エントリ

東京地検:精神鑑定の専門検事を配置 全国初(毎日新聞 2008年4月1日 11時42分)

 ある検察幹部は「これまでは、被告の精神状態を適切に分析できない鑑定医に依頼してしまった例もあった。今後はこうしたことがないよう、検事自身も精神鑑定について勉強をしなければならない」と話している。

 心神喪失や心神耗弱か否かは、精神医学的判断ではなくて法律判断なのですから、検事が鑑定医(多くの場合、精神科医)におんぶにだっこ状態であったのなら、検察庁の怠慢と言うべきなんですが、私も専門的な訓練を受けたことはありません。

 遅きに失しているという批判はあるとしても、専門検事の育成は今後の方向性として必要なことだと思います。

 検事は一応各検察庁に所属しますが、責任能力が問題になる事件は東京でだけ起こるのではありませんから、専門検事を地方の地検に派遣するシステムも必要だと思うのですが、そのあたりはどうなっているのでしょう?

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 当面2人の専門検事を置き、過去の事件での精神鑑定をデータベース化し、情報を一元管理する。新たな事件で精神鑑定の必要が生じた場合、どの専門家に鑑定を依頼するか適切に判断できるようにし、検事自身でも病名などを判別できるよう専門的な知識を深める。(エントリで紹介されている当該記事)

文中の「検事自身でも病名などを判別できるよう」とはどういう意味なんでしょうか?

心理査定、精神査定を、いずれは検事自身が行うつもりなんでしょうか?
それは検察官の仕事ではないし、検察官が責任をもって行える仕事でもない筈です。

検事にしろ判事にしろ警察にしろ、大事なのは嘘を見抜く力であって、精神鑑定や心理鑑定ができる能力じゃないと思います。

「これまでは、被告の精神状態を適切に分析できない鑑定医に依頼してしまった例もあった。今後はこうしたことがないよう、検事自身も精神鑑定について勉強をしなければならない」

被告の精神状態を適切に分析できない鑑定医の存在のほうがよっぽど問題だろう。

趣旨はよくわかるが、具体的にどうやっていくかは結構問題だと思います。
あと、目指すところもよくわからない気も・・・・

ただ、精神鑑定のお勉強は裁判官も弁護士ももっとやるべきでしょうけどね。

検事が鑑定医の能力資格を身に付けたとして(医学部いくくらいしないと無理と思いますけど)、鑑定意見はあくまで鑑定意見に過ぎず、裁判の審理上では単に議論を求めているとして多くの場合殆ど却下されると思いますけど。
警察医がいればそれでよく、検事が嘘を見破る能力に加えて鑑定医の能力を身に付ける必要が、はたしてあるのでしょうか?

[別エントリに誤爆してしまいましたが・・・やり直しうpでつ(笑)]

ある検察幹部は「これまでは、被告の精神状態を適切に分析できない鑑定医に依頼してしまった例もあった。今後はこうしたことがないよう、検事自身も精神鑑定について勉強をしなければならない」と話している。

(エントリで紹介されている当該記事より)

上記は、具体的にどの件(複数か?)についてのご発言なのかは分りませんが、発言中にある「適切・不適切」の判断基準(尺度)として何なのでしょうか…?(反語ではなく、素朴な疑問です。)

どんな定義によっても“精神疾患”の概念には正確な境界線を引くことができない、精神疾患の概念には、他の分野における多数の概念と同様、すべての状況を満足させる決まった操作的定義はない、等と言われています。仮にそういう話をしているならば、この検察幹部の方がどのような尺度を基準として不適切だと判断されたのかを、知りたい所です。

* * *

精神医学等にも色々ありましょうが、光市母子殺害事件や藤里連続児童殺害事件の鑑定の情報を漏れ聞く限りでは、力動論的な考え方をベースとされている方達が関わっている可能性は高そうです。

仮に力動論的なものであれば、被告人の犯行動機に関しては、精神科医や臨床心理学者の見立ては、あくまでも精神科医らと患者(被告人)の間の対話構造の中で構築された「物語」でしょう。(そしてその物語(内的世界)に関与しながら治療を行うといった手法もあります。)
被告人本人にとっては、その「物語」こそが被告人の内的真実であると感じているかもしれませんが、それは必ずしも(第三者から見た)客観的な事実であるとは限りません。
だから、そもそも客観的な判断を求める司法と相容れない部分が内包されているのではないか…と思っていました。

もっとも、検察側がとりわけ精神鑑定に求めている判断は、「動機の解釈」というよりも、「責任能力」についてだろうと思います。
ただ、「責任能力」についても、上記のように、両者に共通の土台(パラダイム)がある訳ではないでしょうから、精神鑑定の判断を、司法の解釈する「責任能力」にそのまま適用しようとすれば、ひずみが生じるのは避けられないのではないか、という気がしていました。
精神鑑定の判断を司法の解釈へと、自動的に翻訳変換し適用できるような便利な方法も、ないのではないかと思います。

責任能力エントリでモトケンさまも既にご指摘されていらっしゃったように、刑法39条を、すなわち、司法上の「心神喪失者」と「心神耗弱者」の「責任能力」に関する解釈を再検討する必要があるのではないでしょうか。
その際に、精神医学や心理学等様々な知見や考え方も、法曹家の考え方も、社会通念上の考え方等も、幅広く検討して、責任能力の基準をもう少し明確に示す必要があるのかもしれません。(可能かどうかは分かりませんが。)
基準の定まらない所で適切だ、不適切だといっても、不毛だと感じます。

↑No.6では纏まらない文章ですみませんでした。

少し冗談ですが個人的には、「専門検事」の方が精神鑑定周辺の知見を勉強したり、教育分析などを受けた結果、精神科医(or 心理臨床家)と患者(or クライエント)の間の対話のように、取調べにおいても被疑者とラポール(信頼関係)を形成したり(もっとも、これは熟練した検察官ならば既にやっていらっしゃる事でしょうが)、被疑者に対して、共感的理解や無条件の肯定的関心を示しながら話を聞いたりするのかな…?と興味が湧きましたけれどもね。
それで取調べになるのかどうかは別として。そのような状況になれば、「取調べ」という語感がそもそも合わない気がしますが。
でも、そのようなやり方の「取調べ」では、被疑者から見て「冤罪」だと感じるような起訴は、なくなるかもしれません。(その是非はともかく。)

また、逆転移などが起きないよう、専門検事の方に熟練した臨床家をスーパーバイザーをつけないといけないんじゃないかな…とか、色々考えてしまいました(^^;

* * *

検事が嘘を見破る能力に加えて鑑定医の能力を身に付ける必要が、はたしてあるのでしょうか?(No.5 ぼつでおk(医)さまのコメント)

私もその点が疑問です。

* * *

そういえば、最近、エントリで紹介されている記事内にもある三橋被告の精神鑑定について、被告人側の精神鑑定医だけでなく、検察側の精神鑑定医も「犯行時に責任能力を喪失していたことが推認できる」とした鑑定結果を報告したそうですね。

「夫殺害・歌織被告公判 「責任能力の喪失推認」 2鑑定医が口頭報告」 産経新聞 2008年3月10日の記事

上記の件がキッカケになって、「外部の精神鑑定医に頼らず、内部に精神鑑定の専門検事の育成・設置し、いずれは責任能力等までも検事自身で判断できるようになったら良い」と着想した訳ではないと良いのですが。

着想が何だったのかという事はともかく、単に知識を深めるために勉強するぐらいならば良いと思うのですが、「素人の生半可な判断は危険だ」という事は、(精神鑑定や法解釈などに関わらず)多くの分野の専門家の方々がよく仰る事だと思います。施行前には、そのような危険性もよく検討されて然るべきではないかと思われます。

 精神状態を分析する所までは行かなくても、「被告の精神状態を適切に分析できない鑑定医」の分析が適切であるかどうかを、専門的な知識に基づいて判断できる必要はあるかもしれませんね。意図にそぐわぬ鑑定の否定意見に根拠を持たせるため、またはその否定意見に更に対抗するためには専門知識が必要だと思います。
 現在でも精神鑑定について勉強されている検事や弁護士は居られると思います。ただ、その検事や弁護士がどれだけの専門知識の裏付けがあってその意見を言っているのかがなかなか分からないので、精神鑑定の専門検事という肩書きを着けてやって意見に重み付けをする、という意味合いもあるのでしょうか。

皆様の意見を見て、個人的に思っていたことを書いてみます。

責任能力を考えるのに、犯罪時点での心神喪失、心神耗弱、それ以外を考えるだけでは、心神喪失と判断される場合が多くなるのではないかと思います。

報道以上のことは知らないので誤りがあったら申し訳ないですが、三橋被告の診断はPTSDです。この病名で心神喪失状態になりうるということは異論がありません。しかし、そうでない状態が通常なのです。統合失調症の方は、心神喪失状態以外のときでも通常判断能力はかなり低いですが、PTSDはそうではありません。

つまり、ごく一時的に心神喪失になっているのであれば(医学的に)、責任無能力(法的に)とはしないという判断がいるのではないか?
ということです。

PTSDという診断自体遡っても19世紀の産業革命以後の概念です。

医学は進歩します。精神医学も歩みは遅いですが、確実に進歩しています。力動的云々は、あくまで、病状を理解するための手段に過ぎず一解釈に過ぎません。情状酌量の余地はあるにせよ、解釈で心神喪失というのは医学的に正しくても法的には馴染まないのではないでしょうか。

ついでに言えば、凶刃の著者は少し偏った考えになっていると思います(止むを得ない事情でしょうが)。

乱文失礼しました。

「精神鑑定の専門検事」の新設、これも裁判員制度が導入される法廷審理への準備ではなかろうか?
これが私の率直な感想です。

裁判員制度の法廷審理は原則口頭主義で行われるから、従来のように分厚い精神鑑定書を裁判員に読んで貰うという手法は取れない。裁判員を前にして鑑定書の内容を口頭で解りやすく説明したり、相手側の精神鑑定の証人に即座に反対尋問しなければならない。こうした「精神医学鑑定を素人に説明する」作業を公判立合検事が行わなければならない。ところが精神医学の素養に乏しい者(検事)が、医学的専門用語満載の鑑定書や、精神医学専門医である鑑定証人を相手に丁々発止の反対尋問が出来るのか、と考えると心許ないのが実情であろう。

現行の検察の役割分担がどうなのか詳細は知らないが、取り調べを担当する検事と公判立合を担当する検事は別になっていて、一審での公判立合検事は比較的若手の検事が務めていると聞いている。検察弁護側の双方が書面を交換して持ち帰って皆で検討できる従来型の法廷審理と違って、裁判員制度での法廷では裁判員を前にしての口頭での主張の遣り取りが原則であるから、審理に立ち会う検事の力量如何が裁判員の心証形成に大きく影響する。そうしたことから、精神鑑定が審理されるときだけ精神医学に詳しい専門検事が助っ人として公判立合検事のヘルプに付く、こんなことを東京地検は考えているのではなかろうか。

精神医学をにわか勉強した検事が鑑定書を書いたりすることは無理だと思うので、No.5で ぼつでおk(医)さまが仰られた「検事が鑑定医の能力資格を身に付ける」ということは現実味が乏しいと思います。それに、そんな俄仕込みの専門検事が精神鑑定を行っても、裁判員を納得させられる鑑定を提示することは期待できないでしょう。

No.6で 死刑囚さまが下記の通り言われています。

「責任能力」についても、上記のように、両者に共通の土台(パラダイム)がある訳ではないでしょうから、精神鑑定の判断を、司法の解釈する「責任能力」にそのまま適用しようとすれば、ひずみが生じるのは避けられないのではないか

私の感想は概ねこの考え方に近く、「精神医学の概念」を「司法の概念」に翻訳できる専門家として、東京地検は専門検事を養成しようとしている、かように推察しています。

裁判員制度に対して、とかく裁判員となる法律や司法手続きに不案内な素人の能力を疑問視する意見が多いようですが、私は逆に従来型の法廷審理に慣れきっているベテラン法曹の対応能力にも問題が潜んでいると感じます。「莫大な文書を読み込む能力」、「相手の主張をじっくり検討して反論を組み立てる能力」、「自己の主張を遺漏なく表現できる文書作成能力」、こうした尺度は今までは法曹人の能力を現わしていたと思いますが、裁判員制度での法廷ではこうした能力だけで充分なのだろうか?

口頭主義での審理が行なわれる裁判員制度では、「時間と手間を掛けた完璧な主張」より「多少不完全でも解りやすい主張」が出来て、審理の進行に順応してその場その場で議論を展開する「臨機応変の能力」を兼ね備えることが非常に重要になるのではなかろうか。少なくともマニュアル依存型タイプの検事や弁護士は、裁判員裁判制度に上手に対応出来ないのではなかろうか。私はこのように予想しています。

最後は少々エントリ違いの意見になりました。ご容赦下さい。

>No.9 アルファ159SWさま

力動的云々は、あくまで、病状を理解するための手段に過ぎず一解釈に過ぎません。

仰る通りだろうと思います。
拝見して、私のNo.6のコメントが、「精神鑑定では、力動論的な見立てのみで鑑定されいると考えている」という誤解をROM者の方に与える恐れがあったかもしれません。
フォローありがとうございます。
また、念の為下記を付記させて下さい。

精神疾患の分類については、DSM-IV-TR(アメリカ精神医学会による『精神疾患の診断と統計の手引き』)かICD-10(WHOが作成した疾病及び『関連保健問題の国際統計分類』)が使われることが多いと聞きますが、これを使えば誰でも自動的に判断できるといった類のものではなく、その他の検査・見立て等と併用して判断されると聞いております。
(「DSMの各診断のカテゴリーの基準と解説の記述は、診断に関する適切な臨床研修と経験をもつ人によって使用されることを想定しており、研修を受けていない人には用いられないものである。臨床的判断によって活かされるものであり、料理本のように使われるためのものではない」等とも言われています。)

報道から鑑定内容の断片的情報を読むとき、精神鑑定では実際にどのような査定・検査・見立て等を行っているのか具体的に知りたいと思う事があります。

No.6のコメント投稿の直前では、藤里連続児童殺害事件の記事を読んでいたのですが、「記憶を抑圧し、殺害の事実を明確に認識していなかった」という報道がなされていました。
【記憶の抑圧】は精神分析的な用語(力動論的な用語)ですが、【記憶障害】とは書かれていません。ここから、判断能力の鑑定には、力動論的な見立てが参考にされている可能性が高いと思われました。

(余談ですが、個人的には、力動論的な見立てを直ちに否定してはおりません。ヒトの心理のうち、基礎的基盤の部分は実証的検証になじむが、それ以外は実証的検証では取り扱えないのではないかと考えるためです。(小会議室(その2)No.153)
ただ、それが司法の場に証拠として提出される際に、どの程度有効と言えるのかどうかは別として。この辺りを刑法39条と照らして、整理した方が良いと思っています。)

* * *

>No.10 法務業の末席さま

「精神鑑定の専門検事」の新設が、裁判員制度における「原則口頭主義」への対策ではなかろうか、とのご見解なのですね。
成る程と思いました。

裁判員としては、一見、膨大な資料を読まずに済むほうが有り難いと思うかもしれませんが、よく考えると不安になって来ます。
専門的な内容を、専門外の人間にも分り易く平たい言葉で教えるのは大変難しい事だと言われています。
内容を違えず、専門外の人間と想定される裁判員にも分り易く、しかもその場で口答で(!)説明しなければならないという事になるのですよね。標準的な専門家であっても難しいと思います。

法務業の末席さまがご懸念の通り、裁判員制度が上手く運用されるために当事者法曹に求められるハードルの高さに、私も驚きました。というか、ハードルの高さに現実味を感じません…。
ここでは、とくに裁判員制度を批判するつもりはなかったのですが、率直に感じた内容なので投稿させて頂きました。
私も最後は若干エントリずれ気味の投稿となり、失礼致しました。

連投になっており、すみません。
自分の中で整理していたのですが(既にご存知の方ばかりだと思いますが)、
「責任能力」には、明確な定義はないが、現在、判例では「是非善悪の弁識能力及びそれにしたがって行動を制御する能力」のことだと解釈されていると受け取っても宜しいでしょうか。その上で、
心神喪失者:精神の障害により前記の能力がない者
心神耗弱者:精神の傷害により前記の能力が著しく低い者
という理解で良いのですよね。

* * *

「殺人は悪事である」という前提であれば、「是非善悪の弁識能力及びそれにしたがって行動を制御する能力」があれば、殺人を犯さない筈です。

常識的にも、下記のような観点からも、殺人に及んでいる事自体から、犯行時は「冷静な判断力が欠如/減退していた」(弁識能力の欠如/減退)、「善悪の弁識能力に従った行動制御が出来なかった」(制御能力の欠如/減退)と考えることが可能なケースが多いのではないかという気がします。

 進化心理学者の間でも意見が分かれるところだが、筆者らは、殺人それ自体はおそらく適応的な行動ではないという立場をとる。現代社会においても伝統社会においても、一般に、人を殺すことのコストは利益を上回ることが多いので、少しでも冷静に判断できれば、殺人を犯すことには大きな心理的抑制が働くはずだ。しかし、上に述べたように殺人の引き金となるような対立感情や攻撃性は、多かれ少なかれ誰もが抱く性質のものであり、日常的な範囲ではむしろ適応的な心理である。いかなる対立感情も抱かない人間、守り通そうとするものが何もない人間がいたと考えてみよう。彼らはけっして人を殺さないだろうが、何も自己主張せず、何にも固執しないため、生存の上でも繁殖の上でも、さまざまな状況でいちじるしい不利を被るに違いない。したがって、逸脱行動である殺人を考察するためには、その背後にある適応的な心理メカニズムこそを考える必要がある。

〔長谷川寿一、長谷川眞理子著「戦後日本の殺人の動向」(科学, Vol.70, July, 2000, 560-568.)より (「心の進化―人間性の起源をもとめて」(岩波書店)にも収録)〕

残るは、「弁識能力」や「制御能力」が障害された原因が、精神障害によるものだと判断されるかどうかですよね。

「精神障害によるものだと判断される」ならば、「責任能力欠如/減退」とみなされる。
一方、「精神障害によるものだと判断されない」ならば、「責任能力あり」とみなされる。

No.9 アルファ159SWさまのご指摘のように、何らかの精神障害があるだけでは、直ちに、「精神障害によって識別能力や制御能力が欠如/減退したとみなす事が出来る」という事にはならない筈です。

精神障害(精神疾患)については現時点では必ずしもevidence-basedな分類がなされている訳ではありませんし、個々人・状況によって差もあるでしょうから、疾患の分類から直ちに責任能力の有無・程度を判断できるとは言えないでしょう。

(加害者が精神疾患(精神障害)を持っていると判断され、なおかつ、その精神疾患の症状(ex.激しい幻覚や妄想、精神的運動興奮など)が常態的にあり、それらが直接的に犯行行為に関係していると認められているならば、比較的容易に「責任能力欠如/減退」とみなせるかもしれませんが。)

そこで、実際に下記のような手引きもあるようです。(手引きが妥当か、手引き通りに行われているかどうか、手引き通りでも検討手法の信頼性・妥当性はどうか等は、また別の論点になると思いますが。)

5. 責任能力を考察する上で参考になる事項

【要点】
当該行為時の責任能力を考える場合に、(1)動機の了解可能性、(2)計画性、(3)違法性・反道徳性の認識、(4)精神障害による免責可能性の認識、(5)犯行時精神状態の平素からの質的懸隔、(6)手順の一貫性・合目的性、(7)自己防御的行動ないし危険回避的行動の7項目を参考として検討することを推奨する。

「刑事責任能力に関する精神鑑定書作成の手引き (平成18年度版 ver 2.3)」より

* * *

責任能力を考えるのに、犯罪時点での心神喪失、心神耗弱、それ以外を考えるだけでは、心神喪失と判断される場合が多くなるのではないかと思います。(No.9 アルファ159SWさまのコメント)

精神鑑定の専門検事の件について心理学者の方にご意見をお伺いしたのですが、その際、金閣寺の放火事件の話を出されていらっしゃいました。
放火したとされる修行僧は、当時の精神鑑定によって、「精神障害はない」「判断能力あり」とみなされて刑に服したそうですが(懲役7年?)、その後完全な人格崩壊が生じて、統合失調症であることが明らかになったそうです。

仮に犯行時点の被疑者に統合失調症が認められていたならば、その症状の影響で犯行に及んだと考えられ免責されていた可能性は高かったのではないかと思います。

個人的には、究極の二択として「誤って心神喪失と判断し、減刑する」のと、「誤って責任能力ありと判断し、刑に処す」という選択肢があるとしたら、しいて言えば、前者の方が法の在り方(?)としては適っているのかもしれないと思います。
裁判員として判断を求められ、迷った場合は、刑の軽いほうを選ぶだろうという意味です。
でも、最近の「世間の空気」というかマスコミ報道の論調等からは、そんな事をしたのが世間に漏れて明らかになったら、私もバッシングの対象になるかもしれませんね…(汗。

勿論「犯罪を犯しても、心神喪失や心神耗弱として免責してもらえるだろう」等という不届きな考えを持った人間による犯罪が増えるのは御免ですから、出来る限り個々の鑑定において、上記要点の「(4)精神障害による免責可能性の認識」等について見逃す事のないように希望しています。

 精神鑑定については、ずっと前、もう10年をはるかに越えていますが、関心を持って色々調べた経験があります。
 平たく言えば、心神喪失とは、妄想に支配され自己のコントロール(制御)が出来ない状態で犯した犯罪であり、心神耗弱は、それより程度の軽いもののようです。
 弁護士に一方的に精神鑑定を受けさせられた経験から言いますと、何か薬物を投与され、体にかなりの負荷がかかった検査が一番印象的でした。
 事前に、検査後立てなくなる人もいるぐらい、体に負担がかかると説明を受けていましたが、それほどではなく夕方まだ明るい時間に自分で歩いて病棟に戻りました。鑑定を受けていたのは平成5年の3月1日から31日までの間でした。
 この検査で体に急激な負荷を与えることで、異常な状態が出現する人がいるそうです。
 悪名高い皮手錠も49時間つけっぱなしにされた経験がありますが、数年の間は、まだ皮手錠の方がましだったという印象が残っていました。
 皮手錠をつけられたのは平成5年の9月7日で、控訴審判決を受けた直後でした。
 これは、科学の進歩でずいぶんましになったそうで、昔は、脊髄から脳まで管を通し検査をしたそうですが、とんでもない苦痛が伴ったそうです。
 余談になりますが、その閉鎖病棟にいたとき、備え付けの本棚に置いてあった、西村寿行の「闇の法廷」という本を読み、拘置所に戻ってすぐに私本購入で、同じ著者の「人類法廷」という本を読み、いろいろ考えるところがあり、感想文のようなことも高裁宛の上申書に書きました。
 ちなに、「人間性に向けた挑戦」とは「闇の法廷」に出ていた言葉です。
 本当に病人の人も色々見て、得がたい経験をしたとも思っています。それと、病院は暖かくてご飯がとてもおいしかったです。
 鑑定自体は、いろいろと不安で一杯でしたが。

No.12 死刑囚さま

少しだけ

是非弁別・行為制御の能力の有無と、その能力を行使したか否かとは、区別可能だと思います。
つまり、「殺人に及んでいること」 と、「能力の欠如・減退」 の間には飛躍があると思います。

「その時は冷静な判断ができなかったが、冷静であれば殺害行為などするはずがなかった人」、つまり単なる激情犯であれば、完全責任能力者とされることになるはずだと思いますが、その場合、「能力の欠如・減退」 ではなく、「能力を行使・発揮できなかった」 だけと理解すべきだと思います。

>No.14 fuka_fukaさま

コメントありがとございます。

是非弁別・行為制御の能力の有無と、その能力を行使したか否かとは、区別可能だと思います。

私も区別は可能だと考えますが、fuka_fuka様は「能力」を【機能】と考えますか、それとも、【構造】だと考えますでしょうか?

私は、構造と機能の双方からのアプローチが可能だと思っています。

ただ、例えば「弁識能力や制御能力を司る脳に損傷があるため機能しなかった」というような脳の構造的な問題を明らかにしなければ、責任能力ありとみなす、という基準(※)にすると、実際問題としては色々不都合が出て来そうです。

なぜならば、色々な精神障害(精神疾患)は、機能としては逸脱行動だと思われても、そのような逸脱行動を生み出すメカニズムに関しては多くの点が実証的には明らかにされていないように思います。
つまり、現時点の研究段階においては、例えば「当該能力を司る脳に損傷があり機能しない」のか、それとも、「犯行時点において当該能力を機能できる状態にはあったが、(自らの意志で)機能させなかった」か等を区別するのは、多くの場合、まだ至難の業だろうと思われます。

そのため、たとえば心神喪失者について判断する場合は、

1.犯行時、当該能力が機能していたか否かを判断する。
2.犯行時に当該能力が機能しなかった原因を、精神障害によるものだとみなせるか否かを、判断する。

のだろうと考えていました。
fuka_fuka様からご指摘頂いたということは、上記私の読み方は、心神喪失者・心神耗弱者に関する判例解釈の読み方としては正しくないのかもしれませんが、それが実際に行われているやり方ではないかと思っておりました。

なお、上記のような2段階での判断によっても、激情犯は完全責任能力者と判断されることになると思います。

* * *
ただし、繰り返しになりますが、上記(※)の基準については、刑39条と併せて議論の余地があると思っています。

No.15 死刑囚さま

読み返してみたら、No.12 の理解として No.14 は適切でなかったかもしれません。

殺人に及んでいる事自体から、犯行時は「冷静な判断力が欠如/減退していた」(弁識能力の欠如/減退)、「善悪の弁識能力に従った行動制御が出来なかった」(制御能力の欠如/減退)と考えることが可能なケースが多いのではないか
残るは、「弁識能力」や「制御能力」が障害された原因が、精神障害によるものだと判断されるかどうかですよね。

死刑囚さまの整理だと、

殺害行為 → 弁識能力・制御能力の欠如 → その欠如が精神障害によるものか

という順序ですよね(誤解でしたらご指摘をば)。

私は、

殺害行為 → 弁識・制御の不成功 → その不成功が精神障害による場合、「能力の欠如」と評価 = 心神喪失

という整理をしていたので、ことばの問題として違和感を感じたということです。

その他お書きの部分については私から異論はないといいますか、その是非を論じられるほどの専門知識を仕入れられておりません。
ただ、脳のはたらきが「構造」と「機能」とに明確に区別できるはずがないであろうという点はまったくの同感です。

>No.16 fuka_fukaさま

下手な私の文章を丁寧に読んで下さり、多謝ですm(_ _)m

殺害行為 → 弁識能力・制御能力の欠如 → その欠如が精神障害によるものか

恐れ入りますが、少し異なります。

殺害行為 → 弁識能力・制御能力の欠如/減退 → その欠如/減退が精神障害によるものか

でした。

上記2つで何が違うかといえば、「能力の欠如」だけでは健常者とは思われない可能性が高いかもしれませんが、「能力の減退」については必ずしも精神疾患によるものとは言えず、健常者においても見られる現象でしょうから。(Ex.「一時的な逆上」や「薬物の影響」等々)

>ことばの問題として違和感を感じたということです。

ごもっともだと思います。
先述しましたとおり、私の読み方は、心神喪失者・心神耗弱者に関する判例解釈の読み方としては正しくないのかもしれませんから。
また、何よりも、刑法39条の解釈等については、改めて議論・整理されるべき内容ではないかと思っております。

* * *
以下はfuka_fuka様宛という訳でもなく余談ですが、刑法39条等については、改めて議論・整理するといっても、簡単にまとまらないかもしれませんが。
「認知能力」や「認知能力と行動との関係」などについてはそう簡単に決着がつくものだとは思えないのですが、司法の場ではどれを採用されることになるのか、興味深いです。

心理学内部でも色々な考え方があって群雄割拠の状態ですし、精神科医の方達の考え方も一枚岩ではないでしょう。脳についてもまだ多くの事は分かっておりません。
学際的な研究・議論も活発になされているようですので期待はしていますが、直ぐに明らかにされるものだとは思えませんから…。

「刑事責任能力に関する精神鑑定書作成の手引き (平成18年度版 ver 2.3)」を拝見した所、それ以前の問題として、可知論・不可知論の議論もあることが示唆されていますしね…。

あ、すみません、簡略化のために心神耗弱(減退)の点は端折ってしまっておりました。
お手数をおかけしてしまいましたm(_ _ )m
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