エントリ

「未来の裁判員」育てる「法教育」 学校で広がる(asahi.com 2008年8月30日15時7分)

 いったい誰が教えるんだろう、と思いつつ読み始めましたら

 法科大学院の学生が教える側にまわるなど教育現場で模索が始まった。

 なるほど。
 自分よりわかってないものに教えるということは、自分自身の勉強としてもとても有益ですので、それなりに勉強の進んでいるロースクール生が教えれば、よい相乗効果が得られそうです。
 
 以前に、クレジットカードの仕組みくらい中高生の間にきちんと教えておくべきではないかと書いたことがありますし、大学生にもなって名義貸し詐欺の被害にあって多額のサラ金債務を負わされている学生のニュースが報道されたりしてますから、学校で法教育というのは必要なことだと思うのですが、最後のほうに書いてある

小学4年の担任という女性(40)は「『正直な人になろうね』と言っても、『正直なら損をしてもいいの?』と聞き返される時代。

を読んでドキッとしました。

 法教育以前にやらねばならないことが決定的にできていないかも知れません。

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コメント(30)

>法教育以前にやらねばならないことが決定的にできていないかも知れません。

そうだと思います。
難しくいえば「自己理解・他者理解」なのでしょうが、要するに隣にいる人間が自分とは違うと思っていない。

高校生でも「どんな方面に進学したい」なんて聞くと「偏差値相応」とか回答が返ってくる。
自己主張もない代わりに他人であることを認めない、といったところです。

自分と社会(学校とか)しか無いと思っているらしい、社会には自分と同じ人がいてと言っても、自分は何が好きで何が嫌いかなどといわないものだとしているから、他人とは問題が起きないように接するのです。

こんなの座学で教えても無理ですよ。
最後には「オレはバカだから、出来る奴がやって」と投げ出してしまう。
「チームワークで・・・・」なんて言ったって、誰かがリーダーになって、不満があってもリーダにしたがって行動する、チームワークの本質である自分の意見を出すことをしない。

こういう若者をどうやって指導するか?なのであります。

>『正直なら損をしてもいいの?』と聞き返される時代。

 正直者は損していいんだよ!と胸を張って言える時代になって欲しい。民話や昔話で、正直者が損してあとで幸せを得るように。

最近は「アリとキリギリス」の結末が昔とは違うようですね。
どりらがよいのか・・・悩みます

法律に詳しくなくても社会のルールを守っていれば人に迷惑
をかけないで幸せに暮らせるということを、ぜひロースクール
の学生さんは子供達に教えてあげて欲しいと思う。
あと、なぜ法律があるかということも。

>こんなの座学で教えても無理ですよ。
>最後には「オレはバカだから、出来る奴がやって」と投げ出してしまう。
>「チームワークで・・・・」なんて言ったって、誰かがリーダーになって、不満があってもリーダにしたがって行動する、チームワークの本質である自分の意見を出すことをしない。

同感です。
今から30ん年程前まではこういうことは、小学生時代までの子供社会の中で養われ、家庭での教育・学校での教育の中で磨き上げられていくものとされていました。


今は、子供社会がまともに機能していませんし、家庭の教育も今の親御さん達自身が機能不全の子供社会の中にいましたから、十分に果たせなくなっています。

これを学校教育の中でやっていくのは、ずいぶんと骨の折れる仕事だと思います。なにせ、40代あたりまでの教員も、親御さん達と同じ社会環境にいましたからね。


>こういう若者をどうやって指導するか?なのであります。

いっそう無人島にでも放り込みますか?
「蝿の王」のようになってしまうかしらん。

非常にいい傾向ではないですかね
「国のために死ぬことは幸せである」という話を無批判に受け入れていた少年少女よりはよほど将来性があると思います

逆に質問されたときに自分の信念を即答できない今時の教師の方に問題を感じますが

 どういうところが、「非常にいい傾向」なんでしょうか。

 というか、このエントリで

「国のために死ぬことは幸せである」という話を無批判に受け入れていた少年少女よりはよほど将来性があると思います

というコメントは、完全に釣り認定なんですけど。

>『正直な人になろうね』と言っても、『正直なら損をしてもいいの?』と聞き返される時代。

 この質問自体は、別にご時世に関係なく昔からあったのではないでしょうか?
 この時代で、教師(や大人)の方に迷いがあるため、答えに詰まってしまうというのが本当のところなのだと思います。

 小狡い大人の私としては、悪いことをした後にばれないかどうかドキドキしてきた経験から、正直に生きるのが一番楽だと思っているわけです。これをそのまま子供に伝えるのはちょっと躊躇われますが…。

 子供の頃は、正直な行為をしたときにしっかり褒めてやり、金銭の損得ではなく精神的に満足を得られるようにするのが良いのではないかと思います。世の中の不条理などは後からいくらでも学べるのですから。

>いっそう無人島にでも放り込みますか?
>「蝿の王」のようになってしまうかしらん。

これに近いことは意図して教えに行っています。
今年度は小学校20校以上(1500人ぐらい)と高校は10校ぐらい(延べで3000時間・人)ぐらいになりますが、基本的に「何かを作ってみる」をやっています。

この時に、作ることを目的にするのではなくて、目的をコミュニケーション体験に置いています。

モノを作るというプリミティブな作業でも「説明書を読んでやれ」といったぐらいの指示にしておくと、間違えるわけです。
これをチーム(グループ)でやらせると「そこは違う」と指摘したり「こっちはお前がやれ」とか自然に言い出す。
これが「自分と他人を知って、コミュニケーションを体験する」なわけです、さらにチーム間で競わせるので「向こうのチームは・・」とか観察する生徒も出てくる。

まとめると、手作業 → 失敗体験 → 相談 → 話が通じないことの体験 → 話し方(表現の仕方)に技術があることの体験

といった事をやらせています。
1年もやると、びっくりするほど積極的になります。
つまり、素材としてみると今の若者も昔と変わっていないのです、発動の仕方を教わっていないのですね。

いわゆる社会教育の分野なのでしょうが、社会教育が崩壊というか絶滅していますから、学校に社会教育を持ちこむしかないでしょう。

ただ、多くの地域社会での「教えに行く」と志す人たちが「自分たちの子どもの頃は」と現在の子どもたちを取り囲む状況を理解しないで押しつけるといった事も少なくないようで、学校の負担にならないようにするためのノウハウといったことも非常に重要なんですよね。

法科大学院の学生だから、子どもたちに法教育が出来る、と考えるのは間違えだと思います。
ある程度の状況把握(オリエンテーション)やトレーニング(見学)などの後にならないと出来ない。
つまり即効性はないと思います。

NHKが時々放送している、ロボットコンテストが、ちょうどそんな感じのようですね。
「自分の子供のころは」の話をすると、路地裏コミュニティというか、近所の子供同士の遊びの「場」というものがあって、その中で相互のコミュニケーションというのは自然に身についてた気がします。いま、そういうのってすごく少ないようで・・・
社会的生物である人間にとって、きわめてプリミティブに要求される能力だと思うんですけどね・・・あまりに当たり前すぎて、それを「教える」ということを誰も思いつかずに来た、とかいう感じでしょうか。

ちょっと問題提起してみます。

このエントリーで(結果的に)議論になっているのは、「正直な人間になる」と言うルールを守らない女の子がいると言う事なのか、それとも「正直な人間になる」と言う事に価値を持たない、「正直な人間になる」気持ちを持っていない女の子がいるという事なのでしょうか。

前者はルールの問題でしょうし、後者は価値観の問題であり、モラルの問題になってくると思います。

>>No.11 しま さん
>「正直な人間になる」と言うルール

これはルールじゃなくモラルそのものだと思いますが。

私の理解では、ルールの場合は本人が「正直な人間」に価値を持っているかどうかは問わず、結果として「正直な人間」であればいいのです。思想信条の自由は認められている。

一方、モラルの場合、「正直な人間には価値はない」と思っている人の価値観を、「正直な人間に価値がある」と変化させる必要があると思います。この場合、思想信条の自由は否定されてしまいます。

その違いですね。

『正直なら損をしてもいいの?』

相手が正直者なら、自分も正直に振舞えばよいし、相手が嘘つきなら、相手にしなければ良い、というだけの話でしょう。だからこそ、相手が正直か嘘つきかを見分けることが重要なわけでして。

ゲーム理論によると、ゼロサムゲームでは、「しっぺ返し戦略」、つまり、まずは正直に振る舞い、相手が裏切ったときには、こちらも裏切る、相手が正直に振舞えば、こちらも正直に振舞う、という戦略が最も有効なの(得をする)だそうで。

>>No.13 しま さん

しまさんは社会の存続に信義則が不可欠であるとお思いでしょうか?

> ゲーム理論によると(No.14 ron さま)

私が大学時代に習った言説によれば、軍縮が困難な理由として、
相手がどう出るかは事前には分からないものの、
もし相手が裏切ったときには、こちらは「しっぺ返し」をするまでもなく、直ちにやられてしまうというルールなので、
損失を避けるためには、相手が裏切ったときを想定して行動する他はなく、
互いに疑心暗鬼なままでは軍縮は一向に進まないということでした。

互いに疑心暗鬼なままでは軍縮は一向に進まないということでした。

「囚人のジレンマ」ですね。

「しっぺ返し戦略」が有効の話は、ゲームが1回で終わるのではなく、繰り返し行なって、最も高得点となる戦略は何か、という実験であったと思います。

私は、その場限りの「ゲーム」では嘘つきが有利だが、長期的に「ゲーム」を繰り返す場合には、正直者が有利、と解釈しています^^)
長期にわたって嘘をつき続ける、というのは、ほとんど不可能に近いかと。”Catch me if you can”の主人公のような、天才的な人物であってさえ。

>社会的生物である人間にとって、きわめてプリミティブに要求される能力
>だと思うんですけどね・・・
>あまりに当たり前すぎて、それを「教える」ということを誰も思いつかずに来た、
>とかいう感じでしょうか。

こういう面は確かにあると思うのですが、子どもたちが「相手も自分と同じ(考え、体力、環境、お金・・・)」と考えているのと、同じようなことが学校と親(社会)との間でも起きているように感じます。

親や社会は「学校は親のように気配りするものだ」と考え、学校は「学校独自の仕組みを社会は知っていて当然だ」と考えているようです。

個人や家庭と、子どもたちにとっては重大な社会とのかかわりを経験する学校とが、互いに「守備範囲を狭めてしまった」ので、すき間が開いているのに無視している、といったところかと思います。

そのすき間の部分への対策を押しつけあっている、のが現在の状況だと言ったところでしょうか?
家庭や社会でやることと、学校がやることは、オーバーラップしていないとまずいのでしょうが、今やオーバーラップどころか、ギャップが生じている、と思うのです。

「教えることを誰も思いつかずに」というよりも「自分がやることではない」と考えているといった方が近いのではないかと思います。

・校則を作ろう
・校則は、何のためにあるか
・校則として規定すべき範囲は、どこまでか
・校則は、誰が作るべきか

なんて教室で議論をしたら、面白いと思いました。

いったい誰が教える(指導する)んだろうと思うと、空回りしてしまいますが。

>「正直な人間になる」と言うルールを守らない女の子がいると言う事なのか、
>それとも「正直な人間になる」と言う事に価値を持たない、
>「正直な人間になる」気持ちを持っていない女の子がいるという事なのでしょうか。

わたしは問題点は、この二つのどちらでもないと考えています。

ルールがあること、そのルールが必要な社会的な価値観が存在することを知らない女の子がいる。

だと考えています。

>前者はルールの問題でしょうし、
>後者は価値観の問題であり、モラルの問題になってくると思います。

モラルを教える前に、モラルという価値があることをどうやって実感させるのか?
といったレベルの問題だと思うのです。

なんて言うかな?「これはおいしい物だから食べると良い」と言っても聞いている相手が「おいしいとは何か分かってない」といったような状況でしょうか?

「それでは野獣か原始人ではないか?」といった感想になるかと思いますが「現代社会に放り出された原始人」のようなところがあります。

例えば、「人を殴ってはいけない。殴られたら痛いだろう。だから良くない」と教えたとします。
そうすると「オレは殴っても、殴られないから大丈夫」とか言い出しかねないわけです。
これでは「殴られたら痛いから」では通用しない、こういうシーンをどうやって突破するか?なんでして、こんなのは学校でやる事じゃない、と言われればその通りなのですが、今やそんなことは言ってられません。

こういう例示をすると「そんなのはごく少数の不良でしょう」とお考えの方がほとんどだと思いますが、社会に対する気遣いの無さは成績とはほとんど無関係です。

先日、引率した生徒たちが点字ブロックの上に立っているから「通路を空けて」と指示したのですが、意味が分かりませんでした。
つまり自分の立っている通路の点字ブロックすら見えていない、と理解した方が良いでしょう。

社会での気遣いという、社会正義の根幹があることが分かっていない。
わたしから見ると「こいつらはバーチャル世界の住人か?」といった感じです。

>教室で議論をしたら、面白いと思いました。
>いったい誰が教える(指導する)んだろうと思うと、
>空回りしてしまいますが。

「議論に持ちこむのをどうやるか?」なんですよ。

間違っても「はい、みんなで議論してみよう」なんて指示しても、自分の考えを述べるなんてことしませんよ。

今の子どもたちは、他人を恐れています。
だから「みんなと同じ」になりますし、ちょっと遠い「社会の迷惑」なんてのは「関係ないじゃん」と言い出す。

すごい狭い範囲、学校どころか教室ですらない、3〜4名もつるんでいれば褒めたくなるほど、孤立していますよ。

孤立している子どもたちが「みんなと同じ」としか言えないのです。

ここをぶち破るために、物を作らせて失敗させ、自分の能力と仲間の能力の違いを分からせる、と意図しています。
そうしないと、チームワークとしての「仕事の分担」ができない。
もちろん意見も出てこない、当然議論にもならない。

こんなところなのです。

>No.21 酔うぞ さん
>間違っても「はい、みんなで議論してみよう」なんて指示しても、自分の考えを述べるなんてことしませんよ。

今だけじゃなく、昔、っつーか、ワタシもそうでしたよ。
なぜかというと、「校則について論じてみよう」といわれても、すでに校則はあるし、それで不自由ないからです。
もし守りたくない校則があれば、破れば良いんです。
破って運が良ければ何も起こらないし、運が悪ければ叱られたりする。
それだけですよ。
校則を議論する現実的な必要がなければ、そんな面倒なことしません。
やりたいことはもっと別にありますから。

法律というのは、ワタシに言わせれば身近な紛争解決のノウハウです。
現実的で具体的紛争無しに、理論だけ学んでも仕方がないと思うし、
具体的紛争と切り離した「法の価値観」のみを押しつけても拒否反応しか起きないです。
携帯電話を使う予定のない人に、メールの打ち方を教えてもなかなか憶えないでしょうし、
まして「携帯電話の機械の仕組み」なんて聞こうともしないでしょう。
現実に必要にならなければ人間腰を上げないものです。

ついでに『正直な人になろうね』について。

テレビで「コドモの言い分」なんかの番組を見ると、大人へのクレームの第1位は大体
「コドモには嘘をつくなというのに、自分は嘘をついている」です。
コドモにとって、『正直な人になろうね』には、社会ルール以前の「大人の都合」の香りがするのです。
上から『正直な人になろうね』といえば、反発を食らうのは仕方がないと思います。

>No.21 酔うぞ さん

そうなると子供にとっては、社会は極めて狭い。従い、法なるものも、必要ではなく、せいぜいつきあう相手との契約のみで終わる。

一方、子供達の社会は、大人の社会の反映だとしたら。大人が責任をもって子供を育てていない。もっと恐ろしいのは、大人が老人になって助けてくれるであろう、社会の中心になって住みやすい社会を作っていく次世代をつくっていない。余裕のない、ギスギスした大人ばかりになってしまったのでしょうか。

子供達のことも知る必要がありますね。さもないと、世の中のことが解らなくなってしまいそうですね。「モラルという価値があることをどうやって実感させるのか?」は、子供に対してむけられた課題では、ないようにも思えます。

おっしゃる通りだと思います。

誰かが意図してとか、誰かの不作為でこんな状況になったのではない、というところこそが恐ろしいところです。

わたしが、直接的に問題だろうと思うのは、学校の評価が進学成績のみで行われているところですね。

受験勉強だけに焦点を当てると、法教育に賛成する先生や親はいないでしょう。

考えれば難しいですね。

進学成績は、計測できる。親にとっても、教師にとっても、校長にとっても、教育委員会にとっても、文部科学省にとっても、・・・。

大事なのは、直接子供達に接している教師なのだと思います。教師が自分の能力に不安があったとしても、自分の良心と信念で接していただいているなら、安心しようと思います。

今日たまたま出た、サンケイ新聞の「正論」です。
和田秀樹氏が「大学生の学力低下」を論じていますが、わたしは「意味不明である」としました。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080901/edc0809010221001-n1.htm

どう考えても、和田氏の指摘しているところは学力低下 → 学力向上策では変わらないと思うのです。

大学生の学力向上が目的であれば、和田氏が批判している「大学進学率の大幅増加」を逆転すればよいとなりますが、明確に言い切ってはいない。

逆に明確に言い切っているのは「ゆとり教育批判」ですね。

これでは、若者が社会人になっていくことが出来ないのもの無理からぬところでしょう。

リンク先のサンケイ新聞の「正論」の和田秀樹氏の「大学生の学力低下」を読みました。

和田氏の論で明確なのは、「ゆとり教育批判」で、それ以外は頭の中を混乱させられているみたいで、私には「結局、この人は何を言いたいのだろう?」に、なってしまいました。

「ある経営コンサルタント」とのHNを使用していますが、経営やビジネスの世界では、0点を付けたくなる文章です。ビジネスの世界で要求される文章は、問題点と提案を明確に記載することです。例えば、トップのメッセージが、曖昧であれば混乱を生むだけであり、上層部へのメッセージであれば、明確でないと無視されるだけです。取引先に対しても、全く同じです。また、それを基に議論を発展させるためには、明確であることが重要です。

少子化と人口減少は、社会の現象であり、食い止めることは困難である。しかし、その結果として良いこともあるはず。ポジティブな面を伸ばしていくことが重要だと私は思います。

和田氏の論で明確なのは、「ゆとり教育批判」で、それ以外は頭の中を混乱させられているみたいで、私には「結局、この人は何を言いたいのだろう?」に、なってしまいました。

わたしはこの点を、こんな解釈をしました。

http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2008/09/post_a946.html

http://youzo.iza.ne.jp/blog/entry/701028/

簡単に言えば、ゆとり教育反対派が行き場を失ったのだが、いまだ旧来の学力至上主義にしがみついている評論、だと思うのです。

しかし、このエントリーは「法教育をどうするか?」つまりは社会性、社会常識の涵養といったことがテーマなのですから、教育行政の現在の主流派の論客と見られる、和田氏がこれではお先真っ暗、だと思うのであります。

酔うぞ さんの解釈拝読しました。

私の解釈は、「学問、教育」についての理想がない状態で、あれこれ批判するから、支離滅裂になっていると思います。最も 「学問、教育」の理想と言っても、最終的には「理想とする社会」とか「人生の価値観」に繋がると思いますが。

解ったような解らないようなことを言う論評(別の言い方をすれば、都合の良いようにピックアップできる論評)を、歓迎する人が存在し、それに乗っかってうまく立ち回ろうとする人がいる。もしかしたら、和田秀樹氏の論評は、格好の教材でしょうか?でも、子供には難しすぎるでしょうね。

酔うぞ さんの解釈拝読しました。

私の解釈は、「学問、教育」についての理想がない状態で、あれこれ批判するから、支離滅裂になっていると思います。最も 「学問、教育」の理想と言っても、最終的には「理想とする社会」とか「人生の価値観」に繋がると思いますが。

解ったような解らないようなことを言う論評(別の言い方をすれば、都合の良いようにピックアップできる論評)を、歓迎する人が存在し、それに乗っかってうまく立ち回ろうとする人がいる。もしかしたら、和田秀樹氏の論評は、格好の教材でしょうか?でも、子供には難しすぎるでしょうね。

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