エントリ

 医学知識と医療経験のないものに正しい医療というものを真に理解することは困難である。
 司法に携わったことのないものに司法の実態を理解することは難しい。

 この当たり前のことを前提とした上で、医療事故訴訟の適正化のためには、司法側は医療の何を理解すべきか、医療側は司法の何を理解すべきか。

 それぞれ知識と経験は異なるものの、人間として論理的な思考ができるということ、そしていかなる制度・状況も変化しうるということをを前提として、自由な意見を述べていただければうれしいです。

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医療に携わる者として、私見を述べさせて頂きます。

医療関係者以外の方にどうしても理解して頂きたいのは

端的に言うならば、「医療行為の不確実性」だと思います。

もちろん全ての行為が不確実と言うわけではないのですが、

インフルエンザの診断1つをとっても

「簡易検査で 100 % 診断できるわけではない 」 という問題があります。


インフルエンザウイルスに罹患してから、検査でひっかかるほどウイルスが増殖するのに

ある程度時間が必要なために起こる問題です。(医学的には「偽陰性」と言います)。


さらに、検査の手技に慣れてない研修医が行うと、「鼻の奥まで検査用の綿棒を突っ込ん

で検査しなかった」等の問題も起こりうると思います。

もちろん、「患者が痛がって奥まで入れるのを嫌がった」という問題も起こりえます。

この場合も「本当はインフルエンザ(陽性)なのに、結果はインフルエンザではない

(陰性)」と判定されてしまう事になります。これも手技的な問題ですが、

「偽陰性(false negative) 」の範疇に入りそうです。

このため、医師は「同じ検査を時間をあけてもう一度行う」必要がでてきます。

その他、説明が長くなるので略してしまいますが、「偽陽性」の問題もあります。

「全ての医療行為に 100 % を求めていくのは無理」と医師が考えるのは

このような理由があると思います。


医学は生命や病気や人体のことについて驚くほど分からない事だらけです。
それでも分かっている領域は膨大です。
医学全体を理解している医学者(医師・研究者)は一人もいないどころか、その1%を理解している医学者が居るのだろうか? という程度です。


医療に関しては「医師一人では何もできない」ことは押さえておいてください。

LMnetにも参加している産科医です。近頃のエントリーを読んで、モトケン様の心が折れてしまうのが心配で、こちらに書き込みします。
どちらの業種も、やっているのは基本的に「先生」たちです。「被告」にしろ「患者」にしろ弱者の方が飯のタネであるだとか、外の人からはは「特権階級」と思われやすいだとか、基本的には似たような側面があり、相互理解をしやすいはずです。
中にはその「特権階級」になりたくてこの職業を選んでしまったような、人間としてどうかな?という人もいるでしょう。こういう人の仕事ぶりは同業者から見ても許せないことがあります。逆に自分は金や名誉のためにやっているんではない、と一人よがりの正義感に酔って突っ走ってしまう人もいるかと思います。本人とその信者にとっては素晴らしい「先生」なのかも知れませんが、論理的にどうかな?という場合もあるでしょう。
スタート時点では必ずしも崇高な精神でなくこの職業についてしまった人でも、仕事の上で、普通には見られないような人間の奥深い部分に出会ったり、人の人生を左右する決定に関わったりという「やりがい」を経験できることもあります。そのような、本来「神」にしか許されないような仕事をするのですから、外部から見れば完璧な仕事を求められるのでしょうが、優秀な人ほど自分自身のした仕事について「ああしとけばもっと良かったかな」と実は反省の毎日のはずです。
私は医療側からしか見えませんので、司法の方の話を聞いて対立思考に陥りそうになる度に、両者にはどれだけ似たような部分があるか、自分の業種でもありうる事例だなあと思い浮かべることにしています。

医療側の者です.

モトケン様のプログを拝見しているうちに,自分が如何に司法側の事情を知らず,想像で「司法とはこんなもの」と思っていたかに至りました.
折しも,今月号のJIM(Journal of Intedrated Medicine. vol.17, No.5 2007)の特集が「医師と法律」であった事もあり,「裁判とは詰まる所真実を明らかにする場では無く,紛争解決の場(真実がどうでもいいという事ではありません.念のため)」「最高裁判決に見る『医療水準』とは患者が期待する『あるべき姿』であり,普遍的な医療水準でない.時間差はあるとしても,診療所や一般開業医でも先進医療機関と同水準の知見が期待されている(専門性については読み取れませんでしたが,文面ならびに判例からすると,全科について?)」など単純に切磋琢磨すれば司法からも認められる筈といった楽観論の甘さを思い知らされました.

その上で,司法の方々にご理解頂きたい事は,hot-coffee様が書かれていますが,やはり「医療の不確実性」についてです.
上に診断の例が挙げられていますが,同じく,「合併症や副作用.因果関係不明」などについても,「過失や瑕疵」と捉えるのは医療側としては無理があると思っている事をご寛恕賜われるならば幸いです.
(これらについては,既に多くの議論がなされており,既に簡単には読み通す事が出来ない程になっております事から,単なる蒸し返しでしかないかも知れませんが)

医療裁判について,決して医師側に不利ではない事,特に目立つ「不可解な判決」がことさら大げさに取り上げられているだけで,それを以て全ての判決を判断されるのは司法側としては心外だという主張には多いに同調致します.
それを踏まえ,医師側から司法側に伺いたい事は,その「不可解な判決(所謂トンデモ判決)」について,司法の側では問題とする意見はあるのでしょうか?「再発防止」というのは司法の側で議論は可能な事なのでしょうか?
判決についてとやかく言う事,判断を裁判所以外が扱う事は司法の根幹に関わる事でしょうから,それこそ医療側の傲慢であり誤りであると言われそうなのですが,医学的・科学的観点から明らかにおかしいと思われる判決を弁護士・判事・医師(場合によっては検察)を交えた場で議論にする体制が可能なのであれば,現行の体制下でも不可解な判決に対する医師側の恐怖も軽減するとは思いますが,三権の一つの権を脅かす様な枠組みを許容するなど不遜だとも思いますし,あまりにも浅はかな思いつきだとは思いますが,ご教授頂ければ幸いです.

月並みな言葉で言えば、「医療の不確実性」でしょうかねー。

例えば、天気予報。
あれ、せいぜい当たる確率60%位ですよね、確か。
もう100年以上の蓄積があって。
日本中、いたるところから情報を収集して。
何百億円って金かけて、スーパーコンピューター何台も使って、その程度なんですよ。

医療って、所詮1人か2人の医者が、限られた情報を元に、診断したり治療してるんですよ、実際。
100%予測する事はできないし、治療も確実なものはない。

そんな事、医者なら当たり前って思っているんですが。
何故か、医者以外の人間にとっては、それを理解するのが難しいようで。

天気予報で、はずれたから賠償金払えって言う人いないでしょ。

> No.5 Dr. I さん
> 何故か、医者以外の人間にとっては、それを理解するのが難しいようで。

そりゃそうですよ。そんな情報や愚痴が一般社会に流れてきたのは、
医療崩壊が騒がれるようになってからです。このサイトを通じて法曹側の
常識をはじめて知った医師が多いのと同じく。

 レスが多すぎて全部にレスできないですので、便宜上ここに書きます。それから、私も皆さんの議論の場をなくすことは本意でないから、以後極力筆は抑えます。

 まず私の以前の指摘に法制度に対する誤解が一部あったことは認め、その限度で訂正します。申し訳ありませんでした。しかし、根本的な疑問に対する返事はないです。

 弁論主義によれば、証拠によって過失の有無や有罪無罪が決まることは理解しました。しかし、裁判で出される証拠は決まっていないし、証言に至っては、回答者の体調や言語能力、質問のしかたなどによって全然変わってくる可能性が高いです。

そもそも弁護士は言葉と口げんかのプロであり、真実はどうであれ最も自分たちの利益になることを朗々と堂々と主張できる。法廷は自分の土俵であり、証人をいじめたり苛立たせたりしてポイントを稼ぎ、欲しい証言を引き出してゆくテクニックにも長けています。

一方まっとうな医者は、自分の選択とか手技が完璧だったなんて恥ずかしくてなかなか言えないです。もともと自分の正当性を声高に主張するのが好きでないし、法廷の雰囲気にも不慣れだから、いじめ的で追及的な矢継ぎ早の質問に耐えられずに、つい不用意な一言を漏らしてしまう場合が多いです。それを、どうにかして患者を勝たせようと虎視眈々と失言を狙っている裁判官に目ざとく拾い上げられ、形式上「合法」の理屈をつけて医師有責判決とするとゆうのが医療裁判の現実といえる。

でも、正しい医療は、証拠がどうにせよ証人が失言したにせよ、客観的に正しいのですよ。全く同じ正しい医療が、証人が気弱だと有罪、気丈だと無罪になるとゆうのは、どう考えても変でしょう。この深刻な矛盾を、法律家の方はどう捉えているのですか?

しかも、弁論主義からすれば、一度「合法」「過失なし」とされた医療行為でも安心はできない。次の訴訟では前回と同じ証拠がでるとは限らない。同じ証人が一言一句同じ証言をするわけでもない。したがって一度司法的に承認された医療行為が一転して有責とされる可能性がある。これでは恐ろしくて医療なんてできないとゆうのは当然の心配です。

あと、現在の法体系では悪法も法であり、司法が介入すること自体は合法であるとゆうことも、それが正しいとは思えないが承知はしました。しかしそれでも法律家の意識は理解を絶する。自分たちが医療に介入することが社会に有害であると明らかなのに、それを止めないことは「法律」から仕方ないにしても、その法律を変えてくれと声を上げることもなければ職を辞することもしないのは何故なのか。自ら恥じるところはないのか。

大義なき戦争については、いわゆる良心的兵役拒否とゆう行動が見られます。彼らの行動は、たしかに形式的には命令違反であり、法律違反であり、犯罪ですらあるのだろうが、実質的には彼らこそ正義であり、真の意味でのヒーローといえるだろう。

しかし裁判官、検察官の中には、良心的医療訴訟拒否をする人は一人もいない。また、弁護士会も、個々の弁護士に対し「法形式上は合法だが、実際には社会に対する混乱しかもたらさない医療過誤訴訟をしないように」と指導しない。この辺りも、国民の司法不信の理由の一つだろう。

司法と法律家最大の問題は、その独善主義でしょう。

司法が間違える可能性があることは自明。誤判の可能性があることは法律家ですら否定しない。現に、医療介入訴訟ではトンデモ判決乱発で、多数の医療冤罪被害者を日々作っている。

なのに弁護士、裁判官そして検察官は、決して自分たちの誤りを認めない。

このブログで何回も、「トンデモ判決について裁判官や弁護士が謝罪し、犯罪者のレッテルを貼った医師と病院に弁償をして名誉を回復したことありますか」と聞きました。ただの一度も答えがありません。そりゃそうでしょう、彼らは決して謝らない。自分たちのミスだけは絶対に認めない集団だ。それを是正する方法もない。そこを突くと、「裁判官と検察官は権力そのもの」「朕は国家なり」とか言って、批判する方がおかしいと言わんばかりですね。

こうゆうとすぐにモトケン氏は「検察官、裁判官が起訴されれば満足なのか」とか返すけど、別に起訴でも島流しでも何でもいいから、誤りを是正する手段を作れとゆうことですよ。どんなにトンデモ判決を乱発しても決して責任を負わされず、定年まで貴族的な身分を保証されて高禄を喰んでおれるとゆうシステムでは、「正しい判断をしないといけない」とゆう動機付けがないです。スポーツの審判で言えば、どんなミスジャッジをしても責任を問われず、批判すら受け付けず、むしろ批判する方がおかしいとふんぞり返り、ただパタパタと思いつきでどちらかに軍配を上げれば最高の給料と高額の年金と勲章を上げますよてなものだ。

別に裁判官、検察官を裁判にかけろとは言わないが、少なくともトンデモ判決を出す連中に謝罪と弁償をさせ、徹底的な再教育を義務づけ、それでも駄目なら首にすることは、正しい判断をさせるために必要でしょう。憎いから吊せと言っているのではない。これを、単なる弱者のひがみとしか見られないようではおしまいですよ。

>魔人ドール様
100%完全な医療は存在しないと言ったとの先から100%完全な法曹を求めるその姿勢が相互理解に欠けると指摘されているんです。
三権分立が何故必要なのかということ、国民主権が何かということをもう少し勉強されては如何でしょうか?

こんにちは、整形Aです。

>魔人ドールさん

まあ、まじレスするほどの話じゃないですが、「トンデモ判決」であることの認定と、弁償金額の算定はいったい誰がするんでしょうか。

医者がするんですか。
まさかねー、法律も知らないに。

やっぱり裁判官にしかできない仕事です。
でも「トンデモ判決」を下した裁判官を、「これはトンデモじゃない」と次の裁判官が認定したら、その裁判官も「トンデモ」ですよね。
そうなると「トンデモ判決」を「トンデモ判決」じゃないと認定した「第2次トンデモ裁判官」を認定する裁判官がまた必要になり、その裁判官がまた・・・以下ry

 手塚治虫氏の 『ブラックジャック』 の愛好者は多いと思います。

 「人間の身体について分かっていることなど、海の水に例えれば
  精々コップ1杯の水に過ぎない」  
確か、そういう主旨の言葉があったことを記憶しています。

 今は、「コップ1杯」 が 「太平洋くらい」 に変わったのでしょうか?
人により意見は異なるでしょうが、どんなに多く見積もっても、
精々「50mプールの水量くらい」だろうに・・・と私は思います。

 要するに、分からないことだらけです。
毎日の臨床でも、手探りしつつ悩みながらも必死にやっているというのが、
医師の実態だと思います。経験をつめばつむほど、そう思います。

 大野病院事件でも、なぜ患者は助からなかったのか・・・、
逆に助かったとしたら、なぜ助かったのか・・・、
事後調査・研究をしたところで、本当に正しく分かる者などいるのでしょうか?
 

>No.8 魔人ドールさんのコメントの最後
>単なる弱者のひがみとしか見られないようではおしまいですよ。

単なる無知な人のひがみにしか見えません。

>「トンデモ判決」であることの認定と、弁償金額の算定はいったい

魔人ドールさんのコメントに拠れば当然  魔人ドールさん本人のみ となります。

沢山の文書で書き込まれましたが、要すれば是に尽きています。

「私の考えと合致しないものは全く信用できない」

これだと、絶対君主制の王様ですが、それが無理だから崩壊問題になっているので・・・

なんか、魔人さんって、医師と法律家に手を組まれたら困る人たちのエージェントみたい。

それとも、雨降って地固まるで、医師と法律家の新たな協力関係が築かれるための天の配剤かな?

>No.14 じじいさん
いや、文字通り”魔人”なんですよ。w
時折来て”ガーッ”って毒を吐いて去っていく。
あなおそろしや。w

>司法と医療の相互理解とはなにか?

百聞は一見に如かずです
司法はい病院見学
医師は裁判傍聴をするべし ということです
今までは全体としては
ほとんどやったことがないと言って過言でない状況
だったといえると思います

それと LMネットに参加しましょうw

No.9 Grad さんのコメント | 2007年05月11日 20:59 | CID 53148 | (Top)

>魔人ドール様
100%完全な医療は存在しないと言ったとの先から100%完全な法曹を求めるその姿勢が相互理解に欠けると指摘されているんです。
三権分立が何故必要なのかということ、国民主権が何かということをもう少し勉強されては如何でしょうか?


魔人ドールさんではないですが、よくわからないので
三権分立が何故必要なのかということ、国民主権が何かということについて
説明していただければ より理解できると思うのでありがたいです。

ちなみに、
>もう少し勉強されては如何でしょうか?
というのが、医者の産科についてもっと勉強してから、文句言え
などと同じ気がして
法律家の先生も医者の先生も似ているのだなと、思います

魔人ドールさん

>一方まっとうな医者は、自分の選択とか手技が完璧だったなんて恥ずかしくてなかなか言えないです。

なぜか?何が正しい医療か客観的にも主観的にも誰にも分からないからでしょう?こういいながら

>でも、正しい医療は、証拠がどうにせよ証人が失言したにせよ、客観的に正しいのですよ。

と言うのは何たる自己矛盾! こういうのを独善主義と言うんだよ。 医師はいつも正しい医療をしていると言う。医師は自分の誤りを認めようとしない・・・としたら、どっかの医療被害者の言い分と同じですね。
君も医者なら分かるでしょう。医療は患者から信頼されなければ成り立たない。患者から信頼されるためには患者を信頼しなければならない。まさかこいつは俺を後ろから刺すようなことはしないだろうと。医療が完全なサイエンスであり、正しい医療があるならばこんな必要はない。ただ粛々と医師は正しい医療を遂行していればよいのだよ。
司法だって同じ。この世に完全な制度や法律なんてない。だからうまくやっていくためにはいやでも法曹を信じるしかない。法曹は現状の法律や制度の中で医療崩壊を阻止するために模索してくれていると。よく医師は「患者さんのために」と言う。私自身は「自分のために」としか思えないのだけれど、それはさておき法曹はこの言葉を信じてくれているんだと思いますよ。

ついでにその1
個人的には医療は一度ガラガラポンが必要と思う。医療はリスクとメリットがセットのはずなのに、国民皆保険制度のせいで国民は医療のメリットは享受するけれど、リスクを決して理解しようとしない。医師にとっても被医療者にとっても古きよき時代は終わったのだ。

ついでにその2
マジンドールは覚醒剤であるアンフェタミンの誘導体です。覚せい剤でなぜ食欲がなくなるかということから開発された薬です。多分多量に服用するとアンフェタミンと似たような気分を高揚させる作用が出てくるんでしょうね。

医療側に言いたいこと

それは「医療の不確実性」を免罪符にどのような事例についても刑事免責を求めるのはおかしいということです。確かに医療で予見可能性を検討すると確率論的には0に近いようなものでも「ある」と言えば「ある」ことになってしまい、実務上通常の能力を有する医師なら想定しないものでも予見可能性ありとされ過失と認定されている例も見られ、医師にとって酷な判決もあるように思います。

しかしながら、予見可能性にも濃淡があり、通常の能力を有する医師なら予見可能性なものまで過失犯の成立を認めないとするのは妥当ではないでしょう。私見では慈恵医大青戸病院病院事件などは当然の判決だと思います。また、医療過誤事件では、横浜市大病院の患者取り違え事件や笑気ガス誤吸入事件のような予見可能性の検討を要しないような明白な過失によるものも発生しています。こうした事例まで刑事処罰しないとすれば国民感情に反するでしょうし、不公平感をもたらすことになります。

 医療界は、外科、内科、婦人科、皮膚科、整形外科........病理、解剖、生化学、薬理.........と何十もの科目にも分かれております。さらに私の専門の整形外科の中だけでも首、腰、肘、手、肩、腫瘍...........と何十もの専門分野に分かれて勉強しております。基礎分野も含めれば無限に専門が分かれる事になります。そのようにして各医師が自分が専門とする範囲を小さく分けなければ、広くて深い医療の学問レベルについて行く事ができません。それが現代の医療というものです。
 一方法曹界の方々を見ていると、特に専門性のない裁判官がすべての判決を決定するシステムになっているように思います(実際には多少の専門分野があるのかもしれませんが、私にはよく分かりません)。これは医者一人ですべての病気の診察・病理検査・診断・治療をしているように見えます(100年位前ならよくあった話かもしれません)。要するに何も知識のない人たちが、裁判というゲームの中で勝ち負けを決定しているように我々医者には見えてしまうのです。ゲームですから論理的な理由で勝ち負けが決まるわけではありません(サッカーのようなものです)。まあそれが裁判だといってしまえば、それまでの話なのですが。
 私個人としては、医療に関しては医療専門の裁判システムが絶対に必要と考えております。これは以前から言われてきた事ではありますが、どうして医療だけが特別扱いされるのかと多くの法曹界の方々が反対されておりますので、そう簡単には実現しそうもないでしょうね。

No.21 整形開業医Y さん

 私個人としては、医療に関しては医療専門の裁判システムが絶対に必要と考えております。
その他、第三者機関とか無過失保障とかいろいろ検討されているわけですが、現に崩壊過程にある医療においてこれらを議論するのは、被災地の飢えた住民が「さあ、頑張ってイネを植えるぞ!」と言っているようなものである気もします。特に、法曹の方々は厳しくて、「とりあえずメシを食わせろ!」と言っても、「自分で苦労もしないでメシが食えると思ってるのか!ふざけてないでイネを植えるぞ!」的な応答が返ってくることが多くて。

ま、ここには武士は食わねど高楊枝のような医者が集まるんで、嬉々として田植えをしているわけですが。でも衣食住足りて礼節を知るっつーこともあるでしょう。(あれ?ちょっと違います?国語は苦手なもので)

勿論そのような将来的な見地での議論は重要ですし、こちらのブログはその方向でこれまでもこれからも頑張ってほしいですけど、被災者の「とりあえずメシを食わせろ!」という声にもちょっとは答えてくれないのかなぁ、とも思います。

>No.14 じじいさん

今のところ、後者になっていると思います。

少なくとも私にとっては、「人のふり見て我がふり直せ」になっています。

釣り師警報!

「キクリ」というハンドルネームの方は、以前は「医師を甘やかす対策はやめて」という名前でいろんな医療系ブログ、掲示板であるときは弁護士を装い、あるときは病院事務員を装い、荒らしていた某巨大掲示板からやってきた「釣り師」です。
今回は他のトピで医者を装おうとしていましたが、あっさりと馬脚を現しました。
この人の楽しみは釣りだけです。
まじめに議論する気は最初からありません。

皆さん、無視してスルーして下さい。
相手にすると不快になるような書き込みを続けて荒れるだけです。

(管理人さんへ)
荒らしが始まったらアク禁をご検討ください。

>No.14 じじいさん
尊敬するじじいさん(私のほうが目下なのはほぼ確実なので本来先生とお呼びすべきですが、寺子屋感覚で参加していますのでどうかおゆるしを)が魔神ドールさんを天の配剤と呼んでくださったのがうれしいですね(笑)。

済みません,釣られてしまいました.
書いている間に釣り警報が出ていました.

モトケン様,釣られた上にレスが重なってしまいました.
よろしければレス,2つとも削除してくださいませ.
釣り師はスルーしましょう.

青戸病院事件は大出血を招いた術者に過失があると思いますが、一応置いておくとして、では皆さんは横浜市大病院の患者取り違え事件や笑気ガス誤吸入事件などについてどう思われるんですか。このような事例についてまで刑事免責すべきだというんですか。

上のほうに行ってしまったので再度警報させていただきます。
管理人さんごめんなさい。

釣り師警報!

この(↑)「キクリ」というハンドルネームの方は、以前は「医師を甘やかす対策はやめて」という名前でいろんな医療系ブログ、掲示板であるときは弁護士を装い、あるときは病院事務員を装い、荒らしていた某巨大掲示板からやってきた「釣り師」です。
今回は他のトピで医者を装おうとしていましたが、あっさりと馬脚を現しました。
この人の楽しみは釣りだけです。
まじめに議論する気は最初からありません。

皆さん、無視してスルーして下さい。
相手にすると不快になるような書き込みを続けて荒れるだけです。

 青戸病院事件に釣られたわけではないですが、この際焦点を持った議論
を展開するために、司法側(モトケン様)とここにいる医療側の方々で意見
の分かれている判例を一つ引いてきて、裁判のように模擬弁論をしてみて
はいかがでしょうか。
 行政、システム論議は一見生産的に見えて議論が拡散しがちです。各論
からはじめたほうが、かえってお互いなぜ相手を納得させられないか分
かってくるのではないでしょうか。
 この掲示板にいる先生方の人数がかなり増えてきていると思います。
議論にある程度、枠(議題、形式)を与えなければ、いたずらに時間を食う
ばかりか、このままでは相互不信に陥りかねません。差し出がましい提案
ですが、御一考をお願いします。

青戸病院事件については、小林秀樹氏の見解をとるにしても大出血を招いた術者と輸血の時期を逸した麻酔医の共同正犯と見ることができます。しかし、起訴されたのが、術者だけである以上、裁判所としては麻酔医について判決することはできません。術者について業務上過失致死罪とした判決に誤りはないと思いますが、この点、他の法曹界の意見をぜひ伺いたいと思います。

皆様へ

この人(↑)は他のブログでアク禁警告がつい先ほど出ています。
一見、議論を装ってますが、医者側が不快になるのを楽しんでいる「釣り師」です。

一切、相手にしないでスルーして下さい。
このブログまでが荒らされるのは我慢なりません。

>基礎研逃亡兵様

> 行政、システム論議は一見生産的に見えて議論が拡散しがちです。各論
からはじめたほうが、かえってお互いなぜ相手を納得させられないか分
かってくるのではないでしょうか。

 「行く末来し方」のエントリーでも書きましたが、私も全く同じ意見です。そこからさらにシステム論総論へ移行したい方は是非LMnetに参加して頂きたいと思います。

 最初の方ではともかく、「医療崩壊について考え、語るエントリー」ではbg様じゃありませんが最近議論が無限ループに陥っていると思います。一方、単独事象についてのエントリーではそれなりの議論が出来ているケースが多いと思います。

>No.27 田舎の一般外科医さん

 私もNobodyさんの指摘は正当なものと思います。

 私が医師であることを確認している方からの指摘等により、キクリ氏は医師ではないと認められます。

 また、私が弁護士であると確認している方からの指摘及び私の評価に基づき、同氏の法律的見解は法曹レベルの信頼性はないものと認められます。

 よって、ご希望どおり、田舎の一般外科医さんのコメントは削除いたしました。

 

モトケン様

>私が医師であることを確認している方からの指摘等により、キクリ氏は医師ではないと認められます。
>また、私が弁護士であると確認している方からの指摘及び私の評価に基づき、同氏の法律的見解は法曹レベルの信頼性はないものと認められます。

あなたの判断、誤っています。

このブログで私が学んだ最も有意義な考えかたは、「医療に限らず人間の行為は、レトロスペクティヴに『あと知恵=後出しジャンケン』で評価されるべきではなく、行為が行われた当該時点に視点を置いてプロスペクティヴに評価されるべきだ」というものです。(「政治は結果責任だよ」という言葉もありますが、これとて政治家が自戒の言葉として語る場合にだけ意味をもつでしょう。)

「司法側は医療の何を理解すべきか」という問いをうんとぼやかして、「これからの司法が重視すべき視点は何か」という問いをたててみます。この問いに対して医療者が出した答えが、「どのような事案を裁定する場合であれ、プロスペクティヴな視点を持ち続けてほしい。とりわけ、厳しいタイムリミットの中で不確実性をはらみつつ行われる医療行為に関する裁定においては」という要望です。

司法は、鑑定人が(医師でありながら、どういうわけか)レトロスペクティヴな発想に陥りがちなことも心得ておくべきなのでしょう。そうすれば、「鑑定人は『肺がんで死亡したこの患者が1年前に健診で撮った胸部X線写真のこの部分にはがんを示唆する陰影が認められる』と証言しましたが、それは『後でその部分ががん病巣となったのを知った上で見なおしてみれば認められる』という意味ですか?それとも、『大多数は異常がない健診写真を大量に見ている途中でも、平均的な医師ならば見落とさない程度にはっきり認められる』という意味ですか?」のようにプロスペクティヴな視点からの問いを発することができます。

「そんなこといまさら言われなくてもやってるよ」ということでしたら、すみません。

長々書いている間に流れが変わってましたね。No.34はますます無関係なコメントになっちゃいました。スルーでお願いします。

>No.30 基礎研逃亡兵さん
と同感です。私も釣り氏さんを天の配剤と見ました(笑)。
貴重な刑事判決例で具体的に法的判断と医学的判断じゃない医師が見る刑法判断を比較検討するというのが、司法と医療の相互理解に最も資するように思います。

先陣切らせていただくと、青戸事件は業務上過失致死罪ではなく患者さんに手術を奨めた医師の詐欺罪に当たると思っていました。刑事責任は医師一人と詐欺行為を許した病院の両者のみにかかると思います。患者さん死亡の賠償については民事だと思います。

これらの刑事判決事例については公判記録として出所の確かな情報があります。ここで具体的に論じても何も問題はないでしょう、たぶん(笑)。どうかしら?

本来医師側は権力と権限を持つ検察官と裁判官の判断だけを問題にしているのであって、その両者以外の司法関係者にいちゃもんをつけてもそれは無理無体な言い掛かりでしかありません。モトケン先生や弁護士の皆さんは法律にうぶな(おバカでもおk笑)医師がフーリガンみたいになりさがることを心配して、耳に痛いことでも助言してくれているのです。このブログの存在は法律弱者にとっては稀有のありがたいことです。

で、モトケン先生、ここでのこういうディスカッションに公開では不都合な事態が生じる懸念がおありでしたらいつでもこのコメントを削除してくださいますようお願いします。生兵法は危ないので私も避けたいです(笑)。

ぼつでおk先生、
先生に「尊敬する」などといわれてしまうと、背中が「こそばゆい」です(^^)

モトケン先生には申し訳ないのですが、結構ぐるぐる回りが続いていた感があったところに、魔人さんが登場し、その魔人たる所以のパワーで、いきなり事態が動いた(いい方向か、悪い方向かはわかりませんが)ことは事実だと思います。

ただ、いろんな意見があって然るべしですが、もちっとぼつでおk先生のように、場の空気を読みながら硬軟織り交ぜていかないと、相手と会話が成立しないばかりか、却っていろんな誤解やすれ違いを生みがちですよね。

でも、医師、司法双方から猛反発を浴びながらも、時折出現して怒涛のように長文を連打し去っていくエネルギーには、ただ感心するばかりです。お仕事中は、かなりパワフルなお医者さんとお見受けしました(^^)

不謹慎ですが、これから魔人さんがどう変わっていくのか、変わらないのか、結構楽しみにしているじじいでした。

て、誉めたら、ぼつでおk先生、スレ違いの青戸の議論をやろうとしてるし(^^;

>じじいさん

>その魔人たる所以のパワーで、いきなり事態が動いた

 それはそのとおりですね。
 動くきっかけを作ってくれました。
 不思議とあの人のコメントは削除しようという気にならなかったのが不思議というか結果論的正解だったというか(^^;
 
 ただし、念のために再確認(すでに述べているので再です)しておきますが、私は魔人ドール氏のコメントに反応したのではなくて、魔人ドール氏のコメントに対する医療側の常連さんのコメントに反応したのです。

>これから魔人さんがどう変わっていくのか、変わらないのか、結構楽しみにしているじじいでした。

 魔人ドール氏が相互理解の方向に変わってくれるのならば、私は司法と医療の相互理解についてかなり楽観できることになります(^^)

>No.37 じじいさん
コメントありがとうございます。

おおそれながら、私めへはさんづけでお願いします、普段は先生!と呼ばれて大抵叱られてるのでびくついちまう小心者であります(笑)。軟派だし(笑)

で、やはりすれ違いですよね。わたしもそんな気がしてました(笑)。フライング一回目ですね、あとは慈恵医大青戸病院医療過誤事件判決のエントリーへいってみます。と、三十七計使ったりして(笑)

> No.37 じじいさん、No.38 モトケンさん

告白します。

私、最初はものすごーく違和感があったんです。あの「〜とゆう」とゆう特徴的な表記に。

でも、実をとゆうと、最近徐々に独特の味わいみたいなものが感じられてきまして、今では、先ず文中の「とゆう」とゆう箇所を無意識に探している始末。って、自分にも感染してるー! なんとゆうことだ!

く、下らない書き込みですみません。寝ます・・・・。

No.19 キクリさんのコメント について
医療の不確実性を前提としても、予見可能性には濃淡があるとの主張は、医療の不確実性を前提として、医療水準は決まっているとの私の主張に沿うものです(医療崩壊について考え、語るエントリ(11)癸隠娃海了笋離灰瓮鵐函法

No.23 Nobodyさんの「釣り師警報!」は、仮にその指摘どおりであるとしても、現時点では、真っ当な見解を述べているものであり、レッテルを貼って議論を封殺するのは本ブログの趣旨に反するのではないでしょうか。

No.32 モトケンさんの「同氏(キクリ氏)の法律的見解は法曹レベルの信頼性はないものと認められます。」との趣旨は理解し難いところです。私には「予見可能性には濃淡がある」というのは医療水準を決定する場合のキーワードになる観点であり、正に私の予てからの主張どおりです。この点に異論がおありとも思えません。魔神ドール氏を許容し得たモトケンさんらしくない反応かと思えます。如何でしょうか。

 医療側として司法にかかわらず国民の方に理解してほしいのは、人間は死ぬものだということを忘れないでほしいということです。如何に巧妙な医療を施しても人間は必ず死にます。よく病院に入っているのにどうして具合が悪くなるのだといわれますが、病院に入院したら具合が良くなるのだったら誰も死ななくなります。医療とは引き伸ばしの技術であって、不老不死の技術ではありません。
 もうひとつは病気は患者さんの持ち物だということです。持ち物である以上その責任は患者さんが一義的に背負うものです。医師は病気を診断しますが、医師が病気を発生させたわけではありません。医師は治療介入しますが、その瞬間に病気の責任が医師に転移するわけではありません。
 最後に医療は患者さんと医師の間にあるのであって、家族との間にあるわけではありません。われわれは患者さんとの契約に従って医療をしているのであって、家族を納得させるために治療をしているわけではありません。
 法律論とはあまり関係のないことを書いてしまいましたが、いまのマスコミに代表される社会全体にかけている認識を書いてみました。

>地方の弁護士さん
 
 キクリ氏のコメントが、このブログの中央ブロックのエントリへのコメントであるならば私もとやかく言いません。

 しかし、右サイドにおいて、しかもまさに司法と医療の相互理解を明確にテーマに掲げている現在、発言内容の当否だけでなく、「誰が、つまりどのような立場の者が何を言っているのか」、ということが極めて重要であると考えます。

 だから私はキクリ氏に「立場を明らかにするように求めた」のです。

 私は、キクリ氏が立場を明らかにすれば発言を認めますので、「封殺」という指摘はあたりません。

 実は、このブログの模様替え、つまりニ分割にあたって、すなわちキクリ氏の発言の以前に、特に医療問題に関しては、コメント投稿者に立場(氏名ではない)を明らかにした上でコメントするというルールを設定しようかと思ったのですが、そこまでする必要はないだろうと考えて見送りました。
 しかし、このような問題が現実に生じるとなると、考え直さなくてはいけないかも知れません。
 私としては、できればそんなルールを管理人から強要するようなことは避けたいと願っています。

 今朝は時間があまりないので、このへんで。

ちょっと話がずれます。
2chあたりと比較しますとここの医療側常連さん達は「熱い」ように思われます。そのことは決して悪いことではないと思いますが、現実的に目的と方法論はもう少し区別したほうがよい気がします。

医療の事情を理解して欲しいという司法への願望はそれとして、もしこの場の皆さんが不幸にも訴えられ法廷でこの場でなされているような主張をしているのを目にしたならば、おそらく自分は「なんだかなあ…」と思うでしょう。
それは裁判という場において勝つための方法論とは全く異なる方向に突っ走っているように見えるからです。医療側視点からの正当性に拘るあまり、医療外の場でわざわざ勝ち目の薄いやり方に固執するのは無謀ではないでしょうか。
むろん「実際にその場になればこんなことは言わない」とおっしゃるかも知れませんが、大野事件その他注目される裁判経過を見ている限り、まさにこの場においてされているのと同様の主張が繰り返されているように思えます。

司法も長年の歴史ある分野であり、それなりの方法論が確立しているのではないかと推測します。それならば少なくとも司法の場においてはその方法論に従った、より実効性のあるやり方で対処すべきだし、そうできるように医療側も学ぶべきなのではないかと。
この場に集うような医療に関心のある司法側の人財も少なくないと思いますし、医療側がそれを求めるならば適切な助言は得られるのではないかと思いますが如何でしょうか?

自分としてはいっそ「臨床医がハマりやすい法廷戦術の罠100」なんて感じのハウツーもあってもいいかなと思っているのです。なによりも医療側の目から見ていくら正論を吐いていても、負ければ世間からは悪徳医師とみなされるのですから。

No.41地方の弁護士さん
すでにモトケンさんが返答されていますが、「群馬大病院でカテーテル挿入ミス?」でのやりとりをご覧になっていただくのがよいと思います。
医師からするとちょっと首をかしげるような応答もありまして、「私は〜のふりをしているわけでない」という言い方はすっきりしないものを感じます。
現時点でキクリさんがアク禁になっているということはないでしょうが、やはり専門的な内容の議論をする際には自分の立ち位置を明示していただけた方が非専門家である観客にとってはありがたいです。
かつての医療崩壊問題エントリでは、法律用語を駆使して医師の過失を糾弾された方がいました。
私は法律のことをよく知らない医師なので、その方の使う「ミス」や「過失」という言葉の使い方が法律専門家のそれと大きく異なり、そのことは過失を議論する上で極めて重要な問題であることに指摘があるまで全く気が付きませんでした。
その場合に専門家から「あなたは専門家ですか?」と確認してもらえるというのは匿名ブログのコメントの信頼性を高める上では有効であると思います。
モトケンさんはおそらく一般の方がご覧になった際に混乱されるのを懸念されているのだと思います。
なお、私は医療や法律の専門家でないしまさんの問題把握能力の高さにいつも驚き感心しています。
ちなみに魔人ドールさんのコメント内容は是非はともかく医師免許を持っていることを疑わせるものはありません。

(二重投稿につき管理人により削除)

すいません、慣れてないもので二重投稿してしまいました。
さらに蛇足ですが、魔人ドールさんが医師と断言できるわけでもありません。
具体的事例に専門家として医学的に奇妙なコメントを何か残されたわけではないので現時点で積極的に疑う材料はない、という程度の意味で書きました。
魔人ドールさんを擁護しているわけでもないので念のため。

No.45 DM医さん
私は、No.32 モトケンさんの「同氏(キクリ氏)の法律的見解は法曹レベルの信頼性はないものと認められます。」と表現に異を唱えたものです。キクリ氏が述べた「(医療の不確実性を前提としても、)予見可能性には濃淡がある。」というのが医療と司法をつなぐ一つのレールであると考えているからです。
これを私の表現にすれば、「医療水準も、医療の不確実性を前提として、成立している。」との表現になります。
私は、癸苅韻離灰瓮鵐箸鬚靴榛櫃法峽嫁和臧賊,妊テーテル挿入ミス?」において、モトケンさんがキクり氏にその立場を明らかにするように求めていたことは知りませんでした。その流れの中で、モトケンさんが、キクリ氏に否定的感情を持たれたことは理解できましたが、キクリ氏が正にこのリントリに相応しい正論を述べている内は見逃して(?)やっても良いのではと…思った次第です。

医療の不確実性について一言補足します。
医療の不確実性を法曹の立場で考えると、そんなに不確実なものであれば、それこそ慎重にやって欲しい。法的表現からすれば、医師の注意義務は極めて高いとの結論になります。不確実だから、大目に見てよということにはなりませんので、念のために指摘しておきます。要は、医療水準を判断するについて、医療の不確実性を正当に評価することに尽きると考えております。

 他のエントリで、医療過誤訴訟の原告の方が発言されていましたが、裁判に訴える決断をした背景には、事件が起きた後での病院並びに医師の説明が不十分で納得がいかない、という心情が大きいのではないかと感じました。トラブル発生の初期段階での当事者間の意思疎通が不十分であった結果、その後双方が何度か対話の機会を設けたが感情的対立が激化し、ついには民事訴訟に発展した、こういうパターンが多いのではないでしょうか。

 民事の紛争がこうした展開のパターンをたどるのは医療過誤に特有のことではなく、他の分野の紛争、例えば土地の境界争いや親族間での相続争い、雇用主と労働者の間での個別労働紛争、皆共通の現象です。こうした民事紛争の相当多くの件数は、初期段階に当事者間で手間をいとわぬ丁寧な説明と相互理解の場が確保されていれば紛争は重大化せず、民事訴訟に持ち込まれるリスクは大幅に減少する。これは法曹に関わりのある職業の者には常識となっております。

 初期段階で当事者が相談や助言を受けることができる「場」を用意し、その「場」において中立的立場で相互理解の妨げとなっている専門知識の欠如、制度の誤解、人智の限界等々、門外漢には理解しにくい専門的なことを噛み砕いて解説したり助言する。その結果、被害者感情のカタマリとなっていた当事者の心情が落ち着き、納得すべきことは納得し、紛争は解決の方向に動き出す。この「場」と位置づけられるのが業界内部に設置された「苦情相談窓口」などであり、「ADR機関」です。

 私ども社会保険労務士が専門とする労務・雇用の分野には、こうした「場」の例としては労働基準監督署などに苦情窓口的性格の「総合労働相談コーナー」と、ADR機関としての「紛争調整委員会」が置かれています。

 平成17年度の実績数字で、労働相談コーナーで扱った相談件数は907,869件でした。そのうち紛争調整委員会でADR調停が行われたのは6,888件で、違法行為の疑いありとして労基署が申立を受けたのは6,369件、合計13,257件が紛争と呼べるものであり、残りの89万件余りは相談だけで終わり、1/68が紛争に発展しただけです。ちなみに同年度の労働関係民事訴訟事件の新受件数は2,446件(全国地方裁判所合計)で、相談件数に比べると1/371の少なさです。提訴率0.27%、千件の苦情のうち訴訟になるのは約3件と言えます。

 相談窓口やADR機関はこうした官設のものだけでなく、我々社会保険労務士会や労働組合系の団体などが開設している民設のものもあります。これらでの相談件数を含めると、前記の提訴率はもっと下がります。おそらく千件の苦情やトラブルのうち訴訟に発展するのは1件あるか無いかでしょう。

 医療の業界にはその業界特有の事情があると理解しています。ですが他の業界ではこうした「苦情処理システム」を構築して、訴訟リスクを低く抑えるのに成功している例があることを知って下さい。そして医療の世界の中で国民に信頼される「苦情処理システム」を構築する方策について考えてみて下さい。それがモトケンさんの言われる「建設的意見」ではないでしょうか。

 他のエントリで、医療過誤訴訟の原告の方が発言されていましたが、裁判に訴える決断をした背景には、事件が起きた後での病院並びに医師の説明が不十分で納得がいかない、という心情が大きいのではないかと感じました。トラブル発生の初期段階での当事者間の意思疎通が不十分であった結果、その後双方が何度か対話の機会を設けたが感情的対立が激化し、ついには民事訴訟に発展した、こういうパターンが多いのではないでしょうか。

 民事の紛争がこうした展開のパターンをたどるのは医療過誤に特有のことではなく、他の分野の紛争、例えば土地の境界争いや親族間での相続争い、雇用主と労働者の間での個別労働紛争、皆共通の現象です。こうした民事紛争の相当多くの件数は、初期段階に当事者間で手間をいとわぬ丁寧な説明と相互理解の場が確保されていれば紛争は重大化せず、民事訴訟に持ち込まれるリスクは大幅に減少する。これは法曹に関わりのある職業の者には常識となっております。

 初期段階で当事者が相談や助言を受けることができる「場」を用意し、その「場」において中立的立場で相互理解の妨げとなっている専門知識の欠如、制度の誤解、人智の限界等々、門外漢には理解しにくい専門的なことを噛み砕いて解説したり助言する。その結果、被害者感情のカタマリとなっていた当事者の心情が落ち着き、納得すべきことは納得し、紛争は解決の方向に動き出す。この「場」と位置づけられるのが業界内部に設置された「苦情相談窓口」などであり、「ADR機関」です。

 私ども社会保険労務士が専門とする労務・雇用の分野には、こうした「場」の例としては労働基準監督署などに苦情窓口的性格の「総合労働相談コーナー」と、ADR機関としての「紛争調整委員会」が置かれています。

 平成17年度の実績数字で、労働相談コーナーで扱った相談件数は907,869件でした。そのうち紛争調整委員会でADR調停が行われたのは6,888件で、違法行為の疑いありとして労基署が申立を受けたのは6,369件、合計13,257件が紛争と呼べるものであり、残りの89万件余りは相談だけで終わり、1/68が紛争に発展しただけです。ちなみに同年度の労働関係民事訴訟事件の新受件数は2,446件(全国地方裁判所合計)で、相談件数に比べると1/371の少なさです。提訴率0.27%、千件の苦情のうち訴訟になるのは約3件と言えます。

 相談窓口やADR機関はこうした官設のものだけでなく、我々社会保険労務士会や労働組合系の団体などが開設している民設のものもあります。これらでの相談件数を含めると、前記の提訴率はもっと下がります。おそらく千件の苦情やトラブルのうち訴訟に発展するのは1件あるか無いかでしょう。

 医療の業界にはその業界特有の事情があると理解しています。ですが他の業界ではこうした「苦情処理システム」を構築して、訴訟リスクを低く抑えるのに成功している例があることを知って下さい。そして医療の世界の中で国民に信頼される「苦情処理システム」を構築する方策について考えてみて下さい。それがモトケンさんの言われる「建設的意見」ではないでしょうか。

↑失礼、2重投稿です。1つ削除して下さい。

キクリ氏の書き込みについて

このブログのコメントの多くは信頼性が高いと評価しています。間違ったことや、嘘や、惑わすことが書かれても、それを読んで、他の読まれた方が反論や指摘をされるからです。そして、それに従って、自分なりに考えの整理も可能となり、正しいであろうと思う方向につながっていく。Wiki的なものでしょうが、Web 3.0位にもしかしたらなるのではと?

だから、釣り師警報!も重要であるし、No.48 地方の弁護士さんの「キクリ氏が正にこのリントリに相応しい正論を述べている内は見逃して(?)やっても良いのではと」というご意見も尊重すべきと思いました。

エントリーと無関係コメントをご容赦ください。

人間は生まれた瞬間、死ぬことが決まっている。病気、事故、自殺
そして人は必ず死ぬ
医療は少しでもよりよく生きるための手助けをわずかにしているだけである。
そして治る病気はわずかの感染症しかない。
軽症な肺炎、膀胱炎、風邪、胃腸炎など
胃ガンは治しているのではない。
臓器をとって機能を補うようにしているだけ
当然、合併症がある。肺炎、縫合不全、腸閉塞、再出血、輸血によるショック、肝炎
つまりは医療は進歩によって助からないものを、わずかに回復させただけである
また薬は100%副作用がある、肝機能障害、脳出血、中毒診、アレルギー、ショックなど。
漢方、ビタミン剤も副作用がある。
医療が確実なものと考える方は妄想であるとおもう。

初めてコメントいたします。心臓外科医です。
医療の不確実性を裁判官に理解していただきたいのは山々ですが、頭で理解できても医師と同じレベルでの実感は難しいと思います。同じ医療者である看護師さんですら理解できていないことが多いですし、時には医師であっても他科に対する畏敬の念を失う時には「なんでそんなことすら分からないんだよっ」と言いたくなることもあるのですから。
地方の弁護士さんがしてくださった
>医療の不確実性を法曹の立場で考えると、そんなに不確実なものであれば、それこそ慎重にやって欲しい。
というコメントこそ互いが念頭においている「不確実さの程度の差」を示しているように思います。
不確実さを補うほどの慎重さを求めるのであれば、何もしないことしかない、と言わざるを得ないほどのこの不確実性、無限に続く底なし沼のようなこの絶対的な不確実性の恐怖を正当に評価できるのは医師のみ、それもその分野に直接かかわっている医師のみです。(心臓外科医である私は整形外科の不確実性の程度を理解できません。しかし不確実性があるということを知っているので、判断を放棄するか情状酌量の範囲を極めて大きくとります。しかし裁判官にはそれは許されません。)
とすれば「不確実さを知って欲しい」という医療側の主張はある程度までは容認できるものとしても、ある程度以上は子供の駄々と同じことのように思えてきます。
先生方の議論で学ばせていただくうちに、医療側は「不確実性は正当に評価されえない我々だけの言語である」と認識するべきなのではないか、と思うようになりました。そのうえで、「では共通の言語をもつにはどうしたらよいのか」、あるいは「この不確実性をどういった言葉で訳せば医療側の意図どおりに判断してもらえるのか」「どういった形式であればこの不確実性を正当に裁判官の心証に訴えることができるのか」ということを考えていくほうが建設的ではないでしょうか。(あるいはもちろん↑で法務業の末席さんが述べておられる様に「別の言語・価値体系の世界へ自分たちの問題を持ち出さないためにはどうしたらよいのか」というのも大切ですしね。)

そのうえで、(ここからはつけたしですが)司法側の方々にお願いしたいことがあるとすれば、私たちが司法の言葉を理解するまでの間「医療者の使う言葉は別の言語なのだ」と頭の片隅に置いておいていただきたい、ということです。(「診断に必須」は「やらなかったら医師として間違っている」ということではなく「診断をつけるのには必要だけど普通はなかなかできないから悩んじゃうんだよね」ということだし、「10%の可能性で助かる」は「普通は死ぬけど予想外に強い人が10%くらいはいるよね、なぜか。」、「一般的には選択しない」は「一般的にはしないけど選択したってことは一般的ではない状況だったんだろうね」ってことだったりするのです、ちょっと極端な例ですが。)
もちろん医療側のその「トンデモ言葉」を認めろと主張しているわけではありません。ただそのことを頭の片隅に置いて鑑定書や証人医師の話に接していただけば、鑑定書に基づいて当然の判決を出したつもりが「トンデモ判決だ」などと文句を言われてしまう可能性は減ずるように思います。
あるいは鑑定書を書くのに両方の言葉に詳しい方(法医学者ということになるのでしょうか)が、鑑定書を書かれる医師につきそって添削してあげる、という制度はあるのでしょうか。「そう書くとこういうふうに解釈されますけど、それでいいんですね?」と一字一句教えてくださる専門の方とペアで鑑定書を出したりすることができれば、「医学的には正しい鑑定書からなぜか医学的に正しくない判決が導き出される」という可能性が少しでも減るのではないかな、と思います。

病院内に派出所とか弁護士事務所とかまあ何でもいいけど何らかの患者にも病院にも属さない機関を作って、診療室情報カメラで設置して、どっちかが暴走したら担当者がかけつける。そういうシステムとか作れないもんでしょうかね。
常に説明時に誰か第三者がいれば(リアルタイムで)患者の暴走も医師の暴走も法曹の暴走もかなり押さえられる気がするんですけど。

個人的には全て実況、患者のプライバシーを全撤去した上で医療関係者のミスを問うとここまでやるのが一番すっきりする気がしますが、まあそれは勿論現実的には無理と思ってます。しかし、治療の現場を第三者に立ち会って冷静に判断してもらう。そういうことができればいいんじゃないかと思います。治療がすんでからでは勿論もめるので、あくまで治療中に。です。
とつぶやいてみましたがあんまり相互理解とは関係ないですね。まあ事が終わってから紛争になるより、もめる前に予防としてなんか出来ないもんかと思ったので、書いてみました。

m3の医師掲示板が2−3w間、閉鎖になりました
これが美しい国、日本のすがたです

>absinth さん

(「診断に必須」は「やらなかったら医師として間違っている」ということではなく「診断をつけるのには必要だけど普通はなかなかできないから悩んじゃうんだよね」

奈良救急事件での「必須」にはそのような意味合いが含まれているのだとは分かるのですが、他方、なぜなかなかできないようなものが「必須」にしているのかが分かりません

>absinth さん

もう一つ

医療側のその「トンデモ言葉」を認めろと主張しているわけではありません。ただそのことを頭の片隅に置いて鑑定書や証人医師の話に接していただけば、鑑定書に基づいて当然の判決を出したつもりが「トンデモ判決だ」などと文句を言われてしまう可能性は減ずるように思います。

トンデモ言葉とは思いませんが、absinth さんの仰る「トンデモ言葉」を、一般に分かるような形で鑑定書に書いて頂ければ、トンデモ判決の割合はかなり減少するように思います。

例えば、例示して頂いた文章ですが

、「10%の可能性で助かる」は「普通は死ぬけど予想外に強い人が10%くらいはいるよね、なぜか。」、「一般的には選択しない」は「一般的にはしないけど選択したってことは一般的ではない状況だったんだろうね」ってことだったりするのです、ちょっと極端な例ですが。)

非医療者に取っては、前者に、後者の意味が含まれているとは想像だにしないと思います。鑑定書なり、説明文なり書く時には、後者の書き方で書いて頂けないものなのでしょうか。


基本的に
医師:司法はミスを斟酌するべきだ
司法:医師はミスが正当なミス、不可避なミスだという事を立証するべきだ

と言う感じで、堂々巡りに陥っているように思います。

> 「誰が、つまりどのような立場の者が何を言っているのか」、ということが極めて重要であると考えます。
> 特に医療問題に関しては、コメント投稿者に立場(氏名ではない)を明らかにした上でコメントするというルールを設定しようかと思ったのですが、そこまでする必要はないだろうと考えて見送りました。(No.43 モトケンさま)

私も議論しているうちに、各人の意見の信頼度やその問題に対する理解度を測り、議論を深めるためには、立場を明らかにしてもらうほうがよいと思うようになりました。
常連同士ではお互いの職業や立ち位置を理解して議論していますが、初めて来られた方に対して解るまで「半年ROMってろ」では不親切です。

ハンドル自体に職業が解るものを用いるか、または後ろにカッコ書きで職業分類を入れるルールにしてはどうでしょうか。
コメント欄の設定で選択できるようになれば便利です。
分類は職業名そのものでなくても構いませんが、最低限

・医師
・医療関係者
・法曹
・その他

くらいではどうでしょう?

>hot-coffee さん

医療関係者以外の方にどうしても理解して頂きたいのは
端的に言うならば、「医療行為の不確実性」だと思います。

医療関係者以外の方も行為の不確実性なら理解していますので、医療行為の不確実性も理解できると思います。

例えば、Windowsを例にとると、一番安定なのは真っさらな状態です。それから、使えば使うほど調子が悪くなります。Windows Updateの実施も調子が悪くなる一因ですし、アプリケーションのインストールも不調の原因です。もちろん、ファイルの作成、データのダウンロードも不調を招きます。


手を加えることは必ずデメリットを招きます。デメリットがあるのに何故手を加えるかと言えば、

1.手を加えた場合のメリットが手を加えた場合のデメリットを上回ると考えられる
2.何もしない場合のデメリットが、手を加えた場合のデメリットを上回ると考えられる

と言う事があると思います。失礼ながら、医療も同様に考えられるのではないかと思います。ただし、これはhot-coffeeさんの仰る医療の不確実性とはピントが外れているように思います。そのような場合はご容赦を。


完全に余談ですが、Outlook2000、Outlook2002は、メールの容量が1.92Gを越えた場合、メールを格納しているファイルが破壊されますのでご注意を。

このエントリの本題とははずれる話題に埋もれてしまいそうですが、No.42 地方公立病院勤務医さんの話がとても重要に思います。特に2番目の「病気は患者さんの持ち物だということです。持ち物である以上その責任は患者さんが一義的に背負うものです。」が重要です。ある病気の患者さんが何らかの診療の見落としで不幸な結果に終わった場合、その医者の責任は限定的なものではないでしょうか。既出のたとえ話で言えば、潰れる寸前のらくだに、最後の荷物を載せてそのらくだを潰してしまったというような。最後の荷物を載せた人に、それまでに積まれた荷物の全責任を負わせるのなら、それ相応の契約がなされていなければいけないのでは?特別な契約が無かったのであれば、最後の荷物を載せた人の責任は、最後の荷物の重さの分だけでしょう。

しつこく書きますが、法廷が、自然災害の責任も全て人対人の責任に付け替えるような仕組みになっているのであれば、医療事故を扱ってもマトモな扱いはできないと思いますけどね。

>No.58 しまさん
>司法:医師はミスが正当なミス、不可避なミスだという事を立証するべきだ

本音を言えば、その立証はとても困難です。同じ専門なら立証とまではいかなくても、その区別は体感的にできるのですが、他業種にもわかる立証なら途方にくれます。データを蓄積すれば他業種の人にもわかるかもしれませんが、不可避なミスであってもその頻度が高ければ、そもそも、そんな治療手技を選択したのがミスという結論になるでしょう。

>No.59 YUNYUN さん
ご提案のようにハンドルを変更してみましたが、長すぎませんか?

>No.61 峰村健司 さん
>自然災害の責任も全て人対人の責任に付け替えるような仕組みになっているのであれば、医療事故を扱ってもマトモな扱いはできないと思いますけどね。

私もそう考えたことがありますが、99人の医師が見落とさないものを見落とした1人には100%の責任があると考えるのが一般的な考え方ではないでしょうか。あくまでも一般的な考え方ですよ。正しいかどうかは私にはわかりませんが。

>FFFさん
「とゆう」とゆうミスタイプをしないように過敏になってしまいました。

No.61 峰村健司 さん

司法にも不法行為(例えば交通事故)の被害者に既往症があるが故に重大なる結果が生じた場合は、寄与率的な考え方をして、責任を限定する(損害賠償額を限定する)考え方があります。この場合、損害の公平な分担の理念から説明されます。
一定の病気を負っている故に治療を受けている場合、その病気にかかっている故に責任を限定することが果たして公平か否か、価値判断の問題だと思います。一般的命題に置き換えて見ると、一般人が自らでは解決ができない事態に立ち至った故に専門家に相談しているのに、不幸な事態に立ち至ったことを理由に専門家の責任を限定するとの考え方は一般国民には受入難いのではないでしょうか。
特に、医師の場合は、日本の富裕層の40%を占めているとの報道や、公立病院の医師の平均年収が1500万円との報道もなされています。最近はワーキングプア現象もありますし、勤労世帯の平均年収は4〜500万円かと思います。このような現実を前提とすると患者の負担において、過失が認められる医師を保護することが、公平の理念に照らして相当と言えるかは疑問を感じます。

No.54 absinthさんのコメント

医療側は「不確実性は正当に評価されえない我々だけの言語である」と認識するべきなのではないか、と思うようになりました。そのうえで、「では共通の言語をもつにはどうしたらよいのか」、あるいは「この不確実性をどういった言葉で訳せば医療側の意図どおりに判断してもらえるのか」「どういった形式であればこの不確実性を正当に裁判官の心証に訴えることができるのか」ということを考えていくほうが建設的ではないでしょうか。

同感です。裁判は(当然ながら)司法の場なので、そこでの言語(発言の仕方)を医療者は知る必要がありますね。
共通の言語をもつために、どうしたらいいか。共通の言語をもつトレーニング、もしくは添削みたいなものがあればいいですね。通訳がいるってことか。

>No.63 地方の弁護士さん

医師の年収報道をそのまま鵜呑みにされているのは残念です。機会があれば開業医の年収は何故高いのか、というより高くなければやっていけないのかを説明してもよいのですが、私より会計士さんのほうが適任です。(開業医の年収に関しては、同じ医師である勤務医も理解していません。私も開業するまで理解していませんでした)

それはさておき、仮に報道のような医師の年収があったとしても、

>過失が認められる医師を保護することが、公平の理念に照らして相当と言えるかは疑問を感じます。

年収差が「公平の理念に照らして相当と言えるか疑問を感じる理由」となる論理がわかりません。

さらに言えば「医師を保護すること」は医療崩壊に直面した現状において、医師の為だけではなくて、社会全体の利益になると考えることはできませんか?私はそうした視点から医師の訴訟リスク軽減が必要だと考えています。そうした視点に立てば年収云々は全く無関係の話に思えます。

>地方の弁護士 さま

医師の年収の報道を鵜呑みにする方がおられため息が出ます。

公立病院の「常勤」医師の平均年収ではないかと考えます。

公立病院には大量の非常勤医が働いていることはご存知なのでしょうか。
大学病院は大学方直接支払われる賃金が年収にしてゼロもしくは100万円以下で勤務している常勤ではない医師が圧倒的多数であることはご存知なのでしょうか。
私は長年非常勤医もしくは日雇い待遇の医師として勤務していましたため年収は350万前後でしたし、大学院生のときは学費を払わされているのに実習の名目で労働をさせられ、無給でしたのでアルバイトで生活しており年収は200万円前後でした。

あえてここまでレベルを落とした議論はしたくありませんが、医師の間では常識となっている年収に対する感覚が、地方の弁護士様には前提としてご存じないだけかもしれないと好意的に解釈して懇切丁寧に情報提供することにしました。

今日のマスコミ報道をナイーブに信じることは危険です。

今回、警告の意味で私が情報提供いたしましたので、今後もそのような誤解に基づく年収の情報を議論に絡めることがあるようでしたら私にも考えがあります。

>No.63 地方の弁護士さん
おっしゃることもわかりますが、私のNo.42の部分に書いてありますとおり、医療の帰結は必ず不幸な結果です。その点は留意ください。何をしたって人間の最終結論は同じです。ですから医師の治療において不幸な事態に立ち至るのは大前提です。その前提のない状態に対してはそもそも治療を行いません。放っておけば不幸な事態に至るから行われるが治療なのです。治療すれば治るのが前提と捉えられているようでその点は残念なところです。治療しなければ不幸なことになる、治療をすれば不幸を回避できるかもしれないというのが治療行為の本質です。

>地方の弁護士様

私は、癸苅韻離灰瓮鵐箸鬚靴榛櫃法峽嫁和臧賊,妊テーテル挿入ミス?」において、モトケンさんがキクり氏にその立場を明らかにするように求めていたことは知りませんでした。その流れの中で、モトケンさんが、キクリ氏に否定的感情を持たれたことは理解できましたが、キクリ氏が正にこのリントリに相応しい正論を述べている内は見逃して(?)やっても良いのではと…思った次第です。

 かの「魔神ドール」氏の時も、はたまた懐かしの「北の内科医」氏のときも、あるいは「田中」氏の時も(個人的にはこのお3方は完全に「荒らし」認定です。)20発言以上を許容しておりますので、現時点で直ちにアク禁などの処置を執られることには私も反対です。

 一点この方が上の3人と違うのは自分の立場を明瞭にされておらず、さらにモトケン様がおっしゃっているように、明らかに専門家を装った発言をされています。その上、立場を呈示するよう求めても、求めた者を愚弄するような発言をされていると言うことです。
                  ↓↓↓↓

私は自分が医師であるとも、弁護士であるとも、病院事務員であるとも、逆にないとも言っておりません。あなた方の勝手な想像でしょ。あなた方がそう思ったとするなら、そういう職業の人間が書くような内容があったということですよね。

 私は一般の方がこちらに参加されることに異議はありませんし、むしろ積極的にご発言願いたいと思っております。しかし、立場が不明瞭の方とまっとうな議論を出来る自信は私にはありません。従って私は上のお三方に最初に取った態度と同様、仮に発言してもスルーするという立場を取ることになります。あんまりな発言が続けば上のお3方の時と同様、ぶち切れます(笑)。
 現時点では「自分の立場を呈示しなければ管理人権限を発動する」というモトケン様のお考えを支持します。ここで立場を呈示して頂ければ、まともに議論しよう(つまり相互理解へつなげよう)という意志を感じられるからです。

キクリ氏が述べた「(医療の不確実性を前提としても、)予見可能性には濃淡がある。」というのが医療と司法をつなぐ一つのレールであると考えているからです。

 確かにキクリ氏が言っていることを100%否定するものではありませんが、それは魔神ドール氏の発言に対し常連医師の幾人かが「彼の言っていることに分かることもある」と述べたのと同様、盗人にも3分の理程度のものでしかないと思います。
 
 

>元内科医さん

あえてここまでレベルを落とした議論はしたくありませんが、医師の間では常識となっている年収に対する感覚が、地方の弁護士様には前提としてご存じないだけかもしれないと


「医師の間では常識となっている事柄を、非医療者にどのように伝えていくか」という事が、このエントリーの趣旨の一つだと思いました。従って、年収の話をしたいのであれば、「医師の年収に対する感覚を非医療者に対してどのように伝えて行くか」と言う事が重要ですね。

なぜ重要なテーマにもかかわらず、元内科医さんが「レベルの低い議論」と仰るのか理解できません。

医師の収入も色々だということは承知していますし、設けるのが悪いと言う気も更々ないけど、特に地方だと、いわゆる長者番付に載る人の半分以上(ほぼ独占なんてことも)が医師だったりするんですよね。1億円以上の資産を有する層の15%は医師だという調査もありました。

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豪邸に住んでベンツに乗って、みたいな医師のイメージも、全くの虚像というわけではなくて、「医者の中には、割合はともかく、儲けてる人もいる」というのが正確なところだろうと思っています。

「勤務医は低賃金だ。開業医だって世間で言われるほど儲からない」という指摘がしばしば医師の方から出るのだけど、そうだとすると、この富裕層というのはどこから出てくるのかなあと。開業医が美容整形ばっかりやってるとも思えないのですが。

あ、これは単なる素朴な疑問です。繰り返しますが、儲けてるからどうだとか、稼いでるんだからもっと働けなんていうつもりは毛頭ありません。

>しま さま

私は年収の話をしたくないのです。
年収の話をすると必ず非難の応酬になります。

「もっと稼いでいる奴もいる」「いやもっとひどい仕事で低賃金もいる」「医者がそんなに偉いのか」「なんだと」「時給になおせばマクドナルドの・・・」「マクドナルドを引き合いに出すのは」「!」「?」「!!!」

無限ループに入ります。
いままでこのブログでも何回かぐるぐる回ったはずです。

必ずなります。

また、それはこのスレッドの本題にどれほど必要なことでしょうか?関係がないと思います。そういう経緯を踏まえた上で

現実の医師の年収がどういうものか、私が既に書いた情報である程度推察できるかと思います。その基本情報を押さえていただくだけでもうやめにしていただきたいのです。得るものがありません。しかし、誤解を元に議論を組み立てては無意味な意見を構築することになります。私はそれを避けてもらいたいだけです。

> No.71 元内科医さん

 むしろ医師の方から、労働環境の劣悪であることの一要素として「低賃金」という指摘がなされるわけでしょう。最近も同旨の意見がありました。また、医療訴訟における賠償額が高すぎることを批判する文脈で、「その医療行為の単価は○円に過ぎないから割に合わない」とか「医師の収入で払える額じゃない」とか「裁判所は、医師が金持ちだと思って、大した抵抗なく高額の賠償を命じているのではないか。本当は違うのに」といった意見が出されました。

 なので、医師の収入が議論に全く無関係だとは思わない(医師の方が自ら収入と関連づけた主張をされておられるのです)し、それが低いこと(正確には、収入が低い医師が相当数いるということ)ばかりを強調する医師の意見に対して、一般人の感覚とは違うから「ほんまかいな」という感想が出てくるのは当然だとも思います。

 もっとも、医師の方が求めておられる労働環境の改善とは、「もっと給料上げろ」というよりは、「医師を増やして人間的な仕事量にしてくれ」というのが主眼だろうと理解しています。その意味では、私も、収入額の多寡が主要な論点だとは思っていません。

 年収の件は統計の扱い方の問題なので、あまり建設的な議論にはなりません。実際ここにいる医師の方で医師の年収調査の統計抽出法をご存知の方はまずいらっしゃらないでしょう。
 同じように弁護士の方々もそうだと思います。裁判官や検察官は出そうと思えばこれは正確に出ると思いますが(最高裁長官の給与なんてみているとそれなりにありそうですがいかがでしょうか)。
 とにかく医師が高年収どうこうが正確かどうかなんてわかりません。平均値に意味が少ない集団だろうとはいえます。
 ここでの問題は社会においてそういうイメージがあるという前提で、そのことが裁判官の心証形成に影響を与えているのかどうか、与えることが適当なのかどうかを議論すべきと考えます。
 私の意見としては年収が高いから過失責任のラインが高くなるというのであれば、大学病院の大学院生医師などはまったく責任がない存在になるという理論が成立してしまうことから見ても、この見方は適当ではないと考えます。

またまたお邪魔します、患者予備軍としましては。

訴訟が気になってビクビクしながらでは、診て貰うほうも気が気では有りません。
お医者様の収入云々よりも、仕事である診療に集中して戴きたい、です。

難しい判断や資料調べに集中しきれずボーンヘッドが発生すれば、訴訟リスクは飛躍的に高まるものと思います。

尚、別エントリーでも書きましたが。
裁判での鑑定で、医者としての技量の範疇か、最低守るべき注意義務かは、統一できるまで詰めてから証拠としてあげて貰いたいです。

No.65 元ライダー.開業医さん
>年収差が「公平の理念に照らして相当と言えるか疑問を感じる理由」となる論理がわかりません。

損害の公平の分担という理念を、専門家と一般人に当てはめて考えると、過失のある専門家が相当因果関係にある全ての損害を分担するのが、大多数である一般人の感覚かと思います。これを修正するためには、そこまで負担させては酷であるとの現実が必要であるところ、年収差は修正よりは補強の現実、言葉を代えれば「ハイリスク、ハイリターン」な仕事と理解されるだろうなということです。
医療崩壊の現実が、その酷な現実と評価されてしかるべきであるとのご意見かとも思えますが、このような評価が一般的になるには国民の意識変革が必要であり、それがなされる前に法的評価を変えるのは困難かと思います。

No.66 元内科医さん
損害の公平なる分担という場合は、国民の意識→社会通念のようなものを抜きには語れません。私の主張の骨子は、専門家と一般人のリスク配分は過失のある専門家が負うべきであり、専門家はそれ相応の報酬を得ているだろうから、マクロ的なバランスはとれているのだろうなというところにあります。
医師に言及したのは言わずもがなだったかも知れませんが、医師が世間からどのような評価を受けているかを知って置くことは、医療崩壊についての国民的合意を勝ち取って行くためには必要なことと思い、反発覚悟で敢えて言及しました。No.69 しまさんのコメント にあったように、収入についても非医療者に現状を広く知らしめる必要があると思います。
今でもお医者さんはお金持ちというのが一般的な庶民感覚かと思います。この庶民に医療崩壊の現実を知らしめても、上記感覚はパリアーとして働くことが予想され、レベルは低い問題かも知れませんが、無視することはできないファクターかと思います。

>No.75
 論としてはわかりますが。結局裁判所もマスコミと同じレベルでし
か判決が出せないというのでは寂しい限りです。まあ、国民から国家権力を委託された統治機構という位置づけである以上仕方がないのでしょうが。

しかし裁判官はマスコミ人よりは知能程度が高く、理解力があるから、
ことわけて話せば、まだしも説得可能性は高いのではないでしょうか。

 でも法廷で医師の収入実態は云々とやるれるものでもありませんから、このあたりについてはもう少しお互いに普段から勉強していくしかないでしょうね。

ひょえー!!!
なんで年収の話とかくだらない話が出てくるのか、さっぱり僕にはわからない。それをまたなんでこんなに真剣に語るのかさっぱりわからない。「医者の年収が云々…」って、それって単なる世論じゃないのかなぁ??

まあ、事件性と直接関係が無い年収というファクターがそれだけ判断に影響するくらいなら、裁判官が世論の影響を受けやすいのではないかという私の推察が、かなり正しいものかと更なる自信がつきました。

となると、更なるがなりたてがますます有効かと思われます。

>17 Pin様


魔人ドールさんではないですが、よくわからないので
三権分立が何故必要なのかということ、国民主権が何かということについて
説明していただければ より理解できると思うのでありがたいです。

もう相当亀レスになってしまい恐縮ですが、
権力分立(けんりょくぶんりつ、けんりょくぶんりゅう)とは、国家の権力を性質に応じて分け、それぞれを別個の機関に分散させ、各機関に他の機関の越権を抑える権限を与え、相互に監視しあうことにより抑制均衡を図り、もって権力の集中・濫用を防止し、国民の政治的自由を保障させようとするシステム。また、そのような自由主義的統治組織原理を権力分立主義という。対義語は、権力集中、権力集中制。通常、国家の権力は、立法、行政、司法の三権に分けられるため、三権分立(さんけんぶんりつ)とも呼ばれる。(from Wikipedia)

司法が司法のみで独立して権力行使しているのではなく、国家権力の行使形態の一つです。司法判断に不満または不足がある場合は立法によって補われるべきですし、立法府は国会として国民の代表によって構成されています。

医療問題のケースにあてはめますと、
1.内閣、行政府(厚生労働省)の政策により医療費の抑制化が図られその過程として現場である医療界に過重労働が必要とされてしまっていること
2.医療現場での紛争が患者側から医療事故ではなく医療過誤と見做され民事訴訟に持ち込まれるケースが近年増加、さらには検察から刑事告発されるケースも発生(福島事件)。
 ・医療に対する司法側の判断基準が医療側から見た場合に不明確である(ように受け止められている)こと
3.(1及び2)から医療現場が心理的に萎縮し医師が防衛医療・逃散を図り、今後、国民に対する医療レベルが低下する可能性を医療側から指摘

以上の中において、医療と司法に対立関係があるということでは無くて、本来は1の行政府(厚生労働省)の不作為(作為かもしれませんが)に対して声をあげるべきは立法府(国会)であって、司法ではないこと。2の司法判断を本質的に変える力があるのは恣意的な司法判断の変化によってではなく立法による法の制定であること。

私が魔人ドール様にお伝えしたかったことは、国民は立法府に対して国民の代表者たる国会議員を選ぶ権限を有しているのだから、その主たる権利を行使しましょうということです。
裁判官の判断に誤りがある場合は三審制でシステム的に対応しています。
医療においての判断に科学的な困難さがあることは既に認識が広がっているので、具体的な医療事故調査委員会の検討は始まっていますし、その「つくりかた」に対してもっと医療現場の方から意見をいただけるとより良いものができると思っています。

ただし、上記のものも人間が作るシステムなので完全なものはないのです。不具合があれば、それに向けてどう修正すべきなのか?司法判断も永遠に同じものはなくって、立法があれば変化しますし、冤罪事件も新たな証拠が見つかれば再審請求を受けて判断を訂正する可能性があります。

医療だけが「人の生死」がかかるものとして極めて過重な責任感をあらゆる方面から押し付けられる、それが現場の頑張りによってカバーされていると個人的には思っていますが、そうだとするとやはり現場の限界をどう緩和すべきなのかについて声をあげ、システムを改善する方策を医療側も司法側も知恵を出し合って模索すべきだと思うのです。

個人的には、モトケン様のこのblogがその一つになると信じております。

No.63 地方の弁護士さん

寄与率的な考え方があるということについてご教示頂きありがとうございました。少し疑問が晴れました。

医療訴訟に関してはそれが適用されていないようであることは大いなる疑問に感じます。

元内科医さんの懸念もわかりますので無限ループになったら止めます。

会計の専門家ではありませんので大雑把な説明しかできませんが、
実際にベンツに乗っている開業医は少なくありません(これにも理由があります)。豪邸に住んでいる開業医はかなり少ないですが、います。それは否定しませんが、どんな業種でも一部の成功者は同じでしょう。

開業医の資産や年収が”統計上”多いというのは事実ですが、生活実態とかけ離れているのは会計上のからくりによるところが大です。

開業医は法人の社長ではなくて、個人事業主です。小さな法人の社長でも、最初から給料は決まっていますから、例えば年収1500万と定めれば、いくら会社が儲かっても会社の利益にしかなりません。会社の利益をそのまま内部留保してもよいのですが、法人所得税が取られるので、法人名義で事業拡大のため土地を買ったり、ベンツを買ったり、ゴルフ会員権を買ったりして、表向きの利益を減らします。実際にこの資産の恩恵に預かるのは社長なんですが、社長個人の捕捉される年収は1500万のままです。

開業医の場合は院長イコール病院・医院(以下病院)です。事業の利益を病院に付け替えることはできません。病院が儲かって3000万円の利益が出ればそのまま院長年収3000万円になります。

個人事業主である弁護士さんもいらっしゃると思いますが、このように儲かることが予想されれば事業の法人化を考えることと思います。しかし病院の場合は、ご存知のように営利企業が経営できません。医療法人となるのが常道なのですが、医療法人になるためには病院の経営実績が必要です。何年の経営実績が必要かは都道府県により異なるようですが、その間、すべての利益が院長の所得として捕捉されます。

それにしてもサラリーマンと比べて収入が多い!と言われるかもしれません。肝心なのは開業医の年収が3000万円だとしても給料ではないということです。

従来型の土地を買って、建物を建てて開業する形態で、かなり大雑把に説明すると

額面年収3000万あったとして、そこから税金(所得税、住民税、固定資産税等)で1000万円、最初の借金(1.5から2億)の返済で1000万円差し引くと、残りは1000万円です。さらにここから借金に見合う生命保険料が差し引かれます。残りは900万円です(手取り収入)。

他業種の個人事業主とは初期投資の借金額がかなり違うと思います。

本当はここで留めたいのですが、正直に言うと、妻への専従者給与、勤務医では認められない出費(ベンツの代金の何割か、学会の会費など)が経費で認められるメリットを考えれば多く見積もって手取り1500万円相当でしょう。

それでも多いでしょうか?さらに説明します。開業医の年収を3000万円と設定したのは厚労省が毎年発表する開業医平均(平均年収が毎年ヘッドラインで報道される職業なんて他にありますか?)250万円×12ヶ月を基にしました。

この月収250万円も会計上恣意的な操作が加えられている可能性があるのですが、そこは詳しくないので言及しません。しかし統計上加重平均値であるということは事実です。一部の超勝ち組が平均値を押し上げています。中央値、最頻値をみると開業医の月収は150〜200万円の間です。

とすると、先に提示した手取り1500万相当がさらに減ずることになります。

>No.75 地方の弁護士さん

論としては了解しました。しかし、上記のような実態ですから、ハイリスクに相当するリターンでしょうか。私も地方公立病院勤務さん同様、マスコミレベルの情報に裁判所の判断が影響されるのであれば、もっともっとマスコミの虚報を否定していく必要性を感じました。

>YUNYUN様

しかし裁判官はマスコミ人よりは知能程度が高く、理解力があるから、
ことわけて話せば、まだしも説得可能性は高いのではないでしょうか。

 あの〜、どうやって裁判で「医師の実質年収は一般に思われてるほど高くない」と主張するのでしょうか・・・。

 というか、私自身は、正直なところ医師にとって損害賠償額の多寡を論じることにさして意味はないと思ってます(医療過誤保険がありますので)。問題は本格的に混合・自由診療に移行した場合、それが患者負担に転嫁されること、医療訴訟保険の保険金が増額した場合にそれが危険(と思われる)医療からの撤退を招くことではないかと・・・。

 特に出産関連では一応すでに自由診療ですので、患者負担への転嫁が間近いのではないでしょうか。

> No.79 峰村健司 さん

 ホントに、さっぱり分からんです。

 私は、医師の年収が医療過誤訴訟における司法判断のファクターになっているとは全く思いませんし、それをファクターにすべきとも思いません。医師の労働条件の一要素と見れば、医療崩壊を語る際に意味がないとは思いませんが。

 ところが、一部の医師の方は、医療過誤訴訟において「医師が低賃金であること」を斟酌した司法判断をせよと仰る。また、多くの医師は、勤務医がいかに低賃金かという点は、嬉々として説明される。いわゆる奴隷自慢。

 その一方で、平均年収とか富裕層の医師についてハナシが及ぶと、「それは司法判断に関係ないはずだ」という声が上がる。ところが、弁護士や裁判官の所得は、司法判断に関係ある(所得が高すぎる由)という。

 謎です。

付け加えると、病院の土地、建物も開業医にとっては個人資産になります。地価の高い場所で開業していれば、これだけで、個人資産は1億円を突破します。法人化しても土地、建物を法人の資産に転化することはありません。会計上、院長個人が法人に土地建物を賃貸する形態をとります。ですから法人化しても病院の土地、建物は院長の個人資産のままです。

かなり情報公開しましたよ。内部告発者になったような気分です。。

No.62 元ライダー.開業医さん

>No.61 峰村健司 さん
>自然災害の責任も全て人対人の責任に付け替えるような仕組みになっているのであれば、医療事故を扱ってもマトモな扱いはできないと思いますけどね。

私もそう考えたことがありますが、99人の医師が見落とさないものを見落とした1人には100%の責任があると考えるのが一般的な考え方ではないでしょうか。あくまでも一般的な考え方ですよ。正しいかどうかは私にはわかりませんが。
確かに難しいところですね。まあ100人中99人が見落とさないということであれば、99%の責任があると考える方法もあるんでしょうかね?(100人中99人しか見つけられない病気であれば、99%の責任はありえても100%の責任はありえません)。

しかしその100人中1人の医師が見落とす病気で、見逃した医師が例えば1億円の責任を負うとなれば、その1億円の遺失利益を100人に振り分けて医療費に上乗せしないと、つまり1件当たりあの診療報酬に100万円を上乗せしないと医療崩壊でございます。

No.84 FFF さん

わかったようでわからないのですが、保険診療の報酬が法定価格的に決められてしまっていて、自由な設定ができないいという点は法的に考慮されても悪くないと思うのですが(これはYUNYUNさんのアイデアでは?)

でなければ、保険医を辞職して自由診療をすべし…ということになるんでしょうかね?

ますます貧乏人が苦しむ世の中だぁ…

>しまさん

話題が変わってからのレスですみません。

奈良救急事件での「必須」にはそのような意味合いが含まれているのだとは分かるのですが、他方、なぜなかなかできないようなものが「必須」にしているのかが分かりません

そうですよね。これは「診断には必要」という一般論を言いたいだけであって「必須」という言葉の使い方が間違っているのだと思います。でも間違っているということ自体、私も考えてみるまで分からなかったのですよ。

鑑定書なり、説明文なり書く時には、後者の書き方で書いて頂けないものなのでしょうか。

これからはそうしようとつくづく思っています(笑)。でもこれってこのブログで勉強させていただいて始めて気がついたんですよ。無意識に読み替えてしまうくせがついているので、うーんと気をつけないとなかなか治らないように思います。患者と医師の「言った/言わない」「合併症があることは聞いていたがこんなことになるとは思わなかった」という争いは患者側の無理解(医師はついつい不確実性に対する無理解、と一言で言いたくなってしまうのですが。)というよりは、医師の言葉に対する感覚が原因じゃないかなあと思います。

基本的に
医師:司法はミスを斟酌するべきだ
司法:医師はミスが正当なミス、不可避なミスだという事を立証するべきだ

と言う感じで、堂々巡りに陥っているように思います。

堂々巡りから脱するためには医師側が主張を取り下げるべきではないかな、と思っています。適切な量だけミスを斟酌するなんて、そもそも医療の「不確実性からいっても」無理ですもの。

>No.86 峰村健司 さん
>確かに難しいところですね。まあ100人中99人が見落とさないということであれば、99%の責任があると考える方法もあるんでしょうかね?(100人中99人しか見つけられない病気であれば、99%の責任はありえても100%の責任はありえません)。

そうすると、100人中1人しか見つけられない困難な症例であるにもかかわらず、1%でも責任を負うのは納得できないんじゃないでしょうか。1%とはいえ完全にロシアンルーレットですからね。しかし、割り切ってしまえば納得できるようにも思えます。

最後の段落は仰るとおりかと。

>No.84
 医師の年収が司法判断に影響するのかしないのかに付いてもう少し聞かせていただければと思います。これは司法の側の方がある程度見解を統一していただいたほうが良い部分と思います。
 前段の部分がFFFさんの意見なのであれば、後段の部分はこのテーマにおいては無駄な議論です。話の混乱の元になるだけです。

別に年収がどうこうでなくて、過重労働という背景がまずあって、せめてリスクと労働に見合ったが報酬がありゃ、モチベーション保てるんだけどね。たとえ命張ってでも。という話だと思います。

さすがに時給が最低賃金を割り込んでいたりするのはまずいでしょうが。(私自身、最初の数年は、時給が最低賃金を割り込んでました)

で、過重労働についてですが、国内では24時間以上の連続勤務が普通にありますが、このような状況下では(仮眠を取ったとしても)、飲酒をして診療にあたるのと同程度に判断力が低下しているという論文があり、海外では医療安全上、医師の過重労働を厳しく制限する方向になってきております。

過失の危険どころか、生命の危機をもたらすような違法な過重労働を強いられている医師個人について、寄与率を決定する上で判決では考慮されるのでしょうか?実際に考慮された判決が存在するのでしょうか?

医療側の人間です.
え〜と、上の議論と全然関係ない話なんですが,このエントリーが「理解すべき事」だという事から,司法側の方にお聞きしたいのですが,某ネットワークなどでも
「医師の庇い合い体質」
についてかなり疑念を持たれておられる様なのですが,これは皆様そうなんでしょうか?
「医者は庇い合ってる」と言われても,個人的には余りピンと来ないのですが,これは自分の周囲に限った事なのか,他の医療機関・地域でもそうなのか他の医療関係の皆様お教え頂けますでしょうか?
それから,司法の皆様の意見も頂ければ幸いです.

 後連投になりすいませんが、裁判官の収入云々は高いかどうか具体的な数字はありませでしたが、高いに越したことはないと思います。職責を考えれば当然のことです。他人の給料が高すぎるなどというほど狭量なつもりはありません。みんなで給料が高いほうが良いじゃありませんか。

なんか年収の話に終始してしまっていますね。勤務医からみると開業医は私たちより自由のきく収入があるかもしれませんが、何億という借金も同時に抱えているわけで、一概に開業医は儲けているというのは間違いだと思います。私の知っている開業医も借金を転がしながら、銀行に経営をとられてしまっているところもざらにあります。借金がないもしくは少ない二代目三代目の開業医ならそれなりの収入があるかもしれませんが、開業医が儲かっていた時代はバブル期ぐらいまでではないでしょうか。勤務医はまず、勤務医になるまでに(一人前になるまでに)丁稚奉公でほとんど収入にならない時代があります。35歳ぐらいまではヒーヒー言っているのではないでしょうか。研修医、大学院、留学といった無報酬時代をくぐり抜け卒後10年ほどしないと生活は楽になりません。その上、勤務医は2-3年おきにて勤務地が変わるため退職金はほとんどありませんし、年金だって微々たるもの。生涯収入から考えると、一流大学に入って一流企業に勤めた方がよっぽど収入になりますよ。儲けようと思って医師になる人は少ないと思います。それだったら医学部なんか行かず起業した方がまだ将来があるし、それ以外の使命感があるからこの道を目指すのではないでしょうか。富裕層に医師が多いというのは私立病院(診療所ではなく)の創業者一族などは富裕層になるでしょう、ただ借金も莫大でしょうが。他業種の企業の創業者一族みたいなものでは、あくまで想像ですが。ただ、医師は結構見栄っ張りが多いから無理して借金してベンツ買う人もいますよ。

No.89 元ライダー.開業医さん

そうすると、100人中1人しか見つけられない困難な症例であるにもかかわらず、1%でも責任を負うのは納得できないんじゃないでしょうか。1%とはいえ完全にロシアンルーレットですからね。しかし、割り切ってしまえば納得できるようにも思えます。

まず、道義的な責任ということであれば、1%くらいは感じてもいいんじゃないかなと思います。それを糧に次回もしかしたら見つけるぞというモチベーションに変えて頑張りましょう。

次に、金銭的責任ですが、もしその見落としについて1億円の遺失利益があるとすれば、その1%の100万円ですか、それがやはり医療費に上乗せされているのであれば、それはそれでやっぱりいいかなとも思います。

まー法廷でこういったアタリマエの計算をするしくみになっていないあたりが、そもそもダメなんですよね。

>No.84 FFF さん

わっかていて言っているのだと思いますが、マジレスすると、

”医療過誤訴訟において「医師が低賃金であること」を斟酌した司法判断をせよと”

と言っている医師と

”その一方で、平均年収とか富裕層の医師についてハナシが及ぶと、「それは司法判断に関係ないはずだ」という声が上がる。”

と言っている医師は違うのです。

これは医師それぞれの立場の違いではなくて、考え方の違いです。

弁護士さんだってこの点では、少なくとも地方の弁護士さんとFFFさんの考え方は違うんじゃないでしょうか。

>弁護士や裁判官の所得は、司法判断に関係ある(所得が高すぎる由)という。

これは誰も言っていないと思いますが、

> No.82、No.85 元ライダー.開業医さん

詳しい説明ありがとうございました。医療法人になるために数年間の病院の経営実績が必要というのは知りませんで、勉強になりました。

>No.92 felis さんさま
100人中99人が侵さないミス(1%の確率で起こるミス)について意見を求められれば、医師は多くの場合「仕方なかった、ありうることだ」と答えます。(100回やれば一回くらいやってしまいそうなこと・・なんでしょう?鎖骨下動脈からのIVH挿入で血(or)気胸を作るとか?)1/1000回でもそう答えると思います。それは「普通はやらないし、やっちゃいけないことだし、これまで自分がやったこともないけれど、どんなに気をつけていてもいつ自分がやってしまってもおかしくないのだ」という不確実性に対する理解ゆえでしょう。
でもそれは他業種からすればかばい合いと映るのではないでしょうか。99%あるいは99.9%は安全にできているものが、ミスじゃなかったなんていえるものか、普通はそう思いますよね。

>No.92 felis さま
(肝心なことを書き落としました)
いわゆるミスや過失を嘘をついてまでかばうというのは見たことはないし、普通ありえないように思います。看護師も含め大勢が見ていますからね。

>absinth様

 ってか、この論文・・・。鎖骨下で3%、内頸で0.5%っていったい・・・。あ、研修医レベルを含めてなのかな?

あ、読み間違いでした。失礼。

>No.97 FFF さん

もっと正直に言うと数年というのは1,2,3年程度の数年です。でも、診療科の特性もありますが、スタートダッシュで、かなり儲かる診療科もあります(そういう診療科は早期にジリ貧になることが多いのですが)。そのときに所得を捕捉されるとかなり目立ちますし、平均値を押し上げます。

何はともあれ、平均的な開業医は捕捉された所得の半分程度しか可処分所得が無いというのが給与所得者との違いであるということが最もわかっていただきたい事です。

※捕捉所得1億超の勝ち組は、私の説明に当てはまらないと思いますが、

> No.90 地方公立病院勤務医さん

 私が知る限り、「医師の年収が高いこと」を理由として、要求する注意義務の水準を高くした裁判例はない、ということです。収入と過失の判断をリンクさせるという発想自体があり得ない。原告も、弁護士が代理人でついていれば、そんな次元の低い主張はしないと思いますけど。

 他方、医師の方の一部には、そうではない、つまり、「医師が高収入であるという誤解に基づいて不利な判決を受けている」という印象をお持ちの方がいる、ということでしょう。もちろん、「判決文には書いていないけど、裁判官が内心でそのようなことを考えて判決したに違いない」という推測も、自分から見れば馬鹿馬鹿しくて話にもならないけれども、論理的に不可能ということではありませんので、そういう印象論を止めさせる術は私にはありません。人は自分が信じたいものを信じるものですし、「トンデモ判決が医療を滅ぼす」とか「患者側弁護士=悪徳」というキャンペーンを手段を選ばすやっていこうという医師の方も複数おられるようですから、何とも何とも。

> No.96 元ライダーさん

 前段については御指摘のとおりです。

 後段については、その主張をしていたのはあのお方(食欲抑制剤氏)だけでしたね。失礼しました。

No.96 元ライダー.開業医さん
>弁護士さんだってこの点では、少なくとも地方の弁護士さんとFFFさんの考え方は違うんじゃないでしょうか。

おそらく、違わないと思います。FFFさんは「医師の年収が高いこと」を理由として、要求する注意義務の水準を高くした裁判例はない(No.103 )と述べているとおり、過失の有無の判断の場面において述べているのだと思います。私が述べたのは、医師に過失があることを前提として、損害額を医師と患者で公平に分担しようとの場面において、医師の年収が高いことが消極事情として作用することがあり得ること又運動論ベースにおいて上記感覚が消極事情として作用する可能性を指摘しただけで、FFFさんもこの点異論はないのではないかと思います。

収入云々でなくて・・
脳性麻痺訴訟において医師の掛けている保険等を考慮し払えそうな範囲内で、補償的意味合いの判決はあると思います。
子宮収縮剤による過強陣痛で・・というのもありますが、これはどの産婦人科医が見ても不可抗力だろうというのもあります。
行政が一定確率で出生する障害児を扶助する制度を完備していない以上、国家補償の代用として「医賠責あるでしょ。そこから養育費出してあげなさい」的判決は、仕方ない部分もあるのかな、なんて個人的には思います。
でも訴訟した人しない人勝訴した人棄却された人で不公平だと思います。
そこで無過失云々保険が創設されるようですが、「無過失・・保険で得た資金を原資に訴訟を起こすのもアリだ」なんて団体・ごく一部の弁護士の発言を聞くと「負けてもいいか・・」なんて発想は捨てなければいけないのかと考えたりもします。

あ、医師側の足猛烈に引っ張ってしまったかも知れません。

皆様、おはようございます。

私は年収と裁判の結果は相関しないと思っています。司法はそれくらいの判断力はあると信じています。

それより、ほかの方もおっしゃってるように医師が長時間労働をして判断力を失っていたことが、医療事故訴訟でいままで以上に考慮されるべきだと思っています。

医者側としては自分の治療は正しいと思っているので、そちらのほうを裁判の論点としていきたいのですが、実際は医療訴訟の患者側や裁判官にその妥当性を納得させるのは非常に難しいということが、このブログでの討論でわかってきました。

本当は「疲れていたから」なんて「逃げ」の言い訳のようであまりしたくはないけど、今後の裁判はそういう「労働環境」や「その原因となった医療」を争点にしていくことになるのではないかと思っています。

本当は医療の妥当性をきちんと論争するべきだとは思うのですが・・・。

No.92
医師に限らず、法曹界でもいわゆる業界という中では、どの業界に対しても「庇い合いがあると思う」というその感覚は普通のことのように思います。
それは簡単に言えば、相手(業界)とそれ以外の人との常識・実態認識(裏の裏を知っているが故に)にずれがあるからではないかと考えます。
積極的庇い合いでなくても、知っていることを明らかにしない消極的庇い合いもあるでしょう。
医学に限らず、同じ学閥系統では何がしかの影響があるとかなんとか、そのようなものをひっくるめてのものかと。

お初にお目にかかります。
地方医学生をしているvisitorと申します。

ここ半年ほどROMに徹しておりましたが、議論を拝見している上で、一つだけどうしてもよく分からないことがございましたので、こちらで質問させていただいてもよろしいでしょうか?(もしかしたら、医療と司法の認識の相違にかかわってくることかもしれませんので)

裁判において、鑑定医の言葉にはよく「90%(例えです)の確率で予見可能であった(または救命可能であった、でもいいです)。」という一文がありますが、この言葉が指している意味がいまいちよく把握できません。

平均的な能力を持つと考えられる医師が、当時示されていた所見やデータから診断できる(または救命できる)可能性は90%だったという意味。つまり、平均的な能力を持つと考えられる医師A、Bの2人がいた場合、Aは二回目で誤診(裁判上過誤・過失を問われる診断という意味で)もしくは救命できなかった、Bは七回目で誤診もしくは救命できなかったというように、純粋に確率論的に分散する事象であるという意味。

あるいは、

全医師の90%は生涯その疾患の診断、または処置に関してほぼ100%に近い確率で正しい(裁判上過誤・過失を問われないという意味で)診断または救命行動を取れるが、残りの10%の所謂レベルの低い(裁判上、上記90%に入らないという意味であり、医療を行ううえで必ずしも能力が劣っていることを意図していません)と考えられる医師ではほとんどの場合で正しい診断または救命行動を取ることが出来ない

というどちらの意味で用いられているのでしょうか?またあるいは、全く別の解釈で用いられているのでしょうか?

自分が過去ログを読んだ範囲では、文脈によって両方の意味で使われているようで、いまいち理解できませんでした。

期待値として上記二つは同じことであっても、その意味合いはかなり異なってきますので、どなた様かご存知の方はどうかご教授くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

もし既出の事でしたらお詫びいたします。

答えるほどのことではないかもしれませんがその際には、医療関係の方々はポリクリの学生がまた馬鹿な質問してきたよ、と笑って流していただければ幸いです。司法関係の方々は(一纏めにしたら怒られるかもしれませんが、よい呼び名が分かりませんのでご容赦下さい)医学生にはこの程度のレベルの者も極稀にいるかもなあ、と流していただければ幸いです。そのほかの皆様におかれましても、とりあえず流していただければ幸いです(笑)。

本旨より蛇足が長くなってしまいましたが、この議論に参加するのは本当に本当に勇気がいることですので(汗)、無知な者の自己防衛と思ってご容赦下さい。

所属医局のサイト更新をしないといけないのですが、現実逃避中です。

No.103 FFF さん
 前段は全く同意です。保険金額がどうのという判断もあるとは思えません。

 後段ですが、『「トンデモ判決が医療を滅ぼす」』『というキャンペーンを手段を選ばすやっていこうという医師の方』に私も含まれるかと思ったので一応補足します。
 「手段を選ばず」はあり得ませんね。また、外野で騒ぐことが裁判官の心の持ちように影響する可能性があると考えられるからこそ、モトケンさんはかの名エントリ「藤山雅行裁判長のお話」について(その1)(その2)町村先生へ (医療崩壊問題に関して)、などを書かれたのではないかと思うのですが。

 今ブログの工事中ですので皆様のコメントをじっくり読んだわけではないのですが、どうも司法ないし司法判断に対する決め付けまたは固定観念的な見方が多いように思われます。

 医療側の皆さんは、医療の不確実性を強調されていますが、実は司法だってそれほど確実性が高いものではありません。
 
 これまでの膨大な数の判例の積み重ねによってようやく確立されてきた基準が多いのです。
 現在ですら、「これからの判例の集積がまたれる。」と学者がこぞって指摘するような領域や問題がいくらでもあるのです。
 そのような領域の司法判断ははなはだ不確実です。
 意味は少し違うかも知れませんが。

 また、これまでさんざん指摘してきたことですが、それまで判断が安定していると思われていた問題についても判例変更はいくらでもなされるのです。
 まして医療過誤裁判はまだまだ安定しているとも言えない段階だろうと思われます。
 つまりこれからいくらでも動く可能性が高いのです。

 同じことを繰り返すのがいい加減に疲れているのですが、福島の大野病院事件で産科医が起訴されたからといって、今後同様な事件を検察が起訴するとは限らないのです。
 大野病院事件の判決が有罪であろうと無罪であろうとです。
 検察上層部または大多数の検察官が、大野病院事件は起訴すべき事件であったと考えるならば、大野病院事件が無罪であろうと同様の起訴は続きます。
 地裁の判決一つくらいで方向を変えたりしません。
 逆に、大野病院事件を起訴した福島地検の判断には問題があったと思っていれば、仮に大野病院事件が有罪になったとしても今後の起訴は極めて慎重になります。
 そして私の現時点での認識は後者なのです。

 私は先に、医師が変わるべきだと書きました。
 変わるというのは、180度変わることだけを言うのではありません。
 わずかな変化でもそれが継続し、また拡がっていけば大きな変化につながります。
 
 今までものを言わなかった医師が一言でも発言する。
 司法のことを少しは理解しようと考える。
 医療のことを理解してもらおうと少しでも努力する。
 今までの自分の認識や考えは正しかったかと再考する。

 これだけでもとても大きな変化に繋がります。

 もちろん、同様のことが司法側にも言えます。

 相互理解とは、相互変革であると考えます。

 元検さん。この部分チョット賛成できません。
「医療側の皆さんは、医療の不確実性を強調されていますが、実は司法だってそれほど確実性が高いものではありません。」
  医療と司法において,その判断の結果がでる(/だす)までは,不確実という点では全く同じです。司法もどちらを勝たせるか,判断を下すまで分からないからです。
 しかし,判断のもととなる資料の扱いについては全く異なります。医療では前提となる事実を不確実のまま,暫定的に判断しあるいは手探り状態で臨むことさえあります。そのうえ不測の事態にも備えておかなければなりません。さらに,その結果が悪ければ,当事者の目の前で事実が発現します。(陸戦的結果の発現=目前に血液や死体が存在する。)
 一方,司法では「歴史的事実」を確定した上で判断を行ないます。事実認定がなければ,判断はできないはずです。さらに民亊でも刑事でも行政でもそうですが,司法の判断者は,その判断結果を現実に目にすることはありません。(海戦/空戦的結果の発現)
 もちろん,建築訴訟なども陸戦的ですが,医療との相違は〃築は請負契約であること,∋実が証拠としてぶれないこと(その解釈については争いがありましょう),B山欧稜定が比較的容易であることなどを挙げておきます。

No.109の私のコメントは、No.34の太郎冠者様のコメント(しかも直後にご自身によりスルー宣言されたもの)に一部重複するものでした。

気をつけていたつもりだったんですが大変失礼いたしました。心よりお詫び申し上げます。


No.111 のモトケン様のコメントは、無知で脈絡を無視した発言をした私にも向けられているかとは思いますが、私がNo.109で質問させていただいた内容は、決して医療側からの不確実性だけを強調したくて発言したものではないのです(現在のコメントからだけでそう取られてしまう内容かもしれませんが・・・)。私の目標は、医療と司法を学び、どうやったらお互いにとって建設的な未来を築けるか(学生だから前向きです)なので、どなた様かご存知の方がいらっしゃいましたらどうかご教授くださいますよう、重ねてよろしくお願い申し上げます。

唐突に思ったんですが司法的に「合併症」という概念は存在するのでしょうか?

たとえば内視鏡の処置に伴い重大な事態に至る可能性はだいたい数千人に一人といったくらいのオーダーです。
ERCP後に膵炎を発症し患者を死亡させた場合「99.9%の医師が起こさない結果を引き起こした」=重大過失を認定ということがあるのかどうか?

「医療事故」「医療ミス」「合併症」といった用語をマスコミはあまり区別せずに使っていますが、司法の現場ではどうなのでしょう?

>pataro さん

 事実認定そのものが、本来的に不確実なのです。
 刑事では疑わしきは被疑者・被告人の利益にという大原則があり、起訴前に検察官が多くの不確実な事実認定しかできない事案を不起訴にしてますから刑事裁判では確実に見えるかも知れませんが、それでも医師によって判断が分かれるのと同様に裁判官によって判断が分かれる場合があります。

 村岡元官房長官の高裁逆転有罪判決を見ればご理解いただけるのではないでしょうか。
 民事の事実認定は刑事よりも裁判官によって異なってくるように思います。

 ただし、不確実さの程度と頻度は、相当違うとは思います。
 
 裁判官の判断というものが、医療側の皆さんが思うほどには確実でも固定的でもないということが言いたいわけです。

>visitor さん

 私のコメントはvisitor さんのコメントを念頭においたものではありません。

>モトケン様

申し訳ございません!
初書き込みで自意識過剰になっていました(汗)・・・。気長にお待ちしております。

>visitor さん

>裁判において、鑑定医の言葉にはよく「90%(例えです)の確率で予見可能であった(または救命可能であった、でもいいです)。」という一文がありますが、

 鑑定医が「90%の確率で救命可能であった。」などと言った場合、その意味は鑑定医に聞いてみないとわかりません。
 そのために証人尋問を行います。

 問題は、その証人尋問の際に、お互いに日本語を使っていると思ってはいけないことではないでしょうか。
 ここで医療側の皆さんが繰り返し述べているように、司法側特に裁判官に、鑑定医が言っている言葉の意味ないし趣旨が伝わるかどうかが確かに問題であると思います。

 医療側の言いたいことと司法側の聞きたいことの間に相当ずれがあるように思われます。

 今、刑事医療過誤業過における過失とは何なのか、ということを考えています。
 必ずしも考えがまとまっているわけではありませんが、「正しいことをやらなかったから過失がある」という論理ではダメなように思います。

>モトケン様
 「事実認定そのものが、本来的に不確実なの」点はわかります。しかし,条文という大前提に「小前提」である事実を確定しない限り,法的判断は下せないでしょう。事実認定が現実に不確実であったとしても,これを確定させるプロセスが訴訟法上求められているのではありませんか?
 いっぽう,医療の方は行動決定の際に,事実認定を確定させないのです。確定する場合もあるのでしょうが,確定させることじたいが危険な判断につながることもあります。モトケンさんのいう「事実(認定)が本来的に不確実」な状態をありのままに受け入れた上で,診療決定するのです。医療の方は不知のまま判断を留保しつつ「生体」という自然現象に臨むという方法論をとっているのではないでしょうか。
 司法判断ではこういったことはできないと思いますよ。だからこそ3回チャンスがあるのでしょう。誤判があってもよいように。でも医療の方は1回勝負ですよ!そう思いませんか?
  「裁判官の判断というものが、医療側の皆さんが思うほどには確実でも固定的でもないということが言いたいわけです。」この点は全く賛成です。判決は,一種の仮説でしかないわけです。
 

モトケンさん,揚げ足を取るようでごめんなさい。
 「今、刑事医療過誤業過における過失とは」「業務上必要な注意を怠った場合」です。でも,こんなことを考えながら診療すると診療できなくなりますヨ〜。 「業務上必要な注意」ってなんなんだろうって。
 例を挙げてみます。医療側が不満対象にあげている「添付文書」についてです。以前は,医師のおおくは添付文書を読んでいなかったと思います。でも,いまは読んでいますね。添付文書の内容を医学知見として身に付けていることは,「業務上必要な注意」のひとつといってよいのではないでしょうか?それとも「業務上必要な注意」として括ってしまうと厳しすぎるのかな?どうなのでしょう?

>pataro さん

 私は、医療の不確実性については何の異論も述べていませんよ。
 司法にも不確実なところがあると言っているのです。

>事実を確定しない限り,法的判断は下せないでしょう。

 この「事実を確定」という言葉を、「事実の存在を積極的に認定する」という意味でお使いなら間違いです。
 訴訟においては、事実が確定できない場合があるということを当たり前の前提として制度設計されています。
 立証責任という概念がそれです。
 事実の存在が確定できない場合はないものとして扱うという考え方です。
 裁判というものは、どんな場合でも結論を出さなくてはいけないという大前提があるのでこういう考え方を採用しているのです。
 ここが司法と医療と根本的に違うところかも知れません。

 何度も言っていますが、医療側の方は司法側に医療を理解させる努力をしていただくと同時に、司法を理解する努力もしていただきたいのです。
 自分が今理解している司法に対する認識が正しいとは限らないという自覚を持っていただきたい。

>No.120 pataro さん

 医療過誤業過で問題となる「業務上必要な注意」とは、平ったく言えば、「医師として通常払うべき注意」です。
 まさか、その程度の注意を払わずに医療行為をしているわけではないでしょう。
 理論的には「医師として通常払うべき注意」を払っていれば過失はないというべきですが、「医師として通常払うべき注意」の内容について、検察官と医療側の間に大きなずれがあるのが大野病院事件だと思います。
 これは事実認定ないし事実評価の問題です。

 医師としては医薬品の添付文書を読むことは当然の注意義務だと考えます。読まないのは論外でしょう。

>以前は,医師のおおくは添付文書を読んでいなかったと思います。

 これは驚きです。

 

No.84 FFF さんのコメント について。

私自身がそのような考えを持つわけではないのですが、必ずしも両者が矛盾しないであろうということで。

> 一部の医師の方は、医療過誤訴訟において「医師が低賃金であること」を斟酌した司法判断をせよと仰る。

>  その一方で、平均年収とか富裕層の医師についてハナシが及ぶと、「それは司法判断に関係ないはずだ」という声が上がる。

東大梅毒輸血事件などにおいて医師に要求されるとされている高度な注意義務について、一部学説はその正当化根拠のひとつとして、以下のような政策的観点を挙げています。

・医師が責任保険に入るほうが被害者に自衛手段を求めるよりも効率的であり、医師にはコスト分散の手段もある(被害者救済の観点)
・医師に責任を負わせる方がより注意深くなる(事故防止の観点)
(内田『民法II』第2版p.326)

さて、このうち前者の被害者救済の観点については、たとえ理念的に「効率的」であったとしてもそれが実際にはあまりに過酷な責任を医師に負わせるものなのであれば、結果として実効的な被害者救済をもたらさないことになりかねず、正当化されないのではないかと思います。
つまり、医師の収入が医賠責の保険料に耐えられないほど低いのであれば(医賠責の保険料が医師の収入に見合わないほど高いのであれば)、現在の多くの判例における注意義務の水準は正当化根拠のひとつを失うということになります。
このことは過失の認定の局面における議論ですから、逆に医師の収入が高ければ注意義務をさらに高度にしようということにはかならずしもなりません。
少なくとも、「医賠責の保険料払ったらやってけないくらい」の水準をふまえた医師の収入に関する片面的(低い方だけ考慮する)な考慮は成り立たなくはないかと。

>モトケン様

大変お忙しい中ご教授いただきまして、誠にありがとうございました。尊敬するモトケン先生本人にコメントをいただき感激するのと同時に、先生自らのお手を煩わせてしまい汗顔の至りでございます。

>鑑定医が「90%の確率で救命可能であった。」などと言った場合、
>その意味は鑑定医に聞いてみないとわかりません。
> そのために証人尋問を行います。

>問題は、その証人尋問の際に、
>お互いに日本語を使っていると思ってはいけないことではないでしょうか。

大変勉強になります。

同じ表現を用いた鑑定書(鑑定書に限らず、全ての証言、証拠等も)でも、証人尋問の方法次第ではいくらでも解釈の仕方があり、それを立証する責任がある、ということだと読み取りました。

>ここで医療側の皆さんが繰り返し述べているように

先生の仰るとおり、この質問の仕方では今まで何度も繰り返されてきた内容と同じだったかと存じます。大変お手数おかけいたしました。

今回私が、裁判においてよく用いられる「〜%」というフレーズを特別に取り上げましたのは、先生にご指摘いただいたの事を踏まえた上で、過去の判例でこの言葉が私が過去ログから解釈したNo.109の,發靴は△琉嫐で用いられていたとしたら、「司法と医療の相互理解」に関して自分なりに考える点があったからです(無論、学生レベルの話で、ですが・・・)。もう少し考えてから、後ほど書き込みさせていただきたいと思います。

また、この言葉の解釈について他の皆様にもご意見伺いたいと願っておりますので、もしお相手してくださる親切な方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします!

No.122 モトケンさん

>以前は,医師のおおくは添付文書を読んでいなかったと思います。

 これは驚きです。
私もちょっと驚きました。モトケンさんが驚かれたことに対して驚いています。

現実問題として、自分が出した経験のある薬全てあるいは大部分について、添付文書を読んだ経験のある医者は少数ではないかと思っています。

>峰村健司 さん

 自分が投薬する薬の効能と副作用(どっちも同じだと思いますが)について、添付文書以外の情報源によって必要十分な情報が得られているのなら問題はないのかなと思いますが、素人が聞いたら、大半の素人は「そんなことでええんかい。」と思うんじゃないでしょうか。

 医師は、薬のプロでもあると思ってますので。

 私は、売薬の添付文書(?)を読んだことはほとんどありませんが。
 せいぜい箱に書いてあることを読むくらい(^^)

医療側の者です.

能書(添付文書)については,峰村健司氏同様,私も殆ど読んだ事無いです.
薬理学を基礎とした薬効とその投与法,主な副作用や注意点など,薬理学的知識並びに教科書等による知識を元に投薬しています.
能書を読むのは,経験した事無い様な訴えとか、(主に英語の)教科書に載っていない薬を使うとき,本邦での保険適応下にある投与法・投与量を確認する時くらいでしょうか.

これも意外に知られていない事なんでしょうね.
所で,能書(添付文書)を読んでいるか/いないかは,控訴の動悸付けや判事の判断に影響を与え得るものなのでしょうか?
例えば,治療中に不幸にも重篤な副作用や致死的なものが予想外に起こってしまった場合,
「添付文書に記載があり,十分な注意を払うべきであった」
とか(すいません,この言いようも思い込みでしょうか?).

すみません.追加です.

能書ですが,教科書にも載っている様な副作用については,私に限らず,大抵の医師は事前に説明すると思うのですが,どんな薬にも半ば定型的に書かれている内容にも結構重篤なものがあって,正直そこまで説明が必要となると,
「添付文書をお渡ししますので,読んで下さい.分からない所は薬剤師さんにお聞き下さい」としか言えないのですが・・・

>felis さん

 理論的には、読んでいても読んでいなくても結果は変わらないということであれば裁判には影響しないが、読んでいれば結果が避けられたということであれば過失認定の根拠になると思います。

 ただし、検事も裁判官も医療の素人だと思ったほうがいいでしょう。
 読んでないと言うと、少なくともびっくりする可能性はあります。
 まともな法曹なら、びっくりしただけでは判断を左右しないと思いますが。

調子に乗ってもう一つ.

「不確実性」についてですが,医療の場合は「確率的な不確実性」ですが,
司法の場合は「流動性」なのではないでしょうか?

モトケンさん

言われるとおり大方の患者さんは、医者だったら添付文書はよく読んでいると信じていてもおかしくないと思います。全くこのギャップは非常に深刻です。

添付文書をめぐる話も過去にだいぶ話題になっていましたが、正直なところよく分からなくてスルーしていました。

薬に関する情報は、重要な副作用については実地で上級医に教えてもらったり、緊急安全情報を目にして知識を積むのが一般的だと思います。細かい副作用についてはそれこそキリがないので(どんな薬でも何が起こるかわからない)、添付文書を見てもあまり役に立たないと感じています。普段処方しない薬を処方する場合に添付文書やそれに準ずる本を参照することはよくあります。

患者さんにはよく「副作用はありませんか?」と訊かれますが、そのときは「いやぁ、副作用が絶対に起きない薬はないですよー、薬と毒は紙一重ですからねー」と答え、「どんな副作用がありますか?」と訊かれれば、勿論重要なものは個別に答えますが、それ以外については「言い出すとキリがないですけど、いいですか?」と答え、続けて「結局、薬を使うときはそれなりに覚悟を決めて使うしかないんですよぉ」と畳み掛けています。

先ほど仕事からの現実逃避中に判例集を探っていたら、わりと最近出た藤山判決があって、これがまた添付文書をめぐる争いを含むヘビーな判決でして、仕事が終わったらさらに検討してみようと思っています。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070508163032.pdf

医療裁判の判決において、医療行為の当否についての判断がおかしいと感じる場合でも、おかしい判断を下したことについて裁判官を批判するのはやめるつもりだったのですが、ちょっと藤山さんについてだけはそうはいかないかもしれません。

>No.128 felis さん

医療側と名乗りを挙げられても、不勉強は自慢できるものではありません。

医師であるなら、毎年『治療薬マニュアル』は買い換えて知識の確認をするべきです

馴れた薬であっても、他の薬との組み合わせでは副作用はないのか、腎機能低下例ではどうか、、、等々、毎年買い換えないと怖くて処方などできないと思っています

自分の処方する薬は熟知していても、他院で処方された薬、ゾロなどは調べずに継続するだけでは、前医の間違いをそのまま引き継ぐことに成りかねません。

司法に対する攻撃(問題点の指摘)も大事ですが、防御(自己の弱点の克服、理論武装)も欠かせません。

私も、若い医師に限らず『今日の治療薬』や、院内約束処方手引き程度で仕事をしているのを見ると、驚きを通り越して、若い医師ならたしなめ、年配の先生であれば、仕事を奪う(処方以外の仕事をお願いする)ことになるでしょう

悪しき習慣から抜け出ないことには、司法に対する顔向けができないことも、やはり心得て置くべきと思います。

まあ、馴れた薬など数十種類に集約されるので、それなりに仕事になるのでしょうが、それでも、自慢すべきことではありません。

モトケン様
ご返信,感謝致します.

>理論的には、読んでいても読んでいなくても結果は変わらないという
>ことであれば裁判には影響しないが、読んでいれば結果が避けられた
>ということであれば過失認定の根拠になると思います。

治療の際は添付文書以上の内容を元に治療していますから,治療やそれに付随する副作用(e.g.,鎮静薬や抗コリン薬による眠気)に関して言えば「結果は変わらないの」のでしょうが,それ以外の要因で「読んでいれば結果が避けられた」というのは,どの様なものが想定されるでしょうか?
峰村先生ならびに他の先生方,御教授頂けるでしょうか?

ついでに,峰村先生,判例ご呈示感謝致します.
正直,これを読んで何が何やらさっぱりです.
カンファレンスなら,「もっと分かり易い様にやり直せ」って言われそうですが,この文章から意味あるものを読み取る能力というのは「司法・法律の感覚・嗅覚」とでも言うものなのかなぁなどと思ってしまいます(揶揄でなく).

ps.
Med_Law先生
誤解を抱かせる様な書き方をして申し訳ありませんでした.
勿論,「今日の治療薬」は毎年買い替えておりますし,且つ,当院での使用薬(約2500)は適応からジェネリック・薬価までファルメーカーに打ち込んで毎年変更箇所を訂正しております.薬剤情報や厚生省からの通知もその都度更新しております.また,薬剤使用の際はGoodman&Gilmanを参考に行っており,その上で必要な場合に能書を参考にしているの意味です.
ご寛恕頂ければ幸いです.

>モトケン様

 医師としては医薬品の添付文書を読むことは当然の注意義務だと考えます。読まないのは論外でしょう。

>以前は,医師のおおくは添付文書を読んでいなかったと思います。

 これは驚きです。

 現実問題として、添付文書を読み、「その内容を覚えておく」というのが不可能だという事情があるのですよ。現在日本で発売されている薬剤はジェネリックを除いても数千種類有り、外科のように薬剤治療が中心ではない分野でも、日常的に使用する薬は100種類ぐらい有ります。その上、添付文書は一端薬が出されたら不変というものではなく、適宜改訂されてきているのですよ。

 で、どうするかというと、添付文書を読むのではなく、最小限の情報(主立った副作用、主立った相互作用)をまとめた「今日の治療薬」であるとか「治療薬マニュアル」であるとかを常時手元に置き、それを参照しているわけです(おそらく「今日の治療薬」は日本でもっとも売れている医学書かと・・・)。

 pataro様がおっしゃっているのは、このことを指して「日常使用する薬の大部分について添付文書を読んだことのある医者は希である」と言っているのであって、薬の副作用、相互作用に医師は全く気を留めていないという意味ではないと思います。

 当然ですが、重大な副作用はある程度頭に入っていますし、「やばいな」と思えば「今日の治療薬」ないし、場合によっては添付文書そのものに当たることはあります。

 私は峰村様のおっしゃる「自分が出した経験のある薬全てあるいは大部分について、添付文書を読んだ経験のある医者」ですが、私のような医師はどちらかというとマニアックだと思われます。なにせ、知っておかなければならないことは薬の問題だけではないので。

 薬の添付文書の内容は、医師にとって「ある程度必要ではあるが、最低限覚えておかなければならない知識ではない」と言うことをご理解頂ければ幸いです。

http://www.info.pmda.go.jp/ で添付文書はすべて読めますし、オーダリングシステムで添付文書情報が参照できるものはいくらでもありますので、自分が使用する薬剤のほとんどに一度は目を通しています。出先でもジェネリックでなければ、PDAに『今日の治療薬』が入っているので疑問に思えば(主に保険適応を)チェックできるようにしてあります。あとは緊急安全情報も、「緊急安全情報が出ていても使わざるを得ない」場合には、実際の症例報告を読んでリスクを評価して使用を継続するか判断しています。ただし、それで診療に役立つかどうかは全く別の話で、主に禁忌、保険適応、重大もしくは頻度の高い副作用、薬理作用、血中濃度の推移などをチェックしますが、「役に立つこともあるが、他のソースで誤りがないか確認は必要」な程度の信頼性しか無いのが実情です。

問題となるのは添付文書の隅っこに書いてあるような極めて稀な合併症がおきたときで、もし添付文書を読んでいない云々が司法の場で問われるならば、異常が起きているのに薬の副作用を疑わなかった(疑っていれば添付文書をあたるでしょうから)ことであって、日常業務において添付文書を読みながら仕事をしていないこと、ではないですよね?
「医師として通常払うべき注意」というのはこの場合、処方の前には必ず添付文書を読むこと、ではなく、何らかの異常があった場合に薬の副作用を疑い添付文書にあたること、であってほしいのですが・・。
そうでないと、例えばルーチンの検査では行われないような検査データの異常をきわめてまれに示す薬があるとして、それが普段使われるマニュアル本ではなく添付文書のはじっこにちいさく載っていた場合でも、その異常が出る可能性をも考え、普段行わないその検査をしなくてはいけないことになってしまいます。

>absinth(医師)さん

>「医師として通常払うべき注意」というのはこの場合、処方の前には必ず添付文書を読むこと、ではなく、何らかの異常があった場合に薬の副作用を疑い添付文書にあたること、であってほしいのですが・・。

 残念ながら、司法の基本的な考え方では取りえない論理でしょう。
 司法的には、避けられる結果は避けるべきである、という論理です。
 たぶん医学的にも、同じではないでしょうか。
 異常が生じた場合に、その原因が明らかになればいいというものではありません。

 裁判官は、少なくとも添付文書に書いてある程度の副作用情報は事前に知っておくべきだと考えると思います。添付文書を読む読まないにかかわらずです。
 添付文書に書いてある程度の情報は一般的な、その意味で平均的医師が知っているべき情報と思われるからです。

 しかし、だからといって

>その異常が出る可能性をも考え、普段行わないその検査をしなくてはいけないことになってしまいます。

ということにはならないと考えます。

 もしそうであれば、添付文書を読む読まないにかかわらず、勉強熱心な医師であればあるほど、ほとんどありとあらゆる検査をするべし、ということになりそうですが、さすがに平均的裁判官はそうは考えないと思います。
 本来、非現実的な話は過失の根拠にはなしえないからです。

 もっとも、非現実的かどうかについての考えが医療と司法とでずれているかも知れませんが。

1点だけ説明しておくと、平均的な裁判官は書類・証拠というものを読むことに関しては、それがどんなに分厚い記録であっても、どんなに小さな文字で書かれていても、尋常ならざる注意力をもって読む習性があります。
だから当事者でも弁護士でも検察官でも気付かないようなことを指摘することがよくあります。
それがレトロアクティブと言われようが、証拠であり自分の判断を支える以上、裁判官としては当然のことかとは思うのですが、それでも舌を巻きます。

レトロアクティブ→レトロスペクティブでした(^^;

>自分が投薬する薬の効能と副作用(どっちも同じだと思いますが)に
>ついて、添付文書以外の情報源によって必要十分な情報が得られてい
>るのなら問題はないのかなと思いますが、素人が聞いたら、大半の素
>人は「そんなことでええんかい。」と思うんじゃないでしょうか。

モトケンさん,
こういった情報はほとんどが,雑誌の特集や論文や学会の講演などから得られます。また,初級医は上級指導医から教えられます。
それ以外ではある意味では効能書きのもう少し簡易版になるでしょうか,各病院にある薬剤をまとめた本をみることもあります。普段使い慣れない薬剤を使用する時にはこういったものをみることも時にはあると思います。
効能書きには,用法,禁忌や注意,の他に薬剤の構造や物理化学特性,薬物動態学的挙動などが書かれていますが,後半のほとんどは実際の臨床をやっていく上でほとんど必要ないものです。

これまでにも書かれていますが,厚労省が認めた以外の使用方法に関しては医学的には諸外国で「当たり前」の使用法であっても「注意」とか「禁忌」とか書かれていることもあります。妊婦や小児は治験対象になることはほとんどありませんので,効能書きに但し書きなしに「使用可」と書かれていることはないのです。効能書きを100%守れば小児科ではおそらく使える薬剤はなくなるでしょうし,我々麻酔科でも小児では麻薬が使えなくなります。
「純粋な医学的使用」と「保険医療上の使用」に大きな食い違いがあることが問題なのです。

薬の添付文書の内容は、医師にとって「ある程度必要ではあるが、最低限覚えておかなければならない知識ではない」と言うことをご理解頂ければ幸いです。

問題は裁判所にご理解いただけるかどうかという点ではないでしょうか。

先ほど仕事からの現実逃避中に判例集を探っていたら、わりと最近出た藤山判決があって、これがまた添付文書をめぐる争いを含むヘビーな判決でして、仕事が終わったらさらに検討してみようと思っています。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070508163032.pdf

私も現実逃避中で判決を読んでしまいましたが、用法が一般的に妥当であれば(できれば文献的に裏付けられていれば)、必ずしも添付文書どおりの使用法でなければならないということはないようです。(でなければ、小児に投与する薬がほとんどなくなってしまうのではないでしょうか。東京地裁民事34部の判決ですので、医療集中部による判決と思いますが確かではありません。)

ところで最高裁判所のホームページ http://www.courts.go.jp/には右上に裁判判例情報というリンクがあり、こちらから過去の判例が検索できるようになっています。ご覧になったことがない方は、一度、ご自身の分野の判例を2,3読まれてみてはいかがでしょうか。例えば検索式にご自身の所属する科名(内科・外科・小児科など)を入れるとヒットしやすいようです。「眼科」[泌尿器科]であれば、さらにヒットしやすいと思います。あまりに多い場合は「医師」など医療訴訟に不可欠な単語をAND検索で追加するとよいと思います。ページ数は多いですが文字が少ないので、1つ10分ほどで読めますので、仕事の息抜きに最適?です。

>No.137 モトケンさん

司法的には、避けられる結果は避けるべきである、という論理です。
 たぶん医学的にも、同じではないでしょうか。

なるほど。理解しました。
しかし薬を投与する以上、合併症が起こる可能性も含みおきのうえであって、それは添付文書を読んでいても避けられないわけですし、現実問題として異常が起きる前から全ての可能性を見張るというのはご指摘のように無理である以上、現実的に問われるのはやはり、事前に読んでいたかどうかではなく異常にたいして添付文書にあたり対処したかどうかであるように思うのですが。
(つまりお聞きしたいのは裁判の場で「事前に添付文書にその記載があるのは知りませんでしたが、異常値がでたため薬の副作用を疑い添付文書にあたり必要な対処をしました、と答えたら心証を悪くするかしら?ってことなんですけど、やっぱりだめなんでしょうね。)

裁判官は、少なくとも添付文書に書いてある程度の副作用情報は事前に知っておくべきだと考えると思います。

添付文書という公式の文書がある以上、一般にはそれは当然のことなのでしょうが、膨大な量の(しかも情報としてあまり役にたたないことが多い)添付文書の情報を「少なくとも添付文書に書いてある程度の」といったレベルで頭に入れている医師は少ないのが現状です。
また
勉強熱心な医師であればあるほど、ほとんどありとあらゆる検査をするべし、

というよりむしろ、保険点数の都合上、不必要な検査とみなされ査定されてしまいます。

ではどのあたりが妥当な線なのか、それは添付文書には書いておらず、口伝と経験に基づいて決定されております。上記コメントでも医師が添付文書を軽んじているような雰囲気ですが、それは決して軽んじているわけではなく実際問題としてあまり役に立たないから、なのです。

「一般的に知っているはず」と非医療者によって認識されていて、かつ医療界においてもそれが理想だとされていることと、実際の普通の医療現場の隔たりの大きさが、医療者が司法の場で自らの仕事の正当性を主張できないひとつの要因であるように思います。

泌尿器科医師です
モトケン様

医療関係者側、患者さん側に偏ったブログが多い中でこのブログは両者の意見が出て非常に参考になっております。
ただ、最近は少し方向がずれていませんでしょうか?
モトケン様が勝手に誘導したくないという気持ちはよくわかるのですが、このブログの良さが変わってきたような気がしましたので・・・

>添付文書に書いてある程度の情報は一般的な、その意味で平均的医師が知っているべき情報と思われるからです。

これは非現実的です。少なくともほとんどの医師はその基準に達していません。
そしてその基準に全員を達成させることが医療の水準を上げるかというと、疑問があります(費用対効果の意味で。)

例示しましょう。
世界で最も有名な薬のひとつであるアスピリン。別に医者の処方箋無くても薬局で買えますが。
http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1143001X1228_1_01/

これの副作用について僕自身が意識していることは、
(1)胃潰瘍を起こす、出血を起こす、腎臓を悪くする
(2)アスピリン喘息のある人には使ってはいけない、後期の妊婦には使ってはいけない。小児のインフルエンザに使うとライ症候群を起こす危険が増える
(3)心不全を悪くすることが希にある。薬疹や肝障害はどんな薬でも起こすことがある

この程度です。おそらく大半の医師がこの程度だと思いますよ。
副作用には濃淡があり、よく起こすもの・希だけれども致命的になるもの、を重点的に覚えておくことと、意外な出来事が起こったら薬の副作用である可能性を必ず考慮に入れることがより多くの患者さんを救います。


> 立木 志摩夫さん

これは非現実的です。少なくともほとんどの医師はその基準に達していません。

つまり、添付文書には非現実的な事が書かれているという事でしょうか。

薬剤情報について医師がすべて把握しているから医療が行えるのだとすると、世に薬剤師や薬学部の存在意義がなくなりますね(笑)。彼らは何のために国家試験を受けているのでしょうか。
現実に彼らが必要とされるから存在しているのであって、そのことを起点としてから医師が薬剤添付文書をどのレベルまで知悉する必要があるのかを忖度するほうが考察の段取りとして妥当だと思います。現実は学問あって存在するものではなく、現実から学ぶのは学問のほうですから(笑)。

しまさん おひさしぶりです

添付文書に書いてあることが非現実的だということはひとつの重要な問題点なのですが、
http://blog.carenet.com/iwata/entry/2007/04/002206.php
今話題にしているのはそこではないです。

添付文書に書かれていることをすべて知った上で投薬を行うべきだとするのが非現実的だということです。そんな医者はいたとしてもごく少数だということです。
勿論何事も知らないよりは知ったほうがよいのですが。

 自分のコメントを読み直してみると誤解が生じる書き方をしていましのたので補足して訂正します。

>裁判官は、少なくとも添付文書に書いてある程度の副作用情報は事前に知っておくべきだと考えると思います。

 これは少なくとも第一印象的にはそう考えるという意味で、医療側が添付文書関係の実情を説明して理解させることができれば、別の認定になる可能性を否定するものではありません。

 なお、私は添付文書にこだわってはいません。
 問題は、一般的な医師が持っているべき必要十分な情報はどの程度のものかということであって、その情報源が添付文書であろうとなかろうとあまり関係ないと考えています。
 

>No.144 立木 志摩夫さん

同感です。
問題はどうやってそのことを司法の場で分かってもらえるのか、ってことですよね。
現実的な医療と理想とされている医療には隔たりがある。
そして、対コスト、対治療効果いずれにおいても、現実的に行われている医療を全て理想の(つまり司法の場で正々堂々と主張できる)医療に近づけることは、自己防衛の意味からは必要であっても、医療レベルを上げることにはつながらない。
怠慢からではなく、必要ではないから省略されている行為を、しないでいることの正当性はどうやったら主張できるのでしょうか?
一般的に、理想ではあるけれど非現実的なルール(この場合は添付文書を必ず読む)と通常行われている一般的行為(全部読む暇などない、もっと簡易なマニュアルで十分)を比較し、後者に重きをおく判断もあると思うのですが、そういう判断をしてもらうには、その一般的行為の正当性をどのような形で証明するべきなのでしょう。
ここに医師の過重労働もからんでくるように思うのですが。

>No.148 モトケンさん
すみません、上記のコメントはもとけんさんのレスを読む前に書きました。

>医療側が添付文書関係の実情を説明して理解させる

というのが重要だと思いました。添付文書に限らず、この「実情を理解させる」というのがどうも医療側は下手なように思います。

>hahaha さん

 ひょっとすると医師の収入のことでしょうか?

 私も、医療裁判において医師の収入が影響し得る場面があるとすれば、民事訴訟の損害賠償額の認定にはひょっとすると影響している可能性がないではないかも知れないな、程度には考えていますが、その前提として責任の有無の問題があるわけでして、医師の収入が責任の有無の判断に影響することはさすがにないと考えていますので、もっとほかに議論すべきことがあるんじゃないかなとかんがえておりますです。

 言いたいことがあったら遠慮なくもっとはっきり言ってください(^^)

>ぼつでおkさん
このスレの議論をざっと見渡してみて「医師がここまで薬に知悉していなければならないのならば、薬剤師の仕事って何だろうな」と思ったのは事実です。


そのことを起点としてから医師が薬剤添付文書をどのレベルまで知悉する必要があるのかを忖度するほうが考察の段取りとして妥当だと思います。

私個人的には、添付文書自体はどうでもいいです。医師が薬を処方する場合、何に基づいてその薬を処方したのかと言う事の方が重要です。添付文書に基づいていればそれでもよし、「今日の治療薬」でもよし、学会の文献でもよし。

何の根拠もなく、思いつきとか、思いこみで処方されなければ、特に問題にはしないと思います。

>No.152 しまさん
コメントありがとうございます。

>何の根拠もなく、思いつきとか、思いこみで処方されなければ、特に問題
>にはしないと思います。

私もその根拠が問題になった時には、知識のレベルの高さから言って医師に訊くよりも薬学部講師に訊く方が、現実的にどのレベルの薬剤治療が行われたのか、学問的にも現実的にも妥当なレベルの見解が聞けると思います。

あと、医師が好んで用いる「今日の治療薬」等は薬学的研究の成果を実地医療家向けに書き直したものです。医師は医学部在学中に薬学について基本を学びますが、その知識を元に最新の薬剤情報を分析して自家薬籠中の薬を増やしていくわけです(笑)。

No.152 しまさん

何の根拠もなく、思いつきとか、思いこみで処方されなければ、特に問題にはしないと思います。
そういう処方の仕方をすることはまあ普通ありえないと思いますし、そこを問題にする医者は少ないと思います。最大の問題は、ごくごくまれなる重大な副作用が起きたときです。添付文書には100万回に1回しか起きないような副作用でもこと細かに書いてありますが、立木さんも言われるように、そこまで全部知ってしかも全部説明することは、全くもって非現実的です。

じゃあ、まれだけど重篤な合併症は説明すべきかというと、これまた疑問があります。
例えば、およそ全ての飲み薬という飲み薬は、皮膚粘膜眼症候群を起こす可能性があるわけですが、これに関する情報提供を飲み薬を出すたびに毎度毎度やれということになると、もはや非現実的に思いますが如何でしょうか?>医療関係者の方々

あれ?既に「毎度毎度やれ」という話になっているのか…な?
http://d-inf.org/drug/sjs.html

う〜む・・・、回転が速すぎてレスを付ける暇がない・・・(^ ^;。

20分ぐらいかけて、確認してみたらすでに時代遅れのコメントになっているという・・・。

で、1点。

 私の外来ははっきり言ってめっちゃ暇ですが、それでも1週間平均300人強の方がいらっしゃいます。で、外来コマ数は8コマあり、約30時間の間にこれらの患者さんをこなすことになります。それでも患者さん一人当たり10分程度の診察時間しか得られず、この間に診察、診断、検査、検査結果の解釈、処置を行わなければならないわけです。
 私は新規に投薬する場合は、相互作用、副作用について以前の投薬とチェックしてから出してますが(それでも添付文書ではなく、「今日の治療薬」で・・・)、これは私の外来数に十分な余裕があるから出来ることです。
 で、私の外来数で保険診療上ペイするかというと、これは全く無理で私は病院の赤字拡大に多大な貢献をしています(苦笑)。

 これが忙しい先生だと午前だけで50人とか、午後だけで60人とかの外来患者さんを診察しなきゃならないんです(当然通常時間内には終わらず、時間を延長して・・・)。で、こういう先生達が私と同じことが出来るかというと、これはま〜〜ったく無理だと言うことは、わざわざ説明しなくてもお分かりだと思います。このぐらいの患者数をこなして「ぎりぎりペイしている」というのが我が国の「病院における」保険診療報酬の実態です。

 このことは何を意味しているかというと、「行政が医師に要求していることと、司法が医師に要求していることに重大な解離があるのではないか?」という風に考えられます。

 こちらにご参加の方でこんなことを言う方はいらっしゃらないと思いますが、「それは医者の給料が高すぎるせいだろ、医者が儲けようとするからペイしないんだろ」という意見も世間にはあります。しかし、1人の医者が仮に保険診療で年間2億稼ぎ出すとしても、医師の給料が2億有る訳じゃなく、実態は勤務医では1000万〜1500万そこそこです。これでやっとペイできるかどうかなんですよ、病院では。医者の給料を仮に500万に下げたって病院の収益が大して変わるものじゃないんです。

 診療所ではここまでの外来数はなくてもやっていけるかも知れませんが、診療所には機能限界があることは言うまでもないですし、さらに基本的に新規開業では借金がありますので、2億稼ぎ出して、給料払って、経費払って、税金払って、で手元に幾ばくかのお金が残る・・・というのが実態だと思います。

 つまり、現在行政が要求していることを現在の保険点数制度から判断すると、1日最低60人程度の外来患者+10名程度の入院患者を診なさい(この程度がペイ(収益がプラスマイナス0)する最小限数か?)。その上で「新規に投薬する場合には副作用等の情報を十分に患者に伝えなさい」、「薬の相互作用については十分調べてから投薬しなさい」「患者さんには診療に当たって十分な情報を与えなさい」、「入院に当たっては診療予定を渡しなさい」「手術に当たっては手術に伴う十分な情報(合併症、副作用、手術の有効性等々)を与えなさい」としているわけです。

 現実的に不可能な要求を行政からされ、それに違反して「重大な問題が生じたとき」司法から罰せられる(含む、民事)わけです。

 司法が現在要求していることは「十分な環境の元に、十分な診療を行いなさい」だと思うのですが、行政がそれを許してくれないわけですね。これが私の言う「、「行政が医師に要求していることと、司法が医師に要求していることに重大な解離があるのではないか?」
と言うことです。

 だから「敵は行政にあり」というのが最近の私の持論です。

> No.155 僻地外科医へ
司法が要求している医療を実践するためには、今の医療費が5〜10倍くらいになるんじゃないかと、私は思うのです。ご意見には全く賛同いたします。

ついでの発言。

診療報酬に関して'96年頃岡光厚生事務次官が言った有名な発言
「診療報酬をちょっとぐらい上げても、医者の車や医者の奥さんの毛皮に化けるだけで、看護婦の給料が上がったり、患者さんの診察が丁寧になったりする訳じゃない」

 この方が逮捕されたとき「ざま〜みろ」と思った医者は私だけじゃないと思います。この頃から、厚生省(現厚労省)の現実離れした政策は始まってたんでしょうね。

>No.155 僻地外科医 さん
> だから「敵は行政にあり」というのが最近の私の持論です。

同感でございます、軟弱者なりにですが(笑)。
薬剤添付文書も厚生労働省が製薬会社に対して行政指導を背景に指導して書かせている部分がかなり大きいようですし(笑)。

>僻地外科医さん

戦前の行政は違ったのかもしれませんが、少なくとも最近の行政はマスコミ→世論→政治の奴隷みたいなもんですよ。
総医療費抑制策だって、上記のラインで政治から指示があるから行政は推進しているだけです。(言わなくてもお分かりだとは思いますが、総医療費を抑制しても行政にデメリットこそあれメリットがあるわけではありません。メリットがあるのは、安い医療費を喜ぶ国民から「票」をもらうセンセイ方です)
志ある行政職員が間違った世論に対抗しようとしても、叩き潰されるのがオチです。行政は、少なくとも政治の承認がないと身動きとれませんから。
無知なマスコミに踊らされている愚かな国民に媚びる無能な政治家という構図こそが、ガンなのだと思いますよ。
行政の批判をする能力しかないバカマスコミは、この構図が明らかになると何も書くことができなくなるため、「行政国家・役人天国」とヒステリックに書き続けてますが、実態とは全くかけ離れています。

そんなバカなマスコミを飼いならしているのが国民であるということからすると、結局、我々も含めて国民の質がその程度ということなんでしょうけど。

>整形開業医Y様

司法が要求している医療を実践するためには、今の医療費が5〜10倍くらいになるんじゃないかと、私は思うのです。

 私はそう思わないんですよ。医療費を今よりせいぜい1.5倍にする程度で、司法が要求する医療は実践可能だと思います。問題は1人の医者が多数の患者を診なければペイできない仕組みの方です。

 で、単純に診療報酬を上げた場合、患者受診動向に負のインセンティヴをかけないと、おっしゃるように5倍から10倍の医療費がかかってしまうんですね。こんなことは言うまでもなく当たり前のことなんですが。

 ところが現実に行政がやっていること、やってきたことは老人医療費の無料化(過去)、あるいは小児医療費の無料化(現在)であって、受診動向に正のインセンティヴをかけることだけやってきたわけです(18年度改正でやっと老人医療費にわずかな負のインセンティヴがかかりましたが)。こんな馬鹿なことをしておいて、医療費が高騰しているから「診療報酬を引き下げよう」などという政策が成り立つわけがないんです。

 しかも、現状で一番問題になっている産科医療・小児医療・救急医療ではいまだに正のインセンティブをかけっぱなしです。これって、要するにポジティヴ・フィードバックであって、こんなことをしてたら崩壊するのは当たり前なんですね。

 もし医療費を抑制したまま、医療の質を向上させたいというのであれば、もうこれはアクセス制限するしか有りません。本格的な医療構造の改造を行って、アメリカやイギリスのようにGPを経なければ専門医受診を出来なくするシステムが絶対に必要になります。

 が、現実に行われていることは医療費を抑制して、なおかつ質の向上を現場にのみ要求して、アクセス制限をかけないという政策です。で、質が低いことによる処罰は現場に持ってこられています。司法はこの処罰の実務にタッチしているだけのことで、問題は行政の要求が無茶苦茶なだけなんですよ。訴えが起きたら司法は扱わざるを得ないんですから、これは私は司法の問題ではないんだと思います。

薬剤の添付文書の取り扱いについての議論が出て喜んでいます。
妊婦さんへの投薬では、添付文書どおりではまず診療が立ち行かなくなります。
妊婦さんに何を処方するにしても、『赤ちゃんに影響はないですか?』と聞かれますが、少なくとも『大丈夫』なんて書いてあるものは全くありません。『有益投与』なんて責任放棄したことばばかりです。
とてつもなく確率の低い、しかも本当に副作用とも思えない有害事象の報告が一例もあれば、大げさに『警告!』のような表示がなされ、全部使った医師が悪いと言わんばかりです。
結局、添付文書どおりだと、助かるもの者助からなくなると思い、投薬することもしばしばあります。
こんな矛盾の中で医師としての良心に従って、確立の低い副作用には目をつむり、可能な限り患者さんに不安を与えないように説明して投薬しますが、結果が悪くなればいつ自分が犯罪者扱いされるかと思いびくびくしながら医療を行っているというのが多くの産科医の現状と思います。
このあたりのジレンマを少しでも解決させていただけるように議論が盛り上がっていただきたいです。
そして、法曹の方だけでなく、世間の方にこのジレンマを理解して欲しいです。

>アルブレヒト様

無知なマスコミに踊らされている愚かな国民に媚びる無能な政治家という構図こそが、ガンなのだと思いますよ。

 根本原因がそこにあることはまったく同意です。ですが、訴えかける先は司法ではなく行政の方にするしかないというのが現実的かなと。

 だから我々がすべきことは司法に喧嘩をたたきつけることではなく、司法と手を組み行政に改善を促すことなんでは・・・・というのが、ここまでの長いコメントの最終結論です。

>僻地外科医さん

調べましたら、以下のような発言らしいですね。

「医師は集まれば診療報酬が低いと怒っています。でも、上げても職員に回らず、奥さんの毛皮などに化ける病院もある。そういう病院からは職員も患者も出て、つぶすしかない。」

少々ニュアンスが異なるように思いますので、機会があったら調べてみます。

感じたことを羅列します。
‥塞嬖現馥睛討僚膽蕕亡悗靴
 添付文書の記載内容を順守することは,「民事医療過誤における判例(平成 8年 1月23日最高裁判所第三小法廷)」として確立しており,司法実務はこれをもとに下級審も判断を下し続けていくと思います。
 記載内容のボリュームや変更を添付文書を読まないとする理由に挙げるのいかながなものでしょうか。(薬品・医療機器等安全性情報が,頻繁に各医療機関に届きます。→外堀は埋められている)
  記載事項を順守すると,複数薬を同時に使用するとき相互作用に点から,困難となる場合が多いでしょう。特に内科系の診療に重大な影響がでてくるでしょう。このような場面では,現在のところ,医師は(患者のために?)腹をくくってしまうしかありません(さじ加減が大切)。
 添付文書の内容について,異論するとすれば現在のところ2つです。
1)製薬会社のPL責任を回避する目的を有していること(その分,医療者に責任を負わせることになっている?)
2)記載内容そのものが必ずしも薬理学的根拠だけではなく,政策的な内容となっている場合があること=同じ成分濃度の薬品でも,記載内容が異なる場合があること)。

医療過誤事件の内容
 添付文書には通常の医師であれば経験しないような,めったに起こらない「重大な副作用」も記載されております。医療過誤訴訟はこのようなめったに起こらないことが発生した場合が多いのではないでしょうか。(例:スチーブンジョンソン症候群)

「医師として通常払うべき注意」
とは,医師(集団)自身がが通常払うべき注意と判断しているのではなく,裁判官が「通常」と判断する注意義務のようです。

て山裁判官について
 医療側がDQNとする理由や事例を具体的に挙げてください。棄却率=13/15ですよ。これほどまでに医療有利な判断を下している裁判官はいません。(前任者,福田剛久 現最高裁上席調査官:3/15)
 

>僻地外科医 さん

司法に喧嘩をたたきつけることではなく、司法と手を組み行政に改善を促す

行政も、まさに行政崩壊という状況になっているように思います。

行政にできることは限られているのが現状なのでしょうし、動かすとしたら政治を動かすしか方法がないように思います。

>No.151 モトケン のコメント |
>hahaha さん
>ひょっとすると医師の収入のことでしょうか?

表現が悪かったのでしょうか。
医療訴訟を見たときに医療側・患者さん側で正反対の見方が出来てしまうので混乱してしまいます。 その点、このサイトはすごくバランスがとれていると思ったので戻って欲しいと思い書き込みました。 別に他意はありません。

「敵は司法なり」に同感です.
だからこそ,司法の皆様には現実に即した判断をお願い出来れば幸いです.

日に50〜60人,時には100人も診なければならない.時間をかけようにも何時間も待たせる訳には行かず,病棟も診なければならない.投薬だけでなく各種手技もある.
薬や添付文書の件に限れば,その中で,頻度が高い合併症や少々低くても重篤な副作用は極力説明していても,頻度の極めて低いもの(前出の皮膚粘膜眼症候群[=スチーブンジョンソン症候群]など)について,発症を想定した説明など,とてもしている時間など無く,精々が「どんな薬にも副作用はありますし,何か異常があれば言って下さい」としか言う他ありません.
(添付文書の内容の説明が非現実的というのはそう言う意味でもあると思っています)

アスピリン(=バファリン)など,「今日の治療薬2007」では,
重大な副作用:ショック, アナフラキシー様症状, 出血, 皮膚粘膜眼症候群, 中毒性表皮壊死症, 再生不良性貧血, 血小板減少,喘息発作誘発,肝機能障害,黄疸,消化性潰瘍,小腸・大腸潰瘍
その他:過敏症,結膜炎,蕁麻疹,眩暈,頭痛,過呼吸,倦怠感など
禁忌:サリチル酸系薬過敏症,消化性潰瘍,アスピリン喘息,出産予定12週以内の妊婦,重篤な血液・肝・腎・心機能不全,スルフィンピラゾン投与中
注意:15歳未満の水痘・インフルエンザには原則投与しない.手術前1週間以内の投与例で失血量増加の報告
相関関係:併用禁忌:スルフィンピラゾン
     併用注意:ワルファリン,糖尿病用薬,抗血小板薬,抗凝血薬,血栓溶解薬,PCE1・I2誘導体製剤,オザグレルナトリウム,メトトレキサート,リチウム(中毒),チアジド系利尿薬, NSAIDs, ジクロフェナクナトリウム, ニトログリセリン, プロベネシド, テトラサイクリン系・ニューキノロン系薬,フェニトイン,副腎皮質ホルモン,フロセミド,アゾセミド,ピレタニド,乳酸ナトリウム,オキシカム系消炎鎮痛薬(副作用増強),アルミノプロフェン(胃潰瘍増強の報告),バルプロ酸ナトリウム,アセタゾラミド,ACE阻害薬,β遮断薬,ドネペジル(消化性潰瘍),タクロリムス水和物(FK506)・シクロスポリン(腎障害),ザフィルルカスト,PGD2・TXA2受容体拮抗薬,飲酒(消化管出血増強)

などの文章が並んでいますが,医師の側として上記を知識として把握していても,それを起こりえるモノとして逐一且つ分かり易い様に説明するのは現実的に不可能です.且つ,薬理学書の情報は上記の数倍に及ぶ事もあります.
行政の指導で製薬会社が情報として提供している,医療側も把握はしている,然し乍ら現実的には困難といった状況について,なにか解決方法はあるでしょうか?
医師側から幾ら厚生労働省に声を上げても解決しないどころか改悪しかないのを,手を取り合って司法の面からも働きかけを期待するというのは,図々しいのでしょうか?(「医療行政は医療の側で働きかけるべきだ」と怒られそうではありますが)

>しまさん

仰るとおりと思います。
行政に関する分野はマスコミが最も意図的に歪曲情報を流す分野なので、マスコミ情報からは想像もできないと思いますが、行政も崩壊の危機に瀕しています。(ここは行政崩壊ブログではないので、詳細は書きません)

とにかく、マスコミ→世論→政治というラインを動かす戦略を立てないと、行政をいくら小突き回しても効果は望めません。逆に、このラインが動けば、行政がどんなに反対しても制度は動きます。
政策実務の世界でも、如何にしてマスコミにこちらの意に沿った情報を流させるかは、大きな課題となっています。
メディア操作法に長じた方がいらっしゃれば、アドバイスを頂きたいところです。

> 藤山裁判官について  棄却率=13/15ですよ
> 前任者,福田剛久 現最高裁上席調査官:3/15 (No.164 pataro さま)

この数値のソースは?
全国的な統計では、医療訴訟の判決全体に占める棄却率は約60%であることと比べて、お二方とも乖離が甚だしく、疑問です。
何かの判例集に載った件数ということでしたら、その本には全件収録されているかどうかが問題になります。(判例集は通常は編集方針に沿ってセレクトされた判例が載せられており、全件収録というものはあまり存在しません。)

また、分母の「15」についても、藤山判事が2004年〜2007年3月までの3年間に、出した判決がたった15件ではあまりに少なすぎるような気がしますが、分数は約分した数値でしょうか。

No.161 ぐーたら産科医さん
> このあたりのジレンマを少しでも解決させていただけるように議論が盛り上がっていただきたいです。

要は確率の問題かと思います。本当に確率が極めて低いとの(立証に)自信がある場合は、説明は不要でしょう。どの程度の確率なら無視できるのかは、当該患者の病状に照らして、判断するしかない→敢えて言えば判例の集積を待つしかないのかも知れません。
不安な場合は、説明をし、重大な副作用等が予想される場合は承諾書を取っておいた方が良いでしょう。
手術の副作用の説明書に、当病院におけるこの10年間における副作用の発症割合は〇%ですと記載されているのを見た記憶がありますが、薬についてもそのようなデータ管理が必要になってくるのではないでしょうか。前に、ウイズベキアのようなものを立ち上げたらどうかと提案したら、素人の発想と冷笑された気味がありましたが、忙しくてやってられないと言って見たところで、訴訟のリスクを負うのは医師の皆さんなので、専門家の立場で具体策を議論されたら如何ですか。

No.170 地方の弁護士さん

確率ならばすでにデータはあると思いますが、たとえ低い確率でも重篤なものに関しては
説明義務がある、というような判例があるはずです。
そして、ほとんどすべての薬について皮膚粘膜眼症候群や中毒性表皮壊死症のような
重篤な副作用があります。
だから、やはり薬を出すたびに説明しなければならないことになります。
詳細に説明した書類にサインしてもらう形式にするしかないのかもしれません。

薬に(死亡に至りうる)重篤な副作用があることは、
お産に(母子とも死亡に至りうる)危険があることと同様に
一般常識になってほしいところです。

 添付文書について、議論されていますが、弁護士側からすると、だとすると添付文書の位置づけについて、医療側が学会等で統一見解をだしてくれということになるかと思います。

 製薬会社にはPL責任等の事情があって、添付資料に過大の副作用の記載があるとしても(これ自体はわかりますが)、医療側が主張として、そのことを統一的に明示できないということは理解しづらいですが。

 個々の医師の方が言っていても、裁判には反映できないと思います。

改めて確認しておきたいのですが、医療以外の業界の場合、何らかの製品やサービスによって顧客との間にトラブルが有った場合、他社の問題であってもしかるべきコストをかけてそれらを改善する、あるいは免責などについて詳細に定めた契約書を交わす、それが無理だったらサービスや製品の販売自体を止めるという方法がとられると思います。

しかしながら、医療においては国民皆保険制度が良きにつけ悪しきにつけ医療を提供する業者の足かせになっており、廉価に誰にでも医療を供給できる反面、支払われる医療保険給付額の範囲を越えるような設備投資や改良を加えられないという制限が生じています。

もちろん、顧客である患者と医師の間には情報の非対称性の問題があり、ある程度は司法のような手段によって結果責任を問うことで、業界内部に顧客保護のインセンティブを与えようとする考え自体は健全なものであると思います。

ですが、現実に医療側には過剰なコスト引き下げ圧力が直接には厚生労働省、間接的にはその上流の財務省からかかっており、司法側が理想とするアメリカのごくごく一部の富裕階層が浴しているような、百ドル札を燃やすように資金を投じることで維持されている高度医療を全ての場合に供給することはむずかしいです。すると、司法側が望むと望まざるとにかかわらず、医療側はサービスの停止で対応するしかありません。

医療安全を確保するために医師や看護師の人員数を増やす必要が出ることで大学病院が人を派遣できなくなったり、街の病院が救急や小児科医療、あるいは産科医療といった分野で安全が確保できない事を理由にこれらの部門を閉鎖するといった一連のできごとが現在、大きな社会問題になりつつあります。

安全を軽視するわけではないですが、ある意味医療訴訟の広がりと司法が現実と大きく乖離した医療サービスを適切と認め続ける事と、監督官庁である厚生労働省がそれらの訴訟の結果を受けて医療体制を刷新せず放置するばかりかコスト的にさらに締め上げるような行為が絶妙のコンビネーションで医療を崩壊に追い込んでいるという事実はぜひ考えて頂きたいと思います。司法だけがぜんぶ悪いとはいいませんが、かかる状況について国なり自治体が体制を整備するべきだと意見を判決に添えるぐらいの事はしていただけてもよろしいのではないかと思います。

>felis様

>「敵は司法なり」に同感です.
だからこそ,司法の皆様には現実に即した判断をお願い出来れば幸いです

 あの〜〜、「敵は行政なり」の間違いですよね・・・(^ ^;

何百人も患者を診ているから大変だ、免責しろ、というのはおかしいですよね。何百人も患者を診るのは危険だ、止めろ、と司法は訴えかけていると思いますよ。患者さんにとっては他に何百人、何千人と一人の医者にのしかかって死にそうになっていても関係ないですから。

経営者の問題かもしれませんが、しかるべき医員の教育とか休養とか人員体制を整えるべきと病院側に求める判決ってありましたっけ。

No.175の私の発言は下に引用した発言に対してです。わかりにくくてすみませんでした。

>No.167 felis さんのコメント | 2007年05月14日 01:35 | CID 53725 | (Top)

>「敵は司法なり」に同感です.
>だからこそ,司法の皆様には現実に即した判断をお願い出来れば幸いです.

>日に50〜60人,時には100人も診なければならない.時間をかけようにも何時間も待たせる訳には行かず,病棟も診なければならない.投薬だけでなく各種手技もある.

ちなみに、私が昔、子供の頃に習った三権分立について引用させていただきます。

>国家の権力を区別して,それらを異なった機関に担当させ,相互にけん制さ
>せて国民の基本的権利を保障しようとする政治組織の原理で,一般には
>立法・行政・司法の三権に分けることから三権分立制と呼んでいる。他の機
>関が暴走しないよう,政治権力を1ヶ所に集中させず,立法権,行政権,司法権
>の三権を分け,それらを異なる集団または個人に与えることによって,

>相 互 に 抑 制 と 均 衡 がはたらき,
>民 主 主 義 が 実 現 できることから互いに抑制と均衡を働かせ
>るのである。

引用もとはこちら↓
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sannkennbunnritunihonn..htm

大きく分けて西洋と東洋で歴史的に薬や医療に対する人々の認識が根本的に違っていると思います。

最近東洋である日本では西洋的な(アメリカ的なといってもいいでしょう)訴訟が増えてきていますが、患者側は「医食同源」から抜け切れぬままで訴え医療側が東洋的「匙加減」の西洋的裁量性(笑)を主張するため、中々議論がかみあわないのだという気がします。

裁判になればどうしても極端な議論になりますが、互いの主張が先鋭化すればするほど普段のファジーに動いてともによしとしている現実から離れていく傾向が強くなるという面があるのでしょうか。

>循内勤務医様、地方の弁護士様

要は確率の問題かと思います。本当に確率が極めて低いとの(立証に)自信がある場合は、説明は不要でしょう。どの程度の確率なら無視できるのかは、当該患者の病状に照らして、判断するしかない→敢えて言えば判例の集積を待つしかないのかも知れません。

確率ならばすでにデータはあると思いますが、たとえ低い確率でも重篤なものに関しては
説明義務がある、というような判例があるはずです。

 医師ならば誰でも知ってる高松高裁の判決ですね。判例タイムズ1178-197 百選2版80に高裁判決が載っているそうです。

その昔半人前以下だったころ、風邪の患者に薬出そうとして薬剤情報読んでましたら結局何一つ出せる薬がないってことが何度かありましたねえ。
その後は妥協して諸先輩が出してる薬丸写しという方法に切り替えましたが、一般的医療水準に則った方法論ということで勘弁してもらえるのかどうか。

「避けられる危険は避けるべき」というのが本当に司法におけるコンセンサスであるのだとすれば、大部分の医療は成立しないと思いますがそのあたり医療行為自体に対する司法的解釈はどうなっているのでしょう?
自分自身は最近(今の立場もあって)文字通り何もせず患者の運命に任せるという症例が増えてきているのは確かなんですが(苦笑)。

No.175さなぎまんさん
何百人も患者を診ているから大変だ、免責しろ、というのはおかしいですよね。何百人も患者を診るのは危険だ、止めろ、と司法は訴えかけていると思いますよ。

ってその通りです。
でも医師は少ない、患者は多いという状況では改善不能です。それがわかるから逃散ということにもなるのです。

医師の方への根本的疑問です。
多くのミス、自分で間違ったことは明るみに出ないはずです。僕自身は刑事だってもしかしたら有責になる可能性のある件があります。バイト病院の当直先で救急隊から、vital異常なしと言うことで受けた方でした。詳細は書きませんが、お亡くなりになりました。検査もできない病院で診断もわかりません。死は不可避であったかもしれません。しかし、口頭指示のために誤った行為があったのは明らかでした。その病院では最善をつくしたのですが。
もし明るみに出たり、患者さんとトラブルがあれば民事で多額賠償、刑事で有責はなん%いるのでしょうか。
もし、全員が退場しなければいけないとしたら医師は残るのでしょうか。

上記補足です
救急隊から、vital異常なしってことでしたが、実際は大ありでした。肺塞栓だったかと今は思っている方です・

謹慎明け→謹慎中さん

ここ数日の発言に深く共感していることだけ、伝えさせてください。
なかなか考えがまとまりませんが、あなたの疑問に正面から向き合わないと、安心して仕事することはできないように思っています。

つぶやきです。

変な方向に話が行ってしまっていますが、
>No.42 地方公立病院勤務医さんのコメント #c53302

はやはり非常に重要なことだと思います。
まずは、自然経過がどうなのか、が基準だと思うのです。
助けれて当たり前なのかどうか。

法曹の方には当たり前のことでしょうが、
医療技術が進歩し、医療水準が上がれば上がるほど
過失の認められる範囲が広がるのですよね。

>医療技術が進歩し、医療水準が上がれば上がるほど
>過失の認められる範囲が広がるのですよね。

 私は、そうならないようにするのが法律家の務めだと思っていますが。

 社会全体を妥当に規制するのが法律の使命です。

 バランス感覚を失ったら法律家はおしまいです。

>No.168 アルブレヒトさん
>メディア操作法に長じた方がいらっしゃれば、アドバイスを頂きたいところです。

横からまいど失礼します。
私のみるところ、身近なメディア操縦の達人は警察・検察・裁判所の辺りではないでしょうか(笑)。

国民一人当たり年間約25万円の国民医療費を高いと思うか安いと思うかが、医療崩壊が進むか進まないかの鍵ではないでしょうか。

対GDPで約8%、アメリカの約半分という金額が高いでしょうか?国は医療費抑制にやっきですが、国庫の負担は全体の約30%にしかすぎません。国の財政赤字を理由に医療費抑制を宣伝するのはおかしいことです。百歩譲って医療費の自己負担増を国民に求めるのがすじです。

いったい医療費を抑制することで誰が得をするのでしょうか?国民はこれ以上の医療費の負担を望まないとされていますが、これは本当でしょうか?

医療関連業界の就業者は数百万人にのぼります。医療産業の発展は日本経済に多くの波及効果を及ぼすと思われます。斜陽産業に税金を投入して延命させるくらいならば、将来性のある産業に投資してはどうでしょうか。

国民医療費の総額をどの程度にするかについてもっと議論されるべきだと思います。今よりも安全で良質の医療を求めるのならば、現状の2倍というのがひとつの目標になると思います。現在医療がかかえている主な問題はこれで解決します。もし現状を維持するというのならば、医療崩壊は絶対に避けられないものだと考えます。

また医療費が適正に配分されていないことが問題にされていますが、原因のひとつには市場経済をまったく無視した保険医療制度にあります。本来ならば医師と患者の話し合いで何にいくら使うかを決めるべきでしょう。国の役割は、情報が限られる患者側が決して不利にならないように必要なガイドラインを定めることではないでしょうか。

医療費をだれが負担するかについては、国や自治体の役割、公的保険と民間保険の役割、自己責任と社会保障のバランスなどを含めてもっともっと議論されるべきだと思います。個人的には最低限の医療と社会防衛に関する医療は国の負担、10年位前の医療水準にあたるものまでを予算にあわせて公的医療保険から支出し、それ以上のものは完全に自己負担にすればよいと考えます。

みなさんはどう思われますか?

添付文書の話が出たので。
私自身、添付文書は自分の研究に関わる場合とか、何か気になることがあるとか、トリビア的な知識を身につけてやろうと思うときなど、読むのはその程度です。
私も添付文書を読むというのは非効率、かつ非現実的だと思います。もっぱら「今日の治療薬」程度でしょう。実際には最新情報でも無い限りこれで事足ります。

理由はそもそもすべての薬の添付文書を記憶するなんてできるスーパーマンはこの世に存在しないということです。だったら処方する度に読め、と言われそうですが、それも時間的に不可能です。大体副作用の大半はどんな薬にもあるものです。添付文書を読むのはおのおのの副作用がどれくらいの率で発現しているのかとか、そういう重箱の隅をつつく場合に限られます。
それでは最新の知見を見逃している可能性がある・・・確かにその通りです。でもこれとて緊急的に重要な副作用等の注意事項が発令されるのは数えるほどです。自分の専門分野であればよほどの田舎か情報過疎地域か、眠る暇もない医師とかで無い限り知っています。

それに添付文書には載っていない未知の副作用だってあるし、保険で認められてない治療法だってある。

まあ、現実的には「副作用のない薬はありません」と言って患者を納得させるか、「何かあったら必ず来てください」と言うことですかね。

ぼつでおk(医師)とすると読みが線路の置石みたいで聞こえが悪いし、ぼつでOKの音読みからぼつで桶医とすると棺桶送りの医者というより坊さんがお仕事みたいに見えてゲンが悪そうだし、いろいろ悩み(笑)ましたが、結局ぼつでおk(医)を採用しました。て、お呼びでない呟きすみません。

さて本題(笑)。
>No.177 さなぎまんさん
私も昔同様に教わりました。分立をぶんりゅうと発音する教師がいる時代ですが(笑)。で、先進国ではいまマスコミ・メディアを第四の権力と見做し、実質四権分立へ世論レベルで法意識改革がなされたように思います。
ただ三つが四つであっても
>相 互 に 抑 制 と 均 衡 がはたらき,
>民 主 主 義 が 実 現 できることから互いに抑制と均衡を働かせ
>るのである。
という根本思想は同じのはずです。

□No.169  「棄却率=13/15ですよこの数値のソースは?
全国的な統計では、医療訴訟の判決全体に占める棄却率は約60%であることと比べて、お二方とも乖離が甚だしく、疑問です。」
→全く同感です。公刊されている資料にある種の「ひずみ」があるのでしょう。データ検索はLEC/TKCです。ただし、1年前ですけど。
 その後のF裁判官の判断構造に変化がみられたとすれば、各事案においてカルテ改ざんとか医療側のずさんさが目に付き、裁判官自身の判断における経験則に変化がみられたためかもしれません。
□ 医療側としてはこうは考えられないのだろうか。なぜ、医療過誤訴訟が起こったのか?誰のせいなのか?患者だけに問題があるのか?
 本来「医学・医療」で解決できるところが、解決できなくなったから、紛争の解決を司法に委ねているのでしょう。 その司法解決に不満があるのなら、どこがなぜおかしいのか指摘しなければ、司法は理解のしようがない。判決文を見る限り、医療に無知な裁判官が相当がんばってやっているなと感じております。専門分野が異なるからと言ってコメントを避ける医師とは大違いです。もっとも素人だからこそ医学的判断を法的判断にすりかえているのでしょうが。
 ところで、なぜ変な判断を下したのかまで検討すると、案外と被告側の訴訟活動が不十分だったのではないかと思われるものもあります。これって、裁判官のせいじゃない、被告側(弁護士+被告医師)のせいでしょう。反面、患者側の弁護士は相当勉強してますよ。ただし、首都圏では無理スジも増えているようです。
 判決文をみても証拠が略されているから、具体的な医学知見の検討は難しいです。しかし、そうであっても紛争を裁判官がどのように解決したのか、どういった事実を下に考えたのか、医療側もみんなで踏み込んで検討しませんか?鑑定にまかせるのも危険だと思います。

□No.188 現実的には「副作用のない薬はありません」と言って患者を納得させるか、「何かあったら必ず来てください」と言うことですかね。
→具体的な指示をしていないから、不適切だと判断されているケースは山ほどありますよ。裁判所の要求水準は相当高いのです。患者と相対(あいたい)で説明する時間がなければ、文書に記して患者に読んでいただいて署名をもらう、何かあったらではなく、具体的にこういった症状があったら、再来を勧めるという趣旨の文書を渡すしかないでしょう。医師患者関係の面からは望ましいとは思えませんが。

>yama様、pataro様

□No.188 現実的には「副作用のない薬はありません」と言って患者を納得させるか、「何かあったら必ず来てください」と言うことですかね。
→具体的な指示をしていないから、不適切だと判断されているケースは山ほどありますよ。

 上で挙げた高松高裁の判決でも「何かあったら来てください」というような漠然とした指示ではダメで
 

「一時退院した後の服薬に関し、一般的な注意しかしておらず、具体的な指導があれば死亡にはいたらなかった」と担当医の過失を認め、国立の病院であったことから、国にも賠償命令を出した。具体的には〜中略〜4)患者さんの退院時に適切な情報提供を行わず、「何かあれば、いらっしゃい」という一般的な表現をしたにとどまり、患者さんの受診が遅れた。

とされています。

 まあ、現実問題として「それは無理だろ」と私も思いますけどね・・・。

> No.191 僻地外科医 さん
恐ろしいですね。ただ、最近は薬局で薬の説明を渡されますよね。あれを何とか活用できないかと思うのです。
ただ、自分の専門分野であれば重要な副作用について、ある程度は説明するべきだと私は思います。ただ、重箱の隅をつつくような説明や専門分野外の説明だと医師側もマニュアルを見ながらでないと無理だし、時間的にも無理だし、大体患者がそれを覚えられるかどうか。結局「患者が納得しないのは説明したとは言えない」なんて言われるのがオチかも。
本当に、今後はどの様に薬の説明をしたらよいのか全く解りません。ちゃんとした現実的な指針やマニュアルがあるわけでもないし・・・。

>No.181 謹慎中さんのコメント | 2007年05月14日 11:38
>でも医師は少ない、患者は多いという状況では改善不能です。
>それがわかるから逃散ということにもなるのです。
(改行変更しました)

もちろん、賛成です。逃散というと聞こえは悪いですが、医師はプロフェッショナルなので、勤務医といえども専門家として経営者が危険な行為を強要したとき、これに抗してそれを行わない責務があります。新聞報道によるうろ覚えですが、そのような判例もあります。それが国であっても、低医療費や人員不足で安全な医療が行えない時には、安全なレベルにまで診る患者さんの数を制限したり(たとえば予約制にしたり)、あるいは勇気をもって診療科を閉鎖する事も必要です。

一見不適切と我々の目に見えるような不当判決も、国民がそれを欲しているのならば、甘んじて受けるべきです。で、それを提供できないのならば、勇気を持ってサービスを止める事が重要です。世の中の仕組みがわからない若くむこうみずな人や、生活や身を守るために詐欺師や泥棒に甘んじるような人もいますから、いかに酷い状況でも医師がゼロになるとは考えませんが、崩壊することで国民が動くことが結局のところ最も大きな力として行政と立法府を動かすのではないかと思います。

これまでの常識からすれば当然のことであった、身を犠牲にして求めに応えることは、天の裁きの時を引き伸ばすため、有害です。いささか遠回りでも、立ち去って裁きの時をもっと早めることだけが、医師のできる最善と最近感じています。おそらく莫大な数の犠牲者が生じると思われるので、医師として職業意識の高い人、常識を持つまともな人ほど受け入れがたい選択だと思いますが…。

子供の教科書で学んだ三権分立を、言葉通りにしか理解していない、司法の素人としては、この状況を生んでいる行政と立法府の暴走に直接、なんらかの牽制をしてくださらないのかなあ、ということを司法のみなさんに、つい望んでしまうんですよね。

ここ半年ほど、ROMさせていただいております。完全な一般人ですが、薬に関わる仕事をしているものです。

薬剤の副作用が訴訟の対象となる件に関してひとつの案がありますので、コメントさせていただきます。普段は専門的な話が多く、なかなか議論に参加できないのですが、初めて参加できる話題かとも思いましたので。

「医薬品副作用被害救済制度」は、皆様ご存知でしょうか?(ご存じない方は申し訳ありませんがお調べくださるとありがたいです。リンク用のタグの使い方をあまり知らないもので、すみません)。私はこの制度を改変し、例えば、「臨床上0.1%以下の出現率で発生した副作用による被害は医療関係者の責はないものとし、 医薬品副作用被害救済制度により患者を救済する。」というように出来ないものかと思っています。

「医薬品副作用被害救済制度」は、製薬会社の拠出によるものが大部分なのでそれが筋だろうと漠然と思っているだけですが、リスクを社会的に分け合うのはこのようなことではないのかとも思っております。

過去の議論をすべてROMしてはおりませんので、既にされている議論でしたら申し訳ありません。

>pontuko@一般人さん

私個人としては、スティーブンス・ジョンソン症候群のような、稀かつ、どのような薬を飲んでも起こる合併症に関しては、投薬ミスではなく一種の病気と考え、国で救済するべきものだと考えています。

しかし、説明義務違反が認められるようにも思うのです。なんとなれば、患者にとっては、「何かあれば、いらっしゃい」では、具体的にどのような時に病院に行けばいいのか分からないだろうからです。

ただし、個々の薬に対して詳細な説明は現実的でないと言うのも分かります。汎用的な薬の注意書きというのはできないものでしょうか。つまり、どんな薬の場合にも、注意するべき点は決まっていると思うのです。

1.薬を飲んだ後の急な発熱
2.薬を飲んだ後の急な発疹
3.薬を飲んだ後のめまい

このような事をまとめて説明して頂ければ、個々の薬に関しての説明は不用にも思うのです。

しまさんのおしゃることは正しい。ただこうなるとむしろ教育の問題であろうかと思います。ついでに
4.全身倦怠感、食欲不振
を加えておいてください(^^)

外科医の世紀 近代医学のあけぼのを読んでいるのですが、以下のようなくだりがありました。

1809年に卵巣腫瘍手術を行った、マクドーウェルと言う医師の独白なのですが

そしてさらにその声は言う。
『どうせ患者は死ぬ運命なのだから、たとえ手術に失敗しても最悪の場合死ぬだけだから、などという誘惑に負けてはいけない。手術で死ぬようなことがあれば、お前はどんな裁判でも殺人者なのだ。なぜかと言えば、われわれ外科の権威が、そのような手術は成功しないことを予言しているからだ。たとえ裁判にならなかったとしても、医学会からは追放されるぞ』


200年経っても、外科医の苦悩というものは変わらないように思います。また、この件からは医療水準と言うものの意味の無さを受け取れるように思います。

>No.195 しまさん

飛行機が墜落する可能性はゼロではありませんが、そのようなインフォームドコンセントはいちいちありません。多分それは、常識だからなのでしょう。

>どんな薬の場合にも、注意するべき点は決まっていると思うのです。

そうであるならば(私もほぼそうだと思いますが)、いちいち医師が説明しなくても、飛行機と同じように、常識としてしまえばよいだけです。

>No.196 うらぶれ内科さん

そのとおりです。常識とするのは社会教育の役目かと。

管理人から

 このエントリもコメント数が200に近づいてきたのですが、この流れの中で個別のテーマについてエントリを立ててもいいのではないかと思っています。
 医療側、司法側の双方から、議論すべきテーマがあればお聞きしたいと思います。

 管理人の勝手な判断でエントリを立てさせていただきます。

>元ライダー.開業医さん
飛行機は、離陸前に必ず緊急時の対処を乗客にレクチャーしていますよね。あれと同じ事が、病院でもできないかと思います。

もちろん、医師が行う必要はなく、適任は薬剤師の方だと思いますが、看護師の方でも問題ないでしょうね。

社会教育という事を否定しているわけではないです。保健の授業で教え込むと考えもあると思います。

No.111モトケンさん。

レスの進みが早すぎて、ついていけませんが(汗)
大事な事なので。

>医療側の皆さんは、医療の不確実性を強調されていますが、
実は司法だってそれほど確実性が高いものではありません。

それは、ある意味でそうなんですが。
一番大きな違いは、時間です。

医療訴訟になる場合、死亡とか重大な合併症が出た場合が多いんですが。
そういうの、って急変の事が多いので。
何分とか、何十分で判断しなきゃならない事が多いんですよ。

何時間もかけて、ゆっくり全てのデーターを見たら見つけられても、ほんの数分で急変して、点滴とか挿管とか、心臓マッサージとか、いろいろあって、それで過失がある、って言われても、困る場合があるんですよね。

将棋のプロでも、時間無制限でやれるのと、一手につき一分とかだと、判断が変わっちゃいますよね。
司法っていうのは、5分で判断しろ、とかそういうのはないでしょうから。
ゆっくり判断できるので。

そこらへんが、一番の違いかな、って思います。


>No.195 しまさん
>注意するべき点は決まっていると思うのです。

>No.198 元ライダー.開業医さん
>>No.195 しまさん

>飛行機が墜落する可能性はゼロではありませんが、
>そのようなインフォームドコンセントはいちいちありません。
>多分それは、常識だからなのでしょう。
(すみません改行変えさせていただきました)

につきましてまったく同意です。

しかしPL法がらみで、添付文書にはわざわざ「PTPを誤飲させるな」のような注意書きまであるという現状があります。つまり、”レンジに猫を入れて乾燥させてはいけません”のような”バカ”な注意書きと一緒の状況があるわけです。

そこで、あまりに頻度が少ないので記載までいるかどうか分からないような副作用は、どこかで免責条項として常識化(または予測できないもの:一種の病気というように解釈する)してしまい、説明も添付文書への記載も不要にしてしまうのはどうかな?と思っています。

そのようにすれば、頻度が少ない副作用が出た際にもわざわざ添付文書を変更したり、イエローレターなどを出す手間が省け、製薬会社も喜ぶというか、それにかかる費用を負担させて「医薬品副作用被害救済制度」に拠出させればいいんじゃないかと単純には思うわけです。

すみません。「司法と医療の相互理解とはなにか?」のテーマとはちょっと違うような気がしてきました。スレ違いでしたらごめんなさい。

>しま様

200年経っても、外科医の苦悩というものは変わらないように思います。また、この件からは医療水準と言うものの意味の無さを受け取れるように思います。

 う〜む・・・、そう解釈されますか・・・。この本は私も読んでますが(かの夏井睦先生ご推奨ですので(笑))、外科の発展には犠牲がやむを得なかった反面、だからこそ、我々は自分の手術に理性という抑制をかけるべきである、と考えています。この本が書かれた時期はおそらく外科医がもっとも幸せだった時期だと思います。そう言う視点で描かれているものだと思います。

 その時代の感覚と今の時代の感覚を同じに捉えることは我々にとって(医師、患者双方とも)、決して良いものではないと思います。たとえば、肝移植を確立したピッツバーグ大のスターツル教授が今の時代に同じことをすれば、慈恵医大青戸病院の医師と同様、たとえアメリカであっても犯罪者として断罪されるでしょう。そしてそうあることが、今の時代にとって正常であると思います。医療水準は当然の如く時代によって変化するもので、そうあるべきものなのだと思います。

>リスクを社会的に分け合う
同感です。
医療にかかわるリスクのうち、医療の不確実性や未熟さによる部分はそのリスクを社会的に分け合う制度が必要だと思います。

少し話がずれるかもしれませんが、頻度の少ない副作用だけでなく、それなりの頻度があっても起こるか起こらないか全く予想のつかない、避けようのない副作用も同様に解釈できないでしょうか。
そもそも病気は患者さん個人のものから発しているのでありますし、さらにその診断、治療とも医師の努力に関わらず、未だ未熟なものであります。それは誰のせいでもなく(天災に対して未だ無力であるように)人類の未熟さに由来するものでありますので、ある一定の確率で起こりうる合併症については個人に責任を帰することなく、社会による救済処置が必要だと思います。
薬の副作用に関してはこの点は同意される方も多いように思いますが、IVH挿入で気胸を作る、あるいは動脈を穿刺してしまう、などもそれにあたるのではないでしょうか。(これらのことはミスとして報道されがちですが、どんなベテランであっても起こしうることで、手技自体の限界ともいえると思います。)

>僻地外科医さん

自分の手術に理性という抑制をかけるべきである

それはそうだと思うのですが、他方、私のような一般人は「少数の見解、稀な主張が正しいことが往々にしてある。多数意見が常に正しいのだとは限らない」と言うことを頭の隅に入れておく必要があるとも思うのです。

よくよく考えれば、別に医療に限ったことではありませんでしたね。


その時代の感覚と今の時代の感覚

マクドーウェルに関して言えば、そんなに差があるとも思えないんですよね。失敗したら裁判沙汰になることを覚悟して手術しているように思うのです。ウォレスが失敗して、モートンが成功したのも結果論に過ぎないみたいですし。


この本は非医療者に特におすすめしたい本だとは思います。

No.171 循内勤務医さん
No.179 僻地外科医 さん
>医師ならば誰でも知ってる高松高裁の判決ですね。

この判例におけるアレビアチン、フェノバールの副作用の確率は何%なのでしょうか。教えて頂ければ幸です。
この判決においては、担当医師は以前にもアレビアチンが原因と考えられる薬疹の症例を経験していること、担当医師は当該患者が薬剤に過敏であることを前回の手術を通じて疑い得たことが指摘されており、当該患者なり、担当医師にとっては必ずしも低い確率と言い切れなかったのではないかとも思えます。
また、この症例では、重大なる結果に結びつく兆候(発疹)があったのに患者は10日間もその重大性に思い及ばず、手遅れになったことが、説明義務違反に結びつき易かったのではないかと推測されます。
私としては、死亡に結びつく確率が高い副作用(上記事例は25%)であるが、早く気付けば治癒できる種類の薬剤の副作用については教えて欲しいと思います。急激に発症し、救命可能性の低い副作用とは若干異なるような気がします。目の前の生命を維持するため、副作用があっても使わざるを得ない場面はあるとおもいますが、仮に、同じ0・1%の確率でしか起こらない副作用でも、起こってしまえば助からないのなら、それしか方法がなかったものと諦めざるを得ないかも知れませんが、副作用が発症しても適切な医療を受けられれば救命可能性が高まるなら、適切なアドバイスがないまま無為に過ごしたことは諦めきれないような気がします。
この判例は(関心ある?)医師なら誰でも知っているとのことですが、この判決をどのように受け止め、日々の診療にどのように生かしているのでしょうか。この判例についての百選80の判例解説は、医師の方がされていますが、トンデモ判決的な受け取り方をしていないというより、一定の評価をしているように読めますが…
また、現在は、薬剤と共に薬の効能書きもカラフルな感じて渡されますが、重大な副作用については、予め入力しておく方法で対処できるような気がしますが、如何でしょうか。何も、医師の方でなくても、薬剤師さんにお願いできる種類の仕事とも思えますが…

>No.200 しまさん
>飛行機は、離陸前に必ず緊急時の対処を乗客にレクチャーしていますよね。あれと同じ事が、病院でもできないかと思います。

拒否できない状態になってから墜落のインフォームドコンセントをされてもね、と思いますが、物事の前後を抜きにすれば、薬剤師がその病院や薬局への新規受診時(投薬ごとではなく)にレクチャーするという方法が考えられます。緊急(救急)時は除外です。説明人員確保に対する十分な手当を行政が考慮しての話ですが、この種の手当って、いつもすずめの涙で誤魔化されます。

>No.202 pontuko@一般さん
>添付文書への記載も不要にしてしまうのはどうかな?と思っています。

患者さんに予期しない症状が出現したとき、副作用を疑い、添付文書にあたりますから、それは困ります。

>No.206 地方の弁護士さん
>この判例におけるアレビアチン、フェノバールの副作用の確率は何%なのでしょうか。教えて頂ければ幸です。

それこそ添付文書によれば、2剤共に、「本剤は使用成績調査等の副作用発現頻度が明確となる調査を実施していない。」のだそうです。

地方の弁護士さま

現在は、薬剤と共に薬の効能書きもカラフルな感じて渡されますが、重大な副作用については、予め入力しておく方法で対処できるような気がしますが、如何でしょうか。何も、医師の方でなくても、薬剤師さんにお願いできる種類の仕事とも思えますが…

あの文書は実は有料なんですよね。患者さんは意識してないですけど。
それはいいとして、あの文書のせいで薬の自己中断が結構起こっているんです。
効能よりも副作用に目が行きやすいので、不定愁訴の多い人は、何か体調に異変があるような”気がした”だけで薬剤情報提供書を見て、薬を中断してしまいます。
ビートたけしのほんとは怖い家庭の医学という番組をみて、紹介された症状が全部自分に当てはまると思いこむような人って、かなり多いんですけど、そのような人に重大な副作用の説明をしたら、まず薬は飲んでくれません。それはそれで自己責任と思いますけど....

>地方の弁護士様

この判例におけるアレビアチン、フェノバールの副作用の確率は何%なのでしょうか。教えて頂ければ幸です。

 まず、話の前提条件として
 重症薬疹の形にスティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)というのがあります。今回の薬疹はこのパターンです。全身に多発性の水疱が出来るタイプの薬疹で、そのまま放置すると中毒性表皮壊死症(TEN)という病態に移行し、TENになってしまえば致死率ほぼ100%です。SJSの前駆症状として滲出性多形紅斑という病態を経ることがありますが、いきなりSJSの形で発症することもあります。前駆症状期間は2週間ぐらいある人もいますが、1日で一気にTENに移行する人もいます。

 どちらの薬剤添付文書にも副作用発現頻度は記載されていません。そもそも副作用発現頻度に関する調査は行われていないそうです。なお、アレビアチンやフェノバールは私も使ったことはありますが、おそらく薬疹の発生頻度は1%未満だと思います。ましてSJSの発生頻度であればもっと希だと思います。あくまで感覚的なもので具体的な統計データではありませんが・・・。1%もあるようなら、日常診療でもっとSJSにお目にかかっているはずです。ちなみに私自身は発症直後のSJSは医師生活丸15年でまだ一度も見ていません(発症後、治癒期に入った方のフォローは1例だけあります)。それぐらい希な疾患です。

急激に発症し、救命可能性の低い副作用とは若干異なるような気がします。目の前の生命を維持するため、副作用があっても使わざるを得ない場面はあるとおもいますが、仮に、同じ0・1%の確率でしか起こらない副作用でも、起こってしまえば助からないのなら、それしか方法がなかったものと諦めざるを得ないかも知れませんが、副作用が発症しても適切な医療を受けられれば救命可能性が高まるなら、適切なアドバイスがないまま無為に過ごしたことは諦めきれないような気がします。

 SJSの段階でステロイド・パルス療法などを行えば救命しうる場合もあるんですが、SJSの段階でも発症した場合には重大な後遺症(失明など)が残ることがしばしばあります。またTENに移行しないSJS自体でも致死率6〜10%有ると言われてます。確かに死なないんだけどね〜〜〜、上手く行けば・・・・と言うレベルです。私が診た患者さんも指先の萎縮などいくつかの後遺症を抱えてます。

また、現在は、薬剤と共に薬の効能書きもカラフルな感じて渡されますが、重大な副作用については、予め入力しておく方法で対処できるような気がしますが、如何でしょうか。何も、医師の方でなくても、薬剤師さんにお願いできる種類の仕事とも思えますが…

 これなんですけど、患者さんが読まずに捨てた、、、とか、よく読んでなかったから知らなかった・・・とか言う場合、医師の責任は・・・問われませんよね、まさか・・・。
 で、最近は薬剤情報提供書(おっしゃる効能書き)におおよその副作用は書いています、少なくとも当院の主立った院外処方薬局では。

>No.205 地方の弁護士さん
横レスですが、一般的に当該副作用が起こる確率は0.00数%のオーダーだそうです。
http://ameblo.jp/med/entry-10020461076.html
http://npojip.org/jip_semina/semina_no1/pdf/441-443.pdf

発生確率5万分の1。
この確率に対して具体的な症状を説明するなら、その他この副作用よりも発生確率が高い副作用の症状についてすべて説明しなければなりません。
これは、宝くじ購入者にいちいち当選した時の換金方法を事細かに説明するくらいナンセンスな作業だと思います(宝くじは当選金額により換金方法が違います)。
それこそ、「換金に関しては裏面の記載をお読み下さい」で済むことではないでしょうか?
この判決の「何かあればいらっしゃい」は、それと同じことだと思うのですが。

>No.204 absinth(医師) さんのコメント
>これらのことはミスとして報道されがちですが、どんなベテランであっても
>起こしうることで、手技自体の限界ともいえると思います。

この限界と言う言葉に関連して同じ方向で別の言葉で少し考察を述べたく思います。

よく医療水準を表わす数字としてこの疾患にこの治療を行った場合の死亡率や生存率等のデータが持ち出されますが、例えば死亡率と言う場合死亡例の中にはその治療が行われる際治療そのもの以外の事故的要因が死亡の原因であった場合も含まれている、すなわち事故的死亡例もカウントされています。

この数字を医療水準と決定する時、水準以下の事故的医療が行われることも予め水準の中に含まれていることになります。とすれば、この数字をもって医療の水準を正しく決めることはできないという結論となります。
こうした一見パラドックス的だが正しい論理帰結は、診断学の科学的限界に基づくものといわざるを得ません。
表に出た数字が必ずしもそのまま真理を表わしているとは限らないのです。

認識におけるこの限界は、粒子物理学における不確定性理論の存在のようなものです。この真理を知った上で科学的思考を用いないと、事象について正しい科学的判断を行うことはできないでしょう。

つまるところ、純粋に科学を用いるとしても、真理を認知するには科学だけでなく哲学的思惟が必要不可欠ということでしょうか。

で、結局何が言いたいのか自分でもわからなくなったようです(笑)。

スティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)の患者が同じ病院内に出れば必ず眼科に往診依頼が来ます。前任地の600床程度の大病院に3年4ヶ月いた間に、SJSは2例来ました。1例は全身ずる剥けで眼症状も重症、もう1例は私の直感では中等度程度で眼症状は軽度。特に重症例のほうは普段診ない病気でかつ失明の恐れもあるしで眼科内でも大騒ぎでした。今の勤務地は小ぶりな病院であり、眼科に回ってくる前に、皮膚科のほうから近隣の大病院に転送するため診る機会もないと思います。全国的には、目医者でも遭遇したことがない人のほうが多いんじゃないでしょうかね。

>No.209 僻地外科医 さん

患者さんが読まずに捨てた、、、とか、よく読んでなかったから知らなかった・・・とか言う場合、医師の責任は・・・問われませんよね、まさか・・・

え?問われないんです?
だったら分厚い同意書を一冊渡せばよいことに・・・。
患者さんに理解させる、というところまでの義務があるかと思っていましたが。

厳密には言えば、SJSはアレルギー反応ですから何が原因でもおかしくありません。市中感染症で起こすこともあり得ますし、原因物質が無い可能性だってあります。DLSTもパッチテストもできない死亡症例で、SJSの真の原因に迫るのは、実は極めて難しいと思います。高松判決は結構バッサリ切ってるようですけど。

>No.65 元ライダー.開業医さん、No.66 元内科医さん

大変遅レスですが、そういう情報は一般社会には殆ど流れてきていません。ごく最近、このブログに来た人もいるでしょう。どこかに纏めサイトがあればいいと思いますが、そういう情報は、「今さら」などと仰らずに、定期的に流した方がいいと思いますよ。

きれい事を言えば、一般人は医者が裕福でも言いと思ってます。問題は、それが世襲されて既得権となっている、必要以上に暴利を貪っていると、短絡して理解されていることです。こんな誤解はおもしろおかしく喧伝されてますから、そう簡単に無くならないと思いますし、自身の年収を擁護するのは日本の風土として憚られるところがあるのですが、研修医の発給の問題「だけ」を採り上げて主張すると「後から取り戻してるんだろ?」と言われるのがオチです。これを「レベルの低い議論」と言ってしまっては、(この場所ではともかく)一般には理解されないと思います。何しろ、地方公務員だって叩かれるご時世なんですから。

>No.215 中山さん
>研修医の発給の問題「だけ」を採り上げて主張すると「後から取り戻して
>るんだろ?」と言われるのがオチです。

一般の人も低レベルなゴシップだと感じていますよ。

本すじの話とずれますが…(眼科医です)
SJSは200万人に一人程度の発症とされ、一生診ることのない眼科医も多いと思います。私はこの治療が専門の病院にいたことがあるので、自分のクリニックでも経過を追っている方が20名ほどいましたが、医療機関での処方薬によるものではなく、市販の風邪薬、頭痛薬での発症の方が多かったです。発症初期の眼科治療も予後に影響を与えるようですが、診たことのない眼科医だとどうしてよいのか悩むようです。(ステロイド点眼が結構大事だと報告されています。)

>absinth様

>え?問われないんです?
だったら分厚い同意書を一冊渡せばよいことに・・・。
患者さんに理解させる、というところまでの義務があるかと思っていましたが。

 やっぱ、そうですよね・・・、普通。いえ、上の地方の弁護士様のご発言からすると、あの説明書で免責されるのかなと・・・・。

 で、
>地方の弁護士様
 病院勤務の薬剤師数は医師よりもさらに少ないです。彼らが投薬業務などに加え、患者さんに完全に説明するというのは、医師が説明する以上に不可能です。また、現在多くの病院・医院では院外処方を採用していますが、調剤薬局の薬剤師が十分説明しなかったとして、それで医師の責任が問われますか?組織も違うし常識的にあり得ないですよね?でも、一般的に言って患者さんが薬剤師を訴えると言うことはないと思います。

 ここでこのエントリーのテーマにかかりますが、法曹関係の方には病院・医院での人の動き・診療の流れの実態と言うことを理解して頂きたいと思います。その部分を理解せずに司法と医療の相互理解はあり得ないと思います。皆様が病院にかかるときに表に見える部分もそうですが、裏にあって見えない部分についてもこちらで出来るだけ解説しますので、「医院・診療所では・・・・」「中小病院では・・・」「大病院では・・・」と言う場合分けでおおよそ流れを掴んで頂けると理解しやすいと思います。

No.199 モトケンさま
研究者として出家した身としては、ここの議論よりもこの掲示板そのもの
について思うことがあります。
医療と司法が接点を持つ貴重なこの掲示板は国益のために(!)うまく
切り回していただきたいです。
(このエントリはこういう事も書ける場所と理解してますが、あれ?)

問題とその原因が多層化しているので、"大きな話"と"小さな話"を分離
しないと議論が拡散してしまいます。

論点
1. 医療費削減等、行政システム論議
 井戸端会議ではどうしようもないけれど、やはり続けるべき議論。
 各論:マスコミの煽り、安易な受診、医師"偏在"論
  
2.トンデモ裁判
 2a. 実際にはどれほど"トンデモ”判例が存在するのか、そして
 今後の裁判に与える影響力は?
 2b. "トンデモ"判決が出るにあたり、医療側の反論に不足は無かった
 のか。
 2c. 例題として"添付文書"に対する医療側の認識をどのように司法側
に理解させるか(裁判上の文法を用いて)。
 2d. 他に判例を用いて司法の文法の基礎を医療側が学べる場があれ
 ば相互理解も深まり、いざと言うときに安心(希望的観測)。

 ネットによって情報の伝播が高速化した今、冷静に"トンデモ"に向き合
うべきではないでしょうか。国の偉い方々が急に悟りを開くのを待っては
いられないので、とりあえず現状を認めて医療と司法がどう付き合うべき
か考えることを提案します。(大きい話は論点1で存分に)

「司法と医療の相互理解」というテーマですが、やっぱり医療者は司法に対する理解が不十分だと思うのです。自分のことを省みてもそう思いますが、目の前の患者や疾患に夢中になるあまり、医療や医学が社会的にどのように位置づけられているか考える余裕がないのでしょう。

相互理解するためには、相手の活動する場に行くのが近道だと思います。法曹の方で病院に行った事のない方はいないでしょうが、医療者は裁判所や検察庁にいったことのない方がほとんどだと思います。私も、行ったことがなかったものですから、このまえ身近な裁判所に行って傍聴してきました。たまたま近くを通りかかったのでよってみたのですが、案内パンフレットなどもおいてあり、親しみやすい感じを受けました。恥ずかしい限りですが、ナマの「裁判官」を見たのははじめてです。テレビではよく見ますが、開廷前の静止画像(?)ではない、しゃべっている法曹を見たのは有意義でした。

まぁ、裁判の内容は全くわかりませんでしたが、裁判所の雰囲気とか、廊下を歩いている人の顔つきや歩き方は、ふだんの私が一緒に働いている人々とは大きく違っていて、ホンの数時間でしたが異国の地に迷いこんだ気がしました。言葉は日本語でしたが(笑)。個人的には、博物館や遊園地よりおもしろかったです。

とりとめのない話をかきましたが、ネット上に伝えられる新聞報道やマスコミの情報を素に、パソコンのキーボードをたたいて「法律とは何ぞや」を論じても、なかなか議論が先に進まないと思うのです。医療者の方々も、ぜひ、現場に足を運んで見てください。訴えられてはじめて裁判所に行くよりも、ふだんから立ち寄って身近に感じているほうが良いと思います。

>基礎研逃亡兵さん

 論点1はこのブログに適切なテーマであり、今日中に個別エントリを立てることにします。
 エントリのタイトルとしてより適当なものがあればコメントしてください。

 論点2aについては、判例収集にあたって時間を要します。
 本当は、医師の皆さんが医師のネットワークを通じて収集すべきものと思います。
 今後の裁判に与える影響力については、地裁・高裁・最高裁の別によって違いますし、判決内容によっても区々です。

 論点2bについては、具体的証拠関係と具体的な主張の内容を踏まえないと実のある議論になりません。
 そうすると、公開のブログで議論するのは不適当です。
 もしネット上で本格的にやるのであれば、会員制のSNS(例えばLMnet)で敗訴した医師などから情報提供をいただいて検討し、その結果をブログなどで報告するという形を取るべきだと思います。

 論点2cはこのブログでもできると思います。

 論点2dは検討してみます。

>基礎研逃亡兵様

 LMnetで私を中心に過去の判例を検討分析しようという動きを始めました。なにぶんにも膨大な分量ですので、少しでも人手が欲しいです。もしよろしければお手伝い頂ければ幸いです。とりあえず、まとめられた判例集から検討しようと思っておりますが、まだ書籍を発注した段階です。

 ご興味・ご参加の意図が有ればLMnetにご参加下さい。

 何を言っているだけではなく、だれが言っているかを明らかにしないとなぜだめなのでしょうね。医療者もそうなのかもしれませんが、司法の諸氏は人間はかならず「党派性」を有するものだとお考えのようだ。でも本当の医師は自然科学的態度や見方を忘れないと思います。
 「論点1」が双方の相互理解に有用かつ大切なことだと思います。その一方で「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」なんて条文が思い浮かぶのは、私だけでしょうか。検事が知りたい医療側の「境遇」としての資料となりえます。
 「論点1」をとりあげるならば、私の考えるバランス感覚としては、裁判官の生活状態(給与)、司法判断が上級審で覆ったときのその後の人事(あるいは人事考課の実情)とか、判断者の背景事情も知りたいものです。(ついでに任官拒否の理由も。最近任官拒否になったあのIモト判事さん、理科系出身だったですね。裁判所組織内で相互理解できていないのでは?)
 検察官も同様。特に医師法違反で医師を取り調べるときの対応など最近の検察が以前と比べてどのように変化してきているのかも知りたいところです。すんません、きっと教えてもらえないですよね。検事さんタバコ1本すってもいいですか^^。

>pataroさん

>何を言っているだけではなく、だれが言っているかを明らかにしないとなぜだめなのでしょうね。

 このブログの常連の皆さんの大半は私の発言の趣旨を理解しておられるようです。

>司法の諸氏は人間はかならず「党派性」を有するものだとお考えのようだ。

 そう考える根拠は?
 「医療者もそうなのかもしれませんが、司法の諸氏は」という言い方自体があなたの言う「党派性」を意味しているのではありませんか?

>でも本当の医師は自然科学的態度や見方を忘れないと思います。

 本当でない医師というのはどういう医師ですか?

 (以下スルー)

モトケン様
もしこのコメントがそぐわないようでありましたら削除をお願いいたします。
大学勤務医でいた頃は当直10回、年収350万(バイト入れて)、それ以外の収入はありません。時給は1024円くらい。(計算した結果)
結局、逃避しています。今現在医師を続けるのは恐いと考えています。(他の方のコメントでおわかりいただけるかと思います。)
今後、2つの未来を考えています。
1.政治が良くなり、医療費が2倍くらいに上がり労働条件の優遇、そして後輩たちが医師になる(受験する)魅力的な職場環境に変わって日本が他国の人から見て尊敬される医療をしている。そんな日本。
2.医療費削減、病院の削減、老人の切り捨て、赤ちゃんポスト、老人ポストの増加、開業医の閉院、僻地への医師の確保(せめて招聘と呼んで、犯人じゃないんだから)、強制的奴隷制度の医師の労働環境、過労死、鬱、自殺、医師になる後輩の絶望そして進学するものの激減、看護師たちの過労、(厚労省役人は含まない)、医療訴訟のさらなる増加、医師、看護婦、薬剤師、臨床検査技師、臨床工学士、助産婦の逮捕、国立病院からの閉院、市民、労災、KKR,JA,民医連、私立病院の崩壊、そして自由診療(Oリックスの思うつぼ)となり高額医療費(医療保険、分娩200万、虫垂炎300万、一泊入院)しかし医療をうけられず多量の待機患者の死(受診まで1ヶ月、手術待ち6ヶ月←イギリス、スエーデン)となる。ーーどちらかはレスお願いいたします。(中間はあるのかな?どっちかでは?)
ps
人間は生まれた瞬間、死ぬことが決まっている。
>あたりまえですね。
病気、事故、自殺
そして人は必ず死ぬ
>ほかの死因は思いつきませんでした。ありましたらお教え願います。
医療は少しでもよりよく生きるための手助けをわずかにしているだけである。
>謙虚に考えてもこれは本質では!
そして治る病気はわずかの感染症しかない。
軽症な肺炎、膀胱炎、風邪、胃腸炎など
>おおむねです。多少はあるでしょう。でも癌は無理です。再発の無い癌はない。
胃ガンは治しているのではない。
臓器をとって機能を補うようにしているだけ
>外科、内科の先生は当然ですよね。
合併症がある。肺炎、縫合不全、腸閉塞、再出血、輸血によるショック、肝炎
>きりなしですね!
つまりは医療は進歩によって助からないものを、わずかに回復させただけである
>だから生存率でいい医療を模索している訳ですよね。雑誌でよくありますね。
また薬は100%副作用がある、肝機能障害、脳出血、中毒診、アレルギー、ショックなど。
>副作用の無い薬教えてください。そしてあったなら効果あるのですか?
漢方、ビタミン剤も副作用がある。
>死亡例もありますよね?間質性肺炎は有名ですよね?石灰化も有名ですよね?
医療が確実なものと考える方は妄想であるとおもう。
>患者さんは
(様とはいいません、医療はサービス業ではありません。)
病気を一緒に克服していくパートナーとおもいます。
一緒に悩んで、患者さんが楽しく、痛みがなく、安らかに過ごせるよう
努力する、そんな医療を考えてます。
お教えください。僕医者でしょうか?

横レス失礼いたします。

私は大学病院で教員をしています。大学病院では先生のような考え方は少数派でしょうが、先生のような考え方もあっていいと思います。医師のあり方が画一的である必要はありません。むしろ多様であることが社会(市場)からは求められていると思います。

>人間は生まれた瞬間、死ぬことが決まっている。
現存在分析をうちたてたハイデガーも「生は死に向かってある」と述べているそうですから、人間の精神世界の存在の性質を突き詰めていくと、そういう性質が内在しているということでしょう。京都大精神科の木村敏元教授の本を読むと詳しく書いてあるようです。

医療の可能性にだいぶ悲観的なようですのでまだお若いようにお見受けしましたが、医療の可能性と限界を見極めるのはもう少し後でもよい様に思います。なかなか奥の深い世界ですから。医は哲学であると同時に(つまり、対人関係論であると同時に)技術でもありますから、患者さんが楽しく、痛みがなく、安らかに過ごせるよう努力するだけでなく、ひとまずは先生の技術も向上させるよう努力されてはいかがでしょうか。

話の流れを大分遡ってしまってすいません。

No.54 absinth 様のコメント
>医療側は「不確実性は正当に評価されえない我々だけの言語である」と認識するべきな
>のではないか、と思うようになりました。そのうえで、「では共通の言語をもつにはどう
>したらよいのか」、あるいは「この不確実性をどういった言葉で訳せば医療側の意図どお
>りに判断してもらえるのか」

医療側が、司法側に、最も理解を望んでいるのは「医療行為の不確実性」でした。しかし、多くの医療側の方々もコメントされていますが、この最も主張したいことが、司法側の方々には十分に実感としては伝わってない(言葉の概念にずれがある)ように思います。

そこで、自分なりの解釈から、いままでとはちょっと違う表現で、「医療行為の不確実性」に関して、この「解釈の違いが生じる原因」について述べてみたいと思います。

裁判において、「予見可能性」が十分に高い(司法の場で立証が必要とされる80%以上の蓋然性が認められる)にもかかわらず、危険結果の回避がされなかった場合に、「過失」がある、と認められます(勿論、他にも考慮すべき証拠が多数あることは承知ですが、話を単純化します)。

(例として)「当時、90%の確率で予見可能であったのに、危険結果の回避がされなかった。」という鑑定が提出されたとします。

この言葉は、「平均的な能力を持つと考えられる医師が、当時示されていた所見やデータから期待される診断・処置等を予見できた可能性mが、90%(に分散する、純粋に確率論的な事象)であったのに、危険結果の回避がされなかった」という意味だと仮定します。

 この場合、原告となった患者さんにとっては当然この「予見可能性が十分にあった(m≧80%)」ことを立証しようとされますし、裁判の場でもその意見を採用されることと思います。しかし、この「(90%の)予見可能性」が認定されて医療側に「過失」を認めることは本当に正しいことなのでしょうか?

この場合、

m=平均的な能力を持つと考えられる医師が、当時示されていた所見やデータから期待される診断・処置等を予見できた可能性(%)
n=医師一人が、生涯にわたって当該疾患を診察する回数
とすると、

医療側が、生涯を通して裁判所が要求する基準(m≧80%)を満たすことの出来る確率Pは

P=(m/100)n乗×100 (%)

という数式で表現することが出来ます。
(※無論、同じ疾患・進行期でも症状、検査データ等は千差万別ですが、ここでは平均化します。)

すると、m=90%の時
n=10なら、  P=(90/100)10乗×100=35%、
n=20なら、  P=(90/100)20乗×100=12%、
n=100だと、 P=(90/100)100乗×100=0.002%
になってしまいます。

たとえm=99.9%となるような日常的に行われ、かつ安全性が十分に高いと考えられている事象だったとしても

n=10なら、  P=(99.9/100)10乗×100=99%、
n=100なら、  P=(99.9/100)100乗×100=90%、
n=1000だと、 P=(99.9/100)1000乗×100=36%
となります。

しかもこれは、1診療科の1疾患の1診断・処置に限った場合の話であり、実際に全て業務に関して一人の医師が生涯に渡って「過失」を起こさないためには、それらの確率Pを全て考慮して更に乗する必要があります。
つまり、「予見可能性=m」がどんなに高くても、「過失」を起こさずに医療を行える可能性=Pはほぼ0%だということが数学的に証明されてしまうわけです。

そしてこれが、医療側の主張する「医療行為の不確実性」なのです。

今までの議論では司法側の方々からの

「医療の不確実性(m=90%)を前提として、医療水準は決められるはずだ」

という意見と、医療側の

「医療は不確実(=P≒最終的に0%)なものであり、過失と認定される行為(100−m)を完全に排除することはできない」

という意見は、言葉は同じ「医療の不確実性」を用いていますが、その意味するところが全く別物であったために、実は話が噛み合っていなかったのではないのでしょうか?

あまりにも事態を単純化しすぎていて論理が飛躍していることは承知ですが、「司法と医療の相互理解を妨げている要因」の本質はここなのかな、と思っております。

 実際に一回の診療しか受けられていない患者さんにとっても、その一回に関して判断する役割を持つ裁判所にとっても「予見可能性」をmと取ることは理論的にも正しいですし、Pを取ることは患者さんにとってあまりに立証困難なものとなってしまいます。

だから、多くの場合において裁判で双方に納得のいく結論が得られない理由は、

「予見可能性」をmで判断しなければならない裁判所の制度と、実際にPのレベルを要求される医療が、構造上に根本的な問題があった(相性が悪かった)だけであり、そこに携わる多くの医療側、司法側、患者側にはほとんどの場合、何も問題がなかった

のではないでしょうか?冠詞にトンデモがつく方もその御三方のいずれにも確かに存在するとは思いますが、全体で見ればそれは極小数だと思います。他の多くの医療裁判において、そのような方が全くいらっしゃらなくても、また和解が成立したとしても不満が必ず生まれてくるのは、この構造に原因があるのでは、と考えます。

ならば、この構造(mで判断しなければならない裁判所の制度と、実際にPのレベルを要求される医療の乖離)を前提とした上で、『医療を存続させるために実現可能な具体的方法は何か?』を議論することが、建設的な話し合いとなるのではないでしょうか?

例えば、「医療事故情報センター」という組織があります。
http://www3.ocn.ne.jp/~mmic/index.htm

弁護士600人が参加しているこの団体。規則に「医療過誤事件の訴訟において、医療側の代理人となってはならない」とあります。
こういうことは弁護士さんの世界では普通なのかもしれませんが、相互理解の妨げになっていると思いますね。
素人考えでは、両方の代理人をやったことのある人のほうが無茶をやらないような気がするんですけどね。

>弁護士600人が参加しているこの団体。規則に「医療過誤事件の訴訟において、医療側の代理人となってはならない」とあります。

医療事故情報センターの弁護士には、医療側の代理人をやるような弁護士は敵であり、信用ならないと思われているんですかね(^^)

私も立木先生と同様に、両方の代理人をやった方がいいと思います。個人的に自分は患者側専門でやるという弁護士がいてもいいとは思いますが、組織的、強制的に医療側代理人もやる人をオミットしてしまうと、ベクトルが同じ人ばかりが集まり、客観的な視点を持った人がいなくなりますので、組織自体が偏った方向に走る危険性が高いと思います。

優秀な弁護士を組織的に囲い込むことで、医療側弁護士を減らして患者側勝訴率を上げようという「壮大な戦略」(^^)かもしれませんが。

「しかし、医師に対する患者側の感情的対応は、医師の説明を十分に引き出せないままに終わることにもつながりますし、何より、医師に危機意識をうえつけ、カルテ等の改ざん・廃棄を誘発する危険を招くことになりかねません。」

医療事故情報センターのHPに患者側へのアドバイスとして書かれていました。患者側の感情的対応を抑える効果もあるかもしれませんが、同センターに参加する弁護士が、医師をどのように捉えているかが如実に表れているともいえます。

いつも勉強させて頂いております。医師でもないのに、駄文を失礼致します。
薬剤添付文書についてですが、医療側の意識の低さがやや気になります。
「全てを完璧に知る・覚えておくことはできない」ということはその通りだろうと思いますが、やはり重篤な被害を生じうるものについては、可能な限り知っておくべきではないかと思います。自身が全てを把握できないと不安に思うのであれば、必ず処方箋にて投薬することとし、薬剤師にその一部機能を担わせて(これこそ分業化の意味があると思います)、チェック体制を取ることは可能ではないかと思います。処方箋に「副作用等チェックして下さい」とか一筆入れておけば(ちょっと恥ずかしいかもしれませんが)いいのではないかと思います。大きな病院のオンラインシステムとかであればそれも難しい場合もあるかもしれませんが。

添付文書の内容について知らないことは、法的責任を免れるものではないでしょう。医師であるからには、一般的に他の医師が知らないから、ということを理由として研鑽義務が軽減されることがない、という司法判断があります。以前書いた記事にその判例の一部を紹介しております。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/305597cc919c676df81eeb19465d9634

ご自身の子どもとか自分自身が患者である時に、「そのような副作用があるとは知らなかった」「添付文書に書いてあるとしても、読んだことなんかない」などと言う医師に、信頼して治療を任せられるかどうかをお考え頂いた方が宜しいのではないかと思います。

以前モトケン先生がご紹介下さったカテーテルの事件に関連して、反論する被告(医療)側の言い分がそもそもオカシイのではないかと思えたものがありました。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/21c43acb034f745a3a9752584e771ac6

現実の患者や医療現場の現象を見たわけでもないので、一概には言えないと思いますけれども、当該事件の状況を見ると想定できるものはあるわけです。薬剤の添付文書をちょっとでも読んだことがあれば、少なくとも可能性として「ミオグロビン尿」(裁判では血尿として扱われた)とテオフィリンによる「横紋筋融解症」は直ぐに思い浮かぶはずであり、カテーテル操作による出血死などよりも現実的な想定であると思います。医療側が何故この反論をしなかったのかと言えば、医療側にはこうした「知識がなかった」ということが予想され、それは添付文書に書かれている比較的重要な副作用さえ知らなかったから、ということなのだろうな、と。

添付文書や緊急安全情報について知っておくことは、医療側が自分たちの身を守るのにどうしても必要なことだろうと思います。日々登場してくる「新しい薬」の知識を網羅するのは大変であるとしても、そういう「自分がよく知らない薬物を用いる」という姿勢こそが、安全意識の低さということなのではないかと危惧されます。ですので、医療側の方々には意識を変えて頂ければ幸いに存じます。

>現実の患者や医療現場の現象を見たわけでもないので、一概には言えない
>と思いますけれども、当該事件の状況を見ると想定できるものはあるわけ
>です。薬剤の添付文書をちょっとでも読んだことがあれば、少なくとも可
>能性として「ミオグロビン尿」(裁判では血尿として扱われた)とテオフィ
>リンによる「横紋筋融解症」は直ぐに思い浮かぶはずであり、カテーテル
>操作による出血死などよりも現実的な想定であると思います。医療側が何
>故この反論をしなかったのかと言えば、医療側にはこうした「知識がな
>かった」ということが予想され、それは添付文書に書かれている比較的重
>要な副作用さえ知らなかったから、ということなのだろうな、と。

まさくにさん,
問題はその可能性と,それが起こる状況です。
テオフィリン中毒により,不整脈や痙攣が起こることはしばしばであり医師ならほとんどの人間は知っています。
しかしながら,効能書きに「重大な副作用」として書かれている以下の状況はどのくらいの頻度で起こるかということです。「急性脳症」,「横紋筋融解」「消化管穿孔」,「赤芽球癆」など,はいずれも効能書きには「頻度不明」となっています。「自発報告、海外又は他のテオフィリン製剤において認められた副作用のため頻度不明」だそうです。
医療は基本的に頻度,可能性の高いものから順に考えていくのが普通です。
テオフィリンは一般によく使用されている薬剤ですが,医師の中でこれらの「重大な副作用」をみたことのある人間がどのくらい存在するでしょうか?
何万分の一以下の確率の合併症まですべてに考えを及ばせるようなことは現実的には困難です。 製薬会社は効能書きには,こういった非常に稀な副作用であっても書かなければなりませんので書いています。しかし医師がこれらをすべて知っておくことはおおよそ不可能です。
従いまして「テオフィリンによる「横紋筋融解症」は直ぐに思い浮かぶはず」というところが「はず」ではないのです。もしかしたら1例だけしか報告されていないような合併症であった(中にはそれがその薬剤が原因であったのか明らかではないこともあります)ようなものまでが効能書きの注意には含まれているのです。
繰り返しになりますが通常使用している薬剤である程度想定される副作用というものは効能書きなどを見なくても,教科書でも知ることができますし実務の中で経験したり上級医から教えてもらったりして知っているものです。

こういった意味でも効能書きというものに対する医療者と非医療者の考え方の乖離があるのだと思います。

医者が薬剤添付文書に書いてあることについて不勉強だったら
けしからんというのは まさしくその通り そういう事例も少なからずある
その一方で 添付文書の方がおかしいとか
薬効・機序を理解したうえでの判断についても
結果が悪いと「添付文書違反」でけしからん、などという
本末転倒な議論があることを m3やここの医師は問題視してるわけです
日本の薬剤投与量・投与方法の認定が
世界標準から大きく外れたものが珍しくない、というのは
医者の間では常識であります
抗生物質の例でいうなら岩田健太郎先生の著書に
枚挙にいとまなく実例が挙げられております
法律家や一般の皆さんに添付文書を絶対視しすぎる傾向が有る
といのも間違いのない事実です

No.227 visitor さんのコメント

つまり、「予見可能性=m」がどんなに高くても、「過失」を起こさずに医療を行える可能性=Pはほぼ0%だということが数学的に証明されてしまうわけです。

その通りです.
予見可能性が十分に高くても,多数の同じ状況が繰り返されればいつかは予見に失敗する事態に遭遇します.
つまり,予見可能性で過失を論ずる場合,予見可能性が100%でないかぎり,医療をしている間にいつか誰かがババを引く羽目になるのです.
さらにこのババが民事の賠償ならともかくも,刑事罰だったりすると医療はやっていられないのです.
どうやってもここが法曹の方々にご理解いただけないところなのです.

> No.230 まさくに さん
誤解があるかもしれないので言っておきたいのですが、、少なくともここのブログに出入りしている医師たちは添付文書を読まなくても良い、と言っているわけではありません。必要に応じて読むべきだという解釈がなされるのではないかと思います。実際に私自身もそうです。医療側の意識が低いと言っておられますが、そんなことは無いと思いますよ。
多くの先生方が言っておられるように、使い慣れている薬については少なくとも重要な頻度の高い副作用は知っておくべきです。その頻度を知りたい場合には改めて添付文書を見れば良いだけの話です。
要は、「薬のことをちゃんと知る=添付文書をすべて暗記するべく読む」ということではありません。必要なのは、覚えるべき頻度の高い重大な副作用は覚えておくべきだし、覚えきれない重大でない副作用についてはできるなら覚えておいた方が良い、といったことだと思います。ただ、記憶力が持続するとも限らないので薬剤師によるチェックや、文書による患者への注意喚起が必要になるでしょう。こうしたフェールセーフ的な機構は必要だと思います。

そういう「自分がよく知らない薬物を用いる」という姿勢こそが、安全意識の低さということなのではないかと危惧されます。

というのはまったくその通りであり、少なくともここの医師たちはそれを熟知していると思います。
しかし、裏を返せば、「自分の専門外は他に行ってくれ」ということです。私のように大学病院で勤務している人間はそれで良いかもしれませんが、地域医療が崩壊しつつある今、それは必ずしも正しいとは限らないと私は思います。そこのところを医療関係者以外も理解していただきたいと思います。

>level3先生、yama先生
素人の意見にお答え下さり有難うございます。誤解のないように申し上げておきますが、私はこれまで医療側の弁護(笑)の為に多くの記事を書いて参りました。加古川事件や福島の事件などについても、度々取り上げて、司法側の問題点について書いております。ですので、医療側の言い分というものについては、一定(以上?かも)の理解はある積もりです。
しかしながら、添付文書に関して異論はあります。原告側主張に対抗するのは被告側の言い分であって、その正当性が法的にどのように評価されるのか、ということをもう少し重視するべきではないかと思われます。
例に取り上げたカテーテルによる血管損傷・出血と、その結果として出血性ショックで死亡した、などという意見を打ち破れなかったのは何故なのか、ということを考えますと、被告側主張に大きな問題があったからではないでしょうか。少なくとも、「血尿が続いていた」などという論はどう考えてもオカシイのであり、「穿刺で血管を破ったので出血したんじゃないか」と言われた時に、「出血ではなく、ミオグロビン尿です」と答えれば済むのであり、その医学的根拠はきちんとあるではありませんか、ということです。従って、横紋筋融解症のような病態であったならば死亡することは十分有り得るのであって、原告側主張の「カテ操作で出血させ死亡させた」という論を覆せるのは明白であります。私が申し上げているのはそういうことです。しかし、医療側がその反論を行わなかったのは何故かと言えば、「思いつかなかった」としか思えないのです。医療側主張にも問題があった、ということです。

昨年9月に記事を書いた後で、下記情報が11月に出さたようです。
http://www.mhlw.go.jp/topics/2006/11/dl/tp1122-1c09.pdf

ここにあるように、広範囲に及ぶ薬剤において想定されうる病態ですので、常識的と言えるのではないかと思えます。検討しているメンバーには臨床医も含まれているようです。これを滅多に起こらないから、という理由で片付けることはできないでしょう。

長くコメントして済みません。おまけに連投で・・・申し訳ありません。

医療に限らず法的責任を考える上で説明書が重要な場合はあると思います。パロマの事件のような場合、一酸化炭素中毒死の責任は製品にあったのか使用者にあったのかということが問題となります。仮に、説明書に「2時間程度毎に窓を開けて不完全燃焼を防ぐ為に室内換気を十分行うこと」と書いてあって、その使用方法を守っていなければ、使用者側にも落ち度があった、すなわち過失があったと認められるでありましょう。OTC薬でも、「1日1回1錠」という服用指定があれば、それをはるかに超えて何錠も飲んで「有害な症状が出たのでどうしてくれる」となった時には、やはり使用者側に過失があったと認められます。こうした考え方は、法的に必要なものであるので、説明書きや添付文書を無視することはできないでしょう。こうした考え方を認めないとなれば、製造・提供側に無制限な責任を課すことになってしまうのではないかと。

医療の実態として薬剤の使用方法などが添付文書通りではないことが多々あることは理解できますが、少なくとも書かれている内容については「知った上で」、患者利益の為に保険適用外使用や規定外の用法用量を一定の根拠の下に(それは当然論文や成書等で示せるものです)遂行した、ということを立証できうるはずです。添付文書の中身について、全てが無効であるという主張は司法に限らず受け入れ難いと思われます。添付文書にない使用法が全て違法行為であるとは考えられないでしょう。そうした使用の場合については、相応の注意を払って使用するべき、ということであって、その注意が足りなければ「注意義務違反」と認定されるものであると思います。一応保険適用外使用については、十分な説明と同意の下であれば患者請求を行ってよい旨、厚労省通知が出たのではなかったかな、と思います。低用量アスピリンの使用(血栓予防の…)も長年適用外使用であったことは有名ですが、そういう例があることは不思議ではないでありましょう。それを法的に全て違法であるとは司法側も認定していないのではないかと思います。

製薬会社は添付文書を書き換えたりするには、行政の手続が非常に面倒なので嫌がる傾向にあるでしょうし、新たな適用を1つ増やすだけでも「治験」を新薬同様に行わねばならないので大変、というのはあったと思います。それ故、長年同じ添付文書のままで実態とかけ離れている、ということが起こります。昨今、海外の治験例も認められることになったはずですし、認可の迅速化は少し改善されてきていたのではなかったかと思います。薬剤を用いる側の意識をもう少し司法の側に近づける必要があるのではないかと思います。

> No.235 まさくに さん

しかし、医療側がその反論を行わなかったのは何故かと言えば、「思いつかなかった」としか思えないのです。医療側主張にも問題があった、ということです。

それはその通りだと思います。ただ、それが現実的に可能であったかどうかが問題です。それが必要であればまず可能な環境を整備することが先決だと思います。

現実的に添付文書をすべて読むというのは無理な話であり、見るべきと解っていても実際には見ることは難しいと思います。
そこで、私の言うフェールセーフの一つにMRによる注意喚起があります。MRこそこうした情報のプロフェッショナルであり、必要最低限の情報を医師や薬剤師に伝えるのだと思います。今後はMRの重要性が言われるのではないでしょうか?

ただ、ここでもやはり問題が生じます。開業医や地方の医師たちです。どの様にすべきなのか、これは自分の中で意見が固まっていません。一人で勉強するのは限度があります。やはり自分たちよりもより専門的な薬のプロたち(医師から見れば医師は薬のプロとしては薬剤師とMRの下にいると私は認識しています)でないとそのあたりの情報を正確に把握することは困難であると思います。

法的な面から見ればまさくに さんの意見は正しいのかもしれませんが、それが臨床にとって優先的事項かというとそうでは無いように私には思えます。もっと重要なこと(医療技術を磨く、他の知識を入手するなど)があるからです。

モトケンさん
> 本当でない医師というのはどういう医師ですか?
わかりません。ただ本当の医師は「患者のことを忘れない」のだと思います。
 トンデモ裁判(鑑定)=^綮佞亮辺事情無視+医学的に誤り
と捉えたときに,^綮佞亮辺事情は過失の認否の評価に「勘案」することはできるのでしょう。しかし,周辺事情には,たとえば「単なる言い逃れ」も混入するおそれもあるわけです。
 △世韻慮地からのトンデモ裁判は,原告・被告双方にとって有用だと思います。また,かかる指摘は「医師主導」の作業だと思っております。その場面では,科学に対してのみ中立であればよく,原告被告の裁判構造はみられません。ただし,証拠の評価の場面で司法側の知見を要すると思います。とはいえ,厳密な意味での作業とはならないのは認めます。
 もし,,大切だとお考えになるのであれば,やはり,汎閏仝気虜枷輯韻筝〇ヾ韻亮辺事情も「相互理解」として披露するのが一種のバランス感覚といえませんか?
 特に近時の刑法の医療に対する適用がなぜこんなにも厳しくなったのか,さらに逮捕まではよいとしても勾留を認めるのはなぜなのかわかりません。医師に精神的圧迫を加えて「自白」を強要しているように思えるのです。
 

No.235 まさくにさん

ご指摘の文書には横紋筋融解を起こす薬剤としてHMg-CoA、フィブラート(これらは有名でこれを知らない内科医はもぐり)、ニューキノロン(これはまれ)、向精神薬や抗パーキンソン病薬や麻酔薬の一部 (ただしこれは悪性症候群として捕らえたほうがよく、その意味ではよく知られている)はかかれてますが、テオフィリンなどのキサンチン誘導体は紹介されてません。しかし、テオフィリンの添付文書には確かに横紋筋融解は記載されております。この事実をどう評価しますか。
私は、確率のきわめて低いことを言い出したらきりがなくなることの好例と捕らえてます。

No.235 まさくにさん,
うらぶれ内科先生も書かれていますが,テオフィリンで横紋筋融解を起こす可能性というのは極めて確率が低いと思います。そもそも「横紋筋融解」という病態そのものを見る機会が非常に少ないのです。
K病院の症例は,テオフィリンの血中濃度が通常の治療濃度と桁違いに高かったようですからそのような高度の中毒時には生じるものであるかもしれません。しかし,一般的にそのような現象をみたことのある医師はほとんど皆無だと思われます。おそらくは,「1例報告」のような事例であったのではないかと推測されるのです。
いくら効能書きに書かれていようとも,このようにあまりにも稀な現象まで考えに入れていたのでは,実際の医療(特に救急の現場)では医療を行うことが不可能になります。非常に限られた情報と時間の中で最も妥当と考えられる診断と治療を行っていくためには枝葉末節の情報はほとんどの場合邪魔にしかならないのですから。救急では注意深い観察は必要ですが,その限られた情報の中からできるだけ可能性の高いいくつかの病態に的を絞って治療に当たらなければなりません。

先にも書かせて頂きましたが,テオフィリンの効能書きには「横紋筋融解」の頻度は不明としか書かれていません。これの意味は繰り返しですが,「自発報告、海外又は他のテオフィリン製剤において認められた副作用のため頻度不明」です。

>yama先生
度々のお返事有難うございます。

>現実的に可能であったかどうか
これは、原告側主張で「出血=故に血尿だった」ということを言われていたのなら、反論として「いいえ違います、ミオグロビン尿です」と言えば済む話ではないでしょうか。可能・不可能という問題などではなく、ある現象に対する意見(解釈?)の問題であろうと思います。添付文書の中身について、稀なものや軽微なものなども含めて全部などという話ではなく、SJSがあるのと同じく程度の知っておくべき事柄でしょう、ということです。

もしも、添付文書に限らずこうした説明書きを法的に無効或いは認めないとなれば、利用者側の責任を一切問えなくなります。ある金融商品があって詳しい説明書があっても、それが法的に無効なのであれば提供側(保険会社や金融機関等でしょうか)に対して無制限な責任が課せられることになります。「〜しないで下さい」「○○のようにやって下さい」等々と文書に書き、これを説明することは、提供側がある一定の注意義務を果たしているということを法的に認めるということを意味するでしょう。これが無効であれば、こうした「注意義務を果たした」ということが認められなくなるので、顧客がトンデモナイ取引や売買などを勝手に行った結果損害を蒙ると、「この金融商品を販売した金融機関が悪い」という主張に対抗できなくなってしまいます。「〜をしないように、と予め警告しました」という対抗意見が通用しなくなってしまうのではないでしょうか?この「警告しました」を法的に認めるのであれば、「提供側は注意義務を果たしたので責任はない、即ち、〜するなと言われたのに勝手にやった利用者側の責任だ」と認められるのではないかと。まさか「〜するな」と警告していたにも関わらず、勝手にやった顧客の損害まで被れということを求めるのではないでしょうから、説明書きを法的に認めるのは当然だと思います。

>うらぶれ内科先生

さすがに薬剤のご専門の方にツッコまれるとビビリますが(笑)、テオフィリンが原因で横紋筋融解症となっていたかどうかは確定できないのは確かでしょう。因果関係の立証も困難でしょうが、少なくとも血尿ではなくミオグロビン尿であった可能性の方が高いと考えられるのであれば、反論としてそれを言う以外に「血尿であった」という事実認定を覆すことができないわけです。何故ミオグロビン尿であったと考えられるか、と推定を辿って行けば当然テオフィリンと横紋筋融解症の関係が思い当たるのはごく自然です(実際にそうであったかは確かめられないのですが)。

確かに厚労省の文書にはハッキリとは書いていませんが、具体的症例の中で併用薬剤の中には挙げられており、更に薬剤一覧にも記載されているので(添付文書が出典であることに違いはないのですが)、「知らなくて当然」などという主張が裁判所に認められるかと言えば、困難であると思います。この文書以外の緊急安全情報でも流されているので、自身がよく処方する立場であれば、知っておくべき事柄でありましょう。ネット接続が可能な環境なのであれば、ネット経由でこれら情報は確認できるのではないかと思います。私が主張しているのは、非常に稀な副作用についてまで医療側の責任を問うのは疑問である、というものです。個人的主張は以下におおよそまとめてあります。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6042929e62546b946d80d7528569efc1

No.241 まさくに さん

ご趣旨はよく分かりました。

No.233 田舎の一般外科医様

ご返答ありがとうございます。ご理解いただけて嬉しく思います。

『司法を厳密に当てはめてしまうと、医療は原理的に存在できないものである』

これは、司法の医療に対する理解や判断能力の問題以前の、両者の構造的な欠陥によるものです。

少なくとも、この前提を双方が納得した上で話をしないと、建設的な議論は出来ないと思います。

ROMをしていてずっと疑問でしたが、どうしてこの簡単なことがお互いに伝わらないのでしょうか?

>No.243 visitor さん

つまり、「予見可能性=m」がどんなに高くても、「過失」を起こさずに医療を行える可能性=Pはほぼ0%だということが数学的に証明されてしまうわけです。

解説された理論は間違っていないと私も思いますが、問題なのは患者にとってのnは医師に比べて十分小さく、したがって患者にとってのPは相当程度(なんか法律用語みたいですが)期待できることです。

この乖離を埋めるのは、やはり医療事故保険(過誤も含む)が最適と私は考えます。ただし、事故か自然経過かを判定する機構(以下、判定機構)は必要です。これがなければ自然経過により病院で亡くなった人、後遺症を負った人にも保険金を支払わなければならなくなります。

当然判定機構の判断に納得できなければ裁判になりますが、この仕組みの良いところは、裁判の際に被告は医師や医療機関ではなく、判定機構になることです。「判定機構の判断は誤りだ!」との訴えになります。医師は被告というレッテルを貼られること無く医療に専念できます。刑事は検察に謙抑的になっていただくことを期待します。マスコミも記事の際は「判定機構が訴えられる」との記事になり、記事としてはあまり面白くないので、そのうち報道されなくなることを期待します。

期待ばかりで机上の空論かな?

>まさくに様

 亀田カテーテル事件に関しては当該エントリー(http://www.yabelab.net/blog/2006/09/12-005947.php)の他、気管チューブ挿管過誤(刑事)(http://www.yabelab.net/blog/2006/09/12-005947.php)のNo.191〜No.270でもかなり医学的な議論が行われていますので、そちらもぜひ御覧下さい(う〜〜む・・・読む方にはめんどくさいですよね・・・)。

 で、その中でのおおまかな結論ですが、血尿は血尿で宜しいのではないかと思います。ミオグロビン尿の可能性は否定できるものではありませんが、最期、死亡に到る段階では血尿であったと思います。ミオグロビン尿->DIC->血液凝固障害->血尿であったにせよ、ミオグロビン尿をすっとばしてDIC->血液凝固障害->血尿であったにせよ、最終的な病態としては血尿はあったと思います(血尿自体が死亡原因であったことはほぼ考えられない)。

 で、血尿であったにせよ、血管損傷が原因で血液凝固障害に到ったという推論はほぼ否定できるのではないかと言うことを気管チューブ挿管過誤(刑事)No.191〜に書き込んでおります。私としてはかなり合理的推測であると思っています。

 もしよろしければ、そちらの方もお読みになり、再度コメントを戴きたいと思います。

細部に各々異論はあるやもしれませんが、基本的にまさくにさんのご提示いただきました問題点につきましては同意です。
司法的解決の場において、医療従事者は方法論として明らかに改善すべき問題点を所有していると考えますし、またこの場においても問題解決から遠ざかる方法論を主張される方が多いという印象を受けています。

自分は医療は経験的学問の側面が多大であって純粋科学ではなく、目の前の現実を理論的正しさに優先させるということが日常的に求められるものであると考えています。
要するに「いくら弁が立とうが患者を治せない医者は藪」なのです(苦笑)。

逆に司法という領域に関しては公正さ確保の意味もあって、まず理論的整合性に基づく再現性の担保というものが求められるはずという「偏見」を持っています。
社会的要請として白黒をつけることが求められている以上は誰が担当するにせよ必ず毎回同じ基準で裁いていただきたいし、同じ事実から毎回違う結論が出るなどという事態は勘弁していただきたい(苦笑)。
その意味で今の司法は現場の裁量に依存する領域があまりに大きいように見え、傍目ながら「それはやっていて気持ち悪くないですか?」と声を掛けたくなります。

そういう自分の視点からここでの議論、特に医療訴訟問題あたりを眺めていますと、医療側は妙に理屈に固執し、司法側が妙に現実にこだわる。そんな感じの逆転現象みたいなものが感じられて面白いですね。
この道では問題解決不能と判れば傷が大きくならないうちに撤退して方針転換を図る、今こそそんな日頃慣れ親しんだ方法論を医療側に発揮してもらえればよいのかなと思っています。

>この道では問題解決不能と判れば傷が大きくならないうちに撤退して方針転換を図る

それであるからこそ、個々人の結論が逃散なわけですが…。

 今までの話の流れと全く違う話なんですが,司法と医療の相互理解に関してモトケン様をはじめとする法曹の方々に教えていただきたいことがあります.
 質問の内容は「法廷における尋問で誘導尋問を行ってはならないことになっているはずですが,誘導尋問が禁止されている理由と,もし一律禁止でないなら,どういう線引きでOKなものとそうでないものが分けられているのでしょうか」というものです.
 質問の意図は以下の通りです.
 福島の大野病院事件の状況を私が適当に改変したシチュエーションですが,手術中に大量出血をして輸血を行って血圧をどうにか維持している状態だった.その状況の中で突然心室細動が発生し,患者が死亡した.心房細動直前の血圧は収縮期で80程度,患者は若年者で合併症はないと思われており,この状況で失血が直接死因とは考えにくい.
 刑事裁判となり,被告側の主張は出血が心室細動の原因ではなく,心室細動はあくまで孤発性に起こった(要は手術を行っていようがいまいが起こった)というもの.
 検察側鑑定人は状況から見て,出血多量に対して輸血を大量に行ったせいで循環動態が大きく変動したこと,あるいは輸血による高カリウム血症により心室細動を起こしたと推定される,と結論づけた.
 弁護側は反対尋問として,心室細動が孤発性に起こる可能性があることを検察側鑑定人から引き出さなくてはならない.そこで次のような質問をした.
弁護人:高松宮さまはどのようにしてなくなられたかご存じですか
検察側鑑定人:致死性不整脈だったとされています.
弁護人:致死性不整脈はなにもしていなくても起こる可能性があるのですか.
検察側鑑定人:多くはありませんが,孤発性に起こることはあり得ます.
弁護人:致死性不整脈というのを説明してください.
検察側鑑定人:心室細動をはじめ・・・・循環機能が失われ,死に至る不整脈です.
弁護人:先ほど鑑定人は孤発性に致死性不整脈が起こりうることを認めましたが,本件において,心室細動が孤発性に起こることはあり得るのではありませんか.
検察側鑑定人:あり得ます.

長くなりましたが,このやりとりは法廷では誘導尋問とされるのではないでしょうか.もしされるのなら,小さな知見を積み重ねて事象を予測する科学的な立証というもの尋問で行うことはできないように思うのですがどうでしょうか.

>田舎の一般外科医さん

 誘導尋問というのは、「質問の中に質問者の望む答えが暗示されている質問」を言います(田口守一先生の刑事訴訟法第四版補正版361頁)。
 形式的には、「はい」または「いいえ」の答えを求める質問です。

 その観点では、最後の質問などは誘導尋問と言えます。
 主尋問(上記の例では検察官の尋問)では誘導尋問は原則的に許されませんが、弁護人の反対尋問では大きく許容されます(刑事訴訟規則199条の4には「必要があるときは」できると規定されています。)

 結論的には、上記の尋問は許される範囲の尋問と考えられます。

 実務的な観点で補足しますと、鑑定人のような専門家に対する尋問では誘導尋問が許容されやすい傾向があります。
 専門家は不当な誘導に乗る危険性が少ないからです。

横から失礼します。No.248,249に関連して質問です。

本裁判の場合鑑定人に対する不整脈の尋問というのはあり得ない場面ではないでしょうか。

なんとなれば、出血死というものは通常医学的にも法律的にも出血が止められないまま死亡することを言います。出血したけれどそれを死ぬ前に出血を止めることが出来た場合、このケースのように子宮摘出が完了した時点で明らかに死亡していないのであれば、出血を起こすもととなったクーパーによる癒着部剥離術の失血死にかかる責任はその時点でリカバーされたと通常は考えるべきではないでしょうか。

その後に発生した不整脈は、起訴されている執刀医がその発症を避ける回避義務を負わされるべき疾患であったとは思えないのですが。

さらに、別に究明すべきこの不整脈発症機序においても、起訴されるほどの過失判断が手術室で行われたとも全く思えません。
(3回の公判で手術記録の内容や前立ちの外科医、麻酔科医の証言から医学的検討に必要な記録の内容もほぼ明らかになっています。)

以上から、ここ執刀医の剥離行為が起訴されている業務上過失致死裁判で、立件されていない別の過誤行為について尋問を行うことは、誘導尋問の是非以前に、本件裁判の立件が妥当であったか否かの問題になると愚考した次第です。

モトケン先生わたしの刑事裁判についてのこの考え方は間違ってますでしょうか?

度々コメント失礼致します。僻地外科医先生、老人の医者先生他、皆様のご意見を拝見させて頂いた上で、新たに記事で血尿及びカテーテルの問題を検討致しました。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/9860b102584c188434d113dc8fc88439

推論として問題があるかもしれませんので、ご批判等あればご教示下さい。
私は裁判で認定された中身を覆せるだけの論拠を「被告側」即ち医療機関側が持たないと、上級審で判決を打ち破ることはできないと思っています。

No.244 元ライダー.開業医 様

コメントいただき、誠にありがとうございます。

私も先生が仰っているように

問題なのは患者にとってのnは医師に比べて十分小さく、したがって患者にとってのPは相当程度(なんか法律用語みたいですが)期待できることです。

のご意見に同意します。(No.227にも、表現は違いますが、同様のコメントをさせていただいております。)

実際に一回の診療しか受けられていない患者さんにとっても、(中略)〜「予見可能性」をm(つまり、n≒1)と取ることは理論的にも正しいです

ただ問題は、先生もご指摘されていらっしゃるとおり、

問題なのは患者にとってのnは医師に比べて十分小さく

の部分でして、

『患者さんにとって』の当該疾患の診察を受ける回数n(以後、n(患者)とします)は小さいものであっても、『医師にとって』の当該疾患の診察を生涯に行う回数n(以後、n(医師))は大きいものとなってしまうという、
この  

n(患者)≒1 <<< n(医師)

の『乖離』なのです。

そして、当該事件を執り行う『裁判の場にとって』も、当該事件を、他と断絶した一つの事象として捉えている以上、当該事件での想定するn(以後、n(裁判))は

n【裁判】= n【患者】≒1 <<< n【医師】

となってしまうのも裁判の制度上は仕方のないことなのです。

しかしながら、医師の行う医療を時空連続体として見た場合、当該裁判以外の《n(医師)−1》回の診断を、裁判では全く考慮されない以上、

『司法を厳密に当てはめてしまうと、医療は原理的に存在できないものである』

という結論に、どうしても辿り着いてしまうのです。

今回、私はあまり議論には向かないと思われる数学的な手法で論理を展開させていただきました。その理由は、議論をした時に、その言葉の解釈の仕方が違っては、いくら議論を積み重ねてもお互いの理解の溝は埋まらないと考えたからです。

しかし、共通言語として用いられる数学的な証明なら、その論理が間違っていれば『間違っている』と否定され、もし正しかったとしたならば誰から見ても『正しい』と認定することが出来る一つの事実として認められ、

「医療は不確実(=P =(m/100)n(医師)乗×100 (%)≒最終的に0%)なものであり、過失と認定される行為(100−m)を完全に排除することはできない」

「医師が裁判で過失を問われる判決が出てしまうのは、多くの場合、裁判官にも、患者さんにも、そして鑑定医にも判断に間違いがあったからではなく、その原因は裁判の制度が構造的に医療に馴染まないだけ」


という、これまで司法と医療が最も主張してきたことであり、かつ、互いの理解を妨げてきた最も大きな溝を埋める僅かな一助となるかと思い、僭越ですがこのような手法をとらせていただきました。

理想論ですが、この溝さえ埋められれば、きっともっと、お互いが、お互いを容易に理解できるようになると思うのです。今までの医療裁判の不和の原因の多くは、誰に責任があったわけでも無いということになるのですから。

それと、先生の判定機構の構想は個人的にとても興味深いです。是非そのようになってほしいものです!

visitorさんのお話は,以前のスレッドにあった検診のレントゲン読影での肺癌の見落としにも当てはまると思われます。
数学的には「独立試行を繰り返せば1回のエラー率は非常に小さくても,複数回の試行において1回でもエラーを起こす確率はほどなく1に近づく」ということです。
そして医療ではこの「たった1回のエラー」を責められるのです。これは欧米流に言う「To err is human, to forgive devine.」の対極を行っているわけですね。これでは医療者は救われようがないでしょう...

>元ライダー.開業医さん

医療事故保険(過誤も含む)が最適と私は考えます。ただし、事故か自然経過かを判定する機構(以下、判定機構)は必要です

日医の医師賠償責任保険とどのような点が異なるのでしょうか。

>No.227にも、表現は違いますが、同様のコメントをさせていただいております。

私がコメントするまでも無いことでしたね。でも意見交換により、より細部が見えてくることもありますから。

「医師が裁判で過失を問われる判決が出てしまうのは、多くの場合、裁判官にも、患者さんにも、そして鑑定医にも判断に間違いがあったからではなく、その原因は裁判の制度が構造的に医療に馴染まないだけ」

このような意見は今までも散見されましたが、数式を使うと分かり易いですね。

「裁判が医療に負の影響を与えてしまうのは、多くの場合、裁判官にも(中略)裁判の制度が構造的に医療に馴染まないだけ」

ほうがマイルドかな?

手前味噌の空想ですが、司法の変革を迫ることなく、医師が被告になることも無く、患者さんが泣き寝入りすることも無い制度ということで、前回のコメントを書いている最中に思いつきました。
で、空想の補足ですが、
立法で医療事故保険機構を作り妥当な金額の補償をし、その条文に「国内の医療事故被害に対する補償は一括して保険機構が行う。」という1項を加えれば、いくら「訴訟は制限できない。誰を訴えるかは自由だ!」と言っても、この条文で事実上医師を訴える理由が無くなるのではないかと考えました。

>No.254 しまさん
上記の補足は日医の医培責では、無理ではないでしょうか。

No.255誤字訂正
医培責→医賠責

交通や労災事故も同じ、たまに起るエラーで責められます。

工場や建設の現場で人が死ねば、まず事情聴取は免れず。
普通に人の感覚で管理をしていても通用せず、様々な書類や環境整備にいくらかの不備が有れば必ず責任を被る、といった趣が有ります。

その意味ではなんでも同じ、医療の事情で特別扱いを望みたくなるところでしょうが、司法的には無理だとなりそうで。

行政の範囲でうんと強力な機関を作り、その判断が司法にも採用されるものを出すことが最善だろうと思います。

その為には、許容範囲がまだ無理なら、せめてそれを認める手順を確立することが大前提ですね。

個人的な考えですが「被告が裁判で過失を問われる判決が出てしまうのは、多くの場合、裁判官にも、原告にも、判断に間違いがあったからではなく、その原因は裁判の制度が構造的に○○に馴染まないだけ」と言う文章は、○○に何を入れても通用するように思います。

例えば交通事故とか。


> 元ライダー.開業医さん
民法709条との兼ね合いが難しそうですね。

第709条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

No.258 しまさんのコメント
に業務上過失罪の議論の立場から同感です(笑)。なかなか前へ行けてないけど(苦笑)。

医療側が理解しないといけないことは、
『日本国民は、多数のための福祉に貢献しても、少数の人権を侵害したら賠償の責を負う』ということ。
多数のための・・・・は、免責にならないということ
社会通念上、明らかな大原則です。

であるので、医師としての私の結論は
『自分が責任を負える範囲以外の仕事をしてはならない』
(単純な損得勘定ではありませんので、誤解のないように)

これは福島大野事件や奈良大淀事件、奈良救急心タンポナーデ事件等が教えてくれた教訓でしょう。

司法を批判しているのではなく、医師個人としての行動を法に則って最適化すると『自分が責任を負える範囲以外の仕事をしてはならない』という以外に私には方法が見つかりません。

もはやシステムの不備を個人努力で補えるものではないため、マイナー科の一人医長も次々と撤退を繰り返し、メジャー科であってもメジャー故の過重労働に喘いで逃散、集合が合言葉となりつつあります。

今の司法判断(裁判所)に文句があるとすれば、第二次網膜症訴訟以来、非常に高度な責任水準を求めているということでしょうか?一般の診療レベルでなく、どこかから引っ張ってきた高い診療能力を法的に求めており、責任と報酬とのリンクが切れている医療世界では、破壊的判断と言えましょう。

法の判断を求められる法曹の方々とも、労働基準法に常時違反してまで医師個人に労働を強いるような制度は反社会的であるという共通認識ができてきたことは、数年前から比べると格段の進歩と思われます。

私のような勤務医に必要な法知識は、医師法より、労働基準法であり、JBMのような気がします。

『日本国民は、多数のための福祉に貢献しても、少数の人権を侵害したら賠償の責を負う』は、日本国民=患者、少数=勤務医、としても成り立つコンテクスト
ですので、我々勤務医も、権利侵害される理由は何もなく、自ら権利を主張しなくてはなりません。

”権利の上に胡坐をかくものには、権利は保護されない”ということを勤務医は知るべきです。自助努力をしないで助けを他に求めても、救われないということです。
自らの安全を確保しないで、他人の安全を確保することは、プロとしての行動原理から外れた行動であるということを知るべきかもしれません。

>No.260 Med_Law さんのコメント
に同意です。
そして今医師に必要なのはいのげさんが常々おっしゃる刑事と民事の違いを日常の診療の中でもう一度昔のように(患者様以前という意味)なおかつ現在の法律解釈を用いて自覚し直しつつ行うことが、医療を崩壊から守ることにつながるという前向きの気概を持つことだと愚考しています。
(先ほどから少々飲んでます、ポン酒も洋酒もイモも好きです、これはぜんぶタワゴトかもしれませんね、文脈ないし笑)。

亀レスですが。

> 「医療事故情報センター」という組織
> 規則に「医療過誤事件の訴訟において、医療側の代理人となってはならない」とあります。

> こういうことは弁護士さんの世界では普通なのかもしれませんが、相互理解の妨げになっていると思いますね(No.228 立木 志摩夫さま)
> 医療事故情報センターの弁護士には、医療側の代理人をやるような弁護士は敵であり、信用ならないと思われているんですかね(^^) (No.229 じじい(患)様)

弁護士同士では、どちらの代理人だからどう、という捉え方はないです。

立場を固定するのは、顧客向けのアピールです。
顧客は、「代理人というものは、立場変われば主張が変わるのは当たり前である」というように、割り切っては考えてくれません。
患者側の相談を受けるのに、「私は時と場合により医療機関側の代理人もやってます」というのでは、信用されないからです。たぶん医療機関側の相談を受けるにも、「時々は患者側代理人として、損害賠償請求にやってくる弁護士」では信用されないと思います。

皆さんも、モトケンブログで一般論として法律知識を質問するのはともかく、
具体的な事件を依頼しようという場合は、どちらの側の弁護士かが、気になるのではありませんか?
例えば、立木さまは、自分が医療訴訟を提起された場合に、石川寛俊先生(カルテ改ざん問題研究会代表)に相談に行きたいと思われますか?

このように、弁護士が立場を固定するのは、対立が鮮明な紛争類型だから、といえます。

医事紛争 患者vs医療機関
労働紛争 労働者vs会社
行政事件 市民vs行政庁
DV・セクハラ事件 やや違いますが、女性側の相談を受ける弁護士は、強姦事件の弁護は扱いません。

No.253 Level3 様

長いコメントを読んでいただいて本当に感謝します(苦笑)。そして申し訳ありませんが、今回は更にかなり長いですm(_ _)m


visitorさんのお話は,以前のスレッドにあった検診のレントゲン読影での肺癌の見落としにも当てはまると思われます。

実は、そのスレッドを拝見して考えたことでした。的中です!

数学的には「独立試行を繰り返せば1回のエラー率は非常に小さくても,複数回の試行において1回でもエラーを起こす確率はほどなく1に近づく」

未だ学生の私には実感として知るわけではありませんが、少なくとも臨床の先生の話をお聞きする限りでは、ほぼその値は1(100%)だろうと思います。ただ、訴訟などに発展していないというだけで。

No.255 元ライダー.開業医 様

私がコメントするまでも無いことでしたね。でも意見交換により、より細部が見えてくることもありますから。

はい、先生の仰るとおり、私の拙い文章では伝わらなかった内容が、先生の表現でより多くの方に伝わるように生まれ変わっていますね!感謝いたします。そんなつもりは全くなかったのですが、何だか失礼な表現になってしまっていたようで本当に申し訳ありません(猛省)!

このような意見は今までも散見されましたが、数式を使うと分かり易いですね。

はい、仰るとおり、この意見は今までにも多くの方が主張されてきたことを、別の言い方で表現したに過ぎません(笑)。ただ、私にはとても大切なポイントに思えるのに、多くの方には未だあまりご理解いただいていないようにお見受けしましたので、何とか別の方法でご理解いただこうと試みてみました。数式使うと、私の文章能力をカバーしてくれるかな、とも思いまして(苦笑)

裁判が医療に負の影響を与えてしまうのは

そちらの方がよりふさわしい表現ですね。添削いただきまして感謝いたします。

手前味噌の空想ですが、司法の変革を迫ることなく、〜(中略)〜事実上医師を訴える理由が無くなるのではないかと考えました。

素晴らしい発想だと思います。自分には出来ません。

No.257 MultiSync@一市民 様

ご指摘いただきまして、誠にありがとうございます。

その意味ではなんでも同じ、医療の事情で特別扱いを望みたくなるところでしょうが、司法的には無理だとなりそうで。

はい、私もその通りだと思います。それは、司法が平等にあろうとする以上正しいことだと思いますし、そうすべきだと考えています。

ただ、工場や建設の現場で人が亡くなるのと、医療事故・過誤で人が亡くなる回数nには大きな差がございまして、その結果として死亡事故・過誤だけに関しましても、一人の工場責任者が一生涯に社員の死亡事故で過失を問われない確率P≒99%(正確な数は申し訳ありませんが存じませんので、ご容赦下さい)であるのに対しまして、一人の医師が一生涯に死亡事故で過失を問われない確率P≒15%という違いがございます。実際に医療裁判が少ないのは、ただ、いまだ多くの医療事故・過誤が裁判に達していないだけだと思われます。少なくとも、私が大学の医療倫理の講義で教わったことを信じれば、年間3万人前後の方が、何らかの医療事故・過誤で亡くなられているとのことです( (医師数80万−死亡数3万/医師数80万)40(年)乗×100% ≒ 15% )確実な資料は手元に無いので勘違いかもしれませんが・・・、その際はいつでも謝罪して撤回いたします。一応、関連する話をhttp://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/iryou/iryou174iryouhoukai219.htm)。そして、死亡には至らなくても医師の人生に大きく左右するほどの重大事故・過誤まで含めますと、医師はP≒0になることはお分かりいただけると存じます。

である以上、公平に裁こうとする裁判では、『司法を厳密に当てはめてしまうと、医療は原理的に存在できないものである』という結論に、どうしても辿り着いてしまうのです。

しかしながら重ねて申しますが、これは、司法の医療への介入を否定するものではなく、そのことを前提として『医療を存続させるため』の建設的なご意見・アイデアを皆様から募り、議論をしていただきたい、というのが、何の解決策も見出せない、一学生の私の望みでなのでございます。

No.258 しま 様

ご指摘、誠に感謝いたします。

個人的な考えですが「被告が裁判で過失を問われる判決が出てしまうのは、多くの場合、裁判官にも、原告にも、判断に間違いがあったからではなく、その原因は裁判の制度が構造的に○○に馴染まないだけ」と言う文章は、○○に何を入れても通用するように思います。
例えば交通事故とか。

上で MultiSync@一市民 様にも述べさせていただいたとおり、私はだから医療を特別扱いしろ、という短絡的な結論は出しておりません(出さないように心がけております)のでご理解下さい。

ただ、交通事故に関してご指摘いただきましたのでそのことについて工事現場の例のように述べさせていただきますと、交通事故との違いは、死亡事故に限らせていただくと、交通事故の場合は、m=99.99%(年間交通死亡数10000弱/免許所有者約6000万人)でn=45(年)としてP≒99.6%であるのに対し、医師の場合はP≒15%であることでしょうか。そしてもう一度繰り返させていただくと、死亡には至らなくても、医師の人生に大きく左右するほどの重大事故・過誤まで含めますと、医師はP≒0になることはお分かりいただけると存じます。

繰り返しになりますが、だから医療を特別扱いしろ、という短絡的な結論は出さず、それは、司法が平等にあろうとする以上正しいことだと思いますし、そうすべきだと考えます。

その上で(これも繰り返しになりますが、)、それを前提とした上で、『医療を存続させるため』の建設的なご意見・アイデアを皆様からお伺いしたい、というのが、私の望みでございます。

余談になりますが、本日ヤフーニュースにてこのような記事がございました。

『国立大病院の看護師、6割がミス…パニック経験も4割』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070517-00000115-yom-soci


(例によって、ミスの言葉の扱いが問題になりそうですがそれは割愛して)少なくとも医師が過失を問われる行為をする可能性は看護師さんより多いのではないかと(学生の印象では)考えております。

No.260 Med_Law  様

申し訳ありませんが引用させてくださいm(_ _)m

多数のための・・・・は、免責にならないということ
社会通念上、明らかな大原則です。

私もそう思います。かといって、未だ学生の自分にとって、来年から防衛医療のみをするしかないという現実があるというのは、あまりにも哀しいことなのです。

自分が望み、生涯の天職として選んだ道は、その程度のものでしかないのだろうか、とはどうしても考えたくはないのです。


私の一番申したいことは、矛盾していますが、

まず大前提として、司法の平等性と、医師の不確実性を認める。

私にはろくな案が思いつきませんが、司法・医療・患者さんを含めた皆様がこの前提を共通認識として持った上で

そして、両者を存続させる方法を見出す。

ことを目標として議論をしていただくことを切に願うばかりでございます。

自分の信じた道が、他の方の信じている道と共存できないものだった。
だから、自分の道を諦める、
あるいは、他の方の道を閉ざす。

私はそれだけはしたくないのです。

最後が感情論になってしまって申し訳ないのですが、私が唯一、ここだけは譲れない点ですのでご容赦下さい。

No.263 visitor さん

医療は誰のためにあるかと言えば、これは間違いなく病気で苦しむ患者のためにあるのですが、その患者を含む社会の要請が、『間違いのない安全な医療』ということです。

これまでの加点法でなく、減点法で医療が評価されるとすれば、それが社会の要請とすれば、我々が望む医療でなく、患者・社会が望む医療を行うのが、医療人としてすべきことです
その患者・社会の要請の結果、必要な医療が行われない結果となったとしても、それを医師個人の責任に帰することはできないでしょう。

visitor さんは、まだ社会人になってないから『萎縮医療=患者のためでない治療』と思うかもしれないけれど、むしろ『社会に望まれない医療=不満足な医療』は行ってはならない、という社会の流れを読むべきでしょう

遵法精神(違法な医療労働慣行の拒否、自身の居住・移動の権利等々)や社会要請(医療費削減、医療訴訟等々)が医療崩壊に繋がるとすれば、法や社会が医療を要求していないということです。
自ら望む行為を行い、社会に望まれない行為をすることは、医療人の傲慢と見做されることは言うまでもないでしょう。

社会に出てくれば、安全な医療を行うだけで、どれだけ大変なことか判る事になるでしょう
素手でイラクにボランティアに行くような暴挙をしてはならないという国民性を理解しましょう
まずは、勉強して、来年には社会人として社会に受け入れてもらえるよう頑張ってください

生温かく見守っております。

大変申し訳ありません!

No.258 しま 様
への返答の中の死亡事故の確率が

m=99.99%(年間交通死亡数10000弱/免許所有者約6000万人)

となっておりますが、正しくは

m=99.99%(1−年間交通死亡数10000弱/免許所有者約6000万人)

でした。
お詫びして訂正いたします。

徹夜明けにはこんなケアレスミスをしでかすという一例と取っていただければ幸いかと(笑)

医療の不確実性という言葉をいわば錦の御旗にして、今までの医療に少しばかりやりすぎてしまうというところがあったのは否定できないところでしょうね。

設備的に、技量的に無理という状況でそれでも強行することは現場でしばしば行なわれていることなのですが、防衛医療、JBM云々以前に世論として望まれていないことを実感します。
目の前の患者という一つの声だけでなくその背後に存在する1億の国民の声なき声をも見据えて医療に当たらなければならない、良い悪いではなく時代の要請でしょう。

個人的に医者というのは病気が治せなかろうがより悪くなろうが、患者が満足して帰っていったら勝ちな仕事だと思っています。
最終的に人間は必ず死ぬ以上、生きながらえさせるという指標で医療を評価していくと必ず医療従事者の敗北に終わります。
負け戦はこたえる。医療を続ける意欲を失わせる。だからそれ以外の部分に価値観を見出す。無意識に他の部分で自分を満足させえるものを常に探している。
「一生懸命やったのに」とか「やりがい」とか言う言葉の裏側を意地悪く深読みすれば、そんな意識が見え隠れする気がしないでもありません。

顧客満足度の向上を目指しているようでいて、その実医療従事者の自己満足に終わっていたのではなかったか。
近頃では自戒をこめてそんなところから日々あたりまえにこなしてきた仕事を見つめなおしています。

No.264 Med_Law 様

自ら望む行為を行い、社会に望まれない行為をすることは、医療人の傲慢と見做されることは言うまでもないでしょう。

大変申し訳ございませんでした。確かに私の言葉は皆様に医療の傲慢と取られてしまう発言だったかと存じます。ご不快に思われた方々皆様に、心よりお詫び申し上げます。

ただ、一点だけ弁解させてください。

むしろ『社会に望まれない医療=不満足な医療』は行ってはならない、という社会の流れを読むべきでしょう

現在の社会が、この流れになってしまっているのは事実だと思います。しかし、それは本当に患者さんたちが望まれていることなのでしょうか(これまでと同じ医療の傲慢の意見だと思われるでしょうがもう少しお付き合い下さい)?

患者さんたちは、『不満足な医療は行ってはならない』という意見をお持ちだということに関しては心より同意しております。ただ、ご自分達のその要望は適切なものであり、現段階では『安全な医療』を求めているだけであり、それが『萎縮医療』につながるという理屈を心から納得し、自覚されているとは思えないのです。

つまり、私が何度も繰り返させていただいている大前提

司法の平等性と、医師の不確実性を認める

そして、

『司法を厳密に当てはめてしまうと、医療は原理的に存在できないものである』

ということを、いまだ多くの患者さんが本当の意味で認識されていないのでは?と考えたからです。

これらを、本当に理解し、納得された上で自覚的に『萎縮医療』も止むを得なし、ということが国民の総意であるならば、私はそれに従うつもりです。

しかし、そうではなく、ただ無自覚に『安全な医療』を求めているだけであり、その意味するところを認識されていないのであれば、まずはその前提を理解していただきたい、そして、もし叶うのならば、その総意が医療の存続を望むものであってほしい。というのが私の趣旨でした。

やはり私は文才は無いようです。言葉足らずで間違った誤解を招き、多くのご不愉快な思いをされた方が多いと存じます。重ねてお詫び申し上げます。

とりあえず、今から学校に言って社会勉強を積んでまいります。

>No.258 しまさん
空想に付き合って頂きありがとうございます。

>民法709条との兼ね合いが難しそうですね。

国賠法もあるんだから、別に法律作れば709条の例外も可能かな?とか、民訴法30条の1(私には難解すぎます)は使えないかな?とか、さらに空想してしまいますが、確かに難しい。これ以上はプロの領域。私には無理ですm(_ _)m

>No.267 visitor さん
>ただ無自覚に『安全な医療』を求めているだけであり、その意味するところを認識されていない

先の見えたおじさん達は、無自覚な人々のために犠牲になるのは無駄死だと達観してしまいました。

(17日の読売地方版には「日本の医療費は高すぎる」との見出しが躍っていました。未だにです。)

でも、

>私もそう思います。かといって、未だ学生の自分にとって、来年から防衛医療のみをするしかないという現実があるというのは、あまりにも哀しいことなのです。

この言葉は、おじさんに突き刺さりました。後に続く若者の志にも思いを馳せねば。

元ライダー.開業医 様

若輩者の拙い文章をお読みいただき誠にありがとうございました。心より感謝いたします。

「愛の反対は憎しみではなく無関心である」

マザーテレサの言葉を思い出します。
もしかしたら、この日本には医療に対する愛が無いのかもしれません。

しかしながら、医療の置かれている現状は、一般の方々にはなかなか簡単には理解しがたいということもまた事実であると思われます。

このブログをお読みいただいているような医療に関心を持っていらっしゃる方々には、きっとその現状もご理解いただけていることでしょうが、そうではない大勢の方には未だ十分に浸透してはいないと思います。

ふと思い付いたのですが、
これまでに医療と司法の先生方が議論されてきたようなお話を、一般の方々にもご理解いただける簡単な内容にまとめて、『何故医療は崩壊するのか』という冊子でも作って配布するのが、もっとも効果的でかつ低コストな方法なのかもな、と思いました。医師一人の負担も数千円から1万程度で済むと思いますし、直接的に医療問題を解決する力にはなりませんが、その原動力には成り得るだろうと思います。少なくとも、ニュースや新聞などのマスコミに期待するよりはずっと正確で間違いの無い方法だと思います。

個人的なことで恐縮ですが、明日から大学の実習で遠方に参りますので、またしばらくROMに戻らせていただきます。最後になりますが、これまで私の話をお読みいただき、ご指導、ご指摘いただいた皆様に心より感謝いたします。皆様の議論が実り多いものであることを、これからも期待しております。

No.219 基礎研逃亡兵さんのコメント中の

>論点
>1. 医療費削減等、行政システム論議

これについては、モトケン先生が総論として「医療政策の諸問題」というエン
トリを立て、活発な議論が行われています。

私がここのブログで論点としてあと一つ立てていただきたいのは、基礎研究
逃亡兵さんが同No.219コメント中で例示している

>各論:マスコミの煽り

についてです。タイトルは、
「医療とマス・メディアの相互理解とは何か?」でも
「医療とマス・メディアの相互理解は可能か?」でもかまいません。

このブログで議論すれば、ROMしているジャーナリストのかたたちも投稿して
議論に参加してくださる可能性があります。司法関係者という第三者の目が
ありますから。しかもその第三者は相反する利害の調停のプロ中のプロとき
ています。
メディアの掲示板に医療関係者がどれほど批判を書き込んでもメディアは議
論に乗ってはきません。逆に医師のブログにジャーナリストが書きこんでも袋
叩きに合うのが目に見えているので、医師側の土俵でも両者の議論は実り
あるものにはならないでしょう。
その点、モトケン先生のブログはまたとない場所だと思えるのですが、どうで
しょうか?

医療とメディアの関係は良好なものだったことはありません。しかしそれは底
流としてであり、ここ数ヶ月ほど、表立ってぎくしゃくしていたことはないように
思います。数年来、医師がブログや掲示板でメディア不信をあからさまに語り、
反撃の機会をうかがっていたメディアが、例の「診療情報流出問題」をきっかけ
に医師批判を開始しました。
しかしメディアの側も医師不足、勤務医の激務という現状は理解しはじめて
います。そちらの論調での記事もよく見られるようになりました。今日もこんな
報道が出ています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070528-00000006-mai-soci

医療者はこうしたメディアのとまどいを「マッチポンプ」(自分で火をつけておい
て、水をかけて消す=自分の報道で医療崩壊をおこしておいて「これは問題
だ」とさわぐ)といって冷笑しているだけではまずいと思います。
医療の現状をより報道内容に反映させていくためのメディア論を展開すべきだ
と思うのですが。

よくわからないところも多いのですが、結局裁判とは特に民事は紛争を解決する物で正しいことを決めるべきではないということですよね。そして、争っている両者がなるべくたくさんのカードを用意して争う。用意できなかったカードは考慮されることのない、いわばやっぱりこれってゲームみたいなものですよね。
医療はそおれが通常レベルの診療行為であったとしても、後から振り返って見過ごしていることもあれば、また少しはこうした方が良かったというものが見つかります。つまり、ゲームに負ける可能性を排除することの難しい分野だと思えます。人を救おうとする行為のなかで負ければ多大な負担をおう、そのこと自体がよけいに医療を続けることへの嫌悪感になります。
それから、医者を30年やって本当にまっとうに評価されても責を負う行為をしなかったものがいるのか。責を負うべき多くのことがいろいろな理由で問題にされていないだけではないかとの思いもあります。ここの医師の論客の人はあまり自分のミスを言わないですよね。でも過去を振り返って実はという経験はなかったでしょうか。そして全てのことが明るみに出されて有責とされた時、正しく裁けば裁けば医師の存在数はどうなるのだろうかと思ったりします。
そういった僕の2つのコメントは今までも司法の方の注意をひいたことはありませんが、本当にとるにたらないことなのでしょうか。

>No.271 謹慎中さん
>そういった僕の2つのコメントは今までも司法の方の注意をひいたことはありま
>せんが、本当にとるにたらないことなのでしょうか。

ミスとエラー、過誤と過失、事故と犯罪、ハインリッヒの事故の法則、正しさの認識の不確定性、等のここのブログで行われている数々の議論はすべて、常にその問題の過去についてではなく、これからの未来についてなされているのだと私は認識しております。

>>271
謹慎中さんの言われることはたぶん司法側っていうか、司法に携わる人たちも分かっているんじゃないでしょうか。でも司法の中にその部分、社会的悪影響を回避するシステムっていうのはもともとないみたいです。

なんとなく私がここで理解した範疇で言うと、司法は基本的に受身な物、訴えに個別に対応することしか出来ず、われわれに応召義務があるように、国民には裁判を受ける権利があってこの部分は動かすことがすごく難しい。

今まで医療内で回避されてきたトラブルが時代とともに医療から離れて司法に持ち込まれるようになってきた、司法はそれを断ることは絶対出来ないように作られている。というか断らないということが司法のidentityのひとつ。

司法側からみるとそもそも医療訴訟は医療側か解決できなくなったから司法に飛び火してきたんで、医療がこわれるといわれようが基本的にどうしようもないもの。だから訴訟が起こらないように医療内で解決するか、司法の外側で解決する仕組みをつくれという意見が多いんじゃないかなとおもいます。

相互理解ってスレタイですが所詮法律素人なんでわたしの現時点での理解はこの程度ですw

No.271 謹慎中さま

結局裁判とは特に民事は紛争を解決する物で正しいことを決めるべきではないということですよね。

違 い ま す 。

・ 紛争を解決するためには、正確な事実に立脚することが望ましい (間違った事実に立脚した結論では当事者の納得も社会の理解も得られず、紛争解決機関である裁判所への信頼が揺らぐ)。
・ 正確な事実を、限られた資源のもとで最大限効率的かつ効果的に裁判所が把握できるようにするための制度 (=弁論主義その他民事訴訟上の諸原則) が長い歴史の中で練り上げられてきている。
・ しかし、制度的な限界と、 “To err is human” ゆえ、「正しい事実」にたどりつけないことがある。
・ また、その紛争の解決に直接関係しない事実や関連性の薄い事実の優先順位は落とされる。そういう無意味または些細な事実にこだわっていては本末転倒なので、トリアージするほかない。

つまり、
「裁判においては正しいこと(事実)を決める(認定する)べきであるが、それは “紛争解決という最終目的に資する限り” という限定が常について回るし、結果的に正しい事実を認定できない事態は一定の確率で生じ、不可避である」
ということです。(よね?>諸兄)

「正しいことを決めるべきではない」 などというきわめて不適切な誤要約が、この段階でもなお、長いこと議論に参加されてきた謹慎中さまの口(指)から出てくることは、非常に残念に思います。
しゅるるっぽんさま奉公明け内科医さまのような最近参加された方であればともかく。


いわばやっぱりこれってゲームみたいなものですよね。

はい。少なくとも 「みたいなもの」 であることは間違いないと思います。
それが何か。

(そんなことは自明の前提なのですから、それがどういう問題に結びついているとお考えなのかを示していただかないとコメントのしようがありません、の意)


そして全てのことが明るみに出されて有責とされた時、正しく裁けば裁けば医師の存在数はどうなるのだろうかと思ったりします。

激減するでしょう。排除される医師と逃散する医師を引くと、一人も残らない可能性すら否定できません。
という回答を司法側から引き出したいようですので、そう申し上げます。
私の勘違いであればいつでも撤回いたしますのでご指摘ください。

全てのドライバーの交通違反が明るみに出て、正しく裁かれた場合、ドライバーの存在数はどうなるのか、
という問いと同じ程度に現実味のある質問であろうと思いますが。


そういった僕の2つのコメントは今までも司法の方の注意をひいたことはありませんが、本当にとるにたらないことなのでしょうか。

注意をひいていないならば、レスはつかない

レスがついていないならば、注意をひいていない・・・・・・?

何て言うんでしたっけ。逆必ずしもなんとかってやつでしたっけ。孝謙皇帝?
論理苦手だからよくわからないですが。


多数のコメントの文脈上 imply されているだけでは足りず、どうしても 「直接の答え」 がない限りご納得いただけないということかと理解し、マジレスさせていただきますと、

・ 過去の判例の判断基準に照らして 「過失」 とされる可能性の高い医療行為をしたことが過去にあるのであれば、民事・刑事とも、法的責任を追及される可能性は、(ゼロとは断言できないという意味で) あるといわざるを得ない。
・ が、「過失」 の有無の判断は、ある程度具体的な事情 (およびそれを適切に評価するために必要な専門的経験則) が出揃って初めて可能。
・ 一方当事者(つまりここでは謹慎中さまご自身)の体験供述だけでは、「その供述に沿う事実がすべて存在し、かつ他の事情が一切ない場合であれば」 という仮定的な判断しかできず、そのような判断は現実的には役に立たないし、むしろ有害(結論だけが非法律家の間で一人歩きするのは必定)。

結局、謹慎中さまは、司法側に何と言ってほしいのですか?

1 
「あなたは過去に、医療に際してミスを犯しましたね。心当たりがありますね。それは法律上の 『過失』 かもしれませんよ。時効期間内のミス、あるいは今後起こしてしまう同じ程度のミスについては、タイーホされるかもしれないし、個人宛に莫大な額の損害賠償請求訴訟を起こされるかもしれませんよ。そんな目に遭いたくないのであれば逃散という選択肢もありますよ。」


「通常の医師が一生の間に数回は犯してしまう程度のミスはすべて 『過失』 とすることなく免責すべきだ」


「あなたが過去に犯したミスがどの程度のものかよく分かりませんが、私の考える理論、基準によれば、絶対に訴えられることはありません。安心してください」


2 は、立法論として申し上げることは吝かではありませんが、現実社会への影響力は念仏と同じ程度しかありません。捜査の手が及べば、あるいは訴状が届けば、きちんと防御・応訴しなければ負ける可能性があります。

3 は、弁護士倫理に抵触するため、申し上げることができません。

結局、私が思いつく限りでは 1 しか残りません。
あとは言い方の問題 (コップに水が半分ある/半分しかない) にすぎません。

「訴訟に巻き込まれるリスクがゼロでないならば医療なんて安心してできるわけないじゃないか。」
というご意見を持つ医師の方が仮にいらっしゃれば、その信念を無理矢理曲げようとは私は思いません。
医師が低リスク職業であることが医療サービスの受益者である私自身にとってのメリットでもあるのだから、リスクが不相当に高く見積もられている場合はその射程を説明し、リスクを減らすための方策についてともに考え、可能な限りお手伝いします、とまでは言えます。
が、それ以上のことはできないし、しようとも思いません。


# 自分でも理由はよくわからないですがものすごい不快感に襲われるコメントでしたので持てる力を尽くして皮肉を織り交ぜさせていただきました。もうしません


## No.273 柳さまのご理解は非常に正確だと思いますです

fuka_fuka様
コメントをいただいてありがとうございます。不快なコメントだと言われても正直言ってご意見を拝受してありがたく思っています。
まず、僕はこのブログで医師がどこまで正直かということにも疑問があります。さらにいえば、いくら議論を重ねても結局自分が救われなければというある意味利己的な気持ちもあります。
僕は患者さんをみるのが好きなんです。医者と言う職業にも誇りをもっています。ちょっと前まではありがとうと言っていただける商売なんてないでしょ、って人にも言っていました。そんな自分が医師を続けられる基盤、助けを求める場としてこの場があるのではないのはわかっています。しかし、議論をみていると時に法理論に入り、時にいろいろな事象の解説をしていただける。でも司法のことがわかったって、僕の救いにはならないという思いがあります。
僕自身は医療側が有責ならきちんと患者さんになんらかの償いをしなければいけないと思っています。でも、有責になることは転がっている、これ医師の人言いませんよね。司法の人は、優秀な医師は間違わないと思っている、違いますよ。
医師も本当のことを言っていないと思います。
他すれの話題ですが、公的病院に限れば今の方がはるかに検査漬けですよ、DPCに入る前の場合ですけどね。必要のない検査を昔よりばんばんやります。昔なら医師の良心でしなかった検査を今は病院からしろと言われます。公立病院の話です。そしてそうしないと病院はもうつぶれるんですよ。医療は仁術であれるのは満ち足りた状態だけです。少し前までは貧乏な人が来れば、いいよ、これはとらなくてって医師の判断でいえました。今は同じ医療をしてどうしたらとりもれがないかを一生懸命考えています。もう病院経営はそれだけです。
で、各論です。
僕は申し訳ないんですけど、ソースがどこか調べる暇はないのですけど
「結局裁判とは特に民事は紛争を解決する物で正しいことを決めるべきではない」
と言った法曹の方はいまたと思います。思い違いならすいません。それはずっとひっかかっていた言葉でした。さらにここい書き込むDriving sourceは光市母子殺害事件差戻審のスレです。
それから、To err is humanが司法の世界の理論になりえて、医療の世界では許されてないことに疑問を感じています。そうでなくて裁判はゲームだと思えば納得できます。でも裁判というものはゲームのようなものであることが自明ということはそれは非法曹ではないと思いますよ。一生懸命、患者さんのために努力をした結果としてゲームに負けたら有責であるべきでないことで有責だとされる制度はもう理屈をおいて僕はいやなんですよ。でも、僕以外でも医者になどなりたい人はいるのでしょうか。

司法に何を言ってほしいか。
いわば、僕の言っていることは甘えですね。でも、結局自分を救ってくれる議論をしてほしいだけです。そういう意味では本当に医師側が手の内をさらけ出しているのか僕は?です。救えない、それは立法、行政の仕事である、そして医師自身が働きかける問題だという正論もよくわかります。でも正しいことを聞いたら希望をもてるのでしょうか。立法、行政が同じでも司法の運営が時代時代で異なっているのも事実だと思います。
僕は今やネット医からさげすまれる奴隷医でもいいと思っているタイプです。自分の信念でおこない逮捕を覚悟したうえでなら終末期医療に一石を投じてもいい。でもゲームに負けて退場するのは嫌だ。
言っていることは情緒すぎますよね。
でもここで論じるのは法と医療かもしれないけど、働くmotivationは心意気ですよ。医師でも理性的な人はこんな僕を批判するでしょうけど。
僕は医療ミスなどあることを認めて刑事免除、十分な医療報酬を得るようにしたうえで患者さんにたくさんの補償をする、そして1,2回の医療ミスで抹殺されることのないってできないかなと個人的には思っていますが。
駄文すいません。

>No.270 太郎冠者さん

もうご存知とは思いますが、本日の各医療系ブログで、大淀病院事件報道に関する分析が書かれている、ジャーナリストのブログ 記者の質がすごく落ちているが紹介されています。

このような、自分の業界の評価を全うに行える、ジャーナリストに参加していただきたいものですね。

「正しいことを決めるべきではない」って言葉が感情を害されたのでしたら、僕自身は「正しいことを決めるべきものではない」という風に書いたつもりでした。それなら不快度は変わるでしょうか。

>No.275 謹慎中さん

>でも、有責になることは転がっている、これ医師の人言いませんよね。

 私は、このブログで多くの医師からそのことを聞きました。

>司法の人は、優秀な医師は間違わないと思っている

 私を含めて他の法曹諸氏もそんなことは思っていませんよ。

 いままで何度か司法側からのコメントが繰り返されたはずなのに、これほど前提認識が違っていると、つまりあなたが全く司法側の発言を理解していないということが分かりましたので、さらに言えばあなたに司法側の言うことを聞く耳がないのではないかと思われましたので、正直言ってこれ以降のあなたのコメントを読む気がなくなりました。
 
 それでもなんとか目を通しました。

>裁判はゲームだと思えば納得できます。

 私は、少なくとも刑事裁判をゲームと思ったことはありませんし、そのようなことを書いた覚えもありません。
 裁判には裁判なりのルールがあるとは言いましたが、ゲームだとは言っていません。

 訂正後のコメントですが

>正しいことを決めるべきものではない

 fuka_fukaさんのコメントを読んだ上でのコメントですか?

モトケン様
了解しました。
理解をするということと自らがすくわれるかどうかは別のことだと伝えたかったのですけれど。
僕は去ります。
どの医師よりも自分を語りました。自分のいたらなさを語ったつもりです。そうしなければわかってもらえないことがあると思ったからです。ディベートなどをのぞまずに。僕は医師も正直ではないと思っています。

ありがとうございました。

>No.279 謹慎中さん
 
 いつお戻りになってもかまいません。

>理解をするということと自らがすくわれるかどうかは別のこと

 これは私もわかります。
 でも、理解だけはしておいていただきたいことが一つだけあります。

 このブログの常連の法曹は、医師が安心して医療に最大の能力を発揮してもらえるようにするために、不相当な訴訟リスクをなくすためにはどうすればいいかということを考えてきたのです。
 ただし、それが訴訟の実情を踏まえた現実論であるが故に(そうでなければ机上の空論です)、医療側に理解しにくい部分があることは自覚しております。
 だから、医療側には理解しようという気持ちを持っていただきたいと思っているのです。

>>279謹慎中さん

不謹慎で申し訳ないですが、まさに立ち去り型サボタージュ発生の瞬間ですね・・・・こんなところで見ることになるとは思いませんでした

医師は正直じゃない。ホントそのとおりです。でもそこを出して理解されなかったらもう精神的に医者じゃいられなくなっちゃいますもん。

そこは医師の倫理とか赤ひげとか仁術とかヒポポタマスとかで出来上がるものじゃなくて初めて患者さんにありがとうと言ってもらったときに生まれるものですよ。医者の虹よりも儚い部分です。読売で誰かがひ弱と言いましたが言いえて妙ですが、そのひ弱な部分が矛盾だらけの日本の医療を支えていたんですよね。

わたしはその部分を心の奥にしまって鍵をかけた卑怯者ですが、謹慎中さんの今後の医師としてのご活躍を心からお祈りいたします。

No.273
他の方もここまで理解してほしい。
投票した「p」とは私のことです(なぜかタイプミスになりました)。

謹慎中さん
座位です。確か、僕とほぼ同世代の方だと思います。

力を貸してくれませんか?いま、LMnet内にいます。
是非、一緒に考えてほしいことがあるのです。

いつか、合流しましょうと、言った僕の言葉、覚えてますか?
ご連絡を待ってます。

私はこのブログでは失礼して謹慎中さんとお呼びしていますが、現実にお会いしたら最大限の敬意を込めて先生とお呼び申し上げると思います。
私を仕込んでくださった多くの恩師の先生がたと同じ事をおっしゃっておられますから。
病気という厳しく冷酷な自然現象と竹槍程度で勝負しなければならない苛酷な医師の世界の中にあって、暖かく柔らかな人間らしい守るべき大切なものを謹慎中さんのコメントに感じ、私はおのずと尊敬せずにはおられません。

私といえばやっちゃ場大好きの軽薄野郎でございまして、医者としては謹慎中さんの靴の泥程度でしかないですが、仮に部下として親しくご指導いただく立場でありましたら、謹慎中さんが何かのトラブルに遭遇された際には、軽輩だが世間ズレした私がまず矢面に立って医師の道に息づく大切なものをなんとしてもお守り申し上げたいと思う次第です。

・・・と、2時間前に書きかけて所用を済ませて戻って書き上げて投稿しようとしたら、No.239が目に入りました。といって自分の気持ちが変わるわけでもないので、投稿いたします。

Med_Lawさんご紹介の、「診療行為に関連した死亡の死因究明等のあり方に関する課題と検討の方向性」に対して提出された意見」P.204に、司法と医療との相互理解を考える上で、重要だと思われる、医師の見解を見つけましたので転載します。


医療鑑定内容をみる限りにおいて、医学的に「論争がある事項」が、論争の対局者あるいは対局者主張に共感する医師によってあたかも「禁忌事項」であるかのように論述されているのが問題である。すなわち、本来厳密な「禁忌事項」が何であるのかを知りたいという司法の依頼に対して、「論争がある事項」を「禁忌事項」として返したのでは、その司法判断が医療側に受け入れられないものとなるのは当然である。


「民事手続きや刑事手続き」の対象となること自体は避けられない。むしろその際、医療側が一致して、「禁忌事項」とは何かについて明確なメッセージを司法に伝えることこそ重要である。そして、司法判断において「有罪」とされた場合には、司法に具体的な「禁忌事項」とは何かを明確にすることを求め、以後医療で「禁忌事項」として周知し、新しい知見として見直されない限り、これを遵守する体制を作り上げることこそが重要である。


これらの見解は、ここに参加している法律家の方も同意されるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

No.277 & No.277 謹慎中さま

感情的なコメントだったにもかかわらず冷静なお返事をいただき、ありがとうございます。

僕自身は「正しいことを決めるべきものではない」という風に書いたつもりでした。

であれば、「正しいことを決めるべきではない」 とは日本語としてまったく別の意味になりますから、ずいぶん印象は変わります。
(retrospective には、「べきものではない」 の文脈で、誤記だったと善解する余地はありましたね)

たしかに、「(民事)裁判とは、紛争を解決するものであり、正しいことを決めるべきものではない」 という趣旨の発言はあったかと思います。
PINEさまなど。ほかにもあったかもしれません)

逆に、謹慎中さまは、「正しいことを決めるべきものではない」 というのは、No.274 のような意味合いでの表現であることはご理解いただけたのでしょうか。
ご理解いただいた上でなお、司法には絶望、とおっしゃるのであれば、追加で申し上げるべきことはなさそうです。

すでにNo.278 でモトケン先生からもご指摘がありますが、謹慎中さまの一連のコメントを拝見して残念なのは、医療側・司法側双方のコメントを無視、ないしニュアンスを誤解した 「事実誤認」 をベースにして印象論を語られているところです。

それから、To err is humanが司法の世界の理論になりえて、医療の世界では許されてないことに疑問を感じています。

これなども、明らかな事実誤認です。
以前にも書きましたが、法律上の 「過失」 とは、世の中のあらゆるミスのうち、一定の基準に満たないものは免責するという概念です。
「病院側のミスを認めながら、過失(注意義務違反)を否定し、原告敗訴とした判決」 は多数存在しています。

事実誤認でなければ、大前提と小前提の混同(FFFさまの過去コメより)でしょう。


「ディベート」 というのも、本来の語義からすれば非常に心外な表現ではありますが、言わんとされていることは分からなくもないです。
人間誰でも、「自分が言っていないことを勝手に言ったことにされてしまう」 ことを不快に感じると思いますが、法律関係の人間は、 「ことばの定義・射程」 を常に意識する習性が身についているので、おそらく世の中の平均よりも 「ニュアンスの改変(によることばの射程の変化)」 に敏感で、一般の方からみると、法律関係者のツッコミは揚げ足取り的に映りがちかもしれません。

でも、自然科学の世界 (別エントリですが、医療が「広義の科学」に属していることは誰も異存はないのでは) に身を置かれている方である以上、 Evidence-Based Comment を期待したいわけです。

>No.285 しまさん
今ここに最も必要なコメントをいただきました。いつも本当にありがとうございます。ご紹介の、下記{中括弧}について論じたいと思います。

{「民事手続きや刑事手続き」の対象となること自体は避けられない。むしろその際、医療側が一致して、「禁忌事項」とは何かについて明確なメッセージを司法に伝えることこそ重要である。そして、司法判断において「有罪」とされた場合には、司法に具体的な「禁忌事項」とは何かを明確にすることを求め、以後医療で「禁忌事項」として周知し、新しい知見として見直されない限り、これを遵守する体制を作り上げることこそが重要である。}


人は決められた法律に従って呼吸をし心臓を動かしものを食べ声を出し手足を動かし繁殖し個体死しているわけではありません。地球は人間が科学的知見を用いて決めた24時間を守って自転しているのでしょうか。
人類と、いや動物と、いやおよそ生命と医のかかわりの歴史上、上記の{中括弧}理論の正しさが証明されたことはありません。これは人間の認識と行動の限界を無視した、あるいは時間の流れそのものを無視した空理命題なのです。
歴史ある医学においてひとつの治療法が司法有罪とされたから今後禁忌という新しい「知見」となることは、メビウスの輪の裏と表を決定できるまで司法が発達しないとありえないでしょう。

すなわち、医行為である限り法律的禁忌行為なるものは存在しません。現代社会では法律上裁量行為とせざるを得ないと思います。
個別に裁けるのは個人の行動倫理についてのみ可能で、医学の内容そのものは法廷では決定できないでしょう。

戦後その意味で誤った判決が日本の医療裁判でいくつか見られています。これがJBMとか「トンデモ」とか呼ばれるものと大体一致しています。
類推(真理を発見するに有用な思考方法です)すれば、このコメントの最初に紹介した{中括弧}法理論が誤っているからこういう「トンデモ」判決になるのでしょう。

私は医学という科学を学んだ者のはしくれとして、司法と医療がなかなか相互理解出来ない原因のひとつをこのように分析しています。

わざわざ、コメントをいただきました 柳さん、座位(医師)さん、ぼつでおkさん、 fuka_fukaさんありがとうございます。そしてしまさんにも以前暖かいコメントをいただいたことを覚えております。またモトケン様、このようなブログをしていただいてほかの参加医師と同様に感謝しております。
普段の書き込についてですが、たいてい患者さんを待っている間や時には仕事の書類をしあげている時や飲んでいる時やなどで書いてすぐに投稿をしてまいりました。今は検査の準備ができるのを待っています。その点で一生懸命に文章を推敲されている皆様との態度との違いも明白で誤字脱字、謝った表現、思わぬ書き違いがそのままであり、そのためにも十分ご迷惑をおかけしました。また、皆さんが論文を書くようにソースを探し出し、提示して議論をされていますのに、そういう努力もせずに参加したこともお詫びいたします。an accusedさんのご意見は僕は好きでしたが(表現はもう少し柔らかい方がと思いましたが)、そういう医師の態度を責めておられましたね。ただ、ソースを探す努力をする時間も余裕も自分にはありません。
言葉の定義をしっかりとらえて書きましょうという趣旨にも反することばかりで申し訳ありません。「正しいことを決めるべきではない」との表現は「正しいことを決めるべきものではない」と書くつもりの単純な誤記です。それは確かに司法の方が言っていたと思ったのですが、モトケン様がそれでもわかっていないと言われたので間違っているのかもしれません。
僕はあまり、ソースを調べたりする時間もないので精緻な議論はほかの人にお任せして、ほかの医師が語りたがらないこともある程度語ろうとそういう事情もあるのだとわかってほしいと書き込みました。
ただ、モトケン様は書かれた次のことは違うと思っています。同じようなことは書いていてもです。

「>でも、有責になることは転がっている、これ医師の人言いませんよね。

 私は、このブログで多くの医師からそのことを聞きました。」

長くなり、スレ汚しになりました。僕は、自分自身の資質も含めてLMNETに参加する資格はないと思います。ここにもおそらくありません。
「このブログの常連の法曹は、医師が安心して医療に最大の能力を発揮してもらえるようにするために、不相当な訴訟リスクをなくすためにはどうすればいいかということを考えてきたのです。
 ただし、それが訴訟の実情を踏まえた現実論であるが故に(そうでなければ机上の空論です)、医療側に理解しにくい部分があることは自覚しております。」
は十分に自覚をして感謝しております。これは掛け値のない本音です。ただ、と続く気持ちももちろんあるのですが。
感謝の意味もあるし、一部共感を持ってかいただいた方もいますので、自己紹介的なものとここで感じたことをブログにてもいつか書いてリンクさせていただきに伺わせてください。スレ違いのコメントですので、このコメントも適当な処理をいただけたら幸いです。
それでは、最後にもう一度。
ありがとうございました。検査に呼ばれたので推敲できません。最後まで駄文ですいません。

>ぼつでおk(医)さん

すなわち、医行為である限り法律的禁忌行為なるものは存在しません。現代社会では法律上裁量行為とせざるを得ないと思います。

司法も医療に対して禁忌行為を定める意図はないと思います。医療側が定めた禁忌行為に基づいて有罪か無罪かを判断するという考え方なのですが、完全な黒ではなく、グレーゾーンに関しても医療側が禁忌行為だと鑑定するので、司法もグレーゾーンを黒だと判断するのではないでしょうか。

で、そのような判断がJBMだと批判される、と。

司法と医療がなかなか相互理解出来ない原因のひとつをこのように分析しています
紹介した意見は医師の見解らしいので、医師の方がこのような考え方をされるのであれば相互理解も不可能ではないのかなと思っています。

>No.289 しまさん
コメント有難うございます(笑)。

あの意見では、「司法に具体的な「禁忌事項」とは何かを明確にすることを求め、以後医療で「禁忌事項」として周知し、」とありますが、それはできない事=JBM(笑)でしょう。

話をぶったぎってしまうようですが、企画屋という立場から、『相互理解』について一言。。。
物事を達成するためには、明確なゴールイメージを持つことが重要です。
そして、それを達成するためのプロセスを構築することが近道です。

司法と医療の相互理解を求めるときに
>司法側は医療の何を理解すべきか、医療側は司法の何を理解すべきか。
を問うよりも、“司法と医療が相互理解した状態”を共有することが近道であると思います。
“司法と医療が相互理解した状態”の複数の品質要件を明確にして、それぞれの品質要件についての話し合いのプロセスを構築することでその目的は達成できるでしょう。

“話し合うプロセス”について話し合うので、個別具体的な案件に入り込みにくく感情的な対立が起こりにくいのもメリットです。
あとは“質問する”ことですね。
司法ってなに?
医療って何?
理解しているってどういうこと?
これらのイメージは共有できているの?
対立の原因は、言葉の定義を深く考えることで解消されることが多いです。
同じ事実を見ていても、個人が持っているバックグラウンドは大きく違うので、事実に対する意味づけは大きく違ってきます。

ご参考まで

味わい深い文章だと思います。

http://bewaad.sakura.ne.jp/20061212.html#p02

どんな知識人・専門家であれ、専門外の分野においては素人ですから、他の専門についてそれが魔法と見えることには変わりありません。しかしながら、こうした人々であれば、自らの専門分野が魔法でないにもかかわらず、魔法であるかのように見られるという体験から、他の専門分野についても、きっと魔法ではない、何らかの合理的なメカニズムがあるはずだという信頼、魔法であるかのように見られて苦労しているであろうという共感が成立し得るのではないでしょうか。

P R

ブログタイムズ

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