エントリ

 つらつら思うに、裁判所は医療に、当時の医療水準に照らしという条件付ではあるが、完璧を要求しているような気がする。
 ただし、その意味では裁判所はドライバーにも完璧な運転を要求している。

 しかし、我とわが身を振り返って断言するが、私の運転は完璧とはほど遠い。
 多くのドライバーも同様だと思う。

 ところが、ほとんどのドライバーはこのブログにコメントする医療者ほどには司法不信に陥っていない。
 それは訴訟リスクがかなり低いからだと思われる。
 言い方を変えれば、軽微な過失では事故を起こす確率自体がかなり低いからだと言える。
 では、なぜ確率が低いかというと、自分を振り返れば運がいいからという面もないではないが、より大きな要因は通常の運転における安全マージンがかなり大きいからであると思う。
 たぶん、60点くらいの運転でも事故を起こす確率はかなり低いはずだ。
 制限速度を厳格に守っていないことは日常茶飯事であり、自分でいうのも恥ずかしいが、信号のある交差点を通過した後で、信号機の色を確認した記憶がない場合もある。
 それでも20年以上、(軽微な自損事故を除き)無事故である。
 
 では、医療はどうかというと、もともとの危険率が桁違いであろうし、十分な安全マージンを取っている余裕がない場合も多いのではなかろうか。
 ほっとけば死ぬ場合にも介入しなければならないし、本来死ぬはずの人を無理矢理生きながらえさせなければならない場合もある。
 これで死なせるなという要求を、交通事故を起こすなという要求と同程度に求めることは、理不尽と言われてもやむを得ない気がする。

 要求水準に照らして同じ程度の過失であったとしても、自動車の運転では運が悪くなければ事故にならないのに、医療現場でははるかに頻繁に人の死に直結する、と言えるかもしれない。

 さてどんなものであろうか。
 同業者諸兄のご意見如何?

| コメント(42) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.yabelab.net/mt4/mt-tb.cgi/2245

コメント(42)

 参加者の理解を助けるために平易な表現を選んでおられる結果とは思うのですが、後段の「死なせるなという要求」とある箇所は誤解を招くと思います。

 過失責任の前提となる注意義務は、「その立場においてなすべきことをなせ」ということであって、決して「死なせないこと」を求めるものではないはずです。

 また、医療行為の危険率が高いことは分かるのですが、そのこと自体が注意義務を軽減させる理由となるとは考えにくいように思います。むしろ、危険な行為については一層注意しろ、慎重にやれ、というのが素直な感覚でしょう。首都高と田舎道では前者の方が危険で交通事故のリスクが高いから、首都高を走行する車両の運転手については注意義務を軽減しよう、というのは奇妙です。

 「十分な安全マージンを取っている余裕がない場合」というのは救急治療のことをイメージしておられるのかと思いますが、結局、過失の認定において「余裕がないこと」をどれだけ考慮するか(すべきか)というところに帰着するものと思います。「万全ではないけれど、当時の状況を考えればそれなりによくやった」的な認定をして過失を否定することも可能であり、そのような趣旨を判示した裁判例もあります。

 ただ、私が経験する限りでは、医事訴訟における病院側の主張は、「ベストの措置をした」「対応は万全であった」「最善の治療行為であり何の落ち度もない」というものであることが多く、「必ずしも最善の治療行為ではなかったが、当時の状況、体制、設備からすれば仕方のないことであった」という主張はあまり目にしません。そうすると、「当時の状況からすればそれなりによくやったと言えるか」という点はあまり意識されず、判決でその点が強調されることも少ない、という流れに繋がっているような気がします。

 しかしまあ、医療行為に100点はないとは繰り返し指摘されていますが、提訴前の交渉や、訴訟での反論で「100点じゃないけど70点位のことはしたんですよ、水準には達していたんですよ」とはなかなか言いにくいですよね。言っても、患者や遺族本人にはすぐには理解されないだろうし(と言うか、相手によっては却って逆上されそうな気もします。)。

「同業者」ではありませんがちょっとだけ。

>ところが、ほとんどのドライバーはこのブログにコメントする医療者ほどには司法不信に陥っていない。

以前の書き込みの一部を再度コピーします。

警察官・検察官もその多くが自身ドライバーであり、安全運転に求められる常識的な基準をよく知っているからです。あまりハードルを高くすれば何時自分自身も逮捕されてしまうか分かりません。家族・知人・同僚など考えれば尚更です。つまり運転に関しては取り締まる側も我が事として想像するだけの知識も体験も十二分にあります。無謀運転の結果事故を起こして逮捕されても誰も同情しません。無謀運転の何たるかを法律知識の有無とは関係なく、多くのドライバーが共通認識として持ち合わせているからです。

追記です。もちろん裁判官もまたその多くがドライバーだと思います。

司法関係者が、運転に関してなら想像力が働くというのは一面あるでしょう。ただ、医療に置き換えるのは少し無理があると思います。何故なら医療は自然な物を扱っているからです。現代のわが国全体が忘れてしまったものに、いきなり急変する自然の脅威があります。台風、雪崩、竜巻、地震などいつも考えては生きていないと思います。いろいろな天災のニュースを見るといつも異常気象の一言で終わりです。出くわした事がないので想像力も働きません。多くの国民が農業、漁業に従事していた時代には先人の知恵がその事を伝えていた事でしょう。
無理やり運転に置き換えようとするなら、例えば自分の運転している車はいつタイヤが外れたり、ハンドルやブレーキが効かなくなってしまう、ガソリンタンクに引火してしまう、各々の車は世界で一つの車種でそろったデータもない。そういう故障車や事故車がいきなり持ち込まれる修理屋が救急医療のドクターと考えるなら、少しは想像できるのではないでしょうか。取り替える部品はもちろんありません。動かなくなったら代車でどうぞと言う事もできません。持っている工具で油まみれになりながら動くようにするしかないのです。もうポンコツなのに、理不尽にも以前に乗ってたようにしろ、具合が悪いのは修理のせいだという言葉にもううんざりして逃げ出しているのではないでしょうか。
自然とは、そういう物だという事に国民や司法関係者がもう少し理解を示して下されば今の荒廃はなくなると思われます。

法曹関係の同業者ではありませんが、モトケンさんの意見に激しくガッカリしました

交通事故の加害者・被害者の関係は、運転する人の社会的法益のために、直接加害者の社会的法益の恩恵を受けない第三者が巻き込まれ、身体的障害を受けるものです。
しかも、直接の契約関係は全くないのが通常です
被害者も運転する社会的法益の受益者でないこともありますし(例えば被害者が子供)、一般的な社会的法益のため、個人の利益が抑圧されているに過ぎません。
加害者の公共の福祉のために『許容されたリスク』を被害者が受け入れさせられているに過ぎません。

医療過誤では、加害者・被害者の関係は、患者の身体的利益保護のために(治療の恩恵を受けるために)、第三者である医療機関・医師を患者自らが契約を要請して、公共財である医療資源を消費した結果、図らずも身体的障害を受けるものです。
自らの利益のため、『許容されたリスク』を受け入れた上で、契約関係を求めたものです
(*医療過誤で、故意・重過失によるものは除きます)
”利益の帰するところに損失も帰する”原則が直接当てはまる部分であり、故意・重過失によらないもので、慰謝料を含めた高額の賠償を要求することは、信義則にも反する行為とも、医療側からは思えます。

医療側についても、、”利益の帰するところに損失も帰する”とも反論されそうですが、応召義務があって、医療側に選択権が与えられていないこと、診療報酬が格安に抑えられていて公的意義が大きいこと、特に勤務医については、当該治療での比例報酬を受けている訳ではなく公僕に近い立場で働いていることを考慮する必要があります。

患者側の要求する過剰な期待権というものが、他人の享受すべき医療資源の浪費につながるのであれば、それは権利の濫用として、調整を受けるべき性質と考えて、不都合はないように思えます。

現状の訴訟リスクの問題でなく、根本的契約関係の相違からの法的意義付けをお願いしたいものです

ちょっと思うところです。

医療側が、いかに医療を裁判で裁くことの不合理さを訴えても、憲法と国民の権利の元に医療者を今のやり方で裁き続けるというならば、これは現代のガリレイ裁判というべきものだろう。
ガリレイ裁判がレトロに見ていかに不合理であっても、当時の規範では正しい裁判手続きであったのだから。

ちなみに危険率とは統計学用語であって、危険になる確率とはまったく違うものです。老婆心ながら。

>訴訟リスクがかなり低いから
 運転免許保有者が約8000万人、業務上過失致死による検挙が約6000人/年。
 医師の総数が25万人、一方で逮捕される医師の数は一年に20人もいますか?
 医療事故のほうが、自動車事故よりも訴訟リスクは低いんじゃないでしょうか。それは当然、お医者さんの高い意識と努力、技術によるものでしょう。モトケン先生が無事故無違反だったという事実は、「一生訴えられない医師もいる」といった程度の話ではないかと(^^;

※検挙される医師数以外の数字については、警察白書と厚生労働省資料によりました。

>No.5 Med_Law さん

 私としては、当然に刑事責任論のつもりで書いたんですが、、、

 いつも舌足らずですいません。

>No.8 モトケンさん

>ほとんどのドライバーはこのブログにコメントする医療者ほどには司法不信に陥っていない。 それは訴訟リスクがかなり低いからだと思われる。

思いつきだから仕方ないし、酔っ払っておられたのかもしれませんので(笑)、深くは追求しませんが、本当に残念なコメントです

ドライバーの多くは、訴訟など意識して運転していません。訴訟リスクすら考えない、危険予測の意識すら乏しいレベルの高齢者や女性ドライバーも多いことは、議論の余地もないでしょう

医師は、治療行為について、常に傷害危険性を意識し、予見して、危険回避的行動を採るのが常です。真面目で真剣に医療を取り組むものほど、そうです。
医療行為とは、治療行為をしただけで、結果無価値論者からすれば、刑法論では少なくとも傷害罪の構成要件に合致するようです。
責任阻却や違法性阻却だけでの事後的法的保護、軽過失で全損賠償では、トンデモ判決一つで身がすくんで、医療行為ができなくなってしまいます。医療行為ができないというのは、目の前の患者さんに最大の誠意である善い治療を尽くせないことになります。
司法不信になるのは当然の帰着だと思います

もうひとつ
刑事罰、民事罰、行政罰と、罰を与える主体が違っても、罰を受ける主体としては、それぞれから、身体罰、財産罰、社会罰を受けるのであり、罰を与える主体の違いは、受ける罰の程度の違いでしかありません。
民事でも、訴訟に否応なく巻き込まれ、精神的傷害を受けることには違いありませんし、応訴行為は、医師にとって懲役に近いものです。

今日、2月18日は、医療崩壊記念日(加藤医師不当逮捕日)です。
一日、黙って断食するつもりです。

>No.9 Med_Law さん

 残念だ、というのは、私の状況認識に深刻さが足りないということでしょうか?

 的外れなコメントかもしれませんが、
運転:通常、特に問題の発生していない「車」に乗って、それなりにルーチン化している運転をすること。かつ、手順を守れば、目標たる「事故を起こさない」がほぼ達成できる
医療:通常、異常が発生している人体に対して、処置を行うこと。処置にミスがなくとも、人体の異常をどこまで改善できるかは患者により自ずから差がある

を比較しても何か違うように思います。
要求水準というか要求目標の違い、運転では、手順を守ればほぼ達成できるところに目標が置かれるのなら、医療でも、手順を守ればほぼ達成できる目標=70点(が妥当かは分かりませんが仮に70点としました)の処置による結果 に目標が置かれているのか?というところではないでしょうか。
そもそも「医療側の目標自体が見積もれているのか?」ということでもあるような気もしますし。

おそらく、医療の現場というのは100点の治療なんてぜんぜん行われてないんですよ。
自分のやってる感じからすると、

一人の患者の治療経過中にミスもいっぱいして、得点もいっぱいして、だけどミスのほとんどは結果オーライで一発で悪い事態に繋がることはなくて、それでも時に致命的になることはあるけど、大抵は得点からミスを引いた分が正味の効果で、全体としては医療介入をしたほうがしないよりもいい結果になることが多い。でも逆効果になることはある。
一つ一つの行為自体はミスといわれれば当然ミスで、患者が亡くなったときにその行為が悪い影響を与えなかったと証明できるかといえばそんなことはない。また、通常は致命的にはならないミスがたまに直接命にかかわることもあるわけでそういうのは地雷とか言われたりもする。
これが現状の医療であるので、そして常に100点でなければいけない医療なんていうのは心がけると却って不利益を受ける人のほうが多くなる。これが現実なんですよね。

どの病院も、どの医者も60点とか70点の医療をしている。
従来はそこを合併症だとかベストを尽くしたけど仕方なかったとかそういう言葉でごまかしてきたわけで、だけど100点じゃないと過失致死だとか損害賠償だとか言われるので追及されても100点と言う。そういう意味では患者や弁護士、裁判官の無知に付け込んできた部分もある。


法律もいいけど、あまりに現実にかけ離れたものを求められると逃げ出すしかないわけで、そういう意味では現状をわきまえた法の運用をしてほしいと思っている人は多い。
極端に言えば現在の法理論の欠陥がでてきているんじゃないかな。逆にこういうところから新たな展開が出てくるのかもしれません。

とかいう感じですかね。

過去にさる著名な権威ある内科医が「私の誤診率は何十%だ」と告白したことがありましたね。もうどこのどなたでどのくらいの数字か忘れましたが。所詮こんなものですよ。
私の誤診率はどれくらいかって?とても人には言えません。

>誤診率

http://www.toranomon.gr.jp/site/view/contview.jsp?cateid=23&id=139&page=1

それで判定しての誤診率は14.2%であった1)−3)。これは広く大きな反響を呼んだ。ある記事の表現によれば,「われわれ患者はその率の高いのに驚き,一般の医師はその低いのに感動した」のだった。

誤審とは言えないかもしれないですが、元裁判官の木谷明さんも「今から考えると、刑務所に入れなくてもいい被告人をずいぶん刑務所に入れてしまったのかもしれない……。」と語っています。(「それでもボクはやってない」周防正行著、幻冬社より)
まあそんなもんだろうなぁ、と思いました。

自分は十分に司法不信というか、警察不信ですが。
交通量の多い道路をいきなり逆走してきたガキンチョと接触して、
こっち側が被疑者扱いにされたんじゃそれはねぇ、、、
「ぶつけられた方が悪い」ですかそうですか、とも言いたくなりますよ。

交通事故を経験した人は、こうして警察不信になるのではなかろうかと思います。

>No.16 hama さん

>交通事故を経験した人は、こうして警察不信になるのではなかろうかと思います。

 医師は、医療事故を経験しない人でも司法不信になっているようです。

No.17 モトケンさん

医師は、医療事故を経験しない人でも司法不信になっているようです。
実際、「あなたは司法不信になっていますか?」と訊かれて「はい」と答える医者の割合は、どのくらいなんでしょうね? 私なんかは、あくまでイメージでしか考えていないですが、総体的には「いいえ」ですけど。裁判官とか検事って、官僚とかと同じで結構忙しく仕事をこなしているんじゃないかと思っていて、そんな中ではよく頑張っていると思うんですけど、甘いですか? ただ、司法にしても検察にしても、局所的に構造的に問題を起こしている部分があって、そういう部分を是正していけばそれでいいじゃないですか、と思うわけですよ。たとえば司法なら、医療事故の事実認定だとか、自然災害の損害を個人に転嫁するだとか、そもそもDQNに甘い心証形成だとか。検察の場合の不公平な無茶な取り調べだとか、昨今ならば婦女子関係の事件の取り扱いだとか。
なんというか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の考え方の人が、世の中増えていて居心地悪い気はしますけどね。それが「専門家不信」ってやつなんでしょうかね。

 どなたかのご指摘のとおり、このエントリは酒気帯びエントリなので、今夜も酒気帯びコメント。

 司法不信、司法不信というけれど、裁判官も検察官も少なくともその大多数は医者を目の敵にしているわけでも嫌っているわけでも憎んでいるわけでもない。

 事実認定と法律に従って判断しているだけ。

 法律改正や制度改革をすれば、それに従う。

 だから、総理大臣や厚生労働大臣がちょっと本気を出して制度改革をすれば、状況は劇的に変わる。

 今の総理や厚生労働大大臣に期待できるかどうかは別問題だけど。

>>No.4 jun さんのコメント
>何故なら医療は自然な物を扱っているからです。

 養老猛司さんの持論の「都市化社会・脳化社会」によると、「自然」は本来人間にはコントロールできないものであるが、「都市化」によって周囲が人工物ばかりになり(現代は田舎に暮らしていても家の内外には人工物があふれている)、その中で生活していくと、「自然も思い通りにコントロールできるのだ」と思い込んでしまうそうです。「生老病死」はいずれも自然なことなのですが、コントロールできる(「赤ちゃんは無事に生まれてくるものだ」「病気は治療を受ければ治るものだ」)と思う人が増えてきたということでしょう。(なお「子供」も自然のものなので本来は思う通りにはコントロールできないものですが、その認識の欠如によって育児問題や教育問題が起こっているのではないかとも述べていました。)
 一方、「車」は人工物であり、自然の影響をいくらか受けるものの、大部分は人がコントロールできます。そういえば「法律」も人工物になるのでしょうか。とするとそこに医療と司法がなじまないとされる理由のひとつがありそうです。相互に努力する必要があるのだと思います。

今回は酒気帯び発言です。
 
P = 医療裁判に関心をもつ医師の見積もりによる、現在の日本における医療訴訟判決の誤審率
Q = 現在の日本における実際の医療訴訟判決の誤審率
 
医師の司法不信とは、 「P>Q」である状態を指す言葉なのでしょう。私はQがどれほどであるかを知りませんが、Pがかなりの高さであることをここを含むいくつかのブログで実感しております。
 
医療裁判に関心を持つ医師が、PをQより高く見積もっているのだとしたら、その原因は何でしょうか?

・誤審は話題に上りやすいので見かけの誤審率は上がる。

・医師が敗訴したケースは、自衛のために注目せざるを得ない。医師が敗訴したケースはそうでないケースに比べて医師から見た誤審率は高い。だから見かけの誤審率が上がる。

・医師が敗訴するとマスコミが取り上げる。だから上の項目と同じ理由で見かけの誤審率が上がる。

・医師が裁判官の知的水準を見積もる際に、一度も裁判官と関わったことのない医師ならどうやって見積もるか?「18歳以降一度も自然科学を学ばず、かつ多忙に追われる日本人なのだから、自然現象を理解し予測し論じる能力は普通の日本人と変わらないだろう。ということは、健康番組の視聴者と同等であろう」と見積もるのではないか。これによって、Pは0.5に引き寄せられる。
 
ざっと思いつくところで、Pを歪めそうな要因は上記4つです。4つのうち2つがマスコミに左右される因子です。
 
ということは、医師の司法不信はマスコミにあおられた部分が大きいのではないか
・・・と思いつきで考えてみました。

No.14 モトケンさん

ソースの提供ありがとうございます。
誤診率何十%は私の場合でしたか(^^;;;

No.20 通行人A 様

養老猛司さんの持論の「都市化社会・脳化社会」によると、「自然」は本来人間にはコントロールできないものであるが、「都市化」によって周囲が人工物ばかりになり(現代は田舎に暮らしていても家の内外には人工物があふれている)、その中で生活していくと、「自然も思い通りにコントロールできるのだ」と思い込んでしまうそうです

私もこの考え方に妙に納得してしまったひとりです。

ついでに、付け加えますと養老孟司さんは、田舎の道で溝に落ち込んで怪我しても仕方がないとあきらめるけれども、都市の中で溝に落ち込んで怪我したら、それを作った人に安全管理責任を求めるようになってしまう。つまり、都市化(脳化)は、何でも人のせいにすることができる社会であるというような論調もあったかと思います。
(引用ではなく、私の記憶に基づいた文章ですので、多少修飾の可能性あるかも)

私は、不可避の死に対して、こうもここまで、医療者が責任を問われる世になってしまったのだろう?と不思議に思っていました。そんな折、たまたま偶然、養老先生の本を読んでみたところ、上記考え方に出会いました。そして、まさにこの理屈が今の医療の実情にマッチしていると思ったわけです。

No.18 峰村健司 さん へ

あなたは司法不信になっていますか?」と訊かれて「はい」と答える医者の割合は、どのくらいなんでしょうね?

医師会の開業医の先生の集まり、勤務医の先生との集まりなどでお酒を飲みながら、最近の医療裁判の話題になりますが、90%以上のドクターが司法不信です。引退されたドクターはさすがに興味がないようです。
誰かかアンケートをとってみて客観的な数字をだしてみると、医師の高率な司法不信にびっくりさせられると思いますよ。

酒気帯びで談論できるなんて、素敵な大人のえんとりーですね。
ROM専でもとても楽しめます。名物エントリーになるかも。

もう、どうもこのドライバーと比較されるのに違和感あるのですが。
車は運転しなければ事故はおきません。

どうしても比べたいのなら、やらないことが人命を損なう車、たとえば
救急車とか消防車とかのドライバーと比べてみてください。

一般の方がこんな比較をする感覚だからこそわれわれも立ち去るのですよ。

医者いなければ事故おきず。No doctor, no error

 医療事故と交通事故とは違うという意味で対比したつもりですが。

訂正で:車は運転しなければ事故はおきません>人は死にません。

対比されること自体に違和感を感じるんですよね。違うのは自明の理じゃないのかなぁ
なんていうんですか、生き物だってだけで昆虫と脊椎動物の優劣を対比するみたいな
やらなければ人が死なない行為と、やらなければ人が死ぬ行為。やらないことが
もたらす結果が正反対なんですよ?

医療と同じ性質の緊急車両のドライバーと是非対比してみてほしいです。

>違うのは自明の理じゃないのかなぁ

 法律的には自明じゃないんですよ。

>医療と同じ性質の緊急車両のドライバーと是非対比してみてほしいです。

 緊急車両のドライバーは医師よりはるかに一般ドライバーに近いと思いますよ。
 緊急車両だからといって歩行者をはねていいわけありませんから。

No.26 柳さま

すでにモトケン先生ご本人からもレスがありますが。

一般の方がこんな比較をする感覚だからこそわれわれも立ち去るのですよ。

そのような「坊主憎けりゃ袈裟まで」論法は百害あって一利なしと思います。
比喩とは、まったく別の例を持ち出して、類似点について述べるものですから、似ていない点に着目して「両者は違う」と指摘することは無意味です。
議論の本質から遠ざかるだけの「ためにする議論」でしかありません。

以前、私も F1やラリーのドライバーに喩えましたが、そのような喩えの狙い(似ているとして対比した部分)が具体的にこういう点で不適切だ(似ていない)、というのならともかく、「やらないことが人命を損なう車」でなければ比較できない、といった類の意見には賛成できません。

喩えの「巧拙」と「当否」は別次元の問題のはずです。

私がいつも思っていたことを、このブログで養老先生が過去に書かれておられたと知って一言追加したく、コメントさせていただきます。
それはやはり、「医療と法律はなじまない」ということです。
法律(日本国憲法も含めて)は所詮は人と人の間に起こる様々な出来事を解決するために人が決めた社会のルールであり、人と人の間でしか通用しません。当然の如く自然は人の決めた法律には従いませんし、地震や津波や天候は人がコントロール出来る物ではないことは皆知っています。それが原因で人が死んでも裁判にはなりません。ところで人間の体は大自然の一部であり、いくら医療が進んだ現代でもほとんどがコントロールできないことは我々医療従事者はよくわかっていますが、一般の方や最近では司法関係者にもこのことが理解できない人が多くなったように感じます。最近の医療裁判でよくみかける「期待権の侵害」や「説明義務違反」などです。これは一見理が通っているようですが、本質が誤っています。法律が及ぶ所はあくまで人対人の間であって、医療は人対人体(大自然)である(人対人の部分も少しはありますが)ということを忘れているのでは?ということです。自然に期待しても当然裏切られることもありますし、自然に起る現象を全て医者に説明しろといわれても元々不可能です。元より我々はまだまだ自然をコントロール出来るほど神に近い存在でもないのです。どちらかといえばボランティアか最近では奴隷と感じている医療従事者も増えています。これだけ科学技術が進んでも明日の天気ですらハズレルことがしばしばあります。自然を相手ですから仕方ありませんが、ハズレルたびに気象庁や気象予報士の森田さんが訴えられて、高額な損害賠償を払ったり有罪として刑に服さねばならないとしたら、誰も明日の天気なんか予報しなくなります。一昔前には医者に対してもっと敬意を払ってもらったり、よほどの悪意や怠慢でもないかぎり訴訟になることは少なかったのですが、最近は無知なマスコミに誤った洗脳を受けた多くの人が医療を攻撃してきます。私事ですが、最近起った出来事で、とても癒着の強い大変な手術があって、予定時間を大きくオーバーしてしまいましたが、何とか無事やり終えて手術室を出て家族に説明に行ったところ、「こんなに時間がかかるとは、さてはガーゼでも置き忘れたんじゃないのか?」と患者の親戚に心無い言葉を浴びせられ、非常に失望しました。昔はこんなことはめったにありませんでしたが、最近はよく経験するようになってきました。医師が立ち去る原因の一つと考えています。
とりとめがなくなってきましたが、医療と法律はなじまない。いやもう一歩踏み込めば医療事故を交通事故よろしく、法律で裁くことそのものが違法ではないか?と考えています。

>32の父さんさん

とりとめがなくなってきましたが、医療と法律はなじまない。いやもう一歩踏み込めば医療事故を交通事故よろしく、法律で裁くことそのものが違法ではないか?と考えています。

なじまないと発言されるのは構わないのですが、「では、どうするんですか」と言う問いかけが帰ってくるだけかと思います。また「法律で裁くことそのものが違法ではないか?」と言う問いかけは、法曹の方も集まっているこのブログで発言するのは、少々危険かと思います。

> 「では、どうするんですか」と言う問いかけが帰ってくるだけかと思います

決闘や盟神探湯(くがたち)で決めるわけにもいかないし・・・

どうせ喧嘩するなら、ルールありレフェリーの居る場所でやるほうが、なんぼかマシでっしゃろ。

うーん、コネがないと医者にかかれずそのまま病死する
という現象が起こるだけでしょう。
関わらなければ喧嘩自体が起こりません。

コネ社会医療だとこんな感じでしょうか。
その頃、病院はただの箱となって施設管理者しかいない。患者が個人的に雇った
外部の医師がその都度施設を借りて医療を施す。
医師はとにかく誰かの紹介を受けないと会うこともできない。
コネ社会にあっては紹介者の顔を潰すと大変なデメリットになるので喧嘩するのは
とても難しい。

まあこういう未来もありますよ、と思いつきで書いてみましたが、
この病院施設と医師の所属を分けてしまうやり方はいいアイディアかなと
一瞬思いました(笑 

時々書き込む変なROM専(専じゃないか、我ながらおバカ)です。
常々感じているのは、不戦憲法のもと軍隊を持たないわが国において医療界はもっとも軍隊に似ているということです。組織の仕組み成り立ちや行動の仕方においてはもとより、人間の生命身体そのものを傷つける道具を日常的に用いる点において。

前に医療と司法が両輪であるべきと発言しましたが、同じ個体の社会的生存に対して、医療は手を出し司法は口を出すべきという意味です。ひとつの倫理のもとに。

医療界と軍隊組織の類似論では、まずこの倫理を度外視して、システムの外見的な成立過程や実際の行動様式についてだけいえば、という意味です。

なぜこんなこと書くかというと、そういうイメージもあることを含めて、概念の多様性を意識してゆけば、法の適用論や制度論がさらに発展するかもしれないと期待、じゃなかった思いつきでした。おっさんの割りに幼稚ですが。いつもお邪魔虫でどうもすみません。

うーん、少々感情的になっていた点はお詫びしますが、比較対照とする場合
その母集団をそろえないと、奇天烈な結果が出てしまうのは明白だと思うのですが。

確かに、正確に母集団をそろえるのは不可能ですが、なぜ医療が存在するのか
という理由の根源は、無いと人が死ぬという点でだとおもいます。

医師も運転も免許制であるということは比較対照にする理由にならないように感じます。
最もよい比較対照群はそれこそ弁護士じゃないでしょか。無いと無実の罪を負う人が
でるし。救急車はいったん撤回します。途中をふっとばし過ぎました。

しかし感じることはあまりにひとつの言葉の概念がかけ離れていることですね。
何かを比べるときは比較対照試験だと思い込んでいた私の頭が固かったです。
でも、いままさに消えていこうとする命を何とかしようとするあのストレス、プレッシャーを
車の運転と比較されるのはたまんないなぁというのが偽らざる実感でした。
先日引退したので過去形ですが。

 どうも自分の書いたことが理解されているのかいないのわからんというのはきしょくの悪いものです。

 似てるけど違うところもあるAとBを対比して、似てるから同じように処理しよう、という考え方と、似てるけど違うから別の処理をしよう、という考え方があるわけです。

 前者の考え方に立つと、福島地検の結論に結びつきやすいのです。
 後者の考え方に立つと、ちょっと待てよ、ということになります。

 実務家が過失犯を考えるときには、典型的な例を基準にして考えていきます。
 そして典型的な業務上過失致死傷罪は人身交通事故であるわけです。

 要するに、このエントリは刑事実務家向けの考え方のヒント的なものです。
 とりもなおさず福島地検に対する批判でもあります。

 医療と法律はなじまない、という意見がありますが、法律家としてはこれには賛同できません。
 医療事故の中には、過失が明白で明らかに業務上過失致死傷罪が成立すると思われるものが存在します。

 ただし、不可抗力は罰しない、というのも過失犯の中の大原則であります。
 
 問題は個々具体的な医療事故が不可抗力であるか否かですが、この問題場面においては、たしかに医療側からのご指摘のとおり、法律家の理解は浅く、認識は狭いのだろうと思います。

 その最大の原因は、医療業過事件の裁判の絶対数が足りないことだと思います。
 交通業過事件は膨大な数の裁判を通じて、ドライバーの過失を限定する方向で理論が深められてきました。
 しかし、その理論はいうまでもなく、日本の交通の実情を前提としたものであって、医療の実情を前提としたものではありませんでした。
 ここ交通業過的感覚で医療業過を考えると妥当でない結論が出てくる
原因があるように思われます。

 しかし、多数の医療業過裁判が起こされて医療業過を適正に処理できる判断基準や理論が構築されるのを待っていたのでは、医療はとっくのとうに崩壊するという意見があるでしょうし、私もそう思います。
 
 そこで大事になってくるのが1件1件の裁判の審理の密度を上げるということです。

 その意味で、福島の事件は加藤医師には大変申し訳ないことですが、医療業過裁判のターニングポイントになりうる事件だと考えています。
 福島の事件の起訴は産科医師に甚大な衝撃を与えましたが、これが無罪判決ということになりますと、検察の積極派に深刻な打撃を与えることになります。

 加藤医師の弁護団は問題の本質を深く理解されて的確な弁護をされているようです。
 加藤医師と弁護団を何らかの形で応援することはとても大事なことだと思われます。

No.37モトケン様

福島の事件は加藤医師には大変申し訳ないことですが、医療業過裁判のターニングポイントになりうる事件だと考えています。福島の事件の起訴は産科医師に甚大な衝撃を与えましたが、これが無罪判決ということになりますと、検察の積極派に深刻な打撃を与えることになります。

私もそう思います。有罪判決が出れば、全国で一線から退く医師が続出し、医療崩壊の加速はまちがいないと思います。無罪判決の場合は、多少のブレーキにはなるかもしれません。

さて、1つ質問があります。

無罪が出たとして、検察の積極派に深刻な打撃が加わった場合、その結果として、社会にどのような影響が目に見えてくることになるのでしょうか?検察の積極派の人の昇進にひびくのかなあ?なんて事ぐらいしか私にはイメージできません。

 無罪判決が出たという仮定の話としてですが

 福島地検の起訴検事とその上司以外に「積極派」という派閥みたいなものがあるわけではないと思いますし、検事の人事などへの影響はたいしたことはないと思いますが、検察全体の空気として(既にその萌芽はあるわけで)

 判決の無罪の理由にも大きく影響される問題ですが、

 医療業過の起訴にあたってはかなり慎重な判断とそれを担保する手続(上級庁との協議など)が定められる(もうあるかもしれませんが)ことになる可能性があります。

 当然、警察に対する牽制になると思われます。
 安易な逮捕が抑止されることが期待されます。

 国民の意識の問題との関係では、やはりマスコミがどの程度、どういう論調で報道するかが決定的に重要だと思います。

 「が」の多い変な日本語ですいません。

No.39 モトケン様

当然、警察に対する牽制になると思われます。
安易な逮捕が抑止されることが期待されます。

ありがとうございました。もし、有罪なったら・・・
警察が勢いをまし、安易な逮捕が助長される・・・
検察の積極派もますます勢いに乗り・・・

これは恐ろしいことになるのでは?と考えてしまいました。 
(救急医は、物事を悪いほうから考える習性がしみこんでいます。)

仮定の話で一喜一憂しても仕方がないのでこの辺でやめておきます。


「医療と法律はなじまない」について

人と人が存在する限り、見解、考え方、理解・・・様々に異なるはずです。それを解決する方法として我々は司法を持っている。勿論、裁判によらず和解でもよいが、裁判による解決を放棄した場合は、合理的な解決方法としては何も残らないと考える。

医療における民事賠償をADRで解決する方法があるとは思う。しかし、ADRがオールマイティーではないはずで、訴訟を提起する権利は保障されねばならないと考える。刑事責任の適用は慎重にすべきと言うのが私の考えであるが、司法制度の外では扱いようがないし、扱ってはならないと考える。例えば、厚労省が検察の役割を果たすことは、更に悪くなると思う。

No.24 整形開業医Y さんへ

>90%以上のドクターが司法不信です。

これは医療訴訟に関してということですよね? 医療訴訟に関してなら90%が司法不信と言うのも納得ですが、医療に限らず全般的にはどうなんでしょう。

医療訴訟に関して言えば、私の場合、不信というより「そもそも無理無理」という感じで。法廷で法曹が医療事故の事実認定なんかをもっちゃもっちゃとやっている姿を想像するだけで、もうイタい感じがしますね。無理でもやらなきゃいけない法曹の方々もかわいそうといえばかわいそうではあります。ADRはADRで茨城の昨年実績を見るとうまく行かないような印象で、元田舎医さんが「投了」と言われた気持ちは、わかる気がします。

ちょっとどうかと思うのは、法曹から、医療に対する敬意というか覚悟というか、そういうものが薄いように感じることがあることでしょうか。法曹も医師も、国策によって数を限定して免許されている専門職であり、それは国としても覚悟を決めて免許しているものと考えられると思うのですが、法曹なかんずく裁判官と検察については国民に対してほぼ完全に有無を言わせないようなシステムになっている一方、医師はそうでない。そうでないのは仕方がないとして、もうちょっと専門職の行いを信用してくれねーかなー、みたいな。最近そういう判決出ましたよね。造影剤のアレルギー既往を確認したかどうか争われた裁判だったと記憶していますが。

まあ、よくYUNYUNさんが言われていますが、そうは言っても医療裁判は医療側が勝つことが多いはずだし、妥当な判決が多いのだとは思うんですけどね。それでもトンデモ判決群が医療崩壊の3大原因の一つであることは間違いないわけで、今のシステムそのままで解決させようってのは、これまたやっぱり無理でしょうね。

とりとめなくてすみません。

P R

ブログタイムズ

このエントリのコメント