エントリ

 このエントリは、町村先生のブログ(Matimulog)のエントリ「juge藤山雅行裁判長のお話」と同エントリの町村先生のコメント(特に以下のコメント)を念頭において、それらに対する私のコメントとして書いたものです。

亀レスになってしまいましたが、
>田舎者さん
>素朴な疑問なのですが,法的に検査・治療の是非を問う事に
>法曹界の方々はどうお考えなのでしょうか?
>検査にしても治療にしても法律でどれをどう行うかは定めてい
>ない事が殆どだと思われますが(結核予防法等検査内容まで
>規定したものはあるものの,『「風邪」にこの薬出すべし』
>などの規定は無い筈ですが),鑑定人(で良かったでしょう
>か?)の意見を聞きつつその是非を判断する事が十分可能と
>の判断なのでしょうか?
十分可能かどうかというより、そうせざるを得ないのです。
おっしゃるとおり診療方法が法定されているわけではないですし、そもそも法律で決めるような性質のものではないですが、過失があれば、損害賠償責任が生じ ることになっているし、過失の有無は当時の診療経過と医療水準に照らして「なすべきことをしなかった」または「すべきでなかったことをした」と認められる かどうかで判断されます。
これには大きな限界があって、コメントを寄せてくださる方々も繰り返し強調されていることですが、不可知な領域があることは法律の実務家の間でも広く認識されています。
・そもそも病気の一般的な性質や個々の患者の病因が診療時にも必ずしも明らかではない
・症状が明らかになっても、治療法が絶対確実ということはない
そのことを踏まえた上で、それでも「なすべきことをしなかった」または「すべきでなかったことをした」と認められるならば、過失有りと判断されます。
少なくともそれがこれまでの医療事故訴訟の判断前提で、「当時の医療水準に照らして」という言葉はそうした意味です。
個々の民事裁判で、そうはなっていない、不可能なことを要求したり当時は分からなくて当然のことを後出しじゃんけんで要求しているというご批判は、個々の事件のいくつかに関して当てはまるのかもしれません。
しかし一般論としては、今でも上記のような判断基準によっています。
エントリで「正しい医療」と書いたところで、例えばガブリエルさんには「怒りを禁じ得ない」とまで書かれてしまいましたが、不幸な転帰を辿ったからといって「正しい医療」ではないという判断をするわけではありません。
投稿 町村 | 2007/01/19 08:34

 町村先生の上記コメントは、法解釈論、訴訟制度論として至極全うな見解であって、法曹の大方の支持を得られるものと思います。もちろん私も同様です。
 私のブログでも法曹関係者のコメンテイターの皆さんが、医療側の司法制度に関する理解を得るべく忍耐強く努力された結果、かなりの程度の理解は得られたと考えています。

 しかし、問題は医療側の裁判官(または検察官)の医療事故に対する事実認定能力または事実評価能力に対する深刻な不信感があることです。

 町村先生は

不可知な領域があることは法律の実務家の間でも広く認識されています。

とコメントされていますが、医療過誤領域では、刑事の業務上過失致死傷における「過失」にしろ民事不法行為の「過失」にしろ、それが規範的要件であることから、医療側が「不可知である」と主張しても、司法側が「可知であるべきだ」として医療側の責任を肯定する裁判例が散見されることが不信感の原因の一つではないかと想像しているところです。

 そしてその不信感は現時点では特に産科に顕著に表れているようですが、敗訴当事者の個人的な不平不満に止まらず、その判決理由が必ずしも法律家的な事実認定上及び解釈論上の射程距離限定が考慮されずに、法律素人の医師の感覚によって抽象化一般化されることによって仮に少数の判決といえどもそれが産科医師(及び参加希望医学生等)の恐怖感として普遍化され、訴訟リスクを恐れる産科医師の減少によって医療制度の健全な維持が困難になっている現実が指摘されているのです。その現実が医療崩壊と呼ばれているものです。

 つまり医療崩壊の大きな理由として裁判官の事実認定(評価)能力に問題があることが医師側から主張されているのです。
 藤山裁判官の講演からは少なくとも町村先生が紹介された範囲では、そのような問題状況の認識が全く伺われませんでした。
 そのような認識なくして医師側に真実を明らかにする、その意味で医師側に不利益となりうる立証を求め、医師に過失なき場合の和解に名を借りて完璧な医療を求め、防衛医療を批判すれば、医師側の強い反発を招き司法不信を増大させることは、多くの医師の声を聞いてきた私には当然のことと思われます。

 このような医師側の反応は多分に感情論を含むものであることは私も認識しています。
 しかし訴訟制度が単なる論理的な法解釈と法適用の場ではなく紛争解決の場であると考えるならば将来的被告予備軍である一方当事者側(医師たち)の多くが裁判官に対する信頼を失うならば司法はその領域において機能不全に陥ります。

 たぶん町村先生から見ると医師側の反応はとても過敏または過剰に映っているのではないかと想像しています。
 私自身、福島の大野病院事件の影響について、元検的にはかなり例外的な事例と見ることも可能ですから、それほど一般化される恐れは感じなくてもいいんじゃないかと思うのですが、医療側から見ると、大野病院事件は、産科医療のど真ん中に投下された核爆弾とも言える甚大な一罰百壊(一罰百戒に非ず)効果を発揮してしまったようです。

 私のブログの常連さんについて言わせていただければ頭脳明晰で良識も常識もある方々です。
 ネットでよく見られるステレオタイプの罵倒オタクではありません。
 ではなぜそのような人が激しく反応するのか?

 私が思いますには、やはり医師の皆さんは自分の仕事が好きなんだと思います。患者さんやその家族が喜ぶ顔を見たいのだと思います。
 それが検察や裁判官の不当な判断によって、やりにくくなっていることに対する諦め切れない強い苛立ちが藤山裁判官や町村先生に向けられたものと思われます。

このようなノーガード戦法は、それ自体、よりよい療法を患者に分かる形で説明すべき義務を尽くしたとはいえないというのが藤山部長の評価で、そのことを医療関係者に伝えたいということであった。

 これは問題意識の高い医師たちの神経を相当逆撫でしたと思います。
 「よりよい療法」というものについてのイメージが決定的に齟齬しているのかも知れません。
 医師たちは医療行為は治療効果とともにほぼ当然にリスクを孕んでいると認識しています。それは正しいと思います。
 では「よりよい療法」とは何か?
 医学素人的に言いますと、より治療効果の高い医療という意味を含むと思いますが、それはよりリスクの高い医療である可能性があります。
 医師たちの不満と不信は、医療行為の当然伴うリスクが現実化したと見るべき場合にも、司法はそれをもって医師の責任根拠にするというところにあります。
 つまり結果責任を問われていると考えています。
 そうなれば、医師が結果回避を最優先に考えることは当然のことです。

 藤山裁判官は、「そのことを医療関係者に伝えたい」ということのようですが、医師も藤山裁判官に伝えたいことが山ほどあります。
 藤山裁判官には現場の医師の声を聞く耳があるのでしょうか?

 裁判官から見て患者と医師を対置した場合、弱者患者対強者医師という構図は全くないでしょうか。
 私が司法試験に合格したころは、医療過誤訴訟は最も原告が勝ちにくい裁判でした。
 そのような感覚のままの裁判官が今指導的立場におられるのではないでしょうか。
 医師から見れば、警察検察権力や裁判官は、自己の生殺与奪の権力を握る絶対的強者に映っている可能性があります。

 ここまで医師寄りの発言を繰り返していますが、医師側も民事的に無責任にしろという主張はごく少数です。
 医療行為の過失があれば民事責任を負うべきであるという声が多数だと思います。
 繰り返しますが、問題は過失の認定のあり方です。

 刑事免責を求める声はかなり多いです。
 これは過失犯の非刑罰化と医療事故の再発防止の観点から傾聴に値すると思っています。

 ところで、私が医療崩壊問題に関心を持ったきっかけは、友人の県会議員から聞かされた地方の医師不足でした。

 つまり、妊婦や患者が困っているということでした。
 医療崩壊について積極的に発言している医師の憂いもそこにあります。
 自分のことだけを考えるならば、黙って最小限度のことをしているか、とっとと転職すればいいのですから。

 町村先生を強く批判した医師の声の背後には、

 自分たちの能力を精一杯発揮させてくれ。
 私たちはもっとたくさんの患者を救いたいんだ。

という思いが感じられることを最後に申し添えます。

 この一文が、医療崩壊という現状の認識の一助になれば望外の幸せです。

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コメント(49)

いつも私が述べていることですが、一応ここでも再度述べさせてください。

実際の医療現場では十分な指導医がいるとは限りませんし、地方では最新の知識が手にはいるとは限りません。そもそも特に地方においては医師が忙しすぎるためにミスを犯しやすく、おまけに急変時には興奮し、なかなか100%正しい緊急対応を取れないものです。
それをふまえた上で、「なすべきこと」と「なさないべきこと」ですが、医療の観点から言えばこれはきわめて曖昧になります。定義付けは困難と言って良いでしょう。教科書やガイドラインに載っているではないか、と反論される方もいるでしょうが、教科書はあくまでも教科書です。実際の臨床は複合的要因が絡み合い、「なすべきこと」をするのをためらったり「成さないべきこと」をせざるを得ないこともあります。そもそも「なすべきこと」は何らかの患者の不利益との引き替えのこともあります(例えば大野病院における子宮温存と子宮摘出)。
だから一緒くたに「なすべきこと」あるいは「なさないべきこと」をもって責任問題を追求するのは私は間違っていると思います。
過失があれば医師だけでなく、その背景にある政治的責任や病院の対応なども考慮し、ささやかな民事的責任を負わせるのは仕方がないと考えます(但し、あまりにも高額な賠償は反対です)。しかし、刑事的責任とするのは今後の医療を考えたり、必要な証言を得るためには課するべきではないし、少なくとも日本以外の先進国では当たり前のことで、しかも成果があります。

反論はあるでしょうが、私なりに考えた刑事的責任のあり方は次のように考えますが、コンセンサスは一般には得られないでしょう(正しいとはもちろん限りません。間違っているよ、と思われた方はどうぞ反論をお願いできればと思います)。

1.緊急でもないにもかかわらず投薬量を間違えた
2.緊急でもないのに左右を取り違えた
3.故意の殺人
4.緊急でもないのに研修医(あるいは大部分の医師)でも間違えないようなミスをした

もちろん、それを監督した国や大学、病院、上司の責任もあると考えますが、刑事は個人のみを裁くので実態にそぐわないというのが私の見解です。
医療における判断ミスはレトロスペクティブにしか解明できません。民事的責任も負わせるかどうかは微妙だと私自身は思います。
民事的責任についてはプロスペクティブに見た場合の過失の有無ですが、もちろん医師だけでなく、責任配分に応じて国や自治体、病院に課するべきで、個人に押しつけない(人として当たり前と言えば当たり前ですが、現実にはまかり通っています)ことが肝要でしょう。

医師をはじめとする医療従事者にとって一番大切なのはグローバルに見て患者のためになる医療を推進しいくことです。国はそれを助ける政策をとることだと思います。
目の前の患者ももちろん大事ですが、人間という社会に生きている以上、グローバルに見る目はもっと大事です。だから本来は被害者もそれに寛容にならなくてはならないのです。それが自由と平等というものです。刑事だけでなく、民事もこれに含まれるはずだと私は解釈しています。
まあ、民事は動く金額が多いだけでただの喧嘩あるいは仇討ちだよ、と言われれば返す言葉もありませんが・・・。

モトケン様

別に医師に向けて書こうとしたわけではないのでしょうが、私としては非常に胸を打つ記載でした。

で、本筋と関係なくて申し訳ないのですが。

「地方の医師不足」を読むとある意味非常に懐かしい感じがして不思議です。半年弱前のことでしかないんですが。今コメントする人たちが初期の意見交換(言い合い?)をしている感じです。この頃から長期にわたり大勢の議論をうまくコントロールし続けられたモトケン様のお力を称えたいと思います。

当初の私は確かに司法について無知でした。無知なるがゆえに司法全体を「よく分からないワルイもの」としてイメージとしてしか把握していませんでした。しかし、ここで司法の方々と(実社会ではまずありえない機会ですが)意見を交換させていただくことができ、本当に良かったと思っています。時に反発し、反目し、最終的には教えられ、しかしやはり現行のやり方にはどこかに問題点はあり、それが自分でも理解でき、明確になり、自分が成長していった気がします。

で、町村先生はこのブログをお読みなのでしょうか。全部読んでもらいたいものです。町村先生が医学に対してどれほどの知識があるのか分かりませんが、同じく勉強してほしいものです。口はばったい言い方ですが、いくつになっても成長できるものだと思います。

また、かのブログは今誰のブログかよく分からない状態にやっぱりなりつつあると私は感じているのですが、町村先生のコメントを選んで反駁なさるモトケン様の怜悧さに感服しました。

>モトケンさん

医療は崩壊してきているんでしょうか?

この崩壊と言われている現象は、本当は、崩壊じゃなくって、再生の過程なんじゃないでしょうか。

大野病院の例を挙げれば、一人医長で寝る間もなく、一人医長だからそれなりの責任感で、無理な手術(この言葉には、また、反論があるかも知れませんが)をする事が、国民の求める「医療」なんでしょうか。

箱もの行政で,住民の為だとか何とか言って、至る所に病院を作り、医療をゆがめてきたのは誰だったのでしょうか。

それを仕方ないとして、一人医長で,やらせてきたのは、一体、誰だったのでしょうか。

そんな医療なら、私は、崩壊すりゃ良いと思っています。

ただ、何度も言いますが、医療は患者が中心であれば良い。そんな医療が再生すれば、それで良いんじゃないでしょうか。

>モトケンさん
>医学素人的に言いますと、より治療効果の高い医療という意味を含むと
>思いますが、それはよりリスクの高い医療である可能性があります。

個人的な印象では、ある療法があるとして、メリットとデメリットを患者さんにきちんと説明するべきと言うだけの話ではないかと思います。


>藤山裁判官には現場の医師の声を聞く耳があるのでしょうか?
それに関してはブログで問わずに、藤山裁判官に直接問いかけるべきだと思います。つまり、医療関係者向けに藤山裁判官の講演会を開けば宜しいのかなと。

>No.4 しまさん
>「患者へのデメリットの説明」は実際にそのデメリットが起こった場合、医療者側の責任を免除してくれるものではない。というのが医療者側の共通認識です。
いまどき、外科的治療を行なう医療機関で事前の同意書に合併症としての出血・感染といった項目がない医療機関はありません。それでも患者が手術中に出血死すれば最悪患者の目の前で手錠をはめられて連行されることを医者は知ってしまいましたので。

実際には株のように得をするか損をするかわからない。しかし客は「絶対得をする商品だけを売ってくれ」と要求する。「損をするかもしれません」と書いた同意書にサインを貰っても一切無効と判断され、損した分を何十倍にもして賠償しろと裁判所が命令する…
これが今医療がおかれている立場です。
もう辞めたくなります。というか、辞めます。

追加します。
しかも「応召義務」があり、店を出す限り商品を売るのを断ることさえ違法となる。
これでは、店を畳んで商売換えするしか道はありません。

>つくねさん
そのような側面もあるかと思いますが、某F判事の判決の一つで、医師の説明義務違反を完全に否定した判決もありますので、デメリットを説明することには意味があるかと思いますが。

同意書に関しては、同意書の在り方自体を問題にした方がいいかも知れません。また、同意書に関しては医師だけの問題でもないようには思います。

>デメリットを説明することには意味があるかと思いますが。
「意味がある」レベルでは意味が無いのです。(判りにくい表現ですが)

司法関係者の方々は裁判が日常ですからわからないかも知れませんが、我々の周りでは「勝ち負けに関係なく、裁判所送りになる様なことがあればその時点で医師免許を捨てる」というのがほぼ共通認識です。

手持ちの株が下がったからと言って証券会社を訴える人はいませんよね。それは「株は損をする可能性があるもの」だと客も司法も常識として理解しているからです。
これと同じレベルまで「医療も損をする可能性があるものだ」ということが常識にならない限り、訴訟社会と医療を両立させることは不可能です。

先ほど私が書いたことと関連しますが、医療の萎縮を防ぐ具体的な方法のひとつとして「同意書に記載された不利益に関しては、患者の自己選択の結果とし、医療者にその責任を問わない」という事を明確化する方法もあると思います。
おそらく手術の前には電話帳のような同意書を渡されることになり、ひとつひとつの医療行為全てにそれを作成する為には膨大な時間と労力が必要でしょうが、それでも医療そのものを失う損失に比すれば微々たるものでしょう。(現にアメリカはそうなっていますし)

>つくねさん
例えば、金融商品に関しては↓のような判決文もあるみたいですね
http://futures.ferio.net/fc/hanketsu/hanrei1/H110913kyoutochi.htm


>現にアメリカはそうなっていますし
電話帳のような同意書という話は聞きますが、訴訟上、有利なテクニックとなり得ているのでしょうか

>No.8 つくねさん
>No.9 しまさん

電話帳のような同意書という話は聞きますが、訴訟上、有利なテクニックとなり得ているのでしょうか

とは限らないみたいですね。

契約社会を勘違いする人は、文書に書いてあれば何でも有効になると思っている。これは間違い。契約書の上には法があり、その上には憲法があることを忘れてはいけない。文書に書いているかどうかというより、法との整合性が大事なのだ。つまり、「正当性」を見なくてはいけない。

MOZANBLOG: 契約社会で生き残る

米国の方が売り手・買い手の責任範囲を明確にする、というのはあると思います。日本はかなり曖昧ですね。「お客さまは神様」と思って、一切責任がないと考えている人も結構いそうですが。

>ronさん
日本ではそうだと思うのですが、アメリカではどうなのかなと思いまして。

>米国の方が売り手・買い手の責任範囲を明確にする、というのはあると思います。
責任範囲が明確になってないというのは、医療問題の大きな原因だとは思います
これは、もちろん双方に問題があることであり、日本の問題でしょうが。

>No.9 しまさん
リンク先、大変興味深く読ませて頂きました。
>「説明義務とは、単に説明すべき事項を顧客の面前で述べれば果たされるのではなく、これを顧客に理解させて初めて説明義務が果たされたと言えるのである。」
これは司法関係の方の間では常識なのですね。素人ながら自らの認識の甘さを恥じるばかりです。

>「顧客が説明したか否かは説明時の相互のやり取りの中で証券会社の担当者にもおのずから判断のつくことであって、もし理解されていなければ、説明方法が稚拙であるか、そもそも顧客にその説明を理解する能力がないかであって、もし後者であれば、そのような顧客はオプション取引に適合しないというべきであって、その投資勧誘は、そもそも適合性原則に違反する投資勧誘であってということになる。」
というのがこの判決のキモの様ですが、ではこれをそのまま医療に置き換えた場合「ある老人が胃がんを患った。老人は重度の痴呆があり胃がんの手術のリスクは到底理解不能である。この様な患者は医療行為を受けるのには適合しないので手術はできず、よって胃がんで死んでも仕方が無い」ということになってしまいませんでしょうか?

もし全く見当違いなことを書いていたら申し訳ありません。

No.12 つくねさん
一応日本にも成年後見制度というものがあります。
しかし、医療行為を適切に受けさせる点については不十分と言わざるを得ない制度であることも事実です。
特に第三者後見の場合、医療行為に対する同意は限定的となります。
これに関しては、私は今後の法整備を希望しております。

>「説明義務とは、単に説明すべき事項を顧客の面前で述べれば果たされるのではなく、これを顧客に理解させて初めて説明義務が果たされたと言えるのである。」
気になったのは、これらを司法関係者は実践しているのでしょうか?
法律に疎い人にとっては、4人の弁護士が並ぶ某番組で弁護士が話すことすら難しく感じているのではないかと思います。
まして一般の裁判で裁判官が原告被告に難解な法律用語をわかりやすく説明しているとは、判決文を見る限り思えないのですが・・・

コメント有り難うございます。
後見人制度に関しては良く存じ上げないのですが、ご指摘のとおり我々が日常接している問題に対しては全く解決策として機能していないという印象です。

話が大きくなりますが、私は医療行為を法律的に取り扱うに当たり、医療側からの視点として次の2点が問題となっているのではないかと考えます。

1点目は先程より述べられている「説明義務」の問題です。
病院にこられる患者様の中には後見人がいる程では無いが難しい話は理解できない痴呆があったり、意識を失っていたり、直前に事故に遭い激しく動揺していたり、通常社会的に認められる「理解力」を要求する事が無理な状態の方が多くいます。それらの方々にもリスクのある医療行為を行わなければなりません。その場合、「顧客に理解させて初めて説明義務が果たさる」原則で処理するかぎり医療行為を行う事はできません。このようなケースで具体的にどのように対応すれば「説明義務違反」を免れる事ができるのかが明確になっていない点が医療側に不安を与える一因となっています。

2点目は、では十分な説明義務が果たせた場合に避けられない不利益が医療側の責任とならずに済むにはどうしたらよいかという問題です。例え話で恐縮ですが、仮に、Xという毒薬があるとします。これを飲ませると10人に1人の確率で死にます。ここで、Aさんがこの毒薬をBさんに飲ませればAさんは殺人もしくは殺人未遂となるでしょう。
一方、Y病という病気があり、Y病と診断された患者は半年後に100%の確率で死ぬと仮定します。ここで、XがY病の進行を止める作用があると分かった場合、Y病の患者CさんはXを飲むと90%の確率でY病を克服する事ができますが、10%の確率で残された半年の人生を失う事になります。
医療行為は全て上記のような確率論の上に成り立っていますが、ではCさんが十分な理解力を持ち、上記の説明を納得した上でXを飲む事を希望し、残念ながら10%の方に入ってしまい遺族が訴訟を起こした場合、(No.10のronさんのコメントによると、説明し理解を得ただけでは違法性を免れる事はできないとのことですが)医師は具体的にどのように対応すればその責任を免れる事ができるのでしょうか。

難しい、とか改善が望まれる、などと言っている間にも物凄い早さで医療は萎縮しています。時間的猶予はありません。上記2点に対する解答が司法側より早急に明確に示されない限り、医療の崩壊をくいとめる事は難しいと思いますが、いかがでしょうか?

>No。12 つくねさま
>「ではこれをそのまま医療に置き換えた場合「ある老人が胃がんを患った。老人は重度の痴呆があり胃がんの手術のリスクは到底理解不能である。この様な患者は医療行為を受けるのには適合しないので手術はできず、よって胃がんで死んでも仕方が無い」ということになってしまいませんでしょうか?」

認知症があれば、原則として手術はしないと思いますよ。
代理としての理解者が家族にいるかどうか?いたとしてその家族の希望に正当性があるのか?という事以前に術前検査(胃癌であれば胃透視、肺癌であれば呼吸機能検査など)も出来ませんし、術後のせん妄もリスクになりますので。

「説明義務」には、「説明内容を理解させる義務」という概念も付帯するものだと思います。ただその場合、被説明者側の理解を確認する手段が困難であることが問題なのでしょう。

春日井市民病院で診察を受けた妻が死亡したのは、医師が、くも膜下出血を見落としたのが原因だとして、愛知県小牧市の会社員男性(54)とその長女らが、春日井市を相手取 り、慰謝料など計5800万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が19日、名古屋地裁であった。佐藤修市裁判長は、「検査の必要性について、医師は妻側に十分に説明していなか った。検査をしていれば、くも膜下出血と診断できたはずだ」と述べ、同市に約3550万円を支払うよう命じる判決を言い渡した。
判決によると、男性の妻(当時52歳)は1995年4月、激しい頭痛や吐き気などを訴え、同市民病院で診察を受けた。頭部のコンピューター断層撮影法(CT)検査や診察で も「脳に異常はない」とされた。医師は、腰ついに針を刺して行う、脳脊髄液の検査を勧めたが、妻が拒否したため断念した。しかし、翌日、要体が悪化、くも膜下出血で死亡し た。
佐藤裁判長は「医師は妻に対し、検査の必要性を説明し、誤解や恐怖心を取り除くよう努力すべきだった」と、診断上の適切さを欠いていたと認定した。
(参考文献:平成13年7月20日 読売新聞)


説明義務に関する判例を一つ紹介させて頂きました。
救急医療に携わるものとして、感想は
  「八方ふさがり」
です。

結果論から、レトロに過失を探されれば、我々は打つ手はありません。

我々が、やる気になるのは、やはり、
 「法制化された免責のシステム」
が保障されることだと感じています。

No.12 つくねさま

金融商品についての説明義務は、全くとはいわないまでも、他の局面における説明義務、殊に医療における説明義務とは相当、かなり異質なものです。
(法律用語は、同じ語であろうと、局面が違えば平気でまったく異なる定義で使用されます)

デリバティブ取引のような、素人にはほとんどギャンブルにカネを突っ込むのと変わりないような金融商品については、
「これ預金じゃないんだよ、ものすごく損することもあるよ」 ということが理解できる資質のある人にだけ(1)、そのリスクをきちんと説明し理解させたうえで(2)売ってください、
じゃないと、素人だまくらかした詐欺でしょ、詐欺よばわりされたくなかったら証券会社らはこのルールをきちんと守りなさいね、ということです。(かいつまんでますので正確性はご容赦ください)

(1)が適合性原則、(2)が説明義務の話です。

医療における説明義務とはまったく異質ですし、適合性原則という概念は「消費者を騙すな」という局面でしか出てこない話です(消費者基本法5条1項3号)。

医師の説明義務について、裁判所が 「これを患者に理解させて初めて説明義務が果たされたと言えるのである」 と判示した例は、一例としてないはずです。
どんなに患者サイド寄りの見解でも、 「当該患者が重要視していたであろう情報が説明されたか否か(具体的患者説)」 という基準であり、 「理解させること」 を要求している見解は学説上も存在していません(『判例にみる医師の説明義務』 藤山雅行 編著 8ページ)←町村先生のブログで紹介されていたのでさっそく買ってみました。現在ではAmazonで在庫切れのようです

相違点をきちんと踏まえずに 「説明義務」 の一方の定義だけが一人歩きしてしまうのは危険だと思います。

>fuka_fuka さん
ご指摘有り難うございます。私も安易に金融の話を持ち出してしまったようです。

>「当該患者が重要視していたであろう情報が説明されたか否か
理解したかどうかだと、「患者が理解していない」と言い張れば医師の説明義務違反が問われかねないが、実際の医療訴訟の場ではどのように説明したかが問われるわけですか。

No.16 ER医のはしくれさん

我々が、やる気になるのは、やはり、
 「法制化された免責のシステム」
が保障されることだと感じています。

非医療者ですが、私個人としては賛成します。法律および公的保険制度によって、医療者の自由を相当拘束されているわけですから、医療行為を通常のビジネスでの契約行為と一緒にするのは無理だと思います。医療者の訴訟リスクが上昇することは、医療コストを上昇させるでしょうが、医療者に価格を決める権限が限られている以上、リスクを抑制する方向に行くしかないように思います。自由診療であれば話は別でしょうが。

少なくとも、企業のビジネスでは、リスク分は価格に上乗せするのが常識ですし、価格で折り合えなければ、撤退ですからね。

私事で恐縮ですが、私の父が米国に赴任した際、交通事故にあい、病院に搬送されたことがあります。病院で「どうするか?」と聞かれて、「良くしてくれ」と答えたら、やたら豪華な病室に運ばれた、という話を思い出しました。我が家が破産することはなかったので、費用は会社が負担したんですかねー。

No.17 fuka_fuka さん こんにちは

No.16 ER医のはしくれ さんのコメントを見る限りでは、「医師は妻に対し、検査の必要性を説明し、誤解や恐怖心を取り除くよう努力すべきだった」とあります。
私には「誤解や恐怖心を取り除くよう努力すべきだった」というのは、「検査の必要性を理解させるよう努力すべきだった」と言う意味に思えるのですが、それは間違った解釈なのでしょうか?

それと、
>「当該患者が重要視していたであろう情報が説明されたか否か(具体的患者説)」 という基準であり、 「理解させること」 を要求している見解は学説上も存在していません

との事ですが、「理解させること」を要求されていないのであれば、極端な話、たとえ専門用語を羅列して、誰が見てもその道の専門家以外、まともに理解できないような説明であっても必要な内容がそろっていれば良いと言う話になると思います。
しかし、報道を見る限りにおいては、裁判所の判断はそうなっていないように思えます。
つまり、私には裁判所は「患者側が充分に理解できるように説明しなさい」といっているように見え、裁判所は「患者の理解度」も重要視しているように思われます。
しかも、私には裁判所は「充分な説明がなされていれば、患者は正しい選択が可能なはずで、正しい選択が出来れば、必ず良い結果が出るはずである。つまり患者の選択により、結果が悪ければそれは、患者が正しい選択をするために必要な説明がなされていなかったと判断できる」と考えているようにしか思えません。
それでもやはり、「患者が理解できたかどうか」は要求されていないのでしょうか?

裁判所側が、本来行うべきであったと考える説明内容を具体的に例示すればそのあたりの不安は解消されるものと思うのですが、実際のところ「〜〜の努力をすべし」と抽象的な話しか来ないので、じゃ、「努力すればレベル低くても問題ないのか」とか思うものの、「そんなことは無いだろう」とも思うので、結局、何をどうすれば良いのか訳が分からなくなってしまいます。

No.18 しまさま

紹介していただいたことは、非常に有益だと思います。(いつもその超人的検索・紹介能力にはお世話になっております)
金融ではこんな感じ → 医療に当てはめたらおかしくない? → おかしい。だからこのように別扱い
という流れで、私自身も説明義務の位置づけの理解が深まりましたし。

>理解したかどうかだと、「患者が理解していない」と言い張れば医師の説明義務違反が問われかねないが、実際の医療訴訟の場ではどのように説明したかが問われるわけですか。

はい、そういうことだと思います。
「理解させること」まで要求するのは、法体系全体からすれば例外中の例外と位置づけられるべきだろうと思います。
患者が「はい、分かりました」と言ったのに、実はまったく理解していなかった、というような場面を想定すれば、説明+理解まで必要とするのはおよそ無茶ですよね。
証券会社の営業マンは、顧客に説明をする時間は充分あるし、そうやって説明し、説得することこそが仕事である (その時間分の給与に相当する額がきちんと売上から賄われる) という背景と、デリバティブ商品等のリスクの高さとが揃って初めて、 「理解させる」 ことまで要求するような高い説明義務が正当化されるのだろうと思います(私の勝手な理解です、為念)。

ついでながら、藤山判事編著の『判例にみる医師の説明義務』からもう少し。
医師が説明すべき程度については、以下の説があるとして整理・紹介されています。
1 合理的医師説: 医師の間の一般的刊行からして通常の医師が説明する情報を説明したか否か
2 合理的患者説: 当該患者の置かれた状況からして合理的な患者なら重要視する情報が説明されたか否か
3 具体的患者説: 当該患者が重要視していたであろう情報が説明されたか否か
4 二重基準説: 具体的患者説を前提として合理的医師を重畳基準とするもの

この章を執筆した藤山判事は、 「医師の説明義務を患者の自己決定権に対応するものととらえる以上」 、医師が患者の希望を知っていたか、知ることが可能であった場合には、具体的患者説が正当だという見解です(p.9)。
ただし、緊急状況や、本人の意識・理解力が不十分な場合、癌の場合等々、状況に応じて説明義務の範囲は軽減されるんだから、具体的患者説は不当に医師を不利にする解釈ではないよ、と補足しています(p.10)。

医師の方々は、きっと 「患者の自己決定権」 の内実や範囲について、言いたいことが山ほどおありだろうと推察。

日経メディカル1月号に「検査を拒否した患者が急死 医師の説得はどこまで必要か(北澤 龍也)」という記事がありましたので、いくつか引用してみます。

「医師が検査の必要性などを一通り説明した後、患者が拒否した場合、患者が拒否したから実施しなくても正当であると単純に結論付けることはできず、医師の側に患者に対する十分な説得が求められる場合があります」

「抽象的な説明にとどまらず、患者の状況を具体的に説明することが求められます」

「説得の強さについては、どこまでやればいいという明確な基準はなく、具体的な事例によって変わってきます」

「診療行為を拒否する患者にどこまで説得するべきかは結局、その診療行為の必要性の強弱と患者の意思の強弱を比較する中で総合判断するしかありません」

必要十分な説明に加え、説得までせんといかん訳ですね。

No.21 fuka_fuka さん

私に対する直接のコメントではないものの、参考になりました。
とりあえず、「判例にみる 医師の説明義務」を注文してみました。
買っても、内容を正確に理解できる自信は無いのですが、、、、

No.20 創価板UD日報係さま (遅かったようですみません^^;)

No.16 ER医のはしくれ さんのコメントを見る限りでは、「医師は妻に対し、検査の必要性を説明し、誤解や恐怖心を取り除くよう努力すべきだった」とあります。
私には「誤解や恐怖心を取り除くよう努力すべきだった」というのは、「検査の必要性を理解させるよう努力すべきだった」と言う意味に思えるのですが、それは間違った解釈なのでしょうか?

正当な読み方、常識的な読解だと思います。
表現の好みのレベルであり、質的な意味の違いを見出すほどではないように感じられます。

「理解させること」を要求されていないのであれば、極端な話、たとえ専門用語を羅列して、誰が見てもその道の専門家以外、まともに理解できないような説明であっても必要な内容がそろっていれば良いと言う話になると思います。

そういう話にはならない、と理解しています。
「理解させることを要求されていない」 ≠ 「理解させる努力を払う必要はない」 でしょう。
「重要な情報が説明されたか否か」 という判断においては、「当該患者にとって理解可能な程度に噛み砕いた説明で」 ということは当然読み込まれているはずです。

私には裁判所は「患者側が充分に理解できるように説明しなさい」といっているように見え、裁判所は「患者の理解度」も重要視しているように思われます。

私も、同様の理解です。そして(一般論としては)それでよいと思います。
# そういう意味では、適合性原則も、医療の局面でまったく無関係ではないということかも。

「充分に理解できるように説明しなさい。ただし、そのような説明をした以上は、現実に患者が理解できなかったとしても責任は問いません」 ということだと理解しています。

しかも、私には裁判所は「充分な説明がなされていれば、患者は正しい選択が可能なはずで、正しい選択が出来れば、必ず良い結果が出るはずである。つまり患者の選択により、結果が悪ければそれは、患者が正しい選択をするために必要な説明がなされていなかったと判断できる」と考えているようにしか思えません。

そのご意見を論評できるほど医療過誤事件の判決文を多数みているわけではないですが、医師の方々から 「レトロスペクティブだ、後出しジャンケンだ」 と批判されている判決にはある程度該当しうる批判ではないか、と推測いたします。
ただ、現実に説明したコトバがきちんと立証できている場合 (言った言わないの水掛け論になっておらず、患者側の認識と一致している場合) には、結果の良し悪しだけから左右される余地はそれほど大きくないのでは、とも思いますが。

それでもやはり、「患者が理解できたかどうか」は要求されていないのでしょうか?

概念としては 「理解できた」 と 「理解できたはずだ」 は別である以上、別の問題、つまり具体的なケースを前提にした実際の説明の程度が必要十分だったのかどうかという問題ではないでしょうか。

裁判所側が、本来行うべきであったと考える説明内容を具体的に例示すればそのあたりの不安は解消されるものと思うのですが、実際のところ「〜〜の努力をすべし」と抽象的な話しか来ないので、じゃ、「努力すればレベル低くても問題ないのか」とか思うものの、「そんなことは無いだろう」とも思うので、結局、何をどうすれば良いのか訳が分からなくなってしまいます。

同感です。私も、同様の問題意識はずっと持っております。
もともと、画一的な基準を示すことは司法の役割ではないという制度的な限界に加え、(医師の目から見ての)トンデモ事実認定、トンデモ判決が相次いでいることから、ますます予測可能性が失われていっている、という状況にあることだけは理解しているものの、ではどうすればいいのか。私も思案中です。

Winny判決のエントリでも議論されていたようなガイドラインの策定なども有益とは思うのですが、実現可能性がどの程度あるのかは分かりません。
少なくとも即効性はないので、目の前の崩壊を食い止める手段となりうるかという観点では、きわめて懐疑的ですが。。。

>fuka_fukaさん
直接は関係ないのですが

>藤山判事編著の『判例にみる医師の説明義務』

藤山判事がこの書籍を編著したと言うことは、どういう事を意味するのでしょうか。これは藤山判事個人の考えが反映された本なのか、それとも、東京地裁の意図がある程度反映されているのでしょうか。

後者だったら、今後の裁判官は、この本を参考にして判決を行うこともあるように思うのですが、いかがでしょうか。

> モトケン様

 いつも勉強させていただいています。冒頭の御意見に感銘を受けました。
 医療崩壊で最も被害を被るのは、まさに「患者さん」あるいは将来病気になるかもしれない「一般の方々」なのです。今は医師が泣き言を言っているようにみえるところがあるかもしれませんが、実は医師はいざとなれば他に生きていく道はあります。これまでにも制度の変更(診療報酬の減額、病床数減少など)や社会の要請(24時間医療、医療事故対策など)に対応するべく、医療は努力し適応してきました。しかし、どうしても仕事を続けていくことが困難な環境(まさに >No.16「八方ふさがり」の環境)を社会が医療に求めるようになるのであれば、防衛ないし撤退するほかありません。医師や病院が減少すれば医療費は抑制できますので、医療崩壊しても国が困ることはないでしょう。「医療は有限の社会資源」であることを再認識し、これを有効に活用し継続していく方法(システム)を、皆で考えていかなければならないと思います。たとえば医療事故(医療ミスに限らない)に関係した医師の処遇を考える場合、その医師がそれまでに身につけた医療技術や経験で今後救えるかもしれない生命のことも(システム作成の上で)考慮してもよいのかもしれません。「医療の不確実性」は、昔はパターナリズムを戒めるため医師に向けられた言葉でしたが、現在全ての人がその言葉を理解しなければならない時代が来たのかもしれません。

しまさま

>これは藤山判事個人の考えが反映された本なのか、それとも、東京地裁の意図がある程度反映されているのでしょうか。

どちらも含まれているのではないかと・・・。

>後者だったら、今後の裁判官は、この本を参考にして判決を行うこともあるように思うのですが、いかがでしょうか。

基本的に膨大な裁判例をサマライズ&一覧化したもの (有斐閣が出版してたら「医師の説明義務判例五十選」といってもいいようなもの←「百選」ではない) ですから、前者/後者いずれかを問わず、裁判官が参照することはまず間違いないと思います。

ご参考までに執筆者一覧。
 
徳島地裁判事 池町知佐子
東京地裁判事補 浦上薫史
東京地裁判事補 岡田安世
東京地裁判事 金光秀明
東京地裁判事補 西田祥平
東京地裁判事補 萩原孝基
元東京地裁判事補 筈井卓矢(「判事補及び検事の弁護士職務経験に関する法律」に基づき弁護士職務に従事中)
福岡地裁久留米支部判事補 増尾崇
裁判所職員総合研修所教官 松田典浩
東京地裁判事補 望月千広
大津地裁判事補 山田哲也

>No 47 bambooさん

“幻影“という意味をまったく実体のない”妄想“という意味で捉えておられるのであれば、それは私の意図するところではありません。

“確率の問題”はやはり重要ではないですか。
それを抜きにして世間は理解してくれないのではないでしょうか。
宝くじを買う人の大金への期待は一般的にはhopeではなくwishだと思います。


>No 48 level 3 さん
>トラブルの起こる確率を0.00001 (1/10万)とし,年間500件の手技を20年行なったとします.この確率は9.5%になります.

20年間医者をやっていれば重大なトラブルのひとつやふたつは、9.5%どころかほぼ全員が経験すると思います。
私は脳神経外科医ですが、年間500件の脳神経外科的手技を20年行ったとしたら、訴訟になってもおかしくはないケースに出会う確率は100%をはるかに越えると断言できます。私の診療科は産科を除けば外科系のなかで訴訟率No.1を誇っているそうです。しかし少なくとも“警察に捕まるかも知れない”という恐怖は一般的ではありません。
そのかわり“問題にされるかも知れない”という意識は相当強烈です。
“警察に捕まる”“起訴される”“書類送検される”といった確率はやはり再検討していただいた方がよいのではないでしょうか。


>No 49 オダさん
>恐怖という感情は理屈ではないと自分は考えます。

それはそのとおりだと思います。
しかしそれを他人に説明しようとすると理屈が必要になるのではないでしょうか。

>産科や救急医療を行なうものにとって、民事訴訟に巻き込まれる可能性については「ロシアンルーレットをやっているようなもの」の表現は正鵠を得ています。

これは私の診療科においてもまさにそのとおりです。
たとえば未破裂動脈瘤の治療からみなさ引いていってます。
ですから民事訴訟リスクの高まりによるいわゆるdefensive medicine あるいは
medical practiceと警察介入のリスクとは全く異なるレベルの問題であって、後者は“どうかなあ〜”というのが一般的な現場の感覚ではないですか。

>しかしそのペナルティが民事だけなら医師の使命感からまだ我慢するが、刑事になる事もあり得るとなったらという事です。

ちょっとここは意見が違います。
まっとうな事をしているということを前提にすれば、医師の使命感から民事のペナルティを我慢することなどできませんよ。
特定の個人が我慢するのはその人の自由ですが、ある集団に対して我慢しろと言うなら当然リスクに見合った報酬、待遇を用意すべきでしょう。
それがないから産科医は減っているのではないですか。
私にはとても単純な理屈に思えてならないのですが。
まあ単純な理屈がなかなか実現されないのが世の中というものなのでしょう。

警察、検察が自ら特定の意図を持って医療に介入するのは言語同断ですが、私はそれは現在進行形の勤務医問題の話の本筋ではないだろうと思っています。

No.24 fuka_fuka さん、丁寧な解説ありがとうございました。
良く理解できたように思います(多分、、、、orz)。

ちなみに、例の本は、amazonでは注文できませんでしたので、結局、出版社のホームページから注文しました。
注文確認のメールによると5日程度で発送の予定らしいのですが、在庫無ければ再度メールしますとのことでした。

念のため、ホームページのURLを書いておきます。
新日本法規出版
https://www.sn-hoki.co.jp/

>>No 48 level 3 さん
>>トラブルの起こる確率を0.00001 (1/10万)とし,年間500件の手技
>を20年行なったとします.この確率は9.5%になります.
>
>20年間医者をやっていれば重大なトラブルのひとつやふたつは、9.5%
>どころかほぼ全員が経験すると思います。
>私は脳神経外科医ですが、年間500件の脳神経外科的手技を20年行った
>としたら、訴訟になってもおかしくはないケースに出会う確率は100%
>をはるかに越えると断言できます。私の診療科は産科を除けば外科系の
>なかで訴訟率No.1を誇っているそうです。しかし少なくとも“警察に捕
>まるかも知れない”という恐怖は一般的ではありません。
>そのかわり“問題にされるかも知れない”という意識は相当強烈です。
>“警察に捕まる”“起訴される”“書類送検される”といった確率はや
>はり再検討していただいた方がよいのではないでしょうか。

yanyanさん,
この1年余りの変化はあまりに急激です.私はこれでも小さく見積もり過ぎか?と思っているくらいです.大野事件以降「送検」件数は急激に増えました.それ以前過去の例はほとんどあてにならない位だと考えています.心カテなんて,症例を重ねて行けばほとんど確実に地雷を踏むことになると思っています.
また,我々麻酔科医もある意味では訴訟になる確率は高いと言えます.なんせ手術とちがって「うまくいって当たり前」と思われていますから...

>まっとうな事をしているということを前提にすれば、医師の使命感から
>民事のペナルティを我慢することなどできませんよ。

これは私も同じ感覚です.まっとうなことをしている限り,民事も刑事も訴訟は御免被りたいと思います.なんら後ろめたいことをしていない場合に,論外なクレームを付けられて時間を浪費させられるだけでも大きなダメージです.(代理人がきちんと紛争処理してくれる今の自動車保険のようなものがあればまだしもですが.これも正しいことが正しいと認められる判断がなされるという条件の上での話です.いまの裁判のように,適切に判断されない状況では論外です.)
もちろん,もしも私が不注意などで問題を起こしたのであれば訴訟もやむを得ないでしょうが...これは私が悪いわけですから.

No28 はスレ違いの投稿です。
無視、もしくは削除していただいて結構です。

『左耳介後部の有棘細胞癌に対する動注化学療法のためのカテーテル挿入により、患者に脳梗塞が発症し、最終的に患者が死亡した事案において、担当医師らにつき脳梗塞に対する治療を怠った過失及び同療法の利害得失等についての説明を怠った過失が認められたが、各過失と死亡結果との因果関係は否定され、説明義務違反による自己決定権侵害を根拠に、慰謝料200万円の支払請求が認められた事例。』
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20061219104225.pdf

これも藤山判決です。
”遺族の感情を慰撫するため、弁護士費用を負担してやれ”というものでしょう

『原告は、療法の選択については「こんなに危険なものとは考えてもいませんでした」と陳述するが、脳梗塞の発症という事後的に生じた結果を見ての感想と言うべきであって、この陳述からしても、術前に説明を受けていれば、脳梗塞の発症を重視して判断したと見ることはできず、上記推認を覆すものではない。以上によると、被告らが説明義務を尽くしていれば、原告は動注化学療法の実施を承諾しなかったとは認められず、他の点を判断するまでもなく、被告らの過失と亡Bの死亡との因果関係は認められない。』

との後で、

『亡B及び原告は、上記の熟慮及び選択の機会を失ったことにより、標準的でなく、かつ一定の危険性のある治療法を選択したことを悔やみ、現に生じた結果を受け入れることが極めて困難となっており、それによって少なからぬ精神的苦痛を受けたものと認められる。』

説明義務違反?で慰謝料?です。
本当に利害得失を説いてなかったのでしょうか?
もちろん実質、被告勝訴であることには間違いないのですが、”熟慮及び選択の機会喪失”という表現で、断罪していることには違いないのです。
前段で、熟慮しても同じだろうと認定していてもです。

説明の内容は以下の通りですが、理解力の乏しい亡Bに代えて、原告に懇切丁寧な説明をしています。
以下の説明がなされ、同意され、各過失と死亡との因果関係が否定されても、ごねた家族に見舞金を払う必要があるのであれば、通常の保険診療は継続困難でしょう

『亡Bが理解力に乏しいため、原告に対し、治療計画等についての説明を行った。治療方法については、手術、化学療法及び放射線療法があること、癌の転移がある場合には全身化学療法を行うが、亡Bの場合は癌が限局しているので動注化学療法を行うこと、抗癌剤としてはペプレオマイシンを使用するが、その副作用としては肺線維症が考えられること、動注化学療法終了後に手術を行うこと、動注化学療法の利点としては、少量の抗癌剤で標的とする部分に効かせることができるため、全身への影響が少ない点であること、この療法を実施するには、まず専門病院であるD病院に転院して動注ポート留置術を受ける必要があること等について説明がされ、原告は同療法を受けることに同意した』

>>No.17,21,24fuka_fukaさま
大変亀ですみません。
素人の見当外れな意見にも関わらず、大変ご丁寧に判りやすくコメントしていただき、ありがとうございます。
fuka_fukaさまのコメントに対する私の意見・疑問は、ほぼ創価板UD日報係さまと同一ですので、一点のみ書かせていただきます。

ご存知のように、ここ十数年で医療の世界はパターナリズムからインフォームドコンセントにその原則を大きく変化させました。パターナリズムとは簡単に言えば「病気のことは医者に任せておけばいい、患者は黙って医者を信用しろ」というものです。一方、少なくとも我々医療者の考えるインフォームドコンセントとは「方針を決めるのは患者である。ただし患者は医療に関して素人であるので医療者には選択肢を提示する義務がある。(そしてその上で患者が医学的に不利な選択をしたとしても、医療者はその選択を覆して医療行為を行なうことはできない)」というものです。
ところが、No.20 創価板UD日報係さまのご指摘の様に、裁判所は「患者が医学的に正しくないと思われる選択をした場合、正しい判断が出来るまで医師は患者を理解させ続けなければならない」という判決を出しています。
これは、治療方針は医者が決める(=パターナリズム)、と一体何が違うのでしょうか?

No.11でしまさまが書かれているように「責任範囲が明確になってないのが医療問題の大きな原因」であることは疑う余地がないと思いますが、現場では「患者の自己責任」がかなり明確に認められてきているにも関わらず、裁判所の中は未だにパターナリズムにどっぷり浸かったままで、しかもそれを自分の都合のいいときだけ持ち出してくる、という印象を受けざるを得ません。

なお、No,16の判決を踏まえた場合、医者は
医者「現時点では検査に異常はありませんが、症状からは命に関わる重大な病気が隠れている可能性もあります。リスクがありますが、更に脳脊髄液の検査を受けられることをお勧めします。
家族「怖いので嫌です」
医者「命の危険があるのですよ、検査のリスクと治療が遅れるリスクを天秤にかけた場合、明らかに後者のほうが大きいと思いますが」
家族「それでも嫌です」
医者「ですから・・・」
といったやりとりを、家族が「はい」と言うまで永遠とやり続けなければならないと言うことですね。
実際に患者がくも膜下出血であれば、こんな悠長なことをしている間にも患者の容態は刻々と悪化し、また再出血のリスクはどんどん増し、気付いた頃には再起不能です。
この例だけ挙げてみても、裁判所の要求が現場においていかに実現不可能なものであり、それが結果として医師のモチベーションを削いでいるかわかっていただけるかと思います。

No.33 つくねさま

>裁判所の中は未だにパターナリズムにどっぷり浸かったままで、しかもそれを自分の都合のいいときだけ持ち出してくる、という印象を受けざるを得ません。

はっきり申し上げまして、まったく同感です。
ダブルスタンダードの批判は免れないところでしょう。


>家族「それでも嫌です」
>医者「ですから・・・」

DQ3初〜中盤の、カンダタを逃がすシーンを思い出してしまいました。
「みのがしてくれよ な? な?」
「  はい
 →いいえ」
「みのがしてくれよ な? な?」
「  はい
 →いいえ」

# 不謹慎スマソ

>Med_Law さん
>前段で、熟慮しても同じだろうと認定していてもです。

患者が判断出来るだけの材料を与えなさいと言うことではないかと思います。逆に言えば、患者や遺族がごねようとも、説明してあれば義務違反には問われないかなと思います。

参考までに、藤山判事が説明義務違反を否定した判決を三例ばかり掲載します
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/DAB5E61FF9B72BED49257077000B1616.pdf
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/101D2162EC16AFD1492570CA00346874.pdf
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/F7FD4FF3826B436A49256F650023C893.pdf

スレの流れを眺めながら雑感ですが:

自験例として過去何度か癌に対する一切の治療を拒否されたことがありますが、手の施しようがないというよりも初診時には根治的治療可能ではないかと思われる症例の方が多かったように思います。

いずれも特別トラブルにはなっていませんが、後になって患者(遺族)サイドから訴えられていた場合かなりの高確率で賠償を逃れられなかったのではという気がしてきました。

> といったやりとりを、家族が「はい」と言うまで永遠とやり続けなければならない(No.33 つくね様)

藤山判事も、医師は患者や家族が正しい治療方法を承諾するまで永遠に説明してろ、というわけではなく、必要な説明をしても治療拒否したら、放り出せばよいとのことです。

●医療崩壊その7 No.44 しま様 ご紹介
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20061106125952.pdf
「もはや自己の考える医療行為が実現できないことは十分に認識し得たはずであり、そうである以上、その時点でその旨を明示し、自己の方針に従うか他医への転医かの選択を求めるべきであり、それをせずに漫然と経過観察を続けることは、患者の誤解を解かないばかりかむしろ患者の誤った認識を是認し、その誤解を助長するものといわざるを得ないのであり」

わからんちんの患者には、ガツンと一発言ったれ? でも、荒療治で理解してもらえればよいが、理解されずに恨みが深まって訴訟頻発しそう。
応召義務もあるのに、転院させるという対応が現実に可能かどうかは、相当に疑問視されていました。

主治医が囲い込んでしまうと他の医師が手出しをできなくて危険が増すので、見切りを早くしろ、という考えが根底にあるのかもしれない、とちょっと思いました。

No.37 YUNYUN さん
大変参考になるご紹介ありがとうございます。既に議論済みだったのですね。
しかしながら、待機的な状況ならまだしも、クモ膜下出血など緊急性が高い疾患が疑われる状況で「俺の方針が気に入らないなら出て行け」などということを口にした日には、同僚医師やコメディカルスタッフからの信用は完全に失うでしょうし、マスコミがかぎつければ無事では済まないでしょう。また裁判でも説明義務違反よりはるかに重い罪に問われるでしょう。その際に「藤山判事がこうしてもいいって言ったんだもん」という良い訳は一切通用する筈もありません。
やはり救急医療は万事が法律スレスレですね。逃散、逃散。

>頭部のコンピューター断層撮影法(CT)検査や診察で も「脳に異常はない」と
>された。医師は、腰ついに針を刺して行う、脳脊髄液の検査を勧めたが、
>妻が拒否したため断念した。

個人的には「脳に異常がない」と言われたのに、腰つい穿刺の検査を受ける気になるかどうかといわれたら、難しいですね。脳に異常がある可能性があると言われたのなら行いますが。

控訴審の判決文を見ると、腰つい穿刺自体はそれほどのウエイトを占めているわけでもないように思います。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/A3B517042EABEBF449256C92001A7568.pdf

>No.39 しまさん

詳細をありがとうございます。新聞記事とずいぶん違いますね。 CTの異常所見の見落としによるSAHの見逃しが過失の中心になっていますね。

私は、昔、指導医から、こう教わりました。
「いいかあ、SAHは、出血して白く写れば、馬鹿でも診断できるんだ。
 出血が微細のSAHは、脳溝の普通なら黒く写るところが、脳実質と同じ程度にしかみえないことがある。 つまり、黒くないところが不適切な場所にないか探せ」

リスク回避のためには、適切ところで専門医へ相談することの重要性をこの判例から改めて感じました。 ちなみに、今私が勤める病院は、脳外科がありませんので、病歴+CTまでで、この時点でSAHが怪しいときは、確定診断のための腰椎穿刺はしていません。 やはり、再出血が怖いですし、怪しい段階でも確かに近隣の脳外科医が引き受けてくれますから。


>ER医のはしくれさん
この判決文自体には厳しいところがあるんじゃないかと思っています。つまり、医師に対しては納得のいかない所もあるだろうなと。

以前とは違う意見になっているかもしれませんが

>本件CT写真が正常なものではなく,明らかな異常があり,脳外科医で
>あれば経験が比較的豊富ではない医師でも異常を判断できる
>程度のものであって

この判断を一般の医師にあてはめるのはいかがなものかとは思います。と言うか、このCTを見て、一般の医師がどう解釈するのかを踏まえた上で判決を出すべきかと思います。そのステップを踏まないで一般医師の責任を判定するというのは、拙速に過ぎるかと。

>No.39 しまさん
詳細ありがとうございます。確かに説明義務というよりSAHの見逃しが問題の中心ですね。
それにしても、当直医はまだしも神経内科に相談したI医師まで過失を認められているのには驚きました。実際の臨床現場は極めて多忙です。全ての医師にon-timeで相談できる訳ではありません。その中で、一般内科医が頭蓋内疾患を疑う患者に関し、専門ではなくともとりあえず自分よりは詳しいであろう神経内科の医師に相談を持ちかけると言うのは日常にごくありふれた光景です。それが過失とは…

なお、

個人的には「脳に異常がない」と言われたのに、腰つい穿刺の検査を受ける気になるかどうかといわれたら、難しいですね。脳に異常がある可能性があると言われたのなら行いますが。
あらゆる検査には感度と特異度があり、100%はありえません。
例えば発症12時間以内のくも膜下出血のCTにおける感度は約98%です。
医師の技量に関係なく、医療の限界として50人に1人は見落とされる訳です。発症から時間が経てばさらに感度は低下します。
ですから
検査で異常が無い=実際に異常が無い
ではありません。
検査で異常が無い=この検査の検出能力の範囲では、異常が無い可能性が高い
です。
これは常識中の常識であり、大前提です。
なお、感度98%の検査を2つ組み合わせれば、見落としは2500人に1人まで減らすことが出来ます。医者が言う「念のため」は当然こういった背景を含めての意味です。きまぐれではありません。
腰椎穿刺を勧めた時点で、「CTでは十分に検出できない疾患があるかもしれません、別の検査がありますのでそちらで確かめてみましょう」という意図を医師は十分に伝えているのです。
それは医療者の習性であり一般化できるものではないと反論されるかもしれませんが、我々にとってはあまりにも基本的な事ですので、小学生ならまだしも仮に法律を専門に扱う程度の知的レベルの方であれば、専門的な医学知識は無理であってもこれくらいは理解しておいて欲しい、というのが医療者の本音であります。
またこの判決を見た私の率直な気持ちは、こんな常識さえも通用しない人間に裁かれる、という訴訟への恐怖です。漂流して見知らぬ島の原住民の祭りに強制参加させられ、もしかしたらこの後自分が生贄にされるのではないか、という不安と似ています。(勿論実際にそのような場面に遭遇したことはありませんが・・・)

>No 30 level 3さん
>この1年余りの変化はあまりに急激です.私はこれでも小さく見積もり過ぎか?と思っているくらいです.大野事件以降「送検」件数は急激に増えました.それ以前過去の例はほとんどあてにならない位だと考えています.心カテなんて,症例を重ねて行けばほとんど確実に地雷を踏むことになると思っています.


繰り返しになりますが、私はやはりトラブルになるケースが増えることと警察の介入の問題とは切り離して考えるべき問題だろうと思います。
遺族から告発があって警察が動けば、書類送検という形で事件を処理せざるを得ないのではないですか。
結局これは制度的な欠陥ということになるのではないでしょうか。


>また,我々麻酔科医もある意味では訴訟になる確率は高いと言えます.なんせ手術とちがって「うまくいって当たり前」と思われていますから...

Level 3さんの発言の趣旨とは全く関連がなくて恐縮ですが、麻酔科の事故率、訴訟率は驚異的に低いと私は理解しています。これは麻酔の手技というものが安全を如何に担保するかという視点を重要な要素として発展してきたということと関係があるのではないかと思っています。また手技自体が相当標準化されており、飛行機の運航によく似ているのではないでしょうか。

侵襲的手技を行う診療科のなかでは、麻酔科におけるトレーニングは知識と実技をもっとも安全に習得しうる領域のような気がします。このような事と麻酔科における低い事故率、訴訟率とはおそらく密接な関係があり、医療現場における安全確保という意味では参考になるように思います。

>No.32 Med_Law さん


ざっと判決文を読ませていただきました。法的判断についてはわかりませんが、医療の現場にいるものの感想としては

1)脳梗塞をきたしたのは想定される合併症のひとつとしてあるうること
2)その後のfollowについてちょっとこれはどうですかね〜。
3)今回の件とは直接関係がありませんが、外頚動脈に鼠径部からカテを留置しportを設置すると言う方法の安全性についてどの程度確保されているのか。
4)これくらいで済んでよかったですね〜。

というのが私の感想です。

>つくねさん
>これは常識中の常識であり、大前提です。

医療界にとっての常識ではあるかも知れませんが、一般の人にとってはどうでしょうか。

・CTの検査の限りでは脳に異常がない
・脳に異常がない

この2つは別物だと受け取れると思うのです

>侵襲的手技を行う診療科のなかでは、麻酔科におけるトレーニングは知識
>と実技をもっとも安全に習得しうる領域のような気がします。このような
>事と麻酔科における低い事故率、訴訟率とはおそらく密接な関係があり、
>医療現場における安全確保という意味では参考になるように思います。

yanyanさん,
これは麻酔というものが、「守り」がメインであるからだと思います.麻酔そのものは治療ではなく「悪くならないように管理すること」ですから...
一方,手術は積極的に「治療」する「攻め」ですから,そこのところが異なるのだと思います.
我々は常に「前進する時には必ず退路を確保する」ように教わりました.危険地帯に踏み込んでも,いつでもコントローラブルな安全領域に戻れるように準備しておくということです.ある意味では手術でも似たような原則で進めることも可能ではないかと思っています.可能な限り引き返せる可能性を残しながら進んでいる術者の先生もおられます.切除可能かどうか判断が難しい癌などの手術の時にも猪突猛進するような先生はえてして腕の方もいまいちのことが多いと感じています.腕のよい先生は最初は慎重に進め,一旦判断がつけば一目散に最短コースで手術を進めます.みていても感心してしまいます.
ちょっと本筋から逸れた話題ですが...

No.45 しまさん
>脳に異常がない
医師は神ではありません。医療は万能ではありません。
脳に異常がある可能性が高いことを確認する手段はたくさんありますが、脳に異常が無いことを確定する手段は、未来永劫この世に存在することはありえません。
ですから別物云々以前に「脳に異常が無い」などという診断は存在し得ないのです。
CT画像を提示しながら「脳に異常はありません」と言えば、それは「CTで見る限りでは脳に異常がありません」と同意義です。
Aさんが「この株は上がるね」と言った場合、それは「私はこの株は将来上がると予想します」と言う意味です。「私はタイムマシンに乗って未来に行き、この株が上がっているのを確認してきました」という意味ではありません。なぜなら、日本語の文法としては正しくても、現実的は後者の状況は存在し得ないからです。
そこでBさんが、「Aさんがこの株は上がると言ったので、自分はAさんが未来に行き株が上がっているのを確認してきたのかと思い株を買った。ところが実際には株は下がり、改めてAさんに確認したところ、Aさんは実際に未来に行ったわけではなく、自分の予想を述べただけであった。これは説明義務違反なので賠償して欲しい」という訴訟を起こしても誰も取り合わないと思うのですが…。医療訴訟の世界ではなぜかBさんの主張が認められてしまうのです。

> 感度98%の検査を2つ組み合わせれば、見落としは2500人に1人まで減らすことが出来ます。医者が言う「念のため」は当然こういった背景を含めての意味です。きまぐれではありません。
> 腰椎穿刺を勧めた時点で、「CTでは十分に検出できない疾患があるかもしれません、別の検査がありますのでそちらで確かめてみましょう」という意図を医師は十分に伝えているのです。(No.42 つくね様)

No.45しま様に同意です。
そのように、じゅんじゅんと説いてくだされば、私にも理解できるのですが、
たぶん普通の医療現場ではそこまでの時間的余裕がなく、端折った説明になっているような気がします。
加えて、世間ではCTなるものが何となく、精度の高い完璧な検査方法のようなイメージがあること(例の、「CT撮ってたら助かったかも」発言等)も手伝って、
「CTでは異常なし、なので腰椎穿刺やってみましょう」とだけ言われたら、素人的には、ええー?なんで??となって、躊躇するだろうと思います。

> 仮に法律を専門に扱う程度の知的レベルの方であれば、専門的な医学知識は無理であってもこれくらいは理解しておいて欲しい、というのが医療者の本音であります。

そのような期待は、こと裁判においては禁物です。
法律家は「法律以外の知識はゼロ」と思ったほうがよろしい。説明されれば理解する能力はあるかもしれませんが、説明されるまでは何も知りません。
ちなみに、裁判で立証を要しないとされる「公知の事実」とは、義務教育終了も危うい、小学校5年生レベルくらいと考えるべきだと思います。

「医師の常識」がどの程度、法律家に通用するかは、まずはご自身の代理人弁護士に試してみてください。弁護士が解らないことは、裁判官も解りません。
しかし、逆に、弁護士が解ってくれたからと言って、裁判官が理解してくれるかどうかは、何とも、、、医療側に立つ弁護士さんはベテランで知識豊富な場合もありますから。

こういう言葉使いに反対する医者も多いのですが、私自身は
「異常なし」
は使用せず、
「異常は指摘できない」
という表現を使用します。画像であれば
「異常所見はない」
になります。画像所見はなくとも異常が存在することはあるからで、明確に区別します。

P R

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