このエントリは「無罪推定の原則とネクタイ」の続編です。
ネクタイをきちんと締めている人は「真面目な勤め人に見える。」という日弁連の感覚はごく普通の犯罪などとは縁のない一般市民の日常的な感覚だろうと思います。
しかし、裁判員の前で展開される刑事法廷というのは日常世界ではありません。
身柄拘束中の被告人は、手錠をされて腰縄を結ばれて法廷に入ってきます。
たしかに初めてそのような姿を見る人(裁判員)にとっては衝撃的な光景だと思います。
昔、検察庁に出入りしていた保険外交員の人に、「初めて見たときはショックだった。」という話を聞いたことがあります。
そして、その被告人は検察官から犯罪者だと指弾されているのです。
それも万引きや喧嘩の類ではありません。人を殺した者と言われているのです。
そして、通常、すでに1か月以上、場合によって数か月以上自分の意思に反して身柄を拘束されているのです。
被告人にとっても非日常的なそのような状況は、被告人の心身に目に見える影響を及ぼす場合があります。
もし、その被告人が無実の冤罪被害者であったなら、その被告人が置かれている状況というのは不条理の極みというべき非日常世界です。
その被告人が真犯人であったとしても、正直に反省している被告人であるとは限りません。
あらゆる手段、つまり嘘八百や可能な限りの罪証隠滅工作を行って自己の罪を免れようとしているかも知れません。
被告人が、「私は無実だ!」と叫ぶとき、その被告人が冤罪被害者であるのか罪を免れようとしている狡猾な真犯人であるのかは、ネクタイをしているかどうかによって区別できるようなものではありません。
何が言いたいかといいますと、
日弁連は、本来的に非日常的な状況に、日常感覚を持ち込もうとしている誤りを犯しているのではなかろうかという危惧です。
非日常の世界を日常の基準に従って見てしまった場合、真相に迫ることは極めて困難になるだろうと思われます。
すでに、前エントリのコメント欄で指摘されているところですが、日常感覚の見た目を問題にするよりは、裁判員に対して裁判および被告人の置かれている状況というものは非日常の世界なのであるということを理解させることこそが重要なのではなかろうかということです。
そして日弁連の主張は、単に優先順位を誤っているだけでなく、裁判が非日常であるという最も重要な理解から裁判員を遠ざけてしまう危険があるように思われます。
私は全エントリの最後で
木を見て森を見ないような対策や、木ばっかり見ることによって森が見えなくなるような対策、または森を見えなくするための対策だったりすれば、そんな対策をとらなければならないということは裁判員制度などできる状況でないということです。
と書きましたが、それは何が木で何が森かを見定めないと、結果的に「森を見えなくするための対策」になってしまわないかということを恐れたからです。
エントリ本文でモトケンさんが、「日弁連の主張の優先順位」に言及されているので、それに絡めて一言。
裁判員制度開始を控えて、裁判員となる一般国民向けの啓発広報活動が盛んですが、こうした啓発活動は刑事裁判に直接関わる法曹には、より手厚く徹底して行なわれるべきと感じます。
国民が裁判員となる確率は、裁判員候補として呼び出される確率で3/1000ぐらいで、初年度に裁判員を務める確率はそう大きくは無いと感じます。ところが弁護士となると桁の違う確率で、初年度から裁判員制度の法廷審理に関わることになるのではないかと思います。特に国選弁護人に就任する機会の多い若手弁護士にとっては、その確率は相当高くなるでしょう。
ところが、今まで弁護士は書面主義での法廷に馴染んでおり、刑事弁護人としての能力養成についても、書面主義での法廷技術が前提になっているのではないでしょうか。しかし原則口頭主義の裁判員制度の法廷では、臨機応変、丁々発止の論戦を繰り広げる違った能力が要求されるはずです。
いくら公判前争点整理手続きでそれなりに作戦は立てられるとしても、本番の法廷では何が飛び出すか分からない。言うなればシナリオとリハーサルの無いアドリブ劇に対応しなければなりません。
これからの1年間に、全国で2万人を越える弁護士に、その全員が2日間の本番さながらの模擬裁判を体験させて研修させる。国民の一人として、日弁連にはこのよな意気込みがあるのかが先ず気になるところです。
万一、自分が被告人として裁判員裁判の法廷に立つことになったとき、弁護人が口頭での審理に不慣れで、充分な弁護を受けられない可能性は想像したくありません。想像したくありませんが、自分自身が裁判員として法廷審理に参加する可能性より、被告人として出廷する確率の方が遙かに高いような気がしますし、能力に長けた報酬の高い弁護士に依頼するほどの資力もありませんので・・・。
何が木で何が森かを見定めないと、
結果的に「森を見えなくするための対策」
になってしまわないかということを恐れたからです。
わたしも直感的にそう思います。
ところで、
日常感覚の見た目を問題にするよりは、
裁判員に対して裁判および被告人の置かれている状況
というものは非日常の世界なのであるということを
理解させることこそが重要なのではなかろうかということです。
平均的な裁判員はこれは理解できると思います。
道を歩いていたら突如として法廷につれ込まれて裁判員に指名されるわけではないのですから。
現実にはビックリするかもしれないけど非日常的な判断を要求されていることは理解できるでしょう。
その上で、判断が変なものになるかもしれないのは市民が裁判に参加する限りは、ついて回る問題であり結果として「相場がぶれる」のも仕方ないことです。
ところで、被告人がお仕着せの背広などで法廷に出てくるのはかえって良くない印象を与えるでしょう。
出来ることなら、事件当時の普通の格好で出てきて欲しいです。
例えば、事件当時は金髪のアフロといった極端な髪型の人物が、丸坊主で出てこられたらかなり印象が違ってしまいます。
そうなりますと、姿形についても法廷で説明するようなことになるのかもしれません。
基本的に印象操作をすること自体がよいこととは思えません。
もちろん、被告自身が望む身なりをさせるべきだと思いますが、周囲がコントロールするべきではないでしょう。
その上で、保安上の問題などで規制するのも当然、という現状とさほど変わらない状況がよいとなってしまいますね。
そういえば「茶髪にサングラス」を選挙になるとやめた人がいましたね
今、模擬裁判(裁判員制度)が盛んです。
ある弁護士が被告人役をやり、3日間毎日洋服を替えていました。
スーツあり、トレーナー上下あり(スリッパ)、そして普通のリラックスした仕事あり。
模擬裁判が終わった後、その弁護士は裁判員約6人に「毎日洋服を替えてましたけど、何か印象は?」と聞いた。
すると6人とも「えっ、全然気付きませんでした」と答えていたのです。
緊張で気付かなかったのではありません。審理に集中していたからですし、そんなことで左右されることはないのです。
そういう実際の結果(意図しなかったもの?)があっても主張を続ける。
要するに本末転倒です。
ついでに、ある裁判員役の方は「本当の裁判のように真剣に臨み、引き込まれました。服装では影響することはないと思いますよ」と遠慮がち?に言っていました。
裁判における日常と非日常の指摘はとても興味深い指摘だと思います。
が、その文脈で言えば、是非は別にして、そもそも「非日常」である裁判に「日常」を持ち込もうとするのが、陪審制・参審制の意義でもあろうかと思います。
である以上、「日常」の一環としての、「見た目への気配り」やら「服装の自由」などが法廷に持ち込まれるのも、至極当然という以外にないように思います。
日本での極めてわずかな模擬裁判の経験から、「被告人の外見は裁判員の判断に影響を与えない」と断言される方もおられるようですが、アメリカなどでも、勿論州により服装などの規制は様々なようですが、いずれにせよ特に陪審裁判での、弁護士による被告人やその家族の態度・服装など外見へのチェックは、一部では相当なものがあるとも聞いたことがあります。
彼の地での数百年の陪審制の経験と、極めてわずかな模擬裁判のみの日本での経験を比較できる訳もありません。被告人の外見的印象が判断者に影響を及ぼす可能性が、彼の地ですら否定され切れていないのに、まして外見にうるさい日本で、影響が絶対にないと決めつけることができる筈もありません。
影響の可能性がどんなにわずかであれ完全に否定できないのであれば、被告人の利益の最大化を目指す立場として、弁護士側が、服装等についても要求するのも至極当然という以外ないように思います。
「裁判員に対して裁判および被告人の置かれている状況というものは非日常の世界なのであるということを理解させることこそが重要なのではなかろうか」というのは、とても重要な指摘だとは思いますが、おそらくそれは、ネクタイの非着用ではなく、まずは取り調べ等の完全な可視化や人質司法などの実態の周知などにより実現させてゆくべきもののように思いました。
今見たら、今枝さんのところに、オーストラリアでの印象記が書いてありますね。
さもありなん、という感じです。
◆ 陪審員に与える印象
http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gl/imajin28490/comment/20080306/1204809248
>No.4 psq法曹さま
これは法曹素人ゆえの浅はかな質問かもしれませんが、「審理に集中するという事は、被告人の服装を注意深く観察しない」という事なのでしょうか?
また、裁判官は、被告人の動作・顔の表情・声音などから判断しないように訓練されているものなのでしょうか?それとも、服装からの判断はNGだが、被告人の動作・顔の表情・声音などからの判断は一切NGという訳でもないのでしょうか?
上記は反語ではなく、素朴な疑問です。
とくに「裁判員制度反対論者の立場からの批判のための批判」や「裁判員制度に対する荒ら探し」の意図はございません。念のため。
でも、もしもご面倒ならば、無理にご回答を求めるものではございません。
* * *
追記:(以下はとくにpsq法曹さま宛ではございません。)
前エントリ(「無罪推定の原則とネクタイ」)No.4でrijinさまも仰っておりましたように、日弁連は非言語性コミュニケーション(non-verbal communication)の面を気にしているのだろうとは思いますが、個人的には、ネクタイの有無等位では、「犯罪者である」という予断の恐れがあるとまでは思えません。私も
という気がします。仮に被告人のノーネクタイが「被告人が犯罪者である」という予断を裁判員に与える可能性もあるとしたら、被告人のネクタイ着用は「被告人が犯罪者ではない」という予断を与えるとも言えるのでしょうか…?
いずれにせよ、今回日弁連がやろうとしているのは、被告人が裁判員に与える印象を操作することで、「被告人が犯罪者である」という予断を裁判員に与える可能性があるものを極力排除したいという事でしょうかね。「法廷弁護技術」(日本弁護士連合会 編纂)をパラパラと立ち読みした際には、「弁護士はただ読み上げるのではなく、裁判員の目を見て話すように」等といった趣旨のことが書かれていました。このような「弁護側の裁判員制度対策」の一環なのかもしれないと感じました。
* * *
ところで、服装も、非言語性コミュニケーション(non-berbal communication)の一つと言えるかもしれませんが、主に(1)ジェスチャー、(2)随伴運動、(3)生理的要素の3要素に分けることが出来ると言われています。
(2)は、「まばたきをする」「貧乏ゆすりをする」「身体を掻く」等です。相手との間の取り方といった姿勢もこちらに入ります。直接的には話し手に伝達意志がなくても、その場にそぐわないことがあると出現することが多いと言われる意味では、重要なコミュニケーション要素と考えられているそうです。
(3)は「顔が赤くなる」「震える」「喉が渇く」「冷汗が出る」等です。顔の表情などもこちらに含まれます。
社会心理学の知見では、二者間のコミュニケーションにおいては、言葉によって伝えられるメッセージは全体の35%に過ぎず、残りの65%は、話しぶり、ジェスチャー、相手との間の取り方、動作などの言葉以外の手段(上述の非言語性コミュニケーション)によって伝えられると考えられています。
ここで素朴な疑問なのですが、裁判官は予断を排除するために、上記のような「非言語性コミュニケーション」すべてを排除するよう訓練されているのでしょうか? 裁判官は、被告人・証言者・検察側の主張・弁護人の主張などついては、言葉だけを追うように訓練されているのでしょうか?
これは、一番上の方で書いた疑問と同様のものです。
仮にそうであれば、何らかの方法で、裁判官・裁判員には、被告人等の非言語性コミュニケーションが極力伝わらないような措置をすれば良いのではないでしょうかね…?
それが現実的かどうか、他の問題は生じないか否かははともかく、たとえば、チャットのようにPCの画面に出て来る言葉だけ見るようにするとか。
(被告人など本人が話しているという証拠は他の信頼できる裁判所の職員などに任せ、判断をする裁判員や裁判官は被告人などの身振り・手振り・顔の表情・声色を見聞きしないように配慮する等)
いずれにせよ、このように被告人らが裁判員に対して与える「非言語性コミュニケーション」を排除することが、「裁判員(国民)の健全な感覚を裁判に反映させること」に繋がると言えるのかどうかは分からないような気がしますが。
人間は一般的に言語を使わないコミュニケーションも行っていると思われるからです。
前にどなたか非法曹家の方も同様の質問していらっしゃったように思いますが、裁判員制度では、裁判員は裁判官のように判断することを望まれているのでしょうか?それとも望まれていないのでしょうか?
また、仮に裁判員は、裁判官と全く同じように判断することを望まれていないとしたら、裁判官にはない裁判員の感覚の中で、具体的にどのような部分が反映されることが望まれているのでしょうか?
「科学 Vol.74 No.7 Jul.2004」(岩波書店)によると、「言語:思考の道具か、コミュニケーションの道具か?」という座談会にて川島隆太氏(脳機能イメージングがご専門。「脳トレ」の方でも有名)は、
>No.8 死刑囚さん
横レスになりますが
>(2)随伴運動、(3)生理的要素
私は、この二つの要素は証言の信用性を判断する上でとても重要だと考えています。
意思によってコントロールされる行動は意図的に他人を欺くことが可能ですが、意思によってコントロールできない反応は反応の限りにおいて正直なものと言えます。
問題は、その意味する内容が必ずしも明確ではないという点ですが。
>ここで素朴な疑問なのですが、裁判官は予断を排除するために、上記のような「非言語性コミュニケーション」すべてを排除するよう訓練されているのでしょうか? 裁判官は、被告人・証言者・検察側の主張・弁護人の主張などついては、言葉だけを追うように訓練されているのでしょうか?
私は裁判官経験がありませんので検察官経験に基づいて言いますと、真相発見のためには非言語性コミュニケーションを最大限に活用する必要があると考えています。
これは事実認定の重要な基本的要素と思いますので、裁判官もたぶんそうだろうと思いますが、民事の裁判官の中には発せられた言葉を重視する人がいるように感じています。
1 私は、別にネクタイ反対ではありませんよ。
そういうことに拘るなら、別に普通に望む服装でよいのでしょう。
できることから始めるというのもよいというのは歓迎するところです。
ただ、裁判員「のみ」が服装で惑わされると考える、その法曹の発想に疑問符を付けているのです。
非法曹という一般の人をもっと信頼したらどうでしょうかね、と言いたいのです。
2 「審理に集中」とは、服装が問題になっている点からの表現であり、そういうことは気にしてすらいなかったという意味にお受け取りください。
3 別に言葉だけを追うようには訓練されていないし、非言語コミュニケーションも判断要素になるでしょう、裁判官とて普通の人間ですから。
ただし、日本では、裁判が長くなり、裁判官が交替し、記録で心証を取らざるをえない場合が生じる実務慣行があります。
これは一種の(公判)調書裁判となるわけで、裁判員裁判で連日的開廷となると、そういうことがなくなります(特殊な場合を除いて)。
4 裁判官のみならず、日本の実務慣行では、時に反対尋問を「速記録ができてから、次回に」と申し出る当事者がいます。
やはり「言葉」に拘っている証拠か、専門家なのに即座に反対尋問できないという能力不足を露呈しているのかもしれません(自戒を込めて)。
これも本来おかしなことであり、裁判員裁判では許されなくなり、このように色々なことが変化(改善だと思いますが)する状況にあります。
>No.9 モトケンさま
コメントありがとうございます。
>(2)随伴運動、(3)生理的要素
はむしろ重視されているとのことなのですね。
(そういえば、「取調べの可視化」とも部分的に関連する話かもしれませんね。)
なるほどです。
被告人の随伴運動や生理的要素など、言葉以外から得られる情報を、裁判員が正確に解釈できるかどうかが問題になるかもしれませんしね。
また、被告人が演技する可能性がないとは言えないようにも思いますし。もっとも、「役者のような被告人」がどの程度いるかどうかは分かりませんが…。
個人的には、演技の恐れが低く(仮に演技であってもそれを見抜くことができ)、適切に解釈できる可能性が高いならば、情報量が増えるのはプラスだろうと思います。
ありがとうございました。
>No.10 psq法曹さま
ご回答ありがとうございます。
2の件、諒解致しました。
3の件ですが、特に、裁判官には言葉だけを追うようには訓練はなく、非言語性コミュニケーションを判断要素から除外すべきと教えられる訳でもなかったのですね。ご教示頂きまして有り難うございます。
もし裁判員になった場合、「公判の内容をより良く理解するため、言葉を追いかける方に最大限集中する」か、それとも、「被告人や証言人の随伴運動や生理的要素といった情報をも得るために広く注意を向ける」のか迷いそうだと、以前から気に掛かっていた点だったので質問させて頂きました。
(個人的には、後から記録を読んで再度検討できる時間が十分にあるならば、後者を選んだ方がいいのかもしれないな…という気もしてきました。)
ご教示頂きまして、ありがとうございました。
* * *
以下は余談ですが、証人や被告人が話している途中で、裁判員から証人等へ非言語性メッセージを意図的に送ることも可能だろうと思います。
(相手が見ているとは限りませんが、もし見ている場合は。また、意図通りに相手が受け取るとも限りませんが。)
それが問題になるか特に問題はないのか分かりませんが、たとえば、
◆「裁判員は、頷きながら聞く」⇒「それを見た証人等は、『裁判員は自分を理解してくれている』というメッセージを受け取るかもしれない」
◆「裁判員が眉間に皺を寄せる」⇒「それを見た証人等は、『裁判員は自分の発言内容を訝しげに思っている』というメッセージを受け取るかもしれない」
といったことも出来そうですね。
後者は、証言人等に対して威圧をかけ心理的揺さぶりを与え、それに対する証言人等の反応を見ることで、証言の確かさを確認する手段になる可能性もあるかもしれません。
そんな事を試せる余地が裁判員にあるかどうかも、機会があれば、模擬裁判か裁判を傍聴する等して確認してみたいなぁ…と思っています。
※これは単に個人的関心事でして、裁判員制度の公平性や中立性に係わる関心とは別件の、余談でした。
No.12
裁判員の反応を読み取る点については、裁判官も、できるだけ態度に表さないと言っても出るわけです。
現在でも当事者法曹は裁判官の反応(表情態度や質問への介入、その語調など)を読み取りながら、やっていることです、普通レベル以上の法曹ならば。
>後から記録を読んで再度検討できる時間が十分にあるならば、後者を選んだ方がいい>
1 これが裁判員として(に対して)の意見だったら、賛成します。
ところが、何故か裁判員は記録を読むことを予定していないということが法曹間では当然のようになっています。
その点は法廷で見聞きし、記録も読んで判断して何が悪いのか(必要なら読めば良い)と思っています。
2 そして、私が実務慣行の問題として言ったのは、(1)法廷で「見聞きしない」裁判官が公判調書で心証を採らざるを得ないという点と、(2)プロの当事者法曹が速記録がないと反対尋問できないと主張する点であり、裁判官や裁判員のことではありません。
裁判官でも裁判員でも、法廷で見聞きし、かつ、記録を読み返すならば何も問題はありません。
まあ、そうすると検討時間が必要になりますが。
3 多数決制度だって、実務運用としてはアメリカ陪審のように全員一致になるまでじっくり評議するということも可能なのですが、そうするとまたぞろ批判(裁判官の強力な誘導?)が出てくるとは思います。
最終的に結論を出すためのツールとして、多数決制度を定めているだけと考えればよいのです。
>No.14 psq法曹 さま
>プロの当事者法曹が速記録がないと反対尋問できないと主張する点
あと1年ほどで実際に裁判員制度が始まるというのに、法曹ですらこのように「原則口頭主義」の法廷審理に対応する能力が無い、と自ら公言する者が相当数居るという現状は、国民として憂慮すべきことです。
No.15
この点いついては、そういう感じを持たれても仕方ない面はあります、特にプロ意識のある方々から見ると。
ただ、「できない」に意味があるというよりは、やればできるのに(?)やろうとしない。
むしろ、できないと「主張する」点、そしてそれが通(せ)る慣行であることに問題があると思っています。旧習墨守と表現した所以です。
組織改革には常に意識改革が必要ですが、法曹という世界の改革には法曹の意識改革が必要なわけです。
やればできるという意味で、「相当数」が少ない(・・・はず)。
>No.13 psq法曹さま
コメントありがとうございます。
しかし、恐れ入りますが、お話が噛み合っていない気がしております。
私の文章の拙さ故だろうと思いますので、改めて下記の通り書かせて頂きます。
この点に関しては、No.12では私は特に問題にしておりません。
(上記は、psq法曹さまの方から、新たな論点を提起して頂いたという事かもしれませんが。)
また、
という事も、No.12では特に問題にしていません。
(No.12のコメントを「弁護人や検察官などの当事者法曹は、裁判官の反応を読み取る事をしない程、レベルが低い」等と受け取られたのでしょうか? もしそうであれば、それは全くの誤解です。)
前にも書きましたように、「人間は一般的に言語を使わないコミュニケーションも行っていると思われる」ので、意図的に排除しない限り自然に行われることだと思います。当事者法曹が出来る限り、裁判官の反応といった情報を得ようとするのも自然だと思います。
* * *
まず、No.8の私の疑問は、「裁判官(裁判員)は、日常的な情報収集方法の一つといえるだろう『非言語性コミュニケーション』によって得られた内容を、法廷でも判断材料として良いのかどうか?」という趣旨の質問でした。(そこでも書いたように、反語ではなく疑問として。裁判員制度に対する「批判のための批判」や、「あら探し」の目的ではない、とも書きました通りに。)
モトケンさまもご指摘されていらっしゃるように、「問題は、その意味する内容が必ずしも明確ではないという点」だろうと、私も思います。
非言語性コミュニケーションから得られた内容(情報とその解釈)は、必ずしも論理的に説明され得るものではないかもしれません。
いずれは説明される日が来るかもしれませんが、「人間の『心理』と、『生理的反応及び随伴行動』の間の相互作用」や、「人間の認知機能」などについては、学問的にはまだ明らかにされていない部分が沢山あるからです。そして我々は、日常的には、非言語性コミュニケーションから得られた情報を無意識に解釈している事が多々あると思います。
懸念していたのは、「証人等が話している内容」と、「証人等との間の非言語性コミュニケーションから受け取った内容」が、同方向を指し示していないといったケースを想定したからです。それは、あり得ない事ではないと思っています。
その場合、証言人等の話の内容の信頼性を検討する場合、どの程度まで非言語性コミュニケーションから受け取った「情報とその解釈」(内容)に重きを置いてよいかのか迷いそうだと思いました。
心理臨床家(※)であれば、非言語性コミュニケーションからも、もっと多くのものを読み取るかもしれません。
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※誤解を恐れずに言えば、心理臨床に関する知見は、経験も加味されます。
また心理臨床とは別件ですが、私の家人の一人は、ある人物が次にどのような行動に出ると思うか話すことがあると、たいていよく当たります。
よく当たるので不思議に思って聞くと、特に理論はなく「なぜそのように推量したのか」を論理的に説明することは難しいようです。
「強いて挙げれば、観察とか経験とかかもしれない。頭は良くないし学もないけど、昔は厳しい時代だったから、人を観察して上手く生きようとする術を学んだのだろう。つい普段からも、たとえば電車の中でも、人を観察してまう癖がある。人を観察するなんて、はしたないから、恥ずかしい事だと思っている。」と言っていました。
でも、個人的には、「観察や経験」と「理論」は両輪となって上手く機能するものであり、どちらも大事であり、上記は恥ずかしい事ではないと考えています。
理論(中にはイデオロギーも含まれる)に執着するがあまりに、目の前の物を観察しようとする姿勢を忘れることのないように居たいものです。
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しかし、観察と経験に基づく知見の中には、他者に論理的に説明し得ないものもあるでしょうし、勿論中には「予断」とみなすのが適当なものが混ざっている可能性もあるだろうと思います。
そこで、「法廷では、非言語性コミュニケーションから得た内容のうち、予断とみなして排除すべきものと、判断材料とみなしてよいものとを分ける線引きは、何を基準に行えば良いのだろうか」という点が、以前から気に掛かっていました。
* * *
No.10で頂いたご回答によれば、裁判官(裁判員)は非言語性コミュニケーションを特に意図的に排除するように指示されない、という事だと受け取りました。
このご回答は、ちょっと意外でした。
検察官や弁護人などは非言語性コミュニケーションを活用しているだろうと思っていましたが、裁判官においてはこれを意図的に排除しているのかもしれないと思っておりましたからです。
なぜならば、検察官や弁護人であれば、非言語性コミュニケーションから得られた内容を手がかりに、それを支持する証拠集めも念頭に置きながら多方面を調査することも出来るでしょう。でも、裁判官は、検察や弁護人が提出した証拠を基に判断するだけで、もっと詳しく調べたいと思っても、せいぜい証人等に質問することが出来る位だと思っていたらからです。
裁判官(裁判員)が、非言語性コミュニケーションから得た内容の信頼性を検証するための材料は、主に法廷に提出された情報だけであって、新たに調査はできないのですよね?
そこで、No.12のコメントの余談部分では、裁判官(裁判員)の方から証言人等に対して積極的に顔の表情や態度などによって(非言語性コミュニケーションによって)メッセージを送り、証人等の反応を確認してみたらどうだろう、という個人的関心が沸いた次第です。
裁判員には質問権があるそうですが、何度も質問して自分が納得するまで証言人等に確認することは出来ないかもしれません。
(上記想定ケースであれば、私ならば調査したくなり、調査できないならば、徹底的に確認したくなるだろうと思います。さもなければ、判断は保留にさせて欲しい。)
質問だけでなく、併せて他の方法もないものかと思い、下記に書いたように意図的にこちらからも非言語性コミュニケーションを通じてメッセージを送り、それに対する証人等の反応を確認するといった方法はどうだろうかと考えていました。
仮に、裁判員による上記のような行為が注意を受けることがないならば、もし私が裁判員だったら試してみたいと思うかもしれません。
頂いたコメントから察するに、基本的には「裁判官はできるだけ無表情でいるのが望ましい」と考えられているようにも見えますが、裁判員が上記のような事を試したら、注意を受ける恐れはあるのでしょうか…?
No.17訂正です。
×理論(中にはイデオロギーも含まれる)
○理論(中には、イデオロギーの含まれる物もある)
>No.14 psq法曹さま
はい、裁判員に対しての意見でした。
この点ご賛同頂き嬉しく思います。
時間が掛かるのも問題かもしれませんが、個人的には、公判の内容を出来るだけよく理解するためには、記録も読みたいと思います。
(1)の点については、それはそれで問題があるようにも思います。
ただ、私のコメントと絡めて言えば、恐れ入りますが、若干お話が噛み合っていないようにも思います。
「非言語性コミュニケーションの内容」からの判断は、「裁判官の心証」判断にしか使えないものだという前提があるのでしょうか?
(これも、素人の浅はかな質問かもしれませんが…。
余談ですが、たとえば、法務業の末席さまが仰っておらえれる「原則口答主義」というのも、聞いたことはある気がする位で、内容やその意義についても、よく存じ上げておりませんでした…。これからよく調べてみようと思っています。)
(2)の点については、裁判官のことかと勘違いしておりましたが、諒解致しました。ご説明ありがとうございます。
とりあえず、多数決制度の件については、今の所は未だ、色々検討したり、論点を整理できておりません。(一度は自分の中でも検討すべき点であり、大事な点だとも思っておりますが。)
噛み合っていないのは承知で、それに付加して参考情報を欠いたと理解してください。
>噛み合っていないのは承知で、それに付加して参考情報を欠いたと理解してください。
諒解しました。
ただ、付加情報(No.13&No.14)を拝読した上で、改めてNo.10で頂いたご回答を確認致しましたところ、その印象が変わりました。
結局、法廷での裁判官(裁判員)における非言語性コミュニケーションは(裁判官から証人等へ & 証人等から裁判官へ の双方とも)、特に排除すべきとはされていないが、積極的にその活用が肯定されている訳でもない、という意味だったのでしょうか?
「今朝のサンデージャポン」エントリNo.173でご紹介されていた「熊本典道元裁判官」をネットで検索した所、同氏のブログがございました。
その中に本エントリで質問させて頂いていた「非言語性コミュニケーション(non-verbal communication)」の件に該当する記述がございました。
熊本典道元裁判官やその先輩によれば、法廷での裁判官(裁判員)における非言語性コミュニケーションは(少なくとも、証人等から裁判官へ)は、積極的にその活用が肯定されているのですね。
以前から気になっていた点に対して一つの答えを見つける事が出来、嬉しく思いましたので報告まで…。
>No.21 死刑囚さん
死刑囚さんが引用された文章を読んだ限りのほんとうに単なる直感または直観なんですが、
>先輩の教えに従って「法廷では人の態度を見る事」を第一として審理に望んできた
の部分については、熊本元裁判官は先輩の話を誤解している可能性を感じました。
この直感が正しいか正しくないかは、熊本元裁判官が袴田事件で無罪心証を得た根拠を具体的にお聞きしてみないと分からないと思いますが。
誤解の可能性もあるという事ですか…。
>熊本元裁判官が袴田事件で無罪心証を得た根拠を具体的にお聞きしてみないと分からない
「自由心証主義に対する抑制方法」と関連するお話なのかもしれませんね…。
証拠の信用性を判断する際には(証拠評価は)、注意則・経験則に従って客観的・分析的に認定されねばならない事と、「非言語性コミュニケーションに基づく心証形成」は、時に矛盾するかもしれませんものね。やはり、
というご指摘の問題点に戻ってしまいました。
もし非言語性コミュニケーションに基づいて心証形成を行う部分があったとしても、それを客観的・分析的に説明できなければならないという事なのかもしれません。
アドバイス有り難うございます。