エントリ

【光市母子殺害判決の要旨(1)】(産経ニュース)

弁護団の記者会見(産経ニュース)

 判決としては理由結論ともに予想通りでした。
 弁護団の会見内容に少しコメントしてみます。

 安田好弘弁護士「最高裁の判決に忠実に従った極めて不当な判決だ。証拠の評価方法は基本的に間違っている。弁護団では、自白ではなく客観的事実からその信用性を見直して吟味すべきだと主張していた」  《安田弁護士は殺害方法の鑑定結果など、時折身ぶり手ぶりを交えながら、判決の事実認定について批判を加えた》  「加害者が右手で逆手で押さえたものとしか認定できないにもかかわらず、裁判所は逆手であることを全面的に否定した。

 たぶん弁護団としては最も力を入れて主張した部分であり、私も客観証拠である死体痕跡と供述の整合性という観点で最も重視していた点ですが、これは弁護団が記者会見で示した死体痕跡の図面との整合性において、すでにこのブログや場外乱闘で意見を述べたとおり、弁護団の主張はまったく整合性がありません。判決が指摘しているとおりだと思います。
 弁護団は、最も重要な証拠において既に負けていたと思います。


 旧供述と新供述の信用性の判断の問題ですが、

 井上明彦弁護士「判決では新しい供述を信用できないとされた。その理由は、1審でも控訴審でも争っておらず、今いきなり出てくるのは信用できないということだ。しかし、この不合理な判決を下す裁判所が存在する限り、被告人は怖くて争うことができない。

 裁判所は、要するに被告人は家裁でも地裁でも差戻前控訴審でも認めていたではないか、と言っています。
 弁護団としては、「それは死刑回避のための土下座弁護だった。」と言いたそうですが、裁判所としては、「裁判所では正直に言うべきだし(密室の取調室とは違って)正直に言えるはずだ。殺意の有無が重大な問題だということはたとえ18歳になったばかりの少年でもわかる。従って、裁判所で事実を認めた旧供述は信用できる。」と言っています。
 仮に、被告人の主張が魔界転生やドラえもんという荒唐無稽な内容でなかったとしても、殺意否認の新供述と旧供述を対比した場合は、上述の客観証拠との整合性に問題がない限り、旧供述の信用性が認められたと思います。
 
 つまり、「その理由は、1審でも控訴審でも争っておらず、今いきなり出てくるのは信用できないということだ。」というのは基本的に妥当な判断であることになります。
 もし、この認定を覆そうとすれば、1、2審の弁護方針が死刑回避だけを目的にした過剰自白を用いた土下座弁護であったことを徹底的に主張する必要があった(つまり旧弁護団の弁護方針を徹底的に批判する必要があった)はずですが、判決要旨から窺われる限り、徹底した主張とまでは言えない感じです。
 もっとも、それをやったからと言って、新供述が他の客観証拠との関係で合理性を有しないとやはり信用されないでしょう。


「少し争っただけで反省の気持ちがないということになり、死刑になってしまう。そんなリスクがあるのに、争っていないことについてあそこまで断じられてしまうなんて。私は非常に憤りを感じます」

 今回の弁護方針を「少し争っただけで」というのは不正確でしょう。


 足立修一弁護士「(判決が信用性を認めた)旧供述は重大な少年事件でありながら、弁護人の面会がほとんどない中で作り上げられた。司法に絶望しかけているけれども、事実を明らかにする中でこの判決を打ち破っていきたい」

 差戻前控訴審に関する限り、判決要旨によれば296回もの接見がなされており、足立弁護士の指摘は当たらない。
 第一審までの問題のことだとすれば、それは「司法」の問題というより「一審の弁護人」の問題です。


 安田弁護士「彼の事件は厳罰化のために使われたといってもいい。最高裁は、3年半寝かした末、裁判長がやめる間際になって判決を出して、やむを得ないときだけ死刑は許されるという従来の判決をひっくり返した。(今回の判決で)凶悪な事件は原則として死刑なんだ、死刑を回避するためにはそれなりの合理性と正当性がなければならないと、立証責任を転換してしまった。『無罪推定の原則』とか『疑わしきは被告人の利益』といった哲学にまったく反している」

 今回の事件は「凶悪すぎる」事件です。
 裁判所の認定によれば、まさに鬼畜の所行です。
 検察官は、鬼畜の所行の立証に成功し、弁護団は灰色に持ち込むこともできなかなったというわけです。
 「凶悪な事件は原則として死刑なんだ、死刑を回避するためにはそれなりの合理性と正当性がなければならないと、立証責任を転換してしまった。」というのは詭弁です。
 差戻審の判決要旨に表れた証拠評価と事実認定プロセスは、典型的な裁判所の事実認定と言うことができます。


 安田弁護士「今後厳罰化はますます加速していく。実に危険な状態になってきたなと思いますし、来年からの裁判員制度でも大きな影を落とすだろう」

 裁判員制度との関係では、既に別エントリのコメント欄でも指摘されていますが、少なくとも結果的には弁護団の弁護活動によって「弁護士は弁護のためならどんな非常識なことでもやる。」という認識が広まったことがもっと重大な問題だと思います。
 もちろん、これは弁護団の記者会見を恣意的に編集したマスコミの責任と言うべきかも知れませんが、そんなことは当然のこととして予想されたのですから、そもそもなんであんな記者会見なんかしたんだ、ということが批判されることになります。
 どうせやるにしても、もっと上手にできなかったのか、あまりも無防備・拙劣という感じがします。

−−1審と控訴審で無期懲役になっていたことを考えると、被告の利益を考えてあえて新供述を出さずに、今までの供述を変えない法廷戦略もあったのでは

 安田弁護士「それは弁護士の職責としてあり得ない。真実を明らかにすることで初めて被告の本当の反省と贖罪(しょくざい)が生み出されると思う。そうすることでようやくこの事件の真相が明らかになる。なぜこの事件が起こったのか。どうすればこういった不幸なことを避けることができるのか。そしてどうすれば被害者の許しを請うことができるのか。戦術的に物事をとめるとか不当に終わらせることは決してやってはいけないことだ」

 これは明確な旧弁護人批判ということになりますね。
 弁護人としての正論ではあると思います。
 ガチンコ勝負でいくんだ、というのは刑事弁護の一つのスタンスです。 
 但し、被告人の現実的利益を考えた場合には別のスタンスもあります。
 しかし、安田弁護士のスタンスに立って本件で「どうすれば被害者の許しを請うことができるのか。」という問題は極めて深刻かつ困難な問題になります。
 私も最近、被害者が到底納得できそうもない被告人供述を前提にして被害者に示談書と嘆願書を作成してもらうというとても困難な弁護をすることになったことがありましたが、その場合は被害者の心情に対して最大級の配慮を払う必要がありました。
 はたして本件の弁護団にそのような意識があったかどうかは疑問があります。


 弁護団の記者会見を離れてこの判決に若干の感想を述べますと

むしろ、被告人が、当審公判で、虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことにより、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったというべきである。今にして思えば、上告審判決が、「弁護人らが言及する資料などを踏まえて検討しても、上記各犯罪事実は、各犯行の動機、犯意の生じた時期、態様なども含め、第1、2審判決の認定、説示するとおり揺るぎなく認めることができるのであって、指摘のような事実誤認などの違法は認められない」と説示したのは、被告人に対し、本件各犯行について虚偽の弁解を弄することなく、その罪の深刻さに真摯(しんし)に向き合い、反省を深めるとともに、真の意味での謝罪と贖罪(しょくざい)のためには何をすべきかを考えるようにということをも示唆したものと解されるところ、結局、上告審判決のいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」は認められなかった。(判決要旨(9)

という情状に関する判示には、私が「光市母子殺害事件最高裁判決の感想」で述べた危惧が当たってしまったな、という思いがします。

 どのような観点で問題になるかといいますと、被告人の更生の可能性、被告人の反省・悔悟の念、遺族感情等が主要な問題になります。  その観点で言いますと、被告・弁護側が、殺意を否認して傷害致死を主張したのは死刑回避戦略として果たしてどうであったのか、が問題になります。

 問題になってしまいました。

 そして、そのような裁判所の死刑判決への傾斜の最大の原因は、判決要旨では触れられていませんが、やはり被告人が知人に出した手紙だったのではないかと思えて仕方がありません。

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コメント(94)

モトケン先生が、ご指摘のように 「犬がある日かわいい犬と出合った。そのまま『やっちゃった』、これは罪でしょうか」…の手紙は、虚偽や虚勢じゃなくて、被告人の本音を現した重要な証言以外の何ものでもないと断じます。復活の儀式をして、心臓の鼓動や脈の確認の有無を問われて、被告人が「分らない」と答えたのは矛盾しすぎている。

あらためて亡くなった弥生さん夕夏ちゃんの御冥福をお祈りするとともに、悲惨な事件が二度と起きない世の中にしていく事を決意します。

概ね、当初から予想していたとおりの結末になったと感じます。
裁判所の認定についても、大筋では妥当なものと思っています。ただ、モトケンさんが本文の第2点目で挙げられた

 つまり、「その理由は、1審でも控訴審でも争っておらず、今いきなり出てくるのは信用できないということだ。」というのは基本的に妥当な判断であることになります。

この点については、私はちょっと乱暴じゃないかなぁと感じています。
地裁で判決が確定したケースと同列で比較する私も乱暴ですが(笑)、富山の連続強姦冤罪事件の実例もある中で「いままで公判でも言ってこなかったんだから、今いきなり持ち出されても信用できない」としてしまうのは、如何なものかと。
結局死刑判決を下すにせよ、この部分に関しては、もう少し丁寧に考察しても罰は当たらないのではないかと思いました。

それはそれとして、死刑判決が下ったことを受けて、私は今までとはちょっと違った形で現弁護団、なかんずく主任弁護人の安田弁護士に疑義を抱いています。
それは「司法の怠慢」を是正するために本件裁判の被告人を生贄にしたのではないか、と言うこと。制度の正当性を守るための代償に、一人の被告人に最大級の不利益を及ぼす道を確信的に選んだのではないか。

「真実を明らかにすることで初めて被告の本当の反省と贖罪(しょくざい)が生み出されると思う」との言葉は重いですし、その信念は賞賛に値するとも思います。
しかしモトケンさんもご指摘の「被告人の現実的利益を考えた場合」に、その義(ただし)さを貫くことが本当に正しいことなのかどうか。私には素直には頷きがたいものがあります。

私も惰眠さまと同じく、現弁護団の弁護方針というか、安田弁護士の方針に疑問を感じます。

安田弁護士の、刑事司法や死刑制度に対して問題提起するご信念には敬服します。安田氏はご自身の人生を賭けて信念に生きておられるのであり、その信念の目指すところについて私とは少々方向が違っておりますが、周囲からの毀誉褒貶に動ぜず貫く姿勢は立派です。ただ安田氏の60歳の年齢と、30年を超えようとする弁護士経歴という、長い年月を要して追求してきた信念を、上告審〜差戻し審という3年間の光市事件の弁護活動に、ダイレクトに持ち込んだことには疑問を感じます。

長い安田氏の弁護士生活の中で、自己の信念を訴えることができる場や機会は、大小何十回とあるでしょう。しかし死刑という自らの生命をかけて罪を裁かれる被告人とって、なかんずく最高裁で差戻し判決を受けた状況から、今回の高裁審理はまさに土壇場(首切り刑場で罪人が座る場所が土壇場です)での裁き、実質的には被告人に残された最後のチャンスとしか言いようがありません。

再度再々度のチャンスほぼ無い被告人の立場を考えると、刑事司法や死刑制度に対する安田弁護士の信念というのは、死刑回避を最優先の目標とすべき被告人にとって、余計なことではなかったのか?
弁護団が持ち込んだ刑事司法や死刑制度に対する意識は、被告人にとって本当に利益になることだったのだろうか?
もしかしたら弁護団はその信念を矯めて、情状面主体の弁論に徹するべきではなかったのか?

今回の差戻し審での弁論の展開と判決の結果を比較して、この疑問を拭い去ることが出来ません。

>No.2 惰眠さん

 あくまでも「基本的に」です。
 富山の連続強姦冤罪事件には、被告人の犯人性と整合しない物証があります。

昨日の本村氏の記者会見を(後半の半分くらいだけでしたが)拝見して、私なんかが本村氏の思いをなどと言うのは甚だおこがましいのですが、今までの氏の御心中などを思ったりすると、なぜか涙が溢れ出てきてしまいました。(歳のせいで涙もろいかも)
ご本人は凛とした姿勢でしたので、裁判の当事者として9年に渡る月日の中で、刑事裁判そのものだけでなく、人の命の尊厳というものを人一倍真剣に向き合ってきたのだなと思います。(ご家族を含め、被告の命までにも踏み込んだご発言もありました)

>「司法の怠慢」を是正するために本件裁判の被告人を生贄にしたのではないか、と言うこと。制度の正当性を守るための代償に、一人の被告人に最大級の不利益を及ぼす道を確信的に選んだのではないか。

私も同じような感じを受けました。
弁護団の主張もりっぱなことを仰っているようにも聞こえましたが、選んだのかどうかわかりませんが、結果論として、主張(傷害致死)してきたことが、逆に心象を悪化させ量刑が極刑を選択せざるおえない形になってしまっている、と言えるのではないでしょうか。(個人的には当たり前の方向になってしまったと思っていますが)

9年の月日が費やされている裁判を振り返ると、結果として長くなってしまっていますが、逆にその長さをもっと被告人有利な方向への効果的な裁判戦術があったのではないのかと、「戦術」という表現は適切ではないとは思いますが、この月日の流れの中で、被告人に「心底、被害者、被害者遺族、社会、に対する反省の心・姿勢」が芽生え、殺意が有ったにせよ無かったにせよ、法廷でただひたすら懺悔の弁しかほとんど述べて無かったとすれば、周りの人々はどう感じただろうか?
ただ、今回は性犯罪というものも帯びてますし、個人的にもどうしても引っ掛かるのは、モトケン先生の本文にあります、
>被告人が知人に出した手紙
なのですが、そもそもこんな仮定の話自体不謹慎かもしれませんが、弁護人の方も一緒になって、「事件当時・直後はあんな未熟でしたが、今では発展途上ではありますが、こんなに改心しはじめています。」というような運び方は無しでしょうか?
私個人としては犯罪の結果に対する罰を、裁判に時間が掛かろうが掛かるまいが適正に判断することだと思っていますが、簡単に言えば時間の長さを被告人有利に展開できることもあるのかな?ということを思ってしまいました。

>No.4 モトケンさん

了解いたしました。
と言うか、そもそも私の感想は、要約された記事本文に基づいたもので、先ほど産経のオンライン版で要旨全文を確認したところ、実際には「丁寧に考察」されていることが分かりました。先の感想は失当ですので、取り下げます。
・・・これと言うのも「へたくそな要約」のせいだ!と八つ当たりしてみたりして(笑)。

>No.5 Oさん

>弁護人の方も一緒になって、「事件当時・直後はあんな未熟でしたが、今では発展途上ではありますが、こんなに改心しはじめています。」というような運び方は無しでしょうか?

 あったと思います。
 それとてかなりの苦戦を強いられそうですが、ドラえもんよりは勝算を感じます。
 被告人があくまでもドラえもんを主張するのであれば仕方がありませんが。


>No.6 惰眠さん

 差戻審が被告人や弁護人に言いたいことを全部主張させた上で審理したことがよかったと思っています。

はじめまして
今回の判決にちょっとした疑問があるのですが、
全否定された新供述とはそこまで信用できないものなのでしょうか?
むしろ私は例の手紙の内容も含めて被告人の異常性を如実に物語っていたと感じました。
荒唐無稽と思えるほど身勝手な理屈の持ち主だったからこそあのような異常な事件を起こし得た、と考えるほうがスッキリします。
死刑という結論は支持しますが、魔界転生やドラえもんの件は全否定ではなく、もう少し認められてもよかったのではないかなぁ、と思うのですが・・・・。

わたしもskさんと同じく、全否定されるものだったのかがわかりません。そのあたりはいかがでしょうか?
また、仮に一審からこの様な主張を被告人がしていたと仮定したならば、精神鑑定などを受けたと思いますか?幼稚な異常者の犯罪かなぁと思っていたので、弁護団の主張はわからなくも無いです。ちなみにまったくの素人です。

No.7 モトケン先生
ご教授いただきありがとうございます。

>No.8 sk様
>例の手紙の内容も含めて被告人の異常性を如実に物語っていたと感じました。

そのような側面からの量刑判断も私も有りとするべきだとは思います。
しかし、異常性を殊更、強調されてしまい、心身喪失とか心神耗弱とかの方向へ導かれていっているという裁判が最近増えてきてはいまいか?と感じるのは私だけでしょうか?
スレ違いの方向へいってしまいそうなコメントで失礼いたしました。

それと昨日からこちらのブログが重過ぎて、他のエントリで投稿したコメントが反映されていないと思い、本村氏の会見についてのコメントが一部重なり恥ずかしい限りです。

出先から横レスします。
>No.8 skさん
>No.9 同じくさん
被告人の新供述が高裁において排除されたのは、それが「異常者の繰言」だったからではなく、「その主張を裏付る客観的証拠が存在せず、主張の立証に失敗した」からでしょう。
どんな荒唐無稽に見える主張でも、それが事実であると裏付る証拠があれば、事実として認められます。
しかし本件被告人と弁護団はその主張を何一つ立証できなかった、それだけです。
せっかくですから、産経の判決要旨を熟読されることをおすすめします。
裁判所が非常に丁寧に弁護側の主張を考察し、否定していることが分かります。

>No.8 skさん、No.9 同じくさん

 橋下弁護士も言ってましたけれど、魔界転生やドラえもんを捜査段階から言っていたとすれば様子はだいぶ変わった可能性があります。
 精神鑑定の必要性も生じたかも知れません。

 しかし、言ってることとやってることが整合しないといずれの段階でもその供述自体の信用性は問題になります。

 判決が問題にしているのは、供述を変えたことです。
 弁護団は、一審段階でも問題の供述は出ていたと主張していますが、出したり引っ込めたりしているようではその時点ですでに変遷があるわけです。
 そうなると、敢えて自分の罪を認める供述の信用性が残ってしまうことになります。

補足

 感熱紙(モバイル)さんが指摘されているように、何時の段階で出た供述であろうと、客観証拠などの他の確実な証拠との関係で整合しない供述より整合する供述のほうが信用性が高いのは当然のことです。

 だから供述内容と死体痕跡との整合性が最も重要になってくるわけです。

>No.7 モトケンさん

差戻審が被告人や弁護人に言いたいことを全部主張させた上で審理したことがよかったと思っています。
その点については、まったく異論がありません。 ですので、私の安田弁護士に対する疑義は、どちらかと言うと寧ろ戦術面に向けられたものと言うべきかも知れません。安田氏ほどのベテランであれば、あのような論理構成での傷害致死主張が退けられたときに、どのような結末が待っているか想像できない筈がないと思います。 No.5 Oさんからのご指摘もあるように、犯行時点での事実関係は事実関係として争いつつも「今では発展途上ではありますが、こんなに改心しはじめています。」というような運び方が絶対に不可能だったとまでは思えないものですから。

>No.8 skさん

私も似たような気持ちを持っています。異常性と言うよりも幼児的自己中心性と表現したほうが私としてはしっくりきますが、そのこと自体は認定しても良かったんじゃないか、と。

ただ、弁護側は赤頭巾の問いかけに答える狼のように「それはね、魔界転生に書いてあったからだよ」とか「それはね、ドラえもんが何とかしてくれると期待したからだよ」とかの理由付け・・・というより苦し紛れの弁解にしか思えませんが・・・で検察側の主張(強姦目的だとか、犯行隠蔽の意図など)を否定しようとしたわけですから、裁判所が検察主張を採用する以上、論理の整合上、これら弁護側主張は全否定するより他ないと思います。

幼児的自己中心性の認定を行うならば、文章の構成上、別のセンテンスの中でやるよりないのではないでしょうか。

懲役年数を争っているような事件なら、このような弁護を肯定することには相当な度胸が要るでしょう。

しかし、この件は「放置しておけば死刑」です。破れかぶれに近かったとしてもやらざるを得ないことを考えるしかありません。ワールドカップの一発勝負で、後半ロスタイムにゴールキーパーが上がってくるようなものです。
No.2 惰眠さんやNo.3 法務業の末席さん の言うことは、結果論の色彩が強すぎると思います。

おとなしく恭順戦略で行けば死刑が回避できる・・・でしょうか?被告人があのように言っていれば主張しないわけにも行かず、さらに「最高裁で曲がりなりにもあの事実誤認の主張を出してしまった」以上、差し戻し審で引っ込めて全部認めてペコペコしても、白々しいものとなります。


なお、広島高裁の認定自体は、個別にちょっとだけつまむとん?という部分もないことはないのですが、全体的には至極真っ当なものであると思います。(無論、証拠関係の直接検分をしていない上での感想に過ぎません)

判決文は、むしろ弁護団に向けられた文章のようでしたね。

ここまでくると上告しても争う材料が無い気がするのですが、
どうするのでしょうか・・・

報道にもミスリードが多かった事件ですが、今回の弁護団のコメントにもミスリードが多いような気がします。

【死刑判決で弁護団(1)】
 井上明彦弁護士「判決では〜しかし、この不合理な判決を下す裁判所が存在する限り、被告人は怖くて争うことができない。少し争っただけで反省の気持ちがないということになり、死刑になってしまう。〜憤りを感じます」
【死刑判決で弁護団(2)】
小林修弁護士「少年に何が起きたかを知るためには、少年の供述だけに寄りかからずに、証拠を見て真実を見るのが裁判所の役割だ」
 
 まあ、裁判所に主張を認めさせることができなかったのは、弁護団の立証が不十分な(力不足とまではいいませんが)点もあったと思いますが、それを裁判所のせいにするコメントってどうなんでしょう?

【死刑判決で弁護団(3)】
安田弁護士「彼の事件は厳罰化のために使われたといってもいい。〜」

 この判決において、これまで以上の厳罰化のレールがしかれるなどの事象があったのでしょうか?でないなら、ミスリードの発言ですね。
(後半部はエントリ本文とほぼ同じ感想ですので省略)

 まあ、素直に敗北宣言はできないのでしょうが、それにしても、と感じてしまうコメントが多いと、記事の読み手側の印象はよくないのではと思ってしまいます。
 
 信頼感というか、「弁護士(しかも著名な実績のある方々)は、こういうコメントをするような性根の方々なんだなあ」というイメージの影響はあまり軽くはない気はするのですが。

>No.17 北風さん

この判決において、これまで以上の厳罰化のレールがしかれるなどの事象があったのでしょうか?

ありました。

従来は、永山基準に基づいて判決を下していて
差し戻し審前の判決(無期懲役)も
永山基準に基づいていたといわれています。
(一番引っかかったのは、殺害された人数と
 犯行時年齢のバランスのところでしょう)

今回は、従前の判決からすれば極めて厳しい判決であり
それを「厳罰化」と言わずして何と言うのか
教えていただきたいくらいなのですが。

<永山基準>

1983年に第1次上告審判決では基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。

1.犯罪の性質
2.犯行の動機
3.犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4.結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5.遺族の被害感情
6.社会的影響
7.犯人の年齢
8.前科
9.犯行後の情状

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%89%87%E5%A4%AB%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%B0%84%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

自分のブログの引用転載になります。異なる見方もあるでしょうが、個人的に判決に対して抱いた真っ当な見解と思えてならないので、ご紹介させていただきます。

 この裁判、どういうわけかマスコミの対応が、すこぶる控えめなように思えてなりません。

 そういえば、昨夜の報道番組ZEROで、光市母子殺害事件差戻控訴審判決の弁護団の記者会見に、日本テレビ系列の記者が出席を拒否されたと伝えていました。なんでも元少年の被告人との面会の内容を弁護団に報告しなかったことが理由のようでした。無用に弁護団を刺激して取材源を失っては、困るというような配慮でもあったのかと、多少勘繰りましたが、実際のところはわかりません。


 光市裁判の次回上告審では、被告人の側で弁護団を解任しそうな気がしていますし、広島高裁の判決にもそれを強く推奨示唆するような内容がふんだんに盛り込まれていると感じました。本村さんの当日の記者会見も同じでした。

 ちなみに、安田弁護士が弁護団のリーダーであったと昨日の報道で、初めて明確にしりました。マスコミはこのあたりもややあいまいにぼかしていたのかもしれません。

 マスコミは光市母子殺害事件差戻控訴審判決の翌日に、この東京高裁の判決があると知っていたのでしょうか、これもよくわかりませんが、自分として電撃的であったことは事実です。多くの国民もたぶんそうなのかなと思いますが、注目度は断然低そうです。

>10 ○様
>11 感熱紙(モバイル)様
>12 モトケン先生
>14 惰眠様

私の疑問への丁寧な回答、誠にありがとうございます。

私は裁判について素人なのですが、皆様の指摘によって「判決とは、審理の中で出揃った供述と客観的証拠の論理的整合性のより高いものを採用し判断していくもの」というイメージがおぼろげながらもできたと思います。
これはテレビや新聞などの限定的な情報だけではわかりにくかった基本的な部分だったので、大変ありがたいです。

ただ、こんなにも裁判についてわかってない状態で裁判員制度が始まったらどうしよ・・・・とちょっと憂鬱になりました(;´Д`A

結局、旧弁護団の弁護人に対する証人尋問は行われていないのでしょうか?

報道されている判決要旨を読む限り、尋問が行われた形跡も、そもそも人証としての請求がなされた形跡も窺えないのですが、まことに不可解です。

判決要旨によれば、被告人は、

「(旧)弁護人との事前打ち合わせが十分でなかった。弁護人に対し、強姦するつもりはなかったと話したが、通常この事件は無期懲役だから、死刑になるようなリスクがある争い方はしない方がいいと言われた」

「差し戻し前控訴審の弁護人に対し、犯行態様や計画性などが、第1審判決で書かれている事実とは違う、強姦するつもりはなかったというところを、どうにかしてもらえないかということを伝えた」

と供述しており、現弁護団の主張によれば、旧弁護団は、被告人の真意を知りながら、それを封じ込めたということになります。

しかも、現弁護団の主張によれば、現在の被告人の主張こそが客観的な事実に符合しており、公訴事実や、それを認めた旧供述は客観的証拠に合致しないということです。

すなわち、旧弁護人は、客観的な証拠に合致せず、被告人本人の明示の意思にも反するような主張を展開したわけで、とんでもなく程度の低い、有害な弁護活動だったというほかない(現弁護団の主張を前提にすれば)。

なのに、なぜ旧弁護人を証人として呼んで、この問題点を明らかにしないのか?

被告人が、「捜査官の不当な誘導によって真意に沿わない調書を作られた」と主張しているとき、その捜査官を尋問して調書の任意性を否定したり、信用性を弾劾するのは、弁護活動の基本中の基本です。

被告人が、「旧弁護人に真相を伝えたのに、それに沿った主張をしてくれなかった」と主張しているのに、その旧弁護人の姿勢を法廷で質さないのは、実に理解に苦しむ姿勢であると言わざるを得ません。

No.15 風の精霊さんの例えは極めて適切と思いますが、付け加えるなら、「最後の賭けでゴールキーパーまで上げたのに、何故かシュートを打とうとしない」ような不可解さ、というところでしょうか。

しかも、現弁護団は決して「戦えない」ひ弱な集団ではなく、これまで、かなりきわどいプレーも、戦術上必要と判断すれば確信犯的に実行してきたわけです。

なのに何故、旧弁護人を徹底的に攻撃・糾弾しないのか? ここだけはどうにも解せません。

>どうだろうさん

 1.最悪の内容。 反抗する力の弱い母子に対する鬼畜の所業
 2.性欲を満たすための自己中心的な反抗
 3.被害女性が死んでも尚凌辱を行う異常さ、赤ん坊を殺す際にそれがまるで玩具かの様に扱う(ちょうちょ結び)残虐性
 4.被害者は2人。 どちらも何の罪もない弱者
 5.峻烈を極める
 6.社会的に見ても是ほど嫌悪感を抱かせる事件は類を見ない
 7.18才(刑法で死刑が適用可能とされた年齢を越える)
 8.なし
 9.友人へのふざけた内容にしても自分の犯した罪の重大さに全く向き合わない態度。 そして今回の証言の変遷から推測される贖罪意識の低さ。

 私の中では永山基準を総合的に判断しても無理からぬ気がします。 永山基準を出される方は大体が被害者の人数や年齢を挙げられますが、総合的に判断してみて今回の判決に問題があるとするならどこなのかを指摘するべきだと思います。
 前科が無く罪に向き合う姿勢があればわずかながら死刑を適用しない可能性があると言う事を最高裁は上告時に言った訳で、あの時から被告は9の犯行後の情状で死刑を回避するしか無かったのではないでしょうかね。

 厳罰化という声がちらほら聞かれますが、日本の刑法は世界でも極めてまれなぐらい、殺人罪の法定刑に幅があるそうです(下限が3年だった当時、現在は5年)。
 また、私はかなりの数の殺人犯や傷害致死犯の人と直接話をした経験がありますが、話を聞いても厳罰という印象は受けませんでしたし、量刑の不服という話もきかず(ただし、13年ほど前のことです)。同じ殺人でも内容によって天地の開きがあると思います。
 実際、最近でも、人の死という結果と殺害の意志(故意)を犯行時に有していた同じ殺人罪で執行猶予をつけた判決が出ています。

No.21 (ただいま謹慎中)さん

裁判所が判断したように弁護団も虚偽の供述であることを知っていたからとしか思えませんけどね。

>No.22 迷い猫さん

>永山基準を出される方は大体が被害者の人数や年齢を挙げられますが、総合的に判断してみて今回の判決に問題があるとするならどこなのかを指摘するべきだと思います。

既にどこが「厳罰化」に相当するかを
指摘しているので何とも言いようがありません。
(年齢と被害者数)

なお、何故2人と言う数と年齢のバランスの話になるかと言えば
下記の事情は参考になると考えます。(かなり古い話にはなりますが)

法務省の法務総合研究所は、死刑、無期懲役の判決を分析し、裁判所がどういう基準で死刑を選択したかを調べている(96年版の『犯罪白書』)。調査期間は、タクシー運転手ら4人を殺害した永山則夫元死刑囚(97年8月死刑執行=当時47歳、犯行時少年)の上告審判決(1983年7月)から94年9月末までの約11年間。

 それによると、「被害者が1人のケース」の死刑選択は(1)身代金目的の誘拐(2)生命保険金の入手目的(3)同種の無期刑で仮出獄中の犯行――など極めて悪質な事件の場合に限定。「被害者2人以上のケース」でも、殺人の70%、強盗殺人の27%では無期刑が選択され、「極めて慎重かつ謙抑的に適用されている状況」である。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/mukityoueki.htm

No.18 どうだろう様

>ありました。
>従来は、永山基準に基づいて判決を下していて
差し戻し審前の判決(無期懲役)も
永山基準に基づいていたといわれています。
(一番引っかかったのは、殺害された人数と
 犯行時年齢のバランスのところでしょう)
>今回は、従前の判決からすれば極めて厳しい判決であり
それを「厳罰化」と言わずして何と言うのか
教えていただきたいくらいなのですが。

No.19とNo.25を拝見しましたが、何を持って「厳罰化」とされておられるのか分かりません。(人数と年齢と述べられてますが)
永山基準に照らしては、No,22の迷い猫さまがお書きになっておられます。
人数と年齢において、No.19に断言なされておられますように、今回の判決が永山基準を著しく逸脱(厳罰化)しているのでしょうか?

>「被害者2人以上のケース」でも、殺人の70%、強盗殺人の27%では無期刑が選択され、「極めて慎重かつ謙抑的に適用されている状況」である。

本件、最高裁まで争われ、慎重に適用されているようにも思えますが。
また、逆に言えば、被害者2人以上のケースの30%は無期刑ではないのですね。30%のケースに入るという判断は、著しく逸脱したもの(厳罰化)とみなせるのでしょうか?
また、年齢についても、被告の年齢は18歳以上であり、どうだろう様は何を問題視されておられるのでしょうか?

No.21 (ただいま謹慎中)さま
>何故、旧弁護人を徹底的に攻撃・糾弾しないのか?
旧弁護人のうち数名は新弁護団にも加わっているからではないでしょうか。判決要旨によると

特に、差し戻し前控訴審の国選弁護人2名は上告審において私選弁護人に選任されているところ、これは、被告人が両弁護士を信頼したからこそ弁護人として選任したものと解される。
として
弁護人が非常に頼りない存在であると認識しており、相談できなかったなどと供述
したことは信用できないとされてしまっています。
旧弁護人が責任を感じて弁護団に参加したことを批判することには躊躇を覚えますが、裏目に出てしまったかんじです。

>No.26 北風さん

>人数と年齢において、No.19に断言なされておられますように、今回の判決が永山基準を著しく逸脱(厳罰化)しているのでしょうか?

著しく逸脱しているかはわかりませんが
従来より厳しい適用とは考えます。
よって、厳罰化という表現は決して間違っていないものです。

げんばつ 0 【厳罰】
きびしく罰すること。きびしい罰。
「―に処す」

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B8%B7%C8%B3&kind=jn&mode=0&base=1&row=0

>本件、最高裁まで争われ、慎重に適用されているようにも思えますが。

慎重も何も、そもそも日本は三審制をとっています。
被告検察双方に不服があれば、
最高裁まで争うのは当然のことです。
(もっとも、上告には一定の条件が要りますが)

>また、逆に言えば、被害者2人以上のケースの30%は無期刑ではないのですね。

これは殆どが成人の事案です。

>30%のケースに入るという判断は、著しく逸脱したもの(厳罰化)とみなせるのでしょうか?

勿論、普通に考えたら30%のケースです。
ただし、彼は18歳1ヶ月の少年です。
だから、従来(控訴審まで)は死刑の適用を躊躇してきたのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%B3%95

↓上告審の判決文です。
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50255354.html

NO.29 どうだろう様

No.18より引用
>この判決において、これまで以上の厳罰化のレールがしかれるなどの事象があったのでしょうか?
>>ありました。

とのことでしたので、「厳罰化のレールがしかれるなどの事象」=「適用する基準の変更もしくは逸脱」があったのかと思ったのですが。

>著しく逸脱しているかはわかりませんが
従来より厳しい適用とは考えます。
よって、厳罰化という表現は決して間違っていないものです。

永山基準内で適用が厳しかった判決という程度の意味で「厳罰化」とおっしゃっているのであれば、そうとも言えるのかもしれません。

判決は新供述について、「虚偽の弁解を弄(ろう)したことは改善更生の可能性を大きく減殺した」と批判。「21人の弁護団がついたことで、(被告は)刑事責任が軽減されるのではないかと期待した。芽生えていた反省の気持ちが薄らいだとも考えられる」と弁護団の存在が元少年に不利な状況を招いた可能性を示唆した。

毎日新聞の記事からの引用(ちなみに産経新聞の判決要旨に上記の記述は見つけられなかった)ですが、どう考えますか?
もし弁護団が21人ついたこと自体に問題あり、弁護団が悪いと言うような趣旨であれば、相当問題があると言わざるを得ないと思います。
まさか、高裁判事が3人でこぞってそんなことも分かっていないとは思えないので、何か他のニュアンスがあるとは思うのですが。

被告人の新供述が事実であっても不思議ではありません。被告人は逮捕以来虚実ないまぜの供述を繰り返してきたと思われるからです。現場の生き証人は被告人しかいない訳ですから、裁判の経過を見ながらあることは隠しあることは検察や警察の誘導に乗りながら供述書にサインをしてきたような印象を受けます。
もしそうであれば新供述はすべてが真摯に述べられたものではなく一部記憶がないといってごまかしている部分はあっても、記憶にある真実を話した部分も含まれている可能性も高い。その可能性が捨てきれないまま今度の判決のように新供述はすべて作り話であるとの推認のもとに、犯行のすべてにわたって傷害致死という側面は認められないから情状酌量の余地がない、とするのはやや性急な事実審理という印象を受けます。

しかし安田弁護士の主張どおり新供述に基づいて事実認定を行っても判決は死刑でしかあり得ないでしょう。被告人が記憶がないと言っている(これが新供述に含まれる嘘でしょう)本判決では第2の犯行とされている幼児殺しに傷害致死が絶対的に成立しなくなりこちらが情状酌量の余地がない第一の殺人になるでしょうから。
被告人だけが知る幼児殺害時の状況、ここまでずっと被告人は隠してきましたが、これを真摯に供述することなく被告人が罪を自覚することはできないでしょう。
すなわち安田弁護士が控訴して争う場合、新供述の信憑性を最大限認めても傷害致死という死刑回避の事実認定はできず、弁護士として被告人の最大利益と見られる情状酌量を裁判で訴えたことにならないというジレンマは解決できないでしょう。
とはいえ受任から裁判まで準備時間が十分与えられなかった安田弁護士としては、非常に難しいが傷害致死で争うという方法を当面選択せざるを得なかったのかもしれません。

余談になりますが、一般に裁判の判決で被告人が罪を自覚し反省や悔悟の気持ちを生じるものでしょうか。それはないと思います。特に被告人が若ければ若いほど生きることへの本能的欲求が強く、死んでわびるという気持ちにまではある種の精神錯乱などが併存しない限り通常は至らないでしょう。犯罪心理学的描写に長けたドストエフスキーの「罪と罰」においても、主人公の若者はシベリア送りの終身刑という実質死刑判決を受けても悔い改めることが出来ず、心底罪を悔悟し神に許しを請う気持ちになったのは流刑生活を何年も送ったのちでありましたが、犯罪者に堕した人間が法に基づく刑罰を受けることで悔悛の情が生じるのではなく、なにか人智とは別の働きが加わるほうがおおきいのではないかと思います。

余談はさておきいったん括りたいと思いますが、この事件が裁判員裁判の対象事件であることから、事実審理というものから感情的判断をいかに排していくかという問題提起も本判決に関連して提起できるように思いました。

 参考までに書いておきます。

 永山則夫 逮捕時19歳10月 (犯行時19歳4月〜19歳10月)
        被害死者数 4人

 光市事件 逮捕時18歳 1月
        被害死者数 2人

 このように、もうすぐで20歳になる19歳から18歳になったばかりに年齢が下がったことと、被害死者数が4人以上にしか適用されていなかったのを2人以上にまで下げたことが大きな違いです。

 ちなみに1983年の永山基準以降に1999年末最高裁の2件の判決と3件の決定で以下の5つが死刑適用基準に追加されています。

 1 殺人の前科
 2 殺人の計画性
 3 犯罪への主導性
 4 動機への情状
 5 犯行後の反省

 永山基準は、No.18 どうだろうさん の所に書いてありますので、割愛しますが、その永山基準にこの5つを加え、整理すると以下のようになります。

 1 犯罪の性質
 2 殺人の計画性
 3 犯罪の主導性
 4 犯行の動機、及び動機への情状
 5 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
 6 結果の重大性、特に殺害された被害者数
 7 遺族の被害感情
 8 社会的影響
 9 犯人の年齢
 10 殺人の前科
 11 犯行後の反省などの情状

 今は、これらの要件で判断されているようですね。

調査嘱託申立書って絵画の分だけ聞いたらいいの?
他の抽象的な買い物履歴一般については聞かなくていいの?

永山事件との比較されてますが、18歳と19歳の違いって難しいですね。まぁ個人差あるでしょうけど、確かに18〜19の幅だけで考えたら大きく違うようですが、18以上という幅で考えたら大差ないってことじゃないですか?あと、永山事件より人数は減ってますが、無力・無抵抗な赤ん坊を殺した点では残虐性が大きく上まっわっているのではないでしょうか。

ところで、そもそも死刑判決の基準が下がる=厳罰化になるのかが疑問です。光市事件をみても、死刑はやはり他の殺人事件とは一線を画した相当な残虐性が認められないと課せられるものではないことには違いないと思うので、厳罰化は言い過ぎかなと。

今回の基準を用いると、過去死刑にならなかった案件で死刑になるものは存在するのでしょうか?

永山基準(S58年第一次上告審)に比して、今回の死刑判決が厳罰化しているか否か議論があるようですが、資料的なことのみ提示します。

【その1】
最高裁の第一次上告審判決(昭和56(あ)1505)で、9つの検討すべき要件を列挙したのは事実ですが、被害者の人数について「2人以上」という人数を具体的に明示していません。その他の要件にしても明確なボーダーラインを最高裁は判示していません。あくまでもこの9つの要件を、併せ考察したとき(中略)死刑の選択も許される(出典:裁判所HPの判例検索システムより検索したPDF判決文より抜粋)とされました。

2人以上云々という数的基準は、この判例を基に法曹関係者や司法マスコミ関係者が言っていることで、「被害者2人以上」が最高裁の判示した基準(永山基準)と断定するのはいかがでしょうか。
(同様のことは、本村洋氏も判決後の記者会見で言ってましたね)

【その2】
No.25において、どうだろう様が引用された70%は無期刑云々の原典資料は、平成8年版犯罪白書の第3編/第4章/第5節/1〜4の記述と思われます。

具体的には、平成8年版犯罪白書の第3編/第4章/第5節/4まとめ、の文章中12行目〜13行目にかけて以下の記述があります。

殺害された者が2名以上の場合であっても,殺人では約70%,強盗致死では約27%について無期刑が選択されていること

また、この記述の基となった調査結果は、第3編/第4章/第5節/3凶悪事犯の量刑に関する調査結果、にまとめられており、この中に掲示されたIII-32表・被殺害者数別人員が元データです。

この図表を良く見ると、永山判決後の昭和60年〜平成6年までの統計においても、被害者1人での死刑判決が相当数(殺人では14%、8件)あり、被害者2人以上が死刑適用の絶対的基準ではないことが分かります。

たまたまなのか、永山事件の第一次上告審判決の直後にあたる昭和57年〜昭和59年まで、被害者1人での死刑判決が無く(資料の表によれば全12件の全てが無期刑)、死刑判決となった殺人事件は全て被害者2人以上(2人以上の殺人は全17件で、その内6件で死刑、11件は無期刑)であったことは事実です。ただし、昭和60年代以後は被害者1人でも死刑判決があるのは、前述したとおり事実です。

また、永山判決より前の昭和20年代〜40年代の統計では、この30年間での被害者1人の殺人事件は合計49件で、その内7件(20年代1件、30年代3件、40年代3件)で死刑判決があり、そのとの比率は14%であって、昭和60年代以降の被害者1人の死刑判決8件で比率14%とまったく同じ比率となっています。

すなわち統計上は、永山判決直後の数年間に限り、被害者1人での殺人事件に死刑判決が無かったことを示しております。昭和20年代から平成6年までの50年間の統計から見れば、被害者1人での死刑判決が無かった昭和57年〜昭和59年の期間が、逆に特異な期間とみなすことも出来ます。


以上、皆様の議論の参考に、資料データをご紹介させて頂きます。

>法務業の末席さん

分かり易いご説明ありがとうございます。

人数というのは死刑か否かの判断基準にはならないわけですね。
18から20の間だけ「○人以上」という基準があるのも変な話ですし。

専門家といえどもそれだけの資料を探されるのも大変でしょう。
重ねて御礼申し上げます。

>人数というのは死刑か否かの判断基準にはならないわけですね。

人数「だけ」で決まるわけではないということかと(^^;

>No.37 素人ですがさん

2人なら死刑は相当なのだ、と早とちりしないで下さい。

法令でも、過去の判例(判決文)でも、○人以上なら死刑が相当である、とした事例は無いのであって、被害者人数だけで死刑適用が決まるのではない、ということを示すに過ぎません。

刑事裁判における量刑基準というのは、マニュアル的に決められるのではなく、何人とか何歳ならば、或いは前科前歴が何件あればという数値のみで議論するのは良くありません。

給料何万円以上なら社会保険料は幾ら、所得が幾ら以上なら税率何%に決まっている、という数値感覚で刑事裁判における量刑を論ずると、大変間違った議論となりますので、ご注意下さい。

最高の判例を読む限り、モトケンさん指摘のとおり、差し戻し審における弁護戦術には一定の方向性が見えてくるように感じます。通常の感覚であれば。
それでもなお差し戻し審において今回のような弁護をする場合、通常考えられる弁護戦術を採る場合の利益・不利益、そうでない場合の利益・不利益をきちんと伝え、決断してもらうことが不可欠だと思うのですが・・。
当然、いままで幾多の裁判を経験してきた弁護士として、裁判所がいかような事実認定手法をとるのか(モトケンさんが指摘するような観点で)、最高の判示はどのような意味を持つのか等をきちんと説明する必要があるというのは言うまでもないことですが、それを指摘した上で被告人に決断してもらう必要があると考えます。
そうでなければ、素人が弁護してもあまり変わりはないのでは・・と思うからです。
弁護団はそれをしたのでしょうか?
これこそ、被告人本人に尋ねないとわからないのですが、弁護人の説明不足によりいわゆる動機の錯誤に陥ってしまって、きちんとした情報の上決断できていなかったとすれば(18歳を強調するのであれば、裁判でいかなる主張をするのかという場面の方が、殺害より、より高度の能力を必要とするのでは・・・?と思います)、錯誤に陥れた弁護人は、弁護過誤とも言われかねないのかな〜っと思ってしまいます。
いずれにせよ、差し戻し審における弁護方針、弁護方法には疑問を感じざるを得ないという皆様と同じ意見です。

みなさんありがとうございます。ただ、腑に落ちないのが、弁護側鑑定医の鑑定結果が荒唐無稽と一蹴されたことです。また、 起訴事実を否認すること自体を刑を重くする根拠となったこともあまり理解できません。というのも、私が知ってい折る範囲の裁判というのは映画「それでも僕はやっていない」だけなので、初動捜査や接見弁護士によっては、起訴事実を否定せざるを得ない場合もあると思われるからです。その点について、皆さんのご意見を伺えればありがたいです。量刑については特に異論はありません。

現行の裁判制度では情状の判断には裁判官の「心証」が中心的に用いられることになっていると思います。
そして心証形成の決め手となるのは事実審理の内容でしょう。
一審二審では検察の提出した起訴までに集められた証拠に基く事実審理の内容に問題があったが、裁判官は心証形成にあたって事実審理を重視せず少年(というより未成人)であるという点を情状とした無期判決を下した。
このことが被害者と検察にだけ影響を及ぼしたのではなく、被告人の反省贖罪の心のほうに対しても影響を及ぼさなかった筈がないと思います。逮捕され自分は本当に死刑なんだろうかとおびえていたところに、無期懲役と裁判所が判決してくれてそれまでの緊張が解けてほっとした。あの「犬が犬と出会った」とか「無期だから七年で地上に芽を出す」という「軽口」は、彼にしてみればほっとしたあまり気のおけぬ仲になったと信じた友達同士の後先考えない稚気の抜けない言葉遊びであった可能性は十分あると思います。

その1審判決後の手紙や行動のことを今回の判決で被告人に反省する能力が生来なくそういう人格欠陥が犯罪を犯さしめるかのごとく解釈して情状酌量の余地無しの理由にするというのでは、その判断は後知恵に色づけされて偏向した人物評価であると弁護側から非難されても当然と思います。なんとなれば病的人格障害の問題は本判決の言うように強姦致死のほうに認めると情状酌量せざるを得なくなり、論理的に言って死刑判決は誤りだと指摘されると思われます。

安田弁護士の戦法から行けば判決そのものよりも心証主義と戦うためには控訴審が絶対に必要となるでしょう。
すなわち今回の法廷において弁護側もそもそもの第一審で審理されるべきであった新供述にもとづく事実の再審理を提起したからには、裁判官の心証形成にあたっても逮捕されるまでの期間の事実審理にのみ基いて行なわれるべきで、1審以後に被告人が出した「手紙」や2審以後の法廷での被告人の態度をもって反省の情がないと認定し心証形成するのは事後法で裁くに等しい不当な心証形成であるとの主張でありましょう。

つまり弁護側の控訴は後知恵無き心証形成を裁判官職に求めるという控訴ではないかと私は思います。そのように考え、最高裁が控訴を受けて後知恵でない起訴されるまでの証拠に限定した事実審理を自ら行い、犯行当時まさに18歳1ヶ月の新社会人であった被告人に対して偏らない心証を形成した上で、自ら最終司法として裁判の形式に拘らず権威をもって公正な情状判断を示してもらいたいと思うものです。

個人的にはそれでも死刑已む無しかと思いますが、今回の広島高裁の事実審理をもって差し戻し審理にふさわしいものであったとは思えないです。これが第1審か第2審判決なら心底納得でしたが。

それに将来の裁判員制度で、裁判官も加わると言う評議の結果が裁判官ひとりの心証次第で誘導的に決められてしまった、という方向での不平が大きくならないように、国民の司法に抱く信頼が形だけではなくちゃんと中身のあるものにするためにも、弁護側の控訴を最高裁に受けて立ってもらいたいものです。

>No.41 同じくさん
 
 最高裁の基本的論理というのは、「差戻前控訴審までに表れた証拠によれば、本件は無期懲役では軽すぎる、死刑だ。」というものであり、ただし、「ひょっとするとまだ表れていない死刑を回避すべき事情があるかも知れないので、その点について審理を尽くせ。」と言って高裁に差し戻したのです。

 つまり、高裁における審理のテーマは、「死刑を回避するに足る事情の有無」言い換えれば、刑を軽くする事情の有無であって、刑を重くする事情の有無ではありません。

 で、審理の結果、「殺意を否認するなどの嘘の言い訳をしている被告人に刑を軽くする事情など到底認められない。」というのが高裁の論理です。

 ですから、

>起訴事実を否認すること自体を刑を重くする根拠となった

 というわけではなく、「刑を軽くする根拠にはならなかった。」というのが正確です。

No.41 同じくさま (すでにモトケン先生のコメントもありますが)

「否認している場合、重く処罰される」 というのは、
条件付相対評価、です。

条件付」 というのは、「被疑者・被告人の言い分がウソと認められる限り」 ということです。
「被疑者・被告人の言い分のほうが客観証拠に合致している」 と認められれば、当然、検察側の言い分のほうが間違っている(少なくとも疑わしくなる)ので、「否認」 を重く罰する必要がなくなる、というか、その部分に関しては無罪となります。

# で、「それでも僕は」 のような痴漢事案の場合、客観証拠が乏しいという壁が。

相対評価」 とは、「ありのままを自白し、反省している被疑者・被告人に対しては、反省してない被疑者・被告人と比較すれば、処罰は一般に軽くなる」 ということです。
他の証拠と矛盾しているにもかかわらず、「俺はやってない」 と言い張る被疑者・被告人は、「自分のやったことと向き合ってないな、反省してないな」 とみられてしまうことになります。

今回の弁護方針は今枝さんの安田評がもっとも適切な評価だと思っています。

 あまりに基本に忠実過ぎたことで、結果が伴わないこともあるかもしれません。「なにか企んで奇策を弄したから、失敗したのだろう。」と誤解を受けます。安田先生は、どんな弁護士よりも、基本に忠実、見方によっては愚直とも思えるほどに、基礎を大事にします。
 弁護士によっては、裁判官の顔色を窺い、裁判官に良く思われるように被告人を指導教育しようとするかもしれません。しかし安田弁護士は、被告人の素材をいじりすぎることを嫌い、「要領のいい立ち回り」をさせたりしようとはしません。小手先の演技や誤魔化しなどは最も嫌います。
 僕から見たら、悲しいくらい、純粋すぎ、まじめすぎるくらいです。もっと器用で要領よくなってもいいのではないかと思うほどに。

今回の弁護方針はやはり基礎を大事にしたやり方だったと思います。「反省したフリ」をさせることは社会のためにも被告人のためにもならないのは確かです。ただ、あまりにも理想論に偏っているような印象はぬぐえません。「基礎に忠実」であるからこそ評価が難しい。

お答えいただき感謝しております。なるほど。その点は理解いたしました。勉強になります。しかし、弁護側鑑定医の鑑定結果が荒唐無稽と一蹴されたことはいかがですか?鑑定結果の違いというのは結構大きいと思うのですが、通常の裁判ではあまり証拠として採用されないのですかね?あれだけのことを殺意なく行ったとしたら精神異常者じゃないかという疑いが晴れないもので。

しかし、やっぱり素人には裁判難しいですね(笑)勉強します。

>No.45 同じくさん

 精神鑑定一般についていつも問題になるのが、鑑定の前提となる被告人の供述の信用性です。
 精神科医には、自分の前で被告人が語った言葉を真実として判断する傾向が感じられます。

 本件で、被告人の新供述は荒唐無稽な虚偽であるという前提で弁護側鑑定を見れば、その新供述を前提とする鑑定の証拠価値はほとんどないことになります。

ぼつでおk(医)さん >>「軽口」は、彼にしてみればほっとしたあまり気のおけぬ仲になったと信じた友達同士の後先考えない稚気の抜けない言葉遊びであった可能性は十分あると思います。

その1審判決後の手紙や行動のことを今回の判決で被告人に反省する能力が生来なくそういう人格欠陥が犯罪を犯さしめるかのごとく解釈して情状酌量の余地無しの理由にするというのでは、その判断は後知恵に色づけされて偏向した人物評価であると弁護側から非難されても当然と思います。

ここには、違和感をかんじるのですが・・。
軽口を叩けるというのが、「反省」がない間接事実になるのではと思うのですが。というよりも、本件は「軽口」を叩けるような犯罪では到底なく、「反省」とは、そのような軽口がでないようなほど、自分の行動に罪悪感を感じ取ることではないのかな・・と思います。
とすれば、情状酌量の余地なしというのも、わからなくはないなと思います。

ろくろくびさん>>弁護方針はやはり基礎を大事にしたやり方・・

基礎を大事にした弁護とは何なのでしょう?少しわからないのですが、どのような結果になっても、明らかに変な主張(これは良くわかりませんが??)をそのまま被告人の主張として最高の差し戻し理由とは無関係に主張させること(主張すること)が基礎を大事にした弁護なのでしょうか?

>No.15 風の精霊さん

結果論といわれれば結果論なのかもしれませんが、私としては、更新意見書の頃から、これじゃ裁判所は「反省の情は微塵もなし、汲むべき情状は皆無」と見做して心置きなく極刑判断を下しちゃうだろうなと感じていましたし、実際そういう趣旨の書き込みも行っていますので、気持ちとしては「そら見たことか、だから言わんこっちゃない」なんです。

私が安田主任弁護人の戦術方針に疑問を感じるのは、そのストーリー構成は困難を極めるとは思いますが、傷害致死主張をしつつもモトケンさんの仰る「殺意を否認するなどの嘘の言い訳をしている被告人に刑を軽くする事情など到底認められない。」という論理を導かない全体絵図をなぜ描かなかったのか、ひとつコケれば総崩れになる正面突破戦術を選択したのか、なのです。

重ねて書くことになりますが、安田弁護士が「事実」に向ける意識の真剣さ真摯さには頭が下がりますし、事実の探究に際して「クセ球」を投げるのは不誠実な態度しれませんけれども、安田氏の求める義(ただし)さに本件裁判の被告人を殉じさせているのではないかとの思いは、どうにも拭いがたいのです。

>>No.47 とおりすがりですさん
ご指摘の部分は私の言葉が足りておりませんでした。
本判決では強姦殺人か傷害致死かの、判決文中第一の犯行についての情状判断について、反省のなさを手紙等を材料に判断していると思います。ゆえに、ご指摘の部分については以下のように訂正いたしたいと思います。

(元の文)>被告人に反省する能力が生来なくそういう人格欠陥が犯罪を犯さしめるかのごとく解釈して

(訂正:「犯罪」のまえに「強姦して相手女性を殺すという」の文言を加える)
>被告人に反省する能力が生来なくそういう人格欠陥が強姦して相手女性を殺すという犯罪を犯さしめるかのごとく解釈して

モトケンさん

こんな素人に何度も早急にお返事ありがとうございます!
すみません、鑑定結果というのは精神鑑定ではなく
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/column10-kantei.htm
のことです。だ
これを読む限り「殺意はなかった」ということになると思うのですが、この結果自体が荒唐無稽と一蹴される内容なのかなと思った次第です。
通常、このような鑑定結果(言葉の使い方はあってますよね?)はあまり重要視されないものなのでしょうか?科学的な証拠のような気がするので、腑に落ちないということです。

素人ですみません!素朴な疑問でございます。

お答えありがとうございます。
情状という点ではなく、犯行自体の認定について利用しているということであれば、たしかにご指摘のとおりかもしれませんね。
ただ、主張内容や手紙の存在自体が情状を判断する間接証拠として利用されているという点は何ら問題ないものと思います。
もともと、人の内心(情状:反省という面においてですが)というのは、一切の事情を考慮しないと判断できないものですから。
内心が見通せる道具(これこそドラえもんが必要です)があればよいのですが・・。

>>No.15 風の精霊さま

うっかりしてレスするのを忘れており、失礼しました。
(惰眠さまの48投稿を見てレスしてないことに気付きました、申し訳ありません)

判決が出た以上結果論と言えばその通りです。ですが刑事訴訟での弁護にしろ、私の本業(社会保険労務士)のように労務問題での助言やコンサルティングにしろ、いわゆる広い意味での「代理業」ですので、依頼人に良い結果をもたらすことが出来なければ、非難されることはやむを得ないことと思っています。

業として依頼人の代理を行なう者にとって、甲子園の高校野球のように「試合には負けましたが、爽やかな感動を与えてくれました」という賞賛は、ハナから期待してはならないと思っております。逆に依頼人の利益を実現できずに負けたら、ボロクソに言われるのが代理業であると覚悟して日々仕事をしています。

こうした感覚が自分のコメントに出たものとして受け止めて下さい。

>No.50 同じくさん

 そっちの鑑定については、過去に少しふれています。

 「安田弁護士らの主張の検討>だめだこりゃ

 正直言いまして、私はここまで客観証拠と整合性の認めがたい法医学鑑定を見たことがありません。

安田弁護士の取った裁判戦術の欠陥についてはわたしもNo.48 惰眠さんと同じ見方をしておりました。ただ、私は安田弁護士はこの弁護を引き受けた時点で委細承知の上で苦渋の決断をしたのではないかと思っていました。裁判が形式や手続きだけの三審制でなく実質を伴う三審制であれば、今回のような高裁の差し戻し裁判であれば控訴権を行使して最高裁で最終的な審理ができるはずだという、司法制度への信頼に基く法律の専門家としての信念を抱いてぎりぎりの決断をされた、と。
すべて当事者でない私の勝手な推測ですが。

ぼつでおk(医)さん>>裁判が形式や手続きだけの三審制でなく実質を伴う三審制であれば、今回のような高裁の差し戻し裁判であれば控訴権を行使して最高裁で最終的な審理ができるはずだという、司法制度への信頼に基く法律の専門家としての信念

でも、法律家としての信念と今目の前にある裁判においていかに弁護方法を構築するかは混同してはいけないものではないでしょうか?
刑訴法の構造を勉強してみましたが、刑事裁判においては、1審における事実認定にかなりの重要性を置いている構造になっています(事後審的性格といわれているみたいです)。それを前提として、最高の判断が示されている以上、リスクマネージメントは弁護人の義務ともいえるのではないでしょうか?その意味で惰眠さんの見解はよくわかります。
一部において弁護団に対して自らの主張を宣伝するため・・との批判が一時期なされたことがありましたが、それがリスクマネージメントとして必要なものであったのであれば問題ないと思いますが、そうでない場合には問題があると思いますし、事実認定を争うという弁護方針も信念ではなく、あらゆるリスクを想定した上で最上の方法として採ったのであれば問題はないと思います。
本当の問題は、弁護団の想定がどのようなものであったか、それが一般的に弁護の方法として妥当なものといえるかどうか、という点ではないでしょうか。あくまで、被告人のための裁判なのですから。

 そもそも中光辯護士がそんなに酷い辯護をしたから被告人が
事実を言わなかったってなら、中光さんを證言台に立たせるって
方法もあったのではないでしょうか。

 接見内容を公開することで被告人の利益になるのだから、
当然、守秘義務は解除されますよねえ? それとも、「被告人に
利益にはなるが、辯護人に不利益になる」場合は「辯護人側が」
守秘義務を言うことって可能なんでしょうか。

 まあ、證言が事実なら中光氏の辯護士生命がヤバいですし、
嘘なら偽證になるので、中光氏が法廷で何か言うことはないでしょうけど……。

>>No.50 同じくさん

ご指摘の記事は鑑定書結論部分の抜粋ですが、当該鑑定書は実際に死体を検分された物でなく、死体検案書のみを1次資料として鑑定された物と聞き及んでいます。
鑑定時期からもそれ以外に鑑定のしようがないとも思います。

上野先生の見識に疑義を挟むつもりは毛頭ございませんが、弁護側依頼によって作成された物でかつ実際の死体検分をされているわけではない以上、裁判所が検討の上却下されているのもそれほど無理のある話ではない様に感じられます。

要旨記事を見る限り、上野先生の鑑定結果に基づく方法では実際の殺害に至るには多分に疑問の余地があるとする裁判所の判断は説得力あるものと思えますが、いかがでしょうか。

>>No.55 とおりすがりですさん
まあ私は今回の判決について、死刑という主文は初めてのものとして評価しますが、裁判長の示した審理内容は差し戻し公判での新たな証拠に対する審理を行わないと宣言しその理由を述べただけのものとしか読み取れませんでしたから、刑事裁判の情状判断における裁判官の心証形成というものについて裁判員予備軍の一人として抱いた疑問をコメントしているだけであります。
安田弁護士の方針について刑事弁護の是非を論じている積りはございませんのでお答えにはならないかもしれませんが、安田弁護士にとってはこの被告人の弁護については準備期間が少ないまま公判に入らなければならなかったという手続き上の問題が影響しているのではないかと愚考しているだけであり、それ以上の戦略論は裁判員予備軍であるというだけの法律素人の私の手に余る議論と考えています。

モトケンさん
ITドカタさん

ありがとうございます。判決への理解が深まりました。ただ、裁判の難しさは逆に強まりました。人が人を裁くのは本当に難しいですね。真実はひとつだけではないのかも、と改めて強く感じた次第です。今回の判決に異論はないですが、社会からつまはじきされる人間も道を踏み外さないように社会参加できる世の中になればいいと感じました。まあ、これは一個人の雑感ですのです。皆さん議論を続けてください。

ありがとうございました。

No.47 とおりすがりですさん

どのような結果になっても、明らかに変な主張(これは良くわかりませんが??)をそのまま被告人の主張として最高の差し戻し理由とは無関係に主張させること(主張すること)が基礎を大事にした弁護なのでしょうか?

最高裁の差戻し理由を根拠に「明らかに変な主張」を言わせないというのは弁護技術としては本道なのだと思います。ただ、被告人の代理人がそれこそ「被告人の発言を作り上げる」ことになってしまうとマズイですから事実を大切にすることを一概に否定もできないと思います。
よくいえば「基礎を大事にしている」、悪く言えば「原理主義的」だというのが私の評価です。「どのような結果になっても」というところがやはり柔軟性を欠いているという評価にもつながると思います。

初めてコメントいたします。
モトケンさまのブログ、いつも興味深く拝見しております。
私は法的なことにはまったくの門外漢ですし、涙もろくて喧嘩っ早い典型的な江戸っ子なので、ここんちでは最後まで門前の小僧に徹しようと考えておりました……が!
今日、なにげなく見ていたらトラックバックにとんでもないものを発見してしまいました。
青山学院大准教授の瀬尾加美先生の御発言です(上の方のトラックバックを参照しました・潜ってゆくとご本人のブログ他いろいろ見ることが出来ました)。

すごすぎる。

「赤ちゃんの命は0.5人前」ってリクツも、本村さんの現在に心境を推して「自分の血を吸った蚊をパチンと潰してサッパリしただろう」って言い草も、全てが物凄いです。
……でも、どこか加害者の人権を言い立てる人々の言葉とかぶる印象があるような……。そのせいか瀬尾先生はネットでは「人権派」と呼ばれているようです。
安田さんも財産隠しの手伝いをして有罪で罰金50万円(ただし拘留された日数で相殺されて実際には払わなくていいらしいけど)だし、「人権派=反社会派」なのかしら?と感じてしまう今日このごろです。

No.48 惰眠さん

一部否認と不反省が結びつかない弁護は、どのようにすればよいのでしょう?判決文は、否認を不反省情状として相当大きく取っているようです。反省しているからこそ、罪の重さにおののいて否認してしまう・・・というのも、正直とおる見込みは薄いと思います。
弁護人があのストーリーの主軸を作ったのでない限り、それを法廷で出さないと言うのは難しいと思われます。
私も、安田弁護士の弁護活動は、事件によっては危険なものだと感じます。というか、私が窃盗のような犯罪をしでかしてあの弁護方針をする、と言われたら嫌だというと思います。私の師匠の裁判官も、少年事件でも懲役十年以上のような事件で家裁に戻すべきだと言うような、あまりに無理筋の主張を大展開すると、通りそうな所での大事な論争までボケる、と教えてくれました。
しかし、今回はまさしく死刑か無期以下かが争点です。被告人の否認で恭順路線防衛ラインの戦力が著しく低下した以上、事実関係防衛ラインを最終絶対防衛ラインにするしかない、と私は考えます。

No.52 法務業の末席さん

遅れたことは別に気にしておりません。
しかし、正直彼は末期のがん患者同然だったと思います。あの状態で使い物にならない否認をされたら、もう手のうちようはない、というのが、判決文を読んでの偽らざる所感です。
依頼主本人が感情的に非難するのを止めるつもりはありません。ただ、第三者がとやかく言うんなら、せめてもうちょっと理屈をつけるべきじゃないかな、と思った次第であります。

今回の供述信憑性を大きく下げている原因として、私が考えているのは、「財布の窃盗」の部分です。
この比較的些細な部分、言い換えるとよく心理状況が他者でも想像しやすい行為に対して、「テープと間違えた」なんていうのを聞いて誰が信用するでしょうか。その後の「地域振興券云々・・・」から窃盗の意思が無かったなんてどうみても信じられません。
※殺人となると常人の想像を超えるものがあるかもしれない・・・

原理主義も解りますが、せめてこの部分は弁護人に対して真相を問い詰めるべきだったような気がします。
私はこの部分から全体の供述信用度をかなり落としているように感じました。

No.15 風の精霊さん

>この件は「放置しておけば死刑」です。破れかぶれに近かったとしてもやらざるを得ないことを考えるしかありません。ワールドカップの一発勝負で、後半ロスタイムにゴールキーパーが上がってくるようなものです。

刑事裁判はサッカーとは違います。
ワールドカップで負けても死刑になりません。
細かいことかもしれませんが、両者を比較することが不謹慎ではないですか?

自己レス

No.63 カツビン

×せめてこの部分は「弁護人」に対して真相を問い詰つめる
○せめてこの部分は「被告人」に対して真相を問い詰つめる

No.61 門前子さん

私も瀬尾加美先生の記事読みました。
「赤ちゃんの命は0.5人前」は読んでいて怖かったです。

この裁判については、いろんな考えがあるでしょう。
しかし理解できないものも多くあります。

>No.61 門前子さん
> No.66 「赤ちゃんの命は0.5人前」の不思議さん
私も読みましたが、その内容のあまりのフリーダムさには夜食のうまかっちゃんの麺が鼻から出ました。
他の文章も斜め読みしましたが、まあ実名晒して公開するようなものじゃないですね。
某巨大掲示板などでも話題になっているようなので、炎上は確定、ご愁傷様といったところですか。

> No.56 ミ ´Å`彡さん
お久しぶりですね。
判決でも指摘されていることですが、一審二審での事実誤認を主張しながらも、従前の弁護人の弁護内容について言及していない時点で被告人の供述変遷理由の立証を放棄したと言えるでしょうね。
結局それが被告人の新供述の信用性を否定し、裁判官に「死刑回避のための言い逃れ」という印象を与えてしまっているところを見ると、被告人と弁護団は、自分で自分の首を絞めたと見ることができると思います。
ホントに安田先生は、本件の弁護で何をやりたかったんでしょう?余りにも稚拙さが目に付きますね。

>No.61 門前子さん
>No.66 「赤ちゃんの命は0.5人前」の不思議さん
>No.67 感熱紙(刑)さん
皆さん多数をひとまとめで失礼します。

瀬尾佳美さんの「おいしいものが食べたい」(これは裏ブログ)、「瀬尾佳美BLOG」(こちらが表ブログ) 、「瀬尾佳美のホームページ」(これがメインページ)は2年ほど前からROMしてます。
※モトケンブログのサーバーへの負荷を考えて、あえてURLリンクはしません。興味のある方は各自で検索してご覧になって下さい。

瀬尾佳美氏は、なかなかのキャラクターの持ち主で、以前より多重債務者問題や生活保護受給など、いわゆる経済的社会弱者に対する救済システムの不備や、怠慢・杜撰が目に余る福祉行政の実態について、非常に辛辣なコメントをすることで有名です。

現在話題となっているコメント記事は、彼女が個人的な感想を書き込む「おいしいものが食べたい」ブログに、7ヵ月前の昨年9月21日付けで掲載したものです。そのときには誰も注目せず、何ら話題になっていませんでしたが、今回の差戻し審判決を機会に注目を浴びたことに驚いています。

この発言に対する私自身の印象や考えについては今は留保しますが、彼女は過去にも何かと物議を醸す発言が多く、世間で言う普通の人とは違う発想をされる人であることは承知しています。逆になぜ今頃になってこの昔の記事が浮き上がってきたのか、以前から彼女の発言ぶりを知っている者からすると不思議に思うくらいです。

あのブログのコメント欄は元々承認制のはずですし、記事自体が既に8ヵ月前であって鮮度も落ちた記事でもあり、いわゆる「炎上」はしないのではと予想しています。まあ彼女自身、異論反論や罵詈雑言、誹謗中傷など何とも思わない「強い女」ですから、何事も無いように彼女は受け流していくでしょうし、炎上など起こらないのではないでしょうか。

No.68 法務業の末席さん

飲酒運転事故報道が「トレンド」になると、前の年に公務員が起こした事故が蒸し返されたり、医療事故報道が流行ると、ずっと前の奈良や福島の死亡例がクローズアップされて社会問題化するようなものですね。

日本社会に不寛容が蔓延してくると、ものごとには様々な側面があるという当然の前提が無視されるようです。今回の被告人は被害者遺族の側から見れば「極悪非道の凶悪犯」以外の何者でもありませんが、他の側面から見れば「血を分けた息子」であり「仲の良い友人」でもあるわけです。凶悪犯罪も、死刑制度も、一面的な報道も、過剰なバッシングも、そういう側面まで一からげにして断ち切るものであるという事実を直視しなければならないと思います。

法務業の末席さんがおっしゃるように、このブログ主さんが他の分野では正論を発していたとしても、炎上を目論む人たちにはそんなことどうでもいいんでしょうね。

みみみさん>>日本社会に不寛容が蔓延してくると、ものごとには様々な側面があるという当然の前提が無視されるようです

難しいところですが、不寛容が倫理観欠如をもたらす面も少なからずあるものと思います。因果関係は定かではありませんが(というかわからないのが普通です。わかればすごいと思いますので、因果関係がはっきりしないのに・・という批判はあたらないと思います。)、やはりおかしいものはおかしいでよいのではないでしょうか?
たとえば、炎上するという点についても、そうやって意見を発すること(炎上という方法がいいかわかりませんが)も一つの方法として寛容にならなければならないともいえそうです。
一面においてブログで公開で意見を発する以上、さまざまな意見が寄せられるのは当然ですから、寛容には寛容でいいのでは?と思います。

>とおりすがりですさん
一般的に炎上は「便乗怒り」がほとんどだと思われますので、よくないと思いますよ。
主語のない悪意の蔓延は空気が悪くなるし、その圧力によって多様性が失われるのではないかと。乗せられて怒る人も多いですしね、今回の弁護士バッシングと同じく。
本論と関係ないのでこの件は終わったほうがよろしいかと。

>No.62 風の精霊さん
正直申し上げて、私には分かりません。「お手上げ」とか考察の放棄と言う意味ではなく、裁判で使用する文書、主張の論理構造に、どのようなフォーマットが用いられ、その中にどのような内容を織り込むことが許容されるかについて実務的手法を知らないからです。

被告人の否認で恭順路線防衛ラインの戦力が著しく低下した以上、事実関係防衛ラインを最終絶対防衛ラインにするしかない
これはまったく同感です。 しかし本当に、事実関係について争うことは、反省していないことと等号で結ぶより他ないのか・・・全面否認の無罪主張であればもちろんそのとおりなのですが、構成要件に関して「のみ」を争いたい場合にも同じ扱いにならざるを得ないのでしょうか。 裁判所の判断は別にして、被告人弁護の上で工夫の余地は本当になかったのでしょうか。


ところで・・・今枝さんは心が折れてしまったのでしょうか。
内省、自省は大切なことです。しかし、自罰的になる必要はどこにもないのに、と思います。

橋下「弁護士」による懲戒扇動騒動にしても『問題意識は手段を正当化しない』のではありませんか?例えば、社会のありように問題意識を持っているからといって『大地の牙』だの『狼』だの『蠍』のような行為が容認される余地はないのではありませんか?
信じて進んだ道が誤りだったのではないかと深く思い悩んでおいでのことは理解いたしますが、引き下がってはいけないところまで引き下がってしまうような、自傷行為めいた振舞いは、好ましいこととは思えません。

No.72 惰眠さん

「手段を正当化しない」のくだりは全く同感です。今枝弁護士の行動はどうにも振幅が激しくて、せっかく大筋では支持しているのに不安でしかたがありません。橋下弁護士からの手紙のくだりにしても、見る人によっては「調伏されたのか」と受け取りかねません。
「弁護側主張内容には納得しないが、懲戒請求扇動は非難する」というスタンスを守ってきた私にとっては、正直言って「今更それはないやろ!」という感じですね。
例の番組にゲスト出演するそうですが、氏の動きをずっと見てきた私たちにとって見るに堪えない結果になるような予感がしてなりません。

No.72 惰眠さん

私には、その方法は浮かびません。否認が本物ならいいのですが、嘘否認でしかも残った部分の反省をいくら言っても、先述したような理屈しか浮かばないし、それもどれだけ効果があるのか・・・


ところで、A殺人事件で、被告人に無罪判決を勝ち取った弁護士がいました。検察は上告を諦め、判決は無罪で確定しました。
ところが、その被告人は今度は全く別件のB殺人事件をしでかし、今度の犯行は争えなかったようです。
それまでその弁護士は「人権派」として通っていたらしいですが、彼はこの後、A事件も彼の犯行ではないかと思う旨を公言してしまい、結局彼は弁護士会から懲戒処分を受け、日弁連も支持しました。彼は週刊誌コメンテーターの常連の一人です。

今枝弁護士自身が訴訟を取り下げるのはいいとして、たかじん委員会に出演するのは今枝弁護士がA事件の弁護士と同じ轍を踏んでしまうような気がしてなりません。あそこは、紀藤弁護士や菊田教授がつるし上げられた場所でもあります。橋下氏がいないとしても、彼らのバッシングに加担した連中は健在です。しかも、不安定になっているのが感じられるだけにますます心配です。
テーマが「総括」と言うことですが、報道関係の総括も同時にするのならいいのですが、あの番組がそこまでするかどうか。宮崎氏あたりがどこまで抑えてくれるかに希望を託すことになるかもしれません。

No.74 風の精霊さん

連合赤軍の「総括」だったりして。

>No.74 風の精霊さん

やはり困難極まりますか・・・。

私個人としては、本件犯行については差し戻し高裁審の判決は妥当であると感じていますし、「ああいう主張をしてくれたお陰で、スンナリ死刑判決が下せることになって有難し」とさえ思うのですが、他方で被告人の幼児性まで含めて全却下したことには(論理の構造としての必然性は理解してますが)些か収まりの悪さを感じていますもので・・・。


それは兎も角、今枝さん、問題の番組にも出るんですか。
ますます以って、自傷・自罰によって償いとしたいと考えているんじゃないかと感じられてならないのですが、ものっっっっすごく懸念していることが一つあります。

橋下氏の『問題意識』を是としてしまっているような心理状態で出演した番組が放送された場合、選りにも選って騒動の当事者が、視聴者が持ったままでいる『刑事事件弁護に対する誤った認識を、さらに補強し確信させる』という、最低最悪の状況を作り出すのではないか。

ひとり今枝氏が吊るし上げをされるのならばまだしも、この懸念があたったときに被害を蒙るのは、刑事弁護活動全般ですよ。取り返しつかないような重大な結果を招きやしませんかね。

橋下氏の、法律家弁護士としては明らかにズレた問題意識や、それに基づくまるで筋違いの行動に理解を示すなんてことだけは、絶対にやっちゃいかんと思うんですが、ブログのエントリを見るとそういうことをやりそうに思えて、大変に心配です。

私としては、判決は妥当だったのではないかと考えています。
今回の高裁での審理については、弁護方針(弁護人の述べた事)について、現時点において真に被告人がそのように考え、また弁護方針についても納得の上の事であったなら、それで良かったのではないかと感じています。
検察側、弁護側(被告人含)がそれぞれ主張したいことを主張し、裁判所がそれらを丁寧に検討して判決を言い渡したのなら、それで良かったのではないかと感じています。
一方で、弁護側の方針(主張の内容)や被告人の証言の信憑性、等々いささか据わりの悪さを感じる点が無いわけではないのですが。

ところで、今回の判決と報道を見ていて考えさせられた事なのですが、犯行後の反省や改心等という心情の変化というのは判決に当たってどこまで斟酌されて然るものなのでしょうか。
犯行に至る経過とか周辺事情とか、犯行時点において斟酌する必要のある事情があって量刑が考慮されるのは解るのです。また犯行直後(あるいは裁判開始前)に反省や後悔や改心といった心情の変化があった場合にも考慮される部分があるのも解るのです。
ただ今回の事案で言えば、拘置所で書いた手紙や現在の反省の態度が醸成されつつあるという主張がいずれも被告人の本心によるものであった場合、犯行後相当長い時間を経て(あるいは裁判の過程を経て)心情の変化があったと私は感じます。
勿論時の移ろいや環境の変化で心情が変化すること自体は否定するわけではないのですが、犯した罪に対する刑を考えるときこのような長期の期間を経て醸成された反省の情というものが、はたしてどこまで考慮されて然るものなのかという事を考えてしまいました。

どうやら私は少数派のようですね(笑)。死刑と言う量刑には反対しませんがこの裁判官の審理と心証にはまったく同意できませんから。

私は今度の判決は1審2審の裁判長の行なった審理を実質糾弾するものになったと思います。しかも法的根拠なく。

というのは、新供述を全否定したことで犯行そのものの事実認定は1審2審の事実認定をすべて肯定せざるを得なくなりました。そのうえで1審2審の裁判官が得た心証から情状酌量して無期判決としたものを、今度の裁判官はまったく同じ事実認定しかしていないから同じ心証を得たはずなのに、犯行は法に照らして情状酌量の余地がないと真逆の判決したわけです。

刑事裁判では犯行そのものについて司法判断されるべきで、事実認定が同じなら前審での被告人に反省の態度があるや無しやは犯行そのものについての「心証」に影響を及ぼしてはならない筈です。法廷での反省の様子の有無を情状を認めるか認めないかの判断材料にすることは、司法の「心証」に後知恵バイアスをかけることになり、正しい心証が形成されたとはいえなくなるでしょう。

また、もし今回の裁判官が法廷での被告人の反省の有無を心証形成に用いていないのであれば、今度は前の1審2審の裁判官が情状を認めたことはいかなる法律によって不適当とされるのか、その法的根拠を判決事由のなかで示す必要があると思います。
そうしなければもともと最高裁の命じた情状の判断のやり直し命令が法律的に根拠のあるものであったという証拠がなくなるでしょう。

こんな判決が続けば結局のところ控訴審が開かれればその都度根拠なく「心証」が変るのが日本の刑事裁判官の特徴であると世間に認識されることになっても、証拠を挙げて反論することができなくなるでしょう。
さすれば国民が司法への信頼を回復することなど夢にも現れないほど遠い出来事になってしまいませんか。

ついでに余談ですが、もし私がある刑事事件の裁判員に選ばれて一緒に評議する裁判官を選べるとしたらこの広島高裁裁判官は忌避すると思います。福岡飲酒運転追突後幼児溺死事故を裁いた裁判官なら受任すると思いますが。

>私は今度の判決は1審2審の裁判長の行なった審理を実質糾弾するものになったと思います。しかも法的根拠なく。

法的根拠というか、それは最高裁判決が根拠となるのでは?前審を否定してますから。

>>No.79 YO!!さん
情状というものは裁判官の人情によって決まるものではなく、法律にもともと規定されているものだと思います。どの法規定を適用するのがよいかを、事実審理の中で得た心証を基準にその事件個有の状況を鑑別して、裁判官の裁量で決定するのが情状だと思っています。
最高裁が情状判断がおかしいからやり直せと言った時、審理からやり直さなければ情状判断のやり直しは出来ないし、事実審理がやり直されても前回と全く同じなのであれば心証も同じはずだのに、情状判断だけが変わるのは論理的におかしい、と私は考えました。

>刑事弁護活動全般ですよ。取り返しつかないような重大な結果を招きやしませんかね。

 すでにそういう段階は、はるかに通り越しているように思われます。広島高裁の判決要旨を読んだ余韻では、まるで偽証教唆を暗示しているのではと思えるぐらいですし、冷やかな目で見ている国民が過半数を越えているのではないでしょうか。

No.78 ぼつでおk(医)様

私も>No.79 YO!!様と同じくそこへの疑問の投げかけになると思いますし、
>この広島高裁裁判官は
ではなく、最高裁判所の裁判官(判事ですか?)への疑問・批判になると思うのですが?(当然、その感覚に追随した広島高裁裁判官も含めてだとは思いますが・・)

>法の「心証」に後知恵バイアスをかけることになりをかけることになり

自己レス(NO5)にも書き込みましたが、司法や世間の感覚として、そのようなことが生じて来る事(可能性)は全く否定されるべきなのでしょうか?

ぼつでおk(医)様が仰る意味合いも解らなくはないのですが、情状面の量刑への反映という物が、すべて法律文章として表現できるものなのでしょうか。

>>No.82 Oさん
>最高裁判所の裁判官(判事ですか?)への疑問・批判
最高裁への批判としては差し戻しでなく自判すればよかったのではないですか、というにとどめたいと思っています。すなわちお尋ねへのお答えとしては広島高裁裁判長裁判官への批判です。

>司法や世間の感覚として、そのようなことが生じて来る事(可能性)は全く否定されるべき
司法は常にそのようなことにならぬ可能性を最大限に追求する責務があると思います。たとえば「心証」を形成するにあたって「私知」の利用を禁じられていることなども責務遂行に資するゆえでしょう。倫理というようなものでしょうか。うまく言えませんが。

No.83 ぼつでおk(医)様
レスいただきありがとうございます。

>司法は常にそのようなことにならぬ可能性を最大限に追求する責務

私は被告の立場になってみて、裁判に掛かる時間の長さによる情状面(これが後知恵バイアスだと思うのですが)を量刑に反映される可能性があるのかな?という疑問が出ただけでして、上記引用部のお考えについては、その通りだと思う次第です。お手間をお掛け致しました。

ぼつでおk(医)さん>>裁判では犯行そのものについて司法判断されるべきで、事実認定が同じなら前審での被告人に反省の態度があるや無しやは犯行そのものについての「心証」に影響を及ぼしてはならない筈です。法廷での反省の様子の有無を情状を認めるか認めないかの判断材料にすることは、司法の「心証」に後知恵バイアスをかけることになり、正しい心証が形成されたとはいえなくなるでしょう。

すみません。たびたび、議論をもちかけてしまいます。。決して悪意があるわけでなく、ふとわからないことがあるのでお尋ねしたいと思うだけですので、ご容赦ください。
事実認定自体は心証によります。そもそも事実がどうであったかは、証拠により基本的に「推認」でしかわかりません。当然ですが。そして、その推認は裁判官の自由な心証によるわけですが、まったくの手放しの自由というわけではなく、「合理的」な「経験則」によらなければなりません。この合理的な経験則に反する事実認定(自由心証)は許されないとされているようです。
そこで、まず「事実認定が同じなら前審での被告人に反省の態度があるや無しやは犯行そのものについての「心証」に影響を及ぼしてはならない」という点がわからないのですが、本判決は被告人の反省の態度を犯行事実自体の事実認定の材料としているのでしょうか?情状に対する証拠として使用しているのはわかるのですが。

次に、「法廷での反省の様子の有無を情状を認めるか認めないかの判断材料にすること」の点ですが、本判決における情状とは、「死刑を回避する特段の事情」であり、「犯行事実がいかようであったかではない」と思います。最高の判断はそれを示していると考えられるのですが。とすれば、死刑を回避する特段の事情として、被告人の反省の態度を情状に対する証拠として使用することに問題は感じないのですが。

あと、1審、2審について述べられていますが、最高はこれらについては、「死刑を回避する情状として足りない」と判断していると考えられます。とすれば、事実認定が一緒で全く何も変わらないのであれば、最高の判断に拘束されるので無期とはできず死刑となります。
このように考えると、むしろ最高は「後知恵でも何でもいいから、特段の事情の有無を検討してくれ」といっているのではないでしょうか?最高はその特段の事情次第によっては無期になりうることを示しているともいえると思うのです。
高裁の判断については、特段の事情がなかったという判断です。この判断が「合理的」な「経験則」、たぶん、常識という程度の意味だと思いますが、これに反していなければ何ら問題はないと思います。

どうでしょうか?

>>No.85 とおりすがりですさん
おっしゃることはよくわかります。
私は将来裁判員に選ばれたとき裁判官の仕事である事実認定と判決と量刑を担当することになるので、現在行われているこの裁判でもそれらが実際どのように行われたかという点に最も焦点を当てて論じております。
お尋ねの点についても専門家の如くお答えすることは出来ませんが、自分が裁判員という先述の3つの仕事を責任をもって果たすため自分なりに必要と思うフェアネスの論理を基礎に用いて、お答えを試みたいと思います。

まず
>事実認定自体は心証によります。
この心証という用語について、私は違う解釈を致しております。すなわち、事実認定を行うというのは証拠や供述(自白調書を含みます)を検討して虚偽や誤認、誤解の部分をそぎ落としていき、残ったもののみを事実として審理の材料に用いる作業であると考えています。このときに快不快や好悪の旧皮質的原初感情的判断を用いることは事実認定そのものを誤らせる危険が大きく、やってはいけない事だと思います。これを自ら訓練して感情を抑制して事実だけを抽出し何がどう行われたかを合理的に再構成できるのが職業裁判官の事実認定であると考えます。すなわち、提出された証拠や供述が同じなら訓練された裁判官は他の訓練された裁判官と同じ事実認定を行うということであろうと思います。事実認定後に再構築された犯行の全経過について刑法に照らし合わせていき、どの行為がどの時点で刑法に触れたかを検討してゆきます。この頭の中の作業において、ある行為が刑法に触れたと認定した場合に形成されるのが裁判官職の「心証」ではないかと私は考えています。
一般的な道義心や思いやりの心や邪まな心はたまた清らかな心という場合に用いられる「心」と同じ文字が含まれますが、「心証」という場合それらの心とは語義においてまったく通じるところのない論理学的に定義された用語であると思って使用しています。

同じように情状という言葉も一般的に人情や同情、情愛などに使われていると同じ「情」という文字が含まれますが、裁判官が情状という時一般的な情け深さのような人間的感情という語義はまったく含まれてはならないと思います。法律にいろいろな場合に対処する規定が予め作られており、どれを適用するかは裁判官の裁量に任されておりその適用の仕方によって量刑に際して情状が現れたり無かったりする性質のものなのではないでしょうか。

このように訓練された事実認定能力を持ち、法律について造詣が深くどの法を適用するべきかを心得て、量刑に当たって裁量が認められる。それゆえに裁判官は他の裁判官に対して独立して司法を行う存在です。
地裁の裁判長も最高裁裁判官も裁判官としては法に背かぬ限り互いに対等でありましょう。司法官として自分は高裁裁判官にすぎず最高裁判事のほうが地位的に高位だから、最高裁判事と同じ情状判断をせねばならないということはなく、事実認定も自分でやり直してから独立した司法官としての情状判断を示せばよい。
今回の場合弁護側から新供述が出されて1審の事実認定から争われる裁判となった以上、前審の心証から変わる可能性があり、新供述の事実認定は逮捕直後の第1審のつもりで虚心坦懐に念入りに検討しようと裁判官が考えなかったとしたら、私としては司法の仕事に対する信頼感を非常に失います。

なんとかお答えしようと書き始めましたが、やたら長くなるばかりで何をか況やの駄文になってしまいました。サーバー負荷を無駄に増やしただけかも(笑)。
いったん括らせていただいて、続きは場外ででもぼちぼちにということで勘弁してください。
皆様お目汚しまことに失礼致しました。

丁寧なお答えありがとうございます。
言葉の定義、制度のあり方、現在の制度に対する理解の仕方が多少異なっていたものと思います。
いずれにせよ、このようないろいろな意見や思想が多くの方に触れ、考える機会があったという意味では、今回の事件はその代償は被害者にとっても被告人にとっても大きかったとしても、本来はこのような事件がないのが良いに決まっているのですが、意義があったのかもしれません。
ありがとうございました。

かなりひさしぶりの書き込みです。

議論が錯綜しているときには,根本的な用語の意味づけが違っていることが原因だったりします。

そのような行き違いを減らすためにも,ここで書き込みされる方あるいはROMされる方には,
日弁連のプロジェクトチームによる「法廷用語の日常語化に関するPT最終報告書」
http://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/program/nichijyougoka.html#book
を一読されることをお勧めします。

議論の余地はありますが,法曹が使っている用語が分かりやすく説明されていると思います。

ちなみに「情状」は,
「被告人の有罪及び罪名が決まった上で,刑を決めるために考慮すべき具体的な事情
但し,情状酌量の場合の『情状』は,『被告人の有罪及び罪名が決まった上で,刑を決めるために考慮すべき被告人にとって有利な具体的事情』」
と説明されています。

また,「法律家のための解説」部分では,
「『情状』という言葉には,『かわいそうだから同情する』といった情緒的な判断を連想させる可能性があります。たしかに,『情』には『心』の意味がありますが,しかし,裁判の基準としての『情』には,それ以前に『事案の具体的事実関係を指す』という意味がありました(滋賀秀三『清代中国の法と裁判』(1984 年)286 頁参照)。それは法の一律的適用による不都合を,事案の個別事情を考慮することによって修正するという考え方を含意しています。」
と記載されています。

ご参考までに。

瀬尾佳美さんのブログ記事についてですが、青学の学長が以下のようなコメントで謝罪しています。

本学教員のブログ上の記述に関する学長見解

http://www.aoyama.ac.jp/news/256.pdf

彼女は「強い女」であったかもしれません。
しかし何事も無いように受け流していくことは学長が許さなかった。
そう解釈できます。

「強い女」かどうかはこの際関係ないでしょう。「辛口」ということの意味も本質的に取り違えているだけかと思います。
先日、デーモン小暮氏が「ブログでの不特定多数の人にアピールする言葉には極力配慮せよ」という至極ごもっともな注意をされてちょっと話題になりましたね(悪魔?が人間に正論を言うとは・・って(笑)。
この准教授も大学教員でありながら、その程度の常識をわきまえていなかったとは驚きです。彼女が批判した橋本氏と自分も同レベルかそれ以下の言動を取ったことが分からないのでしょうか?
このような心無い発言が、それに対する反感を通してまっとうな死刑廃止派の方の足を引っ張り、刑事弁護に対する一般庶民の誤解を誘発し、感情論を煽る遠因になっていると私は考えています。

>このような心無い発言が、それに対する反感を通してまっとうな死刑廃止派の方の足を引っ張り、刑事弁護に対する一般庶民の誤解を誘発し、感情論を煽る遠因になっていると私は考えています。

それが狙いなんじゃないすかw?

私も「言論・表現の自由」を最大限に支持する人間ですが、TPOをわきまえることは必要だ、と思います。ある種「酒の上の与太話」的な内容を、不特定多数の人に向けて発信するのはいかがかなものか、と思います。もちろん、その発信者がどのような思想信条をお持ちであろうとご自由です。ですから、気に食わない内容だから、といって「炎上」させたり「学長名で閉鎖」してしまうのもどうかな?と思っております。

引き上げします。

「光市母子殺害事件差戻審判決」4月23日

それでは・・・。

NO.94へ

先ほどmatimulog経由で、裁判所jpに判決全文が掲載されたことを知りました(pdf

ザーッと目を通しただけですが、印象深かったのは判決理由最終盤の

これらの虚偽の弁解は,被告人において考え出したものとみるほかないところ,当審公判で述べたような虚偽の供述を考え出すこと自体,被告人の反社会性が増進したことを物語っているといわざるを得ない

あたりです。

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