【光市母子殺害判決の要旨(1)】(産経ニュース)
弁護団の記者会見(産経ニュース)
判決としては理由結論ともに予想通りでした。
弁護団の会見内容に少しコメントしてみます。
安田好弘弁護士「最高裁の判決に忠実に従った極めて不当な判決だ。証拠の評価方法は基本的に間違っている。弁護団では、自白ではなく客観的事実からその信用性を見直して吟味すべきだと主張していた」
《安田弁護士は殺害方法の鑑定結果など、時折身ぶり手ぶりを交えながら、判決の事実認定について批判を加えた》
「加害者が右手で逆手で押さえたものとしか認定できないにもかかわらず、裁判所は逆手であることを全面的に否定した。
たぶん弁護団としては最も力を入れて主張した部分であり、私も客観証拠である死体痕跡と供述の整合性という観点で最も重視していた点ですが、これは弁護団が記者会見で示した死体痕跡の図面との整合性において、すでにこのブログや場外乱闘で意見を述べたとおり、弁護団の主張はまったく整合性がありません。判決が指摘しているとおりだと思います。
弁護団は、最も重要な証拠において既に負けていたと思います。
旧供述と新供述の信用性の判断の問題ですが、
井上明彦弁護士「判決では新しい供述を信用できないとされた。その理由は、1審でも控訴審でも争っておらず、今いきなり出てくるのは信用できないということだ。しかし、この不合理な判決を下す裁判所が存在する限り、被告人は怖くて争うことができない。
裁判所は、要するに被告人は家裁でも地裁でも差戻前控訴審でも認めていたではないか、と言っています。
弁護団としては、「それは死刑回避のための土下座弁護だった。」と言いたそうですが、裁判所としては、「裁判所では正直に言うべきだし(密室の取調室とは違って)正直に言えるはずだ。殺意の有無が重大な問題だということはたとえ18歳になったばかりの少年でもわかる。従って、裁判所で事実を認めた旧供述は信用できる。」と言っています。
仮に、被告人の主張が魔界転生やドラえもんという荒唐無稽な内容でなかったとしても、殺意否認の新供述と旧供述を対比した場合は、上述の客観証拠との整合性に問題がない限り、旧供述の信用性が認められたと思います。
つまり、「その理由は、1審でも控訴審でも争っておらず、今いきなり出てくるのは信用できないということだ。」というのは基本的に妥当な判断であることになります。
もし、この認定を覆そうとすれば、1、2審の弁護方針が死刑回避だけを目的にした過剰自白を用いた土下座弁護であったことを徹底的に主張する必要があった(つまり旧弁護団の弁護方針を徹底的に批判する必要があった)はずですが、判決要旨から窺われる限り、徹底した主張とまでは言えない感じです。
もっとも、それをやったからと言って、新供述が他の客観証拠との関係で合理性を有しないとやはり信用されないでしょう。
「少し争っただけで反省の気持ちがないということになり、死刑になってしまう。そんなリスクがあるのに、争っていないことについてあそこまで断じられてしまうなんて。私は非常に憤りを感じます」
今回の弁護方針を「少し争っただけで」というのは不正確でしょう。
足立修一弁護士「(判決が信用性を認めた)旧供述は重大な少年事件でありながら、弁護人の面会がほとんどない中で作り上げられた。司法に絶望しかけているけれども、事実を明らかにする中でこの判決を打ち破っていきたい」
差戻前控訴審に関する限り、判決要旨によれば296回もの接見がなされており、足立弁護士の指摘は当たらない。
第一審までの問題のことだとすれば、それは「司法」の問題というより「一審の弁護人」の問題です。
安田弁護士「彼の事件は厳罰化のために使われたといってもいい。最高裁は、3年半寝かした末、裁判長がやめる間際になって判決を出して、やむを得ないときだけ死刑は許されるという従来の判決をひっくり返した。(今回の判決で)凶悪な事件は原則として死刑なんだ、死刑を回避するためにはそれなりの合理性と正当性がなければならないと、立証責任を転換してしまった。『無罪推定の原則』とか『疑わしきは被告人の利益』といった哲学にまったく反している」
今回の事件は「凶悪すぎる」事件です。
裁判所の認定によれば、まさに鬼畜の所行です。
検察官は、鬼畜の所行の立証に成功し、弁護団は灰色に持ち込むこともできなかなったというわけです。
「凶悪な事件は原則として死刑なんだ、死刑を回避するためにはそれなりの合理性と正当性がなければならないと、立証責任を転換してしまった。」というのは詭弁です。
差戻審の判決要旨に表れた証拠評価と事実認定プロセスは、典型的な裁判所の事実認定と言うことができます。
安田弁護士「今後厳罰化はますます加速していく。実に危険な状態になってきたなと思いますし、来年からの裁判員制度でも大きな影を落とすだろう」
裁判員制度との関係では、既に別エントリのコメント欄でも指摘されていますが、少なくとも結果的には弁護団の弁護活動によって「弁護士は弁護のためならどんな非常識なことでもやる。」という認識が広まったことがもっと重大な問題だと思います。
もちろん、これは弁護団の記者会見を恣意的に編集したマスコミの責任と言うべきかも知れませんが、そんなことは当然のこととして予想されたのですから、そもそもなんであんな記者会見なんかしたんだ、ということが批判されることになります。
どうせやるにしても、もっと上手にできなかったのか、あまりも無防備・拙劣という感じがします。
−−1審と控訴審で無期懲役になっていたことを考えると、被告の利益を考えてあえて新供述を出さずに、今までの供述を変えない法廷戦略もあったのでは
安田弁護士「それは弁護士の職責としてあり得ない。真実を明らかにすることで初めて被告の本当の反省と贖罪(しょくざい)が生み出されると思う。そうすることでようやくこの事件の真相が明らかになる。なぜこの事件が起こったのか。どうすればこういった不幸なことを避けることができるのか。そしてどうすれば被害者の許しを請うことができるのか。戦術的に物事をとめるとか不当に終わらせることは決してやってはいけないことだ」
これは明確な旧弁護人批判ということになりますね。
弁護人としての正論ではあると思います。
ガチンコ勝負でいくんだ、というのは刑事弁護の一つのスタンスです。
但し、被告人の現実的利益を考えた場合には別のスタンスもあります。
しかし、安田弁護士のスタンスに立って本件で「どうすれば被害者の許しを請うことができるのか。」という問題は極めて深刻かつ困難な問題になります。
私も最近、被害者が到底納得できそうもない被告人供述を前提にして被害者に示談書と嘆願書を作成してもらうというとても困難な弁護をすることになったことがありましたが、その場合は被害者の心情に対して最大級の配慮を払う必要がありました。
はたして本件の弁護団にそのような意識があったかどうかは疑問があります。
弁護団の記者会見を離れてこの判決に若干の感想を述べますと
むしろ、被告人が、当審公判で、虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことにより、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったというべきである。今にして思えば、上告審判決が、「弁護人らが言及する資料などを踏まえて検討しても、上記各犯罪事実は、各犯行の動機、犯意の生じた時期、態様なども含め、第1、2審判決の認定、説示するとおり揺るぎなく認めることができるのであって、指摘のような事実誤認などの違法は認められない」と説示したのは、被告人に対し、本件各犯行について虚偽の弁解を弄することなく、その罪の深刻さに真摯(しんし)に向き合い、反省を深めるとともに、真の意味での謝罪と贖罪(しょくざい)のためには何をすべきかを考えるようにということをも示唆したものと解されるところ、結局、上告審判決のいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」は認められなかった。(判決要旨(9))
という情状に関する判示には、私が「光市母子殺害事件最高裁判決の感想」で述べた危惧が当たってしまったな、という思いがします。
どのような観点で問題になるかといいますと、被告人の更生の可能性、被告人の反省・悔悟の念、遺族感情等が主要な問題になります。
その観点で言いますと、被告・弁護側が、殺意を否認して傷害致死を主張したのは死刑回避戦略として果たしてどうであったのか、が問題になります。
問題になってしまいました。
そして、そのような裁判所の死刑判決への傾斜の最大の原因は、判決要旨では触れられていませんが、やはり被告人が知人に出した手紙だったのではないかと思えて仕方がありません。