エントリ

臓器移植、全医師に「倫理」呼びかけへ…移植学会(2006年11月20日12時56分 読売新聞)

 宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)で病気の腎臓が移植された問題で、日本移植学会は19日、移植医療に携わる医師に対し、学会員、非学会員を問わず、倫理指針の順守と手続きの透明性を呼びかける方針を決めた。同日、東京都内で開かれた学会倫理委員会で合意した。

 また、国際移植学会の指針改定作業に合わせ、1年以内に現行指針にはない、臨床研究に関する項目を追加する方針も決めた。具体的には、国の臨床研究指針の順守などを盛り込むという。

 同病院の万波誠医師は、院内の倫理委員会などの審査・承認を経ずに、親族外の腎臓移植を実施。さらに、がんに侵された腎臓を移植に使うなど、危険の度合いが分かっていない医療を仲間内で進めていた。

 これらの行為には学会の倫理指針に違反するものもあるが、万波医師は学会に所属していないため、処分などを行うことができず、学会内部から「移植医療全体に対する学会の責任と自浄能力が問われている」との声が上がっていた。

 なぜか今まで触れなかった問題なのですが、意図的に触れなかったわけではありません。
 個人的には消極的な見方をしているせいかもしれません。

 臓器移植全般にわたって、意見のある方はどうぞ。
 病気腎臓移植問題に限らず、臓器移植に関係するご意見を自由に述べていただきたいと思います。

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コメント(112)

大事なのは倫理ではなくルールかと思いましたが、移植学会の倫理指針を見ると立派なルールになっていますね。危うくとんでもないことを書くところでした。でも、この内容なら「倫理」とつける必要はないと思うんですよね。
http://www.asas.or.jp/jst/news/ethicalguide02.htm

臓器移植学会に所属するのを条件に、臓器移植手術を行う資格を認めるという事が必要だとは思いますが、現状では難しいのでしょうね。

「医の倫理」というものは我々にとっては絶対的なルールなんですよ。
つまり倫理=侵すことの許されないルールであります。
また、薬剤の(安全で有効な)適応外使用など、倫理的な問題のないルール違反については寛容であったりします。

この件に関しては・・腎移植の世界ってのは、ずいぶんと前時代的だったんだなぁ と驚くばかりです。骨髄(造血幹細胞)移植をしている人間からみると考えられません。

病気腎移植そのものは、否定はしませんが。
しかし、今回の件は腎摘出の適応に問題があった可能性が高いと思われます。
もちろん、説明不足もあるようですが。
明らかに、移植ありきで、適応もろくに考えずに、腎移植をしているようにしか見えません。

自己免疫疾患でネフローゼがどうしようもなく、ひどい場合。
自己免疫疾患ですので、他人に移植したらきちんと機能する可能性もありますし。
適応さえ、しっかり考えれば、可能性のない治療ではないのに。

1人の医師の軽率な判断によって、腎移植を待っている大勢の患者の移植が遅れる事になったのではないかと、危惧しております。

>血液内科さん
>倫理=侵すことの許されないルール

ということであれば問題ないのです。何を問題にしているかというと、倫理とは人の内面に関わることですから、人によってとらえ方が違うかと思います。今回の場合、万波医師には万波医師の倫理観があり、自分の倫理観に基づいて移植を行ったと言うのであれば、誰も何も言えないのかと心配したのです。

つまり、医師は性善説に基づいて成り立っていて、個人個人の良心に頼っている。従って、自分の倫理観に基づいて誰かが暴走したり、悪意を持った医師の出現を想定していないので、そのような医師に関しては対処出来ないのかと誤解しておりました。

また不謹慎なことを言って批判されそうですが、パイオニアというのは案外こんなものではないでしょうか。たとえばジェンナーの種痘と万波医師の行為とどう違うのでしょうか。

11月20日の日経ビジネス・オンラインに「インドで急拡大する医療市場−注目は代理母出産ビジネス」というのがありました。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20061117/113920/
代理出産の倫理問題もあるでしょうが、その先には、死体(心臓死、脳死)臓器移植、生体臓器移植そして臓器売買について考えなければいけないと思うのです。

日本移植学会倫理指針は、強制力を持たせることが出来ないから、倫理指針となっていると私は理解するのです。適用範囲については、医師、医療機関のみならず患者及び潜在的に患者やドナーになる可能性のある全国民と考えるべきだと思うのです。

日本産科婦人科学会の「代理懐胎に関する見解」を読んでみました。
http://www.jsog.or.jp/about_us/view/html/kaikoku/H15_4.html
こちらの法は、「本会会員が代理懐胎を望むもののために生殖補助医療を実施したり,その実施に関与してはならない。」となっており、会員を縛るものでした。

臓器移植と代理懐胎は、性質が少し異なるので、学会の倫理規定は異なってよいと思うのです。しかし、どちらにせよ、海外医療ビジネスについての言及をすべしかどうか、何も触れなくて良いのか、どうすべきなのだろうかと思いました。

それと共に思うのが、バイオ関連の研究・開発です。先端バイオの医療関係には、倫理に関することが含まれている。でも、具体的に、どのような危険性があるのか、私を含めて一般の人はよくわかっていないと思うのです。その様な関係の広報と言うべきか、伝達と言うべきか、情報の発信は必要且つ重要と思います。

宇和島徳洲会病院万波誠医師の臓器移植問題は、医療の倫理問題を多くの人に考えてもらうようにするチャンスなのではないかとも思うのです。

じゃあ、両方の腎臓を摘出された人はどうなるんですか?
その方は腎臓なしの生活を送ることになり、移植を受けた方がハッピーになりさえすればそれでよいのですか?

そもそも、移植に耐えられる腎臓であれば、摘出する必要があったのですか?
仮に、もし、治療後に移植をしたのだと言うのであれば、治療後に自家移植をするという選択は不可能だったのですか?

私は移植のオペをしたことよりも、摘出のオペの方にこそ、問題がなかったのかどうか非常に疑問に思っています。

>みーしゃ様  そもそも、移植に耐えられる腎臓であれば、摘出する必要があったのですか?

これについてはNo.3 Dr.I さんのコメントをご参照ください。ありうる治療法です。私が問うたのはジェンナーの種痘と万波医師とどう倫理的に違うのかということです。ただし万波医師を支持するつもりはまったくありません。あまりにも不透明だからです。しかし万波医師を支持する患者さんも確かにいます。

腎移植については豚の腎臓が最適なんでしょうね。未知の病原体問題をクリアーできればですが。豚の腎臓を使うのは技術的には可能なんだそうです。

医療事故のエントリーが相次ぐ中、この件についてなかなかエントリーされないのはなぜだろうと思っていました。常連さんの大半が医療関係者となった今では、単純に「不当な責めを負わされる医療側」対「偏向マスコミ&無理解な一般人」の図式になりにくい話題は忌避されるのかなあ、などと邪推してしまったこともありました(笑)。
医療崩壊問題では医師の皆さんのベクトルはほぼ同じでしょうから、こういう百花争乱になりそうな問題こそ、医療関係者の皆さんのニュートラルかつ専門的な意見をうかがいたいです。問題意識をしっかり持った医師の皆さんがせっかくこんなに集っておられるのですから。

>場末の開業医さま
みーしゃさんが先におっしゃっていますが、ジェンナーとの最大の違いはドナーの有無だと思います。ジェンナーの場合、レシピエントにあたる子供は少なくとも「天然痘にかからなくなるメリット」と「種痘から天然痘になるリスク」を秤にかけることができました(そこまで明確なインフォームドコンセントはなかったでしょうが)。病気腎移植の場合も、レシピエントの方は「腎移植を受けられるメリット」と「病気まで移植されるリスク」を比較検討できたでしょう。しかし、ドナーの方はどうだったのでしょうか? 「患部を取り除いても再発するかもしれないリスク」や「使える腎臓をみすみす一つ失うデメリット」をきちんと検討できたのでしょうか? 「残る一つが病んだ時のリスク」や「戻せば使える腎臓を戻さない必然性」をきちんと納得できたのでしょうか? 
結果として使える腎臓をとられっ放しになってしまうドナーが、フェアーな説得によって同意したかどうか、私ははなはだ疑問に思います。そもそも説得したのかどうかさえ。
万波医師とレシピエントだけの話なら種痘(実験的な医療)になぞらえることも可能でしょうが、第三者の一方的な犠牲を踏み台にしている点が大きく異なっているように思います。
かつて和田移植が世間からあれほど忌み嫌われた理由の一つとして、ドナーが移植決行のために無理やり犠牲にさせられたという疑惑(事実とはあえて言いませんが)があるのではないでしょうか。
レシピエントの感謝の声は聞かれても、ドナーになった方から万波医師を擁護する声が全く聞こえないのが何かを表している気がします。

私自身は、道が渋滞しているからといって、歩行者をはね飛ばしながら脇の歩道をぶっ飛ばして目的地を目指すような行為は支持しません。

万波医師自身よりも更に重大だと私が思うのは、あれだけ大勢の医師が直接間接に関わって事実を知っていながら、発覚するまでことごとく口をつぐんでいたことです。万波医師を含めた彼らは、もしこんな形で発覚しなかったら全てを未来永劫闇の中に納めておくつもりだったのでしょうか? これでは「白い巨塔健在なり」と言われても仕方ありませんよ。こうしている今も日本のどこかで、違法ではないが倫理に反する無茶な医療行為が密やかに進行中なのではないかと疑ってしまいます。

倫理というのは必ずしも理論的に正しいものではないと私は思います。今回の関係医師も、もしかしたら患者さんのために行ったのかもしれません。
但し、現在の医療における倫理は良くも悪くもヘルシンキ宣言に基づいています。そしてそれを元にして医療の倫理観は整備されています。法律も日本の社会的状況を見て良くも悪くも、欠点はあるでしょうけど構築されています。しかし、そのルールを犯したということはやはり問題だと思います。みんなが人のためだと言ってバラバラに動いていたのでは良い社会など到底できません。倫理観やおかしな法律を指摘することはしても、それを実行に移してルールを破ると言うことはやはりあってはいけないことだと思います。

皆さんの意見と焦点がずれますでしょうが、お許し下さい。

脳死なんてものは、正確には無いと思います。
あるとすれば、局所の脳死です。
脳組織には、大脳もあれば中脳もあるし小脳もある
海馬もあれば、松果体もある。(解剖は良く解りませんが)

脳死があるなら、内臓死だってあるでしょうが、
内臓のことは、肝不全だの腎不全だの心筋梗塞だの
いって、なんで、脳だけはアバウトに脳死なんでしょう?

脳死という言葉は、どう考えても、便宜上の産物で
臓器移植の為の言葉にすぎません。
つまり、脳死体の臓器を移植するための、目的ありきの
言葉が、脳死です。

移植というのは、もはや倫理や科学的是非の問題はでなく、
社会的意思統一の問題です。中国人の死刑囚の体は
移植して良いが、日本人の脳死患者の臓器は移植しては
いけない現実に倫理の物さしは無いと思います。

倫理ではなく、ルールが大事で、このルールを決める社会的
論議(一般人の)がないまま、事態は進んでいるのではない
でしょうか?

コメントの流れからすると「移植学会の倫理指針はしっかりしている」になりそうなので、敢えて異論を。

一番の問題は
>(1) 親族に限定する。親族とは6親等以内の血族と3親等以内の姻族を指すものとする。
だと思っています。「6親等」とは誰か?すんなり答えることができる方は相当の「親等おたく」です。自身の「6親等」を次々に挙げることができる方は「家系図マニア」でしょう。例えばひいおじいさんのひ孫が6親等です。多くの人にとって6親等は沢山いるはずですが、おそらく名前も知らない場合がほとんどだと思います。この倫理指針は民法で定義される親族をそのまま用いているだけで、非常に安易と言えます。そして、私が重大だと考えるのは、2003年までは「3親等以内」だった倫理条項を大幅に緩和した点です。この緩和の仕掛け人は「日本肝移植研究会」で、彼らの作成した「生体肝提供(ドナー)手術に関する指針」に則る形でこの移植学会の指針は改定されています。

生体腎移植の方が生体肝移植よりはずっと歴史が長いので、様々な問題点が指摘されていますが、ドナーに関する問題点としては
・ 圧力を受けた同意(pressured consent)
・ 隠れた動機のある同意(ulterior-motivated consent)
が問題とされています。これは3親等以内の親族間移植において指摘されている問題点です。簡単に言ってしまえば、「臓器やる代わりに遺産相続を諦めろ」とか、「散々迷惑かけたんだからここは腎臓を提供して男(女)になれとか、なんらかの利益供与や脅迫が絡むという問題です。「6親等」で利益供与もなしに臓器を提供するお人好しが世の中にどれだけいるのか、そして親族間で利益供与がないと医療機関は確認する方法があるのか、この辺りを少しでも考えれば移植学会の倫理指針など「ザル法」と同類だろうと思います。

続投お許しを。

 私自身は、病気腎移植は或る条件を満たせばありだと私は思います。実際ドミノ肝移植では病気肝移植が行われています。あくまでも私の意見ですから、異論反論噴出だと思いますが、一応私が考える「病気腎移植」を行うに最低限必要な条件を記しますと、

・ 病気は小さな腎細胞癌に限ること。
・ 病気腎の主がその腎の摘出を望むこと。
・ 摘出腎が移植ネットワークを通じて公平に分配されること。

だと思います。

 まず癌だからこそ摘出の正当性があると考えます。癌さえ切除すれば立派に使用できる腎を何故摘出するのかという問題ですが、腎は血管の固まりですから、操作中は勿論腎血流を遮断しますが、それでも癌のみ切除するとかなり出血します。血流遮断時間は短い程理想的ですから、部分切除手術は時間と出血との闘いになり、腎盂・腎杯の修復が不完全で術後に尿漏れを起こすこともあります。また微妙な「取り残し」も稀には起こります。術後出血の危険もゼロではありません。こうしたリスクを避けるために丸ごと腎を摘出するのは十分な根拠があることであり、部分切除に反対の立場を取る泌尿器科医もいます。

 摘出した腎に保存液を潅流させ冷却した状態であれば、癌切除も落ち着いてできます。腎が生体にある場合と異なり、どんな方向からでもアプローチできますし、手術というよりは工作に近くなりますから癌切除も修復も精度が高くなります。では癌切除した腎を元の患者さんに戻したら(自家移植したら)どうか?という提案は当然あると思います。そうした手術も実際に行われています。しかし主流とはなりません。何故なら手術時間が大幅に延長し(合併症の危険からは麻酔やお腹を開いてる時間は短いほどよいのです。)、吻合した動脈・静脈・尿管に縫合不全や狭窄のリスクがあり、そもそも一旦摘出した腎はずっと生体に留まる腎とは別ものという事実があります。対側に健康な腎があり、生命維持にはそれで十分な患者さんにとって、様々なリスクを冒してまで切除腎を戻すことに大きなメリットなしという判断は、私も正しいと思います。

 一方、リスクを伴う腎であっても透析患者さんにとっては非常に価値あるものです。透析患者さんは体に様々な問題が生じます。また透析にかかる時間は人生の何分の一かを確実に奪います。旅行なども大きく制限されます。多少のリスクはあっても、その腎臓をどうしも欲しいという方は沢山いらっしゃると思います。

 「死体腎移植」も腎摘出までに許される時間は心停止30分以内といわれ、亡くなってからご家族に説明し腎摘の準備をするのでは間に合わないので、実際は「脳死段階での摘出が多い」という批判もあります。腎癌による腎摘出であれば予定手術ですから、十分な血流供給のある腎を摘出後すぐに冷却潅流保存できるので、死体から摘出した腎よりも鮮度は高いのです。そして「脳死」の問題が存在しません。レシピエントも十分に準備する余裕があります。病気腎を提供する患者さんにしても、それが人助けであれば悪い気はしないと思います。こうした観点からは「病気腎移植」の方が「死体腎移植」よりも優れた側面もあるのです。また、完全な健康体から健康腎を摘出して行う生体腎移植よりも「病気腎移植」の方が倫理的にはむしろ問題が少ないと考えます。ヒステリックな対応は一つの治療法の可能性を奪います。今回の宇和島徳州会の件が大問題なのは事実ですが、「病気腎移植」までトンデモ治療と決めつける風潮は困るなと思っています。
(自分のブログに書いた記事を大部分はそのまま使用しております。重ねてご容赦を。)

>みみみさん 「天然痘にかからなくなるメリット」と「種痘から天然痘になるリスク」を秤にかけることができました

冗談でしょう。どうやってそんなリスクが計算できるのですか。計算できないものをどうやって天秤にかけるのですか。ジェンナーは計算できなかったからこそわが子をベースに人体実験を行ったのではないですか?あれは紛れもなく人体実験です。挑発的な表現をしますがあなたがジェンナーであったなら自分の子を人体実験に使いましたか?

>ドナーの方はどうだったのでしょうか? 「患部を取り除いても再発するかもしれないリスク」や「使える腎臓をみすみす一つ失うデメリット」をきちんと検討できたのでしょうか? 

再発するリスクはドナーにとっては移植するしないと関係ありません。また使える腎臓をとったらこれは傷害罪です。今のとことは刑事事件となる様子はなさそうです。またドナーの中では機能しなくともレシピエントの中では使える腎臓というのは確かにあるのです。ここは健常人からの生体腎移植とははっきり違うところです。したがって和田移植を持ち出すのも的外れです。腎臓を失うという観点からのみで言えば、罹患腎を使うほうがはるかに優れています。
確かに万波医師のインフォームドコンセントがなされていたかどうかは問題です。これについては今後の検討をまつべきです。ただいまのところ現実に起こった問題はレシピエントが1名死亡、がんの発症はいまのところなし。ドナー側に腎摘出による苦情は見当たらないようです。間違っていたらごめんなさい。

>yama様 倫理観やおかしな法律を指摘することはしても、それを実行に移してルールを破ると言うことはやはりあってはいけないことだと思います。

まったくそのとおりです。私でもやらないでしょう。でも現在われわれがあるのも、ルール破りをやった人間がいたからということも言えるかもしれません。

>ヤブ医者 さん
>・ 圧力を受けた同意(pressured consent)
>・ 隠れた動機のある同意(ulterior-motivated consent)

と言うのは、3親等であれ、6親等であれ同じなのではないでしょうか。3親等であれば問題なく、6親等であれば問題だというのは違うような気がします。

倫理指針の件ですが、明記している事に意義があると思いました。しかし、後で調べてみたら少数の手によって作られているそうですね。このあたりは問題だと思います。逆に、少数で作られているのだとすると、「肝移植研究会」が干渉したというわけでもないようですね。


>多少のリスクはあっても、その腎臓をどうしも欲しいという方は
>沢山いらっしゃると思います。

リスクが明らかでないままに移植を進めたというのも問題点の一つかなと思っています。病気腎の腎機能は健康腎に比べてどの程度の能力なのか。その能力は透析を上回るかと言う事を調べた上で、慎重に進めるべきだと思いました。

>脳死なんてものは、正確には無いと思います。
>あるとすれば、局所の脳死です。
>脳組織には、大脳もあれば中脳もあるし小脳もある
>海馬もあれば、松果体もある。(解剖は良く解りませんが)

座位さん,
「脳死判定」で言う「脳死」は「全脳死」です.cortex(大脳皮質)からmedulla(延髄)まで(脊髄は入りません)の機能がすべて失われた状態を指します.一部でも機能が残っている場合には「脳死」にはなりません.
「全脳死」であることを確認するための基準が厚労省の「脳死判定基準」です.
この基準で6時間以上の間隔をおいて2度の「脳死判定」がされた場合に「脳死」と判断されます.「この状態からの回復はありえない」という厳しい基準です.判定においてひとつでも基準を満たさなければ判定はされません.問題がないようにいくつかの除外規定もあります.

そのくらい,「これはもうダメ」というところに線を引いているのです.

あのー、このエントリにコメントが少ない件ですが、私に関して言えば、(形のある)臓器移植とはほとんど全く縁のない医者生活だったせいで「現場」がわからず、コメントのしようがない、というところです。
はい。

私ほどわからん、ということはないにしても、とくに内科系にはそんな医者が多いと思います。
(おそらく脳外科の先生も)

宇和島の腎移植に関して個人的な考えですが,病気の腎臓を移植すること自体にはそれほど問題があるとは考えません.アミロイド肝のドミノ移植と比較すれば同程度か,まだましな方でしょう.(悪性腫瘍は病気腎から除外です.)
ドミノ移植を認めたのなら,宇和島の移植自体を医学的見地から非難することはできないでしょう.

問題があると考えられるのは,腎臓を摘出された患者さんおよび病気腎を移植される患者さんに対しての術前の説明がどこまできちんとなされたか,という点だと思います.倫理委員会の問題もありますが.
医学的な面は許容範囲内,手続き上は「要検証」というところでしょうか?
繰り返しますがあくまで「私見」です.

Level3 (No.16) さん
お疲れ様です。

>「脳死判定」で言う「脳死」は「全脳死」です.cortex(大脳皮質)から
>medulla(延髄)まで(脊髄は入りません)の機能がすべて失われた
>状態を指します.一部でも機能が残っている場合には「脳死」には
>なりません.

「全脳死」というのは、明らかに科学的錯誤だと思います。
脳の中の例えば、扁桃体の外側核や、視床の正中中心核や
島葉の分子層が死んでいることを、どうやって証明するのでしょうか?
(解剖学の本を引っ張り出して書いています)
無理なんですよ、今の医学では。
全内臓死なんて言いませんよね、腐敗体は別ですが、全脳死という
のも、幻想です。

脳死という言葉は、治療中止する為の遺族への説得や
臓器移植をする為の、目的があっての用語だと考えます。
聴性脳幹反応とか脳波とか血流画像とか、その程度で
全脳死と間違って言うことが許されるのは、患者に意識が無く、
もはや不可逆的であると考えられるからにすぎないからだと思います。

その意味で、科学的な用語ではなく、社会的な用語だと
認識しています。つまり、ヒト社会はそのような領域に入り込んで
しまっているわけです。

あのぅ〜、 Level3さんに、歯向かっているのではありませんので
(笑)、お間違いなく。

座位さん,

一応次ぎのように考えられています.
まず,脳死では脳血流がない状態になっています.つまりこれはすべての脳細胞が生きていられない環境になっていることを意味します.
そしてこれを検証するために様々な検証を行ない,そのすべてが示された時にはじめて脳死の判定が下ります.

このようにご説明すれば,「全脳死」の意味が解っていただけるでしょうか?

# しまさん
>3親等であれ、6親等であれ同じなのではないでしょうか。
全く違うでしょうね。3親等ですら利益供与があるなら、6親等にすればその頻度が増えるのは当然と思います。0親等、1親等に限定すれば、利益供与の頻度は著しく低下する筈です。他人に近くなるほど利益供与の頻度が増すのは自明の理だと思います。私が言いたいのは安易に基準を緩和するなと言うことです。
>病気腎の腎機能は健康腎に比べてどの程度の能力なのか。
私は「病気は小さな腎細胞癌に限ること。」と書きましたが、小さな腎癌を切除しただけの腎であれば正常腎の機能よりも多少劣る程度でしょう。ちなみに健康な腎臓は生命を維持するのに十分な余力があります。したがって「多少の機能低下」は全く問題になりません。
>リスクが明らかでないまま
厳密には分かりません。しかしこれは新しく始める医療行為全てにおいて言えることです。お断りしておきますが、私は宇和島のやり方は全く支持しません。新しく始める治療は、病院の倫理委員会で議論して承認を受ける、患者さんに十分すぎるほどの説明を行った上で同意を得る、初期症例は学会や雑誌で発表して世間の評価を仰ぐ、などが必要で、宇和島のやり方はこれらがいずれも満たされていないからです。
腎癌における部分切除後の再発率は、多い報告でも5%程度です。数十例の経験で再発ゼロの施設もあります。これから考えると癌切除腎を移植して、その腎に癌が再発する確率はそれほど高くないと予想されます。但し免疫抑制剤の影響に関しては現時点では予測不能だと思います。医療の現実からすれば、この程度の理論背景で新しい治療法を始めることは珍しくありません。あとは初期の段階で患者さんが納得するかどうかです。
なお腎癌以外の病気腎移植に関しては、私は基本的に反対ですが、これは私の知識不足のせいかも知れません。

>ヤブ医者さん
>私が言いたいのは安易に基準を緩和するなと言うことです。
それには了解です。あと、指針を改定するのならば民主的に行う必要もあるでしょうね。
あと、親等が近いほど「隠れた圧力」を受けやすいとも思います。

リスクに関しては、リスクのある治療を行うなと言うわけではなく、リスクがある事を明示した上で、対策を練った上で行うべきだと言う考えです。リスクの高い治療が分かっているというのなら、それ相応のやり方という物があるでしょうし。

ただ、臓器移植に対する不信感を招いたのは確かでしょうね。病気腎移植はそれ自体が問題ではなく、病気腎移植のような重要かつ微妙な問題でさえ、一医師が自分の独断で行うことが可能であり、医師の団体はその事に対して対処出来ないという事が問題だと思うのですが。

>血液内科さま

ちょっと疑問に思い質問なのですが、最近白血病などの骨髄移植ではGVHが強いほどGVLも強く再発率が下がると聞いたのですが。そうするとまったく他人の腎癌部分切除後の腎臓の移植後の腎癌再発率はかなり少なくなりそうですがどうなのでしょうか?
エントリの趣旨から離れたコメントですみません。

横道に外れますが、

>まず,脳死では脳血流がない状態になっています.つまりこれはすべ
>ての脳細胞が生きていられない環境になっていることを意味します.

脳死判定に、脳血流の測定は必須ではありません。簡易に測定する方
法もありません。Functional Imagingをやれる施設は稀です。一方で意識
がどこにどのように宿っているかも判らない医学レベルなのにもかか
わらず、不可逆的と思われる意識の喪失状態があるから、大胆に脳死と
呼称しているのです。

脳死判定の意義は、心臓死以外に判定する必要が出来たことから
便宜的になされているわけです。個人の死を心臓死以外に、脳死として
判定する必要は、いったいどこにあるのでしょうか?

脳死とは死ではなく、意識消失を主とした不可逆的な死への進行途中
にすぎません。そしてその脳死の判定の意義は、
終末医療の経済性や新鮮移植臓器の必要性から来ているものであって
人間の尊厳から来ているものではないという悲観が成立しています。

だから、どうしたといわれても困るのですが。

>No.22 しまさん
繰り返しになってしまいますが、私がある程度擁護しているのは「病気腎移植」という一つの治療法であって、宇和島徳州会病院を中心とする「瀬戸内グループ」のやり方は全く擁護しません。なので、
>リスクに関しては、リスクのある治療を行うなと言うわけではなく、・・・・
以下に続くしませんのご意見に異論は全くありません。この点に関しては同意見です。

>親等が近いほど「隠れた圧力」を受けやすいとも思います。
これは仰る通りです。ただし「恩義を感じて自発的に」と「言外に強要されて」の線引きをどこで行うかは微妙です。また「世間の圧力」があります。冷たい妻だと思われるのが嫌だからドナーになることを了解する人もいます。この辺りの問題は生体臓器移植が抱える根本的な問題で、好ましくないのは確かですが避けようがないのが実態です。また親以上にかわいがってくれた叔父さんや叔母さんのためなら進んで臓器提供というシチュエーションは当然ありますし、これこそが本来の動機だと思いますが、6親等ではこうした状況はまず考えにくいので、これだけでも6親等はペケだと思います。利益供与はある種の臓器売買ですから、これは可能な限り排除する必要があります。その意味で、安易に親等の枠を拡げるのは反対します。(と言ってももう拡げられてしまいましたが・・・)

↑申し訳ありません
>以下に続くしませんのご意見に→しまさんのご意見に
でした。

No.23 uchitama さま
>白血病などの骨髄移植ではGVHが強いほどGVLも強く再発率が下がる
仰るとおりでありまして、GVH(移植片対宿主)病が起きるとGVL(移植片対白血病)反応も起きることが稀ならずあり、結果として移植後の再発率が(GVHの起こりえない自家移植に比して)下がります。
しかしGVHは重症化すると、それ自体が致命的な合併症ですので、GVLによる再発率の低下が生存率に寄与しない面もありまして・・。
再発のriskの高い症例においてはGVHを軽く出しながらGVLを誘導する、という目的のために免疫抑制剤の調節をするわけです。上手くいくとは限りませんが・・。

腎臓癌に対してもGVLと同様の免疫反応は起こると思われますが、白血病においても全例におこるわけではなく、誘導するためには腎移植を必要とするような腎不全の患者さんに、生着不全を起こすかもしれない免疫抑制剤の減量・調節が可能であるのか・・実は自分も医学的には大変興味があります。

本論からの逸脱、失礼いたしました。

> 倫理とは人の内面に関わることですから、人によってとらえ方が違うかと思います。(No.4 しま様)

> 「医の倫理」というものは我々にとっては絶対的なルールなんですよ。
> つまり倫理=侵すことの許されないルールであります。(No.2 血液内科さま)

弁護士にも、「弁護士倫理」があります。例えば、自分が相談を受けた案件の相手方の相談に乗ってはいけない、とか。
血液内科さまがおっしゃるように、「専門職としての倫理」は、一般的にいう人の内心の価値基準という趣旨は異なり、当該専門職にとっては侵すことが許されない重みを持ったルールです。
職能団体の自治作用として定められるきまりであるという点が、国民代表たる国会が定める法律との違いであると思います。

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> 「6親等」とは誰か?すんなり答えることができる方は相当の「親等おたく」です。(No.12 ヤブ医者 さま)
中学3年のとき社会科の公民の授業で、親等の数え方を習った記憶があります。
あと、高校の家庭科でもそんな話がありました。
最近の学習指導要領ではどうなのでしょうね。

資料:6親等の範囲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%97%8F

親族とは、6親等内の血族、配偶者及び3親等内の姻族をいう(民法725条)。
民法のこの定めは合理的でないという批判も出されています。
実際上、直系関係では三代より前は死んでいるのが普通ですから、6親等はナンセンスですし、
傍系でも祖父母の従兄弟などという遠縁と、付き合いがある人は少ないのでは。
逆に、姻族の3親等は狭すぎると言われます。従兄弟の配偶者は親族に当たりません。

No.28 YUNYUN さんの
> 中学3年のとき社会科の公民の授業で、親等の数え方を習った記憶があります。

うぅっ、わたくしなんぞ、もはや解の公式ですらグーグル先生のお世話になってます(嘆)。

  私は医学的にはシロウトなのですが、シロウトの浅知恵で漠然と、『MHCの型が違う他人のガン細胞って、異物を攻撃する免疫系をすり抜けて、他人の体の中で簡単に転移なんてできるのかしら? 転移さえしなければガンはそれほど恐ろしくない、だから、「血管内皮細胞をガンの方へおびきよせる血管新生」を阻止できる薬ができたらすごい、と学生時代に習ったような気がするけれど・・・ひょっとしたら、この移植って学問的には画期的だったりするのでは?』などと思っておりました。でも、ここの書き込みを見ていたら、そんな単純な話ではなさそうですね・・・。免疫抑制剤のさじ加減とかその他もろもろ私もとても興味はあります。
  しかし学問的な興味と今回の件の是非はまた別で、色々なこと(例えば、腎臓の摘出が妥当だったかなど)が不透明だし、ルールも守っていないしで、結果として世間の医療不信を煽ってしまったのではないでしょうか。本人には、使命感などがあったのかも知れませんが、まずいと思いました。  

>場末の開業医さま
最初におことわりしておきますが、現代の倫理に外れている点はジェンナーも万波医師もどっこいどっこいだと思っています。あなたは相違点をお尋ねになっていたので、私が考える相違点をピックアップしてお答えしました。この部分を明確にしておかなかったのは私の説明不足でした。お詫びします。
ジェンナーと万波医師を分けるものは時代の趨勢、これだけでしょう。昔はグローバルスタンダードだった植民地政策が今は絶対認められないのと同じです。倫理はおろか基本的人権が確立していなかった当時だからこそジェンナーは結果オーライだっただけで、現代なら万波医師と同じ扱いを受けていたはずです。発覚していれば、の話ですが。

リスク計算については「できました」と言っただけで、「実際にした」とは言っていません。ですからカッコ書きであえて留保を付けました。万波医師・ドナー・レシピエントの三者の中で、ドナーが際立って不利な立場にあると思えたので、その差を強調する趣旨で申し上げたまでです。
ジェンナーが最初に試したのは息子ではなく名前以外身元不詳の子供で、孤児か貧農の子供を連れてきたと思われます。息子であるロバートに試したのは5・6番目あたりだとか(息子以外はいずれも孤児院の子供)。もし私だったら、5・6人試して無事ならそろそろ自分の子でチャレンジしてもいいかな、と思うかもしれませんね。

再発するリスクうんぬんについては、万波医師自身が腎臓を戻さない方便としてドナーにそう言ったと説明していたからです。
和田移植が的外れだとも思いません。私が引き合いに出したのは、不透明さと胡散臭さ、そしてドナーが不当な犠牲になった可能性がある点が共通していると考えたからです。心臓移植も病気腎移植も技術的に可能で有益である点は否定しません。しかし、死体にせよ生体にせよ他人の犠牲を前提にする治療法であり、それこそ「歩行者を跳ね飛ばしながら」次々に決行した万波医師の罪(刑事事件でなくとも)は重いと思っています。

>がんの発症はいまのところなし。ドナー側に腎摘出による苦情は見当たらないようです。
大変申し訳ありませんが、「だから結果オーライで非は軽減される」とおっしゃっているように聞こえます。誤解でしたら謝ります。
ドナーから苦情がないのは、ドナー自身がドナーになったことを知らないケースが存在するからではないかと疑っております。同意書を取らなかったことについて、万波医師がいろいろ弁明していますが、単に同意書を見せれば摘出腎がどう使われるかドナーにバレるから端折っただけなのではないかとも思えるのですが、素人考えですかね?

>でも現在われわれがあるのも、ルール破りをやった人間がいたからということも言えるかもしれません。
この点は同意せざるをえないでしょうね。ヨーゼフ・メンゲレや731部隊の生体実験のデータも医学上の価値があるそうですし。

ところで、NO.9のコメントでも書きましたが、当事者以外の医療関係者がこの件を知っていてほとんど野放しにしていたことに驚いています。これには何かやむをえない理由があったのでしょうか? 法的根拠とか学会の拘束力と言われても言い訳にしか聞こえません。私には「やったもん勝ち」を助長しているとしか思えないのですが。
今回の件で世間が「医療側に自浄力はない。彼らが隠した悪行を暴いてくれるのならマスコミもまんざら無駄ではないな」と感じてしまうのではないかと懸念しています。

>みみみさん

時間がないので2点だけ。
>もし私だったら、5・6人試して無事ならそろそろ自分の子でチャレンジしてもいいかな、と思うかもしれませんね。

これってもっとすごい背徳的行為ですよ。当時の倫理規範では許されたんでしょうか。思っただけなんだと私は理解しておきます。

今回のドナーがどんなものであったかについてはNo.13 およびNo.21のヤブ医者さんが優れたコメントをされていますので、ぜひお読みください。

私はしばらくコンビュータからはなれます。

今回のドナーがどんなものであったかについては→もちろん一般論としての解説です。

>ところで、NO.9のコメントでも書きましたが、当事者以外の医療関係者
>がこの件を知っていてほとんど野放しにしていたことに驚いています。これ
>には何かやむをえない理由があったのでしょうか? 法的根拠とか学会の拘
>束力と言われても言い訳にしか聞こえません。私には「やったもん勝ち」を
>助長しているとしか思えないのですが。

みみみさん,
すみません.当事者以外の一般の医師に何ができたとおっしゃりたいのでしょうか?

医療行為として行われています(少なくとも法に触れているものではないです)し,状況もよくわかりません.先のコメントにも書きましたように「手続き」上の問題はある(?)んでしょうが,内容そのものを「全く話にならないようなトンでもない行為」とは言えないものです.少なくともこの行為によって医療上の恩恵を受けた患者が存在することは事実です.
病院も違う,所属科も違う医師が「すぐアクションを起こさなければならない」ような事例ではないと思います.非医療関係者の方にはそうは思えないとおっしゃっているんですよね?

>場末の開業医さま
私はあなたの皮肉に皮肉を返しただけです。こういう答えではご満足いただけませんか?
当時なら許されたんでしょうね。ジェンナーは実際やったんだし。

私の文章をきちんと読んでいただきたいのですが、私はただの一度も病気腎移植そのものを否定したことはありません。私が否定しているのは「万波医師の病気腎移植」です。
あなたが挙げたヤブ医者さまのコメントで論じられているのは、どういうケースなら病気腎移植が正当化されうるかという話であって、決して「万波医師の病気腎移植」を正当化するものではありませんよね? あなたはこのヤブ医者さまのコメントを論拠として、今回の一連の移植行為が正当であったと主張されるのですか? だとすれば私の読解力不足だということになります。

NO.35のコメントはNO,33の場末の開業医さまのコメントを読む前に書きました。

>Level3さま
私が言う当事者とはいわゆる「瀬戸内グループ」のことを指します。
たとえば、手術が実施された病院には倫理委員会が存在しますよね。
倫理委員会に承認を受けるべき手術を、承認抜きで実行した。
病院の施設と人員を使って。
それも一度ならず。
その事実を病院は(倫理委も)知っている。
「レシピエントは喜んでるし、まあ結果オーライだわな」
これが件数分繰り返されてきた。これを野放しとは言わないのですか? もしことが公にならなければ、これが50回でも100回でも果てしなく繰り返されていたわけですよね。
別によその病院の人に止めに入れと言うつもりはありません。ただ、こういう行為を是正できる立場にある(でもしなかった)関係者がただの一人もいなかったのでしょうか? 業界内の勢力図は知りませんが、「瀬戸内グループ」はそれほどまでに天下御免の集団だったのですか? 「結果的に助かった患者がいる」という言葉はそれほど無敵のキーワードなのでしょうか? 1分1秒を争う救命措置なら手続き無視も理解できますが、臓器移植手術での「手続き」というのはそんなに軽いものなのですか?

医療関係者から見るとこの件は、世間に知られた以上影響が大きいから是正すべきだが、知られてさえいなければ別に是正の必要もない行為だったのでしょうか。

>No.28 YUNYUN さん

「親等おたく」は言い過ぎでしたね。家系図さえ書けば確かに数え方は簡単です。「再従兄(さいじゅうけい)」「従甥(じゅうせい)」「玄姪孫(げんてっそん) 」などの言葉が分かり何親等かたちどころに答えられる様な人を「おたく」と呼んだつもりでした。

>中学3年のとき社会科の公民の授業で、親等の数え方を習った記憶があります。
これはたぶん弁護士さんだからですよ。我々が患者さんに説明する際、「中学校の理科で習ってますよね?と」言っても首を傾げる方が大部分です。

>私が言う当事者とはいわゆる「瀬戸内グループ」のことを指します。
>たとえば、手術が実施された病院には倫理委員会が存在しますよね。
>倫理委員会に承認を受けるべき手術を、承認抜きで実行した。
>病院の施設と人員を使って。

みみみさんのおっしゃりたいことは解りました.

わたしはあまり詳細を知らないのですが,確かに今回の件は通常の移植手術とは違いますから「倫理委員会」の承認が必要です.
ただ,通常の腎移植なら保険の通るような一般的な手術ですから,いちいち「倫理委員会」の承認を取ったりしないと思います.そもそもこの病院では腎移植は数多く行なわれていたのですよね.となりますと,解る人間には解ったかもしれませんが,おそらく手術に付いていた人間以外には解らなかったようにも思われます.少なくとも同じ病院の医師でも別の科であれば気付くチャンスはほとんどなかったのではないでしょうか?
この辺りは私にもはっきりわかりません.病院は果たして「知っていた」のでしょうか?
もしこの辺りの事情も公表されているならお教え下さい.

>病院は果たして「知っていた」のでしょうか?
少なくとも病院長は知っていたようです。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200611040219.html
倫理委員会の存在については、そもそも宇和島徳洲会病院では倫理委員会は
設置されていなかったようです。
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/zokibaibai/ren101200610036948.html
手術に際して同意書をとるという当たり前の手続きすら行っていないことから考えても、
宇和島徳洲会病院という組織に問題があったことは明白でしょう。
ちなみに徳洲会がどのようなスタンスを取っているのかについては
このようなものを見つけました
http://www.tokushukai.jp/rt.html

ただ、腎部分切除や自家腎移植というのは世間で言われているほど
簡単なものではないので、その点は彼らの言っていることにも一理あるとは思います。
ただし彼らは正規の手続きを踏まずにそのような手術を行っていたわけで、
その点はどうしようもないとは思いますが。

産婦人科なので腎臓については全然判りませんが、どこかのブログでも見たけれど代理母問題と病気腎移植問題とは担当医師のスタンスが非常に良く似ている気がします。「自分の患者のためなら何でもやる」って所です。そしてそれが世に与えうる影響を全く無視または忘れているという点。(産科でも金とって貸し腹問題とか起きそう)
 代理母のときにも一応実母が代理母になることを了承したそうですけど、本来妊娠できない体を無理に妊娠可能な体に戻すことのリスクとか、異常な高齢出産による危険とか本当に説明されていたのかと不審を感じました。病気腎移植のドナーに対する説明も「不十分だった」と医師が認めたそうだけど、承諾書も取っていないからそもそも本当に摘出する必要あったのかという疑惑がどうしても消えません。

>No.22 しまさま
>病気腎移植のような重要かつ微妙な問題でさえ、一医師が自分の独断で行うことが可能であり、医師の団体はその事に対して対処出来ないという事が問題だと思うのですが。

私も同様に思いますが、医師の団体がそういった件に自ら対処するには会員に対する強制力が必要です。例えば弁護士会のように。しかし、そのような強制力を持った医師団体が生まれることを国が許す(強制力に法的裏づけを与える)とは思えないのです。

そのような団体は今の医師会以上に団体としての統一行動が容易になりますから、かつての武見医師会を凌ぐような強力な団体に成長しかねません。武見医師会に対するトラウマを持った厚生官僚が黙認するとは思えません。よく医師集団には自浄作用が無いと言われますが、自浄作用を発揮する条件となる内部権力が発生することは国にとって好ましくないのかもしれません。

それを乗り越えて自浄作用を発揮できるほどの強力な医師団体(外部にも強力になりますよ)が生まれることは一応医師である私にとっては歓迎すべきことです。

>脳死判定に、脳血流の測定は必須ではありません。簡易に測定する方
>法もありません。Functional Imagingをやれる施設は稀です。一方で意識
>がどこにどのように宿っているかも判らない医学レベルなのにもかか
>わらず、不可逆的と思われる意識の喪失状態があるから、大胆に脳死と
>呼称しているのです。

>脳死判定の意義は、心臓死以外に判定する必要が出来たことから
>便宜的になされているわけです。個人の死を心臓死以外に、脳死として
>判定する必要は、いったいどこにあるのでしょうか?

>脳死とは死ではなく、意識消失を主とした不可逆的な死への進行途中
>にすぎません。そしてその脳死の判定の意義は、
>終末医療の経済性や新鮮移植臓器の必要性から来ているものであって
>人間の尊厳から来ているものではないという悲観が成立しています。

座位先生,
確かに現在の「脳死判定基準」には脳血流の項目はありません.
私も「脳死判定」を行なった経験はありますから,判定基準は知っております.
すべての脳死がそうではないかもしれませんが「座位先生が書かれました,局所の脳死しかない」,に対して脳血流が無くなっている状態は「全脳死」という病態になりますということを言っております.
ところで「結果として全脳死では脳血流も無くなってしまう」と理解していましたが,これは間違っているでしょうか?

また,「脳死」に対する考え方ですが,個人的には「脳が不可逆的な障害を受けた場合にはもはやそれは人として生存しているとは言えない」と私は考えています.意識があり,思考するから人間なのであって,そうでないなら生きているとは言えないと私は思っています.私にとっては「脳死」は完全に「個体の死」です.
「脳死」に対する考え方も人それぞれでしょうから,他の方がどのように考えておられるかは私には解りませんが...
「肝臓死」や「腎臓死」という言葉も出て生きていましたが,集中治療を行なっていた観点からすると「肝臓死」は確かに「肝不全からの死亡」としてある話ですが,「腎臓死」は透析が可能な限りこれだけで死亡しません.
乱暴な言い方ですが,どの臓器を守りに行くか迷った場合に最初に見捨てられるのは「腎臓」です.「脳」はさておいて「心」,「肺」,「肝」は見すてられません.また,「脳」が回復見込みのないダメージを受けたと考えられた場合には,ある程度以上の積極治療を施そうとは考えられません.

脳死の議論があることから、素人に教えて下さい。

私は、以下のように理解していました。

通常の場合は、心臓死が先にあり、脳死が後に来る。しかし、人工心肺等で心臓や肺等を外部の力で機能させることが可能となったので、脳死が心臓死よりも先に来ることがあるようになった。従って、死の判定基準として脳の不可逆的な実質死を脳死として扱うことも、その人が受け入れている場合は、可能とすることとした。

間違い等、ご指摘下さい。

>No.44 売れない経営コンサルタント さん
>その人が受け入れている場合は、可能とすることとした。

この一節により、純自然科学的な疑問ではないと解釈しました。

臓器移植法では
「脳の不可逆的な実質死である脳死を死の判定基準として扱うことも、その人が受け入れていて、且つ脳死体の臓器が移植に用いられる場合は、可能とすることとした」
となっていると私は解釈しています。

つまり座位さんのおっしゃるように移植あっての脳死です。

>通常の場合は、心臓死が先にあり、脳死が後に来る。しかし、人工心肺等で
>心臓や肺等を外部の力で機能させることが可能となったので、脳死が心臓死
>よりも先に来ることがあるようになった。従って、死の判定基準として脳の
>不可逆的な実質死を脳死として扱うことも、その人が受け入れている場合は、
>可能とすることとした。

確かに,人工心肺や循環補助装置が使用されている場合には書かれているように心臓がダメになったにも係わらず脳が生きていることはあります.
しかし,一般に言われている「脳死」はそうではなく先になんらかの原因(例えば外傷やクモ膜下出血など)で脳が非可逆性に障害されて「脳は回復不可能な状態」=「脳死」になっているが,その時点ではまだ心臓や他の臓器は「死んでいない」状態になることを指しています.
「脳死」はこれまでにも書いてきましたように「全脳死」つまり大脳皮質も脳幹も機能を失っている状態を指しますので,「脳死」になりますと,(脳幹が持っている)生命を維持する調節機構も機能を失いますので,早晩血圧低下から「心停止」=「心臓死」が生じます.
このように多くの病気では,「心停止」に引き続いて「脳への酸素供給が途絶え脳も機能を失う」という死亡の形が一般的なんですが,「脳が先に障害を受けた結果」最終的に「心停止」となり死亡に至るのが「脳死」であるということです.

確かに脳死移植のために「脳死」を人の死とする必要があったことは否めませんが,必ずしもそれだけではありません.
集中治療医という立場で言わせて頂きますと「脳死」を人の死として認めて頂かなければ,例えば人工心肺がすでに装着された状態で「脳に不可逆的ダメージが生じた場合」にいつまで治療を続けるかということが問題になります.
ポンプが回っている限り,カテコラミンなどで心臓はわずかに動いているだけの状態でも「肝」や「腎」は働きます.もちろん,このような状態が長続きするわけではありませんが,それでも「心臓死」するまではICUの1床を占有します.
本来であれば,治療見込みのない患者さんはICUの適応外なんですが,ポンプが付いた状態では病棟に移すわけにもいかず社会的事情でICUに居ることになります.そのために,本来ならICUで管理して治療することができる重症患者さん一人をICUに収容することができなくなります.また,治癒見込みがないにも係わらず治療を続行しなければなりません.これは多くの意味で貴重な資源の無駄です.
「脳死」は回復不能な状態ですから,「脳死」の診断が付いた時点で治療を中止することも重要な意味を持つということをご理解頂きたいと思います.

>Level3さん
>治癒見込みがないにも係わらず治療を続行しなければなりません.
>これは多くの意味で貴重な資源の無駄です.

理性では納得し、感情では納得出来ない典型的なケースですね。今は他人事なので、理性が上回りますが、自分がいざ当事者になった場合は感情が上回るような気がします。

こういうギリギリの状況で、理性的な判断が出来れば素晴らしいことだとは思いますが、そのような自信は持てませんね。

Level3さんにあえて反論しますが、脳死が定義されたのはほぼ完全に臓器移植が目的だと思います。循環停止前に臓器を回収した方が臓器の生着率が圧倒的によいからわざわざ脳死を定義したのであって、個人的意見としては脳死という診断を他の目的に使うことには反対します。私も精神機能を完全に失った人を無理矢理生かしておくことに疑問を持ちますが、脳があるから、あるいは人間としての精神活動があるから人間なのだ、とはいえないと思います。

Homo sapience の卵と精子から発生し、発生した個体が母体から独立して生存できれば、たとえ脳が無くても、精神機能がなくても人間だというのが私の考えです。また脳血流が停止し、精神活動が不可逆的に停止しても、やはり人間であることにはかわりないと思います。ただし社会全体として脳死と判定された個体から臓器を摘出することに合意があるのならばそれは問題ないと思っています。しかしあくまで「人間」から臓器を摘出するのです。「死体」からでも「物」からでもありません。

人の死というのは、ある程度の時間を要する一連の過程だと思います。心臓死と脳死についてのみ法的に定められていますが、体の一部の細胞が死に始めてから全ての細胞が完全に死滅するまでには通常1週間以上かかります。心臓が完全に止まっても、体の多くの部分の細胞はまだ生きています。

心停止を心電図で確認し、呼吸の停止と対光反射の消失をペンライトで確認し、「何時何分にお亡くなりになりました」と死亡を宣告するのが一般的ですが、この時点では酸素の供給が絶たれたためにATPの産生が十分に行われなくなり心筋細胞が収縮できなくなっただけです。代謝活性の低い細胞は解糖系から供給されるATPだけでも生存できます。ニューロンにしたって活動電位はもう出ないでしょうが、この時点で死んだわけではないのでしょうし、グリアはまだ生きているでしょう。

私がいいたいのは、死を定義するのは決して容易なことではなく、心臓死ですら必ずしも適切な死の定義とはいえないということです。

高度医療資源をどのように分配するかは別に考えなければならない問題だと思います。私も消化器外科医でしたからICUの状況についてはよくわかります。しかしこれは各施設の倫理委員会 Institutional Review Boardで判断すべきものだと思います。IRB は求めがあれば即座に開かれなければならないし、その決定にはその施設の職員はしたがわなければなりません。ICUに入院中の患者の回復の見込みが無く、さらに他にICUを利用すれば助かる見込みのある患者がいた、としたらIRBが治療中止の勧告をするのが正しいあり方だと思います。

余談ですがIRBはよく倫理委員会と訳されますが、決してcommiteeではありません。commiteeはあることがらについて他から委託をうけて物事を決めたり運営したりするものですが、boardはそれとはことなり、ある組織の政策や命運にかかわる物事を決定する機関です。「倫理委員会」という語感からはこの組織の重要性が伝わりにくいように思います。「倫理的問題に関する最高意思決定機関」というのが正しいと思います。IRBは本来きわめて高度な倫理的判断を下す組織であり、治療の中止、実験的医療の承認、適正な医療資源の分配などは(主治医や各科の部長ではなく)IRBが判断すべきものだと思います。

>No.30 E.coliさん
>他人のガン細胞って、異物を攻撃する免疫系をすり抜けて、他人の体の中で簡単に転移なんてできるのかしら? 

「ドナーからから癌ごと移植される」
ことは既に実例があり、大規模な調査もあります。

「USAで1994-2001に行われた、移植レシピエント108,062人についての調査」

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=PubMed&dopt=Citation&list_uids=12177614

21人に、移植に関連した悪性腫瘍が発生。
うち、15例がドナー由来。
移植関連悪性腫瘍による死亡率は0.007% (8/108,062)。
移植が行われない場合の不利益を考えれば、許容可能な数字。
(注:これらはドナーが癌患者であることがわかっていて行われた移植ではありません。)

国内での担癌患者がドナーとなった移植の報告もありました。
興味のある方は、全文を読むことが出来ます(PMID:15707420よりリンクをたどって下さい)。
ドナーとならざるを得なかった厳しい状況、絶対に癌をレシピエントに持ち込まないための手術の工夫なども記されています。

ここでは、その報告に対する識者(USA)からの反応(letter)の一部を抜粋しておきます。
http://www.blackwell-synergy.com/doi/full/10.1111/j.1600-6143.2005.00981.x

This case report described the life-saving liver transplantation of a 9-month-old Japanese baby with a partial liver graft from the only potential parental living donor, who was diagnosed with early gastric cancer during the pre-donation work-up.
(中略)
Therefore, we consider that in the particular case reported by Fujiwara et al., the use of such a marginal living donor was fully justified, both for the donor and the recipient. However, the use of a donor with a (small or not) cancer should always be avoided, as the risk of transmission of this cancer to the recipient is real, as described by multiple case reports.

連投を失礼します。

個人的には万波医師のグループの行った行為は決して許されないものと思います。たとえドナーが腎摘出とそれを移植に使用することに心から納得し、レシピエントが疾患腎でもよいから移植してほしいと強く懇願したとしても認められません。

ある薬なり医療機器なり治療法なりがその安全性と有用性が認められるまでには、長い期間と多くの医師や患者の協力、そして多額の費用が必要です。製薬会社も医療機器メーカーも、新しい治療法を開発しているベンチャー企業も非常に苦労をして新しい物を開発しています。万波グループは他の皆が苦労してクリアしているハードルを猛スピードですっとばしているだけです。

疾患腎を利用するという新しい治療法が認められるには、まず疾患モデル動物での安全性と有用性の確認が得られた上で、IRB の承認を得た上で、少数の患者に対して治験という形で安全性と有用性に関するデータを取らなければなりません。これらのデータが得られた上で初めて疾患腎の移植という治療法が議論の俎上にのるわけです。ここから先もこの治療法が完全に確立されるまでには長い道が必要です。

今回の事件は病院の施設と職員を使って行われたのですから、当然病院の責任も追及されるべきです。また学会は公的目的をもって設立されるものであり、学会に所属することがすなわち社会の規範にしたがう意思を示すことに他ならないのですから、臓器移植という非常に社会的な問題をはらんだ治療法に関しては、本来ならば学会非加入の医師の移植手術自体が許されないと思います。また少なくとも日本移植学会に加入していない医師が行う移植手術には健康保険を適用するべきではないと思います。

何人かの方が述べられていますが、 こうしたルール違反は結果がよかったから許されるということはありません。ただ再発防止のためにはIRBに積極的に施設内の非倫理的行為を監視する権限を与えることくらいしか思いつきません。自浄作用と言っても病院の組織の監督をパスしてしまったら外部からは知り得ることはないように思います。

>No.51 oregonian さん

「新しい手術法」に「治験」なる概念を適応する文章を初めて読ませて頂きました。

 私の理解では「治験」はもともと新薬開発のルールです。日本では医療材料に対しても薬剤におけるルールを踏襲する形で治験が定められており、これがルールとして厳しすぎるため、高い工業力があるにも関わらず国産品の開発が非常に遅れているのが実情です。結果として高い外国製品(これは流通機構の問題もあり、別に議論が必要ですが)がただでさえ少ない日本の医療費を圧迫し、手技料が極めて低く抑えられる要因の一つであるのは周知の事実です。少なくとも医療材料における「治験」は、医療のためにも国民のためにも不利益を与えている面が大きいと考えます。
 さて、手術の様に医者の裁量権が非常に大きな事柄に対して「治験」なる概念は本当に相応しいのでしょうか?また厚労省が手術法に関して治験のルールを定めたなどという話は聞いたことがありません。
 新しい治療法に関しては、倫理やガイドラインは必要ですが、「治験」はその進歩を遅らせるだけだと思う私が間違っていますか?

>まず疾患モデル動物での安全性と有用性の確認が得られた上で、
新しい薬剤やデバイスを用いる治療法に関しては仰る通りですが、既存の治療法の組み合わせに過ぎない「新しい治療法」にまで動物実験が必要という主張には素直に頷けません。たとえばドミノ肝移植に動物実験が行われたとは思えませんし(私が知らないだけだとしたらご免なさい)、仮に動物実験を行うとしたらどんな実験モデルが有効なのか、想像できません。

ヤブ医者さん

少し口がすべりすぎたようです。もちろん治験のルールを新しい手術法に適応するルールは現在はありません。あやまります。そもそも保険適応となるかは別として、新しい手術法について厚生労働省が審査するしくみはありません。

しかしGCPの基本理念はすべての分野で共通であると思います。そして治験の存在が技術の進歩を妨げる趣旨のご意見にはまったく反対します。日本で治験が進まないのには別の理由があることはご存知のことだと思います。

また新しい治療法の開発には動物での試験が必須だと思います。今回の事例は既存の治療法の組み合わせではありません。少なくとも担癌患者の腎臓を使うというのは新たな治療法だと思います。必ずしも適切なモデルとは思いませんが、癌細胞を含んだアログラフトを移植して免疫抑制をかけた場合のグラフト生着と転移発生の関係を示したり、癌切除のためのテーブル手術後の腎臓にどの程度の移残があるのか、などについては、別に自分でやる必要は無いですが、データを示す必要があると思います。

いいたいのは、IRBを説得できるだけのデータを事前にそろえられないのであれば、その治療は認められないということです。患者が希望するから、というのは決して新しい治療を認める理由にはならないと思います。

>疾患腎を利用するという新しい治療法が認められるには、まず疾患モデル動
>物での安全性と有用性の確認が得られた上で、IRB の承認を得た上で、少数
>の患者に対して治験という形で安全性と有用性に関するデータを取らなけれ
>ばなりません。これらのデータが得られた上で初めて疾患腎の移植という治
>療法が議論の俎上にのるわけです。ここから先もこの治療法が完全に確立さ
>れるまでには長い道が必要です。

私もこれに関してはヤブ医者さんと同じ意見です.
「薬剤の開発」と手術は同じではありません.手術の内容によっては動物である程度確かめられるようなものもあるでしょうが,むしろそのようなものは稀でしょう.できるものに関してはそのステップを踏むべきとは思いますが,できないものはできないのです.

これまでに行なわれてきた手術方法,成績,「これから行なおうとする手術が,どの程度まで行なえ得るか,問題点が生じた場合にどのように対応できるか」etc.を熟慮した上でIRBに申請し,IRBがgoサインを出せば「十分なインフォームド・コンセント」を得た後に手術に踏み切る,というのが最も一般的な道筋ではないでしょうか.

もちろん,いきなりこれまでの手術を3ステップも4ステップを先へ飛ばすような手法というのは問題でしょうし,本来そのようなものならIRBがstopを掛けるべきものです.
今回のケースを考えてみますと,先にも書きましたように病気腎を使用することが3ステップも4ステップも先て飛んでしまうような手術ではないと私は考えます.もちろん私の個人的意見ですから,他の方がそう思わないということもあるでしょうが.
ドミノ肝移植や,担癌患者をdonorとした移植など同列と考えられる手術は既に行なわれています.(もちろん,これらにも異論はあると思いますし,私も個人的にこれらがどうかと言われると100%賛成できるものではないという立場ですが)それらはokで今回の手術自体はダメというのは論理が成り立ちません.今回のが問題あり,というのであればドミノetc.も問題ありとすべきです.

繰り返しますが,問題であったのは「適切なステップを踏まなかった」点にあると考えています.

P.S. 移植に対する個人的意見ですが,移植によって確かに救える命があることは事実ですから100%否定しようとは思っていませんが,肝移植などは急速に適応が拡大され,保険適応範囲も広がりました.こんなのまで保険適応の移植か?と思えるようなものまで適応になり,移植手術がかなり増えました.正直なところ医療リソースに限界がある以上,もっと厳しい規準にして一般的な治療にリソースを分配すべきではないかと思えるようになっています.医療費を削減したければむしろ,こういったところを厳しくすべきです.
病気腎移植に関しては,もっとしっかり議論すべきところがあるとは思います.学会がメンツで頭からこれを否定しにいくとしたらそれは問題で,適切な医学的議論がなされることを望みます.

>No.53 oregonian さん

 私の書き方が悪かったことをお詫び致します。私が一番危惧したのは新薬開発の手順とした確立した方法論である「治験」を新しい手術法開発の規制に持ち込むのはどうか?とういうことです。もっと単純に言いますと、「治験」という言葉を用いたこと自体を問題としたのです。他のもっと相応しい言葉であれば反対しません。ある意味、世間の誤解を招く言葉の使用法だと思います。
 ご存じと思いますが、新薬の開発には基礎研究、非臨床試験、治験と各々数年かかります。治験だけでも長いものは10年近くかかります。同じ様な方法論を持ち込めば、新しい手術法の開発は間違いなく遅れます。

>GCPの基本理念はすべての分野で共通
基本理念が共通であることに異存はありませんが、各分野で具現化するのは分野ごとに相応しい方法論がある筈です。この意味で、「治験」という言葉を使用することには反対します。

>癌切除のためのテーブル手術後の腎臓にどの程度の移残があるのか
これについては腎癌部分切除後の再発率という臨床データで代用できると考えます。4cm以下の腎癌部分切除後再発率は、多い報告でも数パーセントです。ゼロという報告もあります。テーブル手術の方がより精度が高いのですから、例えば3cm以下とか2cm以下の小さな腎癌に限れば、取り残しは限りなくゼロに近いと結論して構わないと考えます。

>癌細胞を含んだアログラフトを移植して免疫抑制をかけた場合のグラフト生着と転移発生の関係
基本的に「癌は切除された」という前提で行う移植手術には重要な基礎実験とは思えません。

腎癌切除腎移植に関してはある程度意味ある実験モデルは作れると思いますが、私が
>仮に動物実験を行うとしたらどんな実験モデルが有効なのか、想像できません。
と書いたのは「ドミノ肝移植」についてです。この治療法に有効な実験モデルは非常に難しいと考えます。これはNo.54 Level3 さんのコメントにある

>手術の内容によっては動物である程度確かめられるようなものもあるでしょうが,むしろそのようなものは稀でしょう.できるものに関してはそのステップを踏むべきとは思いますが,できないものはできないのです.
と同意見です。この意味でも薬剤開発における方法論を手術法開発に持ち込むのは反対です。

こんにちは、みみみさん。整形Aです。

No.37 みみみさんのコメント

>別によその病院の人に止めに入れと言うつもりはありません。ただ、こういう行為を是正できる立場にある(でもしなかった)関係者がただの一人もいなかったのでしょうか? 業界内の勢力図は知りませんが、「瀬戸内グループ」はそれほどまでに天下御免の集団だったのですか? 「結果的に助かった患者がいる」という言葉はそれほど無敵のキーワードなのでしょうか? 1分1秒を争う救命措置なら手続き無視も理解できますが、臓器移植手術での「手続き」というのはそんなに軽いものなのですか?

万波医師の行為を誰も是正しなかったわけではありません。

http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/e20061110003.html?C=S

前任地の市立宇和島病院においては、初めの頃は当時の院長のバックアップがあったけれど、その後の院長は2代にわたって万波医師のやり方を批判していました。
ソースは既に見当たらなくなっていますが、市立病院だけでなく愛媛大学などからも同意書を取らない手術の中止勧告が出ていたようです。

明確な違法行為ではないので、警察に通報するなどはしていませんが、周囲の医師としてもできるだけ是正しようとしていた様子が伺えます。
まあ、これでも不十分だ、といわれればそれまでですが。

こんにちは、ぱんたさん。整形Aです。

No.40 ぱんたさんのコメント

>このようなものを見つけました
http://www.tokushukai.jp/rt.html

なるほど、宇和島病院はともかく、徳洲会自体は今回の万波医師の行為は悪くないとしているようですね。

ちょっとスレ違いになりますが、徳洲会の病院が進出しようとすると、地元の医師会や自治体から反対の声がおきることが多いようです。
医師会はともかく、なぜ自治体までも?というと・・・。

徳洲会のレセプトは高点数が多いんだそうです。そのため、徳洲会がある周辺の自治体の国保財政はみんなパンクしちゃう。
ですから自治体も基本的には徳洲会には来て欲しくない、ということらしいです。
まあ、伝聞ですから、本当のところはわかりません。

万波医師は、いけいけどんどんの徳洲会の風土にあった医師だったのかもしれませんね。

No.57 整形Aさん

技師を雇うなら、徳州会にいた技師が最高です。やっぱり症例数は重要ですよね。以前話を聞いてかなりびっくりしました。

> 明確な違法行為ではないので、警察に通報するなどはしていませんが(No.56 整形Aさま)

医療行為はもともと犯罪と紙一重であることからすれば、「明確な違法行為でない」という認識は少々呑気すぎる対応です。
防御の観点からは、判断基準は、「明確に違法行為でない」というところではなく、「正当行為であることが確実に立証できる」というところに持って来なければ、安全とは言えません。

そもそも手術は人の身体を故意に傷つける行為ですから、それが正当行為として、殺人罪・傷害罪などの違法性を阻却されるのは、
ひとえに、医学的に適正とされる治療法であり、かつ、患者の真正な同意を得ているという理由によります。
「医学的に適正」というのは、適応症例だけでなく、手順も含みます。こういうやり方で移植をしなさい、という学会ルールに反したやり方は、違法性阻却を受けられず、刑事責任を問われるおそれがあります。
刑事手続上、犯罪の成立を阻却する事由は、被告人・弁護側の立証責任とされていますから、医師の側で本件移植手術が正当行為であったことが立証できなければなりません。

さらに、もし本件移植が違法行為として刑事責任を問われることになれば、執刀した医師ばかりでなく、
手術に関与した看護師・医療技術者や病院の設備使用を許した管理者も、少なくとも幇助者として刑事責任を問われる可能性があり、足元に火が点いている話です。

>防御の観点からは、判断基準は、「明確に違法行為でない」というところで
>はなく、「正当行為であることが確実に立証できる」というところに持って
>来なければ、安全とは言えません。

YUNYUNさん,
教えて下さい.法に規定されていないことを後からこれは「違法行為」であると言うことはできるんでしょうか?それこそ後出しジャンケン?

>YUNYUNさん
つまり、以下のように考えるわけですか

1.医学とはもともと違法な物である
2.適切な手続き、ステップ、条件を課せられる事により、はじめて違法性が否定される
3.適切かどうかを証明出来なければ、違法性を認められる可能性がある

面白い記載が見つかりましたので、蛇足かも知れませんがリンクを張ります。

非医療分野におけるヒト組織・細胞の取り扱いについて
.法・倫理の視点からの基本的遵守事項
http://jtca.umin.jp/ethics/e_no3.htm

>No.50 脳外科医(留学中)さん

>「ドナーから癌ごと移植される」
 ことは既に実例があり、大規模な調査もあります。

 このような実例や大規模な調査まであったとは、全く知りませんでした。ご教示下さって、本当にありがとうございました。

> 法に規定されていないことを後からこれは「違法行為」であると言うことはできるんでしょうか?それこそ後出しジャンケン?(No.60 Level3 さま)

臓器移植の問題とは直接関係ないように思いますが、
以前にどこかのエントリでご質問いただいたのに、回答できていなかったことがありましたので、ここで私の見解を述べます。

まず、刑法の大原則として「罪刑法定主義」があります。何が犯罪とされるか、また犯罪をした場合の刑罰は、法律によってあらかじめ定められていなければなりません。
法律は国民の代表たる国会で定めるものですから、自分で自分に対するルールを決めたので、刑罰を受けても文句はないですね、というわけです。
行為が行われた後に新たに法律を制定して、遡及的に処罰することは、この罪刑法定主義に反するので、許されません。
逆に、行為が行われた後に法律を改正して刑を軽くした場合は、軽い新法を適用することとされています(刑法6条)。事後法ですが、本人にとって不利益にならないからよいとされるのです。

------
ところで、Level3 さまの問題意識を推察しますに、
移植に関するルールが定められる前に実行された手術例について、後から定めたルールに反していると非難することは、事後法による処罰と同様ではないか、
ということではないでしょうか?

しかし、これは原則の捉え方が逆です。
No.61 しま様が整理してくださったように、
1.医療は人体に対する侵襲であるゆえに、もともと違法な行為類型に当たる
(刑法の各条規定に引っかかる)
2.適切な手続き、ステップ、条件が整った場合に、はじめて違法性が否定される
(刑法35条の正当行為に該当すれば、違法性が阻却される)
3.医療を施す側が、違法性がないことを立証できなければ、刑事責任を問われる
(刑事訴訟法による立証責任の分配)

歴史的には、移植より先に、刑法の規定があったのです。
移植という治療方法が最初に考えられた当時は、それが移植を受ける患者にとって有効な治療方法であるかどうかは不明でした。有効な治療法でなければ人の体にメスを入れる行為は殺人罪や傷害罪になってしまいます。また、他人の臓器をもらうことについても、生体からなら殺人罪or傷害罪、死体からなら死体損壊罪に当たるという問題がありました。
つまり、そのままで移植をやったら、違法な行為類型に該当し、刑事責任を問われてしまいます。
それを、こういう症例なら効果があるとか、こういう方法で臓器をもらうなら倫理的に問題がないとかいうことが研究されて、専門家(移植学会)の手によってルールが提唱され、それが国民の多数によって支持されたために、その方法でなら正当行為として殺人罪等の違法性阻却を認めましょうという扱いになったのです。
つまり、ルールを作ることは、もともとは禁止されている移植という治療方法を解禁して、刑法による処罰対象からはずすという効果があります。
だから、ルールができていないうちに移植を行うこと、ルールが出来た後でもルールに反して移植を行うことは、正当な医療行為とは認められず、原則に戻って刑事責任を問われるのです。

>また、他人の臓器をもらうことについても、生体からなら殺人罪or傷害罪、
>死体からなら死体損壊罪に当たるという問題がありました。
>つまり、そのままで移植をやったら、違法な行為類型に該当し、刑事責任を
>問われてしまいます。

YUNYUNさん,
仰りたいことは理解できました.
ところで,今回のケースですが病気腎の摘出に関しては治療のための手術ですから(一部取る必要はなかったのではという話もあるようですが,ここでは摘出は必要であったものとして話を進めます),これは「傷害罪」には当たらないでしょう.

>こういう症例なら効果があるとか、こういう方法で臓器をもらうなら倫理
>的に問題がないとかいうことが研究されて、専門家(移植学会)の手に
>よってルールが提唱され、それが国民の多数によって支持されたために、
>その方法でなら正当行為として殺人罪等の違法性阻却を認めましょう

さて,こちらです.確かにIRBを通していませんからここは問題です.
しかし,「専門家...国民」は必要でしょうか.おそらく一般的にはIRBで「適切にチェックされて」goサインが出されれば,そこまででしょう.

なぜなら,どうやって「こういう症例なら効果がある」と示せるんでしょうか?行なわれていないものは示しようがありません.No.54にも書きましたが,「3ステップも4ステップも先て飛んでしまうような手術ではない」手術であるなら,その結果もおおよそは想定の範囲内になるでしょう.そういったことも踏まえてIRBでのチェックが通れば通常はそこまでです.
ここで「生体肝移植」を例として考えてみましょう.国内第1例は確か島根医科大学で行なわれたと記憶しています.この手術に学会は関与していたでしょうか?大学の倫理委員会で審査され,許可されたところで実施されていたと思いますが,違いましたでしょうか?(きっちり確認しておりませんので間違っていたら訂正して下さい)少なくとも「国民の支持」うんぬんはなかったと思います.医療知識のない人間にディスカッションできるものではないですし.
そもそも学会に法的拘束を行なえるような権限はないはずです.(違うなら反論して下さい.)会員を除名したり,非難声明を出す事は可能ですが,それ以上のことができるものではないと理解しています.

繰り返しますが,今回の問題は「IRBの審査」を受けていないことと,「インフォームドコンセント」がきっちりと行なわれていないことです.
ここはYUNYUNさんの言われるような極論を当てはめれば「犯罪」とされうることもありうるでしょうが....
No.54にも書きましたような「3ステップも4ステップも先へ飛んでしまうような手術」でしたら,さすがにIRBのレベルで決定してしまうには問題が多過ぎるかと思いますので,さらに上位で議論する必要はあると思います.

ところでYUNYUNさんに,お聞きしたいのですが「正当な医療行為」というのは誰がどのようにして決めているんでしょうか?
つまり,
>2.適切な手続き、ステップ、条件が整った場合に、はじめて違法性が否
>定される
の部分です.「適切な手続き、ステップ、条件が整った場合」というのは非常に抽象的でイメージが湧きません.先に書きましたようにYUNYUNさんの言われる「専門家.......国民....」は新規の治療(特に手術に関して)は条件には入らないと思われますが.一般には各施設のIRB(もちろん,きっちりこれが機能している必要がありますが)のレベルまで,というのは法律的にはおかしいですか?(もし,そのようなことをきっちり定めている法律があるならお教え下さい)

>みみみさん

こんにちは。ちょっとの間にだいぶコメントが増えましたね。
ジェンナーについてはほかならぬジェンナー自身が人体実験であることを認識し、思い悩んでいたようです。また当時のキリスト教全盛の社会で批判も強かったようです。

今回のドナーに関しては一般論として、あまり問題なさそうであるということはご理解されていたようですね。失礼しました。万波医師の件については手続き論としてまったく拙い。みみみさんのような疑惑は当然出るわけで、それに対して”わしゃやましいことは何にもない”としかいえない有様では擁護の仕様がありません。ただ正当な手続きを踏んでいたらこれはできなかったであろうと推測します。(だから良いといっている訳ではありません)

さて、ジェンナーや万波医師の行為に対する私の見解は”やってしまったものは仕方がない”です。犯罪行為があらばこれを処罰した上で、outcomeさえよければ結果を受け入れるしかないのです。もとより医学の発展は、一部パイオニアによる暴走の繰り返し、背徳の歴史であったともいえます。問題は今まではよい結果であったが未来はわからない、ひょっとして待ち受けるのはcatastrophicな結果ではないかということです。例えば想像ですがM医師ならば移植用の豚腎臓が手に入れば移植してしまうのではないか。その結果深刻な未知の伝染病をふりまいてしまうのではないか。こうしたパイオニアの暴走は倫理や道徳や法律や水戸黄門の印籠でも止められないのは歴史が示しております。しかも彼らは”すべては患者さんのため”という確信犯でもあるのです。彼らを思いとどまらせる手段を私は知りません。

亀レスですが
> No.43 Level3
>すべての脳死がそうではないかもしれませんが「座位先生が書かれま
>した,局所の脳死しかない」,に対して脳血流が無くなっている状態は
>「全脳死」という病態になりますということを言っております.
>ところで「結果として全脳死では脳血流も無くなってしまう」と理解してい
>ましたが,これは間違っているでしょうか?

たいしてまちがっていないでしょうね。

>意識があり,思考するから人間なのであって,そうでないなら生きて
>いるとは言えないと私は思っています.私にとっては「脳死」は完全
>に「個体の死」です.

コメントでは、ヒトの死の本質を正確に捉えていながら、意識や思考の物
質的基盤や機能中枢を特定出来ていないという、脳科学の制約を重視
せず、現行の脳死判定は意識や思考の不可逆性を直接証明していな
いという限界を過小評している、それに誤りがあると思います。

繰り返します。
意識や人格がヒトの本質でありそれらの非可逆的な喪失は個体の死で
ある。しかし、意識や人格の物質的基盤や機能中枢が特定出来ていない
以上、現行の脳死判定は、本質的な判定にはなっていないのです。

専門でないので、不正確ですが

大脳の前頭前野の不可逆的な活動停止をどうやって
評価するのか、もっと言えば、思考や人格に大きく関係する、
視床前核、内側核や、腹側遠扁桃体経路、皮質の総合解釈野
の機能停止を確認していない現行の脳死判定は、それだけでも
科学的精密性に欠けています。

>コメントでは、ヒトの死の本質を正確に捉えていながら、意識や思考の
>物質的基盤や機能中枢を特定出来ていないという、脳科学の制約を重視
>せず、現行の脳死判定は意識や思考の不可逆性を直接証明していな
>いという限界を過小評している、それに誤りがあると思います。

座位先生,
確かに原時点で「意識の座」は不明です.おそらく前頭連合野でしょうが...
ただ少なくとも「脳」以外はあり得ないですよね.個人的には大脳皮質以外考慮の余地がなく,かつ側頭葉や後頭葉は意識を介さずに聴覚や視覚,一般体性知覚の処理をしているにことが判明している現在では,「前頭連合野」以外にはないと考えています.古皮質etc.も考えていません.視床や脳幹は意識を支える働きをしていますが,意識の本体ではないと考えるのが妥当ですし.

検査方法に問題があるとおっしゃるわけですね.
「脳血流の途絶=全脳死」が納得していただけるなら,「脳血流の途絶」がわかる検査をすればよいと考えてよろしいでしょうか?
もちろん検査には感度と特異性の問題があるわけですが,これまでの検査に加えて,もし造影検査, DSAとか血流ドップラーetc.で脳血流が検出できないことが証明されたらいかがでしょう.PET-CTで脳代謝を調べるのも理論的にはよい方法だと思います.
もちろん脳死疑いの患者さんに造影検査などの大掛かりな検査を行なうことが現実的ではないこともわかっていますが...

現在の検査は,
(1) 深昏睡(GCS III-300)であること
(2) 最低4ch以上の脳波検査で30分以上flat EEGを確認
(3) 無呼吸テストで自発呼吸がない
(4) 瞳孔は固定して4 mm以上
(5) 対光反射,角膜反射,毛様脊髄反射,前庭動眼反射,眼球頭位反射,咽頭反射,咳反射の消失

除外規定を除いた上で上記を最低6時間以上おいて2度確認する,というものです.
個人的にはこれで「脳が生きている可能性がある」とは思えないのですが,どこに問題があるとおっしゃりたいのかお教え下さい.「flat EEGでもcortexが全て死んでいる保証はない」といったあたりでしょうか.

Level3 先生
お疲れ様です。先生の貴重なお時間を奪ってしまい申し訳ありません。

>確かに原時点で「意識の座」は不明です.おそらく前頭連合野でしょ
>うが、、、、

前頭連合野なんて組織は、指してる対象が広すぎます、全脳の半分近く
占めますから、「恐らく明日の天気は晴れのち曇り、所によっては雨で
しょう」に近い表現となります。

>視床や脳幹は意識を支える働きをしていますが,意識の本体ではない
>と考えるのが妥当ですし.

その辺も、推測の域を出ません。恐らく視床や海馬、扁桃核などは、
意識のかなりの部分を支えているでしょう。意識や人格は単一の機能
中枢があるのではなく、プラズマのように大脳を駆け巡っているのかも
しれないし、ある部分で錯覚かもしれない。

>最低6時間以上おいて2度確認する

この部分がまさしく、非科学的な妥協の産物であることを物語っています。良い知恵であることは否定しません。しかし、何故最低48時間おいて
4回確認しないのでしょうか。ここでは、脳死判定は医科学から確率論に
置き換わってしまっています。

問題は、このように、ヒトの本質と思われる意識や人格といったモノが
脳科学的には、明瞭ではないということ、それにもかかわらず、「脳死」
を判定せざるを得ない現実、そして一人歩きする「脳死」といったものと
の乖離です。

特に、脳死判定の動機が、実は人間の尊厳から来ているものではなく、
終末医療の経済性や移植臓器の新鮮性といったものから来ている
今は、脳死は、科学的な用語ではなく、社会的なものであるという
ことを、殊更繰り返し主張したいと思っています。

>level 3 先生  
>もちろん検査には感度と特異性の問題があるわけですが,・・・・

判定基準である以上、感度と特異性から逃れることができないはずです。1/1万だか1/10万打か分かりませんが、必ず脳死判定と判定されても脳死でない例があるはずですが、これは見捨てられるのでしょうか。

>判定基準である以上、感度と特異性から逃れることができないはずです。
>1/1万だか1/10万打か分かりませんが、必ず脳死判定と判定されても脳
>死でない例があるはずですが、これは見捨てられるのでしょうか。

こんな言い方をしますとおしかりを受けそうですが,個人的には「脳死」であっても「ほとんど脳死」であってもその差に大きな意味を感じません.
成人であれば,いずれであってもそれが回復して「意識が戻ることが100%あり得ない」状態だと考えているからです.回復可能なレベルをとうに超えています.
私にすればvegitative stateでも生きている意味はありません.(これはあくまで私個人の考え方に過ぎませんが)もし「自分自身がそのような状態になったとしたら一切の治療を拒否したい」と考えています.また,自分の家族がそのような状態になったとしたらやはり「断れる治療は断る」と思います.私の考えている「生きている人間の範疇」から外れるからです.
従って私は今の脳死判定基準で十分過ぎると思っています.
もちろん患者の治療に当たる時には,決められた通りに粛々と行なうでしょうが,それ以上の積極的治療を行なおうという気にはなれません.

>個人的には「脳死」であっても「ほとんど脳死」であってもその差に大きな意味を感じません.
自分もNo.71 Level3 先生と同じ意見です。一方で座位 先生のご意見も重要なものであると思っています。
このような議論を国民全体で行い・考えていくことが重要なのでしょうね。

No.64 Level3 さま

私の説明は、臓器移植と刑法との関係についての基本理念を整理するという目的で、大上段の議論を述べています。

> 「専門家...国民」は必要でしょうか.おそらく一般的にはIRBで「適切にチェックされて」goサインが出されれば,そこまででしょう.
概念的には、新規の移植技術が国民に披露され、学会かどこか専門家の権威筋から、今後のやり方としては各大学にIRBを設置してそこの承認を得たら移植を行うという手順でいきたい、IRBの構成はこんなもので、こういう内容を審査する等の提案がなされ、
「それなら国民はIRBのチェックを信頼して任せる」という合意ができたのです。(国民投票して決めるわけではありませんが、社会的なコンセンサスが形成されたとみることができる)
国民が提案内容に納得できず、「IRBに任せられない、その方法では移植は許さない」と異議を唱えたら、原則に戻り、移植を刑事処罰の対象とする扱いが続けられるでしょう。

> 「正当な医療行為」というのは誰がどのようにして決めているんでしょうか?
社会の中で何が正当とされるかは、国民の大多数が決める(社会通念)ものです。
つまり、ある移植の方法・手順を国民が正当なものと認めない=社会通念に反する ということになれば、学会が定めたルールだろうが、どこの大学のIRBが承認しようが、社会的には許容されないことになります。
そして刑事裁判においては、裁判官が「社会通念に照らして」正当であるか否かを判断することになります。

現実には、専門家の提案は権威があるから尊重されていることと、今までの提案では、医師だけでなく他の分野の識者の意見も取り入れて、社会に受け容れられそうなセンでまとめてあったため、反対されたことがない、というだけで、
今後に医療側がどんなルールを出しても一般国民が無条件で受け容れるという意味ではありません。

> 医療知識のない人間にディスカッションできるものではない
治療方法が病人に対して有効かという点については、確かにそうでしょう。
しかし、どのような場合に臓器提供を認めるべきか、定められた手順に従っていることを誰がどのような方法で確認するかという手続面については、医学的な知識とは関係ないことですから、素人にも意見を言える場面です。
とくに、「手続的な公正さ」は、専門的な判断領域の適正さを、素人なりにチェックする指標として重視されています。

医師のみなさんは、移植に限らず、社会の大多数の支持を得ていない段階で新規の治療方法を強行すれば、「刑事責任を問われる」という原則を、忘れないでいただきたいと思います。

------
移植の可否について、医療の素人が特にうるさく口を出すのは、臓器提供者側の利益が守られるかどうかが不安だからです。
(移植を受ける患者の問題は、治療効果や安全性がまだ確立されていない新規治療の導入という以上に、特に変わった点はないと思います。)

臓器を死ぬまで使いたい提供者と、できるだけ新鮮なうちにもらいたい受領者との利害は真っ向から対立します。
移植の執刀医は、両者の利益を同時に代表することはできません。どちらかと言えば、執刀医は移植を受ける側に近い立場ですから、逆に提供者側の利益を守るためのチェックが重要になります。
・死体からの提供であれば、死亡時の判定 死ぬ前に取り出されたのでないか
・病気臓器の提供であれば、本当に病気で摘出する必要があるか
・提供者がきちんと説明を受けて提供に同意したか

なお、本件で腎臓を提供することの同意が必要であると言われている点について。
社会通念としては、病気で摘出した臓器で、その人にとってはもはや用がないものであっても、その後でどのように利用してもよい、ということにはならないと思います。
これは人の体をどう扱うかという文化の問題です。
極端な話、日本においては、死んだ後はその人はもはや自分の体に用はないから、死体をどう扱ってもよいとは、考えません。埋葬という行為は、死後の体にも一定の敬意を払われるべきである、という社会通念があることを示しています。これは、その人の生前の意思(自分が死んだら遺体を埋葬してほしい)を尊重するという意味でもあります。
そのことと同様に、人が生きている間に、体の一部を分離した場合にも、その分離された部分をどうするかについて、その人の意思を尊重し、相当の敬意をもって扱うべきであるという社会通念があるといえます。
分離する部位によって、扱いは丁寧なものからいい加減なものまで、大きな差がありますが。
ツメを切ったら捨てる、美容院で切った髪の毛は捨てるのが普通、では、交通事故等で切断された手足はどうか。中絶された胎児はどうか。たぶん遺体の火葬と同様の処理しているのでしょうね? どうしたいか本人に聞かれることは実際はあまりありませんが、だからといって、産業廃棄物として捨てる、実験材料に使う、薬にすると言われたら、嫌だと思う人が多いのではないでしょうか。
だから、病気で摘出した腎臓についても、どうしたいか、移植用に提供してよいかと、本人の意見を聞かなければならないと考えられます。

------
脳死問題について。

私は個人的には脳死をもって人の死と定義するのでもよいと思うのですが、脳死を社会のあらゆる場面で広く一律に法律上の死と定めるのは、時期尚早であると考えます。
なぜなら、脳死の<判定>に不安があるからです。
つまり、心臓死は素人にも見分けが付き判定を誤魔化されることはないが、脳死は判らない。スコープを見せられて「脳派が平坦でしょう?」と言われても、どっかで機械のコードが切れてやしないかと、つい疑ってしまうのです。

根底に医療不信があると言われれば、その通りです。
しかし、医療の実績は「やっちゃいましたー成功したから刑事訴追はカンベンね」という、フライングやったもの勝ちの連続でした。国民は事前に、新しい治療方法を考えたから、今後はこういう手順でやらせてくれ、と相談されたことはありません。そのために「医師は移植に使用できるフレッシュな臓器を狙っており、臓器提供者の利益はないがしろにされている」という悪いイメージが定着してしまっているのです。
国民と医師が信頼関係を持てないということは大変不幸です。
せめて、今後は信頼関係を作っていくために、定められたルールをきちんと守る、医師内部の統制として違反者に対しては処分を行うことを徹底していただきたいと思います。

>YUNYUNさん
>医師のみなさんは、移植に限らず、社会の大多数の支持を得ていない段階で
>新規の治療方法を強行すれば、「刑事責任を問われる」という原則を、忘れないで
>いただきたいと思います。

仰ることには同意しますが、ただ、島根県立医大の生体肝移植は、一歩間違えれば医療の暴走ですし、結果も悪い結果に陥りました。それにも関わらず永末医師が問題視されたという話を聞きません。

新規の治療方法を強行しても、社会の大多数の指示を得るような努力をするのであれば、問題にならないケースもあるのではないでしょうか。フライングは医学の発展のためには必要不可欠でもあると思います。「新規の治療方法を強行するのであれば、世論からの批判、非難を覚悟した上で、自己責任で行う」と言うのはあるかと思います。


>国民は事前に、新しい治療方法を考えたから、今後はこういう手順でやらせてくれ、
>と相談されたことはありません。
これは医師だけの問題ではなく、患者側や国民の窓口がないのも一因だと思います。医師の間で医師会が問題視されているのと同じように、国民や患者側にも医療を考えるNPOが必要だと思います。医師側の団体と、国民団体と、患者団体が議論して、医療を考えるなり、政策を提言することが必要なんでしょうね。

移植を待ち望む患者は臓器移植の推進を望んでいるわけでしょうし、患者団体の声を聞いた医師が、別な国民から批判されるという事態は理不尽だと思います。

>No.73 YUNYUN さん
 No.74 しまさんのコメントとも関連がありますが、

>「医師のみなさんは、移植に限らず、社会の大多数の支持を得ていない段階で新規の治療方法を強行すれば、「刑事責任を問われる」という原則を、忘れないでいただきたいと思います。」

における、「新規の治療方法」の定義を教えて頂きたいと存じます。私ども医者と致しましてはこの定義が不明であれば何時「刑事責任を問われる」のか解りませんので。

> No.73 YUNYUN さん
> 医師のみなさんは、移植に限らず、社会の大多数の支持を得ていない段階で新規
> の治療方法を強行すれば、「刑事責任を問われる」という原則を、忘れないでいた
> だきたいと思います。

とのコメントが正しいかどうかは別にして(私は正直ある一部の場面では正しくないと思います。それについてはおおよそしまさんが述べていると思いますし、そして、見方によってはそれは法曹と世論の暴走だと私は思います)、原則新規の医療は倫理委員会にかけるというルールができあがりつつあります。そのルールについても、以前私が述べたようにヘルシンキ宣言に基づいているわけであり、それは西洋のキリスト教的価値観が支配しており、日本の社会性は全く考慮されていません。しかし、こうしたルールを作ることが必要であり、そのルールに原則則って行うことが必要です。ある意味グローバルスタンダードで誰にも理解しやすいルールだと私は思っています。
さて、こうした新規治療が具体的にどの様にして行われているのかというと、

1.新規治療法が有効であるという仮説をたてる
2.それを倫理委員会で審査する
3.施行する患者にはインフォームドコンセントをとる

というのが通常です。
つまり、社会の大多数というのは厳密には間違いであり、上記のプロトコールが現実として行われているわけです。
専門的知識も必要とされ、医療はそもそも不確定的であり、知れ渡ってもいないわけですから当然それは社会の大多数の支持を得られているとは限りませんし、私は必ずしも得る必要はないと思っています。というのは、それに理解を得るのは時間がかかることがあるからです。新しいことをやるには必ず反対勢力があります。実証されるのも時間がかかります。また、医療の発展の妨げにもなります(何も知らない人は医師のエゴイズムと批判するでしょうけど)。
ただ、上記の3つを犯した場合、現実にはルール違反となり、社会的に何らかの措置を執るべきと私は考えます。しかも、それは必ずしも刑事とは限りません。場合によっては行政処置であったり、民事であったりするわけで、ケースバイケースだと思います。

>治療方法が病人に対して有効かという点については、確かにそうでしょう。
>しかし、どのような場合に臓器提供を認めるべきか、定められた手順に従っ
>ていることを誰がどのような方法で確認するかという手続面については、医
>学的な知識とは関係ないことですから、素人にも意見を言える場面です。

YUNYUNさん,
これはもはや宗教とか信条とかの範疇に入ってくると思います.
このレベルのものは,意見を言うことに関しては誰も止められませんが,それ以上の強制力etc.を持つものには決してならないです.(なるべきではないです.)

確かにYUNYUNさんのおっしゃるように,移植の場合「提供者」側がきっちり守られるかということは非常に大切だと思います.これがなければ移植というものは「適切」とは言えないでしょうね.

そもそも,故意に「明らかに」殺意や傷害の意思を持って行なわれた行為を除いて,医師による医療行為に「刑法」を持ち出すのは如何なものかと私は思っています.

>No.71 Level3 先生

個人的には先生の意見に同意します。そもそも確率の低いことを言い出したらきりがない。ただ非医療者にとっては脳死判定されたものは絶対的に死であると思われています。つまり、1例でも脳死判定されたにもかかわらず脳死でなかった例が見出されると、脳死移植に関してせっかく作られてきた合意が根本から覆る懸念があるわけです。

>Level3さん
>医師による医療行為に「刑法」を持ち出すのは如何なものかと私は思っています.

門外漢が考えるに、「特権」なのか「例外」なのかと言う問題なのかなと思っています。「○○の事を守っている限り、医師は医療行為を行う権利を持っている」と解釈するのか、「医療行為は刑法の枠内にあるが、一定の条件を守ることにより例外として刑法の適用を除外される」と解釈するか。

法体系がどうなっているか存じませんが、後者だというのなら、医師は綱渡りを行っているようなもので、例外の枠を少しでもはずれた途端に刑法の網にひっかかるように思います。
もっとも、これは完全なピント外れかも知れません。単に、著作権法における適用除外を医療の世界に持ち込んだだけです。

>yama さん
>上記の3つを犯した場合、現実にはルール違反となり、社会的に
>何らかの措置を執るべきと私は考えます

新規治療と言うわけではないのですが、ソウル大学の黄教授の件、実際にはその3つのルールを全て守っているんですよね。しかし、世の大多数はこれに対して反対しました。

ルールを守っているかどうかは大切でしょうが、そのルールがどれだけ世の中の支持を受けているのかも大事だと思います。そして、この事は医療だけではなく、司法や政治に関しても同様です。

YUNYUNさん こんにちは

>移植に限らず、社会の大多数の支持を得ていない段階で新規の治療方法を強行すれば、「刑事責任を問われる」という原則

とおっしゃいますが、これは無理ですね。
例えばこの1年間に行われるようになった新規の治療方法をいくつご存知ですか?
僕も全然知りませんが、何百とあるはずです。YUNYUNさんがご存じないように社会の大多数の人も知りません。それどころか医者すらほとんど知らないわけです。

つまり、ほとんどの新規の治療法は、「社会の大多数の支持を得ていない段階」で行われます。
そして、今回みたいに何かあったとき、社会的に同意されていないとする議論が事後的に作られるわけです。主にマスコミによって。

今回の問題が元々臓器売買疑惑から始まったことは大事です。
臓器売買疑惑から始まったからこそ、マスコミには「とんでもない医者だ」という方向に流れ、世論もそっちに引っ張られがちです。
例えばこれが、美談として語られた可能性もあります。
そうなるともっと違った展開になっていたかもしれません。

いずれにせよ、事後的な世論によって「この治療は社会的に認められていない」という議論は正当な議論とはいえないでしょう。

なお、今回の治療行為に関しては僕は否定的に捉えていますがそれが正しいかどうかは自信ありません。

>立木さん
>そして、今回みたいに何かあったとき、社会的に同意されていないとする
>議論が事後的に作られるわけです。主にマスコミによって。


フライング的な治療は否定しませんが、何かあった時の事を考え、社会的な同意を受ける努力が必要かと思います。例えば、永末医師は倫理委員会を開いていなかったにもかかわらず、マスコミや世論からの批判は受けませんでした(開いていなかったんですね。調べてみて驚きました)。当時の日本の医療認識が要因かも知れませんが、永末医師の情報公開姿勢も一因だと思います。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/kikaku/002/4.htm


社会的同意を受ける努力は必要だと思いますが、私個人的には事前だろうが事後だろうが同じだと思います。ただ、事後に行う場合、結果が悪かった場合の責任、またそれによってその医療が社会から抹殺されるリスクは医師自身が取る必要があるでしょうね。

すみません、高度な議論の最中に茶茶を入れるようで恐縮なんですが・・・。
医師の皆さんのお話をうかがっていると、今回の行為の是非がどんどん相対化
されていって、なんというか、何が問題で何が問題でないのか見えなくなってきました。

もしかすると、瀬戸内グループの行為は「バレなきゃOKだったのに」と思っておられる医師の方も少なくないのでしょうか? 世間に知られなければ結果オーライで終わるはずだったのに、マスコミが嗅ぎつけたから厄介なことになった、とお考えの方もおられるのでしょうか? 
もし発覚していなければ、誰にも強制的に是正されることなく、いつの日かドナーやレシピエントに致命的な被害が発生して遺族が騒ぎ出すまで漫然と続いていたと思うのですが。

しまさんが例に挙げたファン教授の件は確かに3つのポイントをクリアしていました。しかし、もっと根本的なところに虚偽がありました。今回の万波医師にしても、発覚後の情報開示はボロボロで、釈明行為のタブーを連発しています。
非医療者の私が言うのはおこがましいかもしれませんが、意図的にせよ結果的にせよ虚偽や隠蔽を弄するような人物に新技術や新治療を試みる資格はないと思います。
これは電化製品やビールの新商品開発とはわけが違います。新治療開発は事実上の人体実験なのですから、なおのこと悪意や独善の介在を許さない清廉さが不可欠だと思います。プロの目から見るとはなはだ青臭い意見かもしれませんが。

>もしかすると、瀬戸内グループの行為は「バレなきゃOKだったのに」と
>思っておられる医師の方も少なくないのでしょうか? 

みみみさん,
おそらくここに来られている医師の方々は,そのようには思っておられないと思います.私も「バレなければ...」は問題であると思っています.

適切なステップを踏んで,IRBの許可と適切なインフォームドコンセントがドナーとレシピエントの両方から得られていれば,ここまでの騒ぎにはならなかったと思います.もしもそのようにして行なわれていれば,医学的な議論だけが残されるからです.
現実には,この「適切なステップを飛ばした」ことが問題視されているのです.医学的問題の前にここで,引っ掛かっているというのが現状でしょうか.

>みみみさん
>今回の行為の是非がどんどん相対化されていって、なんというか、
>何が問題で何が問題でないのか見えなくなってきました。

全てのことを相対化するべきだと思います
つまり、絶対的な善悪など存在しないと言うのを前提にするべきかと

調べれば調べるほど、島根医科大学の行為と万波医師の行為には、ルール的にはそれほど差はないように思うようになりました。また、黄教授の行為は、その2者に比べるとルールに則っているとも思います。

しかし、受ける印象は大きく違うわけです。では、何がどう違うのか。この辺りの差異を考えなければならないでしょうね。

> 1.新規治療法が有効であるという仮説をたてる
> 2.それを倫理委員会で審査する
> 3.施行する患者にはインフォームドコンセントをとる
> というのが通常です。
> つまり、社会の大多数というのは厳密には間違いであり、上記のプロトコールが現実として行われているわけです。[No.76 yama さま]

ここの理解が違うと思います。
倫理委員会は、概念的には「社会の大多数」の意見を代弁する役割を担っています。つまり、本来ならば国民一人一人に説明し、専門知識を教育した上で意見を聞かなければならないところ、それをしていては時間も手間もかかり過ぎ、実際のところ医学的に正確な知識を国民全員に施すのは不可能であるため、国民は倫理委員会に審査権限を委託しているのです。
従って、倫理委員会の審査は、一般国民が仮に医学的に正確な知識を取得した上で判断するとしたら、こう考えるであろう、というものが求めらます。
もし倫理委員会がそのような「社会の大多数の意見」から乖離した判断を出すならば、必ずや、倫理委員会に任せられないという議論が捲き起こり、倫理委員会の承認を受けた行為であっても社会的には正当性が認められないとして、民事・刑事の法的責任を問われる事態になるでしょう。

> ほとんどの新規の治療法は、「社会の大多数の支持を得ていない段階」で行われます。
> そして、今回みたいに何かあったとき、社会的に同意されていないとする議論が事後的に作られるわけです。主にマスコミによって。(No.81 立木 志摩夫さま)

事実として、「同意を得ていない」のであり、その通りに世論が作られることに、問題はなないと思います。
客観的事実と異なる世論が、マスコミに誘導されて作出されるならば問題ですが。

> 事後的な世論によって「この治療は社会的に認められていない」という議論は正当な議論とはいえないでしょう。

どうも医師の皆さんは、「治療として行うことであれば、何をしても許される(べきだ)」という方向に思考が傾きがちなところに、危うさを感じます。
事前か事後か、どちらが原則か例外かといえば、No.63で述べましたように、「刑法が先」「違法な行為類型に当たる」というのが出発点です。
医師皆さんがどう希望しようとも、現行法は厳然として存在し、正当と認められない限りは、違法なものとして禁止されているのです。

現実には、何百とある新規治療法を事前に公表して、国民に正当性の認証を求めることは、行われていないではないか、ということについては、医師が公表説明をサボっているというだけであり、そのことで正当性が獲得できるわけではありません。
正当性の承認を受けずに強行するということは、ひとたび何かあれば、検察は起訴する権限があり裁判所は有罪判決を下しうるものと、覚悟しておかなければなりません。

それでは有効な治療ができない、という意見もあるかと思いますが、その場合は、治療できなくて構わないのです。医師は自分の身を危険にさらしてまで、社会的に未承認の治療方法を試す義務はありません。
正当性が承認されていない治療法を求める患者のほうが間違っています。それを受けられなくて死んでも医学の限界、お気の毒だがこの時代に生まれた不運というべきです。

このスレッドに関してはYUNYUNさんがおっしゃられたことに賛成します。新規治療法の開発を促進するために現実に存在するハードルを低くするべきだ、あるいは様々な社会的、倫理的、その他の規制があるから医学の発展が阻害されているのだ、との論調には反対です。

YUNYUNさんがご指摘された内容の他に、研究者の立場からの意見をのべさせてもらうと、ハードルを低くすることでトライアルされる新規治療法の質が下がることになり、新治療法開発全体の信用を低める結果になることをおそれています。私がここでいう「質」とは、トライアルにいたるまでに積み上げられるべき情報の厚みのことをさしています。

現在私は臓器移植に変わる細胞移植治療の研究にたずさわっています。臨床経験者としては一刻も早くこうした治療法を臨床応用にもっていきたいと思っています。しかしそれまでに積み上げなければならないことは山のようにあります。ドナーからの細胞採取、細胞培養法、レシピエントへの移植法、それぞれについて最も有効かつ安全なプロトコールを慎重に作製しなくてはなりません。細胞培養に関しては使用する薬剤すべてについて安全性を確認しなければならないですし、移植する細胞自体の安全性は、DNAに損傷がないか、細胞が癌化していないか、ウイルスが存在しないか、などを確認できるプロトコールを作らなければなりません。

研究者間の競争が激しくなれば、いくつかの手順をはぶいてもはやく実際の患者で試してみたい、との誘惑がでてくることはさけられません。またこれらのプロトコールの多くは特許が申請されていることも多く、経済的な面からも早期臨床応用へのプレッシャーがかかる場合もあります。研究者は常に前へ進もうというと思っているので、ブレーキをかけるものが必要だと思います。

島根医大の生体肝移植ですが、やはり現在ならば許されないと思います。時間がなかったからというのは理由にならないでしょう。肝切除を安全にできる実績、移植患者の管理の実績、移植手技にブタ等で習熟していること、術中術後管理の体制が完備していることなどはもちろん、生体移植に関する倫理性についての考察等をIRBに示し、事前にIRBの承諾をうけ、その上で適応となる患者が現れるのを待つのがすじです。

IRBの承認を受けていないようなトライアルや動物実験は論文として発表することすらゆるされません。私が憂慮しているのは日本が倫理的な後進国だと欧米の研究者に思われていることです。IRBが国民に信頼されていることが必要だとYUNYUNさんはいわれましたが、日本のIRBは国際的にも認められることが必要だとつけ加えます。

こちらでは倫理的な問題について非常に厳しく考えられています。研究を進める上で動物実験はかかせませんが、マウスを使った実験でさえ非常に厳しいルールがあります。すべての実験はIRBの下にあるIACUCの承諾が必要であり、申請にあたっては詳細なプロトコールの提出が要求されます。実験の必要性、これまでの実績、手術の手技、麻酔、術後管理、安楽死のさせかた、すべてを書類にしますが、そこでさまざまな要求が出されます。麻酔にはイソフルレン、術後2時間は5から15分おきに状態を観察して記録すること、術後は鎮痛剤として1日に2回ブプレノルフィンを投与すること、1日2回体重測定をして、脱水が疑われたら生食を皮下注すること、などなど。ほとんどヒトと同じような対応です。

そしてプロトコールに違反する行為が見つかったら、実験は即刻中止でIACUCから呼び出されて事情聴取があります。場合によっては動物実験が今後一切できなくなります。欧米では倫理的問題に関して過激な行動をとるグループがあることが大きな原因でしょうが、個々の研究者の行動は所属する大学や研究所によくコントロールされているように見えます。

アメリカでのIRBの審査は概して厳しいと思います。しかしだからといってアメリカでの医学研究が他国に比べて遅れているかと言えばそうではありません。研究者は、昔は良かった、とぶつぶついいながらもルールにしたがっています。

患者のためを思ってやった、というのは免罪符にはなりません。医学全体の信用を下げる結果になりかねません。私の意見は医療関係者のなかでは少数派のようですが、万波グループの行為には明確に反対します。

倫理や道徳は「患者のために」という錦の御旗を降ろさせるための有効な手段となりえません。万波医師やその他もろもろ、倫理観や道徳観が欠落していたからかような治療を行ったのでしょうか?
彼らの暴走を止めるには、「IRBの承認を受けていない治療を人体に試したものは法律により厳罰に処す」のがとりあえず有効かと。それでも暴走する医師は出てくるものなのでしょうけど。

患者についての表現がかなりドライでしたが、私もYUNYUNさんの意見に同感です。

>しまさま
ものごとに複数の側面があることは理解するのは本当に重要ですが、相対化をつきつめると思考停止につながる危険性もあります。
わらにもすがりたい患者サイドから見れば、どんなにインモラルでリスキーな治療法であっても試みる値打ちはあるでしょう。だとすれば極端な話、患者が希望し医師が腹をくくりさえすれば、ドナー用クローン人間の養殖だろうが生体脳移植だろうが明日からでもチャレンジOKになりかねません。社会としての軸足をどこに置くかは冷静に考えるべきでしょうね。
件の3例の差異については、oregonianさんがおっしゃるように時代の趨勢もあるのでしょうが、データ捏造や実施件数サバ読みなどの「虚偽と隠蔽」が社会の信頼をみすみす損ねている部分も無視できないのではないでしょうか。

>場末の開業医さま
おっしゃる通り、捨て身の自爆テロを防止できないように、確信犯の医師の暴走は今後も止められないでしょう。
しかし、少なくとも日本が民主主義国家である限りは、これを必要悪として受け入れるのはやはり危険です。この国では、誰のどんな行為であれ、公正なルールに基づいているかどうか第三者が検証できるものでなければならないはずです。医療も例外ではありません。その検証に堪えられない行為は、たとえ動機がどんなに崇高であっても容認できません。目的は手段を正当化しないのです。
その意味で、「患者のため」を錦の御旗にして自分たちをルールの埒外に置いた瀬戸内グループの姿勢は、やはり単なる独善だと言わざるをえません。申し添えますが、これは治療法の有効性とは全く別次元の話です。
病気腎移植の普及を推進する前に、公正な目で徹底的に検証し、指弾すべき点は指弾するべきだと思います。この部分を曖昧にすれば、皆さんの危惧通り技術論に関係なく社会の同意を得られなくなり、心臓移植の二の舞になりかねません。

徳州会病院の調査結果を聞いて、少しやばいな、と思ってしまいました。

> No.80 しまさん
黄教授の場合は、むしろ、根底にデータ捏造があったことが問題ではないでしょうか?私の印象ではむしろこちらの方が問われていたような気がします(極めて主観的な味方かもしれませんが)。
あの事件は科学者の誇りを根底から崩す行為でした。我々、科学者も裏切られたのです(大学の医師は科学者の側面もあります)。
脱線して済みません・・・。

No.86 YUNYUN さんが説明してしまいましたが・・・・倫理委員会は基本的に医学者以外の人間も入って審議します。その審査は厳しい目が入り、文書も、医者が読んでいたら眩暈がするくらい一般向けに書かれています(といっても役人的文書であることは否定できませんが・・・・)。まず、素人向けに病気の説明から入って、少しずつ専門的になっていって・・・という具合にです。
私もおおよそYUNYUNさんの意見に賛同ですが、やはり例え倫理委員会で通ってもマスコミの言葉の暴力から批判され、国民も洗脳されたうえに「自分たちはそんな治療法承認した覚えはない!」と言われることを危惧します。国民の代表たる倫理委員会とはいえ、それは一部の有識者の集まりにすぎません。統計学的に言って国民の代弁をしているとは言い難いのです(代議士と違って選挙で選ばれるわけではありませんし)。

最後に、「治療として行うことであれば、何をしても許される(べきだ)」とは皆さん思っていないと思いますよ。言葉の解釈の問題だとは思いますが。ただ、それだけは付け加えさせてください。

No.87 oregonian さんのコメントにもあるように、今は論文に投稿するとIRB(治験審査委員会みたいなもの)を通ったかどうか、インフォームドコンセントはとったかをまずチェックされます。また、雑誌によってはnegativeな臨床試験結果が出ても公表しなければならなくするために試験開始時に登録を行い、それが出来ていないと論文が通らないような仕組みにもなっています。
昔と違って社会的な倫理的妥当性がないと論文が通らない仕組みが出来つつあります。
論文意限らず、私はこの原則は臨床にも応用すべきと思っていますし、実際に倫理的妥当性を求められています(再三言うように、この倫理観が理論的に正しいかどうかは問うていません。あくまでも社会のルールとして、です)。この倫理的ルールを犯したという意味では今回の徳洲会の事件は許し難し、ということになると思います。ただ、マスコミの論調は倫理的妥当性よりも単なる医師叩きになってしまい、むしろそちらの方にも不安を感じます。

こんにちは、YUNYUNさん。
整形Aです。

No.86 YUNYUN さんのコメント

>それでは有効な治療ができない、という意見もあるかと思いますが、その場合は、治療できなくて構わないのです。医師は自分の身を危険にさらしてまで、社会的に未承認の治療方法を試す義務はありません。
>正当性が承認されていない治療法を求める患者のほうが間違っています。それを受けられなくて死んでも医学の限界、お気の毒だがこの時代に生まれた不運というべきです。

まったくYUNYUNさんのおっしゃるとおりだと思います。
「今だに産科小児科救急をやってる医者はバカだ」と言われている時代、患者さんのためと信じこんで、こんな危ない橋を渡る医者がいるなんて・・・。
今は防衛医療、萎縮医療の時代です。これだけ突っ込みどころがいっぱいある手術をやる万波医師は、はっきり言って頭がおかしいとしか言いようがありません。

思うに万波医師は、一種の新興宗教の教祖様なんですね。常識的に考えると、やっていることはえらい怪しげなんですが、本人もよいことと信じ込んでいるもんだから、それについていくスタッフや患者がいる。
だもんで、当人たちはますます暴走する。

はっきり言って、万波医師の手術を、他の医療の先駆者と比べるのはどうかと思いますね。むしろ麻原彰晃、本名松本智津夫あたりと比べるべきじゃないでしょうか。

こんにちは、整形Aです。

「万波医師、麻原彰晃本名松本智津夫説」といった与太話はともかくとして、医療経済の観点から述べます。

「改革」のための医療経済学:兪炳匡 著
によりますと、先進国で医療費が高騰する理由は、高齢化社会でも医師が過剰なことでもなく、医療技術の進歩だそうです。
日本だけでなく、多くの先進国の医師たちは、患者さんのため、また医師自身の向上心や自己満足、周辺産業の経済的動機などのため、常に新しい医療技術を開発し、実用化してきました。
それが医療費高騰の最大の理由だというのです。
まあ、医師としても実感としても納得できますね。

さて、アメリカのように、富裕層向けのある意味青天井の医療費が許容されるところはどんどん新しい医療技術の進歩に取り組むのもいいと思います。
しかし日本のように、今後さらに国民の医療費を抑制しようとしている国にとっては、医療技術の進歩はかえってマイナスになるケースもあると思います。

というのは、新しい医療技術はえてして高価で、しかも恩恵を受ける患者さんは少ない可能性が高いです。
全体の医療費の枠が決まっているとすると、新技術に予算配分すれば、必然的に旧来からある安価でかつ安定した治療効果が期待でき、なおかつ多くの患者さんのための治療に対する治療費が削られることになります。
医療技術の進歩は、結果的に全体の医療を貧しくすることもありえると思います。

そんなわけで、少なくとも日本では倫理面もさることながら、経済的理由からも、医療技術の進歩には懐疑的にならざるを得ません。

>yamaさん
黄教授は、データねつ造ばかりでなく、倫理的にも問題になっていたように思いました。文科省のサイトから一部引用すると「医学研究の倫理上留意すべきとされている強制下で同意を求められるおそれのある部下の研究員からの提供が、研究責任者が承知した上で行われたこと」が私にとっては不快な行為ですね。

韓国ソウル大学調査委員会による調査結果について
http://www.mext.go.jp/b_menu//shingi/gijyutu/gijyutu1/gijiroku/006/06021601/004.htm

「韓国に何としてもノーベル賞を!」との国の意識が根っ子にあったとは思いますが、これだけ医療倫理というものが個人の都合でいいように解釈出来るというケースがあるというのは医療関係者にとっても衝撃的かなと思います。

No86:YUNYUNさん

第一点:

確かに年間何百種類と行われる「正当化されていない新規医療」が公表説明をサボっているだけではないかという議論はありえます。だがこれも形式化に過ぎて現実を無視した議論でしょう。

例えば、今YUNYUNさんが病気になって医者にかかるとしますね?
そのときに行われるだろう医療もそのような正当化の文脈を経ていないですよ??
誰かが始めて、論文や学会報告となり、だんだん一般の医療機関で行われるようになってくる(Cf:最高裁平成7.6.9いわゆる未熟児網膜症事件)わけですが、この経過の途中に社会的同意を得るというステップは含まれません。ほとんどの治療法は一般人が知ることなく、他の科の医者でさえ知らずその科のスタンダードとしていつの間にか定着するわけです。

ならばこのような治療の全てをYUNYUNさんは、それは社会的に承認されていないとして退けますか?
あるいは、今から改めて全ての医療現場で行われている治療法に関して承認を取るべきだと主張しますか?あるいは、どこかで社会的に承認されたのだと擬制しますか?
ご自分が治療を受けるときにその治療は(「どのような理由で有効とされているのか?」ではなく)「いつどのようにして社会的承認を得た、あるいはそれに準じると判断されたのか?」を確認してから治療を受けますか??

第二点
「社会的同意を得ていない」、というマスコミの議論について。

上記の観点に立つならば、ほとんどの治療法は社会的同意を得ていないわけです。
ならば個々のケースについて社会的同意を得ていないことを特に問題にするならば、それは魔女狩りに過ぎません。

第三点
「正当性が承認されていない治療法を求める患者のほうが間違っています。それを受けられなくて死んでも医学の限界」という意見について。

この議論を認めると、これさえすれば助かるのに、と判っている治療やこれ以外では助からないと思われる治療、何がなんだかわからないが多分こうするのがベストだろうと思われる治療全てをあきらめる羽目になります。
例えば、なんかよく判らない初めて見る感染症なんか手が打てませんよ??

整形Aさん

医療費の高騰の原因が医療技術の進歩によることは間違いないと思います。一つのスタンスとして、現在の医療水準は満足すべきもので、現在の平均寿命が維持できるのならこれ以上の医療技術の向上は不要である、というのはもちろんありだと思います。

整形Aさんがここで提起された問題は日本の医療を考える上で非常に本質的なものだと思います。

でも、そもそもなぜ総医療費を抑制しなければならないのでしょうか?医療は関連産業も含めて非常に巨大な産業となりました。自動車産業と同じように、非常に裾野の広い産業です。労働者の中で女性が占める割合が高いのも特徴だと思います。医療関連業界の発展を抑制する理由は何なのでしょうか。ひとつの産業の発展を重点的に抑制するという政策は妥当でしょうか。

抑制しなければならないのは国費または公的保険から支払われる医療費であり、医療費の総額を抑制する必要はないと思います。

もちろんこれは混合診療解禁を意味するので反対意見が百出することは承知です。このスレッドで提起する問題ではないかもしれませんが、医療技術の進歩を期待するのであれば、この論議はさけられないと思っています。

現在のシステムでは高度医療を平等に適応しようとすれば、整形Aさんが指摘されているように、従来から有効とされ、コストパフォーマンスがよく、しかも安全性がほぼ完全に証明されたような治療法がどんどん圧迫されて行きます。全体のパイが決まっているのならば当然の帰結です。

逆に高度医療の保険適応を大幅に制限する方向に向かうのならば医療技術の国際格差がひろがり、お金を持っている人だけが外国にわたって治療をうけるという方向に進むだけです。現代社会では国内事情だけで医療制度を築くことはできません。

整形Aさん、またその他の皆さんはどのようにお考えでしょうか。

私の意見はもちろん表層的なものだと思います。アメリカ金融資本のおもうつぼだ、という一部の方のご意見も最もだとは思います。でも今の医療崩壊の問題は国民医療費を長期的にどうするのか、という問題と密接にからんでいます。アメリカ金融資本論で議論を封じこむことは非建設的だと思います。建設的なご意見が伺いたいと思います。

No.94 立木 志摩夫さんの意見に賛成です。

開発研究と社会的認知との関係が問われています。

新規の治療法について社会的な認知が無ければ、原則的には
その医療行為は傷害罪に相当しているという考え方は、成立
していますが、
新規の治療法についての妥当性は、必ずしも、新薬の治験作業
のような認可過程を経るものばかりでなく、一部の手術や検査法では、
経験知として開発普及されているものも少なくないと思います。

後者のような開発過程は、これまでその方法の妥当性の判断を
専門家集団に委託していたからこそ、アイデアに富み実利的な
(すなわち救命に奏功する方法)ものが生まれてきたわけで
あって、この方法論を一々、社会的認知の枠組みに取り入れよ
ということは、既にこうした技術を享受している現代人は
生きてはいけないことになる。
(レントゲン、少量アスピリン療法、腹腔鏡、胃カメラ等等)

新規治療法の発明の過程を、全て公開するという立場では、
競争的開発は成立しないし、研究開発の内容は消費者に
理解可能で、理解させるべきという主張は科学に対する無知の
表明にも近い。

動物実験等によって検証しにくいある種の治療法の新規開発
においては、その独創性の確保(競争的開発)と倫理性の担保
の共存は簡単なものではないし、個別に論議するしかないの
ではないか。個別では、私は病気腎移植はルール違反だと考え
る。

とりあえず法的規制をかけるのは人工臓器も含めた臓器移植、生殖技術、クローン技術の人体適用に限ったらどうでしょうか。新規の技術は一朝一夕に出現するものではなく、その過程で議論に上ることが大半で、それはそのとき考えるということで。

万波医師は「患者のため」を目的としたのであって、「医学の発展」ということを目的としたわけではないと思います。もし万波医師が医学の発展と言うことを考えていたのならば、決められた手順を踏んでいたであろうし、学会にも所属していたと思います。その意味では、新規治療についてのガイドラインの話は今回の事件の本質ではないと考えています。
万波医師の行動を手段として真似をする医師はいないと考えていますので、今回の事件では医師としての側面と言うよりは一個人として裁かれるべきなのではないかと思っていました。そういうわけで松本智津夫被告と比較するべきだと言う言葉に妙に納得してしまいました。

それとは別に新治療のガイドラインと言うのはもっと議論されるべきだと思います。現実問題として、新しい治療を始める前に社会的認知をさせるのは不可能でしょう。最近では手術後の傷を毎日消毒しない施設が増えてきていますが、これも実績が無い段階では社会的認知が取り辛い行動だと思います。「ブラッドパッチ」も本当に有効なのかどうか分かりませんが広まってきています。また慣例だった治療法が実は有害であったという事もしばしばあります。
例えば「ブラッドパッチ」に重大な副作用が見つかった場合は誰かが責任を問われるかどうかという問題には興味があります。それが長期的には死に至るような副作用だった場合ならば現在の風潮からすれば誰かの責任になりそうな気がするのですが、どうなのでしょうか?

(断っておきますが、ブラッドパッチを否定しているわけではありません。思考実験の材料として挙げさせて貰いました。関わっている患者さんや医療者の方を不快にさせてしまったら申し訳ございません。それからスレッドの内容から逸脱してしまう気もします。もしそう感じましたらスルーして下さい。)

>oregonian さん
スタンダードの治療を国家が補償し、それ以上の治療を求める場合に民間保険を使用する。民間と国家が棲み分けるというのは、個人的にはあると思います。ただ、混合診療を認めた場合、国民皆保険のシステムが崩壊するのではないかという、漠然とした恐怖心はありますね。

この辺りは広く議論されるべき所だと思います。

>座位さん
>これまでその方法の妥当性の判断を専門家集団に委託していたからこそ

専門家集団が妥当性を判断するようなシステムになっていればいいのですが、専門家個人が判断するようなシステムになっていないのかが心配です。個人の裁量により、暴走に歯止めがかからないのが不安な点ではありますので、その点を考慮した制度になっているかどうかでしょうね。


社会的認容に関してですが、「新規治療法に社会的認容が必要」だとは思っていません。しかし、何かあった場合、万一の事がおこった場合は社会的認容が大きな力になるとは思いますが。また、社会的認容を得ない場合、その医師やその治療法、医療自体が社会から大きな批判を受けることもあるでしょう。その批判を覚悟して行うのなら、私は何も言えないでしょうね。

>No.90 yama さん
黄教授の場合、捏造の問題だけでなく、悲惨な患者を出しているようです。
万波医師と違い「英雄」であったため、なかなか訴えることも出来ず、報道されたのも捏造が発覚した後からでした。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=71767&servcode=400§code=400

新しい治療法を導入する倫理的規範としては
ヘルシンキ宣言が有ります 新規治療研究者は必読です
社会も開発者も納得できる内容だと思います。
http://www.med.or.jp/wma/helsinki02_j.html

万波氏がこれをクリアしていないのは明白で
しかもあんまり気にしていない。
周囲のスタッフ(院長など)がフォローすべきことでもあります

ところで両側腎摘出⇒移植は臨床的には可能性がありえるそうです
ネフローゼ症候群は多量の尿蛋白をそれによる低蛋白血症・浮腫をきたします。
これにたいして薬剤治療が基本ですがこれが無効なケースでかつ
症状が重篤な場合は腎臓を摘出して透析にした方が蛋白喪失が無くてよい、
というケースも稀にあり、医学生向けの教科書には書いてないが
専門家向けの教科書には記載があると某掲示板にありました

で、そういう腎臓を腎不全患者に移植したらまたネフローゼになるかというと
そうとも限らない ネフローゼの原因は多岐にわたり、免疫異常が原因の場合
免疫システムが腎臓の濾過膜を攻撃して膜の透過性が過剰になっているので
免疫異常が無い人に移植すればネフローゼが出ない可能性も理論的には
ありえるそうです。これも掲示板で見るまでいのげは理解できませんでした。
問題は移植してみないと機能するかどうかわからない点であり、
それについての説明が充分であったかも含めて問題があると思います。
未確認ですが結果的にはある程度腎臓は機能した様です。

それ以外の疾患 移植しても機能しなかった腎臓や癌切除後腎
摘出不要な腎動脈瘤等も含まれていたとの報道もありました。
個々の疾患について検討する必要がありますが
病的腎移植というアイデアそのもの可能性はいますぐ全否定するべき
ものではなく、ヘルシンキ宣言に準拠した手順で開発を検討するべき
だと思います。

それはそれとして、がん患者の集まる掲示板では
海のものとも山のものとも知れない開発途中の薬剤について
「倫理とか細かい話はどうでもいいからさっさと薬を渡せ」
というご意見が非常に多いという事実もあります。

また、腎移植希望者のが多い背景として透析による苦痛の問題が
今回 クローズアップされる機会が有ったのは有意義でした。
そしてこの苦痛について「透析医の技術が拙いのではないか
最近の透析はそれほど苦痛ではない」とするご意見もありました。
わたしは専門外なのでそれ以上については今のところ確認できないです。

しまさんへ

万波医師の医療行為は、非公開の行為である点で過ちがあると
思います。

『患者には自己決定権があり、医師の行為であっても、治療行為は
原則的に障害行為であって、患者の同意・承諾とその能力が必要
であり、更には、その行為が社会的に認められた医療水準を満たす
もので無ければならない。』
というふうに(言葉は正確ではありませんが)、法曹家などは
好んで、説明するようです。法治国家にあっては、法曹家の理論
武装は最強と思われていますので、大体皆さん納得されるのでは
ないでしょうか。

ところが、
1患者に対して、自らが自由に治療法の選択や決定を出来るよう
に、医療情報を与え理解させることは、そもそも無理である事
(真に理解できるには、最低医学部6年間の知識が必要)
2医療水準や社会的認知というのは抽象的で基準も無く、治療が
奏功しなかった場合にのみ使用される言辞である事。

新薬開発に見られる治験などは厳格な基準と公開性や倫理性を
配慮しているが、レントゲン、胃カメラ、バイオプシー、
手術法の改善、精神療法や心身医学的治療、薬剤の適応外使用
など現行の多くの診療行為は、いったいいつ、どのような基準で
社会的に認知されたのかは、全く持って明確ではない。
非配偶者間生殖補助医療などは、公開実施したパイロットがいて
初めて、体制整備、法整備されているのではなかったか。

私は、専断的治療行為を認める立場から発言しているつもりは
毛頭無い。マスコミや被害患者家族が、自分達の利益に適わない
時だけ、上述『』のような事を無原則に述べるのは、見ていて
不思議である。

医療の不確実性や医療技術開発の試行錯誤性とでもいうものを、
しっかり理解したうえで、利用して欲しいと思っている。
はきちがえた人権意識はモラルの低下から来ていると思う。

ナチスの人体実験やベトナムでの枯葉剤噴霧、過去の医学者や
化学者達が行った犯罪的な専断を、現代の医療者が再現すると
疑っているのでしょうか?

>そしてこの苦痛について「透析医の技術が拙いのではないか
>最近の透析はそれほど苦痛ではない」とするご意見もありました。
>わたしは専門外なのでそれ以上については今のところ確認できないです。

いのげざん,

透析の技術云々ではありません.医学的に腎臓という臓器の機能を考えるべきかと思います.腎臓の機能は単に「老廃物の排泄」というだけでなく肝臓に次ぐ重要な内分泌器官です.透析はあくまで「老廃物の排泄」を人工的に行なうだけで,それ以外の機能の代用をしておりません.
結果として,透析を長年続ければ動脈硬化を含めた種々の全身性変化を生じます.これは腎不全を来した基礎疾患が糖尿病である場合に限らないのです.
透析を行なうこと自体に苦痛は少なくても隔日に透析をする必要があるということは行動は制限されます.食べるものにも注意しなければなりません.果物など(カリウムを多く含む食物)は禁忌です.透析前後で体調も変動します.生命を維持することは可能でも,多くの困難を伴う生活が続くということを,理解しておく必要があると思います.

一般的な話として,慢性透析の患者さんにとって移植によって「腎機能」を再獲得することには大きなメリットがあるのです.もちろん手術やその後の免疫抑制による感染などから命を落とす危険性が新たに生じることも忘れてはなりません.その天秤を測る必要があるわけです.

IRBによる審査を通過して,インフォームドコンセントが得られていれば今回のように非難されることはなかったはずです.

> IRBによる審査を通過して,インフォームドコンセントが得られていれば
> 今回のように非難されることはなかったはずです.
マスコミには批判されていたかもしれませんが、少なくとも医師の間でのコンセンサスは得られていたでしょうね。

>座位さん
>ナチスの人体実験やベトナムでの枯葉剤噴霧、過去の医学者や
>化学者達が行った犯罪的な専断を、現代の医療者が再現すると
>疑っているのでしょうか?

再現しようとした医師がいた場合、どうするのかと言うことを問題にしているのです。疑っているわけではありませんが、黄教授のような例もあるわけです。個人個人の良心に委ねるよりも、システムで対処するべきなのではないかと思いますが。

そのシステムに、患者や一般人が参加するのが望ましいか否かは、別の話ですね。


>Level3さん
>IRBによる審査を通過して,インフォームドコンセントが得られていれば
>今回のように非難されることはなかったはずです.

黄教授のケースを考えるに、IRBをチェックするシステムも必要だと思いますが、日本ではどのような対策が取られているのでしょうか。例えば、IRBのメンバーを人選するにあたって、中立性は考慮されているのでしょうか。

>No.106 しまさん
>疑っているわけではありませんが、

実際は、軍直轄の医療従事者による人体実験や、
科学者による大量破壊兵器開発の歴史という事実
が、民衆側に不信感を生み、科学者側の反省と
なったわけです。
今日の諸々の公開型の審議会形態の誕生も、元はと
いえば、そのような歴史の教訓を意識したものです。
確かに、我々医学者は、過去の戦争犯罪を十分に
反省しなければならないでしょう。

そして、反省すべきは、科学者だけでもない。

現在の、過剰な個人の権利意識は、モラルの低下の
別表現のような気がしています。
(スレ違いの早老中年の独り言になりましたね)

>座位さん
過剰な権利意識は基本的にはありだと思います。ただし、過剰な権利を主張すると言う事は、その分だけ相手の権利を過剰に受け入れると言うことでもあると思います。例えば、憲法では幸福追求権が保証されているわけですが、自分の幸福を追求するがあまり、相手の幸福を損なうと言うのでは立派な人権侵害です。

自分の意見を主張するのは自由ですが、同じ分だけ相手の意見に耳を傾けるべきですね。もっとも、自分にこれができているのかというと、疑問なのですが。

流れからどんどんそれますが、非医療側の反省点としては、イレッサを薬害扱いしてしまった事でしょうね。患者のためを思って医師や厚労省は必死の努力を重ねてきただろうに、その努力を否定したばかりか、悪者扱いしてしまっている。

薬害と言われているエイズも同じでしょうし、このような例が山ほど、星の数ほどあるのでしょうが、無知無理解のあげくに犯罪扱いされてしまっては、一般人と話し合うこともできないでしょう。密室にしてしまった原因の一端は一般人や患者も背負っているかと思います。

No.109 しまさんの「犯罪者扱い」を読んでから、どうしても気になっていることを書かせて頂きます。

YUNYUNさんのコメントの中に
>「医療行為はもともと犯罪と紙一重」「もともと違法な行為類型」
という表現がありました。YUNYUNさんの硬軟織り交ぜた医者に警鐘を鳴らすお手並みは見事だと思います。もし医者をやられても名医でしょう。但し、医者にとっては「良薬」でも非医療者には「劇薬」になる場合もあります。

「歴史的には、移植より先に、刑法の規定があった」のは確かですが、外科手術は江戸時代からありました。江戸時代にも刑法はあったのでしょうが、「切り捨て御免」のご時世に刑法が医療行為を勘案したとは思えません。「違法性阻却」理論の以前から医療行為は存在し、およそ犯罪とはかけ離れた視点で社会から認知・容認されていた筈です。この観点からは「医療はもともと犯罪と紙一重」という表現は不適切に思います。

 素人判断で申し訳ありませんが、「違法性阻却」は医療のためではなく、刑法が現実との矛盾や乖離が無く成立するための方便であると思います。現実の後追い理屈に過ぎないものを以て、「もともと」などと歴史的時間軸を逆転させる形容句を付けるのもいかがなものかと思います。ググってみても「医事刑法」というのは歴史も浅く、研究者も少ない様です。長らく法学者も法律家も生命科学や医学の進歩に無頓着で、「ゲノム」「クローン」「脳死」などこれまでの法律や法解釈では対応できない時代になって初めて医事刑法を本気で研究する様になったのではないかと思います。つまり医事刑法は時代の後追いであり、初めから堅牢な構造をもった不可侵の存在とはほど遠いと思います。

 さらに言うなら、本来善意で行う医療を、「犯罪と紙一重」と解釈せざるを得ない刑法における傷害や殺人の定義が社会通念を正しく表していないのだと思います。整合性や一意性を重視すれば現行刑法の様にならざるを得ないという理屈は分かりますが、逆に言えばその程度のものでしかないのだと思います。これを金科玉条、真理のごとく振りかざす論調には違和感を覚えます。法律家にとっては「現行刑法の枠組みで考えれば」という言わずもがなの前提で仰る言葉でも、法学的思考訓練を受けていない一般人には誤解を与える危険性が大きいと思います。刑法など全く知らなくとも、漠然と「犯罪」対するイメージは持っているのが普通でしょう。

「犯罪と紙一重」と聞かされれば、「違法性ぎりぎり」「犯罪とは認定されないまでも悪事であり人としては許されない行為」を連想するのが一般的な反応であろうかと思います。「医療行為はもともと犯罪と紙一重であるならば」たぶん病院へ行く人はあまりいないと思います。少なくとも医者になる人間は極端に減るでしょう。父親も医者でしたが、自分の親を犯罪者と紙一重などと思ったことはありません。「医療行為は犯罪と紙一重かも知れない」などという認識が自分の中に僅かでもあれば、私は決して医者にはなっていません。

 「字面の斬新さ」に惹かれて意味をよく理解しない言葉を使用したがる傾向というのは多くの人にあると思います。確かにこのブログでは医者と法曹の発言が多いのですが、ROMのみの方を数えればおそらく非医療者かつ非法曹の方が大部分かと思います。そうした状況の中では、言葉使いにもう少し慎重になられた方がよいのではないかと思います。

>正当性が承認されていない治療法を求める患者のほうが間違っています。それを受けられなくて死んでも医学の限界、お気の毒だがこの時代に生まれた不運というべきです。

生存権や期待権にも限度があるという正論で、まことに仰る通りであると思います。一方我々医者は「患者を救うために全力を尽くすが当然」という意識がありますから、患者さんを前にしてはこの様な主張はなかなか難しいという現実があります。弁護士さんがこの様にきっぱりと言い切って下さるのは有り難いことです。法曹大量時代(正確には弁護士大量時代)を迎えて、YUNYUNさんとは真逆の態度、お仕事のために生存権・期待権をやたらと煽るアンビュランス・チェイサーの様な方が出てこないことを祈るばかりです。

>「もともと」などと歴史的時間軸を逆転させる形容句

古代ハムラビ法典の前史、伝説の時代はどうだったでしょうか?
今から数万年前のものとして、スペインのアルタミラ洞窟の壁画の中
には原始的な医術のイラストが残されています。
イタリアのヴァルカモニカ渓谷の岩窟画にも、太古の時代の病人を
取り巻く儀式が描かれています。どうも、医学は魔術と僧職の仕事
から始まったようです。中国では紀元前2千数百年前に牛首人身の
姿をした神農がおり、農業と医学の道を初めて説き教えたといわれ
ています。神農は百草を嘗め、川や泉の水を飲んで毒味をし、一日
に七十もの毒にあたったとされています。そして365の薬物を残した。
エジプトでは紀元前約2千五百年ごろ第3王朝の高僧イムホテプが
医者として尊敬され神とされました。彼は人身鳥首の神トートから
医学を授かったとされています。大古のギリシャではオリンポス12神
の1つアポロンが最古の医神とされ、医術、音楽、詩歌、託宣、牧畜
の神とされました。アポロンの子アスクレピオスは、地上のすべてを
知るヘビとケンタウロスに医術を学び薬草や催眠法を用いて病人を
治癒したという。
 こうした伝説の時代、医術は未だ他の技能と分化していません
でした。雷や火事、水難といった自然災害とならび畏れられた外傷、
病、死に対抗するためには、呪術師や現人神の為す不思議な技術、
トリック、まじない、祈りしかありませんでした。

医学医療は、ハムラビ法典を参考にする法学者の意見とは異なり、
十分に古い職業だと思います。

だから何なんだといわれても、困りますが。

より『科学信仰』の強いものが医者に、より『神学論争』に共感する
者が、法曹関係者になってる気がします。
(法曹関係者へ、偏見でスミマセン)

No.106 しまさん
IRBのメンバーは一応(外部かどうかはともかく)全く医療と関係のない人たちがメンバーの中に入っていることが必須となっております。
従って文書も素人でもわかるように記載することが求められています。

P R

ブログタイムズ

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