エントリ

 死刑ないし死刑制度については、これまで若干意見を述べたことがありますが、刑事司法における最も深刻なテーマの一つですし、裁判員制度が実施されれば、一般市民の方が死刑判決に関与する機会も生じますので、何度でもまた継続して議論されるべきテーマのように思います。

 ただし、死刑は究極の応報感情が問題にされる場面であり、応報感情を無視して議論することは困難だろうと思いますが、制度論として死刑を議論する場合は、あくまでも理性的に議論されるべきであると思いますのでよろしくお願いします。

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コメント(46)

死刑について、私の考えの根底に命の重さの平等があります。自分では結構ドライな感覚(殺せば自身の命をもって償う)で考えているのですが、なぜ殺人犯に死刑と叫ぶのか?と問われれば感情的な部分を出さずに話すのは難しいですね。

私が思うに、死刑廃止論者の方も感情的なのではと感じたりします。一見罪を憎んで人を憎まずのような論ですが、加害者の人権に関しては「冤罪」などの稀な例を出したり、あらゆる手段でその人権を守ろうとしているように思います。無視できる事ではありませんが、私達、死刑肯定派が被害者の感情を汲んで感情的な発言をしてる事と何ら変わりないのではと考えます。

究極の平等とはハムラビ法典のような法律ではと考えています。それを取り入れろとは思いません。故意と過失は分けられるべきであるし、近代国家になり個人の人権を重く扱う時代にはあまりにも残酷であると考えるからです。

しかし、命の平等という原則が現在適用されているのだろうかと疑問に思います。感情的ではなく冷静に考えれば、殺人を犯せば死刑が原則と考えます。裁判では先ずはそこから始まるべきと考えます。そして酌量の余地の有無を争っていくべきと考えますが、端から「死刑」求めない殺人事件の裁判って多いと感じませんか?判例もあるのでしょうが、どうも納得が出来ません。

長い間に判例ができ、そのような判例に従う習慣ともいうべき判決が今まで多かったと思います。それを否定する事はしませんが、その裏で被害者遺族の不満があったであろうと私は想像してます。

そして昨今の厳罰化への流れ、私に言わせると厳罰化と言うよりは正常化と言った方がしっくりくるのですが、命の重さを平等に取り扱う事に近づいて来てるのかなと思います。それは物言えぬ被害者や、その被害者遺族に対して今まで以上にスポットが当てられ始めたのではないでしょうか。

>そして昨今の厳罰化への流れ、

 私としては、刑罰としての「死刑」と「終身刑」の境界が理解が難しいので、皆様の意見を聞いてみたい気もします。
 かなり身も蓋もない言い方ですが、「死刑」は積極的に囚人の生命を終わらせる事。「終身刑」は囚人が自然死(病死?)するまで収監する事。 該当する囚人が一般社会に復帰する事が極めて困難(絶望的)であるから、隔離する(処刑する)事で社会に対する影響を与えない状態にする。
 という事でいいのかな。 かなり単純化した仮定ですけど、他のエントリーでの廃止、存続の主張では「死刑制度」のみに限定されている場合と、刑罰の一部としての「死刑制度」を考えた場合。特に後者は「人が人を裁く(もちろん法に基づいて)事」について様々な意見があるようです。 (上記ゲンさんのコメントは後者の場合だと思います。)

(以上を前フリとして)

 私の意見としては現行の法制度は漸近的に変化(進化?)してきたもので、普遍である必要はないが、現時点ではそれなりに優秀(機能している)という理解で、さらにで変化してゆくには、社会一般の変化(進化?)が必要だと思います。よって現行制度の中にある「死刑制度」を変えるには多数の国民(有権者)が納得できる説明が必要だと考えます。
 私の場合は「死刑制度廃止」を積極的に支持できる理由が見当たらない為、消極的「死刑制度維持」派です。

 あまり、早期のコメントの経験はありませんので、雰囲気にそぐわなければスルーして下さって結構です。

制度を語るときに死刑存廃いずれの方々からも、被害者遺族の応報感情に対する言及が出てきます。新しい法律ができてからは存じませんが、刑事の裁判というものは、加害者を裁くものであって、その裁判事務手続きには被害者遺族は基本的に存在場所がないと理解しています。唯一存在が考慮されるのは刑の軽重を量るべき時のみです。それがいけないこともなかろうし、かくあれかしとも考えます。
 ここのような制度を語るべき場所では、どのような形であれ、被害者遺族の応報感情を議論に取り入れることは、方向を誤らせるか、あるいは収斂させない効果しか生まないものと思います。人智の限りを尽くした冷徹な議論の結果として残ったもの、に対して感情的に収まるかを検証することが実際的ではないかと思うのです。
 ほとんど議論に参加することはできませんが、人間に温かな議論が、冷厳に続いて欲しいと、ROMしながら願っております。

「死刑」と「終身刑」の境界、私もわかりません。
終身刑ではなく、罪の加算をして欲しいところ。
強姦20件やったら20件分加算して刑期が100年等、事実上の終身刑となるような形がよいかと思うのですけど・・・脱線ですね。失礼

 まずは、ブリグ主様にお礼。配慮、ありがとうございます。

 それだけ、伝えたかったのですが、少しだけ。お許しください。

 [独り言2]
 1 死刑
 2 絶対的無期懲役刑
   超党派議員連盟が取り上げてますが、解決策ではありません。
  「一番は、犯罪被害者のケアの遅れです。」
 
 はっきりいって、傍聴席での被害者の暴言はこれ見よがしに取り上げるマスコミもどうかしています。
 そして、あすの会。
 ある被害者が、講演で加害者の矯正を話したら、あすの会から脱退をせまられた。と取り上げていましたが、自主参加です。
 脱退しようがしよまいが、自由です。
 加入するのも自由です。
 事実関係は、本人しか解りません。すべて、推測です。
 内心(自助救済)までは、誰も解りません。

 私は2の絶対的無期懲役刑が一番の「残虐な刑罰」と思います。
 探偵所調査で誰がどこの刑務所にいることを把握するのは容易い事です。また、移動しても判明します。
 服役中に毎月「月命日」に手紙を出します。(検査に引っかからない内容)

 大体、5年続ければ、廃人になります。
 それでも精神に異常をきたさない人は、「冤罪」又は「常習犯」。これが、ひとつの目安。

 絶対的終身刑は、被害者が憎しみを抱いている重さにより、「廃人」にさせ、病死させることはできるのです。

 だから、死刑が、一番、残虐とは限りません。

 この結果は、既に過去エントリーに触れられていました。

要は、死刑だろうが絶対的無期懲役、有期懲役だろうが、犯罪遺族のケアを怠れば、どんな方法も取れます。
 これらの方法は、ある手続きを必要とします(ココは触れてはいけない部分です)

 注:不適切でしたら、即削除していただいても異議を申しません。

死刑と終身刑の話題になっているのでそれについて述べさせて頂きます。

私も死刑と終身刑は、社会から永遠に隔絶させられるという点では同じですから、犯罪に対して第三者である以上、違いは無いに等しいと思います。

しかし、終身刑は社会復帰を目的としないことから、終身刑囚は少なからず夢も希望もない「生ける屍」と化してしまうのではとも思います。これは私には死刑以上に悲惨なことではないかと思います。わざわざ「生ける屍」を作り出す制度は如何なものでしょうか?

死刑と終身刑は伴に、犯罪者の人生を奪い去る制度といっても過言で無いでしょう。そして、現在の死刑制度が厳格・適正に運用されている点や、終身刑制度にもいろいろな問題がついて回ることを考えると、とりあえずは死刑存置で良いのかなと思っております。現状として多くの国民が死刑存置派であるというのも、私が存置派である大きな理由です。

議論の入り口として、先ずは更正・社会復帰を前提としない極刑が必要か否かについても皆さんの意見を聞いてみたく思います。

応報感情に対する指摘がありますが、優先すべきは社会秩序の維持。次に遺族の応報感情。最後に被告人かと考えております。

遺族以外が犯人に対して死刑を求めるのは、応報感情だけでなく「恐怖心」があると思うんです。
引っ越してきたオウムに対し、各地の町民が受け入れを拒否しました。
殺人犯が隣に引っ越してきたら誰だって怖いです。
その恐怖心がある限り、死刑を求める声はなくならないと思います。

・応報感情ではない「何か」

>No.8 マツクラ さん
>遺族以外が犯人に対して死刑を求めるのは、応報感情だけでなく「恐怖心」があると思うんです。

 私も応報感情ではない「何か」があるとは思っているのですが、それが何なのかよく分かりません。
 別スレッドにも書いたのですが、「銃の乱射や毒ガス散布などで50人を殺した犯人」がいたとして、「死を持って償え」といった感情を持ってしまうのですが。
 社会に復帰することへの「恐怖心」であれば、終身刑があればそれでいい。

>No.6 ど素人 さん

>議論の入り口として、先ずは更正・社会復帰を前提としない極刑が必要か否かについても皆さんの意見を聞いてみたく思います。

 「大量殺人」(「オウム」「秋葉原」などのケースから起こりえないとはいえない)の犯人について、「極刑で対処する」のか「それでも更正させて社会復帰させる対応をとる」のか、というところがあると思います。国民的合意の元で後者を選択するのもありえるでしょう。

・刑罰は国家による復讐の肩代わり?
 殺人事件だけに限定されず、傷害や資産の損害(家の全焼など)についても、被害者に報復感情は発生すると思うのですが、別にそれらで刑事罰が課されても、被害者の報復の代行という感はもたないように思うのですが。

刑罰が国家による復讐か否かということですが、モトケンさんが紹介してくださったサイトの内容なども併せて考えると、刑罰の設立段階では国家による復讐の肩代わりという意味合いは薄いようですね。確かに、お上にとっては平民のゴタゴタや復讐はどうでも良い話で、健全・安全な社会を構築し、社会を活性化することでより多くの税を吸い上げることの方が大切だったでしょうから、第一に社会秩序のためにというのは納得です。

ただ、その運用の際には被害者や世間の報復感情を満足させるようにとの配慮がないとも言い切れないかと思います。

例えば傷害事件等は被害者が被害届を出さなければ刑事事件とならないですよね(違ってたらスイマセン)。これはつまり、被害者に代わって検察がお仕置きってことだと思いますし、被害届の多くは、加害者への報復感情を満たすために、加害者へ刑事罰が科されることを願って出されているのではないでしょうか。

「何か」といわれても困りますけど、その答えは一つでは無いと思いますよ。

たとえば街角で、遺族が犯人に死刑判決を求める署名活動をしている時、ここでサインをしている人は「同情心」からだと思います。
悲しむ遺族のために何かしてあげたいという感情でしょうね。

死刑を訴えるとき根底にあるのはその時々で違っていて、応報感情(もっと言えば復讐心)だったり、恐怖心だったり、同情心だったりするわけです。
そこはあまり重視する所では無い気がしますが・・・

>No.5 cocoro さん
>「一番は、犯罪被害者のケアの遅れです。」
 
この点は賛同なのですが…死刑廃止議員連盟が犯罪被害者支援をよく打ち出してきたのに対し、与党は死刑制度の存在を免罪符に何もしてこなかった、という印象を持っています。

>はっきりいって、傍聴席での被害者の暴言はこれ見よがしに取り上げるマスコミもどうかしています。

あんまり取り上げない気がするのですけど…。
加害者をぶん殴ったりしたニュースがあっても、むしろ取り上げないように気を遣って報道しているという印象を持っています。

>ある被害者が、講演で加害者の矯正を話したら、あすの会から脱退をせまられた。と取り上げていましたが、自主参加です。

立教大事件のお父さんの話ですよね?
私はこの話を知りたくて色々と調べていたのですが、むしろ情報がなさ過ぎて「あれは夢だったのかな?」と思ってしまったくらいでした。
少年院で更生を望む講演をしたことを理由に、強制退会させられたかと記憶していたのですが…。
自主脱退だったのでしょうか?
何せソースがあまりにもありませんでしたので。

一つ、存置論に対する素朴な疑問があります。
「終身刑は死刑よりも残酷だから、死刑の代用になり得ない」
という意見をよく聞きます。
「死刑には犯罪抑止力がある」
という事実を前提に存置論を唱えるのも、主流の考え方だと思います。
そうすると、
「死刑よりもさらに残酷な終身刑」は「抑止力も死刑以上」なのだから、「終身刑は設けるべき」という風にはならないのかな?とふと考えたりします。

>遺族以外が犯人に対して死刑を求めるのは、応報感情だけでなく「恐怖心」があると思うんです。(省略)その恐怖心がある限り、死刑を求める声はなくならないと思います。

>死刑を訴えるとき根底にあるのはその時々で違っていて、応報感情(もっと言えば復讐心)だったり、恐怖心だったり、同情心だったりするわけです。
そこはあまり重視する所では無い気がしますが・・・

 本質的ではないかもしれませんが、「死刑制度」について「遺族以外の方が死刑制度に肯定的なのは何故か?何故、死刑制度を肯定するのか?」という点では、そういう観点もいるのかな、と。

 死刑制度を肯定的にとらえている方の大半が、殺人事件による遺族以外の方とするなら、「その理由」への対策をとらないとお書きになられているように「死刑を求める声はなくならないと思います。」

 「恐怖心」「復讐心」には、「終身刑」の「犯人は2度と社会復帰できない」「終身刑の持つ残酷性」などでカバーできないのか、それでも「死刑を求める声はなくならない」のであれば、それは何か、というところです。


>一つ、存置論に対する素朴な疑問があります。
「終身刑は死刑よりも残酷だから、死刑の代用になり得ない」
という意見をよく聞きます。

 残酷か否かは別として、現象面からすると終身刑と死刑に差があるかと言えば、非常に見出しにくいものと考えています。

 今まで、あえて述べてきませんでしたが、終身刑の場合、接見という形できわめてわずかではありますが、社会との絆が残されていますが、処刑されてしまえば、そのわずかの絆も残りません。 逆に、非常に制限された環境下で収監され続ける事は想像を絶する「苦痛」であると想像します。(ぜんぜん平気と言う方もいらっしゃるかもしれません。個人的な見解です。)


 要するに、終身刑と死刑は、社会がその個人に対して、共同体としての社会への参加を認められない。=社会の構成員として抹消する行為だと考えます。もちろん個々の事情により差は生じることを否定しませんが、私は終身刑と死刑の差は司法当局の判断でテクニカルに決まる部分が大きい(大半だ)と了解しています。(これはちょっと言い過ぎかな)


>「死刑には犯罪抑止力がある」
という事実を前提に存置論を唱えるのも、主流の考え方だと思います。

>そうすると、「死刑よりもさらに残酷な終身刑」は「抑止力も死刑以上」なのだから、「終身刑は設けるべき」という風にはならないのかな?とふと考えたりします。


「死刑には犯罪抑止力がある」事自体は否定しませんが、それが全てでない事もまた事実だと思います。

 乱暴な仮定ですが、

凶悪犯A 「死刑にして欲しくて」凶悪犯罪を犯した。
凶悪犯B 「死刑ならないから」凶悪犯罪を犯した。


凶悪犯Aに対しては「死刑制度」があるがため凶悪犯罪を犯した。
凶悪犯Bに対しては「死刑制度」がないため凶悪犯罪を犯した。

「死刑制度」が凶悪犯Aに対しては「動機」となり、凶悪犯Bに対しては「抑制」となりえます。

 もちろん、実際の犯罪行為に対して、刑罰の存在は最低限の抑制効果を生むと言うことはできると思いますが、刑罰の存在がすべての犯罪を抑制できるとは言えません。

 なんか、当たり前の事しか述べられませんが、「人が人を裁く」ことを社会的に要求される事は不可避ではあるものの、そう簡単に割り切れるものではないと思います。

社会の「恐怖心」について、これは恐怖心の大きさや危険度の高さが問題なんです。
人を死に至らしめるウィルスや害虫、人を襲い人肉を食らうケモノ、それらを排除をしたいと思うのは当然です。
それはどこかに隔離したから安心できるものではなく、死滅という形で完全かつ確実に排除しないと安心できない。つまり死刑です。

遺族の「復讐心」はどうしようもないですね。死刑でも終身刑でも遺族の感情は満たされませんし癒されません。

ただ、そういう視点で終身刑を考えると見誤りそうな気がします。
ここに、明確に死刑廃止や終身刑の導入を訴える人がいないと、何を目的としているのか良くわからないですね。

連投で失礼
抑止力としての効果を期待するなら、公開すべきという考えもあります。
終身刑を公開しても意味が分かりませんからね、公開処刑。
それが良いか悪いかはともかく、塀の中で社会に知られる事無く自然死したり死刑になってたりしても、抑止効果は薄いでしょうね。

 うわぁ、思わず不謹慎な想像してしまいました。
 「24時間晒し者の刑」 拘留中の囚人の様子を24時間生中継。
ジム・キャリーの映画に似たような設定がありましたが、(囚人ではないけれど)これをやられたら終身刑でなくても、大半の人間は人格崩壊しそうです。 絶対、エンターテイメントの名のもとにエスカレーションしてゆくだろうなぁ。「人気囚人ランキング」とか「今日の××さん」とか。
 ブラック・ユーモアの域を越えていたらスミマセン。


 脱線ついでに、法律的な話ではありませんが、中世ヨーロッパでは「死刑」の執行は一般民衆の娯楽として扱われていたというハナシを聞いたことがあります。お弁当作って一家総出で見物に行ったり、囚人の遺体の一部を記念品として持ち帰ったりと、まぁ当時を直接知るものではありませんが、(あたりまえ)死刑制度と一般民衆(現在で言うところの一般国民でしょうか)の歴史的な推移というのも現行の「死刑制度」を考える上で参考になるかも知れません。
 日本でも江戸時代には「晒し首」の制度もあったはずですし、 私の知る範囲では風説の類に過ぎないのでどなたか詳しい方がおられましたら御意見拝聴したいと思います。

公平性や真実性はアテになりませんが、ウィキペディアの死刑死刑存廃問題を読んでおく事は、参考になりそうですね。

終身刑は死刑より「残酷な刑」との認識が多いように思います
が、死刑は文字通り執行されれば、もう終わりです。
しかし、終身刑は可能性として収監された後も、あくまでも
可能性として「生」が残りります。

極端なことを言えばですが、

政変による恩赦(もしくは刑の免除)
脱獄(大脱走のみならず、大地震などの天災で図らずも)

意味は違いますが、天寿をまっとうすることも可能

などです。
全く「希望」が無くなる訳ではないと思います。
やはり絶望感を与える死刑の方が残酷な刑罰だと思います。

私自身は、昨今の悲惨な(特に子供が犠牲になる)事件を
見ると、加害者が「絶望」的な死刑制度を残すべきだと
思います。

「犯罪被害者・遺族も抗議」以降の新しいのエントリのうち、どれに参加させて頂こうか迷っていましたが・・・。
こちらのコメント欄でもやはり「赤の他人から」の加害行為を前提とした議論の様ですので、コメントを書くのに腰が引けてます(苦笑)
被害者が子どもや明らかな弱者の場合、加害者に対して死刑を望む気持ちは理解できます。(ちなみに私は死刑制度は無くなった方がよいと考えています)

私は「罪の重さ」を量る正確な秤を持ちませんので、どういった場合なら罪が重いのか、あるいは死刑に相当するのか判断ができません。

例えば
A)性犯罪目的で、見ず知らずの幼児を殺め、次の犯行で発覚。
B)虐待の末、自分の子どもを殺め、2人目で発覚。

両方とも空想上の事件ですが、過去に似たような事件はあったと思います。

どちらが罪が重くて、どちらなら死刑に該当するのか・・・。
法律的に言うと「殺意」が問題になるのでしょうけれど。
どちらにも2件の犯行に相当の時間差があり、どちらも殺意を否認しているとしたら。

両者は同じ量刑になるのでしょうか。
両者の量刑に影響する条件は何でしょうか。

こういった空想上のケースをあげて議論することは無意味な気もしますが、具体的に、こういうケースならこう考えるという意見も聞いてみたい気がします。


人を殺した者は、死刑。それだけです。AでもBでも死刑でかまいません。
逆に、減刑する理由がどこにあるのかが問題ですね。

一応「永山基準」というのはあるんで、それだけの条件では正直判断できませんがね。

>akiraさま
 はじめまして。きちんと応答できる自信がありませんが、他に適切な応答をなさる方がいらっしゃらないようなので、とりあえず応答を試みます。

>私は「罪の重さ」を量る正確な秤を持ちませんので、

 おそらく誰も「罪の重さを量る正確な秤」はもっていないでしょう。
裁判官は、事件の証拠群から刑の量定に影響を及ぼしそうな事情を拾い上げ、過去の裁判例を参照しつつ、当事者(と上級審)に理解してもらえそうな重さを決め、刑を宣告します。その判断には幅があり、誰が判決しても懲役○年、と決まるわけではありません(外患誘致を除く。もっとも、過去にこのブログでご紹介させていただきましたが、過去に最高裁が全刑事裁判官を対象に行った調査では、かなりの程度で裁判官の量刑判断は収斂するそうです)。
 実は、過去にこのブログで、私はモトケン先生に対して量刑(求刑)のありかたについてお尋ねしたことがあり、モトケン先生は「基準検察」や「被害者の数と死刑」といったタイトルのエントリーをはじめとするいくつかのエントリーでご解説くださったことがありますので、よかったらご覧ください(その節はありがとうございました>モトケン先生)。

 さて、ご設問のA)B)ですが、正直なところわかりません。

 ただ、事件が本来有するはずの諸事情を考慮せず、「見ず知らずか顔見知りか」だけに着目した場合、B)よりA)のほうが重くなる“ような気がします”。
 刑の量定において、判決で「犯行の社会的影響」を指摘するケースがしばしばあります。例えば、いわゆる「アベック殺人事件第一審判決(名古屋地判平成元年6月28日)では、「本件は(中略)何ら関係のない一般市民もいつ何時被害に遭うやもしれないという社会不安を生じさせ(中略)その模倣性は高く、本件各犯行の社会的影響はきわめて大きい」として死刑を選択しています(もっとも二審では無期、確定)。他方、例えば両親に対する強盗殺人、死体遺棄などの事案について無期を言い渡した広島高岡山支判平成9年11月12日では、判決において「本件強盗殺人は、被告人の両親以外の他人に類を及ぼす危険性のあった犯行ではなく、一般人の社会不安を殊更駆り立てる側面は比較的少なかったものといえるから(中略)厳しい処罰をなす必要は必ずしも認めがたい」としています。

 本来、刑の量定には様々な事情が考慮されるので、あくまでも“ような気がします”の域を出ませんが、以上参考まで申し述べます。

>マツクラさま

早速の応答ありがとうございます。

「原則死刑」で「減刑する理由」を求めるということですね。
正直申しまして、「原則死刑」AもBも死刑でかまわないというご発言を読んだ時(昨夜)は、何とも乱暴だと思いましたが、一晩たってみると、法律上は「殺人罪」の量刑には死刑があるわけですし、考え方としてはそういう方法もあるのだなと思いました。

私は、一つず刑が重くなる条件を積み重ねていって、刑を決めるのだろう考えていました(全く逆の考え方)ので、マツクラ様の考え方は新鮮(?)でした。
実際の裁判では、どういう順序で考えるのか分からないのですけど、参考になりました。ありがとうございます。

>an_accusedさま

専門的なblogのコメ欄に非常に素朴な疑問を投げかけてしまいました。にもかかわらず丁寧な応答、感謝いたします。
永山基準については、文章としては知っているものの、多分、きちんと理解はできていない私です。

>一般人の社会不安を殊更駆り立てる側面は比較的少なかったものといえるから(中略)厳しい処罰をなす必要は必ずしも認めがたい」としています。

なるほど。A>Bと考える理由の一部が理解できた気がします。
他の人が被害者にはなり得ない犯罪である場合は、一般社会への影響が少ないと考えられるということなのですね。
ということは、一般社会の人々の感じる「不安」も、死刑を選ぶ要素になるということですね。

私が裁判員に選ばれることはない(可能性としてはあるのでしょうけど)と思うのですが、こういう疑問を抱えながら参加することに不安があります。どのようなことが量刑判断の基準になるのか、ご紹介いただいたエントリを今一度、熟読してみます。

私には>>No.19 昼寝 さんがお書きになった状況分析がいちばんしっくりきます。
私自身は消極的死刑廃止論者に属するつもりでいますが、現実には狭い日本では死刑が廃止される可能性はないと考えるものです。であればあとはいかに刑が執行されるべきかの制度運用上の問題を詰める点と、終身刑を導入したとして死刑と併存してどのように執行していけるかを詰める点に、議論の余地があるのではないかなと思っています。

akira さんへ

これは被害者と加害者の命の問題なんです。
架空の殺人事件を2つ上げてAとBのどっちが悪いと言った、法律バラエティーレベルのお遊びで論じてはいけないんです。
あなたのやっていることは命の冒涜です。

もちろんan_accused様のご意見は貴重なものですし、最後の一文を見れば、私の言わんとしている事くらい御承知の上での発言であろう事は理解できます。
それぞれの事件ごとに、すべての事情を考慮した上で判断すべき事なんです。

>あなたのやっていることは命の冒涜です。

 とは思いません。

 私はそうは思わないということですが。

 量刑としての死刑選択の当否は絶対的判断を要求されますが、その前提または準備として相対的判断を積み重ねるというのはシミュレーションとしてあっていいのではないでしょうか。

一般論としては分かります。
刑の公平性を求めるならそれは必要な事です。

ただ、シミュレーションを積み重ねる事によって極度にマニュアル化されすぎてしまうと、生きるか死ぬかをマニュアルで決めると言う非人道的な事になりかねない。
殺人事件でこれをするのは納得しがたいですね。

私はですけど。

>>生きるか死ぬかをマニュアルで

若干、揚げ足取り気味で申し訳ないですが、オートマチックに
決められないようにマニュアルが必要なような気がします。

横からすいません。

「AだろうがBだろうが、殺人はとりあえず死刑」という発想こそマニュアルっぽいと感じます。ベルトコンベア的で。
刑法の量刑に幅が持たせてあるのは、そういうマニュアル思考に陥ることを防ぐためだと思っていましたが。

人の感じ方というのは様々ですね。

 どなたかがおっしゃっておられたとおり、人の命というのは等しく価値あるものとして尊重される(べき)ものです。
 死刑とは、全国民に対して「等しく生命を守ります」と約束することで成立している(という建て前で正統性を保っているはずの)国家が、まさに国民の生命を積極的に奪い取ろうという行為ですから、「本当に、もうどう手を尽くしても、彼(彼女)の中から、他の国民の生命を脅かす危険性を除去できないこと(更生不能性)」が積極的に示されて初めて正当性を獲得できる行為であると私は考えています。
 朝日の素粒子が人々の反発を受けたのは、そのような究極の選択である死刑を扱うにもかかわらず、それに関わる者の苦悩や葛藤をまるで無視するかのように軽薄な表現を用いたからでしょう(もっとも、現法相のイメージと苦悩や葛藤といった言葉との間に若干の距離があることは認めますが)。

 もし、akira氏のコメントが命の冒涜であるというのなら、「人を殺せば死刑。それだけです。」というコメントは、私にとっては朝日の素粒子に匹敵するほど、軽薄な物言いです。
 また、akira氏の設問が命の冒涜なら、最初からそう指摘すればいいのにそれをせず、設問にきっちり乗っかって「AもBも死刑でかまいません」と無造作に答えるのも、十分「命の冒涜」として非難されるべきふるまいでしょう。

 というか、ただの一本も文献を読まず、過去の裁判例にふれようともせず、つまり先人の思考や苦悩を学ぶこともなく、具体的には永山基準といわれるものがなぜでてきたのかについて思いを寄せようともせず、「人を殺せば死刑。それだけです。」というような居酒屋談義レベルのコメントしか書けないような人が、なんで他人に対して、冒涜だなんだと非難することができるのか、私にはわかりません。

秀同です。

No.28 でもそうですが、マツクラ さんのコメントは、自分で勝手な想像を付け加えて自身で問題としている。

云わばチャチャ・釣り・煽りです。

自ら叩かれ役を買っているかも?ですが
まともに相手すると、議論を某掲示板レベルに引き摺り落とす事になる。

怒られちゃいましたね。すいません

しかし、死刑についてのエントリのはずですけど、どっちが悪いかと言うような論議の先に、何か答えがあるんですかね。
特に死刑についての意見も無く、ただ批判だけしてらっしゃる方もいますしね。
着地点が見えなくなってしまいました。

それでも管理人が容認してるようですから、あとは皆様でご自由にどうぞ。

ここは新たな人が書いてくれれば良いのですが混ぜ返されて読みにくくなるのは嫌です。

私の意見なら、2年程度前からあちこちに書いてあるので拾えば読めます。

知らない方のために立場を書くと、一言では死刑存続派ですが、社会秩序を優先し応報感情は制限する、です。

割と早い時間にマツクラさまのコメントは拝見しましたが、一呼吸置こうと思い、あちこち彷徨っておりました。

>No.26 マツクラ さま
もうお読みでないかもしれませんが、私宛にコメントを頂きましたので返信させて頂きます。

>あなたのやっていることは命の冒涜です。

そういうつもりで書いたわけではありませんが、マツクラさまが、そう受け取られたことは非常に残念です。もともと論理的に物を言うのは不得手なので、こちらでは普段自分のblogで書くより感情を押さえて書いています。事務的というか、必要以上に論点のみを書こうとする余り、お遊び感覚と受けとられる表現になってしまったのかもしれません。文章には表せない「想い」の部分が多分に含まれているのを、マツクラさまは読み取られたのかもとも思います。

>それぞれの事件ごとに、すべての事情を考慮した上で判断すべき事なんです。

もちろん、その通りだと思います。
殺人事件の被害者、加害者とも、私にとっては空想の人物ではなく、日常生活においての登場人物ですので遊び半分に語ったわけではありません。それらの事件を詳細に書くわけにも参りませんので、あえて架空のケースを想定しました。
私は自分の経験から徐々に死刑廃止に傾いてきたのですが、個人の身体的な感覚(感情)と法律的なこと(思考)とは別だと思いましたので、少しでも理解できればと先のコメントを書かせて頂きました。


>モトケンさま、参加者の皆さま

まとめレスで申し訳ありません。
稚拙な議論とも言えないような問いかけを受け入れて頂きありがとうございます。

「死刑制度」は社会秩序の維持が目的だということは頭では理解しています。
私にとって死刑制度の是非は、(動機、殺意、当時の精神状態、贖罪意識など、その人の内心を知ることが出来るかも含め)その罪を人間が正確に裁くことが出来るのか、自分に裁く資格があるのか、という問いと不可分のものです。
しかし、これを言い出すと刑罰そのものの是非となってしまうので、上記のようなコメントと相成りました。
分かりずらい文章で混乱を招き申し訳なく思っています。

以前別スレでも書いた本ですが、中公新書の「ドキュメント裁判官ー人が人をどう裁くのか」の中に、「死んで責任を取る」と極刑を望んでいる被告(殺人・放火等で起訴ー夫婦を刺殺、2歳の長女が焼死ー、求刑は死刑)に対し無期懲役の判決を言い渡した後「生きて地獄を見て、自分の犯した罪の重さに苦しんで欲しい」と語りかけた裁判官のお話が紹介されていました。(検察は控訴したが、大阪高裁で「無期」確定)

しかし附属池田小の事件では、被告は「死刑」を希望しすでに「執行」されました。でも、あの男にも「生きて地獄を見」せたほうがよかったのかも・・・と思うことがあります。
最近では秋葉原無差別大量殺人の犯人が「生活に疲れ、世の中がいやになった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」という供述をしている(と報道されている)ケースもあります。
もっとも、「死刑を望んで犯行におよぶ」ケースはまれでしょうが、こんな犯行が行われると、「死刑は果たして犯罪の抑止力になるのか?」と思えてくるときがあります。

本気で死にたいなんて思っている人なんていない。
何故なら、死にたいと思っている事を証明したとき、その人はこの世にもういないから。


それはさて置き、

死刑を望む犯罪者には死刑を適用しない、とは出来ない。
この罪を犯したらこう罰するとあらかじめ決めておかないと、公正でなくなってしまうから。


罪刑法定主義は言わずもがな。

応報感情より社会秩序の維持を優先して判断すべき。
殺人犯に対しては、再犯の危険性を考え死刑に。それが公共の利益になると思う。
抑止効果が無いとしても。

死刑を望むものへの抑止効果を期待するなら虐殺。
極めて残虐な殺し方をすると知れば、死刑になりたいと思う者も居なくなるでしょう。
しかし、そんな事は出来ない。

テーマとずれた話ではどこまでも無駄話続けられるのに、あえて「死刑」についてのエントリ立てると、特に何も言えない人が多いようで。
あの盛り上がりは、何だったんですかね。

No.22 an_accusedさんの意見も、責めるつもりは無いけれど、反論あっても良さそうなのに誰も何も言わないですよね。
実は何も考えて無いんじゃないですか?

裁判員制度で死刑判決を出す覚悟、または出さない覚悟って無さそうですね。

死刑についてのエントリが盛り上がらないというより、医療問題に興味が集中しているため、それ以外のエントリがほとんどスルーされているような状況ですね。

漠然と死刑について考えても、結論が出ない議論のための議論になりがちだという点も盛り上がらない理由かもしれません。具体的な事例が挙がらないと議論は継続しにくいのではないでしょうか。

>マツクラさま
こんばんは。

>No.22 an_accusedさんの意見も、責めるつもりは無いけれど、反論あっても良さそうなのに誰も何も言わないですよね。

 実際、量刑に「社会的影響の大きさ」を反映させることについては、批判のあるところです(例えば浅田和茂『刑法総論』514頁(成文堂)とか、林幹人『刑法総論』8頁とか)。

 応答にある程度時間をかけても許していただけるのであれば、いつでも対話に参加するつもりでいます。他の方から問いかけのあった江戸期の公開刑についても、応答を用意していました。

 実は、ご指摘のとおり、死刑や犯罪を論じるということは、ともすれば「命の冒涜」になりかねない危険を有している、と私も思っています。例えば、私が、食卓で、居酒屋で、休憩室で、タクシーの中で、ネット上で、死刑にすべきだなんだと声高に論じた事件のうち、事件被害者や死刑囚の命日に静かに黙祷する事件が何件あるでしょうか?人の命が失われたという悲惨な事実を、一時の話題として消費することは、「命の冒涜」ではないでしょうか?

 これは、決して、マツクラさまや他の誰かへの批判ではありません。あくまでも私の、私自身への批判です。

 そういうわけで、犯罪や行刑制度を論じることに、ときおり私は一種の後ろめたさを感じます(つねにではないところに、私の不真面目さがあります)。だから、マツクラさまの発した「命の冒涜」という言葉に反応してしまったのだと思います。

 真正面から、死刑を含む行刑制度について対話なさりたいということであれば、できる限り応答します(ただし、前述のとおり、ポンポンコメントすることはできませんが)。

 an_accused さま

>他の方から問いかけのあった江戸期の公開刑についても、応答を用意していました。


 おそらく私からの問いかけの事だと思いましたので、コメントさせていただきます。
 「命の冒涜」については、いろんな受け取り方があるでしょうから、私もどちらかと言うとナナメ方向からコメントさせていただいております。
 今回のエントリーでモトケンさんが「感情」抜きでとの事でしたので、「死刑制度」維持/廃止に対しても現時点だけでなくどのような経緯で成立しているのかなぁと思いコメントさせていただきました。(本人が調べればよいのですが、いかんせん歴史には疎いもので) 文学(小説)等からの知識では不確実過ぎたので、お知恵拝借を願った次第です。


 また、"江戸期の公開刑"という事では俗に言う「晒し者」も含むと理解しておりますが、昨今のTV報道、家族の映像、(殊に6億円行方不明では横領したという本人の懺悔の映像は衝撃はありましたが、どうみても"もっと悪い"人間が背後にいる事は容易に想像できますが、実像は視聴者には届きません。)の放送は、昔の基準で言えば間違いなく「晒し者」扱いですよね。 これは刑罰ではないでしょうが、一種の罰に見えます。 ある意味、報道機関による"私刑"とも言えると思います。
 「死刑制度」はあくまで「国家」於ける制度の一環と理解しております。 しかし、現在の日本においては「国家」以外の社会的制裁、マスコミにおける報道からご近所の噂まで程度は様々ですがそれが原因で「自殺」にまで追い込まれてしまうケースもあると聞き及びます。(犯罪を犯したとされる本人だけではなく家族も含まれます。) 「刑罰」と「私刑」の距離感というのも「死刑制度」と報復感情について考えてみたとも思います。 以上。脱線失礼しました。

私の事を非難した人は、少なくともNo.20 akiraさんのAかBかという論議したらいいのにと思うんですが・・・はぁ。
結局私がやるんですか。


No.24 akira さんの解釈で問題なのは、この件で当てはめてしまうと、「被害に遭うのは被告人の子供でしか無いから減刑していいじゃん」という理屈になってしまう所。

社会的影響が少ないとして減刑していい場合というのは、
虐めやDV等の仕返しとして殺した場合、被害者の側にも原因(罪?)があった場合ですかね。
この場合は社会的影響は少ない、それ以外の他者に害を及ぼす可能性が少ない、と言えるかと思います。

No.22 an_accused さんの書き込み自体は問題無いかと思うのですが、akiraさんがそれでA>Bと解釈してしまうのは違うんじゃないかと思うわけです。

流れが落ち着いたところで追記を。何かの間違いでここを見てしまった人の為に2つだけ。

ルールがあって行動が制限されるのではなく、必要だからルールを作ったのです。
だから、知識が無くとも常識で考えれば、何故そのルールが必要だったのかは分かるはず。
だから、考えてみてください。

もう一つ。
被害者の視点で考えてください。
何の罪も無く殺されたのに、あっち方が罪が軽い等と言われてしまったときに、被害者や遺族がそれを見てどう思うのか。
想像してみてください。

以上。

>苦労判官良恒さん

 応答が遅くなり申し訳ありません。お問いかけの内容につきましては、松永寛明『刑罰と観衆』(昭和堂、2008年)が参考になると思います。以下は、前掲書に基づいています。

 まず、1862年〜1865年にかけての江戸における刑執行人員をみると、全処刑者のうち76.6%が公開刑に処せられているようです。このことから、江戸期の刑罰は公開刑が中心であったらしいことがわかります。
 では、当時の人々は公開刑をどのようにとらえていたのか。これについて、筆者は、当時書き残されたいくつかの目撃談をもとに、「公開刑が好奇の対象であった」とともに、「人々の視線が受刑者ではなく、法執行者の厳かな行為に向けられていた」と述べています。「観衆の関心は受刑者ではなく、専ら法違反者に対する法執行者の厳格な処置にあったのである。すなわち、法執行者のふるまいを見るために人々は刑場に出かけたのである」(前掲書73頁)

 なお、「刑罰の意義」については諸説ありますが、そのうちの一つをざっくりと引用すれば、「法益侵害行為に対する法的な非難の表明を通じて行為者を含めた国民一般の法益尊重意識を覚醒させるとともに、実際に刑罰を科すことで刑罰予告と法的非難の真剣さを周知徹底して犯罪の防止を図ること」ということになります。(松原芳博「刑事責任の意義と限界」法律時報76巻8号)
 
 前掲書は、法違反者と法執行者のほかに、(直接あるいはメディアを通じて)両者を環視し、法違反者の行為によっていったん引き裂かれた秩序が法執行者の様式に則った厳かな行為によって再び繕われるのを見届け、社会が再度統合されていくのを確認する「観衆」の存在に焦点を当てたものなので、おそらくご関心にお応えできるものだと思います。

>マツクラさん
>・・・はぁ。/結局私がやるんですか。

イヤならやらなきゃいいんじゃないですか(笑)

>ルールがあって行動が制限されるのではなく、必要だからルールを作ったのです。
だから、知識が無くとも常識で考えれば、何故そのルールが必要だったのかは分かるはず。
だから、考えてみてください。

 おっしゃるとおりですね。ところで、我が国の国民は、刑法を通じて、裁判官に対して、「殺人を犯した者には死刑or無期懲役or5年以上の有期懲役を科せ」と命じ、さらに「理由があるなら更に半分(つまり懲役2年6月)にしてもいいよ」としてはいますが、「殺人者は基本死刑。なんか減刑理由があればそのとき考えろ」とは命じていません(というか、殺人罪の幅広い法定刑をみれば、「死刑が基本」とは考えていなさそうだと推測するのが“常識”的かなあと思います)。
 で、なんで、我が国では、「殺人者は基本死刑。」ではなく、かくも幅広い法定刑をルールとして設定することが必要だとされているのか。常識で考えればわかるはずですね。考えてみてください。

もう一つ。

刑罰を考えるのに、なぜ「被害者の視点」ばかり、しかもステレオタイプな被害者イメージに基づく「疑似被害者の視点」ばかりが強調されるのでしょうか。

akiraさんが指摘されているように、殺人事件の半数近くは加害者と被害者に何らかの関係が築かれていたとされており、したがって被害者遺族の加害者へ向けられた思いは、それこそ事件ごと、関係者ごとに異なり、安易に単純化することはできません。
量刑にしても、マツクラさん自身が言及なさっておられるとおり、「それぞれの事件ごとに、すべての事情を考慮した上で判断すべき事」であり、そして実際に量刑に差が付いているわけです。であるならば、個々の事件をを「殺人事件」としてただ一つの色に塗りつぶし、勝手に単純化した被害者像の「思い」を「想像」せよということに、何の意味があるのかわかりません。

 別エントリーで、医療業過事件の遺族の法廷における証言について、主として様々な批判がありましたが、「被害者の視点で考えよ」というお立場からは、到底許されない振る舞いでしょう(あれは「自称被害者」だ、という評価もあろうかとは思いますが、では誰がどのように、誰かを「被害者/自称被害者」に識別するのでしょう。まあ「裁判所だ」ということになりますが、では判決が確定していない段階では、誰がどのように?)

被害者感情を絶対視する風潮が最近強いですね。
正確には被害者感情を利用して厳罰化を
という魂胆がほとんどでしょうが。

被害者感情を絶対視するなら
被害者の言い分はつねに正しい。
という法律を通せばいいと思うんですね。

これで厳罰化を求める人は納得でしょうか?
実は被害者感情を持ち出す人がつねに
被害者を擁護する側にいるかというと
そんなことはないんですよね。

an_accused さん ありがとうございます。


>松永寛明『刑罰と観衆』(昭和堂、2008年)が参考になると思います。


 多少時間がかかると思いますが、読めるように努力します。
 an_accused さんがまとめられた部分についてちょっと感想をコメントさせていただきたいと思います。 公開処刑が3/4とは驚きました。 まぁ、現代ほどマスコミ(本来の意味で)が発達(?)していなかった事情を差し引いても、かなりの凶悪犯罪でなければ民衆の興味を引き得ない→公開する意味がない(人が集まらない)ので、死刑(処刑)の公開は1〜2割程度かと勝手に想像していましたが、著者の説によると、犯罪者より官吏(執行官)の仕事が見物の対象という傾向が強いというのも、目からウロコです。 
 法の執行官(おまわりさんか?)に対する認識、(興味と信頼と言い換えてもよいかな。)は昔からそんなに変わらないのかとも思いました。 お国柄と言うか、(日本の)社会の性格は非常に理性的だったとの印象を受けました。


 まだ紹介された資料を読む前になんですが、やはり、日本における刑罰とは「社会秩序の維持」が基本なのかなと。(もちろんそれだけではないでしょうが) 日本の法律は(スイマセン、生かじりすぎな意見は承知の上です。)非常に原始的(プリミティブ)な所を持っていて、それは日常に根ざした部分であり、100年単位でもあまり変化しない部分が大きいのか…。


 うまく表現できませんが、原始的という意味はすでに完成度の高い秩序維持制度が構成されていたので、死刑も含め刑罰も”昔(江戸期以前)とあまり変わっていない”とするとこれは死刑に関する賛否が感情論以外にも、習慣、伝統?に基づいてる部分もあるのかなと考えさせられました。


 まことに勝手なリクエストですが、欧米その他の”死刑”に関する資料、書籍も(出来れば日本語で)紹介いただければ幸いです。(an_accused さん限定ではありませんのでよろしくお願いします。)

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