エントリ

 元エントリの「死刑に対する朝日の見識」でcuriousjudgeさんが紹介したブログエントリですが

 −法相を「死に神」と言ってなぜ悪い−橋本勝の政治漫画再生計画第127回
 (情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊))

 というのがあります。

 橋本勝氏というのは風刺漫画家とのことです(橋本勝の「20世紀の366日」

 橋本氏のコメントとして紹介されている

 凶悪な犯罪のもつ「毒」、そして国家が殺人をするという「毒」、この相反しぶつかりあう二つの「毒」が投げかける重くて深い問いに対しては、風刺のもつ「毒」こそが必要とされる、と切に思うのである。

というのが死刑存廃論に妥当するのかどうかはよくわかりませんが、少なくとも朝日の例の素粒子は、そのようなものではなかったと思います。

 死刑問題を、単に鳩山法相の資質の問題に矮小化し、死刑とその執行を揶揄しただけ、もっとはっきり言えば、ネタにしただけ、という感じです。

 橋本氏の言う

「死刑執行の多さをチクリと刺した」という次元

ですらないよう思います。

 ヤメ蚊先生は

 執行しないという判断も法務大臣としての職務だともいえる。

と言っていますが、元エントリでハスカップさんが紹介してくださった

刑事訴訟法第四百七十五条  死刑の執行は、法務大臣の命令による。  前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

からすると、ともいえるとは言えないでしょう。
 
 死刑執行命令を嫌がっていた法相がいるから、そのしわ寄せが鳩山法相に来ているという面はあると思います。
 鳩山法相のベルトコンベヤー発言も見識の低さでは劣るとも勝らないと思いますが(参考ブログ

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世の中には朝日の素粒子のエッセイで溜飲を下げるどころか「甘すぎる!」とまでいう人までいるわけで、それはそれで個人の思想の自由だですが・・・・ この被害者遺... 続きを読む

私はなぜ「死神騒動」にこだわっているのか。 ことさら世論に逆らいたいというひねくれた動機でも、死刑廃止論を訴えるためでもない。 とりあえず自分が考えている... 続きを読む

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ここんとこずっと書き込みできなかったんですが、

モトケンさん

橋下・・・誤
橋本・・・正

ですよね?

素で、大阪府知事橋下徹氏のことだと思って読んでました・・・

 誤記訂正しました。
 橋本氏に陳謝 m(_ _)m

鳩山発言ですが、一理はあると思います。

ただ,この問題は,こういうことがあります。刑事訴訟法第475条第1項は,「死刑の執行は,法務大臣の命令による。」と。第2項は,「前項の命令は,判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。」と。これは,事実上,守られていないわけですよ。法務大臣によっては,自らの気持ち,あるいは,心情,場合によっては,宗教的なものをお持ちの方もいるかもしれませんが,私は死刑執行をしないという方だって存在します。この問題というのは非常に難しいので,法務大臣が命令をする,法務大臣がはんこを押すか押さないかということが議論になるのが,いいこととは思えないのです。残虐な犯罪を犯し,死をもって償うべしという判決が出て,被害者が嘆き悲しんでいると。ですから,死刑として確定をする。法務大臣がはんこを押す押さないということは,もちろん法改正が必要かもしれませんけれど,法務大臣が絡まなくても自動的に,客観的に進むような方法を考えたらどうかと思うことがあります。
http://www.moj.go.jp/kaiken/point/sp070925-01.html


法務大臣の思想信条により死刑が執行されたり、執行されなかったりと言う現状はおかしいのではないかという問題意識があるようです。死刑が刑事訴訟法475条に基づいて粛々と執行されるべきと考えるのであれば、法務大臣の判断によらず、客観的な基準に基づいて執行するというのも一理はあると思います。


ベルトコンベアーについては、

自動的に何か,ベルト・コンベアーと言ってはいけませんけれど,それは,むしろいろいろな順番どおりということなのか,それとも乱数表なのか,分かりませんけれど。あるいは,どういう方法があるのか,私は分かりませんけれども。客観性のある何かで,事柄が自動的に進んでいけば,次はだれかとか,何はどうだという議論には余りならないとすれば,今の状況では氏名の公表とか,場所の特定は全くできませんけれども,一歩近づくのは,事実ではないですか。

正直、何が言いたいのか理解できませんが、悪意として受け取られた、もしくはマスコミに揚げ足を取られたのではないかなと思います。話し下手は政治家として致命的ですが、発言をマスコミに良いように切り取られたのではないかなと思います。

本質的に考えてみます。


鳩山法務大臣の発言ですが、個人的には重要な意味を持っていると思います。死刑執行にあたり、法務大臣の判断はどこまで重視されるかと言う事です。


個人的には、裁判所で死刑と決まった以上、法務大臣がそれ以上の判断をする必要はないと思います。法務大臣の判断抜きに、死刑を執行するべきではないでしょうか。法務大臣の印鑑より、裁判所の判決文の方が重みをもって然るべきかと考えます。その意味では、刑事訴訟法第四百七十五条を改正し、「死刑の執行は、法務大臣の命令による」と言う条文を削除した方がいいかも知れません。


ただ、裁判所の判断より、法務大臣の判断を重視する人もおられて当然かと思います。裁判所の判断より、内閣の判断の方が信頼できると言う人もおられるでしょう。従って、そのような方々は「前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」と言う部分の削除を要求するべきでしょう。

なお、上記の文章は理想論です。


現実的に考えれば、死刑を執行する、執行しないは、恣意的に考えられるべきかも知れません。諸外国からの反発を避けるために死刑を執行しなかったり、国内世論の反発を避けるために死刑を執行したりでいいのかも知れません。


死刑を政治の道具として使用するためには、今の制度、曖昧な条文と曖昧な運用をそのままにした方が何かと都合がいいというのはあると思います。究極的には、死刑の終身刑化と無期懲役の終身刑化を同時に進行させ、死刑なき死刑制度を確立することになるのでしょうか。


なお、「死刑が政治の道具」という事に反発を覚える方もおられるでしょうが、法務大臣の命令で死刑を執行する以上、現状の日本では、死刑は政治の道具だと思うのです。

 エントリに引用していただいた北海道のプーでございます。m(._.*)mペコッ
 他の刑事判決は,没収追徴を含めて,検察官(通常は検事)の指揮印欄にハンコをついて,または,執行指揮書という正式な書面に記名押印して,執行されます。
 なのに,なぜ死刑だけは,法務大臣の執行命令という厳重な手続きを付したのか? 新刑事訴訟法の起草者團藤重光教授は,要旨「生命を奪うという極限状態の刑であるから,法務大臣の執行命令つまり大臣決裁という慎重な手続きで慎重を期したためである。もちろん,死刑という人の命を国家の命令で奪うという過ちが許されない粛然とする刑であることを特に考慮した。」と講和されたことがありました。
 いま風にいえば,ファイナルストッパー(最終チェック)という屋上屋を重ねた趣旨なのでしょう。それだけ,生命は尊厳そのものなのだと思います。

>>No.5 しまさん
死刑は本質的に政治的であり統治の要諦のひとつであると思います。である以上行政の最高権者である国務大臣が執行に関与しないことが許されるとは思えません。そしてその任に当たる大臣にあって大臣の責務を果たすことは、例えばアメリカであれば憲法と神に対して誓う神聖な行為であり、個人的感傷を差し挟むことは人格的に不適格とされ罷免要求を受けることになりやすいと思います。何を行うにしても孤独に耐えてみずから決して行うことの出来ない弱い精神の人物に業績は期待できないからです。
以上は、本質的に考えれば大臣は選良の中の選良にあたるという観点から論じてみました。

現法務大臣は13人もの死刑を執行しました。これが彼の業績となるか乱行となるかは今後の彼次第でありましょう。まだ在任中ですから現時点で軽々に評価を下すことはできませんが、人の上に立つ者への毀誉褒貶は世の常でもあり、それに対してどういう態度で臨むかを見ていくことが彼の精神力の一端をうかがわせ得る判断材料の一つになることは、これもなかなか否定できないでしょう。

みなさんご存じでしょうが、一応記しておきます。

元検さんは
「死刑の執行は、法相の一存で決まるものではありません。
 法相に執行指揮の決裁を仰ぐ前に、法務省の局付検事による徹底的な確認調査があると聞いています。」
とおっしゃっていますが、過去にいい加減な調査で死刑がなされた事例があります。冤罪で死刑になったと思われる事件です。以下のwikipediaの記述の通り、本当に、日本の司法史上において恥ずべき汚点です。
 
藤本事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

現在、どのくらいの未執行死刑囚がいて、そのうちの何名が刑訴法475条但し書きに該当しているのでしょうか?

僕は死刑制度には反対です(この問題は別の論点ですのでここでは述べません)が、著しく長期にわたる大臣決裁の留保はすべて慎重を期するために行われているのでしょうか?
執行を遅延されている死刑囚には審理について争わず、あるいはすでに諦念に達している人はいないのでしょうか?
中にはすでに高齢の人もいるかもしれません。

もし、そういったケースがあるのならば長期留保(不作為?)は外見的には消極的であっても職務権限の逸脱(超法規的措置?)のみならず、残虐性さえも帯びていると思います。

もちろん、法務大臣はそういう数字や事情をつまびらかにできないということも理解しなければいけないのですが、どうも鳩山氏の言動を見る限り歴代法務大臣の怠慢が匂ってくるのです。
それでは法治国家に人治主義を援用させている制度を害することになります。
大臣の言動は多々拙い面があってわかりにくいのですが、趣旨としては問題提起を図っているのではないかと僕は解釈しています。

それに対する、コラム子の主張には「歴代法相のように署名をしないか、ゆっくりすればいいじゃないか」という欺瞞的な弥縫策以外に何があるというのでしょうか。

>執行しないという判断も法務大臣としての職務だともいえる。

とはいえない状態で、法務大臣を皮肉っても(皮肉ですらないですが)

 新聞社などその状況をチクリと刺したいのであれば、それこそ現状への改案を提案してみればいいのに。

>No.10 Yamakojiki 様

殺人事件について、膨大な資料を個人でまとめられたHP「無限回廊」を是非ご覧下さい。この中に死刑事件について一覧表にまとめたページがあります。このサイトの存在をご存知の方も多いと思いますが、死刑判決や死刑執行を論じるにあたり、これほど資料的価値の高いサイトは無いと思っております。


「無限回廊」トップページ(h抜き)
ttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/m.htm

このサイトのトップページから「事件」をクリックすると、取り上げられている事件の一覧リストが表示されます。そのリストページの下部にサブページの目次となるリストがあります。この中の「死刑確定囚」というページに行くと、死刑判決が確定しながら死刑が執行されていない者をリストアップした一覧表(未執行のまま獄死した者を含む)になっています。

「死刑確定囚」のページ(h抜き)
ttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/sikeikakutei.htm


その他このHPでの死刑執行のリスト「死刑執行者」などでは、既に宮崎勤を含む鳩山法相の6月17日執行もリストアップされており、サイト運営者の更新努力には目を見張るものがあります。

素人意見で恐縮です。
法務大臣が法に定められた期限を守らないことについてさえ、様々な考え方があることを知りました。死刑制度がそれだけ重い問題だからでしょう。

けれども、社会秩序の維持に大きな責任がある法務大臣は、死刑執行を遅らせざるを得ないならば、社会に対してその理由を説明する一方、凶悪犯罪の再発防止については責任をもって対処することを表明して欲しいと思います。その対処の中には、具体的でさえあれば、社会の問題点の指摘や改善要求を含んでもよいと考えます。

以下、素人の浅知恵全開で、思うところを投稿してみます。

死刑に限らず、裁判所(司法機関)は被告人が真に犯行を犯した者であるか否かの認定と科すべき刑の内容を決定するのが職責。
そして、裁判所(司法機関)の判断に則って実際に刑罰を執行するのは、法務省(行政機関)の職責・実際には法務省の地方支分部局。

この役割の分担を念頭に、また行政組織は裁判所の判断に忠実にしたがって刑事罰を加える前提で、刑事訴訟法第475条第1項は死刑の執行という行政権の行使の為の行政権内部の手続き規定ではないか?と常々思ってきました。
つまるところ、死刑の執行命令の決済は法務大臣の専決事項であり、かつ他者の代筆などでなく本人の直筆による命令書が必要、という主旨の「行政権の行使としての重大性に鑑み、かつ予見不能な手違いを防ぐ」意味の規定であると。
刑事訴訟法第475条第1項が現状の条文として制定された時期の時代背景や行政権の強さ等を理解しないままに考えているのですが。

そうした規定の存在が、当初の制定意図を超えて重要な意味を持ってしまっているのではないか?司法権の判断を行政組織の長の判断で「事実上無かった事にしてしまえる」現状について問題はないのか?そうした事を個人的には常々感じてきました。
現在の法務大臣の例のご発言は、言葉の使い方・語彙の選択の問題は別に置いておいて、問題提起の主旨とか本質的な問題点はこのような部分にあるのではないか、そんな事を考えています。

報道機関様におかれましては、日常行政機関の法律から逸脱した部分を厳しく批判されますが、現状の刑事訴訟法第475条に違反した状態が継続している点については、あまり手厳しく仰らないのでしょうか。刑訴法に忠実に職務を遂行された方を非難される事はあっても。
念のため追記させて頂くとすれば、あくまでも法令遵守の立場からの意見です。死刑の存否・執行の是非について意見しているつもりではありません。

>No.9 りょうさん

 そのような事件があったので、同じ過ちを繰り返さないために徹底した確認調査をしているのではないでしょうか。

No.4 しまさん

なるほど、ベルトコンベアー発言についてはマスコミによって切り取られた部分しか知らなかったのですが、前の部分から通して読むとおかしな事を言っているわけではなく、その時の法務大臣の判断によって死刑を執行するかどうかが左右され、事実上法律が守られていないことに対して問題意識を持っているということですね。解決方法に異論があるとは思いますが、考え方の1つとしてはありうると思います。ただ、例えが良くなかった、と。

そう言う意味では、柳澤伯夫 厚生労働大臣の産む機械発言と同種の問題でしょうか。デリケートな問題について話をするのに不適切な例えを挙げる感覚が信じられない、不見識だという批判は甘んじて受けるべきでしょう。ただ、問題なのは鳩山大臣の資質であり、死刑問題の本質とは関係ない話ですね。

今回の「死に神」も鳩山大臣を揶揄するつもりが、ベルトコンベアーと同レベルの不適切な例えを使ってしまい、朝日新聞の見識の低さを露呈してしまったということですね。まぁ鳩山大臣も朝日新聞も、不適切発言は今に始まったことではないのですが。

>No.15 モトケンさん
 
 本当に徹底して調査してくれていると信じたいものです。もっとも、この藤本事件は戦後の事件ですが、戦前ならもっとあったでしょうね。大逆事件とか。あるいは日本以外で、世界中であるでしょうね。

 そもそも冤罪で死刑判決が出ること自体、今後もあり得るわけです。
個人的には、冤罪で死刑判決が出る可能性を防ぐためだけでも、死刑を廃止する十分な理由になると思います。

>No.17 りょうさん

 死刑存廃の議論はこのブログでも断続的に行われています。
 機会があれば、今後も正面から取り上げることがあると思います。

>個人的には、冤罪で死刑判決が出る可能性を防ぐためだけでも、死刑を廃止する十分な理由になると思います。

そうなると、冤罪で無期懲役判決が出る可能性を防ぐためには、無期懲役刑を廃止しないとならない。
冤罪を防ぐ一番の方法は刑罰を廃止することだろう。

>No.9 りょうさん様

冤罪で死刑執行されてしまった疑いが強い戦後の事件と言えば、福岡事件もありますね。
強盗殺人事件の首謀者として死刑執行されていますが、実行犯が「彼は関係なかった」と証言しています。
実行犯が恩赦を受けたその日に、恩赦却下が伝えられ即座に執行されました。
逆さ吊り&水責めにしたり、白紙調書に署名押印させたり、旧刑訴法時代とは言えすごい捜査です。


ヤメ蚊先生は

 

執行しないという判断も法務大臣としての職務だともいえる。

と言っていますが、
刑事訴訟法第四百七十五条  死刑の執行は、法務大臣の命令による。  前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。
からすると、ともいえるとは言えないでしょう。

一応、刑事訴訟法475条2項は「法的拘束力のない訓示規定」というのが確定判例(東京地裁平成10年3月20日判決)ですから、やっぱり「ともいえる」ような気がします。

刑訴法475条は本来、死刑執行については慎重にも慎重を期すという趣旨の規定であって、死刑執行を命ずるかどうかにつき法務大臣の自由な裁量を認めたものではないものと理解しています。

ところが、過去において、職責を果たさなかった法相がいたことから、あたかも、
「死刑を執行するもしないも法務大臣の考え次第」
というような認識(誤解?)が生じているように思えます。
(ヤメ蚊先生の「執行しないという判断も法務大臣としての職務だともいえる。」もその典型例)

そのことが、法務大臣の死刑執行命令にかなりの比重を置いて報じるマスコミの姿勢に繋がっているのではないでしょうか。
(ひとり法務大臣のみが死刑を決めているわけではないのに、最後の引き金を引く役割のみがやたらとクローズアップされるのは、やや違和感があります。)

死刑廃止論の立場からすれば、
「死刑を執行しない」
という法務大臣の判断こそが、まさに刑訴法475条の求めているものである、ということになるのかもしれません。

私は、読者に「死刑執行」を「法務大臣」の責任であるかのような印象を与える記事(やコラム)は明らかにミスリードだと、と思います。また、彼の趣味(蝶の収集)と「死刑執行」を結びつけるのも、すごく「卑怯」な感じがします。
刑法を変えるのは「国会−ひいては国民」の責任です。腐っても「朝日」、正々堂々と「死刑廃止」の論陣を張り、人々を説得し、国会で議論することの国民合意を作ればよい。
あたかも「気の聞いた台詞」であるかのように「死神」と書き流すのは「ピンポンダッシュ」のような無責任な行為であると考えます。

>ひとり法務大臣のみが死刑を決めているわけではない

というか、死刑を決めているのは裁判官でしょう。

 死刑を求刑した検事は教唆犯,市警判決を下した裁判官は共謀共同正犯,それを阻止できなかった弁護人は幇助犯…あと,上訴審の法曹三者は共謀共同正犯か加担犯罪,…ずっと遅れて法右大臣と拘置(支)所長が共謀共同正犯に加わり,実行犯は拘置所職員。これに法務省局付きや各局長(回覧決裁者)が加わり,他の刑罰の執行とはヒトケタ違う人々が加わっていると思います。
 おそらく,どの人も生命刑関与に良心が揺さぶられ,絶対誤りなきを願いながら。

>>No.24 ぼつでおk(医)さん

そのとおりですよね。

ここで、団藤重光元最高裁判事が、1審2審の死刑を維持して上告を棄却する判決言渡しの時、傍聴席から「人殺し!」との言葉を浴びせられた事件を思い出します。

 >執行しないという判断も法務大臣としての職務だともいえる。

というコメントを拝見してから、私の拙いお頭では、一日中、納得が出来ず(未だに)、寝つきも悪くて、何でなんだろう、このように考える人達もいらっしゃるということは、刑の施行自体(死刑だけでなく)に裁判結果とは関係なく、各々の思惑で成されるということなんでしょうか。という思いがグルグル頭の中を回転するばかりです。私のような素人考えは単純すぎるのでしょうか。

裁判所で決定された罰は、粛々と施行手順に乗っ取って、施行されていくべきものではないのでしょうか。(くどいようで恐縮ですが、死刑に限らず。死刑は人命損失という取り返しがつかないことですから、ある種、別格な慎重さが必要で有るということは理解できます。)

これまで13人の死刑執行を命令した鳩山法相について、朝日新聞夕刊1面の素粒子欄が「死に神」と表現した問題で、全国犯罪被害者の会(東京)は25日、「一日も早い死刑執行を待ち望んできた被害者遺族も死に神ということになり、(報道によって)今回ほど侮辱的で、感情を逆なでされる苦痛を受けたのは初めて」とする抗議文と公開質問を朝日新聞社に送った。
オンライン版の読売に掲載されていました。 制度への賛否や、法相の執務姿勢に対する感想がどうであれ、その表現の「射程」だとか、巧拙に無神経なライターというのは、中々度し難いものだと思います。

死刑存置か死刑廃止かって話はつきつめれば哲学とか宗教とか倫理観とかが絡んでくる話で(特に外国では宗教かな)、つまりそれは最終的には感情的にどうなのかという話なので、そもそも分かり合うのが無理なのではと最近思います。

死刑廃止論者の方々が先進国の中で唯一日本だけ云々おっしゃられるのは上記の理由でナンセンスだと思います。キリスト教の影響が強い欧米の国々と日本とでは「生命」に対するとらえ方、考えが全く異なりますので。

ところでエントリに関する私の感想ですが、死刑制度という存在する制度・枠組みの中で粛々と刑の執行を命じた大臣を非難する理由がどこに存在するのか全く理解できません。法務大臣のハンコが要るということは形式的なものだと思っておりましたが、死刑執行は大臣一人の意志次第ってところにはちょっと違和感を感じます。世相や大臣のイデオロギーや世論やいろんな要素があるのでしょうが、なんだか死刑囚の命を弄んでいる様にもうつります。

また、司法の決定に行政が介入するということは、司法の独立に反することで、大きな問題であるように写ります。

よって私は、死刑が制度として存在する以上、法務大臣が仰るように死刑執行に法務大臣の意志決定は挟むべきではなく(ハンコの話です)、自動的に刑の執行へ移る制度の構築が望ましいと思います(もちろん執行前の入念な再確認は必要だと思います)。

はじめまして。いつもコメントしないんですが、今回だけ。

鳩山法務大臣が死刑執行を命令したこと自体は非難されるべきではないかもしれない。しかし、鳩山氏だって、法的に執行可能なすべての死刑囚について執行命令を出していない。この不作為は非難する必要がないのか。判決確定順に執行しないことが法の趣旨にかなうのか。前回の執行とその前の執行の間の空白期間は法の趣旨にかなうのか。
法に従う作為と法に従わない不作為が融合した時にそれを恣意というのではないのか。朝日の記事の意図はともかく、死神という表現自体は、執行の恣意性を表現するものとしてなら許容できるのではないか。

法は、法務大臣に死刑執行命令を出す職責を課している。しかし、法務大臣の職に就いた各人が在職中に必ず執行命令を出さなければならないとは規定していない。在職期間中に執行命令を出さず、在職期間相当の執行の空白を作った法務大臣と、在職期間中に執行命令を出したが、命令までに数か月の間隔を空けて執行に空白を作った法務大臣の間に、法令不順守の点で相違あるのか。

杉浦氏が執行命令を出さなかったことを法を援用して避難しておきながら、鳩山氏の執行には法律上何の問題もなく、法に従って粛々と執行するのは当然とする論調には疑問があるのですが。

死刑は間違いなく法相の責任で行われています。
法相が責任を回避したいのならば執行書に署名するべきではありません。

そして「国民一人一人」などという抽象的な実体のない存在に責任をなすりつけ、事実上国民の誰一人責任を負わないような制度にしなければ制度を維持できないというのなら、死刑など廃止してしまえば良いでしょう。

ど素人様

>欧米の価値観

なるほど、「人間の生命は神の所有物なのだから同じ人間が奪ってはならない」
ですね。

では、これに対する日本人の生命の価値観はいかなるものでしょう?
「悪人は同じ"人間"ではないのだから積極的に殺さなくてはならない」
だと思うのですが。

現在、死刑制度は十分維持され、難攻不落の大要塞化したといっても過言ではありません。
件の死神発言も結局は死刑廃止運動の断末魔に過ぎないかと。

>No.31 ponさん

死刑は間違いなく法相の責任で行われています

私は裁判官の責任で行われていると思います。法務大臣は命令を下さすだけであり、誰が責任を持っているかというと、紛れもなく裁判官だと思います。法に関しては、裁判官が法務大臣の上位に位置するべきでしょう。

従って、法の趣旨から考えれば、法務大臣が命令を下さなくても粛々と刑が執行されてしかるべきです。また、現状の制度では法務大臣は機械的に命令を下すべきです。

書いていて気持ちのいい言葉ではないです。機械的に死刑の執行命令を下すと言うことは、誤判の可能性を無視する事になりますから。しかし、誤判が避けられないものである以上、死刑制度を存続させると言うことは、誤判の可能性を許容していると言う事になりますし、えん罪で死刑が執行されてしまうと言うリスクより、死刑制度を存続するメリットの方が大きいと、国民は判断していると言うことだと思います。


死刑の責任は裁判官であり、死刑制度の責任は国民にあるかと思います。

>>No.34 しまさん
私はしまさんのご持論は>>No.6のほうかと思っておりましたので、少々当惑って(笑)しまいますた。

No.34 しま様
横からすいません。
しま様のコメントを糧に、今日からは熟睡したいと思います。
ありがとうございます。

No.31 ponさま

でも、私は死刑制度を存続するか廃止するかを議論せず、執行のときに「ちょっと」騒いであとは知らん顔、(ちょっと言葉が乱暴ですが)の国民にも責任はあると思いますよ。

>では、これに対する日本人の生命の価値観はいかなるものでしょう?「悪人は同じ"人間"ではないのだから積極的に殺さなくてはならない」だと思うのですが。

pon様、それはあなたの価値観ですか?

No.27 ゼロ+Oの自己レス

訂正します。

施行→執行  

皆様お目汚し、失礼致しました。

>No.12 法務業の末席 様

ご教示ありがとうございます。
無限回廊は以前にも読んだことがありましたが、サブページの資料には気づいておりませんでした。
改めて読みかけたのですが、たとえ「表」であっても我々平凡な生活の中にいる市民の神経では死刑判決の列挙されたものを最後まで読み通すのには耐えがたい苦痛を伴います。ましてや役目とはいえ、それに関与する司直の苦悩はいかばかりかと思います。

ただ、6か月以内に執行された例がないことからみても475条本文の規定には見直しが必要なのではないかと思われます。

そのことも含めて、考えるべき点は多種多様にあると思われますが、何事にも一長一短があり我々の三段論法的な単純な思考能力では簡単に解決できません。
あまり注目されていないようですが、死刑執行の概要公表も法務省の側には「国民のみなさんもチェックしてください」という意図があるのかな?と感じるのですが、一市民である僕の立場からすれば「それは法務省の仕事なんだから平穏な市民生活を刺激せずにひっそりとやってください」と思ってしまいます。まして、万一それが公開処刑要求を誘発することになれば、これはもうおぞましい事態ですから。

>No.9 りょう 様

真偽のほどはともかく、このような例は「いい加減な調査」よりも調査が予め誘導されるような圧力があった場合はどうなるのかなぁ?という心配をしてしまいます。
検事って建前上は独立官職ってことになってますが、知人の修習生から「決裁とかあるんで組織の一員だよ」って話も聞いたことがありますので。→関係する方にご不快でしたらお詫びします。

元エントリNo.68 モトケンさん

コメントありがとうございました。ご返事が遅れ申し訳ありません。また、せっかく書いていただいたのですが、よく理解できませんでした。

迷惑という言葉について、例えば相手に面と向かって「馬鹿阿呆お前など死んでしまえ」と罵倒するのは、まだ人間として扱っていると感じます。しかし、相手のいない場所で「自立できない障害者は迷惑だ」となると、“迷惑”という軽い言葉がゆえに、より冷たい、障害者の存在すら認めない非難に思えます。言葉に対する印象は人それぞれなので、私だけかもしれませんが、モトケンさんの「巻き添え自殺は迷惑」という記述からは、人の命と死を、モトケンさんが揶揄しているように感じました。

>自殺者の命を軽く扱ったのではなくて、自殺者の巻き添えをくらって亡くなる人の命を考えた

とのことですが、なぜ分けて考えるのだろうと思いました。モトケンさんが死刑囚の命も他の命と同じ重さであることを信じているなら、被害者の感情ばかりをマスコミが流す今だからこそ、自殺者の命の価値を被害者の命と併せ、積極的に取り上げるべきではないでしょうか。

No.32 ponさん

お示しになった欧米の価値観とは即ちキリスト教の価値観ですね。

生命を奪うもう一つの行為として妊娠中絶がありますが、キリスト教の価値観ではこれも認められません。が、実際には、望まない子供を持ったがために経済的に困窮するとか、不幸な出来事で妊娠する方もいらっしゃるとか、女性の権利という問題もあって、合法化しないことには現実的な問題に直結するので多くの先進国で合法化されてきました。

死刑制度っていうのは多くの人からすれば実生活に直結しない遠い問題なので、キリスト教のイデオロギーに従って廃止しやすかったのだと思います。

「人間の生命は神の所有物なのだから同じ人間が奪ってはならない」

どんな理由があるにせよ、人の命を奪うことは、絶対的な存在である神に逆らう行為であるという考えが根底にあるのでしょう。

日本人の生命観で死刑存置の意義を示すことは私にはちょっと難しい課題です。

日本人はキリスト教ほど統一され一般化された生命観を持ち合わせていない。これは逆に考えると人それぞれ宗教的な縛りのない自由な考えを持っているということでしょう。そんな個々人の自由な考えのもと、日本の世論は死刑存置であるのであれば、廃止する必要はないと思います。

ちなみに、死刑廃止論者や人権派の方々の多岐にわたる強力な運動は、死刑をより厳正に運用する事にとても役立っているのかなと感じる今日この頃です。

生死観と死刑制度という興味深い切り口のサイトがありますのでよろしかったらごらんになって下さい。

http://www.geocities.jp/aphros67/indexs.htm

No.19 YO!!さん
>そうなると、冤罪で無期懲役判決が出る可能性を防ぐためには、無>期懲役刑を廃止しないとならない

批判になっていないか、誤解しています。
どのような量刑であろうと、冤罪は許されるものではありません。そんなことを主張する人はいないでしょう。
冤罪を理由に死刑廃止を主張するのは、死刑が執行されてからでは”やり直し”が出来ないからです。

 無期刑なり終身刑なら、裁判のやり直しが出来る可能性があります。N0.20だいちゃんさんの挙げた福岡事件や、私のあげた藤本事件で死刑が執行されていなければ、やり直しが出来て無罪になったか、少なくとも死ぬことはありませんでした。

YO!!さんは、誤審で死刑が執行されることを許容されるのでしょうか?

トピズレ失礼、
前スレで

鳩山邦夫については、欧米のメディアであれば、間違いなく彼は鎌を持った姿で風刺画が描かれたはずで、その前に生首がずらっと並んでいても全然不思議ではありません。それにくらべれば、素粒子の表現などなんともマイルドでかわいいものです。ピンと来ない方は、図書館で、ニューズウィークのバックナンバーあたりを数年分みればよくわかると思います。

と、ニューズウィーク誌のことを貶めるような書き込みがあったので、同誌の名誉のためにちょっと・・・。
ニューズ・ウィークの風刺漫画(1コマ)はきついですけど、あまり的外れなことは書きません。それと、書かれた本人も苦笑しそうな、少なくとも上品なジョークになっている、と私は思います。
最近の例(トップ記事が「オバマ勝利」の号)から私が大笑いしたものを2点、例として紹介させていただきます。

1.アメリカ民主党党大会を想定(?)した漫画
  党の結束を訴えるヒラリー・クリントン上院議員がオバマ上院議員をさして
「私たちは、この若くて未経験で世間知らずな候補者を一丸となって応援していきましょう!」

2.映画の看板を見上げるカップル。看板には大きく
「インディ・ジョーンズ 失われた老眼鏡を捜して」

失礼しました。

No.43 りょうさん

刑罰が執行されてからでは”やり直し”が出来ないのは、懲役刑も同じです。

失った時間は取り戻せまん。

取り戻せるのは罰金くらいかな。
でも罰金でお金を取られなければ、あの時できたことができなかった場合、それが後で利子付きで戻ってきたからといって、できるとは限りません。

No.45 YO!!さん

根本的に勘違いされておられるようだが、死刑になったら冤罪であるかどうかがわからなくなってしまうんですよ。再審も被告人死亡の場合は受け付けられないことがほとんどなんですから。
それとも冤罪なら死刑も無期懲役も一緒だから死刑にしてしまってかまわないと、そういう主張をされるのでしょうか。

>それとも冤罪なら死刑も無期懲役も一緒だから死刑にしてしまってかまわないと、そういう主張をされるのでしょうか。


えーと、冤罪をなくすには刑罰をなくすべきといってますが。

No.19 YO!!さん | 2008年6月25日 14:46 | CID 158273  (Top)
そうなると、冤罪で無期懲役判決が出る可能性を防ぐためには、無期懲役刑を廃止しないとならない。
冤罪を防ぐ一番の方法は刑罰を廃止することだろう。


No.47 YO!!さん

これはなるほど読み違えていました。そういう反語かと思いましたら、本当にそう思われていたんですね。失礼しました。

>えーと、冤罪をなくすには刑罰をなくすべきといってますが。

で、刑罰を失くして犯罪者にはどう対処するんですか?罰金刑だけですか?

>で、刑罰を失くして犯罪者にはどう対処するんですか?罰金刑だけですか?


え〜と、刑罰をなくせば、犯罪者というものは存在し得ません。

>え〜と、刑罰をなくせば、犯罪者というものは存在し得ません。

ああなるほど。罰金刑すらも失くしてしまうと。懲役刑だけではなく。ではあなたは人を殺し放題、詐欺し放題の無秩序な近代法をかなぐり捨て「権利」を放棄した時代がくるべきだと思われているんですね?そういう世界があなたにとって理想なのでしょうか。

>No.46 河合さん

>死刑になったら冤罪であるかどうかがわからなくなってしまうんですよ。

 立証の困難性は増すかも知れませんが、必ずしも「わからなくなってしまう」とは言えないと思います。
 

No.50 河合さん |

別に特に理想というわけではありません。

冤罪が許されない、という前提に立つと、刑罰をなくすのがベストと考えたわけです。

で、貴殿には冤罪を防ぐ策は何かお持ちか?

>え〜と、刑罰をなくせば、犯罪者というものは存在し得ません。

ああなるほど。罰金刑すらも失くしてしまうと。懲役刑だけではなく。ではあなたは人を殺し放題、詐欺し放題の無秩序な近代法をかなぐり捨て「権利」を放棄した時代がくるべきだと思われているんですね?そういう世界があなたにとって理想なのでしょうか。

ループしてしまっている様なので、一言。
No.19以降の YO!!さんのコメントは、冤罪が発生する可能性は常に存在する。 →故に、刑罰を廃止すれば冤罪が発生しない。

 もちろん、YO!!さんが極論として発言されておられると理解していますが、現実的な法治国家で冤罪の発生件数を0に事は事実上不可能であるという認識であれば、冤罪の可能性による死刑廃止論は本来、如何にして冤罪の発生を抑制する(限りなく0に近づけるか)方向に議論すべきではないかと考えます。

 以下、閑話休題
 死刑は絶対ダメ、無期懲役はOKとされる方(特定の人物ではありません)で感情論以外に納得できる根拠を見聞した経験がないので、どなたか啓蒙してくだされ。

No.51 モトケンさん

わからなくなってしまうとはいえないとは言い過ぎかもしれませんが、現状を見る限りそうとしかいえないと思います。再審請求も被告人が死亡した場合ほとんど認められないんじゃないでしょうか。(というか私が浅学のため認められた例を知らないということもあるんでしょうが)

またエラーがでてしまったため二重投稿になってしまいました。大変申し訳ございません。

No.52 YO!!さん

>冤罪が許されない、という前提に立つと、刑罰をなくすのがベストと考えたわけです。

YO!!さんは「冤罪が許されない」とは思われないんでしょうか。

>で、貴殿には冤罪を防ぐ策は何かお持ちか?

まずは「取調べの可視化」が大前提です。

No.54 苦労判官善恒さん

>死刑は絶対ダメ、無期懲役はOKとされる方(特定の人物ではありません)で感情論以外に納得できる根拠を見聞した経験がない

感情論とはどのようなものでしょうか。上の方で述べられている冤罪に対する意見も十分に論拠はあると思いますが…。アムネスティなどのサイトは読まれましたか?

>YO!!さんは「冤罪が許されない」とは思われないんでしょうか。

冤罪は許されません。

>まずは「取調べの可視化」が大前提です。

誰に対して可視化するのでしょうか?


No.54 苦労判官善恒さん

コメントありがとうございます。
政治的には中をとって終身刑という妥協もあります。
刑法は確か教育刑を趣旨とすると理解しておりますので、更生を期待しない死刑や終身刑はその趣旨に反し、許されない、というロジックもありましょう。でも、現実は凶悪犯に対しては国民の多数は更生なんて期待していないし、求めてもいないのでは。

No.45 YO!!さん
>刑罰が執行されてからでは”やり直し”が出来ないのは、懲役刑も同>じです。

 いえ、違います。懲役刑では人は死にません。
 凶悪殺人犯の命を刑罰で奪うことは議論の余地がありますが、無実の人間の命を刑罰で奪うことは絶対に許されない。
 私は、人間は必ずミスをするという前提で話をしています。それは裁判官・検事・弁護士に限らず、すべての人間に言えることです。
 どんな刑罰でも誤判があり得るから、死刑だけを特別扱いするのはおかしいと思われているのかもしれませんが、死刑だけを特別扱いするのは十分に理由があります。
  

No.56 YO!!さん
「取調べの可視化」です。取調べがどう行われているか、ご存じないのでしょうか。
さきほどから読んでいるとYO!!さんはまるで冤罪が「警察が巻き込まれた不幸な出来事」と認識しているように思われるんですが…。冤罪というのは警察や検事が作り出したものではないでしょうか。警察や検事側がおこさないようにすれば少なくとも起きるはずがない、というのが本来の「前提」なのではないでしょうか。

No.59が言葉足らずだったので追記します。
冤罪が起きないように(というのは語弊がありますが)警察→検事→裁判といくつもの「チェック機構」があるわけですが、問題はそれらが機能しないケースで、それをフォローするための「取調べ可視化」というのがあると思います。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/investigation.html
少なくとも可視化があれば富山冤罪事件は防げたのではないでしょうか。
冤罪は「でっちあげ」の側面が非常に強いのです。

 ちなみに米国では,死刑既決囚の再審無罪が出たのは,マスコミ報道によれば,ほとんどDNA鑑定で「人違い」と判明したものだそうです。DNA鑑定がなかった又は精度が低かったころ,日本では想像できないラフジャスティスな米国では,犯行時刻ころに遺体発見現場にいたのを目撃された,又は,そこから走って逃げたのを目撃されただけで,強姦殺人で死刑になった例もあります(南部州でアフリカ系犯人がなぜか多い)。
 映画グリーンマイルの題材のような・・・・。

No.57 りょうさん

無実の人間の「時間」を刑罰で奪うことは絶対に許されないと思いませんか?


No.59 河合さん

あの〜誰に対して可視化させるというか、見せるようにするのか聞いたのですか。
まあ、それはさておき、その方策で冤罪が防げるのであれば、早めの導入が望まれます。

No.57 りょうさま

でも、刑務所などに入れられていた時間も帰ってきませんよ。
賠償制度があるといっても、時間は(そしてその他もろもろの損失も)戻ってこないです。
冤罪という点では、全ての刑罰が一緒だと思います。もちろん、命があるだけましじゃないか、ということはあるかもしれませんが、この国では冤罪であろうとなかろうと、一度「警察のお世話」になる、ということはその人に計り知れないダメージを与えてしまうように思います。

No.61 YO!!さん

>あの〜誰に対して可視化させるというか、見せるようにするのか聞いたのですか

可視化については、No.59で関連サイトのリンクを貼っていますからそちらをご確認ください。それにしても正直、上記ご質問については意味がわかりかねます。

No.62 通行人1さん

だからといって死刑制度がある限り、冤罪による死刑(=国による殺人)は免れ得ないわけです。時間は帰ってこない、だから冤罪による死刑という点を考慮しても死刑制度は維持するべきだという論拠は成り立たないと思いますが。

トピずれ失礼します。

>No.42 ど素人さんのご意見、
なるほどと思いました。

以下トピックの内容からかなりそれます。
私は国際的には鳩山氏の連続執行は死神と言われる位の批判を
浴びているので死神といわれるのもやむを
得ないのかなと思いました。

最近に死刑廃止したイスラム国は
国益や経済効果を期待して、大国の
圧力に従う形で彼らの文化を手放したのでは
ないかと思います。

国際政治のことだけを考えたら、国連に
(北朝鮮拉致問題についての)人権に関する
お願いをし、国連からは(死刑に関する)人権
に関するお願いは受け付けないという日本の
姿勢は、こちらの願いを頼む態度としては、望ましいものではないと思います。

また日本が資源がなくイメージで他製品にすぐ代替できる工業品の力が大きい経済大国だと思うと、国際経済的な面だけでみた死刑廃止しないことのデメリットの議論も
もっとあるべきだと思います。

国際的には問題があるとされる精神疾患の疑いがあるのもや高齢者を連続執行した鳩山氏のことは、欧州や米国では批判的に報道されましたが、その反響の大きさに比べると日本では死刑に関する国際政治的な議論はあまりおこなわれてないと思います。

彼らの文化の押し付けに屈して
自国の文化を捨てなければならないのもおかしなことなことだと思うし、国連の要求をつっぱねたのも日本は国際世論には影響されないという大国の誇りがあると思います。が、よく死刑囚を税金で養うなんてという論調をみかけるのですが、それよりはるかに大きな経済的損失(日本は残虐な国だから、日本製品は嫌だから韓国製品を買うという類のものです。)が
あるのではないかと私は思うのですが、そのようなデメリットのことに関する議論がもっとあり、それを認識した上での死刑在置
かどうかの選択であってほしいと思います。
死刑制度は国際競争力に影響を及ぼし私達の生活に関係してくることだと思います。
死刑の問題は国内社会的な問題以上に国際的な問題になっていることをもっと報道してほしいと思います。

No.65 米山さん

英仏の核兵器廃絶との引き換えで死刑を廃止するという手もあります。
英仏も核なんて持っていても国際政治では米中露にまるで相手にされませんし、金ばっか食って無駄でしょう。
核廃絶は日本国民全体の願いですから、死刑存置論者の皆様方を説得しやすいかと思います。

死刑制度を廃止すべきだという論拠として、冤罪による死刑を防ぐというのは、死刑を廃止した際の反射的効果として捉えるべきだらう。

河合様

>再審請求も被告人が死亡した場合ほとんど認められないんじゃないでしょうか。

死後の再審無罪が確定したのは、徳島ラジオ商殺し事件が、現在のところ唯一の例かと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E5%95%86%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

>No.55 河合様
>再審請求も被告人が死亡した場合ほとんど認められないんじゃないでしょうか。

戦後に確定死刑囚が再審により無罪となったのは、免田、財田川、松山、島田の4事件がありますが、いずれも死刑囚本人が冤罪を訴えて拘置所内から再審請求を行なっていたため、死刑執行が為されずに生きて娑婆に戻ることができました。

また「死後再審事件」として有名な徳島ラジオ商事件では、存命中に再審請求をしていた元被告人が死亡した後に、生前に請求されていた再審請求を相続人(遺族)が引継ぎ、本人が死亡後に無罪判決が下された事例です。本人が生前に何ら冤罪として再審を訴えていなかったけれど、死後に関係者が再審を訴えて認められた事例は私の記憶では無いはずです。

何故「無いはず」と書いたかですが、本来「自分は犯人ではない、裁判をやり直してくれ」と刑が確定した本人が言い出さない限り再審は行ないようがありません。その犯罪を見守っている周囲の者が「判決のストーリーは違う、これは冤罪だ」と感じたとしても、本人が冤罪だ裁判は間違いだと言っていなかった場合は、「周囲が冤罪かもしれないと想像している事件」として扱わざるをい得ず、冤罪と断定することは出来ないと思います。

ただし「本人は何も言わない事件」において、死後に別の真犯人が現われたとか、絶対間違いのないアリバイが成立したなど、明白強固な新証拠が出て来た場合は、何も語らずに本人が死んだ後でも冤罪と断定できる場合が考えられます。

先般の富山冤罪服役事件では、犯人とされた人が何を言っても無駄と諦めて口をつぐんでしまい、出所後に真犯人が現われて冤罪だと判明しました。この富山の事例でもし仮に犯人とされた人が獄死又は出所後に死亡した後、真犯人が別人と判明した時はどうなるのでしょうか。

私もそうしたレアな事例を想像すると興味があります、このような場合は本人の生前の再審請求の意志が確認できなくても、自動的に再審が行なわれるのでしょうか?
法曹の方教えて頂ければと思います。

>No.54 苦労判官善恒さん

不可逆な点においては時間も生命も同様ですが、
停止後新たに動き出すことが可能か否かという点で、
時間と生命は決定的に違います。

>No.55 河合さん

少々遅れましたが

>感情論とはどのようなものでしょうか。上の方で述べられている冤罪
>に対する意見も十分に論拠はあると思いますが…。アムネスティなど>のサイトは読まれましたか?

感情論 →「人殺しはいけないこと(汝殺すなかれ。)」に代表される「殺人」絶対否定の認識を感情論ととらえました。
 で、この理屈でいえば、自己防衛(積極的、消極的問わず)は否定されてしまいます。 いわゆる”緊急避難”の行動で他人の生命を危機にさらす事すら許されない。 とすると、故殺、過失致死が存在する限り「殺人」の絶対否定は理屈として成り立たないと存じます。
 (もちろん、私も「殺人」にたいして否定的な感情を持っています。 それゆえに殺されることに対しても否定的な感情を持っています。)

 >冤罪に対する意見も十分に論拠はある →冤罪の可能性を論じれば、仮に完全な冤罪忌避の制度が存在すると、刑罰の軽重は無関係になってしまいます。 
 スピード違反の罰金刑も、大量殺人による死刑も冤罪と言う観点からすると同じではないでしょうか? 罰金刑の冤罪は許容されても、死刑の冤罪は許されないと言うのは上記の感情論においてのみ成立すると思います。あとは法律に則って粛々と処理すればよいのでは?
 ゆえに冤罪防止論と死刑廃止論は等号では結びつくように思えないのですが。


>アムネスティなど

 アムネスティのHPは日本語版のみ閲覧したことがありますが、日本の司法制度ってそんなに救いがたいものなのでしょうか、3審制や
再審制度もそれなりに整ったものだと理解していますが、やはり時代に後れた野蛮なものなのでしょうか。 私は世界的にもかなり公明正大なものであると理解しています。 もちろん、より公正な司法制度を目指して議論、改革される必要はあるでしょうし、実際、社会の変化にあわせて変えるべきところは変えていっていると認識しています。(拙速よりは慎重であるのは仕方ないと思います。) 少なくとも、向上の努力を続けている限り、日本の司法は評価できると思います。 

 アムネスティ(NGO)の主張を私なりに整理すると、
 残酷だから廃止 →上記、感情論に同じ(残酷の基準は?)。
 冤罪かもしれないから廃止 →死刑の有無とは関係なく冤罪抑制に努めるべし。
 刑務官の人権侵害だから廃止 →日本には職業選択の自由があるゆえに、死刑廃止論者が刑務官になるのは個人の選択の結果であるから刑務官の人権が侵害されている事はなし。 刑務官が死刑廃止論者になったなら、刑務官の職を辞して死刑廃止運動家になる自由も保障されています。何処に人権が侵害される可能性があるのでしょうか。 それこそ某新聞記者(のエライ論説委員)に「死に神」「殺し屋」呼ばわりされる事くらいですか、彼の人権が侵害されるのは。


>時間と生命は決定的に違います。

だからといって、懲役刑なら冤罪があってもいいということにはならない。

No.64 河合さま

もちろん、だから死刑を存続させよう、という話ではありません。人の命を奪う罰が別格なのは認めますが、人を裁いて罰する、という行為自体が非常に間違ったことであるかのように思えてくるのです。
人がミスを犯す可能性があり、冤罪の可能性が否定できない(つまり司法税度に100%の信頼がもてない)ということになれば、また「疑わしきは被告人の利益に」という精神に立脚すると、死刑だけでなく全ての科料、拘留、罰金、禁固、懲役などの刑を廃止するのが妥当なのかも知れない、と思ってしまうのです。

死刑廃止論の根拠のうち、「誤判のおそれ」は、個人的には最も納得できる根拠です。
もちろん、死刑以外の刑罰であっても、刑罰が科されてしまった後には、後の回復は困難であることが多いでしょう。しかし、死刑の場合の「取り返しのつかない」度合いが、他の刑罰に比べて、著しく大きい、というのが、その廃止論の根拠でしょう。

誤判には、人違いのように、明らかに間違っている場合もあります。それ以外にも、例えば傷害致死と殺人のような、主観的要件の認定の間違い、違法性阻却事由や責任阻却事由等の事実認定の間違いもあるでしょう。さらには、情状事実、例えば、犯罪動機、主犯か従犯か等について、間違った認定がなされた結果、本来ならば軽い刑罰が相当なところが、重罰を科されてしまう、というものも、誤判に含むものと、私は思います。

誤判に対するおそれ、というか警戒感は、実務に携わったり、当事者として司法手続きに関与したものでないと、わかりにくいかもしれません。

>No.70 Yachtさん

 申し訳ないが、コメントの対象が良く理解できませんでしたが、以下のコメントに対して私見を述べさせていただきます。

>不可逆な点においては時間も生命も同様ですが、
>停止後新たに動き出すことが可能か否かという点で、
>時間と生命は決定的に違います。

 ”停止後新たに動き出すことが” 冬眠状態ではないのですから、収監中の人間にとっては停止していない状態が、延々と続くことを想像すると懲役刑の冤罪もゾッとします。 私の意見は冤罪に関して極力抑制する制度を議論する事と、量刑について議論することは切り離すべきではないかと言うことで、(Yo!!さんの主張もそうだと推測します。) 冤罪の可能性による死刑廃止論は量刑内容による違いを説明できる理屈が見つからない。
 と言うことで、私だったら、冤罪による死刑も、終身刑も、懲役数十年もイヤですよ、同じくらい。(これは私の”感情”です。) だからと言って、死刑 or すべての刑罰を廃止せよとは言いません。 いちおうこれまで「法治国家」で暮らしてきましたから。

No.65 米山さん

死刑制度の存廃について論じる上で、国際情勢や国益と日本独自の文化を照らし合わせて論じる必要があり、そのためにはもっと広い視野からの情報提供が為されるべきという点については賛成です。

しかし、鳩山大臣の批判についてのコメント
>私は国際的には鳩山氏の連続執行は死神と言われる位の批判を
>浴びているので死神といわれるのもやむを
>得ない

????
失礼ですが、これは同じ人の同じコメント内の発言とは思えない程安直すぎます。

海外先進国のメディアは当然キリスト教的な価値観に多分に影響されているでしょう。なんで日本メディアがその価値観を汲んで当然なのでしょうか?「海外メディアでは大きく批判されている」という中立的な記事ならわかるのですが。

制度の存廃論と、今回の大臣の業務は分けて論じられるべきです。

死刑制度が存在する以上、今回の大臣の業務は全く批判の対象に成り得ないものだと思いますよ。

No.76 苦労判官善恒さん

死刑廃止論が、冤罪“被害”を抑制する手段たりうるのではないかと考えていますので、例示しました。

“発生”の抑制論拠のみを死刑廃止論に求めていらっしゃったのであれば、私の勘違いですね。失礼しました。

冤罪というのは、量刑の話ではなく、「やってないのにやった」ということを指すのですよね?

可能性論としては、冤罪があって、死刑制度が存在する限り、冤罪で命を奪われる人が出るかも知れないという論は成り立ちますが、現状としては、さすがに裁判官や検察官も慎重を期しているでしょうから、被告が一点の曇りもなく犯人であり、残虐性が著しい事件でしか死刑という判決はでないんじゃないかなと想像しているのですが、実際のところどうなんでしょうか???

戦前や戦後間もない混乱した時期ではなく、最近の判決で冤罪の可能性があったものってあるのでしょうか?

 また道草を喰っています。本来のエントリとずれているかと思いますが、死刑制度の話になっているので、伺いたくコメントいたします。冤罪の可能性があるから死刑廃止と言われると、次の点を聞きたくなります。冤罪の可能性がない事件の場合、例えば大阪池田小事件とか、まだ決まったわけではりませんが秋葉原の17人殺傷事件とか(犯人であることは間違いないでしょうね)、このような場合に、私などは死刑でも仕方ないと思うのですが、死刑廃止を主張する方々に、どういう理由で死刑にしてはならない、死刑にするまでの必要はないと説明していただけると、ありがたく思います。>このスレでいえば河合さん、りょうさん、それとも他の方でも
 それからNo.60のハスカップさんが仰られたことは、取調の可視化がなされても他の証拠で冤罪が生じることはあるので決定的な対策にはならないという趣旨のように受け取りました。この点、何か応答がずれているように感じたのですが、どうでしょうか。

失礼ながら、冤罪の可能性は死刑の存廃を論ずる場合には重要な論点であることは自明のことではないでしょうか。

問題は決定論というか、他の事情を斟酌する中での比重の取り方にあります。
単純化すれば…
冤罪が回復できないから死刑は廃止すべきだ。/冤罪を闇に葬る可能性があるとしても、死刑は必要だ。
というような論点からさらに…
死刑には冤罪回復可能性を抹殺してまで制度を維持する効果はない。だとか、冤罪の生まれないように審理をより慎重にすれば足りる。だとか、冤罪の可能性が疑われる場合には執行を一時中断する。とかいった意見が派生してくる。

そこで個々の論拠について検証されることが不毛だとは思いませんが、冤罪の可能性のみをもって絶対的に死刑の存在を認めない。だとか、冤罪と死刑制度は別問題である。だとかいう形而上学的な議論に結びつけてしまうと、これはもう「神は存在するか否か」みたいなものだと思います。

取り調べの可視化など、冤罪を少なくする方法を考えることは重要なことと思いますが、じゃ〜国民すべての体内にICチップを埋め込めばどうか?とかなれば自ずと限界はありますよね。
どのような刑罰制度であってもそれを維持する以上、我々にできることは冤罪がゼロになることを期待するのみであって、ゼロになる保障を得ることはありえない。
死刑とのかかわりを論ずるのであれば、正面からそのことを受け入れるのが前提として必要なのではないでしょうか?

独り言ですが・・・
やっぱり、死刑制度についての賛否が主題になっちゃいましたね。
朝日のコラムについての感想を述べるとなると、そこに踏み込まざるを得ないのかな。

私としては「社会一般から、凶悪犯罪に関する再犯危険性が高く、かつ更生の期待が著しく低い犯罪者を、絶対的・永続的に排除する刑罰」は、必要だと思います。しかし、その目的にかなう刑罰という観点で言えば、必ずしも死刑である必然性はないと考えています。

他方情緒の面で言えば、非道な犯罪者に対する「報復感情」は生じてしまうわけで、その溜飲を下げるには死罰こそが最も望ましいと感じます。

前者は制度の目的にかかる議論であり、後者は制度の効果にかかる議論のように思います。これがオーバーラップしたまま話をすると、議論が輻輳するばかりなのではないかと思う次第です。

連投失礼します。
もうひとつ前提として、死刑制度を我々日本人が共有しているということも逃れられない事実ではないでしょうか?

賛成であれ反対であれ我々がこのような制度を共有していることについて反省なり、苦悩なりが生じてくるのであって、あたかも自分だけは手が汚れていないかのような廃止論者や犯罪者の人権を認めない存知論者の言辞は信用できません。

82様
>自分だけは手が汚れてないかのような廃止論者
>犯罪者の人権を認めない存知論者

この意見には大いに異論があります
廃止論者の中には今死刑か無期かで争っている被告も含まれるでしょうし、人を殺める可能性が高い暴力団関係者、窃盗団などもそうだと
思います。何も汚れをしらない人格者?だけが廃止論者とはかぎりません。


存知論者が犯罪者の人権を認めないのではなく犯罪者(死刑囚)が
被害者の人権を奪ったのです。死んだものには人権がないと言えばそれまでですが例え終身刑に変えたって被告に人権はなく生存権が与えられるだけです。
被害者の人権を考慮するなら被害者の失われた人権についても考えてほしいものです。

議論の方向性を探るための一つの提案ですが、外国の実例を参考に死刑廃止論を立てる方は、死刑に替わるものとして具体的にどのような刑罰が導入されたのか実例を示していただければ多少なりとも論じ易いかと。

"Sleep no more! Macbeth does murder sleep"
「もう眠りはない、 マクベスは眠りを殺した」

「目には目を」という考え方が古いのは知っていますが、生きる権利を奪われた被害者、そしてその遺族の思いを考えたとき、「死刑」というのは残さなければならないのかな、と考えます。もちろん、誰が見ても明白な事実によって犯人と断定された場合であることが大前提ですけど。

今の死刑を巡る報道について、死刑執行の段階で法務大臣が非難されるのに比して、死刑判決の段階で裁判官(或いは裁判所)に対して批判的な報道が少ないように思えるのですがなぜなんでしょう。
もしかして、民意の多数意見は「死刑の存続及び言い渡しには概ね賛成するけれど死刑の執行には反対する」というようなものなのでしょうか。

今のこの国の政治体制を前提にすれば、誰が作り誰が提出したかに拘わらず法律案を法律として国会で認めたという事実を以て、行政機関は法律に規定されていることが主権を持つ国民全体の意思の表明であると看做して忠実に執行する義務を有するという社会を構成する上での大前提があるわけで、法務大臣が勝手に法律を決めることも出来ないし法律を超越して処刑する事も出来ない訳で、現に今の法務大臣も職責から逸脱はしていないように思えます。

と言うことで、死刑を規定した刑法を廃止しない国会、そしてその構成員である議員、もっと言えばそのような権能を持つ議員を選挙する為に投票する権利を持つ人々全体に対して非難の矛先が向かうのなら納得できるのですが、執行のタイミングで職責に忠実であった大臣のみが責められているかのように見える今の構図はどうなのだろうと考えさせられます。

No.83 様
言葉の表現なり定義の問題かとは思いますが…
人権というのは侵害されたり制約されたりすることはあっても物質のように増減するものではないのではないでしょうか。

No.85
>そしてその遺族の思いを考えたとき、「死刑」というのは残さなければならないのかな

また聞きのうろ覚えですが、ハムラビ法典では「奴隷の目をつぶされた奴隷主は相手の所有する奴隷の目をつぶすことを許す」つまり、民事賠償の規定だったのではなかったでしょうか?それなら以後に復讐法が採用されなかったことも当然と思えます。

あえて極端な話を持ち出せば(荒唐無稽な妄想ですので無視してください)、報復感情を救済するためであれば、裁判所が仇討赦免状を発行するか、受刑者を縛りつけて遺族にとどめを刺させるほうが理にかなっていると思います。空想上の問題としては、そうしたいという感情はあったとしても、実行に移す遺族がいるかどうか?
報復感情って無関係な第三者が簡単に計れるものではないでしょ?
刑罰を第三者である社会に委ねるのであれば、第三者自身が自律的に判断するのは当然です。

空気を読まずに。
死に神って言うとデスノートみたいに自分自身が誰を殺す(死なす?)か決めるタイプと、死期が来た人をあの世に連れて行くタイプとどっちがメジャーなイメージなんでしょうか(謎)

自分的には後者のイメージが強かったもので、自らベルトコンベヤーを称してらしたくらいだからむしろぴったりなんじゃないか、と思いました。で、寿命の蝋燭の芯を切ることを決めるのが、裁判官になるのかな(我ながら宗教フィクションちゃんぽん過ぎて、何が何だか分かりませんが)

どっちかってーと「新記録」云々のほうが問題じゃないかと思うのです、多分。任期中に一番死刑を行った大臣としてギネス記録を目指しているとかいうわけではないんですよね、多分。

閑話休題、空気を読んで。
諸外国では、何の為に死刑を行っていると受け止められてる雰囲気なんでしょうか。日本では死刑はなんだか主に報復感情を満たす為のもののようなイメージですが(偏見)。
いえ、何だか、「加害者の人権ばかり守られてる」って言い方、公務員たたきとか医者たたきとかを彷彿とさせるもので、もしかしたら日本的な考えなんじゃなかろうかと……。
死刑廃止についての諸外国の事情とかはよく見かけるのですが、逆はあんまり見ない気がするなーと思ったのです……

トピズレ失礼。
「加害者の人権だけが守られている」ように思ったのは、いくつかの殺人事件で(少年法や刑法第39条の関係(?)で)、加害者の氏名が報道されないこともあるのに、被害者のことは(本人のあまり名誉にならないことまで)仔細に報道されることに疑問を持ったからです。加害者はいくつかの方法で(例えば裁判の場で)反論できるのに、被害者は反論することは出来ません。素人としてはその辺に疑問を持っています。No.88 jackさまがおっしゃる「○○たたき」とは(自分では)違う、と思っています。
失礼しました。

ここが復活しましたのでもういちど最初から読み直してみました(モトケン先生コメントナンバー復活の件ありがとうございます)。
脱線専科としては余りかかわらないようにしようと思ってちょこっとしか書き込まないようにしてはいたんですが、No.81 惰眠さんに呟かせてしまった責任の一端(笑)を感じてしまいました。
で、アレな私なりにここのエントリーについて最初のころから感じていたホンネを白状いたします。

私はエントリー投入後程無くして議論が燃え立ったのはなぜかを考えてみました。そして自分の解答として、それはA新聞がコラムを使って問題提起をしたからではないかという仮説を得ました。すなわちA新聞が論陣を張るべき場所を間違えたと思ったわけです。コラムでではなく社説レベルで論説委員の署名入り記事で扱うべき意見ではなかったでしょうか。それでこそ主張ある新聞社の面目が立ったと思います。コラムでの掲載を許した新聞本社の判断ミスがこの紛糾を招いた第一の原因、というのが私のヤブにらみかつ毎度アレな診断です。誤診かも(笑)ヤブの仮診断ですから。

>No.90 ぼつでおk(医)さん

いえ、そんな。責任だなんて。
こういったトピックであれば、この流れになるのは必然かと思いますし、モトケンさんもお止めになっていませんから(笑)。

「消極的死刑制度容認論」の私個人としては、鳩山法相の、従来の同職担当者と比べての「異常に」積極的な刑執行方針には違和感を覚えますし、さらに就任当初の「自動的に出来たらいいのになぁ」発言を念頭に置けば、どうもこの法相には深謀遠慮と言うものが足りないのではないかと感じられてならないものがあるため、文章表現の問題を脇に置けば、コラム『素粒子』的な批判が起こるのは自然だと思います。

ただ、あの『素粒子』の文章は「風刺」と言うにはレベルが低すぎます。
十数年以上前の『素粒子』は、その日の当番筆者にもよりましたが、もっとウィットに富んでいて、まさに『山椒は小粒で・・・』を体現したかのような名コラムだった記憶があります。

ちなみに、私はあの夕刊のコラムを以って「朝日新聞社の見識」とすることには、賛成しがたいものを感じます。社説や一般記事であれば別ですが、あのコラムにかかる内部のチェックは、たしか論説委員同士相互の論評程度で、通常一般の記事に行われるようなチェックは行われていないと聞き及んだことがあるためです。
 そうであるならば、一義的に問われるべきは社の見識ではなく執筆者個人の見識ですし、新聞社に問うならば「見識」ではなく「責任」、それも「管理監督責任」の類ではないかと感じます。

死刑存廃のコメントをしても良いのかな?

我々が死刑に反対するのは死刑が刑罰の名を借りた単なる復讐だからです。
刑罰というものは罪を犯した人間に罪の大きさを認めさせ、自責の念を起こさせ、反省を促し、再教育を施し、最終的には社会復帰出来るようにするのが目的です。
死を前提にした反省などありえません。
こうした観点に立てば、死刑とは単なる暴力に対する暴力による報復であり、暴力の連鎖でしかありません。
そしてこうした刑罰を国家が行う事は生命尊重のルールを国家自らが破る事になり、生命尊重のルールに対する信頼性が損なわれます。

と、言うのがEUの死刑廃止の主張の一部です。

直接コピペしたものではないので正確なものは欧州連合のHPで確認してください。
食い違う点があったら私の間違いです。

さて、「EUはキリスト教の影響が強いから死刑廃止に傾くのであって、文化の異なる日本が彼らの主張を汲む必要はない」
というコメントがありました。
確かにそういう背景はあるでしょう
しかし少なくとも彼らが我々を説得する言葉には神など出てきません。聖書の一説も出てきません。

これを「キリスト教だから」と一言の元に切り捨てるのはただの逃避ではないかと思います

死刑が単なる復讐だというのは事実ではありませんよね。

エントリのテーマと関係ない主張は、自分のサイトで勝手にやってればいいと思うです。

ちなみに鳩山氏は「西欧文明はドライだが、日本には死をもって償うウェットな文化がある」としてEUの説得を切り捨てています。

そうした文化の違いに配慮した普遍的な論理を採用した説得に対して、「文化が違う」等として切り捨てるのは、底レベルであり、非礼であり、卑怯ですよね。

マツクラ様
とりあえず鳩山氏までは繋げてみたのですがどうでしょうか?
元の流れに近づいたでしょうか?
かえって脱線の度合いが強まったような気がしないでもないのですが。

鳩山氏の言葉なんかを持ち出すと議論が混乱するだけ

モトケン先生、リニューアルありがとうございます。m(_)m大変見やすくなりました。

ところで、皆様方。トピズレ失礼。
No.92 ponさま
確かに過去には復讐目的の死刑判決があったと思います(「東京(極東国際軍事)裁判」の戦勝国による死刑判決など)
しかし現在、刑法の下で執行されている死刑は復讐ではない、と思います。
国民が(消極的にせよ)承認した法に定められた刑罰ではないですか?EUがどう決めようと、死刑の存廃は私たちが決めることです。もっとも、日本には死刑がある、という理由でEUが犯人引渡しに応じない、ということは起こり得るかも知れませんね。
世界の趨勢が「死刑廃止」であっても、「欧米がこうしているから」というのは思考停止状態のように思います。EUの刑法がどうなっているか私は知りませんが、全ての法をEUに合わせるのでもないかぎり、「死刑」だけをEUに合わせて廃止するというのはいかがなものでしょう。「朝ナマ」ではありませんが「第2の鹿鳴館外交」のように思えます。例えば私は、アメリカが「修正2条(の強引な解釈)」で国民に武器を持つ権利を認めているのだから私たちにも銃で武装する権利を認めるよう憲法を改正せよ、と主張しようとは思いませんし、イギリスやアメリカやフランスが核を持っているからわが国も持つべきだ、とも思いません。
死刑が犯罪の抑止力になる、と完全に証明されたわけではありませんが、死刑を廃止したときに(現行法では)「死刑」のはずだった人間が社会復帰して再び殺人事件を起こし、そしてその被害者が自分の身内だったとしたら、私は死刑を廃止した人々を恨むでしょうね。

No.95 ponさん

そうした文化の違いに配慮した普遍的な論理を採用した説得に対して、「文化が違う」等として切り捨てるのは、底レベルであり、非礼であり、卑怯ですよね。

欧州連合が文化の違いに配慮しているとはとても思えません。

ponさんの書き込みを元にすれば

刑罰というものは罪を犯した人間に罪の大きさを認めさせ、自責の念を起こさせ、反省を促し、再教育を施し、最終的には社会復帰出来るようにするのが目的です。
死を前提にした反省などありえません。
こうした観点に立てば、死刑とは単なる暴力に対する暴力による報復であり、暴力の連鎖でしかありません。

違う観点に立てば、死刑とは報復ではなく、暴力の連鎖ではないと言う結論にも達す事ができるわけです。つまり、欧州連合の説得とやらは、一方の意見の押しつけと言うことができます。

「文化が違う」と言う鳩山氏の主張は、低レベルでもなんでもなく、死刑廃止論の本質を捉えた発言だという事も可能です。

まず、私の立場ですが、死刑存廃論にはどちらにも歩み寄れないでいます。答えが出せません。
ただ、皆様の意見を拝見していて部分的に同意できたり納得できない内容があるのでコメントさせていただきました。

No.71 苦労判官善恒さん『冤罪防止論と死刑廃止論は等号では結びつくように思えない』には強く同意いたします。
そしてNo.78 ど素人さんの仰るように『戦前や戦後間もない混乱した時期ではなく、最近の判決で冤罪の可能性があったもの』で死刑執行があったのでしょうか?と私も同じ疑問を持ちました。私の調べた限りそういう事件は見当たらないのですが・・・。
私が思うに、現在はDNA鑑定など昔とは比べ物にならないほど科学技術も進歩しております。一口に冤罪で死刑といいましても、『昔の誤った判断』いいかえれば、当時それが精一杯だった調査と現在とは明らかな基準の違いがあると思うのです。『死刑廃止論者』は昔の(科学技術が未熟なとき)の事例を持ち出して冤罪で死刑の事例もあるからと強引にこじつけている気がするのです。少なくとも現在は、一昔前よりはずっと冤罪0に近づく為の捜査や判決がされていると感じるのですが。そのうえで冤罪の可能性が残る昔の事件、例えば『名張毒ぶどう酒事件』や『袴田事件』などの死刑囚はきちんとスキップされていますよね。(しかしながら、事実上終身刑に近い状態であることに対しては別問題として考える必要があるように思います。)そこに法務大臣としての配慮を感じるのですが・・・。
そういう意味では、少なくとも鳩山大臣の失言『ベルトコンベアー』とは違い、実際の執行には十分な配慮がされて執行命令がだされていると思うのです。
No.23 通行人1さん のご意見には毎回私の考えを代弁していただいているような(身勝手ながら)錯覚を感じます。(私のほうこそこれからもご指導ご鞭撻よろしくお願いします。)『刑法を変えるのは「国会−ひいては国民」の責任です。』これも同意ですが、死刑に関して国民に示される情報量は異様に少ない気がします。刑法と国民が真剣に向き合う為には、実態を隠すのではなく国民に示す必要があるのではないのでしょうか?

多少流れを読めていないコメントになってしまいますが、

No.54で ”死刑は絶対ダメ、無期懲役はOKとされる方〈中略〉納得できる根拠を見聞した経験がない” とコメントしましたが、若干言葉が足りなかったようで補足します。
 刑罰として、何らかの方法で死に至らしめるか、自然死するまで収監するかという事に差があるかという事で、結果的に両者とも被告(容疑者?)の人間としての存在を否定される事例だと考えているからです。
 そこで、これに対する直接の回答というわけではありませんが、以下のコメントを参考に考えさせていただきました。

>No.56 YO!!さん |
刑法は確か教育刑を趣旨とすると理解しておりますので、更生を期待しない死刑や終身刑はその趣旨に反し、許されない、というロジックもありましょう。

>No.92 ponさん
我々が死刑に反対するのは死刑が刑罰の名を借りた単なる復讐だからです。
刑罰というものは罪を犯した人間に罪の大きさを認めさせ、自責の念を起こさせ、反省を促し、再教育を施し、最終的には社会復帰出来るようにするのが目的です。
死を前提にした反省などありえません。
こうした観点に立てば、死刑とは単なる暴力に対する暴力による報復であり、暴力の連鎖でしかありません。
そしてこうした刑罰を国家が行う事は生命尊重のルールを国家自らが破る事になり、生命尊重のルールに対する信頼性が損なわれます。


 「教育刑」は犯罪者の更生を目的とすると理解しますが、現実的な効果としてはどのような評価をされているのでしょうか。

 私の考えとしては「刑罰」に「教育刑」としての要素は含まれますが、全てではないという事です。 更生して社会復帰する事が目的であれば、更生しなければ”死ぬまで”収監されてしまう。 そして更生の判断をどのように行うか、(やはり人が行う限り完全な保証は得られないでしょう。) さらに妄想が膨らますと、「教育刑」の理屈は、犯罪再発の防止、突き詰めると犯罪発生の防止となり、予じめ犯罪を防ぐ{予防}という事で小説・映画「時計仕掛けのオレンジ」の思考改造による更生?同じく小説「1984年」のビッグ・ブラザーによる「完全管理社会」の必要性が求められててしまうかもしれません。

 あくまで妄想とお断りしましたが、妄想と現実の境界もあるにはあるのでしょうが、意外と薄い綻びやすいモノかもしれないと思った次第です。

 司法は当事者にならなければ、行政ほど身近に感じられないのが”ふつうの人”でしょうが、この国に住む限り、当事者にならない保証がないことも忘れてはいけない気がします。そして「素粒子」執筆者には「当事者にならない保証」を確信しているかのように思えます。

(刑罰というものは罪を犯した人間に罪の大きさを認めさせ、自責の念を起こさせ、反省を促し、再教育を施し、最終的には社会復帰出来るようにするのが目的です。)

そのような一面もあるでしょうけど基本的には罰でしょう。
それだったら懲役刑はすべて無期にしなければならない。
懲役期間中に反省しないのはいくらでもいますよ。
暴力団員なんかは懲役は勲章ですし、満期は英雄ですよ。

ROM しておりましたが、少し私も参加いたしたく。

1.朝日新聞のコラムは単に当代の大物政治家に絡みたいだけの子供じみた文章と思います。

2.鳩山法相は職責に対し言葉は軽いですが、エレベーターの例えは彼なりの苦しさを表したものではないかと思いました。その後の死刑執行については、(失言の?)反省を含めて身に引き受けているようにも感じられどちらかといえばその実行については好意的に(残念な気持ちもありますが)捉えています。

 考えてみますと、私がそのように思う大元には、検察、弁護士、裁判官の三者が、三審制の下で充分に吟味した結論に対する尊敬の念というか、その重みは大切なものとの思いがあるように思います。いずれの当事者の方も命を蔑ろに考えてはおられないであろうという信頼感です。
 政治的な案件では先頃の鹿児島志布志事件のように暴走することもある(あってはなりませんが)でしょうが、こと死刑を巡る検討などでは、この信頼感は揺らぎません。死刑関連の再審決定率や再審での無罪決定率は微々たるもののように感じていることも信頼感の元ともなっています。
 逆に、最近死刑が執行された宮崎事件でも再審請求の準備中であったと法相を責める新聞論調がありましたが、心神耗弱のみを理由とした弁護側の時間稼ぎ、再審乱用のようにも感じます。罪を軽減できる心神耗弱に絞ってなされる活動ばかりで、嫌な言い方ですが殆どゲームの様相を呈し、寧ろ法の信頼性を損なっているようにも思っているのですが、話が逸れました。

 冤罪の可能性の議論も死刑のみに特別に必要なものとは思いません。他の犯罪についてもできる限りなくすべきですし、当事者が努力なさっていると思います。
 しかし、所詮人の行うことですから可能性を100%排除できないのはあたりまえで、そこをあげつらうのは、法定されている以上反則のように感じます。「人の命は地球より重い」という信念は法を運用する方々の信念として堅持していただければ良く、議論に持ち出せば「出来ないことを求めるあるべき論」に堕して、思考・実行停止しか招かないでしょう。死刑廃止を求めるなら「国民の議論を盛り上げて死刑制度をなくす気運を高めて法改正に結びつける努力が正しいのではないでしょうか。

死刑廃止論自体に関しては、
No.79 道草様が述べておられる通りに感じています。「冤罪の可能性がない事件の場合、例えば大阪池田小事件とか、まだ決まったわけではりませんが秋葉原の17人殺傷事件とか(犯人であることは間違いないでしょうね)、このような場合に、私などは死刑でも仕方ないと思うのですが、死刑廃止を主張する方々に、どういう理由で死刑にしてはならない、死刑にするまでの必要はないと説明していただけると、ありがたく思います。」
この投稿にレスが付かないのは本当に不思議です。

少なくとも否認事件で検察と弁護人の主張に争いがある場合、例外なく冤罪の可能性はあるのではないでしょうか?

池田小事件の場合は確か被告人の通院歴を根拠にして責任能力を争っていたかと記憶してます。

>No.102 YY(一般)さん他の疑問、乱暴にまとめてしまいますが「冤罪の可能性のない凶悪犯罪に死刑の適用を忌避する理由」についてあらためて考えると、ちょっと不謹慎かも知れませんがこんなことを思ってしまいました。

 死刑廃止論(者)は死刑が廃止されてしまうとどうなるのか?

前の方のコメントで

>No.77 Yachtさん
>死刑廃止論が、冤罪“被害”を抑制する手段たりうるのではないかと考えていますので、例示しました。

 とありましたが、Yachtさん(に限らず私もそれなりに共感できるのですが)が示された「冤罪“被害”を抑制する手段」となりうるのはあくまで死刑制度が存在することが前提ですよね。死刑制度が廃止になると「取り返しがつくから(金銭保障?)冤罪“被害”の発生は促進されてしまうのでしょうか?」

 もちろん上記は極論ではありますが、次は懲役刑は”残酷で収監されていた時間は回復不能だから”懲役制度廃止論に向かうのか(これは刑罰そのものを否定してしまいます。)

 私は法曹関係者ではないのでこんな無責任な妄想を抱くことができます。 だからといって順法精神も持ち合わせているつもりです。

>No.77 Yachtさん
>“発生”の抑制論拠のみを死刑廃止論に求めていらっしゃったのであれば、私の勘違いですね。

 「冤罪の可能性のない凶悪犯罪に死刑の適用を忌避する理由」結局、私にはこの疑問に関する光明は見えてきませんでした。

 ちょっとイジワルな意見だったかもしれませんが死刑廃止後の社会がどのようになってゆくのか”当事者”として非常に興味があるのも事実です。

>No.103 ponさん
>少なくとも否認事件で検察と弁護人の主張に争いがある場合、例外なく冤罪の可能性はあるのではないでしょうか?

>池田小事件の場合は確か被告人の通院歴を根拠にして責任能力を争っていたかと記憶してます。

 池田小事件の某氏を冤罪の可能性ありと断じる事はどのような理屈でしょうか? 量刑に対し色々な意見がでる所(責任能力等)は理解できますが、確か本人も児童殺傷について否認していなかったはずですが、それでも無罪の可能性があるとおっしゃられるのなら、何か根本的な部分で私には理解できません。

 釣られたか? でもNo.104のコメントをした後だけにやはりコメントさせていただきます。

No.105 苦労判官善恒さま

ponさまは「冤罪」を最も広い意味合いで使用されているのだと思います。
責任能力を争っている(心神耗弱レベルではなく心神喪失と主張している)場合、その主張が通れば「無罪」なわけで、法律的な効果としては、「有罪にされるべき事案でないのに訴追された/有罪を宣告された」という意味で、「冤罪」(の一類型)と呼ぶことも可能かと。

狭義での「冤罪」は、いわゆる事実無根(人違い、でっち上げ等)の場合を指します。
一般的な使われ方は狭義のほうだと思いますので、こういう場合は適切に定義を設定しないと混乱のもとです。双方ご留意いただきたく。

 たしか富山の強姦冤罪事件は法廷で自白していたはずです。
 冤罪の可能性は、否認事件であると自白事件であるとを問わず、常にあると言えます。

池田小の事件ですか・・・。
私は全くの素人ですが、
1.犯人が包丁で自分より弱い人間(子供)を大勢殺し、傷つけた。
この一点だけで充分に責任能力はあったと思います。
つまり、子供なら包丁で殺すことが出来る、という当たり前の判断をするだけの能力があり、人をたくさん殺すと「死刑になる」ということも理解して、犯行におよんだ。報道などによると「死刑になること」を望んでいた、とも言われています。実際に控訴も取り下げ、「早期執行」を希望し、希望はかなえられた。
やったことは凶悪ですが、そこにいたるまでの考え方はそれなりに「つながったストーリー」(論理的とまでは言いませんが)になっている。この場合、通院歴は「免罪符」にならない、と私は思います。
ついでに言えば、私は「心神喪失・耗弱」こそ廃止すべきだ、と思っています。人は「犯した罪の重さ」のみで裁かれるべきです。(というのは、刑法39条を「免罪符」に使っていると思われるようなケースがまれにある、と聞いているからです。もっとも、心神耗弱で「無期懲役」になったのを悔いて拘置所で自殺した人もいますが)

冤罪の話題が出ていましたので冤罪の面限定で発言しましたが、言葉不足なのも不本意ですので、今更ながら腰の引けた死刑廃止支持者として発言いたします。


私も未だ、死刑が凶悪犯罪者に与える刑罰として明白な最適解である、と納得できる言説に出会ったことがありません。


復讐や応報という意味合いでは、感情的に同意します。
ただ、感情によって人を殺すべきではないという感情も、私と、社会的倫理に対する私の理解に、同程度存在します。
どちらが強いかはわかりません。
感情である以上変化もしますし、社会的倫理は概ね解釈の問題です。

一方、刑罰のそもそも論も、私の中で形を定めません。
その存在意義は、更正なのか罰なのか、応報なのか隔離なのか。
様々な面を併せ持つと理解していますが、その比率など理解の範疇外ですし、何者かが理解しているとも考えられません。

死刑と(仮釈放のない)無期刑、どちらがが残虐で絶望的かも、結論は出せません。人によって様々と理解しています。

こうした様々な不定要因に囲まれているにも拘らず、ある人間を“死”という領域に放逐する絶対不可逆な行為が社会制度として存在する事実が、私の中でどうにも正当化できないのです。

といったわけで、

>No.104 苦労判官善恒さん
>懲役刑は”残酷で収監されていた時間は回復不能だから”懲役制度廃止論に向かうのか

残酷の程度をどこで線引くかは、確かに問題ですね。

ただ、懲役刑を残酷とする倫理感は現状少数派のように見受けられますから、当面懲役制度廃止論には向かわないと考えています。
外国の羞恥刑や社会奉仕刑などのように、別の刑罰が多数の同意を得れば、小さい範囲からでも事態は変わっていくのでしょう。

法治に代わる制度の発明となると、ちょっと想像がつきませんが。

死刑廃止論は冤罪の可能性云々だけが論点ではないですよね。
冤罪の可能性は重要な論点なのは確かだと思いますが・・・

冤罪の可能性のみに論点をおいて死刑を忌避する理由を考えたら、現在日本に死刑がある限り「法に定められた刑罰としての死刑」はありでしょ。

だからこそ、冤罪が微々たるものだとしても冤罪があること自体に問題があるんだし、人を殺したら死刑で済んでしまえば、法律がハムラビ法典からまったく進化していないことになりませんか?

死刑廃止論の奥には人間社会のあり方に対する問いがあるような気がします。逆に言えば死刑存続論者の多くは「人を殺したら死刑」で思考がとまっている気がします。

自分はどちらかといえば死刑廃止に賛成ですが、それは単に人であっても国家であっても人を殺すのは良くない事だと思うしかいえないからですけれども^^;

死刑を否定しませんが。
世間には「死刑々」などと放言する人も居ますが、それには賛同できませんし、主流の意見とも思いません。

現在の死刑判決は概ね「殺人を繰り返したか繰り返すと思われる者」ですから、「人を殺したら死刑」とはならず、相当な合理性が有ります。

一部欧州勢力の主張のように死刑を回避すれば、執行担当者・関係者の精神的負担は楽に成るでしょうが。
その動きも、ここ100年程度なのでは?の短さ。

遥か未来にどうなるかは解らない、流行とも似ている思考の揺らぎの様に思います。

死刑制度に否定的な意見の方々が根拠として挙げられる「社会的倫理」(のようなもの)。

おっしゃることは分かるのですが、「社会的倫理」そのものが世相を反映するものですし、どれほど絶対的なものなのかという点は疑問です。

世論調査は国民の意思の総体を示すものですので、「社会的倫理」を示すものの一つとと思うのですが、昨今の世論調査では死刑存置が大多数を占めているのが現状です。すなわち、現在の日本の「社会的倫理」は「凶悪犯罪に対しては死刑」という様にも捉えることが出来ると思います。

この世相に対して、個々がどう思われるかは自由ですが、「社会的倫理」は死刑廃止の理由としては弱いのではないか思います。

自分が第三者的な立場である限り、凶悪犯罪者が社会から隔離され社会の安全が守られていれば、死刑であろうがなかろうが、自分にとっては実はどうでも良い話です。しかし凶悪犯罪者によって理不尽に奪われた被害者の命、失われた人生の無念さを考えると、加害者は犯した罪に対してその命と引き替えに責任を取らせるべきだと考えてしまいます。

他の人がどう考えているかは分かりませんが、死刑制度というのは古来から日本に根付く腹切りの文化の名残なのかななんて思っていま。

No.106 fuka_fuka さん
 
「冤罪」定義の件、了解しました。

>広い意味合いで使用されているのだと思います。

 はい、それで、量刑の軽重についても言及したのですが、

>責任能力を争っている(心神耗弱レベルではなく心神喪失と主張している)場合、その主張が通れば「無罪」なわけで、法律的な効果としては、「有罪にされるべき事案でないのに訴追された/有罪を宣告された」という意味で、「冤罪」(の一類型)と呼ぶことも可能かと。

 事案自体に問題があると仮定すれば「冤罪」(の一類型)と呼称することは不可能ではありませんが、(この件(池田小事件)については広く理解と共感を得ることは困難だと想像します。)心神耗弱、心神喪失という言葉が一人歩きしそうな気配も感じます。


No.109 Yachtさん
>冤罪の話題が出ていましたので冤罪の面限定で発言しましたが、言葉不足なのも不本意ですので、今更ながら腰の引けた死刑廃止支持者として発言いたします。

>私も未だ、死刑が凶悪犯罪者に与える刑罰として明白な最適解である、と納得できる言説に出会ったことがありません。

 以前のコメント(No.54)でも述べましたが、私も死刑自体に対する否定的感情は理解できますし、実際、「イヤだなぁ。」と感じています。
 だからといって、凶悪な犯罪を犯した者を死ぬまで隔離(終身刑)または数十年間収監しておくこと自体、更生させるという前提には立っていないようにも思えます。

 私はどちらかといえば消極的存続論の立ち位置ですが、Yachtさんの疑問に私なりに答えてみたいと思います。(回答になるかは怪しいかな)

「人を殺すつもりなら、(自分が)殺される覚悟をするべきである。」

 結論からいうと以上です。 これだけでは間違いなく様々なご意見が出ると思うので補足します。 (なお、あくまで私の情緒面についての考えですので、現行の法律などは無視した上での戯言と了解願います。)
 殺人という行為に否定的な感情を持つことは私達(含むYachtさん)にとっては共有できる認識だと思います。 そして(現代日本)社会を構成する人々にとっても多数を占める事は想像に難くないと思います。
 されど、殺人(故殺)自体の存在はその認識を否定する事につながります。(否定の感情の否定?)

 仮に私が殺人(故殺)を犯すほどの殺意を覚えたとしても、殺人に否定的な感情を否定する事は難しい。どうすれば納得してその行為を行えるか考えた結論が「殺人を犯すなら、殺される覚悟が必要である。」 殺される者の生命と殺す者の生命を等価に扱うことで、そう「人として」その生を全うできるのかなと思えます。

 逆説的に「じゃあ、殺される可能性がないなら(死刑廃止)なら殺人行為を行えないじゃないか。」とご指摘される方には、これは私個人としての感情論であって、死刑制度の有無が”私個人”の殺意に影響するとは思えません。 (幸いにして、実行に移すほどの強力な殺意を抱いた経験は今までありませんでしたから、あくまで仮定の話です。)

 逆に加害者(死刑囚)を同じ人間として扱う前提に立って想像するに、殺意を持って殺人を犯した者が殺人という行為に否定的な感情を持ち続けるには自らの生命を持って贖うしかないとも思えます。
 被害者、加害者ともに人としての尊厳をもって生命を全うさせるには死刑(社会における殺人)の選択肢を失う事は、下世話な言い方ですが「殺され損」「殺したモン勝ち」を認めてしまう事になる気がします。

 以上は私の妄想に近い考えですが、現実的には死刑判決の適用には多大なる慎重さが要求されますし、冤罪の可能性も出来うる限り排除する必要はあります。それでも尚、全ては人が人を裁くのですから無謬は期待できません。 私としてはその錯誤の可能性も踏まえたうえで制度としての死刑は廃止すべきではないと感じています。

 おそらく、欠陥だらけ(突っ込み所満載)でしょうが、私としては今現在の時点では死刑制度についてはこのスタンスが一番しっくりくるのもまた事実です。

自分の欲望ゆえの殺人も
人権という権利のひとつ なのでしょうか?
特に死刑撤廃論の方に聞いて見たい。

命に対等なものはなんでしょうか?
一度断ち切られ無くなってしまった命は
なにがあっても戻らないとしても

命に対等なものってなんでしょうか?

死刑というものを考えていくと
結果「命というものの価値」をどう考えるかに
たどり着いてしまうのは
普段法律などに触れない生活をしていながら
いつ犯罪に巻き込まれるかわからない(被害者としても加害者としても)
一般人だからでしょうか?

これも感情論
なのでしょうか…。

いきなりの横入り発言、ごめんなさい。

死刑制度についてのスレではないですので、感想だけですが、

1.人の生命を奪ったものはどう処されるべきか
2.法・制度としての死刑の是非

のような2種類のものがあって話がずれているような気もします。

 広い意味での「殺人事件」がなければ「死刑」を廃止にこれほど反対があるのか、と思えば、1.の部分についての納得がえられていないのでしょう。
もっとも、2.において、死刑制度は認められない、ということであれば1.がどうあろうとダメなので、2.においての納得できる言説があればいいのかもしれませんが。

 あと、1.について言えば、「命を持って償え」というようなものを排除できるかどうかという点もあるのかな、と。
地下鉄サリン事件ではないですが、例えば、50人の無関係の人々を毒ガスで殺した犯人がいるとして、(2.の観点:死刑を廃止してしまえば、そのような犯人も死刑に問えなくなる、とかは置いておいて、1のみで)、少なくとも私はこの犯人は死刑なんかなあ、と思ってしまいます。
でも、被害者に家族も知り合いもいなければ復讐ということはないですし、再犯の危険性も「終身刑」で事足りる。では、なんで「死刑」って思ってしまうのか、ということでいうと、もうこれは、「50人もの命を奪ったんだから命を持ってどうこうするしかないんじゃないか?」というものがあるんだろうと。

上からの議論をROMった死刑存置派としては
1.冤罪があるから死刑は許されない
2.冤罪がなければ許されるのか?
3.冤罪だけが問題ではない(すり替え)

のお決まりのパターンになりそう気がします。
モトケン様のおっしゃる通り100%冤罪の恐れがない案件(狭義の意味でも)はまず存在しないとは思いますが、
思考実験として、
まずは100%発生しない場合許されるかを考えた後に
1.死刑のコスト(どれだけ冤罪が許されなさという意味)*冤罪発生確率a
2.無期懲役のコスト*冤罪発生確率b
(冤罪による死刑回避のバイアスを考慮してa

が釣り合っているか探るのが定量的な話の進め方のように感じます。

別の観点からもうひとつ

死刑否定派の方々?は死刑に対して「責任」を求められることが多いように見受けられますが、
逆に「死刑を選択しないことに関する責任」をいかにお考えでしょうか?

死刑を執行しなかったことにより、恐怖心を長引かせた責任
殺人犯が死刑ではなく無期懲役となり、出所後また殺人を犯した責任
被害者遺族に対する処罰感情に対する責任

これらの責任をあえて無視することで、
責任回避の傾向を持つ日本人を誘導しているのではないかと邪推してしまいます。

PS.懲役刑の場合は金銭により補償できるって
最高で日額9800円ですよね。年収350万円程度で機会損失、慰謝料代わりになっているのでしょうか・・・
金額はまた別の話とは分かっていますが。

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