構成要件該当性を有しない。(前提)

したがって、刑罰は科されない行為である。(結論)

2.

すべてのサラブレットは馬である。(前提)

すべての馬は動物である。(前提)

それゆえ、すべてのサラブレットは動物である。(結論)

上記1は、モードゥス・トレンス (modus tollence)、上記2は、モードゥス・ポネンス (modus ponens)と呼ばれているそうです。

1.

AならばBである。(前提)

Bでない。(前提)

したがって、Aでない。(結論)
(modus tollence)

2.

AならばBである。(前提)

Aである。(前提)

Bである。(結論)
(modus ponens)

両方とも2つの前提が真である限り、結論も必ず真になるという形式ですので、【妥当な演繹】だと言えます。
演繹は妥当であるかどうかは、演繹が何についての話かという内容についてではなく、演繹の形によってだけ決まります。

ゆえに、下記の例なども全て、内容の是非はともかく、【妥当な演繹】だと言えます。

行為者に刑罰が科されるならば、その行為者には責任能力がある。(前提)

Aには責任能力がない。(前提)

したがって、Aには刑罰が科されない。(結論)

すべての敬虔なクリスチャンならば、霊魂を信じる。(前提)

霊魂を信じるならば、オカルティストである。(前提)

したがって、すべての敬虔なクリスチャンは、オカルティストである(結論)

すべての仏教の唯識思想者は、実在を一切認めない。(前提)

実在を一切認めないならば、(自然)科学を認めない。(前提)

したがって、すべての仏教の唯識思想者は、(自然)科学を認めない。(結論)

胃潰瘍ならば、胃液と接触する胃に限局的な組織欠損がみられる。(前提)

胃液と接触する胃に限局的な組織欠損がみられない。(前提)

胃潰瘍ではない。(結論)

* * *

上記のような【妥当な演繹】は、確かに真理保存的ですが、それと引き換えに、情報量は増えません。

行為者に刑罰が科されるならば、その行為者には責任能力がある。(前提)

Aには責任能力がない。(前提)

したがって、Aには刑罰が科されない。(結論)

たとえば、上記の例の場合、「Aには責任能力が有るのか、無いのか」という事を疑問に思っても、上記推論(【妥当な演繹】)からは、新たな情報は得られません。
つまり、【妥当な演繹】は「正しい」には強いが「新しい」には弱い推論です。

* * *

ひとまず、「証明」の際に、【演繹】を使用しました。
さて、「霊魂の存在の有無」について「証明」するには、どうしたら良いでしょうか…?(個人的には、別に証明したい訳ではありませんが^^;)
「霊魂が存在するという証明がないから、霊魂は存在しない」というのは、どういう意味なのでしょうか?
この時不思議に思っていたのは、そもそも、「霊魂が存在するという証明」ってどんなモノだろうか?という事です。
言い換えれば、どんな「前提」があれば、「霊魂が存在するという結論」を、【演繹】を適用して、導き出せるのでしょうか?

* * *

こんな研究があったと聞いた事があります。本当か嘘かよく知りませんが。

死んだならば、霊魂が肉体(死体)から抜ける。(前提1)
霊魂には重量がある。(前提2)

これならば、霊魂という漠然とした概念に、それを表す抽象的な概念に、「重量が有る」という操作的な定義が与えられました…!

霊魂に関して上記2つの前提が真ならば、霊魂の存在の有無を、死ぬ直前の肉体と、死んだ直後の肉体(死体)の重量は、霊魂の重量とみなす事が出来るかもしれません。
そこで、上記1と2の前提から、仮説を立てる事にします。

仮説:死ぬ直前・直後で、肉体の重量に差異があるならば、霊魂がある。(前提)
実際に測定した結果、死ぬ直後・直前の重量に 差異があるならば、【演繹】を適用して、霊魂があるという結論を導けます。 差異がないならば、【演繹】を適用して、霊魂がないという結論を導けます。

さて、差異がない事が分っても、「霊魂が存在する事を妄信しているオカルティスト」ならば、「『霊魂に重量がある』という前提(仮説)が間違っていただけだ!」と言い出すかもしれません。

そうなると、何時になったら、「霊魂は存在しない」と証明出来るのでしょうか…orz
でも、確かに、「霊魂に重量がある」という前提を置くのは些か突飛だったかもしれません。
まずは、オカルティストがある程度納得せざるを得ないような霊魂の【概念】に【定義】を与えないといけないでしょうね…。
「霊魂の【定義】とは?」という問いを考える為に、「霊魂の【概念】とは?」という問いに行き、そもそも形而上学でないならば「霊魂の【対象】とは?」という問いに行き着きます。なにか観察していた【対象】から「霊魂」の存在を考えるようになったのでしょうか?
そして、その現象は、「経験的に測定可能なのか?」かつ、「検証(確証)可能な結論をもたらすものなのか?」が(死刑囚の思う)カガクで扱う上では問題になります。
そうでなければ形而上学になり、(死刑囚の思う)カガクでは証明出来ない案件だと考えています。

死んだならば、霊魂が肉体(死体)から抜ける。(前提1)

という前提を否定しようと思うと、霊魂が観測不可能ならば、なんとも難しい。というか、カガク的には扱えないだろうと思います。
しかし、もしも、「霊魂が肉体から抜けるような感覚」を人為的に造り出す事が出来、そのような現象が何故起こるのかというメカニズムを説明する際、「霊魂の存在」を必要としない説明が出来、それが「霊魂が抜け出た」という説明よりももっともらしいという事が言えたら良いかもしれません。
そして、体外離脱体験の研究は、実際にあります。
Henrik EhrssonのBreviumおよびBina Lenggenhagerらの報告書

科学的に説明できる可能性が出て来ただけなので、まだ何とも言えないでしょうけれども…。
志願者が「まるで自分の身体から抜け出したような感覚を体験することができた」という帰結が、もし志願者の口術に拠るものであれば、検証(確証))出来たと言っていいのかどうか微妙な気がします。
「まるで自分の身体から抜け出したような感覚」を検証(確証))する方法が、志願者の口述だけというのは、信頼性の面において若干心許ない気がします。。
感覚といったモノは、「赤い綺麗な夕焼け」と同様に、どのように確かめ得るのかは分りません。
ただ、自分も被験者となり、「まるで自分の身体から抜け出したような感覚」を体験できるかどうかを確かめることは出来そうですね。

詳しい内容は分りませんので、厳密には「経験的に測定可能な現象」とは言えない可能性もありますが、これまで報告されて来た「対外離脱体験」という【現象】について、「(死刑囚の思う)カガク」上での研究の可能性が少し見えてきたという所ではないかなと思いました。

* * *

たとえば、Aさんが「目前に死んだ筈の弟が居た」と認知した場合は、経験的に測定可能でしょうか?
まず、Aさんが「目前に死んだ筈の弟が居る」と認知している「その時」に、Aさんの脳ではどのような事が起こっているのでしょうか…?
もしかしたら、幻覚でしょうか…?
幻覚のメカニズムについては未だよく分っていないようです。

ふと思い出したのですが、高齢になった祖母が病院に入院していた際、点滴の上の方に「青い金魚が見える」と言い、「その金魚が点滴の中に入って来た」と言って、点滴を嫌がりました。
それを聞いた病院の医師は、「認知障害があるので今後良くなるかどうかは判らない。幻覚がなくなるように、まだ効果は確かめられていないのだが、脳の一部を削除すると幻覚がなくなるという手術がある。それをやってみますか?(試してよいですか?)」という趣旨のことを父母に話したと聞いています。
父母は祖母が実験体にされる気がして怖くなったそうで、医師にはその手術を断り、とにかく退院させ、再び自宅に連れ帰りました。
(注:子供の頃に父母から聞いた話で、伝聞であり、昔の事なのでうろ覚えです。実際には上記のようなニュアンスは無かった可能性もございます。その点、恐れ入りますが、ご了承下さい。念の為。)

幻覚って何なのでしょう…?
幻覚と言えば、ペンフィールドという医師が、1933年てんかんの治療のために行われる開頭手術の際に脳を電極で刺激すると、鮮明な記憶がよみがえることを発見したのは有名な話です。
書評がこちらにあります。ttp://www8.ocn.ne.jp/~seimei39/sz95.htm(h抜き)
ペンフィールド医師の見解の是非については個人的には留保しますが、興味深い現象です。

私は読んだ事がないのですが、脳のなかの幽霊ラマチャンドラン (著), サンドラ ブレイクスリー (著),(角川21世紀叢書) (単行本)という本は、臨床医による著作だそうです。
人間の脳の開頭手術などは、なにか治療でもない限りなかなか、被験者になってくれる人間は見つからないかもしれませんね…。(少なくとも私は、身内を実験体にさせるような事は当然したくないと思いますし…。)猿を被験体とした研究はされているようですがね。

脳科学の分野についてはどの程度進んでいるのかは分りませんが、「言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか」 (中公新書) (新書) 酒井 邦嘉 (著)を読んだことがあります。
数年前に通読しただけで今は手元にないので、うろ覚えですが、色々仮説を立てて試行錯誤している状況のようだと思いました。

先の「対外離脱体験」の研究になりますが、「体外離脱体験をするならば、脳への知覚混乱シグナルが混乱している」という仮説をどうやって導き出したのでしょうか?

ペンフィールドらを始めとして、脳に何らかの刺激を与えると幻覚が起きるというデータが少しずつ蓄積されてたのでしょう。
上記のようなデータや他のデータの積み重ねの中から、「対外離脱体験」も脳への知覚刺激があって発生しているのではないかという発想が生れたのかもしれません。
そして、その発想は「有望そうか、有望でないか」「考察に値するか、しないか」「裏づけが十分か、否か」などを勘案して、仮説を形成しているのでしょう。
仮説を形成して、脳の知覚シグナルの混乱が「対外離脱体験」と関係しているらしいという事は示唆されました。
ただ、このような実験においてではなく、脳の知覚シグナルが起こる至近要因は何か?「対外離脱体験」をしている人間の脳には脳の知覚シグナルが起こっているのだとしても、その至近要因の研究やデータはまだ十分足りていないのではないでしょうか…。

(余談ですが、レム睡眠時には鮮明な視覚のイメージが生れて、これが夢を見ることになるのではないかと考えられているそうですね。眼球が上から降りててきて、真っ直ぐにモノを見るときと同じ位置で、眼球が激しく動くときに夢のイメージが鮮明になるそうで、これは覚醒時にモノを見ている時とそっくりだそうです。
夢を見ている時には、脳でどんなことが起こっているのかも不思議ですよね…。)

* * *

上記のように、「対外離脱体験」という【現象】を最も適切に説明しうる仮説を導出する推論を【アブダクション(abduction)】と言います。【最良の説明への推論】とか【仮説形成】等とも言われているようです。
【アブダクション】の際、前述していた【帰納】が使われる事があります。

アブダクションについては、ニュートンのように、リンゴが木から地面に落ちるのを見て「あっ!」と着想する人もいらっしゃるようですが、蓄積されたデータに【帰納】を適用して、【仮説】を導き出す事もあり、様々のようです。

なお、カガク的方法論の変遷において、【帰納】をどう捉えるのかも様々あるようです。【帰納】を証明だとする人もいましたが、【帰納】をカガクから追い出そうとする人もいました。
そして、(死刑囚の思う)カガク的方法論や姿勢、発想等には、【帰納】の役割は必須でありました。

この話に進む前に、能書きだけでは分り難いかもしれないので、簡単に【帰納】について書いてみようと思いますが、次にまた…。

霊魂の重量の仮説の件、うっかり変なことを書き走っていました…。(とくに、実験結果の後の記述の辺りがorz 実験の結果、一足飛びに、霊魂の存在有無が判断できるような物ではなかったのに…。)
「相関関係の有無」などではなく、「存在そのもの」の有無を検証できるような仮説を立てるのは、例え話でも容易じゃないですね…(汗。

つきましては、すみませんが、下記のように訂正させて頂きますm(_ _)m

死んだならば、霊魂が肉体(死体)から抜ける。(前提1)

霊魂には重量がある。(前提2)

前提1と2から、「死んだならば、霊魂の分の重量が減る。」という仮説形成。

そして、内容の是非はともかく、下記は【妥当な演繹】。

死んだならば、霊魂の分の重量が減る。(前提)

死んだ。(前提)

霊魂の分、重量が減る。(結論)

死んだ直後に肉体の体重が減るか測定した結果、 減っていた場合は、仮説は真。 減っていなかった場合は、仮説は偽。

言葉の遊びも楽しいけれど、「霊魂が存在する証明がないから霊魂は存在しない」というのは単なる作業仮説であって、何も時間的にも空間的にも存在する余地がないといっているわけではないと思いますよ。当面存在しないとしておいたほうが都合がよいというだけでは。
逆に霊魂やオカルトが存在するとして現実の問題に適用すると、さまざまなとんでもないことを引き起こすことには注目しておくべきでしょう。霊感商法や高額のお布施を強要してお金を巻き上げたり、サリンを作って撒いてみたり、死体を何日も放置して異臭を撒き散らしたり、過去には魔女狩りと称して惨禍を引き起こしたこともありました。裁判官が霊能者であって、水晶玉を見ながら判決を述べたら誰しも反対するんではないですか。今魂が抜け出たから延命治療を中止しますなんて医者が言ったら訴訟もんでしょう。だからこういうのは存在する証明がない以上、存在しないと仮定しておいたほうがいいと個人的には思います。

コトバ遊びは、ゴメンだというのは、こちらの台詞だったのですがね。

「科学的には分らない」とみなしただけで、存在しない余地がないと言っている訳ではないのに、オカルティスト扱いされては溜まらないといった所です。


No.219 死刑囚さん

返答はぼちぼちでいいですよ。私は書くことは苦手なので、なかなか上手くは書けません。

私は死刑囚さんと「討論」しようとは全く思っていなくて(討論も大変)、前にもやりとりしたときの「認識の違い」(方向は同じような?)が気になっているくらいなので対話ような感覚です。

>「例え」が悪いように思います

これは私が完全に悪いです。すいません。「例え」ではないので。例(れい)になっています。例えを考えたのですが、うまく行かず、結局、何を書いても”後だし文”なるのでどうしょうか迷いましたが、載せてしまいました。

「である」は「信じる」に還元される」の所は、私も(死刑囚さんと)同じように(といってもかなり内容は違うと思います)考え、「信じるに還元される」と書いてしまうと「主観的」ということになり、「議論」が難しくなると思いました。
私も途中(前のエントリーの時に)で 混ざることを考えましたが、バランスが悪くなりそうなのとNo.29 fuka_fukaさんの文で、私が気になった「分からない」の所の答えが出てるので少ししたら終わると判断したのですが。

>「信念対立の超克」の私の解釈ですが

これは、単に私の勉強不足なだけなので忘れてください。私の解釈がだいぶ違うような気がしてきました。

>「大きく分けて、「宇宙 生命 脳」になるのかなと考えます。そうすれば、私は「脳」ということになります?」

また、「?」の使い方が悪かったです。自分でも「?」疑問という意味です。すいません。「討論」するとなると文体を変えて批判に対する反論なんかを考えて書くのですが、そんな気がないのでミスばっかりです。

私としては、なぜ「霊魂」こだわるのか「こころ」変えてやりとりしても同じではないのかと考えたのですが、それならオカルティストとは呼ばれないのではと思います。

この所、考えてるのが「分からない」ということばと、「信じるためには、エネルギーが必要」かどうか?です。若干、禅さんに悪いのですが。では、また。

【死刑囚さん】

隙を見つけて簡単に。

「目前に霊魂がいたら、霊魂があると信じる」という例え話を出されてはいるものの

些末な部分ですが、目の前に霊魂が居たら、信じるとか信じないというよりも、目の前に居るじゃないか、というのが、ぼくの例え話の意図でして、「あると信じる」というのは、お〜い紅茶さんの文脈のように思います。


ぼくの意見は、以下の死刑囚さんのご推察通りです。

要するに、【信じる/信じない】という事と、【霊魂がいる(実在する)といえるのか、いえないのか = 科学的にどのように証明するか】という事は別だという事を、【主観】と【客観】というコトバを用いて説明しようとされていらっしゃったのだろうと推測しております。

ぼくが思う、客観と主観の違いという意味なんですが、この違いも曖昧ですよね。スケールによっても違いますし。

余談ですが、お〜い紅茶さんの仰る「客観性は主観性に還元される。」という意味も、ぼくは咀嚼出来てないんですね。基本的に「還元」は、化学用語だと思っているので、これは理解の難しい文脈ですが(あると信じるの関係が、還元というのは、ぼくには難解です)、「客観性は主観性に基づいてる」と勝手に解釈しています。

ぼくは、死刑囚さんの事は、オカルティストだとは思ってませんよ。むしろ合理主義者だと思ってますから。

【ぐら虫さん】

この所、考えてるのが「分からない」ということばと、「信じるためには、エネルギーが必要」かどうか?です。

ぼくの意見は、霊魂が存在する証明も、存在しない証明も出来ないなら、客観的判断というレベルなら「分からない」で、主観的には「信じる合理的な理由がない」ですので、「霊魂が見える派」(仮にそういう人が居れば)の方々の話している事は、主観過剰のファンタジーだと思っています。

「分からない」というスタンスから、「信じる」という方向に進むためには、主観的な願望がないとなかなか進めないように思います。こう理解する方が合理的だ、という客観的情報から飛躍させる訳ですから、離脱のための「エネルギー」が必要になるのではないかなあ、というところです。

>No.226 ぐら虫さん

私としては、なぜ「霊魂」こだわるのか「こころ」変えてやりとりしても同じではないのかと考えたのですが、それならオカルティストとは呼ばれないのではと思います

ずっこけました!orzドテ(笑

これまで何度も「霊魂ネタ」を避けようとしていたのですがね。変数「x」を使ったりして。
禅さんも、「この知覚の部分は何でもいい。それほど重要な部分ではないので。(元エントリNo.70)」と仰り、何度か「一昨日食った西瓜」「2007年度決算ファイル」等に代えようとされました。
努力空しく、霊魂ネタに引き戻されましたがw

それにも関わらず、一連の議論を追いかけていらっしゃると思われる、ぐら虫さんが、禅さんに対して『なぜ「霊魂」こだわるのか』という疑問を書かれたのは、甚だしく違和感を覚えました。

もう霊魂ネタから離れて良いなら、本心から、嬉しくて仕方ありません。
「心」に代えて話そうかとも思いましたが、今度は、ヒューマニスト辺りから「冷血漢め!」という新たな誤解と批判が来ることを危惧し、避けました。


>No.224 うらぶれ内科さん

「霊魂が存在する証明がないから霊魂は存在しない」というのは単なる作業仮説であって(略)

作業仮説の中では、一つ一つ「存在しないとみなすモノ」を述べたりはしないのではないでしょうか?
ないものを数え上げてもキリが無いように、作業仮説に「存在しないとみなすモノ」を入れて行けばキリがないように思います。

ところで、一連の議論をご覧になっておられないから、このねじれた話の流れがご理解頂けないのかもしれませんが(長いから、第三者にとっては当然といえば当然ですが)、前にも書いたように、基本的には禅さんとfuka_fukaさんの間にはもともと対立ポイントはないと判断しています。

お〜い紅茶さんの方は、正直よく分りません。

私の方は一部の現象には実在性を認め、一部には認めないという「ローカルな実在論者(ローカルな観念論者)」ですが、お〜い紅茶さんの場合は、「100%観念論者 & 0%実在論者」でありながら、時々「実在論者 or ローカルな実在論者」の立場からコメントをされていらっしゃるように思います。

例えば下記などは、観念論からの発言ではなく、ガチガチの「実在論者」に見えます。

また、仮に霊魂が存在する場合に「存在する」と主張している人間は正しいのであり、霊魂が存在しない場合に「存在しない」と主張する人間は正しいのであって、「分からない」とする立場が存在の有無を断定する立場に対して、蓋然性が高いとは言えません。(No.26 お〜い紅茶さんのコメント)

お〜い紅茶さんも時々「・・・とみなす」という言葉を使っていらっしゃいますが、元々はfuka_fukaさんが仰っていた事です(元エントリNo.29から)。
その点については、禅さんも早々に理解されていました(元エントリNo.37)。

それにも関わらず、お〜い紅茶さんは、禅さんに対して

「・・だとみなす」という推論が理解されず、推論を排除する「これまで○○がないから、○○がないというのは誤り、分からないとすべき」という主張になっていると分析している(No.105 お〜い紅茶さんのコメント)

と仰っています。
単なる誤解だと思いますけれどもね。

ご本人も仰っているとおり、

どーも、この手の議論に、下手なデータを実装していることが仇となっているようです。詭弁的論理を駆使し、自分の立場を強弁する人間に関するデータを持ちすぎている。(No.188 お〜い紅茶さん のコメント)

という確証バイアスからのご発言だったのではないでしょうか。

>No.227 禅さん

>「あると信じる」というのは、お〜い紅茶さんの文脈のように思います。
そのように見えてしまう書き方になっていたかもしれません。
その点、すみませんでした。

(「信じる」という言葉が、お〜い紅茶さんにおいては最終判断になっているのに対し、禅さんにおいては「目前にあったから、あったと思った」という暫定的なもので、「本当にあるのかな?」という懐疑に繋がるような文脈なのですよね。)

死刑囚さん

??? 存在しないという仮定を置いたらいけないというルールなんてあったんですか。実際どうにも見つからないからとりあえず存在しないとして研究を進めていくことも少なからずあると思いますよ。そこでどうにもならぬ矛盾が生じてしまったなら存在することになるだけの話です。

>No.229 うらぶれ内科さん

「実際どうにもxが見つからないからとりあえずxが存在しないとして研究を進めていくこと」と、「『xが存在する証明がないからxは存在しない』という作業仮説」は別モノだと思っていたのですが。
前者の意味であれば、否定していません。

また、「カガク上」における話をしていましたので、日常的に無いとみなす事も構いません。念の為。(繰り返しになりますが。)

* * *

行動主義心理学では、刺激と反応といった操作可能な定義をおける概念に焦点を当て、「心」という存在を認めていません。
そして、行動主義心理学者も日常的には「心など無い」とは言ったりはしますが、厳密には「心があるとは言えない」と言い換えるでしょう。そして、行動主義心理学上で仮説を立てる際には、一々「心は存在しない」と書いたりはしません。

同様の話を、「医療は科学的か?」エントリのNo.127 bambooさんという方も書いていらっしゃったようです。

要するに科学は不確実で、深く、永遠の謎、ということが言いたかっただけです。
 科学に携わる人で、これを否定する人はいないと思います。血液型による性格判断を批判する人でも、正確を期する人たちは「血液型と性格の間に関連があるとは言えない」と言う言い方をします。 (「医療は科学的か?」エントリNo.127 bambooさんのコメント)

お医者さんのように、お医者さんというだけで信用されている方達と違い(少なくとも、私は基本的にお医者さんを信用しています)、心理学や進化学に携わる人間はしょっ中「科学ではない」という批判に晒されていますので、厳密な言い方をするよう、慎重になっているのだろうと思います。

No.230訂正
(微妙ですが、意味が異なるように思いましたので、下記を訂正させて頂きます。)

×また、「カガク上」における話をしていましたので、日常的に無いとみなす事も構いません。念の為。

○また、「カガク上」における話をしていましたので、日常的に無いと言う事も構いません。念の為。

くどいようですが、作業仮説という意味はとりあえず仮定することです。だから作業仮説。

>No.232 うらぶれ内科さん

先にも申し上げたので繰り返しになりますが、うらぶれ内科さんが仰ったことが、「作業仮説を立てる際の厳密な記述」の事でないならば、特に異論はありません。

それでは。

No.228 死刑囚さん

「なぜ「霊魂」こだわるのか」→「なぜ「霊魂」というコトバにこだわるか」の意味だったのでことばが足りなかったです。
どちらかいえば、死刑囚さんに考え方が近いハズなんですが、どうなんでしょう? 返答はぼちぼちでいいですよ。なしでも良い。

禅さんに対して『なぜ「霊魂」こだわるのか』ではなく、死刑囚さんのNo.222を読んで死刑囚さんに対して書いた文だったのですが。
例として出すのがまずいのではないかと判断したためです。
禅さんに対しては一度、似たようなことを書いているので。(「霊魂」を「心」すれば良かったということ)

「心」に代えて話そうかとも思いましたが、今度は、ヒューマニスト辺りから「冷血漢め!」という新たな誤解と批判が来ることを危惧し、避けました。

私は、「霊魂」も「心」も「同じ」(実体のないモノとして)と考えているのですが、不特定多数が見ることを考えると「こころ」というある種の「共通概念」(問題のより少ない)のあるモノ(コトバ)に変えて書いた方が誤解が少なくてすむのでは考えます。どう解釈されるかを考えるとです。


No.227 禅さん

前の文の引用は、私が勝手に考えているだけなので申し訳ないです。なにげなく書いたであろう文(失礼!)がここまで引っ張る力があるとは私も予想できませんでした。 ほとんど、禅さんの手から離れた状態です。

この所、考えてるのが「分からない」ということばと、「信じるためには、エネルギーが必要」かどうか?です。

「霊魂」とは関係なく、「分からない」「信じる」のことば自体を考えています。なかなか、まとまったことは書けないのですが、「信じる」の反対語は「疑う」で「分かる」の反対語?はなどです。
エネルギーとして「信じるため=信じないため」?両方、理由に関係がない?「疑う」のは何かしら理由がいりそうなのでエネルギーが最もいるのでは?なんかです。ことば遊びですが。。

>No.222 死刑囚さん

返信ありがとうございます。
家族サービスしてまして読むのが遅くなりました。

私は科学証明方法については一応分かっているつもりです。【帰納】【演算】も一応理解しているつもりです。
⇒学生時代は、科学研究系の学科に所属してましたので・・・
ということで、先の問いは、死刑囚さん記述の【科学的証明】【妥当な証明】は、言葉通りの「証明」そのものではなく、「分からない(判断留保)」「在る・無し」 が判断された時の、それぞれの「態度(位置といっても良いかもしれない)」の相違を意味しているのか?という問いでした。
※やはり例を挙げると抽象的になってしまいました^^;「問い」をもっと明瞭に書くべきでした。すみません。

まぁ、どちらにしてもこのコメント関連で『日常的には存在しない(みなす)』事に異論ある人は居ないのは明らかなので、それで(ここらで)良いかもしれませんね。
⇒誤解されると面倒なので・・・

横レス失礼します。時間的都合で詳しく読んでないし、心理学も哲学も詳しくないので的は外れているかもしれませんが「ことば遊び」として一言だけ。。

>No.234 ぐら虫さんへ

>私は、「霊魂」も「心」も「同じ」(実体のないモノとして)と考えている

「面積のない点」や「幅のない線」も実体はあるのでしょうか?
もしお手数でなければ(私の手抜きですみませんが今日も出勤なもので。。)(Wikipedia)で「点(数学)」と「公理」を検索してみてください。
参考になるのか分かりませんが。。
結論だけ先に書きます。
私としては霊魂は「無定義用語」に準ずると思ってます。
あくまで「ことば遊び」のうえでのことですよ。念のため。。


>No.234 ぐら虫さん

【禅さんに対して『なぜ「霊魂」こだわるのか』ではなく、死刑囚さんのNo.222を読んで死刑囚さんに対して書いた文だったのですが。

なるほど。
禅さんに対して誤解を呼びかねない表現だと思っていたのですが、私宛だったとの事、了解致しました。

また、単に「誤解が少なくてすむ」ためのご提案を頂いていたとの事も了解致しました。
穿ちすぎた見方をしてしまっていたようで、申し訳ありませんでした。

理由はいくつかあったのですが、一つは、これまで霊魂ネタを替えようとしても替えられなかったため、もう諦観していました。また、私をオカルティストと誤解されている方達がいらっしゃれば、その方達から「話をすり替えている」というご批判を再び受けないようにする為の予防線でもありました。

それでも、No.222で「霊魂」を例に挙げる事には躊躇いを覚えましたが、「霊魂」の存在どころか、「霊魂と疑われるような現象」をカガク的に扱おうとしても雲をつかむような話である、という事を示すことが出来る機会かもしれないとも思い、書きました。

また、「心」以外にも、「血液型と性格との間の相関関係」などに代えて話すことも考えましたが、まったく同列に語れる段階にあるものでもなかったという事もあります。
(「血液型と性格との間の相関関係」は、統計的データがある。「心の存在有無」の場合は「心」の概念周辺の現象について(行動主義心理学、認知心理学、認知科学等、「心の存在」を仮定しない研究によって)データが蓄積されつつある。しかし、「霊魂の存在有無」の場合は、「霊魂」の概念周辺の現象について研究やデータも乏しいためオッカムの剃刀を使える段階にすら行き着いていないし、統計的検定が行われている訳でもないだろうと思いますので…。)

* * *
ぐら虫さんが、死刑囚宛てに「なぜ「霊魂」というコトバにこだわるか」と書かれた意図は了解したように思います。
民俗学的に、「霊魂」や「心」の存在を信じる傾向は世界各地で見られるようですからね。今はまだ与太話にしかならないだろうと思いますが、そのようなモノの存在を信じる傾向があるのは、単なる文化的伝承に拠るものではなく、そう信じる事が個体の適応度を上げるので、その傾向が集団に広まったのかもしれませんね。
ただ、この話はもうこれで終了させて頂きたく思っています…(^^)

>No.235 カツビンさん

【帰納】【演算】も一応理解しているつもりです。 ⇒学生時代は、科学研究系の学科に所属してましたので・・・

そんな気もしていたのですが、失礼致しました。
下手な説明だったと思うので恥ずかしいです…。

先に確認させて頂くのも憚られたので、とりあえず書き始めましたが、ご存知なのではないかという気がして、「不備や、もっと分り易い説明方法をご存知でしたらば、ご教示頂ければ有り難いです(No.222)」と書いておりました。
もし機会がございましたら、色々とご指摘・ご教示頂けたら嬉しいです。

(次には、「帰納的推論」の部分が、カルナップらの登場以降、「帰納的確率」に置き換えられつつあるという所までの変遷をざっと話して終わろうとしていました。ただ、今回の話題の発端のお題(霊魂ネタ)については仮説らしき仮説もない案件なので、一応、反証主義とその良点・難点等について触れたら良いのかもしれない…等と思案中でした。復習になったので有意義でした。)

* * *

【妥当な証明】は、言葉通りの「証明」そのものではなく、「分からない(判断留保)」「在る・無し」 が判断された時の、それぞれの「態度(位置といっても良いかもしれない)」の相違を意味しているのか?という問いでした。

すみませんが、まだ私にはご質問の意味がよく分っておりません…(汗。
だから、多分ですが、上記で仰るような意味で書いていた訳ではないだろうと思います。

例えば、「○○療法の効果を調べる為の対照実験をした結果、有意差がないという結論が出た時」や、「エーテル仮説の実験結果」、「クウォークが確認された時」などの各ケースにおける「態度(位置)」のことでしょうか?
態度に相違が生れるとしても、証明の方法(内容)や対立仮説の有無やその評価などの「証明」周辺の背景も、各人が態度を決める際に影響するだろうと思います。
それで、「物理学者達がエーテル仮説を否定しているらしいから、エーテルは無いって事ですね」と受け取る「態度」などの事を念頭に置いて書いていた訳ではありませんでした。

(いずれにせよ、おそらく私が「妥当な証明」とか「日常的な判断」などを適当にごちゃまぜにして書いていたせいで、このようなご質問を頂いたのだろうという気がしています。)

時間的制約の中、「在る」「無し」のどちらかを断定せざるを得ない場合、「A」という物質が観測されないまたは立証されなければ「無し」が妥当する態度 ※法廷など (No.217 & 218 カツビンさんのコメント)

そのような観点も念頭にはありましたが、それだけではありませんでした。
相違点として、下記のようなものが念頭にありました。
1.時間的制約の有無 (カツビンさんが仰っておられる件)
2.確率論・統計的手法の有無 (民事裁判の法廷とならば、相違しないかも。民事上は、過失割合などがあると聞いたように思いますので。)
3.扱えるか、扱えないかの範囲。(死刑囚の念頭にあった)カガクには扱えないものがあるが、法廷では、例えば被告人がどんなに荒唐無稽な事を言っていても、無視することは出来ない(何らかの判断を与えねばならない。「認めない」というのも判断のうち。)
4.法廷では(出来るだけ避けるべきとされているとは思いますが)、社会的通念による判断が認められている。

ただ、上記相違点は、ご質問に回答する為に書いております。
この相違点を持って、「科学とは何か」等という話をするつもりはありません。(念の為。)
「科学」という言葉の射程が異なっていただけであろう事に気づいた時点で、【妥当な証明】等という暫定的な言い方をする必要は私にはなくなりました。

刑事裁判の手続きは、法廷に持ち込まれ認められた証拠を元に【帰納的推論を行っているように思います。
また、罪刑法定主義の下、「どのような行為が犯罪になるか、その犯罪にどのような刑罰が科されているか」が前もって法律で決められており、基準は明確になっています。法律の解釈においても、判例という拘束力がありますし、類推解釈も禁止されています。刑事裁判の手続きは【前提(証拠)を認めれば、否応なく結論(判決)を認めざるを得ない】ような推論(真理保存的な推論)、すなわち、【演繹的推論】のようにも見えます。

刑事裁判システムも一つのパラダイムとみなす立場からならば(私はパラダイム論に関する判断は留保していますので、そういう立場について特に異論を挟みません)、刑事裁判システムも「(法)科学」と考える方もいらっしゃるかもしれません。
したがって、刑事裁判での証明や判決を「(法)科学である」と考える方がいらっしゃるとしても、特に反論するつもりはありません。そのため、「科学という用語の射程が異なっていた」だけであろうと結論しておりました。

P.S.
家族サービス良いですね(^^)
我が家もこの休日楽しくのんびり過ごせています。
ご心配おかけして、すみません…(汗。

* * *

以下は特にカツビンさん宛てではないのですが、少し書かせて下さい。
文脈上、殺人事件などの裁判の判決を例え話として使うと脱線するのではないかと(その時の私は)思っていたので、その件には触れておりませんでしたが、興味深く拝見していました。

刑事裁判の際、法廷での判断(判決)を「証明」として考えた時に、既に惰眠さんとfuka_fukaさんが下記のように仰っています。

「殺害したと言うことはできない」だけなんです。『無実(=そんな事実がそもそもない)』と『無罪(=事実の有無によらず、単に「犯罪として処罰することはしない」)』の違いも、ここに端を発したりします。(No.149 惰眠さんのコメント)
『「立証」 がない場合の態度として、「ある/ないを同等に考える」 のは不合理だが、 「暫定的にみなす」 ことまでしか許されない』と言い換える事も可能だろうと思います。(No.123 fuka_fukaさんのコメント)

刑事裁判で立証が無い場合の見解について、一見、惰眠さんとfuka_fukaさんとの間には対立ポイントがあるように見えますが、実は、対立ポイントはないのですよね。
そして、殺人事件の被疑者について、「被告人が【無実】かどうか」という観点から見れば、「立証」が無い場合は、「殺害したかどうかは【分からない】」となります。
一方、「被告人が【無罪】かどうか」という観点から見れば、「立証」が無い場合は「殺害したと【(暫定的に)みなす】」
というように、【無実】と【無罪】という事なる観点から話しているからです。
言い換えれば、「裁判上の真実」と「絶対的な真実」という観点の違いで、土俵がそもそも異なるので、対立ポイントはないのでしょうね。
そして、それは、「刑事弁護と社会正義」エントリでモトケンさんが、「裁判上の真実」を「絶対的な真実」に近づけるべく、検察側、被告人側はそれぞれの主張と立証を尽くす必要があるという趣旨のことを仰っておられた(と受け取った)事と重なるように思い、拝見していました。

散漫になりましたが、以上です。

【死刑囚さん】

これまで何度も「霊魂ネタ」を避けようとしていたのですがね。

そうなんですよねえ。

禅さんにおいては「目前にあったから、あったと思った」という暫定的なもの

そうですそうです。目の前に携帯電話があれば(携帯電話がある)と同じ延長で、霊体が居たら(霊体が居る)と思うという程度の例え話だったんですが、要らぬ波紋を広げてしまったようです。

「幻覚」について書かれていましたが、ぼくは「意識」ですら不思議です。何で、こんな現象が起きているんでしょうねえ。物心がつく、という事は、自意識が生じてくるという事なんでしょうけど、これが発現するには、ある程度の記憶の蓄積とか、PCで言うところのCPUの発達が必要になってくるんでしょうか。

情報が蓄積されると同時に、その情報の処理能力が向上した結果、意識が生まれるという事なんでしょうかねえ。不思議でたまりません。

人間が居るという事も不思議です。霊魂や幽霊なんかより不思議です。牛乳があるんなら、チーズも出来るだろうし、アイスクリームだって出来るだろうみたいな感じです。人間をAとしたら、幽霊なんかA'みたいなもんでしょう。別に不思議じゃないですね。あ、こんな事を書くから、「霊魂存在派」みたいに思われるんでしょうか。


【ぐら虫さん】

エネルギーとして「信じるため=信じないため」?両方、理由に関係がない?「疑う」のは何かしら理由がいりそうなのでエネルギーが最もいるのでは?なんかです。ことば遊びですが。。

それでもいいんです。要するに、客観的な認識で終わらせないで、主観的な選択(意志、信念…など)をするには、エネルギーが要るという事なので。「明日の天気は晴れるかも知れない」(客観的判断)が結論なのに、「明日の天気は晴れるに決まってる」、「明日の天気は晴れるわけがない」(主観的選択)って、エネルギーが必要な感じではないですか?

まあ、話している事が、科学なのか哲学なのかで、また変わってくるかも知れませんね。


以下、ちょっと整理。


■[科学的証明がないから、霊魂は存在しない、というのは科学的発想じゃないですね。(禅)]

元々のぼくの意見は、証明出来ないなら分からない、です。 霊魂が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら、「分からない」です。(禅)
存在証明がない限り 「存在しない」 とみなすという扱いこそが科学的思考だと思います。(fuka_fukaさん)
科学的に考えるからこそ、暫定的にではあるが 「霊魂は存在しないとみなす」 という扱いをすべき、ということになると思います。(fuka_fukaさん)
実は、お恥ずかしい話ですが、私としては「科学的」という以前に、論理的に間違っているのではないかと考えていたのですが。(お〜い紅茶さん)
ただ、禅さんの最初の「分からないとすべき」という主張については疑問です。「霊の有無」や「科学」の問題ではなく、論理上の誤謬であるように思います。(お〜い紅茶さん)

とまあ、ぼくは「霊魂が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら、『分からない』です。」は、それが科学的な考え方だと思っていたから、fuka_fukaさんからの指摘があったので、「科学的」という修飾を撤回。

しかし、霊魂以外でも、「○○が存在する事も存在しない事も証明出来ないなら『分からない』だと思う」というぼくの立場は変わっておらず、このままです。

「霊魂」を主語にしたので、「存在しないとみなす」のが科学的という事になったんでしょう。ある事が証明されないものなど無限にあります。かといって、「ないとみなす」には、ならないと思います。

「意識」の存在を証明出来ないなら、ないものとみなす、とは言わないでしょうし、「公害による被害」が、証明出来ないから、ないものとみなす、ともならないでしょう。

まあ、「霊魂」とか、「霊体」とか言い出したので、乱反射が起こったのかも知れませんが、元々は江原氏のスレでしたし、話としては、「霊魂を実際に見たら、『ある』事になるだろうけど、今度、それを人に話したら、それを人は信じるとか、信じないの判断になりがちですよね」と言う風に、客観的判断を捨てて、「信じるとか、信じないの判断」に重心を置いて、考えていくつもりだったのですが、掲示板とかコメント欄などで、話題が枝分かれしていくのは、宿命みたいなもんですね。


■[「ある・ない」と「信じる・信じない」]

ぼくは、「ある・ない」は客観的情報、「信じる・信じない」は主観的選択と思っていて、お〜い紅茶さんは、「『ある』というのは、『ある』とする根拠を信じるということであり、『信じる』に還元されますよ。」と言っております。

「ある」が主観であるというのも一理あると思っています。しかし、何が客観で、何が主観かを決めるものも難しい話です。ぼくの「客観」だってスケールによる限界があります。

本当かどうかは知りませんが、「この宇宙は光速で広がっている」という理論があるでしょう。或いは、アインシュタイン的に言うと、宇宙の水平線があるみたいな話もあったりします。じゃ、その外側って何ですか?と聞いた時に、「四次元空間があります」と言うのは簡単ですが、そんなものがあるかどうかを「ぼく」に理解させるのは無理です。

オカルトが好きな人も居ますし、趣味に合わないという人も居ます。好みの問題ですから。何で霊魂を信じるのか?或いは、何で信じないのか?好みの問題ですが、その好みを分割する素地は、環境とか遺伝子によっても違うんでしょうねえ。

No.236 法は知らな損さん

「点(数学)」と「公理」の所を少し読みましたが、いろんな意味で書くのが難しいのでどう書こうか悩みます。

私は、言語学・心理学・哲学に関心があって、といっても読みかじりの素人レベルなので何かを研究するというわけではありません。それでも勝手に仮説を立てて勝手に証明しています。基本的には頭の中だけですが..。 

>霊魂は「無定義用語」に準ずると思ってます

「無定義用語」ということばは、何かの本で見たことがあります。といっても私の場合、「コトバ」自体が「実体の無いモノ」「根拠のないモノ」として考えています。それでも普通にことばを使って生活しているので考え方としてです。
ソシュールがいう「「観点に先立って対象があるのではなくて、いわば観点が対象を作りだすのだ」の考え方からです。
コトバ還元主義的?ですが。最近は、「一文一笑主義」(造語)を目指しているのですが、なかなか。


余談として、上とは関係ない話ですが、前にここで書いた「掲示板の議論」の続きを書こうかなと思い前に書いた文を読み返しています。
この時の方法論とは違う別の方法を考えていて、なかなか試す機会がないのが残念な所です。「掲示板の議論」などを読んで、手のあいた時にでもいいので、感想を下さい。 では、また。。


No.237 死刑囚さん

「霊魂」というのは、ある種の個人的な「死生観」も絡む問題なので私もどう参加しようか迷っていて、「コトバに還元」とか、「認識のモンダイ」「霊魂を心に変えたら」でお茶をにごしていただけでした。それでは。

No.238 禅さま

すでにすり合わせは終わっているので、少しだけ。

「霊魂」を主語にしたので、「存在しないとみなす」のが科学的という事になったんでしょう。ある事が証明されないものなど無限にあります。かといって、「ないとみなす」には、ならないと思います。

「ある」とするにも「ない」とするにも証拠が少なすぎる状態であれば、安易に「ないとみなす」ことが許されないのは確かだと思います。

そういう意味で、私が繰り返し主張してきた「ないとみなす」べき「霊魂」とは、よく目撃談・体験談に出るような、 「人に知覚され、直接的に影響を及ぼすような霊魂」 までだと思います。
人間が知覚可能なのであれば、某かの測定にかかって科学的に検証が可能なはずなのに、そのような検証に耐えるだけの観察例がない以上、「ないとみなす」 のが適当だと思います。

一方、はじめから知覚不可能が前提とされているような霊魂、それこそ 「あの世」 の話であれば、そもそも科学の土俵に乗らないということで、「あるともないとも言えず、わからない」 が最も適切な判断なのでしょう。

一方、「ないとみなす」 べき例は、霊魂以外でもいくらでも出すことが可能です。
・不老不死の人間
・地球以外の太陽系内の惑星・衛星に棲息するヒトと同程度の知的生命体
・「どこでもドア」
etc., etc.

存在/不存在を論ずる対象の定義と、その対象の存在/不存在に関する証拠の質・量に依存するので、どの程度であれば「みなす」ことが可能かという線引きはあるにしても、一定のものについては明らかにさらなる検証をする必要もなく 「ないとみなす」 という扱いが妥当であると思います。

No.237に訂正がございました…。
他にも誤字脱字あるので申し訳ありませんが、下記の間違いは内容的に正反対になってしまっていますので、訂正させて下さい。
単なる書き間違いですが、失礼致しましたm(_ _)m

×「殺害したと【(暫定的に)みなす】」
○「殺害していないと【(暫定的に)みなす】」

* * *

>No.239 ぐら虫さん

ぐら虫さんが仰るように、ぐら虫さんと同じように私も考えているかどうかはよく分りませんでした。
断片的ですが気になる言葉が散りばめられているので、つい深読みしそうになります…(^^; ←アホでスミマセン。

とりあえず、

「コトバに還元」とか、「認識のモンダイ」「霊魂を心に変えたら」でお茶をにごしていただけでした。

という部分は、ちょっと違うかもしれません。(よく分りませんが。)
少なくとも私は「科学的な姿勢」という件については、特にお茶を濁すつもりはありませんでしたので…。ただ、こんなに長い話になるならば、早々に切り上げておけば良かったかもしれないと何度か後悔はしました。

「霊魂」というのは、ある種の個人的な「死生観」も絡む問題なので私もどう参加しようか迷っていて、

というお気持ちは分かります。No.176に書いたような「取り扱い注意」の話題だと思います。この点は同意です。

それでは、おつきあい頂き有り難うございましたm(_ _)m

* * *

fuka_fukaさんの一連のコメントを拝見していた時、基本的には対立ポイントを見出せませんでした。

もし若干相違があるとすれば、「科学的証明」という言葉から想起する手続きはどんなものかという点だけではなく、どんな関心や問題意識を持ち、どんな状況や場面、例え話等を想定しながら書いているのか等、事前に確認し合っておらず共有していない前提がある故の違いに拠るものであり、若干の相違が生じるのはむしろ当然に思っていました。

* * *

>No.238 禅さん

人間が居るという事も不思議です。霊魂や幽霊なんかより不思議です。

私も同じように不思議に思った事がありました…!
普段は当然のように思っている事も、ふと、不思議に感じる事がありますよね。そして、文字通り「有り難い」ような気持ちになったりして。
なんで今人間がこのようにしているのか、こうやって社会を作って、いがみ合ったり仲良くしたりしながら、ルールを作ったり、サンクションのシステムを作ったりしているのか、私には不思議です(笑)。

あ、こんな事を書くから、「霊魂存在派」みたいに思われるんでしょうか。
つい、苦笑いしてしまいました。 掲示板で誤解されただけなのに、なぜに辛く感じたのでしょう。これも不思議です(笑)。

ではではm(_ _)m

この世に「証明された存在」なぞどれほどあるものかね。

「99.9%は仮説」
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31662220

関係ないといえば、関係ないし、関係あるといえば関係ある話なんですけど(少なくとも私の中では)…。

お医者さんでありながら、弁護士になるような方っていらっしゃらないんですかね?
場外乱闘場で、お医者様のどなたかが「もう自分が弁護士になった方が早いかも。」というような事を仰っていたのですが、冗談ではなく、両方の現場に通じた人ならば、何かより良い打開策(?)というか妙案を考え付かれるのではないでしょうかね…?

みなさん終わらせようとしているところに、こんなに遅れてから横レスしてすみません。テキトーに流してください。

>No.239 ぐら虫さんへ

>「点(数学))と「公理」の所を少し読みましたが、いろんな意味で書くのが難しいのでどう書こうか悩みます。

すみません、私の失礼な態度でした。私もいろいろ書いてみたのですが、実はうまくまとめられなかったのです。ただ、ぐら虫さんなら興味ありそうかなー(ことば遊び→論法)と思ってそのまま振ってしまったのです。

>それでも勝手に仮説を立てて勝手に証明しています。基本的には頭の中だけですが. 

ご存知かもしれませんが「ゲーデルの不完全性定理」というのがあります(公理の下段の方にもあります。)。
私も学生時代(20年近く前です)に少しかじっただけですが。。

(Wikipedia)からの引用ですが
第1不完全性定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

要するに「完全で無矛盾な公理系は存在しない」というところでしょうか。
一般的には「自己言及のパラドックス」ともいわれています。
検索してたら、「自分では、その言葉の正しさを絶対に証明できない」なんて説明もありました。
私も理解不足(うろ覚え?)でうまく説明できませんけど。
なんか書いてるうちに懐かしくなって、もう一度彼の本を読みたくなってきました。。

>ソシュールがいう「「観点に先立って対象があるのではなくて、いわば観点が対象を作りだすのだ」の考え方からです。.。

私はソシュールは知りませんでした。合わせてゆっくり調べてみます。
では、また。。

【fuka_fukaさん】

いや、もう平身低頭の図です。平蜘蛛です。

「霊魂」を主語にしたので、「存在しないとみなす」のが科学的という事になったんでしょう。ある事が証明されないものなど無限にあります。かといって、「ないとみなす」には、ならないと思います。

これなんですが、編集していた時に「全部が全部」というのを、「ないとみなす」には、ならないと思います。の前に付けておいたのに、前の文章諸共飛んでいました。すみません。

これでは、fuka_fukaさんの説明を以前、同意しておいて、今は意味なく一蹴したようになってしまいますよねえ。失礼致しました。コメントを書いて、後で読んでみたら、この部分て失礼丸出しではないですか。
子供をあやして、後で訂正しようとしたら、既にfuka_fukaさんからの指摘が(゜д゜;)

「ならないと思います。」というのも、強い口調みたいですよねえ。ですから、削除した部分を追加、そして訂正して「かといって、全部が全部「ないとみなす」には、ならない事もあるでしょうねえ。」です。

文体には、普段、充分気を付けているつもりなんですが、大変失礼致しました。fuka_fukaさんの仰る事は、重々承知しております。という事で、弁解になってしまいましたが、何とぞご容赦下さいませ。


【死刑囚さん】

私も同じように不思議に思った事がありました…!

そうでしょう?ですから、人間の不思議さに比べて、亡霊だ霊魂だというのは、何か分かりやすいんですね。人間の感覚に合わせすぎている感じです。だから胡散臭く感じてしまいます。

「あのマンションの501号室に女の亡霊が居るのは、3年前に自殺して…」とかって、そんな分かりやすくてどうするよ、という感じです。

「ええと、今日は、501号室に出没する女性亡霊講座の78回目です。第31回目の時に説明申し上げましたが、霊魂を構成する元素でイオン値数と関係するのは、現在発見されているだけで、32個あります。でですねえ、今日は、この元素が結合する時の852の法則のうち、12の法則について学びます。これによって、死後の大脳1gグラム当りの等量の物質を析出させるのに必要な霊魂粒子量が算出されますが…」って、冗談ですが。真実というのは、大抵、刺激的でもないし、分かりやすくもなかったりするので。


仮説を形成して、脳の知覚シグナルの混乱が「対外離脱体験」と関係しているらしいという事は示唆されました。

そう言えば、こんな話があったじゃないですか。以下、妄想の与太話です。

脳の中を電流か、何か複雑なものが流れ、そこで何かが生じて物理的反応を起こした結果、それを「意識」と呼ぶことにしてみます。

で、地球上の空間に未発見の素粒子があって、それが脳神経細胞の電流パルスのパターンと一致し、意識が空間に転写される事があり、生命消失後もその意識が空間に放射され、自意識として暫くの間、残ったりするのが「対外離脱体験」なのかも知れません。

まあ、「横たわっている自分を見た」と言っても、自意識と生命活動の終わった感覚器官とが連結している訳ではないので、夢みたいに意識の中で勝手に想像しているだけでしょうけど。

しかし、霊魂だ、何だと書いてますが、実際の話、こんなのがあってもなくてもどうでもいいんですよね。ムー大陸があったとかなかったとか、邪馬台国は関西にあったとか九州にあったとか、それと同じくらいどうでもいい話なんですけどね。


【余談】
オーストラリア環境相のピーター・ギャレットが、夕方のTVで「日本が鯨を捕っていたけど、何で政府は何も言わないんだ?」と、責められていました。で、「日本のやってる事は間違ってる。鯨を捕る理由なんかない。オーストラリア政府には、日本に科学調査などと嘘を言わないで、捕鯨を止めさせろと言っているし、これからも言い続ける」と、しどろもどろでした。

しかし、その番組の途中で、オーストラリアの有名デパートのCMがありましたが、そのCMソングは日本人が歌ってました。オリエンタルな感じを出したかったんでしょうが、何もこんなインタビューの時にと失笑。殆どのオーストラリア人は、それが日本人が歌っているとは分からないんでしょうけど。

No.242 うらぶれ内科さま

「証明」されたといってよいものは数限りなくあると思います。

ベルヌーイの定理の機序が実のところ不明だとしても、 「流速が速い側に向かう力が働く」 ことは「証明」されていると呼んで差し支えないでしょう。
飛行機が飛ぶことも中村俊輔のフリーキックが曲がるのも松坂のストレートがホップするのも誰も疑わないわけで。

結局、何を持って「証明された事実」として切り出すかの定義の問題でしかないのでは。

「証明されたようでも意外によくわかっていないことは多い」
ということと
「証明されたことなどほとんどない」
とはまったく意味が違うのですから。

No.245 禅さま

おおっと、そうでありましたか。
つい性急に食いついてしまいました。
何卒

どうも歳のせいか早く目が覚めていけません。

No.246 fuka_fukaさん
> 「証明」されていると呼んで差し支えないでしょう。

差し支えないと思いますよ、経験的には。そうでないと飛行機も乗れませんから。

No.246 fuka_fukaさん
> 「証明」されていると呼んで差し支えないでしょう。

差し支えないと思いますよ。経験的には。そうでないと飛行機にも乗れませんから。

でも科学の進歩は証明されたとされることに疑いをもつところからはじまることも多いようです。

あれ、N0.248 はrejectされたはずなのに・・・失礼しました。

>No.238 禅さん

「信じるためには、エネルギーが必要」の場合、前文に「信じたくないことを 」がいりそうです。
でも、その前にこの「エネルギー」てなんなのか、引っかかっていて、物理的なモノでもなさそうなので、心的(信的)エネルギー?、「活力」?昨日までは、バクゼンと「エネルギー」として使っていたのですが。
「信じる」行為そのものが、「エネルギー」を産むのかなと考えます。信じない人、疑り深い人よりも。

>No.241 死刑囚さん

「ぐら虫さんと同じように私も考えているかどうかはよく分りませんでした」

これは、私がいま、△貌匹瀛を変えているためにあくまで私の解釈(見方)でということです。前にも少し「トリックスター」の議論の時に,世云椶靴書きましたが。,呂靴鵑匹い里如E当に,鉢△鯤僂┐討い泙后

“稟重に読む。自分との違う(批判する)所を探す読み方。(懐疑が前提)
肯定的に読む。自分と同じ(賛同できる)所を探す読み方。(共感が前提)
「つい深読みしそうになります」
「適当解釈主義」なんで適当に読んでもらったほうが気が楽です。


>No.244 法は知らな損さん

「いろんな意味」は文字取りいろんな意味なんでこことはあまり関係が..

「ゲーデルの不完全性定理」

10年程?前に、講談社現代新書の本は買いましたが、中味を読んだといえるのは、2-3章のゲーデル自身の歴史の話の所くらいで他は見たという程度です。

上とはほとんど関係ない話ですが、本当はもっと議論の方法論的な話を書こうかなと思うのですが、具体例がだしにくので。今はNo.264 です。「笑える文」というのも考えているのですが、これはさじ加減の判断をどうするか、というのが悩ましい。
将棋のように何手先まで読んで書くか、相手の戦法に合わせるせるのか、詰みまで読んで書くのか、難しい問題です。なぞなぞ文で、すいません。
P.S.「大会議室」のP氏の文を読むと頭がプルプルします。。 

ぐら虫さん

でも、その前にこの「エネルギー」てなんなのか、引っかかっていて、物理的なモノでもなさそうなので、心的(信的)エネルギー?、「活力」?昨日までは、バクゼンと「エネルギー」として使っていたのですが。

それは拘らなくてもいいんじゃないですか?「投手力、打力、守備力から考えて、予想の勝率は15%」というデータを破棄して、「必ず勝つ」と信じる方向に行こうとするのが、ぼくの言う「エネルギー」で、それを「意志の力」とか、「信じるパワー」とか、「推進力」とか言ってもいいでしょうねえ。

願望とも言えますし、好みとも言えます。こう考えた方が合理的だという客観的なデータを捨てて、主観的願望を優先させる訳ですから、パワーがないとなかなか難しそうです。

えー、流れと全然違う話題を持ち出して済みません。

産経オンライン版の記事なんですが、「鳩山法相また“失言” 鹿児島選挙違反「冤罪と呼ぶべきでない」 12人無罪なのに…」だそうです。
検察長官合同会議の席上での発言だそうで、今のところ産経が部分的に発言を伝えているだけのようですが、これはちょっと、かなり、だいぶ、相当に問題のある発言なんじゃないですかねえ、法務大臣としては。
死刑の流れ作業的自動執行を思いついて省内で検討させてみたり、ちょっと法務大臣適格を疑わせるようなことが多すぎます、この人。

No.253 惰眠さま

同感です。
私のような素人感覚で申し上げて恐縮ですが、国内に於ける冤罪事件史の中でも、代表的な事件の一つとして上げられそうな事件だったのではないのでしょうか?違ったんでしょうか?(法務大臣の立場の先生が仰るとトーシローがこんな風に迷います。)

論理的には、以下の通り、12人の被告人全員の無罪が確定した時点で、冤罪ではなくなったのは確かでしょうけどね。

現在、公式には冤罪は一件もない。一瞬えっと思う。つまり冤罪と認定された瞬間、それは冤罪と認められたのだから、すでに冤罪ではなくなっているというパラドックス。ゆえに、常に司法の無謬性は保証されている。よって裁判所の責任は、逆に、極めて大きいということ、つまり認知されない冤罪、すなわちすさまじい数の隠された冤罪が、日本列島に潜在化しており、いま私たちがかかわって闘っている冤罪は、ほんの一部に過ぎないということである。(引用元:http://www.jca.apc.org/kokubai/abe020302.htm)

『「(富山の)事件の方は人違いだから冤罪ということだろうが、(鹿児島の)事件は冤罪と呼ぶべきではないと考えている」と述べた』(産経新聞の記事)というのが本当であれば、論理的に正確な意味で上記のように「すでに冤罪でなくなった」という事が言いたかった訳ではないのは明らかでしょうけどね。

* * *

余談はともかく、上掲の産経の記事に書かれたご発言が本当であれば、鳩山法相が仰りたいのは、

富山の事件の方は真犯人という「証拠」が見つかったから、元の被告人は白である(【無実】の罪を着せられていた)と言える。
一方、鹿児島の事件の方は、公選法違反をしたという証拠が不十分であったから(「黒とは言えない」となったから)無罪となっただけで、公選方違反行為がなかったという証拠はないから、実際の所は【無実】だったのかどうかは分からない。

…というような趣旨のように見えますね。

刑事裁判システムが、「被告人が【無実】かどうか」という観点から、被告人の黒白をはっきりつけられるようなものであると思っていらっしゃるのでしょうか…?
少なくとも刑事裁判では「黒であるかどうか」を証明できれば良いのに、「黒か白か」までを明らかにしないと気が済まないのでしょうか…?

もし刑事裁判システムに対して過度の信頼を抱き、妄信してしまえば、一度有罪判決を受けた人の【無実】を訴えるには、「黒であるという証拠が不十分である事を示す」だけでは足りないとされるのでしょうね。恐ろしい事です。

失言も繰り返されるともう本人の意見そのものという事になります(笑)。小学校の頃から教室に必ず一人はいたな,こんな奴(笑)の類型分類できますね(爆)。
勉強が出来なかったまま大人になってしまった、その結果としての知性不足知恵不足発言であることは、お気の毒ですがもはや全国的に明らかでしょう。もって瞑すべし。

 エントリを書いてみました

 志布志事件は冤罪ではないのか?

 ここのエントリも250を超えていますので、さらに議論を継続される場合は、新たに作りました

 小会議室ルーム

のいずれかでお願いします。

 早い者勝ちです(^^)

レスをしても無駄かもしれませんので、もう使い終わったこちらのエントリを利用させて頂きます。ご容赦下さい。

期待権エントリ No.143 ぼつでおk(医)さま

>「因果関係なき過失」「エアポケット」等という言葉 の解釈も示さないままでいっちゃった(笑)(期待権エントリ No.143 ぼつでおk(医)さんのコメント)

釣りレスかもしれませんが、前から示してます。

「因果関係なき過失」

>>当該エントリNo.90

「因果関係なき過失」(「過失と認められた行為」と「結果」の間の因果関係に高度な蓋然性が認められていないような「過失」)

「エアポケット」

>>当該エントリNo.75

「エアーポケット」は「因果関係なき過失」そのものを指すのではなく、「『過失』と『悪い結果』の間の因果関係(論理的関連性)が認められない場合の、両者間の空洞(論理的関連性の無さ)」を指すものという事

2.エアーポケットが存在すること (過失と結果の間の因果関係について高度の蓋然性までは証明されていないこと。なお、「高度の蓋然性」とは、通常、「十中八九」(80%以上)のことを指すといわれている。)

>>当該エントリNo.129

エアーポケット:【(過失有りと認められた、もしくは、過失有無が争われはしたものの過失有りと認められなかった)診療行為】と【損害】の間の因果関係に高度の蓋然性が証明されないこと。このような両者間の空洞(通常証明基準での論理的関連性の無さ)。

それでは、さよなら〜。

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