エントリ

 医療崩壊問題に関する司法側の問題について、システム的ないし制度論的に考えることのできる医師はどれくらいおられるのだろうか?

 おられることは間違いない。
 少数派であったとしてもかまわない。

 しかし、その数が増えていく可能性がないならば、このブログでこれ以上議論を続ける意味が見出せない。

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コメント(113)

ひーん、がんばりますのでそんなこと言わないで下され。
感謝してるです。

最後と書いてまた書くのもなんですが、
システム的ないし制度論的に考えるとはどういうことなのでしょうか。
今の状況、裁判制度を認めた上で医療を裁くのであればどうやったって医師は裁かれるでしょう。あるいは民事で多額の賠償をせねばならないでしょう。
ここに来ている医師は多くが正しい医療を行っている、しかしそれなのに司法が認めないと主張しています。
僕の認識は違います。正しい医療をいつも行える医師はいないのだ、もし明るみに出ずに患者さんから責められることのなかった全ての医療行為も掘り出せば必ず訴訟の対象になるものが見つかるのだという想いです。

医療事故が生じた特別の状況を説明をしても、法曹の人は、それは認められませんと簡単に言う。
裁判官は予断を持たずに判決をくだしているという、そうではないことは立木先生の紹介したHPが証明しているのではないか。
鑑定医が悪いから医師の自己責任だという。僕だってこのことについては一応提言はしていますよ。議論をした後の鑑定ならかまわないと。自分が重視しなかったり、気づかなかったことで大事なことに議論の後に始めて気づくこともあるでしょう。真実がほしいなら、なぜ医師に議論させないのか?今のシステムから逸脱することにはほとんどコメントしない、われわれの役目は現在の法体系の中で与えられた条件で判断する、あるいは主張することだと言われてもちっとも安心できない。

もう一度聞きたいのは、システム的ないし制度論的に考えるってどういうことですか。現在の法体系のなかで行われていることを逸脱しないで少しでもいい方法を考えましょうってことでしょうか。それなら、僕が安心して医療を行える日は決して来ない。

医師側もですが、debate合戦をしているだけのようにもみえて急に自分の感覚が変わりましたが、それまではずっと感謝しておりました。今でも感謝はしております。絶望もしましたが。

多くの医師(全てではない)が医療を救命行為(人助け)と考え使命感をもって取り組んでいる部分が多く、例え民事であれ訴えられるということに対する恐怖感や敗北感がかなり大きいことは事実だと思います(なかなか割り切っては考えられない)。
法律すれすれのあこぎな商売で何千万も貰ってるんだから訴えられる(民事訴訟)のは覚悟の上と考えている医師は少ないと思います。

>で、司法=自然災害と思えば達観できるわけです。(峰村健司さまNo.73のコメント)
ここまでは達観できなくとも、訴訟を回避するために制度に対しては制度(法律的なテクニックや知識)で対応するしかない訳です。医療レベルは全く変わらないが一種の必要悪でしょうか。空しいとは思いつつも、カルテの記載方法、薬剤添付文書、鑑定医や協力医の選び方、争点など。ヤバイ裁判官は避けるようになどなどは勉強させていただきました。
きっとマスコミなどに対する対応ももっと重要なのでしょう。

医療崩壊そのものの原因は、低社会保障費(超低医療費)、地域や弱者切捨て(大企業癒着型)の現政権の政策などが根底にあり、医療過誤訴訟の問題はその一面として現れているように見えます。
国民全体(法曹、特に裁判官を含めて)が地域格差、医療格差(医療レベル)について議論するべきなのは確かです。

>しかし、その数が増えていく可能性がないならば、このブログで
>これ以上議論を続ける意味が見出せない。

主催者にそれを言われると、こちらもつらいですわ。
僕の中での医療崩壊関連論議の優先事項は、
1 医療変容のなかで、状況をどう捉えて、どう行動すべきか、 であって、
2 制度論的に、どのように修正努力をすれば、崩壊を起こさず調和的に収束できるか
ではないです。

モトケンさんは、立派ですし、僕もそれらに大いに依存しているのですが、残念なことに、医療崩壊をきたした様々な矛盾は、もはや、調和的に建設的に修正することなど出来ません。

1 医療関連事案の紛争解決の場としての現行の司法制度
2 医療費抑制政策といわれる現行の福祉医療経済政策
3 マスコミによる医療バッシングやクレーマー患者の存在
4 日医−医学会ー教授会の、ギルドとアカデミズムの封建制
5 厚労省による医師酷使政策(労基法無視、諸種の義務化志向)
6 トンデモ鑑定医や、ごく一部のリピーター医師

現行の司法制度は、上記のような、問題点と複合的に絡み合っています。仮に、最高裁、検察庁、医師会、医学会、厚労省、政治家のトップ級が集まったところで、彼らは現場の危機感を知らないわけで、良い知恵が出るはずもありませんし、せいぜいイニシアチブの競争をするか、あるいは、牧歌的な交流会の場になるだけでしょう。うまくいけば、良い大人の知恵を出すかもしれませんが、遅々として実効的なモノにはならないでしょう。

ですから、診察待ち時間が一週間以上になり、救急車が空しく何時間も道路を彷徨い続け、病院ではなく各家庭で医療難民老人を棄民する事態になり、銀行が病院をマネーゲームとして売買し消費するような地獄の、一歩手前の状況が現実化しないと、何も変わらないと思います。

僕から見れば、モトケンブログは、
1医療崩壊の実態を記録し、原因を明らかにする
2ハイリスクor過酷な労働環境にある医療労働者を救援する足場を作る
3闘う医師を増やし、法曹の理解者をふやす
ための場です。
システム的ないし制度論的に努力することに、積極的に関わろうとする方々の誠意は認めるし、敬意も払いますが、自分はそうする時間はありません。

モトケンさん、それでここに、僕が居るのは好ましくないですか?

モトケン先生らのブログを読んで単に臨床するだけでなく、患者の啓蒙および誤解の解消に努めるべきだと思うようになっています。

医療紛争のADRの最も良い担い手は、医療を理解している医師であると思って、制度を理解すると同時に、他人に声を掛ける前に個人でADR事業者となって、ADRの使い方を体験してみようと思っています

交渉スタイルを自主交渉支援型調停・妥協要請型調停・評価型調停のどのスタイルを採ろうか迷っていますが、医師であることを最大限に活用するには、まず患者の訴えの内容を把握して分析する評価型の力を温存しつつ、妥協要請型が良いのかなぁと思ってます。
患者側の訴えの中心が賠償でなく、医療システムの改善であるとかであるなら、ADRで妥協できる余地は十分あると考えてます

ADR自体が、今年の4月から認められたばかりの制度です。私自身の法律の勉強も遅れがちで、偉そうなことを言えた分際ではありませんが、大上段に厚生労働省や医師会に押し付けられる前に、自分たちで医療制度を支えるシステム作りを考えてはいます
司法試験を経なくても、弁護士の先生方の補助を頂いて、紛争の仲介を業として行える道ができてきたのですから、、、、、

今は匿名ですが、そのうちに直接ご指導を伺いに参るかもしれません。
どうぞ長い目で見守ってくださるよう切にお願い申し上げます

 例によって私の言葉足らずだったかも知れませんが、「システム的ないし制度論的に考える」というのは、司法制度がどういう状況を前提にして何を目的にして存在しているのか、そのためにどのような制度設計がなされているのかを理解し、少なくとも理解する努力をした上で、関係者、すなわち当事者である医師、患者側、医師側代理人、患者側代理人そして裁判官はどのように行動すべきかを考える、ということであって、システムや制度(の変革)を考えることだけを意味したものではありません。

 「制度論的」の「的」はそういう趣旨です。

 したがって、座位さんの指摘した

1 医療関連事案の紛争解決の場としての現行の司法制度
2 医療費抑制政策といわれる現行の福祉医療経済政策
3 マスコミによる医療バッシングやクレーマー患者の存在
4 日医−医学会ー教授会の、ギルドとアカデミズムの封建制
5 厚労省による医師酷使政策(労基法無視、諸種の義務化志向)
6 トンデモ鑑定医や、ごく一部のリピーター医師

現行の司法制度は、上記のような、問題点と複合的に絡み合っています。

は、私の意図に沿うものです。

 私の意図の対極にある意見は、いうまでも無く魔人ドール氏 のような意見です。
 はなから司法の医療介入を拒絶するような人、そこまで言わなくても司法制度の何たるかを理解しようとしない人(理解したつもりになっている人も同じ)と法律家が議論するのは不毛です。
 

 医師以外の人にとって医療を理解することが困難であるのと同様、法曹以外の人が司法制度の実態や実情を真に理解することは困難です。
 お互いに理解が困難であることを認識した上で理解しようという意思がないところに相互理解など成立しようがありません。

 最近指摘したことですが、私が医療崩壊問題を意識して最初に立てたエントリのタイトルは、「医療崩壊に対する制度論的対策について」でした。
 そしてそのきっかけになったのは、2006年08月05日に書いた「地方の医師不足」です。
 そのNo.138 モトケンのコメントにおいて、私は

最近、このブログは掲示板化しているようですが、掲示板の議論で勝った負けたということ自体がナンセンスだと思います。

 そもそも建設的な議論というのは勝ち負けを問題にする議論ではないと思います。

 私としては、意見の異なる人たちがそれぞれの意見を述べ合って、相互理解に資するならば、このブログが掲示板化しても何ら問題ありませんし、望ましいことと考えています。
 ただし、「相互理解に資する」というのが条件です。

 と書きました。
 実質的にはこれがこのブログの医療問題関係エントリの出発点だったと思います。
 その意味で、これ以上相互理解が深まらないのであれば、このブログで医療問題を議論する意味がないことになります。

補足
 相互理解の意思なくして相互批判が行われた場合、さらに溝が広く深くなるだけだと思われます。
 そうすると、意味がないだけでなく、有害ですらあります。
 謹慎明けさん、絶望というのも相互理解の意思を放棄するという意味で同じだと思います。

>これ以上相互理解が深まらないのであれば、このブログで医療問題を議論する意味がないことになります。

少なくない医療者が現状の行く末に医療崩壊という現実が待ち構えている、そしておそらくそれは高い確率で不可避だろうと考えているでしょう。
別に必ずしも理解されずともよい、あるいはどうやっても理解はされないかも知れない。しかしそうではあっても説明責任は果たさなければならないと考えている者もまた多いのではないでしょうか。

黙っていても理解してくれるなどというのは幻想であって、言うべきことを言っておかなければ確実に「負け」とみなされるのだと多くの者が学びました。
結局のところ何が、あるいは誰が悪かったのかということを最後の瞬間まで追求しつづけることが意味がないとは自分には思えませんし、当事者同士が直接語り合う場が無用であるとも思えません。

こんにちは、整形Aです。

まずはじめに、このような議論の場を提供してくださったモトケンさんに感謝するとともに、時に感情的になりがちな医師のコメントに対し、丁寧かつ冷静に、そして根気強く対応してくださったYUNYUNさんはじめ法曹の方々にお礼申し上げます。

その上で・・・我々医師を見捨てんといてー。
今医療従事者は、追い詰められて、ストレスの固まりになっています。そのための感情の発露としての暴言や放言です。本当は誠実で、診療に熱心な人間が圧倒的に多いのです(多分)。

ですから再度、見捨てないでください。

ところで、「司法側の問題に対して」という問いかけなので、それに対する返事をいたします。

民事に限定なのですが、僕はすべての医療過誤の訴訟において、病院、医師のみならず、保険者、厚労省も被告に加えることを提案します。一種の行政訴訟とするわけです。

現在の医療事故の多くは、保険医療のシステムに起因すると思われます。
例えば、医師や看護師などの人員不足、低廉な医療費などです。実際に健康被害にあった患者さんも被害者ですが、事故を起こした医療者もシステムの犠牲になった被害者です。

ところが医療訴訟では、被害者同士が闘う状況になっていて、システムの設計者、管理者は高みの見物を決め込んでいます。
彼らを訴訟の場に引きずり出せば、いつまでも高みの見物を決め込んでいられません。

例えばリピーター医師の問題ですが、現在の訴訟だと、何度医療ミスを繰り返しても損害賠償金は医賠責から支払われるので、リピーター医師はさほど痛痒を感じません。
しかし保険者が当事者になればそうはいきません。
リピーター医師とは契約しない、つまり保険医登録しないという手段が取れます。
そうすればリピーター医師、医療機関はおのずと淘汰されていきます。

また、裁判で「ミスは人手不足による。そして人手不足は現在の保険医療制度に起因する」という判決が下れば、保険者、厚労省といえども放置するわけにはいかず、早晩保険医療制度の改革に取り組まなければならなくなるでしょう。
これは被害者側の願いの一つである再発防止にも寄与します。

支払う賠償金は、ミスの程度に応じて、後は被告側で按分すればいいと思います。
単純な医療現場のミスであれば、病院が全額支払い、さらに保険上のペナルティーも科せられる。
一方制度に起因する要素が大であれば、これは保険者、国が応分の負担をする。

こうした事例を積み重ねることにより、制度設計者、現場が緊張感を持って医療を行なうことになり、日本の医療がよい方向に向かう可能性があると思います。

たとえ今回これで議論が終了したとしても、
「かつて公開議論があった過程が、いまだに公開されている」
後々興味をもった方が過去ログを読み参考にすることができる(量が膨大なのが難点ですが)。これは大変意味が大きいと思います。SNSではできないメリットですね。

モトケンさま

うーん、コメントしてない人たちがいて、そういうひとは多分、何も言わずに考えているんだろうと思います。
議論を見ている目、というのがあって、一見、半永久的につづくような議論であったとしても、
それを見ているものにとっては、なるほどと、勉強になる訳で。
つまり、司法を理解しようとしない医療者がいればいるほど、
そしてそれをなんとか説明しようとする法曹の方々がいて、議論があればあるほど、
あとからきたもの、無知なものにとって、なるほどー、と勉強になる訳です。

コメント欄に見えない、このブログの訪問者のなかで、確実にその数(司法を理解しようとする目)はふえていっているのではないかと。見えないからわからないんですけど、
見えないところに、大事な事があったりするわけで。

>しかし、その数が増えていく可能性がないならば

可能性なんて書いちゃったら、ないわけないじゃないですか。

トンでも医師や、クレーム患者、トンでも判決。司法を理解しようとしない医師。
いやなものは目立つものです。
でもどの分野もその背後には、ちゃんとした(望ましくは)多数の人たちがいるはずなんです。

司法の方々
裁判所に出された証拠を元に考える。
提出された証拠外のことを引っ張ってこない。
提出された証拠に対する反訴をする。

裁判官はこの判決によりどれだけの萎縮医療と逃散を招き、どれだけ国益に反するかなんてことまでは考える必要はない。
目先の仕事を規定どおり処理するだけ。
結果的にえん罪でも、人の生活を破壊したとしても国に委託された職務を遂行しただけ。


医療者
患者の提示する所見を元に考える。
その診断を確信のあるものにするため検査等を追加する。
診断された疾患に対し、妥当と思われる治療法を実行する。
その患者の社会的環境等まにはそうそう介入しない。(心身症・神経症のベースが家庭環境だったり会社だったりしても離婚しようとか転職しましょうなどという介入はそれが原因療法としてもできない)

医療もその医療行為をすることによりGDPにプラスになるのか将来の国家財政を圧迫するのかなんていちいち考えません。
非難轟々は承知で・・・・
その方に血糖降下剤を出す事は国益になると思いますか、GDP圧迫期間を長くしているだけではないですか。
その脳循環改善剤、ホントに必要ですか。
その子どもが出生したとしても幸せになれますか、国家予算を圧迫するだけの存在になりませんか。
こんなことは故意にか自然にか医師は考えないようにして目先の患者を治療していきます。


限られたリソースを有効利用する制度としては似たり寄ったりだと思いますが。
どちらも仕事の仕方として規定されているのだから仕方がない。


食物連鎖の上のほうにいるつもりだったのが、実は結構下層のほうで、司法や報道に飯のタネとして喰われはじめただけだと思います。

治療上有害事象が発生したら次回はそれを回避するように努力します。
司法がGrade4の有害事象として作用するようになってしまったのだから、
それを回避するように努力するしかないと思います。

> No.8 整形Aさん

ある医療過誤の原因が、保険医療政策の失敗にもあるかも知れない。それ自体は理解できるのですが、そのことと、「医療過誤の被害者が病院と行政を同時に訴えるべし」というのが何故つながるのか、ちょっと分かりにくいかなと。

現在の訴訟制度でも、病院が行政(国)を訴えることは何ら禁止されていませんから、ひとまず医療過誤によって生じた損害を病院が患者側に弁償し、そのうち、「過誤が制度に起因すると考えられる割合」について、病院が国に請求するという手順をとることは可能です。

また、その医療過誤が、現場における単純なものなのか、制度に起因する面が大きいのかについて、患者側が認識・把握・立証するのは困難であるのに対し、病院側は過誤の当事者として詳細な経緯を知る立場にあり、かつ、専門的知見(医学的知識、地域における医療水準の実情、医師の労働環境、医療行政の実態等)も豊富に有しているわけですから、行政を訴える主体は、患者でなく病院とした方が実際上もスムーズです。だいたい、医事訴訟における病院側の主張は、「過誤の原因は行政にもあった」ではなくて、「そもそも過誤なんてない」というものですので、行政に対する責任追及(何らかの医療過誤が認められることが前提)に必要な上記のような情報を、病院側が原告側に提供してくれるはずもありません。その上、「医療過誤があったか」と「過誤があったとして、その一因は医療行政にもあったか」というのは別次元の議論なので、これを同時に審理するというのも無理があると思われます。

とにかく、病院も医療行政の「被害者」であるというなら、被害者が、加害者たる国を訴えることに何の遠慮もいりません。今からでも遅くないので、既に病院に賠償を命じる判決が確定した事件についても、「医療過誤が生じた責任の何割かは国にあるから、患者に払った賠償金の一部を負担せよ」という訴訟を起こしては如何でしょうか。

もちろん、「ある過誤について、原因が一部であれ行政等にもある場合には、その過誤をした主体の責任は免除されるべきである」という考え方に立てば、上記のような構成(まず病院が患者に弁償し、その一部又は全部を病院から国に求償する)にはならないわけですけど、私には、そのような考え方(*)が妥当とは思えませんし、現実問題として、裁判所もそのような議論は一蹴することと思われます。

* 「居眠り運転のバスが歩行者を轢き殺したのは、運転手の劣悪な労働環境を是正しなかった運輸行政、労働行政にも原因がある。その運転手とバス会社は賠償責任を負わず、国が全額弁償すべき」
「ジェットコースターでの死亡事故は、遊具の保守管理について厳格な行政指導をしてこなかった市にも原因の一端がある。遊園地は責任を負わず、市が全部賠償しろ」

>FFF様

私には、そのような考え方(*)が妥当とは思えませんし、現実問題として、裁判所もそのような議論は一蹴することと思われます。

* 「居眠り運転のバスが歩行者を轢き殺したのは、運転手の劣悪な労働環境を是正しなかった運輸行政、労働行政にも原因がある。その運転手とバス会社は賠償責任を負わず、国が全額弁償すべき」
「ジェットコースターでの死亡事故は、遊具の保守管理について厳格な行政指導をしてこなかった市にも原因の一端がある。遊園地は責任を負わず、市が全部賠償しろ」

 おっしゃっていることは一見妥当のように見えますが、一点見落としている部分があると思います。

 ジェットコースターにせよ、バスにせよ、保守管理・労務管理は管理会社にあることは認められると思います。従って、例えばバス会社が劣悪な労働状況を放置し、従業員が事故を起こした場合、従業員は一部免責になる(確かそう言う判例があったはず・・・)とおもいますし、管理者としてバス会社の責は免れません。

 ここで医療はどうかというと、バスやジェットコースターと異なり医療費の支出、医療体制の整備そのものが国の責任の下に行われています。これが医療が完全自由診療である場合にはFFF様のおっしゃるとおりですが、現在の日本の医療はがちがちの完全皆保険制度で我々は再診料一つ自分では決められません。
 ジェットコースターやバスならば管理費用を捻出するために、運営会社が運賃を値上げすることが可能ですが、医療ではそうはいかないというのが国民皆保険制度というものです。

 従って管理者としての国の責務はバスやジェットコースターと同列に考えることは出来ないでしょう。

 ただし、そう言うことに関してだけは国は抜かりがないので、例えば労務管理については「労働時間については医療機関における休日及び夜間勤務の適正化についてで通達済みである。]となどいう論理で責任を免れようとするでしょうね。

ウェルニッケ脳症の判決とかもう詰んでますよね。

特定の治療方法を健康保険の対象から外すことによって、医師が選択できる治療方法が事実上制限されることのあることは否定できないにしても、このことが直ちに医師の患者に対する法律上の注意義務を軽減し、または免除する根拠となるわけではない。

こんにちは、FFFさん。
整形Aです。

お久しぶりです(笑)。

以前より医師のコメントに対し熱心にかつ誠実にレスを返されていたのに、時に医師側の感情的な発言を浴びることもあり、このブログに書き込む意欲を失われてしまったのでは・・・と危惧しておりました。

最近再び復活されたようで、うれしいと思うと同時に、これからもよろしくお願いいたします。

No.12 FFF さんのコメント

>ある医療過誤の原因が、保険医療政策の失敗にもあるかも知れない。それ自体は理解できるのですが、そのことと、「医療過誤の被害者が病院と行政を同時に訴えるべし」というのが何故つながるのか、ちょっと分かりにくいかなと。

はい、これは僻地外科医さんが述べられていることと重複しますが、また今まで何度か述べていますが、健康保険制度では、被保険者は保険者に保険料を支払います。そして病気になったときに医療を受ける権利を得られるわけですが、保険者自身は医療を施すことはできません。
そこで、保険医療機関及び保険医と契約をして、そちらから医療を現物給付してもらうことになっています。
実際には、保険者と医療機関が個別に契約するのではなく、社会保険事務局との一括した契約になっています。

繰り返しになりますが、医療機関は保険者に成り代わって医療を行なっているのです。
そうであれば、受けた医療によって健康被害が生じたときに被保険者が保険者に損害賠償請求することがそれほどおかしいことでしょうか。

これも以前に出した例えですが、家を建てるときに施主は建築会社と契約します。建築会社はさらに下請けに仕事を回して現場監督だけしている、なんてことが結構あります。
下請けが何か不始末をしたときに、施主はその下請けに損害賠償請求をするでしょうか。
普通は契約を結んだ建築会社に請求するのではないですか。

もちろん下請けに責任がないとは申しません。建築会社は下請けの過失の程度に応じて、当然さらに損害賠償請求するでしょうし、場合によっては次からは仕事を回さない、なんてこともするでしょう。
要は、何か問題があったときには、実際にお金のやり取りがある当事者間で解決するのが先決ではないか?ということを言いたいのです。

No.6のモトケンさんのコメント

>私の意図の対極にある意見は、いうまでも無く魔人ドール氏 のような意見です。

私も魔神ドールさんのコメントを見て、弁護士という仕事をする者として、正直凹むこともあります。
さすがに賎業とまで言われちゃうとね・・・。

ただ、魔神ドールさんのコメントの内容をこれまで見てきた感想としては、表現も少しずつ穏やかなものになっており、司法制度の何たるかを理解しようとされている様子も伝わってきています。
あんだけの量を書き込むということは、それなりのエネルギーを持っていらっしゃる方だとも思っています。

モトケンさんも、あんまり悲観なさらない方がよろしいのではないかと思います。
これまでの成果というのは非常に大きなものだと思いますし。

>さすがに賎業とまで言われちゃうとね・・・。

医者なんて
よく言えば 『人命を救う高貴な職業』
悪く言えば 『病気という他人の不幸で食ってる 職業』 ですわ

ここに集まると言う事自体が、かすかな希望を持ってる証拠ですし
怒りが大きいのは、関心の深さの表れ、関心が大きいと言うことは
自覚したときのプラスの行動力も大きいといえそうです。

たかだか人生数十年、仲良くやりましょう。
お医者さん、みんな仕事サボって下さい。
時には喧嘩、そして仲直り、また喧嘩、また仲直り、繰り返しですね〜。

一応、自分としては、そのつもりでいるんですが(汗)
そして、ブログを書くなどして、そういう人を少しでも増やそう、とも思っています。

数が増える可能性はあると思いますよ。
というか、徐々に増えていると思います、間違いなく。
ここ一、二年で、特に。
このブログをじっくり読んでる人は、そうだし。
これから読む人は、そうなると思いますよ。

> No.13 僻地外科医 さん

 いや、自分も別に「医療と運輸業は全く同列だ」とか言いたいわけではありませんで。この「医療は○○という点で○○業とは違う」という指摘が何故毎回出るのか、正直よく分からないのですが、思い切り遡って説明してみましょうか。

 裁判所の判決というのは、裁判官の判断を示すものであり、裁判官の判断は「法的三段論法」という手順に従ってなされます。大前提に小前提をあてはめ、そこから結論を導く、というものです。

 大前提は、一般的なルールです。第一は法律であり、法律に明示の規定がない場合は、いわゆる判例等がこれに当たります。「過失がある場合は賠償責任を負う」というのは大前提です。
 小前提は、具体的な事実です。「被告には過失がある」というのは小前提です。

 医師の方が「この事例では過失がないはずだ」と指摘するのは、小前提に対する裁判所の認定を批判しているわけです。

 これに対し、「医療過誤の原因は病院だけでなく行政にもあるのだから、病院が全責任を負わされるのは不当だ」というのは、大前提に対する司法の考え方を修正するよう求めているものと理解されます。既存の大前提とは違う、新しいルールを作れよ、ということです。

 で、大前提が不変のものかというと、全然そんなことはなくて、裁判所に新たな大前提を定立させることはできる。ただ、そのためには、採用しろと求める大前提が合理的なものでないといけない。「医師については責任を免除しろ」という大前提は合理的といえないので、採用されません。大前提は一般的なルール、判断の準則ですから、それが合理的といえるためには、「そのルールがどんなケースにあてはめられても適切な結論に辿り着ける」と論証できないといけないわけです。

 医師の方がよく指摘される「医療に対する行政の関与、しばり」というのを理由に責任を減免する大前提を立てようとすると、「ある過誤について、原因が一部であれ行政等にもある場合には、その過誤をした主体の責任は免除されるべきである」ということなのでしょうが、この大前提が合理的であるといえるためには、これをどんなケースにあてはめても適切な結論に辿り着けますよ、と論証しなければならない。しかるに、No.12の最後で述べたように、その大前提をあてはめると不合理な結果になるケースが容易に見つかる。だから、その大前提を裁判所に採用させることは無理であろう。

 やけに大げさになりましたが、そんなところです。

>No.15 整形Aさん

 コメントありがとうございます。一部の方の発言には色々思うところもありますが、まあ、ぼちぼちマイペースで参加させてもらおうと思います(笑)。

 さて御指摘の点ですが、医事紛争において患者側が国(保険者)を訴えることも、もちろん可能は可能でして、それがおかしいとかできないなどと言うつもりはありません。

 ただ、実際にそのような行動を期待できるかというと、完全に否です。

 第一に、病院に加えて国(医療行政)を訴える必要性に乏しい。細かい説明は省きますが、複数の主体による過失が重なって被害が生じた場合、いずれの主体に対しても損害全額の賠償を請求できることになっています。つまり、わざわざ国を訴えなくとも、病院だけを相手にすれば足りる。

 第二に、国を訴えるだけの材料がない。No.12で述べたように、「その医療過誤においては行政にも問題があったこと」を立証するだけの情報、証拠を、患者側は殆ど持ち合わせていません。それを把握しているのは、むしろ病院側です。

 要するに、病院側が「訴えるなら国にしてよ」とか「国も一緒に訴えてよ」と言っても、患者側がその要望に従うことは考えられないわけです。

# No.15で出された、施主・建設会社・下請の例に照らして言えば、欠陥住宅ができた際に「建設会社と下請のどちらがどれだけ悪いか」なんてのは施主にとってあずかり知らないことでして、そんなこと(賠償金の負担割合)は建設会社と下請の間で話し合いでも裁判でもして決めてくれ、ということかと。


 ただ、No.8で整形Aさんが仰ったような狙い、つまり、高みの見物をしているシステムの設計者を訴訟の場に引きずり出すとか、裁判所に「ミスは人手不足による。そして人手不足は現在の保険医療制度に起因する」という判決を出させて行政に改革を促すといった狙いは、患者に国相手の裁判をさせなくとも、病院自らが国を訴えれば達成できるはずです。立証の材料は患者でなく病院側が持っているので、病院が原告になる方がはるかに戦果を期待できます。

 なので、医療ミスの責任が国にもあるということなのであれば、そのミスをさせられて賠償金を払うはめになった医療機関が国を相手に訴訟をして、責任を問うてみてはどうですか、ということです。

>No.20 FFF さんのコメント
医療ミスの責任が国にもあるということなのであれば、そのミスをさせられて賠償金を払うはめになった医療機関が国を相手に訴訟をして、責任を問うてみてはどうですか

病院が国を訴えたとして、勝てる確率はどんなもんなんでしょう?

この訴訟で医療機関が負ければ、自由診療を選択する病院が増えるとは思います。そして医療崩壊が確実に進みます。

これまで皆様のご意見などを拝見致しまして、流れとしてはおおよそ理解している積もりでございます。これを前提として、関係者でもないのに意見するのは躊躇われるのですが、一応書いてみたいと思います。

まず医療関係者側に。
これまで問題点は個別に具体例を伴って見てきたと思いますので、そろそろ制度的な部分を考えても宜しいのではないかと思われますが、如何でしょうか。これから先も、「裁判所が悪い」「行政が悪い」「医療への理解がない」等々、いくら言い続けても「そういう事例があるのだな」ということが判るだけで、前進しないのではないでしょうか。解決・改善へ向けての行動なり、具体策なりを出さない限り、立法措置にはならないと思えます。大体の論点は出尽くしたのではないでしょうか?ここから先、一体どうしたいのでしょうか?今の議論からは、あまり見えて参りません。個人的にブログで、具体的制度設計についてご提案を申し上げましたが、私にはそれがどうなのか評価できません(自分が考えたので当たり前なのですが)。どなたの興味も引かなかったようで、制度的には受け入れ難いということなのかもしれません。でも、医師の方々がどういったことを望んでおられるか、どのようなシステムにしたいのか、それを提示しない限り何も変わらないように思います。

根本的に、「裁判所」は立法する訳ではないのです。いかに「裁判所」に文句を言っても、立法しない限り現実の施策には至りません。それとも、行政サイドの強権的法令解釈を発動してもらって、皆様がお望みになるような「医師法」なり何なりを適用してもらうおつもりなのでしょうか。裁判所は問いを立てられれば答えるのみであり、行政裁判でもなければ現実の施策の変更など殆ど期待できないでしょう。ですから、裁判所や法曹の方々にいくら矛先を向け続けても(私も大変厳しい批判をしているので人のことは言えないのですけれども)何も変えられやしないのです。問題解決に直結しているのは、行政に対する訴求力を高めることであり、立法措置に繋がるものを具体的・簡明に提示するのが最も効果的ではないかと思っています。本気で変えたいと願っているならば、医師出身の議員に動いてもらうとか、パブリックコメントに自分の考える具体的意見なりを出すとか、現実に何らかの影響力行使を行わない限り、変えようがないと思えます。

なので、具体的な制度について真剣に考えるべきで、それが不可能なのであれば、「変わらなくても仕方ない」か「実は変えたいとは思っていなくて、愚痴を書いてお茶を濁す」ということなんでしょうか。

次に、モトケン先生をはじめとする法曹の方々に。
そもそも医師と同じ能力を持たなければ裁判に関わるべきではない、などということは有り得ない話であろうと思います。ある特定分野について必要な知識を持っておくのは当然としても、医師と同じものが必須なんてことはありません。医師が被告になった時に弁護士に依頼するのと同じであり、「弁護士と同じくらい訴訟について知識を持たねば依頼などできない」などという理屈を言うわけないのですから。エージェントの存在自体がそれを証明しているでしょう。その方が社会全体として効率がいいからであり、医師と同じ能力を持てるように法曹がなろうと試みたら、永遠に誰も裁判できません(笑、医療は終生修行らしいので)。

被告側弁護人は依頼人である被告の言う論点を代弁しているだけであり、基本的には原告側指摘に対して「それは違う。過失はなかった・責任はなかった」という反論をしているだけです。正当な反論はたくさんあるのだろうと思うのですが、論点がズレてるものや真実を言っていないケースもない訳ではないと思います。そういう依頼人の言うことを聞いて、弁護人が代弁しているのであれば、敗北の一端は医療側にだってあるのです。

それよりも疑問に思えることは、裁判というのが8割程度の人々が「当然こうなるだろう」という理屈を用いて考えるのだとすれば、基本的に「どの判決も同じくなる」という蓋然性は高まるであろうと予想されますが、実態的には必ずしもそうでも無さそうに思えたりします。上級審でひっくり返るとか、最高裁で差し戻し食らうとか、そういったことは「極めて稀」にしか起こらないはずではないかと。通常人が考えた時、8割の人たちが理解できる程度に、こうなるであろうという平凡な理屈に基づいているので、裁判官や弁護士といった通常人よりもレベルの高い人々が考えれば、「間違える」ということはかなり少ないはずじゃないかと思えます。たとえば、最高裁で8割の側の理屈で考えていたのであれば、高裁では逆に2割の理屈で考えていたことになってしまうのではないのかな、と。通常人の「8割が判る」ものを、その裁判官には「判らなかった」ということなんでしょうか。

似たようなケースで事件数が増えても、得られる判決は基本的には同じはずであり、そうであるなら訴えられた時点で「医療側(それとも原告側)敗訴」が決まるのではないでしょうか。ところがそうでもない。やってみなければ判らないのです。例えば「古紙持ち去り事件」の判決は無罪7件、有罪5件と明らかにバラバラです。同じ法律に基づいていたってこの結果ですので、判断する側は「8割の理屈」では考えられるとは限らないのではないでしょうか。裁判のシステムに異議を唱える訳ではありませんが、少なくとも「判決に当たり果たすべき責務」というものについて裁判所側にも考えてもらいたいとは思います。8割が同じ理屈になるのではなく、その時その時で理屈が違うのは何か根本的な問題があるのではないか、ということです。

長々と偉そうに書いてしまいましたが、すみません。
私が言いたいのは、双方とも何らかの問題を抱えている、個別の問題点を挙げていく時期は過ぎたので、「制度設計」について双方が案を出し合って考えていくべきでは、ということです。互いに力を合わせれば、きっといい考えも浮かぶであろうし、理解し合えると思います。これまでこのブログを読ませて頂いて、大変勉強になりましたので。

>ピエールさん

病院が国を訴えたとして、勝てる確率はどんなもんなんでしょう?

行政部であった時の藤山判事が担当する裁判であれば、勝てる確率は少なくともゼロではなかったと思いますね。

> No.22 まさくに さん

 一点だけ、あまり本質的でない茶々を入れさせて頂くと、上級審で結論が変わる大きな理由としては、判断の材料となる証拠が追加されたから、というものがあります。

 原審の判決に不満な当事者は、負けた原因を分析し、自らの主張を補強する証拠を探してきて上級審に提出します。その結果、裁判所の判断が改まることがあるわけです。

 まあ、そう頻繁にひっくり返ることもないのですが、刑事事件で、一審の時点では弁償が間に合わなかったものの、判決後に示談ができたような場合、控訴した上でその示談書を証拠請求し、一審より軽い判決を得る、ということはしばしばあります。

医療を巡る司法関係の問題は、大きく分けて二つに分けられると私は考えています。 一つは、判決を巡る事実認定や判決の論理構成に、医学的にみて明らかな間違いや 誤りが含まれているもの。もう一つは、判決の方向性がいわゆる「医療崩壊」を促進して しまうもの、です。

具体的な裁判例を挙げることはしませんが、事実認定がきちんとなされているもので あれば、結果的に「医療崩壊」を招くような判決がでたとしても司法の責任だとは私は 考えません。問題は、日本の医療の常識からかけはなれた間違いや誤りが含まれる 判決が見られることです。

医療のミスを法で裁くことは、それが法的に犯罪として扱われたり民事的に不法行 為等として認められるようなレベルのものであれば、現在の法制度の下では当然のこと です。医療者がそこを否定するような議論をするのは筋違いです。

(医療という専門分野のこととはいえ) 常識からみて明らかに間違っている判決を、 司法関係者、特に裁判判決を下す裁判官がなぜ判断ミスをしたのか、という観点から の議論をきちんと行っていく必要があるのではないでしょうか。一つ一つの裁判の過程 から、裁判官が間違った結論へと導かれていった原因を探っていく必要があります。 現在の裁判の過程で不足しているものが何か、例えば専門的にみて間違った事実認 定や論理構成をしていないか裁判官にアドバイスする専門機関が必要なのかどうか、 といった議論は、個々の裁判事例をケースバイケースで検討しなければ議論として きちんと成り立たないと考えます。

もちろん、「裁判官はその自分の良心のみに従って」云々という建前は承知して います。一方で、医療関係者なら誰でも知っていることですが、「人間はミスを犯す もの」を認めるというのはミスを減らす上でのが大原則です。

ここのblogの議論をはじめ、医療と法との関係を議論する場所をいろいろと見て きましたが、「なぜ裁判官がミスをおかしたのか」という点を冷静に分析している例は ほとんど見かけません。法律側の問題点をシステム的、制度的に考えていくので あれば、こうした方向からの分析も必要なのではないでしょうか。

>都内病院勤務医
大変興味深いご意見です。

問題は、日本の医療の常識からかけはなれた間違いや誤りが含まれる判決が見られることです。

素人としては、常識と言う所がネックとなっている言う事もあるのではないかと考えます。日本の医療の常識というのなら、「医療の常識とは何か」と言う所を詳細に説明する必要があるのに、「この位は常識だから言わなくても裁判官は理解できるだろう」と思って説明しなかったがため、常識からかけ離れている判決が出てしまう面もあるのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。


あと、同じ裁判官でも原告勝訴と原告敗訴と言うケースがありますね。なぜ異なる結果になったのかと言う考察も必要かと思います。例えば藤山判事などは、徹底して患者擁護、徹底して医師叩きと思われがちですが、判決文を読む限りでは両極端な判決をしております。何が結果を分けたのか、興味があるところです。

>医療崩壊問題に関する司法側の問題について、システム的ないし制度論的に考えることのできる医師はどれくらいおられるのだろうか?
おられることは間違いない。
 少数派であったとしてもかまわない。
しかし、その数が増えていく可能性がないならば、このブログでこれ以上議論を続ける意味が見出せない。

医療崩壊問題に関する司法側の問題について、(現在の医療の抱える問題を理解した上で)システム的ないし制度論的に(解決に向かう方法を)考えることのできる法曹界の人間はどれくらいおられるのでしょうか?

ほぼいないのでは、という疑問がぬぐえません。失礼ながらはっきり言えばモトケン様も含めてです。
もっとも現時点でのシステム的ないし制度論的解決法は「二階から目薬」にすぎないでしょう。
モトケン様は二階の法曹界と一階の医療者との間に階段を作られた、という素晴らしい業績があると思います。お互い歩みよろうとし、多少なりとも交流の場ができました。
モトケン様をはじめ何人かの法曹界の方々は階段を何段か降りて、歩みよってくださっているでしょう。医療者のなかにも登って歩みよっていく人もいます。
ですがおそらく多くの医療者はもう階段を登る元気はないと思います。正直「法律や制度の知識をもって、ここまで登っておいで。話はそれからだ」という、上から目線の声さえきこえるような気もします。(被害妄想でしょうか。医療制度の崩壊の認識も世界没落体験であるかもしれません)

システム的ないし制度論的解決法を考える前に、医療現場の問題を理解するためにもう少し歩み寄っても良いと思いますが。もう十分に理解できている、と認識なさっているのでしょうか。

こんばんは
モトケンさま その他のみなさま

しばらくROMしておりましたが、ここモトケンさまの『医療崩壊問題に関する司法側の問題について、システム的ないし制度論的に考えることのできる医師はどれくらいおられるのだろうか?』という問いかけに従いでてきました。私はハンドルネームと同じあまりパッとしないブログを書き続けていますが...。その、ブログをはじめるきっかけは福島県立大野病院事件でした。現在も、その公判の模様を追いかけていますが...。その中で感じることは、一旦法廷に持ち込まれた医療紛争事案は、その経過において『真実を明らかにすることが困難になる』ということです。

医療を生業としておりますと、どうしても死や患者さんに多大な後遺症をのこすような事故に見舞われることがあるといえます。そして、我々が最大限に努力をしても、その可能性をゼロにすることはできません。その場合に、これから将来にわたって医療に資するものを、その事故から学び取ることが一番大切で必要なことと考えていますが...残念なことに、現在の法廷というところであるかぎり難しいのでは?と思われます。

もちろん、重大な過失や故意によりもたらされた医療過誤は、その責任を医療者に対して追及する様、法廷でしっかり吟味していただかなくてはなりません。しかし、現状の水準(その時におかれた医療者、患者さんの状況にもよります)によってもなかなか難しいだろうとおもえるような事案に関しては、法廷に持ち込む前に専門的な機関により吟味し、真実を広く周知した上で、医療の進歩に寄与する情報として公開するのがよいと考えます。この機関が、患者さん側、法曹の方々、医療者に公平であることを願って止みません。

最後に、私は法曹の方々と、医療者は手をたずさえていくべきであると思います。お互いに専門性の非常に高い分野であります。お互いのことを理解しようとすること、お互いを尊重する気持ちがなければ、それこそマスコミの一部にしてやられます。法曹と医療者の情報を交換し、お互いに理解を深め合うという目的において、このモトケンブログはこの広いネットにおいても唯一無二のものであると感じております。いろいろと大変なこともあるでしょうが、是非ともモトケン様には頑張っていただきたいと切に願う次第であります。駄文を失礼致しました。

No.26 しまさん:

医療の常識といっても簡単なものではありません。一般人でも間違いに気付く レベルから学生でもわかるレベル、研修医ならわかるようなレベルから日常診療で 日々診察している専門医ならわかる「常識」というものまであります。

実のところ、私が個々の裁判例の検討が必要だと思う理由の一つがこの「常識」 です。問題とされる裁判例がどういうものなのか、どのレベルの医学常識に反している のか、専門医ならわかる常識に反した判決ならあまり問題ではないでしょうが、学生 レベルでもわかるような常識に反した判決なら問題外でしょう。そうした個々の検討な しには、問題とされる裁判がどのように問題なのか検討できません。

あと、同じ裁判官でも原告勝訴と原告敗訴と言うケースがありますね。

私自身は裁判官単位での検討は積極的にはしたくない気持ちがあります。医療に 関して判決ミスを繰り返すリピーター判事 (笑) が存在することは容易に想像できます が、そうした観点からの検討を優先させると裁判官の責任追及という話になって 「良心のみに従う」とされる裁判の原則から司法関係者の参加が少なくなってしまう のではないかと危惧しています。

まずは、「誰がミスしたのか」という個人の責任追及につながる話を避けて、個々の 裁判の問題性を議論したいな、と考えています。

>FFF様

 おっしゃる指摘は全く道理であり、その点についてほぼ異論はありません。

 小前提は、具体的な事実です。「被告には過失がある」というのは小前提です。

 医師の方が「この事例では過失がないはずだ」と指摘するのは、小前提に対する裁判所の認定を批判しているわけです。

 この件については個々の裁判で解決していけばいいと思います。判決のすべてが正しいと思わないと言うことについては過去にさんざん呈示していますので今更ですが、医療過誤を無くすべきと同様に、裁判過誤といえる事例に関してもシステムの面から考慮していくべきだと思います。再三例示して申し訳ありませんが、亀田の事例、奈良心嚢穿刺の事例はその現場に当たった法曹に方々に責任を負わせるべきではないかも知れませんが、明らかな裁判過誤であると思います。あくまでこれらの判決が間違っているという前提の元にですが、間違っているのであればそれを正すシステムそのものが必要であると思います。

これに対し、「医療過誤の原因は病院だけでなく行政にもあるのだから、病院が全責任を負わされるのは不当だ」というのは、大前提に対する司法の考え方を修正するよう求めているものと理解されます。既存の大前提とは違う、新しいルールを作れよ、ということです。

 これは私が呈示したプランではなく整形A先生が呈示したプランですが、現実的有効性はともかく、面白いアイディアであると私も思いました(現実的有効性については正直厳しいかと・・・。厚労省のスタッフはそう言うところだけはぬかりないです)

また


ただ、そのためには、採用しろと求める大前提が合理的なものでないといけない。「医師については責任を免除しろ」という大前提は合理的といえないので、採用されません。大前提は一般的なルール、判断の準則ですから、それが合理的といえるためには、「そのルールがどんなケースにあてはめられても適切な結論に辿り着ける」と論証できないといけないわけです。

 全く当然のことだと思います。ソクラテスではありませんが、日本に住んでいる以上、悪法であっても法には従わねばならない、なぜならば、我々は国を離れる権利も保障されているからだ。。。。だと思います。

  要するに、病院側が「訴えるなら国にしてよ」とか「国も一緒に訴えてよ」と言っても、患者側がその要望に従うことは考えられないわけです。

 整形A先生へのレスですが、これももっともだなと思います。

ただ

この「医療は○○という点で○○業とは違う」という指摘が何故毎回出るのか、正直よく分からないのですが、思い切り遡って説明してみましょうか。

 この点に関して、もしかしたら再三申し上げているかも知れませんが、医療だけを特別扱いせよと言っているわけではないんです。私が言ってるのは、例えば、先生が挙げられたバスの事例を取っても、過重労働を放置した場合、実際に運転していたバスの運転手もまるっきり免責にはならないかも知れませんが、本質的には管理しているバス会社に責を負わせられますよね?医療においてもそれと同様で、明白なシステム負荷をかけているのが行政であった場合には、行政に責を問うべきではないのでしょうか?と言うだけのことなんです。

 従って、整形A先生へのレスにありますように、

つまり、高みの見物をしているシステムの設計者を訴訟の場に引きずり出すとか、裁判所に「ミスは人手不足による。そして人手不足は現在の保険医療制度に起因する」という判決を出させて行政に改革を促すといった狙いは、患者に国相手の裁判をさせなくとも、病院自らが国を訴えれば達成できるはずです。

 と言う点には強く同意します。というより、今後こういう訴訟を我々が増やしていかなければならないかも知れない、と思います。ただ、正直言って、医療崩壊という側面を見る場合においては、この方法は遅きに失しているかも知れません。奈良の産科転送事件後の経過がそれを如実に示しています。

 で、仮に「行政の不手際が原因で訴えられて敗訴しても仕方ないだろ、お前らは医者なんだからそれを甘んじて受けるしかないだろ」というのであれば、それを医師全般に受け入れろというのは、法的にどうあれ心理的に受け入れられるものではないでしょう。それを回避する手段として逃散という手法を取ることをFFF様は法的な側面から見て否定されますでしょうか?
 「産科医であるが故に(もしくは救急医であるが故に)行政の失態をも現時点では甘んじて受け無ければならない。では産科医を辞めてしまおう」という判断をすることは法的側面から見ておかしなことでしょうか?

 FFF様の理論は法的に見て非の打ち所がないかも知れません。ただ、現実問題、現場に立つ人間に適用された場合、それがどういう結果を生むかという考察についてやや欠けているように思われます。

 

>都内病院勤務医さん

学生レベルでもわかるような常識に反した判決なら問題外でしょう

裁判官は、医学生レベル以下、医学知識に関しては受験生と同レベルを想定した方が宜しいように思います。

>僻地外科医 さん

「行政の不手際が原因で訴えられて敗訴しても仕方ないだろ、お前らは医者なんだからそれを甘んじて受けるしかないだろ」

横から失礼しますが、行政の不手際が原因で訴えられて敗訴したのなら、それを甘んじて受けるわけではなく行政を訴えろとのご意見だと思います。


発想としては整形Aさんの

建築会社は下請けの過失の程度に応じて、当然さらに損害賠償請求するでしょうし、
と同じ論理かと思います。

臨床医ですが、このブログに到達したのが連休後半でしたので、すでに議論されているのかもしれませんが、その場合は、ご教授願えれば幸いです。

Clinical decision makingは、患者のsign, symptomから、A1という疾患の可能性A1x%、A2という疾患の可能性A2x%、、、、と推定し、A1であるかどうかを確認する検査としてB1aという検査を行えばB1axの可能性で診断できる、B1bという検査を行えばB1bxの可能性で診断できる、、、と考え、もしもA1であった場合C1という治療を行えばC1xの可能性で治癒し、C1yという可能性で死亡し、C1zという可能性で重篤な障害を起こし、、、ということを計算し、A1の可能性が高いが、それよりも可能性が低いが見落とせば危険だからB2cという検査を行い、同時に症状に対しては治療を開始すべきか開始すべきでないか判断し、外来患者なら次の外来いつその対応でよかったかどうかを決定する(入院患者なら何分後あるいは何時間後あるいは翌日診察する、どの検査が出たら診察する、を決定する)。そして、その何日後(あるいは何分後、何時間後)の状態により、疾患の可能性を修正し、対応方針を修正する、ということを刻々行っていきます。多くの疾患で、回り道がおこります。名医とは回り道をしないでベストの対応を発見できる者ですが、すべての医師がすべての疾患について名医であるわけではないので、死亡した患者について、あとからみてこれがベストの対応であった、ということはまずありえない。それぞれの瞬間に高度の蓋然性で正しいと思われる対応をしろ、といわれても、それぞれのときのsign / symptomから導いた自分が正しいと思う診断が間違っていることは、日常的なことです。どの程度の回り道が、どの程度の判断の誤りがあったかは、それぞれの個別の状況で事後的に検討すれば、情報が得られます。問題は、それが、acceptableであるかどうかについての価値判断で、多くの医師がacceptable(自分でもそのくらい回り道、あるいは、誤りをするよ)な臨床経過と考えるけれども、法律で、有罪、あるいは、民事として支払いを命じられる、ことが多いから、逃散がおこる、というのが医師の理屈です。医師がacceptableと考えるのに裁判所が認めない、という場合、「明日はわが身」と保身のため「acceptable」な範囲を広くとっている場合もあります。一方、「鑑定医師」と「鑑定おかしいと理屈をこねる医師」との臨床能力のレベルが違う場合、「鑑定医師」と「鑑定おかしいと理屈をこねる医師」に与えられた情報が異なる場合(鑑定の争点を依頼する際に、簡略化(具体的な sign / symptomでなく疾患名や状態名など)がおこったりするかどうか)、「鑑定医師」の判断については「理屈こねる医師」も正しいと認めるが、鑑定からの論理的な結論の導き方が「医療従事者にとっては理解しがたい論理」である場合、などでも、医師は判決不可解、と思います。また、患者を目の前にしたカンで感じている情報のうち記録に残された、sign / symptomはごく一部です。ごく一部の情報を元に、鑑定したり、鑑定に理屈をこねたりするのですから、考えてみれば、意見が割れるのも仕方ないことでもあります(でも、だからといって、鑑定しないわけにはいかないのですが)。

>しま様

横から失礼しますが、行政の不手際が原因で訴えられて敗訴したのなら、それを甘んじて受けるわけではなく行政を訴えろとのご意見だと思います。

 あ、そうですね。ちょっと走りすぎてました。で、ただその手法だと間に合わないかな〜と言う危機感はあります。

FFF様、申し訳ありません。

 知りすぎているほどご存じの通り、一部の(と言うか少なからずの)医師は私が言っている方向へ暴走しています。。。。

裁判官が医療問題に詳しくないのなんて当たり前の話です。
彼らは法律知識を身につけて司法試験試験に合格し裁判官になったのですから、それ以外の分野に通じている保障なんて何もありません。
それは、医療に限らず先端的な技術や高度に専門的な分野全般について言えます。

ただ、社会生活が一般的に法の支配に服する以上、裁判官は専門的知識がなくとも判断する必要に迫られます。
それゆえ、その専門知識不足を補うために各種の手続が設けられています。
たとえば、
知財高裁
http://www.ip.courts.go.jp/
労働審判手続
http://www.courts.go.jp/saiban/syurui/minzi/minzi_02_03.html
などが最近設けられました。

医療事故に関してもこうした仕組みを取り入れれば、裁判官の専門知識も増し安定的な判断が可能になるのではないでしょうか?
以前のエントリではこのようなことをコメントされていた方も複数おられたんじゃないかと思うんですけどね。

いつまでも、
「裁判官は医療のことなんかわからないんだから触れてくれるな」
みたいなことを言っていても、まったく建設的ではないと思います。

都会の大きい裁判所では、多少とも専門性が高いとみられる訴訟類型を、特定の部に集めて取り扱うようにしています。「医療集中部」とか、「行政部」と言われるものです。
同種の事件を多数扱えば、裁判官が勉強するのに効率的だし、慣れて技能が上がるだろうという配慮です。
某F判事はこの春まで東京地裁医療集中部におられましたので、医療訴訟で頻々と名が上がっていたわけです。


冒頭の言葉ですが、改めて考えてみるに医療崩壊問題に関する「司法側の問題」について考える「医師」が増えないことが何故議論を打ち切る理由となるのか釈然としませんね。

これはどうかと思う医療訴訟を見ているとあまりに主張が拙いというか、日常診療で対面する患者と同様に裁判官を相手にした場合にもこれは素人であって専門的内容は理解できないのが当然である、素人にも判るレベルまで噛み砕いて説明を行なわなければならないという認識が医療サイドに不足しているのかなという印象はありますね。
基本的にそうした能力は臨床の場でも必要とされるものですし、裁判官を納得させられるなら患者も納得させられるであろうから、まずはその面で医療側ももっと修行を積んでいくことが何より一番の訴訟対策になるのかなというのが基本なのは確かでしょう。

同時にこれも日常診療でしばしば直面することですが、幾ら言っても理解できない相手というのは確実にいるわけですから、司法的にはトンデモ判決を多発する裁判官であっても排除できないシステムになっているということであれば本質的な解決策、すなわち「危ないことには手を出さない」という方法論しかないと考える者が出てくるのも当然かなと思います。

冒頭の問いかけに戻って考えるならば、「医療崩壊問題に関する司法側の問題について、システム的ないし制度論的に考えることのできる医師」が増えてきているからこそ現状があるのであって、しかもその問題が全く改善されそうな気配も見られないからこそ困っているわけです。
司法サイドが医療崩壊を他人の問題として当事者意識を持ち得ない、あるいはそこに踏み込むのは司法の領分ではないという姿勢を改めない以上、JBMあるいは逃散といった現象も続くと思います。しかしそれすらも医療側が解決しなければならない問題なのでしょうか?

どたばた続きの医療制度改革?にも何とか順応しているのを見ていただけば判るように、医療側というものはどんな問題があってもとりあえず何とか対応していく能力にはそれなりに長けております。多発する医療訴訟にも対処する方法論を身に付けてきました。である以上、ボールは既にこちら側には存在しないのだと考える者も多いのではと考えます。

>No.16 PINE さんのコメント
>No.6のモトケンさんのコメント
>
>>私の意図の対極にある意見は、いうまでも無く魔人ドール氏 のような意見です。
>
>私も魔神ドールさんのコメントを見て、弁護士という仕事をする者として、
>正直凹むこともあります。
>さすがに賎業とまで言われちゃうとね・・・。

弁護士という仕事を賎業呼ばわりすれば医者の仕事だって同じくらいの賎業です(笑)から、自分で自分を貶めているに等しい。
魔神さんも医師であるなら世間の皆様からは「お前がいうな」といわれるべきところでしょう(笑)。

こんにちは、FFFさん。
整形Aです。

まあ、うちはつぶクリ(つぶれそうなクリニック)で年がら年中暇な診療所ですので、僕が気が向けばいつでもカキコできるんですが、医師の怒涛の書き込みを少人数の弁護士さんたちが一手に引き受けるのは大変です。
ご苦労をお察し申し上げます。

医師の皆さんも、弁護士さんたちを使い潰さないよう、いたわりながらコメントしましょう・・・って、使い潰しているのはおのれじゃー、ってか?

No.20 FFF さんのコメント

>国を訴えるだけの材料がない。No.12で述べたように、「その医療過誤においては行政にも問題があったこと」を立証するだけの情報、証拠を、患者側は殆ど持ち合わせていません。それを把握しているのは、むしろ病院側です。
> さて御指摘の点ですが、医事紛争において患者側が国(保険者)を訴えることも、もちろん可能は可能でして、それがおかしいとかできないなどと言うつもりはありません。

医療過誤が起きた時に、患者側はほとんどの場合、過誤を起こした医師と病院を訴えます。
考えて見ますとこれはちょっとおかしい話で、不法行為を為したのは医師個人であって、組織としての病院がやったわけではありません。
まあ、「紫色の・・・ry」さんのケースのように病院組織として個人に責任を押し付けるということもあるでしょうが、普通医療過誤を組織としておこなうことは考えられません。あったら、過誤ではなく意識的であり、それこそ犯罪です。

まして病院の建物が患者に悪さするわけでもないし、開設者つまり例えば自治体の首長が直接患者に何かしたわけでもありません。
であれば、病院には何の罪がないはずで、患者側は医師個人のみを訴えればいいのですが、どうしてそうしないのでしょうか。
それは、医師が病院の業務の一環として医療を行なっているからでしょう。

さらにいうなら、医師や病院がなぜ保険医療を行なっているかといえば、それは健康保険事業という国家の事業の一環だからです。
厚労省は単なる監督官庁というわけではありません。保険事業の当事者の一人です。

繰り返しになりますが、国民は健康保険に加入する、すなわち保険者に保険料を支払うことを義務付けられています。それと引き換えに安価で比較的良質な医療を受ける権利を付与されます。
それは被保険者と保険者との間の契約です。
被保険者に良質な医療を提供する義務があるのはまず第一に保険者ではありませんか、ということを申し上げたいのです。

患者側が国や保険者を訴えるのは技術的に難しい、というお話もありました。

先ほども述べたように、医療過誤において病院が直接不法行為をしたわけではありません。しかし病院の不法行為の認定は、職員が不法行為をしたことを立証しさえすればことが足りるのではありませんか。
それと同じことで、少なくとも保険医、保険医療機関、保険者は一体であり、医師の不法行為のみを立証すれば、保険者そのものの不法行為を立証する必要はないと思います。
もちろん現実はどうかわかりませんが・・・。

こんにちは、FFFさん。
整形Aです。

重ねて失礼いたします。

このエントリーのお題は「 医療崩壊問題に関する司法側の問題について、システム的ないし制度論的に考えることのできる医師はどれくらいおられるのだろうか?」であります。

換言するなら、「司法側に問題があるとして、どこをどう変えたら日本の医療がよくなるのか(医療崩壊を防ぐことも含みます)」と僕は理解しました。
ですから、同じ裁判をするのなら、日本の医療を少しでもよくする可能性のある訴訟をおこしたら・・・というのが僕の考えです。

>細かい説明は省きますが、複数の主体による過失が重なって被害が生じた場合、いずれの主体に対しても損害全額の賠償を請求できることになっています。つまり、わざわざ国を訴えなくとも、病院だけを相手にすれば足りる(FFFさんのコメント)。

この問題については以前より疑問を持っていました。
たとえば、複数の犯人による犯罪被害者が、民事で損害賠償を求めたとします。
仮に犯人の一人が自首して、残りは名前がわからない。
そうすると、自首してきた一人だけに損害の全額を負わせることができる、ということですね。

以前から持っていた疑問の一つが解消しました。
その件については措きます。

本論に入ります(えーっ、これからなのー?)。
医療過誤訴訟で、単にお金を取ることだけが目的であれば、病院を相手にすれば足りる、というのはわかります。とりやすいところからとる、ということですもんね。
ただ、原告側はよく「我々はお金が欲しいんじゃない。真実を知りたいんだ。そして2度とこのようなことをおこしてほしくない」という主張をされます。

真相究明はともかく、再発防止には病院を相手にするだけでは不足です。
損害賠償の多くは医賠責から購われます。
ですから、民事訴訟で負けても、ネット医師のプライドはいたく傷つくかもしれませんが、当事者自身の経済的デメリットはあまりないのではないでしょうか。

日医医陪責では最高6回のリピーターがいるそうですが、ここまでくると仮に裁判に訴えたとしても再発防止につながらないのは明らかです。
医療事故に関係するのはリピーター医師の問題だけではありません。
何度も申しますが、医療制度そのものに起因するものもかなりあると思っています。

いずれにせよ再発防止には、やはり保険者、厚労省の関与が不可欠です。
「真実を知りたい、再発防止」がお題目だけでないとしたら、病院を相手にしているだけでは駄目だとは思いませんか。

>医療ミスの責任が国にもあるということなのであれば、そのミスをさせられて賠償金を払うはめになった医療機関が国を相手に訴訟をして、責任を問うてみてはどうですか、ということです(FFFさんのコメント)。

これはこれで面白いアイデアだと思います。
一つの医療機関だけでやれば、しっぺ返しが来るだけで何もいいことはないでしょうが、ある程度の規模以上の病院が一斉におこなえば、かなりの圧力にはなるでしょうね。

しかしこれは、No21でピエールさんが言っていたように、健康保険制度崩壊への一里塚になる可能性大です。
その訴訟は現在の健康保険制度への異議申し立てに他ならないからです。

訴訟で言い分が通らなければ、大病院や基幹病院は「こんな保険制度なんかやってられんわ」と保険制度から離脱するでしょうし、仮に通ってもそれらの病院は、「少なくともうちは健康保険がなくてもやっていける」と自信を深め、いずれ離脱するでしょう。

焼け野原待望論者にとっては、ぜひとも見てみたい光景でしょうが、焼け野原が自分のようなぼんくら医者や普通の患者にとって決してよくはならないだろう考える僕にとっては、あまりありがたくないですね。

No.37の老人の医者さん、

>司法サイドが医療崩壊を他人の問題として当事者意識を持ち得ない、あるいはそこに踏み込むのは司法の領分ではないという姿勢を改めない以上、JBMあるいは逃散といった現象も続くと思います。しかしそれすらも医療側が解決しなければならない問題なのでしょうか?

「司法」とひと括りになってしまうことに違和感を感じますが、それはそれとして、敢えてヒールなコメントをすれば、「司法の領分」ではなく、「立法」「行政」の領分でしょと思ってしまうのです。
ルールの中で動くことを義務付けられている者たちにではなく、ルールを作る人たちに言ったらどうかね、と。

ただ、お医者さんたちの逃散現象をとがめる意思もないし、自分にその資格がないのも理解しています。

しかも、それらは医療側が解決しなければならない問題ではなく、国民が解決すべき問題だろうと思っているのです。

もしも 遺族などの患者・家族側が 真実を知りたいのだ というのなら
真実は 裁判でも究明できない ことが多く、
真実は 報道でも明らかにされない ことも多い という現実を乗り越えるには
やはり どのような制度があるべきか を 考えないといけない と思います。
しかし どんな制度なら 不服がなく また 現実に可能なのか ということでしょうか。


>勤務医です。さん

真実は 報道でも明らかにされない ことも多い という現実を乗り越えるには
やはり どのような制度があるべきか を 考えないといけない と思います。

司法解剖であろうと第三者機関であろうと構わないのですが、やはり死亡時に死因を究明する事が必要なのだと思います。

不幸にしてお亡くなりになった場合には 病理解剖か司法解剖かは まず必要だという 認識が一般に広まることが必要ですね。
すくなくとも病理解剖の件数は ごく一部の病院を除いて 低くなっているか もとから低いのか のどちらかです。

ただ 病理解剖と司法解剖とは 根本的に異なりますね。
両者が交流するとか 同時に介入することも 司法と医療が交流することに 相当するくらいなものではないかと思います。
司法解剖では 病理解剖で見たいところを必ずしも見られないことも少なくなく
病理解剖では また司法解剖のような対応ができてはいない と思います。

はじめて書き込みます。

半年ほどROMしていた者として、モトケン先生の

>医療崩壊問題に関する司法側の問題について、システム的ないし制度論的に
>考えることのできる医師・・・の数が増えていく可能性がないならば、このブログ
>でこれ以上議論を続ける意味が見出せない。

という「根本的な疑念」に対しては、No.10 pyonkichi さんのコメント

>コメントしてない人たちがいて、そういうひとは多分、何も言わずに考えているん
>だろうと思います。

>コメント欄に見えない、このブログの訪問者のなかで、確実にその数(司法を理
>解しようとする目)はふえていっているのではないかと。

が正鵠を射た答えのように思われます。

げんに私も医療サイドの人間として、医療崩壊について、医療崩壊と司法制度の
関係について、ここで日々勉強させていただいています。

> No.21 ピエールさん

 「分からない」としか言いようがありません。

 正直言って、私自身、医師の方が仰る「医療過誤の中には国にも責任があるものもある」というのがどのようなケースを指しているのかピンときていないところがありますし、個々のケースにおいてどのような立証が可能なのかも分かりませんから。

 ただ、裁判は、あくまで個別具体的な事例についての判断を求めるものであり、当然ながら、事実関係は一件一件全く異なります。仮に国相手の訴訟で敗れたとしても、それは、その事案においては主張立証に失敗したということに過ぎず、他の事案における一切の請求を封じるものではありません。

>No.46 FFF さん

労働集約型の業務の典型である医療で、医学部大人気、現場は人手不足、40時間連続勤務は当たり前、時間外勤務が月100時間以上当たり前、え?時間外は平均80時間ちょい?ここ数年、週80時間勤務だぞ?ってな状況で、事故起こすなっていうのが人としてそもそも無理じゃん?ありえないぢゃん?、という単純な話です。臨床医は臨床してなんぼですし、議論好きであっても、喧嘩好きとは言いがたい集団ですから、大人の喧嘩に時間とお金を浪費するより、円満に辞めて人脈をキープする方が何かとメリットが大きいです。という訳で私は円満に退職いたしました。

医療崩壊に関して、引金を引いたのは確かに大野病院の件だと思うのですが、実は司法の問題は限局的であって、主因は医師が行政や立法の不備を補おうと頑張りすぎで自爆したというのが真相なようが気がしてきています。できないものはできないと、放り出さなければならないことを抱え込んで、しかも何とかしてきちゃったのが不幸の始まりなのかなぁと。なんとかしちゃうから、マスコミも「いくら叩いても大丈夫」と思っちゃったんでしょうね。

医療側は現在どつぼに嵌っていますので、ぶっちゃけ藁をもつかむ思いなんですが、実務家の割には変に理想主義が強い傾向があるので紛争解決の場である民事訴訟に、変な幻想を抱いているのが誤解の元かと。ただ、誤解が解ければ解けるほど、医療崩壊は進むでしょう。「大人の喧嘩なんだから、喧嘩の弱い奴が負け。喧嘩に強くなれ。後ろから銃で撃たれない様にしろ」という事ですから。まぁ、そもそもの誤解は、喧嘩に勝てば良いだろ?という事なんですけど。喧嘩なんかしたくないんですよぉ。

システム的に民事訴訟の枠組みで、医療事故の被害者救済と、将来の医療事故を防ぐための英知を蓄積するのは難しいと思います。ですからまったく別の枠組みが必要だと思います。また第三者機関が出来ても、それは過失の有無を判断するだけなら期待薄だと思います。ADRも諸外国の状況を見れば、実際の運用は(特に資金と賠償額のバランスにおいて)極めて難しいようで、ばら色の世界が待っているとは思いません。

訴訟前の医療事故における被害者救済原因究明システムとして、第三者機関を作るという考え方には大きな期待は持っているのですが、医療システムの不備をしっかり評価できるよう、既に決着した複数の案件をまとめて再評価して医療システムの不備を指摘し、(事後的にでも)その整備の任にある者が(その当時に求められる水準に照らし合わせて)応分を負担させるような保障額負担割合決定システムが必要と考えます。そうでなければ、それぞれのレベルの医療システム改善に向けたインセンティブが働きませんし、過去の被害者を救済することと未来の事故を防ぐことのバランスどりの部分で、選択肢が非常に狭くなると考えます。医療システム改善へのインセンティブがうまく働かなければ、結局「現場が竹槍でなんとかせい」という状況は改善されないので、振り出しに戻ります。そういった意味で、先の「診療行為に関連した死亡に係る
死因究明等の在り方に関する検討会」とやらには、大変失望しております。

で、現行の訴訟の枠組みについてひとう思うのは、鑑定が判決前後で意図通り引用されているか否か、鑑定医が必ずチェックするような仕組みを組み込むことはできないのでしょうか?これは弁論主義を貫いたまま、カンファレンス形式の鑑定を進めていくのなら、なおさら必要と考えます。

いつもROMばかりさせていただいております。

>しかし、その数が増えていく可能性がないならば、このブログでこれ以上議論を続ける意味が見出せない。
そうお考えになるのは当然と思います。
ただそれはとても残念なことですので、コメントさせて頂きます。

こちらでは、非常に高度なやり取りがなされていて、素人丸出しのコメントは、議論の邪魔になりそうでコメントできなかったのですが、拝読させて頂いて、随分勉強になっています。
最初は、私も、医療と司法は馴染まないのではないか、何故医学的に常識とされることが裁判では認められないのかという見方をしていましたが、今は弁論主義等、知らなかったことを勉強させて頂いて変わってきています。

これだけでコメントする趣旨は終わりのようなものですが、制度的ということで、的外れでしたら申し訳ないのですが、こちらを拝見していて私が感じるようになったことを。

思うのは、医療者と司法者では、言葉が違うのだなということです。
同じことを表現するにも、言葉の選び方で伝わり方が異なりますが、その時、医療者なら、その言葉の選び方をこう解釈してくれるが、司法者に対しては違う意味になりうる。
これがシステムが上手く働くことを阻害しているのではないかと。
特に医師など、内輪でしか通じない言い回しが沢山ありますし、逆にこちらのコメントでも、司法サイドの方の書き込みは、私には意味が掴みにくいことがままありますから。
個人的経験としても、私が訴えられた訳ではありませんが、患者さんの関わった事件で、調書を取られたことがあり、検察の方とも話をさせて頂いたのですが、その時にやはり言った言葉が意図したように伝わらないもどかしさを感じました。

これは単なる習慣の違いであって、どちらが優れているとか間違っているということではないと思います。
しかし、とても勿体ないことだとも思います。
理想を言えば、医療者も司法者も互いの言葉を勉強、理解するべきなのでしょうが、実質、それは困難だと思います。
ならば、通訳が欲しいなあと思います。
どちらの慣用句にも精通し、医療と司法の仲立ちをしうる専門職があればいいのにと。
これも実現は難しいと思いますが、せめて、理解力や能力、姿勢の問題ではなく、言葉の慣れの問題として、通じている心算が通じていない可能性があることを考慮して会話できればと思います。

多くの医師にとって、訴訟というのは一生に一度経験するかしないかです。
その、もしもの時のために、司法の場での言葉を勉強するのは、少々辛いものがあります。
実体験無しでは、どこまで理解できるのか疑念でもありますし。
一方で、医療訴訟を多く扱う司法者であれば、そういう言葉の行き違いもご経験のあるところでしょうし、せめて最初に、医師同士と同じ感覚で話すと通じないことがある、誤解されることがあると教えて頂ければ有り難いと思います。
言葉が通じなくとも、そう言って頂けることで落ち着いて、ゆっくりわかってもらおうと、医師も安心して話がしやすくなるかもしれません。
些細なことかもしれませんが、言葉は全ての議論の基本となるものですから、大事なのではないでしょうか。

現状の議論は下記の無限ループに嵌っていると見受けられます。

医師「行った手技が医学的に妥当であっても、裁判で負ける。どうすれば良い?」
弁護士「裁判官の心証を得られる理論武装をしてください」
医師「それでは医学的な本質を主張できないのですが」
弁護士「裁判とはそういうものです」
医師「そんなのは嫌だ!」
弁護士「ではどうすれば良いのですか」
医師「医療とはかくかくしかじかなものなので、ある程度の部分は免責にしていただきたい」
弁護士「そんな主張、法治国家で通るわけないでしょう!」

医療と法曹はそれぞれ土台となる知識、考え方が全く違う(特に推論メカニズムの違い)ので基本的に相容れない間柄です。なので、一方が他方の枠組みに歩み寄らなければならないの
ですが、そこは双方「こちらに歩み寄れ」と主張しているのみ。
相互交流はできても相互理解は進んでないのが現状です。

だから、この問題を解決するために相互理解とかに大した意味はない、と私は思います。

大切なのは、この無限ループに突入しないための措置ではないのですか。
それが、モトケンさんの言う「制度論的思考」ではないのですか。

ここで話が脱線しますが、我々IT業界の話。
IT業界は本質的にアウトローな部分が多いです。これは医療に対してもいえると思いますが。
有益な情報は共有する、これがIT業界発展のきっかけです。情報伝達技術も発達し、パソコン通信でデータ共有、そのうちCD-Rなんてものが出てCD-ROMを個人で作ったり複製できるようになったり。インターネットが発達すると検索エンジンとキャッシュサーバが出現。strictに法律を当てはめるとgoogleでさえ絶賛著作権侵害中です。
(ただし著作権は親告罪なので訴えがない限りは罪にならない)
IT業界の人間も本質的な部分で大きな訴訟リスクを抱えています。また、システム開発は一歩間違うと10桁単位で損害がでる可能性もあります。私もミスで億単位の損害を出しそうになったことが実際あります。そうなったら富士樹海コースです。

Q.ではなぜ逃散しないのですか?
A.代わりに責任を取ってくれる人がいるから。

個人経営は別として、一般企業に勤めている限り上司、責任者、経営者が従業員の代わりに大部分の責任をとってくれます。彼らはそのために存在するわけですし、そのリスクに見合う報酬ももらっています。
なので、我々一般従業員は安心して業務をこなすことができるのです。

Q.では医師の場合はどうなのですか?
A.院長が責任を取ってくれません。

開業医は別として、病院に勤めている限り上司、なり院長なりが従業員たる医師の代わりに大部分の責任を負ってしかるべきです。なのに、なぜか医療の現場はそうなっていない。

・院長が責任を取らない
責任者として不適格ということです。責任者は責任者たるための勉強や自覚が必要ですが院長と呼ばれる人間に果たしてこのような要素が備わっているのか。院長はだいたい医師がなるものですが、医師は組織の責任者・経営者として適格なのか?
リスクマネジメント、品質マネジメントは責任者・経営者が責を負うべきなのですが。

リスクマネジメント、品質マネジメントですが、これらを行うにはどうしても費用がかさみます。
しかし、現行の保険医療体制には、どうみてもこれらについての費用は含まれていません。
安全を確保するにはコストがかかるのです。中国の偽食品騒ぎを見れば一目瞭然でしょう?
なぜ医療に関してだけこのコスト意識が育たないのか。どうしてでしょうね。
これが医療費削減の一言で封じ込められているとしたら、この国の未来は非常に暗いです。

たとえば、私はコンタクトを使っているので数ヶ月に一度眼科で検診を受けます。その検診費用が、
4年前、石川のある病院では1500円(自己負担分)
2年前、神奈川のある病院では3000円(自己負担分)
現在、香川のある病院では500円(自己負担分)
検査項目は減少。上2病院ではいろいろ検査していた記憶があるのですが、今は視力検査と眼球に光を当てるだけ。
はっきり言って、安すぎて不安です。

また、
・患者の訴訟対象が医師個人に行く
通常は組織としての病院や自治体を対象に訴訟を起こすべき、と考えるのですが(一般企業は
そうですし)なぜ医療裁判では医師個人に訴訟対象がいきがちなのでしょう。
航空事故も列車事故も民事訴訟はパイロットや運転手ではなく運行会社に行くのに、医療だけどうして医師個人?
これは、裁判所が個人から組織を訴えるように指導すれば済む問題だと思うのですが、そういう指導はできないんでしょうか。

といろいろ考えてはみたものの、どれも個人単位でなんとかなる話でもなし。
強力なリーダーシップと政治力を持つ英雄が現れない限り、現状をプラスの方向に傾ける
ことは難しいでしょうね。

書きなぐりの長文、失礼しました。

>>No.49 bg さん

ま、問題点の所在につきましておっしゃるようなあたりなんだろうなと自分も思います。

医療に関してIT業界ともっとも違うのはより老成した業界であるといいますか、今責任ある地位についている人間がちょうど「古き良き時代」を知っている(それしか知らない?)人間であるということかなと思います。
PCなど触ったこともない、IT何それ?という人たちばかりが全権を握っていては何かと業務がはかどらないのではないかと思うのですが、医療業界の現状はまさにそうなのではないかと思います。どう考えても時代の変化を理解していない幹部が多すぎて現場は白ける一方なのです。

好意的に考えれば今はちょうど過渡期であって、やがて緩やかな世代交代と自然淘汰が進みなるようになるのではないかと思っています。そのころの医療は今とはずいぶんと違うものになるでしょうし、純医療的観点で見れば今より退歩しているのではないかと思いますが。
末端が何を言い続けても何も変わらないのかもしれませんが、長年の医療叩きの結果として「それでも言うべきことだけは言ったという証拠を残しておかないと」と考えている医療者も増えていると思います。幾ら懇切丁寧に説明して非がないと思っていてもカルテ記載を怠ったばかりに敗訴という事態を招かないためにも。ですから一見無限ループに見えても、必ずしもそれが無意味であるとは自分は思っていません。

No.49 bg さんの

航空事故も列車事故も民事訴訟はパイロットや運転手ではなく運行会社に行くのに、医療だけどうして医師個人?
これは、裁判所が個人から組織を訴えるように指導すれば済む問題だと思うのですが、そういう指導はできないんでしょうか。

おっしゃるとおりだと思います。医療過誤というのは本質的に個人だけの問題にとどまらないことが多いと私は思います(異論のある医師もおいでとは思いますが)。これに加えて私は国の責任も問うて欲しいと思います。
まず医師を雇うのは院長です。その時点で院長に責任が生じます。それから医師不足、長時間勤務も当然医療過誤の原因の一端を担っています。これらの責任は国にあります。
もちろん理由はどうあれ、過失を犯したのには違いないのだから担当医個人の責任やそれを監督した管理医師、連携ミスがあれば看護師、その他のコメディカルスタッフにも少なからず責任はあります。問題はそれを個人の責任にして将来医療事故が減るのかどうかです。この問題は日本以外の先進国では意味がないと調査の結果結論づけています。しかし日本では未だに精神論(大和魂論)が横行していて、過誤を起こすのは精神がたるんでいるから、という理屈が未だにまかり通っています。だからこそ個人の責任として決着させようとする面があるのだと思います。
航空・鉄道業界はこのような問題をある程度解決しました。しかし医療業界はまだです。いわゆる第三機関設立等、医療事故を防ぐ具体的な動きについて、医療業界がこの問題を先送りにしてきたことも少しはあるかもしれません。でもそれらを解決するには金と時間が必要です。医師会、国、マスコミが動いてくれなければ埒があきません。つまり、この理由を医療業界の責任として押しつけるのではなく、国民レベルで考えなければならない問題なのだと思います。

No.49のbg さん、

>通常は組織としての病院や自治体を対象に訴訟を起こすべき、と考えるのですが(一般企業はそうですし)なぜ医療裁判では医師個人に訴訟対象がいきがちなのでしょう。

医療裁判でも一般企業の場合とおんなじです。
勤務医はお金をもっていませんから(失礼!)。
開業医の場合は、どうしようもありませんが。

何か医師個人の訴訟対象がいきがちという根拠でもあるんでしょうか?

>裁判所が個人から組織を訴えるように指導すれば済む問題だと思うのですが、そういう指導はできないんでしょうか。

できません。
民事訴訟では、誰に対してどのような裁判を起こすかは、原告に任されています(「処分権主義」といいます。)。

bgさま

お書きの点、ほとんど同意なのですが、少しだけ。

通常は組織としての病院や自治体を対象に訴訟を起こすべき、と考えるのですが(一般企業はそうですし)なぜ医療裁判では医師個人に訴訟対象がいきがちなのでしょう。
航空事故も列車事故も民事訴訟はパイロットや運転手ではなく運行会社に行くのに、医療だけどうして医師個人?

病院を共同被告として訴えず、医師個人だけに損害賠償請求をするという例は、私自身は見かけた記憶がないです。実際上ゼロではないのかもしれないですが。
ほとんどのケースは、
・病院(の運営主体である医療法人または地方公共団体)と、関与した医師・看護師等を共同被告として訴える
・医師・看護師個人は被告にせず、病院(の運営主体)のみを訴える
のいずれかだと思います。

後者の、個人を被告に巻き込まない例も多く、まったく珍しくはないです(前者より多いかまでは調べられていませんが)。

これは、裁判所が個人から組織を訴えるように指導すれば済む問題だと思うのですが、そういう指導はできないんでしょうか。

裁判所の訴訟指揮としては、(法律上は可能ですが)実際上困難と思います。
不法行為の枠組みにおいて、行為者(医師)と使用者(病院運営主体)のどちらを訴えるかは被害者の自由であり、これを法的な根拠に基づかずに制限することは許されないし、そうである以上、裁判所が自発的にそのような指導をすることも期待できないでしょう。

# 望ましいかどうかという意味では、私も個人を被告の地位におくべきではないと強く思っています。餓死しそうなときに餅の絵にかじりついても仕方ないという趣旨です。為念

現実的には、訴えを提起する前の段階で、原告側の訴訟代理人から 「医師個人を被告にしても有利になるわけではない、病院だけ被告にしましょう」 と説得するのがもっとも有効(他に有効な方法はなさそう、という消極的な意味でですが)だと思います。

なぜ医療裁判では医師個人に訴訟対象がいきがちなのでしょう。

については、「あの医師がどうしても許せない」という気持ち、そして個人への訴訟提起を許す法の設計・運用が原因なのだろうと推測されますが。

一方、医療以外の業務上の不法行為において、個人が訴えられないのが原則とまではいえないように思います。
医療行為と比較して、直接の関与者がはっきりしない事例(工場で食品に毒物が混入、貯蔵庫の危険物が爆発・漏出 etc.)では、個人が被告とされることは少ないかもしれませんが、一方、直接の関与者がはっきりしており、かつ被害者・遺族に怨まれる立場にある個人であれば、(共同)被告にされている例も多いと認識しています。
むしろ、航空事故や列車事故の場合が例外とみるべきではないでしょうか。被害者が多数で、行為者個人を被告とすることが支払能力の点で無意味という特殊性ゆえ。

いずれにしても、その患者・遺族の感情を、訴訟の被告として担当医をつるし上げにする、というのではなく、何か別の形で慰撫・昇華するようなalternativeが必要と思います。
現行法ではそれ(個人を被告とすること)を阻止することが不可能である以上。

# ぜんぜん「少し」じゃなくなってしまいました

> PINEさん、fuka_fukaさん

通常は組織としての病院や自治体を対象に訴訟を起こすべき、と考えるのですが(一般企業はそうですし)なぜ医療裁判では医師個人に訴訟対象がいきがちなのでしょう。

この点については、刑事と民事がごっちゃになっていました。刑事では主に過失を犯した個人が、民事ではその所属する組織が主に対象になりますね。
失礼しました。
# にも関わらず自分がこのようなイメージを持っているのは、福島や東京女子医大の事例が頭にこびりついているからでしょうか。。

いずれにしても、その患者・遺族の感情を、訴訟の被告として担当医をつるし上げにする、というのではなく、何か別の形で慰撫・昇華するようなalternativeが必要と思います。

一昔前はこのalternativeが「宗教」だったように思います。
倫理観、宗教観の喪失はこのあたりに大きな影を落としているようです。

>猫医者さん

どちらの慣用句にも精通し、医療と司法の仲立ちをしうる専門職があればいいのにと。

現実にはそのような専門職の方々が存在していると思うのですが、その専門職の方々は一般世間の関心も薄いし、医師の方々の関心も薄いように思われてなりません。

つまり、法医学者の事なのですが。

我が恩師の一人も法医学者ですが、他のことはともかく医療に関して代弁していただくことにはいささか不安が(汗)。

それは冗談としましても、一般相手の啓蒙ということであれば同じ社会医学系でも口達者な衛生、公衆衛生あたりに講演なりさせてみる場がもっとあってもいいのかなという気がしています。こちらはもっぱら医療対マスコミという構図が主になると思いますが。

少しピント外れかも知れませんが、以前から気になっていることを書かせてください。

Do not harm. が医療の基本ですが、これはある意味、プロである医師が自分たちを戒める為に考えられた原則だと思うのです。実際には「毒をもって毒を制す」というように、毒を与える=患者に害を及ぼす可能性を完全には排除できない行為が医療行為です。実際には不可能な事だから、それを実現すべく我が身を賭して努力せよ、と先輩医師に言われているわけで、それは医師として受容できます。

ところがある時、「研究」という分野で、結果を求める研究者がこの原則を破ったと思われた為に、「倫理」の世界、すなわち第三者からこの原則を求められるようになりました。不幸はここで「研究」と「治療」の混同がおこり、「治療」においてもこの原則が他者から強要されるようになったことです。

「研究」においては、そこに「研究参加者」による「社会への贈り物」としての「risk taking」が、informed consentの下に同意されている限りにおいては、危害が及ぶ可能性があっても構わないが、それ以外の場合は許容されないわけです。これが意味するところは、研究者は研究参加者に対して、「参加者が同意するに足る、必要十分なレベルまでの、完全な同意説明」が行われることに対する責任を負いますし、もし有害事象が予想外のものであっても、その責任を回避することは出来ない可能性が高いです。でもこれは研究をinitiate(開始)する主体が研究者にあるので、至極当然のことです。

問題は現代ではここに書いた原則がそのまま「診療」に当てはめられている可能性が高いことです。その誤りは「informed consentを完全に行うことなど不可能だ」ということを考えればおわかり頂けると思います。研究であれば、もしその説明が、「研究に参加しても良いと思ってもらえるレベルに達していない」なら、研究に参加してもらえないだけのことで、そこで終了します。完全である必要はないし、多くは「判らないことが多いですが、それでも良いですか?」という物だったりしますから、「不完全であることことを完全に理解してもらえばよい」というものだったりします。
一方、診療に関して言えば、その一連の行為(契約だったりします)の開始者は「患者」であって、医師(や研究も行う医師)ではありません。あくまでも患者が「治療してください」と言って、始めて物事が始まります。これが自己決定権の根拠でしょうから、この前提は間違っていないと思います。

ここまで来ると、かなり殺伐とした表現になってしまいますが、極論をすれば、医師の側からは積極的には説明をする義務は無い、とも言えるようになるのではないかと思います。特に日本では自由に医師を選べますから、情報が不十分でいやなら他の医師に行けばよいと言うことになります。自由競争(現実には公定価格ですので変ですが)ですので、多くの情報を与えて患者をリクルートしたい医療機関は頑張れば良い、となります。医師の側からは、Do not harm. の原則なんて守れるわけないよ、事故はある一定の確率で起きるよ、それでも納得してもらわないと出来ないよ、と説明すればよいわけで、いやなら契約不成立です。(ここでまた日本はおかしな国ですから応召義務なんてものがあるから、話がわかりにくい。)

なんだか書いていても嫌になりますが、実際にはこういう原則だけでは成り立たないからこそ(応召義務や公定価格制などもあるので・・)、少し中途半端な形で医師側も頑張って努力をするわけです。こうして上手く行ってきた世の中でしたが、患者側や司法側、特にマスコミの情報操作でしょうか、「原理主義的」主張が強くなって、「研究」の原則が「治療」の原則と同一視されるようになりつつある危機に医師が反発しているのが現代だと思うのです。

特に米国などと「応召義務」「価格」「自己決定能力のない大衆」という相違を有する日本では、そもそも法律の根本になりうると考えられる「倫理」のレベルですら、そのままの輸入に無理があるのではないか、と考えられるのです。当然、法律よりも、はるかに普遍的であるべき「倫理」が日本と外国で違って良いはずはありませんが、そう言いたくなるぐらい、(つい最近まで癌の告知が不可能であった日本という国では)彼我の差が大きいというのが、現場の印象です。

結局、良い意味での「島国根性」=狭い国土なのでお互いが少しずつ譲り合って生きてゆく知恵(日本とイギリスに共通する文化であるはず)だけが、解決しそうだと思うのですが、さて、マスコミはどう協力してくれるでしょうか。

No.57 By stander さん
患者への説明と、必要十分な説明に基づいた同意は必要だと思います。
「情報が不十分でいやなら他の医師に行けばよいと言うこと」にはなりません。

但し、患者側も義務を負うべきです。
理解できなかったら、同意書にサインするべきではありません。後でゴネルのはおかしい。

hama内科医さま

但し、患者側も義務を負うべきです。
理解できなかったら、同意書にサインするべきではありません。後でゴネルのはおかしい。 

まったく同感です。 
そしてい私は同意書をとるときに試験をして合格点に達しなければ治療を拒お断りしたいとよく思います(笑)。 
時間をかけて説明しても、先生お任せしますじゃ ね。

それにBy standerさまのおっしゃるとおりで、研究なら理解能力がない人は除外項目になり研究に参加できません。
米国で研究に参加するとただで医療が受けられ、いろいろなインセンティブがあるわけですから理解しよう、参加しようという意欲が違います。


どこに書くべきなのかわからないのですがふと疑問におもったことを訪ねます。

医療というのは軍人と共に唯一他人を傷害することを合法的に認められた職業です。
しかしそれも与える傷害を上回る利益が得られるという大前提あっての話と考えます。

たとえば自分らの領域で癌と言うと外科的切除以外は事実上100%致死的です。
つまり癌死を免れたければ手術を受ける以外にありません。

さて、手術での完治率が40%程度期待できれば現状ではまず手術に回っています。
しかし手術を行っても過半数の60%では手術の甲斐なく亡くなってしまう訳です。
するとこの場合、過半数の患者にとって手術は無駄に体を傷害しただけに終わります。

この過半数に傷害を与えるだけで無駄に終わる手術を行うというのは是か非か?
司法的にはどのように考えられるものなのでしょうか?

>No.57 By stander さん
>No.58 hama内科医さん
>No.59 みーこさん
のお三方のコメントにほぼ同意です。
あえて付言すれば、医療分野に限った話でなく、戦後民主主義国家を標榜した時点からオポチュニズムの蔓延が始まった結果、現在司法行政立法マスコミほかすべての分野において同じ問題があると思います。今は島国根性の悪い面が優勢みたいです(笑)が、さてこれをこれからどのようにして良い面を引き出すのか、目下のところ思案投げ首に近い状態ですね(笑)。

一対一のサービスだから、行為責任が末端の医師に向かうのはむしろ当然だと思いますけどね。外科系なんかはおっかないからグループ診療で、全員がかかわるようになってリスク分散してます。病院を訴えるのはこのへんの事情があるからかもしれませんね。

まあ、目の前の患者さんの現実に目をつぶり、厚生労働省や財務省の目論見通りに質を落として、やるべきことを止めれば訴えられない安全な医療が実現すると思いますが…。病院の中の人達にしてみれば、それは決して容認できない事でしょう。

医師というのは社会制度や人間の都合からかけ離れた大自然の営みである病気を相手にしているので、大昔から社会が個人の健康を冒すならば、むしろ社会を治そうとする人材をたくさん輩出しています。法律がこうなっているという通り一遍の説明では納得しないでしょうね。

No.60 老人の医者さま

この過半数に傷害を与えるだけで無駄に終わる手術を行うというのは是か非か?
司法的にはどのように考えられるものなのでしょうか?

インフォームドコンセントの問題になるのではないでしょうか。
患者がリスクを理解して承諾したはず【注】といえるだけの事情があれば、民事上も刑事上も、過失は否定されると思います。

患者の自己決定権に貢献したという意味で、プロスペクティブには 「是」 でしょう。患者さんが、自分のバクチに負けただけです。予想屋のせいではない。

(施術の際に過誤がなく、統計的なリスクが顕在化しただけであることが前提ですが。)

【注】 判例・学説とも、「患者が実際に理解した」ことまでは要求していません。
 ↓
判例にみる医師の説明義務 藤山雅行 編著 8〜10ページ

>ぷりんさんのコメント
>目の前の患者さんの現実に目をつぶり、厚生労働省や財務省の目論見通りに質を落として、やるべきことを止めれば訴えられない

医師の方のコメントで、これと似たような意見をとても多く目にします。
云わば「確実なことをやれば医療の質が落ちる」「医療は不確実なもの」

一方「医療唯一の正解などは無い」「自然現象」といった御意見もあり。
このブログを拝見すると両方を目にするわけです。

この両方を信じるとなれば、私の場合こう受け取ったほうが理解できます。キツイ表現かもしれませんが。

「医療は宗教」

いままで医療は科学だろうと思っていましたが、実際は患者の前で試行錯誤を繰り返しているばかりの様が伺えます。

この際、答えは神のみぞ知る宗教、或いはギャンブルだと割り切ってしまえば『統一見解など幻想』『刑事責任を追求されてはやっていられない』といった趣旨の伺われるコメントの根拠が、私の理解の範疇に入ります。

そして、医療の議論が神学論争染みている限り、司法への説得力は不十分と思います。

>Multisync様

>「医療は宗教」

>いままで医療は科学だろうと思っていましたが、実際は患者の前で試行錯誤を繰り返しているばかりの様が伺えます。

 あ〜、近いかも。ってか、医学ってのはまだ確立されたものではないんですよね、数学のように(多分、確立されるとしても数千年後??)。

 人類はまだ人間の体について十分知ってる訳じゃないんです。おおよそ、こんなもんかな?ぐらいしか知らない。ましてや病気においておや・・・です。

 かなり「この場合にはほぼこうである」・・・ぐらいのものはここ100年ぐらいで確立してきましたが、それでもまだ100年です。数学や物理学が数千年の歴史を持っていることを考えればはるかに遅れた学問です。

 現時点の医学は「ギャンブルよりはちょっと確率の高い、当たるも八卦当たらぬも八卦よりはちょっとだけましな」学問です。天気予報よりはもうちょっとましかな?
 一応科学的合理性はあるんですが、人体というブラックボックスがあまりに巨大であるために、合理的に得られる答えとは正反対の回答が返ってくることがあるのが医学だと思います。少なくとも医師はみんなそれを知っています。

>MultiSync@一市民さん
MultiSyncさんの仰ることも分かるのですが、一方、医師の方々が仰ることも分かるのです。おそらく「実際は患者の前で試行錯誤を繰り返しているばかり」であり、人体の複雑さの前には右往左往するしかないのでしょう。

ご存じかも知れませんが、新しい創傷治療と言うサイトを紹介します。このサイトを見ると、医療というものの難しさが伝わってくるように思います。

>No.64 MultiSync@一市民さん
僻地外科医 さんのコメントを踏まえて、通訳しますと、

(1)「確実なことをやれば医療の質が落ちる」
 →確実なことだけをやれば医療の質が落ちる

(2)「医療は不確実なもの」
 →医療の確実な部分以外は不確実だ(当たり前ですけど)。
  しかし、不確実でもメリットの期待値+デメリットの期待値>0
  であることは言える。(デメリットの期待値は負の数です)

(3)「医療唯一の正解などは無い」
 →メリットが出るように努力はするが、その方法は複数あり、
  中にはデメリットにつながるものも複数ある。
  しかし、あらかじめ、どれがデメリットにつながるか、予想はできるが、
  天気予報のように時々外れる(天気予報より、少し当たる確率は高いかな)。

(4)「自然現象」
 →天気予報を確実に出せるのは神様だけなので、そのような意味で自然現象

>ギャンブルだと割り切ってしまえば

そのとおりです(^^)。ジャンボ宝くじを9枚買って、300円が当たるかどうかのギャンブルです。病気によっては6枚とか7枚しか買えない場合もあります。

本来はある患者さんに対して病気は有る無しの2択しか無いはずなのですが、こういう症状から考えるとこの人に病気がある可能性は60%くらいかな(実際は数字ではなく可能性が大きいか小さいかを考えるのですが)と割り切れないままおいておくのが医療だと思います。
そこを確実に0か1にしようとすると歪がでてくるということでしょうかね。

ベイズ統計学を勉強しようとしながら放ったままになってます。

皆様ありがとうございます。怒られずに肯定されるとは思っていなかったのでびっくりです。
「新しい創傷治療」はちらっと見たことが有ります、賛否両論意見百出でしょうかね。

ただ医療のレベルがここのコメントの通りならば、逆に医療の実績も評価しないと、崩壊問題は更に進むかもしれないし、「崩壊してしまってもたいした影響が無い」などと言う冷たい議論につながりかねないと思っています。

たぶん崩壊をしたところで大した影響がないというのはその通りでしょう。(何をもってたいしたことというのかはまた別問題ですが)

お産に関わる死亡のリスクというのは半世紀でおよそ1/100になったと聞きます。産科医療の進歩の成果であると考えていいのかと思いますが、逆に言えば産科医などいなくとも過半の妊婦は無事にお産が出来るわけです。
通常外来を訪れる患者の少なからぬ部分は医療を要さずともいずれ自然経過で良くなるかも知れない。逆に最善とされる医療を受けたところで確実に治る保証などどこにもない。
医師がいるといないとで随分と経過が違うだろうなという領域は確かにありますが、別に人間生活に必須の存在とも思いません。

医師の影すら見えない時代にも人間は生きていたし、今の時代にあっても多くの人間が医療などかかることなく生き、死んでいく。そしてそれは医療に限った話ではないと思います。その意味で、医療は決して社会から特権的存在として認められた職種ではありません。
国は医療に金を使う必要はないと断言し、マスコミは医療潰しのキャンペーンを続け、国民は要求するばかりで自分が何をすべきかなど考えない。色々な職業が時代と共に生まれ、自然の流れの中で消えていった。医療だけ不自然に延命させる特別の理由があるのかどうか自分には判りません。

>この両方を信じるとなれば、私の場合こう受け取ったほうが理解できます。
>キツイ表現かもしれませんが。
>
>「医療は宗教」
>
>いままで医療は科学だろうと思っていましたが、実際は患者の前で試行錯誤
>を繰り返しているばかりの様が伺えます。

確かにある意味では近いと言えば近いですし,そうではない部分もあるでしょう。
医学は科学です。しかし「医療は蓄積された知識と,経験に基づいて最も適切と考えられる治療法を模索する芸術である」というところでしょうか。
まあ,ギャンブルでもある程度の情報の中から勝ち目の高いものを選ぼうとするわけですから,極端に言ってしまえばギャンブルに近いです。
ただそれよりももう少しは科学的かと...

医療は確率論、と言えば理解できるかもしれません。
私にとって医療は宗教ではありません。科学です。そもそも究極の科学も確実、ということはなく、確率論です。素粒子物理学なんてそれを顕著に物語っているでしょう。電子がそこにある、のではなく、電子はこれくらいの確率でそこにいる、のです。
しかし、一部の方から言わせれば宗教になるのかもしれません。科学自体が神がかっているというべきでしょうか。人によって科学への認識が違っていれば宗教と同じなのかもしれません。

しかし、これだけは言わせていただきますし、間違いありません。医学は科学です。経験と理論からなっています。そこはお間違いなきよう・・・。

「医療は蓄積された知識と,経験に基づいて最も適切と考えられる治療法を模索する芸術である」

まさしくその通り!
医学は 厳正なscienceと微妙なartであると思っているのですが。
どちらか片方ではないのです。

芸術ということに関しては私も同意です。

>No.55 しま さん
気付かずレスが遅くなってすみません。

法医学者というのは、念頭にありませんでしたが、確かに一つの可能性ではあると思います。
ただ私が想定していたのは、実際の司法の場で文字通り通訳する職種です。

例えば鑑定書の問題などを見ていても思うのですが、真っ当な医師なら、結果、やむを得ないと思っていても、後出しジャンケンとしての使い方ではなく、次に役立てるためにという視点で、必ず他に可能性はなかったかを考えると思います。
その場合、あくまで理想を追求します。
それが実現可能かどうかは、それから考えることとして。
ですが、これを医師の感覚のまま、理想論なんだとわかってくれるだろうと思いこんで、鑑定書を書かれては、実際に訴えられた医師はたまったものではありません。
鑑定書でなくとも、訴えられた医師自身が、カンファの感覚で、次はもっとこうすれば理想的だという心算で発言した場合など、それが医師以外にも、理想論であって現実的に可能かどうかの話じゃないのだとわかってもらえるかどうかは怪しいと思います。

そこで、先のコメントのような職種の人がいて、そこはちゃんと、理想はそうだが今の現実では無理だと書かないと駄目ですよとか、教えてくれたり、添削してくれたりするといいのになあと思ったのです。

このエントリーでだいじょーぶかな? と心配しつつ。
関係者以外は無関心である、と嘆いておられるかたが多いので
いまさら、発言させて下さい。

医療訴訟回避について、ずっと考えていました。
 

医療訴訟が起こるのは、遺族等が訴訟提起するからなので、まず、遺族側から考えなければならないと思います。

・亡くなられた方の遺族にとっては、死の結果に疑問を感じている以上、真相を明らかにするために、亡くなった現場である医療機関および処置に携わった医療従事者から詳しい説明を聞きたい。
・そして、仮にその医療機関および医療従事者が誠心誠意説明を尽くしたとしても、医療の素人である遺族にとっては、それが十分な説明なのか隠されている部分があるのか、正しい説明なのか嘘をつかれているのか、判別することができない。
・だから、当該医療機関および医療従事者と利害関係を持たない別の医療機関や医療従事者の解説や見解を知りたい。

こういう思いがあるのではないでしょうか。

けれど、いまのところ、その思いを満たすための制度がない。
かろうじて、説明や解説をある程度強制的に求めうる場として、医療訴訟がある。
だから訴訟提起に至る。


けれども、
・実際にかならずしも真相が明らかになるわけではないから(というよりも、真相は明らかにならないことのほうが多いから)、遺族の気持ちが満たされずに終わる結果となりうる。
・また、訴訟に巻き込まれる医療従事者や医療機関にも、著しいダメージが生じる。特に医療従事者にとっては、職業生命の危機に繋がりかねない、重大なダメージが生じることもある。
・さらに、当事者主義の下、限られた範囲でしか判決を下せない司法機関も、批判を浴びることとなる。

結局、関わった人を誰も幸せにしない現状となってしまっているように思うのです。

このことは、裁判によらない紛争解決(ADR)によったとしても、根本的な解決にはならないような気がします。
 

医療従事者や医療機関に(結果として)ペナルティを科すための制度ではなくて、純粋に真相を明らかにするための制度を築くのは、無理なのでしょうか?

医療行為の責任を問う制度ではなく、自分たちの医療行為に関して事後的に遺族等に対して十分な説明をすべし、という責任を負わせる制度の創設です。
単なる調査機関よりは、遺族の意向を重視した機関が設置されることが望まれます。遺族側、医療機関・医療従事者側、第三の医療機関、利害関係を有しない立会人、による制度を考えています。

ADR は、たとえば「損害賠償など法的な責任にとらわれず、医療機関側に事故の再発防止策を確約させるなど」となっていますが、そのさらに一歩手前の制度が欲しいと思います。
真相がほとんどわからない時点で、それを紛争化させる必要はないと考えているからです。

だって、医療の手を尽くしても人が亡くなることは、特に過誤がない場合であっても、十分にあるでしょう?
事故でもなんでもないものは、事故ではありませんでした、ということさえ明らかになれば、紛争化させる必要はないはずです。事故はあったけれども医療過誤とはいえないような事例についても、紛争化させる必要はないとも考えられます。

真相がある程度明らかになって、やはり医療側に問題があるということになった後で、遺族が謝罪や金銭的な賠償を求めるのであれば、その時点で初めて紛争として処理(訴訟提起するなり、ADR に頼るなり)すればいいように思います。
刑事責任を追及するのだとしても、その時点より後でいいように思います。
(死亡時から責任追及時までの証拠の隠滅等については、厳しく罰するべきですが。)
(それと、死亡時に解剖はしておいて貰わないと困りそうですね。)
 

医療以外のトラブルだって、いきなり「訴えてやる!」となる訳じゃなくて、それなりにどのように対処しようか考えた上で、もはや訴訟しか解決の場がないと思うから提訴するのだと思います。

それに対して、医療に関してはいきなり訴訟になってしまう(ように感じられる)のは、相手方の行為(説明等)が得られないと、なにも始まらないからではなかろうか、と考えています。

もし、純粋に真相を(ある程度)明らかにするための制度を築くことが可能であるなら、司法の側は、「訴訟を提起しても、当事者の主張立証の巧拙に左右されるため、真相はなかなか明らかになりません。」ということをがんがんアピールして、遺族等が医療訴訟に取り掛かる前に、「純粋に真相を(ある程度)明らかにするための制度」に頼るよう、方向付けをしていくことが出来るとおもいます。また、制度の利用料を、訴訟手数料より低めに設定することで、誘導することができるかもしれません。

あとは、予算や人材確保等、実効性の問題ですね。
そして、それが一番の問題かもしれませんが。
 

紛争解決の枠組みでどう処理するか、という見解は多く見受けられるのですが、紛争にしない方向に持っていきませんか、という見解は余り見られないようですので、発言してみました。
(司法側の問題、というエントリーの趣旨からは外れてしまいますが。)

もちろん、最終的に訴訟になったときにどのような制度であることが望ましいのか、というのは大切な議論だと重々承知しております。国民には裁判を受ける権利がありますし。
けれども、個人的には、それだけでは、足りないような気がいたします。
 

なお、仮にこのような制度が出来たところで、提訴率は下がらないであろう、という見通しがあるのであれば、わたしの提案は、無駄なものとなりそうですね。

ただ、わたしには、そんなに訴訟提起ってしたいのかな? という疑問があるのです。お金も時間も精神力も必要ですし、不法行為責任を追及するなら、自分たちで立証しなくちゃいけないですよね?
よほどあってはならない過誤があったとか、なにがなんでも賠償金をせしめてやるぜ、とか、そういう意図がなかったなら、説明さえ尽くしてもらえれば、訴訟なんてしたくない人も多いんじゃないかなぁ……。
わたしの意見が世間の多数派である自信はありませんが。

No.76 青空 さん

医療従事者や医療機関に(結果として)ペナルティを科すための制度ではなくて、純粋に真相を明らかにするための制度を築くのは、無理なのでしょうか?
ポイントはここだと思い、コメントします。 まず、真相を明らかにするための制度を築くための前提として、個人に対する刑事・民事双方における大きな免責が必要です。 なぜならば、刑事・民事で責任を追及されるかもしれない状態で真相を話すことは困難だからです。

そうすると、医師・医療関係者に刑事・民事における大きな免責を与えなければいけないことになりますが、これには立法措置が必要です。
立法措置には国民の意思が必要ですから、まず国民の意識が変わらなければ、青空さんが考えているような制度は作れないことになります。残念ですが・・・
(それゆえの医療崩壊待望論があるのです。)

さて、別件です。青空さんは

・また、訴訟に巻き込まれる医療従事者や医療機関にも、著しいダメージが生じる。特に医療従事者にとっては、職業生命の危機に繋がりかねない、重大なダメージが生じることもある。

というのが『訴訟』であるので、医学的な根拠もなく『訴訟』を起こす人には、それ相応のペナルティを与えるべきだと思いますか?

No.77 薬屋の企画屋 さん

ご見解をお聞かせ下さって、ありがとうございます。
話を進めやすくするため、わたしの提案を、仮に【医療問題説明制度】と名付けておくことにしますね。
 

◆医師・医療関係者の刑事・民事双方の免責について

まず、刑事免責については、大前提として、わたしは、一定の限度では刑事免責が必要という立場です。そして、おそらく他の方とは見解が異なるのでしょうが、わたしは、現行の法制度の下でも、刑事免責が可能ではないか、と考えています。
この話は、あとで述べることにいたします。

次に、民事免責については、わたしの考えは煮詰まっていないのですが、少なくとも【医療問題説明制度】を設けるにあたって、【医療問題説明制度】を利用した際に得られた医師等からの「説明」そのものについては、のちの民事訴訟で証拠として提出することができない(もしくは、証拠として提出しても採用されない)との条項を必ず設けるべきである、と考えています。

どういうことかと言うと、【医療問題説明制度】で、たとえば資料(カルテ・心電図・エコー etc)を見せてもらったとします。その資料等について、原告が証拠請求することは認められる。
けれども、「【医療問題説明制度】で、○○医師が『ほにゃららほにゃらら』と説明をしました。」と主張し、「【医療問題説明制度】で無断録音したICレコーダー」なんてのを証拠として出したとしても、その主張も証拠も、判決の基礎としてはならないこととする。

つまり、民事訴訟の場面では、原告は、一から立証をしなさいね、ということです。そうすれば、「責任を追及されるかもしれない状態で真相を話す」、ということにはならないのではないか、と考えています。
それが、

医療従事者や医療機関に(結果として)ペナルティを科すための制度ではなく

と記述した意味合いです。

ただし、上のような免責ではまだまだ不十分である、という見解が出される可能性はあります。ですので、薬屋の企画屋さんが危惧しておられる通り、免責の途を明らかにするまでは、【医療問題説明制度】を導入することは難しいと思っています。
ご指摘の通りです。
 

肝心なのは、刑事・民事免責について考えた上で、それだけではなく、そもそも訴訟が起こること自体を回避できないかな、ということです。

薬屋の企画屋さんが別件としてあげておられることとも重なりますが、「責任を負わないはずの人に対して民事訴訟が提起されること」、が、あったりします。そして、その内訳は、(1)「責任を負わないとは知らなかったから提訴した」というのと、(2)「責任を負わないと知っているのに提訴した」というのに分けられるはずです。
もし【医療問題説明制度】を導入することが出来たら、(1)に関しては、無くすことが出来るのではないだろうか、とわたしは考えています。
 

◆医学的な根拠もなく『訴訟』を起こす人には、それ相応のペナルティを与えるべきか

まず、「医学的な根拠もなく」というのを、誰の判断を元に「医学的な根拠がない」と評価すべきか、という問題がありますが、ここでは、医療訴訟で最終的に原告が敗訴した場合を、「医学的な根拠のない提訴」となぞらえて(注:原告敗訴が直ちに医学的な根拠がないことに結びつくわけではありませんが、とりあえず、そう考えましょう、ということです。)その場合のペナルティについて検討します。

えーと。
この場合は、普通に損害賠償請求すれば、それがペナルティにはなりませんか?
医療訴訟を提起されたことによって、経済的な損失を蒙り、精神的苦痛を味わったとして、損害賠償請求し、「医学的な根拠のない提訴」であったことを立証すれば勝てるような気がするのですが。
(ただし、立証は必ずしも容易ではない、という問題がありますが。)

それとも、現実には遺族等に対して損害賠償請求などしにくい、という現状から、なにか他の手段でペナルティを与えるべきである、というご判断がおありなのでしょうか?

わたしは、現時点では、それ以上のペナルティを与えるべき、とは考えておりません。

薬屋の企画屋さんは、どのようにお考えですか?
よろしければ、ご見解をお聞かせ下さい。

No.76 青空 さん
No.77 薬屋の企画屋 さん
次のような機構はどうでしょうか。
医療紛争を扱うNPO法人を立ち上げます。その主な任務は、紛争の仲裁ですが、更に重要な任務として、調停の正確なビデオによる記録とその管理を任せます。
記録は個人の機密情報ですから、当然厳重な守秘義務が必要です。
一旦紛争が訴訟に持ち込まれた場合は、原則として、これを証拠扱いとします。免責は与えません。
ですが、話し合いの内容、説明の持って行き方、謝罪の様子や当事者の顔色、表情が法廷に持ち出されることで、訴える側にとっても相応の圧力になり、安易な訴訟は抑制されるのではないかと思いますが。

医療行為の刑事免責について、ひとつの見解を述べておきます。

モトケンさんのブログで、お医者様からの発言を丹念に拝読しておりますと、「医療行為というのは、本質的に過失行為を含んだものである」と考えられているように思われます。その背景には、「医療というのは常に進化の途にあって、より良い医療を追求すれば、なんとかして死の結果を回避するすべはないかと、不確実な行為に挑むことにもなる」という医療特有の問題がありそうです。

わたしは、そのような「精一杯の模索の上でなされた過失行為」によって死の結果が生じたとしても、それは「正当な」業務による行為として、違法ではないと評価されてもいいのではないか、と考えています。

つまり、
1.医療行為に過失があったと認められる
2.死の結果が生じている
3.過失による医療行為と死の結果との間に因果関係が認められる

この3つを満たしたとしても、違法性が否定されることで、犯罪は成立しないと考えてよいのではないか、ということです。
 

治療行為が、刑法35条の定める「正当業務行為」として正当化されるには

(1)治療目的があること
(2)医学上の法則に従ったものであること
(3)患者の同意があること

が、必要であると考えられます。

そして、医療過誤・医療事故等に関しては、このうち(2)が認められないとして、違法であると判断されているのだとおもいます。

わたしは、明らかな過誤(処方の10倍の投薬をしたとか)に関しては(2)が否定されると考えていますが、上にあげたような「不確実な行為」については、「医学上の法則に従ったもの」と評価してよいのでは、と考えています。

医療従事者の方々が、「医療とは不確実なものである」と評価しておられるのであれば、そのこと自体を「医学上の法則」と評価してはいけないのでしょうか?
確実な行為だけしかできないのであれば、医療は成り立たなくなると言われているのですよね?
そのことを、もっと考える必要があるとおもいます。

 
けれども、このような見解を主張しておられるかたに出会ったことがないので、わたしの見解は、刑法学的に破綻しているのかもしれません(笑)
でも、敢えて見解を述べてみました。

わたしの考えの根底には、

医療行為を尽くした上での死 > 医療を施さずに迎えた死

という価値判断があり、その医療行為にある程度の過失行為が含まれていたとしても、それだけで「どちらに優越的な利益があるか」の判断が覆されることはない、との考えがあります。

 
もし、この法理論が成り立つのであれば、医療訴訟に置いては、過失がなかった、因果関係がなかった、と争う以外に、過失行為そのものが正当な医療行為なのだ、と争っていくことが可能になるのではないか、と考えています。

ちょっと思っただけのことをここに書くのも気が引けるのですが・・・。

敵を知り己を知らば百戦危うからずと言いますが、刑事はともかくとして民事に関しては、どういう類型が患者側提訴に至りやすいのかケース・スタディーするのも割と即効性のある対策かな、なんて気がします。
制度改正は一朝一夕には行きませんが、もしかしたら「クレーム対応」を誤らなければ上手に事態をコントロールできるかもしれない。

で、ケース・スタディーですが、医療従事者にとっては腸煮えくり返る思いかもしれないですが、提訴する患者側の言い分ですね。これを聞き取る。どうして欲しかったのか。どうして納得できなかったのか。なんで提訴に踏み切ったのか。
そして、医療側が実際どういう対応を取ったのかも聞き取る。上手に患者サイドの認識のズレを埋め合わせるノウハウが分かれば、民事訴訟を提起されるリスクは下げられるんじゃないでしょうか。

無論、「ご説明要員」のようにマン・パワー(=原資や労働時間の裏づけが必要)を投入しなければ無理だという結論になることも十分予想されますが、それでも「どこに、どんな具合に地雷と言うのは埋まってるものなのか」という知識が広く共有されるならば、意義はあると思います。

対症療法的ではありますけど・・・。

青空様、

医療関係の過去ログを読んでから議論を頂いたほうが、実りあるのでは。
理論的な問題についても、実際的な問題点についても、既にいろいろな指摘がなされ、参考になることが多いと思います。
また、ついでに、新規のお客様のために、過去ログの該当箇所を引用した上で、更にご自身のご意見を書いてくださると大変助かりますが・・・

No.79 いまだに内科医 さん

ご見解をお聞かせ下さって、ありがとうございます。

わたしの、No.78 の発言とは、逆の方向からのアプローチですよね。

二つの考え方があるのだとおもいます。
つまり、真実さえ明らかになれば民事訴訟は防げる、という前提の下、のちの訴訟の資料に流用しないことで、医療側の心理的負担を軽くして、真相解明に役立てよう(そしてその結果として民事訴訟を防ごう)というアプローチ。
それに対して、いまだに内科医さんのご提案のように、すべてをのちの訴訟の資料にすることで、患者・遺族側にも心理的な圧力をかけて、のちの民事訴訟を防ごうというアプローチ。

どちらのほうが、実効性があるか、という問題となりそうですね。

これは、医療側、遺族側、どちらを信頼すべきか、というお話にもなってきそうです。

医療側が、リスクがあってもそれでも説明責任を果たしてくれるだろう、という信頼が大きければ、いまだに内科医さんのご提案に実効性があることになります。

対して、遺族側が、真相が明らかになればそれだけで満足して無用な訴訟など提起しないであろう、という信頼が大きければ、免責の下での説明制度に、実効性があることになります。

そして、それらの信頼の程度に差がないのであれば、わたしは、いまだに内科医さんのご提案のほうが、優れていると考えます。

なぜなら、無駄が少ないと評価できるからです。

最終的に、訴訟以外の何らかの制度に出席する義務を負わされ、さらに訴訟に応じる義務も負わされることとなれば、いま以上に、医療側の負担が増すことになります。
それなのに、民事訴訟では一からやり直し、なんて言われたら、それはあんまりです。

ですので、わたしの提案は、「真相さえ明らかになれば訴訟提起の多くは回避される」という前提が崩れてしまえば、まったく成り立たない制度です。

>No.80 青空 さんのコメント
に大筋でほぼ同意です。
法律用語とか細かい点については私も素人なのでわかりませんが。

医療行為というより診断治療行為は免許されて行われる傷害行為である。
医療事故と呼ばれるものを分析する時にはハインリッヒの法則を適用すると民事性と刑事性の区別をつけ易いのではないかと思う。

今思いつくNo.80に付け足したい私見はこの2点といったところです。

No.81 惰眠 さま

まったく同感です。
患者側が訴訟を提起するのは、極端に言えば、
客観的に医療ミスがあったから、ではなくて、
「医療ミスだ」と叫びたくなるような、医療側の対応に対する、
不満、怒り、といったものがあるからではないでしょうか。

私、ただ1回だけですが、医療側の代理人をやったことがあります。
裁判の過程で、色々な事情がわかったのですが、
「ああ、ご遺族は、あのときのあの一言に、『ぶち切れた』んだな」
と、思った経験があります。

>「ああ、ご遺族は、あのときのあの一言に、『ぶち切れた』んだなと、思った経験があります。

そうなんですよね、私も20数年前のことですが、私の親父が心臓病で亡くなったときに、対応していた個人病院の医師の方に電話で対応をお伺いした(直近で風邪と言う診断で薬を貰っていたので)ところ、終始、責任を逃れようというような対応でしたので、ちょっと辟易しましたし、実際、親父自身の状態にもっと疑問を抱き、転院などもふまえた広い意味での自己責任も自覚すべきだったという、自責の念もありましたので、それ以上その医師に対してとやかくは言いませんでした。ただ、こんなことは些細なことかもしれませんが、実際人がお亡くなりになったときのようなことに対しては、遺族に対しては、慎重なことば掛けと、心配りが大事だと思います。

我々の立場から要求のようなことばかり申し上げて恐縮ですが、一患者の状況になったとき、初めての問診・検診などのときに、お言葉を掛けられた時の、第一印象(医師に対しての)なども、その後の色々な過程での、結果に対する状況に影響があるような気がします。
実際問題としては、医師の方に限らずどこの業界にも、人当たりが悪く、言葉足らずの人はいらっしゃるのも事実ですし、かといってその道にはかなり精通している方もいらっしゃいますので、後は受ける我々側の、どこで割り切っていけるのか、という姿勢も大事だとは思います。

医療関係者の方々はご覧になっている方も多いと思いますが、日経メディカルオンラインにて医療に関するトンデモ判決が特集されています。また、いま国が進めている「医療事故調」についての海堂先生のコラムもあり、参考になると思います。

http://medical.nikkeibp.co.jp/

このまま対症療法を行っていても、医療側が疲弊して、萎縮して、崩壊するのは近いように思います。
医療者側の努力だけでは限界があり、政治的な判断が必要な局面まで追い詰められているという状況です。

>No.82 YUNYUN(弁護士) さん

ご指摘ありがとうございます。
過去ログをきちんと読めていないようですね。
読み落としているところ、理解に問題があるところ等を、
もういちど詳細に検討してみます。
引用の不備に関しても、以後気をつけます。
申し訳ありませんでした。

なお、No.80 の発言のうち

>このような見解を主張しておられるかたに出会ったことがないので

という部分や、

>法理論が成り立つのであれば

という部分は、明らかに記載の仕方に問題がありました。

YUNYUNさんの従前のご発言 CID 33387 や、モトケンさんの従前のご発言 CID 8043 CID 10822 については、存じ上げております。
実際の訴訟においては、過失の認定の際に基準とされる医療水準と正当化の認定の際に基準とされる医療水準とにあまり差がないように感じているため(そのわたしの認識が誤りであるかもしれませんが)、両者の相違を具体的に明言しているような見解を見たことがない、ということを記載する意図がありました。
見解を見つけられていないのは、過去ログの読み落としの可能性がありますし、後者については、法理論に実効性があるなら、というふうに記載すればよかったかな、と考えています。
不適切な表記をしてしまったことを、深く反省しております。
 

>ご覧の方々へ

過去ログを読み落としているところがありそうですので、蒸し返しの発言をしておりましたら、申し訳ありませんでした。

また、従前の議論に対する理解の至らぬところがあるとおもいますので、わたしの発言の前提となっている議論に関しては、あとで該当個所をリンクするなど補足しておきます。

いましばらくお時間いただきますよう、お願い申し上げます。

事故調査委員会は判断をするところであって、要求を出し合うところではないと思うのですが。
昨今の厚労省の事故調査委員会についての見解をみていると、調査委員会を作って何を達成したいのか、合目的的の目的の部分の中心論理がまったくありませんね(笑)。

医療者側の努力だけでは限界があり、政治的な判断が必要な局面まで追い詰められているという状況です。

それは勿論そうなんでしょうけど・・・
事務方の星さんを難詰するようで心苦しいのですが、こういうタイミングでこういう書き込みをされるとガックリ来ます。

民話なんかで、人里離れた老夫婦の住む家に腹ペコの旅人が来て一宿一飯を請うような話がありますが、「ウチも蓄えは殆んどないが、水団くらいなら何とか作れる」と旅人に手を差し伸べようとしたら「ここまで腹が減ってはもはや満漢全席でも出してもらわないと意味がない」って言われて手を払いのけられたような気分、とでも喩えればいいでしょうか。

別に「善意」を押し売りするつもりもありませんし、私ごときがなにを思おうとどこかに影響力を発揮できるわけでもありませんが、苦衷にあってもなお何らかの努力をしようと心を砕いている、影響力を持ちうる方だっているはずです。
そういう努力に水を差したり、心を折ってしまうようなコメントが関係者から出るのは、非常に残念なことに感じます。

医療者側の努力だけでは限界があり、政治的な判断が必要な局面まで追い詰められているという状況です。

それは勿論そうなんでしょうけど・・・
事務方の星さんを難詰するようで心苦しいのですが、こういうタイミングでこういう書き込みをされるとガックリ来ます。

民話なんかで、人里離れた老夫婦の住む家に腹ペコの旅人が来て一宿一飯を請うような話がありますが、「ウチも蓄えは殆んどないが、水団くらいなら何とか作れる」と旅人に手を差し伸べようとしたら「ここまで腹が減ってはもはや満漢全席でも出してもらわないと意味がない」って言われて手を払いのけられたような気分、とでも喩えればいいでしょうか。

別に「善意」を押し売りするつもりもありませんし、私ごときがなにを思おうとどこかに影響力を発揮できるわけでもありませんが、苦衷にあってもなお何らかの努力をしようと心を砕いている、影響力を持ちうる方だっているはずです。
そういう努力に水を差したり、心を折ってしまうようなコメントが関係者から出るのは、非常に残念なことに感じます。

大変恐れ入りますが、
No.80 は、具体例と理論が噛み合っていない上、理論的な誤りが含まれておりますので、撤回させてください。
 

>No.77 薬屋の企画屋 さん

現行の法制度の下でも、刑事免責が可能ではないか、と考えています。
この話は、あとで述べることにいたします。(青空の No.78 )

の部分は、No.80 ではうまく説明できていないことが判明しましたので、現行の法制度下の刑事免責の話は、一旦ご破算とさせて下さい。ただし、法制度の改正によって、刑事免責を可能とすることには、わたしも賛成しています、ということを、改めて追記しておきます。
 

>No.82 YUNYUN(弁護士) さん

No.88 の発言中の、関連部分も削除してお読みいただければ幸いです。
 

>No.84 ぼつでおk(医) さん

せっかくコメントいただいていたのに、申し訳ありませんでした。
ちょっと、おバカなことを書いているといまごろ気がついたので、ご容赦いただければ幸いです。

医師を刑事免責にするには、法律改正は必要ありません。最高裁がただ、医学的に高度に専門的なことは裁判所では判断できないという判例を作ればいいのです。。

No.93 うらぶれ内科さん

>最高裁がただ、医学的に高度に専門的なことは裁判所では判断できないという判例を作ればいいのです。。

現実にはそれは無理な注文だとは思うのですが、

いずれにしても、最高裁が無茶苦茶な背伸びをした結果、医療破壊を強力に後押ししたことは事実だと思います。この落とし前は法曹につけてもらうべき事ではないかと考えています。

例えば、医療訴訟において被告に立証責任を押し付けたことなんか、裁判の論理から言ったらウルトラCなんじゃないですかね?(お隣韓国では、原則に忠実に、原告に立証責任があるようですからね) 勝手な判断でウルトラCを繰り出して医療破壊に加担しておいて、自分らには責任がないとか言い出す司法を誰が信頼しますか、ということですね。

No.92 青空さん

家に帰り着く前に結論が出てしまいましたか?

YUNYUNさんの従前のご発言 CID 33387のあとのNo.62のじゅんさんの発言が的を射てると思います。

医療の価格が高くて、結果が悪ければ金銭で補償してもらえる医療がよいのか、
医療の価格は安いけど、結果が悪くても何の補償もないほうがいいのか

前者はアメリカ型、後者は・・・古き良き日本の医療ですかね?
どちらを選ぶかを国民が選ばなければいけない時代になったのだと思います。

なお、ペナルティについては、風評被害や業務を行えない間の営業補償など結構大きな金額になるでしょうから、損害賠償請求で充分かと思われます。
要は、医療訴訟で負けるとそれ相応のペナルティが発生するということを持って、抑止とする考えを是とするかどうかです。私は「医療行為に免責が与えられないならば」という条件付で是とすることが良いと思っています。
上記の前者の状態ですね。

>No.92 青空 さんのコメント
おや、そうでしたか。それは残念(笑)。

私がNo.80に魅了されたのは以下の部分のご記述でした。

>治療行為が、刑法35条の定める「正当業務行為」として正当
>化されるには
>
>(1)治療目的があること
>(2)医学上の法則に従ったものであること
>(3)患者の同意があること
>
>が、必要であると考えられます。
>
>そして、医療過誤・医療事故等に関しては、このうち(2)が
>認められないとして、違法であると判断されているのだとおも
>います。
>
>わたしは、明らかな過誤(処方の10倍の投薬をしたとか)に
>関しては(2)が否定されると考えていますが、上にあげたよ
>うな「不確実な行為」については、「医学上の法則に従ったも
>の」と評価してよいのでは、と考えています。
>
>医療従事者の方々が、「医療とは不確実なものである」と評価
>しておられるのであれば、そのこと自体を「医学上の法則」と
>評価してはいけないのでしょうか?
>確実な行為だけしかできないのであれば、医療は成り立たなく
>なると言われているのですよね?

で、No.84を補足してみたのですが。
でもまあ本当はNo.80にかこつけて、事故を評価する際にはハインリッヒの法則を効果的に用いて合理的な判断を下すべきだという私見を言いたかっただけですので、青空さんも読者のことを余り気になさらないでもいいと思いますよ(笑)。次の新しいコメントを楽しみにお待ち致しております。

>91 惰眠さん

>そういう努力に水を差したり、心を折ってしまうようなコ メントが関係者から出るのは、非常に残念なことに感じま す。

そういう風に感じ取られたとしたら、言葉足らずでした。私なりに医療を取り巻く現状は厳しいことを表現したかったのです。

私は、座して崩壊を待つことより、何らかの行動が必要だと考えています。しかし、浅学菲才の身であり、地方のいち病院の事務長如きでは何ら力になれません。それでも、医療崩壊を食い止めるために何らかの行動は続けたいと思っています。

>No.97 事務方の星 さん

こちらこそ申し訳ありません。
私のほうが、ご発言の趣旨を取り違えて解釈していました。

私としては「抜本的な医療行政の方向転換がなければお先真っ暗の状況は変わらない」ことを前提としつつ、しかし抜本対策は短期日ではできないので、その働きかけとは別に、いま採れる緩和措置があるならそれを手始めに試みてみてはどうだろうかと思っています。

ぼつでおkな自己レス(笑)です。
>No.84
>・・・合目的的の目的の部分の中心論理がまったくありませんね(笑)。

は、わかりやすい言葉にすると(さっき思いついたばかりですw)”哲学”がない、と言いたかったのです。

毎度蛇足コメント失礼いたしました。

>98 惰眠さん

コメントありがとうとざいます。

私も考え方は同じで、例えは適切ではないかもしれませんが、北方領土は全て返還がベストです。しかし、現実的には実現は厳しい。そうであれば、2島先行返還論もありだと思っています。つまり、今採れる実があれば採るということです。
それが、制度問題でも、医療訴訟問題でも、診療報酬でも何でもいいと思っています。それが、最終的には患者である国民に還元されると思います。

No.76 補足。

発言の背景を補足しておきます。

患者や遺族に対する賠償命令・裁定というところまで踏み込まない「第三者機関」の創設ということに関しては、すでに従前より、FFF さんが検討して下さっていることでもあり(例えば CID 11040 CID 33069 )、その点に関しては、わたしの発言とも重なるものです。

けれども、敢えて No.76 の発言に至ったのは、FFF さんが想定しておられるのは、事故再発防止目的に主眼を置くものと考えられるため、もう少し、患者・遺族側の視点が必要かな、と思ったからです。

専門家の間で事故の内容を詳細に検討し、再発防止策を講じることは、大変有意義ですが、現実に訴訟提起を回避しようと思うと、患者・遺族が、ある程度は内容を理解出来ないといけない。学術レベルの議論として有意義であることと、患者・遺族が「訴えなくてもいいや」と思える程度には納得できることとでは、差があると思うのです。

もちろん、十分な説明をしたからといって、患者・遺族に完全な理解を求めることは無理ですが、歩み寄れる場があればいいのにな、と思っています。

すでに ADR(裁判外紛争解決)法が施行され、第三者機関設立への動きが始まっている以上、いまさら、それだけでは不足していますよ、と発言することに、あまり意味は無いかもしれません。
けれども、考えてみることは決して無駄ではないとおもうので、わたしは、患者・遺族側の視点から発言したいと思っています。

>No.81 惰眠 さん

惰眠さんのご提案は、とても有意義なものだと、わたしも思います。


>No.85 かじ さん

>患者側が訴訟を提起するのは、極端に言えば、
>客観的に医療ミスがあったから、ではなくて、
>「医療ミスだ」と叫びたくなるような、医療側の対応に対する、
>不満、怒り、といったものがあるからではないでしょうか。

そういう心情的な背景で訴訟に至っているのであれば、
回避することは難しいですね。

でも実際、心情的な背景による訴訟と、それ以外のものと、
割合としてはどのような配分なのでしょうね。
 

>No.86 O さん

>実際人がお亡くなりになったときのようなことに対しては、
>遺族に対しては、慎重なことば掛けと、心配りが大事だと思います。

>医師の方に限らずどこの業界にも、
>人当たりが悪く、言葉足らずの人はいらっしゃるのも事実ですし、
>かといってその道にはかなり精通している方もいらっしゃいますので、
>後は受ける我々側の、どこで割り切っていけるのか、という姿勢も
>大事だとは思います。

慎重な対応や心配りが大切であるというご意見には、深く同意いたします。
ただし、わたしも危惧しているのは、なんだか最近、やけに被害者意識の強い方が増えておられるように感じられることです。

あまりギスギスした世の中にならないといいなぁと、いつも思っています。

No.102 青空 さん

私は逆に、心情的理由がトリガーになって訴訟にまで踏み切るケースが多いのであるならば、むしろそれこそケア(対応)如何によって抑制しうる部分なのではないかと思っています。

「理解(ロジック)」と「納得(エモーション)」の問題かと思うのですが、『理解も納得もできない』とか『理解はできるが納得できない』あたりが臨戦態勢であるとすると、『理解はできないが納得はした』という収め方があるんじゃないか、と。

専門性の高い分野ほど、正確性を担保しようとするあまり『業界用語』を使いがちになるんじゃないかと言う気がするんですが、これは反面「難しいことをいって煙に巻こうとしてるんじゃないか?」と言う疑心を生む原因にもなりかねないように思うんです。
 となると、患者側の心情をサポートしつつ、誠実(と患者側が感じるよう)に、平易な言葉で、医療側のロジックと患者側のエモーションを橋渡しできる体制なり人員なり対応なりがあれば、だいぶ違うんじゃないかと思うんですが・・・。

昨今はモンスターな人々もいるようなので、これもなかなか困難を抱えるかとは思ってますけども、現状よりは多少なりとも事態が好転しないですかねえ。
まあ、これらは現場を知らない部外者の想像です。

>No.95 薬屋の企画屋 さん

>前者はアメリカ型、後者は・・・古き良き日本の医療ですかね?
>どちらを選ぶかを国民が選ばなければいけない時代になったのだと思います。

ご発言の内容は、大変よくわかります。

ただ、誤解があるといけないので、追記しておくと、わたしの No.92 の発言は、現行法下での刑事免責を一切否定するべきだ、とか、そいうことを言っているのではありません。

法の下の平等という大原則がある以上、ある職種の方に限って異なる扱いをするのであれば、その根拠となるものが無ければなりません。今の法の下で、しっかりとした理論構成ができるのであれば、それによって刑事免責を認めていけばよいと思っています。単に、わたしのあげた理論構成に、問題がありました、という、それだけのお話です。
 

>医療訴訟で負けるとそれ相応のペナルティが発生する

医療訴訟で負けたからといって、ただちに不法行為責任が発生するわけではないことは、No.78 にも書いた通りです。従前の議論の該当個所を示しておくと、判断基準に関しては、PINE さんのご発言 CID 10935 内の最高裁判例を、不当な訴訟(濫訴)と考えられる場合が限られること等に関しては、モトケンさんのご発言 CID 10946 を、参考になさって下さい。

もし、「医療訴訟で負けたら、ただちに不法行為責任が発生するという制度」を想定しておられるのであれば、その運用は限定的に為されなければならないことは、薬屋の企画屋さんのおっしゃる通りです。
けれども、医療訴訟で負けるという事態は、不当な訴訟だった場合に限られるわけではないので、そのような制度を創ることは難しいのではないかと考えられます。

>No.96 ぼつでおk(医) さん

お優しい対応をありがとうございます。

撤回するに至った理由は、35条の話をする前提が欠けているとも言えるから、なのでした。

医療っぽい例え話をするなら、お肌に湿疹が! という症状を訴えている人に痰のキレを良くするお薬をだして、このお薬は一日3回食後に飲んで下さいね、と説明しているようなものです。薬の服用にあたっての説明としては間違っていないとしても、いまそのお薬だしても意味ないじゃん、だったら、ダメってことになりますよね。

法律の話に戻すと、違法ってなんなの? という話を詰める必要があるし、問題としなければならないのが「違法である」ことなのか、「処罰する必要が認められる程度に違法である」ことなのか、そのあたりをはっきりさせる必要がでてきます。

特に、実際に人がお亡くなりになっているときに「違法ではない」と主張するには、最後に書いた「優越する利益」云々のところを、もっと説得力のある主張にしなければならないでしょう。(そして、わたしの主張では、説得力があるとは言いがたいです。)

学説としては、実質的な正当化事由として「許された危険」というのを持ち出して、実質的な違法はないと構成していく理論があるので(前田雅英 先生他)、その中で No.80 に書いたような医療行為の特色を検討していったほうがよいかな、と考え直しているところです。(注:ただし「許された危険」というのは、論者によって言葉の用いられ方に差異があるので、そのあたりを明確にした上で論じる必要があると言えます。)

以上については、従前の議論 CID 33512 CID 33523 と重なります。
 

ぼつでおk さんのおっしゃる、重大事故と軽度の事故、その他インシデントを分けて考えていく(ハインリッヒの法則の適用って、そういうことですよね? 間違えておりましたら、よろしければご教示下さい。)というのは、わたしも賛成です。

そして、私見ですが、刑事・民事を分けて考える指標となるだけではなく、その区別によって、犯罪不成立とするために使える理論構成が変わってくるのではないか、と考えているので(間違っているかもしれませんが)、そのためにも、理論を緻密に構成する必要がありそうです。

ややトピずれな発言になってしまいました。

>No.103 惰眠 さん

>『理解はできないが納得はした』という収め方があるんじゃないか、と。

おっしゃる通りですね。
わたしには、その視点が抜け落ちておりました。

とすると、

1.患者・家族
2.当事者である医療機関・医療従事者
3.利害関係を持たない医療機関・医療従事者
4.心情サポート+解説者
5.立会人

の内、

・患者・家族等の納得だけを目的とするなら1+2+4(場合によって+3)
・真相解明を重視し事故再発防止目的も加味するなら、1〜5全部

ということになるのでしょうか。
人員を少しでも少なく押さえるには、3かつ4という力量のあるスタッフがおられたらベストということになるでしょうね。
(医療関係者が兼任したら、心情的に反発が生まれてダメなのかも。思案中。)


なお、厚生労働省が考えている「診療関連死の死因究明を行う組織」は、そもそも目的が違うと考えられるため、ここで比較することに意味はないかもしれませんが、かろうじて、「遺族の立場を代表する者」に4の役割のようなもの(調査結果を納得のいくものに近づける役割)を期待しているのかもしれないと考えられることを、付記しておきます。。

参考: 事故調(第二次試案) 新小児科医のつぶやき より

No.104 青空 さん

法の下の平等という大原則がある以上、ある職種の方に限って異なる扱いをするのであれば、その根拠となるものが無ければなりません。今の法の下で、しっかりとした理論構成ができるのであれば、それによって刑事免責を認めていけばよいと思っています。
・医師は、応召義務により診療契約を断る自由がない ・国民皆保険制度下の医師は、公定価格により価格決定権がない この2点で私は刑事免責、民事免責を認めてもいい充分特殊な職業だと思いますが、青空さんは他にどのような条件が加われば、刑事免責が認められると思いますか?
けれども、医療訴訟で負けるという事態は、不当な訴訟だった場合に限られるわけではないので、そのような制度を創ることは難しいのではないかと考えられます。
ペナルティは言いすぎでした。 アメリカ型の医療を望むのであれば、医療訴訟に敗訴した後、業務妨害や損害賠償請求されることが“普通”と認識される、つまり攻撃に対する反撃について感情的なバッシングが起こらない、それだけで充分です。

惰眠さんが言われるような「心情的理由がトリガーになって訴訟にまで踏み切るケース」については、アメリカ型医療ではないという条件付ですが、“気に食わない”ということを“医療過誤”に結びつけるのはやめてほしいと思います。
医者の態度や説明が“気に食わない”なら、“気に食わない”ことを訴えるが筋だと思うのですが・・・

まあここらへんは、医療を「サービス産業」と見るか「社会的インフラ」として見るかで変わってくる部分であると思います。

>No.107 薬屋の企画屋 さん

お返事遅くなりました。

応召義務の存在・価格決定権の不存在については、確かに免責を認める必要性にはなると思います。けれども、それらは許容性にはならないと考えられます。

なぜなら、応召義務の存在・価格決定権の不存在と、(医療過誤・医療事故に至った)具体的な過失行為との間には、相関関係はあるものの、因果関係があるとまでは言えないと考えられるからです。

ですので、許容性として、どうしても法律上の根拠が必要となると考えられます。

確かに、勤務状況が過酷であることに対しては、わたしも一国民として、もっと真剣に考えなければならないと思っておりますし、職務内容と対価とが釣り合わなくなっている現状は、少しでも早く改善できるように、政策決定していく必要があるでしょう。

>他にどのような条件が加われば、
>刑事免責が認められると思いますか?

現行法の下では、ひとつは刑法の解釈上、違法ではない、もしくは、責任がない、ことになれば、刑事責任を負わなくて済みます。

もうひとつは、刑事訴訟法上、検察官の裁量で起訴しない場面を広く認めることが考えられます。

もっとも、この起訴便宜主義の活用については、ふたつの問題が考えられます。

ひとつは、訴追に至る過程で専門家の意見を聞いたとしても、どの程度実態に即した判断が出来るのか、定かではないことです。対審構造を持つ裁判の結果ですらトンデモだと言われることもあるのに、少ない資料と時間の下で、どこまで望む結果が得られるのか、その実効性にはいささかの疑問があると考えられます。

もうひとつは、検察審査会の存在です。検察官が不起訴としても、最終的な民意を得られなければ、やはり、実効性が乏しいこととなります。

ですので、実際にはやはり、法改正や制度的な確立等がないと、なかなか免責を得るのは難しいのではないかと考えています。

>“気に食わない”ということを“医療過誤”に結びつけるのは
>やめてほしいと思います。
>医者の態度や説明が“気に食わない”なら、
>“気に食わない”ことを訴えるが筋だと思うのですが・・・

この点には、深く同意いたします。
その他、医療費踏み倒し問題や、宿泊施設代わりに夜間診療機関を利用する悪徳ユーザーに関しても、早急に対策を講じないといけないと思っています。
なにか妙案を思いつくことができればいいのですが……。

No.108 青空さん

なぜなら、応召義務の存在・価格決定権の不存在と、(医療過誤・医療事故に至った)具体的な過失行為との間には、相関関係はあるものの、因果関係があるとまでは言えないと考えられるからです。
むう、厳しいですね。 私は「契約を断れない」「リスクに見合った報酬ではない」というだけで免責されるべきと思うのですが・・・ では、せめて損害賠償は支払われた報酬までとか、妥協されませんでしょうか?
もうひとつは、検察審査会の存在です。検察官が不起訴としても、最終的な民意を得られなければ、やはり、実効性が乏しいこととなります。 ですので、実際にはやはり、法改正や制度的な確立等がないと、なかなか免責を得るのは難しいのではないかと考えています。
最終的にはやはり民意および法改正が必要なのですよね。 そうすると、民意を変えるために「医療崩壊」が避けられないことになってしまうと思います。

なお、私は第三者機関の効果には懐疑的です。
なぜならば、免責が約束されない状態で真実は明らかにならないと考えるからです。(将来自分の身を危うくする情報を誰が出すのでしょうか?)

そして、真実に基づかない裁定であれば誰にとっても不幸だと思います。

No.109 薬屋の企画屋 さん

>せめて損害賠償は支払われた報酬までとか、
>妥協されませんでしょうか?

わたしは、ここで以前から議論されているような、賠償額(特に、医療従事者さん個人が責任を負わされる賠償額について)の上限を定める制度を導入することには賛成ですが、さすがに、損害賠償額の限度を、支払われた報酬とするのは、いきすぎでしょう。

報酬ということは、手術の際の過誤でお亡くなりになった場合には、手術代金として受け取った額のうち、医療従事者に報酬として支払われる金額を上限とするということですよね?
それでは、手術の内容によっては、あまりにも安い命ということになってしまいそうです。
少なくとも、手術や治療の価格に応じて生命・身体の値段が変動するというのは、倫理的にそぐわないと思うのですが。

そういう意味ではなく、たとえばお医者様の年収に応じて限度額を決定すべきである、というご提案ならば、担当医・執刀医が誰になったかによって(そして、それは通常患者の側で選ぶことはできないでしょう。)、生命・身体の値段が変動することになってしまいます。これもまた、倫理的に問題がありそうですね。

ですので、限度額を定めるとしても、生命・身体の価値にばらつきが生じないよう、制度として一定の基準が定められる必要があると思います。

薬屋の企画屋さんのおっしゃるとおり、第三者機関の効果は、あまり期待できないかもしれません。確かなことは、現状のままではよろしくない、ということなので、わたしたちに出来ることは、少しでもよくするためにどうすればよいのか、考えるのをやめないということだと思っています。

No.110 青空 さん

確かなことは、現状のままではよろしくない、ということなので、わたしたちに出来ることは、少しでもよくするためにどうすればよいのか、考えるのをやめないということだと思っています。

100%同意します。
しかし、そのためにはまず良い状態を定める必要があります。
青空さんはどのような医療制度を理想と思いますか?
コスト、アクセス、クオリティの全ては両立できませんので、3つのうち2つを選んでください。

例えば、現在(というか少し前)の日本の医療制度を守りたいと考えるならば、なぜ日本の医療制度は世界から羨ましがられるくらいの医療制度だったのか、そのコアコンピタンスに目を向ける必要があります。

横入りで失礼します。

>No.110 青空 さん
>少なくとも、手術や治療の価格に応じて生命・身体の値段が変動するというのは、倫理的にそぐわないと思うのですが。

市場原理に従うと、たぶんそうなるかと思います。経路は逆で、”生命・身体の値段”が”手術や治療の価格”(といいいますか原価)を決めることになるかと。これが、医療において、市場原理、といいますか、価格メカニズムがうまく機能しない理由であるのだと思います。つまり、常に 生命・身体 > 金銭 である以上、価格はとめどなく上昇する他ないことになります。

それで、皆保険制度によって、”公定価格”を定めるのが望ましいことになるわけですが。これを、一種の社会主義的制度であると考えますと。

>医療従事者さん個人が責任を負わされる賠償額

”個人が責任を負わされる”という自由主義的制度とは相容れなくなるんでしょうね。

たしか、現行制度下では、事実上、政府が医療を提供している点に着目して、国家賠償に準じさせるようなことができないか、というアイデアが、過去ログ内で出されていたように思います。”医療過誤”の賠償は、政府が行なう方向に持っていけないかと。

今の日本の医療制度というのは、キメラのごとく、社会主義と自由主義がミックスされており、これが驚異的な高効率の秘密ではあったのでしょうけど。医療訴訟の増加によって、その矛盾・不備があらわになっている、ということだと考えます。

>No.112 ron さん

確かに現在の医療制度というものは、社会主義と自由主義がミックスされたものといえるのかもしれません。

診療報酬は国が定め、医療法の応召義務などで縛られながら、経営は自己責任で医療過誤の賠償も自己責任です。
公的病院の多くが赤字経営で、何か事故が起きた場合の責任は自治体(勿論、個人的な処罰もありますが・・)が取りますが、民間は全て自己責任になります。

この自己責任というものは、やむを得ないものであり、医療を全て保護してくれとは求めません。努力しない医療機関が淘汰されていくことも当然だと思います。

ただ、責任と権限のバランスが崩れ、医療者側の義務感や倫理観だけではやっていけなくなってきています。

>”個人が責任を負わされる”という自由主義的制度とは相容れなくなるんでしょうね。

やはり、早急に何らかの免責や国が補償する制度を議論していく必要があると思います。

P R

ブログタイムズ

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