エントリ

 先ほどアップしたエントリに引用した日本裁判官ネットワークオピニオンのページの伊東武是神戸家庭裁判所判事の意見の中に

死刑求刑事件  死刑求刑の事件にあたっても(めったにあるものではないが),どうしても,死刑という刑に反対ならば,あるいは,死刑まではどうしても踏み切れなければ,当然のことながら,それを主張すればよい。他の人に遠慮することはない。迷えば,ここでも被告人に利益に判断して,死刑ではなく,無期懲役などを主張すればよい。

というものがありますが、伊東判事は、裁判員にはいわゆる裁判官の良心と同様の判断基準を求めていないのかな、と感じました。

 裁判官には、憲法上「裁判官の独立」というものが認められており、

 憲法76条3項
 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

と規定されています。

 そして、「すべて裁判官は、その良心に従ひ」の「良心」というのは

 裁判官個人の主観的な良心ではなく、客観的良心、すなわち、裁判官としての良心であると解されている。
 (芦部信喜憲法第3版P327)

とされています。

 私が受験時代に読んだ別の憲法学者の本には、「客観的良心」の例として死刑判決をあげ、裁判官の個人的見解としては死刑廃止論者であったとしても、現行法が死刑を定めている以上は、死刑に相当する罪には死刑を科すというのが裁判官の客観的良心に従うということである、というような説明があったと記憶しています。少なくとも私はそのように理解しています。

 しかし伊東判事は、裁判員に対しては死刑存廃の議論に関する裁判員個人の見解または信念に従って量刑意見を決めていいと考えているようです。
 憲法76条は裁判に関する規定ですから、裁判について別異の考え方をとったからといって直ちに憲法違反になるかどうかはわかりませんが、少なくとも2点の疑問があります。

 1点目は、一つの裁判体の中に、裁判に対する基本的なスタンスについて異なる者が混在していてもいいのだろうかという疑問です。
 裁判員制度とはそういうものだ、と言われればそれまでですが。

 2点目は、裁判員が自己の信念によって死刑を回避するというのであればそれは一つの見識ですし、制度設計上もそのような信念を組み込むことは不適切とは限らないと思いますが、単に、自分は人殺しになりたくないというような感情的な死刑忌避反応を助長することになるとしたら問題が生じるのではなかろうかという疑問というか危惧です。

 なお、引用の見解は、伊東判事の署名投稿ですので個人的な見解として読むべきものと思いますが、日本裁判官ネットワーク内では多数意見なのでしょうか?
 最高裁はどう考えているのでしょう?

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コメント(61)

そもそも裁判員に,『裁判官の良心と同様の判断基準』を求めることができるのかな?と疑問に感じます。

そもそも裁判員に,『裁判官の良心と同様の判断基準』を求めることができるのかな?と疑問に感じます。

これこそが裁判員制度が持つ最大の欠陥だと思います。

すみません・・最初からミスってしまいました。(汗

私には裁判員制度がまだきちんと理解できていません。
陪審員と裁判員の違いはおぼろげに把握できましたが、
そもそも何故今裁判員制度なのか・・誰が言い出したのか、その意図さえわかっていない状況です。(勉強不足ですみません・・というか、調べても私に納得できる的確な回答がみつかりません。)
一般人が参加するのでしたら、伊東武是神戸家庭裁判所判事の意見は専門家以外には受け入れられやすいのではないのでしょうか?
しかしながら、それが正しいとか、間違っているかとかの判断が、裁判員制度の意図がわからないので判断できないでいます。

No.3 ぼつでおk(医)さん
反応してくださってありがとうございます。
私が思うに、貴方は裁判員制度に対して問題意識をもって『裁判員制度になったならば・・』という発言を繰り返してこられたとおもいます。
そこで、お聞きしたいのですが、『裁判員制度が持つ最大の欠陥』を貴方個人はどのように対処すべきとお考えでしょう?

ど素人的には、裁判員を任せられると、「社会正義を実現せねば!!!」と強く思ってしまい、ちょっとでも残虐性を感じたり、被害者に強く同情したりすると、すぐ極刑を言い渡していしまいそうです。

このように、おそらく一般人の方が死刑宣告への敷居が低いのではないでしょうか。

>>No.5 A.K.さん
コメントありがとうございます。
いやあ実はNo.3を書いた直後に下記のように訂正しようと思ってたんですが書く時間がなかったのです(笑)。

>これこそが裁判員制度が持つ最大の「致命的」欠陥だと思います。>

そしてお尋ねへのお答えとして、陪審員制度(有罪か無罪か、と、有罪なら情状酌量の是非だけを裁判官抜きで評決し量刑判断に関わらない)ならこの欠陥は理論的に存在しないでしょう。

>No.6 ど素人さん
私もドシロウトですが、私が仮に裁判員になったとして、
「社会正義を実現せねば!!!」⇒すぐ極刑
という意見に流れる、というのには懐疑的です。なぜなら自分の意思表明によって人の死が決定してしまうことに恐怖感を感じるから。
逆に、死刑になりそうもない犯罪に対しては、被害者感情を鑑みて厳罰化に走りそうです。つまり、

死刑:減少 懲役刑:長期化

となるかと考えます。

ちなみに、裁判員という存在そのものが、裁判所の外の一般国民という母集団からピックアップした「客観」と捉えれば、裁判員の「主観的意見・信条」も「客観」となる、とも考えられます。
・・・書いてて、制度としてこんなんで本当にいいのかいな、と思いますが。

No.8 ただのとおりすがりさん

レスどうもです。

色んな意見の人がバランス良く裁判員に選ばれて、最終的な判決が落ち着くべきところに落ち着けば良いのでしょうが、偏った裁判員の構成になることもあるでしょうから、当然、偏った判決になることもありそうですね。

No.8 ただのとおりすがりさん

レスどうもです。

色んな意見の人がバランス良く裁判員に選ばれて、最終的な判決が落ち着くべきところに落ち着けば良いのでしょうが、偏った裁判員の構成になることもあるでしょうから、当然、偏った判決になることもありそうですね。

No.7 ぼつでおk(医)さん
仰ることは理解できます。そして日本がそのような制度を導入しようとしているなら理解できるのですが、『裁判員制度』なので、日本の制度は、それ以上を求めていると理解しております。(間違っておりましたらご指摘ください。)

そのうえで、貴方ならどのように、日本の『裁判員制度』に対して自分が裁判員になったときに対処するのかをお聞きしたかったのです。

(余談ですが、今までぼつでおk(医)さんに共感できる部分が多く、個人的隠れファンですので、敢ておききしたかったのでもありますが・・汗)

>>No.11 A.K.さん
そのお尋ねでしたらこの変形HNでご検索くだされば、いやご覧になるだけですぐおわかりかも(笑)。

「ぼつでおk¥10万」

ぼつでおk¥10万さんで納得です。
私の身勝手な判断として、同じようにお考えなのかも?と、(何故か)嬉しく思いますw

No.12 ぼつでおk(医)様
横からすいません。

>「ぼつでおk¥10万」

私もA.K.さ様との遣り取りに興味がありました。
私が予想したとおりのご回答でしたので・・・
思わず、爆笑でした。ーーー失礼致しました。

伊東たけこれって誰?

ある死刑廃止論者が「被害者が死刑執行のボタンを押せばいい」というような事を言ってました。(意地悪で言ってるだけですけどね)
この制度って、結局それが目的なのかなと思う事もあります。

軽犯罪ではなく、死刑も視野に入るような重大事件に裁判員を導入する不自然さ。これを理解しようとするときに、こういう人たちの言葉が引っかかるんですよね。
「お前らは死刑の判決が出せるのか。出せないなら死刑廃止しろ」って、それを言いたいんだけなんじゃないのかなって。

光市の裁判では「吊せ!吊せ!犯人を吊せ!」と叫んでいたのに、その3倍の数の無辜の人を死に追いやった秋葉原の通り魔に対しては「その気持ちはわかる」「加藤の乱」「ありがとう!」と宣う”2ch”。

前者に関する議論で「犯人も特殊な生育状況を抱えていた。」「凶悪犯だって裁判を受けた上で相応の刑を受けるべきだから、弁護士の活動は正当だ。」と主張には、「被害者の気持ちになって見ろ!」「人権派弁護士の死刑廃止運動は政治的意図がある。」「特殊な生育状況でも、立派に育っている人はいる。自己責任だ。」「極悪人への弁護なんて税金の無駄。」などと罵詈雑言の嵐が浴びせられたのに、後者に対しては「派遣業の悲惨な実態が社会的背景にあり、遠因になっている。」「派遣の大元の自動車会社はこんなひどいことをしている。」などと妙に物わかりのいい態度が溢れ、さらには「今回の犯罪は許せないが、」などとエクスキューズをカマしながらも「むしろ巣鴨でこれまでこんな社会を作り上げた人をまきこんだほうがよかったと言うべきだろう。」と堂々と言ってのけるフリーライター氏が「希望の星」などともてはやされる。

ダブスタどころの話じゃない。

こんなのを見ると、「裁判員の良心」に懐疑的に成らざるを得ない。

>>No.17 SPKさん
その意味からも裁判員制度は司法制度を根本から破壊するものと思います。
そうなった場合の責任は国民にはまったく無く制度を施行した法務省と最高裁に全責任があるでしょうね。

>ある死刑廃止論者が「被害者が死刑執行のボタンを押せばいい」というような事を言ってました。

不確かな記憶で申し訳ないですが、アメリカのある刑務所での死刑の際に、遺族がそのボタンを押し、それを屋外の大スクリーンで中継していたそうです。死刑囚が事切れた瞬間には”観客”から大歓声が上がったそうです。(それが以後も行われているのかは不明ですが。)
好き嫌いは別にして、首尾一貫した態度たと思います。

モトケンさん

    1点目は、一つの裁判体の中に、裁判に対する基本的な
    スタンスについて異なる者が混在していても
    いいのだろうかという疑問です。
    裁判員制度とはそういうものだ、と言われればそれまでですが。

これは正直に言って「仰天」であります。

裁判員は裁判官ではない、
報酬も保証もない、
にもかかわらず、裁判官と同じでなければならない。
では、最初から話が成立しませんよ。

なんというか、白黒映画の世界がカラーに変わるような話なのだと思います。
その時に、色を無視して白黒映画の基準でカラー映画を語られても
「裁判員制度の是非」にしかならないと思います。
(裁判員制度の是非論は続けるべきですよ)

裁判官裁判と裁判員裁判は別物でしょうし、
裁判官と裁判員は立場も責任も保証も違う。
結果として、基本的なスタンスが同じになるわけがない。

これは自明以外の何ものでもないと考えます。

個々を問題にするのなら「裁判員裁判の是非論」で進めて、
裁判員(参審制)から陪審制度に変更を検討するといった
方向しかないのではありませんか?

(わたしは、モトケンさんの意向を何か誤解しているのだろうか?)

酔うぞ拝

>裁判官個人の主観的な良心ではなく、客観的良心、すなわち、裁判官としての良心であると解されている。

 ここの「(裁判官としての)客観的良心」に関して、今一つよく分からないのですが。

>伊東判事は、裁判員にはいわゆる裁判官の良心と同様の判断基準を求めていないのかな、と感じました。

 ここ「裁判員にそれを求めうる」ものなのかどうか、という点で。

 「○○の良心」というところ、研究者であれば「科学者の良心」というようなところでしょう。
 新しい合成方法を試して結果の試料について「××ならば新しく論文ができる」としても、分析結果が「○○である」ならば、まあ失敗なわけで、それを「××ができた」とやれば捏造ですね。
 一方で、上の手法が「科学的な手法」に基づいていなくて、「△△ができた」とやってもそれは「科学者として」やってはいかんわけです。(ニセ科学、擬似科学)
 ですが、きちんと教育されてなければ、故意か無知かは別にして特に後者の例なんかは起きてしまうこともあります。

>裁判官の個人的見解としては死刑廃止論者であったとしても、現行法が死刑を定めている以上は、死刑に相当する罪には死刑を科すというのが裁判官の客観的良心に従うということである、というような説明があったと記憶しています

・「死刑に相当する罪」という判断を下すには「一定の経験と知識がいる」のではないでしょうか?理に基づいた判断であるという確信があるのが暗黙の前提であって、裁判員が自分の判断にそこまでの確信を持ちうるのかどうか。そういう確信があればこそ「客観的良心に従う」こともできるのではないでしょうか。

・「客観的良心に従う」ことを要求されるのは、要は一定以上のレベルの相手であって、裁判員はそこまでのレベルでありうるのでしょうか?
上と同義な部分もありますが、「理に基づいた判断であるという確信があるのが暗黙の前提であって」の部分、専門家であれば、それが「客観的にみても」理に基づいた判断である、というか、判断ができるわけです。自分では「理に基づいている」と思っていても、客観的にはそうではないわけで。

>No.20 酔うぞさん、No.21 北風さん

>>同様の判断基準

 これは自分でもわかりにくい表現だなと思っていたところなんですが、ほかにより適切な表現が思い浮かばなかったのでそのまま書いてしまいました。

 裁判官は、その個人的信条如何にかかわらず、「死刑制度がある」ということを前提として判決するわけですから、裁判員に対しても、死刑があるということを前提にして他の事件との公平等を考えて量刑を考えるように説示すると思っていたのですが、伊東判事は、裁判員の個人的信条に基づき、すなわち死刑廃止論者の裁判員については、死刑はあるべからざるものつまり死刑はないものとして量刑することを認めるという考えだと思われますので、私としてはかなりの違和感を覚えたわけです。

 つまり、違う土俵で量刑を考えることになってしまうがそれでいいのか、という疑問です。

 これは、事実認定において、常識的感覚が裁判官と裁判員とは異なるという問題とは質の違う問題だと考えています。

よく読んでみたら、無期懲役の「判決」ではなく「主張」なんですね。
モトケンさんのコメント読んでるうちにそう思い込んでしまってましたけど、原文の「7・量刑の評議」から読んでみれば、

>自分の感覚を大切にして意見を述べればいい。他の人の意見と異なることを遠慮することはない。最後は,9人の意見が調整されて,多数意見が決められることになる。

という趣旨でしかないようで。特に問題なさそうです。

モトケンさんの言う「同様の判断基準」についても、「過去の判例が基準」と考えていいんじゃないですかね。(本当は違うんですけど)
そのあたりも原文「7・量刑の評議」の内容が、伊藤判事の答えな気がしました。

久々の書き込みです。

伊東判事の意見が,裁判官の良心と裁判員の良心との差異を念頭に置いているのか疑問があります。

死刑という究極の刑罰を科すのには,慎重にも慎重を期すべきであり,一抹の不安があればそれを評議の場で明らかにし,議論を重ねるべきということを指摘しているように思われます。

それであれば,一般論としては批判するに当たらないと思われます。

ただ,裁判員がどのようなスタンスで審理に参加すべきかというのは,裁判員制度の根幹にかかわる重要問題ですので,改めてコメントしたいと思います。

>>No.23 マツクラさん
がご引用の裁判員制度の説明文ですが、
>最後は,9人の意見が調整されて,多数意見が決められることになる。

この一文に空論が凝縮されて結晶化してしまっていますね(笑)。アルゴリズムが見事に崩壊しております。

まず,憲法76条3項の「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」というのは,直接には裁判官を対象としていることは明らかです。しかし,一事件限りとはいえ,裁判を行う裁判員も良心に従って権限を行使してもらう必要があるのは当然です。
そして,裁判員の遵守すべき「良心」とは,裁判員の主観的な良心ではなく,「客観的良心」と考えるのが,通説と整合性のある解釈でしょう。

したがって,「主観的良心」をおよそ抑えられないような人は,裁判員選任手続で排除しておく必要がある。

ただ,現実問題として,裁判員選任手続で「主観的良心」をおよそ抑えられないような人が排除しきれるかという疑問がある。
もう一つは,「客観的良心」に従わなければいけないということを十分に分かってる職業裁判官であっても,主観的良心の影響をどこまで排除しきれているかという原理的かつ検証が極めて困難な問題がある。
そうすると,現実の裁判員が「主観的良心」と「客観的良心」との違いを理解し,「客観的良心」に従わなければならないと考えたとしても,実際に「主観的良心」を抑え,「客観的良心」に従うことをどこまで期待できるだろうか。

要するに,裁判員裁判において理念的には裁判官と同じスタンスで裁判員にも審理に臨んでもらいたいと考えるが,おそらく現実としては裁判官のスタンスと裁判員のスタンスは異なるだろう。
そして,それは裁判員制度を導入する以上避けがたいと考えています。
モトケンさんの疑問点1は,モトケンさんがいみじくも言われるとおり「裁判員制度はそういうものです」というほかない。
もし,その点が司法権の行使方法として根源的におかしいというのであれば,裁判員制度は導入すべきではない。
もっとも,この点は理念的な問題にとどまるように思われます。

長くなりそうなので,疑問点2については別コメントで書き込みます。

死刑求刑事件における裁判員裁判の評議では,裁判長の説示や交通整理がものすごく大変になるでしょう。

現実に今まで向き合ってきた被告人に対して死刑を言い渡すことができるかと自問したときにできれば回避したいと考えるのは,裁判官・裁判員ともに共通でしょう。
けれども死刑が存続している以上,死刑とすべき案件に対し,「死刑」にかかわりたくないという感情だけで無期懲役に落とすことはあってはならないことです。
しかし無期懲役にとどめるべき案件に「死刑」を科してはならないのは当然のこと。

裁判長(裁判官)は,感情的な死刑回避や安直な死刑選択を意図して発言しないと信じています。
しかしながら,裁判長(裁判官)の発言が裁判員の感情的な死刑回避や安直な死刑選択を助長することはありうるでしょう。
伊東判事の見解をそのまま述べた場合には,感情的な死刑回避につながらないかは議論の余地があるでしょうね。

長文失礼しました。

モトケンさま

素人の裁判員に、職業裁判官と全く同質の思考と判断を期待することに無理がありませんか。

大学教育どころか義務教育しか受けていない、街のオッサンオバチャンお兄ちゃん達が、ある日突然クジ引きで裁判所に集められ、ド素人がチョコチョコと裁判官から説示を受けるだけで、20年30年のキャリアのある職業裁判官と同じ事実認定と量刑判断が出来るならば、法曹養成の専門教育と司法試験、さらには裁判官採用後の経験による能力向上というのは一体何なのでしょうか?

司法試験や法曹資格が無くても裁判官は務まる職業、ということに繋がりませんか?

プロ裁判官だけの法壇に素人裁判員を混ぜ、プロ裁判官とは違った視点や発想を刑事裁判に取り入れる。これが裁判員制度の目的ではないのですか。裁判員制度の実施ということは、今までとは違う感覚や基準が判決に滲み出てくることを期待することだと思っています。

プロ裁判官だけとまったく同じ感覚と基準で判決を下すことを期待するなら、裁判員制度などというヤヤコシイ制度を新たに始める意味が無いと思います。今までとは違って当然、変わって当然、と思いますが。

No.22 モトケンさん

    裁判員に対しても、死刑があるということを前提にして
    他の事件との公平等を考えて量刑を考えるように説示する
    と思っていたのですが、
    伊東判事は、裁判員の個人的信条に基づき、
    すなわち死刑廃止論者の裁判員については、死刑はあるべからざるもの
    つまり死刑はないものとして量刑することを認める
    という考えだと思われますので、
    私としてはかなりの違和感を覚えたわけです。
    
    つまり、違う土俵で量刑を考えることになってしまうが
    それでいいのか、という疑問です。

了解しました。

わたしは裁判長は、「他の事件との公平等を考えて量刑を考えるように説示する」
とは思いますが、それで死刑反対論者が裁判員だからといって
意見をひっくり返すとは限らないだろうと当たり前に考えます。

その上で「それでは他の裁判と公平ではない」とその裁判員が非難されたり
問題だと指摘をされた場合に、さらにその裁判員が
「わたしはこの裁判の裁判員であって、他の裁判のことなど知らない」
と言い張ったら、どうにもなりませんよね。

これが裁判官であれば、「公平でないこと」を肯定したら裁判官としては不適格
だと思いますが、裁判員ではそうもいかないでしょう。

裁判官の判断そのものと、依って立つ原理の段階から裁判員は違うわけで
違和感があって当然だと思うのですが・・・・・・。

実際問題として、来年5月から施行され、そのあと裁判員が加わる裁判が開始されるのですよね。
自分がもし、裁判員になったときに、自分ならどのように対処するのかを真面目に考えたとき、正直いいまして答えが見つかりません。その一番の理由が、専門家でもない一素人が感情や気分に任せて被告の人生を左右してもよいのか?という気持ちがおおきいからです。卑怯と非難されるかもしれませんが、できることなら辞退したいと思うのが正直な気持ちです。(でも、それは辞退受け入れ理由に該当されないらしいですね。困ったものです。)
『裁判官の良心と同様の判断基準』を裁判員に求めるのは無理でしょう。それなのに半強制的に参加させられたら・・・自分には想像できません。

余談ではありますが、私は海外で生活しています。かつて実際に陪審員候補に選ばれ、考え抜いた末、裁判所に行き上記理由を説明したところ、辞退理由として受け入れてもらえた経験があります。

そうは言っても、選考時点で「私は死刑廃止派です。どんな凶悪事件だろうが絶対に死刑は回避します」
と言いはる人間を採用したりはしないでしょう。

pon様私へのコメントと理解してよろしいでしょうか?

いえ、そういうわけでは。
流れを読まずなんとなくコメントしました。

No.33 pon様
了解です。
ちなみに私、『死刑存廃』どちらの言い分も私なりに考え尊重できるので、そういう論議に加われません。私には結論出せない永遠のテーマだと思っています。

同じように裁判制度に対しても、考えるほど、私にはお手上げの状態です。

>No.22 モトケン さま

コメントの趣旨は了解しました。

>これは、事実認定において、常識的感覚が裁判官と裁判員とは異なるという問題とは質の違う問題だと考えています。

(法的な)常識的感覚だけでなく、事実認定や(法的な)思考・判断のプロセスといったものも異なる、という問題と絡んでいる部分もあるかとは思うのですが。

>裁判官は、その個人的信条如何にかかわらず、「死刑制度がある」ということを前提として判決するわけですから、裁判員に対しても、死刑があるということを前提にして他の事件との公平等を考えて量刑を考えるように説示すると思っていたのですが、伊東判事は、裁判員の個人的信条に基づき、すなわち死刑廃止論者の裁判員については、死刑はあるべからざるものつまり死刑はないものとして量刑することを認めるという考えだと思われますので、私としてはかなりの違和感を覚えたわけです。

>>どうしても,死刑という刑に反対ならば,あるいは,死刑まではどうしても踏み切れなければ,当然のことながら,それを主張すればよい。

 伊東判事の上のコメントですが、一方の極として「死刑はあるべからざるものつまり死刑はないものとして量刑することを認めるという考え」も含む結構範囲の広いケースじゃないのかと。
 ここは上手くかけないのですが、裁判員(私がもしなったとしても)「客観的良心による判断」について、事実認定や解釈や判断に無意識的(意識的も含むか)なバイアスがかからないか、というとアヤシイと思います。
 「死刑がないとして判断したもの」「客観的に判断したつもりの結果は死刑もあるとなったがそれには踏み切れない」「客観的に判断したつもりの結果は無期懲役である(その思考プロセス中に躊躇が含まれた結果)」など様々なケースがあるとして。

すいません、No.35 のコメントに投稿者名を反映させていませんでした。
申し訳ありません。

例えば、数十人を特に理由無く大量殺人のために殺した、といった事件があったとすると、これは死刑制度の下では死刑判決は疑いなく合理的である、ということもあるでしょう。

その時に「わたしは死刑制度に反対だから」という裁判員は当然居るはずで、裁判長の説示と裁判員の意見が食い違うことは仕方がないです。

つまり、裁判長の説示と、説示の結果の間には違いが生じる。

これは、最高裁が裁判官に指示して指導するのとは、本質的に意味が違うわけであって、それも含めて判決に反映させるのが、裁判員制度の目的でありましょう。

裁判員の誰もが裁判官と同じ判断基準でしか判断しないのであれば、正に裁判官の自由心証の範囲を出ないわけで、裁判官自身の「自由な心証」が信用できないと世間が思ったところが、市民参加型の裁判制度を採用する理由でしょう。

つまり、裁判官裁判と違う結論が出ることこそが、裁判員裁判の導入目的である、と言って良いと思います。

 結論が違うことがあることは当然ですし、そのこと自体に何の違和感もありません。
 今でも、裁判長、右陪席、左陪席の結論がそれぞれ違うことは当然のこととされています。

 伊東判事の文章を読むと、裁判官と裁判員が別々の刑法、つまり死刑のある刑法と死刑のない刑法を用いて同じ事件の裁判をすることになるのではないかな、という感じがしましたので違和感を感じたのです。

 もっとも、裁判官同士でも法解釈の違いがあるわけですので、違和感を感じることはないのではないかという意見もあるかと思いますが、死刑の有無は解釈の違いを超える明文違反のようにも思えて、いまいち払拭できないんですよね、違和感が。

 いずれにしても違和感どまりで、伊東判事を批判しているわけではありません。
 そういうものなのかな〜、違うんじゃないかな〜、やっぱりそういうもんかな〜
 という感じです。

 とにかく市民の感覚を反映させようという裁判員制度ですから、死刑を回避する裁判員が多くなれば、死刑制度が死文化していって死刑廃止になるかも知れません。

朝生で誰かが「ベルトコンベアー」って言ってたと思います。
警察が犯人と決めたら検察も裁判官もそれに従う。(有罪率99%でしたか)
冤罪事件の報道なんかを聞いていると、そういった思考停止した裁判官は確かにいるなと感じますよ。
裁判官が3人いたって力関係は明白で、先輩に逆らえるわけもないんじゃないですかね。

それに対し、裁判員はもっと自由に考え、発言できる。
今の裁判(?)の問題を解決する意味では、それも合理的なのかなと、思ったりもするわけです。

もちろん、良心のある裁判官にとってはそんな事されたら迷惑極まりないでしょう。
モトケン先生のお考えは慎重論で、私のは楽観論でしかないとわかってるんですけどね。

元検事のブログでの発言としてはかなり度胸のあるカキコですね。

私が言ってるわけじゃないです。
朝生で丸山弁護士が言ってたんです(笑)

No.38 モトケンさん

    もっとも、裁判官同士でも法解釈の違いがあるわけですので、
    違和感を感じることはないのではないか
    という意見もあるかと思いますが、
    死刑の有無は解釈の違いを超える明文違反のようにも思えて、
    いまいち払拭できないんですよね、違和感が。

なるほど、だいぶ分かってきました。

明文違反というか裁判員が評決で法的に受け入れられないような主張をすることはあり得る
と思っています。

起訴されている罪名では死刑に出来ないのに死刑を主張するなどですね。

わたしのイメージではこういった、多数決の時にも「無効」になる主張をし続けた
ような場合に「明文的に違反」と捉えていました。
これは解釈では無いわけで、裁判員の誤解に基づく主張と言うべきで、
決を採るときに主張を改めないために、無効になった。
なんてことが起きるのでしょう。

多くの罪で、刑の最低・最高が決まっていますが、これを無視した主張が出るのも
当然予測できることです。
多くの場合、裁判官の説明で修正されるでしょうけど「何でなんだよ?」と言い張る
裁判員はあるでしょう。
その反動として「ならば、無罪」という意見も出てくるだろうと思います。

現実にどこら辺に収まっていくのかは「やってみないと分からない」ですね。

やっぱり「不安」になってきました。
死刑の可能性がある裁判の裁判員は重荷です。どこかの週刊誌に書いてあったように、裁判員になる可能性が高い「大阪」に住んでいるだけになおさらです。
被告への「死刑判決」を支持し、その被告(死刑囚)の死刑が執行された時はもちろんですが、自分たちが迷った挙句「懲役(含:無期)」にした被告が社会に戻って再度殺人を犯したときにも、ものすごく苦しむと思います。「朝ナマ」で話題になっていたように「痴漢」とか「窃盗」といった「死刑」が絡まない犯罪の裁判から実施していくという選択はなかったのでしょうか?
特に「死刑」について思い悩んでいる現在は、
1.徴兵のように「良心的忌避」。
2.「守秘義務」を守る自信がない。
という理由で「逃れる」ことはできないのかな?と考えてしまいます。
アメリカのドラマで「犯人が憎いし、裁判所にいる人は犯罪に関係あると思ってしまう、という理由で「陪審員」になることを拒否できないか?」と聞かれた弁護士が「それは、法定侮辱罪になる」と返事していたのをちょっと思い出しました。(^^;

No.43 通行人1様
『被告への「死刑判決」を支持し、その被告(死刑囚)の死刑が執行された時はもちろんですが、自分たちが迷った挙句「懲役(含:無期)」にした被告が社会に戻って再度殺人を犯したとき』を考えますと、やはり裁判員制度に対する国民の負担は大きすぎるように思えます。

何故(せめて)陪審員制度にしなかったのでしょうかね。

もし、自分が裁判員をした事件で、最終的に被告の死刑が執行された時、私はその死刑囚遺族のことまで慮ると『法による殺人』に加担したような・・・複雑な気持ちになるとおもいます。

No.43 通行人1様
『被告への「死刑判決」を支持し、その被告(死刑囚)の死刑が執行された時はもちろんですが、自分たちが迷った挙句「懲役(含:無期)」にした被告が社会に戻って再度殺人を犯したとき』を考えますと、やはり裁判員制度に対する国民の負担は大きすぎるように思えます。

何故(せめて)陪審員制度にしなかったのでしょうかね。

もし、自分が裁判員をした事件で、最終的に被告の死刑が執行された時、私はその死刑囚遺族のことまで慮ると『法による殺人』に加担したような・・・複雑な気持ちになるとおもいます。

何故か毎回重複投函になってしまいます。(泣
皆様申し訳ございません。

No.44 A.K. 様

おっしゃるとおりです。「有罪・無罪」の判断だけ(陪審員)でも重いのにそこへ「量刑」の判断を求められるのは本当に気が重いです。

A.K. 様   通行人1様

先日放送された、「朝まで生TV」の最後の方で、司会の田原氏が、社民党の福島氏などに対し、裁判員制度実施の延期を国会へ提出するよう求めていましたが、どうなんでしょうか、福島氏らが、その流れを作る意思が本当にあるのでしょうか。
あの番組の流れのなかでも、陪審員制度に近いものを求めているようにも感じましたし、軽微な犯罪から取り上げるべきとの意見も多かったようにも思いました。

私は素人すぎる故、どんな内容の裁判が裁判員に向いているかどうかの判断は旨く線引きできません。
重大犯罪でも「裁判員が参加しても大丈夫である」と、法曹界の有識者の方々が判断し、国会で承認を受け、その方向へ向かっているのであれば、それに従って行く覚悟は持つつもりではあります。
真剣に考えれば考えるほど、躊躇していってしまう気持ちは、当然、私も感じますし、自分の仕事でさえ、日々戦々恐々とこなして行くだけでも大変なご時勢ですから、不謹慎な言い方をすれば、これ以上、心身の負担となるものは避けて通りたいという考えも理解はできます。
ただ司法制度改革の最重点としての位置づけであるのであれば、国民が避けて通る姿勢ばかりだけですと、なかなか現状からの改革も滞ってしまうでしょうし、何より、司法への国民の意識が改革されていかないんじゃないでしょうか。
(刑事弁護への不理解もその一つであるでしょうし)

お題のところへ戻りますと、モトケン先生の危惧するところはなんとなく解るのですが、変な解釈かもしれませんが、法曹の方々の良心が、もしかしたら「世間と乖離しすぎている」という懸念から生じて、裁判員制度への発想が生まれたのであれば、両者の良心の乖離感がこの制度を実施していくことにより、是正されていくことを期待することで、宜しいんではないかと思います。
その上で現在の極刑である死刑制度に対する議論が、全ての国民とまでは行かなくても(裁判員に全て一斉に参加するわけではないですし)、裁判に係わる当事者意識が強まった中での国民の全体レベルで活性化するキッカケとなるのではないでしょうか。

No.48 ゼロ+O様前向きなご意見、頭が下がります。
「朝まで生TV」是非見たかったのですが、見れない環境なので残念に思っていたところです。『裁判員制度実施の延期』あるいは『陪審員制度に近いもの』に変わるようならと期待したいところです。

今は新しい制度に対する不安や自信の無さばかりで・・・ですから、もっとこういう論議に参加して考えを深める必要性や裁判員制度に対する理解と知識を深める必要があると思います。その結果自分も参加しようという前向きな気持ちになるのかもしれません。ただそれには正直、時間が欲しいところです。

No.48 ゼロ+O 様

私もあの番組を拝見したし、録画もしました。
「世間と乖離」した司法(の良心)を軌道修正していくという「裁判員制度」の理念は理解できるのですが、逆に「司法と乖離」した世間(の良心)も修正していく必要があるでしょうね。
匿名性を良いことにネット社会にあふれる「書いたら書きっぱなし」の無責任な書き込み。
それに負けまいとしている(ように見える)テレビ報道のワイドショー化。
もし私が裁判員になったときに、法廷で見聞きする証拠や証言だけを吟味しようとしても、報道などから受け取った最初の印象の影響から逃れるのは難しいと思っておりました。

あの番組の中で「満員電車に乗ったことのない裁判官に、痴漢事件がわかるはずがない」という意見がありましたが、逆から見れば「法律を勉強したことのない素人に裁判がわかるはずもない」とも言えるでしょう。(あの番組に判事や検事の方々が出席されなかったのは非常に残念でした。組織の論理やお立場があるのはわかりますが、それぞれの視点からのご意見も伺いたかったと思います)
しかし、ゼロ+O 様のご意見を伺い、感情に走りがちな私が「冷静なプロ(裁判官)の意見」を伺うことや、法のプロの前で「一市民の価値観」を語ることにも意義はあるのだと思えてきました。
国会で再議論が起こらないかぎり(多分再議論は起こらないでしょう)、来年の今頃には「裁判員制度」が始まっています。
私がもし裁判員になることがあれば、自分の良心を信じて裁判に臨み、感情に流されることなく全ての事実を冷静に判断することが出来るように心の準備はしておきたいと思います。

A.K. 様   通行人1様

レスいただきまして、ありがとうございます。

私のような者が、あのようなコメントをしたこと自体、恐縮してしまうのですが・・。

>国会で再議論が起こらないかぎり(多分再議論は起こらないでしょう)、

再議論が起きてほしいと思います。結果として現状があまり変わらなくても、多くの国民が自覚していく再契機にもなると思いますし、もしかして裁判員の保護政策も今以上に改善されるかもしれませんし(変わらないかな?)。

だれのための制度か―「裁判員制度」について語るシンポジウム〜自由人権協会
http://www.news.janjan.jp/living/0806/0806028550/1.php

賛成派の人たちのご意見。
伊東武是氏も参加してますから、気になる方はご一読を。

法のプロの前で「一市民の価値観」を語ることにも意義はあるのだと思えてきました。
これは同感なのですが、この制度は「一市民」が同時に事実認定と量刑も行わなければならないものなんですよね・・・。 なぜオブザーバー参加では駄目だったのか、専門プロがやっていてもひっくり返ることがあるような事実認定、量刑判断をアマチュアがやらなくてはならないのか、謎は深まるばかりです。

>国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています。

最高裁のHPからの引用ですが、本当にこの程度の目的なら、オブザーバーとして、証拠調べなどに参加し、職業裁判官による合議の前に、一般国民の視点から意見を述べる程度で十分だと思うんですけどね。

ちょいズレご容赦願います。(テスト投稿も兼ねます)
 東海テレビ「裁判長の弁当箱」告知。本日7月5日(土)13:00〜13:55

 公式HP: http://tokai-tv.com/news_program/20100101_news_5823.php

 「光と影〜光市母子殺害事件弁護団の300日〜」東海テレビ取り上げた地方放送局。

 「弁護士のため息」「はや6月」で、

 http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_9de7.html

 で触れられいた「光と影〜光市母子殺害事件弁護団の300日〜」東海テレビ。

(見落とされたのこと。)

関連し、「裁判長の弁当箱」東海テレビ(名古屋エリア1チャンネル:アナログ)

視聴できる方は、観てみてください。

「あらすじ」  東海テレビ製作のドキュメント「裁判長の弁当箱」。  登場した裁判長は夜晩くまで仕事をするために、二つの弁当を毎日持って来ていた。  彼の担当した事件に、2006年に愛知県瀬戸市の病院で起きた、女性末期がん患者殺害事件があった。  曖昧な記憶で記すことを許していただきたい。

 被告は30年間泥棒として生きてきた男。
 泥棒になったきっかけは、泥棒に間違えれ誤認逮捕されたことに腹を立てたからだった。
 男は女と知り合う。女の説得で男は泥棒を止めた。
 二人は一緒に生活し、女の言う通り男は泥棒を我慢していたが、(長年の習慣からだろうか)男は約束を破り、再び泥棒を始め、
 やがて逮捕されて、刑務所へ。二人の楽しい生活は終わりを告げた。

 男が刑期を終えて出所。女に会いに行き、男は、女が末期のがんであることを知った。

 女は病院に入院していた。
 男は付きっ切りで献身的に看病した。
 その姿を知る人は、彼らのことを「仲のいいご夫婦」と見た。
 「あそこまでやってもらえれば、奥さんも幸せだ」とも。
 時には女を車椅子に乗せ、近所を散歩することもあった。

 病は進行し、女は末期の疼痛に苦しめられ始めた。
 薬も効かない。
 女は「殺してくれ」と男に頼んだ。
 死を迎えるためでしかない苦しみ。
 男は自分も死ぬことを条件に、女を殺すことを承諾。
 ナイフで女の頚動脈を切った。

 静岡、南アルプスの深南部に京丸山というところがある。
 テレビでは渓流のきれいな水がお日様に輝き流れていた。
 京丸山は彼女が元気だった頃の二人の思い出の地だ。
 男はそこを死に場所と定め、その場に行ったが、その場で逮捕された。

 裁判が進み、男の最終弁論で男は「自分は死に切れなかったが、心は今も京丸山にある」と、言った。
 裁判長はその言葉に天井を仰ぎ、涙を止めた。
 判決は懲役5年(だっただろう。)
 裁判長は服役後の彼のことを心配し、判決文の中に、今後は彼女の供養のためにも生きて行って欲しいという一文を入れ、
 裁判の後、異例の面会にも行っている。
 何としてもこの男に生きて欲しいという願いからだった。

 男からは裁判長あて手紙が来たが、その中にもいろいろ迷いはあるものの「心は今も京丸山にある」と記されていた。

なお、YoutebeでUPされる可能性はありますが、先週の「光と影〜光市母子殺害事件弁護団の300日〜」東海TVの意向で削除されました。

※リンク2件、引用使用事例。
これにて、私に投稿は最後です。

だれのための制度か―「裁判員制度」について語るシンポジウム〜自由人権協会
大変興味深いサイトをご紹介くださってありがとうございます。
日弁連は、陪審員制度の導入を目指していた。そして検察も最高裁も裁判員制度には反対であったにのかかわらず、「裁判員制度」なのですね。「裁判員制度」導入を主張していた先がいまだに不明ですが、少なくとも問題を多く抱えているということを参加された皆さん理解されているようで少し安心しました。

『最高裁の努力をかってあげてほしい』という伊東氏のお言葉。私なら『国民の多くが裁判員になりたくないと思っているという世論調査の結果』を反映させて欲しいと反応したくなりましたが。

賛成派というか推進派の方々でも、反対派の指摘に対して明確な答えは持ってないようなんですね。
こんな制度でいったい何をしたいのかわからない。
何が起きるのかもわからない。
今のままなら必ず問題が起きるでしょうね。

少なくとも徴兵制度みたいな強制参加は止めた方がいいと思う。

    だれのための制度か―「裁判員制度」について語るシンポジウム〜自由人権協会
    http://www.news.janjan.jp/living/0806/0806028550/1.php

を見ました。
わたしが現在の裁判員制度に興味を持ち始めた頃の議論が、ほぼそのまま出ていますね。

なぜ現状のようになったのかは分かりませんが、わたしの理解では最初は「刑事裁判への市民参加」の是非から始まっていると理解しています。
元々、陪審員制度の復活を含めて「市民参加論」は常に続いていたのですが、基本的に法曹三者は現状維持を主張し、結果的には「市民参加に反対」であったと思います。

何がきっかけになったのか覚えていないのですが、突如としてそれまでの「議論」から「実施」の方向に話が進み始めて、上記サイトに紹介されているように「裁判員の数を少なくする」といった極めて技巧的な案も出ていました。

この段階では多少興味のある人にとっても、陪審員制度で行くのか、裁判員制度で行くのかについてはあまり理解されていたとは言えず、「とにかく市民参加の実現」vs「現行体制の維持」のような関係での議論が盛んでした。

結果として現在のような形になったわけで、わたしの考えるところ高山弁護士の主張するような

    高山さんは、国民に裁判に参加してもらい、
    勉強してもらうと最高裁がいっていることからも明らかなように、
    その目的は、裁判に一般の人の良識や常識を反映させ、
    刑事裁判のあり方を変えるといったものではなく、
    国民も裁判に参加し、治安に対する当事者意識を高め、
    自分の身は自分で守るといった意識をもってもらうために、
    事件にかかわることを求めている、との見方を示しました。

といった狙いを実現させるために、画策したとはちょっと思えません。

裁判員制度の策定に動き出す前の議論は、「市民参加 vs 現状維持」であって、結果的に「制度上の変化無し」のままでした。
その意味では「制度が変わる」こと自体がすごいことだと強く思うし、今になると陪審員制度と裁判員制度の違いを議論(報道)しなかったところには大いに問題があったと思います。

現時点で改めて議論するべきは「市民参加の是非」「裁判員制度か陪審員制度か」あたりでしょう。
さらには「裁判員裁判が人が死ぬような事件に限定」といったことで良いのか(民事にまで拡大するのか?)といったことも重要かと思います。

例えば「市民参加は賛成だが、わたしは参加しない」というのは意見としては当然あっても、それでは議論が進行するとは思えません。
そういった「議論をするのにも覚悟が必要」な問題であると思っています。