エントリ

「模擬」判決分かれる(毎日新聞 2008年9月30日 21時37分)

 正当防衛や過剰防衛が認められるかどうかが争われた架空の傷害致死事件を題材にした裁判員制度の模擬裁判が29、30の両日、東京地裁で実施された。4グループに分かれて審理した結果、3グループは正当防衛や過剰防衛を認めなかったが、1グループだけが過剰防衛が成立するとして刑を減軽し、判断が分かれた。

 上記が毎日の記事の冒頭の一文であり、見出しも「判決分かれる」としていますから、記者(及び編集者)が、判決が分かれたことに注目していることは分かりますが、この記事だけからは、その点についてどう評価しているかはよく分かりません。

 素人の皆さんから見れば、同じ事件の判決が裁判所の構成メンバーが変わることによって結論が異なることについて、かなりの違和感があるかも知れないなと想像しています。
 法律家的には、それ自体が当然の現象であるとまでは言うべきではないかも知れませんが(判断の客観性に問題があることになります)、司法制度としては、当然想定している事態(現実問題として完全な客観性を確保することが困難)であると考えています。
 ということを認めてしまいますと、裁判所の構成メンバーを選べない被告人としては、運不運によって量刑が変わることがあることを認めることになってしまうわけですが、運不運の要素は否定できないとしても、できる限り少ないほうがよいことは間違いないだろうと思います。

 そうすると、この模擬裁判で判決内容がことなる結果になった要因としてはどのようなものがあるのだろうか、ということが気になってきます。
 模擬裁判を主催した裁判所においては、この点についての分析検討を行っているのでしょうか?
 仮にの話ですが、評議における裁判長の誘導に原因があったりしたら、少なくとも裁判員制度を採用した趣旨からすれば問題があることになるのではなかろうかと思います。
 他の要因があるとしたら、それが望ましいものか望ましくないものかを検討して、望ましくないのであれば改善の必要が生じます。

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「模擬裁判で結論が分かれることについて - 元検弁護士のつぶやき」 から 構成員の影響を考えればキリが無く、 難しいケースあるいは細かい量刑の判断につい... 続きを読む

コメント(10)

前日、第2回「高校生模擬裁判選手権」を霞ヶ関の弁護士会館で見てきました。

題材の事件は実際にあったもののようですが、極めて判断が分かれやすい状況でした。

つまり、模擬裁判で取り上げている事件が、裁判官裁判でも判断が分かれやすいものである可能性を評価する必要があると思います。

すいません、エントリとはズレてしまいますが、


あの選手権で、白百合学園の支援弁護士を担当していました。

もうひとつ、広報不足だったかなとおもっていたので、思わぬところで、観戦(傍聴?)してくださった方がおられたので、うれしくて書き込んでしまいました。

極めて判断が分かれやすい状況

エントリで書かれている事案は、分かりませんが、
選手権で扱われたあの題材は、法曹の間ではけっこう有名な「牛刀事件」という事案です。

検察、弁護側を本職の法律家がやれば、もうすこし、判断は分かれにくくなると思います。

わたしは奥の会場(で通じるのかな?)で見ていました。
白百合は基本的に見ていない事になります。

>検察、弁護側を本職の法律家がやれば、「もうすこし」、判断は分かれにくくなると思います。

ココです、ココ。

「もう少し」で変わってしまう題材であったと言うことですね。

それが裁判全体を示しているのか?と言うことです。
もちろん誰がやっても分からないという例もあるわけで、技術者的に考えると「前提となるパラメータが明確じゃないからなんとも言えないでしょう」に近くなってしまうのです。

実際には、途中で判断も変わっていく(その時間があれば良いのですが)とも思えるので、なんて言うかな?「静止的に裁判員だから」と言う議論に持ち込めるのか?と思うし、検事も弁護士も誰がやっても全く同じ、なんことは明らかに無いわけだから、いわばあっちもこっちもグラグラしている現象を語ることになるように思えてしかたありません。

判決内容が異なることにつき、「裁判長の誘導に原因」があるというのは、どのような状況が想定されるのでしょうか。


裁判長による誘導があるとすれば、むしろ、判決内容が同一になる(裁判官のみによる判決と同じ結論にしようとする)方向で行われるのではないかと思うのですが。


また、「同じような事件では同じような結論になる方が好ましい」という要請と、「職業裁判官は裁判員の意見を誘導するべきでない」という要請は、相反するようにも思います(※)が、どの辺りで両者のバランスを取るのが望ましいと考えられているのでしょうか。

※ 同質性が高いと言われる職業裁判官集団と比較して、一般市民は遥かに多種多様な感覚を持っているはずであり、何らかの誘導をしなければ、複数の裁判体における「市民感覚」が一つの結論に収斂していくなどということは、殆ど考え難いように思われます。


刑事司法に市民感覚を反映させるというのが制度趣旨であるとすれば、同種の事件について個々の裁判体によって結論が大きく異なったとしても、それが今回のメンバーによって示された「市民感覚」であるとして受容するしかないのだろうか、とも思うのですが・・・・。

或いは、訴訟当事者が適切な立証活動を行えば、裁判官の誘導がなくとも、複数の裁判体で似たような結論に辿り着くはずだ、ということなのでしょうか(個人的には、んなわけない、と思う。)。

そもそも、裁判員裁判というのは、現状よりも判決のバラツキが相当大きくなることを当然に予定した制度なのではないのでしょうか。それによるデメリットよりもメリットの方が大きい、との判断の下に導入されたわけではないのでしょうか。


まとまらなくてすみません。

横レスですいません。

>判決内容が異なることにつき、「裁判長の誘導に原因」があるというのは、どのような状況が想定されるのでしょうか。

>裁判長による誘導があるとすれば、むしろ、判決内容が同一になる(裁判官のみによる判決と同じ結論にしようとする)方向で行われるのではないかと思うのですが。

実際にこの模擬裁判をみた訳ではないのですが,同じ事件の証拠調べ,論告,弁論をみた裁判体(裁判長+裁判官×2+裁判員×6)が4グループ,別々に議論したものと思われます。
その際,裁判長や裁判官からの誘導が原因で正当防衛・過剰防衛を否定したのが3グループあり,裁判長や裁判官があまり誘導しなかったために過剰防衛が認められたグループが1つあったとしましょう(実際の模擬裁判がこうだったかは私には分かりません。)。
それであれば,裁判長や裁判官の判断や価値観を裁判員に押しつけているだけじゃありませんか,何のための裁判員制度ですか? というのがモトケン先生の批判だと思います。

「裁判官の誘導」と「説明」の線引きは難しい問題ですね。
専門家である裁判官は既に評議上のどの言葉も「重み」を持って裁判員に受けとめられるでしょう。類似事件の量刑説明でも、ちょっとした修飾語で「誘導」になってしまうかも。

私は『疑わしきは被告の利益に』等の刑事裁判根本理念を如何にして裁判員に説明したかって点も重要なポイントかと思ってます。

個々の裁判員の性格と、チームごとの構成・組合せ(チーム内の雰囲気)に大きく依存するのではないかという気が。

別エントリのコメントですが

No.10 ビール犬 さん | 2008年9月27日 00:10

以前、別エントリで裁判官による裁判員誘導が議論されたかと思いますが、日本人のコミュニケーションでは、空気を読むことが最重要視されるそうなので、裁判員は裁判所の空気を読んで、むしろ積極的に誘導されたがるのではないか思います。

この指摘は重要だと思います。

>個々の裁判員の性格と、チームごとの構成・組合せ(チーム内の雰囲気)に大きく依存するのではないかという気が。

当然その要素は大きいと思ってます。ただ「素人の専門家に比較しバラツキがある客観性・知識・モチベーション」や「裁判員のなかで誰がイニティアティブ取ったか」とかは無作為抽出を前提とすると改善要素が少ないと感じてます。

なのでもし「積極的に誘導されたがる」傾向があるとするならば、対抗手段として本来の刑事裁判根本理念を素人に提起させるのもひとつだと思ってます。

なるほど。

「誘導しなければ過剰防衛が認められるはずの事案」と見るのか、「内容がどうであれ、誘導なしに得られた結論が正しい」と見るのかの違いもありそうですね。

刑事訴訟の本質は、「正しい結論を見つけ出す」ことにあるのか、「適正な手続に従って得られた結論が正しい」と見なすことなのか。

概ね、職業裁判官は前者のスタンスであり、「裁判官による誘導」を特に強く問題視する弁護士さんは後者なのかなと思っています。


それはさておき、未だに「誘導」問題の本質はよく分からんです。このブログでは、素人に裁判の仕組みや法律問題をレクチャーするという、裁判員裁判の評議に似た営みが行われていますが、そのほとんどは、素直に見れば「親切な説明」であると思われる反面、法律家に最初から否定的な考えを持っている人からすれば「不当な誘導、押しつけ」に映る部分もありましょう。

裁判員制度に対する賛否は、結局のところ従来型の裁判に対する評価とリンクする(現状に絶望していれば歓迎、受容していれば反対)面が強いと思いますが、「不当な誘導か否か」の問題も、職業裁判官に対する評価と密接に関係するのではないかと思っています。

野暮を承知で言うと、裁判官を「頭から有罪と決め込んでいるどうしようもない連中」と見る人からすれば、殆どいかなる発言も「不当な誘導」なのだろうし、そこまで酷くないんじゃね?と見る人からすれば、誘導か否かは発言の内容や方法によるのだろうし、彼らを盲信する人からすれば、誘導する方が望ましいということになるのかなと。


本番では評議は非公開とされ、「誘導」の適否に関する検証のしようがないわけで、そんなところでモヤモヤした問題を残すよりは、いっそのこと裁判員と裁判官を切り離して、事実認定は裁判員が、量刑は裁判官がすればスッキリするのに、とは思いますが。

レスが遅くなりました。

不当な誘導か許される説得かというのは,結果に対する評価を言い換えているに過ぎない場合もあります。
#自分が欲していた結論が出てきた場合には,裁判官がうまく説得したと評価し,その反対の場合には裁判官が不当に誘導したという。

裁判官が結論を押しつけるような評議が許されるわけではないことはいうまでもないのですが,どういう説得ならば許されるかというのはやっぱりよく分かりませんね。

>本番では評議は非公開とされ、「誘導」の適否に関する検証のしようがないわけで、そんなところでモヤモヤした問題を残すよりは、いっそのこと裁判員と裁判官を切り離して、事実認定は裁判員が、量刑は裁判官がすればスッキリするのに、とは思いますが。

立法論としては頷けるものがあります。
ただ,そこまでいくと陪審制ですね。

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