「人殺しは当然」 身勝手な主張重ねた松村被告(産経ニュース)
弁護人は、強盗目的を争っていたようですが、強盗殺人か単なる殺人かは、この被告人に関する限り、あんまり関係ないみたいです。
京都地裁の3人の裁判官も、慎重に審理したとは思いますが、それほど悩まなかったかも知れません。
さて、この被告人は控訴するのでしょうか。
「人殺しは当然」 身勝手な主張重ねた松村被告(産経ニュース)
弁護人は、強盗目的を争っていたようですが、強盗殺人か単なる殺人かは、この被告人に関する限り、あんまり関係ないみたいです。
京都地裁の3人の裁判官も、慎重に審理したとは思いますが、それほど悩まなかったかも知れません。
さて、この被告人は控訴するのでしょうか。
池田小事件やこの事件のようなケースは、死刑廃止派には難しいところでしょうね。某巨大掲示板によくいる「とりあえず死刑でいいよ」派の人々は「廃止論者はこういう奴はかばわないんだよな」とか言ってますし。露悪的な振る舞いは表層だけで・・・と、性善説に立った見方をしたいところでしょうけれど、なかなかしんどいですね。
まあ私は死刑存置派で、この被告人は死刑やむなしとは思っていますが。
委員会の大会議室の死刑問題スレッドを見ていると、「殺した奴は殺されて当然」「被害者の復讐なんだから当然」といった、紋切り型の死刑賛成派が多くて気が滅入ります。ああいう人達が裁判員になると、「よーし、パパ頑張って死刑にしちゃうぞー」というノリでろくすっぽ事実認定もせず死刑判決を出すんじゃないかと不安になります。あるいは、マスコミを介さない生身の被告人を目の前にして死刑宣告をためらう人間性を有しているか。
最近、森達也氏の「死刑」を読みました。賛成派・廃止派いずれを問わず非常に考えさせられる本でした。宗旨替えはしないものの、「悩める死刑存置派」でありたいと思いました。皆さんにも一読をお勧めします。光市事件に興味をお持ちの方には必読です。
記事中の「エリート意識」は誤用のような希ガス。
「選民意識」なら分かるけれど。
>「よーし、パパ頑張って死刑にしちゃうぞー」
(´Д`;)
彼らはバーチャル感覚で言ってるように思うデス。そうしたバーチャル感覚を上手く表現した言葉だと思います。
>「よーし、パパ頑張って死刑にしちゃうぞー」
オレ裁判員になったら、リアルでそうするつもりですけどw。
教育刑?からいくと、死刑回避の決め手として更生可能性は極めて重要です。更生可能性が到底見受けられないので死刑はやむをえなき判断でしょう。通常は弁護士が改悛の情を示すようにアドバイスするかと思いますが、被疑者が本望なら仕方ないでしょう。
>「よーし、パパ頑張って死刑にしちゃうぞー」というノリでろくすっぽ事実認定もせず死刑判決を出すんじゃないかと不安になります。あるいは、マスコミを介さない生身の被告人を目の前にして死刑宣告をためらう人間性を有しているか。
実際に裁判員になったら後者の方が多いように思う。雰囲気に呑まれ、自身の決断が揺れる事が多々起こるのではと。
心優しい人が多いのは確かだし(人殺しなどしない意味で)、被告人の態度によっては、裁く自分を加害者として考える方もいると思う。
私としては被害者の意向が聞けない以上、その被害者の一番近い存在の方の意向が大切ではないでしょうかね。生前にこういう刑事事件について語った事もあるかもしれないし、価値観は相当似ていると思いますから。
生身の人間である被告を裁く訳ですから躊躇もする、それに対向するのは生身の被害者家族の声を聞く事であろうと思います。どちらにせよ極刑でも有期刑でも勇気のいる決断はしなければならない、法の番人になったその時は遠慮なく雰囲気に流されずに臨みたいです。
>実際に裁判員になったら後者の方が多いように思う。雰囲気に呑まれ、自身の決断が揺れる事が多々起こるのではと。
確かに、傍聴席に被告人の老親や幼子らが来て泣いていたら、彼らの息子・父親に対して死刑を宣告するためには、かなりの覚悟が必要な気もします。
反対に、いかに被害者が親孝行ないい子どもであり、子煩悩なよき父親、母親であったかを切々と遺族が訴えたとき、また被告人がとんでもないクサレ外道だったとき、果たして冷静に被告人を見れるかどうか。
裁判員になるためには、まずひと月ほど山に籠もって精神修養する必要があるような気がしまつ。
ゲンさん
ゲンさんがおっしゃるように、実際に法廷に立てば、お茶の間や居酒屋と同じように「こんなやつは死刑で当たり前!」と単純に叫べなくなる人が多いでしょう。
私が予想するに、裁判員制度スタート後は無期懲役が増えるのではないかと思っています。従来は有期刑止まりだった事件は厳罰化が進んで無期懲役となり、死刑かどうか微妙な事件ではためらいが生じて無期懲役に落ち着く、ということです。
ただ、問題は「雰囲気に流される」という部分です。
おそらくゲンさんは、死刑をためらわせる雰囲気に流されないようにする、という意味で言われているのでしょう。しかし私は逆に、「死刑が当然だ」という雰囲気に抗えるかどうかを問題にしたいのです。
被害者寄りの情緒的なマスコミ報道に染まり、就任時点から死刑にする気まんまんの裁判員がいた場合、その人は本当に公正な審理をすることができるのでしょうか。
たとえば、福岡の飲酒運転事故のように世間が圧倒的に被告人の厳罰(または死刑)を求めている情況で、被告人に有利あるいは被害者に不利な証拠が提出されたとしたら。その裁判員は、世間の非難を覚悟の上で、その証拠を被告人の減刑事由として的確に勘案できるのでしょうか。被告人憎しで目がくらみ、あるいは世論の大勢に流されて、量刑を不当に重くしてしまうリスクはないでしょうか。
冤罪の余地がないケースなら、なおのこと量刑を左右する事実認定が重要になってきます。そこに裁判員個人のバイアスがはたらくことは非常に危険です。私が「ろくすっぽ〜」と書いたのはこのことです。
死刑を含めた厳罰化そのものには異論はありません。ただ、その量刑が不当に軽くも不当に重くもならないよう慎重かつ冷静に審理する必要があります。
筒井康隆の「十二人の浮かれる男」という短編小説があります。題名でわかる通り「十二人の怒れる男」のパロディで、陪審制が再開された最初の審理という設定です。この陪審員たちは本家とは逆に、被告人が明らかに無実なのに、証拠のことごとくを被告人の不利に解釈して有罪に追い込んでいきます。その動機はなんと「世間の期待にこたえるため」でした。
初読の時は腹を抱えて笑いましたが、裁判員制度が現実になった今読み直すと全く別の意味合いをもって迫ってきます。
死刑廃止論者がよく言われる「お前が被害者遺族でも死刑廃止を貫くのか」という言葉。最近、私はこの問いを法廷に持ち込んではならないと考えるようになりました。
なぜなら、100%被害者遺族の側に立ってしまえば、殺人犯はことごとく死刑に決まっているからです。裁判員の立ち位置は被害者側ではなく真ん中でなければなりません。でなければ、先に述べたようなことが起こってしまいます。
被害者への感情移入は司法に血を通わせるという意味で有益ですが、時として冷静な目を狂わせる諸刃の剣であることを留意する必要があります。
誤解を恐れずに言いますが、裁判員として関わる者は、ある意味で「他人事」として事件に接しなければならないのではないでしょうか。
被害者側の声を鵜呑みにすることが数々の痴漢冤罪を生んでいることを忘れるべきではありません。
じじいさん
先のコメントはじじいさんのコメントを見ずに書きました。
私も同じ意見です。「人間見た目が9割」とはこのことですね。
「お前が被害者遺族でも死刑廃止を貫くのか」という言葉に関連して、自分は、逆に、新聞を読んでいて、「お前、死刑廃止論者のくせに、自分が被害者遺族のときだけ死刑を主張するとは、どういうことだ」と思ったことがあります。死刑廃止論者なら、被害者が誰であろうと、死刑に反対というのがすじではないでしょうか。
したがって、死刑廃止を考えたいなら、むしろ、上記の問いを、法廷に持ち込むべきだと、自分は思います。
さらに、自分は、裁判員は、被害者側と被告人側の両方にある程度感情移入すべきではないか、とも考えています。
感情によって判断が狂うおそれはあるし、パフォーマンスの巧拙で結果が大きく変わるかもしれないし、両方に感情移入した上でバランスを取って冷静な判断をするなどということを裁判員に要求するのは過大な負担だという気もしますが、ある程度まで感情移入しないと、真剣な議論もできないのでは。
いやー、私は「被害者遺族」の立場に立った場合と「制度設計者」の立場に立った場合とで意見が異なるのは自然なことだと思います。
「遺族の気持ちは分かる。私も遺族の立場なら死刑を望むだろう。」と「でも制度設計者としては死刑を廃止すべきだ」という意見が両立しえないのならば「遺族としては今すぐ犯人に飛びかかっていってこの手で殺してやりたい」という考えと両立するのは「被害者遺族には犯人を殺害する権利を与えるべきである」という意見になるでしょうけど、こうした考えで「殺してやりたい」と言っている遺族ってそんなにいないと思うのです。たぶんほとんどの人は「そういうことを許すような制度設計はいかん!」と思っていると思います。
そのほかにも「建設業者としては公共事業イパーイのほうがいい」けど「納税者としては無駄遣いして欲しくない」も両立するでしょうし、「怪我人の立場に立って考えれば一刻も早く治療して欲しい」けど「でもトリアージは必要」と言うのも両立すると思うデス
感情移入についてはある程度は必要かもしれません。あんまり無機質な判断と言うのもアレですし。バランスを取って冷静な判断をするなどということを裁判員に要求するのは過大な要求でしょうけど「感情移入するな!」と言う要求も過大な要求でしょう。
No.6 じじいさん
>裁判員になるためには、まずひと月ほど山に籠もって精神修養する必要があるような気がしまつ。
本当にそう思う。何かを悟らなければ、担当した裁判で極刑に決まった場合など一生重い何かを背負い続ける人も出てきそうな気がする。
死刑執行官でも苦悩があるようだけど、その一歩手前の判断をする訳ですからね。ある意味、負の連鎖は無くならないのではと考えてしまいます。
No.7 みみみさん
>従来は有期刑止まりだった事件は厳罰化が進んで無期懲役となり、死刑かどうか微妙な事件ではためらいが生じて無期懲役に落ち着く、ということです。
これはその通りだと思いますね。一番の落しどころという感じがしてます。
>しかし私は逆に、「死刑が当然だ」という雰囲気に抗えるかどうかを問題にしたいのです。
私は違う見方をしています。マスコミ等による報道を鵜呑みにし、裁判に臨んだとしましょう。ですがそこではマスコミが枝葉を付けて報道したものとは違う、裁判員という立場でしか知り得ない事実を初めて知るわけですよね。
自分が持っていた被告に対するイメージが崩れていく事が多くなると思っています。これはマスコミの偏った報道が数多く存在してる事によるものです。よって危惧する程(安易な死刑求刑)の事が起こるのか?という疑問があるのです。裁判所で事実と認めた事をもって判断するのが前提ですが、裁判所においても尚、マスコミの方が事実であると思い込んでしまう方は少し怖い気もしますが・・・
>被害者側の声を鵜呑みにすることが数々の痴漢冤罪を生んでいることを忘れるべきではありません。
重々承知しています。被害者の声のみではなく、加害者の主張に対しても聞く耳は持たなければならないと思います。今回の痴漢でっち上げに対する警察の行動も疑問に思っております。強く対処すれば弊害が出るし、本当の被害者がいるならば強い対処も必要となりましょう。現場では日々こういうジレンマの下で動かざるを得ない事を考えると大変な仕事だとつくづく思います。検察も弁護士も含めてですが。
裁判員制度が、「国民の健全な感覚だけを裁判に反映し、不適切な感覚は反映しない」ようにする為の信頼できる措置がどこにあるのかが、示されていませんね。
そしてその線引きを決める基準も。
制度設計の段階の議論では、「国民の感覚を裁判に反映させる」という目的については見解が分かれていたので、この話題が出るだけで紛糾し、上記措置については検討がされていないのです。
「国民の感覚を裁判に反省させる」ことを望んでいた人達も、このような拙速な制度設計は望んでいなかったでしょう。
ゲンさんの不安も、みみみさんの不安も、どちらもあり得ると思っています。
だから、私はこのような制度に参加したくありません…。
* * *
以下は制度設計に携わった一部のメンバー達への意見です。
「実際には国民の感覚反映なんていらんけど、そのことは議事録読めば分かるんだから、上手いことお茶濁して国民には伝えておけ。読まない奴が悪いんだ」とも取れる意見が反映された裁判員制度なんて、その成立過程から碌なもんじゃないなぁ…と感じています。
制度設計時に、長引く不況でリストラ、倒産に喘いでいたサラリーマンや自営業者等、国民達の多くが、内閣府のホームページにアクセスして膨大な量に及ぶ議事録を読めるもんでしょうか?
そんな事にも気づかずに、なにが「民の司法」ですか。
綺麗事はやめて欲しい。
美辞麗句で飾って誤魔化していなければ、ここまで腹は立ちませんでした。
やるんだとしても、一旦白紙に戻して再検討すべきだと思っています。
ゲンさんの言う通り、法廷で全ての情報に接することでマスコミのバイアスが剥がれてくれれば問題はないんですけどね。ただ、大会議室にもいるように、自分の見解を曲げることを是としないタイプの人はなかなか難しいかもしれません。
いずれにしても、裁判員個人の資質が大きな要素になるのは一つのリスクではあると思います(それを言うなら裁判官だってそうなのですが)。
死刑囚さんがうまく要約してくれました。
いかにして市民感情の「いいとこ取り」をするか、というのは裁判員制度の根幹に関わる問題だと思います。