エントリ

 これは、「医療側の意見を求めます。」の続編です。

 以下は、上記エントリへの私のコメントの最後の部分です。

 このような相互理解を妨げる困難な状況にあって、今度は司法側(主に弁護士さんですが)にお尋ねしたいと思います。

 医療過誤訴訟において、適正妥当な裁判をするために裁判官及び弁護士(刑事では検察官)に求められる知識、理解、素養、能力はなんでしょうか?

 私としましては、「当該医療現場における正しい医療行為とは何か」という判断を求められているのではないと思います。
 医療側の民事または刑事の責任を問う前提としては、そこまで認定する必要はないはずです。
 鑑定の諸問題を含めてご意見をいただければ幸いです。

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科学者たる医師の方に診察して頂いたところによると、患者側代理人はもはや処置なし。裁判官も似たような評価のようです。両者とも、社会に好ましく奉仕するには、廃業するか切腹するかしか途はないと思われます。嗚呼。

そこで主に医療機関側代理人についての雑感を申し上げますと、このブログでしばしばなされる指摘が、訴訟の場で正面からなされることが少ないように思います。モトケンさんの仰る「知識、理解、素養、能力」とは違って、応訴の態度や方針に関する問題ですが。

例えば、「大学教授は医療の現場を分かっておらずトンデモ鑑定をする可能性が高いから鑑定人に選ぶな」と言われたことはありませんし(逆に、大学教授の選任を希望することはしばしばある)、「薬剤の添付文書はおかしいから、それに従う必要なんてない」と反論されたこともありません。また、裁判所の選任した鑑定人による意見について、行儀よく疑問を示す程度のことは当然ありますが、「医学的妥当性皆無のトンデモ鑑定だ、こんなのがまかり通ったら医療なんて到底やってられない、こんな暴論をいう奴はテロリストだ、逃散逃散」なんて猛反発されたことはありません(#)。出産事故が争点の事件で、「脳性マヒのほとんどは妊娠中に起こるものであり、本件もそうである可能性が極めて高い。出産時の新生児仮死は関係ない。」という反論に接したこともありません。

# この鑑定が裁判所に採用されると、やれトンデモ判決だ、けしからん、司法は無能だとか言って大騒ぎするのに、何故か、その主因である鑑定が出たときに鑑定医を強く批判することはないんですよね。謎です・・・・。

それから、このブログで医療者が好んで使われる「後だしジャンケン」という批判、即ち、「どんな医療行為も完璧でなどあり得ない。事後的に検証すれば、こうすれば良かったという点は見つかるものだが、その時点でそのような医療行為を選択したこと自体は責められない」という趣旨の反論も、全くないとは言いませんが、それほど目にしません。多くの事案では、「病院の対応は万全でした、いま裁判になってから振り返っても、あのときああしてれば良かったなんて点はありませんよ」という反論がなされます。

私は医療機関側の代理人をしたことはないので、上記のような(おそらくホンネに近い)主張、反論がなされない本当の理由はよく分かりませんが、被告からこのような問題意識を提示しない限り、裁判所がその点について何らかの判断を示すことは考えにくいわけですから、判決においてどう評価されるかはともかく、主張するだけしてみればいいのに、という気はします。

特に最後の点は重要かも。「事後的に検証しても万全ですよ」などと言い過ぎると、鑑定等によって難点を指摘された際の反論に窮するわけで(事後的に検証すれば粗は見つかるものだなどとシフトするのでは前言撤回だし、あくまで万全だったと言い張るのも苦しい)、要するに、正当性の主張を超えて、誇張になってはいかんという当然のことかと思います。原告側代理人にも同様のことは言えて、過失の内容を、立証できる見込みの乏しいものまでやたらと挙げることは、おそらく裁判所の心証形成には逆効果だし、適正妥当な裁判からも遠ざかることでしょう。探索的な主張は止めて(ただし、その前提として医療側から診療経過等に関する証拠が全て開示又は保全されていることが絶対に必要です。そうでないと、患者側としてもあらゆる可能性を考慮せざるを得ない。)、核心となる部分に注力するのが望ましいものと思われます。

なお、医師の方からよく出る意見のうち、「医師は労働基準法違反で働いて疲労していたから責任を問うべきでない」とか、「そもそも司法は医療に介入すべきでない」とか「ほとんどの原告はクレーマーだから、本件もそうに決まってる」という反論は訴訟ではなされませんが、これは、そんなことを言っても裁判所が耳を貸すわけないと代理人が判断したからでしょう。その被告代理人の見立ては、正しいと思います。医師の皆さん、代理人が自分たちの主張を全部法廷に出してくれないからといって、それだけで「無能」とか「手を抜いてる」と看做すのは止めてやってください。


ところで、エントリの趣旨とは関係ないけど、上に挙げた薬剤の添付文書、まさか、製薬会社の人間(非医師)が、医学的知見と全く無関係に書いているわけじゃありませんよね。何らかの方法で、医学的、薬学的な知見が反映されて作成された書面なのだろうと想像します。添付文書がおよそ医療の常識に沿わない不合理な内容なのであれば、そんな記載をさせた専門家の見識が問われると思うのですが、この疑問は的外れなのでしょうか。

> 被告からこのような問題意識を提示しない限り、裁判所がその点について何らかの判断を示すことは考えにくいわけですから、判決においてどう評価されるかはともかく、主張するだけしてみればいいのに、という気はします。(No.1 FFF さま)

訴訟で主張する前段階として、まずは
被告本人から被告代理人弁護士に対して、そのような問題意識を提示すことが必要でしょう。

No.1のFFFさんのコメントを興味深く拝見しました。

他のエントリでもコメントしたことがありますが、民事事件において、お医者さんたちが「トンデモ判決だ!」とおっしゃる判決も、突如としてそこに出現したのではなく、原被告間の訴訟活動の結果として出現したものです。

判決には、例えば被告側の応訴態度といったものも影響してきます。

そういう意味で、具体的な事件で「トンデモ判決」が出現した理由については、判決文や鑑定結果だけでなく、訴訟記録を全て見てみないと検証できない問題だと思っています。

>医療側の民事または刑事の責任を問う前提としては、そこまで認定する必要はないはずです。

法律家以外の皆さんもおられるので、教科書的に一通りコメントしますが、日本の民事訴訟法では、自由心証主義、即ち、裁判における事実の認定を、審理に現れた全ての資料・状況に基づいて裁判官が自由に形成される心証(裁判官の内心に形成される判断)にゆだねる建前がとられています(247条)。

自由心証主義のもとでは、裁判官はその自由な判断に従って事実を認定できますが、その判断は論理則及び経験則に従ってなされなければならないという制約があります。
経験則については、一般常識的なものから専門科学的知識としての経験則までその内容は広範多岐にわたるので、特に専門家しか知りえないような特殊な経験則や高度な科学的経験則については、裁判官が知っていることを期待することはできず、その適用を求める当事者がその存在を証明しなければならないこととされています。

裁判官が事実を認定する心証の程度については、教科書的には、「社会の通常人が日常生活においてその程度の判断を得たときは疑いを抱かずに安心して行動するであろう高度の蓋然性(8割がた確かであるとの判断)」、最高裁の言葉を借りれば、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的な証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる程度の高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである」とされています。
通常人の立場からみて8割がた、なのです。

弁護士などの法曹資格保持者たちは、こうした民事訴訟法の知識を当然の前提として、仕事をしていると思います。

そして、こうした判断(心証)基準に基づいて、最終的に最高裁判所が具体的事件に判断を示したならば、日本国という国家が判断したものとして、弁護士であれ医師であれ日本国民である以上、判断を受け容れなくてはならないということです。


モトケンさんもたまにコメントされますが、忘れてならないのは裁判官も検察官も国家権力を担う公務員だということです。
敢えて誤解を恐れず言ってしまえば、彼らは「日本国そのもの」と言ってよいかもしれません。
もっとも、裁判官や検察官を含めた国家権力も、日本国民が定めた日本国憲法や日本国民の代表者で構成される国会が定めた法律の制約下にあります。
まぁ、弁護士や医師も、法律によって資格が与えられているにすぎませんが。

No.1 FFF さん

たいへん参考になるコメントありがとうございました。

一つだけ誤解を解いて欲しいのは『主因である鑑定が出たときに鑑定医を強く批判することはない』というところです。ここでの議論は、流れとしてその話にあまりなりませんが、鑑定医に関しても某掲示板などでは散々こき下ろしています。(おそらく何人かは共通のメンバーだと思います)

それから、ちょっと不謹慎かもしれませんが、先生が言われるようにここで話されているような本音を裁判の場でぶつけてみたらどうなるだろうという話はたいへん興味があります。今までの判例を徹底的に否定するような主張は、心証に悪影響があるのではないかなどと、勝手に自主規制してきた面があるのかもしれませんね。また、以前の議論で出ていた話ですが、病院側弁護士に対して病院が協力的でないという場合もかなりあるのでしょうね。(ここで勉強させてもらっている医師と異なる一般の医師の場合の、司法のシステムがよくわからないからプロである病院側弁護士に任せっきりだったり遠慮したりという消極性も含む)

患者側代理人が処置なしとは思いません。慎重に良心的にやる限りは裁判官より真実に到達しやすいと思います。協力医の中にどれだけトンデモ医がいるかにもよると思いますが、良心的な協力医に当たれば疑問を何度もぶつけトコトン究明することによって、微妙なニュアンスを理解し真相に近づくことも可能でしょう。(これは日常業務で患者に理解させるために必要な手続で、これ以外の手段で患者を正しい理解に導けないことを、我々臨床医は知っています)トンデモ訴訟の代理人はその手続を蔑ろにした結果としか思えないです。
裁判官は鑑定書から微妙なニュアンスを汲み取り、騙そうとするもっともらしい専門意見と正しい専門意見を鑑別しなくてはいけないのですから、それは無理だと思いませんか?無理だと思うから、きちんとした患者側代理人はいちいち協力医と面談するのではありませんか?

>No.5 元行政さん

 コメントありがとうございます。No.1の冒頭3行は、元行政さんとは別の一部コメンテーターによる言動を念頭に置いた、エントリ違いのつぶやき(笑)ですので・・・・。

 さて、鑑定医に対する批判的検討の点については、私の認識不足であり相すみません。問題は、掲示板等、裁判官の目に触れないところで幾ら批判しても判決には影響しないということでして、第三者的な立場の専門家集団が公的に意見表明できるようであれば結構なことかと思います。

# ついでに言うと、誤った鑑定の中には「不当にも過失を認めた」ものだけでなく、「不当にも過失を否定した」ものも、割合はともかく存在するはずでありまして、もし後者についても「その鑑定は明らかにおかしい」と声を上げてくれることがあれば、その専門家集団の信頼性は大きく増すものと考えます。

 ところで、今までの慣行や判断準則と異なる「ホンネ」をぶつけることについて、訴訟当事者が遠慮する(心証に悪影響があるのではと自主規制する)というのは、私の感覚とは違います。弁護士は、従来の判例、基準に異論を唱えてナンボでして、実際、遠慮なんて全くなく「これまでの裁判所の考え方はおかしい」とガンガンやってます。

 なので、例えば「後だしジャンケン論」が正面切って主張されない理由は別のところ、想像するに、「事後的に見れば他の望ましい治療方法があったことを認めると、そこを原告に強調された挙句、判決でもそれを過大視されて過失と認定されかねないから突っぱねとこう」みたいな思考があるのではないかと。

 ただ、やはりそれは正道とは言いがたいわけで、実態、実情に即した主張で勝負すべきだと思うわけです。デフォルメして言うと、被告は、自分たちの医療行為が80点(完璧ではないが、よくやっており合格点といえるレベル)だと考えるなら、20点取りこぼしたことをアレコレ言われるのを心配して「100点でした」と主張するのではなく、「80点は取ってました、これは充分合格点ですよ」と率直に主張すること。原告も、「何点取りこぼしがあったか」に拘泥してやたらと細かい点をあげつらうのではなく、合格点に達しているのかどうかという本質に絞った議論をすること。

 80点のものを100点だと主張していると、裁判所が鑑定等によって「100点ではない」と認識したとき、評価が80点で下げ止まらないと思うんですね、多分。被告はこれまで誇張した主張をしていたのだから、他の部分でもウソを言っているに違いない、てな思考に進むんじゃないですか。彼らも人間ですから。もちろん原告も、本当は50点くらい(完全にダメダメではないが、求められる水準には達していない)だと思っている医療行為について0点だと連呼していては、こいつらいい加減なことを言っとる、と軽んじられるはずです。

 いずれにせよ、非専門家たる代理人としては、医療者の方に基本的なところから説明して頂き、医学上の問題を法的な主張へと正確に翻訳できるよう努めないといかん、ということでしょうね。医師の方々、原告の側であれ被告の側であれ、できるだけ時間を取って辛抱強く教えてやって下さい(笑)。

以前の膨大な議論は欠片ぐらいしかカバーしておらず、違う観点から書きますが、認識違いがあれば御指摘ください。

その昔(日本では今も?)、患者は専門である医師にすべてを託し、医師は患者にとって良かれと思う治療を施してきました。
現代ではインフォームドコンセントということが言われています。医師は患者にできる限り説明して「理解」してもらい、その同意を得ます。そこには患者の自己決定権が前提とされ、更にその前提には「素人である患者」が理解しているとしなければ辻褄が合いません(単なる訟リスク回避で、説明しても分からないと思って説明しているなら別です)。

医療絡みの訴訟において、医師ができる限り「素人である裁判官」に説明し、理解してもらってその判断をさせることは、患者に理解して判断してもらうよりもそんなに困難なことなのでしょうか。
もちろん、患者の理解は治療前のことであり、裁判官の理解はその治療そのものに関してであるという違いがあります。
また、患者は自分の病気をいわば治したい一心であり、裁判官はそういう立場にはありません。

患者に分かってもらえると信じるその熱心さで、裁判官に説明して欲しいと思いますし、実際に訴訟ではそうしているのではないでしょうか。

もちろん、裁判官も医療の現場が待ったなしの状況であることに、もっと思いをいたすべきだと思います。

そして裁判所も鑑定医の獲得には苦労しているので、すでに出ているように、医療側ということではなく、中立の臨床医を中心にした鑑定医(意見提出程度でも良い)の紹介機関を作り、複数の医師によるカンファレンス鑑定を進めれば、今よりは改善されるのではないかと思います。

No.7 psq さん

>医師ができる限り「素人である裁判官」に説明し、理解してもらってその判断をさせることは、患者に理解して判断してもらうよりもそんなに困難なことなのでしょうか

理解させなければいけない水準が全然違います。患者さんの場合は、こちらの指示通り動くようになってくれればOKで、医学の教科書を超える理解まで求める必要はありません。
さらに裁判では、反対側が嘘情報で惑わせよう(もちろん原告側被告側どちらに関してもありえます)とするわけで、この辺りが我々が弁論主義が悪いと表現する部分です。

議論の流れとはずれてしまいますが、
>No.1 FFF さんのコメント
>上に挙げた薬剤の添付文書、まさか、製薬会社の人間(非医師)が、医学的知見と全く無関係に書いているわけじゃありませんよね。何らかの方法で、医学的、薬学的な知見が反映されて作成された書面なのだろうと想像します。

この時代のマニュアルですから、製薬会社も保身のためオーバーに書いています。ある薬を使っている人に何か少しでも症状が出た場合、製薬会社が完全に因果関係を否定できなければ、その症状はその薬による副作用として添付文書に記載されます。
タミフル→飛び降りもその類です。

>添付文書がおよそ医療の常識に沿わない不合理な内容なのであれば、そんな記載をさせた専門家の見識が問われると思うのですが、この疑問は的外れなのでしょうか。

自己保身のためオーバーに作成した添付文書の結果、その病気に対する有効な治療薬が世の中からなくなっても、極論して言えば製薬会社には何の関心もありません。当たり前ですが、製薬会社の関心は薬が安全にたくさん売れることだけです。(彼らも商売ですからそこのところは責められないでしょう)
最近の議論によく出てくる、脳出血にはペルジピンが使えない→有効な降圧薬が使えない、がそれです。
そこで医師が裁量で救命のためと思って脳出血にペルジピンを使って訴えられたらやってられないと思うのです。

こんにちは、FFFさん。
整形Aです。

あちこちでいっぱいレスをつけて申しわけありません。
僕が出る幕ではないエントリーですが、出てまいりました。
別に絡んでいるつもりではないのです。

あ、しかも今度のレスはFFFさんの意見にほぼ賛成です。

No.6 FFF さんのコメント

>ただ、やはりそれは正道とは言いがたいわけで、実態、実情に即した主張で勝負すべきだと思うわけです。デフォルメして言うと、被告は、自分たちの医療行為が80点(完璧ではないが、よくやっており合格点といえるレベル)だと考えるなら、20点取りこぼしたことをアレコレ言われるのを心配して「100点でした」と主張するのではなく、「80点は取ってました、これは充分合格点ですよ」と率直に主張すること。原告も、「何点取りこぼしがあったか」に拘泥してやたらと細かい点をあげつらうのではなく、合格点に達しているのかどうかという本質に絞った議論をすること。
>
>80点のものを100点だと主張していると、裁判所が鑑定等によって「100点ではない」と認識したとき、評価が80点で下げ止まらないと思うんですね、多分。被告はこれまで誇張した主張をしていたのだから、他の部分でもウソを言っているに違いない、てな思考に進むんじゃないですか。彼らも人間ですから。もちろん原告も、本当は50点くらい(完全にダメダメではないが、求められる水準には達していない)だと思っている医療行為について0点だと連呼していては、こいつらいい加減なことを言っとる、と軽んじられるはずです。

「医療事故と司法制度(民事編)」エントリーでPINEさんとこのことで何度かやり取りしました(なごやかにですよー)。

追いかけやすいように、ナンバーを拾い出しました。以下セ:整形A、P:PINEさん

No32セ、39P、89セ、106P、108セ、149セ、155P、177セ

主な内容は、被告側(医療側)の主張はどうしてこんなにも「トンデモ」なんだろう、というものです。
FFFさんが述べられたように、素直に本質にしぼった主張をすればいいものを、それが裁判の場では何らかの理由で受け入れられないから、逆にトンデモ主張をするのかなー、などと思った次第です。

No.6 FFF さまのコメントに関して。

> 想像するに、「事後的に見れば他の望ましい治療方法があったことを認めると、そこを原告に強調された挙句、判決でもそれを過大視されて過失と認定されかねないから突っぱねとこう」みたいな思考があるのではないかと。

もっともな思考なのではと思うのですが、違うのでしょうか。
というのも、「事後的に見れば他の望ましい治療方法があった」ことについて、自白が成立してしまわないのかということです。
東大輸血梅毒事件などの判例を前にしたとき、「他の望ましい治療方法があった」ということや、あるいはNo.32 整形Aさんの示された例で言えば「9年前の時点でガラスは入っていた」という事実について、あっさり争点から外してしまうというのは躊躇して当然ではないかと思うのですが。

民事訴訟を誤解した考えなのでしょうか。どなたかお教えいただければ幸いです。

また、

> 弁護士は、従来の判例、基準に異論を唱えてナンボでして、実際、遠慮なんて全くなく「これまでの裁判所の考え方はおかしい」とガンガンやってます。

最高裁判例に反した主張というのは実際のところどの程度通るのものなのでしょう。
なんだか「一般条項は負け戦」という言葉を思い出してしまうのですが。

>ピエールさん

最近の議論によく出てくる、脳出血にはペルジピンが使えない→有効な降圧薬が使えない、がそれです。

ベルジピンを使って患者が死亡した場合、問題になるのはベルジピンが禁忌であるかどうかではなく、ベルジピンと死亡との因果関係を立証することが必要になると思います。

調べた限りでは、ベルジピンと死亡との因果関係を立証することはそんなに簡単ではないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

「ペルジピンと死亡との因果関係を立証することはそんなに簡単ではない」場合の死因は何を想定しているのですか?
 ここでの文脈では「脳出血(死?)」の場合を想定していると仮定してみます。添付文書の禁忌をみると
(1)頭蓋内出血で止血が完成していないと推定される患者[出血が促進する可能性がある。]
(2)脳卒中急性期で頭蓋内圧が亢進している患者[頭蓋内圧が高まるおそれがある。]
とあるので,裁判所は「死亡との因果関係を立証」したと判断するでしょう(東大ルンバール事件:訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく…)。
 これに対して当該事案が「特段の事情」にあると医療側が「立証」すれば,因果関係を否定する判断をすると思います。

>pataroさん

ペルジピンを問われている裁判では、

ペルジピンを頭蓋内出血で止血が完成していないと推定される者に対し投与することが禁忌とされているのは,ペルジピンの投与により投与された者が急性期再出血が発症することが考えられるからであり
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20060914115139.pdf

とありますので、ペルジピンの投与が急性期再出血を引き起こしたことが明確に立証されない限り、ペルジピンの投与に対して過失を問いにくいのではないかと解釈します。しかし、急性期再出血を容易に起こすような薬を医師が使用する事も考えにくいので、現実的には無理だと思うのですが、いかがでしょうか。

FFFさま
(No.1のコメントに対して)
数ヶ月前くらいからFFFさまとはこのブログで何度か議論させて頂きましたが、当初はその考え方のあまりの食い違いに何かウラがあるのではないかと疑ったくらいでした。大変失礼致しました。これまで多くの医療過誤訴訟の判例を積み重ねた現在に至ってもなおNo.1のコメントにあるような問題点が全く解決する方向に向かっていないという現状を改めて認識いたしました。
医療過誤訴訟というのは医師ならば生涯に1回あるかないか(産科医は別ですが)の頻度です。まさに晴天の霹靂、自然災害と呼べる頻度です。医療訴訟を多く手がけている原告弁護士と違い、被告医師にとっては勝敗よりも、災害が去って行くのをただ静かに待つような態度で臨んでいるように見えます(小生の医局の友人医師など)。
>病院側弁護士に対して病院が協力的でないという場合もかなりあるのでしょうね。(No.5 元行政さまのコメント)
つまり、法廷の場で互いが弁論し合い、紛争の折り合いを決定しなければならないのに、医療側には闘う意思がかなり欠如している。(さらに賠償金は保険会社が支払う)
(原告と被告が真剣に議論を闘わせ合わない訴訟類型って他にもあるのでしょうか?)
他の業界(建築業界など)と異なり、医療が純粋な営利活動でなく訴訟などに対するリスク管理がしっかり行われにくいこと、さらに敗訴と言う結果が収益の減少ではなく、医療の荒廃(医師の逃散、診療の拒否など)という方向に向かうことなど。
これらが、良い判例が積み重ねられることもなければ、制度が改善される方向に向かわないことの一因なのでしょう。
医師が、一生に一度遭遇するかどうかの医療訴訟にどう真剣に対応するか、やはり医師会や保険会社あるいは第三者機関が制度として対応していくしかないかと思うのです。
現状では、医師会や学会が当事者以外の(議論好きな)医師を代弁者として証言するようにすることもより望ましいかと思うのですが困難な部分もあるのでしょうね。

少しエントリの内容からずれるかもしれませんがコメント致しました。申し訳ありません。

しまさん、pataroさん
レスありがとうございます。
自分は整形外科医で、専門外なので詳しい医学的な内容にはお答えできません。ごめんなさい。

言いたかったのは添付文書の問題でして

最も効果の高い薬が使いにくくなり、現場での選択肢が減ってしまうけれども、製薬会社も自己保身のためには懸念のある副作用に対しては添付文書に記載せざるを得ない状況である。
医師の裁量で行った治療でも結果が悪ければ、添付文書違反という論点で訴訟に遭うリスクを負わざるを得ないわけです。

ということです。
No1のFFFさんのコメントの、「医療の常識に沿わない不合理な内容」の具体例のつもりでした。

>FFF様

# ついでに言うと、誤った鑑定の中には「不当にも過失を認めた」ものだけでなく、「不当にも過失を否定した」ものも、割合はともかく存在するはずでありまして、もし後者についても「その鑑定は明らかにおかしい」と声を上げてくれることがあれば、その専門家集団の信頼性は大きく増すものと考えます。

 実は私もこれはやらなくてはいけないんではないか・・・と思っています。現状ではこちらでも原告勝訴の検討が多いですが(新聞記事もそちらが「圧倒的に」多いため(苦笑))、原告敗訴の症例でもその過程に明らかな過誤があるものを見つけ、検討できないかと思っています。

しまさん,どうも。
 判決文によれば,添付文書の内容をもとに,〇澤譴粒稜Г鬚靴討い覆い海函き⊇亰豎稜Щから1:20後では止血していないと考えるのが医学的に相当という理由から,ペルジピンの投与に対して過失を認めています。
 一方,因果関係を裁判所は認めていません。急性期再出血がない証拠として,出血量がCT画像上の経時的に減少していること,ペルジピン投与をしなかった場合,患者がなお生存していたとする「証拠」がない点(おそらく原告が十分な主張をしていないのでしょう)をその理由としています。
 なお,裁判所は,ペルジピン使用に関する判断の前に,カテーテルによる動脈損傷出血を医師の過失として認め,,その過失と死亡(くも膜下出血→脳動脈れん縮)との因果関係を認めています。
 つまり,ペルジピンに関する判断はなくてもよかったのです。被告の負けは確定した上での判断です。いわゆる「判決理由の蛇足」に類するものでしょう。そういった背景事情にも目配せしたいものです。
 ところで脳動脈れん縮の治療ってどうするのでしょうか?

No.18 pataro さんのコメント | 2007年05月11日 22:28
すみません,スレからはずれますが,

ところで脳動脈れん縮の治療ってどうするのでしょうか?

それこそペルジビンです(笑).
他に脳の酸素消費を減らすためにペルジピンと同じジヒドロピリジン骨格を持った鎮静薬であるドルミカムを使ったり,低体温療法を行ったりします.

 薬品の添付文書を金科玉条としている医者は、その薬についてよく知らない専門外の医者か不勉強な医者かのかといってよいと思います。(もちろん薬品によっては添付文書に書いてある使い方しかしない場合もあるでしょうが)
 ちゃんとしたエビデンスがある使用法でも厚労省は認めていない場合など山ほどあります。その場合どうするかは医療関係者なら誰でもわかりますが、ここでは誤解を招きそうなので書きません。
 法律だって拡大解釈が許されたり許されなかったり、場合によって違いがあることはわれわれ法律の素人でも知っていることですしそれは理解できます。
 相手の立場になれる人なら専門外のことでも完全には無理でも少しは理解可能ではないですか?

「医薬品の添付文書は信用できない」との意見が多く「むしろ害毒」と言わんばかりのコメントまで有りますが、行政や司法も含めたコンセンサスは無いのでは?

厚生労働商(省)の委託(か委任?)を受けて業務を行う医師が、同じ出自の文書を否定する事態とは・・・

「薬業者と監督官庁の責任逃れ」との批判は良く理解できますが、なぜそこから改善が成されないのか、一市民には理解不能です?

>添付文書は信用できない

ちょっとニュアンスが違います。真実を完全には表現できていないということです。できるできないで表現するのは間違いのもとです。信用度という尺度があったとしたら、機械の取説には遠く及ばないし、及ぶものも作りえないが、それなりに信用できるし、利用もしている。ただ実際の医療では、補足する知識は必要であるし、例外も少なくないということです。

>コンセンサスは無い

医療側は事実だと確信しているので、司法にそれがないことを問題にしています。行政に関してはある程度分かっていますが、省内の基準をおいそれと変えることもできず、他に仕事はたくさんあるので、良心的な官僚でもボチボチ改善していこうくらいのスタンスだと思います。(同じような問題である薬の認可の問題すら解決できていないことを見れば、理解できると思います)

>なぜそこから改善が成されないのか、一市民には理解不能

添付文書は通達と同じ範疇に入ります(業者が出しているという形式なので、少しはマシですが)。どれだけ批判があろうが、どれだけ傍から見て矛盾があろうが、それを変えないことに対する官僚の執念は凄まじいものがあります。

MultiSync@一市民さん

 厚生労働省を否定などしていませんよ。その枠内で最善の医療をしたいと思うとき、添付文書は治療上のスタンダードではないと言っているだけなんですけど。

 添付文書を「遵守」しなければならず、かつ最善の治療を施したい医者は、「なんとか工夫して」この矛盾した状況を切り抜けるのですよ。
 
 それを、断罪されるのは非常に辛いことです。

 改善(添付文書をミニマルスタンダードにという意味でしょうか)といっても、医学には日々新しい知見が集積しているのですから、添付文書が現実と合わない場合がでてくるのは避けられませんね。添付文書だろうが教科書だろうが同じです。

 目の前に患者がいて今すぐ治療しなければ手遅れとなるといった場合に、「添付文書にないから」と言ってその治療をしないのはおかしいと思いませんか?

 私が言いたいのは、そういう現実を相手の立場になって考えず、安易に批判したり、相互理解は困難だとあきらめてしまうのは少し短絡的なのではないかということです。

御返答感謝いたします。
責めるつもりは無いのですが、先生の抱えるプレッシャーになっている訳ですね。

添付文書ですが、スタンダードでなく補足や例外があるなら、マニュアルとしては使い物にならない意味ですね。

記入にはほぼ嘘が無くても、それを脇に置いて他の資料で仕事をしておられるなら、添付文書は、誰かの責任逃れでしかなく、逆にそれによって先生方は責任を追及されかねない。

ならば、添付文書が医師の仕事と生活を脅かすのは明らかで、良い医療を行う為には邪魔物ではないのですか?

司法に文句を言う以前に行政を何とかする努力、それを役人が嫌がるなら覚悟がいる事にもなり同情を禁じえませんが、頑張るべきでは?

ーps−
建設行政では、構造偽装問題の広がりのおかげで、建築確認の審査に詳細な構造検討を加えることになりました。
今現在はその過渡期に有るおかげで、今現在は確認を受けるのに2ヶ月以上待たされるような状況です。
コスト・時間とも大変迷惑でもありますが、役所が動くにはとてつもなく大きなエネルギーが要る例でも有ります。

P R

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