エントリ

朝日「死に神」報道、あすの会が抗議(産経ニュース)

 「全国犯罪被害者の会」(あすの会)は25日、「犯罪被害者や遺族をも侮辱する内容」だとして、朝日新聞社に「抗議および質問」と題する文書を送付した。

 文書は「確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族は、法相と同様に死に神ということになり、死刑を望むことすら悪いことだというメッセージを国民に与えかねない」などとしている。また、死刑執行の数がどうして問題になるのか−など4項目の質問に、1週間以内に回答するよう求めた。

 私の感覚によれば、こういう反応がでてきて当然だと思います。
 素粒子の筆者(及び編集者)に想像力が欠落しているのだと思います。政治家としての鳩山法相しか見えていなかったのでしょう。
 制度論については一通りの知識があるのかも知れませんが、1件の死刑の執行をめぐる多くの関係者の思いとその思いの重さ、深刻さというものを全く考えてなかったのでしょうか。

 要するに、命の重さを考えていなかったと言わざるを得ません。
 殺人事件や死刑の執行をニュースのネタ程度にしか考えていなかったのではないかとさえ思えます。

 朝日新聞社広報部は「いただいた『抗議および質問』を真摯(しんし)に受け止め、速やかにお答えする」とコメントを出した。

 コメントを待つことにします。

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数字から見えてくるもの のコメント欄で、ハロー・テキサスさんからいただいた以下のコメント 至極まっとうだと思いますが、こういう動きも出ています。 http... 続きを読む

コメント(357)

たしかに、被害者遺族の会の方が抗議したくなる気持ちも判りますが、

確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族は
なんて事を公言するのは、ちょっと、いかがなものか、と言う気もします。
もし、仮に、例のコラムを書いた人物が、単に想像力が足り無い人じゃなくて、確信犯的な釣り師だったら、今頃、大物が釣れたと、大喜びしてるんじゃないかと。

週刊誌二誌に、A新聞コラムの執筆者に関する記事が掲載されたようです。
私は、週刊誌に目を通しておりませんが、中吊りのタイトルだけ見ると、何やら過去にも問題を起こした人物のような印象を受けます。

ご遺族のすべてではないにしても、

確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族
がおられるのは当然と思います。大事な肉親を殺されているのですから。

新聞ネタとしては

最初は死刑になって欲しかったが、加害者と交流するうちに死刑制度への疑問が湧き…(以下略)
というたまに見かける展開の方が面白いし、朝日新聞の価値観に合うのでしょうが、それをご遺族に求めることは新聞の役割ではありません。私としてはやっぱりこのコラムは「筆が滑った」印象が否めません。こういうコラムが出た基調には、ニュースのネタとしてとりあえず感情むき出しで法相を批判しておけば、
上から目線で政治家や医師を叩きたい、という一部の読者の情動に応えることになる
という新聞屋さんの目論見もあったのでしょう。少なくとも品のいい考え方じゃないですね。

No.3 enagoyaさんに賛同します。
>No.1 万年下っ端プログラマさん

確信犯的な釣り師だったら、今頃、大物が釣れたと、大喜びしてるんじゃないかと。

もし、大喜びしてるとしたら、次の一手はまた大叩きされそうですねw


文春買ってきたんで、載せときます。

素粒子担当論説委員の呪われた「前歴」(週刊文春より要約)
77年入社。社会部を歩み、00年「週刊朝日」編集長。07年12月朝日新聞論説委員。
99年 全日空ハイジャック機に乗り合わせるも、カメラ持たずスクープ逃す。社会部がっかり。
99年 「雅子さま 懐妊の兆候」スクープ時の担当デスク。(雅子さまは流産)宮内庁怒り、朝日謝罪。
00年 「週刊朝日」編集長に"栄転"。前任者が始めた、武富士利益供与問題に図らずも関与
02年 同誌に連載の決まっていた大江健三郎の批判匿名コラムを掲載。担当役員が、出版担当付けに"左遷"を言い渡す。

周りがあまり見えず、いろいろ空回りしてる方との印象です。
どう読んでもあのコラムにユーモア、ウィット、風刺やらの、読者が共感する部分は全くないと思いますし。

私には、被害者団体の方が過剰反応をしているように見えます。

朝日は死刑を茶化すようなことを書いて、その倫理性について弁護の余地はありませんが、被害者団体が、自分たちまでと、そこに出てくる当事者適格があるのか、と。
人の死を求めているのは、少なくともここで抗議をする被害者団体とて同じなのですから。本村洋氏は、記者会見などを見る限り、自分が人の死を求めていることを自覚しているようでしたが。

>No.5 風の精霊さん

 実は、私のエントリも過剰反応かな、という自覚はあるんですが、ここは過剰反応しなきゃいけないんじゃないかと思って反応しております。

被害者にとって犯人こそ死神。
そいつらを死刑台に送る法相が死神なら、彼は死神の死神となる。(どっかで聞いた台詞)
マイナス×マイナスだからプラスイメージだね。

私もこの記事を見た時、No.5 風の精霊さんと同じ事を思いました。

それと、こういうニュースって無価値だなと。
マスコミ自身が自爆して見せて、批判をニュースにする。
記事書くほうは楽ですね。ネタが無いときは自分で作るんだから。
最近こういうの多すぎです。

それから、新聞離れが進む中、たぶん夕刊の読者なんてほとんどいないでしょうに、注目を集めましたね。
これ程度の低い売名行為ではないですかね。
あまり相手しないほうがいい気がします。

ちょいズレ。
 朝日新聞は、この時期(夏の甲子園)をターゲットに営業かけるけれど。
 営業部は、大打撃だよね。「死神」の朝日新聞て言われるから・・・。

No.3 enagoyaさん>

確かに、遺族の方ならば、犯人の死を望んでも仕方無いとは思いますが、それを、堂々と公言されると、個人的には、どん引きしてしまいます。

確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族

と言うのが、被害者遺族会が出した文書内の言葉そのままなのか、新聞社の側で要約した言葉なのかは、判りませんが、どっちにしても、もう少し柔らかいと言うか、オブラートに包んだ様なと言うか、そんな言い方は無かったのか、と。
私としては、これ書いた人は、ある種の視野狭窄に陥ってるんじゃないのか、って気がしたので。

No.4 欄外さん >

私も、朝日新聞の「死神」云々のアレは、色んな意味でダメダメだとは思いますが、裏を返せば、ダメダメな餌に、自分から喰い付いた魚は、もっとダメダメじゃないのか、って見方も出来るんじゃないんですかね。
「死神」云々はダメダメだと思うからこそ、鳩山法相も遺族会も無視する方が良かったんじゃないかと言う気もします。
トリックスター気取りのアホに対する一番の対処法は、無視するか、一言、「つまらん」と言うかの、どっちかな訳で。

政治的に不利な本音を吐きましたね。
つまりはこういう事です。
「自分はある人間の死を切望している。この事に対して非難を受けたくない。」

即ち、彼らは自身の態度に正当性を持てないのでしょう。
鳩山法相同様、です。

朝日の記事は確かに程度の低いものですが、この程度のものを理由に
現在の死刑制度を支えている重要なファクターである犯罪被害者遺族の態度や鳩山法相の個人的なポリシーをアンタッチャブルにしてしまう事は絶対に避けられるべきです。

被害者遺族の方々の公開質問状は、文字通り公開されているようですね。

http://www.navs.jp/2008_6_25.html

私はponさんとは逆の見方です。

記事から読み取れる事実は、「全国犯罪被害者の会」は(正規に確定した)死刑が、決められた通りに執行されることを望んでいる。

と、なりますから正当性は完璧です。

刑の執行を、態度やポリシーの問題に持ち込むことは論点ずらし、ゆえに刑を軽視した態度です。

>No.11 ponさん

確かに正当性」被害者遺族にあるようです。
そのような「正当性」波状した論を展開するから死刑廃止論は、人の心に響いてこないのです。

追記です。
上記文書ですが、

--------------------
(私たちはその是非を自問自答しながらも、人の死を求めることを決断した。決断した以上は)
明確に執行を求める。なお、法律でも定められている。
そういう立場を天下の公器が「永世死刑執行人、死に神」と、中傷としかとれない表現で揶揄されているが、如何なる真意か。
--------------------

本村氏の会見などと合わせて考えると、私にはこうした文脈で読めましたので、特に過敏とも被害者感情過多とも思えませんでした。

MultiThink様
記事の中で注目している箇所が違うようです。

>死刑を望むことすら悪いことだというメッセージを国民に与えかねない。

このコメントは被害者遺族達が自身の態度(死刑を望むこと)はアプリオリに正しいことではなく、政治的な立場であることを自白しています。
そして、そのイデオロギーがあんな程度の低い揶揄一つで吹き飛ぶような危ういものであることも

自身の言動に自身のある人間は「自分の言ってることは正しい、自分に反論するな」等とは決して言いません。

>正当性は完璧
現行制度を前提にするならその通りです。
では立法段階に立ち返った議論ならどうでしょう。
死刑制度を改めて導入するか否かという岐路に直面した場合、制度を創設するべし、あるいは維持するべきだというどれだけ論理的かつ合理的な論拠があるでしょうか。

正式な手続きを経て確定した刑罰が執行されない状態に対する被害者側の感情としては「然もありなん」と感じます。
例えば、執行猶予のない懲役刑が確定した被告人がいつまでたっても刑務所に収容されない状態を想像したとき、やはり「あの裁判手続きはなんだったんだ」というような感情を抱いても仕方のないことだと思えます。
勿論現実には懲役刑の確定後には、被告人は刑務所に収容されるのですが、「死刑の執行を望む被害者遺族の心情」というものが先に述べたような一般論としての「確定した刑の確実な執行を望む心情」の発露とするなら、理解できないことではないと思えます。

今回の新聞記事は、「正式な手続きを経た刑罰が少なくとも刑訴法規定の期間を経過しても漫然と執行されない(ように見える)事への苛立ち」のような感情を刺激してしまったのではないかな、と思ったりもしています。

確定した刑罰の内容が内容(死刑)なだけに色々物議を呼ぶところはあるのでしょうけれど、少なくとも現在施行されている憲法下における政治体制とその下に現に存する刑法の規定に照らして、被害者遺族団体の側に正当性があると思えます。
事の発端になっている記事も、裁判所の判決を受けて法務大臣が死刑の執行命令を下すという「現行法に基づく現状の体制」を前提に書かれていると見込んでおりますし。

>No.16 ponさん

 私には、政治的な立場であるともイデオロギーであるとも思えません。

 私には、被害者・遺族の葛藤が感じられます。

 議論の出発点が低レベルな記事だったので、コメントするのもなんかなー・・・と思っていたんですけどちょいとだけ。朝日は無視してコメントします。

 刑訴法475条の規定は当然尊重されてしかるべきなのですが、同時に「六箇月」の規定が事実上死文化してるのも、それなりに理由があると思うので、歴代法務大臣が怠慢だったか、と言うとそう断じることには抵抗を覚えます。いくら努力義務規定だからとはいえ、本当に「努力」したりしたら間違いなく改正論議に発展すると思われます。

 法務大臣は法規・判決に従って執行しているだけ、と言うのは確かに正しいのですが、どのようなペースで、判決後どの程度の期間で執行するかについては、現状かなり広い裁量を持っているといわざるを得ない状況なのでこの点について何らかの批判は別にあってもいいと思います。
 個人的には「ペース」については死刑判決が増えている以上仕方がない(主導権は裁判所にあるべき)と思いますが、死刑判決後の期間についてはなんともいえません。宮崎勤に関して言えば、言葉は悪いですが「研究対象」としてはいまだ不十分なまま執行されてしまったな、と言う気持ちと、冤罪の可能性は極めてゼロに近い以上早期の執行も仕方ない、と言う気持ちの両方があります。

MultiThink様
言い忘れましたが、
今年に入ってからの死刑が鳩山法相の個人的なポリシーに拠っていること、被害者遺族の感情が死刑の重要なファクターを担っている事、いずれも単なる現実です。

thx-1138様

貴方の主張ではこうなります。
犯罪被害者遺族は死刑判決が出たことを理由に死刑を望む。
裁判所は被害者遺族の感情を理由に死刑判決を下す。
即ち、死刑を下す理由はありません。


いかにそれが自然な姿であろうが、犯罪被害者遺族が全て加害者の死刑を望まなければいけない決まりはありません。(実は有りますが)
死刑が法制化されているとはいえ、その執行書に署名するのが鳩山氏でなければいけない理由もありません。

全ては彼らの選択です。
そしてその選択が人間一人の死に繋がっているのであれば、その死の責任は当然負って貰いましょう。

No.21 ponさん

私はその名の通りど素人なのですが、ponさんの意見は、現実として日本に死刑制度が存在することを無視しすぎではないのでしょうか。

>No.21 ponさん
全ては彼らの選択です。
そしてその選択が人間一人の死に繋がっているのであれば、その死の責任は当然負って貰いましょう。

その一人の人間によって、尊い命が無残に奪われたのが、全ての原因じゃないですか?
そんなことがなければ、多くの人間が心を痛めたり、葛藤することもなかったのではないですか?

「自分はある人間の死を切望している。この事に対して非難を受けたくない。
下線の部分を「」で、くくるべきではないような気がします
「全国犯罪被害者の会」の方があたかもそう発言なさったかのような、誤解を招く恐れがあると思います

政治的な立場であることを自白しています。
等、個々の考えや意見を述べるのは良いことですが、事実と誤解を招くような言い切り方ではないでしょうか

モトケンさんの
 私には、政治的な立場であるともイデオロギーであるとも思えません。
に、激しく同意させていただきます

被害者遺族の方々は、おそらく事件さえなければ、人の死を望むこともなく人生を送られていたでしょうに

モトケン様

>死刑を望むことことすら悪いことだという

このコメントは死刑執行を望む自身の態度が正義だという前提を隠しています。

正義を前提とした主張は例外なくイデオロギーと呼ばれるものです。


ど素人様
死刑が制度化されている現実からスタートすると、どうしても死刑を維持するべき理由を引き出せません。

3児の母様

一段目
全くもって仰る通りです。
何の異論もございません。
即ち、その主張は私に対する反論にはなりえません。

二段目
通常の読解力があれば3児の母様の御見込みの通り読み取れるよう書きました。

三段目
私は自分が正しいと思う事を書くので、自然こういった文末になります。
ご了承下さい。

自分が死刑制度の理由を引き出せないから何でも死刑廃止論をふりかざして最もらしい言語で他者を傷つけまくる。反論されたら熱くなって潰そうとやっきになる。死刑廃止論を語る場じゃないだろ。結局、話を死刑廃止論にすりかえようとしてるだけじゃん。イデオロギーを一番人に押し付けるコメばかりでゲンナリ。

携帯人様

・私は死刑廃止論者ではありません。

・私のコメントで傷ついた方は今のところ確認できません。

・元記事の性質上、死刑制度に触れる事は避けがたいのです。

・私の主張はイデオロギーかもしれませんが、押し付けたつもりは毛頭御座いません。

押し付けたつもりがないは、主観。実際押し付けられた圧迫感も、こっちの主観。正解は無し。エントリーに対する意見もまた同じ。正解は無し。死刑廃止論者ではないのにやたら死刑執行関連に噛みつくのは、これまた不思議。

以前、ぷし子というHNでコメントさせて頂いたことがあります。
以降、akiraと名乗りたいともいます。よろしくお願いします。

ponさま
>いかにそれが自然な姿であろうが、犯罪被害者遺族が全て加害者の死刑を望まなければいけない決まりはありません。(実は有りますが)

(実はありますが)が、よく分かりません。
よろしければご教授願えませんか。
>このコメントは死刑執行を望む自身の態度が正義だという前提を隠しています。
と考えればよいのでしょうか?

KYですみません。(汗

モトケンさま
このエントリについての私見は長文なのでTBさせて頂きました。


No.24 ponさん

ですから、現実に最高刑として死刑制度が存在する以上、被害者遺族が死刑を求めることはごく当然だと思うのですが。

本村さんも同じようなことを仰ってたらしいですね。

ちなみに己の宗教心のみに従って死刑執行にサインしなかった杉浦前大臣についてはどう思われますか?

私からすれば、一個人の宗教心によって適正な法の運用が妨げられたという、鳩山大臣の件とは比べものにならない、由々しき問題である様に思うのですが。

No.21 ponさん

>そしてその選択が人間一人の死に繋がっているのであれば、その死の責任は当然負って貰いましょう。

主張する以上は責任を負っていることを自覚しているように見える方が多いのですが、ponさんはそうではない方をどこかでご覧になったのでしょうか。
(鳩山さんの自覚の程度は疑っていますが)

責任を自覚しているからこそ死刑と向き合い、容易には正当性に自信を持てないからこそ葛藤し、その末に出した決断を、先ごろ社会に影響力を持つメディアが、根拠も示さず絶対悪認定して嘲笑したわけです。

公の場でなされた嘲笑と無理解に、公の場で抗議する行為に、何ら問題は感じません。

>No.16 ponさん |

>>正当性は完璧
>現行制度を前提にするならその通りです。
>では立法段階に立ち返った議論ならどうでしょう。
死刑制度を改めて導入するか否かという岐路に直面した場合、制度を創設するべし、あるいは維持するべきだというどれだけ論理的かつ合理的な論拠があるでしょうか。

他の刑罰であっても、制度の立法段階まで立ち返った議論をするのであれば、それを趣旨で(交通被害者が法改正について)主張することもあるでしょうし、現行制度を前提としたコメントをすることもあるでしょう。

今回の被害者の会のケースは現行制度を前提としたコメントであり、立法段階まで立ち返っていないからといって問題はないでしょう?

もちろん、「そのコメントに対しての」批判もありえますし、批判すること自体を否定しませんが、「立法段階まで立ち返ってどうこう」というのは他の刑罰ではありえるのか、ということを見る限り、被害者・遺族のコメントを「正当性」「イデオロギー」うんぬんの問題とする方が、なんらかの「イデオロギー」によるものじゃないの?との印象を受けます。

pon様、今回の朝日新聞のコラムから派生した様々な意見と現象を、私なりに考察すると下記の通りとなります。同意頂けるかどうかは別として、ご一読頂きたく投稿致します。


日本国憲法と刑法並びに刑訴法に則って行なわれた裁判の結果死刑判決が下された。そして刑訴法の規定に則って法務大臣が執行命令を下す。これは日本国の法制度です。

日本国憲法で主権在民を謳い、国民の選挙投票により選ばれた国会議員で構成される国会に、唯一立法(法律改正)の権限付与することをを定めています。すなわち主権在民間接民主主義の国家制度です。

死刑制度を定めた刑法も、執行を定めた刑訴法も、主権在民間接民主主義の制度に従った、日本国民一人一人の意思表示の集大成と言って良いのではありませんか。

死刑制度に疑問を持つ。
死刑を廃止すべきという考えを公表する。
死刑制度を持つ現行の刑事裁判や司法システムの改正を求める。
このような言論はpon様も朝日新聞のコラムニストも日本国民であるならば、刑法&刑訴法の改正を国会で議論すべく主張するのが、主権在民間接民主主義の本道ではないでしょうか。

憲法と法律によって結果がもたらされた「死刑執行」という現実を否定したいのであれば、執行命令書に署名する法務大臣や、深い苦悩と心痛を背負っておられる犯罪被害者の会にではなく、その議論が向けられる方向は国会でなければならない。

しかるに朝日新聞がは法に則って職務を果たした法相を非難するというコラムを掲載し、そのコラムを否定せず執筆者を擁護する。ということは日頃「民主主義が大事です」と宣い、「民主主義を破壊する行為は許さじ」という記事を連発しながら、朝日新聞は自らが民主主義を破壊する行為を行なったことを天下にさらけ出した、と言って良いのではなかろうか。

>>No16

>鳩山法相の個人的なポリシー

「アルカイダの友人」にそんな高尚なものあるのかなあ・・・。

>被害者遺族達が自身の態度(死刑を望むこと)はアプリオリに正しいことではなく、政治的な立場であることを自白しています。
>そして、そのイデオロギーがあんな程度の低い揶揄一つで吹き飛ぶような危ういものであることも

「国がやらないなら、俺が殺る」という感情をイデオロギーだとか政治的と表するのはオーバーな気がしますな。
そしてたとえプリミティブだとしても、プリミティブであること自体は批判の対象にはならないと思います。

>制度論については一通りの知識があるのかも知れませんが、1件の死刑の執行をめぐる多くの関係者の思いとその思いの重さ、深刻さというものを全く考えてなかったのでしょうか。

知人に2人の元検事がおりましたが、一人はいわば、積極的に犯人を死刑にしたがるタイプで戦争中は満州国の司法省へ出向き日本人以外の人を簡単に死刑にできるような仕組みを作り、戻ってきては反東条のN氏を自殺に追い込んだ検察側の中心人物となり、戦後も私が知る限りでも2件の有名な冤罪死刑事件の成立に積極的に関っていました。(一件は最高裁で冤罪が晴れましたが、もう一件は、いまだに死刑囚のままです)

もう一人は死刑とか、そもそも殺人事件とかが嫌いなタイプで自慢は、やはりある有名な死刑冤罪事件が覆って無罪判決が出た時に控訴をしなかった、というのが彼の自慢でした。そんな性格だから、主に保護とか矯正畑を歩きましたけれど。

なんか、前者の検事は、あまり「死刑」ということに屈託とか、「重い感情」とかをもっていたようには見えませんでしたが。人間として人生としてどちらが幸せだったかはよくわかりませんが、大きな事件や、重大殺人事件を担当して検察主流を生きたのは前者でした。


さて
僭越ながらこのエントリでは少々しつこくこだわります。
つきまして携帯人様や3児の母様等におかれては私のコメントは無視、黙殺等の対応をなさる事をお勧めします。
あなた方が不愉快な思いをするであろう長口舌を展開するつもりなので。


まずはこちらの記事をお読み下さい。

http://blogs.dion.ne.jp/akiras_room/archives/7138434.html

私と同じ考えもあれば異なる部分もありますが、ともかく犯罪被害者遺族の会(通称あすの会)に関する事実がいくつか載っています。

昨晩は犯罪被害者遺族を抽象的にぼやかして表現しましたが、以降はこの組織に特定します。昨晩のコメントも含め、私の犯罪被害者遺族に対する主張はこの組織に対するものと考えて頂いて結構です。

犯罪被害者遺族の責任の話に関して一つ誤解を解いておきます。

犯罪被害者遺族が死刑を望み、その結果加害者が死刑に処された。
被害者は責任を負うべきか否か、被害者に責任を負わせるべきか否か、そういった政策判断の話だと思っているようですが、違います。
犯罪被害者遺族は自動的かつ機械的に、加害者の死に関して責任を負います。
これを選択に関わらない我々が責任を取り除く事は出来ません。
そして犯罪被害者遺族が責任を負わない事を選ぶのなら、文字通りの意味で責任回避です。
到底認められる事ではありません。

akira様

私が挙げた記事の後半に実例が載っています。

あすの会では犯罪者の厳罰を望む"正しい"犯罪被害者遺族像が設定され、それに反する言動は許されないのです。
(この点、本村氏のコメントとの矛盾が見られるのは興味深いですね。)

ど素人様

その行為が人間として自然である事は必ずしもその行為の正当性を担保しません。

自分の病気の辛さを分かろうとしない医者を殴りたくなるのも、気に食わない弁護士に懲戒事由無しに懲戒請求を送りつけるのも、同様に人間として自然な姿です。
そしてこの社会ではいずれも許容されません。

近代社会は人間として不自然な態度を要求するものです。

>No.36 ponさん

申し訳ございませんが、上記のコメントにて、私を名指しされる意味がわかりませんでした
例え親子であっても、思想も思考も違うのが当然であり、
自分と違うものを全て拒否・否定してきたつもりもございません
ponさんに、そう印象づけるような書き方をしてきたのかしらと、自己反省中。。。
こうして名指しで黙殺を勧められたら、ここで、もうコメントも控えなくてはと、考えました
我が家では中学生の娘も、高校生の息子もここを閲覧させていただいております
裁判員制度の仕組みを勉強したくて、ここを訪問させていただくようになったのですが、場違いだったようですね。。。
モトケンさん、ponさん、どうも失礼致しました
これからは、閲覧だけさせていただき、勉強させていただきます^^

しかるに朝日新聞がは法に則って職務を果たした法相を非難するというコラムを掲載し、そのコラムを否定せず執筆者を擁護する。 ということは日頃「民主主義が大事です」と宣い、「民主主義を破壊する行為は許さじ」という記事を連発しながら、朝日新聞は自らが民主主義を破壊する行為を行なったことを天下にさらけ出した、と言って良いのではなかろうか。

あのコラムって、そこまでムキになる程の物なんですかね?

私的には、鳩山法相への批判として見ても、ブラックジョークとして見ても、ダメ過ぎて、怒る価値すらない愚作のように思えます。

で、私の場合、あのコラムが、どうしようも無いダメダメな代物だと思うので、それに対してムキになってる人見ると、ダメだこりゃ、馬鹿に対してムキになる人って、それ以上の大馬鹿に見える事も有るんじゃないの、とか思ってしまいます。
たとえ、ムキになってるのが、鳩山法相だろうと、遺族会だろうと。

3児の母様

そうですね。
読み返してみたら、3児の母様を名指しする意味は特にありませんでした。
取り急ぎ3児の母様に関しては撤回します。
失礼致しました。

前略
正直、言ってもいないこと(犯罪被害者に対する侮辱)にこれだけ抗議する理由がわかりません。
「鳩山法相よ、態度だけ見ていると、堂々としているが、人の命を奪う刑罰の厳しさがわかってるのか?本当に慎重に慎重を重ねて、万が一にも間違いがないということなのか?」という気持ちを代弁したに過ぎないと思ったのですが。

PON様

つまり犯罪被害者よ、被害者遺族よ 大人になれ!

ってことですか?

今まで法の元に虐げられてきた犯罪被害者、遺族も最近になって

やっと公の場で意見を述べられるようになってきました。

それまでは精々ニュースやワイドショーで数日間遺族が泣き崩れる

シーンが流れるくらいだったような。

ニュースの中心はいつも加害者のことばかり。

結局いつも被害者側は泣き崩れ、無力さを感じるだけです。

それに「明日の会」があまりにも過激な一方を向いた活動ばかりを

していると支持、共感している人々も違和感を感じ離れていくと思い

ますよ。


最後にPON様は被害者にどのような行動を起こせと思っているのです

か?

黙って法の裁きにしたがえ

ですか?

>No.41 万年下っ端プログラマさん

 要するに、当事者と第三者の温度差ですよ。

>No.37 ponさん

>犯罪被害者遺族は自動的かつ機械的に、加害者の死に関して責任を負います。

貴方がいう犯罪被害者遺族の責任とはどういうものなんですか?

私には言いたいことが伝わってこないです。
「あすの会」を糾弾したいだけでしょうか?

>で、私の場合、あのコラムが、どうしようも無いダメダメな代物だと思うので、それに対してムキになってる人見ると、ダメだこりゃ、馬鹿に対してムキになる人って、それ以上の大馬鹿に見える事も有るんじゃないの、とか思ってしまいます。

最初の馬鹿が権力さえ持ってなけりゃ、いいんだけどねえ・・・。権力を持った馬鹿をほっとくとどうなるかは今の日本を見てりゃ・・・。(以下自粛)

Yacht様

昨年ある犯罪被害者が死刑嘆願の署名を集めましたが、これは自身が加害者の死刑を望む事の責任を署名者に分散させようとするものであり、責任回避の態度が見られます。

もっと言えば自身の主張を政治団体に仮託するのも責任回避です。

>ponさん

まず、HNを書くなら、コピーペーストを推奨

MultiThink様
言い忘れましたが、
今年に入ってからの死刑が鳩山法相の個人的なポリシーに拠っていること、被害者遺族の感情が死刑の重要なファクターを担っている事、いずれも単なる現実です。

死刑は裁判の結果です。
被害者遺族の感情が判決に直結した現実は知りません。

thx-1138様 貴方の主張ではこうなります。 犯罪被害者遺族は死刑判決が出たことを理由に死刑を望む。 裁判所は被害者遺族の感情を理由に死刑判決を下す。 即ち、死刑を下す理由はありません。
「犯罪被害者〜」はthx-1138の意見で無く、ponさんの言葉ですが。

裁判所は(将来の裁判結果)死刑判決を理由に判決を書くのですか?
時間を超えて?

死刑が法制化されているとはいえ、その執行書に署名するのが鳩山氏でなければいけない理由もありません。
署名は法務大臣で無ければならない、のですが解っていますか? 解っているならば、責任放棄の幇助ですが。
・私のコメントで傷ついた方は今のところ確認できません。
>被害者遺族の感情を理由に死刑判決を下す。

この一言で、ほぼ全ての関係者を傷つけているのに?
ああ「犯罪被害者遺族の会」については、この件の後で、興味が湧けば、見てみます。

No.46 モトケンさん>

要するに、当事者と第三者の温度差ですよ。

それは、判ってるんですが、鳩山さんは法務大臣だし、遺族会は、個々の遺族の集まりと言うより、自分達の主張を社会に向けて発信している市民団体的な物ですよね?

つまる所、鳩山法相も、遺族会も、初心なだけ、善良なだけ、純粋なだけじゃ済まない道を自分で選んでしまったと言う見方も出来る訳で。

そう言う点からすると、鳩山法相も、遺族会も、あの程度の代物に過敏に反応するってのは、ちょっと、危なっかしいんじゃないか、って気がします。

この問題の「当事者」って鳩山大臣ですよね。
私なんかは、名指しで批判されたからにはきちんと反論はすべきかと思いましたけどね。

ただ、当事者である鳩山大臣がコメントを発表したあとで、遺族会が発言する必要は無かったんじゃないかなぁ。

>No.48 ponさん

つまり、何の落ち度もない、法の範囲内の事項を望んでいるに過ぎなく、既に心の負担を負っているだろう「被害者遺族」に対して、更に「加害者に対する心に負担持つことを義務付けるべき」ということですか。

国の代表として裁判官が下した判決を死刑・懲役判決でも何でも「望んでいる」ならば「加害者」に対する人権に対して心の負担をしなければならないということですね。

そんな負担を義務付けるのであれば、「望んでいる」ならば被害者遺族その手で送ってあげたほうが良いでしょうね。
法治国家として退行させることをお望みか?

以前からROMってましたが、貴方のスタンスは当事者でなければ黙っていろみたいな感じだったと思います。であるならば、この件について被害者遺族について噛み付くのはダブスタに見えますけど。
(当コラムに対して被害者遺族は死刑判決に絡む当事者であると認識してます。)

>No.51 マツクラさん

 私は、ここでの「当事者」というのは具体的な死刑の執行に関係している人の意味で使っています。
 その意味では私も当事者であったことがあるわけです。

MultiSync様

HNの件、失礼致しました。

以下の御指摘ですが、一点補足します。

「執行書に署名するのが鳩山氏でなければいけない理由はない」
は、
「法務大臣の任に就くのが鳩山氏でなければいけない理由はない」の意です。

私の文章の至らない為ご迷惑をお掛けしました。

他の御指摘ですが、不毛な揚げ足の取り合いに発展することが予測されるため、回答を控えます。
ご了承下さい。

 私もNo.41 万年下っ端プログラマさまの意見にちょっと近い感覚です。なんか煽りにマジレスしてるような気がしちゃって・・・
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 「明日の会」の話は今まで知らなかったので、参考になりました。もちろん一方の意見fだけで判断するつもりはありませんよ。でも面白かった。
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 繰り返しになりますけど、なんか鳩山法相は法に則って執行してるだけ、みたいな雰囲気になってますが2ヶ月ペース&死刑確定から執行までの期間も大幅に短縮されて執行されている、と言う現実をそこまで安易に肯定していいもんなんですかね。いや、個人的には別に否定もしないんですけど、肯定するのはちょっと抵抗があります。
 ・・・ってこんなこと書くと議論が錯綜

ピラニアみたいにここの人たちは
許せないものに噛み付くものなのですね。

って、私は思ってたんだけど。
言葉を変えたらいじめとかなりかねない状況はかなりの恐怖です。

その後の話はありますが
今はおさえておきます。

ひよこっこ倶楽部様

再度申し上げます。
これは政策判断の話ではありません。
死刑に限らずあらゆる選択にはその結果に責任が伴う。
それだけの話です。
我々の判断の余地など欠片もない、ただの現実です。

そしてどこから出てきたのか分かりませんが、「加害者に対する心に負担持つことを義務付ける」事などそもそも出来ません。

>当事者でなければ黙っていろ

その立場に則るならば、加害者の死に責任を負うことが苦痛であるというのは、部外者であるひよこっこ倶楽部様の推測です。
加害者の死に積極的に関わる事で事件からの解放を得る被害者遺族もいるかもしれません。
本村氏などはその典型だと思います。

No.39 ponさん

まぁくだらないことですが、私は一言も「自然」とは書いてません。
被害者遺族が極刑を求めることは今の社会では許容されています。

これは現状としてそうだということです。
20年程前だったらあまり良い印象は受けなかったかも知れませんが。

被害者遺族が心中で極刑を望むことはごく自然なことかも知れませんね。

あなたは極刑を望む被害者遺族をいろいろ批判してますが、あなたの言っていることは難癖の類にしか見えませんよ。

>No.54 ponさん

前レスは御自分で咀嚼されればそれで結構です。
尚、コメント覧が印象操作やこじつけで読み難くなることが無ければ、レスを追加する気は有りません。

>No.56 どうだろうさん

 批判すべき点があるなら具体的に指摘したらどうでしょうか。
 あなたのコメントは単なる印象操作です。

>No.60 モトケンさん

僕は何があっても「恥さらし」にはなりたくないのです。

そこまで突っ込むからこそ
自分の言葉の甘さを知っていただきたいです。


#勿論、モトケンさんが相当にいい結果を出した大学の
#法科大学院の教授であることを認識した上での話です。

>No.61 どうだろうさん

>僕は何があっても「恥さらし」にはなりたくないのです。

 ではこのブログで他者を批判するのはやめてください。

>さらに どうだろうさん

 これ以上発言を続けるのであれば、私が短大生を「恥さらし」と言ったことと、あなたが「ここの人たち」は「ピラニアみたい」と言ったことがどう違うのか説明してください。

>ではこのブログで他者を批判するのはやめてください。

約束はできませんが
頑張ってみます。

本当に思うのは
いい意見を言ってくれた人が消えている事実です。

「ああ、俺ごときで」と思います。
そこは重んじます。

どうだろうさん
すでに恥を晒してると感じた。まずはエントリー内容に噛みついてみて、反論されりゃその場凌ぎの矛盾した単語を並べる。更に突っ込まれりゃ感情的に批判。単語一つ一つは巧みだが、品の欠片も感じない。それからピラニアは決して獰猛ではなくむしろ臆病な魚類。臆病だからこそ、距離をとり、スピードをつけて餌を食す。比喩には適さず。自分の言葉の甘さを知っていただきたいです。

>No.63 モトケンさん

「いえるもんなら言ってみな」だったら
私の言う意味はあると思うんですが
そういうものでもないですよね。

僕は、結局20歳前後なんてガキなんだから
もうちょっと我々が
「二十歳のガキを蹴飛ばす大人になった方がいいんじゃないか?」
と思います。

あの言葉は、社会的立場があればあるほど
「許せないものです」
自分の投げてる言葉の自覚は「心の底」から求めます

エントリの主旨からは脱線しますが、思うところを投稿させて頂きたく。

私は今回の件に限っては、法務大臣を批判する意見を表明しませんでした。
それは、如何に悪法であっても個人の主義に反する規定であっても、現に法律が存在すればそれが国民全体の意思であり、個々人への奉仕者ではなく全体の奉仕者である公務員はそれに従うのが勤めと思う故の事です。
個々人の主義に反する法律を目の前にして、法律(決して法律案ではありません。)に対して外形的・手続き的にではなく究極的に製造物責任を負うのはどのような立場の方達なのか?という事にも目を向ける必要があるのではないでしょうか。
単に行政組織の関係者を批判したり袋だたきにするだけでは望む結果が得られない事も、今の政治体制下において事実として存在すると思いますので。

今回のエントリの主旨は死刑制度そのものでは無いので敢えて触れることはしてきませんでしたが、死刑の存続及び刑訴法第475条の大臣署名及び6箇月規定については、国会の場や広く世論として正面から十分に論議される必要があると言う点については私も同様に思います。

私も、基本的にthx-1138さん のお考えと一緒です。
本件の内容と直接関係はないのですが、日本では、自動車の法定速度のように、守っている人が少数で実態にあわなくなっているのに、法律を改正しようという動きが出てこないのが不思議でなりません。

>No.67 thx-1138様

>死刑の存続及び刑訴法第475条の大臣署名及び6箇月規定については、国会の場や広く世論として正面から十分に論議される必要がある

同意です。
議論される必要があることを忘れている者が如何に多いことか。正面からの議論の必要性に思い至らない浅慮の行く末が、表面的に死刑執行を代表する「法務大臣」という肩書きを持つ、たった1人の関係者を批判したり袋だたきにすることに帰結していると思う。

>行政組織の関係者を批判したり袋だたきにするだけでは望む結果が得られない

本質は国民一人一人が死刑制度の是非について考えて悩み、誰を法務大臣を任命するのかの権限を持つ内閣総理大臣をどの政党から選出するのか、刑法や刑訴法等の法律規定をどのように整備改正するのか、こうしたことを選挙権の行使という手段で主張することが大事ではないのか。

私は朝日新聞の加藤氏の書いたコラム記事には、そこまでムキになる程の大きな論点が潜んでいると思う。

あすの会が特定の思想を掲げ、政治的な手段を持って、政治的な目的を果たさんとする政治団体である事については、既に異論はないと思います。

政治的な主張である以上は、他の対立する主張とも相対化された上で吟味されなければいけません。

犯罪被害者の態度が絡む議論において、あすの会の主張がプリミティブなものと捉えられ、この国のアニミズムによって絶対化されている限り、公正な議論は無理でしょう。

ちなみに私が上で受けた「お前の〜という主張は関係者を傷つける」という主張は正にその典型と言えます。

ざっくばらんに言えば、あすの会が政治的な主張を発したとして、その主張を吟味する際彼らがいかに傷ついたか、彼らがいかに苦悩したか、そういった事は一切切り捨てなければいけない訳です。

議論たけなわのところ恐縮ですが、この記事に関しての私見を書きます。削除はどうかと思いますが、無視はかまいません。
1.「政治家としての鳩山法相しか見えていなかったのでしょう。」→政治家を皮肉ってるのだから、当然でしょう。
2.「1件の死刑の執行をめぐる多くの関係者の思いとその思いの重さ、深刻さというものを全く考えてなかったのでしょうか」→考えたから皮肉ったのでは?慎重であるべき死刑を、堂々と、スイスイとやっていいのか、という問題意識があったのでは(法律論とは無関係に)?
このことと関連して、「命の重さを考えていなかった」とは言えないですね。

という立場に従って元記事を検証しますと、他の数人の方が認めるように、過剰反応です。

何故過剰反応をするのか?
政治団体としての宣伝行為、あるいは示威行為ではないのか?

こういう見方が可能になります。

>ponさん

 あすの会の活動が政治的な色合いを持っているのかも知れませんが、その根底にあるのは被害者感情、遺族感情であると思います。

 そのようなあすの会の代表幹事(犯罪被害者遺族でもある)名義の文書を吟味する際に、

彼らがいかに傷ついたか、彼らがいかに苦悩したか、そういった事は一切切り捨てなければいけない

という意見は全く理解できません。


>清高さん

 例によって言葉足らずでしたけど、私の

命の重さを考えていなかったと言わざるを得ません。

というのは、被害者・遺族にとっての被告人の命の重みという意味です。

 被害者・遺族が犯人に対する極刑を望むということは、被害者・遺族が、国に対して、「自分に代わって犯人を殺してくれ。」と言っているのと同じです。
 どういう気持ちでそう言っているのかということを、全く考えていないということです。

明日の会ってモトムラさんも加入してるの?

>No.48 ponさん

ご提示ありがとうございます。

ですが、署名を集める目的は、死刑という要求の実現と考えるのが妥当です。
死刑を望む責任が分散されるのは、結果として得られる慰めの一つに過ぎません。

今回の公開質問に関して、問題当事者であればあるほど、朝日の見識の低さを質しておいてよかったと思います。
鳩山さんの反発だけで終わるよりは、死刑の是非問題を真剣に考える機会を提供できたのではないでしょうか。


そんなことより、とにかくあすの会の主張の歪さに目を向けさせようとお考えですか?
(というか、そうとしか読めなくなってきました)

ざっくばらんには言わない方が良かったようですね。

モトケン様

政策判断の話です。
被害感情も遺族感情もその主張の政策的な妥当性とは全く関連しません。
という事を言ったまでです。
如何なる場合も彼らの心情を慮ってはいけない、と主張するつもりは御座いません。

Yacht様
およそ通常の常識人が、署名などで裁判の判決に影響を与えうると考えていたとは、とても信じられません。

結果として責任が分散され、そしてその結果を認識して行為に及んだならば、意図を認めない理由は有りません。

>主張の歪さ
Yacht様はつくる会の言動を歪だと感じましたか?
私はそうは思いません。
政治団体としてはごくごく普通の活動を行っていると思います。
歪さが認められるとすればあすの会に対する社会の反応でしょう。

流れを読まずに・・・

当初私は、全国犯罪被害者の会まで抗議することに違和感ありました。
こんな「しょうもないコラムの文章に噛み付いてもねぇ」みたいな感じで・・・

でも時間経つにつれ、浅慮溢れる「しょうもないコラムの文章」だからこその抗議なのだと気付きました。
「死刑」は執行・判決に関わる人以外にも、その原因となった「事件」にもそれ相当の命に関わる重さを十分過ぎるほど認識している人達が居ることに対する想像力欠如が「しょうもないコラムの文章」に表れたのでしょうね。影響力ある大新聞社が載せたとなると看過できない人もでてくるのは当然でしょうね。

私も「死刑」に関する事を考える際、この部分を忘れないよう心がけていきたいと思います。

--------
ところで、コメント欄に犯罪被害者に対する「責任」とう言葉が出てますが、読解力ない私には具体的に「何」を示しているのか解りません。誰かご教授していただけないでしょうか。

コメント受付は開始されてから時間をおいて何度か投稿してるんですが、「不正な要求です」とエラーばっかりで、はねられてしまいます(泣)
macだからなのか、メンテの影響なのか。

>No.38 ponさま

返信ありがとうございます。

>あすの会では犯罪者の厳罰を望む"正しい"犯罪被害者遺族像が設定され、それに反する言動は許されないのです。

そういう意味だっのたですね。同意です。

ここからは、モトケン様の元記事と、こちらの議論への個人的な感想を書きます。

No.36 でponさまがご紹介くださった拙blogの記事(アクセス解析でビックリして飛んできた次第です)と、TBが通らなかった記事「ふたたび「あすの会」について」をお読み頂いた方が多いようなので、重ねて多くを申し上げるつもりはありません。

かの抗議文を読んでいて強く印象に残ったのは、その文言多くが、方々の死刑反対派のblogコメ欄に、ステハンで書き込まれる乱暴な意見に酷似しているということです。(しかも、あすの会の抗議よりネット上の意見の方が早くから出ていましたし)

また、「あすの会」の方達が使う「犯罪被害者は」という言葉が、どれほど大きなの影響を与えているのかも実感しました。あすの会の会員以外の個々の被害者や被害者遺族の感情と、あすの会の意見表明は分けて考えて頂ければと願います。

akira様

以前ご質問頂いたときにはakira様のブログとは気付きませんでした。
ご迷惑おかけしませんでしたか?

ご紹介の記事、拝読しました。
加害者の死刑を願うのが犯罪被害者遺族の権利なら、加害者の更正を願うのも犯罪被害者遺族の権利ですね。

当事者団体の声を絶対的なものとして扱い、国政に絶大な影響力を及ぼす政治団体と化す例を我々はいくつも知っています。

あすの会の影響力が強くなればなるほど、あすの会に入っていない犯罪被害者遺族(又はあすの会から排除された犯罪被害者遺族)の権利が切り捨てられるのではないか、そう危惧しています。

「あすの会」様の今回の行動が過剰反応なのかという命題であれば、直接犯罪被害者遺族の立場に身を置いておらず、また当該団体とも現状では直接の関わりが無い私が軽々に断じるのは慎重でありたい、と思います。

一方で死刑を望む犯罪被害者遺族が望むことは「死刑」なのか「極刑」なのか?つまり犯人の死そのものを望むのか現行法における極刑が死刑であるから死刑を望むのか?という観点による議論というのは、今回の事案や当該団体の主義主張とは別途切り離して、死刑廃止論そのものをテーマとする場においては大きな論点となり得るのだろうなとは思います。

今回の事案で当該団体様が、自らにも批判の声が挙がることを見越した上でなのかそうではないのか、私には知る術もなく想像によって断定するつもりもありませんが、このような行動の原因となった新聞記事の内容については縷々書いているような見方をしています。この事案に関係するエントリへの私のコメントは、当初より当該団体や広く被害者遺族全体に対してではなく、あくまでも朝日新聞の執筆担当者の行為に対して向けられたものですので、念のため。

法務大臣や当該団体の方の今回の言動が、広く被害者遺族全体を代表する意見なのか否かには留意する必要は感じますし、当該団体の過剰反応と感じるかどうかは立場が違えば見え方・感じ方は違うのでしょうけれど、個人的には当該団体の主義主張に賛成するか否かは別として、関係者の心情としては然もありなんと思っています。

> No.69 法務業の末席 様

私としては、本件についても一般論としてもご見解に賛同する立場です。
主に行政活動について何等かの不都合を感じたときに、それが法令の誤った執行による行政組織の問題に由来するのか、法令の適切な執行の結果であって法令そのものの問題に由来するのか、そこの部分の切り分けが為されていない報道を目にします。
法令の誤った執行や法律を逸脱した政省令に由来するのであれば、当該行政組織に対する批判も全くご尤もなもので状況が改善されることを願います。
しかし法令の適正な執行の結果に由来するのであれば、法律案を法律として是認した国会の問題であり、批判や改善要望は本来的には議員に向けられて然る筈のものと感じます。
確かに法律案を作成したのは行政組織なのかも知れませんが、法律として認める権能は国会しか持っていないなのですし、政省令を作ったのが行政組織であっても法律からの逸脱がなければやはり根源的には法律の問題になりますから。

従って、法律の問題であればやはり議会に対して請願するなり議員氏に働きかけるなりそんな政権党には投票しないなどしない限り、行政組織(主として執行組織)を批判したり叩いても何も変わらないのですが、その点についてもう少し認識が深まれば少なくとも今よりは変化が望めると思うのです。

その辺りの問題を十把一絡げに行政組織(特に執行組織)を責めて改善されない事を怒っても、当の行政組織(特に執行組織)の権能を超える以上改善されないのは当然な訳ですし。
行政組織を叩く事だけが主権の行使ではないのですし、決して行政組織が主権を持っている訳でも無いのですから。

一応今回の報道姿勢への問題意識なのですが、汎化しすぎて脱線している気もするのでこの辺りで失礼いたします。

>管理人様
改造されたのですね、お疲れさまです。

その割りにコメントが伸びて居て、あまり入れたくないですが、一点だけ。
>pon さん

「お前の〜という主張は関係者を傷つける」

この文言はどこにも無いはずですが?
私の書いたものが近いので、もしもそのつもりなら。

「自分は誰も傷つけた覚えは無い」(だから問題ない)という意識に対し「他人からの評価は別」と指摘したもの。

それでも気が付かないのなら議論の価値が無いし。
「意図は違う」と主張するのなら、他の指摘への反応とも関連しますが表現や読解に問題が有りすぎ。

いずれにしても、自己主張ばかり強いのは議論が空回りです。

改装、お疲れ様です。

No.77 ponさん

>およそ通常の常識人が、署名などで裁判の判決に影響を与えうると考えていたとは、とても信じられません。

一般に“署名集め”を、目的達成を後押しする圧力のためではなく、自身の責任回避を第一目的として行われるというご見解は、私も信じられません。

問題は裁判官がどう考えるかではなく、署名収集者が何を企図したか、です。
そして、法曹ブログなど覗く趣味のない多くの“通常の常識人”は、裁判における署名の証拠能力など考察する機会も必要性もありません。
また、当該事実はあすの会が死刑求刑の責任を自覚していない事実の例証にもならないかと思いますが。
(バックアップしてたのですか?)

>Yacht様はつくる会の言動を歪だと感じましたか?
>私はそうは思いません。

No.38 等でのご発言から、ponさんは当該団体の言動を歪と感じさせる意図を持つと解釈しました。
(でも、違ったのですね)

>No.80 ponさま

お気遣いありがとうございます。特に影響は出ていませんので大丈夫です。
アクセスが急に増えたのでちょっと驚いてしまっただけです。

被害者代表という受け止め方をする一般の方は確かに多いと思いますが、マスコミの取り上げ方と、それをどう受け取るかの問題も多分にありますね。
また、抗議文の「被害者は」という表現に、私も過剰反応しすぎかなとの思いもありますが、やはり、ここでも「あすの会の方の感情」という表現ではなく「被害者感情」という言われ方をしているわけで・・・。
それは、しかたがないことなのでしょう。

無事コメントも掲載されましたので、以降、このエントリはROMに戻らせて頂きます。

個人的には「あすの会」の主張はちょっと言葉がきついかな、とは思いますが、私は「人殺し」によって肉親を奪われた方々の気持ちを論評する立場にはありません。「犯人」の即時死刑を望む方もあれば、「命は宝」という立場から死刑に反対する方もいらっしゃるでしょう。(今回の報道は、産経が朝日を批判するための「理由付け」に使った側面もあると思いますし、「あすの会」もそれに乗った側面もあるようにも思います)
ただ私は、日本の司法制度は「遺族の感情だけ」で左右されるようなものだとは思いません。確かに「遺族の感情に左右された世論」に影響されたように見える判決もありますが、それらの根拠は基本的に「法と判例と正義」だと思っています。(例えば「福岡の飲酒運転事件」の判決は、遺族の思いや世論に影響されたものだとは思いません。)
死刑(を含む司法制度)に関わる人を殺人者呼ばわりするのは私は好きじゃありません。「負け犬の遠吠え」に聞こえるときがあります。死刑制度が間違っている、と信じる方々には、そういう言い方は逆に世論の反発を招くだけではないですか?、死刑は絶対悪で死刑廃止は絶対正であるというスタンスでは議論は前に進まないのではないですか?と申し上げたいと思います。好むと好まざるとに関わらず、死刑は現行法で定められた制度です。繰り返し申し上げているように、死刑廃止を訴えることが目的ではなく、死刑廃止を実現させることが目的なら、死刑制度の残虐さを訴え、国民の合意を作り、国会で法律を変えるのが正しい方法だと思います。私も議論の中で納得できれば、死刑制度廃止に賛成します。今はまだその気にはなれません。死んだ人間には人権はすでにないのだから無視してよい、生きている犯人の人権だけは守ろう、と思える意見に与することは出来ません。死刑は報復ではなく故意に人の命を奪った(究極の人権侵害)者に対する相応の刑罰だ、と思っているからです。もっとも、自分が安全地帯にいるからこういえるのであって、裁判員として「死刑」に関わることになれば非常に悩むでしょうね。

少し話がずれるかも知れないのですが、死刑に関わる人々を「死神呼ばわり」するのは湾岸戦争後に掃海のために派遣された自衛隊員を非難するようなものではないでしょうか?
彼らは「命令」に従って任務に向かっただけです。非難すべきは「命令を出した側」でしょう?あの抗議活動のニュースを見たとき、「反対派」はテレビで報道してもらいたいがために、任務に向かう自衛隊に抗議行動をしたのだろうな、と私は思いました。少なくとも戦闘しに行くのではなく、戦場の後始末をしに行く人たち(私の個人的倫理観からいえば掃海活動をする自衛隊員には非はありません)にあの仕打ちはないだろう、と思いました。
長々とすみません。

死刑は殺人の一形態です。
殺す奴がいるから死ぬ奴がいる。
当然の事ですよね。

鳩山氏に「殺す奴」の汚名を着せたくないと言うのなら、それはそれで良いでしょう。

では誰が被りますか?

no.87 ponさん

>殺す奴がいるから死ぬ奴がいる。
 殺したからでしょう?
 当然の事ですよね。

>では誰が被りますか?
 法治国家に住む国民でしょう。


>法治国家に住む国民でしょう。

言い得て妙・・・同感です。

>殺す奴がいるから死ぬ奴がいる。
 
旨く表現できませんが、死刑という罰に対して、このような表現は違和感があります。

 pon さんは、鳩山法相だけでなく、法廷で死刑を求刑し、その被告人が死刑に処せられた私に対しても「『殺す奴』という汚名を着せ」ていることがわかっていますか?

 私は、「人を殺した奴は当然死刑だ。」という意見が氾濫していることについては聞くに堪えない感情論だと思っていますが、「殺人は人殺しだからやめるべきだ。」という意見もそれに匹敵する、あるいはそれ以上の感情論だと思ってます。

「死に神」報道に朝日が回答 「犯罪被害者の会」は納得せず
2008.7.2 15:42
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080702/trl0807021542009-n1.htm

 朝日新聞が夕刊1面コラム「素粒子」で、計13人の死刑執行を指揮した鳩山邦夫法相を「死に神」と表記した問題で、朝日新聞社は2日までに、全国犯罪被害者の会(あすの会)が同社に送付した質問書に対し、「気持ちに思いが至らなかった」と回答した。あすの会は先月25日、「被害者遺族にどんな気持ちを起こさせるか考えなかったのか」など4点について質問していた。
 回答は6月30日付。「法相に対する侮辱中傷になると思わないか」との質問には、「中傷する意図は全くなかった。侮辱、中傷と取られたとすれば、残念だ」と答えた。
 回答について、あすの会は「満足させるものではない」として、再び抗議と質問をする予定という。

だそうです。

 素粒子の筆者は、死刑制度に対して批判的な人間なんでしょうね。
 だったら、正面から堂々と、死刑制度を論理的、あるいは倫理的に批判する主張をすれば良かったと思うんですよ。
 それを「死に神」なんて物騒な表現を、きちんとした説明もせずに使うから批判されるわけで。
 「お前、普段は政治家や官僚に対して、『説明責任』を要求してるんだろ!!」と言いたくなります。

 死刑存置か廃止か、それ自体は個人の思想信条だから、まあ、どっちでもダメとは言えないと思うんですよ。
 ただ、全国紙でのコラムで、きちんとした論理構成も無いまま、合法的に行動した人間を「死に神」呼ばわりすれば、それは叩かれて当然としか言いようがないです。

『<朝日コラム>サリン被害者の会も「死に神」に抗議』

7月3日20時4分配信 毎日新聞

 6月18日付の朝日新聞夕刊コラム「素粒子」が鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した問題で「地下鉄サリン事件被害者の会」(高橋シズヱ代表世話人)は3日「(法相は)法に従って粛々と実行したのであり、非難中傷を受けることではない」などとする抗議文を朝日新聞社に送った。(以後省略)

波及しました。

モトケン先生
確かに、私の
>死刑は報復ではなく故意に人の命を奪った(究極の人権侵害)者に対する相応の刑罰だ。
というのも感情論ですね。
今後、死刑に関しては、もっと慎重に発言致します。
貴重なアドバイス、ありがとうございます。

pon様のお話を伺っていると、
「死刑」になる人には罪がなく、「死刑」に関わる人々だけに罪があるように考えておられるように思えてくるのですが、私の理解力不足でしょうか?

エンパワー様

国民全体が負うべきだと言うのなら鳩山氏も被害者遺族もその中に入っているはずです。
モトケン様

違います。
犯罪者が殺害されたという疑いのない事実に対して、その責を"誰が"負うべきなのか、それを問うています。
死刑を求刑した検察官が負うのか、死刑を求める犯罪被害者遺族が負うのか、死刑判決を下した裁判官が負うのか、執行書に署名した法務大臣が負うのか、直接死刑囚を死に至らしめた刑務官が負うのか、回答は自由です。
死刑を求刑した検察官たるモトケン様がその責を負いたくないと言うのであればそれはそれで良いでしょう。
別の人間にその責が移るだけの話です。

ただし、誰もその責を負わないという回答はあり得ません。

殺人という表現が気に障るのであれば別の表現をしても良いでしょう。
けれども、それが人の死を表す事、その死が"誰か"の意思に依るものであること、ここだけは絶対に曲げられません。

ここを誤魔化し、死刑という殺人行為の責を誰もが拒否するのなら、その時初めて「そんな欺瞞と誤魔化しに支えられた制度は廃止するべきだ」と私は主張します。

死刑は殺人だから止めるべきだ、などというシンプルな立場には私は立っていません。

通行人1様

今までの私のコメントを読めば(読まないでしょうが)わかりますが、死刑制度そのものを罪だと断じた事はありません。
死刑を求める事を罪だと断じた事も御座いません。

ところで通行人1様は死刑に関わる事を罪だと考えているのですか?
私はそうは思いませんが。

>死刑を求刑した検察官たるモトケン様がその責を負いたくないと言うのであればそれはそれで良いでしょう。

 話をすり替えちゃいけません。
 ここで問題にしているのは、私が責任を負いたくないかどうかではなくて、あなたが死刑関与者に対して「『殺す奴』という汚名を着せ」ていることです。

 犯人の死刑を望んだ被害者遺族の方たちの責任を問うつもりは毛頭ありませんが、死刑を求刑する検察官を始めとして死刑判決をする裁判官、その判決の執行準備をする法務省の担当官、執行の指揮をする法務大臣らは全て自らの責任を回避しようとはしていません。
 検察官の心理的負担はまだ軽いほうだと思いますが、特に裁判官は自分の人生観をかけて深く思い悩みながらその責任を果たしているのです。
 検察官としても、検察官が死刑を求刑しなければ裁判所が死刑判決をすることはありませんから、死刑求刑は死刑の不可欠の要素となっています。
 
 そのような行為をしてきた私やその他の検察官に対して、「死刑を求刑した検察官たるモトケン様がその責を負いたくないと言うのであればそれはそれで良いでしょう。」と言うこと自体が重大な侮辱になることも理解できないようですね。

 あなたが「『殺す奴』という汚名」という言葉を使ったことからすると、あなたのコメントは死刑に携わる人に対する人格攻撃によって死刑制度に反対しているものとしか読めない。

 このエントリの元々のエントリは「死刑に対する朝日の見識」です。
 死刑制度の是非の問題以前に、死刑に携わる人間の苦悩と責任を考えることなく揶揄する朝日の姿勢を批判したものです。

 私は同様の批判をあなたにも向けます。
 そのような人と死刑制度論を議論する気にはならない。

 そうなると、私自身に対するダブスタの批判を免れるためには、あなたのこの問題に対する発言の自粛を求めるか、tmxさんに対する退場勧告を撤回するかのいずれかをしなければならないと思っています。

 ふむ。殺人であることは否定しがたいでしょうし、一つの生命を奪う責任が誰にもないというのは欺瞞ですな。

 その責については、第一には死刑囚本人にあるかと思われます。そして第二に国民全体が負うべきでしょう。
 検察官や裁判官や法相や刑務官はいわば国民を代表して死刑に関わっているわけですから、彼らを批判することは国民を批判することですし、当然国民が彼らを批判することなどできようはずもありません。

No.97 pon さん

>犯罪者が殺害されたという疑いのない事実に対して、その責を"誰が"負うべきなのか、それを問うています。

それでは、
犯罪者が懲役刑の名のもとに自由を奪われ監禁されたという疑いのない事実に対して、その責を"誰が"負うべきなのでしょうか?

それでは、犯罪者が罰金刑の名のもとにお金を奪われたという疑いのない事実に対して、その責を"誰が"負うべきなのでしょうか?

この点について貴殿のお考えを賜れば幸甚です。

ちなみに私としては、いずれも犯罪者自身が負うべきと考えております。犯罪を犯さなければ処刑などされることはなかったからです。

モトケン様

了承致しました。
このコメントを最後に発言を控えます。

数点追記を。
私のコメントに侮辱、揶揄の意図を感じたという事、これは私の配慮不足、表現力の未熟さによるものであり、全面的に私に非があります。
この点お詫びします。
モトケン様は、私が実際に死刑に関わった人間の苦悩を理解していないと指摘しました。
その通りです。
実際に死刑に関わった人間の苦悩し配慮する努力が必要だとしても、実際に死刑に関わらない人間がいかに想像力を発揮しても、関わった人間の苦悩には到底至らないでしょう。
もし完全な理解に至れば、今までの私のようなコメントは恐らくありえません。

しかし、だからこそです。
私は実際に死刑に関わっていない私だから言える事こそを、言うべきだと考えます。

そうでない、見かけだけ被害者遺族や死刑を求刑する検察官に寄り添ったような自分のコメントには、私は価値を感じません。

これは私がここにお邪魔する切っ掛けになった、光市事件以来の一貫した方針です。

(続く)

元記事の「死神」という表現も、私の「『殺す奴』という汚名」という表現も、関係者に配慮が不足しているという点で同様に不適切です。
ですが、加害者(もしくは被告人、もしくは死刑囚)の死を意図し、その意図が人一人の死に繋がっていること、この点だけは曲げられません。

モトケン様は被害者遺族の責を問わないと言いましたが、被害者遺族も当然責を負います。負っています。
そしてその責は制度とその背景を俯瞰すれば、国民全体が負っているものです。

誰一人死神呼ばわりから逃れられないのです。

死神呼ばわりという侮辱が侮辱として成立するのは、本来負っているはずのこの責から逃れようとする人間がいるからではないか。
私のコメントはこの点を問うたものです。

上のように私は一貫して死刑の存置前提の主張をしてきたつもりでしたが、これが短絡に廃止論と理解されてしまった事は残念でなりません。


長々と失礼しました。
以上です。

それでは。

じゃあ、話のすり替えじゃなくて、論点を2つに増やしましょう。

論点1 アナタ様が死刑関与者に対して「殺すやつ」という汚名を着せている事

論点2 死刑を求刑した検察官たるモトケン様がその責めを負いたくないとも取れる発言をしているが、モトケンの真意について

>ですが、加害者(もしくは被告人、もしくは死刑囚)の死を意図し、その意図が人一人の死に繋がっていること、この点だけは曲げられません。

 この点を曲げろと言った覚えはありません。
 私自身、死刑が人を殺すことであることは「自明」と言っています。

>実際に死刑に関わった人間の苦悩し配慮する努力が必要だとしても、実際に死刑に関わらない人間がいかに想像力を発揮しても、関わった人間の苦悩には到底至らないでしょう。

 理解に至らないことに対する謙虚さはお持ちでないのでしょうか。

>もし完全な理解に至れば、今までの私のようなコメントは恐らくありえません。

 完全な理解に至らなくても、理解しようという姿勢さえあれば、そして私のエントリの趣旨をご理解いただけていれば、あなたのようなコメントはあり得なかったと思います。

>私は実際に死刑に関わっていない私だから言える事こそを、言うべきだと考えます。

 多くの国民は死刑に関わっていません。
 しかし、死刑制度の存廃はそのような国民の総意にかかっていると思います。
 議論は大いにするべきです。
 しかし、その過程で死刑に関わっている人に対する人格攻撃(と読める表現をすること)は、このブログにおいては容認することができません。

>そしてその責は制度とその背景を俯瞰すれば、国民全体が負っているものです。
>誰一人死神呼ばわりから逃れられないのです。

 国民一人一人が死刑とその執行に対する責任を負っているとしても、国民が「死神呼ばわり」されることが正当化されるとは思えません。

 コメントの冒頭で

>私のコメントに侮辱、揶揄の意図を感じたという事、これは私の配慮不足、表現力の未熟さによるものであり、全面的に私に非があります。

と言っておきながら、なお「誰一人死神呼ばわりから逃れられないのです。」と書くあなたは、自分自身の「非」はなんだと考えておられるのでしょう。

>死神呼ばわりという侮辱が侮辱として成立するのは、本来負っているはずのこの責から逃れようとする人間がいるからではないか。
>私のコメントはこの点を問うたものです。

 あなたのコメントがそのような問いかけであるとは読めませんでしたが、それは私の読解力の不足によるものでしょう。
 しかし、私の認識はまったく逆です。

 死刑に関わる人が死刑というものに真剣に向き合っているからこそ、そういう人たちを「死神呼ばわり」することが侮辱になるのです。

 あなた自身が、「死神呼ばわり」を「汚名」と書いたことを忘れないでください。

 そしてよく考えてください。

 犯人に対する極刑を望むと口にした遺族
 被告人を死刑に処すべきであると求刑した検察官
 被告人を死刑に処すと宣告した裁判官
 死刑の執行を指揮した法務大臣

 これらの関係者が、その責任から逃れられると思っているのですか?
 逃れようと思っていると考えているのですか?
 それこそが侮辱であると既に書きましたよね。

 pon さんがコメントすることは引き続き認めます。
 同時に、tmxさんに対する退場勧告を撤回します。

 しかし、私のこのコメントがまったく理解できないのであれば、そして理解する気がないのであれば、これ以上の議論は不毛でしょう。

>死神呼ばわりという侮辱が侮辱として成立するのは、本来負っているはずのこの責から逃れようとする人間がいるからではないか。

違いますね。
「死神呼ばわりという侮辱が侮辱として成立する」のは、そもそも人を指して『死に神』と呼ぶこと自体が侮辱だからです。責任の所在とは無関係です。

そして死刑「執行」という、リーガル・サンクションの最終局面に対して嫌悪感を抱くから『死に神』という表現が出てくるのです。
刑の執行という個別具体的な「事実」は、死刑「制度」や死刑「判決」といったプロセス部分に比べてはるかに生々しく現実的で、分かりやすいですから。

累代の法相が押しなべて消極的(もしくは慎重)であった死刑の執行命令について、その件数から推し量ると積極姿勢を採っていることから、私の感覚としては現法相は何か「生命に対する畏敬」のようなものが欠落しているか不足があると思え、よって『嫌悪感』を覚えます。

が、ponさんの一連のコメントにも、かなり強い嫌悪感を抱いています。死刑制度自体や、その執行に対する諾否の姿勢の問題ではなく、その考え方のプロセスや感じ方が・・・ご自覚はないでしょうし、なにより非常にセンシティブな問題にかかわるのでこれまで言及を避けてきましたが「食肉加工業従事者等を差別する理屈」と、そっくり同じだからです。

社会のシステムとして存在する「(負の)事業」に関して、その直接的実行に携わっていることをもって『責任』の語のもとに、従事者への否定的な感情を向けることを正当化する類の思考、なんらかの『穢れ』を自分から遠ざけんとすることが行動原理の根底にあるやに見受けられる発言は、結論への賛否にかかわらず、私には断じて受け入れ得ないものです。

結局何一つ、自分の発言の非を見つめ直す気がないと受け取れた。自説を押し通す為には、他者の読解力不足で、誤解だと言わんばかりだ。死刑制度がある以上、責は国民全員があるものとしても、因は加害者じゃないのか?問題は、今回の朝日の記事は、責について鳩山氏が認識不足故、責を十分認識した記者が…とは思えぬからこのようになってるんじゃないのか?自身の責を記者にponさんは熱く語ってあげたらどうか。自分が絶対正論と少しも譲る気が感じられないコメントの連続に、驚きを感じたね。

pon様

失礼しました。
pon様は「死刑は殺人の一形態です」とおっしゃってはいますが、「殺人=罪」と頭の中で返還したのは私です。pon様は「殺人=罪」とは考えておられないと理解してよろしいですか?

全ては彼らの選択です。
そしてその選択が人間一人の死に繋がっているのであれば、その死の責任は当然負って貰いましょう。

私は、現憲法下の日本における死刑というものは基本的に故意に犯した殺人に対する刑罰の中で一番重たいものと考えております(過去には冤罪事件があったのも理解しています)。ですから、被害者が殺されたという疑いのない事実に対して、その責任を"誰が"負うべきなのか、それも問いたいと思います。愛する肉親を殺された遺族の「犯人に対する怒りや憎しみ」は自然な感情だと思うのは間違ったことでしょうか。
「自分はある人間の死を切望している。この事に対して非難を受けたくない。」
即ち、彼らは自身の態度に正当性を持てないのでしょう。
ある人間が「無実」の人なら、その人の死を切望することは倫理的に間違っている、と思いますが、ある人間が自分の家族を殺した犯人だとしたら、その死を切望する、というのも人間の自然な感情としてありうると思います。もちろん「暴力の連鎖を嫌う」「宗教上の理由」などでその人の死を望まない家族がいるということもありうると思います。その人間が殺人を犯したという前提を外した「ある人間の死」という言い方は誤解の元になると思いますし、正当性をもてないからこういったのかどうかは推測の域をでません。

犯罪被害者遺族は自動的かつ機械的に、加害者の死に関して責任を負います。
これは、「死刑」判決を受けた人間に殺された被害者を身内に持った遺族に(彼らが裁判について一切意見表明をしなくても)自動的に責任が発生する、ということですね?つまり、殺された人間に「遺族に対してそのような責任を負わせた責任」がある、と波及していくようにも読めるのですが私の理解は間違っていますでしょうか? 

お知らせいただいたとおり、「あすの会」が犯人への報復だけを目的とするあまり、その趣旨に疑問をもつ人々を排除していることに問題意識を持つ方も多いでしょうが、任意団体である以上やむを得ないと思います。殺人という犯罪で肉親を奪われた方々の「犯人」に対する気持ちはいろいろあるのが当然です。彼らが法を無視して「犯人」に「復讐」したのなら「犯人の死に責任がある」と思いますが、厳罰を望んだだけで「死刑判決に責任がある」というのは、私には飛躍しすぎに思えて理解できません。もしそうなら、遺族でも関係者でもない人間がその裁判について(法廷の内外を問わず)意見を述べるだけでもその裁判の判決に対する責任を負わなければならないのでしょうか?

No.108 通行人1
訂正です。

× 「殺人=罪」と頭の中で返還したのは私です。
○ 「殺人=罪」と頭の中で変換したのは私です。

どこのスレでご紹介しようかと思いましたが、ここにさせていただきます。
<特集ワイド>死刑執行13人 コラムで「死に神」 何かとお騒がせ鳩山法相の死生観

素粒子の意図は、「チクリと風刺」でしたね。

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ふうし 0 【風刺/▼諷刺】
他のことにかこつけるなどして、社会や人物のあり方を批判的・嘲笑的に言い表すこと。

あざわら・う ―わらふ 4 【▼嘲笑う】
(1)人をばかにして笑う。せせら笑う。嘲笑(ちようしよう)する。
-----

せせら笑う目的で「死に神」呼ばわりした事は明白に思えます。
責任を対象大臣と共有している自覚がなければ、わざわざ「自分も対象なんですけど」と名乗り出ないかと存じます。

議論がやっと収束してきたかと思っていたら、また発散してしまいそうなので発言します。

私がここまでこのコメントを読んできて、ponさんの主張したい事を"善意に"解釈すると、こうなります。(間違っていれば、ご指摘ください。また、あっているのであっても、(ここまでのコメントの流れ上)その旨表明していただければと思います。)


死刑制度の存置を認め、現在運用しているている日本と言う国の国民である以上、犯罪者に対する「殺人」である死刑に対し、なんびとたりともその責任から逃れられる事はない。それは私自身(ponさん)は勿論、鳩山法相も被害者遺族であっても同様である。

そうであるならば、国民すべてが「死神」であり、「殺人者」である事を自覚すべきであり、もしそのような非難や侮辱を受けたとしても、それを甘んじて受けるのが、責任を自覚した人間の態度であるべきだ。

よって、「死神」と呼ばれた事を非難するという態度は、責任を自覚していないもしくは、そのような責任を負いたくない、逃れたいと言う意思の発露であり、その事に対し、批判を行っている。


どうでしょうか。このような視点に立った上で、ponさんに質問です。
1.「死神」と呼ばれた側の立場の人、団体を批判されていますが、「死神」と呼んだ側はどのように思われているのでしょう。
私は、人を「死神」と決め付ける朝日の記者こそ、自らの立ち位置を責任の外においており、最も自分の責任を自覚していないのではと思いますが。

2.責任とは何で、責任の取り方とはどのような物でしょうか。
日本人一億二千万人が、「死刑に対し、私は責任があります。死神と呼ばれても文句は言いません。」と表明すれば、責任は取れていることになるんでしょうか?

コメントの許可が頂けたので、私宛ての投稿に対して返信だけします。

モトケン様
>私自身、死刑が人を殺すことは「自明」と言っています。

承知しています。
同じ事を繰り返したのは単にその事実を強調したいが為です。

>理解しようという姿勢さえあれば

これに対しては同じ事を重ねて申し上げるのみです。

配慮が足りないのであれば、より配慮しましょう。
理解しようという姿勢が無いのであれば、理解するよう努力しましょう。

それでもやはり私の意見は変わりません。

仮に私が人知を越えた想像力を発揮して関係者の苦悩を完全に追体験できれば、今のような意見は言えなくなるかもしれません。
逆に、モトケン様が納得するような意見を述べるかもしれません。

しかし、それは私の意見ではありません。

私の意見ではないものを私が投稿することは無意味です。
そして、モトケン様も認められるように、死刑は関係者の苦悩を理解していない多くの国民によって支えられています。
私はこの国民が100%関係者に同調するような事態を良しとしません。

(続く)

(続き)
>国民一人一人が死刑とその執行に対する責任を

国民一人一人が死刑とその執行に責任を追い、その自覚をもてば「死神」などと揶揄する人間はいなくなります。
仮に居たとしても、「死神」呼ばわりは揶揄として成立しなくなります。
国民が「死神」なのは当然の事であり、言う方だって「死神」なのですから。

>死刑に関わる人々が死刑というものに真剣に向き合っているからこそ

モトケン様が死刑というものに真剣に向き合っている事は信じます。
モトケン様が死刑に関わった事に対して重大な責任を自覚している事も、否定するつもりはありません。

しかし、他の関係者については分かりません。

モトケン様が代弁するように、重大な責任を自覚しているかもしれません。
他の方が代弁するように犯人に責任があり、自分には無いのだと主張するかもしれません。

私に分かるのは、他ならぬ私が、国民として死刑制度を支えていること、そして死刑囚の死に責任があることだけです。

>これらの関係者がその責任から逃れられると思っているのですか?

意思と選択に拠る行為の責任からは絶対に逃れられません。
出来るのは責任がないと主張することだけです。

>これらの関係者が〜その責任逃れようと思っていると考えているのですか?

恐らくこの点が私とモトケン様の対立の本質だと思います。

モトケン様は検察官時代、多くの犯罪被害者遺族と接してきたからこそ、そのような立場に立つのでしょう。

しかし、犯罪被害者も被害者遺族も全国に数万人います。
そしてあまねく関係者が一人残らず犯人の死刑に真剣に向き合っていると考えるのは私には理想論と移ります。

ここのコメント欄でも散見されるように、犯罪被害者遺族が犯人の死に対する責任を問うなとする声が大多数です。

仮に関係者が責任を放棄しようとしても、誰も分かりません。誰も咎めません。
しかしそれは許されざる欺瞞です。

だから、私はこの立場に立ちます。

ここまでのコメントの流れから少し離れますが、もしかして鳩山法相の一連の言動と軌を一にする動きだったのかな、と感じたことがありましたので。

従来、法務省も含め主流の見解は『刑罰は復讐・報復の代行を目的としたものではない』というものだったように思います。刑執行の結果として、そのような「副次的効果」があったとしても、です。
ところが、No.110 通行人1 さんがご紹介になった記事から伺える鳩山法相の「死刑」観は、随分と応報刑的側面に傾いているように見えます。

そこだけ見ると鳩山法相が役所と乖離しているように感じられますが・・・先に、刑を執行した際に「誰を」の氏名公表に方針転換をしましたよね。
無論、最も厳粛な刑罰の執行が国民の目から「隠されて」いいわけではないのですが、今のような世情において執行した対象の名前を公表したことで得られる「効果」としては・・・その一番は「報復感情の充足」なんじゃないかと思うわけです。

つまり、役所として公言はしていないながらも、方針としては死刑の位置づけを限りなく「報復」の側に振っているのではなかろうか・・・。うがちすぎですかね。

盛り上がってますね。流れ読まずに一言。

素粒子の人は下品なだけ。死刑には何の意見もないでしょう。
死刑反対の人だと思っている人がいるのにびっくり。
発言の軽い大臣が多くの死刑を執行するのを見て、「おいおい大丈夫かよ」と言いたくなるのは分かる。
言い方はまずかったと思うけど。

ちなみに私は、死刑は廃止した方がいいと思ってるクチ。
その理由は、冤罪とか抑止効果とか理屈はいくらでも言えるけど、本質は感情ですね。

お葬式では、評判悪かった人でも「生きていてほしかったねぇ」と素朴に思うじゃないですか。
死刑になった人だけは、そう思われることなく死んでいく。
「生きていてほしかったねぇ」と思われず死ぬ人がいることが、私にはとても寂しく感じられます。

ponさまのいう 「責任」 の意味を定義しないと空転するばかり、という印象です。

惰民様

>そもそも人を指して『死神』と呼ぶ事自体が侮辱

「死神」という呼称それ自体が侮辱とならないケースはスポーツや格闘技の世界でいくらでもあります。
(当然ながら死刑をスポーツや格闘技になぞらえ意図はありません)
そして、表現が何であろうと同じことです。
あまねく国民一人一人が残らず死刑の責を自覚していれば、死刑に関わる事に対する揶揄そのものが成り立たないのですから。

>これ迄言及を避けてきましたが

今の私を多数の威を借りて叩きたい気持ちは分かりますが、それにしても以下に続く貴方のコメントは最悪です。

私には死刑に関わる人々への差別心などありません。
自覚が無いからではありません。
無いのです。
無いからこそ今の立場に立ち、今までのようなコメントを書いて来たのです。
私の文章の稚拙さを差し引いても本当にコメントを読んだのならそのような読解は不可能です。

そもそも「食肉事業者を差別する理屈」などという突拍子もない概念は何処が発生源でしょうか?
私ではありません。
では誰か?
もちろん惰民様です。

例えば惰民様は死刑を『(負の)事業』と表現しました。

死刑を食肉事業者と同様の負の事業と表現する言説は、私は初めて聞きました。
当然自分で考えた事もありません。
おそらく惰民様特有の発想でしょう。

考えるに、惰民様は私の文章ではなく空気を読み、その中で惰民様自身の黒い人格を私に投影したのでしょう。

読者を選ばずに投稿した文章ですからどのような誤読をされても仕方がありません。
しかし自分の汚物を私に押し付けるのは止めて頂きたいです。

先に言っておきますが、このコメントに惰民様が反論した場合、私はこう返す事が出来ます。
「あなたに自覚が無いだけです」

ponさん

横からです。
貴方が使う「責任」という言葉の定義を教えてください。(fuka_fukaさんと同意)

>私には死刑に関わる人々への差別心などありません。
>自覚が無いからではありません。
>無いのです。

私にも無自覚な差別心が一連の発言になっていると感じました。貴方のコメントを全て読んだ上です。
真に差別心がなくても、一連のコメントは第三者にそう感じさせるものがあります。それをモトケンさん含め多数の方が指摘しているのでは?惰眠さんだけじゃないと思いますよ。

>死刑を食肉事業者と同様の負の事業と表現する言説は、私は初めて聞きました。

正に貴方が死刑判決・執行の関係者に対して、「責を負う」という形の表現で負のイメージを植えつけてます。

でponさんは結局何が言いたいのですか?見ていて歯がゆいんですが・・・

−−−−−−−−−−−−−−
私は検事、裁判官、法務大臣等は、必ず人の命に対して真剣に向き合っていると思います。
また、被害者遺族に対しては、そのような責を求めること自体間違っていると思ってます。
※実行ではなく「思う」だけだったら自由だと考えます。勿論死刑を望まないのも自由。

時間が出来た覗いたら議論が空転して、コメントの価値が暴落している。

発端は pon さん か

もうひとつ質問します。

3.死刑にかかわり、死刑に真剣に向き合っており、その責任も自覚している人がいるとして、そのような人は100%「死神」と言われても文句は言わないのだ、とお考えでしょうか?

そのような人でも、「死神」と呼ばれるのは心外だ、と思うのは普通だとわたしは考えますが。

カツビン様

惰民様と同様のコメントを返すしかありません。
カツビン様の御指摘もやはりカツビン様自身の黒い人格を私に投影した結果です。

>正に死刑判決・執行の関係について

私のコメントは書いた通りの意味です。
私のコメントを食肉加工事業者に対する忌避感と結び付けたのは私ではなくカツビン様です。
そして「責任を負う」という言説自体は中立です。
それに「負のイメージ」という価値判断を加えたのは、私ではなくカツビン様です。

累代の法相が押しなべて消極的(もしくは慎重)であった死刑の執行命令について、その件数から推し量ると積極姿勢を採っていることから、私の感覚としては現法相は何か「生命に対する畏敬」のようなものが欠落しているか不足があると思え、よって『嫌悪感』を覚えます。


鳩山法務大臣の前任である長瀬法務大臣は在任10ヶ月で10人の死刑を執行したそうですから、鳩山法務大臣が特に積極姿勢を取っているとは思わないです。


個人的には件数から「生命に対する畏敬」を推し量ることは無理があるというか、不可能なように思います。畏敬の念を押し殺して執行命令を下すのが法務大臣という存在だと思いますので。法務大臣の「生命に対する畏敬」を問題にするのであれば、同時に検察官や裁判官の「生命に対する畏敬」をするべきではないでしょうか。


また、執行件数が増えた事について、鳩山法務大臣の個人的な姿勢が反映しているとも言い切れないと思います。と言うのは、ここ数年で死刑確定者数が急増しているのです。確定者数が増加しているのであれば、執行数も増加するのは自然ではないでしょうか。

でponさんは結局何が言いたいのですか?見ていて歯がゆいんですが・・・

実は私、随分前から、ponさまは、確信的な「釣り師」だと思っています。
そういう意図はないということでしたら謝罪いたしますが、コメントからはそういう印象を強く受ける、ということはお伝えしておく価値はあるかなと。

議論の流れにあえて逆らうような形で、断定的な口調で主張をする。
が、コメントの中身はというと、誰も異論がない前提事実をあえて繰り返すものだったり、抽象用語・未定義用語を使っていたりするものが多く、エントリの趣旨に沿う形で明確な価値判断を示す主張が少ない(と感じる)。

流れを逆らうような形に見えるため、「釣られた」人が、コメントの表現だけでなく「方向性」まで汲み取って
「ponさんの主張はこういうことですね、しかし・・・」
という批判をすると、
「私はそういう主張はしておりません」
「つ [鏡] 」
という流れになることが多い(と感じる)。
で、読み返してみると、確かに、そういう批判・反論は誤爆であると再反論が可能な余地が元の文章にはきちんと残されている。

そして、批判の元になった抽象的な語や多義的な語の定義は避けたまま、同じ主張を繰り返す。
「死刑は殺人」 (「殺人」は、緊急避難や正当業務行為で違法性が阻却されるものを含む場合もあるし、有罪になるものに限定する用法もある)
「遺族には責任がある」 (「責任」とは道義的?法的?心理的負債の意味?金銭負担の意味?社会契約的な観点?)
「”死に神” が侮蔑とならない場合もある」 (略

集中砲火に晒される形になることも多く、その原因がご自身の断定口調にあることも認識されているように見える。
それでも、特にスタンスを改める気配は感じられない。

こういう要素を挙げてみると、ネット上でよくいる釣り師コメンターの投稿パターンとよく符合するんです。私の主観にすぎないわけですが。

なので、ponさま自身よりも、何度もponさまにレスをつけてヒートアップしている方のほうに対してけっこう冷たい目で見ていることも多かったです。
「あーあー釣られすぎ。どんどん議論が拡散していくなあ・・・」って。

ここまで読んできて、pon さんが「死に神」を侮辱と考えないのは分かりましたし、私の考え方とは違うものの、そのような考え方もあると思います。

でも、朝日の記事に関してそれを適用するのはちょっと無理があるのではないかとも思います。法務大臣も国民全員も同様に死刑に対する責任があることを自覚していたら「死に神」が侮辱にならないとしても、それでは風刺としての意味も無いのではありませんか?
私は朝日新聞の記者は侮辱の意図はなく、風刺としてさほど深い意味も無く書いたのだと考えています。よって、朝日の記者がponさんと同じ考え方をしているとは思えません。

それはともかくとして、鳩山大臣にしてもあすの会にしても、過剰反応だと思います。でも立場的には過剰反応しておくべきなのだとも思います。それに対して朝日新聞の回答も
「批判を厳粛に受け止める」
「被害者遺族の気持ちに思いが至らなかったと言わざるを得ない」
「(鳩山法相を)中傷する意図は全くなく、侮辱と受け取られたなら残念だ」
と型通りの枠を越えるものではありませんでした。
これ以上の対応を望むべくもないし、内心はともかくとしてこの騒動もこれで落ち着くのではないでしょうか。誰か(朝日新聞、週刊誌等)がまた油を注がなければ、ですが。

Yahoo!辞書より

せき‐にん【責任】 大辞泉
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての―がある」「―を果たす」

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の―をとる」「―転嫁」

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。


せき‐にん【責任】 大辞林 
1 自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
・ ―を果たす
・ 保護者としての―

2 自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
・ ―をとって辞職する
・ だれの―でもない
・ ―の所在
・ ―転嫁

3 [専門] 法 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。


ちなみに、負う という言葉をつける場合は「責めを負う」とするのが一般的のようです。

今の議論で「責任」というのは2でしょうか3でしょうか?

 pon さまのいう「責任」の定義は少なくとも批判的意義を持ったものではなく、あえて定義するならば「自覚すること」と言うか、そんな意義だと解釈していたのでなぜここまで叩かれるのかちょっと疑問。
 「死神」の定義についても朝日がそこまで考えていたかどうかは分からないけれどもWikipediaによると

基本的に、死神は悪い存在として扱われる事が多いが、死神には『最高神に仕える農夫』という異名もあり、この場合、死神は、「死を迎える予定の人物が魂のみの姿で現世に彷徨い続け悪霊化するのを防ぐ為、冥府へと導いていくという役目を持っている」といわれている。
すなわち「死期を迎えた人を冥府へと導く」神なのであって「死神」と表現することが=批判することではない。朝日はたぶん批判的に書いたのだろうけれども朝日の解釈を一般化すべきではない。

ponさん

「あえて」言う事により、第3者に対して「人の死に対して責を負う」そして「死神」という言葉も揶揄として当然のようなことを書き面って、どのような印象抱くものが居るか想像できないのですか?

「殺人」という「犯罪」として殺人と容易に混同される表現を用いて負のイメージを見出さないものが居ないということでしょうか。あえて、そのような誤認を計算入れた発言に見えます。別にそのような言葉を用いなくても主張は可能でしょう。

>そして「責任を負う」という言説自体は中立です。

「責任を負う」は、先の「犯罪」として殺人に対するものと誤認される可能性があり、罪を被る責任があるように捉えられます。
なので、「責任」の言葉の定義をしてください。何方か同様の質問をされていますが、全く答えていませんよね。

 こういう言い方をする人の発言をあまり善解する気にはならないんですよ。
 「死神」という言葉はその文脈で読まざるを得ない。

 百歩譲っても無神経過ぎます。

No.125 fuka_fuka さま

おっしゃるとおりですね。
でも、相手をしてあげなきゃ悪いかな?と思ってしまってつい・・・
雨の日に「天気がわるいですねぇ」と挨拶したら
「雨が降っているだけです。天気にいいも悪いもありません」
なんて返事が返ってきそうに思います。司馬さんの「花神」でしたっけ・・・?

fuka_fuka さん

考察について、ほぼ同様に感じます。

ただ、ずっと見ていたのですが、何回も同様の投稿を繰り返しそれに対するコメントが並ぶので、いい加減もっとハッキリと主張内容を伝える努力をしてもらいたいと考えました。
※誤解を招く言葉や挑発を無くして
そして「釣られる人」も真剣に考えているからこそとも感じてましたので、私は当然の反応だろうとみてました。なので、この部分だけは意見を異にします。

改めて私の主張を整理します。

つまりは、意思と選択によって死刑に関わった人間はその責任を負う。
それだけの話です。

犯人の死刑を望む被害者遺族、死刑を求刑する検察官、死刑判決を下した裁判官については言わずもがなです。
そして法務大臣は死刑執行書に署名する義務を負うことを承知で法務大臣の任に就きます。
刑務官も同様です。
さらに根幹的には、国民が民主制の下で死刑制度を支えています。

例外なく各自の選択に拠る行為です。
そしてその選択群の結果として死刑が行われます。

選択には結果が連なり、選択者はその責任を負う。

これだけです。

私の主張はこれだけであって、この中には何の価値判断も加えていません。

仮にこの中の誰かが
この責から逃れようとしたならば、初めてそれを批判します。

要するに、
「責任」という言葉をどういう意味で使っているのか、
ponさま自身が整理できていないということなのですね。

>No.126
自己訂正

あすの会代表幹事の岡村勲弁護士は「(回答は)満足できるものではなく、再抗議と再質問をしたい」と述べており、早ければ週明けにも同社に再抗議する方針

まだもうしばらくは収まらないようですね。

>No.119 pon さん
あなたが無自覚に差別感情を垂れ流していることだけは理解できましたが、何一つ反論になっていません。
そもそも、あなた自身が「死に神」を「汚名」と定義しています。自分でひっくり返さないでくださいね。さらに、スポーツ云々などと、勝手に『素粒子』における鳩山批判(死刑執行批判?)から離れて土俵を拡大しないでください。

死刑執行にまつわる一連のシステムへの「責任」に「無自覚」などとして、負のファクターに位置づけたのはponさん自身です。自分の過去発言と、整合の取れないコメントはやめましょうね。

「そもそも「食肉事業者を差別する理屈」などという突拍子もない概念は何処が発生源でしょうか?
私ではありません。」
いいえ、あなたの一連の発言ですよ。自覚をお持ちでないのだろうと思っていましたが、案の定ですね。

ponさんのお書きになった内容から伺える意識は、手短にいうと「死刑制度を支持・もしくは容認している者は『死に神(≒殺人者)』の汚名を着せられて当然である」。さらに言えば死刑制度に反対であるponさん自身はそうではないので、綺麗な手のまま相手を『死に神(≒殺人者)』呼ばわりして恥ずることがない。・・・恥ずべき思考構造です。自覚はおありでないのでしょうが、無自覚であるのは『最悪の差別者』の一典型です。

fuka_fuka様
「責任」の詳細な意味はろくろくび様の仰ったような意味です。

「言い換え」をするならば要因と言い換えても構いません。
「裁判官が死刑判決を下した事は被告人の死の要因である」

カツビン様
本当に表現だけの問題ですか?
それならば上のようにいくらでも言い換えれば済む話です。
私は文学者じゃ無いのですから。

しかしそれでカツビン様が満足してくださるとは私は思いません。

>実は私、随分前から、ponさまは、確信的な「釣り師」だと思っています。

 ざっと読み直してみまして、私も同様の結論に至りました。
 少なくとも客観的には「釣り」以外の何者でもないという感じです。
 それもほとんど支離滅裂です。

さて、「裁判官が死刑判決を下した事は被告人の死の要因である」などと、最早『素粒子』談義からも遥かかけ離れてしまったことをお書きになる方のことは脇に置くといたしまして。

あすの会代表幹事の岡村勲弁護士は「(回答は)満足できるものではなく、再抗議と再質問をしたい」と述べており、早ければ週明けにも同社に再抗議する方針

ですか・・・。
なんというか、結局「満足いく回答」=『素粒子』子の全面降伏以外は納得するつもりがないんじゃないかって思うんですけど。医療「事故」で『納得の説明』を求める患者遺族みたいに。なんだかこの団体、引き時を誤りつつあるような気がします。「納得したわけではないが、説明は説明として聞いた」で終息させるべきところに来ているんじゃないのかなあ。

惰眠様

言った言わないの話は記録が残る掲示板上では無意味です。
私は貴方が私のコメントを読んで無いことを知っているので、貴方の私の過去の発言に対する御指摘は一つ残らず失当だと断じさせて頂きます。

その他の御指摘はやはり先の予告通り対応出来るものです。
貴方の意見は自身の黒い人格を私に投影しただけ。
ただしこれ以降は水掛け論です。
というか、汚物の投げ合いです。
そもそもが相手の無意識を探るような議論など無意味です。
これくらいで止めましょうね。

ponさま

前提として、現在の刑法の下で「死刑」判決にあたいする犯罪を犯した人間にまず責任がある、ということが抜けているように思うのですが・・・。少なくとも、「犯人」には

犯人の死刑を望む被害者遺族、死刑を求刑する検察官、死刑判決を下した裁判官
以上に責任があると私には思えるのですが、そこについてはお返事いただけないのでしょうか?
その犯罪さえなければ、遺族も司法関係者もひいては国民も生涯「死刑」に関わることなく、当然「死刑」に対する「責任」も発生しない、と思うのですが。
遺族も司法関係者もひいては国民も意志と選択(私はこれを自ら望んで、という意味と解釈します)ではなく、「死刑」判決にあたいする犯罪を犯した人間のせいで、やむを得ず「死刑」に関わりを持たされている、と私は思います。

通行人1様

犯人に責任があるのは当然の話です。
そこまで話を広げる意義を感じません。

ponさん

いいえ、先ずは言い換えれば「表現」に対する指摘について私は納まります。

辞書の意味を離れて、自分の解釈による誤解を招く表現を訂正してください。そうでなければ、その言葉の示す範囲で解釈されても仕方ないと思います。
そして表現の仕方の指摘に対する頑な態度が嫌ですね。
→誰も文学者並み文章なんて望んでいないはずです。

ただ今回の「言い換え」は釈然としません。
後、その言い換えとろくろくびさんの定義は違うんじゃないかと感じます。

死刑囚の死に繋がっている「要因」は、その死刑囚が行った「犯罪行為」です。
自分の裁定等が死刑囚の死に繋がっていること(要因ではない)を自覚する話とは別と感じます。

そして被害者遺族が死刑囚の死に対して、自覚を義務付けるものじゃないと思います。
しかし実際に死刑は「死刑囚の生命を断じる」ものとであることは当然認識しているはずです。
それとも自覚があれば「死刑を支持するはずがない」とお考えか?

“責任”を「自身が原因を作ることに加担した行為の結果であると自覚する」程度に解釈していた人間です。

>つまりは、意思と選択によって死刑に関わった人間はその責任を負う。

そうですね。そのご主張自体には異論ございません。
反論した覚えもございません。
その前の段階として、

>No.11
>政治的に不利な本音を吐きましたね。
>つまりはこういう事です。
>「自分はある人間の死を切望している。この事に対して非難を受けたくない。」

>No.37
>そして犯罪被害者遺族が責任を負わない事を選ぶのなら、文字通りの意味で責任回避です。
>到底認められる事ではありません。


責任回避と断じる合理性がないことを申し上げたかったのですが、なるほど、No.37は「〜のなら」という仮定のお話でしたか。

カツビン様

死刑囚の犯罪行為は要因の一つではありますが、それだけでは死刑に至りません。

必要条件ではあっても十分条件ではないのです。

ponさま
「死刑」を論じる以上そこが一番大事なことだと思います。全ては「犯罪」から始まる話です。「裁判」から話を始めると、責任の所在が曖昧になります。

カツビン様

死刑囚の犯罪行為は要因の一つではありますが、それだけでは死刑に至りません。

必要条件ではあっても十分条件ではないのです。

つまりは、意思と選択によって死刑に関わった人間はその責任を負う。 それだけの話です。

ponさんのコメは、趣旨が変転しすぎているので、反応する意味が無い気もしますが。
一応、趣旨はそこ、のことなので。

その文脈で「責任を負う」というのは「責任を持つ」だとすれば問題ないのですが。
「責任を持つ」では無くて。
「責任を持って死刑の業務を行った者が、その責めを負う」
の意味に読み取れます。

ならば、責めを負わねば成らない理由が不明? 無いのか?

「裁判官が死刑判決を下した事は被告人の死の要因である」

これが、先に指摘した
「誰も異論がない前提事実をあえて繰り返す」
というものの典型例です。

中身は何もない、つまり全員が合意済である以上論じる意義がない。


ponさまの(少なくともこのエントリでの)主張がどれだけ空疎で無価値かは、こういう例で考えていただけるとわかりやすいかと思います。

親の子殺し事件がありました。
「親が重罰を負うべき人でなしであること」 はすでに共通認識となっており、ある板では 「どうすれば防げたのか」 や 「マスコミの取材・報道の問題点」 等が主に話し合われていました。

そこに、Aさんが現れ、
「みなさんの意見を拝見していて、
 『被疑者の両親が、この被疑者を産まなければ、この殺人は起こらなかった』
 ということを私としては強調せざるを得ません」
という意見を言い始めました。

自分の意見を否定されたと感じた、その直前のコメンテーターBさんは、いきりたって、
「被害者の祖父母がどう関係あるんだ?祖父母が責任を負うべきとでもいうのか?」
とAさんに食ってかかりました。

Aさん
「"責任"は当然あるでしょう。Bさんは、被害者の祖父母がこの親を産んだことを否定するのですか?」

(そして「責任」を誰も定義しないまま不毛な罵倒が続く・・・)

・・・。

すでに誰も異論のない事実を 「あえて」 持ち出すことがどれだけ議論にとって有害か、途中からこのエントリをたまたま見かけた通りすがりROMのような方にもお分かりいただけるのではないでしょうか。

だから私は主張します。
「釣り師はスルー」

>No.124 しま 様

鳩山法務大臣の前任である長瀬法務大臣は在任10ヶ月で10人の死刑を執行したそうですから、鳩山法務大臣が特に積極姿勢を取っているとは思わないです。

少し古くなりますが三木内閣のとき、ロッキード事件での田名角栄逮捕を許可した法務大臣として有名な稲葉修氏は、また死刑執行命令が多かった法務大臣としても有名です。稲葉氏は2年間の法務大臣任期中(就任期間:昭和49年(1974年)12月9日〜昭和51年(1976年)12月24日)に、確か30人近く(27人か28人?正確な数字を覚えておらず申し訳ありません…)死刑を執行しています。

更に古い時代の法務大臣としては、第一次佐藤内閣時代の田中伊三次大臣(1966年12月〜1967年11月)も、在任したほぼ1年の間に23人の死刑執行をしました。また第三次佐藤内閣の小林武治大臣(1970年1月〜1971年2月)も、1年ちょっとの在任中に20人以上執行しました。

私の記憶している限り、新憲法下の歴代法務大臣で、終戦直後の治安混乱を引きずっていた昭和30年代前半(1960年頃まで)の大量死刑執行時代(年間死刑執行が30人以上の時代)を除くと、古い順に田中伊三次大臣、小林武治大臣、稲葉修大臣の3氏は、いずれも鳩山大臣や長瀬大臣の倍以上の、20人以上の執行命令書に署名しているはずです。

ただし田中伊三次大臣は、法務省の事務方が上げてきた執行予定者のリストの中に、帝銀事件の平沢貞通氏の名を見つけ、「これは冤罪だから」と言って署名を拒否したという逸話もあるそうです。

朝日新聞の素粒子欄のコラムニスト氏は、こうした過去の法務大臣の存在を知りながら、それでも敢えて鳩山法務大臣を「死神」と風刺したのだろうか。稲葉大臣などは「田中角栄を逮捕した法務大臣」というイメージが強く、死刑執行数が多い大臣として有名なのは知らないのではなかろうか。

ponさん

十分条件に加えるならば、「法・制度」でしょうね。
※これを支える国民という飛躍はしないでいただきたい。

ああ、やっぱり発散しちゃいましたね(;_;)。

皆さん、こうなったら議論もくそもないでしょう。
ちょっと落ち着きませんか?

私、ちょっと前にこういうのを投稿したんですが、皆さんには見えない設定にでもなってるんでしょうか?

No.145 pon 様

あまり意味を成さない言葉の投げ捨ては、極力お控えになってはいかがですか?

>死刑囚の犯罪行為は要因の一つではありますが、それだけでは死刑に至りません。

ある人物の「犯罪行為」が存在しなければ、死刑などという(死刑に限りませんが)「罰」は、そもそも存在するなど「有り得ない」ことではないでしょうか。
私は皆様の応酬を拝見していて頭が整理しきれなかったのですが、上記引用部については特に「???」でした。

 私の見解も明確にしておきましょう。

改めて私の主張を整理します。

つまりは、意思と選択によって死刑に関わった人間はその責任を負う。
それだけの話です。

 これも

中身は何もない、つまり全員が合意済である以上論じる意義がない。(fuka_fuka さん)

でありまして、あれだけ無神経な言葉を重ねた挙句の結論がこれでは失笑するしかありません。

 もう言葉を弄ぶような議論に付き合う必要はないでしょう。

 というわけで

だから私は主張します。
「釣り師はスルー」

に同意です。

21時頃にNo.124 しま様の投稿を読んで直ぐに、昔の記憶を辿って資料探しをしつつ、エディタでコメントを書き上げて「投稿」ボタンを押したら…。
何というコメントの伸び、全くの周回遅れじゃないですか…(汗;

No.152 noah 様

そうですね。前提条件が違うと肝心なところで話がかみあわなくなりますものね。
私も家に帰って頭を冷やします。(⌒∇⌒)/ ))

9割が「不毛だ、自重自重」と思っていても、残りの1割が繰り返しやりとりを続けているだけで、「みんな」ヒートアップしているように見えてしまうものでしょう。

ほとんどの方は、このエントリが「発散」してしまったものであることを理解され、「落ち着」 いていると思いますよ。

法務業の末席様

>何というコメントの伸び、全くの周回遅れじゃないですか

コメントは伸びてますが、議論は先に進んでないですから、全然大丈夫ですよ。

久々の普通のコメントだったので、私的には嬉しかったんですけど。

モトケン先生
皆様

申し訳ありませんでした。((○| ̄|_

私もここで止めときます。
申し訳ありません。


犯罪者の死刑を望む被害者遺族は犯人の死に責任を負います。

そもそも私が先の主張を投稿したのは、犯罪被害者遺族を免責する(かのような)ようなコメントが散見されたからです。
そして、この点に関しての反発が大きかったためにこれだけ大量のコメントを投稿したのです。

改めて上に同意するか否かお尋ねします。
そして「誰もが」同意するならば、何人かが仰るように、合意済みの、中身の無い議論になります。

犯罪被害者遺族を免責する(かのような)ようなコメント

断言できます。
ponさまが最後にようやく開示された(でも借り物でしたが)「責任」の意味でもって、「免責」するというような主張は誰一人していません。

初めから、合意済みの、中身のない議論だったと私は思います。

法務業の末席さまの投稿を読んで前任者が死刑に消極的であった後に法務大臣になった後藤田正晴氏のことを思い出しました。死刑に対する法務大臣の職責についての発言が強烈に印象に残っているもので。その時の後藤田氏の発言を調べていましたら面白いサイトを見つけました。

参考までにご紹介しておきます。

死刑廃止と死刑存置の考察 死刑制度と法務大臣

>No.158 じじい様
>久々の普通のコメントだったので、私的には嬉しかったんですけど。

有難いお言葉です。

ここは「釣り師の不毛な議論を糾弾するエントリ」か?
投稿先を間違えたのか?
と先ほどは一瞬我が目を疑いましたので、皆さんの頭がクールダウンされ、エントリテーマに沿った議論に戻ることを望みます。

fuka_fuka様

じゃ、私も断言します。
私がこのコメントをつけはじめた当初は、いかなる意味での責任を負わせるべきでは無い(かのように読める)との意見が多数でした。

これが「誰もが合意済み」となったのは一重に私の説得によるものであり、苦労の甲斐があったというものです。

>No.140 pon さん
自分が何を書き込んだのか、それすら自覚・・じゃないな、「記憶」だな・・・がないんじゃお話になりません。

あなたが、無辜の民を殺戮した犯罪者と、社会的に定められた制度に基づき職務を執行する無辜の関係者を同列に「殺人者」(=非難に値する)と扱う「差別主義者」の立場からご発言を続けていることは、よく分かりました。

モトケンさんの用いた言葉の意味づけを態とズラすことで、上記があたかも所与の前提であるかのごとく偽装し、ズレを利用した『言い抜け芸』を繰り返しているだけだということも、よく分かりました。

私は、そのような『芸』の相手をすることには面白味を見出しません。
どこかの「実名弁護士ブロガー」の『藁人形論法』のように、筆者の社会的肩書きゆえに放置し得ないコメントならば、面白味がなくても反応しますけど(笑)。

初めてこのエントリーに書き込みをして話を蒸し返すつもりはないのですが、本筋とはことなることを少し。

Ponさんの言う感覚を僕は少しわかる気はします。
みなさん、論理にこだわりすぎます。議論の上で論理にこだわるのはいいんです。釣り師認定という場面で相手がこだわっているというだけで釣り師認定はひどいなと思いました。
みんないい子の議論をしていると、Ponさんは思ったのかどうかわかりませんが、そんな風に思って感情的な反発が書き込みの動機のように僕にはみえます。もちろん、みなさんが言うように釣り師なのかもしれませんが、僕には全くそうみえません。

ただ、きっと落ち着けば自分で論理的に反発をしているつもりが、空虚な議論になっているということには気付いてなかったとは思います。

小倉さんにだって釣り師なんてひどいことは言わないのにと。

小倉さんにだって釣り師なんてひどいことは言わないのにと。

私は「出張放火魔」呼ばわりしました(苦笑)。

167はひどい文章で。少しだけ直します。

みんないい子の議論をしていると、Ponさんは思ったのかどうかわかりませんが、そんな風に思っての感情的な反発が書き込みの動機のように僕にはみえます。もちろん、みなさんが言うように釣り師なのかもしれませんが、僕には全くそうみえません。

ただ、きっと落ち着けば自分で論理的に反発をしているつもりが、空虚な議論になっているということには気付くだろうとは思います。

すいません。

>No.163 komy 様

個人的な思想、信条、宗教観で判を押さないのなら大臣に就任したのが間違いであり、分からなかったのなら分かった段階で職を辞するのが当然だ。

これと同じような記述は、日本経済新聞の『私の履歴書』と、佐々淳行著『わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』にもありますね。また森山真由美元法務大臣の『法務大臣の八八〇日』にも大意「法務大臣になった以上、個人の感情は押し殺して、死刑執行命令に対峙する責任がある」という、ご本人が死刑執行命令に署名するときの、覚悟を披瀝された記述があります。

後藤田氏の「分からなかったのなら分かった段階で職を辞するのが当然」との言葉には頷けます。がしかし、大臣が自ら職を辞することで最低限の責任を果たす以前に、そのような法務大臣として不適格な者を任命した首相の責任であり、首相自らの政治責任をもって法務大臣を更迭・交代させるべきでしょうね。

人物の本質を見抜く能力が無いということは、人を束ねる役目のリーダーたる者にとって致命的な欠陥です。派閥の力学と政党内の序列で、国家のリーダーが決定される愚かさを憂います。

論争で反論出来なくなった挙げ句論敵を釣り師呼ばわりして、
相手の言論を無価値だと断ずるのは人間として自然な行為です。

171 ponさん
そんなことは書かない方がいいよ。
あなたが釣り師だとは思ってない。
死刑を殺人と書くのも、多くの法に携わる人の印象と違って僕はあなたの潔癖というか、正直さ故だと思う。

でも言葉は通じない。だから、論争にならない。だから釣り師となる、という構造だと思う。
反論できなくなったのではない。あなたの個人的な、というか文学的な感想は多分ここにはそぐわないのだと思う。要素要素に切り分けていくとあなたが感じた,僕なんかからみるとそんなに違和感のない感情が議論をすればするほど、説明困難になる。そして、要素的に説明をするとそんなことは最初から自明と切り返される。

建設的になれないよ。だから、今の議論は封印した方がいいよ、しばらく。

素粒子がいかなる意図を持って「死神」という言葉を使ったか、より「死神」と言われた側の気持ちの方が大事だと思います。被害者の遺族の方々も怒っていらっしゃる、ということは、遺族の方々も私が感じたように「死刑に関わる人全てに対する侮辱」と受け取られたのだと思います。
「死神」には「良い意味」もある、とのご指摘もありましたが、私が「死神」と言われたら、やっぱり「良い意味」とは思えません。もし素粒子が「良い意味」で使ったのなら、翌日にでもちゃんとそのように「釈明」したはずです。でも返答は「侮辱するつもりはなかった」でしたよね。「そんなつもりはなかった」で済むんだったら(大阪流にいうなら)「警察は要らへんで」ということになります。
「言葉のプロ」が「責任」を持って選んだ言葉ですから、その反響についても「責任」を持ってこたえていただきたい、と思います。書かれた方の「正体」は週刊誌などで明らかにされててはいますが、新聞社側は今でも「匿名」にされていますよね。だったら、「法相=死神」というのは朝日新聞社の見解と考えてよいと思いますし、新聞社として「言われた側」が納得できるような回答を出していただきたいものです。
加えて申し上げるなら、死刑執行というのは一件でも非常に重い決断ですから「執行命令」を出した全ての法務大臣が「死神」でないとおかしなことになります。この人は3人だったから「死神」ではなく、あの人は10人だから「死神」なんて、朝日新聞社がランク付けするような話ではありません。それこそ朝日新聞が「死刑」を軽く考えている証のようにも思えます。

ponさんのいう「責任」ってどういう事ですか?

誰でも死刑に値する凶悪犯罪を犯したら、死刑によって命を奪われるという点はある意味責任を負っているといえると思います。

死刑制度に対する責任については、国民みんなに責任があっても結局どこに対しても責任の取りようがないので、実質的に責任は存在しないってことと同じような気がするのですが。

神様でも居れば良いのでしょうけど・・・

一点だけ指摘を。

>新聞社側は今でも「匿名」にされていますよね

とありますが、朝日のHPの論説委員室のページでコラムの担当記者の名前はずっとオープンにしてますよ。

ttp://www.asahi.com/shimbun/honsya/j/edit.html

>No.174 ど素人 様

死刑制度に対する責任については、国民みんなに責任があっても結局どこに対しても責任の取りようがないので、実質的に責任は存在しないってことと同じような気がする
私からすると「責任が存在しない」というのは、非常に違和感を覚えるご意見です。

死刑制度を存続させるも、或いは死刑廃止を実現するも、その決定の権利は国会が握っています。すなわち死刑を定めた刑法第11条を、改正するのか、廃止するのか、それともこのまま存置するのか、全ては国会の議決以外に方法はありません。

ならば現行の死刑制度に疑問を感じている国民、廃止すべきと考えている国民は、鳩山法務大臣を揶揄するのではなく、国政選挙の投票権の行使や、国会議員への政策提案や陳情などの手段により主張すべきことです。死刑存置を訴えたい国民は、同じく国政選挙において、死刑を定めた刑法第11条を擁護する立場の候補者に投票することです。

日本国憲法第1条において「主権在民」を謳う以上、国民はその主権を行使する責務があります。国家や社会の制度は「神様」が与えてくれるのではなく、主権を持つ国民一人一人が自らの意志をもって「獲得する」ものです。それが民主主義の本質であり、主権を持つ国民の義務と責任です。

(ここからは独り言)
お〜い、私ら昭和30年代に義務教育を受けた者どもは、主権在民と民主主義が如何に貴重で重要な権利であり、また同時に思い責務でもあるのか、耳にタコが出来るほど先生に叩き込まれたものですが…。今のゆとり教育では、こうした本質を何も教えないのでしょうか?

まさか今の日本の社会制度は、神様が恵んでくれた教えるのでしょうか?
(私らの頃にも、アメリカ進駐軍という神様の話をする大人は居ましたが…)

それとももしかしてドラエモンが与えてくれると…

No.176 法務業の末席 さん

レスいただいて恐縮ですが、私はponさんの意味されている責任とはもっと具体的に何のことなのか、責任を果たすには何をしろと仰っているのかを知りたかったのです。

例えば、人権とか国民の義務とかは国家と国民の契約事項みたいなものでしょう。これなら相手が居る話なので、責任をどう取るかということはとても分かりやすい話です。しかし、国民の総意によって維持されている死刑制度に対する責任というのは、何を意味するのでしょうか?僕は、法曹関係者でも法務省役人でもないので、自分が凶悪犯罪を犯した場合に死刑になるかも知れないということぐらいしか思いつきませんが・・・

神様の話は、全知全能の神がいれば、「死刑は駄目!」とか「被害者は死刑を望んではいけない!」といった絶対的な判断基準があるのだろうけどなぁ、ということをアイロニックに述べたかっただけです。文章下手でスイマセン。

No.176 法務業の末席 さん

ちょっと付け足しですが、

社会制度、特に法と刑罰なんてのは人間が生活しやすいように作り出されたものでしょう。人権も例外ではないでしょう。命の尊さ、道徳教育もその一部でしょう。これらに「絶対」ということは無いのです。主権在民、資本主義、みんなが青天井に幸せになる絶対的なシステム・・・と思いきやこんどは地球が壊れそうですね。100年後にはやっぱり駄目だと見直されているかも知れませんよ。

まぁちょっと話それましたが、現在の社会システムは命は尊いものとされてますね。その命を奪った犯罪者は命を持って責任を取らせるべし。これは犯罪者と社会システムの間に存在する責任ですね。それは、犯罪者も国民の総意に組み込まれているから成り立つわけですね(と思います)。しかし、全然関係ない、何の犯罪も犯していない人が、犯罪者の死刑執行や、死刑制度そのものに何の責任を負っているのか、どこに対して責任を負うのかがど素人にはぴんと来ません(上述したもの以外に)。

ちなみに私はゆとり世代ではないですよw

ど素人 様

私はこの言葉が好きです。

実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが。 〜 サー・ウィンストン・チャーチル 〜

No.179 法務業の末席 さん

もちろん僕も同じ考えです。そしてまだまだ進化させる余地はあるし、させるべきだと思ってます。

トピずれだし、独り言に反応するのも恐縮ですが、

wikipediaの記述によると、ゆとり世代とは、以下の世代とされています。
「高等学校における学習指導要領の改訂が2003年度の第1学年から学年進行で実施され、現在広くマスコミなどで1987年4月2日〜1988年4月1日生まれはゆとり第一世代と喧伝されているが、元文部官僚でゆとり教育の推進者でもある寺脇研は1993年4月2日〜1994年4月1日生まれがゆとり第一世代にあたると述べている。またマスコミが別の世代をゆとり第一世代と喧伝することを指摘している。」

これを参考にすれば、ゆとり世代の最年長者は現在21歳あるいは15歳でしょう。
選挙権を得たかどうかぐらいの世代なわけですが、法務業の末席さんの独り言は、こういう人たちを指しているのでしょうか。おそらく違うと思うのですが。

また、「私ら昭和30年代に義務教育を受けた者ども」ということですが、ゆとり教育を導入した人々にはその世代の方々も含まれます。ゆとり教育を推進した寺脇氏は1952年生まれですから、彼も昭和30年代〜40年代にかけて義務教育を受けていたことになります。

その世代の方が、「ゆとり教育を受けた者は・・・」と言うのはちょっと素直に肯けません。

ただし、民主主義に対するお考えの主旨そのものについては、全くその通りだと私は思います。

181に訂正。

読み直してみたのですが、法務業の末席さんが176で疑問を呈して折られるのは、「ゆとり教育」に対してであって、「ゆとり教育を受けた人たち」ではありませんね。この点の誤読についてお詫びいたします。


したがって、
「その世代の方が、「ゆとり教育を受けた者は・・・」と言うのはちょっと素直に肯けません」の部分を、

「その世代の方が「ゆとり教育は・・・」というのには疑問があります」と修正させてください。

>No.181 ROM男 様

私の「ゆとり教育…」は、文部省の学習指導要綱とはちょっと違うニュアンスです。

何て言うか…、私たちより10年とか20年遅く生まれてきた世代。昭和39年の東京オリンピックも知らない、1970年の大阪万博も体験していない、札幌での日の丸飛行隊金銀銅独占ジャンプも覚えていない、そんな世代を指しているとお考え下さい。

私が社会人となって十数年経た昭和の終わり頃から平成に年号が変わる頃、私が30歳代の半ばの頃に社会に出てきた人達の世代。この世代の人達は、私たち1950年代半ばまでに生まれて、日本社会の高度成長の時代に育った私達と違い、1970年代や80年代の日本の社会全体が豊かでゆとりある時代に、学校教育を受けた人々のことです。文部省や教育評論家などが使う「ゆとり教育」の意ではありませんでした。

書いた本人にしか理解できないニュアンスを込めた表現であり、その点は私の不注意ですので、お詫び申上げます。

議論が落ち着きかけたところへ、流れを読まず失礼します。

ponさん あなたは、きっと真面目で理想論者なのだと思います。その考え方自体は、ひょっとしたら今の日本人に欠けている「倫理観」や「道徳観」というものかも知れません。なのに何故違和感を覚え、賛同する気になれないのかを自分なりに考えました。

改めて私の主張を整理します。 つまりは、意思と選択によって死刑に関わった人間はその責任を負う。 それだけの話です。

あなたのいう「意思と選択」の考え方が受け入れられないのです。特に、その中で被害者遺族にまで「意思と選択」の責任を問うからです。犯罪被害にあった方々は、何の落ち度もないのに命を奪われるという不条理なことにあっているのです。その犯罪者が犯罪を起さなければ、何もこんな意思も持つことも無ければ、選択をすることもないのです。その何の落ち度もなく、命を奪われた被害者及びその遺族に対してまで「責任がある」と断言することが受け入れらないのです。

職業的に関わる検察・裁判官・法務大臣なども、私自身は責められるような責任があるとは思いませんが、あなたが指摘などせずとも、その重さは感じていると思います。

あなたの理想を論じるのであれば、それを伝えるだけの文章力と人の話を聞き入れる度量をもってください。そうでなければ、ガキやヤ○ザがよくやる手法と同じです。

死刑に携わる人達は「被告」以外、好き勝手やってる訳じゃないんですよね。常に法に縛られながら粛々と行動するんだと思うのです。

例え被害者遺族が極刑を望もうと、それが常に反映される訳でもないと思います。法律が決めてるんじゃないでしょうかね。責任の所在があるとすれば法律そのものだと思います。

過去に私が再犯で殺人すれば弁護士が責任取れ!なんて暴論は意味が無いんだと思うのです。ponさんと私の話では程度の差はありましょうけど、実質的な責任なんて誰も取れないと思います。

犯罪者であれ極刑となれば命を奪われる訳ですから、そこに関わった人は心穏やかではないでしょう。葛藤や苦しみは当人しか分からない事だと思います。その苦しみこそが責任を負っていると言ってもいいのではと考えます。

No.175 じじい 様

遅レス申し訳ありません。

お教えいただきありがとうございます。
私といたしましては、このコラムを書かれた方と、法務大臣のトークバトルを是非見たいと思います。
裁判員制度実施が迫った今、朝ナマあたりで、死刑制度の是非について討論していただけないでしょうかね。

ところで夕べ、以前に買った
ドキュメント 裁判官―人が人をどう裁くのか (中公新書)
という本を見つけ、とりあえず「刑事事件」の章だけを読み返しました。プロの方が担われている責任の重さ、を垣間見ることが出来たように思います。

ど素人様
釣られてしまった私が言うのもなんですが、「犯人の責任」や「責任の定義」を曖昧にしたまま「死刑の責任」を論じても不毛な言葉のやり取りが続くだけです。私は、始めに「犯人の責任」ありき、で議論したかったのですが、そこについては

犯人に責任があるのは当然の話です。
そこまで話を広げる意義を感じません。
ということで、ひたすら遺族や犯人以外の関係者や国民の「責任」だけを延々と論じられていました。これでは、放火で亡くなった方は「そこにあった燃える物」と「空気中の酸素」のせいで焼死しました、とおっしゃっているようなもので事実の一部を伝えているだけです。誰が火をつけたかについて議論をしないのでは「会話」にすらなりません。(もしかしたら「放火で燃えるような家を建てた人やそこに住んでいた被害者にも自動的かつ機械的に責任は発生する」とおっしゃるかも知れません)。私としても、時間の無駄遣いをしただけで、後味の悪さしか残っておりません。(彼にすれば「してやったり」というところなんでしょうね。性善説で相手をしてしまいましたが、これからは気をつけなければ・・・)
彼の書き込み(165&171)は単なる捨て台詞になんだろうな、としか思えません。

責任がある、というのは同時に選択の自由がある、と言うことです。

加害者の死刑を求める犯罪被害者遺族に責任を認めるのは、同時に犯罪被害者遺族が加害者の死刑を求めるか否かの選択の自由を認めているのです。

犯罪被害者遺族が加害者の死刑を求めない例として、原田正治氏の例が挙げられますが、
彼のケースは特殊な例外として"一般的な被害者遺族"像からは排除されています。
先日挙げたあすの会の件も同様です。

「犯罪被害者遺族には加害者の死刑を求めない選択の権利がある」
これは"誰もが合意済みの事項"ではありません。
このコメント欄ですら「犯罪被害者遺族は〜」などと"一般的な犯罪被害者遺族像"を設定し、彼らに成り代わった主張をなさる方が多々いました。
私はそうした風潮には異議を申し立てます。
というのが先日akira様とのやり取りにおける私の主張です。

他の方とは責任を認めるか認めないかのところで紛糾し、ここまで至れませんでしたが。

通行人1様、レスありがとうございます。

私は、朝日が、鳩山法相の死刑執行手続きに関し疑念を持っているのであれば、風刺コラムなど小手先の手段によることなく、徹底して取材した上で、必要なら特集記事などで正面からぶつかるべきだと思っています。それだけの重みのあるテーマです。

ご紹介いただいた本、本屋で探してみます。

No.189 じじい 様

それだけの重みのあるテーマです。

おっしゃるとおりです。
私も「朝ナマ(先日も、CMなどを除くと実質2時間30分ぐらいしか時間がありませんでした。朝ナマを出したのは軽率でした。すみません。)」等で結論が出るようなものではないと思います。裁判員制度実施までの10ヶ月ぐらいでも結論が出るとは思えません。今まで(関係者を除く)ほとんどの国民は「死刑」について真剣には考えてこなかった分、時間もかかるでしょう。
でも、私は今回の「事件」を「朝日対法務大臣のケンカ」に終わらせず、「死刑制度」についての国民的議論のきっかけにして欲しいと思っていますし、一般市民一人一人が「裁判員になって人を裁く(場合によっては人の命を左右することもある)」ことの重みを考えるためのきっかけにして欲しいと思っています。

いくら奇麗事を並べたって、国家が暴力を独占している以上、それの代替処置として、応報感情の慰撫や特別予防の観点を欠いて、刑罰のあり方を議論しても現実味はないし、社会も丸く収まらないでしょう。

私はどちらかというと、”死刑廃止論”ですが、所謂、”責任論”はむしろ考え方が逆ではないかと思います。

例えば、無期懲役の場合、仮出所を判断するのは誰で、その結果、重大な事件が起こった場合、誰がどういう責任を取るのか?
誰も責任を取らないから、”無期懲役ではダメだ”という論調が広まっているのではないか?
例えば、仮出所に対して、一般人の意見を反映させるために、検察審査会のようなものを設置したり、遺族の意見を仮出所の判断材料にしたり出来ないのか?

因みに”死刑囚が殺される責任を誰が被るのか”ってそんなものは、”本人の自己責任でしょう”という結論しかありえないのでは。
死刑と言う制度が存在する”契約”で、今現在この社会は成り立っているのだから。
それがいやなら、移住するとか死刑の無い社会で暮らす自由(相応の努力は必要ですが)もあるのですから。

死刑囚が殺されるのは本人の自己責任。
正しくその通り
正論としか言い様がありません。

責任を求めるからには当然責任能力が認められなければいけません。

そして弁護人がこの点で争ったならば、以下の主張をしたはずです。

「被告人は犯行当時心神喪失の状態にあり、善悪の判断力に欠け、自身の行動を制御する事ができなかった。」
犯罪被害者遺族が死刑を求める事に対して責任を問わないとする方は、上の立場に立っていると思います。

即ち、「犯罪被害者遺族は凶行によって心神喪失の状態におかれた。その状態で死刑を求めようが、責任など問うべきでは無い」

私の立場は以下です。
犯罪被害者遺族がいかにその犯罪によって傷つき苦悩したとしても、加害者の死刑を求めるか否か、怒りや悲しみに流されずに理性的に判断出来るし、その選択の自由が認められるべきである。
死刑を求めたとしても、それは怒りや悲しみに流された衝動的なものでなく、理性的な判断の末下された、再帰的な選択によるものである。
であれば当然責任を求められる。

今に至るまでの私に対する反発はこの対立的な立場に拠るものではないかと思います。

死刑を求刑する検察官や死刑判決を言い渡す裁判官も心神喪失なのですか?

犯罪被害者者遺族に責任を問わないのは、心神喪失だからとかいう問題ではありません。
じゃあ、殺害された遺族が死刑を望まなかった。しかし、結果的に死刑になった場合は、この遺族には責任はないというのがponさんのお考えですね?そうなった時には、残った関係者でponさんのいう「責」を分け合うということでしょうか。
そもそも論点が違います。被害者遺族は、何の落ち度もなく、現行法制度に則っているだけです。報復のために犯人を殺すわけでもなく、尋ねられれば心情を吐露することもあるでしょう。それが応報感情であっても何ら責められることはないということです。
どこから、関係者の心神喪失に論点が移るのか私には理解できません。勝手な解釈を押し付けないで下さい。

事務方の星様

>じゃあ、殺害された遺族が

犯罪被害者遺族が加害者の死刑を求めなかったのなら、死刑を求めた事の責任は問えません。
当たり前の事です。

>そもそも論点が違います。

その通り。
何度も申し上げるように、単純に死刑を望む事が責められるべきか否かは論点にしていません。

>現行法制度に則っているだけ

わかっているとは思いますが、犯罪被害者遺族が死刑を求めることは法制度されている訳ではありません。
死刑相当の事件に対して死刑を求刑する検察官、死刑判決を下す裁判官とは違う立場にいます。
被害者遺族は独自の価値判断によって独自の選択が許されるべきです。

それとこれは事務方の星様一人に宛てる訳ではありませんが、「相手のコメントに宛名を着けないゲーム」のようなものが蔓延してるように見受けられます。
こういう子供っぽい意地の張り合いは止めましょうね。
お互いに。

返信という機能がついているのはご存知ですか?これも返信なのでponさんに対するコメントですよ。理解しましょうね。お互いに

私は先ほどから同じことを言い方を変えながら繰り返しているだけです。

犯罪被害者遺族は加害者の死刑を求めるか否かを自由に選択出来る。

自由な選択による行為には責任を認められる。

責任が認められる行為はその行為に選択の余地を認める。

被害者遺族の選択の余地を認めながらその責任を認めないのは、犯罪被害者遺族の責任能力を認めないからではないか。
心神喪失云々はそうした私の一方的な解釈によるものです。
違うなら違うと言った構いません。
その代わり、何故選択の自由を認めながら責任を認めないのか、もしくはその逆をなぜ認めないのか、説明頂きたい。

私は主張したい事の同値項をひたすら並べ立てて、どの言い分なら納得してもらえるか模索しているところです。

事務方の星様

返信機能の件、失礼しました。
携帯なので全く気付きませんでした。

ponさま、多少日にちが経ちましたが、少々お付き合いを、わたしなりの感想文です。


>私は先ほどから同じことを言い方を変えながら繰り返しているだけです。


・"言い方を変えながら"変えすぎ(変える回数多すぎ)なので誰の理解も得られません。よって"繰り返して"コメントすることに意味はないと思います。


>犯罪被害者遺族は加害者の死刑を求めるか否かを自由に選択出来る。


・"犯罪被害者遺族"大きくくくりすぎ。係累、親族がいない場合は友人・知人か? いずれにしても"犯罪被害者遺族"という言葉に人格をもって考えるのは困難です。 "自由に選択出来る"これも説明不足。以下後述。


>自由な選択による行為には責任を認められる。


・ここで"自由な選択による行為"に飛躍している。一般に「犯罪被害者遺族は加害者の死刑を求めても判決に関わらない」のは"自明の理"でしょう。実行力のないものを行為って、言葉遊びにも程があります。


>責任が認められる行為はその行為に選択の余地を認める。


・さらにここでまた同じ事の"繰り返し"です。2行目の言葉を置き換えただけ。"余地を認める。”すごい上から目線といいますか、全知全能の視点のように伺えます。"行為"をここまで一切説明しておりません。


>被害者遺族の選択の余地を認めながらその責任を認めないのは、犯罪被害者遺族の責任能力を認めないからではないか。
心神喪失云々はそうした私の一方的な解釈によるものです。
違うなら違うと言った構いません。


・"思想警察”の登場です。犯罪被害者遺族の"怨恨”も取り締まられるようです。"その責任を認めないのは、…。” なにか実行力のない思考まで責任取らされる「法治国家」ではありません。日本は。(他の国ならつゆ知らず。)


>その代わり、何故選択の自由を認めながら責任を認めないのか、もしくはその逆をなぜ認めないのか、説明頂きたい。


・”認め”これ一文のなかで3回使われてますが、全て異なった内容です。各語に「主語」と「目的語」をつけてください。そうしなければ「説明」以前に「理解」出来ません。 


>私は主張したい事の同値項をひたすら並べ立てて、どの言い分なら納得してもらえるか模索しているところです。


・"事の同値項をひたすら並べ立てて"と"どの言い分" この段階で矛盾していませんか? つまり”主張したい事”に"同値項"が沢山存在するならば、どれも納得されるような事ではないのでしょう。 ponさんの"主張したい事”はいくらでも言いかえが出来るものだとご自分でお認めになっているのだから。

 最後に総評。 ポンさんのコメントを拝見した感想として某「死に神」発言の【素粒子】コラム(論説委員)の「理解していただけなくて、残念です。」(あれ、この釈明は某新聞社の発表でしたっけ?)に対するオマージュだとするとわからなくもないけど、順法精神の欠如と言うときびしいか? 日本国国民としての当事者意識を一切持たないスタンスは論説委員を上手に真似られていると思います。
 そうでなければ人に伝えようとする努力(この場合、実効的なもの)が"認められない"。 
 以上で感想を終わります。

長々と書いても揚げ足を取られるだけなので簡単に質問しますね。

犯罪被害者遺族が加害者の死刑を求めるか否かの選択の自由、犯罪被害者遺族が死刑を求めた事に対する責任。

この2点を認めますか?

2点共認めるというのが私の立場です。
是非お答え下さい。

苦労判官良恒様

二点指摘します。
>"犯罪被害者遺族"大きく取りすぎ

その点の弊害はakira
様が既に指摘しています。
私も認めているところであり、今更何を、というところです。

良恒様は"犯罪被害者遺族"という主語を使いたくないかもしれませんが、私を含む数名の方は今までごく普通に使ってました。
これも今更何を、です。

>犯罪被害者遺族は死刑を求めても

犯罪被害者遺族が死刑を求めることは、判決に対して事実上の効果を与えます。
判決理由の中で遺族感情に触れられているのはごくごく当たり前の事であり、そもそも永山基準において明示されています。

この事は議論の初期の時点で確認済みです。

他の私の態度や表現の点については謙虚に受け止めましょう。

で、私の感想は「この人は全然コメントを読んでないのだな」です。
コメントを読まずになされた批評に対してはいかんともしようがありません。
お手上げです。


ponさんの意見は(というか定義されている「責任」というものは)、法に基ずく話なのですか?それとも文化や道徳心や価値観に基ずく話なのですか?

死刑判決を下された大部分は被害者に過失はありません。
被告の一方的な欲望の果ての暴挙ですね。
被害者遺族が法律の範囲内でで死刑を求めるのは当然でしょう。
一部に半田保険金殺人事件の遺族の例がありますが、これ稀な例です。
死刑を求めた事の責任。責任って義務ですよね。
こんなのはあるわけがないですね。
日本は法治国家ですので、国民の意思で定められた刑法で死刑が下されます。
もしどうしても責任ウンヌンというなら国民全体ですね。
これは勿論死刑廃止論者も含めてですね。

ど素人様

例えば貴方が喉が乾いて自販機でジュースを買うとします。コーラもあればコーヒーもあります。何を選ぼうが貴方の自由です。

そして貴方が選んだジュースが不味かったとしても、貴方は誰にも文句を言うことは出来ません。
そのジュースを飲むことを決めたのは貴方なのですから。

私が言っている責任とはこういう意味です。
特定の文化、法律、道徳との関連を必要としない言葉本来の意味です。
一番説明を必要としないはずの意味です。


ケイ様
責任と義務は全く違います。
違うから「責任」と「義務」という二つの言葉が存在するのです。

私の書き方が悪かったですね。
責任とは義務が伴う事と理解してます。

責任(せきにん)(英:responsibility)は、義務あるいは義務に違反した罰を負担することを意味する。あるいはリスクを負担することを意味する場合もある。ラテン語のrespondere(to answer)に由来する。

せき‐にん【責任】 (大辞泉)
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての―がある」「―を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の―をとる」「―転嫁」
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。

せきにん0 【責任】(大辞林)
[1] 自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
[2] 自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。

(特定の文化、法律、道徳との関連を必要としない言葉本来の意味です。)
これちょっと判らないのですが教えていただけますか?


ponさんの仰ることはとても難解なので、ど素人はとてもとても誤解しているかも知れませんが、誤解を恐れずあなたの言ってることを上の議論に当てはめると・・・

「この世の中は殺人事件という危険性が実際に存在するので、無惨に殺されたとしても、この世で生きていくことを決めた被害者自身と、被害者の生命と関係のある遺族にも責任があるので、遺族は文句を言う資格はない」

ということですかな?
これはすごいですな。

誰か突っ込むだろうなと思うけど、自販機の例について。

もしジュースが腐ってたら??
それでも誰にも文句は言えないのでしょうか?

この例で言うと、身内を殺された人がその犯人に対して死刑を願った(ジュースを買った)結果誰かに非難されても(ジュースがまずくても)文句は言えないってことになる?

例としてはイマイチなような…

ケイ様

ご自身で回答を挙げられています。
責任という概念はそもそもが普遍的なものなのですから、その辞書にあるように道徳や文化や法学との関わりがない意味での用法が可能です。

ど素人様
生きる事が直ちに犯罪被害にあうことに繋がるわけではありません。

ところでお二人は私の質問には回答頂けないのですか?

ただの人様

ジュースが腐っていたらジュースの製造会社か自販機の管理会社の責任です。
貴方には何の落ち度もありません。
もちろん責任も問われません。
当然ですね。

ついでにいうなら、例え話は理解しようという姿勢がある人の、理解を助けるためにあるのであって、相手の揚げ足を取ろうと待ち構えている人に対してはどんな例え話だろうと無駄です。

あくまで私の考えですが、

「犯罪被害者遺族が加害者の死刑を求めるか否かの選択の自由」これについてはについては認めます。

そして、「犯罪被害者遺族が死刑を求めた事に対する責任」については、一部認めます。

認める部分は、犯罪被害者が死刑に値する凶悪犯罪を起こした場合に死刑に処されても致し方ないということ、ponさんの様な方に批判されても仕方ないということです。

まぁ同じ理屈で、ここでのponさんの書き込は多くの方に激しく批判されていますが、それはponさんの責任というわけですね。分かってもらえないのはponさんの責任です。

こんな感じでどうでしょうか?

「釣り師」呼ばわりについては、本人が(正面からの反論ではありませんでしたが)異議を述べられていますし、第三者からの異論もあるようですので、ちょっと措きます。
前向きに、摺り合わせをするにはどうしたらいいか考えてみたいと思います。

ponさまの意見は、ponさまの主観においては正しい(したがって他の人の賛同も得られるはずと思っている)ものであり、私が見る限りにおいても、論理的には当たり前のことを言っているだけと思われる。
のに、なぜ賛同が得られず、(ponさまの目には)的外れ、あるいはそもそもちゃんと読んだ上での反論でないようなレスが多くついてしまうのか。

「言い方」の問題が非常に大きい (もしかしたらそれに尽きる) のではないかと思えます。
「言質を取ろうとしている」 ように読めるんですね。
だから、意見を読んだ側は、「言質を取られまい」 というスタンスに自然に誘導されてしまい、「こういう限りでならponさんの意見に賛成」 ということすら躊躇われ、むしろ反発ばかりを招いてしまうのではないでしょうか。

以下のように言い換えれば、多くの方と、意見の衝突なく合意が得られる可能性も高まるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。


被害者の遺族は、犯人の死刑を要求すべき義務は課されていない。
『極刑を望む』と表明するかどうかは、本人の自由な判断に委ねられている。
であるならば、その『自由』な判断をしたことに対しての覚悟をもつべきこと、あるいは、『あなたもその限りで死刑に関わったのだ』という指摘を受けるべき立場にいることを否定することはできないのではないか。
それをここでは『責任』と呼ぶとすると、被告人の死刑を望んだ遺族は、その意味での『責任』を免れることはできないのではないか。
被害者遺族が死刑を望むことは当然だという人は、そのような意味においても、『死刑に関わった』ものではなく、死刑とは無関係だと主張されるのでしょうか。

こういう見解でも、「死刑を望むかどうかは本人が自由に判断した」 ということに違和感がある方も一定数いるかな、という気がします。
つまり、自分の身内が無残な殺され方をし、それが犯人の身勝手な動機によるものだったとしたら、と想像した場合に、「こんな奴は極刑に処せ!」と叫ばずにはいられないと思う人にとっては、「極刑までは望みません」 と言明することは、「ありえない選択肢」 であり、「自由に選ぶことなど無理」 ということになるでしょう。

あくまで私の脳内整理ですが、仮にこんなふうに論点が絞られた後であれば、後は価値観の違いということになります。
# そういう意味で、私の視点からすると、不明確な用語について文脈ごとに定義するのは絶対に不可欠です。ここでは「責任」が典型ですが、それを定義しないままでは、「言葉の取り合い」(議論のしかた 9.3 参照)にしかなりません。

ここまで来れば、自分とは異なる相手の意見をお互いに受け入れる素地もできてくるのではないかと思えるのですが。

>「釣り師」呼ばわりについては、本人が(正面からの反論ではありませんでしたが)異議を述べられていますし、第三者からの異論もあるようですので、ちょっと措きます。

すでに管理者から認定済みですが?

ど素人様

大変結構です。
お答え頂き有難う御座います。

私のコメントに対する反応が、私の責任に拠るものであるのはそもそも当たり前の事です。

私だけではなく、ここにいる誰でも同じことだと思います。

fuka_fuka様
ほぼ完璧に私の意図の通りです。
ご理解頂き感謝します。

きっとこう書けば反発してちゃんと読んでないというのでしょうが、ある意味好感を持って読んでいた自分をだんだん哀れんできてしまう。

例えば貴方が喉が乾いて自販機でジュースを買うとします。コーラもあればコーヒーもあります。何を選ぼうが貴方の自由です。

そして貴方が選んだジュースが不味かったとしても、貴方は誰にも文句を言うことは出来ません。
そのジュースを飲むことを決めたのは貴方なのですから。

私が言っている責任とはこういう意味です。
特定の文化、法律、道徳との関連を必要としない言葉本来の意味です。
一番説明を必要としないはずの意味です。


これだけで、あほやと思う。
この例で、責任という言葉を特定の文化、法律、道徳との関連を必要としない言葉本来の意味と説明できる。

誰が同意すんねん。
結局、自分の感覚が普遍的だと思い込んでるだけで、それが違うからこんなんなってる。

あなたが自分で買ったジュースがまずいと言える文化圏すら想像できないのかな。いっぱいあるのに。
それから、コーヒーやジュースと死刑を一緒に出来るセンスだから、軽い議論になる。だから、実際に重みに携わっている人からは我慢できない議論になる、言葉のセンスもないよ。

あくまで私の考えですが、

「犯罪被害者遺族が加害者の死刑を求めるか否かの選択の自由」これについてはについては認めます。

そして、「犯罪被害者遺族が死刑を求めた事に対する責任」については、一部認めます。

認める部分は、犯罪被害者が死刑に値する凶悪犯罪を起こした場合に死刑に処されても致し方ないということ、ponさんの様な方に批判されても仕方ないということです。

まぁ同じ理屈で、ここでのponさんの書き込は多くの方に激しく批判されていますが、それはponさんの責任というわけですね。分かってもらえないのはponさんの責任です。

こんな感じでどうでしょうか?

私は、ponさまのこのエントリでの主張は、初めから矛盾を内包しているものではないかと疑っています。

No.37(返信先) で、ponさまは

犯罪被害者遺族は自動的かつ機械的に、加害者の死に関して責任を負います。
これを選択に関わらない我々が責任を取り除く事は出来ません。
そして犯罪被害者遺族が責任を負わない事を選ぶのなら、文字通りの意味で責任回避です。

と書かれています。

この第1文と第3文は、矛盾していませんか。
ponさまの言われる「責任」が、「自動的且つ機械的に」負わされるものならば、死刑を望んだ遺族が、その責任を「負わない事を選ぶ」ことは不可能なのではないでしょうか。

遺族が、死刑を希望することによって、法的な責任を一切負わされているものでないことは自明です。ponさまもその意味で「責任がある」と繰り返し主張されているのではないはずです。
「そういう意味での責任すら負いたくないと主張する遺族」 「遺族には負わせないと主張する第三者」 というのは現実にいるのですか。
「負いたくない (負わせない)」 と仮に言ったとしても、「いや、この意味での責任については免れることはない。なお負っている」 と指摘すれば終わるだけの話ではないのですか。
終わらないのであれば、「責任」の定義にずれがあるからではないですか。それを摺り合わせる努力は十分にされましたか。


逆に、ponさまのコメントに反発している方 (ROMのみでコメントしていない方も含む) にもお考えいただきたいです。

ponさまの「言い方」にだけ反応してしまっていないか。
このエントリでponさまが主張しているような、「自動的に発生し、逃れられない」ほど希薄な意味合いでの「責任」ならば、国民主権・民主主義政体の下において、すべての国民が負っている「それ」と同程度に、確かにすべての被害者・遺族が負っていると考えて、特に何も差し支えはないのではないか。

私が 「この議論は不毛だ」 と感じている理由が少しでも伝われば嬉しいのですが。。。

fuka_fukaさん

こんにちは。
ハンドルを変えましたが昔fuka_fukaさんを怒らせてしまったこともあります。他の方も怒らせたかもしれません。不真面目な意見と言われたのを契機にROM専門にしました。

僕は不真面目ではなかったし、自分に正直にと思ったのに、ただの愚痴になっていたのでしょう。でも、本当はという気持ちがあったのでponさんの言うことに耳を傾けました。

このエントリでponさまが主ているような、「自動的に発生し、逃れられない」ほど希薄な意味合いでの「責任」ならば、
、すべての国民が負っている「それ」と同程度に、確かにすべての被害者・遺族が負っていると考えて、特に何も差し支えはないのではないか。


僕は、自動発生的な責任を希薄だとは思いません。
厳罰主義に流れがちな世論は、自動発生的な責任を自覚しているとは思えません。その意味でponさんの意見は、言うに足る意見と最初は僕に思えました。責任という言葉ではなく、自覚という言葉であればもっと僕にはしっくりきました。
自覚なしに厳罰主義に走っている状況を見れば自らの行為をいわば露悪的に殺人と呼ぶことも人の意識を喚起する意味でも、自分の偽善を意識する意味でも必要なことだという主張は、ちょっと文学的ではありますが、ありえると思いました。

その上でfuka_fukaさんの言う通り、不毛な議論になりました。

fuka_fuka様

その点に関してはそのコメントの後に触れています。

死刑を望んだ事に対する責任からは逃れられません。

>「そういう意味での責任すら負いたくないと主張する遺族」

私はいると思います。
>「遺族に負わせたくないと主張する第三者」
このコメント欄に散見されました。
(少なくとも私にはそのように見えました。)
だからこそ、流れに逆らう形であっても主張したわけです。

>「遺族に負わせたくないと主張する第三者」
 
このコメント欄に散見されました。

であれば、その方に対して、挑発的な表現ではなく、摺り合わせを行い、説得すべきだったのでしょう。

これまでのような「書き方」では、ご自身の望むような議論の方向性が得られる可能性は、きわめて低いと私は思います。

アドバイスというか口出しめいたことは、このあたりまでで止めておくことにします。

ど素人的にはそんなのは取るに足らない責任だと思われます。

自分の主義主張と相容れないものに対して、取るに足らない責任をあたかもすごく大きな責任を負っているように表現し、批判の材料にしているだけでは?

No.216 少し疑問 さま

過去にヒートアップして粗相をし、ご迷惑をお掛けした方は複数名思い当たるため、幸か不幸か(^^;特定することができずにおりますが。。。
気が向かれましたら、自省の材料にしたいと思いますので、どこかでカミングアウトしていただけたらありがたく思います。

責任という言葉ではなく、自覚という言葉であればもっと僕にはしっくりきました。
自覚なしに厳罰主義に走っている状況を見れば自らの行為をいわば露悪的に殺人と呼ぶことも人の意識を喚起する意味でも、自分の偽善を意識する意味でも必要なことだという主張は、ちょっと文学的ではありますが、ありえると思いました。

このご指摘についてはほぼ全面的に同感です。
(今度は、少し疑問さまと私との間で「希薄」の定義問題を摺り合わせればよいだけと思われます)

こういう方向での「摺り合わせ」ができれば、いくらでも有益な議論になるのですが(っと、No.218までにするんだった)

では、もう一度「責任」の意味を説明してみましょうか。

犯罪被害者遺族が死刑を求めることは、加害者の裁判で大きな意味を持ちます。

文字通りの意味で、被告人の命を左右出来るほどの力を、被害者遺族は持たされます。

そして被害者遺族がその力を行使するか否かは、被害者遺族の自由です。
自由であるべきだし、実際に自由です。

人一人の命を左右出来るほどの力を自由意思で行使できる人間が無責任であって良い筈が有りません。

私が言う責任とはこういう意味です。

以下は私の主張です。

私は身内を殺された犯罪被害者遺族には、加害者の死を求めるか否か、完全な責任能力の元で冷静に判断してほしいし、
現に死刑を求めた遺族に対しては、その決断が熟慮の末下された再帰的な選択による事を望みます。

だから、私は被害者遺族の責任を認めます。

即ち、「犯罪被害者遺族は凶行によって心神喪失の状態におかれた。その状態で死刑を求めようが、責任など問うべきでは無い」

私は精神科医ではないので、”心神喪失”かどうかなどはわかりません。
しかし、何の罪も無いのに或る日突然、最愛の人を無惨にも奪われた、被害者遺族の精神状態は、恐らく極限的なものでしょう。
実際、精神に変調をきたす人もいると聞きました。

現実問題として、そういう人に”選択の自由”などあるのだろうか?
人間である以上、極限の精神状態に置かれれば、「ああしよう」「こうする方が良い」などと考える余地無く、心境は定まってしまうのではないか?
それがどちらに傾くかは、思想(考え方)というよりも、信仰(何を信じるか)によるのではないか?


犯罪被害者遺族がいかにその犯罪によって傷つき苦悩したとしても、加害者の死刑を求めるか否か、怒りや悲しみに流されずに理性的に判断出来るし、その選択の自由が認められるべきである。

そして被害者遺族がその力を行使するか否かは、被害者遺族の自由です。
自由であるべきだし、実際に自由です。


・私は死刑廃止論者ではありません。

死刑は存置、でも被害者遺族がそれを求める事については、責任を追及するって?
すべてにおいて、軽く考えすぎだよ、貴方。


以上。

 ちょっと落ち着いてきたみたいですがponさんがまだ読み続ける気が有ると判断して返信します。


>"犯罪被害者遺族"大きく取りすぎ

その点の弊害はakira
様が既に指摘しています。
私も認めているところであり、今更何を、というところです。

良恒様は"犯罪被害者遺族"という主語を使いたくないかもしれませんが、私を含む数名の方は今までごく普通に使ってました。
これも今更何を、です。

 あのう、akiraさんんの御指摘に対して「全国犯罪被害者の会」(あすの会)の主張する犯罪被害者遺族について指していたとお認めになって、なお、犯罪被害者遺族と言う表現を使い続ける事を”大きく取りすぎ”(誤解を招いてしまう)とは思われなかったのでしょうか? 他の方々(一部除く)は"犯罪被害者遺族"と言う言葉自体を一般名詞として扱ってらっしゃるとしか読めないし、ponさんも(数えてはいませんけど)指摘を受けてからも使い続けてらっしゃる事は一般名詞と受け取られている認識がないのでしょうか。 誤解の余地がないよう(あすの会)の主張する犯罪被害者遺族 または(あすの会)の犯罪被害者遺族とされれば一般名詞と混同される事もないでしょう。今更ですが、誤解される事を望まないのであれば。 


さらに意地悪ではありませんが、


>犯罪被害者遺族が死刑を求めることは、判決に対して事実上の効果を与えます。
判決理由の中で遺族感情に触れられているのはごくごく当たり前の事であり、そもそも永山基準において明示されています。

>この事は議論の初期の時点で確認済みです。


ここで触れられている犯罪被害者遺族(あすの会)の主張する犯罪被害者遺族ではありませんよね。一般名詞としての犯罪被害者遺族としか受け取られないように思えます。 ここですでにponさんの使われている言葉が第三者に対するダブルスタンダードになっているのでponさんへの回答が"納得できない"また"ない"理由の一つだと考えています。 (類似した表現に、「自由」「行為」「責任」などの言葉も理解に困難が伴うようです。)


>犯罪被害者遺族が死刑を求めることは、判決に対して事実上の効果を与えます。


事の理由に


>判決理由の中で遺族感情に触れられているのはごくごく当たり前の事であり、


とされているのは


>この事は議論の初期の時点で確認済みです。


であるとはとは思えません。ponさん以外に確認(了解)されている方はいないといってよいと確信します。


>判決理由の中で遺族感情に触れられているのはごくごく当たり前の事であり、


この理由とされる部分はに皆、異論はないようですが、


>犯罪被害者遺族が死刑を求めることは、判決に対して事実上の効果を与えます。


 理由から導き出される結論も皆さんお認めになっていますか?
 理屈上、影響力が0ではないと言う意見は、それが"事実上の効果"にあたらないと言う意見を遠廻しに言っているだけとしか思えません。
 ゆえに一般に「犯罪被害者遺族は加害者の死刑を求めても判決に関わらない」のは"自明の理"でしょう。あくまで裁判の結果、裁判官の”法律に基づく”判断で「死刑」を含む刑罰の判決が言い渡されるのですから。


>犯罪被害者遺族が死刑を求めることは、判決に対して事実上の効果を与えます。

>この事は議論の初期の時点で確認済みです。

 途中の理由部分を抜いた場合、確認(了解)された事が確認できません。理由と結論の関連に対して理解を示された方が確認できません。「私の読み落とした可能性は0ではありませんから。」ご指摘有れば幸いです。
(まぁ、初期の?段階から"犯罪被害者遺族"が一般名詞として扱われているか、特定の犯罪被害者遺族なのか混乱している事も一因でしょうが。)
 もっとも、"事実上の効果"を、判決理由に述べられている事は全て"事実上の効果"であると定義されたら困っちゃいます。 判決理由の中で量刑決定に結びつく主たる理由をして"事実上の効果"として判決にあたえると了解しているものですから。
 (御異論のある方大歓迎。)


>で、私の感想は「この人は全然コメントを読んでないのだな」です。
コメントを読まずになされた批評に対してはいかんともしようがありません。
お手上げです。

 コメントに記載されている言葉は読めても、コメント書かれた方の意図はその前後関係から推測するしかありません。

「この人は全然コメントを読んでないのだな」は
「この人は全然私のコメントにこめられた意味を読んで(理解でき)ないのだな」 
と読み替えても、他人に対する問いかけ、理解を求める意思があるなら、もうすこし言葉の使い方に工夫が足りてないのではないでしょうか? また、他の方のコメントに対してコメントの語句以外にその意図を推し量らないと、 
 「意見」「回答」はもらえずじまいでよければどうでもいいことですが。

と、返信だけしておきます。

死刑執行を承認する法相に対する「死に神」という表現は、あまりにもストレートでありユーモアを感じない。もはや風刺ではなく、単なる罵倒ではないだろうか。そのような表現を全国紙の紙面に載せてしまうという感覚は、やはり場を弁えない行為だと思う。相手がいかに馬鹿であっても、国会でバカヤローと言えば大問題になるのと同じだ。居酒屋で言うのとは訳が違うのだ。

死刑執行を承認することは確かに殺人の引き金を引くことであり、死刑囚の死に対する責任を免れるものではないだろう。しかし、それに対して「人殺し」とか「死に神」などという表現を使うことが許されない場もあるはずだ。鳩山法相の記者会見の場で記者が「死に神」呼ばわりしたら大問題になるだろう。もちろん面と向かって言ったわけではなく、たかが夕刊の一コラムのちっぽけな記事だ。しかし新聞紙面であることは間違いない。

もし客観的に「死に神」だと思ったとしても、新聞に「死に神」と書くのはやはり問題があると思う。そういう意味では朝日新聞は非難されても仕方が無いと思う。当事者である鳩山法相も抗議すべきだろう。

ただ、それ以外の方向からの抗議は過剰反応しすぎだとは思う。野次馬的に大騒ぎしているのを見て、「君らの口を出す事じゃないだろ」と言いたくなるような気もする。まぁ私自身も野次馬の1人なのだが。

この件に関しては「記事に込めた思いはともかく、表現としては不適切であった」と言うことではないだろうか。少なくとも法相と朝日新聞の間ではそれ以上の問題にはならないと思う。鳩山さんは不適切な表現に関してあまり強く出ると藪蛇になってしまいそうだし。

>この件に関しては「記事に込めた思いはともかく、表現としては不適切であった」と言うことではないだろうか。少なくとも法相と朝日新聞の間ではそれ以上の問題にはならないと思う。

ここなんですが、記事にするんなら、新聞としてちゃんとした記事にすれば、というか、しないの?、と感じるんですが。

少なくとも現行制度であれば、次の法相もここで書かれるところの「死に神」になりかねないわけで。

問題のある事柄について「多くの国民に影響を与える記事を示すことができる」全国紙じゃないですか。
遺族の抗議の回答だけでなく、本当に問題と考えるならちゃんと記事にして論陣はれ、と。

No.203 ponさま

そして貴方が選んだジュースが不味かったとしても、貴方は誰にも文句を言うことは出来ません。 そのジュースを飲むことを決めたのは貴方なのですから。
私なら、ジュース会社に文句を言いますね。お金を払ったのにそれに見合う味じゃないと。私は「泣き寝入り」はしたくありません。(これはベルリンのレストランでの話ですが、ぱさぱさのアスパラガスに文句を言ったら、料理がただになったことがありました。)
被告人の命を左右出来るほどの力を、被害者遺族は持たされます。

そうなのでしょうか?
ここは専門家のご意見を伺いたいと思いますが、私はそのようには思いません。
以前は「被害者の遺族は蚊帳の外」だった裁判に、近年被害者の遺族の意見を述べる場が与えられるようになったのは理解していますが、裁判官はもとより、検察官や弁護士の方がもっと力を持っているように思います。
被害者遺族が「犯人の死刑」を望んでも、「死刑にならなかった場合」も多いのではないですか?また、逆に遺族が死刑を望まなくても「死刑になったケース」もあります。
被害者の遺族の意見は「(判決を)左右できるほどの力」は持っていないと私は思っています。もし、遺族にそんな力があるなら、裁判は単なる報復の場ではありませんか?

関東御成敗式目 様

>人間である以上、極限の精神状態に置かれれば

それは衝動と呼ぶべきものでしょう。
私は衝動が殺人の一要因になることが良いことだとは思いません。

それはまさしく、EUが主張するところの復讐にほかならないと思うからです。

被害者遺族が仰るような状態にあるのであれば、責任を問うべきではないのかもしれません。
しかしそれならば、裁判所はそのような責任能力のない人間の主張を判決に影響させるべきではないと思います。

通行人1様

被害者遺族の判決に対する影響力については
>裁判官はもとより、検察官や弁護士の方が
これは当然としても、影響力が大きいか小さいかという議論には立ち入らない方が良さそうです。
私や通行人1様の主観の絡む話であり、擦り合わせは困難だと思うからです。

とりあえずここでは影響力の大きさは差し置き、被害者遺族の主張が判決に影響する事を共通の了解事項として確認するに留めます。

pon さんどうして被害者遺族の責任をここまで強調したいのだろうか?

結局責任という言葉の使い方が間違ってますね。
私が204で書いたのが一般的な解釈ですよ。
それを自分勝手な解釈で使うから批判されるのではないでしょうか。
ponさん流の責任の解釈で言えば、死刑執行した刑務官も責任がある事になります。
刑法に死刑が規定されている限り、その刑法の範囲内で遺族が
死刑を求めても何の違和感もありません。
それをあえて責任という言葉を使うなど話になりませんね。
被害者遺族の主張が判決に影響する事はあるでしょうけど
主因は被告の犯した行為です。


ケイ様

間違っている、とまで言うのならば伺いますが、私が責任と表現している言葉は何に置き換えられるべきだと思いますか?

>死刑執行した刑務官も

ケイ様は現に人の命を奪う職務を行う人間が、無責任であるべきだと考えるのですか?

panさん
あえて使うとしたら自覚でしょうね。
しかしこれは第3者が要求は出来ませんね。法律通りの要求ですから。

貴方の使っている無責任の意味が判りませんが、私は責任がない=無責任とは考えませんね。
ですから刑務官は無責任であるべきとは考えませんし責任があるとも思いません。
刑務官は職務を忠実に実行しているだけです。

ponさん

横からですが、あなたがおっしゃる刑務官を「人の命を奪う職務を行う人間が、無責任であるべきだと考えるのですか?」と問うのであれば、他人が責任を問うべき事ではないでしょう。

好きでやってる訳ではない、きっと苦しんでますよ。そこに個人的な責任を持てというのは法治国家を否定する事になりませんか?誰も好き好んでやる仕事ではないのに、公務員として国家の仕事としてやってる訳じゃないですか。心的ダメージを負ったとしてもやらなきゃならないんです。

また被害者遺族に対しても、他人が責任というものを問えるのか疑問です。責任はきっと感じているんですよ、他人に言われるまでもなくね。

刑務官にしろ被害者遺族にしろ当事者でない私達が理解し、支えてあげなければならない人達だと思いますよ。それぞれの心の中には責任をともいうべき傷跡を残してるんじゃないでしょうかね。

ケイ様

私が「責任」という言葉を使うのは、それと対になる「自由な選択」を強調したいからでもあります。

「自覚」という言葉では「自由な選択」を直ちに繋げられません。
少なくとも私は違和感を感じます。

ゲン様

公務員が職務として行う行為の責任を国民が問うてはならないとする主張は受け入れられません。

個人の責任を問うのではありません。
国民の信託を受けた、死刑という行政行為を行う公務員としての責任を問うのです。
これを否定するのは公務員の存在意義の否定です。

後段については特に異論はありません。

ponさん

>国民の信託を受けた、死刑という行政行為を行う公務員としての責任を問うのです。

個人的ではないとの事了解しました。では死刑を執行しなさいと命令された刑務官がこれを拒否した場合、同等の責任を問われますか?

個人的な責任が無く公務員としての責任というならば、命令通り死刑執行した場合より、拒否した場合の責任の方が問題視されるのではと思ってしまいます。

『私が「責任」という言葉を使うのは、それと対になる「自由な選択」を強調したいからでもあります。』
何回も書いてます。貴方の責任という言葉の解釈は一般的な
解釈と乖離してます。責任とは義務を伴うものです。
『自覚』は貴方の質問にあえて書いただけで、私も違和感はありますよ。
しかし法律通りの要求をして何を咎めるんですか?
遺族の自由ではないでしょうか。
貴方が先に半田保険金殺人事件の原田氏の例を挙げてます。
私は原田氏の主張も自由と考えてますよ。

pon さん
質問させてください。
貴方のNO48の発言です。
『昨年ある犯罪被害者が死刑嘆願の署名を集めましたが、これは自身が加害者の死刑を望む事の責任を署名者に分散させようとするものであり、責任回避の態度が見られます。』

私は名古屋ですので情報量は多いのですが遺族のホームページやテレビのインタビュー等も見てますがそのように感じた事は
ありません。
この根拠はなんですか?

皆さん、「責任」、「責任」の言葉遊びはそろそろ終わりましたでしょうか?
お疲れ様でございました。

ここまでの言葉遊び(議論と言う気も起こりません)を読んでいて思うのは、責任と言う言葉をここまで薄っぺらく使った例は、今まであっただろうかと言う事です。

たぶん「責任」も驚いている事と思います。

ponさんへ

私は、あなたへ何度か「責任」とは何で、「責任」の取り方とはどういうものかと聞いていましたが、あなたの「ジュース」のたとえで、よ〜〜〜〜く解りました。

あなたの「ジュース」のたとえで行くと、あなたの言う、死刑を望む、犯罪被害者の責任の取り方とはこういうことです。


>例えば貴方が喉が乾いて自販機でジュースを買うとします。犯罪被害者が、犯罪者に対する刑罰を求めるとします。
>コーラもあればコーヒーもあります。何を選ぼうが貴方の自由です。
死刑もあれば、無期懲役もあります。何を選ぼうが犯罪被害者の自由です。

>そして貴方が選んだジュースが不味かったとしても、貴方は誰にも文句を言うことは出来ません。
そして死刑を選び、死刑が処されたのに、犯罪被害者の気が晴れなかったとしても、犯罪被害者は誰にも文句を言う事はできません。

>そのジュースを飲むことを決めたのは貴方なのですから。
死刑を求める事を決めたのは、あなたなのですから。(どど〜〜ん)


結論:
死刑が処されたのに、犯罪被害者の気が晴れなかったとしても、文句を言わないという事が、責任の取り方。


いやー、なんなんですかね。これ。
ponさんは憂慮されてるんでしょうが、私の感覚としては、日本全国一億2千万、今生まれたばかりの赤ちゃんから、最高齢のお年寄りまで、上の「責任」を取らないというかたは、一人もいないと思いますよ。

結局、「責任」の中身がないから、こういうことになるんでしょう。
はあ。

モトケンさん


>pon さんどうして被害者遺族の責任をここまで強調したいのだろうか?


自己コメントの引用になってしまいますが、


> あのう、akiraさんんの御指摘に対して「全国犯罪被害者の会」(あすの会)の主張する犯罪被害者遺族について指していたとお認めになって、なお、犯罪被害者遺族と言う表現を使い続ける事を”大きく取りすぎ”(誤解を招いてしまう)とは思われなかったのでしょうか? 


 一般名詞としての被害者遺族と、本ブログのエントリー中にあります。"確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族”が混用されているので、第三者的に見るとモトケンさんのような疑問が生じるものと推測できます。 ponさん御本人には明確でも誤解を招く可能性は大きいのではないかと思います。

 ponさん本人が意図的に行われているかどうかは別として、現状のコメントの流れを、私なりに見てきた感想としては、彼の意見は"言外の部分"を理解しないと言葉の一般的な意味では理解が困難です。 あくまで推測ですが、あまり具体的な例を持ち出したくない(個人情報の漏洩?)ので、抽象的にならざるおえないのか。それとも、コメントする事自体が目的であり、他の人からの理解や意見を求めていないのか。どちらにしても情報不足のままフラストレーションが溜まるのは致し方ないものと考えます。(より正確には"みんな"に溜まる。)


 私なりに"被害者遺族の責任"の意味について分析してみると
"被害者遺族" これは一般名詞の特定多数の被害者遺族ではなく、特定の被害者遺族(具体的な情報はありませんが、「全国犯罪被害者の会」(あすの会)の抗議・行動に準じる者ではないかと推測します。)の"責任"ここにおける"責任"も一般名詞ではなく、"死刑判決を要求する"被害者遺族を対象としたものであって、実際の司法手続き(裁判?)に携わる司法関係者の"責任"とは異なる"責任"であって、さらにこの"責任"は"死刑を要求する、した"ことに対するもので、死刑判決が出ようが、出まいが、死刑が執行される、されない事とも関係ない(実際に被害者遺族の要求(のみ)により死刑判決が下される事はありえませんから。)"責任"であるとしたら、この責任を誰(何?)に対して負うのか、加害者遺族かなぁ。 最後に腰砕けになりましたが、 一般的な言葉として"被害者遺族の責任"(勝手に"死刑判決に対する"と補足させてもらいます。)を誰に対し負うのか、これに対する回答は望めないと想像できます。抽象的過ぎて、降参です。

 長々綴ってしまいましたが、私としては"被害者遺族の責任"の言外に「言及できない感情がある」のではと解釈しております。 横車であることは承知しておりますが、モトケンさんが少しでも納得いただければ幸いです。

ケイ様

何度でも言いますが、私は被害者遺族が咎められるか否か、責められるか否か、問題にしていません。

責任という意味の用法ですが、あえてケイ様の納得しそうな表現をするならば、「死刑を求めた事とその結果に対して自覚を持つ事の責任」という言い方はできるかもしれません。

しかし、現実には自覚だけの問題ではすまないかも知れません。

ケイ様

名古屋の事件については既に論じた通りです。
再度は繰り返しません。
但し、情報量が充分ではないかも知れないことは否定しません。

本村さんの記者会見での言葉
もし死刑が科されれば、その死刑を求めたということについても私はなにがしかのものをずっと背負って生きていくんだろうと思っています。

こういうことでしょ?
言葉の使い方とかもういいじゃない。
なぜ挑発するかな。

責任ウンヌンは他の方からの意見もありますので止めにします。
しかし名古屋の『責任回避の態度が見られます』
これは答えていただきたい。
磯谷さんの遺族がいつ何処でそのような態度を取ってましたか?
それとも単なる貴方の主観ですか?
明確な根拠を示せないなら貴方の発言は磯谷さんのお母さんに対する侮辱でしかありませんよ。

noah様

死刑は被害者遺族の気が済むか否かの問題に留まりません。

加害者に近い人間に与える影響がどれだけ深刻なものかは想像に及びません。
(再三取りあげている原田氏のケースでは、加害者の死刑確定後、加害者の息子が自殺しています)

それだけではなく現実の法改正、裁判所の量刑基準に与える影響、国際世論における日本の評価等、いくらでも話は広げられます。


被害者遺族が死刑を望み、それを裁判所が受け入れ、その結果死刑が執行された場合、その結果はこれだけの広範で重大な波及効果をもたらします。

もちろん、その波及効果の責任全てを負えとは言いません。
しかし要因の一つになっているのは否定できない事実です。
少なくとも言えるのは、死刑は被害者遺族の気が晴れるかどうかだけの問題では、断じてない、ということです。

これはnoah様に限らないのですが、私をして問題の扱いが軽いと批判する方に限ってそのような矮小化をします。
不思議でなりません。

ケイ様

先に挙げた通りです。繰り返しません。

ろくろくび様

まさしく、そういう事ですね。

ponさま

私が「責任」という言葉を使うのは、それと対になる「自由な選択」を強調したいからでもあります。

あなたのいう責任というものはやはり私には理解できないし、受け入れられません。
責任と対になる自由な選択に意味は、今回のあなたが求めるる被害者家族の責任や死刑に関わった司法・行政関係者に求める責任でなければ、少しは理解できます。

自動販売機のジュースの例えは適切だとは思いませんが、確かに我々が選択し、その結果を受け入れなければならない自己責任というものはあります。

しかし、前にも書きましたが、犯罪被害者及びそのご家族は「自由な選択」などなく、理不尽な犯罪にあったのです。

例えば通り魔にあった被害者を、まさかそこを自由に選択して歩いていた責任があるとでもいうのでしょうか。

私もponさんの考え方を善解しようと倫理観や道徳観で解釈しようと思いましたが、その後のやり取りを読んでいて、どこまでいっても理解できないし、周りに人の意見を理解しようとも思わないようなので、これで終わりにします。

足跡帳を探したのですが、ponさんの書き込みを見つけられませんでした。背景や立ち位置などが分かるよう、足跡帳に記入頂ければありがたいです。(あくまで、お願いですから)

No.245 pon さん

>死刑は被害者遺族の気が済むか否かの問題に留まりません。
加害者に近い人間に与える影響がどれだけ深刻なものかは想像に及びません。
(再三取りあげている原田氏のケースでは、加害者の死刑確定後、加害者の息子が自殺しています)

確かにponさんが憂慮されてる事は実際多いと思います。加害者に近い方の自殺は上記以外でもありますもんね。いかに犯人を憎もうとも加害者に近い立場の人達まで糾弾すべきではない。そこは厳罰化を望む私でも保護されるべきと思います。もちろん事件解決や背景を理解する上での協力はすべきですけど。

>被害者遺族が死刑を望み、それを裁判所が受け入れ、その結果死刑が執行された場合、その結果はこれだけの広範で重大な波及効果をもたらします。

ここがどうしても納得出来ないんですよね。被害者遺族、加害者双方が裁判所の判断を受け入れざるを得ないのでは。死刑を望む望まないに関わらず判決って出されるんじゃないでしょうかね?最近の秋葉原のような事件で、被害者遺族や負傷した方々が厳罰を望まなくとも判決は厳しいと予想できます。裁判所がそれぞれの遺族の望みを受け入れるなんて事は無いと思います、というかそうでなきゃ実際の裁判官は被害者遺族になってしまいます。


結局答えられないんですね(苦笑)
『これは自身が加害者の死刑を望む事の責任を署名者に分散させようとするものであり、責任回避の態度が見られます』
単なる思い込みですね。妄想の部類です。
この遺族は極刑を求めると宣言してます。『私どもが今、利恵にしてやれることはこれくらいしか思いつきません。』としてます。又事件を風化させないためにも街頭署名活動を行ってます。ここまでしているのに責任回避の態度が見られると考えるのは笑止千万です。
根拠を説明できないのなら名誉毀損ものですよ。
遺族を侮辱してます。

私は、最初からずっとponさんの言いたいことは、この思想のことだと思っているのですが・・・


無神論の立場に立つならば、人間存在はただ在るのであって、不意に放り出された状態からスタートします。したがって、人の生き方は「○○をしなければいけない」とあらかじめ性質・用途などの本質が決められているわけではありません。これは、人が決めた実定法に従うことについても言えることです。人はプログラムに忠実に従うロボットと違い、法を破ることも可能な存在です。人は、自己の決断と選択によって、日々の行為を選び取っているのであり、既存の価値や権威(法と置換えても可)に身を委ね、選択を免れているように考えることは欺瞞にすぎない。法に従うことは「六法の厳格な執行が社会正義を実現し、不幸な人間をできるだけ少なくし、社会幸福を最大限増進する」という信条を自ら選び取っている結果にすぎないのです。人の生き方は、自ら選び取っている以外の何物でもなく、「こうあるべきだ」という本質が設定されているわけではありません。→「実存は本質に先立つ」

したがって、人間は、その行為選択において自由であり、決定論は存在しないのだから、(心身喪失で無い限り)自らの行いについて100%責任を転嫁し正当化する根拠を、自分の外に見出すことはできない。人間は自由そのものだと言えます。その反面、決断に伴う孤独と不安、そして重荷に耐え、自らの行為を責任として引き受けていかなければなりません。→「人間は自由の刑に処せられている」

しかし、そのような生き方こそ、「○○に従わなければならない」という本質が決っている存在(事物存在)としての即自的あり方(それ自体においてあるものであり、自己の存在を否定・肯定する意識を有する対自存在としての人間的あり方とは逆の物質的あり方)に逃げる自己欺瞞的生き方を乗り超えた、真に人間的な生き方だと言えるのです。→社会システムの肥大化・分業化(官僚化も含む)による、個の喪失を近・現代における人類の重要課題に借定し、人間疎外からの回復を目指す実存主義の理念。


私には、上記思想に出てくる意味において、ponさんは「責任」という言葉を使用している様に思えます。もちろん、ここで言う「責任」とは法的責任のことではありません。

ここで言う「責任」では、極端な話、銃を突きつけられて「手を上げろ」と言われた場合にも、手を上げた人間は「ここで殺されることよりも手を上げることを選んだ」わけだから責任は発生します。ただし、その場合の「責任」に、一般的に批判の意味合いを込める人は、まず居ないでしょう。つまり、ここで言う「責任」は「責任=批判に値する」と必ずしも結びついていないのです。あらゆる意識的行為(選択と決断)について、必然的に微量なりとも発生する影響と、その結果に対して自覚を持つ事の責任という意味なのです。→「もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりにもとづくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向へアンガジェ〔引用者註:英語のエンゲージと同じで、約束すること、自己を拘束すること。かかわるという意〕するのである。こうして私は、私自身にたいし、そして万人にたいして責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私は選ぶことによって私は人間を選ぶのである。」(J‐P・サルトル『実存主義とは何か』伊吹武彦訳 人文書院)


私の言いたいことは次の通りです。

1.ponさんは「責任」という言葉とその理念(背景となる理論)を、哲学をかじった人間から見て、正しく使っている。(註1)

2.しかし、あらゆる理念(理論)がそうであるように、現実問題への適用の当否については吟味が必要である。この用法の場合、上述のように必ずしも「責任=批判に値する」ではない。対象者の行為が、「責任を有する」という哲学上の宣言とは別に、批判に値するかどうか、別途、「選択」の妥当性についての論争が必要である。

3.また、あらゆる意識的行為(選択と決断)について、その結果に対して「自覚」を持つ事の責任という意味なのだから、当事者が「責任の一端はあると自覚している」と言えば、そこで指摘目的は達成される。

4.したがって、「責任」の存否とは離れて、対象者の行為を批判するのが、「酷なことであるか、そうでないか」を直接的に検討する方が良い。例えば、「無職になっても当該職を辞するべきだ」とか、「それでは、代わりはどうするのか。制度を廃止しろという事か」など。


(註1)
実は、これが最大の投稿意図だったりする。。。(^^;
朝日の記事や死刑制度に携わる人達に、特に意見があるわけではないのだけれど、ponさんが意図せずとも、「責任」の持ち出し方が哲学上重要な実存主義の用法に近似している以上、それがフルボッコになっているの見て、「哲学系の人間は、黙って見ていたのか!!」と、あとで誰かからお叱りを受けそうで・・・

補足です。

No.250投稿内

借定し、→ 措定(そてい)し、 ※漢字の間違いです。

なお、「この思想」のリンク先は、Wikipedia「ジャン=ポール・サルトル」ページ内、「思想」の項目です。Wikipediaサーバが重たくて開けない。。。

ところで、fuka_fukaさん、少し疑問さんが、すでに同趣旨のコメをしておりますが、流したわけではないので、誤解なきよう願います。上述(註1)の動機からコメントしただけですので。(^^)

 レスありがとうございます。

 かなりオブラートにくるんだご意見ではないかと拝察いたしますが、

>「言及できない感情がある」

 そうかも知れませんが、そうでないかも知れません。

 そういう解釈もあるのかも知れませんが、

 私は、このブログのコメント欄をコミュニケーションの場として開放しています。

 一般的な言葉を一般的な理解とは異なる意味で使うことは避けられるべきですし、やむを得ず一般的な理解とは異なる意味で使う場合は、使う側がその意味を他人が理解可能な程度に説明するべきであると考えます。

 そうでないとコミュニケーションが成立しません。

普通の社会生活を送っている人に向かって
いきなり哲学系の用語を投げかけるまえに、
同じ哲学系のフィールドで構えているはずの
ヴィトゲンシュタインせんせの主張を論破して
いただきたかったような...

ponさん

私が終始言っているのは、「責任」とは何で、「責任」の取り方とはどういうものかと言うことです。

それのお答えを明確に返事していただけない為、それを「ジュース」の例で類推するしかありません。

>死刑は被害者遺族の気が済むか否かの問題に留まりません。
ジュースは例として不適切だと言う事でしょうか?適切だが、私のとり方が間違ってますか?
間違っているのなら、どの点を見落とし、どの点を読み違えているのか、解説いただきたく。

>もちろん、その波及効果の責任全てを負えとは言いません。
>しかし要因の一つになっているのは否定できない事実です。
>少なくとも言えるのは、死刑は被害者遺族の気が晴れるかどうかだけの問題では、断じてない、ということです。
そうですね。私も桶屋が儲かった責任をすべて風が吹いた事におっかぶせる気はありませんが、要因のひとつになっているのは否定できない事実です。
ですから、風にどのような責任を負わせるべきなのかが、問題になるわけです。

桶屋が儲かった事により、羽振りがよくなり浮気を繰り返し、奥方と離婚した。としましょう。
奥方の生活費を風は負担しなければならないのでしょうか?
奥方に新しいだんなを見つけ、再婚の面倒を見なければならないのでしょうか?


>これはnoah様に限らないのですが、私をして問題の扱いが軽いと批判する方に限ってそのような矮小化をします。
私は、問題の扱いが軽いと批判した覚えはありませんが。
矮小化というなら、あなたが犯罪被害者の責任というもののたとえに、「ジュース」のような物だと言ったこと自体が矮小化なのではないですか?

ponさんはponさんの価値観のみに照らし合わせて死刑を求める被害者遺族の責任を定義しているので、その名の通りど素人には理解しがたい話でした・・

しかししかし先人の努力の甲斐あって責任が「自覚」を意味するのだろうというところまで理解できました。しかし正直言って、それを指摘したところでそれで何なの?というのが率直な感想です。

責任の有無の話に終始するのではなく、責任があるのでどうすべきなのかまで言及される方が分かりやすいと思います。

あとまぁ責任について論じる範囲について、その時々で範囲を変えては良くないと思います。国際情勢への影響なんてことは死刑制度論として論じるべきでしょう。

逆に皆様に伺いますが、「被害者遺族に責任がある」は直ちに被害者遺族を責めること、被害者遺族を咎める意味を指しますか?

「この決済には主任も判子を押している。だから主任もこの決済に責任を負っている」
この文章これ自体は、判子を押した主任氏を責める意味を含みません。

仮にその決済にミスがあったために会社が損害を受けた、のような前提があればこの主任氏を咎める意味を持つでしょう。
しかしこの文章だけではそのような意味に断定できない筈です。

そして、その決済が何の不具合もない正当なものであるという前提なら、この文章は主任氏にこの決済に関わった事の自覚を促すものか、この決済に後で不具合が発覚した場合この主任氏もその咎を受けるのだという因果を含める意味になるでしょう。
私はこの議論の中では前者の意味で使っていました。
当然いずれも主任氏を責めてるわけでも批判しているわけでも咎めているわけでもありません。

「主任が決済に判をおし、決済が通った」
「被害者遺族が死刑を求め、死刑が執行された」
いずれも文章構造としては同じです。

これらの文章の主語に批判的な意味を認めるには、結論が否定的なものでなければいけません。

「決済が通った」という結論には、直ちに否定的な意味を認める事は出来ません。

「死刑が執行された」という結論も同様です。ましてや我々はこの議論における死刑は、冤罪や不当判決に拠らない正当なものである、という設定を共有していた筈です。
そして私は死刑という制度そのものに反対する意図が無いことは、前もって言明しています。
どんな意味であろうが、被害者遺族を責めたり咎めたりする意味で無いことは確かです。

それなのに皆様は何故私の主張に被害者遺族に対する批判的な意味を認めるのでしょうか?
「犯人の死刑が執行された」という正当な結論に、何故否定的な意味を認めるのでしょうか。


私はこれを犯罪者を死に至らしめること、しいては死刑制度そのものに対する皆様の無意識の罪悪感が投影されたものではないかと考えます。
如何ですか?

noah様

今しがた投稿したコメントが回答を含んでるので、多くは語りませんが、

>責任とは何で、その取り方は何か

責任とは「取る」ものとは限りません。
単に「負う」だけの場合もあります。
そして先のコメントで言ったように、この議論では対象とする死刑は冤罪や不当判決に拠らないもの正当なものであることは、前提として共通の了解があった筈です。
なので、この議論では死刑を求めた被害者遺族が責任を「取る」事はありません。


もはや言葉遊び以下です。
決済印を押す主任は、決済の意思決定プロセスに関与して、可否を断ずるの権限を有します。犯罪被害者遺族には、そのようなものは存在しない。
ありもしないものを「ある」と強弁しているようでは、話がかみ合うかみ合わない、肯定・否定以前です。

惰眠様の反応については既に述べた通りですですね。

理解するつもりなどこれっぽっちもなく、どうやって揚げ足とろうかと待ち構えている人間に対しては如何なる例えも無駄。

被害者遺族の死刑の求めが判決に影響を与える事は、一部の方は了解しています(その影響力の大きさは差し置いて)。
確実な根拠としては、永山基準の要件の一つに挙げられています。これも既に言及済みです。

釘を刺して置くならば、決済が必ず主任の承認を必要とするとは限りません。
主任が反対しても、主任を通り越して部長クラスの承認で良しとする場合も有るでしょう。

逆に部長クラスに話を通しても、社長のところで何故現場に近い主任の承認が無いんだ、という事で跳ねられるケースも有るでしょう。

当然主任が承認しても何らかの事情で跳ねられるケースは当たり前に存在します。

以上を考えれば、主任氏の承認は必ずしも必要不可欠ではなく、かつあったからといって決済を絶対確実にするものでもありません。
つまりはケースバイケースです。
確実に言えるのは主任という地位にある地位の意向は確実にその会社に影響力を有するという事です。

結局、私や「少し疑問」さまのフォローも、かえって逆効果で、「増長」を招いただけなのかもしれません。

反省して、このエントリからはもう離れます。

 ponさん
 このコメントについて釈明求めます。

 あなたは

>「殺す奴」の汚名

 という表現を使ったのですよ。

 これについて納得のいく説明がないのであれば、あなたのコメントは全て自己の発言を正当化するためのものと見るほかありません。
 それも後出しジャンケンの正当化です。

よくまあ、お相手が続いていますね。
先日の私の単純な質問=「責任を持つVS責めを負う」の回答を、ややずらしながら捻り出したのかな?
>pon さん のコメント

そして、その決済が何の不具合もない正当なものであるという前提なら、この文章は主任氏にこの決済に関わった事の自覚を促すものか、この決済に後で不具合が発覚した場合この主任氏もその咎を受けるのだという因果を含める意味になるでしょう。
私はこの議論の中では前者の意味で使っていました。

自覚の意味なら⇒嫌応無しに遺族の立場を自覚させられた者を取り上げて騒ぐ事は、彼らを責立てる行動、不自然又は矛盾が有ります。

見た所では、一部の遺族会へ反発の一般化が論を為さなかった訳ですが、変転した挙句に逃げ道にされた方は、さぞ迷惑でしょうねえ。

pon様

例えば、私が裁判で宣誓をし、証人として被告に不利な証言をした、それが全てではないにせよ、被告は死刑判決を受けた。そして、刑が執行された。
そこで私が他人から「死刑囚の死に責任がある」と言われたら、そこには「否定的な意味」を感じます。確かに私は、法的には正しいことをした。でも、自分が死刑囚の死に関わった、という事実は生涯記憶の中に残るでしょう。
死刑という重いことではなく、それは「内部通報」でも同じです。自分の通報(社会的にも法的にも正しいこと)のせいで会社がつぶれ、多くの従業員が失業する。私は彼らの失業に「責任はある」と思うに違いありません。でも、会社の不正が社会に大きなダメージを与える、と判断したら迷いながらも「通報」する道を選ぶでしょう。
そして、もし失業した同僚から「お前の責任だ」と言われたら、それはこう反論するでしょう「不正を行った会社の責任だ」と。また、通報したことがばれなくても、同僚の目を見て話をすることは出来なくなるかも知れません。
しかし、個人の「正義感」と失業した同僚への思いは私個人のもので、他者から指摘されるようなものではありません。
(裁判に直接のかかわりを持たないと言う意味で)安全地帯にいる者は、他人の心に土足で踏み込むようなことをしてはいけません。あなたがどういう意味で「責任」という言葉を使われようと、言われた私は「自分のした事の結果−人の死ーについて責めを負うこと」と理解します。そして、他者から「責任」を指摘されたら、その重みに耐え切れず自死するかもしれません。私にとっては「責任」は「負う」ものではなく「取る」ものだからです。
少なくとも私は、「責任」という言葉にはそのような重みを感じます。あなたがどう思われようと。

失礼しました。
HNを間違えました。
×No.264 通行人
○No.264 通行人1

fuka_fuka さん、こんにちは。
僕もponさんの意見にもうコメントはいたしません。
読むのもつらくなってきて、実際読めなくなりました。
何だか、ますます不毛になっているような気がします。


閑話休題ですが、ちょっと誤解の招くような書き方ですいませんでした。不真面目と指摘されたのは別の方です。失言をして謹慎ばかりしていた者です。ハンドルも確か謹慎なんとかだったと思います。最近の謹慎明けさん(だったかな)とは別人間です。

また、登場しちゃいました。

 一般論ですが、ずーっとROMってた者から見て、議論のための議論・反論のための反論は、非生産的で時間の無駄ですから止めましょう。後だしジャンケン(アトヅケ自己正当化)も芳しくないです。>誰とはなく

>No.253 モトケン さん

レス有り難うございます。

まったく、おっしゃる通りです。平場において、ある特定思想について知っていることは前提条件ではありません。したがって、ある用語を巡って議論が錯綜した場合は、一般的でない特殊な意味合いを込めて使用し、それについて説明できなかった側に責任があります。ただし、これは互いに理解し合おうという議論の大前提となる姿勢があったればこそですが。


P.S.
私の解釈は、勝手読みの可能性が大ですね。ponさんの主張とは切り離した、私の「哲学的つぶやき」として処理して下さい。

私の主張は基本的には当初とは変わっていません。

私の主張そのものが受け入れられないのであればしょうがありませんが、表現の不適が原因ならば、別のより良い表現を試すしかありません。

それを後付けの言い訳だと断じられては、打つ手が無くなります。

モトケン様

>「殺す奴」という汚名

単に人を殺す、という表現が否定的な意味を持つ事は確かです。

そして死刑が殺人の一形態であることも確認済みです。

しかし例え殺人であっても、死刑という制度を通す事によってその行為もは正当化されているはずです。

私のそのコメントは本当に正当化されてるのかどうかを挑発的に問うたものであり、それ以降は正当行為としての死刑を一貫して扱っています。

モトケン様が考えておられるように、私自身が死刑に関わる人を殺人者とみなしているわけでは、断じてありません。

しかしながら、上の質問が無意味に挑発的であったのは確かであり、この点は反省します。

通行人1様

仰るように本来ならばあえて言うべき事では無いのでしょう。
現にあえて主張した私がこの有り様ですから。

あえて言った理由はいくつかあります。

死刑という不可逆で重大なプロセスに関わる人間に責任を認めないのは欺瞞ではないか、
死刑を望む事に責任を認めないのは死刑を望まない事の選択を認めない事になり、同時に現に死刑を望まなかった人、これから死刑を望むか否かの選択に立つ人の権利を奪う事になるのではないか、等々です。
既に述べた事なので詳しくは繰り返しません。

私には選択肢は二つです。
受け入れ難いであろう主張を発するか否か、です。

今現在、現に受け入れられないのは私は表現の問題と考えています。
表現の問題であれば言を尽くして理解を貰えるように努力するのみです。
当然私の主張が根本的に間違いである可能性もあります。
その場合は単に間違いを認めるだけです。

付記

私の主張それ自体に大きな矛盾が認められず、それでも尚私の主張が受け入れられないのであれば、その場合もやはり主張は止めます。

それ以降は思想、信仰の問題であり、合意は不可能だからです。

私に反発する方は何故私の主張に反発するのか教えて頂きたいです。

表現の問題なのか、私の主張に矛盾があるのか、そもそも主張それ自体が受け入れ難いのか。

No.270 pon さん
 横レス失礼します。m(_ _)m
>死刑を望む事に責任を認めないのは死刑を望まない事の選択を認めない事になり、同時に現に死刑を望まなかった人、これから死刑を望むか否かの選択に立つ人の権利を奪う事になるのではないか、等々です。

 ここには疑義があります。けっして論理学の遊びではありませんが、棄権や不選択という中立的意見も存在します。むしろ、心理学的にいえば二者択一思考で割り切ろうとすることに危険な罠を感じます。↓ご参考まで。

デビッド・D・バーンズの10種類の認知の歪み(推論の誤謬)
1.全か無か思考(all-or-nothing thinking)
2.過度の一般化(over-generalization)
3.心のフィルター(mental filter)
4.拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
5.感情的決め付け(emotional reasoning)
6.マイナス化思考(disqualifying the positive)
7.結論の飛躍(jumping to conclusions)
 a.心の読み過ぎ(mind reading)
 b.予期の誤り(the fortune teller error)
8.すべき思考(should statements)
9.レッテル貼り(labeling and mislabeling)
10.個人化(personalization)
http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119

「あすの会」は厳罰主張が大きく、被害者遺族が死刑回避を望む人・意見を排除する傾向があることに対しての批判的感情がコメントの根本だと推測してますが、被害者遺族に死刑判決・執行を望む、望まないについて「意見選択」の余地があるのは明らかです。

「あすの会」は「所属」する被害者遺族は死刑執行を望んでいるという意見であり、「全て」の被害者遺族がそうだと限らないのは当然です。全ての被害者遺族が「あすの会」に所属する義務もないし・・・
それに市民団体にイデオロギーが多少でも必ず存在するわけだし・・・

なので「あすの会」の新聞社に対する抗議が、「全」被害者遺族の総意として捉われる表現を用いている事に対して批判すれば、これだけコメントが並ばなかったんじゃないかと思います。

>なので「あすの会」の新聞社に対する抗議が、「全」被害者遺族の総意として捉われる表現を用いている事に対して批判すれば、これだけコメントが並ばなかったんじゃないかと思います。

それだと釣れないじゃないですか。

揚げ足ではありません。
あなたが、本来説明すべき「責任」を忌避して、のらりくらりと「卑怯な」言い逃れを続けるので、こちらは発言の意図を確定させるべく「言質を取ろうとしている」のです。

前言は翻す、言質を取られそうになると「揚げ足取り」という、肝心の質問には答えない、およそマトモなクオリティの言論とは看做し得ません。

敢えて老婆心で言えば「独り言ならどっかで一人で呟いてなさい」です。

>No.273 カツビン さん
私に関する限りこの投稿者が、「論」として成立しないことを何度も繰り返す、「対話」を成立させないようにする、言い逃れをする、誤魔化す、論点を摩り替えようとする、痛いところを突かれそうになると相手の発言「姿勢」に問題があることにして逃げを打つ、そういった「発言者として無責任で卑怯な態度を取り続けること」が腹に据えかねるのです。
小倉秀夫氏と表現形は異なりますが、メソッドは極めて似通っています。

 一般論ですが、粗雑な意見、配慮やデリカシーを欠いた意見、独りよがりな意見……などは批判や突っ込みされても甘受すべきでしょう。これは私も自戒していることで、自分のコミュニケーション能力が低かった・不勉強だったと自省することにしています。
 誤解を生まない表現能力も必要です。

No.260
>被害者遺族の死刑の求めが判決に影響を与える事は、一部の方は了解しています(その影響力の大きさは差し置いて)。

 ここでいう「影響力の大きさ」は差し置いてはいけないんじゃないかなと思いました。
 ponさんのロジックは、鳩山法務大臣が負っているところの「責任」と、犯罪被害者遺族や国民一人一人の負っているところの「責任」とを、ともに責任を負っている、という点のみで括って同一視しているものと理解しています。しかし、負っている責任の大きさ(その人の選択が結果に及ぼす度合)はそれぞれ異なります。法務大臣と犯罪被害者遺族と国民一人一人との死刑囚の死という結果に対する責任の大きさを比喩的にいえば、
 法務大臣(執行指揮書を決済することを選んだ責任)>>>>犯罪被害者遺族(死刑を望むことを選んだことが判決において量刑の選択に関する事情として考慮されるという意味での責任)>>>>>>>>>国民一人一人(死刑制度を撤廃しない国会議員を選んだ責任)>0
くらいの関係にあるのではないかと思います。責任の大きさによって、その人が自己の選択に基づき生じた結果を受け入れなければならない範囲が異なるのではないかというのが私の感覚です。
そうだとしますと、鳩山法務大臣を仮に(あくまで仮にです)「死に神」呼ばわりをすることがそれ自体妥当(鳩山大臣は自己の責任の大きさに照らしてそれを受け入れなければならないと評価できるという意味です)なのだとしても、犯罪被害者遺族ないし国民一人一人を「死に神」呼ばわりすることは妥当ではないと思います(私の感覚ですと「死に神」は生殺与奪の権を握っているものではないかと思います)。
 そうしますと、法務大臣への「死に神」呼ばわりは侮辱ないし名誉毀損に当たる可能性があり(すべての人が満足している事項を特定の人に指摘することは、その特定の人への侮辱ないし名誉毀損に当たらないという私の理解を前提にしていますが違っているかもしれません)、また、あすの会の反応は過剰反応とみることもできますが、国民一人一人と比べると犯罪被害者遺族の負っている責任の大きさは桁違いに大きいですから、国民一人一人からみると、法務大臣と同様に犯罪被害者遺族が「死に神」に見えてしまってもおかしくないという意味で、理解できるものです。

カツビン様

そうですね。
主張をあすの会の抗議のその点に関する批判に絞れば、こんなにも反発は無かったでしょう。

しかし私はあすの会の件は枝葉に位置するものであり、私がコメント欄を割いて説明している「被害者遺族の責任」の方が根本だと認識しています。

そもそもその点を初めに指摘したのは私ではありませんしね。


それとこれは皆様に対してですが、私宛のコメントを下さるときは、文中で明記して下さるようお願いします。

多くの場合携帯環境なので、返信機能で私宛のコメントを頂いてもそうとは認識出来ないのです。

ponさん

>それなのに皆様は何故私の主張に被害者遺族に対する批判的な意味を認めるのでしょうか?

下記の文章は、被害者遺族に対する批判的な意味を含んでいないとおっしゃる?

>政治的に不利な本音を吐きましたね。
>つまりはこういう事です。
>「自分はある人間の死を切望している。この事に対して非難
>を受けたくない。」
>即ち、彼らは自身の態度に正当性を持てないのでしょう。

>そして私は死刑という制度そのものに反対する意図が無いことは、前もって言明しています。

下記のコメントを書いたのは、誰だと思いますか?

>我々が死刑に反対するのは死刑が刑罰の名を借りた単なる復
>讐だからです。


・・・あなたが主張したい事って、なんなの?

ハスカップ様

ご指摘のような問題は認識しているつもりです。

私は被害者遺族を「加害者の死刑を求める被害者遺族」と「加害者の死刑を求めない被害者遺族」にニ分割していますが、
当然後者には「加害者の死刑を積極的には求めないだけの被害者遺族」や「そもそも加害者の処分に関わりたくない遺族」も含みます。
原田氏のように「加害者の死刑を積極的に否定する被害者遺族」のような存在と後者を一緒くたにする事には、違和感を感じるのは当然でしょう。

しかし私の焦点は「加害者の死刑を求める被害者遺族」です。
ただでさえ分かりづらいと言われる私の主張の中で、「死刑を求めない被害者遺族」をそこまで詳細に細分化する意義を差し当たって今は、感じません。
後で問題がでるかもしれませんが、とりあえずその問題が明確になるまでは、正確さを犠牲に分かりやすさを得るためにこのモデルを使いたいと思います。
悪しからず。

No.279 noah さん

横から失礼。
↓の部分は、

>我々が死刑に反対するのは死刑が刑罰の名を借りた単なる復 >讐だからです。

書いたのはPONさんですが、EUの意見を紹介しただけですね。

前段はおっしゃるとおりですね。

さて、不毛なコメントを積み重ねるのも益がないので、ここでひとつフランスの哲学者にして社会学者、エドガール・モランの「和解の政治学」にまつわる話をご参考までに提示してみたいと思います。(出典はwww.mahoroba.ne.jp/~felix/Humanisphere/Eyes/021-misery.html

記事を引用しますと

E.モランは「犠牲者には、自分を苦しめた者以上に、賢明かつ人道的であらねばならないという義務があります」と言う。「復讐と憎しみの論理から逃れるために、あらゆる手を尽くしてみることです」と言う。そしてそれは(相手のことに関する)「理解」から始まると説く。「無理解に抵抗すること」「私達自身の内での悪の蔓延に屈しないこと」だと強調する。

また、アイルランドで新教側のテロリストだったヒュー・ブラウン牧師は「赦すこと」を説きます

ある人は「とても不公平ではないか。相手が簡単に許されてよいのか。許すべきではない」と言うかも知れません。しかし、許し合うことの大切さが分かったら、それは言えません。日本で、子供を殺された両親から相談を受けたりしますが、その人も「相手を許せる」と言っていました。紛争を体験したことのない日本人にとっても大切なことだと思います。憎しみや恨み、復讐心から解放される、唯一の方法です。許さないとすると、被害者は永遠に被害者のままです。

私は、そうであらねばならない、とまでは思いません。気高いとは思いますが、少なくとも私には難しい。とても。
ただ、かくありたいと感じる部分はあります。

noah様

引用二つ目は被害者遺族一般ではなくあすの会に対するものです。
引用四つ目はEUの主張を私が手書きで引用したものです。

いずれも当該のコメントを読めば判別出来るものと思います。

関東御成敗式目さん

ご指摘ありがとうございます。

ponさん

下段は誤読でした。
申し訳ない。

No.280 pon さん
>正確さを犠牲に分かりやすさを得るためにこのモデルを使いたいと思います。

 お言葉ですが、正確性を欠いたあなたの文章が誤解を容易に生む分かりにくい文章になっていますよ。最初からキッチリ正確に書いていたら、議論が迷走することはなかったと思います。
 そういう意味で書いている…細分化(正確性)の意義は認めない…というアトヅケの説明は最初の文章が曖昧で誤解を招く文章であったことの証明になってしまいます。
 ご検討いただけたら幸いです。m(_ _)m

>しかしながら、上の質問が無意味に挑発的であったのは確かであり、この点は反省します。

 私には、ponさんのコメントは、一貫して無意味に挑発的なものに感じられます。

 そして「無意味に挑発的」であるということは「釣り」であるということです。

 つまり、あなたのコメントは一貫して「釣り」であるということになります。

>私がコメント欄を割いて説明している「被害者遺族の責任」の方が根本だと認識しています。

というあなたが主張したいことは、いったいなんなのでしょう。

 それがまったく見えてこない。

ハスカップ様

善意の御忠告として受けとります。
問題が顕在化した場合には検討します。

一言申し上げるのならば、ご指摘の点を「キッチリ正確に書く」事は困難です。
どんな議論でも、議論の対象を現実そのままに扱うことは不可能で(この場合は関係者遺族全てをリストアップする事を指します)
一定の抽象化を経なければ議論の対象として扱うことは不可能で、そもそも議論を始める事は出来ません。
ですので、私の主張がご指摘の意味で正確性を欠く、という批判は甘んじて受け入れます。
差し当たりご指摘の点で誤解をしている方はいないと思います。

No.287 pon さん

>どんな議論でも、議論の対象を現実そのままに扱うことは不可能で(この場合は関係者遺族全てをリストアップする事を指します)

 そこが大間違いの原因です。「場合分け」又は「対象の要件限定」で普通に可能です。実際にこのエントリでやっている人はたくさんいます。やってない(できないと称する)のは貴方だけです。
 思考方法の根本根幹から再検討してください。

モトケン様

何度か私の主張をまとめたものを投稿しました。

携帯なのでNoをしてこれと指し示す事が出来ないのがもどかしいのですが。

>あなたのコメントは一貫して「釣り」

表現の問題を除けば、私は自分の主張がある程度の反発を受けるであろう事は、事前に予見していました。
その上で今に至るまでのコメントを投稿してます。
ただし無意味、とは思いません。

この態度をもって「挑発的」と言うならば、そうかも知れません。
あえて「挑発的」なコメントを投稿する事は「釣り」という事になるでしょう。

しかし「釣り」が忌避するべきものであるなら、参加者の反発を受ける事が予見されるようなコメントを控えるべき、という結論になります。

普段のモトケン様のスタンスからは考えられないものです。

ハスカップ様

>「場合分け」又は「対象の要件限定」

それこそが私が言っている抽象化作業です。
結局のところ、お言葉を借りれば場合分けをどこまで正確にやるかという問題だと思います。

ハスカップ様は場合分けによって「死刑を求めない被害者遺族」をさらに細分化するべきと言いますが、どこまでやるべきですか?
やろうと思えば棄権、中立、反対に場合分けされた各項をさらに
場合分けする事も可能ですが、そうする事によって何か益はありますか?

特にその事による弊害も発生していないのに、単に「正確ではない」という事だけを批判されたとしたら、私はそれは為にする批判ではないかと感じます。

No.287 pon さん
>問題が顕在化した場合には検討します。

 これだけ繰り返し問題が顕在化しているのを重ねているのに、全く気がつかなかったというのですか? ふざけていませんか?

ハスカップ様

とりあえず
「死刑を求めない被害者遺族」
を一緒くたにする事で発生している問題を御指摘ください。
私には分かりません。

No.292 pon さん
>一緒くたにする事で発生している問題を御指摘ください。私には分かりません。

 とりあえず、投稿を控えて、このエントリの最初から最後まで5回は熟読してください。それでも分からないなら、論理学の本を読んで勉強してください。あなたに問題点を指摘して理解していただくだけでも、5時間はかかりそうです。そんな貴重な時間をあなたに奉仕するつもりはありません。
 というか、ぶっちゃけ、既に上の投稿で多数の常連さまが繰り返し指摘なさっています。それで分からなければ、私にも貴方が理解できる説明をする自信がありません。

No.290 pon さん
>>「場合分け」又は「対象の要件限定」

>それこそが私が言っている抽象化作業です。

 「場合分け」は抽象化作業の逆なんですが?

ハスカップ様

せっかく御忠告を頂いたのにこのような形になって残念です。

結論としては、私の主張には正確性の点で問題があるということ。
これは我々共に合意できた点です。
私は正確性の問題だけならそれ自体は問題ではないし、それによる弊害は発生していない、という立場です。
ハスカップ様は正確性の問題によってさらな弊害が発生している、という主張に見受けられますが、具体的にそれが何なのかは御指摘頂けませんでした。

うあー、気になって昼休みに書きためてたコメントがすっかり周回遅れにー。
勿体ないので投下しますが、適宜スルーしてください……。


ふと、ponさんのおっしゃる責任の意味について、どこかよそで見た覚えがあるなーと思ってちょっとぐぐってきました。

http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/83/
コラム: 自由と責任

多分、これを思い出したのだと思います。(最近、デモ弾圧とかの文脈で他にも見た記憶があるのですが、咄嗟に出てこないのでちょっと古いですけどこちらで)
んで、この意味においてはponさんのおっしゃることは同意できそうな気がします。その上で、何らかの義務があるかないかは別問題という意味で。ここで責任は「負う」とか「とる」ものじゃなくて、「認める」とか「ある」ものとしてってことですね。日本語では「責める」って字を使ったので、意味が変質してったのでしょうか。「責任を問う」って、「とがめる」とは違うはず、なんですよね?
んー、いや、遺族は選択したのではなくて自動的?衝動的?なのであれば責任があるとはいえないのか。選択の結果じゃないから。でもだとしたら、遺族の感情は慰撫されるべきであるかもしれませんが、かなえられるべきではないですよね。ちゃんとした責任もなく他人の死を望んで叶ってしまうってのは、悲劇でしかないような。
だから、遺族の感情は、積極的に無視するべきような気がします。判決(というかその元になる世論?)が遺族の感情を考慮しちゃったりするから、遺族の衝動に無駄に意味づけされてしまうんですよね。
日本は法治国家のはずなのに、法律で人治主義をエミュレートってそれなんて本末転倒?みたいな気がするのですが・・・・・・。
ああ、これ、運用でカバーとか、一罰百戒とかでも思ったな・・・(独り言)。

閑話休題、私は死刑廃止を望むものですが、それは自分が死神でありたくないからです。
死刑制度を持つ法体系を支持している(アナーキストではないですから、たぶん)以上、自分にも死刑制度の責任がある=死神の一員であることから逃れてはいけないと思うからです。
だから、むしろ、死神=侮辱だとおっしゃるほうが無責任に思えてなりません。
侮辱なのはそこじゃないだろ!と思います。
個人的には、人数を競っているかのように書いてある部分が問題なのだろうと思うのですが、それが本当に問題なのかは詳しい皆様にお聞きしてみたいところです・・・・・・。


P.S.
ついでに「責任 訳語 由来」でぐぐってみました。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080417/1208418601
「責任」という漢語の来歴 - 恐妻家の献立表

うー……現代語としてはれすぽんしびりてぃだかあかうんたびりてぃだかの訳語としての意味が強いようなので、責任を義務の意味に拘ってらっしゃる皆様のほうが頑なに見えるのです……

あれだ、「炊く」のはご飯であって、魚だの野菜だのを「炊く」というのは普通の言語感覚ではない、とか云われたみたいな気分なのです……そりゃもしかしたら東京ではそういう感覚かもしれんけど、それを普通と云いきるのはどうなのよ、って言うかこっちを普通じゃないって言い切るのはちょっと傲慢じゃないかみたいな……あああ、すみません、例え話に失敗しました。撤収します……

No.295 pon さん
>私は正確性の問題だけならそれ自体は問題ではないし、それによる弊害は発生していない、という立場です。

 まことに恐縮ですが、それは立場論ではなく、単に事実誤認です。おやすみなさい。

ponさん

死刑判決を受けた、本村さんの発言です。

「決して喜ばしいことではない。厳粛な気持ちでこの判決を受け止めています。遺族としては満たされたのですが、社会にとってみれば事件をめぐり私の妻と娘、そして被告の3人の命が奪われることになるわけで、これは明らかに社会にとって不利益なことです。私はこの事件にあって、いわゆる刑法というものは社会正義を維持するための手段だと思っています。たいへん重い判決が出されましたが、それで終わるのではなくて、私たちもこの重い判決を受けて、今後の人生をまっとうに生きていかなければならないと思います。社会のみなさまにも、どうすれば犯罪も被害者も生まない、死刑という残虐な刑が下されない社会になるのか考える契機にならなければと思います。」

死刑を求める被害者遺族であり、あすの会の幹事でもある方ですので、責任を負っていない、もしくは回避しようと思っているとponさんは評価されている・・・との理解でいいですよね?

 ponさん
 もうやめましょう。
 うんざりです。

 ご自身でブログを作って述べるべきです。

 あなたのコメントは少なくともこのブログにおいては特異な意見であることが明らかです。

>具体的にそれが何なのかは御指摘頂けませんでした。

 ハスカップさんの言葉を引用しましょう。

というか、ぶっちゃけ、既に上の投稿で多数の常連さまが繰り返し指摘なさっています。それで分からなければ、私にも貴方が理解できる説明をする自信がありません。

 あなたは、要するに、独り善がりです。
 そしてその程度は、コミュニケーションの成立を阻害するほどです。
 つまり、不毛です。
 
 このエントリのコメント数は300に近づいております。
 有意義なエントリであるなら200を越えたあたりで続編を立てるところですが、このエントリで続編を立てるつもりはありません。

 ついでに付言しますが

>しかし「釣り」が忌避するべきものであるなら、参加者の反発を受ける事が予見されるようなコメントを控えるべき、という結論になります。

 あなたに対する常連さんたちの反応が「反発」と言うかどうかはともかく(違うと思いますけどね) 
 あなたは、「反発」と「批判」の区別がついていないようです。
 要するに、あなたは他人からの批判に答えていないのです。
 それがあなたのいう「反発」を招いているのです。
 
 すごいデジャヴュを感じています。

 重ねていいますが
 もうやめましょう。
 うんざりです。

 もはや余計なことかも知れませんが、さらに付言します。
 刑事裁判における被害者遺族の「被告人に対する極刑を望む」という意思表示は、あなたが考えるほど影響力のあるものではありません。
 全くないというわけではありませんが。

 さらにもう一つ。
 被害者遺族が法廷で検察官から被告人に対してどのような処罰を望むかと問われた場合において、答えに逡巡する場合がかなりあります。
 そして、死刑を望むという場合でも、あえて「極刑」という言葉を使う場合が多いです。
 これが何を意味すると思いますか?
 あなたには、一人一人の被害者遺族が見えていない。
 観念論はもう十分です。

noah様

あすの会の言動≠本村氏個人の言動です。

私は本村氏のそのコメントは責任回避とは思いませんし、何ら異議はありません。
むしろ犯罪被害者遺族のあるべき姿の一つとして称賛されるべきものだと思います。

しかるに先に挙げたあすの会の決定には賛同できません。
私がいう責任回避にも繋がるかもしれません。
本村氏の意向があすの会でどれだけの影響があるかは分かりませんが、仮にあの決定が本村氏の意向であれば矛盾があります。

こうした矛盾が私があすの会を"政治的"と評した所以です。

私はこれで寝ますね。
これ以上の返信は明日までご容赦を。

ROMしていましたが横から失礼します。

>>No.241 pon さん | 2008年7月 8日 12:55
>責任という意味の用法ですが、あえてケイ様の納得しそうな表現をするならば、
>「死刑を求めた事とその結果に対して自覚を持つ事の責任」という言い方は
>できるかもしれません。
ここまでは私もponさんの考え方をケイさんの挙げた「自覚」という言葉に
置き換える事で、おおよそは理解できました。
そして、皆さんも個別ケースは別として、一般的に、死刑に関わる方々が
「自覚」をもっているであろうと考えていると思います。
それで話は終わりだとも思うのですが、、、
一方で、

>>No.241 pon さん | 2008年7月 8日 12:55
>しかし、現実には自覚だけの問題ではすまないかも知れません。
という一文を最後に足したことで、皆さんが考えている自覚以上の
何かを含ませたご意見をお持ちなのだと読み取れます。

モトケンさんもおっしゃられていますが、、、
私も最終的にponさんが何をおっしゃりたいのか分かりません。

「自覚だけの問題では*すまないかも*」とは、
なぜ?何が?済まないのか、済むためには何が?どう?必要なのか、
ponさんの考えが明言されない限り、釣りと取られても仕方がないように
思います。そしてそれが具体的に無ければ、議論はこれ以上進まない
ように思います。

モトケン様

すれ違いになりましたね。

最後に言わせてもらえば、途中で離れた方も含め数人の方が理解を下さった事を考えれば、私は全く不毛だったとは思いません。

理解できるひとも居れば出来ない人もいる。

そういう主張だった事は元より承知の上です。

「止めましょう」との事、了解しました。
止めます。

長らくご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。
それでは。

これで本当に最後です。

pediatricin様
私もその点言い残しを感じるので一言。

今まで一貫して正当行為としての死刑を前提として扱って来ましたが、現実には冤罪による死刑があり得ます。

もし被害者遺族が冤罪を認識した上で、もしくはその可能性を認識した上で死刑を求めた場合、そして其によって現に死刑が執行された場合、それは自覚だけの問題では済まされないと思います。

ただ、こうしたケースは議論の前設定から外れるものであり、
正当行為としての死刑ならば単に自覚と読み代えられるという事なので触れませんでした。

以上です。

>pon さん

>もし被害者遺族が冤罪を認識した上で、もしくはその可能性を認識した上で死刑を求めた場合、そして其によって現に死刑が執行された場合、それは自覚だけの問題では済まされないと思います。

 典型的な後出しジャンケンです。
 まったく異なる状況における発言その結果としてその意図も意味もおよそ同列に論じられない発言を横並びにして自己の見解の正当化を図っています。

 私が問題にしているのは、あなたの発言の内容よりも、そのような発言の姿勢です。
 根本的に不毛です。

 今後別の場所の発言でもその姿勢が改まっていないと感じられる場合は、投稿禁止を通告することになると思います。

モトケンさん
(それは自覚だけの問題では済まされないと思います。)
これは231で
(間違っている、とまで言うのならば伺いますが、私が責任と表現している言葉は何に置き換えられるべきだと思いまか?)
に質問してきたので232で
(あえて使うとしたら自覚でしょうね。しかしこれは第3者が要求は出来ませんね。法律通りの要求ですから。)と答えました。
237では(『自覚』は貴方の質問にあえて書いただけで、私も違和感はありますよ。)
万事この調子です。議論の値もない相手と思いますよ。
そして再三質問している名古屋の被害者遺族の件は一切答えない。これは名誉毀損に値します。
そろそろ決断の時期だと思います。
大体最後と書いておきながら投稿してくるこれだけでも
相手に出来ない輩です。


>No.254 ttxt さん

御指摘の妥当性を暫定的に確認させていただきました。
後期の『哲学探究』ですね。読んでませんでした。読んでみます。
示唆して頂きまして、有り難うございます。

よく議論をこねくり回して、なんとなく論破したように印象操作したがる方がいますが、その典型ですかね?

でも、ここの皆さんはレベルが高いのでなかなか難しいでしょうね。

その場限りのHNのつもりでしたが耐え切れずコメします。
これで最後と言われた方に罵声を浴びせつづけるコメントは見たくないのですが、ここはそうゆう場所だったのですか。とても残念です。さようなら

ここの自動生成コメントは、ずいぶん手が込んでいるわね。

>ここはそうゆう場所だったのですか。

 まあ、そういう場所でしょうね。
 ここはかなり熾烈な議論を経験してきてますから、皆さん議論の進め方については厳しいですよ。

 常連さんは、どんな意見でもとりあえず聞く耳は持っていると思いますけど、意見の背後にある人間を見ている人が多いと思います。

 それと、ブログ主をはじめ理屈っぽい人が多いですから、感情論ベースの人にとっては居心地がよくないと思います。

 それではさようなら。

 

 さらみさん、ここは原則ダブハン禁止っていうのは知ってた?

 「サラミジャーノ・レッジャーノ 」はぎりぎりお目こぼしするけど、「パストラミ」はアウトだよ。

>私は死刑廃止を望むものですが、それは自分が死神でありたくないからです。

みんなそう思えば、死刑はなくなるでしょう。なぜなら、死神でありたくないと思う以上衝動殺人を除いて殺人事件は起こりようもなく、そうであれば、死刑相当の凶悪事件はありえませんから。


>死刑制度を持つ法体系を支持している(アナーキストではないですから、たぶん)以上、自分にも死刑制度の責任がある=死神の一員であることから逃れてはいけないと思うからです。だから、むしろ、死神=侮辱だとおっしゃるほうが無責任に思えてなりません。
侮辱なのはそこじゃないだろ!と思います。

殺人犯は死神だから、殺人犯を死刑にする制度を支持する者は、死神の死神というべきであり、その場合いいイメージになります。
したがって、「死神」というべきでなく、正確には「死神の死神」というべきでしょう。そうすれば侮辱と誰も思いません。

したがって、死刑廃止を望む者は、「死神の守護神」ということになるかと思いますが、その言い方に何か問題はありますでしょうか?

全く個人的な意見ですが、「死刑制度」について(というか、実際の人の死を)議論するときに「死神」という言葉はなじまないように思えてきました。
やっぱりこの言葉は「スポーツ」とか「劇画」とか、本当の人の死が関係ないところで使う方がよいのではないでしょうか。
私も「秋葉原の通り魔」なら・・、なんて無神経な発言をしてしまいましたが、リアルな人の死が関係しているのに「死神」というフィクション(または「比喩」)を使うのは良くないように思います。亡くなった方への敬意や弔意という面からも、議論の焦点がぼけてしまうという面からも。(「宿命」とか「運命」という言葉もこれに類するものだと思います)
ですから、死刑執行命令を出した法務大臣に「死神」という言葉を使った時点で、朝日新聞の言語感覚はおかしかった、と言えるように思います。

>No.296 jack さん

概ね、おっしゃりたい事には賛成です。
ここのサイトは、どうも「かけがえのない命」を軽く考えている人が多いようです。
被害者遺族に”選択”とか”自由”とかがあるなど、という意見を見るとそう思ってしまいます。
そういう意味では”ベルトコンベア鳩山”と似たようなものでしょうか。

多くの場合、遺族は殺害された人の分まで抱えてしまって、ご自身の”選択”とか”自由”とかは無いのではないかと思います。
一例としては、具体名を出すと差し障りがあるので控えますが、殺された娘さんの命の重さと、加害者に対する刑罰の重さが比例すると信じ込んでいるような発言をする遺族の方もいました。

ただ、日本には独特の「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが(英語の「Condemn the offense, but pity the offender」はニュアンスが異なると思います)、これはあくまで、裁く側の心構えであり、被害者に対して加害者を赦すべきだ、というものではありません。

同じ社会を形成する人として、被害者遺族を慰撫するのは当たり前であり、それは殺害された方の命が尊いものであるという意識を社会全体で共有するところから始まるのではないでしょうか。

社会システムとしては、刑罰とは切り放して犯罪被害者の慰撫をどうするかと、犯罪予防(同じような被害者を出さない為)と被告人の人権のバランスをどうするかを合わせて考えていく必要があると思います。

>No.314 関東御成敗式目 さん

>ここのサイトは、どうも「かけがえのない命」を軽く考えている人が多いようです。

 「多い」と思う根拠はどのあたりでしょう?

>No.315 モトケン さん

jack さん 以外の方は、殆ど、被害者遺族に”選択の自由”があるという意見を肯定的にとらえていたように見えます。

つまり多くの人が、”遺族が、愛して・愛して、慈しんで・慈しんできた「かけがえのない命」が、何の罪も無いのに、或る日突然無法にも奪われてしまう、という事態に直面しているのに、すべての呪縛から解き放たれて自由な選択ができる”、と判断しているのではないでしょうか。

それを、少しきつい言い方ですが、「かけがえのない命」を軽く考えている、と表現しました。

かけがえのない命、尊い命について重く考えるからこそ、己の欲望の赴くままに、他人の人生、命を無惨に奪いさったものの責任を厳しく追及するのでは?

大事な存在を無惨に奪われた、被害者遺族の喪失感、無念さが、様々な運動となって、社会に訴えかける。そういうものに、僅かな影響ではあるだろうが、応える社会であって僕は良いと思う。

人間は感情のある生き物です。

一般的には、社会システムを全ての人に平等に運用するために、感情を切り捨てることも必要だろう。しかし、重大犯罪の刑罰という、極限の社会システムについて、感情を切り離して考えることが可能なのだろうか?

個人的な意見として、死刑存置論者も、死刑廃止論者も、論の根本は感情ではないかと思う。

どうでしょうか?

 選択の自由があるかないかと問われれば、「ある」という答になるんじゃないでしょうか。

 だからといって、「『かけがえのない命』を軽く考えている」ということにはならないと思います。

 身内を殺されたことにによって否応なしに被害者遺族の立場に置かれてしまったこと、そしてその被害者遺族の心情を慮るコメントは決して少なくなかったと思います。

 選択の自由をことさらに強調したponさんに対しては批判的な人が多かったのではないでしょうか。

うーんうーん、それって、自由な選択なのでしょうか。

ええっと、多分、哲学的な意味になるんだと思いますが、
哲学の素養はないので以下は聞きかじりと思い込みによるんですけれども……
(って言うか、最近サルトルの自由について書かれた他のブログを読み過ぎて影響されすぎてると思います。まだ未消化なので、ちゃんと論立てられないんですが、すみません)

何というか、ある意味において。
私にはものを食べる自由はあるけれども、
お腹がすく自由はないと思うのです。

ものを食べる自由というのは、ものを食べることと食べないことが出来る中からものを食べる方を選ぶことが出来る、という自由だと思うのです。
そういう意味では私にはお腹がすく自由はないのです、お腹がすかないという選択はできませんから。
(んー、そういえば理科の教科書に満腹中枢だか空腹中枢だかを壊すイラストが乗ってた記憶があるけど、そう考えるとお腹がすかないように空腹中枢を壊す自由はあるのかな、ないのかな)

で、被害者遺族の感情というのは、後者なんじゃないかと思うのです。
その感情を表現するかしないかを選ぶこととかは出来ると思いますが、恨んでしまうことは、選択の結果ではないのではないかと……

ああ、いえ、恨まなくてはいけないといっているんではないんです、そうじゃなくて……

「出来る」自由と「しても良い」自由……?

上手く言えないんですけど、すみません。
「しても良い」自由はあるんです、制度として、それはそうなんです。
でも、自動的になってしまうものは、「自由」ではないと思うんです。

ううう、哲学を学んだ方ならもっとちゃんと表現できるんではないかと思うんですけど、すみません。
でもこの意味での「自由」って、それこそ法学的な「責任能力」の部分に関係があるんじゃないかと思うのですけれども……うう、まとまりません……。

関東御成敗式目さん

>ここのサイトは、どうも「かけがえのない命」を軽く考えている人が多いようです。

と言う事は、以前からここに投稿しておられる関東御成敗式目 さんも、命を軽く考えている人と言う事になりますね(^^)。

・・・というか、ご批判されたいのだったら、誰のどの発言かを明確にされたほうがいいと思いますよ。いらぬ反発を招く元です。(私のように?)

>被害者遺族に”選択の自由”があるという意見
被害者遺族の方々には、積極的に死刑を求められる方、刑罰に対して口を閉ざされている方、死刑にしないよう、求められている方など、様々な方がいらっしゃいます。
これらの方々は、どの行動を行うか、自由に選択されたのだと思いますが、違うでしょうか?

死刑にしないよう求められている方は、本当は死刑にしろと言いたかったが、(自由がないので)いやいや死刑にしないようと言わされているのですかね?

うあー……しまった……私のコメントに反応を下さった方へのレスを書いていたのですが、うっかり名前欄の記入を忘れて消してしまいました……orz

以下は、大まかに書きたかったことです。

上のコメントをふまえて。

「死に神」には、「人を殺す自由」はないと思います。
(あるのはせいぜい裁量……?)
私は、「役目として人を殺すもの」を「死に神」と呼んでいるのだと思います。
(これは、自分定義なのかも知れません。民話とかではありがちなイメージだと思うのですが、案外そうではないのかも。皆さん侮辱だと仰るので、自信がありません)
裁かれるべき殺人者は「自由な選択として殺したもの」だと思います。
だから、「死に神の死に神」ではないと思います。

私は、死刑制度を持つ日本という国の一員であることを選んでいます。
例えば私には法律上の「表現の自由」がありますが、それは上のコメントで書いた「しても良い」自由ですよね。
私は、「しても良い」自由を得る為に、「できる」自由の一部を「しないことを選択」することを選んだのだと思っています。

その不自由の中のひとつが「死に神であること」みたいなイメージなんです。

今の私は、役目であっても人を殺したくないと望んでいます。これは本当に個人的な趣味の問題(?)なのだとは思いますが。今は、死刑制度があるので、自分が死に神の一員であることを引き受けなければならない。
だから、死刑制度が廃止されることを望んでいます。

私には、遺族の気持ちは分かりません。
けれども、今の私は人を殺したいと思いたくはありません。
遺族になったときに、人を殺したいと思ってしまうことが恐いです。或いは、図らずも殺したいと思ってしまったときに、実際に殺してしまえることを恐れています。
でも、家族を殺されたときに、殺したいと思ってしまうことを「しない」ことができる自信がありません。
……という意味で、私には、被害者遺族に犯人を殺したいと思う自由はないんじゃないかと考えています。

うー……いまいち上手く言えません、ニュアンスが伝わってくれると良いのですが……。

jackさん。

jackさんへの返信と言うよりは、上記の補足なんですが、被害者遺族の感情、犯人を恨むと言う事は、自由がないですね。自分の大事な、愛する人を殺されて、犯人を恨まない人間はいないでしょう。

しかし、恨んでいたとしても、死刑回避を訴えられている人がいるように、犯人にどのような刑罰を望むのかは、自らの意思で選択できると思います。また、その望んだことを積極的に表明するか否かも。

jackさんご紹介のサイトの例で言えば、恨むと言う感情は自由ではありません。しかし、どのような刑罰を求めるかは、選択の余地はあると思います。ただ、死刑を望むことが、600円のラーメンだとすれば、死刑を回避するということは、50万円とは行かないまでも、1万円のラーメンであるとはいえると思います。ただ、それを選択しておられる方がいる事。それを考えれば、(ハードルは高くとも)自由であるといって良いのではないでしょうか。

(ラーメンなんぞを例にした事に反発される方もおられるかと思うので、弁明ですが、jackさんご紹介のサイトの文面です。詳しくはhttp://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/83/
をお読み下さい。何人、何事も貶める意図のないことをご理解下さい)

たびたびすみません、これは独り言です(誰かへのレスではないという意味で)。
自分で書いたことを読み返して、個人的にやっと合点がいったので。

「責任を問う」と言うときに、
pon様は、ずっと、「誰/どこに」責任があるのか(=その選択の主体は誰か、或いはその選択をさせたのは何か)、ということを問うてらして。
義務だと仰ってた方は、自由(=しても良い)を得る為に「どのような」責任(=不自由(してはならない、せねばならない))を引き受けたのか、ということを仰っていて。

そんで、ずっとかみ合わなかったんですね。あー、スッキリ。

>jack さん

>そういう意味では私にはお腹がすく自由はないのです、お腹がすかないという選択はできませんから。

 その意味では、遺族が家族を失って悲しみにくれない、家族を奪った犯人を憎悪しない、という選択や自由はないと思います。
 感情は意思にかかわらず湧き上がってくるものと思いますので。

 ここで問題になっているのは、そのような感情を抱くことではなくて、「犯人を死刑にしてほしい。」と発言をすることの選択、自由だと思います。
 ponさんもその意味で発言されていたと理解しています。

>けれども、今の私は人を殺したいと思いたくはありません。

 たぶん、遺族もそうだと思います。
 遺族も、他人から人殺しと思われたくないと思います。
 そのような逡巡や葛藤の上で、遺族は「犯人を死刑にしてほしい。」と叫んでいるのではないかと推測しています。もちろん全ての遺族がという意味ではありあません。そのような遺族が多いだろうという推測です。

 そうであるならばこそ、「死神」と言われた遺族の気持ちを慮るべきではないかと思うわけです。

関東御成敗式目さん

jack さん 以外の方は、殆ど、被害者遺族に”選択の自由”があるという意見を肯定的にとらえていたように見えます。

私は、ponさんとそれなりに議論しましたが、被害者遺族に選択の自由があるなどという主旨の発言をしたつもりはなく、むしろ選択などする余地もない「理不尽」な仕打ちを受けている。そのことに対して、選択の自由があるから責任があるというponさんの意見に対して反論していましたし、多くの方も同じような意見だと認識しています。

jack さん

「責任を問う」と言うときに、 pon様は、ずっと、「誰/どこに」責任があるのか(=その選択の主体は誰か、或いはその選択をさせたのは何か)、ということを問うてらして。 義務だと仰ってた方は、自由(=しても良い)を得る為に「どのような」責任(=不自由(してはならない、せねばならない))を引き受けたのか、ということを仰っていて。

ご本人の中でスッキリされたのはいいのですが、途中まで議論していた者として、私の受け止め方は違います。ponさんは、被害者遺族には加害者に死刑を望む選択をした責任があるいいます。そして、その選択をさせた理不尽は犯罪には関係なく、自由に選択したのだから責任があると。そして、その死刑を望む行為が判決に大きな影響を与えるという考えです。加えて、起訴した検察官・判決を下さした裁判官・執行を承認する法務大臣・執行に当たる刑務管など、関わる全ての人間に責任があり、それには自由な選択があるからだといいます。

被害者遺族には理不尽な犯罪に対する感情があって当然であり、また関わる方々には職責というものがある。外野で「吊るせ」と騒ぐ人間に対して、無責任だという批判はあって然るべきですが、遺族や法曹関係者などに責任を求めるとことは違うと私はいってきたつもりです。ですから、私とは理解のポイントが少し違うようです。(jackさんのコメントを批判する主旨ではありません。私の発言を主旨を誤解されたくない意味でのコメントです。)

No.325 事務方の星 様

わかりやすい御説明を頂きありがとうございます。私も同じようなことを考えて意見を書いていたつもりです。

ですから、関東御成敗式目様が

「かけがえのない命」を軽く考えている
と思われたのなら、私の文章力のせいです。
関東御成敗式目様には、決して命を軽んじているつもりはなかったことをご理解いただきたいと思います。

私、以前別のエントリーで、自分の身をおく立場として、『死刑存廃議論には加われない。何故なら、どちらの言い分も私なりに考え尊重できるから。』とのコメントを致しました。

まず、No.314 関東御成敗式目さん
>ここのサイトは、どうも「かけがえのない命」を軽く考えている人が多いようです。
このお言葉には反論がありますが、今回の私のコメントでは意見を控えさせていただきます。

私が考える「遺族という言葉」には、立場上2つの意味があるとおもいます。被害者遺族と死刑を執行された加害者遺族。
どちらの遺族も元死刑囚が犯した犯罪に由来して起こる悲劇が原則です。(ここで冤罪まで視野に広げるつもりはありません。)
私は、『法に照らし合わせて、死刑相当の罪を犯したものが死刑執行される(された。)』に関しては、犯罪者の立場に立ったなら、法治国家ですから、やむをえないと思います。罪を犯したのですから、相当の罪を償うべきであるとおもいます。

ただどちらの遺族であっても、すなわち’被害者の命’も‘死刑を執行された加害者の命’も立場上の違いはあっても「かけがえの無い命」にはかわりないわけです。

その、「かけがえの無い命」だけを考えたとき、(ここからは、感情論です。)
『つまり多くの人が、”遺族が、愛して・愛して、慈しんで・慈しんできた「かけがえのない命」が、何の罪も無いのに、或る日突然無法にも奪われてしまう、という事態に直面している』というNo.316 関東御成敗式目 さんのお言葉を、立場を替えて、想像してみました。

それは、自分が‘『死刑を執行された元死刑囚の家族』という立場であったらどうだろう?’という立場での考えです。
家族構成員は罪を犯してはいません。(以前育て方に問題があるから、親も罪を負うべき議論が展開されましたが、別問題だとおもいます。)最愛の家族の一人に犯罪者が出てしまった・・。
言い換えてみます。『つまり罪を犯したゆえ、死刑執行された元死刑囚でも、その家族は元死刑囚を(家族として自然な感情として)愛して・愛して、慈しんで・慈しんできた。けれど罪を犯したゆえに「かけがえの命」が、或る日突然 法によって奪われてしまった。』という事態に苦しんでいるのではないでしょうか。
被害者遺族も加害者遺族も「かけがえのない命」に変わりは無いわけです。そしてどちらの遺族も嘆き苦しんでいるとおもいます。

極端な意見ですが、‘法相を「死に神」’と感じられるのは、上記で述べたところの死刑執行された加害者遺族ではないのかな?と私は思うのですが。

「死に神」=死刑囚にとってはそうだろう。死刑囚の人権に
思いを馳せるところは朝日らしい。

 それに対して、「被害者遺族の方に思いが及ばなかった」と
いう言い訳も辻褄が合う。

 pon氏の奮闘に投稿タイミングが掴めず今頃書いておりますが、何か懐かしい思いが胸を過ってしまいました。
 相手をとっかえひっかえ集中砲火を浴びせる姿には議論の
難しさを再認識させられます。


 被害者遺族の方は一生犯罪に巻き込まれたことで狂ってしまった
 人生は元には戻せませんが、死刑が執行されることにより、
ひとつの区切りと少しでも慰めにもなればと思います。
 死刑が執行されたことにより、更に「重み」を背負うこと
は決して必要ないと思う。
 執行された死刑囚の気持ちには思いを馳せることは出来ませんが。

>モトケン さん

”自由”の定義が異なるのでしょう。

「犯人を死刑にしてほしい。」と発言をすることの選択、自由だと思います。

実例を出すと、差し障りがあるので、仮定の例え話で。
Aさんに小学一年生の娘さんB子さんがいたとします。
或る日突然、B子さんがレイプされた上、殺害され、犯人はすぐに捕まりました。
その日以来、Aさんの夢枕にB子さんが現れ「痛いよ・恐いよ・助けて」と泣きながら訴えます。
Aさんは、思い余って、著名な霊媒師Cさんに相談に訪れました。
Cさんは「B子さんが無念の思いを残して成仏出来ずにいる」と答えました。
AさんはB子さんの無念の思いを晴らさなければいけない、と思い込み加害者を死刑にして欲しいと発言するようになりました。

ちょっと、極端な例ですが、私が、

多くの場合、遺族は殺害された人の分まで抱えてしまって

と言ったのは例えば、こういう意味です。


私はこういう発言は、”自由”とは思えません。
勿論、全ての遺族に当てはまるわけではありませんが。


なんでそこまで極端な例なんですか?

夢枕とか霊媒師とか、世間でインチキ臭いと少なからず思われているものをわざわざ持ち出しているところに、悪意ある印象操作を感じます。

死刑を求める被害者遺族を愚弄しているとしか思えません。

>>ど素人様
実例があります。
(被害者遺族が霊媒師のカウンセリング?を受けた例)

自動車事故を経験された方は多いでしょう。
「身内が人身事故の被害者」という立場の人も居られるはず。

そうすると警察で調書作成に加わる事になりますが、
そこで訊かれる加害者の扱いへの意見は。

1.穏便に取り扱って欲しい。
2.適正に処分して欲しい。

3.-------  は 訊かれません。

被害者の身内が「厳罰にしてくれ」と話しても、司法手続きにはそのような扱いを避ける、ことが窺われます。

で、世間一般と同様に被害者やその遺族にも「表現の自由」は担保されている事になりますが。

憲法の理念に従い、「表現の自由」が守られることは、大勢の人への救いに成ると思います。

その例で自由がないとする場合、選択の自由を認める者が軽く考えていたと解釈できるのは「かけがえのない命」ではなく、それを失った者が受ける衝撃です。

ずっとROMしていましたが・・・。

皆様が議論の前提としている「犯罪被害者遺族」は、多分、被害者と加害者が殆ど面識もなく、被害者遺族と加害者も赤の他人という場合を想定としての事なのではないでしょうか。

No.324 モトケン さん
でのモトケンさんのご意見に端的に表れているように思います。(もちろん、殆どの方の意見がそうです)いわく

> その意味では、遺族が家族を失って悲しみにくれない、家族を奪った犯人を憎悪しない、という選択や自由はないと思います。

本当にそうでしょうか?
たまたま、聞こえてくる(被害者遺族の)意見がそうであったという訳ではなく?

例えば、DV被害者の中には加害者の死を望む人とは多いですが(自分の前に二度と現れて欲しくないという意味において)、戸籍上は夫であったとしても、自分でない誰かが夫を殺めたとすれば「安堵」の気持ちを持つことは、大いにあり得ることです。
実際の事件でも、渋谷妹殺害バラバラ事件の裁判では、被害者遺族であるご両親は、加害者の兄をかばう証言に終始したことは記憶に新しいです。
(もう一つの渋谷(セレブ)バラバラ殺人事件と、被害者遺族の感情、「精神鑑定」踏まえた判決など好対照ではないでしょうか?)

これらは、レアなケースなのでしょうか?

手前みそで申し訳ありませんが自blog「罪と罰」より

殺人事件は家族とか親族間の殺人が約半分を占めている(友人知人、職場関係まで含めると約80%だもの)という現実があります。そういった被害者、加害者双方に関わる遺族もいらっしゃいます。恨みたくても恨めない、恨んでいても気持ちを表現できない遺族の方は多いのだと思います。

ちなみに(記憶では)「被害者と加害者の面識がない」殺人事件は13%だったと思います。(平成19年 警察白書 資料編より)
家族間殺人の場合では、このエントリの議論はどのように進んでいくのか、ぜひ知りたいです。

モトケンさんにお願い
すでに、このトピのコメントが300を超えています。
続編は作らないおつもりとのことですが、「上記の前提」も踏まえて、このエントリの「死に神」発言に遺族の反応が出てきて当然とするモトケンさんのご意見を主とした続編をお願いできないでしょうか?
タイトルやエントリそのものをどうなさるかは、もちろん、blog主であるモトケンさんにお任せします。
(差し出がましい事を言って申し訳ありません)

極端な一例は例外でしょ?

確かに、被害者遺族が大きな悲しみ、喪失感を感じられ、藁にもすがる思いで霊媒師や新興宗教へはまりうる精神状態におちいることもあることは、想像に難くないと思います。

しかし、霊媒師のカウンセリングや新興宗教によって選択の自由を奪われることは、また別の問題と思います。

公の場で何らかの発言、運動をされている被害者遺族のほとんどは、強い意志を持って為されていると思います。彼らの運動は長期にわたるものですし、多くの批判、非難にも耐えていかねばなりません。強靱な意志とエネルギーがないとなかなか続けられないものではないでしょうか。

遺族はどちらも悲しみを感じるという点は理解できますが、理不尽に無惨に生命を奪い去られた者の遺族と、100%自分の責任で死刑に処された者の遺族の悲しみを、並列に述べられることにはかなり違和感を感じます。

悲しみの深さは個人差がありますでしょうから、絶対的な大小では論じることは出来ませんが・・・

それと、私個人の意見としては、被害者遺族の方は、なにも自分が悲しいから死刑を求めるわけではないと思います。

彼らは被害者の続くはずだった人生、それを奪われた無念さ、与えられた恐怖等へ思いを巡らせ、被害者にとって加害者がどれほど重大なことをしたのかを考え、責任を追及しているのではないでしょうか。加害者が、被害者遺族から奪ったものではなく、被害者そのものから奪ったものに対する責任を追及しているのだと思います。

だから、悲しみ云々はあまり意味のない議論ではないかと思います。

>関東御成敗式目さん

 説例が不適切です。
 私が言いたいことは、個人における感情と行動(発言を含む)は別だということです。

 関東御成敗式目さんの説例は、他者の影響を問題にしています。

>No.331 ROM さん

 実例があるというのは、この場合における反論になりません。
 ROM さんとしては、単に実例の存在を指摘しただけで反論のつもりではないかも知れませんが。

>No.334 akira さん

>これらは、レアなケースなのでしょうか?

 殺人事件としてはレアケースではありませんが、このエントリにおける議論の流れから見ると、とりあえず想定していない例外事例です。

 このエントリでは、あらゆる場合の殺人を想定し、それら全てに通じる一般論を議論しているのではありません。

 ここでは、殺人被害者とその被害者と無念を共有する被害者遺族対加害者の関係で議論しています。
 少なくとも私はそのつもりです。

 続行エントリについては検討します。

No.327 では‘「かけがえの無い命」だけを考えたとき’と条件付で、意見させていただきました。私は‘被害者の命’も‘加害者の命’にも‘命’に優劣は無いと思っております。
そして、其の「かけがえの無い命」が奪われたときの苦しみは決して同種のものとは思っておりません。ただどちらの遺族もそれぞれ違った嘆き苦しみ(愛するがゆえの苦悩)があるのではないでしょうか。

『全国犯罪被害者の会」(あすの会)の抗議』がエントリーテーマだったので、自分なりに‘では、私が加害者家族なら、この抗議をどう受け止めるだろう’という疑問がわき、私は、‘もし自分が犯罪者家族の立場だったら’という仮定でコメントをいたしました。

犯罪「加害者の家族」の人権に関しては、日本は蔑ろにされている気がしたので、一石を投じたつもりだったのですが・・・。

喜怒哀楽の単なる感情の『悲しみ』ではなく(私は悲しみとは一言も申し上げておりません)『苦悩』です。

……かけがえのない命を失う衝撃は大きすぎるから、その結果としての感情も大きすぎて、それを望むことを表現しないという選択肢は事実上かなり制限されている(60万円のラーメン)のではないかなぁ、みたいなことを思います。
その時に、500円のラーメンを選んだことに、選択の重みを押しつけてはいけないのではないかなぁ。
やっぱり、それは「そう思ってしまうのは当然のこと」「だけど」という形で扱うべきではないかしら。
被害者遺族の慰撫の為に加害者を利用するのも、加害者への報復感情の為に被害者を利用するのも、どっちも望ましくないと思うのです……

No.327の考えは感情論としてはありだと思いますが、結局ダブルスタンダートや自分だけよければいいのかと言われて非難されるのが落ちではないかと思います。
 極端な話、自分や家族が復讐で皆殺しされても相手に死刑を求めない覚悟がなければ言ってはいけないと思います。
 
 それと
 >犯罪「加害者の家族」の人権に関しては、日本は蔑ろにされている気がしたので、一石を投じたつもりだったのですが・・・。
 ですが、ここでの議論とはずれているのでは無いかとおもうのですけど?(秋葉原の件で容疑者の家族が責められた件についておかしいと思われての発言だと思いますが)
 

横槍ですが。

A.K. さん の発言趣旨は
「死刑に尽いては、複雑な双方の感情が有るのでその議論には加われない」
と読めました。
私の読み違いで無ければ「死刑を求めない覚悟」は不要だと思います。

「犯罪加害者の家族」は「被害者家族」と直結しなくても加害者の死も起る。
家族の心情について議論するなら考慮した方が良い、と考えます。

>No.337 モトケン さん

説例が不適切です。

 関東御成敗式目さんの説例は、他者の影響を問題にしています。

では説例を変更しましょう。
Aさんに小学一年生の娘さんB子さんがいたとします。
或る日突然、B子さんがレイプされた上、殺害され、犯人はすぐに捕まりました。
犯人には女児に対するワイセツの前科がありました。
その日以来、Aさんの夢枕にB子さんが現れ「このままでは私と同じ目に合う子がまた出るよ。助けてあげて」と訴えます。
AさんはB子さんの遺志は再犯の可能性を残さない事であり、それを果すのが遺された自分の義務だと思い加害者を死刑にして欲しいと発言するようになりました。

私が言いたいのは、多くの場合、遺された者には、”遺志を継ぐ”とか、”無念を晴らさなければいけない”、というような義務感・呪縛・強迫観念のようなものがある場合が多く、とても自由な選択ができる(=責任がある)状態と言えないのではないか、という事です。

ちなみに他者の影響があろうが、なかろうが、”自由でない”というのは同じ事だと思います。

 私が言いたいことは、個人における感情と行動(発言を含む)は別だということです。

法律的(共謀罪除く)にはそうかもしれません。思うだけなら責任を伴わない。行動すれば責任が生じる。
しかし、それでは pon 氏の主張との違いがわかりません。


No.325 事務方の星 さん

被害者遺族に選択の自由があるなどという主旨の発言をしたつもりはなく、むしろ選択などする余地もない「理不尽」な仕打ちを受けている。

No.326 通行人1 さん

No.325 事務方の星 様

わかりやすい御説明を頂きありがとうございます。私も同じようなことを考えて意見を書いていたつもりです。

私の読解力不足です。
失礼しました。
お二人のような意見の方が、いらっしゃることをうれしく思うと共に、

ここのサイトは、どうも「かけがえのない命」を軽く考えている人が多いようです。

は撤回致します。

>モトケンさん
早速の返信ありがとうございます。

>このエントリにおける議論の流れから見ると、とりあえず想定していない例外事例です。

確かにおっしゃるとおりですね。議論が散漫にならないようにするためには、ケースを細かく設定した方議論は深まるに違いありません。

私の想定するケースは、このエントリで議論されているようなケースよりありふれていて、発生件数も多いものと思われます。
私にとっては殺人事件の被害も加害も身近でリアルな世界ですが、ここでの議論は想像とかイメージ上のことのように思えてしまい、実際にはありふれた、ひょっとすると自分が関わるかもしれない(事件関係者になるとか、裁判員などで)事例で、皆さんがどのように考えられるか聞いてみたいという気持ちからの発言でした。

お騒がせしました。

 不適切でしたら、即削除頂いても異議は申しません。

 さて、今回の朝日新聞の素粒子のコラムから波及したもので、「あすの会」「サリン事件被害者の会の抗議」を題材にしていると思うエントリです。

 以前、撤退した身で申し上げるのも躊躇しましたが、立場をはっきりさせてコメントします。

 私は、犯罪被害者遺族です。娘を救うために妻が亡き者として天国にいきました。(両被害者の会とも交流は持っていません)

 現在、弁護士さんの情報により、加害者は社会復帰をしています。
 今は、娘の第一のことを考え、最近、引越しをしました。

 さて、本題に入ります。私の正直な気持ちの変遷を述べます。
 第一に今でも加害者を憎んでいます。
 第二に過去、加害者が刑期を終え、娘が巣立ったら、あることをしようと思っていました。
 第三にその行動を起こすためのツールの入手方法&依頼方法、そして、加害者の所在調査方法を随時更新しています。

 応報(報復)と取られかもしれませんが、頭では「矯正刑」と理解していても、夜、静かになるとそんな気持ちを否定できません。

 このエントリでは、あくまでも経験のしたことのない方の「理想論」の話ですよね。ただ、皆さんがそんな被害にあってはいけません。
 皆さんそんなことは解っている上での議論です。
 あくまでも、議論が悪いと言っているのではありません。

 少なくとも私家族は、上記事項を実行することなく、「引越し」という選択肢を選びました。

 これは、モトケン弁護士のブログの皆さんの意見を充分考慮して選択しました。娘にもしっかり話をし、彼女なりに理解してくれたと思っています。

 私は当初、1人死亡しただけでは、極刑は難しい。と弁護士さん検事さんに言われました。
 それなら、被告人弁護士に協力して、嘆願書を書きました。
 それは、許したわけではなく、出所した後、私がケリをつけるつもりでした。

 しかし、時間がたつにつれ、今の司法制度では限界があることが、何か空しくなって来ています。

 実際の行動は、今はしない。それだけは、断言できます。

 レス汚し、失礼しました。
 この「独り言」にはレス不要です。
 また、コメントも一回限りです。失礼しました。削除もOKです。(謝)

>思うだけなら責任を伴わない。行動すれば責任が生じる。

 あなたは何らかの選択可能性の存在は必ず何らかの責任を発生させるとお考えのようですね。

 ここで言う「責任」とはどういう意味ですか?
 どのような行動を問題にするかによって違ってくると思いますよ。

 なお、私は「自由」の本質は「可能性」だと考えています。
 「可能性」というのは文字通り「可能性」です。
 ゼロでなければあると考えます。
 あなたは違うようです。
 つまり、議論はかみ合わないだろうと思います。

 多くの場合はそうだからといって、例外が存在する以上、可能性がゼロかどうかは、例外の発生理由を考えること無しには答が出せないのではないでしょうか。

 また、「可能性があるなら責任がある」という論理は抽象的な論理としては正しいかも知れませんが、どのような責任があるのか、ということを明確にしないと、単なる被害者遺族に対する批判または非難になってしまう恐れを感じます。

No.343 MultiSync さん 補足、代弁ありがとうございます。
私の駄文の趣旨を理解してくださって嬉しく思います。

おはようございます

No.343 MultiSync さん、No.349 A.K. さんへ

 失礼しました、趣旨を勘違いしてました。

No.350 質問者 さん
私のほうこそ、『趣旨を勘違いされるような文章の書き方』に問題があったと反省をしております。No.343 MultiSync さんの補足がなければ、ご理解いただけなかったのですから。改めて意見を述べることの難しさを痛感させられました。

質問者 さん 申し訳ございませんでした。

 議論において、主張されている方が、「責任」という語のイメージを別の言葉で言い換えて説明した方がいいのでは、と思うケースが多そうですが。

 例えば、メーカーが商品にたいして「責任」を持ちますが、
(不正確なところがあるとは思いますが、御容赦を)それを
「品質についておかしな製品を世に出さない(検査など)こと」 
「可能な範囲において、その商品で使用者に損害が生じないようにすること」
「その商品の欠陥で使用者に損害が発生した場合、損害を賠償すること」
「一定期間の故障や修理について対応すること」
「安定して一定量の商品を供給すること」
などと言うことができるのではないか、と。

それぞれの主張の「責任」とは、どういうことなのか、よく分からないものもありましたので、「こういうこと」という形に落とし込んで頂けると分かりやすいのでは、と思うのですが。

>質問者 さん
>A.K. さん

御丁寧に(^^)

ちなみに「責任」の意味が話題になっていますが、主体と対象が付き物な言葉、それがワンセットで無ければ訳が解らないですね。

 死刑を正面から取り上げるエントリを立てました。

 朝日の素粒子に関する議論はこのあたりにして(コメント数が増えてきたのが最大の理由ですが)、死刑そのものとの関連で意見のある方は、

 「死刑について考える

にコメントしてください。

モトケンさんが次エントリに誘導されてますが、ここで書いておきたい事がありますので、申し訳ないですがコメントさせていただきます。

関東御成敗式目さん

あなたの書いた例を、こう書き換えさせていただきます。
>その日以来、Aさんの夢枕にB子さんが現れ「このままでは私と同じ目に合う子がまた出るよ。助けてあげて」と訴えます。
○その日以来、Aさんの夢枕にB子さんが現れ「犯人は、もう十分反省しているよ。許してあげて」と訴えます。

遺族の選択は、どうあるべきでしょうか?
それでも犯人の死刑を求めるという立場も、犯人の死刑を回避したいと求める立場も、遺族としての主張はしないという立場も、私は認めます。
自由というのは、そういうことです。

自由がないとおっしゃる方は、上記のどれを遺族は取るべきだとおっしゃるのでしょうか?

私が書いた、○の文章に対し、反発される方はおられると思います。
しかし、それをいうならもともとの文章に、その批判、反発を向けられるべきではないでしょうか。


また、自由と責任について、私の考えを述べておきたいと思います。
「自由を取るなら、責任が生じる」「自由と責任は表裏一体」「自由=責任」など、論理学?哲学?で言われているのであろうと、ここまでのコメントを読んで、理解しています。
また、それは傾聴に値する考えである、真実に近い考えなんだろうと、私は考えます。
では、被害者遺族が犯人に死刑を求めるという自由に対する責任とは何か?
私は、被害者の無念を晴らしてあげるという責任であり、それ以上、それ以外にはないと考えています。

私の意見は、「かけがえのない命」を軽く考えている意見でしょうか?


モトケンさんが新しいスレッドを建てられました。
死刑に対し、正面切った内容で、意見のすれ違いなど頻発するのでは、と危惧します。
しかし、「自由」という言葉を捕らえて、その先にある主張を自分で補完し、批判を浴びせるのは、やめていただきたいと思います。
冷静な、実りのある議論にしていってほしいと熱望します。

今更ですが、遺族会が、朝日新聞の謝罪を受け入れて、決着がついたようですね。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080802k0000m040042000c.html

で、問題は鳩山法相で……

http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20080725055.html

……orz (←色んな意味で)

 当事者の朝日の記事も紹介しておきます。

 本社回答に「納得」 素粒子問題で犯罪被害者の会
 (魚拓1魚拓2魚拓3

 全面的に納得したかどうかは疑問ですが、「▼死刑確定後は遺族の存在を忘れるのは、なぜか 」に対する回答で、一応よしとしたのかな、と感じます。

 それにつけても鳩山氏は・・・

>……orz (←色んな意味で)

 は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(ため息)

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