エントリ

医療崩壊について考え、語るエントリ(その10)を更新します。

 その10の最終コメントはNo.223 つくねさんのコメントです。

 以下につくねさんのコメントを転記します。

(転記開始)

No.217 YUNYUN さま
私は医療側の人間ですが、YUNYUNさまと同様、民事に関しては免責や過失認定の変更等の制度変更は非現実的であり、いかに訴訟外での解決を促進するかということが重要であるという立場です。第三者機関のお話が出てまいりましたので、横レスで申し訳ないのですがコメントさせていただきます。

私は医療訴訟における第三者機関の機能は紛争解決より被害者救済置にすべきと考えます。
話が大きくなってしまいますが、私は現在の民事医療訴訟を巡る最大の問題は、社会が医療行為に付随する「悪い結果」を
A:確率的におこる合併症(いわゆる医療事故)
B:明らかな人為的ミス(いわゆる医療過誤)
に分類しておらず、(マスコミは全て「医療ミス」と呼びます。また多くの一般の方も「安全神話」を持ち、Aの存在を認識していません)そのためAによる被害を受けた方が補償を求める際も、AもBも同じテーブルで審議される訴訟として取り扱うしか手段がなく、それが医療側の「適切な対応をしていても結果が悪ければ裁判になる」という不安に繋がっていることにあると考えます。
そこで、今後医療ADRはAの被害者に対し訴訟以外の補償手段を提供し、訴訟に至る以前に解決をめざすことにその目的を置くべきであると考えます。
具体的には
・まず医療に伴う悪い結果がAであるかBであるかを審議し決定する。
・Aと決定した場合の補償額は被害の程度に応じて予め決めておき、過失の有無・大小に関係なく支払う。
・Aと決定した場合は医療行為を担当した側の過失認定は行わず、賠償義務は認めない。補償にかかるコストは医療システムを維持する上での必要経費と考え、医療費全体から捻出する。
・Aと認定され、被害者が補償を受け取る場合、被害者は同件で民事訴訟を起こす権利を放棄する
・Bと決定した場合は、その解決には関与しない。
というのがあるべき姿だと思います。
現に周産期医療での脳性まひの発生に関しては同様のシステムが検討されています(コストを誰が負担するかでもめていますが)が、早急に医療全体に拡大すべきでしょう。
ここでかばい合いの話題に戻りますが、上記のシステムでは賠償額の決定や過失認定という過程はありませんので、かばい合いが存在する余地は「AかBかの審議決定」のみとなります。Aに関しては、その発生率は既に統計的に報告されていますので(例えば、全身麻酔では10万例に1.1例が死亡する、また造影剤を使ったCT検査では10〜20万例に1例が死亡することがわかっています。)審議結果を定期的にその値と比較し、解離が存在すれば被害者側あるいは医療者側に偏った判断が行われているとして修正をかけることが可能であると考えます。

第三者機関による紛争解決システムが成功するか否かは、患者が「裁判するより第三者機関での解決を選好する」ことになるかどうかの1点にかかっています。

同意いたします。医療訴訟は全てADRでの審議を通すというような仕組みができれば理想的なのですが、そうでなくても「予め貰える補償額がわかる(妥当な補償額が設定されることが条件ですが)」「証明責任がない」という点で被害者にとっても利益があり、裁判所との競争には十分勝てる要素があると考えます。
医師が意見を聞いてほしいと思うなら、積極的に「俺にやらせろ」と言って司法の側に踏み込むべきであると思います。

ADRの立ち上げに関しては、個人の医師でできる規模の仕事ではありませんし、その目的はあくまで「医療者の訴訟回避」ではなく「医療制度の健全な維持運営」ですので、その業務を担う政府にお願いしたいと思います。審議に参加することは、多くの医師に抵抗は無く受け入れられると思います。

(転記終了)

| コメント(285) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.yabelab.net/mt4/mt-tb.cgi/2191

コメント(285)

>つくねさん

確率的におこる合併症

合併症と人為ミスの線引きをどこまでADRが行えるのかとは思います。もっと言えば、人為的ミスまで合併症、人為ミスまで裁量権の範囲内にされてしまうのではないかとの不安はあります。

大野病院事件の逆の事例ですが

医療ミスがあったことを認識していながら、死亡診断書における死因を病死と記載することの重大性を墨医師、本間医師、科長、所長が認識していなかったことは、医療に関する基本知識の信じ難い欠如である。

墨医師以外の全医局員と第二内科森医師が耳鼻咽喉科医局に集まった。科長から‘少し投与量が多かったということで、家族に納得してもらえないか’‘治したかったために、薬を多く入れた’等の発言があった。これに対して、森医師は‘それは絶対にしてはいけない。話すタイミングが大事で、早く事情を説明したほうがよい’‘それでは確信犯になる。化学療法の専門家としては、オンコビンは限界でも3日間連続だろう,と答えた。直ちに話すべきか否かにつき、田部医師、本間医師は科長と相談した。田部医師は直ちに告知することを主張したが、方針は決定されなかった。

埼玉医科大学総合医療センター医療事故調査委員会報告書

極端な事例ではありますが、このような事件が起こった時に、ADRはどのように機能するのか、ADRがどこまで病院の調査に踏み込めるのか、警察とどのように連携を取るのかが、ADRが機能するためのカギなのかなと思います。

なお、埼玉医大の件に関しても、刑事訴訟は馴染まないものだと思っています。

 私は、裁判前設置で、第三者機関による紛争解決システムを設けることなら、憲法的には可能なのではないかと考えてきました。

 ただ、このモトケンさんのブログで、自分で書いてきて、以下の問題もあるなと気がつきました。

 1 判断の前提となる証拠の収集がどこまでできるか。
 おそらく、医師からカルテ等の提出を求めることまでは、可能なのではないかと思います。ただ、私の経験から見ても、カルテからだけでは、事実関係をつかむことは難しいです。その中で、どこまで、判断ができるかということです。
 
 当該医師から聞き取る法的あるいは、事実上の権限を与えたとして、その聞き取り形態及びその聞き取った記録はどうするか。

 2 1のことにも、からみますが、現状では、患者側の弁護士は、弁護士に相談がくる案件の約10分の1程度しか、訴訟に持って行っていません。ただ、上記のADRが、職権的なものであればあるだけ、ということは、申立人がなにもしなければよければよいほど、弁護士に相談するよりは、まず、申し立ててということになるかと思います。

 そうすると今の訴訟数の数倍(現在は、年間の事件数が1000件程度ですが、それが3,000〜10,000件)にはなると考えられます。

 仮に、1件について、1人の医師が必要としても、3,000〜10,000人、3人として、9,000〜30,000人が必要になります。ただ、これは、現実的ではないため、どうするかです。


 

>>No.2 L.A.LAW さん
>現状では、患者側の弁護士は、弁護士に相談がくる案件の約10分の1程度しか、訴訟に持って行っていません。

現場ではその数十〜数千倍のトラブルを経験していると考えてください。
弁護士事務所まで辿り着く方は氷山のてっぺん数cmです。

システム(と地域)次第では全死亡の9割近くがそのADRに持ち込まれる事態になるかもしれません。

>No.3 元田舎医さん

>現場ではその数十〜数千倍のトラブルを経験していると考えてください。
弁護士事務所まで辿り着く方は氷山のてっぺん数cmです。

 これは、企業のクレーム処理の実態(弁護士に相談にくるのは、全体のほんの少し)から見ても、うなずけます。

 本当は、この個々の医療機関のトラブルを個々の医療機関がどう対応するかも重要な問題だと思います。

>>No.4 L.A.LAW さん
>本当は、この個々の医療機関のトラブルを個々の医療機関がどう対応するかも重要な問題だと思います。

話題が少しズレますが、ご容赦を。

20世紀までは私も「やるべきことをやり、丁寧に対応してさえいればトラブルになることはない」と考えていました。
実際、私に限らずほとんどの医者はそう教わって医師免許を手にし、行使してきたものと考えます。
恥ずかしながら、元スッチーの講師のセンセイのところへ、職場の看護師、事務もろとも接遇研修を受けに行ったこともあります。

たかだか数年前の話ですが、しみじみ懐かしく思います。
「やるべきことをやり、丁寧に対応する」などは「トラブルにならない」ことの必要条件に過ぎなかったのです。

>元田舎医様

>20世紀までは私も「やるべきことをやり、丁寧に対応してさえいればトラブルになることはない」と考えていました。
実際、私に限らずほとんどの医者はそう教わって医師免許を手にし、行使してきたものと考えます。
恥ずかしながら、元スッチーの講師のセンセイのところへ、職場の看護師、事務もろとも接遇研修を受けに行ったこともあります。

歯科医に救急医療研修 流れは“適法”どう裁く 市立札幌病院事件、控訴審再開へ

 これなんか、よかれと思ってやったことが・・・の典型でしょう。私ぐらいの世代まではよかれと思ってが通じるのが当たり前だったと思いますが、私より10年下になるともうこれは通用しないのが当たり前になっているかと思います。

>No.220 座位さん

1卒後医師の就職市場自由化と医局

私も大学の医局人事は変貌を遂げていくと思います。大阪大学は派遣人事の集中化を発表しているようです(2CH情報ですけど)。

医師の質の確保としてもブランド化できるのであれば、新たに医師が集まってくる可能性もありますが、お礼奉公等の過去の悪弊を踏襲するのであれば、そう簡単には成長路線には入らないと思います。ただ、医師の質の向上には、先進医療を含めての研修体制も必要ですので、その核としても、多くの大学は存在意義を見つけていかざるを得ないことには気づいているでしょう。

2保険診療下では公立病院での主治医制度はサービス過剰

診療所ベースのかかりつけ医制の推進ということでしょうか。基本的に同意します。DPCによって、入院医療は単機能化(あれもこれもとは治せない)します。相互に関連している疾病は別ですが、関係の薄い複数の疾病を持つ場合には、一度退院してもらい、改めて入院しなおしてもらうということも必要になってきました。統合的に診るかかりつけ医は重要です。医療依存度の高い患者さんについての疾病ごとのコーディネーションは急性期病院の仕事と思いますが、患者さんごとのコーディネーションは地域医療におまかせしたいところです。急性期病院の勤務医の中には、診療所の先生の能力に疑問を持つ人もいらっしゃるようです。交流や研修などの互いの切磋琢磨も必要ですね。

てつ先生(No.7)のコメントを読んで思いついたことがあります。

>卒後医師の就職市場自由化と医局

医局は嘗てのボランティア団体から、医師の権利を守る組合的な組織に生まれ変わる可能性があるのでは?派遣会社よろしくガリガリ就職先と交渉する医局が出てくると面白いと思うし、以前以上に医師が纏まる切欠になりそうです。(どこかの医局がやり出したという話が伝われば、皆やり出すような気がします。派遣会社は全滅するかもしれません)

無過失補償制度のエントリをたてて頂きましたのでそちらでの議論が相応しいかとも思うのですが、コメントに対するお返事だけ書かせて頂きます。
>No.1 しまさま

合併症と人為ミスの線引きをどこまでADRが行えるのかとは思います。もっと言えば、人為的ミスまで合併症、人為ミスまで裁量権の範囲内にされてしまうのではないかとの不安はあります。
1.ある医療行為が普及する際には、その医療行為に伴う不利益が証明され、更にそれを上回る利益が見込めることが証明されることが条件になります。よって、一般的に行われている医療行為に関してはどの様な合併症が付随し得るかの知識は確立されています。
2.その10の最後のコメントでも述べましたが、それぞれの合併症の発生率は統計的に分かっていますので、審査結果がある程度集まったところでそれらを比較し、医療側・患者側へ片寄った線引きが行われていれば修正する事が可能です。
3.「合併症と認定され、被害者が補償を受け取る場合、被害者は同件で民事訴訟を起こす権利を放棄する」ということは、裏を返せば、被害者側が結果に納得できない場合は保証金の受け取りを拒否し、民事訴訟を起こす事ができるということです。
上記3点により被害者側に不利な裁定が乱発され、被害者が泣き寝入りになってしまうということはまずあり得ないと思います。
また、埼玉医科大学の件は、そもそもの発端が薬品の投与量の間違いという明らかな人為的ミスなので、私の考えるADRの取り扱う対象外となります。
 
>そうすると今の訴訟数の数倍(現在は、年間の事件数が1000件程度ですが、それが3,000〜10,000件)にはなると考えられます。(No.2 L.A.LAW さま)
>システム(と地域)次第では全死亡の9割近くがそのADRに持ち込まれる事態になるかもしれません。(No.3 元田舎医さま)
私はむしろそれが望ましい姿だと考えます。私が考えるADRの最大の存在意義は「医療行為は賭けであり、当然損をする人もいる。」ということを一般の方に知ってもらい「安全神話」を壊す事にありますので「もし損をした人がいれば、その人を救済するシステム」が頻繁に利用され、その存在が一般に認識されればされるほどその目的は達成される事になるからです。

亀レスです
モトケン様御返事ありがとうございました
しかし僕が聞きたいのは医療用語で言ってよいなら訴訟のトリアージの方法ということについての議論もしくは意見についてです
一般的に訴訟できる権利=社会の利益です
しかし、産科はこのまま行くと
一時的にせよ訴訟すること=社会の損失という状態になりそうです
不幸ながらそういう事態になった場合に一部の訴訟を抑制することによって
全体の利益を確保するような議論が法曹界にあるのかどうかを聞きたかったのです

>No.10 じゃんべがさん

 法曹界は訴訟を万能のものと考えていませんから、さまざまな要請に基づき訴訟の抑制というのは常に考えられています。

 訴訟以外の紛争解決制度によるほうが適切妥当迅速に紛争解決が可能なパターンはありますから、その辺の問題意識はあります。

 しかし全ての法的紛争解決システムは、最終的には訴訟手続があるということを前提にしています。
 その意味で、法的紛争について訴訟を禁止することは困難です。
 優先順位の問題というよりバックアップの問題と言ったらわかりやすいでしょうか。

 従って、トンデモ判決の可能性は常にあるのであり、それとの関係で言えば、訴訟の抑制の問題ではなく、裁判所が適正妥当な判断をしているかどうかの問題に帰着します。

 結局、司法に対する信頼がなければダメだということです。
 医療崩壊の危機が深刻であるというのはまさに司法に対する不信があるからだと思います。
 司法に対する不信は司法自らが解決すべき問題ですが、そのためには医療側に司法判断の手続的及び実質的な特徴を理解してもらうことも重要だと考えています。

 答になってますかね(^^;

>モトケンさん
「理解してもらう」というのはなかなか難しいような気もしますので、一度法律を抜きに、医療側と非医療側とでお互いが紛争解決のシステムを考え、同じテーブルで意見をすりあわせる。その同じテーブルの上で、法曹の方々が法律的なアドバイスを行うと言う感じがいいのかなと思います。

まあ理想論なんですけどね。

>つくねさん

埼玉医科大学の件は、そもそもの発端が薬品の投与量の間違いという明らかな人為的ミスなので、私の考えるADRの取り扱う対象外となります

埼玉医科大学の件では病院が適切な治療を行ったと患者に押し通していると言う節が伺えます。そのような特殊なケースの場合、1「ADRの所まで話が伝わるか」2「ADRがどこまで病院を捜査できるか」という疑問です。

>No.12 しまさん

 法律家が法律抜きで紛争解決のシステムを考えるというのはかなり難しいかも(^^;

 でも、和解というのは法律抜きの、というか法律に拘束されない紛争解決手段であり、法曹が日常的に行っています。
 妥協の余地がある紛争であればですが。

 妥協の余地がなければ強権的な解決が避けられません。
 強権的な解決を正当化するものは、法治国家では法律です。

>モトケンさん
私の思いつきでは「法律抜きで出されたアイデア」に対して法律的なアドバイスを行って頂けたらなと思います。法律なしでは実効力がないとは思います。

また、例えば「ここの考え方は既に○○法できちんと構築されているので、○○法を採用すれば済む」とか「この考え方は、突き詰めて考えると○○という問題が生じる。この問題を解決するために法律は○○法というものを用意している」とか、そのようなアドバイスを受けて考えている内に自然と「司法判断の手続的及び実質的な特徴」が身に付くのかなと。

的はずれな考え方かも知れないのですが。

>No.15 しまさん

 つまり法律家が交通整理をしつついろんな人がブレインストーミングをしたらどうか、ということでしょうか。
 けっこう有益な議論になりそうです。

 残念ながら私は弁護士としてはあまり有能ではありませんので、交通整理の任に耐えませんが(^^;

> 一部の訴訟を抑制することによって全体の利益を確保するような議論が法曹界にあるのかどうか(No.10 じゃんべが様)

「紛争解決」を抑制することはできませんが、「訴訟」という手段を抑制することは、法曹は常に考えています。
訴訟は紛争解決の最終手段ですが、手間暇かかることであり、他にもっとよい解決方法があれば、その方法に乗り換えたいのです。

紛争が生じた以上、何らかの方法で解決しなければなりません。
仮に訴訟を禁止しても(禁止は現行の憲法に違反すると思いますが、仮に憲法改正してでも禁止するとして)、訴訟に代わる何らかの紛争解決のしくみがなければ、不満を持った側が実力行使に出るでしょう。復讐のために刃物を持って病院に乗り込み主治医を殺傷するとか、賠償金代わりに病院の金庫からお金を奪うとか。病院も防戦するために武器を取ることになるでしょう。
そのような、万人の万人に対する闘争を防ぐために、社会は紛争解決のルールを作ってきました。

現行憲法と整合す範囲での訴訟抑制の手だてとしては、
医療の専門家が中心となって判断する第三者機関をつくり、訴訟に前置させることが考えられます。

-----
ひょっとして、 じゃんべが様は、「権利抑制」=民法を改正して、医療に関して生じた結果は損害賠償請求できないこととする
という方向を考えておられるのでしょうか?

確かに、もともと権利がなければ、訴訟どころか法的紛争にもなりませんが、
法曹としては、権利制限という手法には反対が多いと思います。
本件では法理念的には権利がないものと解する根拠はありません。
しかし、政策目的のみで、そのような大幅な権利制限を正当化しうるという情況は考えにくいです。

萎縮医療や産科医の退職の原因は、医療過誤について損害賠償請求なしうるとされていること自体にあるのではなく、医学的に誤った判断や実現不可能な過剰要求をされることに嫌気がさしている(本当に過失がある場合は損害賠償請求されても仕方がないと医師は考えている)、というのが、この場のみなさんの共通認識であると思います。

この情況を前提としますと、権利制限をかける前に、より制限的でない他の方法があるはずです。
訴訟外の紛争解決システムを整備して訴訟を抑制したり、訴訟になってもトンデモ判決が出ないよう鑑定方法を工夫したり、といったことです。

それらを尽くしても成果がみられない場合に初めて、権利制限の可否を議論するべきであると考えます。

>No.12 しまさん

「理解してもらう」というのはなかなか難しいような気もしますので、一度法律を抜きに、医療側と非医療側とでお互いが紛争解決のシステムを考え、同じテーブルで意見をすりあわせる。その同じテーブルの上で、法曹の方々が法律的なアドバイスを行うと言う感じがいいのかなと思います。

確かに、おっしゃる通りですねー。
医療に関しては、専門的な事が多いんですが。
きっと裁判官も変にプライドが高いから、あんまり素直に意見を聞かないで、わかったふりしてちょこっと文献を読んで、偉そうな判決を出してる、とかそんなのがあるのかもしれませんね。
偏見かもしれませんが。
一度、そういうの関係なく、ざっくばらんに話せると良いですね。

個人的には、医療裁判に関しては、弁護側一人、検察側一人の医療鑑定人ではなくて。
もっと何十人もの医師の意見を聞いて、一般的な意見はこうだ、ってのがないと。
弁護側賛成、検察側反対、ってなって、裁判官もどっちの意見を取り上げたら良いのかわかんなくなって、いちかばちかで判決を出しているような感じですもんね、最近。

医者は人が足りないので、それだけ集めるのは大変ってのはありますが。

 私も個人的には法的な制限を設けて医療に対する訴訟を抑制するという手段は大きな危険を伴うと思います。

 そう言う前例を作ってしまった場合、次に来るのは企業に対する訴訟抑制であり、政府に対する訴訟抑制ではないでしょうか?これはファシズムへの半歩手前の状態だと思います。

 もし制限を設けるとするならば
1.医師個人に対する訴訟を制限すること
 現行の医療制度の中では医師は保険・その病院の人手の枠内でしか診療を行えない。また、医療事故の多くはシステムエラーによるものであり、個人の責を問う性質のものではない。
2.原則として第三者機関に判断をゆだね、その上で不満がある場合に訴訟を起こすよう定める。

 とすべきではないかと思います。

> No.19 僻地外科医 さん

 現状でも、特別な事情がない限り、被告とするのは病院(の運営主体)であって、医師個人を被告とする訴訟は多くないと認識していますが、その上で何点か。

 まず、統計的・全体的に観察した場合の傾向はともかく、個別具体的なケースについて見れば、その医療事故が主にシステムエラーによるものなのか、専ら個人の責に帰せられるべきものなのかは、実際に審理をしてみないと判明しないと思います。だとすると、審理をする前から、個人を訴訟の対象から外すというのは理屈に合わないような気もします。

 仮に、「システム」を被告とした審理の結果、問題はシステムではなく個人にあったと判明した場合の扱いはどうするのでしょうか。その場合にも個人の責任は問わないということなのか、改めて個人を対象に訴訟を起こせということなのか。前者であれば極めて不公平(被害者は泣き寝入り)ですし、後者であっても著しい負担増になります(その個人には、「システム」がしたのとは別の反論があるはずであり、審理が長期化する上、主張や証拠が異なる以上、必ず賠償が認められるとも限らない)。

 次に、問題とされるべき「システム」の範囲がよく分からない、という点があります。医療関係者の方々は、民事訴訟において、又は「第三者機関」における審査において、(個人責任を追及する代わりに)問題とされるべき「システム」として、どのようなものをイメージされているのでしょうか。

 手術に関するミスが争点の事例では、過失の主体を執刀医と見るのか、手術室にいたスタッフ全員と見るのか、外科全体と見るのか、診断をした他の診療科も含めるのか、その病院全体と見る(業務体制整備の責任を念頭に)のか、医師の派遣元となった病院まで含める(適切な労務管理という点では責任の一端あり?)のか、地方自治体も対象とする(救急車の配置、病院の誘致、医師の確保といった環境整備は充分であったのか等々)のか、医療機器・製薬業者の責任も考慮する(医療者がエラーを起こしにくくする工夫は尽くされていたか等)のか、医師の出身大学や研修先における教育内容も検討するのか、厚生労働省による医療行政こそ問題とされるべきなのか、その医療行政について責任を持つ内閣、予算を決める国会の行動についても検討を要するのか、国会議員を選出した国民の政治責任も・・・・と、考えようによっては無限に広がりそうです。

 もちろん最後の方は極端なのでしょうが、ではどこまでかと言われると、恐らく、医師によって、また事案によって様々な回答があり得るのだと想像します。しかし、訴訟においては被告を決めて提訴した上、その相手からは各々反論を聞かないといけませんし、判断権者は、全ての主張と証拠を総合して結論を下さなければなりません(これは「第三者機関」による審査でも同じでしょう。)。患者側から見れば、「システムエラー」こそ問題にすべしと言われても、どの範囲を対象にすればいいのか分からない上、あまり対象を広げすぎると、各当事者の言い分を確認するだけで大変な労力となり(当然、各々の言い分に対しては、別の当事者からの反論があり、それに対する再反論もあります)、その主張立証の全てを詳細に検討して責任の有無や割合を確定するのは容易ではなく、紛争解決に要する時間とコストは、当事者にとっても、判断権者にとっても、現在とは比較にならないほど莫大なものになると思われます。

 最後に、「システム」に問題があることと賠償責任の関係がどうなるのかがよく分からない、という点があります。「システム」の範囲自体不明瞭であることは前述のとおりですが、仮に、個々の医師や病院だけでなく、それを取り巻く「システム」全体に過誤の原因があったとして、誰がどのように賠償するのか、させるのか、指針はあるのでしょうか。責任の割合に応じて負担するのだとしても、実際に「医師15、看護師15、病院30、製薬会社20、医療行政20」などと数値化できるのでしょうか。仮に上記の割合を確定できたとしても、1000万円の損害を被った患者は、医師や病院とは別に製薬会社や国を訴えなければ損害の全額についての賠償を受けられないということになるのでしょうか。「第三者機関」がこのような査定をした場合、製薬会社や国が賠償金を支払う見込みはあるのでしょうか(又は、支払いを強制する法律を作るということ?)。

現状で刑法上個人を裁くことができないという点を問題にしているのでは?認識が違っていたら済みません。>>僻地外科医さん、FFFさん

>FFF様

 おっしゃる疑念は大変もっともだと思います。

> 現状でも、特別な事情がない限り、被告とするのは病院(の運営主体)であって、医師個人を被告とする訴訟は多くないと認識していますが、その上で何点か。

 まず、この点について私が念頭に置いているのは福島の件であり、都立広尾病院の件です。これは刑事訴訟になりますが、仮に民事でも同じことだと思います。特に都立広尾病院の件では看護師が有罪判決を受けていますが、これはシステム工学の立場で言えば明白なシステムエラーで本来個人の責を問う性質のものではないと思います(院長の有罪判決はちょっと論議が違いますので置いておきます)。FFF様の考えとは異なるかも知れませんが、故意でない場合はシステムエラー以外の原因はほとんど無いと思います。

> 仮に、「システム」を被告とした審理の結果、問題はシステムではなく個人にあったと判明した場合の扱いはどうするのでしょうか。その場合にも個人の責任は問わないということなのか、改めて個人を対象に訴訟を起こせということなのか。

 故にこれに関して考慮する必要はほとんど無いと思いますが、あくまで完璧に整備されたシステムの元、個人の過失によって引き起こされた事故であれば、(たとえば、広尾病院の件で言えば、消毒薬を注射器で計ってはいけないという規則が周知徹底されていたなど)この時点で個人を提訴されても良いでしょう。この審査をするために第三者機関を提唱しています。

> 最後に、「システム」に問題があることと賠償責任の関係がどうなるのかがよく分からない、という点があります。

 おっしゃるとおりだと思います。ですが、実質の賠償となるとこれは医療事故保険での補償となるべきでしょう。したがってすべての医療機関に医療事故保険への加入を義務づけること、診療報酬に医療事故保険への加入に見合う点数を付けることは最低限必要だと思います。現行の医療事故保険においては事故回数と関係なく保険料は定額ですので(ここが車と違います)、現在の運用方法であれば賠償額について問題にする必要はないと思います。要するに実質的無過失補償制度です(いや、過失はありますが・・・)。これで被害者については救済できるでしょう。こう考えればどこに何割の責任という論議は特別必要ありません。

 ここで問題になるのは、システムエラーの改善提言をどうするかですが、第三者機関にシステム工学の専門家を入れ、システム上のミス修正を各機関(国、自治体、病院)に促すこと、エラーの改善がない場合は何らかのペナルティーを課すこと、そのペナルティー担当に医療事故保険業者を関わらせることなどで改善可能かと思います。

故意でない場合はシステムエラー以外の原因はほとんど無いと思います。

ちょっと横レスになりますが、知識不足や経験不足はどうなのでしょうか。そういう人が従事しているというシステムエラーであるとするのなら、知識や経験、能力というものを明示的に日頃からチェックするシステムが必要ですね。実際、そのような決め事が増えてきていますが、現時点で充分でしょうか。
また、もちろん、自覚があれば能力を超える行為については、援助を求めるということが必要になります。この自覚がない場合などは、どう考えましょう。慈恵医大青戸病院の例のように未経験なものを行おうとするのは故意でしょうか。もちろん、失敗しようとしているのではないので、故意とはいえなくなります。でも、そういう行為をおしとどめることができなかったシステムエラーと考えますか?(実はそうかもしれないとも思っていますが、事実上、そこに押し込めることを納得できる一般人は少ないような気がします)

>No.23 てつさん
>ちょっと横レスになりますが、知識不足や経験不足はどうなのでしょうか。

そのさらに横から失礼しますが、それを担保するのが国家試験合格者に交付される免許です。特別な訓練を修了した者だけが特殊業務に従事して実践のなかで技術を磨いて(知識や経験を獲得して)ゆくことを国家が認めているのです。

> 故意でない場合はシステムエラー以外の原因はほとんど無いと思います。
ついでに言うと勘違いも過失では?

個人的にはシステムエラーと合併症を厳密に区別する事は難しいと思います。
医療行為があれば合併症という名の事故は必然的に起こります。合併症といえば聞こえは良いのですが、一つ一つの事例を見ればどこかしらに避けられたかもしれない可能性は残ります。
合併症の殆どは可能性でいえば避けられるはずですが発生をゼロにする事は不可能です。けれど合併症だからと言われても事故の当事者にすれば納得のいかない話でしょう。だから裁判を起こすのだと思います。

結局は
>医療機関に医療事故保険への加入を義務づけること、
>診療報酬に医療事故保険への加入に見合う点数を付けること

によって、事故の当事者を包括的に補償するしかないと思います。事故を起こした医療者は(故意でなければ)その内容によって免許の剥奪、給料の値下げ、研修などの措置をとられるという制度が理想に近いものだと思います。問題はいくら補償するかです。補償金額を高くすれば医療費は高くなり、安くすれば不満が残ります。現在は医療費は安いけど補償が無いので不満がある状態だと思います。
将来的に国民全員で補償費を負担するという制度が出来れば、合併症に対する理解はだいぶ進むと期待しています。

No.26 kouki さん

>結局は
>>医療機関に医療事故保険への加入を義務づけること、
>>診療報酬に医療事故保険への加入に見合う点数を付けること

同感です。

一般の人にこのことを理解してもらうための比較対象はやはり交通事故でしょうか。
医療行為は、止まることも許されず初めての見通しの悪い道路を高速で逆行するようなものですよね。もしそんな状況で、事故の度に裁判になったら運転する人はいないでしょう。仕方ないことと最終的に認められたとしても、裁判を金銭的な損害に換算すれば相当大きいものです。
一方、通常の交通事故では綿密な過失の判定なしに過失とされますが、加害者の負担は軽微です。だから一般的な多くの人が安心して運転できるのですよね。

個人的なアイデアですが、保険点数を全て1割増しにして、その1割をそのまま保険会社にまわし、医師会型の医賠責を作ればそれで司法の問題は解決だと思います。鑑定の問題も裁判官の問題も最早気にしなくていい。(刑事が増えると元も子もないかな)

>てつ様

>事実上、そこに押し込めることを納得できる一般人は少ないような気がします(長いので引用略)

 一般の方が納得できるかどうかは別として、技術が未熟なものが執刀・処置・検査をしてトラブルが起き、「それをフォローできる体制がない」と言うのは立派なシステムエラーです。技術が未熟な人が自分で勝手に執刀・処置・検査を出来るというのもシステムエラーに違いないと思います。
 このような事例を無くすためには研修システムの確立と技術認定試験しか方法がないと思います。いくら個人を罰してもこのタイプのミスは減らないというのがシステム工学の基本的な考え方でしょう。

>yama様
 勘違いは過失ですが、勘違いを事故につなげるのはシステムエラーです。

>元行政様

 いくら何でも1割は・・・と思ったら、国民医療費は約30兆円。1割として3兆円。医療事故被災をすべて補償したらそのぐらいにはなるかも知れませんね。

> No.22 僻地外科医 さん

 コメントありがとうございます。

 保険金を給付する際の査定についてはあまり話題になりませんが、実際の運用は医師から見て概ね適当であると受け止められているのでしょうか。

 保険とはちょっと違いますが、医薬品の副作用救済給付を医薬品医療機器総合機構に請求したところ、その副作用は「医薬品の不適正な使用による」と判定されて給付が受けられなかったのに、当該医薬品を使用した病院を被告とした訴訟では、担当医から「医薬品の使用方法は適正であった」と真っ向から反論されたことがあります。

> No.29 FFF さん

「医薬品の不適正な使用による」というのは、当該薬剤の添付文書を基にした発言ではないかと推察します。例えば、日本の抗生物質の承認量は、国際的にみて著しく低いものとなっています。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2006dir/n2669dir/n2669_02.htm
昨年の感染症学会総会でも、この問題についてシンポジウムが行われていました。
こんな量では患者さんの命が危ないと、現場の医師が承認容量を無視して、国際的に標準的な投与量・投与法で治療を行うことは日常茶飯事です(当然、体格や腎機能などからモディファイした量です)。
担当医から「医薬品の使用方法は適正であった」 とあるのは、患者さんのために、国際的には標準的とされる使用量・使用法を用いた可能性はないでしょうか?

「添付文書のジレンマ」は大きいですね。

添付文書の内容が実地と乖離している不利益と言うのは、最終的には治療を受ける患者がおってしまうのですが、なかなか改訂する話も出てきません。日本の抗生剤の投与量が少なめに記載されていて、効果が不十分との指摘は昔からありました。

私も以前は、国際的に標準な用量を投与していましたが、添付文書に反しているのと、保険で査定されてしまうので、いまでは添付文書通りに「少なめに」投与しています。

感染症を抑えきれず不幸な転帰をたどる患者さんも少なくないのですが、まぁ、なにかあって裁判になった場合に「添付文書以上の用量を投与したから死亡した」などと言われるのはイヤなのでね。

> No.30 岡山の内科医さん

 コメントありがとうございます。

 しかしながら、投薬の適否自体は本題ではありませんで(実際に担当した事件なので具体的な事情を説明できないというのもあります。)、保険会社や医薬品機構等、裁判所とは異なる第三者的立場の機関における医学的判断の妥当性は、医師の方から見てどうですか、というのがNo.29の趣旨でした。

福島・大野事件において調査報告書が果たして中立の視点で書かれたものかどうか疑問が持たれています。遺族への補償の関係上「過失があったことにしなければ補償が出来ない」と言われれば良識ある医師ほど同意してしまいそうですが、そうした善意が後日訴訟の場において自らの首を絞める結果となるのであればどうでしょうか?

無罪医師、女子医大を提訴 「手術事故の調査は誤り」
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007020801000583.html
 東京女子医大病院で2001年、心臓手術を受けた群馬県の少女=当時(12)=が死亡した事故をめぐり、誤った内部調査で名誉を傷つけられ解雇されたとして、当時の担当医=業務上過失致死罪に問われ1審無罪、検察側控訴=が8日、大学と調査責任者の教授に、損害賠償や未払い賃金計約8300万円を求める訴訟を東京地裁に起こした。

 訴状によると、内部調査委員会は01年10月、担当医による不適切な人工心肺装置の操作が患者の死因になったとの報告書を公表。その後担当医は業務上過失致死罪で起訴され、大学も解雇された。

 05年11月の東京地裁判決は「人工心肺装置に取り付けられたフィルターの目詰まりが直接的な原因で、担当医は事故を予見できなかった」として無罪を言い渡した。

(共同)

>岡山の内科医さん

こんな量では患者さんの命が危ないと、現場の医師が承認容量を無視して、国際的に標準的な投与量・投与法で治療を行うことは日常茶飯事です

現場の方から見れば当たり前のことだと思いますし、それをもって過失とする事は問題だと思いますが、非医療関係者から見ると2点ほど疑問があります。


1.何をもって「国際的に標準的」だと見なすのか。例えば、アメリカとドイツ、アメリカとフランスなど二国間において投与量が違っていた場合、「アメリカではこの投与量は標準だが、イギリスと日本では過剰投与と判断されるケース」が考えられると思います。その場合、どのようにして適正な使用量を判断されるのでしょうか。


2.国際的に標準的な使用量が適切だと裁判所で判断された場合、逆に日本の薬品の添付文書に従って投与した医師が「過小投与」だと過失を問われるケースもあると思います。その辺りのことは、どのように医師の方々は考えていらっしゃるのでしょうか。

>老人の医者さん
事故調査と、遺族への補償は切り離して考えるべきかと存じます。事故調査で過失が認められないと、遺族への補償ができないというのであれば、情報を公開するというのが理想論ではありますね。

「なお、本報告書では恣意的に医師の過失を認定している。これは県と病院からの要請であり、医師からの過失でないと、遺族側への補償ができないためである。これは科学者の良心には反することであるし、医師一人を生贄に捧げた行為であるという事は認識しているが、他に方法はなかった」

しかし、事故調査委員会でこのような発言が私にできるかというと、そのような事が言える自信はないですね。

前エントリ つくねさん。

僕自身は合併症と人為ミスを区別できるか、また区別すべきかというのに疑問なんですね。

第一点:人為ミスもまた確率的におきるからです。人により、また条件により、その確率は上下しますが確実に防ぐ方法は存在しない。
そしておそらくはミスを減らす最良の方法はミスを起こした人に罰や責任を負わせることではない。ミスした人を罰すれば皆が【よく注意するようになって】、ミスしなくなるというのは神話です。
ミスは常にある。ならばそれをどうすれば減らせるか、どうすればミスが起きたときにも重大な結果にならないようにするか、それが知恵です。それにはもちろんコストがかかる。
ミスと合併症を区別し、ミスは本来あってはならないもの、ありえないものとする考え方はミスを減らすことにはつながらない。

第二点:合併症と呼ばれているものの中にもやはり「ミス」が絡んでるんですよ、たぶん。
例えば造影CTは10万例に1人の死者が出る、それはいいでしょう。しかし、その一人というのももっと上手に発見や処置に努めれば、あるいは問診をもっとしっかりしていれば防げたかもしれない。ならばそれは「ミス」とも評価されえます。その境界は思った以上にはっきりしない。

第三点:医療行為と他の行為の違うところはそれが、命を救うための行為ということです。
すなわちどの部分を医療ミスと認定するにしろ、それが十分に小さい確率にならない限りは医療行為を行わないとすると却って患者トータルで見たときの利益にはならない。
ここも強調してもし過ぎることはない。
例えば電車や原子力発電所であれば、ミスにしろ事故にしろ起きる確率が一定以下にならない限りは導入しないという選択がありうる。だががんの手術を、99.9999%の安全性がない限りは行ってはいけないとするとミスや合併症で死ぬ患者は減りますが、それ以上に癌で死ぬ患者が増えます。
つまり多くの技術は便利さと命のトレードオフであるのに対し、医療は直接命と命のトレードオフなわけです。

以上のことから、僕自身の見解としては、合併症も医療ミスも区別しない。そこを区別するメリットは少ない。それよりも補償をするならば過失の有無を問わずに補償する。
一方医師の技術不足や適性に関しては、専門家集団によって勧告や懲戒みたいなことを考慮するのがいいと思う。

No.28 僻地外科医 さん

コメントありがとうございます。

私もシステムエラーの部分があるなとは思うのですが、手術中つかんではいけないところをつかんで神経挫滅とか血管挫滅とかを患者さん側がシステムエラーですと言われて納得できるのかなと。

外科系の方なら、自分ではしたことがなくても、見聞きすることはあるでしょ。

それと、医療業界というのはもともとコンプライアンスの低い状況もあると思います。コンプライアンスの低さもシステムエラーだとするのはちょっと難しいかなとも思いますし。

追加です。

ここで、「つかんじゃいけない」といっているのは、解剖学的に、そこをつかむと血管や神経の損傷を引き起こすであろうと通常なら予見できるのに、無知からくるミスでつかんでしまった場合です。手術中に、術者が「うわ」と声を上げるようなことを助手がすることですね。

>てつ様

 あなたは外科系の実務経験はない方だと思います。無知な新人はそんな危ないところに手を出せるような環境は通常ありません。そう言う新人が手術に入って危ないところに手を出せるとしたらそれ自体システムエラーでしょう。新人はよけいなことに手を出さないことを最初に厳しく教えられるのが外科研修です。
 というより、医学部を卒業した時点でそこまで無知な新人がいると言うこと自体、私にはちょっと想定できないです。学生実習の時点でも外科実習では勝手にいろんなところに触るな・・・をまず教えられます。実習で勝手にいろんなところに触るような人間を卒業させたとしたら、それも立派なシステムエラーでしょう。

  また、もし執刀医が無知でそんな損傷を起こしたとしたらそれ自体がとんでもないシステムエラーです。

No.39 僻地外科医 さん

コメントありがとうございます。

えと、手術部の看護師さんに一度話を聞いてみるといいですよ。結構、いろんなことがあります。外科は大丈夫かもしれませんが、それ以外の診療科ではどうかとかね。
麻酔科のセンセなどもいろんな経験をお持ちではないでしょうか。ひやひやするような術者がいるとかいないとか。

たしかに、非常にうまくいっているところがないとは申しません。そういうところがあるということはいいことです。

それと、被害が発生しないということが多いのも事実です。過失があっても目に見える被害は発生しなければ、責任があるということでもありません。血管をつなぎなおしたり、尿管をつなぎなおしたり。でも、後遺症が残る被害が発生する場合もあります。そういう場合には正直に患者さんにもうしあげて、謝罪します。クレーム対応としては、ストレスが少ないです。確かにシステムエラーでもあるので、組織として責任があることを痛感しますから。そんな経験は何度もあります。

手術って、芸術的にうまい人もいれば、下手な人もいます。それぞれ少数で、大多数は堅実な手術をするという状況ですが。もちろん、下手な人は、そのうち別の道を探すことになりますが、ごく稀に、研究がうまくいって教授になってしまうという人も。


>No.32 FFF さん

お返事ありがとうございます。

「保険会社や医薬品機構等、裁判所とは異なる第三者的立場の機関における医学的判断の妥当性」については危惧しているところがあります。

保険会社は営利企業であり、支出を極力抑えようとするインセンティブが働くことは容易に想像できます。薬品の投与量の件にしても、添付文書を盾に、医師の過失に話をすり替え、支払いを拒否するような態度に出る可能性はないでしょうか?少し筋から外れる例で申し訳ないのですが、アメリカでは、ある保険会社が、小児の髄膜炎の標準入院期間をたったの2日とするガイドラインを作成、運用しようとし、あまりに危険すぎると小児科の教授がそのガイドラインの運用の差し止めを求める裁判を起こしたことがあります。
また、医薬品機構にしても、その運営資金は大部分が製薬会社からの出資に頼っており(製薬会社もイヤイヤ出しているようです)、保険会社と同様の心理が働き、添付文書を盾に(医学的妥当性とは無関係に)、支払いを拒否することは十分想定されるシナリオです。

>No.34 しまさん

説明不足の書き込みで申し訳ありませんでした。

>1.何をもって「国際的に標準的」だと見なすのか

医薬品の投与量については、一般的に米=加=豪≒EU諸国>日本です。アメリカの標準量は、他の先進国でもおおむね標準量であると思います。例に挙げた抗生剤にしても、先ほどの一般論は適応でき、日本以外ではアメリカのSanfordなどのマニュアルの投与量が援用されます。また、アメリカで臨床をされた感染症医の先生方は、日系人相手に、アメリカ標準の使用量で安全かつ的確に治療を進めた経験を多くされ、日本の保険承認量の過小さに危機感を持っているのです。

>2.について

このような事を争点にした判例の有無は存じません。私の感覚では、「わが身がかわいければ、保険承認量で使う」です。No.31 某救急医さんと感覚が似ていると思います。これまでは、患者さんのためと思い、医学的に妥当なら分かってもらえると能天気に考えていました。査定されて病院に損害が出ると上司や事務にイビられても頑張るところは頑張ってきました。しかし、昨今の不可解な判例をみるにつけ、結果が悪かった場合のつっこまれどころを作るようなことは、心理的にキツくなっています。正直、裁判には医学的妥当性は期待していません。とくに下記の一連の論文を読んでからはそうです。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2002dir/n2489dir/n2489_05.htm#00

No.36 立木 志摩夫さま
コメントありがとうございます。
ご指摘の三点全て同意いたします。私も理想としては「合併症も医療ミスも区別せず全ての悪い結果を、社会が医療の恩恵を受けるための必要経費として社会全体で補償する」というのがあるべき姿だと考えます。
しかしながら、現状は正反対といってもよい状況です。「あらゆる身体の不調は決められた検査を適切に行なえば必ず診断がつき、決められた治療を適切に行なえば必ず完治する筈である。我々は金を払っているんだから、そうでなければ契約違反であり医療ミスだ。」と考えている患者さまの何と多いことか。
そのような状況でいきなり上記の理想を唱えたところで、一般の方には到底受け入れて貰えないだろうというのが私の結論です。そこで私は

「医学は完全である。結果が悪ければ責任は全て医療者にある。」
 ↓
「人間の身体に手を入れる以上避けられない合併症があるのは仕方が無い、救済制度を作って社会で補償すべきである。しかし医療者のミスはあってはならない、それらは医療者が責任を持って補償すべきだ。」
 ↓
「合併症とミスを明確に分類する事は不可能である。ミスを過剰に責任追及すれば合併症までミスと判断される事を恐れ医療が萎縮し、我々患者は医療の恩恵が十分受けられなくなる。」
 ↓
「我々患者が最も多く医療の恩恵を受ける為には、予め診療行為を行なう医療者のレベルを審査・保障し、その上で生じた悪い結果は全て社会で補償する事が必要なのではないか。」

と段階を追って意識が変化していくことを期待しております。まずは一段目から二段目に進める事ならば、医療不信の現状でも何とか可能なのではないかと考え、前エントリのコメントをさせていただいた次第です。

なかなか興味深い内容でしたので紹介します。
労働者としての医師という視点からもう少し真っ当な社会的対応がなされない限り医療崩壊の本質的な解決は無理なのではないかという気がします。


医師の労働問題:日本の医療はお先真っ暗
http://inoue0.exblog.jp/4711705/

> No.41 岡山の内科医さん

 コメントありがとうございます。

 医薬品機構の主な出資者が製薬会社だとは存じませんでした。保険会社にせよ機構にせよ、支払いを抑えようとするインセンティブから自由になることはなさそうですね。

 患者側からすれば、病院からでも保険・医薬品機構からでも補償が受けられれば一定の目的は達成されるので、過失の有無が明確でない場合もひとまずいずれかの主体が補償をして、あとは病院・保険会社・医薬品機構の間で決着をつけるという形にすれば、「患者vs病院」の医事訴訟は抑制されるものと思います。もっとも、その場合は「保険会社・医薬品機構vs病院」の医事訴訟(どちらが最終的に補償金を負担するかの争い)が代わりに登場することが予想されますが・・・・。

 医薬品機構が、添付文書外の用法であることを理由に副作用の補償金を支払わないために、患者が病院側を訴えるような事例は結構目にします。医師の論理からすれば、添付文書の記載を形式的にあてはめるような判断は「トンデモ」であり、裁判所が同様の姿勢を示すと「やっぱり司法は医療を分かってない、医療破壊の一因だ」みたいな批判をされるわけですが、同様の批判は医薬品機構の裁定にも向けられているのでしょうか。機構が「添付文書にとらわれない、適切な」判断をしていれば防止できた訴訟は多いと思います。

* ハナシがとんで恐縮ですが、製薬会社にとって添付伝書の記載を厳格にすることのメリット(責任回避)と、これを緩和することのメリット(医師が使いやすくすることで使用量が増え、収益が上がる)とでは、基本的に前者が大きいと見てよいのでしょうか。

No.44 FFF さん

>添付伝書の記載を厳格にする

記載内容は厚生省の指示によるものが大きいようですよ。何かある度に記載変更を指示され、製薬会社のMRが病院に走るといった感じになっています。

>岡山の内科医さん
コメント有り難うございました。

昨今の不可解な判例をみるにつけ、結果が悪かった場合のつっこまれどころを作るようなことは、心理的にキツくなっています。
基準がアメリカと日本とで異なっていること自体が、突っ込み所を作ってしまっているように思います。訴訟を起こす意志を持っている人にとっては、アメリカの基準でうまくいかなかった場合には「なぜ日本の基準を使わなかったのか」となるでしょうし、逆に日本の基準でうまくいかなかった場合には「なぜアメリカの基準を使わなかったのか」となるでしょう

>FFFさん
医薬品医療機器総合機構が添付文書を基準にして適切かどうかを判断している以上、望み薄なのではないでしょうか。

 「適正な使用」とは、原則的には医薬品の容器あるいは添付文書に記載されている用法・用量及び使用上の注意に従って使用されることが基本となりますが、個別の事例については、現在の医学・薬学の学問水準に照らして総合的な見地から判断されます。
医薬品副作用被害救済制度に関するQ&A

No.46 しま さん

訴訟を起こす意志を持っている人にとっては、アメリカの基準でうまくいかなかった場合には「なぜ日本の基準を使わなかったのか」となるでしょうし、逆に日本の基準でうまくいかなかった場合には「なぜアメリカの基準を使わなかったのか」となるでしょう

ま、そういうことです。
で、日本の臨床の場では一事が万事その調子。

#添付文書に記載されてある医薬品の適応・用量の変更はいつだって可能ですが、その前提として莫大な費用と時間のかかる臨床試験が必要です。
##ま、その辺で製薬会社の不作為を責めることができるかもしれませんがね。

これから先、どんなに制度をいじくったとしても「訴訟を起こす意志」がなくならない限り、生死が関わる分野からの医師の逃散は収まらないでしょうね。
仮にもし、その「意志」を無理やり押さえ込む制度が出来たとしても、今度は刺されるだけですから。

予算委員会での柳沢大臣の答弁です。

http://www.shugiintv.go.jp/jp/wmpdyna.asx?deli_id=33330&media_type=wb&lang=j&spkid=153&time=01:09:30.7

・産科医が減っているのは、出産数が減っているから
・呼吸器外科や消化器外科などを足すと外科医の総数は減っていない
・助産師不足はネットワーク化、効率化で凌げる

これって現実あるいは現場の感覚と合っているんでしょうか?

No.48 一般人 さん
その質疑のテキスト起こしが有志でなされているようです。

勤務医 開業つれづれ日記
2007-02-10 18:36:18
【時限記事】その一 民主党枝野vs柳沢厚労相(と安倍総理のゆかいな仲間たち)
http://ameblo.jp/med/entry-10025400815.html

その六まであります。

感想:これではあと1年でほんとに墜ちるところまで墜ちてゆきそうです。皆保険制度は、さあ、残っているといいですね。

No.43 老人の医者さん

興味深い文章を教えていただき、ありがとうございます。どの項目も肯くことばかりです。

No.44 FFF さん

コメントありがとうございます。
>医薬品機構が、添付文書外の用法であることを理由に副作用の補償金を支払わないために、患者が病院側を訴えるような事例は結構目にします。

そんな事例が多いとはしりませんでした。情報のご提供ありがとうございます。

>医師の論理からすれば、添付文書の記載を形式的にあてはめるような判断は「トンデモ」であり、裁判所が同様の姿勢を示すと「やっぱり司法は医療を分かってない、医療破壊の一因だ」みたいな批判をされるわけですが、同様の批判は医薬品機構の裁定にも向けられているのでしょうか。

医薬品機構の裁定の結果、訴えられる医師が多いことが認識されれば、批判の矛先は当然、医薬品機構に向けられると思います。

>製薬会社にとって添付伝書の記載を厳格にすることのメリット(責任回避)と、これを緩和することのメリット(医師が使いやすくすることで使用量が増え、収益が上がる)とでは、基本的に前者が大きいと見てよいのでしょうか。

お考えに同意します。多少売り上げが伸びても、訴訟に伴う手間・費用、イメージダウンなどの方が圧倒的に大きいのではないでしょうか。

No.46 しまさん

コメントありがとうございます。

>訴訟を起こす意志を持っている人にとっては、アメリカの基準でうまくいかなかった場合には「なぜ日本の基準を使わなかったのか」となるでしょうし、逆に日本の基準でうまくいかなかった場合には「なぜアメリカの基準を使わなかったのか」となるでしょう。

本来は、薬剤の承認の段階で、適切な用量・用法を設定しておけば、この問題の大部分は本来生じてない筈です。製薬会社が海外の用法・容量で申請しても、訳の分からない理由で減らされることはよくあります。厚労省が主犯だと考えています。

>個別の事例については、現在の医学・薬学の学問水準に照らして総合的な見地から判断されます。

「総合的」とは、「判定者の恣意的基準による」ことを意味すると思います。支出を抑えるインセンティブを持つ機構が、ベストの判定を下せるとは思えません。
>機構が「添付文書にとらわれない、適切な」判断をしていれば防止できた訴訟は多いと思います
とあるように、実際問題として、機構の「総合的な見地から判断」した判定には、問題が多くあるのではないでしょうか。

>No.50 岡山の内科医さん

添付文書外使用問題で、放射線科領域では、スポンゼル/ゼルフォームという血管内塞栓剤について問題が提起されているようです。

このスポンゼル/ゼルフォームというのは、肝細胞癌の塞栓療法として何十年の蓄積がある安全なものですし、他の代替物もないのですが、最近、添付文書で血管内使用は禁忌と明文化されたらしいのです

発売元としては、余りに安い材料(数千円)であり、高額な新製品(20万円弱)に乗り換えて欲しいらしいのですが、使用実績がないこと、安全性にむしろ疑問があること、汎用性からも、新製品は使われていないのが実態です。

救急外来での骨盤骨折や多発外傷時の塞栓療法による止血に際しても頻用されるものであり、現に多くの方々が救命されているものですが、もし不幸な結果になった場合、”添付文書に禁忌と書かれた薬剤の使用”で損害賠償請求を起こされる可能性があり、学会挙げて抗議し、対策を考えておられるようです。

救急医療で、放射線科医(特にIVR医)の協力が得られなくなったらと思うと、ゾッとします
何を持って、使用禁忌とするのか、製薬会社と厚生省だけで決められたらしいですが、恐ろしいことです。

石橋を叩いて、石橋を壊した後、石橋が渡れなくなった人をどうするのでしょう?
破壊的に石橋を叩きながら、壊れない橋を作れと、金も出さず、協力もせず、橋を作る人を訴追している国って何なんだろう?

>Med_Law さん
調べてみる限り、1996年からの規定路線のようですね。急にスポンゼルの使用を中止したわけではなく、ジェルパートの承認が通ったからこそスポンゼルの血管内投与を禁忌にしたと言う流れであっているでしょうか。


何を持って、使用禁忌とするのか、製薬会社と厚生省だけで決められたらしいですが、恐ろしいことです。

ここで「国際的な基準」と言われている、アメリカではゼラチンスポンジの血管内投与はどのようになっているのでしょうか。アメリカで承認されているのなら、日本でも基準を改定しないというのはおかしいですね。

「ある患者に対する薬物の投与量が適切か」という判断は、本来は「治療が奏効したか。副作用は想定の範囲内か」という現場の判断が最終です。

添付文書の推奨する投与量は、日本国内のものでも、外国のものであっても、治験段階で得られた「限られた被験者に投与した場合の平均値」です。いま目の前にいる患者が、「平均的」であれば、添付文書通りで良いはずなのですが、患者と言うヒトは非常に個体差の大きな動物なので、さじ加減が重要です。従来、さじ加減は担当医の判断で行っていましたが、最近は添付文書の記載がモノを言うようになってきています。もう、うるさいったらありゃしない。

一般的な病態を有し、平均的な重症度の平均的な患者に対して、平均的な治療結果を得たい場合には、添付文書どおりの投与で良いのですが、皆さん、最善の結果を期待するんですよ。

No42:つくねさん

おー、賛成です。結局のところ
「予め診療行為を行なう医療者のレベルを審査・保障し、その上で生じた悪い結果は全て社会で補償する」

が多分最も医療が力を発揮できる社会であると思いますね。
ただなかなかそこまで行くのはおっしゃるとおり大変ですね・・・

>No.53 某救急医さん

GelfoamとEmbolizationでPubmed検索すると920件出てきますが、スポンゼルの問題は、
”血管内使用禁忌”
であり、添付文書からは使用禁止しか結論されません。

法律を守れば、患者が骨盤骨折による出血性ショックで死ぬ
スポンゼルを使えば、一定確率で救命できなかった場合に訴追される可能性ある
医師として、この2者択一を迫られる訳です。
裁判に巻き込まれる可能性がある中で、同僚を夜中に呼び出して処置してもらうんです

IVRの先生からも、現状を憂う声明がでています。
http://www.jcr.or.jp/news/156/156_4s.pdf#search='%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88'
裁判で生贄になる仲間が出ないうちに、解決されることを望んでいます

 前のスレッドで医療費等について質問しましたが、皆様ご親切に教えていただきありがとうございます。私もさらに考えていきたいと思います。
 
 ところで、医療従事者の方の地道な努力で少しずつ医療は進歩してきたのだと思いますが、今の日本の医療は一体どの方向に進歩しているのでしょうか。
 医療に求められる様々なニーズがある中、何を重視し、何を諦めているのでしょうか? そして誰が進歩の方向を決めてきたのでしょうか?
 例えば公共工事には道路の整備などの計画があって、どこに道路を造り、その費用や効果などが国民の目に晒され、選挙等で国民の選択がなされていますが、医療には例えば今後10年で誰をどのように救うといった計画はあるのでしょうか。全員救うだけの資源がない中、とにかく全員を完全に救おうとして重点化や選択が十分になされていないのではないかという気がします。

 門外漢なので分からないなりに思いつくまま書くと、すごく大まかですが、例えば
・若年層を重視するのか、働き盛りの人を重視するのか、高齢者を重視するのか。
・とにかく死なないようにするのか、元気な状態に戻すことを重視するのか。もう元気になれない人はどうするか。
・最先端の医療を追求するのか、現状の水準を維持しつつコストダウンするための方法を追求するのか、水準を下げてでもとにかくコストダウンを重視するのか。
などなどたくさんあると思います。
 もちろん選ばなかった方を完全に捨てるということはないでしょうが。

 マスコミで話題になるのは健康保険組合の財政危機の話ばかりで、肝心のこの国の医学が目指す方向についての話は全然聞きません。こうした議論を広くすることで医療の現状への理解も深まるのではないかと思います。
 この部分の議論の不在が、とにかく病院に行けば何とかしてくれるはずという患者の医療への過剰な期待につながっているのではないでしょうか。

>>No.56 ゆきだるまさん

唯一進歩らしい進歩と言えば奈良県南部において見られるような医療事故撲滅という方向でしょうか。端的にいえば"No doctor, no error."ということになろうかと思いますが(苦笑)。


冗談はそれとして、ガソリンスタンドで「ガソリン税とり過ぎけしからん!」と叫ぶ人はあまりみた事がありませんが、病院窓口で「お前ら金取りすぎなんじゃ!」と叫ぶ人はよくいらっしゃいます。保険診療である以上医療費は原則100%国定価格であり、コストダウン要求厳しいガソリン販売業界ほどの価格自由度も存在しないにも関わらず、です。

病院は「国の医療政策」を決定する場所ではなく、あくまで目の前の患者に対して医療を行なう場にしか過ぎません。国が描くこの国の医療の未来図に対しては国に対して議論を吹っかけるべきところであって、病院の窓口で騒いでいても仕方が無いということを国民は広く認識すべきだと思います。全て人間は病を逃れ得ない以上、病院と患者は本来敵対的関係に陥るべきものではないはずですから。

世界的に見ると日本の医療費は大サービス大出血状態です。冗談はともかくとして(事実ですが)、日本の医療のあり方というのはまだ社会主義に傾倒しているような気がします。特に自民党(小泉一派を除く)、医師会、共産党はその傾向が強いです。これは世界の常識からかけ離れてはいないのですが、資金という面から30年前の医療水準ならともかく、患者の要求も上がり、医療水準が上がった現状としては実現不可能です。欧州では税金をまかなうことによってそれを実現していますが、イギリスは医療費を減らしたことで医療水準が下がってしまい、おそらく先進国では最低レベルになってしまったことは記憶に新しいと思います。
逆に民主党、自民党の一部は社会主義路線を維持しながら患者にも医療レベル相当の負担を求める方針を貫いています。
いずれにしても社会主義的な医療を死守するというのが一番優先順位が高いのです。次は老人医療費の引き下げでしょうか。その背景に老人の増加が挙げられることはいうまでもありません。ともかく、患者のクオリティというのはその次以降の優先度です。
それ以外については各人で方針がバラバラだと思います。とにかく何が何でも生かすのか、尊厳死を重要視し安楽死を許容するのか、それは医師によってスタンスは大きく異なります(故に議論になっているわけです)。そしてこの二面の共存はあり得ないのです。答えも出ていません。
なので、老人を優先かというのは答えは出ていません。生かさず殺さずでしょうか。若者優先であることは間違いないです。コストダウンしつつ医療水準お引き上げを誰もが願っていますが、これは無理な話。この点は議論したくてもできないでしょう。答えは出てこないと思います。
ということで余計混乱させたかもしれませんが、私の知る限りこんなもんですし、他の方は認識が違うかもしれません。他の方のご意見も参考にしてください。

No.57 老人の医者さま

病院窓口で「お前ら金取りすぎなんじゃ!」と叫ぶ人はよくいらっしゃいます。

・・・。よくいらっしゃるんですか。そんなDQNな患者さんが。
現場の皆様にはお察し申し上げます。
身内だと、親戚に医療事務がいるくらいなんですが、そういう目に遭ったりしているのかなあ。


某所からコピペ

日本の医療費は先進国中、他の追随をゆるさないほど安いんだよ。
初診料日本2400円に対して、アメリカ平均20000円
物価がはるかにやすい中国よりも日本の方が安い。
これでもまだ高いっていうのか??
ってゆーか、水道トラブル5000円トイレのトラブル8000円で、
おまえの体のトラブル2400円だぞ。便器以下かおまえ

ここのエントリーでは、トンデモ判決としての判例がよく議論に上るようですが、確かに医療者サイドの事情をよく組み込んだ判例も検討しないと公平な議論とはいえないかもしれません。そこで、下記を紹介します。(これもm3.comからの引用です)

特発性食道破裂原告敗訴の判例

上記のような所見の乏しさに加えて、前述したように食道破裂が日常診療ではまれな疾患であること、被告坂野の診察の翌日に擴を診察した大竹医師も直ちには食道破裂を疑わなかったこと等も考え合わせると、平成5年12月5日の外来受診時に被告坂野が食道破裂を疑うことができなかったことに、当事の大学病院における医療水準に照らして、医師としての注意義務違反があったということはできない。

本件における検査所見の乏しさや上記のとおり擴に重症感を認めなかった坂野被告の判断自体を非難できないこと等も考え合わせれば、被告坂野が、擴を緊急入院させることなく帰宅させて経過観察としたことも、医師の選択方法の一つとして許容される裁量の範囲内にあったものと認めるのが相当であり、上記12月5日の外来受診の時点で、被告坂野が擴を緊急入院させなかったことに医師としての注意義務違反があったとはいえない


特発性食道破裂という疾患があります。レアだけど死に至る怖い疾患です。私は、10年近く救急診療に携わってきましたが、直接自分は遭遇した経験はありません。間接的に一例を経験したのみです。その症例は、幸い救命はできたが、縦郭炎に難渋し、半年以上入院を要しました。確かに、教科書には、死ぬ疾患として、救急診療の要注意項目には挙げられています。しかし、本当に頻度はレアだと思います。

この判例は、司法がきちんとその医療者側の言い分を理解し判断してくれている判例だと思いました。

しかし、どうでしょうか? このホームページを見る限り、遺族側はとうてい不服のようです。こういう不毛な感情的な対立は、司法判断はなじまないかもしれません。しかし、その感情的対立は我々は現場で避けて通ることができません。確かに、医療者の態度に不信感を感じた。誠意のない対応を病院が行ったなどのことが、紛争のきっかけにはなるでしょう。

では、医療者側が、相手の感情に配慮し、そういう接遇面を完璧にこなしさえすれば、こういう紛争はなくなるでしょうか?

私は、確かに減りこそはすれ、決してなくなることはないと思います。

現代社会の大きな問題点として、死や病気を「自然現象・不可避なもの」として、社会が認めていないこと、認めようとしないことを私は挙げておきたいと思います。

このような考え方が社会のコンセンサスとなれば、医者に殺された、医療に殺された、私たちは被害者だという意識が薄まっていくのではないのでしょうか?

たとえ話をすると、大地震がきて被害が出たとき、気象庁にその被害感情をぶつける人はあまりいないということです。それは、地震というものが「自然現象・不可避なもの」として社会的コンセンサスを得られているからだと思います。しかし、予知技術がいったん発展・確立してしまえば、そのときは、きっと気象庁も責任を問われることになるということです。

今の先進化した医療状況は、予知技術ができた気象庁のようなものだと感じています。
だからこそ、不毛な医者VS患者の対立構造が出来上がってしまったのだと憂えています。


No.59 fuka_fuka さん

>よくいらっしゃるんですか。そんな…な患者さんが。

自己負担が上がると、たとえ10円でもゴネル人は大勢います。
受付事務は「何を言われてもにこやかに」が基本ですが、可哀想です。
公立病院ならガラスの向こうからぶっきらぼうでも…

一方、飲み忘れた薬を捨てる患者は沢山います。
私は飲み忘れた薬は持参して頂いて調整しています。外来診療室3室の小病院で、外来ナースの仕事は増えますが、今では残薬チェックは当たり前のこととなっていて、他のDrもやっています。

というか、特発性食道破裂なんて知りませんでした・・・。当方一応内科認定医の資格は持っております・・・。

> 誠意のない対応を病院が行ったなどのことが、紛争のきっかけにはなるでしょう。
この場合どうだかわかりませんが、往々にしてそういうことはあります。が、初めからケンカをふっかけるような態度できて、不信感を最初からあらわにして文句を言う人も最近は増えています。そして私のバイト先の病院ではそういう人が訴訟を起こしています。単なる数例をもってそういう人が訴訟を起こすとは断定できませんが・・・。

> 大地震がきて被害が出たとき、気象庁にその被害感情をぶつける人はあまりいないということです
秋田で昨年だったか、JR東日本が事故を起こしました。このときマスコミの報道として初期は「人災」というようなことを言っていました。原因もわからないのにどうしてこういうこと言えるかな?とも思いました。結果としてはどう見ても予期せぬ事故であり、天災ですよね?あれは。
また、新幹線の運転士が居眠り運転をしたときにちゃんと駅で停止し、問題がないと思ったらマスコミは運転士を「たるんどる!」と一括しました。私は当初から何らかの医学的事情や激務が原因の一つと考えられ、その場合は運転士に罪はないと思っていましたが、世間は紛糾しました(結局睡眠時無呼吸症候群が原因だとわかりました)。
人間というのはその程度のレベルの脳なんだなあ、と強く思うと同時にあきれました。

> No.61 消化器内科医さん
最近のトレンドとして、臨床試験などでも薬の飲み忘れもデータのうちとして入れています。長期間の研究であれば70%以上服用していればデータとして用います。完璧な人間などいないという訳です。ですから私も飲み忘れは正直に言って貰います。別に怒ることもしないし・・・。でも、患者さんは医者に怒られるのを理由に飲んでいると嘘をつくことも少なからずあると思います。そういう意味では我々は信頼されていないんですね。この辺の研究も将来は必要になるでしょう。

>というか、特発性食道破裂なんて知りませんでした・・・。当方一応
>内科認定医の資格は持っております・・・。

これはむしろ救急とか外科系の疾患になってしまうかと...
我々麻酔科医は緊急手術でおつきあいする疾患として知っています.といっても麻酔科医でもこの疾患を担当したことのない医師は大勢存在すると思います.
もちろんこんな疾患の患者さんでも最初は内科に行くこともあるでしょうが,頻度そのものが稀でしょうね.

ER医のはしくれさんの判決文の紹介を見て思ったのですが、原告棄却の判決で、適当なところを抜き書きすれば、どんな裁判官でも医療者側の言い分を理解し、判断する裁判官になってしまいそうです。(これはER医のはしくれさんを批判する意味ではないです)

原告らは、食道癌で吐血・下血を呈することは少ないから、上記出血を食道癌からの出血と想定することは誤りであると主張するが、その論拠とする甲B50は、「食道癌全体でも吐・下血の症状は少なく…吐血の頻度は5%であると報告している」と記載されていることからも分かるように、食道癌において、いわば動脈性の出血が起こり、吐血や下血を呈する確率が低いことを述べているものであり、食道癌からの少量の出血の可能性について同列に論ずるものではない。

本件は、急性胃潰瘍からの出血が非常に急速に起こったことが主たる原因 となって、突然死に至ったという事案であり、大変不幸な転帰を辿った症例であって、原告らの無念の想いは理解し得るところではあるが、鑑定人も指摘するように、このような急激な転帰を辿る症例は稀であると考えられるところであり(鑑定人W・79頁、同U・80頁)、こういった事態が具体的に予見可能であったとは認め難い。そして、上記において判示したとおり、大学病院における診療として、亡Fを証人Mらとともに担当していた被告ら3名の行為それ自体については、不法行為を構成する過失を認めることができないといわざるを得ない。

まあ、上の判決もトンデモ判決だと思う医師の方もおられるかも知れません。気分を害されたとしたらお詫びいたします。

あらためまして。

>ER医のはしくれさん

大地震がきて被害が出たとき、気象庁にその被害感情をぶつける人はあまりいないということです。それは、地震というものが「自然現象・不可避なもの」として社会的コンセンサスを得られているからだと思います。

単純に、気象庁が地震予報などと言うものを行っていないからだと思います。もし、地震予報というサービスを行って、被害が出たというのなら気象庁に被害感情をぶつける人はたくさんいると思います。天気予報だって外れたら抗議する人がたくさんいるわけですし。

こんなことを言ってしまうと議論にもならないのかもしれませんが、医療を裁判でさばくということであれば、それが正しく行われたとしても結局僕自身を救ってくれることはないなあという気がします。僕自身を救ってくれるとしたら立木さんがしきりに言う線引きの理論と社会的な利益を追求するために個を追求しないという議論かなあと思います。
モトケンさんを始め、法曹のいうことはけっこうそうだなあと納得するんですが、納得したところで自分の恐怖が消える訳ではない。僕は自分で十分まっとうなでも救急なんかは苦手意識のある医者です。病院に勤務している以上、まったなしで患者さんは来ます。呼吸困難で運ばれてきて僕が気管挿管にとまどって脳死になりなくなった方がいます。一般的な意味で気管挿管困難な方だったかどうか、僕にはわかりません。おそらく、麻酔科の先生や救急部の先生であれば脳死になる前に気管挿管に成功したのではないかと言われればそうだと思います。裁判になり、現在の医療水準ではこのような骨格の患者さんで気管挿管困難症とは思えぬ患者さんに対して速やかに挿管できないとしたら救急病院の医師としての水準を満たしていないと判断をされるかもしれません。亡くした患者さんのことは自責の念とともにずっと残っています。もし、自分以外の医師があたれば助かった可能性に関しても思いを寄せます。それでも、僕は大きな罪を背負わされたくはありません。僕自身は自分のことを比較的まともな部類に思っていますから、もし全ての医療一件一件を掘り起こして今のような理屈で医師を糾弾すれば僕は間違いないく医師は全て前科者になるか、大きな民事による負債を負わなければいけないと思います。
法曹の人は現存の法で判断するというけれど、むしろ全体のなかのほんの少ししか問題にされないから今医師が存在するだけで全ての診療行為に正しさを追求すれば医師はいなくなるのは確実です。車の運転なんかと医療のミスも比較されます。でも車の運転はよく習い慣れた行為です。しかし、医療はまったく初めて行う行為をしなければいけないことはよくあることです。いくら研修をしても研修期間に遭遇できない処置は誰にもあるはずのものです。

>謹慎明けさん

僕自身を救ってくれるとしたら立木さんがしきりに言う線引きの理論と社会的な利益を追求するために個を追求しないという議論かなあと思います。


線引きができるとしたら、医療界しか線引き、基準作りはできないだろうなと思います。現状は基準がない状況(あるいは基準を作るという事がそもそも無理かも知れませんが)で、司法が判断する以外に何かよい方法はあるでしょうか。


個を追求しないと言うのは、その方法があればベターだとは思いますが、例えば抗ガン剤を過剰投与した医師や、塩化カリウムを投与した准看護師のようなケースに対して、個を追求する以外のいかなる方法で、どのように対処すればベターなのかなと思います。


社会、医療界、患者の全てのレベルで、制度作りが後手に回っている以上、現状では裁判を用いる以外に方法はないのかなと思うのですが、いかがでしょうか。

謹慎明けさん
>病院に勤務している以上、まったなしで患者さんは来ます。呼吸困難で運ばれてきて僕が気管挿管にとまどって脳死になりなくなった方がいます。

救急病院における医療水準が何かということかと思いますが、気管挿管の技量に不安を感じているのであれば、まずそれを習得するまで、救急現場には立てない旨を病院管理者に伝えるべきでしょう。これに対し、病院側から、技量がなくとも立つように言われたら、謹慎明けさんの人生観が問われる場面でしょう。
目の前の事実上の不利益処分のリスクと起きる可能性が必ずしも高くないが起きれば重大なリスク(職責を尽くさなかったとの自責の念)のどちらを選択するのかということです。専門家としての自負があれば、答えは自明に思えます。
このようなジレンマについて、医療教育の中では語られてないのでしょうか。医療倫理の問題に思えますが…

出来ないと思っても患者が目の前にいるからやっちゃった、これがタイホされる旧タイプの医師。

出来ないと思ったらさっさとスルー、これがJBMを習得した現代の医師。

そういう教育が行き届いた結果医療がどうなったかというのがこのスレで長らく議論されてきたことなんだと理解していましたが…

>救急病院における医療水準が何かということかと思いますが、気管挿管
>の技量に不安を感じているのであれば、まずそれを習得するまで、救急
>現場には立てない旨を病院管理者に伝えるべきでしょう。

地方の弁護士さん,
これを実践すれば救急医療を担当する医師はほとんど「居なくなります」.
それでよろしいんでしょうか?
気管挿管ひとつにとっても,「求めるレベル」によっては習熟に10年以上もかかってしまいます.現在法曹から求められている水準と考えられる「一定のレベル」でも2年くらい毎日修練を積む必要があるでしょう.

医療技術とはどういったものか.どのくらい修練に時間が必要か.etc.もう少しでも医療のことを知って頂きたいと思います.そうでなければトンでも判決のような机上の空論になってしまいます.

地方の弁護士さん
通常の内科医と同様に気管挿管のトレーニングをしています。意識が完全にない患者さんにはたいていできます。それ以上の気管挿管には自信をもちようがありません。実際にそういう機会にあたるのは(自分しかいない状況で)僕の場合1年に1回ぐらいですから。
内科医の8割は何かしら慣れていない救急で用いる手技があるはずです。今でも救急に人がいないのにそれではすぐに救急崩壊です。そのあたりが法曹の人はわかっていないから自分の分野からみた正しさを強くおっしゃるのではないでしょうか。
僕は自分の専門分野には自信のある20年以上の経験を持つ医師です。医師が医師としてやっていくために全てを経験してからというのは不可能です。

僕のあげた気管挿管の例は同僚の医師から責められるような話しではありません。みんなある意味わかっているからです。ミスの定義も難しいのですが、ここに参加している医療者はミスではないと医ってくれると思います。でも非医療者は救急医なら助けられた患者さんだったということでミスといいそうな気がしています。100点満点の医療ができなかったのか、ミスなのか、60点はとっていたのか、自分では判断できません。非医療者のいうことの方が正しくてもいいんです。そうしたら医師はみんな前科者です。あるいは、少ない医療報酬のなかから莫大な負債をおうことになるのだけは間違いありません。

本当かどうかは置いておいて通常の基準からみれば平均的以上の技量を持つ医師が救急への不安ということを理解していただきたいのです。

#67の地方弁護士さんの

> 気管挿管の技量に不安を感じているのであれば、まず
> それを習得するまで、救急現場には立てない旨を病院
> 管理者に伝えるべきでしょう。

の御意見には、いろいろ思うことがありますが、はやり司法サイドからのそういうお考えは尊重すべきとおもいます。裁判では、現場の実情よりも机上の理論のほうが説得力がありますからね。

まぁ、自分の気管挿管の技量に不安を感じていない医師は世の中にいないでしょうから、さて、困ったことになりそうですぞ。「地方弁護士さん」の身近には、良質な医療資源が豊富にあるんでしょう。ふだんは意識されていないと思いますが、そのような希有な環境を感謝してください。

さて、わたしも挿管技術に不安を覚える医師の1人ですから、その旨を院長に伝えて明日から救急診療からはずしてもらいます。文面を練らねば...

>地方の弁護士様

 私も謹慎明け様に同意です。

 例えばうちの病院では私は挿管、ルート確保、薬剤投与など救急全般にある程度通じ、ほとんどの業務をこなすことが出来ますが、看護師は私と同等のレベルでルート確保を出来るわけではありません。
 いざCPA(心肺蘇生)を要する患者が来た場合、心臓マッサージは救急隊員にまかせ、私が挿管している間に看護師がルート確保をします。介助する看護師がちょっと手間取れば挿管が1分2分遅れることは十分あり得ますし、ルートを確保する看護師が手間取れば1秒でも早く投与したいボスミン(アドレナリン)の投与がそれだけ遅れます。

 そうして手間取ってしまったために助けられなかった患者、あるいは助けても蘇生後脳症で社会復帰に至らなかった患者は私が経験しているだけでもたくさんいます。
 あるいは一瞬の判断の中で、
「これは挿管を優先するのではなく、ルート確保を優先した方が助けられたかも知れない」という患者さんもいます。
 救命救急という業務は挿管ばかりではなく、そう言った個々の技術とチームワーク、一瞬の判断という、極めてもろい橋の上に成立しているのです。

 で、地方の弁護士様がおっしゃるように

救急病院における医療水準が何かということかと思いますが、気管挿管の技量に不安を感じているのであれば、まずそれを習得するまで、救急現場には立てない旨を病院管理者に伝えるべきでしょう。

 これをやり出したら全国である程度自信を持てるし技量とチームワークをもつ病院となると数百程度でしょう。救急医療に十分通じた医師となると全国に2000人を切るレベルでしょう。それ以外は救急を返上してもよろしいでしょうか?そうしていいものならとっくに返上しているんですが。

 また、医療に関しての誤解が大きい点をつかせていただきますと、医療は一度知識・経験を得たらそれで終わりではありません。特に救急技術や手術技術は常日頃の業務の中で刀を研ぐように磨き上げていくものです。例えば謹慎明け先生が(失礼!)2年かけて挿管技術を標準的救急専門医レベル近くまで上げたとします。でも2年やらなければ技量は元通り近くまで落ちてしまうでしょう。習得して終わりではないんですよ。

No.67 地方の弁護士さん

 医師の皆さんの意見に同意です。

 私が、ここで司法とはどうなっているのかということを説明するのは、医療側の皆さんに司法を理解してほしいからです。

 同時に、司法側の人間も医療とはどういうものかを理解する必要があります。

 私の基本的スタンスは、制度論・手続論においては現状の司法制度の理解なくして現実的議論は成立しないが、司法の判断の当否については医療の実態・実情の正しい認識なくして正しい判断はできない、というものです。

 医療の少なくともその一場面においては、ほっとけば死ぬ人間に対して医師が介入してその延命を図るというものだと思います。
 経験豊富でない医師は介入すべきでない、とか、介入が奏功しなかったからといって責任を問われていたのでは、多くの医師は介入できないし、介入したくなくなる、ということだと思います。
 となりますと、ほっとけば死ぬ、という現実が残ることになります。

No.75 モトケン様
> となりますと、ほっとけば死ぬ、という現実が残ることになります

確信をついたご指摘だと思いました。
この事実がどこか忘れさられて、医師や医療に責任を求めようとしすぎている社会に多くの医師が私を含めて、

”そんなんじゃ、我々やってられないよ!期待に答えられないよ!”

今までは声なき声だったのが、少しずつ声になろうとしている。(ネット社会を通して)
一方、マスコミは、世論を反映する鏡として、医療の負の側面を報道しつづけてきて、医療完ぺき主義の世論がますます助長されてしまった。確かに、一部には医師側の批判に値するものもあり、それが報道を介してよい方向に動いた効果もあったかもしれない。しかし、それ以上に多くの医師の士気を失わせしめた負の効果の方があるかに大きいように思う。
医師側が司法に期待をよせているのは、そんな現状を考慮に入れて、判決だしてくれよ、
という気持ちであると思う。しかし、紛争解決としての司法システムのあり方を考えると、それはできない相談だということですよね。

昔の医療は、まさに、そのまま死ぬことがデフォルトで、それを心的にも支えるだけの存在であれば、医師足りえたものが、医療の進歩につれて、医師への要求が際限なくあがり続けた結果、それだけでは到底医師足りえなくなった。

携帯電話がこれだけ普及した今、20年前の通信手段に戻ろうよといっても誰も相手にする人はいないであろう。同様に、50年前の医療に戻ろうよといっても社会の同意は得られないであろう。

医療の提供能力と医療に対する要求の差をどうにかして埋めていかないといけないと思う。どうしたらいいのだろう???? 悶々とする今日この頃・・・・・。

> No.63 Level3 さん
そもそも特発性ということは原因不明と言うことですよね?だったらそれこそ対策を立てにくいと思うのですが・・・。


地方の弁護士さんの意見をみて思ったのですが、医師や医療のことを勉強している方々(このブログの住民も含む)以外の方の言っていることは各論(その場限りの議論)としては正論なのですが、教科書的なことではなく、実際現場での限界はどれくらいかということを全く知らず、ひいてはその結果医療崩壊を招くと言うことが知識不足、経験不足から理解できないのだと思います。
だから、私としてはこういう人達に怒りをあらわにして反論するのではなく、わかりやすく説明するというスタンスをとるべきだと思うのです。
地方の弁護士さんの言っていることは、今後もよりよい医療を続けていくという前提であればはっきり言って間違っていると言わざるを得ません。しかし、どうして間違っているかと言うことをわかりやすく説明してあげる必要があると思うのです。
私も反省します・・・。

緊急事務管理 = 民法第698条
悪意または重過失がない限り、善意で実施した救命手当ての結果に救命手当ての実施者が被災者などから責任を問われることはない。
http://www13.plala.or.jp/emp-suzuki/k.hinan.html
http://homepage1.nifty.com/uesugisei/iryoukago.htm

というものがありますが,救急外来での致死的な患者の処置などは,もともと医療契約がある訳でもないですし,以前から主張していた

『正当な医療行為であって,かつ故意または,重過失によらなければ,賠償責任は負わない』

というのも,法の解釈次第でなんとかなりそうにも思えますが,,,,

悪意と善意が,法律用語なのか,道義的一般用語なのか,分かりにくい条文ではありますが,ここから救急医療を除外する法理論というのが分かりません.

莇・中井編「医療過誤訴訟」青林書院80頁,にその根拠があるらしいとのことですが,図書館ではおいそれと見つかりません.
(この手の本を買うと,おこずかいが,,,,汗)

この条文の被災者の解釈が問題なのは分かりますが,新たな医療契約関係を求める困った人ということであれば同じだし,業として救命を行っているといっても,これまでの議論の通り,もはや責任能力に限界があって,患者が困るほどにシステムが崩壊しているのだし,条文どおりの文理解釈でも患者側の納得が得られそうだし,拡張解釈(被災者=救急外来受診者)としても,一般的理解の範囲内だと思いますが,いかがでしょう?

No.67 地方の弁護士 さま
No.68 老人の医者さまのコメントとも内容が重なりますが、

目の前の事実上の不利益処分のリスクと起きる可能性が必ずしも高くないが起きれば重大なリスク(職責を尽くさなかったとの自責の念)のどちらを選択するのかということです。専門家としての自負があれば、答えは自明に思えます。
このようなジレンマについて、医療教育の中では語られてないのでしょうか。医療倫理の問題に思えますが…
少なくとも現在経験4年目以上の医師は「例え未熟であっても眼前の患者に全力を尽くす事が医師としての職責だ」と教育され、それを実践してきました。それが世間が期待する医療倫理だと信じていたのです。

しかし、現在経験3年目以下の新臨床研修制度世代の医師は違います。地方の弁護士さまと同様に「100%自信の持てない事には関わるべきでは無い」と考え行動します。そして多くのベテラン医師達もその流れに影響され考えを改め始めています。

私自身も、医療の内容を決定する上で医師の存在が絶対的なものではなくなり、また医療のアクセスが増え多くの患者が複数の選択肢を持つ様になった現代日本においては、後者の考えも一理あると思います。

しかしながら、一方の現実として、例えば日本には現在約4000の救急告示病院が存在するのに対し、日本救急医学会が認定する救急専門医は約2000人しかおりません。どう計算しても全ての施設で24時間365日専門医による対応を行うのは不可能です。

この状況を放置したまま、全ての医師が自らの専門外には介入しないという姿勢をとれば、モトケンさまのご指摘のように「ほっとけば死ぬ」という現実だけが大量に残される事になります。

このジレンマこそ我々医療者が非医療者に語って頂きたいテーマなのです。

>No.78 Med_Law さま
医療と緊急事務管理。

正確な条文を引用しておきます。

(事務管理)
民法第697条 義務なく他人のために事務の管理を始めた者(以下この章において「管理者」という。)は、その事務の性質に従い、最も本人の利益に適合する方法によって、その事務の管理(以下「事務管理」という。)をしなければならない。
2 管理者は、本人の意思を知っているとき、又はこれを推知することができるときは、その意思に従って事務管理をしなければならない。

(緊急事務管理)
第698条 管理者は、本人の身体、名誉又は財産に対する急迫の危害を免れさせるために事務管理をしたときは、悪意又は重大な過失があるのでなければ、これによって生じた損害を賠償する責任を負わない。

患者が意識があり自ら医師に治療を依頼した場合、または患者の代理人とみられる人物(家族・友人等)が付き添って本人のために医師に治療を依頼した場合は、準委任契約が成立します。
これに対し、患者に意識がなく、家族の付添無しで救急隊に運び込まれたような場合、患者の依頼なくして治療すれば、本人の意思に基づかない身体侵襲であるとして、不法行為になってしまい、治療ができないという困った事態が生じます。その場合に、身体侵襲行為の違法性を阻却し、治療を合法化する理屈が「事務管理」です。
事務管理を認めることにより、本人のために有益な費用を支出したということで、あとで治療費なども請求できます(民法702条)。

ところで、意識のない患者は病状が重篤で、早く治療しなければならないといえますから、「本人の身体に対する急迫の危害」がある状況と言えます。そうすると、通常の事務管理(697条)ではなく、「緊急事務管理」(698条)が成立するのではないか?

通常の事務管理と緊急事務管理との違いは、事務管理によって損害が生じた場合の責任範囲です。
「通常事務管理」では民法の過失責任の原則通り、軽過失でも損害賠償責任を負いますが、「緊急事務管理」のほうは、急場のことだから十分な管理ができなくてもやむをえないとして、「悪意又は重大な過失がある」場合のみ、損害賠償責任を負うとされます。
なお、「悪意」とは法律用語で、「知っている」という意味であり、不法行為においては「故意」と同意に解して構いません。本人の利益に最も適合しない(他にもっと適合するやり方がある)と知っていた、あるいは、知らなかったが知らないことに重過失があった場合。そういうイイ加減な事務管理は、いかに緊急の場合であっても許しませんということです。

意識不明で担ぎ込まれた患者については、医師は、本当はもっとよい治療法があるのに、ベストの治療法を選択をできなかったことに、故意や重過失さえなければ免責されるのでしょうか?
(通常の能力の医師を基準に、プロスペクティブな判断をするとして、でいいです。また最適な選択肢が複数考えられる場合はどちらを選んでもよい。)
しかし、通説は、医療の場面で、この緊急事務管理による責任軽減を認めません。
救急医療といえども医療の一分野であり、医師としての通常の判断力・技能が要求されると解しています。患者の意識と付添人の有無(必ずしも治療の困難さや切迫性と比例しない)だけで、責任範囲が変わるのは、不公平であるという考慮もあります。

私見ですが、阪神大震災級の大災害が起こり、次から次へと意識不明の重傷患者が病院に運び込まれて、医師も医薬品も不足して対応できないというような非常事態では、平時におけるベストの治療ができなくても、責任軽減を認めてよいのではないか。それを「緊急事務管理」と呼ぶより、むしろその当時医師が置かれた状況からして、この程度の治療ができたら「過失ナシ」と評価すべきように思います。

>つくねさん

例えば日本には現在約4000の救急告示病院が存在するのに対し、日本救急医学会が認定する救急専門医は約2000人しかおりません。どう計算しても全ての施設で24時間365日専門医による対応を行うのは不可能です。

確かに、それは事実なのでしょう。また、一方でその事が国民に知らされていないというのも確かです。マスコミの怠慢もあるのでしょうが、医療界(医師個人ではありません)がその事をPRしていないのも確かだと思います。(例えば「日本救急医学会 救急専門医 2000人」と言うキーワードで検索してみると、公のサイトで一番最初に引っかかるのは厚労省の議事録です)


医療ばかりではありませんが「○○ができる」という話は聞きますが、「○○ができない」と言う話はあまり耳にしません。医療に限界があるのは分かりますが、具体的にどのあたりが限界なのか、その限界をどこで知ればいいのかというと、思いつきません。その辺りの認識のギャップが、結果的に医療従事者と非医療従事者の溝を深めているのだと思います。

>No.80 YUNYUNさん

>意識不明で担ぎ込まれた患者については、医師は、本当はもっとよい治療法があるのに、ベストの治療法を選択をできなかったことに、故意や重過失さえなければ免責されるのでしょうか?

逆に、我々医療者が困っているのは、
『本当はもっとよい治療法があるのに、ベストの治療法を選択したばかりに、軽過失で訴追されたらどうすればよいのか?』
ということです。
残念ながら、特に救急時では、良い期待できる治療と、治療の危険性(過失の起こりやすさ)とは、Trade-offの関係にあります。

YUNYUNさんが懸念されるような事態を防ぐために、医療を締め上げるほど、過失の少ない萎縮医療を選択する医師が増えたり、根本的に選択を迫られない立場に逃げる医師が増えることでしょう

これは『太陽と北風』の寓話で、北風が陥ったジレンマと同じではないですか?

YUNYUNさんの想定されている”大災害時のトリアージ”での適用を我々も望んでいます
ただ現状では、院内の重症患者に手をとられている、満床であることを理由に、救急受け入れ要請を拒んで、医師法19条の応召義務違反に問われる例を見ても、YUNYUNさんほど、裁判所の判断は医療に厳しい判断を下しているように思えます。
これも医師の患者を思う倫理感と、自己保身とのジレンマに追い込んでいる事例の典型です。

PS
正確な条文提示をありがとうございました。いつもなら、正確に条文を引用するのですが、出先だったので、ついつい検索で引っかかったHPを参照しました。善意、悪意の使い方が変だなぁと思ったら、やはり”善意”は使われてなかったのですね。納得です。

>No.81 しまさん

>医療に限界があるのは分かりますが、具体的にどのあたりが限界なのか、その限界をどこで知ればいいのかというと、思いつきません。

私は研修医の頃に、『医師が諦めたときに、患者は死亡する』と教えられました。
つまり医師が限界だと諦めた段階で治療は事実上終わってしまい、救命可能性が途絶えてしまいます。
限界と思える部分を耐えて凌いで堪えて、目の前の命を救うべきだという自負が、今、崩壊しつつあります。

また昔は手段が限られていたために出来なかったことが、死のギリギリまでできるために、かえって安らかな死を看取ってあげることが難しくなってきたという思いもあります。
患者・家族の了解を得て、治療手段に縛りを掛けて行う治療も、それはそれで大変なものです。

感謝されない医療を、金銭のためだけに執着する医師は、それほど多くはありません

医療崩壊を食いとどめるには、もう時間が余り残っていないと、良心が残っている医師ほど危機感を抱いています

>No.83 Med_Law 様
また昔は手段が限られていたために出来なかったことが、死のギリギリまでできるために、かえって安らかな死を看取ってあげることが難しくなってきた

そうですよね。同時に、手段が増えてしまった故の不毛とも思える医師患者間の紛争も生じるようになってしまったように思います。心筋梗塞・・・かつてはただ安静のみであった。カテーテル治療の普及にともない、治療にまつわる合併症?医療ミス?など新たな紛争の火種が生じてしまった。もちろん、それ以上の人たちが、その治療の恩恵にあずかっていることは確かなのはわかるのだが・・・。

昔、小学生の頃、学級文庫の片隅にあった少年チャンピョンの中で偶然であった開腹手術のシーン・・・・。私はその漫画にすぐにとりこになりました。ブラックジャックです。

私にとって印象的なシーンをひとつ。「時には真珠のように」より

そのラストシーンで、ブラックジャックの恩師、本間先生がブラックジャックに語りかける台詞
人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね

今の医療には、この気持ちがどこか忘れ去れてはいないだろうか?

医療界が一丸となって、先進医療から撤退し、結果あまったマンパワーや資力を侵襲の少ない医療に転換する。

現状打破にこんなアイディアはどうかなあ?  非難ごうごう覚悟での投稿でした。

私の意見(癸僑掘砲紡个垢覲Г気鵑糧身が強いようですが、私の意見は、救急病院では確実に気管挿管ができるのが通常の医療水準であることを前提としています。もし、その理解が誤りであり、そもそも気管挿管は確実にできる手技ではないというのであれば、その結果、不幸な結果が生じたとしても通常の医療水準の範囲内の医療行為として法的責任を問われることはありません。気管挿管が上手く行かなくても法的責任追求を恐れることはありません。
私の真意は、通常の医療水準は医療の現場での話しですから、すなわち、医師の皆さんのフィールドでの話しですから、裁判になっても、十分立証が可能な筈です。自信をもって自ら信じる医療行為をやって下さいということです。
No.79 のつくねさんによれば「例え未熟であっても眼前の患者に全力を尽くす事が医師としての職責だ」と教育され、それを実践してきました。それが世間が期待する医療倫理だと信じていたのです。」とありますが、未熟な結果、その医療行為が通常の医療水準に満たない場合は、原則として、免責されないことは理解して頂きたいと思います。
例外的に未熟な医師しか眼前の患者を助ける可能性がない場合、外に手段がないことを要件として、免責される余地があると思いますが、未熟な医師しか配置し得なかった病院管理者の責任は免れないと思います。
No.83 Med_Law さんから、最善の医療を追求したが故に、通常の医療水準を下回る結果が生じる危険のジレンマのお話がありますが、新薬の治験のように患者の同意を得て行うべきと考えます。

>No.85 地方の弁護士さん

>最善の医療を追求したが故に、通常の医療水準を下回る結果が生じる危険のジレンマのお話がありますが、新薬の治験のように患者の同意を得て行うべきと考えます。

ここも、大きな誤解があると思うのですが、

医療は完全情報ゲームではありません。

A,B,Cという疾患の可能性があって、確定できないまま、治療処置をしないといけない状況があり、A,B,Cのどの治療法もそれぞれ、各個には有効だが、他の疾患であった場合に不利に働く状況を想像してみてください
確定を待っていたら息が、心臓が止まってしまうとしたら?時間もありません。
あたれば良いが、外れれば最悪犯罪者というのが、特に救急医療の状況です
しかも想定したのがA,B,Cであっても、実は、D,E,F....かもしれないというのです
結果論で過失を見つけるのは非常に容易ですが、その時点に戻って正しく判断しろと言われれば正解がなくなってしまうというのが、医療というゲームです。

裁判で決定論的に結果から過失が導かれるように議論されているのを見ると、論理は間違っていないが、事実を捉えていないという違和感を臨床医が感じるのは、そのためです

同意が取れればもちろん、承諾を得て実行すべきでしょうが、新薬の治験のような分かりやすい状況は、これらの議論の中では解決可能な問題として、処理済ではないでしょうか?

>地方の弁護士さん
「医療水準が明確に定まっていないor明確に定められるものでもない」ため、ここまで議論になっていると思います。話題にのぼっている気管挿管にしろ、医師の多くは「確実にできるとは言えない」と言う意見なのでしょうが、「確実にできる」と確信していてる医師もいるでしょう。標準的な医師にとって気管挿管がどのようなものなのか、明記してあるものがないため、どのような判決が言い渡されるのか分からないというのが現実だと思います。


裁判になっても、十分立証が可能な筈です。自信をもって自ら信じる医療行為をやって下さいということです。

思いっきり乱暴に言うと「そんなことを言っても、医学的に立証したはずなのに裁判官は聞いてくれないじゃないか。そもそも素人である裁判官に医学的な立証が分かるのか」と言う意見を、医師の方々から多く聞くように思います


例外的に未熟な医師しか眼前の患者を助ける可能性がない場合、外に手段がないことを要件として、免責される余地があると思いますが、未熟な医師しか配置し得なかった病院管理者の責任は免れないと思います。

もし刑事事件になった場合、医師のみの責任が追及されますよね。裁判はどう転ぶか分からないので、敗訴した場合犯罪者扱いされてしまうというのが、医師の方々に取っての現実的な恐怖感なのかと思います。


新薬の治験のように患者の同意を得て行うべきと考えます。

1.同意を得た得ないの水掛け論になった場合、2.患者が意識不明等の理由により同意を取れない場合はどのようにしたらよろしいでしょうか。

No.85 地方の弁護士様

>未熟な結果、その医療行為が通常の医療水準に満たない場合は、原則として、免責されないことは理解して頂きたいと思います。

ごもっとも、正論をおっしゃっておられると思います。さて、地方の弁護士様は、日本全国、時間外救急の現場のかなりの部分が、未熟かつ経験の浅い研修医や若手レジデントが担っている(正確に言うと、誰もやりたくないので、教育という名の元に病院管理者がやらせている)という医師の内内ならば常識に近いこの現実をご存知のうえでのご意見でしょうか?

今の医療の結果に完璧をもとめる社会事情かつ法曹もそれを支持する社会事情が続けば、救急は確実にやり手がいなくなり、多くの急患の方々が路頭に迷うでしょう。未熟であるから、しょうがないよなという多少の歩み寄りの気持ちが正直ほしいと私は思います。


地方の弁護士様、いつもなかなかおいしいタイミングでの燃料投下(炎上というわけではありませんが)感服つかまつる。

生まれついての名医はいない、また生まれついての腕利き弁護士もいない、皆、現場でもまれて成長する、ということではないですか。

>ER医のはしくれさん

未熟かつ経験の浅い研修医や若手レジデントが担っている(正確に言うと、誰もやりたくないので、教育という名の元に病院管理者がやらせている)という医師の内内ならば常識に近いこの現実をご存知のうえでのご意見でしょうか?

医師外ならば誰も知らないと思います。個人的に思うのは、現実がそのような状況であるのならば、救急学会あたりが中心となって、医療水準を現状に合わせるように書き換えればよろしいかと思うのですが、医療界内部ではそのような議論はされておられるのでしょうか。

完璧を求めている訳ではないのですが、未熟であると言う話を公の場で誰も発言しないので、救急病院等を定める省令が法廷の場でもそのまま適用されてしまうのではないかと思います。

>No.85 地方の弁護士さん

地方の弁護士さんの弁を読み、今、私は絶望感に包まれています。

医療行為に100%の「確実」はないのです。それは、わかりますか?(もしそれがわからないなら、地方の弁護士さんは「一か八かでやってもらっては困る」で有名な福島地検と同じ穴の狢ということになります)
90%ならあるかもしれません。90%は、「ほぼ確実」と言えるかもしれませんが、しかしそれは10%は失敗するという事実の肯定です。失敗に終わった10%に対する問責は、一歩間違えば不当な問責です。付け加えるならば、失敗に終わったことについて合理的な理由を見出せることは多くないと思います。しいて医療ミス追求人間が喜ぶような言い方をすれば、「手元が狂った」と言うことになることが多いのではないでしょうか。

以前筑波メディカルセンターの医療事故の問題に関する新聞の見出しに、「90%大丈夫と言われたのに…」という内容のことが出ていましたが、医療事故の内容はさておきこの見出しはトンデモの類のものです。10%は大丈夫ではないことを宣言して治療したのに、結果的に大丈夫でなかったことだけを取り上げて問責するのは明らかに不当です。

「90%」と「100%」の区別もつけられないまま医療水準を曲解するような司法判断が数々と出されて、それが勤務医逃散の一翼を担い、その結果として日本の、特に救急と産科において「真の」医療水準を引き下げつつある(あるいは受療機会を減少させつつある)という事実を、法曹の方はよく理解しておいたほうが良いと思います。

>峰村健司 さん

90%ならあるかもしれません。90%は、「ほぼ確実」と言えるかもしれませんが、しかしそれは10%は失敗するという事実の肯定です。

これは重要な指摘です。医療従事者と非医療従事者のギャップの一つだと思いますが、我々が医師から「90%成功しますよ」と言われた場合、90%の成功という所に意識が働きます。野球で言えば、チャンスで打率9割のバッターを迎えるようなもので、まず一点入ったなと思うわけです。で、打率9割のバッターが凡打に終わると、期待の分だけ絶望感も高くなるわけです。

医師が「9割成功しますよ」と言う場合、「1割失敗しますよ」と言うように頭の中で変換することにします。勉強になりました。

>地方の弁護士様

私の意見(癸僑掘砲紡个垢覲Г気鵑糧身が強いようですが、私の意見は、救急病院では確実に気管挿管ができるのが通常の医療水準であることを前提としています。もし、その理解が誤りであり、そもそも気管挿管は確実にできる手技ではないというのであれば、その結果、不幸な結果が生じたとしても通常の医療水準の範囲内の医療行為として法的責任を問われることはありません。気管挿管が上手く行かなくても法的責任追求を恐れることはありません。

 もし、これが事実であるとするならば、すべての医療技術について法的責任追及を恐れる必要がないと言うことになります。この世の中に確実に出来る医療技術というものは一切存在していません。

 気管挿管はもとより点滴・注射などのルート確保、別エントリーで議論中の透析用カテーテルなどすべてにおいて不確実です。こと、別エントリーで論じている亀田病院のカテーテル挿入(これもカテーテルです)などは名人中の名人がやって99%の確率(つまり100回に1回は失敗する)、並の医者であれば10回に1回は何らかの失敗をします(大腿穿刺の場合)。

 現実はいかがでしょうか?

既出だったと思いますが、救急の事情をわかった上で脳外科医(おそらく通常の救急では一番頼りになる外科医)が外傷性心タンポナーデの心嚢穿刺ができなかったということで敗訴しました。http://homepage3.nifty.com/medio/watching/hanrei/151024.htm
判決に論理性はあると思います。『我が国では年間約2千万人の救急患者が全国の病院を受診するのに対し,日本救急医学会によって認定された救急認定医は2千人程度(平成5年当時)にすぎず,救急認定医が全ての救急患者を診療することは現実には不可能であること,救急専門医(救急認定医と救急指導医)は,首都圏や阪神圏の大都市部,それも救命救急センターを中心とする3次救急医療施設に偏在しているのが実情であること,したがって,大都市圏以外の地方の救急医療は,救急専門医ではない外科や脳外科などの各診療科医師の手によって支えられているのが,我が国の救急医療の現実であること」を認め、「脳神経外科医は,研修医の時を除けば,心嚢穿刺に熟達できる機会はほとんどなく,胸腹部の超音波検査を日常的にすることもないこと,」を認め、「自らの知識と経験に基づき,Eにつき最善の措置を講じたということができるのであって,注意義務を脳神経外科医に一般に求められる医療水準であると考えると,被控訴人Eに過失や注意義務違反を認めることはできないことになる。G鑑定やH鑑定も,被控訴人Eの医療内容につき,2次救急医療機関として期待される当時の医療水準を満たしていた,あるいは脳神経外科の専門医にこれ以上望んでも無理であったとする」と認めています。鑑定医は最善と尽くしたと認めた上での敗訴ですから、医療水準は現況では医師が決めているのであって法曹は鑑定医の意見に従って判決を出しているというのはこの件では少なくとも違います。
別に間違った判決じゃないと僕も思います。でも、この基準で判決をされたら医師はすべていなくなるというだけのことです。

>No.81 しまさま

医療界(医師個人ではありません)がその事をPRしていないのも確かだと思います。
数年前まで救急告示病院というのは、専門科に関係なく医師免許を持った人間がいて、入院ベッドがあって、最低限の検査ができればそれでよかったのです。ですから救急告示病院4000、救急専門医2000というのは限界でもなんでもない「通常」の状態でした。ところがそこに「救急専門医以外は救急医療を担当してはいけない(もし担当した場合、結果が悪ければ「未熟」な医師による医療行為と判断され過失と認定される)」という新たな概念が突如出現し、一気に要求水準が高騰した結果、それまで「通常」だった状態が急に「限界」に変わってしまったのです。
医療界は大混乱です、テロの現場と同じです。個人が生き残ることで精一杯で、とても業界として外部に発信できる様な状態ではありません。

医療ばかりではありませんが「○○ができる」という話は聞きますが、「○○ができない」と言う話はあまり耳にしません。医療に限界があるのは分かりますが、具体的にどのあたりが限界なのか、その限界をどこで知ればいいのかというと、思いつきません。その辺りの認識のギャップが、結果的に医療従事者と非医療従事者の溝を深めているのだと思います。
同意いたします。しかし上述のとおり、数年前まで医療界は「個人レベルで全力を尽くしていればそれでよい」という基準で動いていたのです。全体としての「限界」という発想自体がそもそも存在しませんでした。そのような中で、あまりにも急激に医療に対する要求が変化したため、医療者自身でも何が「限界」なのか正直わかりません。そうしている間にも世間の要求は益々肥大し、それまでの「通常」が次々「限界」に変化します。
そこで一部の医療者が達した結論が「とにかく一度完全に崩壊させ、どこに現実的な「限界」を設定するのか、医療者・非医療者双方で話し合い決めなおすべきだ、それ以外にこの溝を埋める方法はない」ということです。

>>地方の弁護士さん
委員会の方ですかw

>>しまさん

医師外ならば誰も知らないと思います。個人的に思うのは、現実がそのような状況であるのならば、救急学会あたりが中心となって、医療水準を現状に合わせるように書き換えればよろしいかと思うのですが、医療界内部ではそのような議論はされておられるのでしょうか。

そりゃ救急最前線では最善の医療を提供するため努力しているのを放棄しますかのような提言はできませんがな。
実情としては、まともな2次、3次病院では指導医が付いています。すべての指導医が心嚢穿刺まではできないでしょうが。

優秀な救急医だけが救急医療をすることにして、日本全体で数カ所だけで救急医療をするのが良いですか?

例え拙い技術でも、日本全国至る処でそこそこの救急医療が受けられる体制が良いですか?

無い物ねだりをしないで、どちらか選んで貰うわけにはいかないのでしょうか。

あと、もう一つ誤解を招かないように言っておきます。
優秀な救急医でも、本当に優秀なのは初期治療だけです。
実際に手術になれば、それぞれの臓器の専門家の方が上手いでしょう。
もちろん例外はあると思います。

それからちょっと気になったので。

話題にのぼっている気管挿管にしろ、医師の多くは「確実にできるとは言えない」と言う意見なのでしょうが、「確実にできる」と確信していてる医師もいるでしょう。

たぶんいないと思います。簡単な症例なら、私は確実に気管挿管できます。でも、どんな症例でも出来るとは思えません。悪性リンパ腫で、口腔から咽頭部にかけてたくさんの腫瘍で満たされた症例ですら、風を感じて盲目的に挿管したことが私にはあります。でも、私を含めて、誰も挿管できなくて手術が中止になったことがあります。頸椎の前弯が強く、気管に入った気管支ファイバーをガイドにしても、チューブは気管に入らずに気管支ファイバーが抜けてしまう症例でした。

どのような医療行為でも、容易な症例もあれば困難な症例もあります。
点滴は初歩的な医療行為ですが、どんな症例でも点滴できる人はいないでしょう。
ある程度の太さの血管のない人には絶対に出来ませんから。

>>No.67 地方の弁護士さんのコメント

 述べたかったことは、
>>No.75 モトケンさんのコメント
>となりますと、ほっとけば死ぬ、という現実が残ることになります。
に集約されていますので、細かい点だけ補足させていただきます。
 気管挿管については、救急救命士にも許可された経緯を考慮する必要があると思います。いくら十分な研修と経験を積んだとしても救急現場での気管挿管は病院で行うより危険です。病院で気管挿管する場合は、気管挿管を確認する方法がある(胸部レントゲン写真など)、鎮静薬や筋弛緩薬の使用が可能、急変時にマンパワーが多く、ルート確保と速やかな薬剤投与が可能、気管挿管困難な場合は熟練医のサポートや緊急気管切開が可能、などのサポートがありますが、救急現場ではこうしたサポートが全くない中で行わなければならず、また気管挿管にかかった時間だけ病院への到着時間が遅れる(治療が遅れる)からです。必ずしも二次エアウェイの使用が院外の心停止の患者さんの生存率を改善したというエビデンスはないのですが、AHA心肺蘇生法ガイドライン2000では二次エアウェイの使用に関して気管チューブが選択すべき換気用具と考えられていたこともあり、少しでも救急患者さんの救命率を向上させたいという思いから、許可に至ったのだと思われます。(なおガイドライン2005では、心肺停止時の応急的な二次エアウェイの使用は、そのリスクを考慮した上で、気管挿管、ラリンゲアルマスク、食道気管コンビチューブから選択することになったようです(換気効果のみ評価すると同等だった(エビデンスレベル2))。)
(ガイドラインについての参考文献)中山書店「EBMジャーナル」2006年11月号

>>No.85 地方の弁護士さんのコメント
 「いつどのような(挿管困難な)患者さんにあたるか分からない」という現状についての認識が欠落しているように思われます。

>No.92 しまさん

ご指摘の点については、「医者側は治療効果に関して希望的観測で説明しがちである」という点で医療者側にも甘い部分があったと思います。治療が成功しても失敗しても「ありがとうございました」と言われていた時代にはそれで良かったのでしょうが、昨今の人々の意識の変化に対してついていくのが遅れていた面はあると思います。

しかし失敗に関する説明を詳しくしても、成功率90%の場合に、しまさんが悟られたように失敗率10%を受容してくれないと、医療行為は出来ないことになります。

現代の人々にとって、かように不確実なサービスである「医療」は、受け入れにくいものではないのかと危惧します。

不確実であることを知らずに医療を受け、失敗に終わった人の大部分は、仕方なく諦めているでしょう。しかし一部の人が訴訟に打って出て、実際に大金を獲得します。訴訟の勝者が得るカネの一部は、失敗を受けたが諦めた人が支払った医療費から出ます。これが医療を取り巻くカネの動きとして、健康な状態なはずがありません。医療行為の妥当性を正しく判断する機構を整備しないままに、医療民事訴訟を現在の枠内で維持しようとすることは、この不健康なカネの動きを肯定することになるので私は絶対反対ですし、たとえそれを正しく判断する機構を整備したとしても、さほど公正に働くとは考えにくいので、それだったら最初から過失不問補償制度にしたほうが良いと思うのです。真に問題のある医者の処分は、別に点数制の行政処分制度を構築するのが良いと考えます。

>No.94 謹慎明けさん

奈良救急事件
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/5DC0E6DAEC784F5649256DD70029B153.pdf

これは、トンデモ判決の典型例として、JBMで私が投稿した文を挙げます
判決文を読んで、あーあ、救急医療は死んだな、と思いましたよ、実際。

===============(以下、コピペ)

この判決は全文を読んでました。で、かなり引っかかるものがあります

恐ろしいことに『外傷性心タンポナーデ』というのは死因の臨床診断であり、剖検もなければ、裏付ける客観的な事実も何もないということ

死亡診断書(あるいは検案書)に(外因:外傷性心タンポナーデ)と書いてしまったことが救急担当医の過失認定の始まりというのが、なんとも不気味です

揚げ足を取られたとしか言いようがありません

救急という限られた医療資源で、切迫する時間の中、急変する容態、、、等の非常事態で、医師が救命のため仮診断、検証、治療の繰り返しに追われる事情は何一つ考慮されていません

遅発性外傷性心タンポナーデと裁判所が認定した理由は以下の通り(判決文より)

1)シートベルトを装着しない状態で,ブレーキ痕もなくブロック塀に衝突しており,高エネルギー外傷を受けたと考えられること
2)血液生化学検査により,CPKの値が197mU/ml と高い数値を示していたこと
3)受傷後循環動態が安定していたにもかかわらず,午後7時頃に容体が急変したこと,適切な心肺蘇生術を施行したが,全く反応がなかったこと

この1)〜3)をもって

『上記の外傷性急性心タンポナーデの特徴と合致し,Fの死因が外傷性急性心タンポナーデであると考えることによって,Fの臨床経緯を最も合理的に説明することができる。』

と裁判所が認定したのです。”最も合理的”が賠償容認理由ですよ

つまり、裁判所が後から考える死因の他に、適切に説明できる事情がないと許されないことにもなりかねません。

医師であれば分かるように1)〜3)は非特異的な要因に過ぎません

1)〜3)を合理的に説明できる死亡原因の推定として、病院側が”腹腔内出血”の可能性を挙げているが、これは理由が乏しいとして退けられていることにも注意が必要だろう

腹腔内出血が死因でないと相当の蓋然性を持って推測できるというのであれば、Xpで全く異常がない心タンポナーデの何処に死に至る蓋然性があるのだろう

”最も合理的に説明できる”というのは、不勉強な学生が一つのことだけ一生懸命勉強して、一週間続く発熱を膠原病や感染性心内膜炎と確診するのと同じ過ちを犯した証拠と見ることもできる

高度の蓋然性とは、本来、他の理由が見当たらないということでもあるのだから、この裁判所の死因の”蓋然性”は叩き売りの特売、大安売りされたことになります

また、『Fは受傷から容体が急変するまでの約2時間半は循環動態も安定していたので,この間に重度外傷患者の診療に精通する施設に搬送していれば,ほぼ確実に救命できたことが認められる。』と断じて、医師の過失を認定しています

JBMから導かれる医師の採るべき処置とは、『受傷から2時間以上安定していても、急変する可能性がある限り、3次救急へ転送しなければ、過失である』ということです。

どんな軽症であっても二次救急レベルで交通外傷を扱うのは頭が高いという裁判所の認定です

さて、紹介を受ける3次救急病院を探しているうちに、大淀病院のような事態になりはしないかと心配するのは職業病で、司法は医師の義務であり、果たさない限り免責しないと警告を発しているのです

交通外傷を受け入れる2次救急病院はチャレンジャーですね

=========================(引用おわり)

No.100 Med_Law さん
心タンポナーデであってもなくても問題は大きい判決でした。一番大事なところを読み飛ばして論理性はあると言って後悔していますが、本当に心タンポナーデだったとしても怖い判決です。

> Hekichin さん
別に最前線の方々の努力を否定するわけではないのです。救急告知病院の最低基準ががどこかに明記してあれば、裁判所もそれを参考に判決を下すほかないと思うのですよ。

例えば、つくねさんの文章を参考にするのならば

わが国の現状から考えて、救急告知病院の最低要件は以下のものとする
1.24時間医師の診察が受けられる
2.24時間ベッドが用意出来る
3.24時間、最低限の検査が可能である

なお、救急専門医が勤務していることが望ましいが、わが国の現状から考えて、そのような事は現実的ではないため除外する。よって、救急告知病院といえども高度な救急処置を行うことができるとは限らない

恐らく、この条件を満たすことも厳しいのだとは思いますが、このようなものがどこかに明記してあれば、万一訴訟になった場合でも有利になるのではないのかなと思います

No.86 Med_Law さん
>A,B,Cという疾患の可能性があって、確定できないまま、治療処置をしないといけない状況があり、A,B,Cのどの治療法もそれぞれ、各個には有効だが、他の疾患であった場合に不利に働く状況を想像してみてください

この場合は、通常の医療水準からして確定診断ができない場合でしょうから、合理的に予測される範囲内の医療行為の結果が思わしくなくとも法的責任はないと思います。

No.87 しまさんのコメント
>「医療水準が明確に定まっていないor明確に定められるものでもない」ため、ここまで議論になっていると思います。

医療水準の立証責任は、原告(患者)にあります。上記の場合は、被告(医師)は真偽不明にすれば足りますから、容易に勝訴できるはずてす。医療のことが分からない裁判官の能力に対する不安が大きいようですが、裁判官に理解させる努力をするしか方法はないと思います。裁判を受ける権利は憲法上の権利だからです。

No.88 ER医のはしくれさん
>日本全国、時間外救急の現場のかなりの部分が、未熟かつ経験の浅い研修医や若手レジデントが担っている(正確に言うと、誰もやりたくないので、教育という名の元に病院管理者がやらせている)という医師の内内ならば常識に近いこの現実をご存知のうえでのご意見でしょうか?

正確には知りません。ただ、誰が治療行為をしても、医療水準を下回る医療行為した場合は法的責任は免れません。業界内の常識で法的適用を免れることはできません。不条理な現状は是正されるべきであり、司法の判断基準を変える理由にはならないと思います。

No.89 じじいさん
>生まれついての名医はいない、また生まれついての腕利き弁護士もいない、皆、現場でもまれて成長する、ということではないですか。

この意見に反対する理由はありません。ただ、だからと言って、医療水準を下回る医療行為が免責される理由にはならないことはお分かりかと思います。

No.91 峰村健司さん
No.93 僻地外科医さん
医療の不確実性を前提として、医療水準が決まっているのだろうと思います。すなわち、医療の不確実性故に医療水準の判断ができないことにはならないと思います。

失礼な言い方ながら、顧客を選べる(応招義務が無い)立場の弁護士でさえ勝訴の確率が100%ではないという現実を前にした場合、そもそも何らの確実性も存在しえない医療現場が一法曹人の根拠の乏しい推定をもって「ではお墨付きを頂いて安心しました」などと到底言えるものではないわけです。

法曹事情に素人たる医療人に理解できるのは「およそどんな言いがかりもつけられる可能性は否定できないし、想像を絶するどんなトンデモ判決も出ないという保障などない」ということだけです。かの御高名なる片岡康夫検事も断言されておりますよ。「一か八かでやってもらっては困る」と。


今どき委員会でもないでしょうが、もしや釣られましたか…?

>ただ、誰が治療行為をしても、医療水準を下回る医療行為した場合は法
>的責任は免れません。

地方の弁護士さん,
「医療水準」というものを一つの明確な定義があると考えておられるように見受けられますが,当然ながら「大学病院」,「公立病院」,「私立病院」の医療水準は異なりますし,「大学病院」でもすべてを同列にはできないでしょう.病院によってマンパワーも使える医療リソースも異なるからです.

一般病院の医療事故に「大学病院の医療水準」を求められても困るわけです.救急の現場では「すべての医師が救急専門医レベルの医療ができること」を医療水準と考えられては,多くの医師が救急医療に携われなくなり救急医療が崩壊することになります.「現場と解離した理想」を求めらることは現場の医療を破壊することに他なりません.
地方の弁護士さんには,是非とも1週間でも2週間でもそういった現場の医師の働く様子を密着してみて頂きたいと思います.そうすれば少しは我々の言っていることを理解して頂けるのではないかと思います.本などでの知識では決して実態を知る事はできないのです.

>No.105 Level3 さん

横レスになります。
No.103 地方の弁護士さんは、「医療水準」のありようを自ら示そうとはおっしゃってはいないと思います。水準そのものに揺らぎがあることも否定してはおられません。

さらには、故意に「現場の医療を破壊」しようとも思ってはおられません。多分。

現場が医療水準を示すことができれば、当然、それに従うことになるでしょう。それは、最先端ということでもありません。臨床現場での「常識」をどのように示していくのかが求められているのだと思います。学会や専門医会に委員会を置き、求めに応じる体制をとるとか(当然、報酬はチャージしてよいでしょう)。

No.105 Level3 さんも一度、一週間か2週間地方の弁護士さんについて見られることをお勧めします。そうすれば、法曹の考え方も分かると思います(注:本当はそんなことは考えてはいません。ただ、「実態を経験せよ。そうでないと語る資格はない。」ということではありませんよといいたいのです)。経験なしに実態を理解することはできないのであれば、司法制度そのものに意味がないようなことになりませんでしょうか。

おっと、ここまで書いてきて気づきました。司法制度が医療に介入するなという主張がありましたですね。

法曹の方々の主張は、どんなトラブルであってもADR等の他の手段で解決できるのであればよいが、それで解決できないのであれば、法律に基づく解決を最終的な手段とすべきであるということなのではないでしょうか?

>No.106 てつさんの

>法曹の方々の主張は、どんなトラブルであってもADR等の他の手段で解決できるのであればよいが、それで解決できないのであれば、法律に基づく解決を最終的な手段とすべきであるということなのではないでしょうか?

 正確には、すべきであるとかないとかいう問題ではなく、そういう制度になっており、極端に言えば、国家が破綻する状況(戦争に負ける、革命、人類の存亡等)でもない限り、変更が困難であるということです。前に、他のレスで書いたことを、また、書きますが(僻地外科医さん引用してすいません)。

【 >No.92 僻地外科医 さん

>そう、そこなんですよ。医者の間ですら意見が分かれるような部分をどうして裁判官が「こっちが正しい、こっちが説得力がある」と判断できるのかな・・・と。

これについては、人は、自分自身で(医療を)やるより、その(医療の)評価の方がうまくできるとか、経験則的に他の手段(専門家による判断)では、駄目だ等の理屈もあるようですが、いずれも、しっくりくるものではありません。

 むしろ、私自身としては、素人(日本の場合は裁判官ですが)がこの種の判断ができるというのは、欧米流の近代国家の司法においては、いわば、数学の公理と同じように論証抜きの前提ではないかと考えるのが一番すっきりするのではないかと思います。 

近代国家の司法というのは、基本的には、専門家不信の構造だと思います。特に最右翼(左翼)のアメリカの場合は、裁判官に対しても不信があり(植民地時代の宗主国の裁判官の経験からと書いた本を読んだ記憶があります)、事実認定については、陪審員という素人が判断することになっています。

 日本は、裁判官が判断するキャリアシステムという大陸法(フランス、ドイツ等)の流れですが、大陸法の国々でも、参審制など、素人が参加するシステムに変えてきており、日本の裁判員制もこの流れの中でとらえることができます。

 法律的に言えば、憲法を改正すれば、専門家による判断を最終判断とすることも可能です。また、むしろ、欧米も軍法会議については例外としていますが、ただ、その他の分野を、司法の範囲外とすることは、外交的には、極端に言えば、欧米から見れば日本が北朝鮮等と同じような制度にするイメージに見られるのかもしれません。

 この点だけで駄目になったわけではありませんが、数年前、経団連を含めた政財界より、知財事件について、司法改革の要求があり、その中に、技術的知識を有した知財裁判官による知財裁判所との案もありましたが、結局、知財高裁という形になりました。知財高裁というのは、管轄の点だけが普通の裁判所とちがうだけで、そこの裁判官は、2〜3年ごとに替わる普通の裁判官ですので、技術的知識を有した知財裁判官は全くできませんでした。】

 今の裁判制度の問題点というのは、ある意味、弁護士が一番わかっており、本来、それをかばう立場でもありません。

 しかしながら、社会の根幹部分を変更することが困難であることは、極端に言えば、死を避けられないのと同様です。

「医療水準」が明確に定義できないというのは「二つと同質のものがない」対象を取り扱っているという点で医療者と共通する法曹の皆様には容易に理解していただけると思ったのですが、意外に苦戦しますね。

では、例えばある訴訟を担当した弁護士が下手な弁護をしたため依頼人の受け取る賠償額が減ってしまったとしても、その弁護が「水準以下」である事を認定するのは困難ではありませんか?
過去の判例など一定の目安はあるとしても、各々の訴訟でどれくらいの賠償額が適切なのかは個人により無限に考え方があり、まず、本当に「減った」かどうかの認定が困難でしょう。また、ある弁護士が「下手」だと判断した部分が、他の弁護士には「それは戦略の一つだ」と判断されることもあるでしょうから、どこがどう下手であるかも統一した見解を作る事は困難だと思います。更に、ここにおられる法曹の皆様も言われるように、そもそも完璧な裁判など存在しないのですから、どの程度の下手さまでは許容範囲であり、どこからが水準以下なのかを明確に規定する事も不可能だと思います。

そして明確な「水準」が示されない状態で「水準以下の弁護は過失とする」というルールができてしまえば、弁護士の皆様も「もし次の訴訟で負ければ水準以下と判断されるかもしれない」と萎縮し、結果の予測が困難な訴訟はできるだけ引き受けない様になると思いますが、如何でしょうか。

>L.A.LAWさん
話を逸らしますが、知財高裁ができる前は「なぜ技術判事がいないのだ」とか「素人である裁判官に高度な技術的なことが分かるのか」と言う批判が寄せられていたように思いますが、実際に稼働してみるとそのような話をあまり聞きませんね。

ある程度機能していると考えて宜しいのでしょうか。また、確かL.A.LAWさんは米国在住だと記憶していましたが、アメリカで日本の知財高裁の評価を聞かれるような機会はあるのでしょうか。

No.105 Level3 さん
>「医療水準」というものを一つの明確な定義があると考えておられるように見受けられますが,当然ながら「大学病院」,「公立病院」,「私立病院」の医療水準は異なりますし,「大学病院」でもすべてを同列にはできないでしょう.病院によってマンパワーも使える医療リソースも異なるからです.

医療水準とは規範的概念であり、医療技術の進歩と一般化により、時代と共に変わって行くものですから、明確な定義があると考えている訳ではありません。私の言いたいことは、通常医療の現場で一般的に行われいてることが、医療の水準ですから、裁判になっても自分が一番知っている尺度で判断される訳で、萎縮することなく医療行為をして下さいと言うことです。
このように言うと、現場の医師が許されると思っていた医療行為が裁判で否定されたからこそ医師が萎縮し、医療崩壊が起こっているのだの再反論が来そうですが、個々の裁判において、現実離れした判断が行われたとしたら、それは一次的には医療側代理人が医療現場の実情を裁判所に伝えきれなかったためと言わざるを得ず、上訴をして争う中で解決されるべき問題であり、敢えて言えば司法制度が折り込み済みの問題と思います。
また、裁判所も開業医と専門病院において求められる医療水準が異なることは認めています。

おそらく末端の医療関係者多数派の感想としましては、「現実離れした判断が行われ」ることが「司法制度が折り込み済みの問題」とまで言うのであれば、他人に対してのみ「過失がない場合であっても、100点満点ではないということであれば和解による解決も考えられる」などと言わぬが良かろうというあたりではないかと思いますよ。

いずれにしてもわざわざ訴えられ現実離れした判決を下されるリスクを犯してまで明確な定義すら存在していないという「一般的な医療水準」なるものの範囲を試してみようと考える医師は今や少数派であるということです。日本における医療は今や一か八かでやってよいものではなくなったのですから。

No.111 老人の医者
>現実離れした判断が行われ」ることが「司法制度が折り込み済みの問題」とまで言うのであれば、…

司法制度は、誤った判断がなされた場合、是正する制度を予定していることを申し上げただけです。最高裁で誤った裁判がなされた場合は困難ですが…。
今、本ブログで「救急医学会がガイドライン策定へ」のニュースを目にしました。このような努力が医療水準を推知せしめ、司法による現実離れした判断(があると言うのであれば)を回避する有力な方法であると考えます。

極論すれば、『医療行為なんてものは、超法規的な作業なんだ』ね。
文系のおえらいさんには、いつでも、マニュアルやガイドラインが有るわけではないってことが、永遠に理解できないでしょうね。
法曹家が出現する時代のず〜〜っっ〜と、ずっと前から、我々医療従事者は医業を営んでいる。そんなことは、イタリアのヴァルカモニカ渓谷の岩窟画をみれば理解出来るはずだ。
何故、法曹家に『本来、医療行為は障害行為であって、違法行為を阻却されるためには、、』云々抜かされなければ、ならないのか?時系列が逆転した説法が多くて非常に阿呆らしい。そのような検察、判事等に対する反感が、我々にはある。

ところが、我々の友軍としての弁護士軍団には、最大限の敬意を払いたいと考える。同じ知識人として、つきあいを願いたい。我々はもっと医療側弁護士を大事にし、予算を付けるべきだと結論する。これまでのように、医療側弁護士に医療訴訟を任せきるのではなく、渦中の医療従事者以外の我々を協力i医としてアクセスして頂き、医療知識のみでなく、医療環境や訴訟戦略も含めて、是非とも協力させて欲しい。

ここまでROMってきましたが、抜本的に改革するのも憲法改正とかの話まで
進んでしまうようで不可能なようですし、
やっぱし医療係争関係のリスクを価格に転嫁できるようにして『神の手』に
任せるようにするしか、根本的に解決する方法はないように思います。
リスクに見合うだけのリターンがないから崩壊していくのです。
神の手に任せれば理不尽な判決が連発してもその分を価格に転嫁していけば
よいのです。リスクとリターンは釣り合っていくので、そして誰もいなくなった
にはなりません。
多くのお金のない人には不幸な結果になるかもしれませんが、「幸せな不公平」を
自ら放棄した国民は「不幸な公平」を受け入れるしかないのです。
身を粉にして働いて、それでも医療を受ける金を稼げなければ
それがその人の限界であり、寿命なのです。
金を持ってる人の寿命が延びるという、あるべき姿に戻りましょう。
そもそも、リスクを一部の不幸な人が深く深く負うシステムだったから、成り立っていた
のです。リスクを医者にも他の患者にも負ってもらおうとする時点で、この「歪んだ幸せな
システム」を持続するのは不可能だったのです。

No.110 地方の弁護士さん

横スレですが、揚げ足取りをやらせてもらいます。

>医療水準とは規範的概念であり、医療技術の進歩と一般化により、時代と共に変わって行くものですから、明確な定義があると考えている訳ではありません

明確な定義もないものを、どうやって医療者がガイドラインを作れるのでしょか。それで裁判をやろうというならば、せめて定義くらいは法曹側がするべきでしょう。ガイドラインがないのは医療側の怠慢ではなく、どういうものを作ったらよいのかわからないからであることがほとんどと思われます。

>私の言いたいことは、通常医療の現場で一般的に行われいてることが、医療の水準ですから、裁判になっても自分が一番知っている尺度で判断される訳で、萎縮することなく医療行為をして下さいと言うことです。

一般的に行われていることが必ずしも明確でないから困っているわけです。一般的という言葉を使う以上、統計学的に考えて例えば95パーセンタイルに入るという意味になると思いますが、そもそもそんな統計学的考察はごくほんの一部の医療しか行われておりません。大半の医療は各医者の経験と雑学的知識と勘によって、患者のために良かれと思われることをやっているに過ぎないと思います。

さらに医療の妥当性は統計学的にしか判断できないということは、現行の裁判についても問題を提起すると思います。そもそも医療行為というのは大きい標準偏差を持っております。それに対して、例えばある裁判でわずか数名の鑑定医が原告側すべてを支持したとして、一体どれほどの危険率を持って結論を出せるのでしょうか。恐らくトンデモ鑑定というのはここら辺に根本的原因がありそうです。十分小さい危険率を持って判断するためには、鑑定医は20人以上、裁判官も20人以上は必要でしょう。そんなことできないといわれるならば、それはまさに医療は司法になじまないということではないでしょうか。

医療事故:名古屋市立大病院に賠償命令 生体肝移植死亡で
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/medical/news/20070214k0000e040080000c.html

「同病院に約1億600万円の損害賠償を求めた訴訟で、名古屋地裁は14日、660万円の支払いを命じた。」
これって、訴訟費用程度だと思うので、実質原告敗訴でしょうか?

劇症肝炎の死亡率は50〜80%程度。
生体肝移植の成功率は70〜80%。(つまり死亡率20〜30%)
どんな治療でも後からイチャモンは付けられます。
で、原告救済色の強い訴訟費用程度の温情判決と見るのは、変ですか?

No.115 うらぶれ内科さん
>一般的に行われていることが必ずしも明確でないから困っているわけです。

一般的な医療水準が明確でなければ、医療水準の立証責任を負う原告(患者側)はその立証ができないので、医師側敗訴の心配はないでしょう。ただ、裁判所はそのような実情に疎いので、医師側としても、一般的医療水準が確立されていないとの立証に努める必要はあるでしょう。基本的には、患者側の代理人も医療の実情には疎いので、兎と亀の徒競走の筈です。

No.117 地方の弁護士さん

>医師側としても、一般的医療水準が確立されていないとの立証に努める必要はあるでしょう

確立されていないことの立証なんて不可能でしょう。こういうのを悪魔の証明というのではなかったですか。

医学は統計的にしか判断できないという意味がおわかりでないようですね。X人の鑑定人のうちY人が同一判断したら危険率P%で結論を支持できるという言い方しかできないといっているのです。

No.118 うらぶれ内科さん
>確立されていないことの立証なんて不可能でしょう。

言い方が不正確でした。原告は通常文献をあげて医療水準を立証するでしょうから、被告は、当該事案で行われた医療行為が他の医療機関でも行われているとの具体的事実の立証に努めるということとなります。その意味では、医療機関の連携を求めるNo.113 座位さんのコメント は当を得ていると思います。私としては、医療現場での情報が訴訟前に患者側にも共有され、無駄な訴訟が少なくなることが理想と考えますが、無理なお願いでしょうか。

>うらぶれ内科さん

統計学的考察はごくほんの一部の医療しか行われておりません。大半の医療は各医者の経験と雑学的知識と勘によって、患者のために良かれと思われることをやっているに過ぎないと思います。

さらに医療の妥当性は統計学的にしか判断できないということは、現行の裁判についても問題を提起すると思います。

つまり、医療の妥当性と言うものは、法曹はおろか、医師自身ですら判定出来ないというわけですか。

>No.114ひとはし様
「神の手」が正常に働かないと言う点で、日本の医療は訴訟増加型医療崩壊に対し本質的な脆弱性があるんですよね。
例えば同型の医療崩壊の先進国であるアメリカでは
訴訟リスク上昇→医師賠償保険料高騰→余力のない医療機関から徐々に末端価格が上昇→経済的理由により医療機関のアクセスが悪化→貧乏人はのたれ死に、自己破産の要因第1位が医療費負担の社会の完成
という流れを辿った訳ですが、少なくとも末端価格の上昇というクッションが間に入ったため、その変化にはある程度地理的・時間的なばらつきが生じ、その間に不完全ではあるものの多少の対応は行われました。またアクセス悪化といっても、金さえ用意できれば一応医療は受けられるという状態で留まりました。
しかし日本の医療は全国同一格安公定価格であり、またこれまでの慢性的な赤字で殆どの医療機関の余力などゼロに等しいため、同様の変化に対し
訴訟リスク増加→末端価格への転嫁ができず、不採算となった時点で医療機関は一斉に事業撤退→瞬時に医療アクセス消滅
という経過を辿ります。
医療者の危機感がここまで急激に大きくなった背景には、この日本特有の脆弱性を理解しているため、というのもあると思います。

No.119 地方の弁護士さん

>原告は通常文献をあげて医療水準を立証するでしょうから、被告は、当該事案で行われた医療行為が他の医療機関でも行われているとの具体的事実の立証に努めるということとなります。

ですから、ここでの立証というのは何パーセンタイルの医師ならば当該医療を行い、あるいは行わないということになるはずです。こんなこと裁判でできますか?

No.120 しまさん

>つまり、医療の妥当性と言うものは、法曹はおろか、医師自身ですら判定出来ないというわけですか。

表現すれば危険率何%で当該治療が妥当であろう、診断が妥当であろうとしかいえません。これは統計学的事象の宿命です。実際はこれすらもあいまいなものです。確率変数が何であるかさえもよくわからないことが多いですから。

確率的事象に白黒をつける裁判というものが、いかに医療となじまないか、もうすでに何人もの医師が指摘されていることです。なじまないものを無理にくみあわせれば、必ず誰か不幸なものが出ます。それが医師であれ、患者であれ・・・
ところが、法曹家だけは不幸にならないのはとても不合理なことと思います。これもすでに既出のはずです。

では、医学上の問題を裁判で決着をつけるにはどうしたらよいか、一応私案を述べます。

1)まず、鑑定は従来どおり数名の鑑定者に行ってもらう。
2)つぎに、鑑定が妥当かどうかのみを、関連する学会から無作為に選んだ多数に投票をしてもらう。
3)結果を多数決で白黒をつけるようなことはしない

  そして、仮に鑑定が原告側主張を支持するものだったとして

4)鑑定が妥当であるという割合が50%ならば引き分け。
5)上記の割合が100%ならば、妥当と思われる賠償額全額の支払い。
6)上記の割合が0%なら裁判費用、医師側の弁護士料を被告側が支払う。
  (当然訴訟のリスクは被告も負うべき)
7)これらの間は比例配分する。


> No.122 うらぶれ内科さん

 当初の鑑定が被告側主張を支持するもの(過誤なしとの意見)だった場合も、すぐに請求を棄却するのではなく、「関連する学会から無作為に選んだ多数に投票」してもらって再検討し、場合によっては「過誤なし」との鑑定を覆して医療側に賠償を命じる、ということでしょうか。

No.123 FFF さん

数名の鑑定医の意見が一致したとしても、なお有限の危険率を持っての意見です。そうである以上、鑑定医が100%正しいということにはなりません。したがっておっしゃるとおりの結論になると思います。

ついでに、上で述べた意見の 6)上記の割合0%・・・ には、医師に対する精神的慰謝料、時間のロスによる損害に対する保障も含めるべきです。

No.122 うらぶれ内科さん
>ですから、ここでの立証というのは何パーセンタイルの医師ならば当該医療を行い、あるいは行わないということになるはずです。こんなこと裁判でできますか?

裁判はできますかというより、せざるを得ません。心証の程度については、裁判官が、合理的疑いをさしはさまない程度に真実性の確信を持てることとされています。敢えて数字で示せば民事訴訟においては8割がた確かであるとの判断とも言われています。
通常、訴訟において問題になった手技を他の同じレベルを期待される病院においても採用していることが立証できれば、裁判官は合理的な疑いを有することになりますから、原告(患者側)は医療水準の立証ができず、敗訴になる筈です。

No.125 地方の弁護士さん

>裁判はできますかというより、せざるを得ません・・・・・・・(以下略)

ですから、その裁判制度自体の不合理さを統計学的表現をかりて述べているわけです。医療と司法はなじまないと。 このことはもう何度も他の医師から指摘されてきたことであろうと思います。また揚げ足取りで恐縮ですが、せざるをえない、という表現は現行の制度の不合理さをお認めになっているわけですね。

それで、不合理な制度が続く限り、「こんなのやってられねー」という医師が出てくるのも無理からぬことでしょう。訴訟沙汰になったことはありませんが、かく言う私もとっくに最前線から逃亡した1人です。まだ少し周りに地雷が埋まっているようですが・・・・・

No.126 うらぶれ内科さん
>せざるをえない、という表現は現行の制度の不合理さをお認めになっているわけですね。

日本語は難しいですね。せざるを得ないというのは、裁判を受ける権利は憲法上の権利ですから、真偽不明であっても、裁判をせざる得ないということです。基本的には、権利を主張する当事者(医療過誤訴訟であれば過誤を主張する原告)に請求権を成立せしめる事実を主張立証せしめることになります。そして、この事実が真偽不明であれば、この立証責任を果たせない当事者が敗訴することになります。この考え方が不合理であると言われれば、止むを得ませんが、私が説明できるのはここまでです。

>裁判を受ける権利は憲法上の権利ですから(No.127 地方の弁護士さま)

そのとおりです、私も今気付きました。

裁判を受ける権利は憲法上の権利ですが、医療を受ける権利は憲法上の権利ではない。

つまり、多くの医療者が訴えるように医療と司法はなじまないのであれば、この国において滅びるべきは司法ではなく医療だと既に決められているのです。

「医療は最も大切な社会資本だ」
「医学の進歩は万人の願いである」
「人命は地球よりも重い」
・・・虚しい響きです。全て医療者の幻想です。

「人命」など「裁判を受ける権利」の前では紙クズ同然です。そんな下らないものを必死で守ろうとしている医療者など、この世で最も大切な「裁判を受ける権利」を守っている法曹の方々の前では虫ケラ以下の価値しかありません。

残念ですが、それがこの国のルールなのです。

> No.128 つくねさん

 なぜ司法と医療を不倶戴天の関係と捉えるのか、どちらが滅ぶとか極端なハナシになるのか、さっぱり分かりませんが・・・・。

 なお、司法には、医師や病院を守るバリアとしての機能もあることをお忘れなく。医療過誤だから賠償金を払えという要求に対し、それに応じなくてよいことを法的に明示してくれるのもまた裁判ですよ。「司法は医療問題から手を引け」論者は、そこまで考えて言っているのでしょうか。

No.128 つくねさん
>裁判を受ける権利は憲法上の権利ですが、医療を受ける権利は憲法上の権利ではない。
>人命」など「裁判を受ける権利」の前では紙クズ同然です。

医療を受ける権利は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利ないし幸福追求の権利として、憲法上の保障を与えられていると思います。もちろん、憲法上の権利同士が衝突することから、相互の調整が必要とされることもありますが、裁判を受ける権利と医療を受ける権利が衝突するとは思えません。
裁判を受ける権利は、紛争が生じたとき、それを国家の責任により解決することとし、自力救済を禁じ、国家の実力で社会の秩序を守るものです。
本ブログでは、医療に関する紛争から司法を排除することはできないとの共通な理解が形成されているものと思っておりました。そこで、司法の発想ないし判断基準を少しでも理解してもらおうとしましたが、裁判を受ける権利が人命を軽視していると受け取られたのは遺憾という外ありません。

>No.128 つくねさん

 すでに反論は述べられていますが、つくねさんはすべての医療過誤訴訟で医師が敗訴していると思っているのですか。

 感情に流され論、根拠のない印象操作論は管理人の最も嫌うところです。

No.129 FFF さん
>医療過誤だから賠償金を払えという要求に対し、それに応じなくてよいことを法的に明示してくれるのもまた裁判ですよ。「司法は医療問題から手を引け」論者は、そこまで考えて言っているのでしょうか。

私も同じ反論をしようと思いましたが、司法と医療は馴染まないとの主張は、医療過誤の主張を司法の場で取り上げないとの帰結を求めているので、直接的な反論にはならないことに気づきました。
No.128 つくねさんの主張は、理屈というより、医療者としての敢えて言えば「心の叫び」と理解すべきなのかも知れませんが、何故そこまで司法が悪者にされなければならないのか理解不能なのは同じです。

>管理人様
気分を害されたのであればお詫び申し上げます。
ですが、私は法曹の方への抗議のつもりで前のようなコメントを申し上げたのではありません。むしろ、同じ医療者へのメッセージとしてです。

どうも私を含め医療者には「人命は何よりも優先されなければならない」のであるから「人命を守る仕事をしている自分達は、多少ルールを曲げてでも優遇されるべきであり、その存在を保障されて当然である」という気持ちが大変強いのではないかと思います。

ですから皆「司法と医療はなじまない」と堂々と発言できるのです。もちろんその背景には「なじまないのであるから、そっちが折れてこちらの都合に合わせるのが当然である」という意図があります。

ところが、司法との共存を求める議論においては、その「当然」は通用しません。なにせ相手は日本国憲法において我々以上に明確に保護された存在であり、自分達は「弱者」なのです。「なじまない」のであれば、あらゆる知恵を絞って自ら共存する道を導かなくては、存在を消されてしまっても文句は言えない立場なのです。

例え人命を救う為であっても、救急車が赤信号を無視して良いのとは異なり、既存のルールを無視して自分達の都合を押し付ける事は出来ないのです。

私が伝えたかったのはそういうことです。
誤解を生むような表現しかできず、申し訳ありません。

>No.131 モトケンさん

 すでに反論は述べられていますが、つくねさんはすべての医療過誤訴訟で医師が敗訴していると思っているのですか。

おお!これを読んで今気づきました!

医学的に不当な事実認定による医者の敗訴により、医療者が不愉快な思いをし、
一方で
医学的に不当な事実認定による患者の敗訴により、患者が不愉快な思いをする。

司法が最終的に裁判官の「心証」で勝負を決める限り、医療を取り巻く不信は、医者からの不信も患者からの不信も絶対になくならないということに!

医学的にマトモな判断が出来る第三者機関が事実認定をして、裁判官は総理大臣任命における天皇よろしくそれに従うしかないんじゃないでしょうかね?

No.103 地方の弁護士さん

正確には知りません。ただ、誰が治療行為をしても、医療水準を下回る医療行為した場合は法的責任は免れません。業界内の常識で法的適用を免れることはできません。不条理な現状は是正されるべきであり、司法の判断基準を変える理由にはならないと思います。
そうなんですか? 先日の堀病院看護師内診問題なんて、業界内の常識で法的適用を免除されたものだと思ったのですが。まあ判断したのは検察ですが。
医療の不確実性を前提として、医療水準が決まっているのだろうと思います。すなわち、医療の不確実性故に医療水準の判断ができないことにはならないと思います。
本当にそうならいいんですけどね。どうも裁判になると医療水準が異様に高値に見積もられることがあるように見えるのと、そもそも医療の不確実性(=バクチ性)が全く理解されていないような判決がここ数年多々見られてどうにも司法不信でございます。

医療水準に関しては、医者の私が言うのもなんですが、実際の医療水準って一般の人々が思うよりもずっと低いものだと思いますね。実際の医療行為は試行錯誤の繰り返しですから、ミスがあって当然のもの。なのに裁判にかかるとちょっとでもミスがあると「注意義務を怠った」とか言って目くじらを立てるようなことをするのは、まあ医者がごく一部?のトンデモ判決を見て怒っているのと同じですかね。

医療の不確実性。私は眼科なので想像入っていますが、例えば腹腔鏡手術の尿管損傷なんて合併症は、「確認が難しかった」とかの理由はあったり無かったりでも、された側から見たらミスだし、医者から見ても「あそこでああしてれば…」とあれこれ考えるわけですね。でもどんな名手でも絶対に起こさないかと言えば100%とは言い切れないはずで、それが1%か10%か術者によって違いますが、必ず起こす可能性がある。その1%か10%かに対して「ミスしやがって」とか「注意義務を怠った」とか言われたら、そんなんだったら最初から手術なんか受けるなと言うことですよ。

No.133 つくねさん
>どうも私を含め医療者には「人命は何よりも優先されなければならない」のであるから「人命を守る仕事をしている自分達は、多少ルールを曲げてでも優遇されるべきであり、その存在を保障されて当然である」という気持ちが大変強いのではないかと思います。

つくねさんの主張を法的に表現すれば、注意義務の低減→軽過失の免責制度の導入かと思いますが、人命に直結する仕事であれば、より高い注意義務が課されると考えるのが今までの司法のセンスかと思います。ここに、医療と司法の大きな溝があるといわざるを得ません。

No.136 地方の弁護士さん


人命に直結する仕事であれば、より高い注意義務が課されると考えるのが今までの司法のセンスかと思います。ここに、医療と司法の大きな溝があるといわざるを得ません。
うーん、司法も人命に直結する仕事だと思うんですが、そこに裁判員制度などという素人判断を導入するのが司法のセンスというのが、ずっこけます。より高い注意義務はどうなっちゃうんでしょう?

あと、このブログでも取り上げられましたが、ギミックコイン裁判で、裁判官が 「…というわけで、このような判決にいたしましたが、裁判所としてもこの量刑は(適切なのか)分かりません。他の犯罪を見て、この程度だろうと判断しました。」(日刊スポーツ阿曽山さんのコラムより引用)と言ってたそうですが、医者の私から見たら大変な愛着を感じたのですが、これが普通の司法水準ってことで宜しいでしょうかね?

No.135 峰村健司 さん

私が、No.103 にて、「誰が治療行為をしても、医療水準を下回る医療行為した場合は法的責任は免れません。業界内の常識で法的適用を免れることはできません。不条理な現状は是正されるべきであり、司法の判断基準を変える理由にはならないと思います。」と述べたのに対し、
>そうなんですか? 先日の堀病院看護師内診問題なんて、業界内の常識で法的適用を免除されたものだと思ったのですが。まあ判断したのは検察ですが。

とのコメントを頂きましたが、上記事例は看護師が医療水準を下回る医療行為をしてない現実 があり、不条理な現状とは言えなかったため、検察が起訴猶予にしたのでしょう。

>医療水準に関しては、医者の私が言うのもなんですが、実際の医療水準って一般の人々が思うよりもずっと低いものだと思いますね。

もし、そうであれば、その実情を広く知らしめ、過大な期待に基づく裁判が行われないようにする責務が医療側にはあると思います。

反省している最中ですので発言は控えようかとも思ったのですが、一点だけ言わせていただきます。

医療を受ける権利は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利ないし幸福追求の権利として、憲法上の保障を与えられていると思います。(No.130 地方の弁護士さま)

福島事件では、その後同地域から産婦人科医がいなくなり、住人は同地域内で産科医療を受けられなくなりました。
逮捕された医師はその地域唯一の産科医だったのですから、その医師を勤務不可能な状態にすればそのような状態になることは明らかです。それでも福島県警は彼を逮捕したのです。
「医療を受ける権利」が憲法で保障されているとすれば、この国では警察が国民から憲法で保障された権利を奪っても良いのですか?
私には、どうしても納得できません。

No.138 地方の弁護士さん

上記事例は看護師が医療水準を下回る医療行為をしてない現実 があり、不条理な現状とは言えなかったため、検察が起訴猶予にしたのでしょう。
うーん、エントリ「無資格助産事件、院長ら不起訴へ」のコメントNo.18にある新聞記事コピペ内の検察のインタビューを読む限り、不条理な現状に対する見解については、地方の弁護士さんの指摘は違うと思うのですが…

もし、そうであれば、その実情を広く知らしめ、過大な期待に基づく裁判が行われないようにする責務が医療側にはあると思います。
これはどっちもどっちでしょう。世の中の認識が変わってしまったことも問題です。勿論説明をすることは医療側がするしかないし、すべきであると思いますが、先に意識変容を来たしたのは世の中のほうであって、こちらが後手になっているのは当然であって、ある程度の時間差は容認してくれないと。河北新報のお産SOSの掲示板のNo.73の記事もご参照下さい。(直リンクできませんでした)

ちょっと印象論で申し上げます。地方の弁護士さんは

1)裁判では医療水準を正しく認定して判断している(はずだ)。
2)もし正しく認定していないとすれば、それは医者側の弁護または医者の情報の出し方に問題がある。

というご意見でしょうか??
今、医師の一般的な意見としては2つの意見があります
A:そもそも「医療水準」という考え方自体がなじまない。医療水準をどのレベルにおこうとも、水準以下の治療をして有害な結果が出た場合には、法的責任がある、という考え方は医療の萎縮を招きトータルで見た患者の利益を害する。
B:実際に無茶な医療水準の認定をしているじゃないか

そしてAに対する反論としては、萎縮すること自体が医師の倫理的問題だ、とする考え方が有力なんですかね。なぜならば裁判をすること自体は皆に認められた権利であり、
Bについては、「必ずしもすべての裁判がそうではない」「ならばどうやれば正しい医療水準の認定ができるのだ」というとこですかね。

No.140 峰村健司様

これはどっちもどっちでしょう。世の中の認識が変わってしまったことも問題です。勿論説明をすることは医療側がするしかないし、すべきであると思いますが、先に意識変容を来たしたのは世の中のほうであって、こちらが後手になっているのは当然であって、ある程度の時間差は容認してくれないと。河北新報のお産SOSの掲示板のNo.73の記事もご参照下さい。(直リンクできませんでした)

私も同意見です。現時点では、ネットツールを使って、その主張をすべく医療者側が模索しているところでしょうか。このような動きが急速化したのは、ちょうど一年前の今日、福島地検が医師を逮捕したことが最大要因だと思います。

河北新報のお産SOSの掲示板のNo.72もついでご覧ください。私の意見です。


No.141 立木 志摩夫
>地方の弁護士さんは
1)裁判では医療水準を正しく認定して判断している(はずだ)。
2)もし正しく認定していないとすれば、それは医者側の弁護または医者の情報の出し方に問題がある。
というご意見でしょうか??

1)については、裁判では、裁判所が医療水準を正しく認定する職務を負っており、そのため、知見を補充するため、鑑定医や専門委員の利用が予定されているとの趣旨です。私の発想はこの仕組みを如何に正しく動かして行くべきか、考える方が現実的な対処策であると言うことが言いたいのです。
2)については、不十分な場合もある位の主張と理解して下さい。

>Aに対する反論としては、萎縮すること自体が医師の倫理的問題だ、とする考え方が有力なんですかね。なぜならば裁判をすること自体は皆に認められた権利であ(る。)

この考え方が有力かどうかは分かりません。私はそう考えるということです。ただ理由は裁判の権利というより、医療水準を一番知っているのが、その医療水準を自分の問題として裁判の対象とされた医師であり、自ら専門的に正しいと信じてやった医療行為が司法の場で問題にされたら、その専門家の自負にかけて、正しい認定を得るべく努力すべきであって、その回りにいる医師も、恰も不当圧力に沈みかねない船があるかちといって、自分の船も沈むのではないかとの疑念にかられ、我先に逃げ出すようなことをしないで、不当な圧力を受けた医師と共に闘って欲しいという趣旨です。権利は自分で守り戦いとるものであって、人から与えられるものではないからです。その結果社会が少しずつでも前進して行くのだと思います。
私には、司法も、弁護士大量増員により、医療と同じような崩壊の危険に晒されているとの認識があります。私なりに抵抗してきたつもりですが、大票田である都会の先生方の理解を得ることができませんでした。
言うは易く行うは難しと言いますが、医師の先生方には頑張って貰いたいと思います。

Bについてはそのとおりです。

No.137 峰村健司 さん
>司法も人命に直結する仕事だと思うんですが、そこに裁判員制度などという素人判断を導入するのが司法のセンスというのが、ずっこけます。より高い注意義務はどうなっちゃうんでしょう?

私は、仰る理由で裁判員制度には反対です。多くの弁護士が何故こんな制度ができてしまったのと思っていると思います。もっもと誰がこんな制度を勧めたのと聞いたら、弁護士界だそうですが、… まさかできるとは思ってもいなかったというのが本音かと思います。
私は刑法が一番苦手でした。理屈で考えるのは嫌いではありませんでしたが、犯罪とは構成要件に該当する違法有責の行為であり、それぞれの段階で犯罪の成立の有無を検討する。その検討のスタンスを統一的な刑法理論に求める。極めて難しい刑法はなんだったのでしょうか。その背景には、人に刑罰を課す以上透徹された理論が必要であると思いこんでいました。裁判員に理解してもらうためとの名分のもと、刑法の基本原則である予断禁止の原則も大幅な修正というより放棄されてしまいました。刑法学をやっている先生が一番可哀相な気がします。裁判員に理解できない刑法理論が役立つと思えないからです。
また、国民には資格を有する弁護人による裁判を受ける権利を有している以上(憲法37条3項)、資格を有する裁判官による裁判を受ける権利も有しているのではないかと思います。それが、素人の裁判員(6名)と3名の裁判官の多数決でに犯罪の成立の有無と量刑まで、多数決で決めさせてしまって良いのですかね。賛成の中に裁判官が一人でもいれば良いとのことのようですが、これが憲法上の要請を充たしているのか疑問に思います。私なら、裁判官のみによる裁判で処罰されたいと思います。昔の陪審制は選択性のため、利用者がなく廃止されたと聞いていますが、今回は選択の余地もありません。
エントリー違いとも思いますので、この位にしておきます。

>地方の弁護士さん

トピずれかも知れませんが、私にも少し言わせて下さい。

私には、司法も、弁護士大量増員により、医療と同じような崩壊の危険に晒されているとの認識があります。私なりに抵抗してきたつもりですが、大票田である都会の先生方の理解を得ることができませんでした。

法曹年間3000人誕生の数字的根拠がどこにあるのか、ネットで簡単に手に入れられる範囲の情報ではなかなか分かりません。平成12年に行われた司法制度改革審議会集中審議議事録を見る限り、将来に対する確かなビジョンから出てきた数字ではなく、諸外国との比較とか医師数との比較とか、だいたいこの程度という思いこみから生まれた数字に見えます。有力委員の一人は法曹人口5万人(これも根拠は分かりませんでした)に拘っており、そこに早く到達するには年間3000人でも足りないと盛んに主張していた様です。そして,平成13年に発表された司法制度改革審議会意見書では、この有力委員の発言がほとんどそのまま文章化されています。こうした事実と地方の弁護士さんが↑で発言されたことを対比すると、司法制度改革は弁護士さんの総意とはほど遠く、日弁連の一部の有力者の意見で決まった様な感さえあります。(都会の弁護士さん達は多くの方が賛成されたのでしょうか?だとすると正直意外です。)

年間500人でも法曹人口2万人は軽く達成できたわけですから、3000人なら最終的には10万人を遙かに超えます。(死亡される方も考慮して)法曹の平均勤務年数を50年で計算するとプラトーでは法曹人口15万人、45年で計算しても13万5000人です。まあこれらの数字は45〜50年後に達成される数字なので、その頃に世の中がどうなっているのか分かりませんけどね。

そこで弁護士さんに弁護士大量時代における弁護士業務の将来ビジョンに関して質問してもはぐらかされます。「それを望んだのは国民でしょ」という趣旨の発言は有るようですが・・・建て前的にはそうなのでしょう。でも本質的には国民は関与していないと思います。裁判員制度に関しても同じことが言えます。ここから先は単なる愚痴に過ぎないのですが、「それを容認しているのは医療者だ」「国民が決めたことだ」といった類の発言が法曹の方には多い様な気がします。十把一絡げ的発言に意味がないのはよく承知しております。でも、「建て前として国民が決めたこと」で責任転嫁している人間が世の中には沢山いるので、建て前重視発言はこうした無責任人間擁護になる場合も少なくないだろう、などと考えています。

(決して地方の弁護士さんが建て前人間であると申し上げるつもりはございません。むしろ本音をお聞かせ頂き有り難く思っています。)

通常の医療水準は医療の現場での話しですから、すなわち、医師の皆さんのフィールドでの話しですから、裁判になっても、十分立証が可能な筈です。自信をもって自ら信じる医療行為をやって下さいということです。(No.85 地方の弁護士さま)

私は当初この文章の意味が全く理解できなかったのですが、遅ればせながらやっとわかりました。
法曹と医療者の関係は「次のテスト、お母さんは何点取りなさいとは言わないから、自分で目標を決めなさい」という親子の関係と同じな訳ですね。
医療者という子供はとても真面目なので、つい「(そうは言ってもお母さんは僕に良い点をとって欲しいに決まってるから)100点を目標にして精一杯頑張るよ」と言ってしまいます。
ところが母にはそのような意図はありません、良い点をとることは期待していないのです。あくまで言葉どおり、100点を目標にして95点しかとれないのは目標不達成であり、10点を目標にして20点とれば目標達成なのです。
ここに壮大な勘違いがあり、悲劇があります。

法曹との議論において、我々医療者はまず「人体という永遠の未知を前に、常に自らの無力と葛藤しつつ、高い理想を持ち努力し続ける事が我々に課せられた社会的使命である」という意識を捨て去らなければなりません。そうしなければ上記の悲劇が繰り返されるばかりです。
もちろんその意識は人の死を直視し過酷な労働に耐える我々を精神的に支える根幹ですので、常に心の中に持ち続け、後世に語り継いでいくべきです。
しかしながら、司法との具体的な共存策を検討する上では、そうした精神論は決して表に出してはいけません。心の中の「100点の目標」を守りつつ、あくまで建前上「目標は10点」と言い切るしたたかさが必要なのです。

非医療者の方にはなかなか理解が困難かもしれませんが、世の中に存在する医学書の記載の殆どは上記の医療者が考える「社会的使命」に呼応する形で「永遠に達成することは出来ないが、常に追求すべき理想」を具体的に示す目的で書かれています。
例えば救急医学の教科書には「頭痛」の鑑別診断の筆頭に「クモ膜下出血」があり「クモ膜下出血を疑う患者には頭部CT及び腰椎穿刺を行なう」と書いてあります。
確かに頭痛を訴える患者全員に頭部CTと腰椎穿刺を行なえばクモ膜下出血の診断という限定された目的においては理想的です。しかし、設備、人的資源、時間、医療費、放射線被爆、手技に伴う合併症等を考慮すれば現実的ではありませんし患者の利益にもなりません。そこで医療者は実際には医学書に書かれた「理想」を考慮しつつ「現実」に妥協し、自らの能力を総動員してより疑わしい患者のみをふるいにかけそれらの検査を行う対象を選別します。
法曹の方にもわかりやすい例を挙げれば「昨日から37.5度の熱があって、咳と鼻水が出て、ついでにちょっと頭も痛いんですが…」という患者さんにいきなり頭部CTと腰椎穿刺はしません、まずは「風邪薬で様子を見てください」となるでしょう。

しかし、一方で「クモ膜下出血」や「頭部CT」「腰椎穿刺」といったものがどういうものであるか知識がなく、また様々な現場の制限も知らない小学生が医学書を読めば、あくまで理想を書いてあるにすぎないことが理解できず「頭痛を訴える患者は全員、まず『クモ膜下出血』とやらを疑い、『頭部CT』と『腰椎穿刺』なるものを行なわなければならないと決まっている」と誤解してしまい、上記の様に「頭も痛いんですが・・・」という患者に風邪薬を処方する医師の姿を見て「職務怠慢である」と考えてしまっても仕方ありません。

今後司法と共存するにあたり、法曹の方々の言葉を借りれば、我々医療者は常に「小学5年生」の前で自らの正当性を証明していく義務から逃れることはできないのですから、この様な誤解を生む可能性がある書物を自ら発行していること自体が墓穴を掘る行為であり、大変危険なのです。

しかし、膨大な医学知識を口伝だけで伝えていくのは不可能です。ならば、まず我々にできることは、100点満点の目標を書いた自分達用の医学書とは別に、決して誤解される余地のない、建前としての10点の目標を記載した「小学5年生用」の医学書を作ることから始まるのではないでしょうか?

No.145 ヤブ医者 さん
>都会の弁護士さん達は多くの方が賛成されたのでしょうか?だとすると正直意外です。

大量増員構想は、バブル時代の任官者の減少と主に渉外弁護士(外国企業との交渉をする弁護士)不足を背景として生まれ、パブルが崩壊しても、専門家が増えることは市民のためになるとの理念だけが生き残り、大増員に至ったとの経過です。
私は、弁護士連合会の要職にある先生から、平成11年ころ「現在の弁護士制度を次の世代に残せないのが悔やまれる。」と言われたことが忘れられません。地方単位会はかなり批判的でしたし、現在でも今年は埼玉弁護士会で今の司法改革に反対する会長が選出されたと聞いております。ただ、都会の弁護士会は大派閥で意思が決定され、大量の委任状が交付され、総会に実際に出席する人数では反対派はかなりの人数に上っても、その場の議論では優勢と思っても、大勢を覆すことはできませんでした。
今までの日本文化を前提とすれば、需要が大幅に伸びることはないと思います。需要のないことろに増員することは、質の低下を招きます。また、今のロースクール生が如何に実力がないかは、モトケン先生が一番実感してらっしゃると思います。
以前は弁護士のところに辿り着けば何とかなったと言えました。現在は、よりによって何でこの先生にと思う人も現れています。弁護士は他の弁護士の批判することは弁護士倫理に反するされており、しかも会規化までされました。弁護士に対する負の情報は、本当に親しい関係者にそれも暗に伝えるだけです。この種の情報は現在日弁連発行の自由と正義に掲載されますが、私たちが医師の実力の判断がつかないのと同じで、一般の人には判断困難です。私たちにしても訴訟の相手方にして初めてその能力を知ることができるのです。それを能力のない弁護士は市場で淘汰されば良いかの論理は、市民のためと言いながら、市民を犠牲にするものであり、理念と現実は大きく異なろうとしています。質が低下すればこれをチャックする必要が生じます。そのため、本来自律的団体である、だからこそ国家権力とも闘える筈の弁護士会が国家統制の下に入ろうとしています。その第一歩が法テラス構想です。どうも止まらなくなりそうなので、このあたりにしておきますが、最後に言わせてください。
日本はアメリカ型の社会を10年遅れで追いかけていると言われていますが、司法制度が変わるということは文化が変わるということです。医師の皆さんもその文化の変化に戸惑っているのかも知れませんが、日本はアメリカ型の訴訟社会の入口に差しかかっているというべきでしょう。
国民が圧倒的に支持した小泉改革がその流れを一層加速し、定着させたのです。何もできなかった自分が専門家の一員として悔しいです。

No.146 つくねさん
>心の中の「100点の目標」を守りつつ、あくまで建前上「目標は10点」と言い切るしたたかさが必要なのです。

私の発想は理解頂けたようなので、多くは申し上げませんが、「目標10点」の部分は、「目標70点」と言って頂いた方が違和感が少ないです。母親は、あなたの実力なら70点はとれる筈と思っているのですから、目標10点なとど言うと母親から折檻を受けますよ。今の母親には折檻などという言葉は死語に近いのでしょうが…

>地方の弁護士 様

 弁護士の先生方の事情をお伝えくださりありがとうございます。率直なお話に感銘を受けました。正直なところ、先生の医療に対するご意見には「まだまだですね」という感想を持たざるを得ない部分も多かったのですが、はじめは仕方のないことだと思います。「医療」と「司法」は文法が違う言語のようなものだと思います。最近は随分ご理解も深くなられた印象がありますので、今後とも医療者側から出される意見の収集・理解・検討・吟味をよろしくお願いしたいと思います。ただし、医療が崩壊することは避けようがありません。法曹の方はお体の丈夫な方が多いのか、もしくはまだお若い方が多いからか、自分自身が医療行為を享受できなくなるという事態の意味を全くイメージできていない印象がありますが、ほんとうにすぐそういう世の中になります。残念ですね。

 さて、司法の世界のことについてですが、弁護士を増員することになったということは私のような医師からすればうらやましくて仕方のないことです。医師は極限まで酷使されているのに増員することが国策として事実上許されておりません。需要と供給のバランスの問題だと思うのですが、現在の司法の需要はそんなにないのに供給が過多になってきているということ、でしょうか。一方医療では需要はうなぎのぼりで、また一人当たりにかかる時間と手間と労力が比較にならないほど増大しているのに供給が削減されています。

 法曹の方のお話を伺っていますと、相当な違和感があるのはなぜかといつも思っておりました。「医療」と「司法」は根本的なスタンス(prospectiveとretrospectiveの違いのみならずたくさんあります)、本質が違うということが大きいでしょう。しかし、上記の通り「需要と供給のバランスとそれに伴う、一懸案当たりに費やすことのできる時間的余裕」が異なるため、瞬間的な判断を要する医療者の仕事のイメージができないということも大きいと思います。

 また、医療の世界では、36時間連続勤務が常態となり、過労死と隣り合わせで、多忙のため家庭生活が破綻し、精神的に追い詰められる同僚が多数おります。もちろん弁護士の方々もお忙しいこととは思いますし、他の弁護士の方のサイトを見ても、質の高い仕事をするためには非常に時間がかかり、期日も決められ、精神的にも肉体的にも非常に大変だという記載をよく目にします。

 でも、そんなに忙しいのであれば、増員はいいことなのではないでしょうか、と無邪気に感じてしまうのですが。忙しい仕事を手伝ってもらえる人ができたなんて、うらやましいことです。やはり診療報酬と同じく、弁護士費用が安すぎるのでしょうか。新しく弁護士になった方の就職先が足りないという報道を目にしました。「需要がない」というより、「仕事量としての需要はあるが、新規の雇用を生み出すだけの金銭的財源がない」ということなのでしょうか。それでしたら、限られた人数で忙殺されて質が低くなるだけだと予想されますので、弁護士費用を上げるしかないのではないかと思います。

 弁護士費用は、医療報酬のように保険が負担するわけにはいかないことが問題なのでしょうか。法曹全体のパイを増やすべく、なにか財源を充ててさしあげない限り、閉塞感を打開することが困難な気がするのですが、いかがでしょうか。もしそうなのであれば、そして法曹全体の報酬を支える政策が解決策なのならば、私はそれを支持したいと考えます。ただ、以上は完全に素人の邪推ですのでお気になさらないでください。

目標は医療側で決めてください、と言っておきながら二言目には
70点はとれる筈と思っている、ですか?

これを二枚舌と言わずして何と言いますか。それで70点を要求する根拠を
教えてくれませんか?と問うと、それは医療側で考えてくださいときたもんです。

あまり他人を馬鹿にした話ばかりしてはいけませんよ?
地方の弁護士さん

No143:地方弁護士さん

権利は自分で戦って勝ち取る、というのが弁護士さんらしいですね。
医師も含め多くの一般人はそうは思ってないでしょう。
裁判というシステムがある以上、両方の言い分を聞いて正しく判断するのが裁判官の責務。そういう意味で裁判官に一番責任がある。
その次は弁護士で、直接法と関係しない国民はあんまし関係ない。そういう面倒なことは君たち専門職に任せた、という感じなのでは?

そしてもし権利を勝ち取って取るのだとすれば、現在の医療崩壊を加速させることこそが権利の獲得にはいいと思っている医者も多いんですよ、多分。我々は医療技術が有用かつ価値の高いものであるのを知っている。そしてその価値が高いところが安く買い叩かれていることも知っているのでいったん崩壊させてしまえば、自然と権利を擁護すべきだという流れになる。そんなとこですかね。
もちろん医師の権利などには興味がない、自分は今高く売れるところの技術をみにつけ、高く売れる場所で売る、直接医療にかかわらない分野でも金になると思えば転職する(そういうところでも意外と医師免許・医療技術は役に立つ)、という人も増えてきています。

No.150 呆れたさん
>目標は医療側で決めてください、と言っておきながら二言目には…

私は、目標は医療側で決めて下さいと言った覚えはありません。医療水準は客観的に決まっていることであり、目標と言うわけではありません。No.146 つくねさんのコメント を読んでその旨の反論も考えましたが、私の発想が分かって貰えた雰囲気を感じたので、敢えてつくねさんの土俵で私のニュアンスを重ね合わせる形でコメントしたものです。他の人も読んでいることも考えると誤解を生じたようです。あるいはつくねさんも私が敢えて異を述べなかったので、誤解をしているかもしれませんね。難しいですね日本語は…

本ブログの皆様へ
土日楽しませてもらいましたが、土日やる予定の仕事が大分残っていますので、ひとまず失礼します。

>地方の弁護士さんへ
皆さんとのやり取り、たいへん勉強になりました。冷静な応答に感謝いたします。

>No.109 しまさん
>また、確かL.A.LAWさんは米国在住だと記憶していましたが、アメリカで日本の知財高裁の評価を聞かれるような機会はあるのでしょうか。

すいませんが、私はアメリカに住んでいたことはありますが、現在は、日本にいます。

>No.151 立木 志摩夫さん
> 権利は自分で戦って勝ち取る、というのが弁護士さんらしいですね。
医師も含め多くの一般人はそうは思ってないでしょう。

 だと思います。 ただ、欧米流の近代国家の枠組みにおいては、基本的の考え方です(基本的な文献として、たとえば、 イェーリング「権利のための闘争
http://www.amazon.co.jp/%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E9%97%98%E4%BA%89-%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0/dp/400340131X/sr=1-1/qid=1171777513/ref=sr_1_1/503-9139808-8786342?ie=UTF8&s=books
等)。

 日本の法律学の格言として、例えば「権利の上に眠るものは保護しない」など。

 日本の法体系が欧米流のものであり、法曹はその影響下にありますから、その意味で、ギャップがあるのだと思います。
 
 私個人の考えですが、本来司法は、国家権力の内、個人に対するもっとも強力な人権侵害(軍隊等を除いて)を及ぼす部分であり、社会秩序のためには個人の生命・地位も二の次という性格を有しており、近代国家は、これを抑制するために様々な制度を設けていますが、万全どころが、気まぐれで、個人の人権を侵害する危険性があり、自分自身で闘わない限り、その侵害から守られませんし、闘っても破れることもあります。弁護士であってもそこからは免れません(近時問題となっている事件の一つとして
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/ab95ddb316e441c6083cc3f81ac84fde)。

 私自身は、裁判員制度は賛成していなかったし、今もうまくいかないのではないかと思っていますが、上記のような司法の性格を少しでもわかってもらえるなら、それはそれでいいのではないかと思い始めています。

連続ですいません。

 前記記載の後者のURLがうまくいかなかったので、再度、記載します。

   http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/ab95ddb316e441c6083cc3f81ac84fde

>L.A.LAWさん
失礼しました。

>立木 志摩夫さん

裁判というシステムがある以上、両方の言い分を聞いて正しく判断するのが裁判官の責務。そういう意味で裁判官に一番責任がある。

「正しく判断」ではなく、「法に基づいて判断」と言う方が適切かも知れません。つまり、裁判官の判断が間違っているというのなら、法律自体が間違っている面も大きいと思います。間違った法律に基づいて裁判官が判断するというのなら、間違った結論しか出ませんから。

もっとも、正しい法律、間違った法律というのはナンセンスな言い方だと思いますが。

医師の権利については、もし国家が医師の地位を低く抑えようとするのなら、医学部の定員を大幅に増加させる事で解決すると思います。

No152:地方の弁護士さん

お疲れ様です。医療水準が規範的概念であると以前おっしゃってましたが、規範的概念が客観的に決まるというのはどうも違和感があります。どこかで価値観を密輸入していませんか??

No154:L.A.LAWさん
そうですね。多分僕自身を含めて一般の人がその辺をある程度理解する必要がありますな。これからは。ありがとうございます。

No.156:しまさん
うーーん、でも大抵、法律自体は社会そのものより柔軟性にかけると思うので、そのギャップを埋めるシステムが裁判や法には備わっていると思うんですが。

毎日新聞の記事より紹介します。

<終末期がん治療>患者より家族意向…46%が回答(2月17日23時16分配信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070217-00000095-mai-soci

 がんの治療方針や急変時の延命処置などを決定する際、患者本人が意思表示できる場合でも、まず家族の意向を優先している病院が約半数の46.6%に上ることが、厚生労働省研究班(主任研究者、松島英介・東京医科歯科大助教授)の調査で分かった。家族の意向を優先する理由として半数以上の54.6%は「家族とのトラブルを避けるため」と回答しており、患者の意思が十分尊重されていない実態が浮かんだ。【大場あい】
 がん患者やその家族は、手術や抗がん剤など治療方法の選択、急変時には人工呼吸器や心臓マッサージなどの延命処置をするかどうかなどの決定を迫られる。調査は、余命6カ月以内と診断された終末期のがん患者が入院している可能性の高い全国4911の一般病院(産科、リハビリ専門などを除く)を対象に昨年11〜12月に実施し、1499施設から回答を得た(回答率30.5%)。
 患者が意思決定できる場合に限定し、治療方針などを決める際に誰の意思を確認するか尋ねたところ、「(患者本人に意向を尋ねるかどうかも含めて)先に家族の意向を確認」と回答したのが46.6%(有効回答中の割合、674施設)。最多は「患者、家族双方に確認」(同48.7%、704施設)で、「患者本人だけで十分」としたのは0.8%(11施設)にとどまった。
 家族の意向を尊重する理由(複数回答)は、「本人の意思決定だけで判断すると家族から不満を言われる」(70.6%)、「家族とのトラブルを避けるため」(54.6%)など。65.9%の病院は患者本人に病名を伝えており、告知の有無にかかわらず、家族との摩擦を恐れる傾向がうかがわれた。「患者の意思を直接聞くことは終末期という状況になじまない」(24.8%)という回答もあった。
 厚労省が昨年9月に公表した終末期医療の指針案では患者の意思(推定を含む)に基づいて方針を決定するとしているが、松島助教授は「日本の場合、まだ患者の意思は二の次になることが多いという現状を踏まえた議論が必要ではないか。患者本人の意思を尊重するには、精神的サポートのできる人材の育成が欠かせない」と話している。
(後略)

ちなみに厚労省の「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」は救急医学会のそれとは異なり患者の意志確認が出来る時期を想定しているようですが、患者と家族の意志が異なった場合に関しての記載はありません。
http://www.mhlw.go.jp/public/bosyuu/iken/dl/p0915-2a.pdf

>No.152 地方の弁護士さま
「自らの行為の是非を判断するために自らで設定する水準」と「目標」
ご指摘の通り、どう違うのか理解できません。まあまたゆっくり考えて見ます。
お仕事お疲れ様です。お相手ありがとうございました。

=====

>No.151 立木 志摩夫さま

権利は自分で戦って勝ち取る、というのが弁護士さんらしいですね。
医師も含め多くの一般人はそうは思ってないでしょう。

特に医師はその気持ちが強いですよね。以前の私も含めて「医療者の業務は絶対的な社会利益なのだから、自分達が最も能力を発揮できるような環境を整備することが医療の恩恵を享受する社会側の義務である」と考えている医師はとても多いと思います。

このエントリの最初の方で先生とも「医療が最も能力を発揮できる社会とは」という話を少ししましたが、今思い返せば当時の私には、上記の様な考えのもと「本来であれば社会の側が気を遣ってそのような環境を整備するのが当然であるが、どうも最近はそうでないから、仕方ないのでこちらからその方法を提案してあげるべきではないか」という気持ちがありました。

しかし法曹の方々求めているのはそういうことではないのでしょう。「医療が最も能力を発揮できる社会」を実現するための方法を医療者が提案するなどということは「当然の前提」であり、医療者自身の努力でそれを「勝ち取る」ことを求められている訳です。
平行線になって当然ですね。

ここ数日で今までの価値観がかなり変化しました。やはり同業者だけの狭い殻の中に閉じこもっていてはダメですね。
 
 
しかし、未だに「ある程度はそういうことも認められてもいいんじゃないかな?」と考えてしまう自分もいます。
「救急車が赤信号を無視して良い権利」は、権利を行使する救急隊の方々が戦って勝ち取ったものではないと思います。やはり社会がその方が自分達にとって利益があると判断し、一方的に与えたものと考えるのが自然です。
同じことは医療については言えないのかな…と。

> つくねさん

「医療者の業務は絶対的な社会利益なのだから、自分達が最も能力を発揮できるような環境を整備することが医療の恩恵を享受する社会側の義務である」

その種の考え方を持っている方は、医療従事者以外は皆無だと言うのが私の認識です。そのような考え方を否定しているわけではないのですが、社会はその事を認識すらしていないでしょう。


「医療が最も能力を発揮できる社会」を実現するための方法を医療者が提案するなどということは「当然の前提」であり

「医療が最も能力を発揮出来る社会」がどんな社会なのかを知り尽くしているのは、医師自身なのではないでしょうか。もちろん、社会の方が気を使うべきかも知れませんが、結果的に医師に取って都合が悪い制度ができあがるという可能性もあると思います。

その種の考え方を持っている方は、医療従事者以外は皆無だと言うのが私の認識です。
私が知る限りでは、似たような考えを持つのは警察関係の方々、そして「報道の自由・知る権利」を振りかざす時のマスコミ関係者ですかね。
みんな、嫌われ者です(笑)
 
「医療が最も能力を発揮出来る社会」がどんな社会なのかを知り尽くしているのは、医師自身なのではないでしょうか。
うーん、これはどうでしょうか。
これまで、社会の方はよくわからないながらも「邪魔をしない」「金は出す」という2点だけは守ってきて、医師の方もそれで満足しそれ以上の注文はしないという状態が長年続いていたのです。
おそらく多くの医師は、そのようなことを考えたこともないのではないかと思います。

> No.110 地方の弁護士さん
亀レス失礼します。

そうは言っても裁判中は仕事が制限される(裁判所より臨床業務を制限される)、判決を待たずにクビになる、行政処分が判決を待たずに出るなどの不利な材料があります。技術を磨く時間がこうして削られていき、精神的にも腐敗していきます。
もしこれが誤解に基づくものであるならば司法の責任ではない、本人、経営者、役人や個人の誤解が悪いとおっしゃるかもしれませんが、現実としてこういうことが起きています。これが誤解から来るものだというのであれば、その誤解を生んだ原因の一部は法曹にもあると思います。通常の勤務も裁判中はできる、被告をクビにはできない、行政処分は判決が出てからなどのお墨付きをもらえるようにするか、あるいはそういう命令を裁判所が出すことが必要ではないでしょうか?
実際には女子医大の被告は大学をクビになり、大野病院での被告は裁判所か検察から業務停止を食らっていると噂で聞きます。
裁判で無罪を勝ち取ればいいじゃないか、という単純なものではありません。裁判になり、活動が制限されること自体が我々にとっては問題なのです。裁判になっても身は今まで通り自由ですよ、という了解が必要ではないでしょうか。

そしてその誤解がガイドラインを一般には公開したくないという方向に行くのだと思います。つまり、ガイドラインを策定したところで学会レベルだし、司法に使われるだけだ、と思うわけです。学会のお偉方でさえそういう認識ですから我々一般の医師の司法に対する恐怖心は計り知れないものと理解して頂けると思います。

今は将来の医療のため、司法と医療界が議論し、敵対することではなく、切磋琢磨していくことが必要だと思います。その意味では必要な医師が切られているトンデモ判決、本来是正しなければならない宇和島病院の腎移植、助産師の問題などを一時の感情論に流されず、もっと取り上げるべきだと思います。そして、マスコミや行政に正しい知識を与え、無用な情報操作や無用な処分を行わないように監視することも必要ではないでしょうか(こう書くとマスコミから表現の自由を盾に反論されそうですが、その際にはでは正しい知識を与えないマスコミは許されるのでしょうかという反論をしようかな)。

現実には医療を萎縮させるような報道、処分、判決が多いのです。それはここ5年で信じられないくらい多くなりました。医療者だけの責任ではすみません。日本国民が問題として捉えることなのです。医療者にも誤解は多いですが、行政の失態、不当判決、マスコミの一方的な情報操作によって国民にも多くの誤解があります。そして地方の弁護士さんにも医療への理解が少ないと言わざるを得ません。
そのためには地方の弁護士さんに是非、医療の現実を1週間でも見学して頂きたいと思います。その時間が無いかもしれませんが、それによって少しは医療者の言っていることが理解できると思います。

>yamaさん

そしてその誤解がガイドラインを一般には公開したくないという方向に行くのだと思います。つまり、ガイドラインを策定したところで学会レベルだし、司法に使われるだけだ、と思うわけです。

学会にとっては、司法が「医師の策定する学会のガイドライン」に基づいて判断するより、司法が法律に基づいて判断する方が望ましいという事なんでしょうか

> しまさん
私は上層部にいないので学会がどう考えているかはわかりません。おそらく司法と合同でガイドラインを作成するのが最も望ましいことなのかもしれませんね。

No.147 地方の弁護士さん

詳しいコメントレス有り難うございます。裏事情?と言う表現が相応しいかどうか分かりませんが、疑問がやっと解けた気分です。もちろん本当のところはその場に身を置く方々でないと理解できないのは承知しております。

弁護士は他の弁護士の批判することは弁護士倫理に反するとされており、しかも会規化までされました。

「後医は名医」という言葉がありますが、これは後出しジャンケンで前医を安易に批判してはならないという戒めだと思います。一方、こうした風潮がしばしば「かばい合い」という批判の対象になっています。

しかし、裁判の鑑定結果に臨床医が疑問を感じる場合、「後医は名医」がかなりある気がします。

No.157 立木 志摩夫さん
> 医療水準が規範的概念であると以前おっしゃってましたが、規範的概念が客観的に決まるというのはどうも違和感があります。どこかで価値観を密輸入していませんか??

やっと土俵が近づいて来ましたかね。規範的概念を訴訟において、どのように立証するかの観点から考えると、具体的事実の積み上げにより、立証します。本件でいう具体的事実というのは、医療現場の慣行です。医療現場の慣行自体は、客観的に決まっているというの私の理解です。
ただ、医療現場の慣行が現場毎に異なる場合は、何が医療水準なのか、あるいは医療慣行自体が成立していないのではないか、この視点になると正に規範的判断が要請され、そもそも客観的に確定できないのではないかとの議論になります。
私が、No.150 呆れたさん対し、「医療水準は、目標ではなく、客観的に決まっている」と述べたのは前者の意味で言ったつもりでした。この話は、No.146 つくねさんが、私の述べた「通常の医療水準は医療の現場での話しですから、すなわち、医師の皆さんのフィールドでの話しですから、裁判になっても、十分立証が可能な筈です。自信をもって自ら信じる医療行為をやって下さいということです。(No.85)」のコメントに対し、「私は当初この文章の意味が全く理解できなかったのですが、遅ればせながらやっとわかりました。」を受けての議論ですから、私は、医師の人が訴訟でやるべきこと、すなわち、個々の具体的事実を立証しなさいとの話しを念頭においていたのです。裁判では、当事者は具体的事実を主張立証し、裁判官がその立証された事実対する規範的判断をするからです。
具体的に言えば、福島事件では、クーパーなる器具を使ったはぎ取り行為が医療慣行として成立しているか、が一つの争点かと思いますが、医師の皆さんが支援するのであれば、私も同じ場面でクーパーを使っていますとの情報を集めることでしょう。産科医1さんが別途の感度を披露されたのに対する他の産科医さんからの具体的情報が少なかった気がしています。

No.159 つくねさん
>「自らの行為の是非を判断するために自らで設定する水準」と「目標」ご指摘の通り、どう違うのか理解できません。

私の方に誤解もしくは理解不足があったようです。つくねさんは、医療水準を「自らの行為の是非を判断するために自らで設定する水準」と定義されている訳ですね。それなら「目標」と理解して良いと思います。私は、今回勉強してみて、初めて医療水準を目標とする議論があることを知りました。有力な説のようですね。医師に対し慣行としての医療水準に安住して貰っては困るとの発想のようです。
私は、医療水準とは平均的医師が現に行っている医療慣行と理解していました。この点、平成8年1月23日の最高裁判決は「1、医師の注意義務の基礎となる医療水準は、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではなく、医師が医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしと直ちにいうことはできない。」
「2、医師が医薬品を使用するに当たって医薬品の添付文書(能書)に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定される。」と判示しています。
私は、この判例を医療水準と医療慣行が必ずしも一致しない場合もあることを指摘したものであるが、特段の事情(添付書類違反、不合理な慣行等)がない限り、医療慣行が医療水準を示すことを前提としていると理解していました。
今回、調べてみると上記判示をもって、「有効性と安全性とが是認され、臨床医学の実践目標として医学界で受容されている水準」と理解する見解(法規範説)が採用されたとする解説(法曹のためのホームベージの岡口基一氏著の要件事実マニュアル下196頁)がありました。私としては、上記判例の最高裁判所判例解説によれば「臨床医学の実践における医療水準」と言っているのであり、「実践目標」と言うのはニュアンスが違うと思いますが、著名な本の記載ですし、些か自信がなくなりました。法規範説的理解について、特に「目標」の射程距離について、法曹の方から、ご意見を伺えたら幸いです。何れにしても、勉強不足のようでした。
その意味でつくねさんが、医療水準を実践目標と理解されるのはもっともかと思いますし、過大な目標を措定されても困るという医療側の不安も理解できました。失礼しました。

No.167 地方の弁護士さん

実はその医療水準概念の変化の問題は、このブログでも何度も紹介されている「医療崩壊」(小松秀樹、朝日新聞社)で、いきなり第一章で取り上げられている問題です。地方の弁護士さんを非難するつもりは全く無いのでこう言っては申し訳ないのですが、これだけ議論を繰り返して未だにこの状況…というモトケンさんの苛立ちも、なんとなく理解できます。

総体的に、未だに名著「医療崩壊」から大きくは議論が進んでいないという実感です。

>No.167 地方の弁護士さま
「医療水準」の変遷、それが医療に与えた影響、およびそれに対する医療者側の意見は、峰村健司さまがご紹介されたとおり、小松先生の「医療崩壊」の中で取り上げられています。25頁から30頁の5頁分と分量も少ないですし、私の様な若輩者の意見より遥かに造詣に富んだ内容を、非常に平易な表現で文章化されておられますので、もしお手元にございましたら是非ご一読願いたいと思います。
なお、専門家でない私が意見するのは大変おこがましいのですが、小松先生は平成7年6月9日の最高裁判決(姫路日赤未熟児網膜症事件)を機に司法における医療水準の意味は大きく変化したと述べられています。私は、地方の弁護士さまのお持ちの医療水準の概念は、その判決以前のものに近いのではないかという印象をもっています。

>地方の弁護士さん

医療と法律の諸問題 第4回 医師の行為規範を少々引用します。

、「医療水準」の定義を「(当該)診療契約に基づき(当該)医療機関に要求される医療水準」と微妙に修正した上で、その医療水準と成った時期を昭和50年8月以前に繰り上げるように改めたのである。すなわち、まず、姫路日赤の「医療機関としての性格」を、新生児センターを開設して他の医療機関からの転医を引き受けつつ、さらに必要があれば光凝固法を実施できる兵庫県立こども病院に転医させる体制を整えている医療機関と認定した。その上で、そのような体制の整った性格の医療機関であると患者から期待されて、当該「診療契約」が締結されたと認定した。

医療水準とは、一意に決まるものではなく、医療機関の規模、役割によって異なると判断されているみたいですね。

その後、私が興味を引かれる部分をいくつか抜き出します

最高裁における法技術の出発点は、まず、明示的な診療契約書が存在していないことに求められる。
明示的な契約文言が存在せずに黙示的な約束事に留まるとしたら、そこに医師の専門技術的裁量をどの程度まで組み込むかは、裁判所の「法解釈」の範囲内である。
たとえば、最新のできる限り高度な治療法を施してもらいたいという期待が強くなっている。黙示的な契約を「法解釈」する際に、契約の一方当事者の意思を組み込むのは自然であろう。そうすると、診療契約の内容は、契約の一方当事者である患者の意思、すなわち、医療に対する強い期待によって左右されることになる。
医療機関(医師も)としては、自己の医療機関自身の特徴を患者に知らしめるために、医療機関自身の特徴は何かということを表示するのは当然である。たとえば、「新生児センター」という類いである。ところが、最高裁は、このような表示があれば、そこに医療機関としての意思表示が存在するとして、「法解釈」に組み込んでしまっているようである。
診療契約が文書化されていない現状を前提にして、最高裁はその判例法理を通じて、医師の行為規範を創出しつつある。行為規範であるから一義的に明白であることが要請され、その結果、文書化されたものを過度に尊重する傾向が強くなっている。すなわち、医療関連文書を偏重することになっているのである。

私は法曹でないので何ともコメント出来ませんが、地方の弁護士さんでしたらこれに含まれる意図を深く理解出来るのではないかと思います。

慣行ではなく、あるべき医療の姿を希求した裁判例(通達に基づき、救急病院には技能ある救急専門医を置くべしと判断、現実には救急専門医でなくても救急対応している)
コメントNo.94 謹慎明け様ご紹介の大阪高裁判例、奈良の事件でした。

中途半端ですいません、今時間がないんで、判決全文は後で探してきます。
これは他のことでも法律的に面白い、というか妙な判決で、みなさんの意見をききたい。

大阪高裁判例、奈良救急事件
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/5DC0E6DAEC784F5649256DD70029B153.pdf

ちなみにYosyanさんが示したJBMは
"担当医はニ次救急医療機関の医師として、救急医療に求められる医療水準の注意義務を負うと解すべきである。また、心エコーと心嚢穿刺の出来ない医師は二次救急を行なってはならない。"

>Med_Lawさん
JBMに関していつも思うのですが、医師敗訴例からはJBMはたくさん生み出されるのに、医師勝訴例からのJBMと言うのはほとんど眼にしないですね。

つまり、JBMと言うのは「正当か正当でないか分からないから、裁判所の判決から医療基準を見いだしていこう」という動きではなく、「正当な医療行為なのに裁判所は違法扱いをしている。違法扱いされないように違法となる基準をなるべく幅広く取っていこう」と言う動きなのですね。

資料。奈良救急心タンポ事件。
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=2299&hanreiKbn=03
大阪高等裁判所第5民事部 平成15年10月24日 判決平成14(ネ)602
判決文 http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/5DC0E6DAEC784F5649256DD70029B153.pdf
原審 奈良地方裁判所 平成7(ワ)44 [判例検索システム未掲載]

救急医療の水準について述べているのは判決文6〜7頁

 5 被控訴人らは,被控訴人EがFに対し施行した医療内容は2次救急医療機関として期待される医療水準を満たしていたと主張するので,この点を検討する。
 証拠(乙11,27ないし29,原審における被控訴人E本人,G鑑定,H鑑定)によると,我が国では年間約2千万人の救急患者が全国の病院を受診するのに対し,日本救急医学会によって認定された救急認定医は2千人程度(平成5年当時)にすぎず,救急認定医が全ての救急患者を診療することは現実には不可能であること,救急専門医(救急認定医と救急指導医)は,首都圏や阪神圏の大都市部,それも救命救急センターを中心とする3次救急医療施設に偏在しているのが実情であること,したがって,大都市圏以外の地方の救急医療は,救急専門医ではない外科や脳外科などの各診療科医師の手によって支えられているのが,我が国の救急医療の現実であること,本件病院が2次救急医療機関として,救急専門医ではない各診療科医師による救急医療体制をとっていたのは,全国的に共通の事情によるものであること,一般的に,脳神経外科医は,研修医の時を除けば,心嚢穿刺に熟達できる機会はほとんどなく,胸腹部の超音波検査を日常的にすることもないこと,被控訴人Eは,胸腹部の超音波検査が必要と判断した時には,放射線科あるいは内科に検査を依頼しており,自ら超音波検査の結果を読影することはなかったこと,当日,被控訴人Eとともに当直に当たっていた小児科の医師も,日常的に超音波検査をすることはなく,単独で超音波検査をすることは困難であったことが認められる。
 そうだとすると,被控訴人Eとしては,自らの知識と経験に基づき,Eにつき最善の措置を講じたということができるのであって,注意義務を脳神経外科医に一般に求められる医療水準であると考えると,被控訴人Eに過失や注意義務違反を認めることはできないことになる。G鑑定やH鑑定も,被控訴人Eの医療内容につき,2次救急医療機関として期待される当時の医療水準を満たしていた,あるいは脳神経外科の専門医にこれ以上望んでも無理であったとする。

 しかしながら,救急医療機関は,「救急医療について相当の知識及び経験を有する医師が常時診療に従事していること」などが要件とされ,その要件を満たす医療機関を救急病院等として,都道府県知事が認定することになっており(救急病院等を定める省令1条1項),また,その医師は,「救急蘇生法,呼吸循環管理,意識障害の鑑別,救急手術要否の判断,緊急検査データの評価,救急医療品の使用等についての相当の知識及び経験を有すること」が求められている(昭和62年1月14日厚生省通知)のであるから,担当医の具体的な専門科目によって注意義務の内容,程度が異なると解するのは相当ではなく,本件においては2次救急医療機関の医師として,救急医療に求められる医療水準の注意義務を負うと解すべきである。
 そうすると,2次救急医療機関における医師としては,本件においては,上記のとおり,Fに対し胸部超音波検査を実施し,心嚢内出血との診断をした上で,必要な措置を講じるべきであったということができ(自ら必要な検査や措置を講じることができない場合には,直ちにそれが可能な医師に連絡を取って援助を求める,あるいは3次救急病院に転送することが必要であった。),被控訴人Eの過失や注意義務違反を認めることができる。

参考ブログ 新小児科医のつぶやき(管理人Yosyan氏)2006-11-08 救急の黄昏
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20061108
この事件に関わった医療者側弁護士さんからのコメントがあります。

No.175の続き。
私が気になったのは判決文6頁のその次の段落です。

 6 以上のとおり,被控訴人Eに注意義務違反を認めることができ,被控訴人奈良県は債務不履行責任を免れない。
 他方,被控訴人Eについては,救急医療行為は,都道府県知事の認定した医療機関において行われるものであり,被控訴人奈良県が設置した本県病院での救急医療行為は公権力の行使に当たると解するのが相当であって,被控訴人Eは不法行為責任を負わない。

本件では医師の過失を認めて奈良県に対する賠償を命じる一方、医師個人に対する請求については、「救急医療は公権力行使である」という理由を付けて、認めませんでした。
国家賠償法の規定によっては、公務員個人に対する請求は認められない(国から求償するのは可)とするのが判例です。
しかし、国家賠償法か民法の不法行為損害賠償かという点では、医療分野は伝統的に民法マターと解されてきたことからすれば、この事件は特異な判断であると思います。

参考事例
税務署職員の健康診断は、公権力行使に当たらないとした判例。
最高裁昭和57年04月01日判決 昭和51(オ)1249
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=26296&hanreiKbn=01

なお、予防接種は国の伝染病予防施策として行うものであるから、公権力行使に当たるとした判例があります。
最高裁平成18年06月16日判決 平成16(受)672
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=33231&hanreiKbn=01

------
本件高裁では、具体的結果の妥当性として、医師個人に請求するのはいかにも気の毒(救急専門医が不足しているために、脳神経外科医なのに救急当番をやらされていた)という考慮が働いたのではないかと想像します。
しかし、考えてみれば、これはちょっとイケるアイディアではなかろうか。
判例変更して、医療問題は全て民法マターから国賠マターへと移すことはできないか?

医師の皆さんは、自分が被告とされ、敗訴すれば損害賠償を命じられるのはかなわん、とおっしゃいますが、
国賠請求でやらせることにすれば、医師個人に対する直接請求を封じることができます。

国家賠償法にいう「公権力」は、行政事件訴訟法におけるソレよりも広く、「公の作用であって、純然たる私経済作用以外のもの」くらいに解されています(広義説)。
また、最近の判例の傾向は、国賠請求を広く認めていこうという趣旨のようです。
・国公立学校における教育(最判昭和62・2・6)
・民間委託された児童養護施設の養育監護(最判平成19・1・25)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=34040&hanreiKbn=01

施設入所は確かに行政的な措置であるとしても、施設に入った子供に、着さして寝さして食わせる作業が、「公権力行使」ねえ?しかも民間施設なのに。
それくらいなら、健康保険制度に国が関与していることを根拠として、保険診療を「公権力行使」と位置づけることも、夢ではないように思うのですが。

> CID 40292

「しかしながら」以下 存在しない医療水準を義務付けるというアホアホ判断
感服いたしました。 
こういう素晴らしい判例が出たからには 救急認定医を持っていない私も
遵守させていただきます。早速年度末に田舎救急を辞めて
実家の近くのリハ科で勤務させていただきます。
後任は居ないようですが 救急病院省令を遵守するためなら
そんなことはどーでもいいわけです。認定医を持たない医師が
二次救急を担当すること自体が患者に対する背任行為なのですから。
おかげさまで9時5時の人間らしい生活が送れることになり
給料まで増えて裁判所には感謝の念に耐えませんです。

>YUNYUNさん、
どこかで、言及済みなのですが忘れました。ですのでもう一度書きます。

>国賠請求でやらせることにすれば、医師個人に対する直接請求を封じ
>ることができます。
国公立病院でしか通じない論理です。しかも、現実には、公立病院で賠償請求された病院側が、医師個人の責任追及=賠償請求をする事態が発生しており、これでは医師個人の免責につながりません。

問題は、自殺に近いような交通事故自損事故によって、実際には瀕死の状態になっている患者を、的確に救命できなかったという理由で4800万以上もの損害賠償を認めたことです。死体換金といわず、なんというべきかたとえようがありません。民事ではあっても、最悪のトンデモ判決です。

まず、原状回復を考えれば、逸失利益の算定が不当です。既に自分で運転し自殺に近い形で衝突して外傷性の心筋挫傷となっている体自体に、ライプニッツ算定は不当です。慰謝料は不当な風評被害により病院側がもらいたいくらいですから、対抗訴訟を行うべきでしょう。

>いのげさま
実は、私も、この心タンポナーデ判決で、救急告示病院での非常勤当直勤務を辞めることを決心したものです。私やいのげ先生のように、全国各地で、救急告示病院での離職が始まっていると思います。当然の防衛医療行為です。

>No.176 YUNYUN さんのコメント
>No.177 いのげさんのコメント

このお二人の至極まっとうなやりとりをみて思うことは、医療水準を権力を持って指定することは司法の裁量ではなく行政すなわち厚生労働省の仕事ではないのか、ということです。すなわち、救急医療の水準を上げることが望ましいので所轄行政官庁のいっそうの努力を求めるものだが、一朝一夕になし得るものでもないので、現状から鑑みて当該医療に明らかなミスはなかったと言わざるを得ず、判事としては遺憾ながら原告の賠償請求を棄却せざるを得ない、とするような判決。こういうのが「法に照らした」まっとうな司法判断じゃないのかなと思いました。

No.178 座位さん
座位さんは判っていて書いているのかも知れませんが、心筋挫傷というのはあくまで想像です。その根拠たるや、CPKがちょっと高値だったというものです。外傷でCPKが高値になるのは当たり前で、最近経験した症例では、正常値上限の10倍の4桁に及んでいました。もちろん、心筋挫傷でも心タンポナーデでもありません。
鑑定したのはどこかの教授とのことでしたが、そのレベルの低さに唖然としました。

一部の発言だけ読んで、心筋挫傷や心タンポナーデが事実だと誤認される恐れを考えて、一言発言させていただきました。

No.168 峰村健司 さん、No.169 つくねさん
ご紹介頂いた「医療崩壊」の本を読んで見たいと思います。ご紹介有り難うございます。

No.170 しまさん
>医療と法律の諸問題 第4回 医師の行為規範を少々引用します。…
>たとえば、「新生児センター」という類いである。ところが、最高裁は、このような表示があれば、そこに医療機関としての意思表示が存在するとして、「法解釈」に組み込んでしまっているようである。

本著述は、医療行為も契約の履行として行われるのであるから、当事者の合意(医師と患者)により、医療行為の内容もしくは注意義務の程度が定められるのが原則であるとの理解が前提にあります。その合意内容が明確でないから、裁判所が合意の内容を推測するものとして医療水準を解釈し、押しつけてくる(?)のです。
私の地元の救急病院に行きますと、本日の当番医は「〇〇医です」と当番医の専門が書いてあります。がっかりすることもありますが、その場合(当日の担当医師が専門外の場合)の当事者(医師と患者)の意識からすれば、専門外の医師に診断を受けのだから、その医師の医療水準は当該疾病の専門医に期待されるより低くてもしかたかないと考えるとの解釈もあり得ると思います。この解釈で救急医療を救えませんかね?

No.177 いのげさん
>存在しない医療水準を義務付けるというアホアホ判断

仰る気持ちは良く分かりますが、救急病院等を定める省令1条1項及び昭和62年1月14日厚生省通知の名宛人は、救急病院の指定を受けた当該病院であり、当該病院が責任を負うのはありうるかと思います。
ただ、病院に求められることを、直接の契約当事者でない個々の医師に問えるのかは検討する必要があると思います。前に、癸牽気婆そ呂憤綮佞靴眼前の患者を助ける可能性がない場合、外に手段がないことを要件として、免責される余地があると述べましたが、救急医療の専門家が絶対的に不足しいている現状では、救急医療の担当を拒否することは救急現場を放擲することにつながり、むしろ拒否することの実害が大きいことから、専門的能力を欠くまま救急医療行為をしても、緊急避難的法理又は正当業務行為として違法性がないあるいは医療現場を守る(医師がいた方がいないよりいい)との医療倫理からして、医療行為を拒否する期待可能性がないとの理論が可能かと考えます。
診療を拒否すべきとした癸僑靴了笋離灰瓮鵐箸老猝過ぎますね…

>No.176 YUNYUN さん

>国賠請求でやらせることにすれば、医師個人に対する直接請求を封じることができます。

と,言われますが,高裁が最高裁の”医療は公権力の行使に相当しない”という判断を薄弱な根拠のまま覆してよいものなのでしょうか?
元来,大学病院でも国立病院でも医療訴訟では,医師は公務員としての保護を受けていなかったのですが,この判決が医師の保護にあたるのか,病院から医師への求償権を求める新たな訴訟の火種になるのか,慎重に評価したいと思います.
(トンデモ地方議員の議会での発言を聞くと,あり得る話でしょう)

また,現実には公的病院は更に縮小傾向にあり,医療の多くは民間部門が請け負っています.
民間病院だったら,判決理由である”国家権力の行使”には相当しませんので,請求棄却になったのでしょうか?

更に,この判決の大きな疑問の1つは,”心タンポナーデ”というのが仮診断に過ぎず,原告側が”心タンポナーデ”だと証明することはできず,心エコーしなかったことが過失とされることにトンデモ性を認めます.(他の方も指摘ずみですが)
どうして”心タンポナーデでなかった”証明まで医療側が負わないといけないのでしょう?
原因不詳で死亡した場合,証拠に乏しい仮説に基づいて過失認定されるようでは,医師に逃げ道はありません.

この判例後の救急外来の混乱は全国的です.
なぜなら,救急外来のエース級のベテランが,滅多打ちにされたのですから
とてもじゃないけれど,普通の内科医が太刀打ちできるレベルではありません

公的病院であれば請求容認で,民間病院だったら請求棄却というのであれば,医師の公立病院からの逃散に拍車が掛かることでしょう

何より,懸命に救命努力をしてくれた医師への感謝も労いもありません.

医療崩壊は,医師が望んでいるものではありませんが,どうにも止まりません

> No.181 bamboo へ
でしゃばらなくていいよ。

> 国公立病院でしか通じない論理です。

そういう単純な理屈で言っているのではありません。

大阪高裁は、病院の経営主体ではなく、行為の<性質>に着目して「公権力行使である」と認定しているように読めます。

救急医療行為は,都道府県知事の認定した医療機関において行われるものであり

この論理からすれば、民間病院であっても救急指定を受けていて、そこで行われた救急医療行為については、同じく公権力行使と認められることになりそうです。

そこで、この考え方をさらに押し進めれば、

> > 健康保険制度に国が関与していることを根拠として、保険診療を「公権力行使」と位置づけることも、夢ではないように思うのですが。(No.176 YUNYUN )

私は従前は、「医療は民民関係」という観念でいたのですが、
最近出た最判平成19・1・25を見て、公権力関係をもっと広く認めていけるのではないかという考え方に変わりました。
今後に最高裁が大法廷を開いて、医療全般を公権力行使と認めるようになるかどうかは解りません。
しかし、決して荒唐無稽でなく、法理論に基づいた訴訟戦略の一つとして考えられるということを主張しているのです。

-----
> 公立病院で賠償請求された病院側が、医師個人の責任追及=賠償請求をする事態が発生しており(No.178 座位さま)

現状では、たぶん民法715条の使用者責任に基づいて求償されている事例が多いと思われますが、
それは、一般の私企業に勤務する従業員が、仕事上のミスを犯して会社が支払った損害賠償金について、会社から求償されることがあるのと同様です。(例・タクシー運転手が交通事故を起こして、タクシー会社が賠償したような場合)

しかしながら、民法(国家賠償法も同じ)は、損害の公平な分担の観点から、使用者から被用者への無制限の求償はできないと解されています。そこで、求償請求を受けた医師としては、自らの過失程度や責任範囲を主張して、雇い主である病院(県市)に対抗すべきです。
本件奈良救急事件では、病院の都合で救急専門医を揃えられないがゆえに、専門医でもないのに診療させられていたということですから、病院側の責任および負担部分が大きいことになるでしょう。

実際にどの程度、求償されるかは、使用者と被用者の力関係による部分もあります。
辞めても代わりはいくらでもいる、という会社では、損害分を退職金からさっぴいてクビ、というような酷い扱いをされるかもしれません。
しかし、従業員を大事にする会社なら、故意による犯罪的行為でない限り、求償はあまりしないでしょう(会社の経営戦略としては、事故に備えて賠償責任保険をかけておくべきと思います)。本人ばかりでなく、求償されたという話が会社全体に広まれば、他の従業員も嫌気がさして士気は低下、会社への忠誠心が薄れ、雪崩を打って辞めるという事態にもなりかねないからです。

特に地方の病院において、「医師の確保」が問題となっている昨今、何が何でも求償などという粗略な扱いをしていては、勤務しようとする医師が居なくなります。と申しますか、そんな酷い病院は他の面での待遇も推して知るべしですから、さっさと辞めて、もっと条件のよい病院へ移られるべきでしょう。

-----
> 鑑定したのはどこかの教授とのことでしたが、そのレベルの低さに唖然としました。(No.181 bamboo さま)

そのことは争いませんが、
なぜ、そういう医師が社会的に淘汰されずに存在を許されているのだろう?という疑問は残ります。

少なくとも、裁判鑑定の席にそういう人が入らないように、学会は鑑定人推薦をしっかりやってもらいたいということと、
腕に覚えのある医師諸君は積極的に鑑定人候補者に応募して、裁判の質向上にご協力ください。
そのことが、回り回ってあなた自身を救うことにも繋がります。

素人考えですが、保険医療にかかわる全てについて国賠請求という形になれば、多少無過失保障なんかの理念に近づいてくるような気がします。しかし、そうなると勢い民間病院に対しても役所の干渉が強くなる(既に強い?)とか、賠償が適当なものでも、何はともあれ最高裁的なお役所仕事になってしまうかもしれないという懸念はあります。
ただ、医療制度の整備をとおして、医療水準に対して一番の責任を居っているのは厚労省ですから、国が責任を取るのは筋が通っているように思えます。

その救急素人が救急医療をやるような制度にしたのが日本国であり、個人の責任を問う前に国の責任を問わなくてはおかしいのでは?という疑問が生まれます。この判決はいのげさんだけでなく、私にも「どうぞ地方の救急医療は勝手に崩壊してくださいね。けがをした人はどうぞ手遅れになって死んでください。」と聞こえます。
こうした意味でも個人に対してではなく病院や自治体、国に賠償責任できる民事はともかく、刑事は決してなじまないといえるのではないでしょうか。

奈良救急事件は、そもそも過失があったとみるべきかどうかが疑問、という点は賛成です。
たとえ救急専門医であっても、救命できなかった(致死的)のではないか。
鑑定医は「救命できる」という見解だったようですが。

----
> 民間病院だったら,判決理由である”国家権力の行使”には相当しませんので,請求棄却になったのでしょうか?(No.183 Med_Law さま)

その点がよく解らないのです。
裁判所に損害賠償を認めるべきだという考慮がある以上、そういう理由で棄却するのは酷なので、裁判所が釈明をするのではないかと思いますが。

そもそも、この事件では原告がどういう請求の立て方をしたのか?
弁護士なら国公立病院に対しても、民法により請求するのが普通と思います。本件はあえて国賠で請求したものか、だとすると、医師を相被告に据えるのは変ですし・・・
原審の判決を見ることができれば、当事者の主張が整理してあるので、そのあたりがハッキリするはずですが、どなたか原審判決をお持ちでないでしょうか?

>YUNYUN様へ

奈良事件の原審は今のところ見つかっていません。おそらく「間抜け弁護士」様ならお持ちでしょうが、YUNYUN様は心当たりはありますか?これもYUNYUN様はお読みになられたかと思いますが、原審では腹部損傷の鑑定書が採用され医師側勝利となっています。

もうひとつ分かりにくかったのは、この判決は高裁で確定しています。医師ならもちろんの事、弁護士でも釈然としない判決と考えますが、上告しなかった理由が、病院側が自発的にあきらめた以外にあるでしょうか。言い換えれば上告しても勝てる要素はなかったのでしょうか。

No.189 Yosyan さん

本筋から外れますが、間抜け弁護士先生のコメントは先生のブログの宝ですね。大抵の方は向こうも読んでおられると思いますが、一応ちょっと紹介させてもらいます。

わたしのいう援助はなによりも「医事紛争」p248以下のような誤った判決に対する本格的な批判的検討。

中身も知らないで判決を鵜呑みにする連中は法律側にもいるが,専門の医学的な部分については医療専門家が適任だし,法律家に誤りに気づかせることが必要。無視できないエビデンスがあれば必ず効果はある。効果が出るまで批判を続ける。

大淀病院事件の皆さんの批判も心強いが,無礼な日刊スポーツ記者に頭を下げさせた大きな成果のあることも教えられた。この事件の相談も受けており,詳細はいえないが,その後の推移に皆さんの論議も利いているのは確か。しかし,それだけでなく,脳卒中GLや高血圧GLも援用している。そんな多面的な援助がさらに役に立つ。

長いサイクルで見れば医学医療と同様に裁判も大きく動く。医学の変動ほど激しくないが,マスコミの目線で動く裁判に屈服しないで粘り強く批判することが必要。実例は多いが,裁判も不動ではなく180度転換した例もある。今の医療裁判は出だしの冬の時代をようやく抜け出したばかりの90年代後半からの暗転期だけど,不可能なものを強要する権利は法律家にもないので,いつまでも続くはずはない。

http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20061117

YUNYUNさん ぜひその理論まとめ上げてください。

医療崩壊について考え、語るエントリ(その8)No.49で私

思考実験として、あの判決が現状を追認せず、かつあまり多くの医師(すくなくとも私の)反発買わない判決に出来たか考えてみます。
「被告となっている脳外科医は、過失無し」
「しかし、設置者と病院は、心嚢穿刺出来る救急認定医を置く義務を怠った点で省令違反、過失あり」であったのなら、おそらく現場の医師は反発しなかったと思います。
これなら、現状追認せず、むしろ、設置者に真剣にどういう医師を救急に置くべきか考えさせる効果でて、知事、市長、院長、事務長が頭抱えるでしょうが、ちょうど良いぐらいに思います。あの場合脳外科医に過失ありと言わないと設置者に責任を問えなかったのでしょうか?

それに対し YUNYUN さん(No.50)が、

原告がそういう主張をしなかったから、裁判所は判断していないのです。(中略)ご指摘のように、救急需要に対応できるだけの体制を整えなかったことは、病院自身の不法行為(709条)ではないか、という組み立ても考えられるところですが、原告がそういう主張をしていなかった場合は、裁判所が勝手に認定することはできません(弁論主義、処分権主義)。

と受けられ、私としては、

救急需要に対応できるだけの体制を整えなかったことは、「救急告示病院では通達通りの救急診療が受けられるという」患者の期待を裏切ったということで、期待権侵害 として 病院のみ あるいは、国県市を訴える(現場の医師には問わない)。
のは私は認めます

と申しました。

YUNYUNさんの提案されている理論で、実質「現場の医師は与えられた条件でがんばったが、大本の法令、通達条件は満たしていない事が問題だと言う事例は、現場は無責、法令・通達を満たせるだけの条件を整える責任を負う病院、およびそれに必要なリソースを供給する国・県・市・健康保険組合の責任(こちらがメイン)」とできるなら、その理論支持します。

救急の現状がひどいと思って訴えたい原告の人が、二度とこういう事が起こらないようにと裁判起こすなら、ぜひ「治療に当たった医師には過失を問わない、専門家を取りそろえるなかった設置者および、計算上必要なリソースを出さなかった国をいっしょに訴える」と言う裁判起こして欲しいです。これなら、患者と医師は共闘できると思います。

この判例出たとき、国に「---を満たすよう注意すること(「病院のお金と責任で」とは書いてないが国、健保で必要な金は出すと言わないなら病院に自腹でやれと強制しているのは自明ですね)」という一片の通達、省令その他で逃げられないように食いつくことが肝要ですね。

同じ頃、整形A先生が、保健医療の水準決めているのは、国(保険者代表)なんだから、「保険者こそが当事者ではないか(民事訴訟でも当事者が、患者対病院にだけなるのはおかしいのでは)」とおっしゃってたと思います。これも一理あると思います。このあたりも理論武装の補強にはならないでしょうか。

YUNYUNさん(No175)が、この症例を持ち出されたのは、地方の弁護士さんが医療水準論をどう組み立てるか模索されているから、参考に出されたのだろうと存じます。医療水準どうあるべきか考えるいい(?)判例をまとめて引用されているので、くどいですが、再度。

以前の、法曹から見てトンデモ判例ありますかの続きになりますが、
YUNYUNさんから見て、この判例は、
下記で言う、「そのような判断すべきでなかった判例に入るのでしょうか?

厳密な意味での誤判、すなわち「提出された証拠からみて、裁判所はそのような判決をすべきでなかった」という事件は、私の印象では(あくまで印象に過ぎませんが)、0.01%以下と思っています。(医療関係エントリに関するつぶやき No.42YUNYUNさん)

もしそうなら、この判例は「YUNYUNさんから見て」「(法曹的にトンデモ)な判例ではないのでしょうか?

逆に、0.01%に入らないなら(つまり「法曹的にはまともな判例」だということなら)、
そのスレッドの流れでYUNYUNさんは、

私が思うに、裁判官の意見が一致する割合は90%、いや95%と言ってよいかもしれません。日本の裁判官はキャリアシステムが主で、均質な人材が集まっているから、とっぴな判断は出にくいのです。(No50)

とおっしゃってますから、裁判官の95%はああいう判断するだろうと言うことでしょうか。
この場合の合理的判断の出来る医師の身の処し方はいのげさんがお話(No.177)ですし、
早速年度末に田舎救急を辞めて(中略)、後任は居ないようですが 救急病院省令を遵守するためならそんなことはどーでもいいわけです。認定医を持たない医師が二次救急を担当すること自体が患者に対する背任行為なのですから。おかげさまで9時5時の人間らしい生活が送れることになり給料まで増えて裁判所には感謝の念に耐えませんです。

地方の弁護士さん(No182)も その点理解いただいてます。

>存在しない医療水準を義務付けるというアホアホ判断(いのげさん)
仰る気持ちは良く分かりますが、(中略)  むしろ拒否することの実害が大きいことから、専門的能力を欠くまま救急医療行為をしても、緊急避難的法理又は正当業務行為として違法性がないあるいは医療現場を守る(医師がいた方がいないよりいい)との医療倫理からして、医療行為を拒否する期待可能性がないとの理論が可能かと考えます。
診療を拒否すべきとした癸僑靴了笋離灰瓮鵐箸老猝過ぎますね…

まさに、この状況が、判例が「法曹的にまともな判例」なのにというか、だからこそというか、医療現場をダメにする状況ではないかと思います。

あと、一番、医師の心に棘になる

救急医療機関は,「救急医療について相当の知識及び経験を有する医師が常時診療に従事していること」などが要件とされ,(中略)その医師は,「救急蘇生法,呼吸循環管理,意識障害の鑑別,救急手術要否の判断,緊急検査データの評価,救急医療品の使用等についての相当の知識及び経験を有すること」が求められているのであるから,担当医の具体的な専門科目によって注意義務の内容,程度が異なると解するのは相当ではなく,本件においては2次救急医療機関の医師として,救急医療に求められる医療水準の注意義務を負うと解すべきである。

は、鑑定書にそう書いてあったからじゃなくて(トンデモ鑑定ではなくて)、裁判官の判断ではないでしょうか(医師から言わせれば、フィリピンの、インパールの、満州の認識が出来ていない大本営的「勝てるはず」判断ではないかと。)?

現実
私の住む地域では、どの医療施設も積極的に救急をやろうとはしない。
行政が無理にお願いして救急病院になって貰うケースが多い。
もちろん引き受ける病院に救急専門医はいない。

建前
病院が十分な体制を整え、行政に申し出て救急指定の認可を受ける。

司法は建前で裁くので、現実にそぐわないことは当然ですね。
結局は救急を返上して、後は行政に考えて貰うしかなさそうです。
私の住む医療圏でも、救急を返上する病院が出始めました。

やっぱり法曹は文系脳のバカばっかり。
「医療ミスを決めるのは医学でも学会でもない、われわれ裁判所だ」というように、理系コンプレックスのせいかは知りませんが、机上の空論、後付理由、結果で断罪するようなバカばっかりですね。
厚労省も警察も法曹も放送も、もう医療つぶしにかかってます。

文系に崩壊された医療制度はもう戻ってきません。地域のことを考えずに、さっさと防衛医療、開業するべきなんですよ

No.194 片岡万せー様

せっかくのモトケンさんがおくつりになった「場」を乱すようなご発言は避けたほうがよろしいかと思います。

これまでにも法曹、医療の両サイドから、「机上の空論、後付理由、結果」などの議論はさまざまに出でますので、過去ログをごらんになられてはいかがでしょうか?

個人的には、崩壊が誰のせいというわけではありませんが、一度崩壊したほうが、多くの人を巻き込んで新たな再生の波がやってくるのではないかとも思っています。

我々医療者は、その次の波を、じっと待つのも戦略かなと考える今日この頃です。


No.185 YUNYUN さま

先生のコメントへというわけではありませんが、きっかけとして少し前に考えていたことを思い出しました。

> 私は従前は、「医療は民民関係」という観念でいたのですが、
> 最近出た最判平成19・1・25を見て、公権力関係をもっと広く認めていけるのではな
いかという考え方に変わりました。

法曹ならぬ私の個人的な発想なのですが、以前不法行為の要件に関する記述を眺めていて、医療に関する不法行為の議論については、因果関係だとか帰責自由だとかのこれまでの主戦場ではなく、ましてや手続法による手当でもなく、権利侵害のところでどうにかするしかないのではという考えが浮かびました。
つまり、いわゆる受忍限度論を再構成して持ち出せないかと思ったのです。まあ無理は承知ですが。
どう無理かの説明はいらないくらいですが、正当な権利の行使の限界を画するという議論を、義務の履行が適切になされなかった場面にもってくるというのはお門違いです。ただ、受忍限度論の持つ調整機能を活用することで、「牛丼屋でフレンチのフルコース」的な不満を法的なステージの最前列にあげられるのではないかと。
あえて乱暴な言い方をすれば「(新幹線や旅客機が)うるさいといったらうるさいかもしれませんが、社会生活を送っている以上そういうこともあります。防音工事の助成ぐらいはしますから我慢してください」という考え方を「過失があったといったらあったかもしれませんが、公的医療保険のわずかな金とスタッフでなんとかやりくりしてるんですからヒューマンエラーだっておこります。障害が残ったといっても最低限の福祉措置はあるんですし、死亡といったってみんないつか死ぬんですから我慢してください」にもっていくということになります。こりゃ無理筋ですね。
しかし、公権力の行使という側面を有することが重視されるようになるとすれば、受忍限度論もすぐそこのように思えてきました。「権利侵害」の語を用いると「医療行為上の過失による受傷には権利侵害が認められない」となりどうにも違和感がぬぐえませんが、(かつての?)通説の「違法性」を用いれば「医療行為上の過失には違法性がない」となります。何とかなりそうな気も。
公権力が訴訟の名宛人になることにしても訴訟に関わる余計な手間(とそこから生ずる敗訴にも匹敵するダメージ)は残るかもしれませんが、権利侵害ではねられるようになれば相手が故意の立証にかかってこない限り実質的に相手にせずにすみます。
なんだか公的医療保険崩壊後にメディケア相当の医療システムができたとき、そこでの訴訟に対する国側の防御の理屈みたいな気もしますが。

> No.194 片岡万せーさん

我々医療従事者には、法的なアドバイスが必要なんです。
日本は法治国家ですから、医療崩壊が加速しようと、減速しようと、
結局は、判決内容や、法廷戦術に敏感にならざるを得ません。

防衛医療の立場であろうと、献身的医療の立場であろうとも
不当逮捕や民事訴訟のリスクがあることには違いがありません。
つまり、我々は何時、弁護士さんや判事さんのお世話になるか
判らないわけです。

此処にくる法曹関係者には、医療崩壊現象に興味を持ち、
我々の苦悩を理解している方が本当に多いです。
基本的に、弁護士、検察、判事、法学専門家には、優秀な方が多く
平均値でみると、明らかに医者よりも優秀である唯一の業種であって
決して馬鹿なはずは、ありません。一般に法曹家が馬鹿だというなら
その言葉こそ、我々の側のインフェリオリティコンプレックスです。

我々には、友軍が必要です。同じ知識人として、弁護士こそが、我々の
友軍にふさわしいと思います。片岡万せーさん、には、冷静な目で
法曹家の中の友軍を見極めていただき、敬意を払っていただきたい
と思います。

僕なんかも、ここの法曹家に皮肉を述べたりして、決してよくは
思われてはいませんが、彼らには勉強をさせてもらっている点があり、
敬意を払うことだけは忘れていないつもりです。

先生の発言の裏には、恐らく医療崩壊の嫌な現実体験があるだろうと
推測しています。先生の御発展を願っております。

No.195 ER医のはしくれさんへ

意図的に場を荒そうとする輩には、無視がイチバンと存じます。
誰もコメントしなければ、たいてい消えます。
消えずに続けるようであれば、管理者のモトケンさんが対処するでしょう。

>ぼつでおkさん

医療水準を権力を持って指定することは司法の裁量ではなく行政すなわち厚生労働省の仕事ではないのか、ということです。

医療水準を指定することは確かに厚労省の仕事だとは思います。問題になるのは、誰が医療水準を決めるのかと言うことではないでしょうか。すなわち、医師の決めた医療水準に従って厚労省が指定するのか、厚労省自身が決めた医療水準を厚労省が指定する事になるのか。


ところで繰り返しますが、奈良救急事件に関しては、基準が高すぎると言う事は問題視しても、ミニマムな基準がなかったことは問題になりませんね。これは考え方の問題なんでしょうか。

私は法律家であった事は一度もありませんが生後ン十年間この国の法の支配下に生きてきたおっさんのひとりとして発言しました。そのレベルでご質問へのお答えを試みますと、以下のようになりましょうか。

1.>問題になるのは、誰が医療水準を決めるのかと言うことではないでしょうか。すなわち、医師の決めた医療水準に従って厚労省が指定するのか、厚労省自身が決めた医療水準を厚労省が指定する事になるのか。

(答)私の理解レベルでは問題になるとは思えません。本来医師たちの研鑽の結果医学の進歩が認められればそれを医療行政が追認して医学の進歩という果実を広く国民に分配する、という以外に実現可能なやり方を思いつかないからです。文章で書くと小学校の教科書クラスみたいですね(笑)。こう考えるものにとって医療水準はその手順の中でおのずと定まってくるものだとしか答えられないのです。

2.>奈良救急事件に関しては、基準が高すぎると言う事は問題視しても、ミニマムな基準がなかったことは問題になりませんね。これは考え方の問題なんでしょうか。

(答)1.へのお答えぶりをご覧になれば、この答えも最早お察しの通りのレベルでして、最初から熟練者はいない訳ですから、私の眼で見れば
穿刺針を選んでその用途と使用法を知って標的をめがけて救命目的で刺した時点でその人が畳屋さんではなく医学を修めて医療行為を行うことを許された医師の人なんだなあと納得するにとどまる訳で、それ以上の問題点を思いつかない、のが本音なのです。

内容がないようで申し訳ございません。逃げ足速いだけが取り得なもので。

>ぼつでおk さん
ありがとうございました。私は法曹ではありませんが、医療と司法とは相容れる事が難しいというのがなんとなく分かりました。

「もはや医療再生は医師の手だけでは不可能である。国民全体と共闘し処々の問題を解決するしか方法はない。」というのが多くの医療関係のブログでの繰り返しの議論の末ほぼ確率されたコンセンサスであると考えます。

ところが「ではその手段は」という段階になると具体案に乏しく、結局のところ「一旦医療を崩壊させて、国民の側から『一緒に戦いましょう』とお願いされるまで待つしかない」というのが唯一に近い答えでありました。

非医療者である先生が医療者と患者が共闘できる具体案を示されたこと。その内容の斬新さに加え「特に地方の病院において、「医師の確保」が問題となっている昨今、何が何でも求償などという粗略な扱いをしていては、勤務しようとする医師が居なくなります。(No.185)」などという点まで考慮されている事に、正直非常に感服しております。

あえて多少厳しいことを書きますと、私は法律関係者ではありませんので、この提案がどれくらいの実現可能性を持つものなのかは判断できません。しかしながら、向かっている方向はいち医療者として完全に支持いたします。

ところで、非専門家ながらに考えたのですが、この理論のキモは「医療問題は全て民法マターから国賠マターへと移すことはできないか?(No.176)」というところにあり、そのために問題になるのは「とにかく医者が憎い」と言ってやってくる依頼人を、弁護士の皆様がどのように説得して国家賠償訴訟に持っていけるか、という点ではないでしょうか。
そこで医療者サイドがこの案を支援するのであれば、診療内容の開示や鑑定への協力など、あらゆる手段を用いて「国家賠償訴訟とした方が遥かに有利ですよ」と弁護士の皆様が自信を持って依頼人に説明できる状況を作り上げることが重要なのないかと思うのですが、いかがなものでしょう。

すみません、No.202↑はYUNYUN先生へのコメントです。

>>No.201 しまさん
>医療と司法とは相容れる事が難しい

いいえ、医療現場と厚生労働省の間での医療水準の決め方みたいな話ですので、医療と司法の関係ではなく、医療行政の中の現場と監督官庁との関係についてお答えしたつもりです。
この関係は正直現在あまり良好とはいえないと思いますが、どちらにも言い分はあることですので、非医療関係者の方に対して一方の立場の主観をのべるべきではないように思い、先のようなお答えを致しました。お詫び申し上げますとともに、ご賢察のほどお願い申し上げます。
医療と司法の関係は、行政と司法の関係であって私は前に申しましたとおり両輪の関係にあるべきだという立場です。ここにお邪魔したのは司法の場面で最近見かけることの多い(印象ですが)期待権についてよく理解できない理由を探すためです。人は主たる興味に注意を縛られるもので、私もまたその囚になっており、自分の興味とは少々異なるお尋ね
に思わず上の空気味にお答えしてしまいました。非礼に当たりましたことを重々お詫び申し上げます。以後気を付けます。

>つくねさん

診療内容の開示や鑑定への協力など、あらゆる手段を用いて

それができるのなら、裁判は発生しないか、和解で早急に解決するものと思われます

>ぼつでおkさん

いや、こちらこそ失礼しました。誤解をするように解釈をしてしまいました。私の考えでは「司法は明文化された医療水準に基づいて判決を下す」と言う思いがあったため、明文化された医療水準がないのが問題だろうと思っていました。


そこで、明文化された医療水準を誰が作るのか。医療界なのか、厚労省なのかと言う関心があったため、先のような質問をした次第です。そこで、ぼつでおkさんのお答えを私なりに解釈すると、そもそも明文化された医療水準は作れないと解釈してしまいました。後で考えるのなら、分からない点を質問するべきでした。お詫びします。


話を戻します。そこで考えが飛躍してしまったために、明文化された医療水準を元に判断を下す法曹と、「医療水準が自ずと定まる」医師とでは、考え方がまるで異なるため、相容れないのかなと、誤解をしてしまいました。


それはそれとして、先の質問の本当の意図は、医療水準は医師が決定するのか、それとも(現場を知らないであろう)厚労省が作った医療水準を医師が受け入れるのかという所にあったのです。今から考えると、設問自体が不適切だったと思います。

>No.206 しまさんのコメント
お返事ありがとうございます。
医療水準について、いま私が思いつく表現でよろしければ、申し上げてみたいと思います。

先に述べたように医学の進歩によって疾患の解析や治療法の検討が進み多くの学会で認められるような分野では医学者医療者主導ですが、医学の実践を行政が行う医療の段になると、その成果に基づきコストベネフィット・リスクベネフィット等を勘案して最低限度の必要手順が決められます。ここは監督官庁の裁量なので、厚生労働省主導です。主たる実行者である医師は、文部科学省管轄の医学部で訓練を受け、修了後厚生労働省の課す資格試験をパスして厚生労働省の監督下医療行為に従事することを許されます。この先医師は大まかに言うと臨床医療を行う場合は厚生労働省の裁量下、医学部で基礎研究を行う場合は主に文部科学省の裁量下にあるといえます。臨床研究の場合は両省の裁量下、ということでしょうか。私もきちんと理解していませんが、だいたいこんな関係であると感じています。こういう力関係?のもとで厚生省が「医療水準」として現場の実態に即して文書で通達として出すことが裁量として認められています。が、文面の記載に一言一句違わず忠実に実行することは、道路を制限速度を絶対に越えないように運転することと同じく、反って明らかに現実の危険が生じる場合が殆どで、本来守るべき業務における安全性を維持するためには、現場の事情に応じた解釈の幅を認めるべきでしょう。そうなると、厚生省が明文化して出してきた「医療水準」が現実には「努力目標」としてしか機能しない。つまり、単に明文化してあるからこれが「医療水準」だ、という論理は非現実的空論であると、現場は言わざるを得ないでしょう。

なんか書いてるうちに自分でも論旨が通ってるのか怪しくなってしまいました(笑)。学部のこととか薬剤や医療器械とかも書きたかったんですがおっさんには無理ぽいのでやっぱり止めときます。他の人におまかせしたいと思います。やる気はあっても体(脳も体の一部です)がついて来ん。毎度失礼致しました。

>ぼつでおkさん

本来守るべき業務における安全性を維持するためには、現場の事情に応じた解釈の幅を認めるべきでしょう。そうなると、厚生省が明文化して出してきた「医療水準」が現実には「努力目標」としてしか機能しない。つまり、単に明文化してあるからこれが「医療水準」だ、という論理は非現実的空論であると、現場は言わざるを得ないでしょう。

仰ることはその通りだと思います。しかし、現状では明文化された医療水準と言うのは、厚労省の「努力目標」しかないわけで、明文化されたものを尊ぶ裁判所としては「努力目標」を医師の「医療水準」としてしまっているのが現状だと思います。


この事が医師と司法のギャップを産んでいると思います。さて、解決策としては、

1.厚労省の医療水準が単なる努力目標である以上、司法は実態に合わせた医療水準で医療を評価するべきである
2.厚労省の医療水準が単なる努力目標である以上、医療側が実態に即した医療水準を(厚労省とは別に)作るべきである

の2点があると思いますが、医療側は1の方向を考え、法曹の側が2の方向を考えているように思います。それがまたギャップを産んでいるのではないかなと思いました。

>しまさん
拙文にコメントありがとうございます。全く足りない文で恐縮する次第です。
本来もっと簡潔明瞭に書ければいいのですが話すより身体を動かすほうが身になじむ職業柄文才は磨く機会を逸した恨みがあります(笑)。
自分の駄文が誤解を生じる原因だとは思いますが、僭越ながらしまさんのNo.208の文中
>明文化されたものを尊ぶ裁判所
の箇所に、司法は法に照らして中立公正であるべきだと考える私の立場から少し思うところがございました。
この医療水準についての現場と監督官庁との間に生じた解釈の対立、これを両者の争いとみなせば、司法は本来その丁度中間点に立って仲裁をするのが仕事ではなかろうか。であれば、裁判所は明文化されたものを明文化されない努力目標より尊ぶ態度をとれば、両者の中間点より一方側の監督官庁寄りに立っていることになり、中立公正とは言えなくなるのではないかという疑問を抱きました。

これ以上長文は苦手なのでもう止めます(笑)。毎度失礼しました。

>しまさん
拙文にコメントありがとうございます。全く足りない文で恐縮する次第です。
本来もっと簡潔明瞭に書ければいいのですが話すより身体を動かすほうが身になじむ職業柄文才は磨く機会を逸した恨みがあります(笑)。
自分の駄文が誤解を生じる原因だとは思いますが、僭越ながらしまさんのNo.208の文中
>明文化されたものを尊ぶ裁判所
の箇所に、司法は法に照らして中立公正であるべきだと考える私の立場から少し思うところがございました。
この医療水準についての現場と監督官庁との間に生じた解釈の対立、これを両者の争いとみなせば、司法は本来その丁度中間点に立って仲裁をするのが仕事ではなかろうか。であれば、裁判所は明文化されたものを明文化されない努力目標より尊ぶ態度をとれば、両者の中間点より一方側の監督官庁寄りに立っていることになり、中立公正とは言えなくなるのではないかという疑問を抱きました。

これ以上長文は苦手なのでもう止めます(笑)。毎度失礼しました。

私は、No.167 のコメントにおいて、最高裁の述べる「臨床医学の実践における医療水準」を「実践目標」と解する場合の「目標」の射程距離が良く分からないと述べましたが、平成7年6月7日の最高裁判決によると「新規の治療法に関する知見が当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関に相当程度普及しており、当該医療機関において右知見を有することを期待することが相当と認められる場合には、特段の事情がない限り、右知見は当該医療機関にとっての医療水準であるというべきである。」とありますから、仮に被告となった医療機関において採用していない治療法であっても、その新規治療法の有効性と安全性が医学的に是認されており、その知見が相当程度広まっている場合は、その治療法を実施する義務があり、実践していない医療機関にとっては新規治療法を行うことが、実践的目標となるとのことのようです。その意味では、目標は医師自らが定めるものではなく、新規医療技術の進歩に応じ、日々与えられているとの理解になりそうです。
なお、ここで言う知見とは正に情報のことであり、知見が広まっても物理的施設が伴わないがため、あるいは医療技術の習得がなさておらず、実施できない医療機関には転院を勧める義務があるとの帰結になるようです。
一応了解可能な見解かと思いますが、ご紹介頂いた「医療崩壊」を注文しましたが、地元の本屋によると2〜3週間かかるそうです。コメントはこの本を読んでからとします。

No.211 地方の弁護士さん

未熟児網膜症の最高裁判例の話が出ましたので、少しだけ。

この判例は一見もっともなことを言っているようですが、トンデモ判決であるというのが多くの医師の共通する意見です。新規の治療法は必ずしも正しいとは限りません。よいと思って皆が飛びつき流行った治療法も、多くが姿を消したり、単なる数ある治療の内の一つに落ち着いたりします。自分の治療で患者に被害が出るのを怖れて、厚生省が認可した新薬すらかなりの観察期間をおいてからしか使わない医師も多いです(薬害エイズなどを思い出して見てください)。そんな医療の常識に反しているのです。
光凝固は侵襲性で子供に対して気軽にできるような手技でないこと、その時点で異論も少なくなかったことを考えれば、厚生省の研究班の発表後ですら過失とするのは疑問があるところであるにもかかわらず、その前の評価の定まらない時点でおこなっていなければ過失などというのは、事後的非現実的という評価を免れ得ないと思われます。

地方弁護士さん
>>知見が広まっても物理的施設が伴わないがため、
>>あるいは医療技術の習得がなさておらず、
>>実施できない医療機関には転院を勧める義務があるとの
>>帰結になるようです。

これまで何度も議論になり、かつ平行線となっている事ではありますが、医師側が問題にするのは、その診断・治療過程に於いて、転院が必要であったか否か模索している状態で医療行為を行っているにも関わらず、裁判の時点では「結果的に転院が必要であった」との結論から議論が始まっている事であり、これを「後出しじゃんけん」と言っている事もご留意頂ければ幸いです。
そして、その様な不可解な判断が少数例であり、90%は妥当な判決が行われていると言われても、その10%の為に医療は簡単に崩壊する事です。すでに、訴訟リスクと「トンデモ」判決の為に、産科・救急のみならず、多くの分野で少なからぬ影響が出ております。
医療崩壊と地域への影響から、判断を甘くしろという医師は(少なくとも此処に集う医師は)皆無と思いますが、不可解な判決による影響をご留意頂きたく存じます。
(判決を下すのは判事であり、弁護士の関与する所ではないとの意見が出そうですが)

No.212 元行政さん
>この判例(未熟児網膜症の最高裁判例)は一見もっともなことを言っているようですが、トンデモ判決であるというのが多くの医師の共通する意見です。

この判決は、新規の治療法の有効性と安全性が是認されており、その知見が相当程度広まっている場合はその新規の治療法を実践することが医療水準となることを前提としています。この部分が一見もっともらしい部分ということで宜しいでしょうか。とすれば、この判例を批判するためには、理論自体が誤っているのか、理論自体は正しいが、理論の事実への当てはめ(適用)が間違っているのかを区別して考える必要があります。
元行政さんの批判は、理論自体より、未熟児網膜症の新規の治療法については、有効性と安全性が是認されてもいないし、その知見が相当程度広まってもいない場合に、この一般論を適用したことが誤りであると主張しているように受け取れます。とすれば、最高裁の判例を批判したことにはなっていません。最高裁は、高等裁判所が認定した事実(未熟児網膜症の新規の治療法については、有効性と安全性が是認され、その知見が相当程度広まっていること)を前提として、理論を適用したに過ぎないものだからです。
最高裁の判例の意味は、その定立した理論ないし規範的判断こそが、その後の裁判の基準になるという意味において、強い規範性を有するのです。すなわち、批判をするのであれば、このもっともらしい理論自体を批判するのでなければ、批判としての意味が乏しいことを知ってておいて頂きたいと思います。
なお、新規治療法の有効性と安全性が是認され、その知見が相当程度広まるという事実認定自体が慎重になされるべであるとの意見は当然あり得る指摘かと思いますし、実務的には重要な視点であることに変わりはないと考えていますので、念の為、付言します。

なるほど勉強になります。ご教示ありがとうございます。

つまり最高裁の示す判断がトンデモであっても、それが適用の問題に過ぎなければ、射程は広くないということでよろしいですね。明確に分けて考えるべきということはその通りだと思います。

さて論理ということで再考すると、
医療水準は全国一律でないということなら、当然だと思います。
多数の同等機関がやっていることが医療水準というならトンデモです。
さてこの判決はどちらを意味しているのでしょうか(両方ともですよね)。

>元行政さん

自分の治療で患者に被害が出るのを怖れて、厚生省が認可した新薬すらかなりの観察期間をおいてからしか使わない医師も多いです(薬害エイズなどを思い出して見てください)。そんな医療の常識に反しているのです。


医師自身は光凝固法に対して積極的な姿勢を持っていたと、最高裁は判断したのだと思います。

小児科医のc医師が中心になり本症の発見と治療を意識して小児科と眼科とが連携する体制をとり、眼底検査は、小児科医が患児の全身状態から眼科検診に耐え得ると判断した時期に眼科のd医師に依頼して行い、次回の検診時期は同医師が指示することとし、眼底検査の結果本症の発生が疑われる場合には、光凝固法を実施することのできる兵庫県立こども病院に転医をさせることにしていた。

ある程度の体制を整えておきながら、なぜ光凝固法を実施するために転院させなかったのか。この辺の事情について、高裁は検討は欠いていたという判決ではないのでしょうか。

>地方の弁護士さん
「当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関」とか「新規治療法の有効性と安全性が医学的に是認」とか「知見を有することを期待することが相当と認められる」に関しては、司法ではなく医療界側で基準を作ることができるのではないかと思います。逆に、医療界が基準を作った場合、司法もそれに従わざるを得ないのではないでしょうか。

>ぼつでおkさん

判所は明文化されたものを明文化されない努力目標より尊ぶ態度をとれば、両者の中間点より一方側の監督官庁寄りに立っていることになり、中立公正とは言えなくなるのではないかという疑問を抱きました

私は法曹ではありませんが、その通りだとは思います。司法は明文化されたものに基づいた判断しかできないのではないかなと思うようになりました。公正中立であるかどうかではなく、判断するための基準があるかどうかが判決の大きな鍵になっているようですね。

No.216 しまさん

上告人aは、昭和四九年一二月二七日、姫路日赤の眼科のd医師による眼底検査を受けたが、同医師は、上告人aの眼底に格別の変化がなく次回検診の必要なしと診断した。その後、昭和五〇年二月二一日の退院時まで眼底検査は全く実施されなかった。
  (四) 上告人aは、退院後の同年三月二八日、d医師による眼底検査を受け、異常なしと診断されたが、同年四月九日、同医師により眼底に異常の疑いありと診断され、同月一六日、c医師に紹介されて、兵庫県立こども病院の眼科において診察を受けた

詳細まではわかりませんが、体制にのっとってそれなりのことはされていますよ。

No.217 しまさん
>「当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関」とか「新規治療法の有効性と安全性が医学的に是認」とか「知見を有することを期待することが相当と認められる」に関しては、司法ではなく医療界側で基準を作ることができるのではないかと思います。逆に、医療界が基準を作った場合、司法もそれに従わざるを得ないのではないでしょうか。

「新規治療法の有効性と安全性が医学的に是認」の部分は、そのとおりかと思います。
ただ、私が「新規治療法の有効性と安全性が医学的に是認」と記載した部分の内、「医学的に」の部分は私が最高裁の文言に挿入したものです。実は有効性と安全性を誰が是認するのかについては争いがあり、「有効性と安全性の是認」は医学的な観点のみから判断するのではなく、患者の信頼、希望ないし意思をも考慮して、法的観点から判断すべきであるとの見解(患者意思考慮説)も表明されているようです(司法研修所論集2003−1、123頁以下参照)。ただ私としては、新規治療法に対する患者の期待が大きいのは当然であって、患者の意思が「有効性と安全性の是認」にかかわるとの見解には違和感があります。ただ、原典の論文に当っていないので、その主張の真意を誤解しているかも知れませんが…。何れにしても、医師が判断することの重みに変わりはないと思いますので、医療界においては学会等が中心になって基準作りをする有用性は高いと思います。
「知見を有することを期待することが相当と認められる」に関しては、期待するのは患者ですから、患者側の意思が大きな意味を持ちますし、「当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関」の認定については、患者側の期待というか専門病院に対する社会的評価が一次的意味を有することになるかと思います。敢えて言えば、司法による規範的判断による部分が大きいかと思います。

No.214 地方の弁護士 さん

新規の治療法の有効性と安全性が是認されており、その知見が相当程度広まっている場合はその新規の治療法を実践することが医療水準となることを前提としています。

最高裁の判決文で、自分が問題と考えるのは「知見」についての捉え方です。

最高裁の言う新規の治療法の有効性と安全性が是認されている「知見」とは、当該基準や治療基準が確率されていない、「統一的な指針が得られたのが厚生省研究班の報告が医学雑誌に掲載された昭和五〇年八月」以前の知見で充分と結論づけている所です。


診断と治療に関する最大公約数的な基準を定めることを主たる目的として、昭和四九年度厚生省研究班を組織。昭和五〇年三月、一応の診断治療基準を示した研究成果を発表
姫路日赤においては、昭和四八年一〇月ころから、光凝固法の存在を知っていた小児科医のc医師が中心になって、未熟児網膜症の発見と治療を意識して小児科と眼科とが連携する体制をとり、小児科医が患児の全身状態から眼科検診に耐え得ると判断した時期に、眼科のd医師に依頼して眼底検査を行い、その結果本症の発生が疑 われる場合には、光凝固法を実施することのできる兵庫県立こども病院に転医をさせることにしていた

最高裁はこの時点の「知見」で、新規の治療法の有効性と安全性が是認されていると認定して、医療水準に反しているとの判決を出したのです。
しかし、新しい治療法に対する当該基準や治療基準が確率されていない時期の「知見」は、科学的に言えば安全性が是認されていない段階になりませんか?
臨床実験がされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われている時期です。
日赤の未熟児網膜症患者すべてに、治療を施すことが求められている時期ではないはです。
この最高裁のいう時期の「知見」が普及した時が、その新規の治療法を実践することを医療水準とするのは、理論的に間違っていると考えます。

平成7年6月9日最高裁判例全文

現場に最新の知識がいきわたっているかどうかが必須項目として挙げられると思います。そして最新の知識が浸透していないときは当人(医師)の勉強不足だけでなく、厚生省や製薬会社等による通達の遅れ、地方の医療の忙しさ(勉強する暇がない)なども要因として挙げられます。すなわちシステムに起因する問題のウェイトが高いといえます。さらに今ならインターネットで簡単に手に入れられる情報が地方や昔だと難しいということもあります。
本来ならば当時の複数の臨床家によって証言を得て分析するしか方法はないと思いますし、それ以外は妥当ではないといえるでしょう。

>元行政さん
私も、姫路日赤はある程度の体制を整えていたと思います。また、光凝固法が有効な治療法であったと認識していたと思います。最高裁としても、高裁がその辺りを踏まえて判決を下すべきであるのに、厚生省研究班の報告時期だけを見て判決を下したことを問題しているのでしょう。


>オダさん
>yamaさん
判決文を抜き書きしてみると、お二人の言っていることとそんなに距離はないと思います。

そうすると、姫路日赤の医療機関としての性格、上告人aが姫路日赤の診療を受けた昭和四九年一二月中旬ないし昭和五〇年四月上旬の兵庫県及びその周辺の各種医療機関における光凝固法に関する知見の普及の程度等の諸般の事情について十分に検討することなくしては、本件診療契約に基づき姫路日赤に要求される医療水準を判断することができない筋合いであるのに

姫路日赤に要求される医療水準を判断するには、周りの病院での諸般の事情を踏まえて判断するよう、要求しているものと思います。

No.223 しまさん

日赤が整えていたのは、網膜症が起こってしまった場合に対する体制です(なったら焼く)。新しい治療法は、網膜症がおこる可能性が高い未熟な網膜に対するものです(なる前に焼く)。論点は新治療をやっているかやっていないかだけです。

No.221 オダさん
>最高裁の言う新規の治療法の有効性と安全性が是認されている「知見」とは、当該基準や治療基準が確率されていない、「統一的な指針が得られたのが厚生省研究班の報告が医学雑誌に掲載された昭和五〇年八月」以前の知見で充分と結論づけている所です。

最高裁が厚生省研究班の報告以前の知見で十分と結論づけたという理解は正確でありません。最高裁は、厚生省研究班の報告以前の段階では治療水準(知見)として確立していないと結論付けた高裁の判断を、厚生省研究版の報告以前であっても、No.223 しまさんが紹介した判示のとおり、知見の普及の程度等の諸般の事情について十分に検討すれば、治療水準として確立している可能性があると判断して、その点更に審理を尽くさせるため、高裁に差し戻したものです。

No.225 地方の弁護士さん

誰が読んでも建前でしょう。最高裁は常に正しくなくてはいけないという観点から、表現の中に責任回避するための含みを持たせたに過ぎません。(添付文書の特段の理由もそうでしょう)
報告以前の知見で十分と結論づけたということは、一部の隙もないに限りなく近い、高度な蓋然性があります。

No.226 元行政さん
>誰が読んでも建前でしょう。

最高裁の判示は、正に建前を述べることに意味があるので、批判の視点がずれていると思います。
どうも議論がかみ合っていない気がしますが、私が下記コメント(No.215 元行政さん)の意味が理解できていないからかも知れません。

>多数の同等機関がやっていることが医療水準というならトンデモです。

多数の同等機関がやっていることが医療水準であるというのは、平成7年最高裁判決の核になる部分です。何故、トンデモなのか、理由を述べて頂ければと思います。


医療水準を決める際にはその病院における水準を考慮しなければなりません。開業医なのか、時代はいつなのか、過疎地域なのか、情報は手にはいるのか・・・etc。
まず最低限の水準があると思います。それに加えてその病院での水準が加算されます。前にも述べましたが、多数の当時の状況を知る人達にインタビューしない限り水準を決定するのは難しいと思います。

>建前

同じ建前でも私のこの使い方は嘘というニュアンスで使っています。法律は建前(先生の使われている意味です)の世界だという話は十分理解しているつもりでいます。

>多数の同等機関がやっていることが医療水準

ちょっと簡単に書き過ぎましたが、この判例のような新規治療法における話で考えてください。これは医療の実情から考えて大変危険な理論でトンデモです。
以前も書きましたが、流行しだした治療法が残るとは限りません。(例えば血友病患者に血液製剤を使うことが流行ったこともありましたね)もし同じ事をしていなければ過失とされるならば治療法の是非を省みる機能が著しく低下し、また、他の有力な治療法の出現進歩を阻害することとなります。

飛び入り失礼致します。ぼつでおkなら10万円、に改名しようかなと考え中です(笑)。
>No.228 yama さんのコメント
に全面的に賛成します。

>医療水準を決める際にはその病院における水準を考慮しなければなりません。開業医
>なのか、時代はいつなのか、過疎地域なのか、情報は手にはいるのか・・・etc。
>まず最低限の水準があると思います。それに加えてその病院での水準が加算されます。

>前にも述べましたが、多数の当時の状況を知る人達にインタビューしない限り水準を決定
>するのは難しいと思います。
三番目の文、ここが重要だと思います。
しかし現実には裁判になってからインタビューを重ねても記憶の曖昧さが障害になって、当時の真実の状況をカルテ等文書や調書だけで再現するには非常な困難が予想されます。実際の裁判で判事が判断し切れなくなった判決が多いのもそのためでしょう。
この予想される困難さに対してそれを克服する目的で、各病院に法務部を置き、患者とのトラブルが起こった或は起こりそうなそこでの診療事実について、すみやかに現場の事情に通じている当該病院勤務の専門医を集めての症例検討会を開いておくことです。これはTVドラマ「ER」のパクリネタですが、あれを見ていて成る程よくできているわいと感心したのでここに書かせていただきました。皆様のご討議のネタの片隅にでも置いてもらえれば、ぼつでおkなりにしあわせでございます(笑)。

ERにおける臨床症例検討会を見ていると結構門外漢らしき医師がいろいろいちゃもんをつけていますね。でも、刑事訴訟が前提ではなく、また、免許停止も関係ないこともわかります。つまり、アメリカでも明らかな医療過誤でない限り行政罰はくだらないのかなと思いました(現地での実際の経験が無いのであくまでも予測です)。ただ、賠償(民事)についてはかなりシビアで、大変だな、と思います。その点、日本と比較したらフェアです。
私はエリザベスが医療過誤を起こしたときの反論がとても印象深く残っています。「24時間以上の勤務でミスを犯さない方がおかしい!それについて経営者の責任はどうなのか」みたいなことだったと思います。あと、カーターも麻薬中毒になったときにミスを犯す可能性があるから厚生施設に送り込まれそうになったときにこんなことを言っています。「あなた方はミスをしたことが無いんですか?あるでしょう?」
アメリカは理想論ではなく現実論が先行しているな、と思いました。ただドラマの話なので本当にこうなのかはしりませんが・・・。

管理人さま,そろそろスレッドが230を超えております.
新しいスレッドが必要かと思います.

>医療水準を決める際にはその病院における水準を考慮しなければなりません。

当該病院における症例検討会には、上記の条件も満たされていると思います。科は違えどその病院に勤務する専門医は各々自分が自分の勤務する病院の医療水準を支えているという強烈な自負心を持っています。これは日本であれアメリカであれ全く同じでしょう。それあればこそ、他科の同僚(これが大事で、普段の働き振りを身近に観察してその技量の程やどの程度の医師かを自分なりに知っているということです)が医療トラブルの中に入った時、病院システム等環境因子が具体的にどの程度トラブルの結果に影響しているか、すなわちトラブルに到るまでに起こったエラーの数と質を、同じシステム下の自分の普段の診療に置き換えて考えることで、ほぼリアルタイムのより適確な分析と評価が可能であるということです。そうした全科の専門医による分析と検討の多数決による最終評価が、まさに当該病院の医療水準ということになりましょうし、他にこれより効率よく評価の質を担保できる具体的方法は現時点で私には思いつきません。
以上、「ER」ファン(監督役者すべて好きです(笑))のぼつでおkなタワゴトでした(笑)。

医療水準として、罰則は用意されているのに、医療水準の高いとされている病院の勤務医の給与は高くないし、患者のフリーアクセスも保障されていて医療費の負担分も同じ

危ない患者、採算が取れない患者、面倒な患者が逆選択的に良い病院へ殺到する日本

高い医療水準が褒章的に違法性阻却、責任阻却する方向に向かわず、高い患者期待に応えるべきという懲罰的に向かうというのは、皮肉としか言えない

医療と裁判では、『北風と太陽』という寓話を思い出す
医師と患者では、『金のガチョウ』の寓話を思い出す

前者はハッピーエンドであるけれど、後者は貧乏人が貧乏に戻る訓話である。
さて、日本はどちらに向かうのであろう

2chで拾ってきました。

新聞報道を鵜呑みにする愚はよく知っていますが、いくら何でもあんまりかと・・・

帝王切開賠償訴訟、市に1億4300万円支払い命令
 神奈川県大和市立病院で1997年、帝王切開が遅れたため重い後遺症が残ったとして、東京都内の養護学校4年の男子児童(10)と両親が、市に介護費用や慰謝料など約1億9200万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が28日、横浜地裁であった。

 三木勇次裁判長は「(帝王切開は)遅きに失し、後遺症との因果関係が認められる」と述べ、市に約1億4300万円の支払いを命じた。

 判決によると、男児の母親(35)は97年2月24日、陣痛が起きて入院した。胎児に心拍数の低下などの異常があったことから、病院は帝王切開を決めたが、手術決定から出産まで約1時間20分かかり、男児は仮死状態で生まれて低酸素脳症となり、四肢がマヒする重度の障害が残った。

 三木裁判長は「心拍数が低下した時点で、病院は帝王切開の準備をする義務があったが、怠った。夜間、麻酔科医らが常駐しておらず、医師を呼び出すなど出産まで1時間以上かかった」と指摘した。

 大宮東生・院長は記者会見で、「可能な限り適切な処置を行っており、過失はない。後遺症との因果関係もない」と話し、市として控訴する方針を明らかにした。

(2007年2月28日23時1分 読売新聞)

 そりゃ、因果関係はあるかもしれませんが、当直医以外にも麻酔科医は365日24時間待機していろと?400床かそこらの病院でそんなことが可能だと思ってるんでしょうか。とりあえず判決原文を見たいです。

産経の報道ですが、

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070301-00000017-san-soci

だそうです。

>ちょい悪代官さん

別エントリを立てました。

> 投稿者:  生涯一小児科医

>私が研修医の頃
>小児科医として初めて看取った児はCPで12才。何もしてあげられな
>かったなあ・・・・・・。

>立ちつくし涙を止められずにいる私に母親が、私だけにその子の
>笑顔の写真をくれました。「先生はこれから何人も子どもたちを救う
>のよ」って。

m3comの掲示板に記載されていました。
すれてしまっている、僕まで、泣けてきました。

地方弁護士さん、遅レスですいません。

最高裁は『有効性と安全性が是認された治療法』の「知見」がどのように広がっていくのか具体的に説明しています。

有効性と安全性が是認された治療法は、通常、先進的研究機関を有する大学病院や専門病院、地域の基幹となる総合病院、そのほかの総合病院、小規模病院、一般開業医の診療所といった順序で普及していく。そして、知見の普及は、医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等によってされ、まず、当該疾病を専門分野とする医師に伝達され、次第に関連分野を専門とする医師に伝達される

最高裁は『有効性と安全性が是認された治療法』の「知見」は、このように普及していくと前提の上で医療水準を問題にしています。
この前提が正しいからこそ、『医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等』の段階で広められた知見の時期や諸般の事情を検討する事に意味があると最高裁は判断しています。
しかし、この前提が間違っていれば、最高裁のいうところの知見の普及の程度など諸般の事情について充分検討した所で何の意味があるのでしょうか?

『医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等』で得られた「知見」が、検証の結果、間違っていた事例は数多くあります。
サイエンス(世界で最高レベルの論文が集まるとされる)にのった韓国の研究者によるES細胞の論文が、捏造データを使っていたことが判明したスキャンダルについては、まだ記憶に新しくはありませんか?
『医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等』には、有効性と安全性についてじっさいのところ異論があるものが多いというのが現実です。

『医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等の段階で得られた知見」=「有効性と安全性が是認された治療法についての知見」
という図式は、この判決文を書いた裁判官の医学の進歩について誤った思い込みから導き出された幻想です。
その幻想を基にして、「知見の普及の程度など諸般の事情について充分検討」した所で、治療水準として確立している可能性について判断することはナンセンスだと考えます。

>オダさん

『医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等』には、有効性と安全性についてじっさいのところ異論があるものが多いというのが現実です。

恐らく、最高裁はそのようなものに関しては「有効性と安全性が是認された治療法とは言えない」と判断すると思います。つまり、未熟児網膜症の訴訟に関しては、「昭和49年時における未熟児網膜症の有効性と安全性」は争点になっていないのではないかと思います。

しまさま

知見の普及は、医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等によってされ

とありますよ。
この判決の最高裁の誤りは、「医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等」で得られる知見は、既に有効性と安全性が是認された知見であるから、「一応の統一的な指針」が出る前でも妥当な医療水準であった可能性があるとしているんです。

「医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等」で得られる知見は有効性と安全性についてじっさいのところ異論があるものが多いのだから、そのような知見で得られた治療法に有効性安全性を最高裁は認めないとしましょう。しかし、それでは「一応の統一的な指針」が出る前の「医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等によって得られる知見の普及と諸般の事情を考えれば、医療水準を満たしている可能性がある」と認定するのは矛盾していませんか?

そしてここも注目しておくところ。

昭和五七年度に厚生省研究班が再度組織され、本症の臨床経過がより明確にされた。しかし、本症に対する治療法として光凝固法が有効なものであるかについて疑問を呈する見解も存する。

つまり昭和57年においてさえ光凝固療法というのは、有効性に疑問を呈されていた事も認めてもいますよね。

つまり最高裁はしまさんのいうそのようなものに関してでも「有効性と安全性が是認された治療法の知見」と認定してるのです。
そしてそのことが、「一応の統一的な指針」が出る前でも「有効性と安全性の是認された知見を得る可能性がある」という医療水準を考える上での根拠にしているのです。

>オダさん

既に有効性と安全性が是認された知見であるから、「一応の統一的な指針」が出る前でも妥当な医療水準であった可能性があるとしているんです。

可能性があることが誤りだと言うことは、「統一的な指針がでる前では、光凝固法が妥当な医療水準である可能性はない」と、最高裁が可能性を完全否定するべきだと言う事なのでしょうか。

No.229 元行政さん
>同じ建前でも私のこの使い方は嘘というニュアンスで使っています

最高裁の判示の嘘というのは判示末尾において最高裁が「姫路日赤の医療機関としての性格、上告人aが姫路日赤の診療を受けた昭和四九年一二月中旬ないし昭和五〇年四月上旬の兵庫県及びその周辺の各種医療機関における光凝固法に関する知見の普及の程度等の諸般の事情について十分に検討する」ことを高裁に求めた部分でしょうか。最高裁は、高裁の事実認定を前提として判断しますので、この部分についての高裁の事実認定が不十分なので、高裁に差し戻したのです。
理論(規範)の定立とその適用の区別は、元行政さんとNo.214 とNo215 のやりとりで理解して頂けたと感じていただけに残念です。

No.239 オダさん
>『医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等』で得られた「知見」が、検証の結果、間違っていた事例は数多くあります。

最高裁は、新規治療法については「まず、当該疾病の専門的研究者の理論的的考案ないし試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がなされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われ、この間、その成果が各種の文献に発表され、学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性が是認され、教育や研修を通じて、右療法が各種医療機関に知見(情報)として普及して。」とした上、貴殿が援用している知見の普及の経過について言及しています。
最高裁は、有効性と安全性が是認されていることを前提に知見の普及について言及していますので、有効性や安全性が是認されていない知見を前提に最高裁の判示を批判することは的外れであると考えます。No.240 しまさんのコメント のとおりかと思います。
本件判示に対し、診療行為が行われた昭和49年12月中旬時点では知見として是認されていない(厚生省研究班が成果を発表した昭和50年3月に知見として是認された)との判断もあり得るかとは思いますが、規範の定立とそれへの具体的事実の適用は区別して考えるべき(評価すべき)であることは、本ブログで何度も申し上げているとおりです。

統計学を学んでいればわかることだし、よーく考えたら当たり前のことなんですが、「〜と言えなくはない」=「〜である」ではありません。あくまでも否定の否定です。否定の否定は肯定ではありません。書物を読んでいるとここを勘違いしている文系の方を多く見かけます(文系を批判しているわけではなく、経験が無いためにこうした考え方ができないだけだと思うのです)。患者さんでもこうした否定の否定を理解できず、説明に迷うケースも数多くあります(よくすべてを説明した上で患者さんからは「じゃあ、結論は一体なんなのかちゃんと説明してくれ」と言われますが、それ以上説明できないものはできないのです)。
医療訴訟における検察の手法もこれに似たものがあると思います。「〜の可能性が高い」=「原因は〜である」としたり、「〜の可能性がある」=「〜である」と言った断定調の文書が目立ちすぎます。しかし、科学的を学んでいると不確定性原理というか、要するに確率論でものが言えると言うことに気づきます。これが一般の人には理解しにくいのだと思います。
疑わしきは罰せず、というのは私は「確定できないこと(あるいは可能性が限りなく100%に近いもの)以外は根拠が無いのだから罰しない」と理解しているのですが、こうして考えると医療訴訟の大部分(つまり、左右取り違えとか理由が明らかである過誤とかを除くもの)は罰する根拠が低いと思います。それでも有罪になったり賠償責任が生じたりする。このあたりのアプローチが理系と文系では違うのかな、と思ったりもします。くどいようですが、決して文系の方を批判しているのではなく、科学的アプローチが違うだけなのか、あるいは相互の理解不足なのだと思います。しかし、これまでの判決を鵜呑みにしていたり、逮捕・起訴が続くようだと侵襲的な医療は全くできなくなってしまうということははっきり言えます。つまり、患者のための医療の未来を作るという前提をすると明らかに今の逮捕・起訴の大部分は間違っていると言わざるを得ない(法の原則を守るとか、現時点での患者の利益を尊重し、未来の医療はどうでも良いという前提ならかまいませんが)。やはり第三機関を作ってそこで法曹を含むいろいろな職種の人を交えてきちんと議論をして行くのが大切なのではないでしょうか?

科学的な手法、すなわち統計学や確率論は一昼一夜にして理解できるものではありません。どうやったら患者さんを含めた一般の人たちに理解してもらえるのでしょうか・・・。どなたか教えて頂けたらうれしいです。

>本件判示に対し、診療行為が行われた昭和49年12月中旬時点では
>知見とて是認されていない(厚生省研究班が成果を発表した昭和50年
>3月に知見として是認された)との判断もあり得るかとは思いますが、
>規範の定立とそれへの具体的事実の適用は区別して考えるべき(評価す
>べき)である

地方の弁護士さん,
すみませんがここのところは理解できませんので,再度ご説明願えないでしょうか?
厚生省研究班が成果を発表しても,そこからさらにその方法が本当に有効であるかどうかの確認に時間が必要です.昭和50年3月でも知見として「確立された」ものでは決してありません.従いまして昭和49年12月中旬時点では「明らかにまだ知見として是認されるものではない」のです.
どのような理屈で「是認されたと判断しうる」のでしょうか.法曹家はどうやって医師医以上に早い段階で治療の効果の是非が解るのでしょうか?

No.244 yama さん

あくまでも否定の否定です。否定の否定は肯定ではありません。

「消極的肯定」というものですかね。統計学は数学の中でも特殊な分野だと思います。数学の「主流」である、演繹的推論では「否定の否定は肯定」となります。統計学は帰納的推論ですので、「否定の否定は肯定」ではなくなる、ということでしょうか。
(間違っていたらすみません)

しかし、裁判である主張Aがあって、その反証A’があるとき、裁判官がAもA’も両方とも採らない、ということはあり得るのでしょうか。すべての論点でこれをやってしまうと、判決がでなくなる、つまり、裁判所が判断しない、ということになってしまうように思います。裁判は紛争の最終解決手段ですから、2つのうち1つは必ず選ばないといけないのですよね(このブログの議論より私の理解)。

個人的には、医療訴訟は何らかの特別な扱いが必要と思います。アメリカでも医療訴訟に限っては、賠償金の上限を設けているようですし、「医療だけ特別扱いできない」というのは実は違っていて、特別扱いすべきものなのでは、と思うのですが。

ただ国民の意識がそこまでいっていないでしょうね。アメリカでは過誤保険料の高騰がきっかけだったみたいですけど。多くの国民に分かるほどに医療崩壊しないと国民の意識が変わらない。完全にジレンマなんですよね。国民の意識に先んじて手を打つということが政府にできるものなのか...

>Level3さん

厚生省研究班が成果を発表しても,そこからさらにその方法が本当に有効であるかどうかの確認に時間が必要です.昭和50年3月でも知見として「確立された」ものでは決してありません.従いまして昭和49年12月中旬時点では「明らかにまだ知見として是認されるものではない」のです.

新しい治療法と言うのは、まず一つの病院で始まり、その方法が本当に有効であることを見極めた上で他の病院ではじめられ、その病院の周辺に広まると言う過程を経るのではないでしょうか。

だとすると、厚生省研究班の成果発表の前に、光凝固法が本当に有効だという認識を持っていた病院もあるのではないかと思います。姫路日赤が昭和49年の時点で、光凝固法についてどのような認識を持っていたかを判断するには、厚生省研究班の報告だけでは不十分であり、個別に調べる問題だと最高裁は判断したのではないでしょうか。

No.245 Level3 さん
>どのような理屈で「是認されたと判断しうる」のでしょうか.法曹家はどうやって医師以上に早い段階で治療の効果の是非が解るのでしょうか?

No.243 の最高裁の判示によれば、「裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がなされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われる」ことにより、是認されることになると判断しているようです。追試の結果はどうだったのか、治療効果が確認されたのか、副作用があるのかは、通常それを示す書証の提出を受け、見解が分かれる場合は鑑定等を実施して判断することになります。この判断方法については本ブログでも何回か語られていると思います。
もっとも、知見の「是認」というのは、それまでの判例で使われていた知見が「確立し、定着する」との概念からすると、早い段階で医療水準が成立するニュアンスを含むものであり、その意味で認定に困難を伴うことは否めませんが、本件においては当該病院において、既に発症が疑われる患者については転医の態勢が組まれていたことが、最高裁をして、公の機関が是認しなくとも、是認されることがあり得ることを踏み込んで判示せしめ、高裁に事実確認を求めるべく差し戻したものと思われます。
ただ、是認されているか否かは、規範的判断ですから、限界事例は存在するのであり、本件においては厚生省研究班が成果を発表した昭和50年3月に知見として是認されたと評価する余地もあるし、昭和50年3月には未だ是認されていないと評価する余地もあるとは思います。

しまさん

新しい治療法と言うのは、まず一つの病院で始まり、その方法が本当に有効であることを見極めた上で他の病院ではじめられ、その病院の周辺に広まると言う過程を経るのではないでしょうか。

違います。
最高裁でのこの判決からの引用です。

まず、当該疾病の専門的研究者の理論的考案ないし試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われ、この間、その成果が各種の文献に発表され、学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性が是認され、教育や研修を通じて、右治療法が各種の医療機関に知見(情報)として又は実施のための技術・設備等を伴うものとして普及していく。

基本的にはこの通りに普及していくと考えていいでしょう。
重要なのは「他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認」です。
これによって学会や研究会での議論が行なわれるのです。

本件判示に対し、診療行為が行われた昭和49年12月中旬時点では知見として是認されていない(厚生省研究班が成果を発表した昭和50年3月に知見として是認された)との判断もあり得る

本件判示に対し、診療行為が行われた昭和49年12月中旬時点では知見として是認されている/いないを問題にしていません。
最高裁の医療水準として是認するか否かを判断した「知見についての規範」を問題にしています。

・医療水準を定めるための知見は、医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマス コミによる報道等のよって得られる知見でよい。
・医療水準を定めるための知見は、新規の治療法の有効性に疑義のある段階の知見でもよい。(昭和57年においても新規の治療の有効性の疑義がある事を判決文の中で認めた上で、昭和49年度の時点で知見として是認出来る出来ないを判断出来るとしていますね)

まさに「規範の定立」が問題なんですよ。

No.249コメントの後半は、No.243の地方の弁護士 さん地方の弁護士 さんへのレスです。

>オダさん

重要なのは「他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認」です。

その何れも行われていないような治療法は「治療法」とは認められないと言うことでしょうか。


本件判示に対し、診療行為が行われた昭和49年12月中旬時点では知見として是認されている/いないを問題にしていません。

最高裁は「光凝固法が昭和49年12月中旬時点において知見として是認されていたかどうか、姫路日赤における個別の実状を検討しろ」と言う判断だと思います。

高裁差し戻しですから、この判決において最高裁は、光凝固法を行わなかった姫路日赤に責任があると判断しているわけではないと思います。

No.249 オダさん
>医療水準を定めるための知見は、医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマス コミによる報道等のよって得られる知見でよい。

最高裁は、知見の成立(是認)と普及を区別して論じています。オダさんが引用している部分は知見の普及にかかるものであり、特に違和感のある論述とはおもえません。マスコミの報道で知見が是認されることになるわけではないことは言うまてもないでしょう。

>医療水準を定めるための知見は、新規の治療法の有効性に疑義のある段階の知見でもよい。

最高裁は上記のような規範を定立はしていません。最高裁は、疑義を呈する見解も存在すると述べただけです。最高裁は、有効性が確認されることを要件としており、有効性に疑義がある場合は、その要件を欠いていることになります。有効性に疑義がある場合と有効性に疑義を呈する見解がある場合では、質的違いがあると言うべきでしょう。医療の不確実性からしても、疑義を呈する見解がなくなることは期待薄でしょう。

> 重要なのは「他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性
>(治療効果)と安全性(副作用等)の確認」です。
>
>その何れも行われていないような治療法は「治療法」とは認められない
>と言うことでしょうか。

しまさん,
「標準の治療法」とは言えない,という表現が正しいでしょうか.
患者さんには,「現在はxxという治療法が一般的だが,最近は○○という治療法がベターであると言われるようになっている.○○という方法で治療することを考えているがそれでよいか?」という説明をして行なうという辺りだと思います.
個人的な意見ですが,裁判で言う「医療水準」を言う場合「確立された治療法に止めるべき」です.そこから先は実際のところ不透明です.時には医学が発展すると,その時点での「標準的な治療法」でさえ否定されることさえあるのです.

参考になればと思い未熟児網膜症治療の歴史に関してコメントします。

未熟児網膜症には昭和40年代初頭、ステロイド、ビタミンEなどの薬物治療が試行されましたが何れも無効。その中で光凝固(昭和42年学会初報告)に有用性があるとして小児眼科を専門とする施設で同治療の試行・追試がされていました。
昭和49年に岐阜地裁にて高山日赤症例(S44生)に対して適切な時期に対診・転医させなかったとして原告勝訴・病院敗訴の判決が下されました。同年厚生省研究班結成、昭和50月8月雑誌 日本の眼科46巻8号(日本眼科医会に入っていたら郵送されてくる雑誌)に厚生省研究班報告が掲載されました。これはそれまでの治療症例をレトロスペクティブに集めてその当時での診療治療指針を示したもので、コントロールスタディ(前向きな比較臨床試験)を試行検討し光凝固の有効性を立証したのもではありません。
昭和57年に追加報告がされていますが、一部に況拭雰狆彪拭砲箸い治療に抵抗する症例の存在の確認、治療に反応する儀燭盞覿匹麓然治癒する症例に対して光凝固は単に病像を早期に沈静化させるだけではないかとの疑義が一部に出されていました。

 ちなみに昭和40−50年代の本邦での未熟児網膜症に対する光凝固・冷凍凝固治療業績は欧米にも報告されましたがコントロールスタディではないため認められませんでした。米国では1988年(昭和63年)に初めて冷凍凝固治療(光凝固と同様の作用機序をもつ治療法)のコントロールスタディで有為差が出たため、光凝固(冷凍凝固)の有用性が確立されたという経緯があります。

No.168 峰村健司 さん、No.169 つくねさん
ご紹介頂いた「医療崩壊」の本を読んで見ました。皆さんが概ね平成7年6月9日最高裁判決に否定的評価をしている理由が分かりました。
まず、この本の26頁では平成7年判決は「医療水準に対する考え方に変更を加え、医療水準をむしろ積極的に医療機関の責任を基礎付ける方向で用いる考え方を示した。」と位置付けていますが、水準なる概念は、その水準を下回れば責任を基礎付けるし、上回れば責任がないという帰結を含むものであり、正当な評価とは思えません。
もっとも、No.248 で指摘したように、平成7年判決の言う、知見の「是認」というのは、それまでの判例で使われていた知見が「確立し、定着する」との概念からすると、早い段階で医療水準が成立するニュアンスを含むものであり、その点、過失が認定され易くなったことは否めませんが、新規治療法を患者に広く提供せしめようとする価値判断があったものと推測されます。当時、未熟児網膜症に関し約100件の訴訟が係属したようです。
次に、「当該基準ないし治療基準が確立された情報に限らず、多少の異論があってもかまわないという。」との記載が、No.249 オダさんの「医療水準を定めるための知見は、新規の治療法の有効性に疑義のある段階の知見でもよい。」との誤解を生んだようですが、
No.252 で述べたとおり、知見としては有効性安全性等が確認されていることが必要であり、適切な記載とは思えません。
また、平成7年判決が「知見の普及は、…、その伝達に要する時間は比較的短い。」
と述べているのを受けて、「この最高裁の判断は医学の進歩の過程を誤解している。」と批判してますが、知見の成立と普及にかかる判示を区別することなく読み取り、批判しているものと言わざるを得ません。
すなわち、平成7年判決も新規の治療法の知見の成立過程について、No.249 オダさんが援用するような判示をした上、「疾病の重大性の程度、新規の治療法の効果の程度等の要因により、右各段階進行速度には相当程度の差異が生ずることがある」ことを認めています。また、上記判示の内「伝達に要する時間は比較的短い。」との記述は、知見(情報)の普及と実施のための技術の普及を区別し、知見の普及に要する時間は比較的短いが、実施のための技術の普及のためには技術の習得や物的設備を要することから、時間を要し、その間にタイムラグが発生することを判示したものであり、比較的短いとの記載から、最高裁が新規治療法が比較的短い期間で成立すると理解しているとして、批判するのは、誤りと思います。
この本の記載がベースになって、医療から司法に対する批判がなされている懸念を強く感じますが、最高裁の考え方については、法曹会から担当調査官の執筆による最高裁判所判例解説(平成7年度下)にて、詳しく解説されていますので、読んで頂ければ幸いです。

>地方の弁護士さん

本旨に関しては、わかったような、わからないような、という私の理解です。患者が医師の説明に対して抱く印象でしょか。(正確な表現と平易な表現は、しばしば両立困難ということは患者相手の説明で十分承知しています)

>この本の記載がベースになって、医療から司法に対する批判がなされている懸念を強く感じますが、

これは違いますよ。かなり以前から医師達が司法に対して考えていたことを、上手にまとめ上げた本ということで医師側が非医療者に推薦しているので、ベースというより整理された医師達の意見でしょうかね。

>地方の弁護士さん
わざわざお取り寄せまでして頂いた様で、ありがとうございます。
僭越ながら、地方の弁護士さまが医療者側の感覚を理解されるのに少しでもお役にたてば紹介させていただいた当方としても嬉しい限りです。

さて、私も元ライダーさんと同じく、地方の弁護士さんの発言の全ての趣旨を理解するのにはもう少し時間がかかりそうなのですが…一点のみ気になるところがありましたので、先にご指摘させていただきます。

・・・過失が認定され易くなったことは否めませんが、新規治療法を患者に広く提供せしめようとする価値判断があったものと推測されます。当時、未熟児網膜症に関し約100件の訴訟が係属したようです。

の部分に関し、最高裁が本当に「新規治療法を患者に広く提供せしめようとする」目的でこの判決を出したとすれば、その目的を達成する為の手段としては完全に間違っているとしかいいようがありません。

そこには「訴訟リスク」という概念が完全に抜け落ちています。医師に限らず、非法律関係者は概ね「裁判には出来る限り関わりたくない」と考えています。「未熟児網膜症に関し約100件の訴訟が係属」するような状況になれば、当然「未熟児網膜症」は関わると高率で裁判になる「危険な病気」と医療者に認識され、その診療自体に関わりたくないという意識が働きます。そうなってしまえば「新規治療法を患者に広く提供」もなにもあったものではありません。

これは現在産科領域で起こっていることと同じだと思います。

No.257 つくねさん
>最高裁が本当に「新規治療法を患者に広く提供せしめようとする」目的でこの判決を出したとすれば、その目的を達成する為の手段としては完全に間違っているとしかいいようがありません。

最高裁の判断を批判するとしたら、医療水準を考えるについて、有効性と安全性が確認されたことをもって「是認」せられたと考えるか、確認されその知見が「確立され定着」したことまで要するのかのレベルで検討すべきと考えます。
少なくとも「定着」との言葉は、広く技術が習得され、それに対応する物理的施設が整った段階をイメージさせますが、最高裁の判示は、知見の「是認」と「普及」を峻別し、知見が是認せられば足り、普及による確立ないし定着することは不要であるとしたところに核心があります。
私見ですが、新治療法の有効性と安全性の確認を超える確立に意味があるのかということです。確立していることは、是認せられていることを示す根拠とはなりますが、要は有効性等が医学的に確認さえされていれば、確立していることまで要する医学的根拠はないのではないでしょうか。このレベルでの議論ないし反論を頂きたいと考えます。
本件の治療法は昭和42年秋に学会に発表されたとあり、昭和49年には被告関連病院でその有効性を認め転医システムを取っていたとあります。被告として自らは行わないにしても、有効性等につき知見としては是認していたのであり、患者がこの新規治療法を受けることを期待するのは法的保護に値するのではないでしょうか。新規治療法として有効性等が確認された以上、少なくとも患者救済の観点から最高裁が上記のような判断をしたと私は推測しているということです。
訴訟リスクを考えていないとの批判ですが、司法的感度では、裁判所による規範が定立されれば、それに従った当事者間の解決がなされるので、訴訟は減少し、訴訟リスクは低下すると考えるのが一般です。本判決後は未熟児網膜症に関する訴訟は著しく減少したはずです。訴訟リスクというのは裁判所の判断が読めないから生ずるものであり、裁判所の判断が数多く出され、事案に則した規範が数多く定立されることにより、解決されるべき問題です。訴訟リスクを招くから、判断を回避せよとの理論にはなりません。要は判断内容です。判断内容に踏み込んだ批判こそがなされるべきです。

地方の弁護士さん

昭和50年3月には未だ是認されていないと評価する余地もある

用語の定義から確認させていただきます。

まず、当該疾病の専門的研究者の理論的的考案ないし試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がなされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われ、この間、その成果が各種の文献に発表され、学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性が是認され、教育や研修を通じて、右療法が各種医療機関に知見(情報)として普及して。

「一応の統一的な指針」という用語が上記のどの段階に位置するのかの確認です。
「試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がなされ」、これから次の段階へすすむ上で「比較対照実験をきちんと評価するための指針」として「一応の統一的な指針」が創られるものです。
だから『一応の』という言葉がつくのです。
「一応の統一的な指針」という用語が使われた時点で、学問的には「裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がなされ」という段階に過ぎない事を示しているのです。
「一応の統一的な指針」について安全性と有効性が是認されたか否かを議論するというのは、この用語の定義について間違った認識をしております。
用語の定義として「これから安全性と有効性を評価していくための指針」なのです。

しかるに、この判決文では「一応の統一的な指針」が出ている時期をすでに安全性と有効性が是認されている事を前提に書かれていると思いますが、如何がでしょうか。

ああ、ここまで書いて気がつきました。
「一応の統一的な指針」の言葉が定義するところを誤解しているから、この判決文の中で自らの定めた規範に矛盾するような結論を最高裁は平気で書けるという事になるのですね。

しかし、この判決って「一応の統一的な指針が出る前でも、知見の普及や諸般の事情から医療水準を決められる」って規範として扱われるようになってしまった気が。

No.258 地方の弁護士 さん

本件の治療法は昭和42年秋に学会に発表されたとあり、昭和49年には被告関連病院でその有効性を認め転医システムを取っていたとあります。被告として自らは行わないにしても、有効性等につき知見としては是認していたのであり

事実を誤認していますよ。
No.224 元行政 さんのコメント | 2007年02月26日 21:09 | CID 41253 |を以下にもう一度引用します。

日赤が整えていたのは、網膜症が起こってしまった場合に対する体制です(なったら焼く)。新しい治療法は、網膜症がおこる可能性が高い未熟な網膜に対するものです(なる前に焼く)。

No.260 オダさん

>日赤が整えていたのは、網膜症が起こってしまった場合に対する体制です(なったら焼く)。新しい治療法は、網膜症がおこる可能性が高い未熟な網膜に対するものです(なる前に焼く)。

未熟児網膜症の光凝固適応は通常の儀燭任聾生省分類3期中期で、劇症況燭任録巴任つき次第で、(なる前に焼く)という概念はありません。多分述べられている「新しい治療法」とは血管新生増殖組織などの眼底病変が乏しくても凝固する況燭紡个靴討里海箸隼廚い泙垢この場合も網膜症は発症していると考えます。施設としてはどちらにも対応する必要があります。


No.258 地方の弁護士さん

>本件の治療法は昭和42年秋に学会に発表されたとあり、昭和49年には被告関連病院でその有効性を認め転医システムを取っていたとあります。被告として自らは行わないにしても、有効性等につき知見としては是認していたのであり、、、

 推測ですが多分姫路日赤の眼科医師も同年3月に同じ日赤系列(高山日赤)で病院敗訴の判決があったわけですから、「網膜症が進行すれば光凝固を考慮・紹介転医する」位の知識はあったと思います。ただ後知恵ですが結果からみてその適切な時期を認識・診断できていたかは?です。
生後2w後の12月27日の初診時には修正週数33週(おなかの中にいたら何週か?)で、網膜症は無いかあっても軽度とで治療対象にはならないでしょう(網膜症が治療対象まで進行するのは通常もう数週あとです)。
 ここで年末年始後の再診の必要性を認めながら何らか理由でなされなかったのならそれなり責任はあると思います。ただ、その時点で経過観察の必要なしあるいは3ヵ月後と診断したのならこれまで何回もコメントされていますが厚生省研究班報告の出る前でもあり、最高裁判決時点で事後20年後にそこまで医療水準を上げて要求するのは少々厳しすぎるのではないでしょうか?

No.259 オダさん
私は、「一応の統一的な指針」という用語の意味ないし使われる場面の理解がありません。この点をご教示いただければ幸いです。

No.260 オダさん
>事実を誤認していますよ。

私は、最高裁が「小児科医のc医師が中心になり本症の発見と治療を意識して小児科と眼科とが連携する体制をとり、眼底検査は、小児科医が患児の全身状態から眼科検診に耐え得ると判断した時期に眼科のd医師に依頼して行い、次回の検診時期は同医師が指示することとし、眼底検査の結果本症の発生が疑われる場合には、光凝固法を実施することのできる兵庫県立こども病院に転医をさせることにしていた。」と述べた部分を、私なりに理解し、「被告として自らは行わないにしても、有効性等につき知見としては是認していたのであり」と述べたものですが、兵庫県立こども病院で実施されていたのは、新治療法と理解するのは誤りなのでしょうか。
もし、従前からある治療法と言うのであれば、転医させなかった過失はより大きくなるかと思いますが如何でしょうか。

安全性や有効性が是認されていないから、「統一的な指針」に「一応の」なんてつけているんですよ。
安全性や有効性がすでに是認されているのなら、単に「統一的な指針」とか「ガイドライン」とすればいいのです。
では「一応の統一的な指針」などというものは、どういう時に創られるのか。
どのように新しい治療法が確立していくのかもう一度具体的に検証を。

最高裁のいうところの「当該疾病の専門的研究者の理論的的考案ないし試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験」が行なわれます。
これはまず当該疾病の専門的研究者による狭い範囲による実験となります。
次に有効性が本当にあるのか、そして安全性は大丈夫なのかより当初の臨床実験より規模を大きくしての臨床実験が行なわれます。
これは複数の施設によって行なわれる事になります。
施設間によって治療のやり方、対象となる患者のレベルが違ってしまうとせっかくのデータも役に立ちません。

そこで必要になるのが「一応の統一的な指針」です。
(本当は、プロスペクティブにデータを集めない事には、医学的に安全性と有効性があるというデータを得る事ができないので、昭和50年の「一応の統一的な指針」にはプロスペクティブにデータを集めれるような方向性が必要だったと思います)

ここでようやく「他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われ」というところに進む事が出来るのです。

これによって得られたデータで「学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性」を議論する事が出来るのです。昭和57年の治療の有効性に疑義が出たのはまだその途中報告の段階です。

50年代にはいって本邦での未熟児網膜症に対する光凝固・冷凍凝固治療業績は有効性があるという結論が論文ででていますが、これは世界的にはプロセペクティブにデータを集めるコントロール・スタディが行なわれていないため、トンデモ療法の疑いがあるという扱いを受けています。
世界的にも有効性・安全性が確認されたのは、No.254 で元NICU担当眼科医 さんが指摘されておられる通り、昭和63年に初めて冷凍凝固治療(光凝固と同様の作用機序をもつ治療法)のコントロールスタディで有為差が米国で出たあとです。
ここまできてようやく「学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性が是認され」たのです。

「一応の統一的な指針」という言葉の定義についての誤った認識と、昭和57年の厚生省研究班の途中報告の疑義があることを認めていながら、その意味をやはり誤解しているため、自らの定めた規範に反する形の結論を判決に書いてしまった。
というのが現在の自分がこの最高裁のこの判決についての解釈です。

No.261 元NICU担当眼科医さん

横レス失礼します。
お疲れ様です。私も以前NICUをちょっと見ましたが、NICU担当は緊張しますよね。
ごく最近の「日本の眼科」と日眼会誌に、未熟児網膜症II型(劇症型)に対する硝子体手術の有効性についての(と言うか非常に有効であるという)論文がありましたね。一生の視力を大きく左右するとは言え、生命には直接関係がない眼科治療を、未熟児に全身麻酔かけてせねばならない… ランダム化比較試験でもなかったと思いますが、これを司法はどう扱っていくでしょうか。

今、こちらのブログの医療エントリーとそのコメントを再読しはじめたのですが、あまりの量に改めて驚いております。(そして、ぐるぐる繰り返す議論にも…(笑))

このエントリも満杯になってきました。

>元NICU担当眼科医さん

ただ、その時点で経過観察の必要なしあるいは3ヵ月後と診断したのならこれまで何回もコメントされていますが厚生省研究班報告の出る前でもあり、最高裁判決時点で事後20年後にそこまで医療水準を上げて要求するのは少々厳しすぎるのではないでしょうか?

最高裁は、本判決では病院に対して何も要求していないと思います。光凝固法を用いなかった病院の責任を問うているわけではなく、高裁に対して「姫路日赤の診療を受けた昭和四九年一二月中旬ないし昭和五〇年四月上旬の兵庫県及びその周辺の各種医療機関における光凝固法に関する知見の普及の程度等の諸般の事情」を踏まえた上で、もう一度検討し直せと要求しているのだと思います。

諸般の事情を踏まえて、高裁が「病院側には光凝固法を実施しない事情がある」と判断するもよし、高裁が「病院側には光凝固法を実施しない特段の事情はなかった」と判断するもよしと言っているのではないでしょうか。


ただ後知恵ですが結果からみてその適切な時期を認識・診断できていたかは?です。

この判決は、その観点から論じられるべきだと思うのですが、なぜ高裁が「医療水準」にこだわった判決をしたのかが分かりません。高裁の判決文も読んでみたいところですね。

No.258 地方の弁護士さん

最高裁の判断を批判するとしたら、医療水準を考えるについて、有効性と安全性が確認されたことをもって「是認」せられたと考えるか、確認されその知見が「確立され定着」したことまで要するのかのレベルで検討すべきと考えます。

判断の内容を批判するつもりはないのですが(そもそも私には最高裁判決を批判できるだけの十分な法的知識がありませんので)もし地方の弁護士さんが言われるように、その判決が「新規治療法を患者に広く提供せしめようとする」目的でなされたのだとしたら、現場レベルにおいてはその目的は果たせていないのではないか、ということを伝えたかっただけです。
 
要は有効性等が医学的に確認さえされていれば、確立していることまで要する医学的根拠はないのではないでしょうか。このレベルでの議論ないし反論を頂きたいと考えます。

うーん、自信が無いのでもっと頭脳明晰な方の援護を待ちたいというのが正直なところですが・・・

話題のタミフルの例を挙げさせていただきます。タミフルは一旦有効性と安全性が「確認」され、日本中の医療機関で処方され何千万人という患者が服用する段階まで「確立」したにも関わらず、その安全性が絶対のものではないのではないかと嫌疑をかけられています。しかしながら騒動の後も全国の医療機関でタミフルの処方は続けられています。つまり、今後は「確立」した状態を保ちながら再度「確認」の段階に戻るのだと思います。

同様に、医療の知見というのは発生→確認→確立と一方通行に進行するのではなく、確認され確立したと思ったら確認の信憑性が覆り、確立されたまま再確認する必要が生じたり、再確認したらやっぱり最初の確認が正しいことがわかってそのまま確立したり、最初の確認が誤っていたことがわかって確立が終焉したり、確立が一旦終焉したものの年月が経ってから改めて「あれは良く効く薬だった」と誰かが言い出して再々確認が行なわれて再確立したり、と色々な事がおこる訳です。

そうした医療行為の本質を前提として考えると、地方の弁護士さんの求める論点である「医療水準を知見の発生→確認→確立のどの段階におくべきか」という議論そのものが医療者側にとって実態のない、雲をつかむような話としてしかとらえられない事も(失礼ながら、少なくとも私はそういう印象を持っています)ご理解頂けるのではないかと思いますが、如何でしょうか。
 

司法的感度では、裁判所による規範が定立されれば、それに従った当事者間の解決がなされるので、訴訟は減少し、訴訟リスクは低下すると考えるのが一般です。
訴訟リスクというのは裁判所の判断が読めないから生ずるものであり、裁判所の判断が数多く出され、事案に則した規範が数多く定立されることにより、解決されるべき問題です。

目からウロコです。なるほど、司法に携わる方はその様に考える訳ですね。確かに説得力があります。

医療側からの意見としては、現実問題として、個々の裁判は医療に相応のダメージを与えます。裁判の当事者である医療者はその間は通常通りに仕事はできませんし(たかが当事者のみと思われるかもしれませんが、現在多くの地域医療は「ひとり医長」によって支えられていますので、これは現場に非常に大きな影響を及ぼします。)、裁判の争点となっている医療行為を行なう他の医師も、裁判の行方如何では自らが日常行なっている業務が過失と認定されるかもしれないのですからどうしても慎重になり、業務効率の低下や業務の縮小を来たします。また、もし過失が認定されれば、世はJBMの時代ですので、今後類似の医療行為を行なうことに対する負担は桁外れに大きくなります。その点はご理解いただけるでしょうか。

「裁判によらず当事者間で解決出来ること」が理想であり、訴訟リスクを回避する意味で医療者側にとっても利益が大きいことには同意いたします。しかしながら、世の中には無数の病気があり、それぞれに対し更に多くの検査・治療法が存在します。それら全てについて「裁判所の判断が数多く出され、事案に則した規範が数多く定立される」事に伴うダメージに耐えられるほど日本の医療は強くはありません、その前に力尽きてしまいます。たとえ医療紛争が当事者同士で解決できる地盤が出来たとしても、肝心の医療行為が既に行われなくなってしまっていては本末転倒ですので、そこが問題なのだと思います。
 

訴訟リスクを招くから、判断を回避せよとの理論にはなりません。要は判断内容です。判断内容に踏み込んだ批判こそがなされるべきです。

多少批判めいたことを言わせていただきます。
法律の素人である医療者が、自らの業務に大きく影響を与える医療訴訟の判決について、専門家の方に解説を受け、疑問をぶつけ、時に批判を聞いていただく場はとても有意義であり貴重なものだということは理解いたします。
しかしながら、ここは「医療訴訟における裁判所の判断内容について考え、語るエントリ」ではなく「医療崩壊について考え、語るエントリ」ですので、法曹の方にも、医療者側のおかれている立場にご理解を頂き、医療が刻々と崩壊している現状を踏まえた上で、上記の様な視点も含めてのご意見をいただければと思います。

>つくねさん
タミフルを投与するかしないかは、その当時の医師の認識に基づいて決めるわけですよね。最高裁はまさに「当時の医師の認識」に基づいて医療水準を判断せよと言っているのではないでしょうか。

光凝固法に関して言えば、昭和49年の時点で姫路日赤や周辺の病院で「未熟児網膜症患者に対しては光凝固法を実施するべきだ」と言う考え方が一般的なものであれば、「なぜ姫路日赤はこの患者に対して光凝固法を施さなかったのか」という疑問が出てくるのは、当然ではないでしょうか。

>No.267 しまさん
再掲になりますが、No.266は地方の弁護士さんの

>要は(医療水準を設定するにあたり)有効性等が医学的に確認さえされていれば、確立していることまで要する医学的根拠はないのではないでしょうか。このレベルでの議論ないし反論を頂きたいと考えます。(No.258)

に対する私の意見です。個別の事象というより、総論的な「医療水準」の捕らえ方について述べさせていただきました。

要約すれば

地方の弁護士さんは(確認「さえ」されていれば、や、確立していること「まで」要する、と言われている事から察するに)医療の知見というのは発生→確認→確立という段階を経るものだと考えられており、その上で医療水準を「確認」の段階に置くべきか「確立」の段階におくべきかという議論をしたいのだと理解しました。
しかしながら、現実はそうではありません「確立」しているにも関わらず「確認」が済んでいないこともあるのです。(タミフルの例)
ですから、そもそも地方の弁護士さんの求める議論は、その前提が誤っているのではないでしょうか。

という疑問です。なんだかずるがしこい感じであまり好きな文章ではないのですが・・・

> つくねさん
地方の弁護士さんが言っていることを私なりに解釈すると、以下のようになります。

例えば、タミフルを「再確認」して、タミフルの有効性を否定した医療機関があったとします。この「有効性の否定」が正しいとして、医療界の中で確立するまでには時間がかかるかと思います。

さて、この医療機関は自ら再確認した情報を元にしてタミフルの投与を中止するべきなのでしょうか。それとも、未確立な故にタミフルの投与を継続するべきなのでしょうか。このような場合、医師としてはどのようにお考えになるのでしょうか。

>さて、この医療機関は自ら再確認した情報を元にしてタミフルの投与を
>中止するべきなのでしょうか。それとも、未確立な故にタミフルの投与
>を継続するべきなのでしょうか。このような場合、医師としてはどのよ
>うにお考えになるのでしょうか。

横レスになりますが,
私であれば投与します.自分にも,家族にも使用すると思います.原時点では明らかにタミフルには抗インフルエンザビールスの効果があり,一方で副作用の精神症状(?)に関してはタミフルの服用の有無でその発生頻度には差がないという報告があるからです.リスクとベネフィットの天秤では現在のところベネフィットの方が大きいと判断します.
他のみなさんがどう考えられるかは不明ですが...

>No.269 しまさん
確認したのが自らの医療機関であっても、他の医療機関であっても、直ちに中止するしかないでしょう。
少なくとも現在の医療訴訟では「確認」された時点で「医療水準」となることが最高裁判決で決まっておりますので、それを無視して投与を続ければ、それは医療水準以下の医療行為とみなされ、過失になってしまいます。(患者が飛び降りれば業務上過失致死ですね)
老婆心ながら、Level3さん、ご注意ください(笑)

現在日本中で行なわれているタミフルの投与が、誰かが「タミフルやっぱヤバイで」と言った瞬間に過失になるんです、恐ろしいですね。くれぐれも情報には注意しないと・・・。

特別法を作って、「医療行為に関しては民事・刑事とも悪意・重過失を除き免責、過失により発生した患者の損害については強制保険の保険金で補償」とすれば良いのでは?

>No.272 会計士Xさん
その点についてはまずは産科の無過失補償制度導入に関連した議論の流れを参照されるのがよろしいかと。医療側からも患者側からも極めて評判が悪い話ですがモデルケースとしては適当に思えます。

No.264 峰村健司 さん 

返横レス失礼します。
>ごく最近の「日本の眼科」と日眼会誌に、未熟児網膜症II型(劇症型)に対する硝子体手術の有効性についての(と言うか非常に有効であるという)論文がありましたね、、、これを司法はどう扱っていくでしょうか。

ありがとうございます。多分、眼科学会も眼科医会も30年前の光凝固のトラウマがあるので会員全員に知らせたという形を取りたかったのだと思います.
でもこんなスーパーopを執刀できる(しようとする)眼科医は日本に3人程度、いつでも受け入れられる施設は1つだけ思いますが、各地のNICUで光凝固が無効だった場合しかるべく時期に転医させることが医療水準になるのでしょうか?つくづく今NICUから離れていて良かった思います。まあ、今はまだ一知見なのでしょうが、、、
先生もまたNICU担当になったら用心して診療され、況燭冒遇しないことを心からお祈り申し上げます。

No.265 しまさん
>諸般の事情を踏まえて、高裁が「病院側には光凝固法を実施しない事情がある」と判断するもよし、高裁が「病院側には光凝固法を実施しない特段の事情はなかった」と判断するもよしと言っているのではないでしょうか。

確かにそうなのでしょうね、この事例は
1)厚生省研究会報告の出る直前で
2)日赤という地域の未熟児医療の中心となる施設で発生し
3)別の日赤で病院有責となった事例が同年3月にあり、それなりの診療体制を有しているはずである(ねばならない)。
4)その後の病状経過より入院中に診療・光凝固を受けていれば視機能を維持できていた可能性が十分ある

など、心象形成が患者側に傾いていたと思います。
しかし最高裁判決時点で事後20年経っています。それから中立的に当時の事情を検証するなど不可能ではないでしょうか?理由は以下に書きます。

それは小生には、No.266 つくねさんの 
>同様に、医療の知見というのは発生→確認→確立と一方通行に進行するのではなく、、、、と色々な事がおこる訳です
がスッキリと心に来るからです。繰り返しになりますが、

No.245 Level3 さん、No.254小生、No.263 オダさんで指摘されているように昭和50年の厚生省研究班報告はそれまでの症例を短期間に集積解析したものです。前年の高山日赤地裁判決で混乱した眼科診療現場を沈静化するため、良く言えば卓越した臨床洞察力、悪く言えば経験と勘で眼科学会がエイヤッーとひねり出したその時点の診療指針です。EBMとしては低いレベルでその後の日本の治療成績も欧米では全く無視されました(前向きな比較臨床試験は訴訟の懸念のためできなかった思います)。
 結局、未熟児網膜症の光凝固(冷凍凝固)が知見として確立したのははるかに遅れてNo.254小生、No.263 オダさんが指摘するように当初本邦の成績を否定していた米国での昭和63年(1988年)の報告なのです。

 ただ、結果的にこの昭和50年厚生省研究班報告の治療指針は眼科の諸先輩の凄さというか今でもそのまま通用する代物なのです。むしろ医療の世界では何十年もそのまま通用する代物(治療指針)の方が少ないと思いますが皆さん如何でしょうか?

そして本来、
>同様に、医療の知見というのは発生→確認→確立と一方通行に進行するのではなく、、、、と色々な事がおこる訳です、、、
のはずの、医療の知見が未熟児網膜症の光凝固では時間はかかったものの後戻りせずにそのまま確立しました。

そして20-30年もたってしまうとこの厚生省研究班報告の治療指針が判例も含めて当初より短時間で知見として確立したように認識されていると小生には思えてならないのです。

No.261 元NICU担当眼科医さん

訂正ありがとうございました。

お騒がせして申し訳ありません>all
しかしながら、趣旨は変わらないので、修正してコメントしたいと思います。>No.223 しまさん、No.262 地方の弁護士さん、No.267 しまさん

  (三) この間、上告人aは、昭和四九年一二月二七日、姫路日赤の眼科のd医師による眼底検査を受けたが、同医師は、上告人aの眼底に格別の変化がなく次回検診の必要なしと診断した。その後、昭和五〇年二月二一日の退院時まで眼底検査は全く実施されなかった。
  (四) 上告人aは、退院後の同年三月二八日、d医師による眼底検査を受け、異常なしと診断されたが、同年四月九日、同医師により眼底に異常の疑いありと診断され、同月一六日、c医師に紹介されて、兵庫県立こども病院の眼科において診察を受けたところ、既に両眼とも未熟児網膜症瘢痕期三度

以上のように判決文はあります。ということは、争点は今のように頻回に検査すべきかどうか、又はどんな所見で施行するかであって、しなかったこと自体は本来の争点ではないと思われます。
検査の間隔等が以前と違うことも新規治療法の範疇ですが、この時点でのプロトコールや治療の基準は、するべきかどうかすら妥当性をもっていなかったことを考えれば、議論するまでのことでもないはずなのです。
それから医師が確立前の新規の治療をおこなう時は、そうすべきであるというほどの認識を持ってやっているとは言えませんし、言うべきでもないと思います。多分に実験的な感覚でやっていますし、それは許されなければいけないことだと思います。

No.243 地方の弁護士さん

噛み合っていないみたいですが、もう少しお付き合いください。

高裁が厚生省でOKと言っていることに対し、
A:最高裁=厚生省の発表以前とすべき
B:最高裁=周囲の同等機関を参考にすべき
C:最高裁=周囲の同等機関を参考にすべきなのにやっていなから十分でない
D:最高裁=形式的に高裁は十分でない

Aは適用の問題で、Bは規範の定立ですよね。実際の表現はCのようになっているわけですが、これが意味することが、DでなくてBであることは動かしがたい事実だと思います。Bを本音。Dを建前と言っているだけです。最高裁の本音にAがあることも容易に予想できますが、これは適用の問題ということで言うべきでないということは理解させていただきました。(もっとも各論で間違えていて規範が定立するか甚だ疑問ではあります)

当所では医療と司法が入り乱れての有意義な議論が交わされておりますが、日医はせっかくこういう機会があるのですからもう少し内容を考えて欲しいと思います。記事からすると官僚の自己弁護の作文でも眺めているような気がしてなりません。

法科大学院生が日医で研修
http://www.med.or.jp/nichinews/n190305p.html
 大東文化大学法科大学院の大学院生八名が,二月十五日,弁護士で元日医総研客員研究員の太田雅幸氏とともに日医会館を訪れ,平成十八年度エクスターンシップ(実務研修教育)の一環として医師会研修を行った.
 医師会研修は,将来,医事法務を担う専門法律家を志向し,司法試験合格のための法律科目の教育に加え,“医事法・医事法総合”という市民生活に直結する法学分野の教育を受講している院生たちからの研修の申し入れに応じて行われているもので,今年度が三回目の開催となる.
 当日は,まず,羽生田俊常任理事が,日医のパンフレットを用いながら,「日医の歴史と組織」および「日医の役割」について解説を行った.
 そのなかでは,日医が,(一)医療政策会議,(二)生命倫理懇談会,(三)学術推進会議―の三大会議をはじめ,四十八にも及ぶ会内委員会を設置し,医療にかかる種々の問題等について検討を行っていることなどを説明した.
 つづいて,竹嶋康弘副会長は,日本の医療政策・医療制度の問題点を,日医総研が行っている研究等を紹介しながら解説した.
 竹嶋副会長は,日本の医療保険制度の特徴は,(一)国民皆保険制度,(二)現物給付方式,(三)フリーアクセス―にあり,その堅持が重要であると説明.そのうえで,「日本の保健・医療は,先進七カ国中,GDP比で最も安い医療費であるにもかかわらず,WHO『World Health Report』で高い評価を受けている.高齢社会の急速な進展と医療の質の向上を求めていくなかで,医療財源の確保が必要である.日本の優れた国民皆保険制度を崩壊させてはならない」と強調した.
 質疑応答では,医師会への加入に関する問題から,医療の地域間格差への対策,医師不足の問題まで,幅広い質問が出され,個々の質問に両役員が詳細に回答した.

>No.273 老人の医者さん

そのログについては拝見しましたが、

・訴訟を禁ずることは難しい
・過失の基準は恣意的に変更できない

ということを論じているだけであって、過失が認定された場合の医師の賠償額や量刑について特例を設けることについて論じているものではないと受け取りました。
医師の賠償責任・刑事責任を悪意重過失に限定することは、医療事故にあった患者の訴訟件を制限するものではないし、過失認定の基準を変更するものでもありません。ただ政策的に医師を保護するだけのことです。一定額の補償を受け取り、なおかつ軽過失の医師に対して、実力行使に及ぼうという人が出る可能性はきわめて少ないと思います。

>No.279 会計士X さん

>医師の賠償責任・刑事責任を悪意重過失に限定すること

そのログでの議論だったかどうかはわかりませんが、上記の案に対して、弁護士サイドからでた法律上の問題点は、

 重過失と軽過失の区別は、明確ではなく、結局、裁判所が判断せざるをえなくなる。
 人体の損傷に対する損害に対する制限は、憲法上認められるかどうか疑問

等だったと思います。

> 医師の賠償責任・刑事責任を悪意重過失に限定することは、医療事故にあった患者の訴訟件を制限するものではないし、過失認定の基準を変更するものでもありません。(No.279 会計士X さま)

法解釈に誤解があると思います。
刑事の起訴権限は原則的に国家権力の一翼を担う検察官が独占していますから、「患者の」訴訟権ということは考えられないので、一応置きます。

民事の損害賠償責任の話。
法的権利を行使するためには、実体的な権利が法律によって保障されていること(民法)と、手続的に権利行使の手段が与えられていること(民事訴訟法、民事執行法)の二面が必要です。
「訴訟権を制限する」とは、通常は手続法的効果として、裁判に訴えることを禁止する→調停なり別の方法で紛争解決せよ という意味に解されますが、この手続的な権利を制限しなくても、そもそも実体的な権利を奪ってしまえば、いくら訴訟を提起しようと敗訴確実であり、権利行使ができないのは当然です。
「医療過誤の軽過失については、損害賠償責任を認めない」という立法をすることは、手続的権利を制限はしませんが、実体的な請求権を制限しようとするものであり、権利制限が無いどころか、究極的な権利制限に当たります。

刑事事件における患者の権利は強いて言えば「告訴権」ということになるかと思いますが、
そもそも実体的に軽過失行為は犯罪でないと規定するならば、当然、告訴しても不起訴処分「罪とならず」になります。

---
> 過失認定の基準を変更するものでもありません

過失認定の基準を変更し、相当に落ち度が甚だしい場合だけを「過失」と称するならば、実質的には軽過失を免責するに等しく、裏口的な免責制度であるといえましょう。
つまり、軽過失・重過失といっても、結局のところ、どこで線を引くかというだけの違いで、裁判所のさじ加減によって甘くも辛くもなりうるから、あまり効果は期待できないというのが、
No.280 L.A.LAW さまの要点です。

このように、「軽過失免責制度」に対しては、法曹はおおむね懐疑的です。理念的に患者の権利を一方的に制限することは問題があるし、その効果のほども疑問。
国民の大多数を占める非医療者の理解を得て国会を通過するとは思えません。

----
犯罪成立論(刑事)、不法行為論(民事)の理論面の検討については、このエントリをご参考に。
●「藤山雅行裁判長のお話」について(その2)
http://www.yabelab.net/blog/medical/2007/01/17-231713.php

軽過失と重過失の区分に関する私の意見は、
コメントNo.55、58、100、107、136あたり。

No.280 L.A.LAW さん
No.281 YUNYUN さん

コメントありがとうございます。
YUNYUNさんには以前にまったく同じような指摘を受けた記憶があり、進歩がなくて申し訳ありません。

それで本題ですが、患者の損害賠償請求権の制限をすべきでないということの一番の論拠が「司法の紛争解決能力がなくなること」であると理解しましたので、その障害をクリアするには「軽過失免責制度」が良いだろう、と考えた次第です。無過失補償を受けた上で、なおかつ手続き上だけでも訴訟を起こすことが可能であり、しかも重過失の場合は賠償を受けることができ刑事罰もあり得るならば、(その制度の導入についてはともかく)当事者が「実力行使」に及ぶほど不満をもつことはなく、司法の紛争解決能力は保持されるでしょう。

また、医師の職務の性質から考えると、過失を「医師が考える、標準的医療水準を提供するための標準的医療手続を遺漏なく実施していれば防げるもの」としたとしても、現実的には避け得ないものであり、重過失の場合を除き民事や刑事の責任を問わない(保険点数を変えるとかはOK)のが本来の姿とも考えます。国民の理解を得られるかどうかはともかくとして。

患者の権利制限については、無過失補償制度を前提とすれば、実態的には制限による不利益は非常に小さく、医療崩壊を防ぐという公共の利益と比較すれば制限することに問題はないと考えます。法理論的に問題がある場合は新しい理論を考えていただくとして。


>軽過失・重過失といっても、結局のところ、どこで線を引くかというだけの違いで、裁判所のさじ加減によって甘くも辛くもなりうるから、あまり効果は期待できない

「結局のところ」裁判所のさじ加減によって変わる以上、医師がある医療行為Aを行った場合の損害賠償額Bは、医療行為Aでも医療行為の記録Cでも法廷における努力Dでもなく、裁判官が誰になるかという事象Eの従属変数となります。少なくとも過失認定および重過失軽過失の区分の程度がある一定の範囲内でおさまるもの、といってもらわない限り、ADR等をいくら設置しても専門家の意見を如何に取り入れても、裁判に持ち込めばトンデモ判決の期待が残り、期待が残る以上、裁判まで多数が持ち込まれ、そのうちのいくつかは医療関係者の士気を打ち砕く判決となるのでは?
民事でも刑事でも、何らかの法的制限を設けない限り、医療崩壊は止まらないでしょう。

>No.282 会計士X さん

>「結局のところ」裁判所のさじ加減によって変わる以上、医師がある医療行為Aを行った場合の損害賠償額Bは、医療行為Aでも医療行為の記録Cでも法廷における努力Dでもなく、裁判官が誰になるかという事象Eの従属変数となります。

 この点に誤解があるのではないかと思います。

 日本の場合、軽過失か、重過失かというような過失の程度が違っても、因果関係がある限り、損害賠償の金額にかわりはありませんし、過失及び因果関係があるかないかについては裁判官の裁量の範囲が広くありますが、医療事件の場合、過失相殺はほとんど問題にならないので、損害賠償の金額については、通常は、慰謝料の金額について裁量がある程度で、その慰謝料の裁量についても、最大限1000万円程度、普通の場合は、何十万円も差がないと思います。

 むろん、その患者の収入・後遺症の程度等に争いがある場合は、それをどのように認定するかは、裁判官の判断で、裁量とも言えますが、日本の裁判官は、医療事件の場合、損害金額については、上記のようにほとんど裁量の余地はありません。

>No.282 会計士X さん

 続けてですが、自分で読んでいて前のコメントは、たぶんわからないだろうなと思いましたので、もう少しまとめてみます。

 法律的には、損害賠償請求は、責任論の問題と、損害論の問題に分かれます。

 責任論というのは、責任が存在するかどうかという議論で、過失・因果関係・損害(金額ではなく、損害があるかどうかの問題)の存否の問題です。

 損害論は、責任論で責任があるとして、いくらの損害があるかの問題です。

 損害論のいくらの損害があるかの議論には、故意か、重過失か、経過失かという過失の態様は原則としては影響しません。例外的に影響するのは、慰謝料(精神的損害)と過失相殺の議論ですが、前記のとおり、医療事件では、過失相殺の問題がほとんどでないため、慰謝料の問題だけといってもいいと思います。

 なお、期待権の損害賠償という場合も、その性質は、慰謝料というのが、ほぼ通説的見解だと思います。

 また、この損害論については、交通事故の判例等により、どういう場合にいくらということが細かく、決まっています(慰謝料のほとんどの場合についても)。

 したがって、被害者の収入・年齢等が同一の場合、責任論で、責任があるとなってしまえば、後は、どの裁判官でも、損害賠償請求の金額は、ほとんど差がないことになります。

医療崩壊について考え、語るエントリ(その12)
http://www.yabelab.net/blog/medical/2007/03/07-173701.php

を立てました。

以後、そちらへお願いします。


P R

ブログタイムズ

このエントリのコメント