落合ブログから
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080327#1206549485
法科大学院制度は旧司法試験における司法試験予備校の弊害が原因の一つとなって作られたと理解しています。
つまり、司法試験に合格しても「使えない」人間がたくさん合格するようになってしまったことが原因と思っています。
となると、問題は、法科大学院を卒業し司法試験に合格した者が「使える」か「使えないか」こそが問題であると思います。
落合弁護士が指摘しているように、答案作成能力は実務文書作成能力と重なるところがあります。
新司法試験的観点において優秀な答案は実務文書としても優秀でなければなりません。
新司法試験の問題とその採点基準はそういうものでなければならないと考えます。
その意味でも、評価する側が評価されていると言えます。
かなり以前にこんな文章を書いています。
「司法試験予備校考」
指摘を受けた法科大学院が予備校化しているかどうかは、指導の中身を見てみないとなんとも言えません。
以前の制度なら、家が貧しくても・中卒でも独学で弁護士になることも可能性としてはあったのですが、今の制度では、はじめからそれを拒否していて問題だと思います。貧しい思いを経験した・苦労した弁護士というのも、社会には必要です。
それと、弁護士の数が増えすぎて、弁護士になったはいいけど食えなくなるという心配もありますね。
ちょうど、大学院重点化以後の今の大学院生のポストドクター問題のような状況になるのでは・・・。私もその一人です・・・。
3月で、わたしが社会人講師として高校で実施してきたロボット授業も終わりになりましたが、毎回感想文のようなことを書かせていました。
4月に始めた頃の文章は、下手すると一つのチーム(3人)の文章そのものが同じだったりしていて「しょうがねぇなぁ〜」であったのですが、最終回になると個人差が出てきて「思いの丈を一生懸命に表している」のがよく見えてきます。
たかだか1年間で何が変わったのか?というと、個性を発揮してやってみるという体験を充分にさせたことに尽きます。
わたしは「感想文」を書くこと出来るが「感想を述べることは出来ない」と評していました。
感想文とか作文の練習をしていますから、反射的に「正しい文章」を書いてしまう、その結果が「全員同じ」になったりします。
「個性があることを認める」というの高校生にはなかなか高いハードルのようで、ロボットのプログラムを作ることを通じて、練習させた成果はあると思っています。
答えが正解であっても、背景が全く間違っていたり分かっていなかったりといったところまで見ないと指導とは言いがたいですよね。
法科大学院に実際3年間通った身としては、学校が予備校的教育を忌避するがあまりに、一つの点ごとに深く深く掘り下げること(や、一つの点に時間をかなりかけること)をやや重視しすぎている感じがしました。
そのことが法的思考を鍛えるトレーニングとして悪いとは言いませんが、7科目について短答と論文が同時に問われ、さらに選択科目もあるという試験に向けて、個々に時間をかけることを重視するということは、
生徒が個人裁量で使える時間数が絶対的に不足するということと、
その不足した時間内で、授業では触れられなかった多くの問題を自己処理するよう求められるということを意味します。
予備校化を忌避して、個々の点に時間をかける方式を授業で採用しても、結局、試験ではこれまでどおり、(思考力を示す大前提として)膨大な記憶量を問われるので、どこかで合理化を図るほかありません。
つまり、試験と、理念と、実際の法科大学院のありかたと、個々の教授の意識がかみ合っていない感じです。
あとは、試験前の準備が足りないことを「学生の能力不足」「自己責任」で片付け、さらに、先生方に負担の多い授業形式(システム化された予備校的授業を回避すると、教える側にも負担がかかります)を、一部の熱心な先生方のボランタリーな熱意と負担で、今のところは乗り切っているように思います。
個人の自発的な善意と忍耐、自己犠牲を頼りに成り立つシステムは長続きしないので、
予備校の弊害もあるだろうけれど、予備校がこうなったのも、司法試験のあり方にあわせて来た部分が多少なりともあると思いますので、
やみくもな予備校忌避もあまり好ましくないと、法科大学院の中にいて考えました。