エントリ

駅ビル書店で2人刺され1人死亡 33歳男逮捕 八王子(asahi.com 2008年7月23日1時30分)

 犯行現場の書店は、私がときどき行く書店の一つです。
 その意味で身近な場所です。
 そのせいか、この事件についてはより強い憤りを感じている気がします。

| コメント(15) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

コメント(15)

また、悲しい事件が起こりましたね。

この手の事件報道で、気になることが二つあります。
一つは、犯罪動機が完全に解明されていない段階で、安易に情報を流すことで、結果的に模倣犯が増えることにつながるのではないか…という点です。

もう一つは、成人が犯した犯罪であるにもかかわらず、いつまで親の責任を問うのか…という点です。

今回の容疑者は33歳と報道されていますが、このままでいったら、親が生きているうちは、子供の責任は全部親にある…という雰囲気になりかねません。

皆さまは、どのようにお考えでしょうか。

秋葉原の事件の時に、アメリカ人のオタクにインタビューしてましたが、

「HAHAHA、LAじゃ日常茶飯事さ!!」

とかコメントしていたのを思い出しました。

しかし、いつも思うのですが、一人刺されるのはまあ、しょうがないとして、なぜ二人目の人は、逃げるなり反撃して制圧するなりの対応ができないのでしょうか。

あと、この事件が起きたからには、是非とも文化包丁の所有禁止に向けて法改正を考慮して欲しいですね。

カミュやカフカの小説を思わせるような不条理殺人。
秋葉原の通り魔を(消極的ながらも)支持するような発言がネットで見られることと思い合わせたとき、「人を殺したかった」とか「むしゃくしゃしていた」という「動機」が(そのまま普通に)報道されることに恐怖を感じます。もしかしたら、私も含めて多くの人の、このような不条理殺人に対する感覚が「マヒ」しかけているのかも・・・。

この手の事件では、「誰でも良かった」という容疑者の供述らしきものが、報道されます。しかし、誰でも良かったと考えている人が、わざわざ駅ビルの9階にある書店まで行って、女性店員を狙うのでしょうか。

また、絶対に自分よりも強い人(例:暴力団員など)は避けているように思います。これは、秋葉原、土浦の事件でも同様だと思います。

それにしても安易に動機を特定して、報道するのはどうかと思います。

No.4 フェリ 様

絶対に自分よりも強い人(例:暴力団員など)は避けているように思います。

おっしゃる通りだと思います。
附属池田小の犯人も「低学年」の児童を狙っています。
秋葉原の犯人の最初の凶器は「車」でした。
つまり、「襲い易いのは誰か」とか「どうすれば殺すことが出来るか」を「合理的」に考えて犯行に及んでいるように思えます。
「誰でもよかった」というのは「殺し易い人間なら誰でもよかった」ということなのでしょうね。

以前にモトケン先生が白鳥を殺すのが楽しい少年たちで、

この少年たちにはかなり危ないところを感じるんですが、考えすぎでしょうか?
と書かれていましたが、私もあの少年たちには恐ろしいものを感じました。

厳しい言い方かも知れないけど、自分より強いものには逆らうことが出来ず、(そのストレスを発散するために)弱いものに暴力をふるうなんて(いかなる場合でも)「卑怯」だと思います。

「誰でもよかった」と言うのは一種の定型句でしょう。
文字通りの発言をしたとは、私は思いません。

秋葉原の事件の犯人もそうですが、この犯人にも家庭用RPGのような「他者不在の世界」が伺われて、猛烈に不愉快ですし、激しく腹がたちます。
「他人」ってのはゲーム世界に設定されたNPCなんかとは訳が違うんだっってのに。「誰でもよかった」ってのは、そういうことでしょう。

ゲームは関係ないでしょう。

ssd様。

>なぜ二人目の人は、逃げるなり反撃して制圧するなりの対応ができないのでしょうか。

との問いかけ(と、読みました)が魚の小骨のようにひっかかっています。どなたか専門家からの返信がアップされるのを待っていましたがないようなので、僭越ながら。

第一に、人間の認識には限界があることが考えられます。一般的に、通常の想定範囲を超えた現象は五感からはいってもそのまま認識しない、あるいは納得しやすい形にねじ曲げて解釈してしまう傾向があると言われています。次に、「二人目」が必ずしも一人目が攻撃される様子を目撃しているとは限らないのではないでしょうか。二人目(も三人目以降も)の置かれていた状況は個々の事件によって様々だったことでしょう。ですからこのような問いかけは具体例に即して一つ一つ検証していかなければ意義がないように思われます。三番目に(すみません思いつくまま上げています)、よしんば他人が襲われるのを見て「これは通り魔だ、自分も殺される!」と認識できたとして、誰もが即座に最善の対応ができるものでもなかろうと、我が身を省みて、思います。頭の中真っ白で立ちすくんでる内に犠牲になってしまうかもしれないし、逃げてみたって足は遅いし、反撃しようにも刃物を持った男性に徒手空拳で向かうなんて…到底無理だよ、それは。

以上のようなことを思いつきました。でもssdさんの「問いかけ」がひっかかっているのは、その中身よりは、このようなことを書かれる意図がよく判らないからなのです。つまり、その背後にあるのは、「一人目は仕方ないが、二人目以降は被害者側にも落ち度があった」ということなのでしょうか? それは過剰反応だ、と言われるならば、そうかもしれない、と思います。ただ私はNo. 2のコメントを読んで、冷や水を浴びせられたような思いがしましたので、そのことを、お伝えしたいと思いました。もちろん他の方々の御意見もいただけたら幸いです。

長文失礼いたしました。

>>No.7 ROM さん
男なら男らしく弱いもの(=婦女子)いじめするなというのがオスの原始の掟。昨今の殆どのゲームには男の掟が無いという認識を持つ私の古い頭にとって、ゲームが無関係というご意見にはちんけな老いぼれ男一匹としても(笑)全く賛成できませんね。

ゲームだけが槍玉に挙がりがちですが、主要登場人物以外のモブキャラクターに人格が無いと言う意味では、映画、漫画なども同様ですね。みんなの大好きな宮崎駿のアニメ(天空の城ラピュタ)でさえも「人がゴミのように」死んでいくシーンもあるわけですし。ゲームだけが批判されるのはたしかにおかしい。

ただ、そのような感覚を端的に表す言葉として「ゲーム的である」というのがわかりやすい表現であるのも事実だと思います。

その言葉を額面通りに受け取ってゲームだけが叩かれるのは、逆ゲーム脳とでも言いたくなりますけど。

* * * * * * * * * * * * * * *

バスジャック事件と本件の報道の中で気になった点として、両容疑者の供述の「親を困らせてやろうと思い、大事件を起こそうと思った」というような言葉があります。事件に巻き込まれた方たちは、犯人にとっては誰でも良かったということですから、その他大勢キャラでしか無かったということになるのでしょうか。

人を殺すのとバスジャックを同列に置くことは出来ませんが、そんなに簡単に出来るようなことではありません。普通はよほどの恨みがあるか、なんらかの政治的主張があるか、などの理由があるものだと思います。
それが「親を困らせてやろうと思った」とか「ついカッとなってやった」で実行できてしまうのが、なんともやりきれません。動機がそれだけであるというほど単純なものだとは思いません。しかし、決してそれが主要な動機になりうるものだとも思えないのです。
他者の人格を無視してしまえば、それが可能になるものなのでしょうか。

>その背後にあるのは、「一人目は仕方ないが、二人目以降は被害者側にも落ち度があった」ということなのでしょうか?

というよりは、「逃げる又は制圧する」ことをssd様ご自身は「当然できる」という自信をお持ちなのでしょう。

料理の先生が、包丁を持って七転八倒している生徒を見て、なぜ下拵えくらい一人でできないんだろう、歯痒いなって思ってるようなことで、別に落ち度とか、責めるとか言うことではないと思いますよ。

ただ、現実には、無理難題なんですけど。

相応の軍事教練を受け、相応の武装をし、十分覚悟をもって戦場に来たはずの軍人でも、新兵さんの中には実戦でパニックになる人も珍しくないそうです。

ましてや誰も惨劇など予想しない秋葉原の街角や町の本屋で、素人が突然の惨劇に出会えば、状況が把握できなくなったり、足が竦んだり、固まってしまったりしても何も不思議ではありません。

お医者様なら血だらけの修羅場も慣れているかもしれませんが、一般人はそういう修羅場には滅多に出会いませんから。

それに、テレビのこちら側で惨劇のニュースを見ているのと、既に人を殺している包丁(ナイフ)を持った若い男が、実際に襲い掛かってくる状況は、全く別物ですよ。

私は一応自衛隊出身なんですが、本屋で本を物色中に、横で今店員を刺し殺したばかりの男が、その状況に気づくと同時に包丁を振りかざして襲い掛かってきたとしたら、逃げ切る自信も、素手で制圧する自信も正直ありません。完全に対応が遅れてますから。

ssd様って、ひょっとして武道の達人であるとか、外人部隊で軍医でもやっておられたのかな?

それでも「自分ができる」ということと、「他人もできる」というのは全く別の話なんですけど・・・。

>ゲームだけが槍玉に挙がりがちですが、主要登場人物以外のモブキャラクターに人格が無いと言う意味では、映画、漫画なども同様ですね。

 人に様々な行動をするような影響を与える、という点でいえば、コミック・ゲーム以上に、文学作品・美術品・映画・音楽・TV(スポーツ中継など含む)などの影響もさけれませんね。
 感動、こういう選手になりたい、という分かりやすい例をあげるまでもなく、人は上にあげたような作品から影響を受ける、ので、ゲームも例外ではありえないというのは分かります。

 ただ、あえていえば、時代劇や東○のヤク○映画やハリウッ○の作品(悪人というか主人公サイドに敵対する側の人間を叩き切ったり、銃で撃ち殺したり、なんかザラですが)してたりするわけで。

 「影響を与える可能性がある」ことはいいのですが、「実際にどれくらいそれは影響を与えているのか」「他のものと比べてその影響はどれくらいの大きさなのか」といったことなしで、「ゲーム」だけあげるのにはどういう意図があるんだろうと、かえって真の原因追究を妨げることになっていないのか、とか感じます。

>No.8 村野すもも さん

制圧云々はともかく、「逃げる」という選択肢は、生存本能として、持っていかなくてはならないと思うからです。
良いとか悪いの問題ではありません。

この手の問題で、常に「再発防止」云々という話題が出ますが、そんなの無理だと私は思います。
「対処」するしかないのです。
その「対処」が相手を倒すことでなくても良いのですが。

今回の事件の狂気もとい凶器が、100円ショップの文化包丁というのは実に象徴的でした。
ダガーナイフ悪者説をあざ笑うような事実。

No. 11「じじい」様、No.13 ssd様、ありがとうございました。とりあえず「制圧」は容易にできることではなかろう、というのはさほど孤立した意見でもないことが確認できて安心しております。また「落ち度」とか良い悪いの話ではないことも了解いたしました。

重ねてssdさんにお尋ねいたします。コメントNo. 2で呈された疑問の元には

>「逃げる」という選択肢は、生存本能として、持っていかなくてはならない

というご意見があり、それなのに何故、という流れだったという理解でよろしいでしょうか。生存本能のことはとりあえず措きますが、そうであったとしても、

>なぜ二人目の人は、逃げるなり…の対応ができないのでしょうか。

という問題提起の前提は、当然、「二人目の人は、逃げるetc.の対応をしなかった、できなかった」というものですね。しかし、本当に二人目の人々は逃げなかったと断定できるのでしょうか? 逃げてみたけれど襲われてしまった(繰り返しになりますが私はとにかく走るのが遅いので気になります)とか、足が不自由で逃げようと思ったけど逃げられなかったとか、おそらく色々なケースがあったのではないでしょうか? もし私が二人目で、逃げようとしたけど刺されてしまったとして、後から「なぜ逃げなかったのか」と問われたら、「自分としては全速力で逃げようとしたんだけど…」と(弱々しく)抗弁しながら、悔し涙にくれることでしょう。まあそんなことは知ったこっちゃない、と言われればそれまでですが。

また、再発防止の問題については、難しいと思いますが、それを「無理」と切り捨ててわれわれ一人々々の「対処」にまかせるというのは、はっきり言って共同体としての責任放棄であり、とりあえず望ましい選択肢ではないと考えます。

)No.10 無印粗品 さん

念のために申し上げますと、私がここでゲームを例示したのは、コミックや小説・映画は「その作品世界への働きかけができない」受動的なものであるのに対し、RPGなどでは「プレーヤーから働きかけが可能」つまり能動的に『自動応答するだけのプログラム』にむけてアクションを起こせるという「かかわりあい方・向き合い方」に注目したからです。
ある意味、プレーヤーがアクションを起こせるだけタチが悪い、とでも言いましょうか(笑)。

法律相談へ

ブログタイムズ

このエントリのコメント