エントリ

 医療事故と司法制度(民事編)において、uchitama さんが以下のようにコメントされました。

小生が魔人ドールさまのコメントに一番共感する部分は司法が医療過誤を判断する能力に極めて乏しい(ほとんど0%に近い)という点です。この点に同意する医師は少なくないと思います。

 私としましては、「この点に同意する医師」が本当に少なくないのか知りたいと思います。

 医療側からの遠慮のない本音の意見をお聞かせください。

 なお、このエントリに関する限り、私も一切の遠慮をしないで書くつもりですので、その点をご承知おきください。

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コメント(106)

医療が「医療過誤訴訟」を判断する能力が乏しいのと同様に、司法も「医療過誤」を判断する能力は乏しいと思います。有罪か無罪かというレベルにまで単純化するならば確率論もありますから、ゼロに近いはさすがに言い過ぎではないかと思いますが。

ただし付言するならば、医療人においても専門分野以外の医療過誤を判断しかねる者が多数派なのではないかと思いますし、されても困るかなとも思われますが。それだけ医療は細分化しているというのが現実でしょう。

逆に言えばそういう医療の特殊事情を十分理解している司法の判断であれば、例え医学的に納得できないものではあってもそれなりに敬意を払うべきではないかなと思います。

>逆に言えばそういう医療の特殊事情を十分理解している司法の判断であれば

結局そこらへんの話であって そういう司法なら無問題
F山みたいなのが居るから大問題

非常に難しい問題ですね。
 見逃してはいけない免責ラインをできれば司法関係で決めてもらうとありがたいのですが。例えば心筋梗塞なら心電図上この波形とか、心筋炎ならこの症状、脳炎ならばこの症状など。 それを見逃さなかったら、それ以上は特殊な例で仕方ありませんと。まあ無理と思いますが。しかし、現実、問題なのはこの免責ラインが非常に曖昧(当時の医療水準に従う?)であるため、現場が非常に混乱しております。まあこれについても現時点では解決のしようがないので議論しても仕方がないのですが。
上記の以外にもわれわれ医療従事者は以下の問題にも直面しております。
例えば、ペルジピンですが、この薬剤は切れのいい降圧薬で、脳出血の時は是非使用したくなる薬なのですが、添付文書上では脳出血(くも膜下出血もふくまれているのか?)には禁忌であり、非常に問題となっています。私は上記の理由で脳出血の患者(たとえくも膜下出血であっても)に、ペルジピンを使用しないのですが、現在、かなりの救急、脳外科、内科の医師が使用しております。実際、臨床の場では患者の生命を救うためにはやむをえない(他の薬であるヘルベッサーの効果があまりにも悪いため)と思われます。しかし、使用して、もし患者が死亡した場合、「禁忌薬剤を使用したため、死亡した」と裁判で判断されるのではないかと現場の医師はビクビクして使用しております。このようにビクビクして使用する薬剤は他にかなりあります。
さらに患者への説明義務違反の問題があります。投薬を例に取りますが、裁判上では医師は患者に添付文書の全ての情報を説明し理解させる義務があるとの事ですが、実際、外来中に患者に添付文書の内容全てを患者に説明し、かつ理解させる時間はありません。従って現場の医師はやはりビクビクしながら、患者に薬を処方しているのです。
まあ現状をことこまかに述べても仕方がないのですが、なにが言いたいのかといいますと現在の状況では、医療行為は、たとえ普通(?)にしていても、裁判上つけこまれる隙がありすぎるということなのです。このことは、現在、臨床に面している医師のほとんどが自覚しています。医師の中には、「私はいつでも逮捕される覚悟を持って医療をしている。」と述べている人もおります。
司法が医療過誤を判断する能力に極めて乏しく医者を刑事免責にするという意見は、日本国が法治国家であることを考えると、医療従事者の傲慢な意見でしかないと思われます。 
しかし、現時点で司法が医療過誤を判断する能力が低いというのは残念ながら事実かもしれません。これは司法が悪いというのではなく、医療従事者が上記のような実情を、現在の状況に至るまで社会に訴えてこなかったことや、社会全体が馬鹿マスコミにおどらされるだけで医療、福祉についてまともに考えてこず、これらが有限であることを認識してこなかったことが主な原因と思います。これらのことが医者には医療訴訟、刑事告訴という形ではねかえり、国民には医療崩壊と言う形ではねかえっていると思います。
司法の方々も医療業界の失敗を学んで、もう少し社会に司法の現状をアピールする必要があるのではないかと思うのですが。

ROMに徹しておりましたが、この件についてはモトケン様の関心が強いようですのであえて筆をとりました。
立場はというと中堅の外科系医師で、幸い訴訟に巻き込まれたことはありませんが、そのようなことがいつ生じてもおかしくはないのではないか、という思いからこのブログをいつも興味深く拝見しております。
ところで、医療過誤における司法の能力についてですが、私の意見を結論から申しますと「能力はあるが限定的で常に必ずしも正しい(と証拠が偏在している我々医療側が感じる)結論には至らない程度の能力」と考えます。Brennan-TA et.al.;N Engl J Med.335(26):1963-7. を持ち出すまでもなく、司法の考える医療過誤と我々医療側の感じる医療過誤には差があります。司法と医療側の結論の齟齬を示すNEMJのデータが現在の日本でも当てはまると感じた医師は多いのではないでしょうか。実感として裁判所が根拠とする文献には偏りがあると感じることもありますし、また、選任された鑑定人の意見の採用や裁判所の事実認定にも首をかしげることもあります。我々医療側の主張の本質を理解した上で不採用としたとは思えないこともあります。その点からは能力が(低いとはいえないが)きわめて高いとは感じられません。ただ、妥当と思われる判決もまた多いのであって、高くはないが能力はあると考えます。
また、私の意見は個人的にある中堅判事を知ることにもよります。司法試験の席次がかなり上位で、最高裁にはそのように処遇されている方ですが、(当たり前ですが)非常に優秀で多くの資料を理解することができ、またそれらの論理的な思考に大変優れています。(明らかに私には同じことはできません。)しかしながら、その方が限られた時間の中で、我々医療側の感じる正しい判断を理解することは、それでもなお知識量の点からやはり不可能であろう、ということを実感として感じます。誤解を恐れずいえば、よく勉強する研修医が判断する程度のレベルでしょうか。間違いとはいえないがもう少し踏み込んだ判断をしてほしいと感じるわけです。ただ私の感想は例えば医事部の判事と話すことで変わるかもしれません。私としては逆に平均的に医療訴訟を担う民事部の判事が、医療事故裁判で評判のよい判決(つまり、多くの法曹関係者や医療従事者、訴訟当事者が弁論主義に基づいて事実を認定しており、かつ法律の適用に誤りがないと考える判決と定義します)を書く自信がどのくらいおありになるのか知りたいところです。
まあ、モトケン様がご指摘のとおり、(例えば鹿児島での選挙違反事件の検事のように)いろいろな検事がいるようにまた、判事もいろいろな方がお見えになるので、そういう問題なのかも知れませんが。
ただこのことは権力作用としての司法の場を医療の問題の解決の場として否定しているのではありません。長くなりましたが、「医療過誤を判断する能力に極めて乏しい(ほとんど0%に近い)」という意見には賛成できませんし、かといって非常に信頼にたるとも思えない。よりよい方法がないものかと思いますが、主に身近に知る判事から判断するに、現状では最善の場所であるのは間違いないと個人的には考えています。

医師が判断するとしても 一人ではやはり相当な確率で間違えます
割り箸事件裁判の死因について 旧帝大教授で脳外科学会会長で
専門医試験委員長の大先生が論破されちゃったという実例があります

大先生の名誉のためにいいわけしますと,多忙な中の片手間ですから
ぶっちゃけ 膨大な資料をおそらく全部読み込んでなかったと思います
見落とし・御解釈がけっこうあった.

医師が判断するにしても,十分な時間的余裕と議論が必要です
現状では刑事の全部と民事の大部分で法廷での医師同士の議論が
認められていません.
法律家は基礎医学・病態生理の勉強をほぼ100%怠ったまま
推理小説を後から読むような帰納的アプローチオンリーで
専門家証人から結論周辺だけを重視するような尋問内容で
系統的思考抜きの判断をしようとしていると感じております.
法廷で複数の医師の議論 ぶっちゃけ 裁判を学会に出張して
シンポジウムでやっちゃうなんて方法も
現行法で十分可能じゃないかとおもいます

もうひとつ言うと 医師の方は法律がゼンゼンわかってないわけです
法律上の問題点論点がわからないままの議論でまた
ヘンな方向に話がいくということもまたしばしば見受ける現象であります

私は刑事編でそのうちに述べようと思っていましたが、新米であろうがベテランであろうがプロの医師が医師法によって許されて行った医行為を、殺人ではない業務上過失致死の行為者である医師個人の責任を問う過失判断について、現在までに出された判決を見る限り医療の素人(言葉が悪くて済みませんがプロじゃないと言う意味です)である裁判官には、その医師の過失行為とすべきか否かの判定は無理だと思っています。

現行の厚労省が監督している医療システムそのものに内在している問題点(疎漏なき完全なるシステムもまた存在しません(笑)から)を勘案することなく、また病人の治療というものは毒(医術)をもって毒(病気)を制すのが真髄であることを実地で習得して初めて医師個人の技術水準が進歩する(上級医となれる)ものであることから、間近で見る上級医によってしか医師個人の水準は判定できないという技術の世界の現実を無視すれば、神ならぬ人であり、技術の習得に励んだ証明である技術資格を持たない非専門家である裁判官によって妥当な業務上過失判定ができる確率を考えると、有罪か無罪かの二者択一で考えても技術者と裁判官の出すカードが一致するかは五分五分。それではコインで決めても同じです。手間暇かけて裁判をする意味がないように思えます。
つまり、そこだけをみれば魔神ドールさんと同じ意見ということです。

しかし、今の厚労省が規定している医療システムの問題点も大きいことは医師もずいぶん以前から指摘しており、そこを司法が糺そうというのであれば厚労省が出している医師の行動規範そのものについても司法判断を示してもらわなければ医師側は納得できないでしょう。医療事故を刑訴法でひとり医師個人に刑事罰を科すというのは、戦闘中の兵士が敵兵を狙って発砲したら命中して死んでしまった、殺さなくても負傷させて戦闘能力だけ奪えばよいと命令したのに殺してしまったから命令違反と業務上過失致死で有罪、と言い渡されている(笑)に等しいように感じられるのです。

そのうえで、私は魔神ドールさんと医療システム上における立場が違いますから、刑事編のエントリーが様々な立場の人たちと業務上過失について議論できる有難い機会なのでもう少し詳しく勉強してみたいと思い、ここモトケン塾に参学した次第です。皆さんご親切でいつも感謝申し上げております(笑)。

魔人ドール氏とわたくしの見解の最大の相違点は民事を重視するか否かでしょう

民事とは当然 民民の問題であります
民民の揉め事はそんじょそこらにしょっちゅうある
裁判にするもしないも当事者の自由であります.
刑事裁判ほどの社会性公共性は無い
さらにいうと 民民の揉め事にケリをつければいいのであって
刑事ほど精密にしなくても ぶっちゃけた話 百に一つ 万に一つは
まちがってることがあっても金銭に帰着できなくも無い話です
最初から間違った判決も充分に存在しうるという認識を持つべきです
そして たとえば不当な提訴不当な判決があったとしても
対応する制度をキッチリと作れば コントロールできる種類のリスクです
病院経営に必要なリスクコントロールの一つでしょう
間違った民事判決が存在するから医療ができない,という種類のリスクではありません

さらにいうと 行政処分=医道審の調査能力が現状ほぼゼロというのが
また 大きな問題だと思ってますが ドール氏の意見はどうだったのか
彼の意見は飛ばして読んでるのでよくわからんです

No.4に関連して
裁判官の研修機関として「司法研修所」があります(修習生だけではありません)。
その裁判官研修(誰でも10年内に3〜4回ほど受ける)に、コマを設けること(働きかける)によって少しは解消できるかもしれませんね。
ただし、裁判所全体が患者保護の方針を是とするなら困難になるでしょうし、単なる司法批判なら受け入れられないでしょうが。

はじめまして。産婦人科医です。ログを追い切れず、周回遅れなのでROMに徹して今までの議論に追いつこうとしていました。
遠慮のない本音の意見とのことですのでうまく表現できませんが率直に書かせていただきます。
これまでの流れの中で既出な意見なのは承知しています。

徳島前置胎盤訴訟、大和帝王切開訴訟、加古川心筋梗塞訴訟となんでこんな変な判決が出るのだろうという思いが強いです。

なぜ正しい医療行為をしているのに法廷で(医学的に)正しい判断が為されないのか。
もちろんルールが違うというのはここまでの議論の積み重ねで解ってはいますが、それが現実の医療方針にまで影響を及ぼすわけですから、医療も司法のルールで行わなければならなくなってしまいます。
医学的に認められた真実は法廷で認められないのに、法廷で認められた真実はJBMとして医療に影響するという。

この不公平感?というか理不尽さを自ら納得させる為には、先の疑問に対する答えが「司法側に判断能力がないから」となってしまうのは不自然な事ではないように思われます。自分自身はそんなに単純なものじゃないと解ってきましたが、少なくとも司法のルールで医学的な事実、医療行為の妥当性を裁いて欲しくないとは思います。

つまるところ、ある医療行為が妥当だったのか過失があったのかを検証するプロセスに欠陥があると思います。
そこに不信があります。

その意味で第3者機関としての医療災害調査委員会なるものができたとしても、われわれは自然科学者ですから、「真実を明らかにして欲しい」というよく聞かれる言葉のとおり、原告や被害者の心情に左右されない冷たい科学の目で検証する必要があると考えます。

この場合法廷から鑑定という形で調査委員会に検証をゆだねても良いし、医療側にとっては訴訟が起こる事自体がダメージな訳ですから、訴訟が起こる前に当事者双方から申し出ても良い事にします。委員会が正当な判断を下してくれて、法廷の場でも全面的にその判断を採用してくれという前提なら、事前に検証が行われる事によって過誤がない場合には、理不尽なタイプな訴訟は減るでしょうし、その結果過失があれば、被告には法廷でペナルティが課せられます。また過失が無かった場合には原告の救済の為に国が財源を用意する無過失保証制度を整備すべきで、それを認定する仕組みも必要です。

もうひとつ、モトケンさんは性善説に立てないということを何度か書かれていますが、医師としてはやはり性善説に立たなければ医療はできないものだと思っています。医療は不確実なものですから、正解は後にならないと判明しない。そしてその場での判断は全面的に医師にゆだねられるべきであって、最善と思われる判断をしても裏目に出た場合、責任を問われるべきではないはずだという思いです。この辺の認識も溝になっているのだなと思います。

この文を書いている間にも一人入院してきました。自分は未来永劫正しい判断を続ける事ができるかというと、全く自信がありません。いつかは法廷に立たなくてはならないのかと考えると、不安がいっぱいです。

長々と失礼しました。

レトロスペクティブに見たばあいでも、
同じ医師として、相当判断に迷う、困難な症例があります。
現実には、業務として行う場合は、即断即決でプロスペクティブにしなければならないわけで、その場合の過失の有無を検討する場合、議論百出だと思う。だから現場の医師に十分な裁量を持たしてほしい。

検事や判事が判断する場合、異業種の複雑さを良くここまで理解できたなと、有能だと思うことはあるが、やはり素人判断の限界を見せ付けられる場合も多い。
そして、その判断に、トンデモ鑑定医が絡んでいることが多いことを思いいたすと複雑な気持ちになる。ただ、医療過誤を法曹資格者が判断する能力は、決して一朝一夕では育てられないので、最高裁の裁量でも、政治決断でも、憲法改正でも良いので、システムを変えてほしいと思う。

法曹が医療に関して素人だなんて、判り切ったことです。
「0%に近い(とまでは、私は思っていませんが)」判断力を底上げしたり、アシストしたり、チェックしたりする体制が無いことの方が、問題だと思います。

適切な資料を提出したり、誤判と思われる事例をチェックするようなシステムを、医師会や主要学会が未だ構築していない点も、誤判に甘んじなければいけない理由と思います。

司法は医療過誤(民事)の判断はできないと思います。判断ができないために、判決を捏造し、損害賠償請求事件として、賠償金の横領事件とさえ考えられる節があると思います

議論の前に、モトケン様、どなたか、「医療過誤の定義」と「過失の定義」を書いてください、お願いします。この定義により、議論するのが、一番わかりやすいと思います。解りやすく言えば、裁判は訴状によって決まると言われ、訴状の書き方がすべてだからです。
たとえば、県立大野病院は刑事事件ですが、過失の立証証明として、裁判の争点(個々に具体的に記載するべきである)が詳しく書いてないが、この争点は不完全であり、過失は争えないと思います。
えらそうなことを書きましたが、間違いは訂正してください。

医学的な見解については、医師の意見を求めることを前提としても(現行のやり方)、司法が判断し得ないという趣旨ですか?

その場合に、他の多少とも専門性が高いとされている分野(建築など)について司法の判断能力が否定されていない現象と比べて、どこが違いますか?

モトケンさま
医療過誤を判断する能力がほとんど0%に近いというのは、訴訟の勝敗と医学的な過失の有無の相関係数が0に近いという意味です。もちろん、この中には被害者救済的な賠償金の支払いもあれば被告医師側の法廷戦術の拙さによるものもあると思いますが。。。

YUNYUNさま
>医師の意見を求めることを前提としても(現行のやり方)、司法が判断し得ないという趣旨ですか?
例えば「めまいがする」と言って来院された患者さんを耳鼻科に紹介するのか、神経内科なのか、循環器内科なのか脳外科なのか眼科なのか整形外科なのか精神科なのか素人の人が判断できないように、裁判官が適切な鑑定医を選ぶことができていない現状では、司法が判断し得ないと言うべきなのではと考えます。

医療を特別視しろとか、医療過誤に司法介入するなと言う趣旨ではありませんが、現在多くの医師が開き直り、あるいは諦めモードであることも確かです。
小生はむしろこのブログで訴訟の仕組みや法廷戦術などの知識が得られたことを特に感謝しております。

 個人的には医療に関して司法が全く無能であるとは思っていません。
 少なくとも論理的思考に関しては医師と同程度以上にあると思います。

 問題は現状のシステムにあると考えています。いのげ先生に深く同意するのですが、医師同士のディスカッションは医療事故を司法で扱う上で必須ではないかと思います。鑑定書ではダメです。「この鑑定のここはおかしいのでは?」という医師同士の議論が出来ないからです。

 もう一つ、これも深く同意しますが医道審議会の調査能力がほぼ0である点、ここを改善しない限り、どのようなシステムにしても医療者側、患者側双方の納得が得られるシステムは出来ないと思います。

>psq様

裁判官の研修機関として「司法研修所」があります(修習生だけではありません)。
その裁判官研修(誰でも10年内に3〜4回ほど受ける)に、コマを設けること(働きかける)によって少しは解消できるかもしれませんね。

 正直言って、これでなんとかなるようならば苦労はしないと思います。先だってLMnetで先生と議論した「出血性ショック」の事案を思い起こしてください。あれだけの説明をするだけでもかなりな議論が必要となります。まして医療全般となるとその扱う範囲は一人の医師でも不可能な分量です。

 もし効果があるとするならば、「医療ではこういうことは普通にある、普通に行われる」と言うことに関して、各診療科にまたがっての「帰納的推測」を受講者の方が行ってくれる場合ですが、これはかなり困難ではないかと思います(というか、私にも自信ないです)。

 従って、司法で医療を扱うならば裁判官の方々に求めたいのは「医師同士のディスカッションを行い、各医師の言っていることの論理的整合性について判断する」ことになると思います。

医療者でも法律家でもありませんが、他の分野の者として

>他の多少とも専門性が高いとされている分野(建築など)について司法の判断能力が否定されていない現象と比べて、どこが違いますか?
 
についてコメントいたします。
 
 建築と自動車は、先進国における安全基準が緩いことで知られています。ですから、建築家と自動車設計者は文句を言いません。
むしろ、「現行基準のまま取締りを強化してくれ」という種類の文句なら言うでしょう。

 私が知っている分野として、化学製品があります。化学製品は、リンク先の法律に縛られます。
この法律は、主に環境省(と経済産業省)によって運営されます。
 環境省は厚生労働省に比べると朝令暮改性が低く、しかも、制度上のグレーゾーンは少なくなっています。
ですから、大抵の従事者は、裁判沙汰を心配せずに制度を遵守できます。したがって、司法の判断能力を論ずる機会を持ちません。
 
 公的な研究機関が住民運動によって行動を制限されることがあるようですが、そのような場合には、法廷闘争をするくらいなら制限を受け入れることが多いようです。

 海難審判においては、すでに司法による判断が制限されているようですね。

 
・医療と建築の違い
  建築家は安全基準が緩いので司法の判断に対する関心が低い。

・医療と化学工業の違い
  化学工業は司法に判断される事態を滅多に招かない。

・医療と海運の違い
  海運はすでに司法による判断が制限されている。
 
事実誤認等あればご批判ください。私自身、何か書き忘れている気がします。

おそらく医療に関する判断の難しさというのはそれがリアルタイムで進行する業務であり、鑑定者が行なうように座学として検討し得る類のものではないという点につきるのではないでしょうか。
とあるレースドライバーが何故優勝できなかったかと問うに近いのかも知れません。データを元にこの時の進入速度が○km/h速かった、あの時の舵角が○度足りなかったという類の検証は出来る。しかしそれが実際の現場における何かを反映していると考える人間はあまり多くは無いでしょう。
しかし医療においてはそれが可能であると考えられる、むしろその方が不思議なのではないかという疑問は時折感じます。必ずしも全ての例においてではありませんが、特に救急領域においては。

医療訴訟の判決をある程度見ている多くの医療者は司法の医療に対する判断能力をおそらく高くは評価していないと思います。(司法のために書き加えるならば、研修医や他科医に対してもそれは同様であろうと思いますが。)
しかし一方でより詳細に状況を検討している医療者(たとえば、ここにいる人々のような)の中には、それでも感情の赴くままにしか判断し得ない大衆や煽ることしか出来ないマスコミよりは信頼し得るのではないかと考え始めている人も増えつつあるのではないでしょうか?

司法が司法なりのformatに従って判断している限りにおいては、たとえ医療的観点からは不満の残る判断ではあったとしても少なくとも医療側にも対処は出来る。訴えられるリスクは完全には回避できずとも、敗訴するリスクはある程度コントロールできる。それが世に言うJBM(Judgment-Based Medicine)でしょう。
医療の目指すべき方向性としてそれが正しいかどうかという議論はさておいて、logicalな方法論で対応できるという一点だけでも現在の司法はまだしもマシな存在であると考えますね。むろん、logic以外の感情的領域においてはまた別の意見も多々あろうとは思いますが。

No.16について
何もやらないよりは、そういう積み重ねが必要という意味で書きました(直接のやり取りならもっと短くて済みます)。
その最後のメッセージを直接伝えるだけでも意味があると思ったのですが。

>psq様

 ご指摘の通り、直接のやりとりならもっと短くて済むのは確かです。ただ、この間のディスカッションで話した知識は医療の中のほんの数10億分の一程度に過ぎません。
 例えば医学生が利用しているもっともシンプルな教科書シリーズに「標準○○科学」というのがありますが、これだけで24冊、総ページ数は約15000ページあります。しかもそこに書かれていることは「ほんのさわりにしか過ぎない」程度なのです。

 私は外科の専門家と言っていいと思いますが、それでも外科すべてについて完全に網羅しているわけではありません。カバーしている範囲は外科の中のほんの1/1000程度でしょう(これでも明らかに言い過ぎか?)。ましてこの他に臨床16科と呼ばれる広汎な知識が医療全般を扱うとなると必要です。

 医者が一生かけて自分の扱っている専門分野(科ではなく専門分野)の1/10ぐらいの知識・技術を得れば臨床的には名医といえるのが医療だと思います。これを10年に何回かの講義でというのはちょっと・・・、ということです。
 裁判では医療全般についての知識が要求されますから、数年に1回では無理で、せめて数ヶ月に1回ぐらいの講義が必要になるでしょう。要求される知識は医療全般についてではなく、医療を理解するための基礎知識だとしてもです。

 自己引用になりますが
>> 従って、司法で医療を扱うならば裁判官の方々に求めたいのは「医師同士のディスカッションを行い、各医師の言っていることの論理的整合性について判断する」ことになると思います。

 これだけのことを行うにも、せめて数ヶ月に1度の講義は必要になると思います。おっしゃるとおり積み重ねは大事ですが、あまりにも頻度が少なすぎると思います。

医学と法学はまったく違う枠組みなんだということをこのブログで教えていただきました。医療過誤の判決がどうしてそうなるのかも完璧とはいきませんがある程度理解できるようになりました。ただ、法学の枠組みの中で医療を理解するのは0%とは言いませんがやはり難しいのだということも強く感じるようになりました。

3周遅れを承知で

たとえば法学的なアプローチのひとつ、弁論主義ですが、これはある意味裁判官というか人間の判断能力に限界があることを前提に情報を制限して限界が露呈する可能性をできる限り切り捨てるシステムのように思えます。この枠の中での判断でそれ以上でも以下でもないということでしょうか。人が人を裁く上で不可欠な仕組みだと思います。

これに対し医療は最初の時点で限界が露呈しています。医者は神じゃないってことですね。医療のアプローチは人体を問い詰め、暴きたて、隠されたあらゆる生の情報を拾い上げ毒(くすり)をつかって限界を超えようとする、人が人の命を救う上で不可欠な仕組みです。

だから医者にとって弁論主義は真実の見えない節穴にみえますし(ごめんなさい)、法曹は治療法のコンセンサスがない、あるいは例外の多さをみて野蛮さすら感じるのではないでしょうか。

なので繰り返されていますが第3者機関とか、医療裁判所という話には再生なのですが、これが法学スキームの下で運営されるなら意味がないとおもいます。少なくとも人体のカオスを理解している人たちで運営してほしい。これが社会的に許されないのであれば、もう医療は壊れます。いま、本当に現場には力がのこっていません。

 判決が出るまでどっちに転ぶか全くわからないなんて訴訟分野があるとしたら、それは司法が十全に機能しているとは言い難い状況であろうと思います。

 医療訴訟においては、未だに原告が全面敗訴承知でなお戦うという風景がありますが、それにしても、医療訴訟の中で本当に新しいと言えるような争点は稀です。

 その割に、よくもまあ、年々歳々同じような争点で勝ったり負けたりするものです。

 比較的新しい訴訟分野であることを割り引いても、司法が十全に機能しているとは言えない状況であろうと思います。

 能力があるかないかなどという神学論争は無意味でしょう。結果が出せていないのです。

 どこに問題があるかの議論が必要であって、問題はないというところから出発するのは、おそらく得るところ少ないでしょう。

 設問としては、医療訴訟の結果予測可能性が低いのはなぜか、そこには本質的に裁判と相容れないものがあるのか、あるいは漸進的改革によって改善可能な類のものなのか、という辺りが適当ではないでしょうか。

No.23 rijin さんのコメント

>判決が出るまでどっちに転ぶか全くわからないなんて訴訟分野があるとしたら、それは司法が十全に機能しているとは言い難い状況であろうと思います。

 基本的に、司法というか、裁判が必要とされるのは、その時点で、結果がわからない紛争です。結果がわかっている、あるいは、ある程度結果がわかっていれば、そもそも訴訟にならないことが大部分ですから。多くの分野で問題が生じ紛争が起き始め、当初原告側の敗訴の方が多くかったのが、だんだん勝訴が増えてくる、争点について答えが出てきて、マニュアル化、制度等も含め法律化されてくると、その分野の紛争はだんだん訴訟の手続きに乗らなくなってくる。

 別の観点からすると、その分野の紛争について結果がわかるようになり、マニュアル化、再度等も含め法律化されると、弁護士の仕事というのは減り始め、その分野の中の困難事案だけということになります。遠くは、交通事故、現在、進行形なのは、クレサラ等の過払事案等ではないかと思います。

 

 


No.24 L.A.LAW さんのコメント
多くの分野で問題が生じ紛争が起き始め、当初原告側の敗訴の方が多くかったのが、だんだん勝訴が増えてくる、争点について答えが出てきて、マニュアル化、制度等も含め法律化されてくると、その分野の紛争はだんだん訴訟の手続きに乗らなくなってくる。

ご指摘のとおりだと感じます。
医療訴訟が未だ少ないために、(事実認定のゆれも含めて)判例がゆれているだけのことなのかもしれません。これから(その社会的コストを考えるとできればあって欲しくないことですが)医療訴訟がどんどん増えて、(最高裁の)判例が十分蓄積されれば、傷害などの刑事事件や交通事故などの民事事件のように(判例という)基準ができ、医療訴訟でも誰が見ても妥当な判決が出やすくなるというだけのことかもしれませんね。

 L.A.LAW さん、コメントありがとうございました。

 無理筋承知でごねる人がいる以上、訴訟は完全にはなくなりませんが、その場合の勝敗は事前にかなり明らかで、多くは細かい条件を巡る駆け引きに終始しているように思います。

> 遠くは、交通事故、現在、進行形なのは、クレサラ等の過払事案等ではないかと思います。

 交通事故、グレーゾーン金利との比較が好例かどうかは分かりませんが、司法関係者の間では、医療訴訟は既に先が見えてきているのでしょうか。

 進歩の跡は認めざるをえないのですが、それがそういう結果に結びついているようには思えないのです。また、既に先が見えているのであれば、そもそもここでこんな議論が戦わせられているのもヘンな話です。

もし司法のミスを医療で裁かれる国があったとしたら、
法律関係の方は「医療が司法過誤を判断する能力に極めて乏しい」
と考えるのではないでしょうか?

その国ではどういうことが行われるかというと・・・
裁判で敗訴した側の弁護士や上級審で判決がひっくり返された裁判官は、
思考過程に問題があるため、患者として強制入院の上、頭の中をいじられることになる。
患者の診断過程では、いかに法的に正しかったかが問われるのではなく、
いかに医学的に自分の頭が正常であるかを述べなければならない。
患者の検査データは全て基準値内になければならない。
頭部の画像に小さな動脈瘤や梗塞があってはならない。
動脈硬化すらあってはならない。
もし異常がみつかれば正常所見になるまでとことん治療を行う。
患者は検査・治療中でも激務をこなさなければならない。
司法のミスは個人のせいである。気合が足りないからである。
マスコミは連日連夜、司法バッシングを報道する。
なお頭の中をいじる医師は、患者がどんな結果になろうとも責められない。
法的に考えれば、時々トンデモ治療が行われているようである。
トンデモ治療は確率論的に微々たることなので問題ない。

調査とか実験とか、公開の場での討論とか、そういった医学に限らず科学一般で真実を求めるために発展してきた技術がほとんど使われませんからねぇ。
そういう意味では真実を見抜く能力は高くないでしょうね。

一方医療のほうは、しょっちゅう人が死ぬ現場なのでトラブルの生じる可能性は高いのですが、いざ事件となって法廷の場に立ったときに民事・刑事とも十分戦えるような武装をしてはこなかった(あんまし興味が無かった)。
法で生きている人から見れば突っ込めるところは色々あるんでしょうねぇ。でも往々にして医学の本筋からは些細なことだったりとか。

本当に判定する能力が高いかどうかは実験してみるしかないでしょう。
つまり裁判板ソーカル事件みたいなのを仕組む輩が出てくるとか。

ほとんどROMしています.田舎の2次を標榜する中規模病院に勤務する一般・消化器外科医です.

No.23 rijin さんのコメント

>  能力があるかないかなどという神学論争は無意味でしょう。結果が出せていない
> のです。

 強く同意します.司法に医療を判断させることの是非はともかく,現実問題として,医療側として納得できない司法判断が十分に多いため,医療従事者が現場を離れ始め,医療が崩壊しつつあるという事実を直視すべきだと思うのです.
 社会における司法の存在意義について否定するつもりは毛頭ありませんが,現在の医療の少なくない部分が司法によってゆがめられているという事実は現場の臨床医であれば否定する医師はいないでしょう.端的に言えば,司法が医療に介入することで医療がよくなっているか?という問いに対して答えはNoなのです.

>  どこに問題があるかの議論が必要であって、問題はないというところから出発する
> のは、おそらく得るところ少ないでしょう。

 これにも強く同意します.

 さて,本スレである

小生が魔人ドールさまのコメントに一番共感する部分は司法が医療過誤を判断する能力に極めて乏しい(ほとんど0%に近い)という点です。この点に同意する医師は少なくないと思います。

 に関してですが,私は同意です.

大変興味を持って常時ROMさせていただいています。今回のモトケン様の問いかけに対して、私見を述べさせて頂きます。

まず、魔人ドール様の主張には、残念ながら感情的には同意できてしまいます。そして多くの医師がそう思うからこそ、リスクのある診療科から医師が逃げ出している現状があります。現に私も産婦人科医をしておりますが、あまりに理不尽な裁判結果にはため息以外ありません。

それはともかく、私の普段感じている事は以下の方々のコメントでほぼ代弁されます。
老人の医者さんのコメント「医療に関する判断の難しさというのはそれがリアルタイムで進行する業務であり、鑑定者が行なうように座学として検討し得る類のものではない」。
柳様のコメントの、限定された情報のみに基づいて判断する弁論主義(解釈は正しいですか?)と、カオスの集合体である人体を相手にする医療との差異。
僻地外科医様の「医師同士のディスカッションは医療事故を司法で扱う上で必須ではないか」。

また、モトケン様の「性善説に立てない」との御意見に対しては、完全な性善説に立っては裁判が成立しないとの点では賛成しますが、医療現場において医療行為に悪意が含まれ可能性を患者が考えたら、医療行為が成立しないとの点で反対です。更に言えば、重大な過失、または悪意があった可能性に立ち、後になって突けば医療行為など全て穴だらけであることは医者から見れば自明であり、全ての臨床医の脛は傷だらけです。

また、個人的な経験ですが、ある民事訴訟の患者側弁護士さんから訴訟上の相談を受けた事があります。その件では私も医療側が100%正しいとは思えなかったのですが、一刻を争う医療現場では起こりうる事故でした。長時間お話しし、言葉の上では理解して頂けたようですが、起こりうると言う感覚的な溝は埋まりませんでした。大変真摯な態度で私の話を聞いていただけましたが、使う言語と思考体系が全く異なっているとの印象を拭えませんでした。

司法が医療を扱う能力が無いとは私は思いません。時間をかけて理解が進めれば良い形が出来るだろうとは思います。しかしあまりに理不尽と思われる裁判結果が散見される現状では、職業として高リスクな医療が成立しないと考える医療者が多すぎ、医者にも納得できる公平な第3者機関の設置がなければ現在の医療崩壊は止められないと思います。その第3者機関には医者の公開ディスカッションの場も含まれるべき、第3者機関は行政処分の権限を持つべき、司法が扱うのは第3者機関の結論を尊重した民事に限るべき、と考えます。

私は医者ではありませんが、素人の疑問がどうしても解消できないのでお尋ねしたいことがあります。
刑事裁判にせよ民事裁判にせよ、医療に過失があると判断するためには、専門家すなわち医師の鑑定書的なものがあるはずではないですか。それが、医師の皆さんがこぞって批判するほどおかしな内容なら、被告側(医師側)で鑑定書なり意見書なりを用意して、徹底的に論破できるはずではないですか。
そうすると、おかしな判決が出るのは、裁判官が悪いのではなく、原告側のおかしな鑑定書をきちんと論破できない被告側鑑定、あるいは、医学的には相手が間違っていることが明らかなのに、それをきちんと裁判官に伝えられない被告側弁護士に原因があるのではないですか。
裁判官に専門知識がないのは当たり前であって、必要なことをきちんと伝えて、裁判官を説得するのが弁護士の仕事だと思うんですが。

無論、被告側ががんばっても、裁判官の、医師に対する要求水準が高すぎれば、ちょっとしたことをあげつらって、過失だと認定されることもありうるでしょうが。

それと、医療事件の判決をきちんと批判するには、少なくとも判決の原文、できればさらに主な証拠を把握する必要があると思いますが、皆さんは、どこでそうした情報を手に入れているのですか。昔、本屋で医療事件判例百選というのを立ち読みしたことありますが、ウエブで、そんな情報が手に入るところが、どこかあるのでしょうか。

刑事裁判の鉄則を説く「基本講座」?の中に以下の記載があります。

ガイドライン案は、一方で「法廷に提出された証拠だけに基づいて判断しなければいけません。」と言い、他方で「常識に従って判断」するように言っています。(中略)しかし、この作業は、裁判の仕組みをきちんと理解した人間が相当の訓練を受けることによってできることのように思われます。

上記に頷けるのですが、医療に関しても同じことが言えます。あらゆる物事に関する法曹の理解力が一般人と比較して優れているのは確かでしょう。しかし、医療に関して相当の訓練を受けていないのも明らかです。医療裁判でも証拠を評価する上で、相当な(医療の)訓練の裏付けが必要なケースも少なくないと思います。

法曹が裁判員制度に懸念を抱いているのと似たような理由で、医療者は医療裁判に懸念を抱いているのではないでしょうか。

さて本題ですが、私は「現行の医療裁判は合格点に達していない。」と思います。言葉は違えど、本質的に魔人ドールさんと同じかな。

> 建築と自動車は、先進国における安全基準が緩いことで知られています。ですから、建築家と自動車設計者は文句を言いません(No.17 脱福者@第2次産業 さま)

いえ、私の聞きたかったことは、
例えば建築請負の瑕疵に関する訴訟においては、裁判官は建築の素人なので施工に瑕疵が有るのか無いのかは自分では判断できないと思われますが、
建築士など専門家から鑑定意見を聞くことによって、裁判を行っています。
これは医療訴訟における鑑定の利用と、本質的に同じやり方です。
しかしながら、これに対して、施工業者や建築士から、「裁判官は建築については素人であって判断能力がなく、誤った裁判ばかりして迷惑だから、司法は建築紛争から手を引くべきだ」という批判はあまり聞かれません。
なぜか? 医療とどこが違うのか?

建築の問題は簡単であり、裁判官のごとき素人にもある程度理解が出来、正しい判断を下せるから?
建築紛争を手がける弁護士は能力が高く、必ず正しい専門的意見を裁判所に認めさせることができるから?
建築に関しては全ての建築士の意見が一致し、専門的見解に幅が生じないから?
建築士のレベルは一定以上であり、トンデモ鑑定を出すような建築士は存在しないから?

YUNYUN様の仰ることと異なっているかもしれませんが。
患者のクレームならびに法的に訴えられた医師を守るための鑑定機関(判断は裁判所でも構いませんが)を充実させるのが一つの道になるんでしょうか?。
患者側(と言われる)専門外の医者からのトンでも鑑定書の価値を低め、医者が医者を守るための鑑定を相互扶助ならびに科学者の精神で実施する、ことによって、単純ミスと、一定の確率で発生する不幸な結果とを判別することができるとおもっています。
期待権の侵害で何千万の賠償責任については、病気になったことそのものの原因を医者が負わない前提(取り違え等の単純ミスが無いこと)において、よきサマリア人の法を適用することが望まれるように思います。

No33のYUNYUNさんの疑問は医師が絶望する端的な例だと思います。
私はその答えは、こうだと思います。

生き物は人間が作ったものじゃないから。

> 生き物は人間が作ったものじゃないから(No.35 柳さま)

それが、なぜ医師以外には判断できない理由となるのか、わかりません。
例外が多いから予測できないというようなことであれば、医師にだって判断が付かないのではありませんか?

「建築の問題は簡単であり、裁判官のごとき素人にもある程度理解が出来、正しい判断を下せるが、医療の問題はそれよりずっと難しいので裁判官には理解も判断もできない」
という説明のほうが、まだしも共感できます。

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私としては、正直なところ、医師の手による専門調査機関が、本当に正しい医学的見解を見いだすことができるものかどうか、疑問を持っています。
トンデモ裁判の原因の一つには、トンデモ鑑定があることが指摘されてきました。このことは、医師の資格があるというだけでは、必ずしも正しい医学的判断をなしうるという保障はない事実を示しています。
専門調査機関では、特に能力の高い医師を選りすぐって調査員に任命するから、大丈夫だということになるのでしょうか。

もっとも、医療の素人からすれば、鑑定意見の正しさを判断できないように、専門調査機関の見解が正しいかどうかも検証しようが無い訳で、
どんな結論が出されようと受け容れる他はない。
だから、それで医師の皆さんが満足されるなら、まあそれもよいかと思います。
患者側は時々は不満かもしれませんが、刑務所に入る覚悟で暴動を起こす人が、今より極端に増えることはないでしょう(希望的観測)。

>>No.33 YUNYUN さん
建築の分野とは多少異なりますが似たような分野にいた及び親族に建築分野の人間が多く情報を得ているため、レスさせていただきます。

裁判において建築が医療と異なり批判が少ないのは、建築は後から数値で表すことがより容易だからだと思います。

例えば先日話題になった建物の構造計算書はすでに存在するため再計算が可能ですし、例えばコンクリートの品質を調べる際にも調べるコンクリートがそこにあるため後からでも追試を行い易いのです。
また、建築でも湿度や気温等の条件や対象により作業時の条件は変わりますが、医療に比べれば条件の差は激しくありません。
そういった点から建築の分野では医療に比べて数値化を行い専門家の鑑定意見を聞きやすいのだと考えます。

私から見ると病院に来る人間は余りにも品質にばらつきがあるため、取り扱いが厄介なしろものだと感じます。

利益均衡的に考えると、専門の鑑定/調査機関を維持するコスト(事務費用及び医師の人件費)と、調査結果のアウトプット(週に何件の調査報告を発出可能であるのか)が現在の急増しつつある訴訟件数並びにトンでも判決による慰謝料支払いとバランスするのかどうか?
がポイントになるような気がします。

もちろん、
・患者側が納得するかどうか
・医師が納得するかどうか
という観点は別に存在しますので、専門調査機関の鑑定結果に満足されない方は、個別で鑑定を(患者側の)医師に依頼し、それを裁判の中で証拠能力を判断することになるんだと思っています。

全ての専門科で医療結果を確認し、鑑定を下すためのリソースたるや相当なものがありますが、それは医師を守るための投資として医師自身が提供できるかどうかですね…。

生命がカオス系で病気はスペクトラムだからですよ。

誤解を恐れずに書きますね。完全に正しい判断は存在しません。本当に正しい医学的見解なんて存在しないんです。ないものを出せといわれることに本当に本当に絶望します。

人は必ず死にます。われわれ医師はその死の前に全敗しているといっても過言ではないです。少なくとも敗戦経験のあるひとなら、比較的正しい判断、他の案とくらべればどっちかていうと正しいだろう医学的見解が出せるんじゃないかと考えるのです。

医師以外でも判断はできるとおもいますよ。0%とはもちろん思いません。でも真実のスペクトラムの上で医師の方がより正しい方向に分布すると信じることさえ許されないのでしょうか。

以前も他のブログ上で弁護士の方と同じ会話をしてもこの部分はどうしても理解していただけませんでした。

弁護士の方が真実の多面性にアナフィラキシーショックを起こすのはよく知っています。

どうたとえればいいんだろうか。
たとえば多面体があります。みえません。振って1が出たときだけ分かります。振った回数も分かります。これ、何面体かどうやってしらべましょう。1万回振ってみて1が出る確率を調べるしかないですよね。でも、近似できるだけです。

鑑定書はたった一回振っただけ。寝ます。ごめんなさい(>_

横レスですが、
No.36 YUNYUN さんのコメント

> 生き物は人間が作ったものじゃないから(No.35 柳さま)

それが、なぜ医師以外には判断できない理由となるのか、わかりません。
例外が多いから予測できないというようなことであれば、医師にだって判断が付かないのではありませんか?


 医師でも判断できないこともあれば、医師であれば判断できることもあると思います。ある症例が、予測もできない最悪の結果に終わった場合、予測できたかどうかの判断は医師以外には無理でしょう。医師以外の反応は、「医者なんだから予測しろ」というものになりませんか。

 建築であれば、基準を守ってさえいれば、たとえ地震で倒壊しても責任を問われることはないでしょう。でも、医療では法で決めた基準はありませんし、学会のガイドラインを守っていても、保険診療の基準を守っていても、結果が悪ければ責任を問われかねません。

私としては、正直なところ、医師の手による専門調査機関が、本当に正しい医学的見解を見いだすことができるものかどうか、疑問を持っています。

 ここは同感です。まず鑑定の基準作りから始めなければなりません。結果論でいえば、必ずミスがあります。それをどこまで容認するかという基準なしに何を言っても混乱するだけです。また、専門領域が違えば、分からないことも多々あります。外科系だけに関して言えば、我々麻酔科医は鑑定医として優れているのではないかと思っています。(笑

医師と非医師のすれ違いが生じる根本的な理由を推察すると、非医療者側が「医師ならば正しい判断が出来る」という前提に立っているのに対し、医師側は「医師であっても正しい判断が出来るとは限らないし、判断が正しいかどうかを見分けることも出来ない」という前提に立っている点にあるのではという気がします。

一つの症例に対して10人の医師がいれば10通りの対処法がある。その中でいくつかは正解なのかも知れないし正解など元より存在しないのかも知れない。そもそも誰が正解を口にしているかも判断しようがない。医師なら当然の前提としているであろうこういう事情をどれほど理解していただけているのかを疑問に思っています。

医療訴訟の判断において感じる大きな違和感の一つはそれが正しいか正しくないかという観点に従って論じられているように見える点です。明らかにやってはいけないことをやった、それが失敗の最大要因だったというのはむしろ白黒つけやすい。しかし訴訟の場においてそんな事例がどれほどあるでしょう?

医療において明らかな間違いは確かにあるのかも知れませんが、本当に正解があるのか、それがどこにあるのかは誰にも判りません。たとえBJ級の国手であっても。ほとんどの場合においていえることは多くの医師も同じ状況で同じことをしただろう、あるいは多くの医師はそれはやらなかっただろうという程度の話です。10人の医師のうち誰が本当に正しいのかを知る術などないのです。

そうした状況の中で10人のうち都合のよい1人の意見を取り上げて「鑑定医はこう述べている。被告人は誤った医療を行なったのだ」式の議論をされることにどうしようもない違和感を感じます。なぜその鑑定医が正しい主張をしているのか、その保障はどのようになされているのかが明らかでない限り、この方法論は信用に値しません。

 ひとつ思いついたのですが、一般に院内カンファレンスや学会発表の形で事前事後のpeer reviewが行われ、医療水準の維持向上の点で一定の役割を果たしてきました。

 ところが、鑑定書については系統立てて検討・評価する場所も機会もなく、これが水準の向上とコンセンサス形成の上で大きな障碍になっている可能性があるかと思います。

 科学的方法論に近い手法の導入が必要です。

 事後評価で構わないので、裁判所や弁護士会の依頼により、各学会や有志の手によって、全ての鑑定書の検討を行い、評価結果を公表していくなどという仕組みを育てることが、医療訴訟の成熟の上で一定の役割を果たすのではないでしょうか。

…たしか、以前に同様の提案をされた方もいらっしゃったような気もします。

 思いつきですので、諸外国で同様のシステムがあるのか否か、未だ全く調べていません。他に例がなかったとしても、日本の現状を考えれば、寄与が期待できるように思います。

 皆さんの御意見は如何でしょうか。

YUNYUNさん


> 生き物は人間が作ったものじゃないから

それが、なぜ医師以外には判断できない理由となるのか、わかりません。
例外が多いから予測できないというようなことであれば、医師にだって判断が付かないのではありませんか?(No36)

以下の私の論、あまり論理的ではありません。感情論です。

「医師にも判断できない」と思います。
だから、本当はすべてのケースは、一期一会で、医師も含めて他人が過失を云々するのはきわめて困難と思います。
ただ、判断する人を選べるなら、「どきどきしながら黒白はっきりしない治療法を選択し、痛い目にあった経験(結果の大小は問わず、あっちの方がよかったかと思う経験)をいやと言うほどしている、同僚医師」達が口をそろえて、「それでもちょっとまずいね、あそこでこの治療は」というなら納得できると思います。
「医師」といっても現場を離れて十数年の教授、基礎医学の重鎮の先生等の意見は、教科書的な正論にはなるかもしれないけれど、医師以外の人の意見と同じくらい臨床医の心には響かないかと。その人達に「今週3回目の当直、深夜2時の軽度の頭痛、経過観察で返したら後で髄膜炎判明で訴訟」を教科書的に黒白付けられるなら、臨床の現場からは離れようと思ってしまうのではないかなと。

たとえれば、ジャングルの戦場で、「住民誤射」事件を起こした兵士のようなイメージでしょうか。住民は死んでいます。打ったのはその兵士です。
それでも、「まさに、撃たれて、そちらを振り向いたときにちらりと動くものがいたので反射的に撃ったらゲリラではなく近くにいた子供だった」と言う状況なら。
戦場の緊迫感を身をもって知るものに裁かれたい、と思いませんか。
同じ軍人でも第一戦に出たことのないお偉いさんに裁かれたくないと思いませんか。
いわんや金輪際、撃たれるかもしれないと思ったこともない、死の恐怖を味わったことのない人間に、「軍法では、こういう場合は、まず相手に撃つのを止めよと警告し、更に威嚇射撃をし、更に相手が武装していることを確認し、その武器を捨てないことを確認してから撃つと書いてあるでしょう、あなたそれを守ってませんね。守ったら撃たれて死ぬかもしれない、そんな言い訳は通用しませんね」と言われて納得できるかなあ。

「警察官の拳銃使用は絶対だめです。犯罪者にも人権があります。例え凶器を持った犯人にでも警察官は丸腰で確保すべきなんです。」 自ら丸腰で犯人に向かう人の自戒の言葉なら正論です、すばらしいです。でも安全なところにいて、他人にそうせよというのはいかがなものかと。

「汝らのなかで罪なきものが石を投げるがよい」
「涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない」
ともいいますし、
「自らの判断に悔悟の念を持つもの(まともに臨床医やってれば皆そうなると思いますが)のみ、それでもあの判断は問題だというなら、石を投げるがよい」と思ってしまいます。

No.42 老人の医者さん

医事訴訟に対する理解が間違っているかも知れないので、ちょっとだけ説明します。

鑑定人に対する質問は、「あなただったらどうしましたか」というものでは決してありません。

まさに「10人の医師がいれば10通りの対処法がある」ことを前提にした上で、「被告病院の医師が選択した方法は、医療行為としてあり得る、許容できる範囲内のものですか、それとも、まともな医師であれば10人が10人とも選択しないであろう容認しがたいものですか」という趣旨の質問がなされます。思い切って単純化して言えば、「明らかにやってはいけないことをやったか」という点についての意見を鑑定医に求めているのです。

当然、鑑定医の意見が、「自分ならそのような方法は取らないけれども、医療行為として間違っているとは言い切れない」というものになることも多く、そのような場合、基本的に過失は認められない(患者側敗訴)ことになります。

ですので、医療側敗訴判決の根拠となった鑑定では、「多様な対処法があることを前提にしても、その対処法はおかしいと言わざるを得ない」という意見が出ているわけです。

そして、鑑定人はもちろん医師ですから、「10人の医師がいれば10通りの対処法がある」という「医師なら当然の前提としているであろう事情」は、まさに当然の前提にして鑑定しているのではないかと想像します。

※ 先回りして言っておくと、上記の論旨は「医療者側敗訴の事案では、実際に、裁量の範囲外と言わざるを得ない、医学的に間違った行為が行われていた」ということではなく、「その判決の根拠となった鑑定意見が、上記のような言い方になっているはずだ」ということです。この辺りの区別がつかない御仁(老人の医者さんのことではありません)もいるようなので、念のため。

なお、これは私的鑑定(患者側のいわゆる協力医による意見書)でも同様でして、いくら「自分だったらこうやった」という意見が書いてあっても、それだけでは過失の立証には全くなりません。自分なら、そんな内容の意見書はそもそも提出しません。証拠として無価値だから。

もちろん、訴訟の一場面で病院側が「○○以外に取りうる方法がなかった」という主張をした場合に、それへの反論として「△△という方法もあった」という意見を出すことはありますが、それはまた別の話です。

No.36 YUNYUNさん
>例外が多いから予測できないというようなことであれば、医師にだって判断が付かないのではありませんか?
そのとおりです。判断付かない事例が多いと思います。

>私としては、正直なところ、医師の手による専門調査機関が、本当に正しい医学的見解を見いだすことができるものかどうか、疑問を持っています。
同意します。
また、過去の医師側の誤魔化し事例があるため当事者は納得しないでしょう。私は面と向かって患者から「医者は嘘をつく」と言われたことがありました。その頃はまだ若かったので信頼を回復すべく努力しましたが、現在は無理だと感じています。

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