エントリ

 光市母子殺害事件の死刑判決に関連して永山判決の死刑基準というものが問題にされています。

 永山判決の詳細については、判例サイトに直接あたっていただくことにして、死刑判断の基準について判示している内容は

結局、死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。

というものです。

 この判示は二つの部分に分けられます。

犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状(以下、前段)

その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合(以下、後段)

の部分です。

 私は、以上のうち、死刑判断のための基準と言えるものは、後段の部分であって、前段はその判断のための着眼点を具体的に示したものであると読みます。

 前段においては、どんな「犯行の罪質」のときに死刑に処すべきか、どんな「動機」のときに死刑に処すべきか、どの程度の「執拗性・残虐性」のときに死刑に処すべきか、「被害者の数」が何人以上のときに死刑に処すべきか、どのような「遺族の被害感情」、「社会的影響」のときに死刑に処すべきか、「犯人の年齢」が何歳以上のときに死刑に処すべきか、どのような「前科」、「犯行後の情状等各般の情状」のときに死刑に処すべきか、という点については何も述べていません。

 後段では、「その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合」とは言っていますが、やはり具体的な基準は読み取れません。

 結局、永山基準というのは、前段で指摘した諸情状に照らして、「死刑に処すべきときには死刑に処すべきである。」としか言っていないように読めます。

 要するに、永山事件とは別の事件に永山判決の基準を適用したとしても、自動的に死刑に処すべきか否かという結論は出てこないと言えます。

 以上の理解に立てば、光市母子殺害事件の死刑判決について、判例違反を理由とする上告は説得力が乏しいことになります。

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光市母子殺害事件差戻審判決エントリの No.35 にて、専門外にも関わらず私がシャシャリ出て投稿をしてしまい、失礼致しました。

モトケンさんの本エントリ本文を改めて読んでみると、さすがに刑法がご専門だけあって、素人にも理解しやすく上手くポイントを解説するものだと感服致しました。

>No.1 法務業の末席さん
法務業の末席さんのコメントとモトケン先生のエントリーは永山基準に対する理解を深める上で非常に参考になると思います。
差戻し審判決について「永山基準を無視した安易な死刑判決」とか「極端な厳罰方向に傾いた」とか見当違いなことを言っている方は是非読むべきだと思います。

 お久しぶりでございます。

 そもそも永山基準には、「4人なら死刑」なんてことは何処にも
書いててないわけですよね。たまたま永山事件の被害者が
4名だったから、何となくそんな感じに思われてたというだけで。

 「4人殺して無期」なら永山基準に反することになりますけど、
「2人で死刑」は別に反するわけではないと思うのですが
どうなんでしょう。

>法務業の末席さん

 感熱紙さんに先を越されてしまいましたが(^^;

 統計資料のご紹介は、裁判所の感覚を考える上でとても有益だと思います。
 ありがとうございました。

>No.3 ミ ´Å`彡さん

 二人で死刑は判例違反にならないと思います。

 なお、死刑と被害者の数の問題について、以前に

 「被害者の数と死刑について

 というエントリを書いています。

 もとより、これが死刑の判断基準の全てではありませんが。

こんにちは、初めて投稿させていただきます。
本文を読ませていただきました。今ひとつわからないところがあるので質問させていただきます。
本文の主旨は、「死刑に処するか否かを自動的に判断するような具体的な基準はもともとなく、あるのは死刑に処すべきときは死刑に処すべきという基準だけであるから、判例違反という上告理由は説得力がない」と理解したのですが正しいですか?

>No.6 まるさん

>本文の主旨は、「死刑に処するか否かを自動的に判断するような具体的な基準はもともとなく、あるのは死刑に処すべきときは死刑に処すべきという基準だけであるから、判例違反という上告理由は説得力がない」と理解したのですが正しいですか?

 このあたりの言い回しはかなり微妙な問題を含みそうですが、ざっくばらんに言うとそんな感じです。

 永山基準、死刑適用基準、死刑選択基準は、基準という言葉を使っていますが、刑罰として死刑を選択する場合には、慎重にしすぎてもしすぎることはありませんから、判断材料としての要件を分かりやすく挙げたものだと思っています。

 別スレに書きましたが、以下の11の要件があります。

 1 犯罪の性質  2 殺人の計画性  3 犯罪の主導性  4 犯行の動機、及び動機への情状  5 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性  6 結果の重大性、特に殺害された被害者数  7 遺族の被害感情  8 社会的影響  9 犯人の年齢  10 殺人の前科  11 犯行後の反省などの情状

 要件に挙げられている被害死者数も1要件ですし、加害者の年齢、殺人前科の有無も1要件です。ただし、どの要件がどれくらいのウェートを持っているのかは謎です^^;;ですが、これらの中には、犯行時のことで、いくら年月が経過しても変わらないのもありますが、逮捕後、起訴され、刑が確定するまでに変わっていくのもあります。

 (年月が経過しても変わらない要件を太字にしてあります。)

 ちなみに、8 社会的影響は、被害者の立場が加害者から見て公共性が高いか低いかですので、被害者加害者の関係が身内であれば、公共性は低くなりますし、まるっきり縁がない第三者とか無差別殺人のようだと誰が被害者になるか分からないので公共性が高くなるというようになります。懲戒扇動みたいな社会的影響とは意味が違いますので、これも変わらない要件の方に入れてあります。

 私は、刑法改正後にどれくらい重罰化になっているのかを実際の判決で見て分かるように、ネットで判決例が配信されるようになった2005年6月くらいからデータとして残していますが、光市事件の上告審で破棄差し戻しの件も、そんな中でありました。

 ニュースで配信された内容だけですが、最高裁の判断を見た際に、「被告の言動、態度を見る限り、罪の深刻さと向き合っているとは認められず、犯罪的傾向も軽視できない」「少年だったことは死刑選択の判断に当たり相応の考慮を払うべきだが、犯行態様や遺族の被害感情などと対比する上で、考慮すべき一事情にとどまる」とありました。

 遺族の被害感情というのは、元々要件に入っていましたが、それほど重視されていたとは思えないような判決が多くありましたので、ようやく被害者遺族の感情も要件としてそれなりのウェートを占めるようになったんだな。とその当時に感じた次第です。

 なにしろ1983年の永山判決以来、少年に対する死刑判決は、犯罪態様も悪く、遺族の処罰感情がいくら大きくても、4人以上の場合にしか適用されてこなかったという事実がありますから、すごい判断だと思いました。

 旧一審二審で事実認定を争ってこなかったという事実があるのですから、要件の内の不変な部分については何ともしようがありません。ですが、最高裁のこの判断だと、7 遺族の被害感情 と 11 犯行後の反省などの情状 という、状況次第によっては変わる要件について言っています。

 光市事件の被告の動向によっては、最高裁が破棄差し戻しを決めてから差し戻し控訴審までの間でも、この2つの要件は変動しますから、もし、死刑を回避するのなら、ここしか無いな。と思いました。

 差し戻し控訴審では、この2つの部分について、逆効果となるような状況でしたので、裁判官にしてみたら、変動する部分だし、最高裁の判断でも残しておいてくれた部分だから、そこに死刑回避するための情状を見出そうにも、見出せなくなってしまったと思います。

 あの判決理由の中の「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったというべきである。」という言葉が、裁判官の素直な気持ちを表していると思いました。

 (あくまで私が集めた刑法改正されてからの3年くらいの間の、殺人罪、強盗殺人罪適用事件になっている約500例ほどのデータの中からですけど)要件を当てはめてみて考えているからでしょうが、死刑が止むを得ないと思われる事件については、被害死者が1人でも死刑判決(求刑死刑)が出ていますが、当てはめてみても死刑が止むを得なくないと思われる場合には、被害死者6人でも無期懲役(求刑無期懲役)になっていますし、罪質が悪い強盗殺人未遂罪は、被害死者ゼロでも無期懲役になっていた場合がありました。

 ちなみに、この6人というのは、無理心中で殺人罪適用が5人、嘱託殺人罪適用が1人を合算していますから、一概には言えませんが、被害者は家族ばかりでした(家族だけですので、公共性は低くなります)し、被害者遺族=被告になったのですが、自分を死刑にして欲しいと言っていましたし、犯行後猛省していたようです。被告だった人の年齢を考えると、寿命で死ぬ日が来るまで、贖罪の気持ちを持って自分が手をかけた家族の御霊を供養するよう無期懲役になったような気がします。

 私もどういう事由で上告したのかを知りたかったのですが、判例違反だったのですか・・・

 永山判決以降少年犯罪に対して、4人以上の場合にしか死刑は適用されてこなかったという事実はありますが、3人以下でも要件と照らし合わせて刑罰に死刑が止むを得ないという判断に至れば、どうしようもないです。

 なにしろ、死刑判決になった事例は、永山判決だけでなく、いくらでもありますし、それらは、全て要件と照らし合わせ、死刑が止むを得ないという判断に至った事例ですから、今回のようにあれだけ丁寧に要件について押さえてあるようでは、手も足も出ない状況と同じですからね。

 相手に対する思いやりの気持ちがあれば、罪を犯すようなことや罪に問われてしまうような行為をすることも減ると思うのですが・・・

 死刑という刑罰に該当する(該当してしまう)ような犯罪行為を犯す(犯してしまう)人が、少なくなるような世の中に早くなってもらいたいと心から願いますね。

>死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったというべきである。」という言葉

 この部分、弁護団がすべてぶち壊しにしてくれた、と聞こえてならないのですが、どう考えても。

>死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったというべきである。」

情を排して冷静に法にのみ照らして心証を形成せねばならないであろう裁判官職にしては、えらく感傷的な審理お手上げ宣言をしたものだなあという印象ですね。

ここからは脱線して余談ですが、私が裁判員としての評議に参加したくない理由の一つに、評議に加わる裁判官を裁判員のほうからは選べないことがあります。評議は多数決ですから裁判官と意見が対立した裁判員は、多数決で敗れると自分が反対した判決の責任を被告人に対して負うことになります。そんな連帯責任が人間として負えるものでしょうか?
民事裁判では裁判官を忌避することが認められているのですから、裁判員も裁判官を忌避する意思を表明すれば裁判員を受任しなくてもよいとするべきではないでしょうか。

 私も、実際に10数人の裁判官を面前に審理を受けた経験がありますが、確かに個性が感じられました。それは検察官、弁護士も同じだと思いますが。
 まあ、プロであるだけに共通した判断基準や取り決め事項はあるのでしょう。
 私は、裁判官については、あまり重視していません。なぜなら、当事者主義の訴訟構造的にも資料を提供するのは検察と弁護人だからです。検察が腐った素材を持ち出し、弁護人が何一つ裁判のあり方について、説明していなければ打つ手なしです。
 昨今は、このようにネットで広く情報が出回っているので、環境はまったく異なっていると思いますが、それが検察、裁判所が裁判員制度を推進する理由、動機の一つとも考えています。

脱線したので場外へ行きたいと思います。
http://jbbs.livedoor.jp/news/3910/#1

No.2 感熱紙(モバイル)さま

>差戻し審判決について「永山基準を無視した安易な死刑判決」とか「極端な厳罰方向に傾いた」とか見当違いなことを言っている方は是非読むべきだと思います。

しかし、プロである安田弁護士が記者会見という公式の場であのようなコメントをされているので、そのような見方をされる方がでてくるのはやむをえないのかとも思いますが。

>No.13 北風さん
それだと、橋下弁護士と懲戒請求者の関係と同じ構図になるんですよね。
まあそうなる事は予想してましたが。
しかし、弁護側は差戻し審で情状による死刑回避ではなく傷害致死(死刑適用無し)を主張していたはずですから、第一に裁判所の事実認定に抗議するべきなのに、死刑判決に対し永山基準がどうのとか厳罰化がどうのと言う話を持ち出すのも妙な話なんですがね。
まさか、傷害致死を主張しておきながら、裁判所が情状により死刑回避することを期待していたんでしょうか?

>No.8 まささん

あの判決理由の中の「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったというべきである。」という言葉が、裁判官の素直な気持ちを表していると思いました。

 裁判官の深いため息が聞こえてきそうです。

 すでに同様の意見が述べられていますが、私も、もし被告人の姿勢が一貫していたならば、少なくとも裁判官の悩みははるかに深くなっていたのではないかと思えます。

 常々疑問なんですが、「裁判は情を排して行ふべし」っていう論調は
「情」状酌量で減刑する際には出てこない気がするんですが、
減刑するときの「情」と「情を排して」の情ってのは別物なんでしょうか。

 それから永山基準にも「遺族の被害感情」とか「残虐性」とか
計量・定式化できないものが含まれているんですが、だったら
永山基準も「情を排して」の論から批判されるべきものなのでは?

 勿論、顔を真っ赤にして「吊してしまえ」みたいな脊髄反射的な
反応は排すべき、という点に異論はありませんが、よくある議論での
「情を排して」の論が、刑罰を軽くする方向のみに用いられることに
どうにも違和感というか、恣意的なものを感じてやみません。


 正直、ある犯罪者の生い立ちが悲惨であったとして、そこに
「そういう人生を送ってきて可哀想だから今回限り大目に見てあげよう」
という減刑は、同意できるかはともかくとして、心情的に理解できなくも
ありません。しかし、そうした減刑が感情的なものでないとするなら、
「悲惨な生い立ちの者は犯罪を犯す性向にあるから責任が減ぜられる」
とでも解釈すべきなのでしょうか。

>No.16 ミ ´Å`彡 さま

 正直、ある犯罪者の生い立ちが悲惨であったとして、そこに 「そういう人生を送ってきて可哀想だから今回限り大目に見てあげよう」 という減刑 (太字表示は引用者による)

「可哀相だから」減刑するのでしょうか。それは違うのではないでしょうか。

生い立ちが悲惨だった為に、道徳観念や社会的規範の意識を身に付ける機会に乏しく、結果として遵法意識が薄い人間として成長した。自己の行いを犯罪行為、すなわち人間として行なってはならない行為、として認識出来る人間性を獲得できなかったのは、その生い立ちが悲惨だった結果であって、その行為の責任を全て本人に帰すことは酷に過ぎる。

故に、生い立ちの悲惨さは規範性の欠如と繋がることにより罪刑軽減に考慮されることがあるが、悲惨な生い立ちで可哀相だから減刑されるのではない。

こういう理屈ではなかろうかと思うのですが・・・。

連投失礼、前投稿に自己レス(追加補足)です

生い立ちの悲惨さは規範性の欠如と繋がることにより罪刑軽減に考慮されることがあるが、悲惨な生い立ちで可哀相だから減刑されるのではない。

この部分、以下のように訂正します。

規範性意識の欠如が生い立ちの悲惨さによる結果である場合に、罪刑軽減が考慮されることがあるが、悲惨な生い立ちで可哀相だから減刑されるのではない。

>規範性意識の欠如が生い立ちの悲惨さによる結果である場合

判決によれば、被告人には前科も非行歴も認められていないとのことなので、規範性意識は特に欠如していなかったといえます。

>No.19 YO!! さま

>被告人には前科も非行歴も認められていないとのことなので

「規範性の欠如」というのは、自分の行動を「悪いこととは認識し得ないこと」という意味で使ったつもりです。すなわち、その行いが「悪いこと」とは理解できないという認識しか持ち得ない本人の人間性、という意味として使っています。
(司法関係者の皆さんは、日頃もっと気の利いた言葉で表現しているのかと思いますが…)

規範性の欠如=悪いことと認識しながらも繰り返す=前科や非行歴の多さ
このような意味合いで受け取られると、私としてはチョット違うのだけれど…、と言わざるを得ません。

>No.20 法務業の末席さん

>規範性の欠如」というのは、自分の行動を「悪いこととは認識し得ないこと」という意味で使ったつもりです。すなわち、その行いが「悪いこと」とは理解できないという認識しか持ち得ない本人の人間性、という意味として使っています。

悪いことは認識し得ないなら、今回の事件以外に別に事件を起こしていてもおかしくありません。18年生きていたわけですから。規範性を欠如していたのになぜその間犯罪や非行を犯していなかったのか、たまたま偶然ということでしょうか?悪いことは悪いことと認識し得たからと思いますが。

>癸横伊〔涯箸遼席 様

確か「非難可能性」というのではなかったでしょうか(うろ覚えですが)

立ち止まることができたのに、立ち止まらなかった行為に対する非難の程度というか度合いというか、主観面部分の考慮である、と聞いた覚えがあります。

間違ってたら、ごめんなさい

判決によれば、被告人には前科も非行歴も認められていないとのことなので、規範性意識は特に欠如していなかったといえます。
不正確な飛躍です。 判決の認定から言えるのは「欠如している」ことは(過去履歴からは)推認できないと言うだけです。 「欠如していない」ことの証明にはなりません。

No.17 法務業の末席さまの理屈に
「生い立ちが悲惨だった為に、道徳観念や社会的規範の意識を身に付ける機会に乏しく、結果として遵法意識が薄い人間として成長した」。したがって、今後良好な環境で改善教育を施せば道徳観念や社会的規範の意識を身に付け、更生できる可能性が高い、という点も補足できるかもしれません。
 個人的には「情を排して」という言葉は「第三者の視点で」と理解しています。感情的にはどうしても被害者に同情してしまいがち(現に光市事件では本村さんに共感というか、「自分がもしこんな立場だったら」と考えて発言する人は多かったと思います)ですが、裁判所はあくまで中立更生に第三者的立場から判決を下さなければならない、という意味だと思います。

「情を排して」の論が、刑罰を軽くする方向のみに用いられること
の理由は被害者に同情する人は多くても加害者に同情する人はほとんどいない結果だと思います。

No.14 感熱紙(モバイル)さま

>それだと、橋下弁護士と懲戒請求者の関係と同じ構図になるんですよね。

今回のことでは、懲戒請求のような直接的な影響はあまりないと思いますが。

 構図というか、素人が誤読でもなくそのまま解釈したら誤っている(早い話が、間違えている)コメントをプロするのが問題なのですが、それが意図的になされているという点です。(技術者でも何でもいいですが、そういうミスリードの発言をした場合、発言したことへのデメリットがあるのですが。)

 そういうコメントをされるとどうしてもそういうコメントをされた方への不信感を持たずにいられませんが、その影響がわかりません。

・刑事弁護への誤解に加えて上記の不信感(特にこの事件においては、弁護団・被告への批判・刑事弁護への誤解が入り混じっているので。(純粋に刑事弁護への誤解が問題であれば、他の凶悪犯罪の弁護側にも非難などが生じるはず)

・今回の弁護団にしろ、橋下弁護士にしろ、意図的にそういうミスリードをされているので、「弁護士というのはそういうミスリードを普通に行う職業なのか?」という誤解(私も今回の弁護団の発言を見て、これが誤解なのか不安になってきました)

>しかし、弁護側は差戻し審で情状による死刑回避ではなく傷害致死(死刑適用無し)を主張していたはずですから、第一に裁判所の事実認定に抗議するべきなのに、死刑判決に対し永山基準がどうのとか厳罰化がどうのと言う話を持ち出すのも妙な話なんですがね。

弁護側の戦術に関わってくるポイントなので、そこを外すということは考えられない・・・。邪推したくはないんですが、「彼の事件を別の目的のために使っている」のではないの?とか感じてしまったりします。

>遵法意識が薄い人間として成長した

という点が認定されないとダメってことでしょう。

既述のとおり、前科も特段の非行歴もないことから、規範性意識欠如していると推認することはできません。

また、父親や義母や兄弟を殺害したというなら、被告の悲惨な生い立ちと関係がありそうに思えますが、今回の被害者との関係性は特に認められません。

その上、今回の事件が悲惨な被告の生い立ちで起こったという合理的な説明はなされていません。

以上から、被告の悲惨な生い立ちとやらは、本件において考慮すべき事情とは認められません。

 永山基準と言うのは、A=「永山基準それ自体」と、B=「Aから派生した判例の積み重ね」を合算したものを言うんじゃないでしょうか。
 もちろん、Aそれ自体は「「死刑に処すべきときには死刑に処すべきである。」としか言っていない」と思いますが、Bを考慮すると、やはり最高裁の考え方はおかしいと思います。

>No.27 名無しさんさんへ

>B=「Aから派生した判例の積み重ね」

Bとは具体的にどのような判例でしょうか?

>No.26 YO!!さん

>既述のとおり、前科も特段の非行歴もないことから、規範性意識欠如していると推認することはできません。

逆(非行歴があるから規範性意識が欠如していると推認する)は成り立ちますが、こちらは論理的に成立しません。
なぜなら、規範性意識がなくとも、たまたま非行に走らなかっただけ、ということもありえるからです。

>また、父親や義母や兄弟を殺害したというなら、被告の悲惨な生い立ちと関係がありそうに思えますが、今回の被害者との関係性は特に認められません。

これもダメです。悲惨な生い立ちだから親族に被害を及ぼすという事実は証明されていませんので、理由になっていません。
親から虐待を受けている場合は、親族以外の弱者に矛先が向くケースがあります。

>その上、今回の事件が悲惨な被告の生い立ちで起こったという合理的な説明はなされていません。

これは同意。

生育環境が悲惨(というか、矯正教育により更生可能かどうか、と言い換えるべきでしょうが)というべきかどうかは個別案件によるでしょう。本件では、被告側に情状面で有利に働くほどの「悲惨」さは認定されなかったというだけかと。

>逆(非行歴があるから規範性意識が欠如していると推認する)は成り立ちますが、こちらは論理的に成立しません。
なぜなら、規範性意識がなくとも、たまたま非行に走らなかっただけ、ということもありえるからです。

18年間たまたま非行に走らなかったという場合は、どっかに監禁されて事以外には考えにくいですが。
私はあくまでも合理的に推認しているだけで、たまたま非行に走らなかったことなどを説明できないのなら、私の推認を覆せないと思われます。


>これもダメです。悲惨な生い立ちだから親族に被害を及ぼすという事実は証明されていませんので、理由になっていません。
親から虐待を受けている場合は、親族以外の弱者に矛先が向くケースがあります。

自分を惨めな境遇に追いやった連中を恨みに思い、あるいはそれから逃れるために短絡的に犯行を犯したというなら理解できますが、他人に矛先を向ける理由は理解できません。なぜ、他人に矛先を向けるのか、合理的に説明できなければ、ただの言い訳に過ぎないと思われます。

>私はあくまでも合理的に推認しているだけ

ありとあらゆる非行行為はすべて警察に認知されているとでも?
非行行為と呼べるほどの非行に現れない可能性は?

貴殿にとっては上記の可能性があったとしても合理的なのかもしれませんが、論理的に破綻している以上、私にはその合理性が全く理解できません。
つまり、裁判官によっては判断が分かれてもやむをえないでしょう。
だから、一応裁判は控訴・上告ができる三審制ですよね。

>自分を惨めな境遇に追いやった連中を恨み・・・
ただの言い訳というご指摘も正しいのでしょうが、一般論として社会に向けた不満に転化することは十分考えられます。論理的に飛躍しているのも事実なのですが、情状としてはある程度は認めざるを得ないでしょう。(おおかた否定的に認定されるとは思いますが、判決で全く触れないほど自明ということは無いですね)

どちらも一定程度は被告側有利な事情として考慮すべき事情になりうることは事実です。問題は、どの程度斟酌するか、それだけです。

#これらは「事件を正当化する理由」ではないことはお分かりですよね?極端な話、情状を認めるということはことはただの言い訳をどの程度認めるか、と言い換えても良いと思うのですが。

>No.31 Airさん

>どちらも一定程度は被告側有利な事情として考慮すべき事情になりうることは事実です。

残念ですが、考慮すべき事情とする根拠は見出せませんが。

貴方の主張はあくまでも私の推測が成り立たないというだけにとどまり、積極的に私の推測を破る根拠(実は以前も犯罪を起こしていたとか、非行歴があった)ということを示しておりません。まして、規範性意識が欠如していたことを示す証拠も提示しておりません。

貴殿としては如何に私の推測を破ったとしても、それだけでは被告側有利な事情として考慮すべき事情になりうることも証明したことにはならないかと思いますが。

No.17 法務業の末席さん

>生い立ちが悲惨だった為に、道徳観念や社会的規範の
>意識を身に付ける機会に乏しく、結果として遵法意識が
>薄い人間として成長した。

 それなら反社会性人格障害の人なんか、もっと免罪されても
いい気がするんですが。
 その手の人達は矯正プログラムも功を為さず、再犯を繰り返す
ことになりましょうが、むしろ厳しく罰せられてませんか。
「サイコパスだから減刑」ってないですよねえ?

 それから、「非行歴がないからといって規範性意識が欠如して
いないことの証明にはなりません」といった意見もありますが、
それなら「規範性意識の低い人」をどうやって見つければ
いいのでしょう。
 規範性意識の低い人を排除するのは自衛権でしょう。
「生い立ちが悲惨」だと「道徳観念や社会的規範の意識を
身に付ける機会に乏しく」、しかも非行歴がないってだけでは
それが確認できないとなれば、「生い立ちが悲惨」な人という
時点で排除するということも許されてしまうのでは。

 触法精神障害者についても似たような問題がありますが、
「この手の人達は犯罪を犯したとしても全き自分の責ではない」
なんていう属性・グループを認めるなら、その種の人に対する
差別的な取り扱いを否定できなくなるのではありませんか?

 例えば、泥酔者の責任能力は減じられたりしますが、泥酔を
理由に入店拒否しても、それは正当な行いとされますよねえ。

>No.33 ミ ´Å`彡さん

えーっと、ちょっと整理しませんか。
まずそもそも、規範意識(または遵法意識)の低いことそれ自体は、裁判において通常非難の対象となります。それも大概は苛烈な単語を用いて痛罵されるに値するほどの非難の対象です。

これに対して、例えば劣悪な生育環境などは、被告人の「被害者性」についての要素です。きょう判決の下った三橋歌織被告になぞらえて言えば、夫による暴力であるとか父親からの時代錯誤な抑圧であるとかです。

なお「非行履歴がないこと」についてですが、これは運転免許の反則点数を考えると判り易いかも知れません。交通反則点数がたまっているドライバー、実際に行政処分を受けた経歴を持つドライバーについて交通法規に対する遵守意識が希薄であると論ずることは可能です。
しかし他方、ゴールド免許保持者はみな遵法意識を具備した文字通りの「優良」ドライバーかと言えば、そうではないでしょう。単に、たまたま検挙されることがなく、遵法意識の欠如が表面化しなかっただけかもしれません。
「非行履歴がない」ことを持って遵法意識・規範意識を云々するならば、「備えていないと積極的に評価する材料はないが、かといって備えていたと積極的に判断する材料もまたない」としか言いようがありません。

>「非行履歴がない」ことを持って遵法意識・規範意識を云々
>するならば、「備えていないと積極的に評価する材料はないが、
>かといって備えていたと積極的に判断する材料もまたない」
>としか言いようがありません。

 論理学的には正しいのかもしれませんが、その論理で言うなら、
「何人たりとも遵法意識・規範意識を持っているとは言えない」
となるでしょう。「違法行為を行っていない」証明はできないんですから。

 例えば本件なら18年、「少なくとも警察のお世話にならない
程度の生活は送ってきた」ことを以て、ある程度の規範意識を
有する見て充分だと思うんですけどね。
 ちなみに「殺すつもりのない人をあやめてしまった後なので、
自殺したいという気持ちのほうが上回っており」と證言してるわけで、
「人を殺めてしまったから自殺する」程度の倫理観はあったようです。


 で、別論として、世の中には「先天的・病的に規範意識を持てない」
人達がいるらしいと。そういう人達は規範意識を持てない事について、
(不遇な環境で育った人以上に不可抗力であろうにも拘わらず)
その結果罪を犯した場合はむしろ重く罰せられる場合がある。
 精神薄弱で犯罪をしたら責任を問われないのに、精神病質で
犯罪をすると重くなるってのはちょっと矛盾してないのかなと。

うーん、論理学的と言うよりは裁判における立証の問題として考えたときに、その証拠がなにを証明するのかと言うことだと思うんですが・・・。
それと、「何人たりとも遵法意識・規範意識を持っているとは言えない」だけではなく「持っていないとも言えない」でしょう。どちらともいえないんですよ『非行履歴がない』というだけの事情からは。
潜在・巧妙・陰湿化する学校における「いじめ」でも、例えば露見すれば場合によっては刑事罰の対象になったり、学校が処分を下したりすることもあるでしょうが、それらが全て水面下で陰湿に行われてた場合、外形的には「特に問題行動も見られない普通の生徒」として扱われると思います。仮にこれっぽっちも規範意識がなくっても。

積極的に「規範意識を備えていた」と評価するならば、その裏づけとなるエピソードを示す必要があると思います。
それと「「人を殺めてしまったから自殺する」程度の倫理観」ですが、それって倫理観なのでしょうか?私には、それを『倫理観』と評価することには強い違和感があります。逃避機制じゃないかとも思いますので。

最終センテンスについては、別に矛盾はしていないと思います。
その理由の一つは、その「認定」を行うのは裁判所であり、医学的な問題と法律上の責任は実は(関連性はあっても)独立であることで、またもう一つには「精神薄弱(今そういう語は原則用いられませんが)」に起因した犯罪(脱法行為)も現に処罰を受けている・・・大阪で子供を陸橋から投げ捨てた精神の発達障害者のケースがありましたよね・・・ことが挙げられます。
詳しく調べれば、もっと他にも理由にできることが見つかるかもしれません。なお病因性であった場合のケースですが、それを法廷で弁護側が正しく立証できれば、それは量刑判断(最も「有効」に作用した場合は処罰不能)に影響する筈です。

もう一度整理しますが、例えば死刑判決が下され執行もされた永山則夫のケースのように、劣悪と呼んでも足りない環境におかれたために社会規範を身につけることのないまま生育した人物というのはありますが、ここで「規範意識の欠如」が被告人にとって有利な情状として作用するとすれば、そうなった経緯に「被害者性」が認められ得るからです。

そして、被害者性を仮に認定したとしても、それが罪一等を減ずるにあたう程の事情であるか否かの判断は、大雑把に言って裁判官の胸三寸だと言うことです。

本件裁判に照らした場合、被告人弁護側はその劣悪な生育履歴を以って精神面の成長の遅滞を主張し、善悪の弁別や現実と空想の切り分けが十分できない幼稚なガキなんで、普通一般の人間にとっては「そんなトンデモな理屈が通るか」と言うようなことでも、犯行時点の被告人にとっては奇異でもなんでもなかった、と言っている(いた)ところ、裁判所に一蹴されたの図です。

横から失礼します。
>>No.36 惰眠さん
>被害者性を仮に認定したとしても、それが罪一等を減ずるにあたう程の事情であるか否かの判断は、大雑把に言って裁判官の胸三寸

の三寸のところをもう少し細かくいうと、ここに刑法39条がかかってくるのではないかと考えています。そして39条といえば私は古代ローマ皇帝マルクスアウレリウスの言葉(首都警察長官への書簡)を思い出すのです。正気を失った本人が刑から逃れるとしても、どのように監視を続けなければならないかについて、哲人皇帝の言葉に誰が反駁できるでしょうか。

他にも日本では死刑から罪一等を減じた場合終身刑ではないという問題があります。国土の小ささから来る問題ですが、日本に住む以上これを意識から除外しての議論はほとんど空論になると思います。

>No.37 ぼつでおk(医)さん

法39条というよりは、更生可能性(別の言い方をすると再犯への危険度)じゃないでしょうか。病因性の触法者について言うならば、治療によって症状が緩解し社会復帰できる可能性。
反社会的な人格が形成されていたり、そこまで行かなくとも規範意識・遵法意識を備えていなかったとしても、教育によって真人間に矯め直すことが大いに見込めるならば「有利な情状」として取り扱い罪一等を減ずる判断につながるのではないかと。

無論、永山則夫が結局処刑されたごとく、更生可能性があるからといって何でもかんでも被告人有利側に天秤を傾ける謂れはないのですが。

>No.33 ミ ´Å`彡 さま

私は刑法38条1〜3項の規定を念頭に、被告人の生育環境によっては故意性の意識欠如を考慮する余地があると解釈しております。その結果として同法66条〜72条の酌量軽減として量刑が減ぜられると認識しております。刑法での刑の酌量軽減というのは、「悲惨な生い立ちで可哀相」という同情心を根拠とするのではなく、「悲惨な生い立ちの結果として悪いことと認識できる感覚を持てない人間に育った」という因果関係の立証が成り立ったときに認められると考えています。

例えば、18歳から飲酒喫煙が法的に許されている国で生まれ育った少年が18歳の誕生日に日本に移住し、直後の18歳と1ヵ月のときに飲酒喫煙して補導されたとします。この場合にその18歳1ヵ月の少年にとっては飲酒喫煙は合法という認識であり、日本に移住して日も浅いことから、生まれ育った国と違って日本では20歳からでないと非合法であることを知らないことも無理ないことだ。よってこうした事情を斟酌して罰則を科さず、日本では18歳での飲酒喫煙は非合法だよという説諭のみで済ます。このように寛大な処分とするのは誰もが納得できることでは無いでしょうか。

これはあくまでも一般論としての論であり、今回の光市事件差戻し審判決については、被告人の生育環境による減刑の必要性はあるとは思っておりません。また刑法39条の心神喪失及び心神耗弱での軽減とは別の軽減事由として論じているつもりです。

そうですね。夫殺害妻の裁判のニュースを見ながら書いていたので間違えました。すみませんです。

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